第172話 スカウト

「先生、いつも思うんですが、先生はよく車の中で雑誌をお読みになって酔いませんね」

黒塗りの高級車のハンドルを握りながら、帽子をかぶった運転手が後部座席に座る紳士に声をかけた。

議員バッジを付けたその紳士の傍らには漫画誌、ファッション誌などが山積みになっている。そのページを、車の揺れも意に介さないように次々にめくっていく。

「慣れればどうってことない。それに移動中しか読む暇ないしな」

「しかし……、先生の勉強熱心さにはいつも感心します」

「若者の動向を知るのには、こういうのが一番だからね」

話しながらも、目は熱心に内容を追っているこの紳士は、現外務大臣の麻野一朗だ。

来年行われる与党の総裁選の有力候補の一人であり、将の父親で官房長官の鷹枝康三とはライバル関係にある、といわれている。

64歳と、康三より13歳も年上ながら、若者文化に理解があるとされ、近頃とみに人気が急上昇している。

「おぉ?」

麻野氏の目が、あるファッション誌の一角に釘付けになった。

ハガキ大ほどの写真に目を近づけて食い入るように見る。

「これは……鷹枝さんの息子さんじゃないか?」

麻野氏は助手席に座る秘書にそのページを見せた。

秘書は麻野氏から受け取ったファッション誌を確認して

「は。そのようですね」

と答えた。

名前こそ『SHO』となっているが、康三に似ている面影は隠しようがない。学校名も麻野氏が知っている情報と合致している。

ライバルの情報は、その家庭のことまで把握している、そつのない麻野氏なのだ。

「こりゃいい。なかなか男前じゃないか。……鷹枝さんも、総理に倣って、息子さんを俳優さんにでもすればいいのになぁ」

麻野氏は、誌面を軽くはじいて愉快そうに笑った。

麻野氏が言ったとおり、大泉現総理の長男は、その端正なルックスを活かし、大学在学中から俳優宣言している。

親の七光り、とさんざん陰で叩かれつつも、今ではコンスタントにドラマ出演もある売れっ子だ。

しかし、麻野氏が愉快そうなのは、別の理由だ。

来年の総裁選に向けて、少しでもライバルの足を引っ張りたい……そのネタに発展しそうな匂いを、将の写真から嗅ぎつけたからであった。

 
 

