第86話 通過地点(1)

4日の午後。聡と博史は宇部空港に来ていた。

「ハイ。隣の席取れたよ」

博史が搭乗手続きを済ませたチケットを聡に渡した。

「ありがとう」

空港までは、わざわざ父の大二郎が送ってくれた。

おそらく幸代から話を聞いたのであろう。別れ際に大二郎は聡をじっとみつめた。

「しっかりな」

など博史の手前、短い言葉だったと思う。聡は父の黒い瞳から視線を動かさずにうなづいた。

父の銀髪は、いっそう白く、また目じりの皺は一段深くなったことに、そのとき、気付いた。

そして聡は、自分がとても親不孝をしているような気がした……。

その父が帰ってしまい残された聡は、博史と二人きりになってしまい、そわそわとしていた。

胸にはまだくっきりと残ったキスマークがずきずきと主張を続ける。

 
 

将は、朝のうちに萩を発ってしまった。

いちおう聡の父母の手前、三人はJRの『青春18きっぷ』を利用して萩にやってきたことになっている。

鈍行だから、と三人は「お世話になりましたぁ」と明るく聡の家を後にしたのだ。

実は昨夜も、将はこっそりと聡の部屋にやってきた。

最初はアルバムをめくったりしながら

(もちろん、聡所有のものだから、パンク姿とか水着姿のようなヤバいものは抜いてある。子供の頃の写真が中心だ)

たわいもない話をしていたのだが、何せ『誰も見ていない』部屋だ。

気がつくと二人の距離は縮まっていた。

開いたアルバムを前に口づけを交わすのに時間はかからなかった。気がつくとベッドの上で抱き合っていた。

「ちょっと……」

ベッドの上に倒れ込んだとき、聡は抗議の声を小さくあげた。

「大丈夫。ダッコするだけだから。約束する」

将は、聡に向かって、いたずらな笑顔で小指を立てた。

聡が『しょうがない』という笑顔で、小指を絡ませる。直後に、今度は二人の体が絡みあった。

将は横になった聡に唇を押し当てる。

しんと静まり返った夜は、息遣いさえも響きそうだったが、じきにそれを意識する余裕を二人とも失った。

将は約束を守って、抱擁以上のことはしなかったが、気がつくと早朝だった。

結局、抱き合ったまま眠ってしまったのだ。

もう一度、軽い口づけを交わすと、将はあわてて自分の部屋へ帰っていった。

 
 

飛行機までまだ時間があるので、博史と聡は空港のレストランでコーヒーを飲んだ。

「結局、ぜんぜん二人になれなかったね」

コーヒーをすすりながら博史は少し残念そうだ。

「ごめんね。お正月は、ウチはいつもああなのよ」

と答える聡は博史の目をみないようにコーヒーにミルクを入れる。

「でも、とりあえず最初にご挨拶が出来てよかったよ」

博史は、コーヒーをソーサーに置くと聡の顔を見た。

「挨拶って……」

こんどは聡が顔の下半分をカップで隠すようにコーヒーを飲む。ミルクを入れすぎたコーヒーは舌にからみつくように残る。

「聡さんと結婚させてください、っていう挨拶」

答えない聡は、博史にいつ別れを切り出せば、一番傷つけないで済むか、考えている。

優しげな博史の顔を見ていると、自分がこれからしようとしている行為が、

まるで罪のないものに暴力をふるうような、きれいに整ったものをぐちゃぐちゃに乱すような、そんな暴挙に思えてくる。

目の前に座る、穏やかな男に、確かに惹かれていたときもあったのだ。

もう、愛してはいないが、進んで傷つけたいほど、憎んでいるのではない。

そんな葛藤が、聡に決定句をためらわせていた。

「お父さん、何て言ってた?」

「聡が結婚したいというなら、反対する理由がない、って」

「そう……」

聡は言葉を失った。

両親には、前から『アメリカで知り合った会社員の人と付き合っている』と話していたから、突然現れた博史への返事はそんなものだろう。

男性らしい優しさを漂わせた誠実そうなルックスを持ち、話をすれば聡明さが漂う。おまけに安定した年収もある。

そんな博史を拒む親などいるわけがない。

 

「ところで、昨日、鷹枝君とどこに行ってたの?」

将の苗字だけで聡はギョッとして、質問の意味を理解するのにワンテンポ遅れた。あわてて言い訳を考える。

「え、ああ。ちょっと昔の友達に呼ばれて……」

「友達に?」

「う、うん。力仕事させるために」

とっさに思いついたにしては、まあまあの言い訳だと思ったが、博史はカップを口に運びながら上目遣いで

「ふーん」

と聡を見つめた。聡は慌てて

「ちょっと、お手洗いに行ってくるね」

と席をはずした。

トイレで将からのメールをチェックした。新着はない。朝、受け取ったままだ。それには

 

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1/4日10:03

今、秋月サンち。今から急いで東京へ帰る。

聡が家に着いた頃には、お出迎えできるように。

じゃあ後で 将

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そういえば、今朝『いいってば』という聡にかまわず、

『遠くからわざわざ来たんでしょう。それに聡の初めての教え子さんだし』

と父母は将たちにお年玉を渡していた。

自分たちの教え子には渡さなかったのに、娘の教え子が訪ねてきたのはひときわ嬉しかったのかもしれない。

将はたぶん、それを使って高速道路を利用するのだろう。

『家に着いた頃には、お出迎えできるように』

などと書いてあるが、明日が仕事始めという今日は渋滞することは必須、たぶん無理だろう。

だけど、将のメールを見なおした聡はほんわかと幸せな気持ちになった。

 
 

「東京に着いたら、メシにでも行こうか。最後の夜だし」

飛行機の中。機内誌を手に取る聡に博史が声をかける。『最後の夜』という言葉に聡の体は強張った。

飛行機がつくのは18時すぎである。博史は明日の早朝に出発すると言っていた。

まだ、今夜がある。たぶん博史は、発つ前に聡をあたりまえのように抱くだろう。

なんとか、避けられないだろうか。もう生理も言い訳に使えない。

『疲れ』。でも疲れぐらいで博史が諦めるだろうか。

この年末年始休暇で聡は博史に一度きりしか抱かれていない。

いつもなら、逢えない間を取り戻すように、その数倍は体を重ねていたことを考えると今日は絶対に求めてくるだろう。

――いっそ、今日別れを告げてしまえば……。

聡は窓の外の暗闇に視線を飛ばした。雲の上を飛行しているのか、何も見えない。

そんな聡を、博史は広げた機内誌の端で意識している……。

 
 

昨日。

ベッドの上で、抱擁と口づけを繰り返す聡と将を伺う視線があった。

聡の部屋の入り口の襖の外に、いつのまにか博史が立っていたのだ。

博史は、聡と二人で逢いたい、出来れば抱きたいと思って部屋にやってきたのである。

細く開けた襖からは、スタンドの暗い光の中に、ベッドの下1/3ほどがかろうじて見えるだけである。

しかし、掛け布団の上で抱き合っていたのか、絡みあった4本の足ははっきりと見えていた。

陽に焼けて褐色の長い膝下と、パジャマをまとった白い聡の足首。

4本はこすりあわせるようにしながら、その向きをせわしく変えていた。

襖に付けた耳には、2つの息遣いと、

「将……」「……アキラ」

と声を出さずに何度も呼び合うのが確かに聞こえた。

博史は、開けたときと同じように襖を音をたてずに閉めると、自分の部屋へと忍び足で戻っていった。