第135話 羞恥

ふっ、と光が弱くなり、ベンツから人が降りてきた。

降りてくるまでもなく、それが毛利だということは、将にはわかっている。

将は目が眩んで真っ暗な視界を、見えないまま睨みつけた。聡は将にしがみついたまま、同じように光のほうを見ている。

まっすぐに歩いてきたスーツ姿の毛利に将は先制した。

「何の真似だ、毛利」

「将さま。迎えに参りました」

毛利の言葉づかいは丁寧だが、頭一つ下げるわけでもない。

「マンションにお帰りください」

「今日は帰らねえよ」

息巻く将に毛利はわざとらしくため息をつく。

「高校生が飲酒するのはよくないですね……。しかも先生同伴で」

「何ぃ?」

「将、誰……?」

将の腕の中で聡が訊く。その声は少し酔いが醒めたようだ。

「父の関係」

将はそれだけ答えると、抱いていた聡からそっと手を離してその場に立たせた。

そして毛利のそばにステッキをつきながらもズカズカと歩いていった。

聡は酔って赤らんだ顔ながらも心配そうな顔をして将を見ている。

至近距離に近づいた将は、毛利の眼鏡越しの瞳に鋭い視線を刺しこんだ。

しかし、毛利はひるまず、低い声でさらに付け加える。

「このことが学校に知れたらどうなるでしょうね」

「だったら知らすなよ」

将はすごんだ。将のほうが背が高いので、毛利を見下ろす形になる。

「……では今日は、お帰りください」

「お前、どういうつもりなんだよ。オレとアキラを引き裂くことで、お前やオヤジになんかメリットあんのか」

将は毛利の耳元で低い声、かつ早口で囁いた。将の嫌いな毛利の整髪料の匂いが反撃のように香る。

将のセリフを聞いて毛利はフッと笑った。爬虫類を思わせるような表情が夜の中に浮かんだ。

「教育的な配慮です」

「ふざけんな!」

将がいきなり怒鳴ったので、立っていた聡がびくっと震えた。だが、毛利は微動だにしなかった。

将は、そんな毛利を睨みつけていた。

しばらくそのままでいたが、らちがあかないと見切りをつけた将は、聡が立っているほうへ踵を返そうとした。

「山梨では最近、連続強姦殺人が起こっているようですね」

将だけに聞こえるような毛利の低い声が背後から響いた。将はハッとして振り返った。

「まだ犯人は捕まっていないようですが……」

無表情のまま、抑揚なく話す毛利。将は得たいの知れない不気味さを感じた。

将は恐怖の中に怒りを混じえて、毛利にふたたび詰め寄ると、その襟首を掴んだ。

「お前……アキラを……やる気、なのか」

しかし毛利は、襟首を捕まれたまま表情をゆるめて、はじめて将の『顔』を見つめた。

「そんなことはしませんよ。夜道は危険だから、先生もお送りしようと申し上げようとしただけで」

しかし、将にはそれもわざとらしく感じた。

でも結局。

……言うとおりにするしかない。

将は聡の肩を抱いて、ベンツへと歩いた。毛利が、後部座席のドアを慇懃無礼に開けた……。

 
 

