第88話 通過地点(3)

将ら3人が、秋月の宿に隠してあったローバーミニに乗り込んで、萩を後にしたのは10時すぎだった。

秋月は妻の綾と共に見送りにでてきた。出発直前、秋月は将に手招きして、近くに呼び寄せると耳元で

「社会人になるまで避妊はしっかりしろ。間違っても聡を妊娠させたりするなよ。俺の大事な思い出のヒトなんだから。いいな」

と囁いて親指をたてた。

『そんなドジはふまねえよ』もしくは『いや、卒業まで許されてないから』と答えてもよかったが、将は何故か素直にうなづいてしまった。

「また聡と一緒に来いよ」

と秋月は笑顔で将の肩を叩いた。

そして綾と二人で、ミニが見えなくなるまで手を振っていた。

萩の地を聡と二人で再び踏む未来は、当然のように来ると将は思っていた。このときは……。

 
 

萩から山口インターまでは1時間程度、一般道だがスムーズだった。

山口インターからは中国自動車道に乗る。11時すぎだった。中国地方の内陸部を通るこの高速はカーブが多いものの車の流れは順調だった。

しかし関西圏に入って、三田を過ぎてから急に車が増えた。途中、サービスエリアで昼を食べたというのもあり、時計はここで16時になるところだった。

吹田JCTあたりで、お決まりのひどい渋滞に巻き込まれた。本来は1時間で通り抜ける距離に2時間以上かかってやっと関西を抜ける。

愛知県の豊田インターでいったん降り、明日から仕事始めだという大悟を送っていき、再び高速に戻る。夜9時30分になっていた。

その先は夜が遅くなったこともあり、渋滞は解消されつつあったが、結局東京に着いて井口を送り届け終わってみると1時近かった。

将は、もう寝てるかな、と思いつつ、車の中から聡に電話をかけてみる。

コールが5回鳴って、聡が出た。

「アキラ?ごめん、寝てた?」

「……ううん」

かすれた声が携帯から聞こえる。否定はしたが寝ていたのだろうと検討をつける。

「今から、行ったら迷惑だよね?」

「ううん……迷惑、なんかじゃない、よ……」

なんだか様子が変だ。眠いんだろうか。それとも酔ってる?

「明日、学校なんだろ、やめとこうか」

気を遣った将だが、実は自分も運転で疲れていた。聡の顔は見たいが、お互い無理をすることもない、と思ったのだが

「……来て。将」

と聡ははっきりと言って電話を切ってしまった。

将は、釈然としないまま、車を聡の家へ走らせた。コインパーキングに車を止めて、コーポの階段をかけ登る。

足音に将を聞き分けたのか、聡のドアの前に将がたどりついたとたん、チャイムも鳴らしていないのにドアが静かに開いた。

スウェット姿の聡が廊下の暗い蛍光灯に細く照らされた。

今朝別れたばかりなのに、ずいぶん顔をみなかったような懐かしさで、将は聡の顔を見つめた。

しかし、聡は、うつむいて、どことなく沈んだ感じだった。

手を伸ばして抱きしめようとした将は、その頬に異変を見つける。左の頬が赤く腫れている。

「アキラ……どうした、そのほっぺた」

将は玄関に一歩踏み込んで部屋に入ると、聡に問いただす。聡は震え出した。

「……将。あたし……」

聡は目をあげた。その目はみるみるうるんで、将のほうを見据えたときは大粒の涙が頬を転がり落ちた。

……もう限界だった。将の顔をみたとたんに、堰を切ったように凍った感情が溶けて激しく流れ出す。

「博史にやられたのか、そうだな」

再び目を伏せる聡をみてそれは図星だと将は確信した。

「ひどいことをしやがる」

将は聡の体を抱き寄せた。しっかりと抱きしめたその体は、まだこきざみに震えている。

「もう大丈夫だから」

将の腕の中で震える聡は、とても小さく見えた。

――守ってやりたい。どんなことをしても。

将の中に、純粋な思いが湧き出してくる。それは清らかな泉のように将の心を浸していく。

冬の夜の静寂に、二人は抱き合ったまま、しばし玄関で佇んでいた。

 
 

