第163話 禁断症状

補習を終えた聡はひさしぶりに大学時代の友人の美智子と逢うべく、学校をあとにしていた。

もう6時だけれど、まだ空には太陽の明るさが充分残っている。

――もう春なんだ。

風はまだ冷たいし、桜のつぼみもまだ固い。でも日に日に明るくなってくる放課後に聡は確実に来ている春を感じていた。

通りすがりの桜の枝につぼみを確認しながら駅へ向かう聡の携帯がふいに鳴る。将だ。

「将?どうしたの?」

もう学校を遠く離れている聡は躊躇なく名前で呼んだ。

「アキラ、今日、逢えない……?」

「ごめん。今日は、いまから友達と食事なの」

「それが終わってでいい。顔が見たいんだ」

切羽詰った、というより苦しげな様子。いったいどうしたんだろう。

聡は、そういえば今日、将が補習に来ていなかったことを思い出した。

「どうしたの?いったい」

まだ駅まで遠い。歩きながら事情を訊く暇はありそうだ。しかし、将は

「あとで話す。とにかく連絡くれ」

と言って電話を切ってしまった。

 
 

電話を切った将は、待ち受けに戻った携帯を眺める……ずいぶん前に撮影した聡の笑顔が表示されている。

それを見てため息をついたとき、携帯が再び鳴った。

大悟だった。

「将? 今日外で一緒に飯食わない?」

一人でいると、乱れる心はますます収拾がつかなくなる気がする。

将は、気持ちを鎮めるために誰かと逢いたかった。

誰か……できれば聡が一番だが、大悟でも悪くはない。

ふだん仕事で忙しい大悟は、一緒に住んでいながら顔をあわせることが少ない。

たまには食事でもしながら、話をするのはやぶさかではない。こっちから誘いたかったくらいだ。

「おう。食おうぜ。何食う?」

将は明るく返事をした。

 