「大悟~? いないのー?」

大悟が心配で、学校からまっすぐに帰宅した将だが、昼下がりのマンションは空だった。

空の酒瓶がキッチンに何本も並んでいる。すべて大悟が飲み干した瓶だ。

ゴミステーションに持っていかないと、と思いつつ放っておいてる空瓶は貯まる一方だ。

大悟は、最近は焼酎からさらに強い、ジン、ウォッカ、というものに手を出している。

最近とみに酒量が増えている大悟は、強いスピリッツ(蒸留酒)をも1日一本のようなペースで飲んでしまう。

ただ、空の瓶はきれいにゆすいであり、キッチンに酒臭さは一切残っていなかった。

飲み終わった瓶をきちんとゆすぐ行為は、まだ大悟が立ち直れる証のようだった。

――今日はカウンセリングの日だったっけ。

そういえば、今朝「俺も午後から出かけてくるから」と言っていた。

将は制服も脱がずに、ソファにごろりと転がると伸びをした。

ひとりきりになると、急に聡が恋しくなる。

今日、久しぶりにその姿を見ることができた。あの雑誌の撮影をした……3月28日に逢って以来だ。

でも、教壇の上の聡と個人的に話ができたわけではない。

将は携帯を開けて聡の待ち受けの右上に表示されている時刻を見る。まだ1時前だ。

教師たちは始業式の今日も通常通りの勤務時間だというから、聡は、まだ学校だ。

メールは、春休みの間も毎日やりとりしていたけれど、生のぬくもりが、将は恋しくて仕方がなかった。

――アキラとキスしたい。抱き合って寝たい。囁きが聞きたい。甘い匂いを吸い込みたい。

目を閉じて瞼の裏に聡の姿を思い描く。

そんな将を邪魔するように携帯がいきなり鳴った。

編集者の美智子が表示されていた。

「将くん?幸田です。どうも、先日はお世話になりましたぁ」

ハスキーがかった明るい早口は、静かな昼下がりを急に賑やかなものにした。

「ハァ。こちらこそ」

将はけだるく起き上がると、広げた膝の上に頬杖をつくようにして相槌をうった。

「昨日発売の号、編集部にもすっごく評判よかったのよ。それで、ね、将くん、お昼食べた?」

「ハ? まだですけど」

「じゃさ、今から一緒にお昼食べない? 好きなものおごってあげるからさ。××あたりに出てきてよ」

唐突な美智子の誘いに、将は少し考えたが、教習所の予約時間までまだ間がある。

将はとりあえずOKした。

しかし語尾に、きちんと「ありがとうございます」と付けた折り目正しさを美智子は聞き漏らさなかった。

 
 

