第82話 お年玉

将が宿につくのとほぼ同時に陽が差してきた。今日は快晴らしい。

「よう、朝帰り」

帳場で雑用をしていた秋月が声をかけた。何もかも見透かしたように目が笑っている。

『いや、そこまでやってないんだけど』と将は心の中で弁解しながら、とりあえず照れるポーズをしてみる。

「朝風呂でも浴びて、もう1回寝ろ。ロクに寝てないんだろ」

と気を遣ってくれる。

将は、言われたとおりに朝風呂をもらい、部屋に戻った。部屋ではまだ井口と大悟がイビキをかいて寝ていた。

朝風呂でけだるくなった将は、またすんなりと眠りに落ちていった。

 
 

10時すぎに聡は自家用車で将たちを迎えにいった。

取り回しのよい1300ccの国産車は母のものだが、オートマチックなので聡でもラクに運転できる。ミニよりは内部も広い。

いくらなんでも、教師の親に教え子が無免許で東京から萩まで運転してやってきた、とは言えない。

秋月の宿にローバーミニは隠しておいて、口裏をあわせておく必要があった。

「おー、聡。あいつら今メシ食ってるぜ」

「朝ご飯なんか食べさせなくてもいいのにぃー。ごめんね」

といいながら、聡は財布を取り出す。将たちの宿泊費を払うためだ。

「いいって。どうせボロい部屋だし」

遠慮する秋月が心持ちニヤニヤしている気がする。

そんな風に感じるのは自分が後ろめたいからだ、と聡は自分に言い聞かせる。

まもなく将ら3人が、洗ってもらった服を着て現れた。

今朝つけられた胸のキスマークが一瞬熱くなる。しかし何くわぬ顔をして、

「よく寝れた?温泉は入ったの?」

などたわいもないことを話しかけながら、宿をあとにした。

せっかく山口まで来たということで、秋吉台のカルスト台地に秋芳洞などを観光がてらドライブする。

冬枯れたカルスト台地はベストシーズンとはいえなかったが、天気は快晴で、ラクダ色になったなだらかな丘陵地に羊のように石灰岩が群れる風景は、都会っ子の3人にはそこそこウケた。

昼食は長門で活きたイカを聡がおごり、午後には萩に戻る。

今日は、客間の1つに将たちが泊まると親に言ってある。

『ギイイ……』ときしむ門をくぐり、古い地紋ガラスがはめこまれた引き戸を開けて聡は

「ただいまー」

と奥に向かって大きい声で叫ぶ。

「すっげー家だな」と大悟がキョロキョロと見回す。

「なんか元武家屋敷を借りてるらしい」

答えながら将は門の音に、昨夜の聡との情事をこっそり思い出す。

「あら、いらっしゃい」

聡の母・幸代が奥から出てくる。おそらく50代だろうに、若い生徒に囲まれているせいか若々しい。聡に口元がよく似ている、と将は思った。

「こんちわー」3人は声を揃えてぺこっと頭を下げた。

「私の教え子の井口くん、鷹枝くん、とその友達の島くん」

「あらあらようこそいらっしゃいました。東京のコは大きいねえ」

と目を見張る。一番小柄な大悟でも175ある。中学校の教師の幸代には大男の集団に見えた。

「さあ、あがって。お客が他にもいるけど仲良くしてね」

と、それでもこなれた笑顔で客間へ案内してくれた。

そういわれれば、居間のほうからキャアキャアと声が聞こえる。どうやら幸代の教え子たちがまだいるらしい。

「寒いから居間のこたつのほうへどうぞ。お茶を用意しますから」

「お忙しいところ恐れ入ります」

将は客間に着くと、いったん膝をついて深々とお辞儀をした。

「あら……丁寧に」

その折り目正しさに幸代のほうが面食らう。

それを見て、聡はすっかり忘れていたが、将が『いいところのボンボン』であることを思い出した。

 

客間の大き目の掘りごたつには素朴な風貌の、いかにも地元のコらしい中学生女子が4人、おしゃべりに興じていた。

そこへぬっと現れた大男3人にシーンとなる。しかもなかなかのイケメンぞろいだ。

「あらあら。どうしちゃったのかな。こちらは娘の聡の教え子さんたち。東京の高校2年生なのよね」

お茶とお菓子を持ってきた幸代が笑いながら仲介をする。

やっとポツポツと会話が始まったかと思うとすぐに若いもの同士で話が盛り上がり始めた。

父は昨夜の6人を送ったついでに買い物にいったらしい。聡は座が盛り上がるのを見届けて席をはずすとミカンを運ぶ幸代に

「お母さん、うちのコたち、着替えもなんにも持ってきてないっていうから、秋月ンちから浴衣借りてくる。パジャマ余分ないでしょ」

と耳打ちした。

中学生との会話のほうはうわの空で、席をはずす聡を目で追っていた将は、

「将、」

と大悟に呼ばれて我に帰った。

「え。何?」

「だからぁ。鷹枝さんはカノジョとかいるんですかぁ?」

中学女子からの質問だった。

「あ、うん。……うん、いるよ」

そのとき、将ははっきりと聡を思い浮かべていた。

将の返事に中学女子の「やっぱりぃー」という黄色い声の応酬。

将は『わりぃ』と大悟に断るとコタツを立った。

大悟は察して「しっかりな」と小声で囁いた。

 
 

