第114話 能動的な愛

昨日の聡の行為の起爆剤は、瑞樹への嫉妬だったことは否めない。

自分より前に将と一緒に暮らして、将のことを自分より知っている瑞樹に対する、我を……常識を忘れてしまうほどの激しい嫉妬。

あのとき、聡は瑞樹に対する対抗心で、将に手を伸ばした。

だけど、そのうち……将の肉体の温かさに触れているうちに、恍惚としている将を目にするうちに、ひたひたと聡の心に満ちてくるものがあった。

それは、将への純粋な感情だった。いとおしさ……愛情。

 
 

 
愛の行為において女はおおむね受身とされている。

それは体の構造上、仕方のないことではある。

そのせいか、男と女でつくりだす『幸せ』というものに対しても、女は受身であたりまえ、と考えられてはいないだろうか。

例えば、流行歌などでは

『幸せにしてやる』などと歌うのは男性歌手で、それに対して女性歌手は『幸せになりたい』と歌う。

『幸せになりたい』と歌う歌詞の主語は、もちろん『私』、もしくは広く見ても『私たち』、である。

つまり、女性は、幸せにおいて(主に恋愛において)自分本位とまではいかないが、主体であることをつねに自認し、かつ黙認されているのが一般的だろう。

 

 
今までの聡もそうだった。今まで……といっても高校生や大学生のときの彼氏までは、恋愛に対して幼すぎて、そのときどきの甘い感情や行為に酔うだけで、『幸せ』につながっていく『愛』などおそらく自覚していなかった……そういう深い感情があったかどうかもさだかではない。

聡が、恋愛が深い至福につながっているのを実感したのは、博史からである。博史との恋愛時、確かに『幸せ』につながる『愛情』に聡は包まれていた。

「愛されている」

「この人なら私を幸せにしてくれる」

博史の愛情に包まれて、聡はただただ幸せと、それが将来に続いていく予感に酔った。

それは、すべてを男に任せてついていく幸せだったのだけれど。

 
 

 
将を愛する今の聡は違った。それを昨夜、聡は確認したのだ。

もちろん、幸せになりたい、というのは人間の生存本能として常に存在するとして。

聡は、むしろ将を幸せにしたい、と強く願った。

その願いは生まれたとたんに、涙が出るほどせつなくて、命を掛けたいほど強い願望になった。

それは、暗闇に迷う旅人にとっての北極星のように、将を愛する聡の道しるべになって、心に燦然と輝いた。

将を、傍目には淫らな行為で愛しながら、聡の心は徐々に純化していった。

将を気持ちよくしてあげたい。できれば幸せにしてあげたい。

そこに、聡自身の存在はどうでもよかった。

愛を受けるだけでなく、与えたい。

将が幸せなら、聡も幸せ。

幸せは与えられるものでなく、自分がつくりだすものになったのだ。

将に対して、今までもそんな気持ちがなかったわけではない。

だけど、どうしても教師と生徒という立場上、女が男にできること、という形でそれをすることは憚られた。

だけど、瑞樹というきっかけで、タガがはずれた聡は、将に『女』という形で愛を与えることができない自分のもどかしさの大きさを知った。

もはや受身ではいられないほどの強い想い。

それが昨夜の聡の原動力だった。

将を手に入れて幸せになるのではない。将を幸せにすることが自分の幸せ。

26歳の聡は、そんな大人の愛し方で、瑞樹に先んじたい、と無意識に願っていたのかもしれなかった……。

そして聡は、果てた将の寝顔をなぞりながら、もし仮に、自分の幸せか、将の幸せか、どちらかしかとれない、そんな状況になったら将の方を迷わず選ぼう……そう心に誓っていた。

しかし本当にその日が来ると、まだ予想もしていない聡は、将の頬に軽く唇を押し当てると、ベッドを降りて自分の寝床に入った。

 
 