「将くん、こっちよー!」

自然光がふんだんに差すレストランカフェの一角で美智子が手を振っている。髭面の男と一緒だった。

「こちら、ダイヤモンド・ダストの橋本社長。『mon-mo』を見て将くんにぜひ会いたいっておっしゃって。……鷹枝将くんです」

「橋本です」

と髭面の男は立ち上がると、名刺を将に差し出した。

背は低いが、細身のパンツ、皮のジャケット、凝った靴と、なかなかオシャレな中年男だ。

名刺も、半透明のプラスチックのような紙に、会社のロゴマークが透かしてある凝ったものだが、名刺を見ても何の会社なのかよくわからない。

「鷹枝です。こんにちは」

将は頭を下げてきちんと挨拶した。

ちゃんとした場所で目上にあったらとりあえずきちんと挨拶するのは小さい頃からの習い性になっている。

「ちょっとぉ、美智子ちゃぁん。いいワァ」

社長はラタン調の椅子に腰掛けながら、髭面に似合わない女言葉で美智子の肩をポンポンと叩いた。

ギョッとする将をよそに、美智子は、中年男の女言葉に何も違和感も示さない。

慣れているのだろう。将は、修学旅行のときのスキーの講師を思い出した。

「そうでしょう?社長」

と美智子は満面の笑みを橋本に返した。そして突っ立ったままの将に

「あ、座って、座って」と椅子を勧めた。

「ハイ」

素直に腰掛ける将に、社長は身を乗り出すようにガラスのテーブルに肘をついて将をまじまじと見つめた。

「……いいわぁ。まず、写真より目がいいわ。一見不良っぽくて鋭いのに、近くで見ると王子様みたいにキラッキラなんだもん。将くん、いくつ?」

「……今度の15日で18歳になります」

「身長は?」

「185です」

ちょうど、今日の健康診断で計ったばかりの値を将は言った。ちなみに去年より3センチ伸びている。

「ちょっとぉ、声もシッブー! 男っぽいッ!美智子ちゃん、この子、うちで預かりたいワ」

社長は将には相槌も打たず、一人はしゃいだ。

将は内心『失礼なヤツだな、コイツ』と思っていたが、美智子の顔を立てて、いちおう笑顔のまま黙っていた。

そのとき、ランチの前菜が運ばれてきた。

「まずは、お食事しましょう。お話は、それから、ということで。私、もーおなかペコペコでぇ。……将くん、ここのイタリアンは結構いけるのよ」

ナイフとフォークを取りながら美智子が、将をうながす。

「あ、ハイ。いただきます」

将もナイフとフォークを取った。

将も腹がすいていたので、遠慮なく皿の上の凝った料理を片付ける。

美智子の言うとおり、料理はなかなか美味しかった。

食事中は美智子と橋本が、あたりさわりのない、出てきた料理やそれに関連した食べ物の話やダイエットの話などに興じていた。

将は、話をふられたときだけ、無難に受け答えをしていた。

メインを食べてしまい、カトラリーを揃えて置いたところで将は、橋本社長がじっと自分を見ているのに気付いた。

「何ですか?」

将はいちおう笑顔をつくって訊いてみた。

すると、橋本の顔が、だらしなく崩れた。

「いやーん、このコ、何者ぉ?」

と橋本はナプキンを持ったまま体をくねらせた。

「ハ?」

「美智子ちゃん、このコ、どっかの御曹司? テーブルマナーといい、口の利き方といい、ほぼ完璧じゃない。いまどきの若いコにしては珍しいわ。躾ける手間が省けるわー」

「将くん、お父さんは何してるんだっけ」

美智子の問いに、将は言いよどんだ。父が官房長官の鷹枝康三だということは、できれば知られたくなかった。

かわりに、さっきからのこの男の反応はなんなのだ、と将は

「あの。さっきから何のお話なんですか」

と訊き返してみた。本当は

『さっきから何の話なんだよ、ったく、きもちわりィな』

と言い捨てたいのを素早く目上向けに翻訳したのである。

美智子と橋本は、将の問いに、お互い目を見合わせた。

その間に、テーブルの上は片付けられて、デザートが運ばれてきた。

美智子は将に向き直ると、

「あのね、将くん。橋本社長はね。あなたをスカウトしたいっておっしゃってるの」

将は、ぽかん、と目を真ん丸くあけた。

スカウト、という響きがあまりにも唐突過ぎて、よくわからない。

だいたい、何にスカウトしたいのかもわからない。

しばしの沈黙ののち、将は再び訊き返す。

「スカウトって、ホストかなんかですか」

今度は、美智子と橋本が椅子からずっこけた。

ずっこけたいきおいで乱れた髪をかき上げながら、

「ふふ、うふふふ。面白いわねえ、将くん。残念ながらホストじゃないわ」

社長は苦笑した。

「うちはね。芸能プロダクションなの。いちおう業界8位よ」

女言葉に似合わない、鋭い目を将に投げかけながら橋本は話を続けた。

「将くん。あなたはいいタレントになるわ。モデルでもいいけども、俳優でもいけると思う。私のカンでは。……あの松野内透を見つけた私が言うんだから間違いないわ」

将は、スカウト、芸能プロダクション、モデル、俳優と自分には遠い世界の言葉ばかりを並べられて目をパチパチさせた。

「ひえー!あの松野内を社長が見つけたんですか!」

美智子が大げさに仰け反る。将でも知っている有名な美男俳優だ。

トレンディドラマの常連だったが、30代半ばになった最近は、すっかり実力派になり、海外でも人気がある。

「そうよぉ。知らなかったのぉ?」

橋本は『失礼ね』と言いたげな、でも得意げな目付きを美智子に向けた。

しかし将に向き直ると、にっこり笑った。この人が女言葉をつかうなんて外見的には信じられない。

「ね。だからウチに来てくれない? 大事に育てるわよぉ~」

しかし、将は目を伏せた。

「いや、あの、せっかくですけど。俺、モデルも俳優もやれません」

「ええー、どうしてぇ?もったいない」

「そうよー。なんでー?」

橋本と美智子が、目を丸くして将を見た。

「いや、その……。俺、いろいろ悪いことしてるし……家出してるし」

「えー、家出少年なの!将くんって」

美智子が驚く中、社長は冷静に

「悪いことって、どの程度?」

と訊いてきた。

「いえ……」

まさか、殺人などと言えるはずはない。困った将に、新しい言い訳がふいにひらめいた。

「そうだ。あと、俺脱いだらキモイんです」

「脱いだらスゴイ、じゃなくて脱いだらキモイ? なに、将くん、×××なの?」

社長は、人前で口にするには、えぐい言葉を平気で言ってのけた。

将は、そんなわけないだろ、と思いながらも、スルーして

「そうじゃなくて、火傷のあとがあるんです」

と答えた。

「根性焼きの跡ぐらいだったら化粧とか、画像処理で消せるわよ」

『根性焼き』などという言葉を軽く思いつく社長の口調からは、似たような不良少年を育てた経験の多さがうかがえた。

「いえ、俺の背中には、こんっなに大きな、火傷のあとがあるんです。だからモデルも俳優も無理です」

将は両手でその大きさを示しながら説明した。

「あら……そうなんだ」

その大きさに美智子が少し残念そうな声を出した。

しかし社長は、太い声で豪快に笑った。

「やだー。そんなのカンケイないって。背中が出ないように演出させるなんて、どうにでもなるもの。

ね、将くん。私の目に狂いはないわ。あなたは絶対、ゼッタイ売れっ子になる。だから、うちに来てみない?最初はバイトのつもりでいいから。ね?」

社長はにっこりと笑いながらも、目を鋭く光らせた。