「上カルビ頼もうぜ。俺がおごるから」

大悟は明るく提案した。

「何、キューリョー日?」

いつになく豪気な大悟に将は笑顔でさぐりをいれる。近所の焼肉屋に来ていた。

「うん。それもある」

大悟の笑顔の前に、ビールの大ジョッキが運ばれてきた。

二人は乾杯した。

「給料日だったら、俺におごるよりも、瑞樹のヤツになんか買ってやったら?……あ、そうだ、もうすぐホワイトデーじゃん」

将はタン塩を焼き網の上に並べながら顔をあげた。

「うん。それはぬかりはないよ」

大悟もタン塩を並べる。その並べ方は将より一段丁寧な感じだった。

タン塩はあっという間に食べごろになり、二人はレモン汁にひたしたそれを口に運んだ。

そこへ、上カルビ、上ロースがやってくる。

あっという間にタン塩を食べ尽くした二人は、しばし無口で、肉を並べて食う、を繰り返す。

満足感の域に達するのは大悟のほうが先だったようだ。

大悟は、もう2杯目になる大ジョッキをぐっとあけると、3杯目をオーダーして

「あのさ」

と将に話し掛けた。

「何」

将は相槌をうちながら、あいかわらず、肉から目を離さない。上カルビは食べ尽くし、並カルビになっている。

レア好きな将だが、安いカルビはよく焼いたものも香ばしくてよい。

これをやりだすのは、将も満足に近いというサインだ。

「俺たち、マンションを出るから」

「あ、そう。……え?」

肉の焼き加減に注意を払っていた将は、しばらくしてその内容を理解し顔をあげた。

「長いこと、世話になったな」

大悟は頭を下げた。

「出るって……どこいくんだ?」

思わず将の声が乱暴になる。

「二人で、滋賀の自動車部品工場に住み込もうと思う。夫婦向けの寮があってさ」

将は大悟の顔を見たまま、無意識に網のうえで肉をひっくりかえす。

「滋賀……」

絶句する将。

正月に萩まで往復した道のりを思い出す。滋賀はちょうどその真ん中ぐらいだっただろうか。

出て行くというのを将への遠慮と解釈した将は

「大悟、俺んちだったら、いつまでも居てくれてかまわないんだぜ」

と優しい声で引き止める。

「ん……。ありがとう。でも、もう決めたんだ」

大悟は、微笑んだまま、将を見据えた。決意は固そうだ。

「なんで、そんな遠くに……」

将はビールをあおると下をむいた。

せっかく再会できた親友がまた遠くに行ってしまう。

焼肉屋の香ばしい匂いは寂寥感とはおよそかけ離れている。

だけど将の心はじわじわと寂しさに浸されていった。

「東京にいると、いろいろと誘惑が多いだろ……」

大悟は、将のようすに言い訳をするように、新しい肉を網の上に載せた。

「瑞樹か……」

大悟はうなづいた。

「あいつさ……。クスリを辞めるどころか、すっかりクセになってしまったみたいで……。

最近は、クスリが切れると苦しいみたいなんだ。幻覚みたいなのも見えるらしいし」

肉を箸でいじりながら話すのには、ふさわしくない話題だ。

「俺が一緒にいるときは、なんとか我慢させてるけど……。本当に苦しそうなんだ」

依存症、とか、禁断症状というのを将も聞いたことがある。

将は、返す言葉を必死で探す。

「治るのか……?」

それだけしか見つからなかった。

大悟は、将の目を見た。そして頷く。

「苦しみにも波があるみたいなんだ。我慢していたら、収まっていくみたいな……。それを繰り返していつかは禁断症状から抜けるらしい」

「そうか……」

「まだ瑞樹は軽いほうだと思う。心配すんなよ」

深刻な雰囲気を崩そうと、大悟は懸命に明るい声を出す。

将は、何を基準に『軽いほう』なのか、とも思ったが、大悟がそういうなら、と口元に笑みをつくってみた。

その試みはあまりうまくいかず、どうしても固い表情が崩せないのが自分でもわかる。

「滋賀だって新幹線に乗ればそんなに遠くじゃないぜ」

大悟は、自分をも励ますように、明るく言うと

「まあお前はミニ運転して来るんだろうけど……落ち着いたら遊びに来いよ」と付け加えた。

「ああ。近いうちに井口とでも行くよ」

とようやく答えた将に「センセーとでもいいんだぜ」と大悟はそっと囁く。目が笑っている。

将は、照れてひとしきり笑うと

「で、今日は、瑞樹は?」

と訊いた。

「荷物取って来るって、さっき自宅にいったん戻った。いちおう母親にも挨拶しておくって。

途中で焼肉合流して、将にも挨拶しておきたいとかいってたけど……そういや連絡遅すぎるな」

自宅、と聞いて、将は少し嫌な予感がした。

瑞樹の自宅には、瑞樹が忌み嫌っていた義父がいるのではないのか。

将の曇った顔を見て、大悟は将の心配がわかったらしい。

「母親がいるなら、義理父も無茶はしないだろ」

とフォローしつつも、

「ちょっと電話してみるわ」

と携帯を取り出して瑞樹に掛ける。

何回もコールがなったあとでようやく瑞樹は出た。

「瑞樹?」

「大悟……」

「どうした。何で連絡しなかったんだ」

「うん……」

的を得ない返答。どうも様子がおかしい。

「瑞樹、聞いてる?」

「聞いてるよ……」

「一緒に夕食食べるっていってなかったか?将いるよ」

しばし沈黙が流れる。

将の名前に対しての沈黙なのか。

大悟はやや舌打ちしたい気持ちのまま瑞樹の携帯が拾う周囲の音を必死で聞き取ろうとした。

規則的なリズムの轟音。列車に乗っているのか。

列車の轟音に、瑞樹の震える声がやっと混じる。

「……大悟、あたし……今日ね……。義理父とのこと、お母さんに見られちゃった」