第65話 すれちがい(2)

もつれそうになる足をひきずって、将はようやく道路の対岸につくと、はやる心でメールをチェックした。あった。聡からの受信メール。

『昨日はごめんなさい。連絡を待ってます』

たった一言だが、将は浮き立つ心でそのまま聡に電話をする。

――出ない。

コールがずっと響き続けた。将はコールが15回鳴ったところでいったん切り、すぐ掛けなおす。

ふだんは無意識にコール数を数えている将だが

――次こそ、次こそつながる?

と期待しているのでカウントしなかった。誰かがカウントしたら何度も掛け直しながら50回も鳴らしていたことになる。

将は少しがっかりしたが、なんといっても聡自身から連絡を待ってるとメールがあったのだ。また掛ければいい。

とりあえずメールをしてもよかったが、

聡の声を聞きたかった。

聡の携帯と電波がつながってる実感が欲しかった。

聡と共通の時間を持ちたかった。

……本当は、聡の家に押しかけてもよいのだが、あいにく今日は年内最後の家庭教師のバイトがある。

将は、明るい気持ちで部屋へ帰ることにした。

二日酔いのだるさも殴られた痛さもどっかにすっとんでいった将はようやく、空に晴れ間が見えていることに気付いた。

 

  
その頃、聡は、年内最後の勤めで学校に行っていた。

将から電話があったときは、最後の職員会議に出席中で、携帯の近くにいなかったのだ。

職員会議では、新学期は1月8日からであること、また2年生は新年そうそうの1月11日より修学旅行がある旨が確認された。

行き先は北海道でスキー研修である。

他校の生徒と問題を起こさないようにという配慮がいかにも問題児の多い学校らしい。

他に、こまごまとした伝達事項があり、職員会議は長引いた。
 
職員会議のあと、聡は教頭に呼ばれた。職員室の一角を区切った打ち合わせスペースに教頭と向かい合う。

「古城先生のクラスの鷹枝将くん、学校に残ることになったから」

開口一番そういわれて、聡は開いた口がふさがらなかった。

「それから、古城先生の授業のおかげで1、2年の英語の成績が全国偏差ポイントで5もアップしたので、来年度もよろしくお願いしますよ」

聡はしばらくボケッとしていたがようやく口をひらくことができた。

「あの……、どうして、でしょうか、何かあったんですか?」

教頭はそれを将のことだと思わずに、後半のことだと思ったらしい。

「だから、英語の成績がアップしたからですよ。古城先生のやり方が認められたんですよ。来年度からは産休代理ではなく、正式に持ち上がりで3年2組の担任をやっていただきます」

「あ、いえ。鷹枝くんは、どうして……」

教頭は目をちらりと聡のほうに向けた。

「さあ。家庭の事情で、アメリカ行きが取りやめになったと聞きましたが」

本当は、学校が政治献金を餌に引き止め工作を行ったのであるが、教頭はそういう風に説明した。

「彼も、『古城先生のおかげ』で素行がかなり改善しました。これも我々は評価しています」

教頭は好色そうな色を少し浮かべて聡を見た。それでも丁寧な口調は変わらない。

「とにかく、古城先生は我々が当初思っていた以上に結果を残してくれました。来年も頑張ってください」

教頭は聡の肩をぽんと叩くと先に打ち合わせスペースを出て行った。

――アメリカに行かないんだ。

最初、呆然としていた聡だが、安心がひたひたと心に広がっていった。

――よかった。

なんだか、期末前から続いていた悪夢の抜け道が見えた気がする。抜け道のむこうにはただ漠然と希望が明るかった。

聡は今はただ、その漠然とした希望にひたった。

 

