第175話 小さなしこり

大悟は、昼下がりの街を歩きながら通帳を開いた。もうこれで何度目だろうか。

何度見ても変わらない数字。残高は……153円のみだった。

大悟は爪を噛んだ。

そして後悔する。この1週間……パチンコにはまってしまった自分を。

いつか勝つ、と思って続けているうちに18万あった残高はあっという間に、消えてしまった。

財布に残っているのも300円と少し。

これでは派遣に行くための交通費にもなりやしない。

煙草を買ったら(一番安い煙草でも)もうあといくらも残らない。

大悟は、最近は煙草を吸わなくなっていたが、パチンコ屋で他人の煙に燻されているうちに、いつしか再び口寂しさを煙草で癒すようになっていた。

――煙草は将にもらうか。

しかし、そういえば最近、将が煙草を吸っている姿を見ない。

聡に言われたか何かで、もしかしたら止めたのかもしれない。

大悟はイライラするあまり、道端に転がっていたコーヒー缶を蹴った。

缶は午後の光の中、カラカラと音をたてて転がっていった。

――こんなことになるなら、あのとき将に金を払うんじゃなかった。

あのとき、とは。大悟が瑞樹と滋賀に行くことを決めたとき。

大悟は、いままでタダで将のマンションに居候し、タダで食事を食べさせてもらっていたお礼に、

『これ……。俺と瑞樹の食費と部屋代のかわりに。1ヶ月半にしては少ないけど……』

と5万ほど将に差し出したのだ。将は、

『俺の部屋じゃないし、食費は親持ちだから、いいってば』

とさんざん固辞したのだが、大悟は

『もらってくれないと俺の気がおさまらないから』

と無理やり握らせたのだ。

あのとき将は、いらないって言ってたんだから、無理に受け取らせることもなかった。

――あの5万があれば……。

大悟は、自分の後悔が、すでに歪んでいることに気付かない。

ともあれ、将が帰ってきたら、金を貸してもらうしかない。

そう思った大悟は、コンビニで煙草を買った。

ビールは将の部屋の冷蔵庫にまだあった。

将の帰りを待つ間、昼酒を飲んで、眠ってしまおうという魂胆だ。

 
 

金曜日の6時間目は社会見学だが、今日は女の子向けの企画だったので、関係ない将は、聡もいないことだし、とサボって帰ってきてしまった。

まだ4時前、今日はかなり温かい。

歩いて帰ってきているうちに、将は汗ばんで来た。

ブレザーを着ているのがうっとおしくなって脱ぐと、カバンと一緒に抱える。

ネクタイは緩めているし、シャツはボタンを3つはずした上に、スラックスから出して着ている。

この着方について、聡は「だらしない」と顔をしかめたが、風通しのよさには替えられない。

将の前からサラリーマンらしき男が歩いてきた。スーツをきっちり着ている。

将は思わず、すれ違いざまに、その男を振り返った。

別に知り合いというわけではない。その男の容貌や服装が特徴的だったわけでもない。

単に……あんな格好で暑いだろうな、と思ったのだ。

今週、始業式の翌日に実力テストがあった。

勉強をまったくやっていなかった将は、我ながら出来があまりよくなかったのを自覚していた。

来週から、放課後を使って進路相談が始まるらしい。

大学進学志望者はその実力テストの成績を元にするらしいが、おそらくたいした大学は目指せない成績しか取れてないに違いない、と将はわかっていた。

特に、聡には申し訳ないほど、英語ができなかった。

勉強に対してモチベーションが下がった理由はわかっている。

博史という存在がいなくなったゆえ、別に大学にいかなくてもいいや、という気分になってしまったことを将は否めない。

しかし、就職するのか、といえば。

今の男のように、きちんとスーツを着て働く自分はあまりにも非現実的だった。

だけど、聡と暮らす……家庭を持つには、早く仕事を持って自立したほうがいいのかもしれない、とも思う。

聡のために、聡とその子供のために、窮屈なサラリーマンをこなせるだろうか。

来年の今ごろ、自分はどうしているのだろうか。

将は、初夏の様相を呈した午後の空を仰いだ。

 
 

