第201話 相合傘(2)

聡は素直にバッグから手帖を持ってきた。赤茶色の合皮に包まれている。

「へー、これがアキラの手帖かー」

将は、興味深げにぱらぱらと中身を開く。

「やだ、もう。関係ないところ見ないでよ」

といいつつ、聡はたいして止めない。

来年の3月まで日付があるところが気に入って買った手帖は、ほとんど仕事でしか使っていないから。

それに買ったのは昨年の12月で、その頃には聡の心は将に傾いていたから、彼に対してやましいことは何1つ書かれていないはずだ。

「よし、ちゃんと俺の誕生日チェックしてるじゃん」

将は満足げにうなづく。

「てことは……このちっちゃい赤い点は『あの日』?」

「ちょ!」

聡の目が真ん丸くなった。図星だった。

将の誕生日の3日前に生理が始まったということを将は知っているのだ。

聡はあわてて、将の手から手帖を取り上げようとした。

将は、歯をむき出して笑いながら、長い手を高くかざすようにして、手帖を聡から遠ざける。

「もー、返してよ!」

ついに、聡は手帖を追うあまり、将の上半身にタックルするように床の上に押し倒してしまった。

とまどった聡の顔は将の顔の真上で静止していた。

そのまま、将は上に乗った聡の背中に手をまわした。

「アキラ……。俺たち、昨日……」

聡は突然、将の唇に自分のそれを押し付けてきた。

将は、そのままパジャマに包まれた聡の体をそっと抱きしめた。

聡の体の重み。胸の上に押し付けられる柔らかい感触……しかし、昨日の記憶と同じかどうかはさだかでなくて、口づけしながら将は息苦しくなってきた。

長い口づけのあと、聡の黒糖飴のような瞳が少しうるんでいた。

「昨日……、俺……。アキラと寝た、……んだよな」

聡は、ほんのりと微笑んだ。頬も唇も何もつけていないのにばら色だ。

「やっぱり……。覚えてない?」

「ん……。なんとなく、覚えてるけど……」

これは嘘だ。本当はなんにも覚えていない。

聡は将の上からゆっくりと身を起こした。

「ね。あたし、途中で起きて、ご飯食べたんだけど覚えてないよね」

「食べたっけ」

そんな記憶はぜんぜんない。

「あたしだけね。……夕食前だったから、あたしお腹すいちゃって。将を呼んだんだけど『うん』って言うだけで、起きなくて」

本当に覚えていない。

「覚えてない?」

聡の問いに将はうなづきながら、頭を抱えたくなった。

「2回、したのも?」

「2回!?」

聡からもたらされた事実に、将は目を見開いた。

1回も覚えていない自分に、いったいどれだけ酔っ払っていたんだ、と将は自分を責めた。

「……本当に、覚えてないのね」

聡はなぜか可笑しそうだった。そんな聡に将は思わずうつむく。

「中で、出しちゃっ……」

将は聡を盗み見た。聡は悪いことがばれた子供のような将の瞳を見て笑いながらうなづいた。

「たぶん、大丈夫だから、気にしないで」

慰めるような口調に将はますます落ち込む。

将は行為に及ぶ際は必ずコンドームで避妊していた。

まわりのやつが、やれ性病だ、妊娠だと騒ぐのをまのあたりにしていたからだ。

たいして好きでもない相手と面倒な問題を起こすほどバカじゃないというプライドが将にはあった。

その禁を昨日、うっかり破ったのはいい。相手は最愛の聡だから。

仮に妊娠したとしても、責任をとる覚悟は出来ている。

だけど……極上だったはずの感覚をまるで覚えていない、そのことが無念でならない。

「あのさ……。俺、ひょっとして、めちゃくちゃ、独りよがりじゃなかった?」

「えー、どうかなあ」

聡はいたずらっぽい顔で、瞳をくるりと回転させて将の顔を横目で見た。

聡はさっきから可笑しくてたまらなかった。