  
職員室に戻った聡は携帯が点滅しているのを見つけた。

博史だった。漠然とした希望にひたっていた聡は、『婚約者』という現実に引き戻された。

職員室はリラックスしたムードで、取っても問題ないだろう、と聡は電話を手にする。

「はい……」

「アキ?今日さ、学校何時に終わるの?」

穏やかな博史の声は、そのまま夕食に誘いたいと続いた。

「せっかくだけど、今日は終わった後で忘年会があるの」

これは本当だった。そして断る理由があることにほっとしている聡も事実である。

「あ、そうか。じゃあ明日はどう?」

明日は萩に帰る前日。婚約者との食事を断る理由は見当たらない。聡は気乗りがしないままOKして電話を切った。

そこへ隣の権藤から、

『古城先生の授業方法を僕も来年から取り入れたい』と相談があり、そのまま打ち合わせに入る。

おかげで将からの着信に聡は気付かないままだった。

 

将はスキップをするようにマンションへ帰ってきた。

エレベーターをのぼって廊下に出た将は、ある男性を見つけて立ち止まった。

「将!」

その若い男のほうが先に将の名前を懐かしそうに呼んだ。

……以前、将が失踪している間に、将の部屋を訪ねてきた眉の濃い青年だ。

「大悟……!」

将は驚き、一瞬とまどい……かすかに困惑と罪悪感が心をかすめ……そして大悟の顔に将への恨みがみじんもないのを確認してようやく、彼のほうに近寄ることができた。

この青年、島大悟こそ、将のヤクザ殺しの身代わりになった親友である。

 

 

将の部屋。ソファに座った大悟に何を出すか迷った将は、缶ビールを渡した。

大悟は「サンキュ」と嬉しそうに受け取りながら、将に

「お前、でっかくなったなぁ。今何センチよ」と笑いながら、将をこづいた。

「4月で182。去年から今年にかけて10センチ以上も伸びたんだ」

「カンベツ入る前は俺のほうが高かったのにな」

大悟は今175センチで少しだけ伸びたということだった……そんなことより、『カンベツ』という言葉が将の心に突き刺さる。本来は自分が入るべきだった牢獄。

「いつ出てこれたんだ?」

将が遠慮がちに訊くと

「4月には出てきてたんだ、俺模範だったから」

大悟は少し自慢するようなそぶりを見せておどけた。

将は「そう」としか言えない。何か、自分がたどるはずだった運命を聞くのは申し訳ない気がした。

「それにしても、すっげーところに住んでるなあ」

とビールを手にした大悟は部屋を見回している。別に将への恨みなどは見当たらず、昔の大悟のままだというのに安心して、もう少しだけ訊いてみる。

「今、……どうしてるの?」

「愛知の自動車部品工場で働いてる」

「へー、そうなんだ」

将はやりきれなくて、冷蔵庫からビールを取り出すと自分もあおる。

「将は高校いってるの?」

「あ、ああ。井口のやつと同じ学校に行ってるよ」

答えながら、将は息苦しくなった。本来は……殺人者である自分は……のうのうと高校などに行っている自分ではないのだ。

大悟と話をしていると、忘れていた自分の罪が掘り返されていく気がして将は胸が痛んだ。

大悟は、あいかわらず罪のない顔で、ああ、あの卒業できたらキャッシュバックがある学校ね、と微笑んだ。

「井口くんと一緒だったら、茂樹とも一緒だろ?」

一瞬将はその名前が誰のものだかわからなかった。キョトンとする将に大悟は

「前原茂樹」と言い直した。

「あ、ああ……」

そういえば、大悟は前原と同じ中学だった。

まさか、こないだ彼に殺されかけた、とは言えない。将は一瞬迷ったが、思い切って

「前原くんは、一緒だったけど、こないだ中退したよ」

と口にして「麻薬所持とかで捕まって」と付け加えた。

「そう。そうなんだあ……」

大悟は特にショックを受ける様子もなく、つぶやいた。

「今日は、愛知からどうしたん?」

できるだけ何気なく訊いた将に、大悟は目を伏せた。

「将、……実は頼みがあるんだ」

次の瞬間、大悟は濃い眉毛をゆがめ、その下にある端正な目を見開いて苦しげに懇願した。

「正月休みの間、ここに置いてくれないか」