ベンツに乗るまでもなく聡の家はすぐだった。

心配そうな将を残して、聡は一人でベンツから降ろされた。その時点で、酔いは冷めてほとんど正気に戻っていた。

部屋に入ると、明かりをつけて、冷蔵庫の水をごくごくと飲む。

――ふう。

人心地つくと、寝乱れたベッドが急に目に飛び込んできた。

同時にさっき将が自分に行った行為が感覚とともに鮮やかに思い出された。

「もう、ヤダ!」

恥かしさが、大きな声になって出る。そんな自分がまた恥ずかしくて手で顔を覆ってしまう。

まだ酒が残ってるんだな、と心に残った冷静な部分で考える。

ベッドのそばに座り込むと、頭をシーツの上に預けてぐったりとしてみた。

なんとなく湿気を帯びたシーツは、かすかに二人の体臭の混ざった匂いがする……その中から聡は将の体臭をかぎ分けた。

「しょう」

聡は、つぶやいてみる。目を閉じると、酔った頭に将の顔が浮かぶ。

ベンツから降りる間際に見たせつない顔だった。

――さっきの、いったい何だったんだろう。

酔っていたので、あやふやだが、将と自分をベンツに乗せたあの男は……。

聡はシーツに預けた頭を少し起こした。

しわくちゃになったシーツの真ん中に、乾いた薄いしみがついていた。あのときの快楽の……痕跡。

それを見るなり、再びいろんな記憶が一気に聡に襲い掛かってきた。

聡はさっきそれをされていたときのように息苦しくなってきた。主に恥かしさで、である。

体中の血液に充満した恥かしさが聡の体中をぐるぐると駆け巡る。

瀉血するように恥かしさを抜きたいけど、抜けない。

聡はなすすべもなく暴走する恥かしさに地団駄を踏みたい気分だった。

地団駄の代わりに、証拠物件である湿ったシーツを一気にはぎ取る。

酔いがまだ残っているのか、大きな動きをすると、脳が頭からはみでて浮遊しているような感覚でぐらぐらする。

それを耐えて、自分も洗い清めようとシャワールームに入る。

しかし、自分の裸でさえも、あの淫らな行為の『証拠物件』なのだ。

聡は恥かしくて、このままシャワーに溶けてしまいたい気分になった。

だけど、石鹸ですべてを洗い流し、清潔な下着に穿き替え、洗ったパジャマを着ると、さすがに落ち着いてきた。

乾いたシーツに換えたベッドに横たわると、隣に将がいないのが急にさみしくなってきた。

将のことは愛している。いつも一緒にいたい。ぬくもりがほしい。

だけど、こんなに動揺するなんて。正直、聡はさっきの行為を後悔していた。

あのまま最後までいかなくてよかった、とほっとしている。

すごく気持ちよかった。溶けて蒸発しそうだった。死んでもいいぐらいだった。

しかももう教え子じゃない。

だけど。

将は依然17歳なのだ。

愛という大義名分のもと、法律を犯してまで1つになるのは、やはり怖い。

心の片隅にこびりついた、良心というか常識というか、そんなものは意外にも、心を深く操っていたのだ。

それが、酔った聡の言動に現れたのだ。

――愛よりも常識なんだ……。私って。

そんな自分の計算高さのようなものを寂しい、と聡は思った。

聡はため息をつくと、寝返りを打った。

そこへ、メールの着信音。

たぶん、将からメールがあるだろうと、携帯は枕元に置いていた。

案の定、将だった。

『今日はごめん。明日、なんとか抜け出すから、そっち行っていい?』

そっち=聡の部屋。聡は、またさっきの行為を思い出して、顔が一瞬熱くなる。

それをかき消すように、繰り返し携帯に表示されたメールを読む。

文言の一部が気になった。

抜け出す、とは、いったい?

さっきのスーツ姿の『毛利』という人のことだろうか。あの人は将を監視しているのだろうか?

聡の心を少しだけ嫌な予感がよぎる。

だけど、抜け出すって言ってるんだし、『毛利』のことはあとで将に訊けばいい。

いいよ、と打とうとした直前に、聡はかろうじて思い出した。

博史との……博史の母を明日見舞うという約束を。

これもあったんだ。と聡は天井を見て再びため息をついた。

どうしよう。だけど、せっかくの土日だ。将とは少しでも長く逢っていたい。

考えたあげく、

『いいけど、明日午後、ちょっと出ないといけないんだ。その間留守番になるけどいい?』

と送信した。すると間もなく将から

『どこに行くの』

と問い返してきた。

『知っている人のお見舞い』

聡は嘘をつかないように返事をした。