何気ないふりをしながら、本当は、今日1日、ずっと将にどう接していいかわからなくて、迷っていたのだ。

教え子と、ついに関係を持ってしまった。

罪悪感と恥かしさと、体中に残る余韻。その片鱗も表に出すまいと聡は必死で戦っていたのだ。

でも。昨日、かなりの深酒にヨロヨロになっていた将は、案の定何も覚えていないらしい。

それを知ったとたん、聡は優位に立った気がして、快活な気分になってきた。

……もともと、将と寝たことで、満ち足りた気分ではあるのだが。

「アキラ!」

将は聡ににじり寄ってきた。滑稽なほど真剣な顔で肩を掴む。

「やり直し、させて。頼む」

やり直しって。聡は思わず吹き出しそうになるのをこらえながら

「ダメ-!」

と×ポーズを作った。将の顔が、そんなぁ、と歪む。

「昨日は特別だもーん。続きは卒業のあとでネ」

聡はやんわりと将を振り払うと、手帖を取り戻した。

「えー……。俺なんにも覚えてないのに……」

子供のように唇を尖らせる将がいとおしくて、聡は首を伸ばすようにして、将の額に軽くキスをすると、そのまま唇を耳元に移動させて

「あたしはいっぱい覚えてるよ」

と囁く。そう、体の中に将の形を思い浮かべられるほどに……聡の中の将は鮮明だった。

将は聡の囁く息づかいが耳に染みて、背筋にぞくっとくるような快感に見舞われて、反射的に聡の体を抱き寄せる。

「もう一度、頼む……」

将は聡の頬にくっつくほど顔を寄せて喘ぐように懇願した。だが、聡はうるんだ瞳に将をいっぱいに映しながらも

「……ダメ。今日、教室ですごく恥かしかったから……」

とゆずらない。

「……ぜんぜん、クールだったじゃん」

聡の唇まで、あと1センチというところで、水色のアイシャドウを付けた聡を将は思い出す。

そこに恥らう素振りなどみじんもなかったはずだ。

「一生懸命、隠してたのよ。二人のために……」

それ以上、聡はしゃべれなかった。将の熱い唇にふさがれたからである。

 
 

「で、手帖に何を書くの?」

ひとしきり激しい口づけを終えて、より紅潮した顔で、聡が訊いてきた。

「そうだった」

忘れるところだった、と将は万年筆を手にとってローテーブルに向かった。

聡にもらった万年筆で聡の手帖にぜひ書いておきたいこと。

手帖の裏表紙の半分には赤茶色のカバーが被さっている。

カバーから将は手帖の裏表紙を引き抜くと、そこに文字を書き始めた。

「えー、なあに?」

聡も覗き込む。

そこには、イカスミインクの自然なセピア色で

I love you, Forever

        SHO

と書かれていた。

「フツーすぎるけどぉ」と将は照れて笑い、

「あ、綴り、間違ってないよな」

と聡を振り返って確認した。

聡は頷きながら、その単純ながら心のこもった言葉に、胸がいっぱいになった。

カバーに隠れる部分に書かれた、将のメッセージ。

来年の3月まで……つまり将が卒業して、二人がただの男女になれる日が来るまで、聡はこのメッセージをひそかに抱いて暮らすのだ。

さらに照れたのか、それとも書き味が気に入ったのか将は、手帖の中面を開くと、今日の日付のところに小さな相合傘を書き始めた。

聡はあわてて

「だめよ!そこは仕事で使うんだから!誰かに見られちゃう!」

と止めたが、傘の下にはハートマーク付きで、「あきら」「将」と名前が書かれてしまっていた。

「チェー、わかったよ」

聡の必死の形相に将は、相合傘の上に重ねて×を書くと、その上を塗りつぶし始めた。

結局、今日の日付の欄には、セピア色で塗りつぶされた1センチぐらいの正方形が残った。

その下に隠された相合傘は二人だけの秘密になった。