将は無言で、マンションの自室のドアを開けた。

今週、大悟はずっと帰りが遅い。だから今日もいないだろうと思ったのだ。

リビングに入らずに、寝室に入ると将は解き放たれたように制服を脱いだ。

室内はパンツ一丁でも寒くないほどだ。

教習所は夜間だから、まだ少し時間がある。

もう路上教習まで来ているので、あと少しで卒業検定が受けられる。

誕生日の15日がある来週中には免許を取得できる見込みだった。

将は教習所の時間まで一息いれようと、パンツの上からTシャツを着て、ボリボリと胸のあたりを掻きながら、キッチンへ向かった。

と、リビングのソファで大悟が眠っていたので驚く。

将と同じようにTシャツとトランクス姿だ。シャワーを浴びたらしく煙草臭さはない。

ソファの足元にビールの空き缶が2個転がっている。

それを見て、ビールを飲みたくなったが、教習所がある将は我慢して冷蔵庫からウーロン茶を取り出した。

――どうしてこんなに早く帰ってきたのか、しかし、明日のことを伝えるのにちょうどいい。

と将がグラスを傾けながら大悟のほうに視線を投げたとき、ちょうど大悟が目を覚ました。

「将……、もうそんな時間か」

と大悟は目をこすりながら時計を見た。

「ああ。6限サボった。おまえこそ、今日は早いな」

大悟は身を起こして、ソファに座りなおすと、煙草に火をつけた。

将は内心、嫌な気分になった。

将は、このところ、煙草をやめている。

別に健康のためではない。聡に言われてもいない。

しかし、聡とたびたびキスをするようになって、ヤニ臭くなるのを自粛したのだった。

煙草をやめた将は、できれば室内で煙草を吸って欲しくなかった。

だが、かつて一緒に煙草を吸っていた親友の……しかも、心に傷を負っているであろう大悟に、ちまちまと煩いことを言いたくない。

その葛藤で、将の心に、ごく小さなしこりが出来た。

「あのさ」

大悟は煙草の煙を吐き出すと、言った。思い切ったような煙の吐き出し方だった。

「悪いんだけど、将。……金貸してくれない?」

煙は、午後の光を斜めに差す筋のように映し出した。

「……なんだ。そういうことか……」

将は思わず呟いてしまった。

「そういうことってどういうことだよ」

大悟は、キッチンにいる将を見上げるように、やや不服そうに言い返した。

「どうって」

……パチンコで使い果たしたんだろ、違うか、というセリフが喉まで出掛かったのをかろうじて止める。

『悪いんだけど』と頼まれているんだから、まずは了承して安心させてやればいい、とも思う。

だが、できなかった。将は、いいかげん、大悟に立ち直ってほしい、と心のどこかで強く願うあまり、いらついていたのだ。

将は大悟に近づいた。

いいかげん、漂う煙草の煙は、将も吸わずにはおれないほど、濃厚になっていた。

「もらうぜ」

将はソファに置いてあった大悟の煙草の箱から一本抜いた。

大悟は無言で、そんな将をキラリときつい視線で見た。

金に困っている大悟は……煙草一本でも惜しかったのだ。

火を点ける将に、煙草の許可のように

「金……貸してくれんだよな」

と険しい表情のまま確かめる。

「ああ……いいよ」

将は大悟の横に腰掛けると、煙草の煙を吐き出した。

ひさしぶりの煙草は、たいして旨くなかった。

「ところでさ」

将は煙を手で払いのけながら、大悟に振り返った。

「明日、バイト手伝ってよ」

「バイト?何の」

「なんか……雑誌のオシゴト」

「いくらぐらいもらえんの?」

大悟は険しい顔を緩めていた。

「さあ?でも、前やったときは30分くらいで1万もらったよ」

「そんなに?それヤバいバイトじゃないだろうな」

大悟が行っていた派遣は、7時間程度でようやく日給1万ぐらいだった。

しかも、立ち詰めで働いて。

「いや、モデルなんだけど、素人でいいんだってさ」

「モデルぅ?俺に出来んの?」

普段の大悟なら、雑誌モデルのような派手なことは苦手だったはずだ。

しかし、金のない大悟はすでにその金額に大きく心を動かされていた。

判断基準が、やりたい、やりたくない、ではなくすでに出来る、出来ない、になっている。

「ああ。正月に萩いったときの写真があったじゃん、あれを編集のヒトに見せたら軽くOKだったぜ」

「ふーん」

「俺もやるからさ、一緒にいこうぜえ」

将は明るく、大悟の背中に手を置いた。

「金、それでも足りないようだったら、貸すよ。だけどさ……ぶっちゃけパチンコ代なら貸したくない。……すまんけどよ」

将の言葉を聞いて、大悟はうつむいたが、ゆっくり頷いた。

そして暫くの沈黙のあと、ゆっくりと呟いた。

「俺だって……。そろそろ立ち直らないとって思ってるんだ……」