 
「そうそう。将、上手じゃん」

日曜も夕方になっている。『ちびまる子』ちゃんを映すテレビをBGMに二人は餃子包みに励んでいた。

将が餃子を包むのはもちろん初めてだが、手先が器用なのか、長い指を操って、3つめには等間隔にタックをとってきれいに包めていた。

それきり、二人は無言で餃子を包むのに集中するかに見えた。

なにせちまちまとスプーンで救う量に対して、膨大な肉がボウルの中にある。

西日本出身の聡は一口で食べられるような小さめの餃子が好みだから、皮は小さめだ。ゆえに大量の餃子を包まなくてはならない。

部屋にはしばらく、まる子と友蔵、キートン山田の声だけが響いていた。

将はあいかわらず無口だが、別に聡のことを避けるようでもない。

チラチラと聡のことをさっきから盗み見ているのを知っている。

聡はそんな将をほうっておくことにした。しかし考えてみたら、今日はキスもしていないのだった。

「まる子、終わっちゃったね」

聡は指先に神経を集中させながら、将に話し掛ける。

「ああ」

無関心を装いながら、実は直前まで聡を見ていた。それを無理やり餃子に神経を集中させているかのよう。

「チャンネル変える?」

「……どうでもいいよ」

「じゃ、サザエのまんまにしとくねー」

それっきりしばらく沈黙が続いた。そして将のチラ見が始まる。

聡は助け舟を出すことにした。将のほうを見ずに餃子を包みながら

「将、なんか言いたいことある?」

と問い掛けてみた。

「え、ええ?」

肉を掬うところだった将は、聡からの思いがけない質問に、思わず力が入ってしまったらしい。

とうてい包めない量の肉がスプーンに山盛りになっていた。

しかし、それを減らすこともなく、餃子の皮に乗せる。

「あ、……えと……」

いいよどんだまま、大量の肉をむりやり餃子の皮で包んでしまおうと格闘する。

しかし、餃子の皮が破けてしまい、将は意を決したように聡に問い掛けた。

「あのさ……、ゆうべの……、ことなんだけど」

「なあに?」

聡は、1つの餃子を包み終わって、皿に並べながら将の顔を見た。

将は破けた餃子を皿の端に置いて、下を向いている。

「アキラ、昨日みたいなこと、いつも……」

言いかけて止まってしまった。あいかわらず下を向いたままでボサボサの前髪の下で睫がしばたいているようだ。

ふいに将が顔をあげた。目が合う。真剣に何かを乞うような目だ。

「アキラ、ぶっちゃけ、オレって何人目?」

「なあに……、いきなり」

「いいから」

「そんなこと聞いてどうするの?」

「知りたいんだ。博史のほかに、東のほかにも、いたの?」

「なんで東を」

聡は、少し驚いた。なんで高校時代の彼氏の名前を将が知っているのだ。

「萩で秋月さんに聞いたんだ。アキラに、あんな……ことを教えたのは東なの……?」

将の声は最後は消え入りそうになった。声の調子と同じように目線はどんどん落下していった。

聡は静かに立つと、流しで肉と餃子の皮の粉で汚れた手を洗った。

そして、うなだれる将の隣に座ると、肩を抱き寄せた。

「将……イヤだった?」

聡の囁きに、将はびっくりして、首を横に振った。

体をねじって自らも聡の体を強く抱きしめようとしたのだが、手が餃子の皮の粉で汚れていて、それは宙にとどまった。

「イヤじゃない、むしろ嬉しかった……けど、」

「けど?」

「すっげえ、気持ちよかったけど……」

一瞬、ゆうべの感触がリアルに蘇り、将はあせる。

「オレ、アキラにそんなことを教えた昔の男に嫉妬してるんだ」

「将……」

聡は将の胸に顔をうずめながら広い背中を撫でた。が、おもむろに顔をあげて

「40人め」

と言った。

「へ?」

突拍子もない数字に、さすがに、将は笑い顔のまま顔をひきつらせた。

「……とか言ったらどうする」

と聡は顔をあげたまま、いたずらっぽく笑った。

「ありえないでしょ、アキラが」

将は、冗談だとわかって、だけどホッとした。

「わかんないよー? そしたら、やっぱり将は私が不潔だと思う? 別れちゃう?」

「もー、アキラ、茶化すなよぉ」

将は、粉まみれの手でついに聡の頬を撫でた。聡の頬に白い指の跡がつく。

「あのね。誰に教わったんじゃなくって」

聡は自分の頬を包む将の手に自分の手を添えた。

「私が……もし、処女でも、同じようにできたと思うよ」

聡はちょっと照れて、視線を下にずらした。長い睫が染まった頬の上でしばたいているのを将は見た。

「将が……どうやったら気持ちよくなるか、一生懸命だっただけだもん……。誰にも教わってないよ。将が気持ちいいやり方なんて」

聡は顔をあげた。白い粉を頬につけたまま、まっすぐな瞳で将を見ると、ゆっくりと微笑んだ。

そして、そのまま立て膝をして、将の唇に軽く触れるようなキスをした。

将は目をあけたまま、それを受けた。優しくて温かい聡の唇の感触。

……将にとってずいぶん長いこと忘れていたような感覚だった。

考えてみたら、今日、初めてのキスだった。

なんだか、知りたいことはうやむやにされた気もする。

だけど、粉をつけたままキスしてきた聡があんまり可愛かったので、もうどうでもよくなった。

将は聡をもう一度抱き寄せると、今度は将のほうから深いキスをした。

そのまま抱擁と長い口づけを繰り返す。

聡の服も髪も餃子の粉だらけになった。