将が玄関を出るとちょうど聡が車庫にいるところだった。

葉を落とした柿の木から午後の陽射しが斜めに木漏れ日になって聡の体に落ちている。

「アキラ……じゃない、センセイ」

いくらなんでも聡の実家で呼び捨てはマズイだろう、と呼びなおす。

聡は将の姿を見て、胸の痕跡がぎゅっと主張を始めるのを感じた。

「どこいくの」

「秋月んち。あんた達の浴衣やらタオルを借りに。あとお金も払わなくちゃ」

と何気なく答える。

「ああ、俺が払うよ」

「いいって。お年玉がわりだもん」

「でも一緒に行く」

聡は少し頬を染めてうなづいた。

秋月は留守だったが、さんざん遠慮する綾に『これは、クリーニング代です』と無理やり2万を渡す。

用事が済んで、夕食までまだ時間がありそうなので、二人っきりのドライブを楽しむことにした。

今の時期は静かな菊が浜を二人で歩くのもいいと思ったが、知っている人に見られると少し言い訳がめんどくさそうだ。

聡は車を北に向けて走らせる。まもなく左手に海岸線が平行し始めた。

晴れた冬の日本海が濃紺の水平線をくっきりと見せている。

「おおー」

助手席の将が左の窓に張り付く。

 

