第211話 何もない部屋で(1)

「わあ……。大都会の真ん中って感じだね」

14階のバルコニーからの風景に、聡は思わず感嘆の声をあげた。

同じ都内でも聡の家や、学校があるあたりとはまるで違う風景。

将が仕事の拠点とする新しいマンションがあるこのあたりは14階がそう高く思えないほど、ビルが林立している。

ビルの木立の向こうに赤いランプをつけた東京タワーが見えている。

それらは、GW中の夜10時といえど、明るく煌いて、夜空の星を霞ませていた。

夜風に柔らかくそよぐ聡の髪を指にからませながら、将はひとときの幸せを噛み締めていた。

風にのって、聡の香りが将の鼻に届く。

たぶん、彼女は風呂に入ったばかりなのだろう。

香りは、いつもより軽くて爽やかだけど、濃厚な甘さに欠ける気がした。

久しぶりにミニを運転して(皮肉なことに、きちんと免許をとってからのほうが運転するチャンスが少なくなった)聡の部屋を訪れた将は、

いつものように玄関先でひとしきり抱きしめてその感触とぬくもり、香りを確かめた。

こうやって実体を確かめると、写真やビデオといった記録媒体なんてものは、まるで役に立たないことがわかる。

押し返してくるような柔らかい肌の弾力。

さらに柔らくて温かい唇。

市販の石鹸やシャンプーと聡自身の体臭がまじった甘い香り。

囁く声の、耳の産毛が震えるようなかすかな振動。

そんなものを再現できるものがあればいいのに、と逢えない間、将は願っていた。

……ひとしきり、それらを確かめると、強引に聡の手を取って、ミニに乗せた。

そして、いま、二人は、なんにもないマンションの一室にいる。

1LDKのそれは武藤の言ったとおり、家具もなく、新築の香りだけがそこにあった。

月のない夜なのに、明るい都会の夜が、窓枠の形にフローリングに映っていた。

その明るさに誘われる2匹の蛾のように、将と聡は、バルコニーに出てきて外を眺めている。

聡の肩においた将の手に、一瞬ぶるっとした震えを感知した。

「寒い?」

将は、聡の肩を少し強く抱き寄せた。薄いブラウスだけの聡に夜風が少し冷たすぎたのかもしれない。

「うん。少し」

聡は隣の将を見上げた。その瞳にビル群の灯りがキラキラと映っている。

「中に入ろうか」

将は、聡の肩を抱くように、バルコニーから部屋の中に入った。

カーテンもない部屋だから、窓ガラスは冷たい空気だけを遮断して、風景はそのままだ。

「あ、靴」

聡はバルコニーで履いていた靴を玄関に戻すべく、かがもうとした。

そんな聡を将はいきなり後ろから抱きしめる。

前を向かせて、むさぼるように口づけをする。

熱くて激しい口づけに、聡の力が抜けていくのがわかる。体から力は抜けていくのに、細い腕は将にしっかりと巻きついている。

背中に、腰に、つる草のように巻きつく聡の腕が、今の将には震えるほど嬉しい。

「しょう……靴を戻さなくちゃ」

聡が夢見るような瞳で将を見つめている。

「いいよ、あとで」

そういうと、将は再び聡の唇に自分のそれを押し当てて、深い口づけへと移行する。

どれぐらい、そうやって口づけと抱擁を繰り返していただろうか。

将の頭は完全に時の感覚が麻痺していた。

気がつくと、将と聡はフローリングの床に横たわって抱き合っていた。

「あきら……あきら」

将は聡を抱きしめながら、いつしか、その服地ごしの柔らかい胸に顔をうずめていた。

寂しかった。甘えさせてくれ。言葉にするかわりにそんな行為になっていた。

「将ってば」

聡は将の髪を撫でた。少し短くなった髪は、少年っぽいといえなくもない。

そんな将はまるで大きな子供みたいだ。

「将。明日、早いんでしょ……」

聡は非情だと自覚しながらも、分別を口にする。

さっきから胸を押されることで、自分の中の野性的なものが目覚めそうで。

自分の中のそれを牽制するように聡は常識的なことを口にしたのだ。

「まだいいよ。……俺、完璧に、『アキラ欠乏症』でさー……」

将は、いっそう強く、胸に顔をおしあててきた。

いつのまにか、背中を往復する手は腰まで範囲を広げている。

胸の中から、いたずらな瞳をあげて

「ただいま、アキラ補給中」

と白い歯を見せながら、将はブラウスの裾から聡の素肌に掌を這わせてきた。

「んもう……」

聡はそういいつつも、止めさせる言葉を口にすることができない。

理性ではいけない、と思っているのだが、すでに将を知っている体は、それだけで理性を越える快感に包まれてしまっているから。

聡も……将がいなくて寂しかった。もしかしたら、将以上に、将が欠乏していたのかもしれない。

「でもさ……。3週間もアキラと離れ離れで俺、大丈夫かな」

将の掌は聡の胸のふくらみをとらえている。

「メールとか、電話はできるでしょ」