「はい、紅茶。はちみつ入れといた。それと保冷材」

ベッドに腰掛けた聡に、将がペアのマグカップのかたわれを渡す。

「ありがとう」

鼻の下を柔らかくくすぐる熱い湯気に、戻ってきた安らぎを感じた。

マグカップのもう1つは隣に座る将の手にある。本来の持ち主に戻ったマグカップ。そのことにも聡は安堵を覚えて、やっと

「将……あたしね」

と落ち着いた声を出すことができた。

「……博史さんにね、とうとう、言ったんだ……結婚できないって」

「それで、殴られたんだ」

本当は違う。『将と寝たこと』を肯定して殴られたのだが、聡は

「うん……。そんなとこ」

と答えて、はちみつで甘くした紅茶を口にする。舌に優しい甘い味は、将といるこの時間の象徴のようだ。

いつのまにか将は、ときめきだけでなく、安らぎも連れてくるようになっていた。

「許せないな。こんど会ったら、俺がぶん殴ってやる。……それで別れられたの?」

将が聡の顔をのぞきこんだ。聡は将の瞳を一瞬見つめて、さらに視線を下に落とした。忌まわしい時間を思い出す。

博史にからだを奪われている間、聡は泣かなかった。というより泣けなかった。

頬を打たれたことで感情がどこかでまひしてしまったように、ただ呆然としていた。

クリスマスのときのように馴れた快楽も、もはや何もなかった。その間中、聡は目を閉じて我慢していた。

ただ、ただ苦痛な時間だった……。

その感覚が蘇った聡は、カップをローテーブルに置くと、両腕を胸の前で固く組んだ。

「アキラ……?」

異変に気付いた将は、自分もカップをテーブルに置くと、迷わず聡の肩を抱き寄せた。

そんな聡を見て、将はだいたいの事情を察した。

「アキラ、もう大丈夫だから。……ね」

将はもう一度聡を抱きしめた。

聡も将に腕をまわして体重を預ける。

熱い将の体温と干草のような将の匂いに包まれて、聡はまた少しずつ安堵を取り戻しつつあった。

そんな聡の脳裏に

『通過地点』

という言葉が稲妻のようにひらめいた。

『聡、お前は通過地点でしかない』

頭蓋骨中に響くように蘇った博史の声。おびえた聡は、将にからめた腕に力をこめてしがみつく。

それに気付いた将は聡の頤を上に傾けると、そっと唇を重ねた。

ほんの少しだけ、博史の声のリフレインは弱まったが、消えない。

聡は将と唇を交わしながら、思い出している。

自分が17歳の時を。

秋月は、東は。17歳のときの恋は確かに『通過地点』だった。

『終着点』の恋、なんてものがあるのかどうか、なんて26歳の聡にもわからない。だけど、自分はともかく、17歳の将にとっては、聡が『通過地点』にならない確率のほうこそ奇跡的だろう。

聡はこの恋の、真っ暗な未来を見た気がしておびえる。

しかし、もうこの思いは止められない。

だけど、いつか確実に。若い将は、自分から離れてしまうだろう。

自分にもそうだったように、ある日突然、誰かに心を奪われるのだろうか。

その日を想像した聡はぎゅっと目を閉じて、無我夢中で目の前にいる現実の将を確かめる。

 
 

気がつくと、聡は唇を離して、将の瞳を見つめていた。

聡の心のうちの不安も知らず、見つめ返す将の瞳は優しい。17歳の若さならではの純粋な、透き通るような視線。

「……将。ずっとそばにいて……」

脳を通さずに、目に涙が満ちるように、唇から言葉がこぼれる。

将は聡を透明な視線で見つめたまま、静かにうなづくと聡を抱いたまま、そっと身を横たえた。

「アキラ。ずっといるよ。だから安心して」

将の声音は、永遠を誓うかのような、磐石な愛情に満ちているようだった。『通過地点』なんて言葉は、今の将からは想像もできない。

将は、そんな聡の背中を、肩を、ずっと優しくなぜていた。

聡が安心するまで、そして眠りに落ちるまで……。

将は、生まれて初めて、はやく大人になりたい、と強く切に願った。

それは、聡を守りたい、という思いと同義だった。