須佐のあたりの砂浜で車を止めた。

冬の太陽は傾きかけて、あたりをセピアがかった色に変えている。その中に紺碧の日本海が横たわっている。

「おおー!冬の日本海!」

「寒うーい!」

車から降りるなり、冷たい海風が勢いよく吹きつけ二人の髪をぐちゃぐちゃにする。

風があるせいか波は少し荒く、沖のほうまで白い波頭がうねるのが見える。ベージュの砂浜に波が容赦なく叩きつけるかのようだ。

それでも二人は砂浜に降りてみる。

「今日、水かけなんかしたら、凍え死んじゃう」

聡が先に言った。将は聡の瞳を見てうなづいた……二人ともちょうど同じ思い出をたどっていたのだ。

二人は砂浜にある乾いた岩を見つけると腰掛けた。

ちょうどそのとき突風が吹いて、二人とも震え上がった。晴れているのにこんな風が吹くと凍りつくようだ。

「アキラ、おいで」

将は自分のダウンの前をあけて膝を示した。聡の胸でキスマークが熱く主張を始める。

少しためらったが、「はやくー」とせかされて、将のジーンズの膝の上に腰掛ける。

将は自分の膝の上に座った聡をそのまま後ろから抱きしめるようにダウンで包み込む。

そして朝借りたマフラーを二人で半分ずつ二人の首に巻きつける。こうするとお互いのぬくもりでずいぶん温かくなった。

「このまま急に離れたら首がしまっちゃうね」

「じゃ、もっとくっつけよ」

「うん」

聡はさらに腰を引いた。体重を将に預けて寄りかかるようだ。

将は聡の胸のあたりで組む腕の力をそっと強くして二人の体を密着させた。その腕に聡は自分の手を添える。

「重くない?」

「……実は重い。でも聡のお尻だから我慢する」

「……バカ」

しばらく、何もいわない。波の音だけをBGMにお互いのぬくもりを堪能する。

単調な海の風景なのにいっこうに飽きないのはなぜだろう。

ときおり吹き付ける潮風が柔らかい聡の髪で将の頬をなぜる。

将は聡の肩と首に自分の顔を埋める。

温かい将のぬくもりにつつまれて。

温かい聡のぬくもりを抱いて。

――このままずっとこうしていたい。

二人は同じ思いで冬の海を眺めている。

「……将、これ心臓の音?コトコト聞こえるの」

聡がつぶやいた。寄りかかる温かい背中に規則正しい音が伝わっていた。

「うん。緊張してるもん。アキラは?」

将は前で組んだ腕をずらして、聡の左胸に掌を乗せる。

ざっくりと編んだニットのパーカーの下に息づくふくよかな弾力を将の手は捕らえた。

「エッチ」

聡が小さく囁く。でも将はその手をどかさない。

「もっとエッチなことしたじゃん」

「ふ……」

聡は小さく笑った。

将は、聡の前で腕を交差させたまま、右の胸もとらえた。

服の上から両のふくらみをゆっくりと動かす。聡は特に抵抗もせず、だまったまま身を任せている。

けれど潮風も波の音も、寒さも他人事になってしまった。

「すっごいドキドキしてる」

将が聡の心臓の音をとらえたことを耳元で囁く。

囁きと共に漏らされた息で、聡の力は抜けていく反面、体が熱くなっていく。

――だめだ。溺れてしまう。

うねる波の轟音は自分の本能のたてる轟音のようだ。

「……今夜、全部していい?」

将は聡の耳たぶに唇をはわせながら、とうとう訊いた。

聡は将の唾液で湿った耳たぶで潮風を冷たく受け止めていた。吹き付ける風に目を細める。

「……ダメ」
「なんで」
「だって」

聡はマフラーをはずしながら将の膝の上から降りた。

とたんにお互いの体に冷え冷えとした潮風が吹きぬける。

二人寄り添っていたせいか、その前よりずっと寒く感じる。

聡は将に向き直るとゆっくりと諭すように言う。

「私たち、まだ教師と生徒でしょ」

「カンケーないじゃん、そんなの」

立ち上がって聡の肩を掴む将。

斜めの陽射しがあたって、将の顔は彫りが深く大人っぽく見えた。見開いた瞳は明るい茶色に輝いていた。

そのまっすぐなまなざしに耐えられず、聡は思わず目を砂浜に向ける。

「だめよ。だって、……溺れちゃうもん。将と寝たら、たぶん」

「溺れていいよ、一緒に溺れようよ」

と将は聡の体をもう一度抱き寄せる。

まるで溺れる、の言葉に呼応したかのように大きな波がドーンと響きながら打ち寄せた。

冬だけれど白い波の下にはエメラルド色の海水が輝いていた。塩辛いとは思えない、ソーダ色の波頭がシャーベットを砕いたように崩れる。

聡は将の腕をゆっくりとほどいた。

「だめだよ。教室の中できっと、そういうの出ちゃうもん」

「……」

「だから、将が卒業するまで待ちたいの」

遥か彼方をつがいなのか、二匹の鳥がオレンジの光を受けながら飛んでいくのが見える。

「……アキラ、アキラはそれでいいの?」

将のガラスのような瞳は、これ以上ないほど、せつなげだった。

聡はその瞳に少しとまどったが、まっすぐにうなづいた。

「こんなに好きなのに……まだ1年以上先じゃんよ!」

将は聡を追い越して砂浜をずかずかと歩くと、石を海に向かって力いっぱい投げた。

若い将にとって1年はあまりに遠かった。

「ごめん」

聡はその将の後姿にすがりついた。

その日までの道のりを思って二人立ち尽くす。

砂浜に映る長い影は1つになっているのに、二人はそれに気付かないままだった。

 
 

それっきり無言で、二人は車に乗ると、萩への帰路についた。

もうすぐ日が暮れる。

「卒業したら……いいんだよな」

萩の市街地に入ったことを告げる、最初の信号待ちで、将はブスッとつぶやいた。

「卒業したら、セックスできるんだよな」

聡はその直接的な単語に焦ったけれど、意を決して将のほうを見つめると、首を縦に2回振った。

すると将は、『仕方ないや』という顔の中から、にんまりと笑顔を返してきた。

「卒業式が終わったらすぐ、いいんだな」

なんか可笑しくなってきた。聡は

「うん。いいよ」

と澄まして答えると、前を向いた。信号が青になっている。将はアクセルを踏む聡の横で

「じゃぁ、キスは?していいよね」

と明るく訊いてくる。

「……いいよ? 誰も見てなかったら」

聡は顔を前に向けたまま、瞳を宙に一瞬迷わせて、答えた。

「ダッコは?」

「……誰も見てなかったら」

ちょっと聡の答えが自信なげになってきた。

「おっぱいは?」

聡はぐっと言葉に詰まる。

「ねえ」

ちらっと横目で見た、将は二ヤついている。

「ダメー!」

「ええー!じゃ昨日のは、なんだよぉ」

抗議する将は子供のようで、聡は可笑しくなって、ハンドルを握ったまま吹き出した。

「昨日のは、お年玉!」

「チェー、なんだよー……ま、いいや」

将は、腰を前にずらして車のシートにだらしなく寄りかかると、手を頭の後ろで組んだ。

♪卒業したら~、アキラとセックス~、すりきれるまで~♪

と変な節をつけて歌い始めた。

「バカね」

呆れるあまり、交差点のカーブを少し勢いよく曲がりすぎた聡だった。

 

「ただいまー」

教師と教え子に戻って玄関の引き戸をあけた二人に奥から母が出迎えた。

「おかえり。聡、お前にお客さんがもう一人いらっしゃったよ」

「え?」

「おかえり」

奥から出てきたのは、博史だった。