聡は、その動物的な快感に抵抗するべく、卑近で無機質な単語を、唾液でやけに粘っこい舌に乗せてみた。

「ベルベル人の家庭じゃ無理じゃねー?」

将は、ブラウスの下で聡の胸を覆う下着をずりあげてしまった。

「あっ、ダメ」

快感は、胸の先端から、将を覚えている、将のためだけの器官に鋭く走った。

それは耐えがたくて、思わず聡は身を引いた。

「だめ。将……明日、早いんでしょ。もう帰らなくちゃ」

聡は乱れた服のまま、体を起こした。

「アキラ……」

将も一緒に身を起こす。

摩天楼の明かりに青く照らされた将の顔は、せつなさでハッとするほど美しかった。

将は、聡の体をもう一度抱きしめると

「……明日から、俺、3週間もアキラなしなんだぜ」

と耳元で囁く。さらに

「アキラは俺を覚えているんだろ。でも俺は覚えてないし……」

将の肩越しに、白いシャツを着た将の広い背中が聡の目の前に広がっていた。

「こんなの寂しすぎるし……。だから、もう一度」

これ以上ないほど切ない声で訴える。

――3週間も顔をあわせることができないんだし。

――一度、受け入れたあとも、巧く教師として振舞えたんだし。

いったん溶けて液体になった聡の中の『女』は、理性の盆からこぼれてしまったように、もうそこへ収まろうとしない。

かわりに、将の訴えを受け入れてもいい理由を挙げ始める。

聡は結局……将にも、自分の中の『女』にも、抵抗の言葉を持たないまま、再びフローリングに横たわっていた。

将は窓からの淡い光に浮かび上がる聡の顔を見つめた。

黒目がちの瞳がうるんで、青い都会の夜が揺れた。

 
 

ガチャ。

玄関からの音を二人は聞いた。

「将、そこにいるの?」

マネージャーの武藤の声が、がらんとした部屋に響いた。

今から、甘く激しい感覚の世界を彷徨おうとしていた二人は一気に現実に引き戻された。

将は、聡の濡れた肌に埋めていた指をあわてて引き抜き、

昇りはじめていた聡は、閉じていた目をあけると同時に息を飲んだ。

ガチャガチャと音がするのは、将がさっきチェーンをしていたからだろう。

二人は顔を見合わせた。

「やばい」

将は力が抜けたような聡の腕を引っ張りあげると、引きずるように洗面所へ連れて行った。

半透明のバスルームの扉を開けると、

「ここに隠れてて。俺がなんとかするから」

と早口で囁きながら、聡をバスルームの中に押し込んで、扉を素早く閉めた。

その間も

「将、いるんでしょー!開けなさい」

と武藤の声と、チャイムが響く。

「ほーい」

将は、何気ない、のんびりした声を出すべく努力をした。

それは、奄美ユリのドラマより、演技力が必要だった。

そして聡を愛撫していた中指をペロッと舐めて清めると、その手をジーンズのポケットに突っ込み、

何食わぬ顔で洗面所から出て、リビングと玄関を仕切る扉を閉めながら玄関に出た。

「ちょっと待って」

将はいったん、ドアを閉めると、チェーンをあけて武藤を中に入れた。

「なんだよ……。こんな時間に」

と武藤に、わざとけげんな声を向けつつ、今が何時になっているのか将にはよくわからない。

「あなたこそ、なにやってんの。明日早いのに」

「……いいじゃん。新しい部屋が見たかっただけだよ」

武藤は言い訳する将の横をすり抜けて、リビングに入るべく照明のスイッチをつける。

将は彼女の後についていきながら、何もヤバイものはなかっただろうな、と今二人が横たわっていたあたりを素早く点検した。

「武藤さん、なんで、ここに来たのさ」

「……ちょっとね」

「ちょっとって何だよ」

武藤はわざと理由を口にしないまま、将をちらりと横目で見た。

反応を見ているのである。将が何かを隠している、と武藤にはすぐに分かった。

本当は、将を送った後、海外に旅立つ前に確かめておくことを思い出して、武藤は事務所に戻ったのだが、その帰りにここに寄ってみたのである。

そこで、この部屋専用の駐車スペースに、ミニが置いてあったのを見つけた。

将がすでに免許を取得していて、かつミニを持っていることを知らない武藤は、管理人に無断駐車を注意してもらうように言いにいった。

すると、24時間常駐の管理人は

『1402号の鷹枝さんはさっき、車を停めたいけど駐車場はあるか、と訊きに来られましたが』

と答えたのだ。

「将こそ、まっくらなまま何をしてたの」

と問われて、将は言葉に詰まった。

武藤は将に疑惑の目を向けたまま、少し微笑むと

「ちょっと手を洗わせてね」

と洗面所のほうに向かった。

「や……」

将は一瞬止めようと思ったが、止めたところで同じだと瞬時に気づいた。

腹を決めて、それでも心配で、武藤の後ろについて洗面所に足を踏み入れた。

――アキラ、バスタブの中にでも隠れていてくれ……!

祈る将を嘲笑うように、武藤はなぜか洗面所でなくバスルームの扉を開けた。