第217話 幼なじみ(2)

聡は後悔していた。

将にとって大事な海外ロケの直前に、あんなことを宣言してしまったことを……。

彼に大きな動揺を与えてしまったのではないだろうか。

仕事に影響が出ていないだろうか……。

せめて励ましのメールでも送ろうとも思ったが、

「もう付き合えない」

と宣言した聡が、いったいどうやって励ますのだろうか。

現に……将が発って3日経つが、将からの連絡もメールも何もない。

3日間も連絡がないなどというのは極めて異例なことである。

将は、自分のあの宣言を受け入れたのだろうか……。

後悔と心配とを忘れたい聡はGWが明けて仕事に没頭した。

クラスマッチの練習に付き合い、部活動に顔を出し、進路の方向性が決まっていない生徒を呼び出して積極的に相談に乗る。

また、よりよい社会見学先を探すべく奔走し、かつ中学の勉強すらもロクにできない生徒が大半を占める学校の実情と、文部科学省が定める高校の教育要項との折り合いをつけるべくカリキュラムに工夫を凝らす計画を立てる。

部屋で一人で、自分の心と向き合うのが恐いばかりに、聡は将の姿の見えない学校で、遅くまで残業をした。

……荒江高校の講師の給与は固定制なので、いくら残業をやっても、金銭的に聡が得することはなにもない(もちろん山梨の出張以来、聡の給料は就職当時より良くなっているが)。

それでもよかった。

GWが終わって2日目の今日も、長くなった日がすっかり暮れて、真っ暗になるまで聡は残業をした。

そして夜10時近い今、ようやく弁当屋で買ってきた弁当で夕食を済まし、疲れた体を湯船に浸していた。

気分が明るくなるという、高価なダマスクローズのエッセンシャルオイルをバスタブに垂らしたのに……、独りになるといやでも将のことが頭に蘇ってくる。

もしも……このまま、本当に将が離れてしまったら……。

聡は、思わずふるえる肩をさらに湯の中にもぐりこませた。

顔に近くなった水面から薔薇の香りが、鼻の中に濃厚に滑り込んでくる。

……いや。そもそも離れるのが前提で自分はそういうことを将に宣言したのだろう。

自分がいたら、将は甘えてしまう。

自分を理由に、小さくまとまることを考えてしまう。

それでは将のためにならない。

将が思い切り羽ばたいて、大空に放たれる日まで、聡は離れているべきなのだ……。

理屈ではわかっているのだが、おんなとしての聡は、ただ苦しい。

聡の目の前には、透明な湯に沈んだ自分の裸体が見えている。

全部将が愛撫したところだ。

あちこちに将の感触を記憶している肌は、将に抱きしめれたくて、まるで鳥肌が立つように待機する神経が敏感になっているようだ。

こんなふうで、果たして将なしで、暮らせるだろうか。

また、将は、このまま永遠に自分から離れてしまうのではないだろうか。

聡は視界から自分の裸体を隠すように、湯船に鼻ぎりぎりまで沈んだ。

水面が反射して将を思い出させる自分の体を視界から追い出すことに成功し、聡は鼻から深いため息をついた。

ため息は水面に静かに波紋となって広がった。

そのとき、部屋でけたたましく携帯が鳴った。

聡はしばらく放っておいた。

将からの着信音ではない。

これが将だったら、濡れたまま、床をびちゃびちゃにしながら携帯に駆け寄るのだろうが。

……たかが、携帯が鳴っただけで、将を思い出してしまう自分。聡は湯の中で目を閉じた。

携帯はいったん鳴動をやめた。

だが、1分間隔をあけて再び鳴り出した。

――誰だろう。

さすがに緊急か、と聡は湯船から重い腰をあげた。

バスタオルであらかたの水分を取って、そのタオルを巻きつけながらバスルームの扉を開けて、ローテーブルの上に置いた携帯を手に取る。

発信番号は『非通知』と表示されている。

用心のために通話ボタンを押しても声を出さないでいると、

「古城先生ですか。Dプロの武藤です。お寛ぎのところ、申し訳ありません」

と声がした。

芸能プロで、将を担当するマネージャーだ。聡は、先日校長室で武藤と挨拶をした際に、

『何かあったときに、担任の先生と連絡を密にするために』

と武藤に頼まれて携帯の番号を教えていたのだ。

武藤の電話番号は登録していたはずなのだが、どうやら彼女は携帯を使わず、ロケ先のホテルかどこかから電話をかけているらしい。

今、話をしても大丈夫ですか?と問う武藤に、大丈夫、ととりあえず返事をして

「今、パリにいらっしゃるんですよね……」

と訊き返す。わざわざパリから国際電話をかけてくるなんて、将に何かあったんだろうか。

聡の脳裏に心配が顔を出す。

長くなるかも、と聡はいったんバスタオルを取り去ると、全裸の肩に携帯を挟んだまま、クロゼットを開けてバスローブを取り出す。

「ええ。今日は……折り入ってお願いがあってお電話しました」

バスローブを引っ掛けている聡は、武藤の深刻な声を聞いた。

「何でしょうか」

訊き返しながら聡は、心臓がぐん、と収縮するのを感じた。

 
 

出てきた若い女は、アパルトマンの鉄の扉に手をかけたまま、将を見上げた。

「ショー……本当に、あのショーなの?」

「うん。……ロマーヌだね」

「Ah…quelle surprise!」

ロマーヌはその利発そうな澄んだ青い瞳を見張って、口元を手で覆った。

 

将と篠塚は、玄関で靴を脱ぐとアパルトマンの中のリビングダイニングに通された。

将は昔からそうだったので特に違和感を感じなかったが、篠塚が

「へー、ここでは靴を脱ぐんだ」

と感嘆する。

海外経験は多いものの、一般家庭に入ったことがない篠塚は、欧米では家の中でも靴を履いたままだ、という先入観があったのだ。

確かに、日本の住宅のように、段差をつくった玄関、つまり靴を脱ぐスペースはない。

子供を預かる上に、フランス人としては比較的清潔好きなイザベラおばさんは、ドアから1mぐらいのところで靴を脱いで、家の中は裸足で暮らすようにしていた。

「イザベラは今、ちょうど夕食の買い物にいったところなのよ」

ロマーヌはコーヒーを淹れてくれながら話した。

「へえ。『オーシャン』に?」

将は近くにある、フランス版激安スーパーマーケットの名前を口に出した。

ここでだいたいの食材は手に入る。

将はそこの、大箱に山盛りになったいんげんマメや、日本のとあきらかに品種が違う巨大なキュウリを思い出した。

将の母・環はいんげんを手でわしづかみにしてビニールに入れるようなおおらかな性格だったが、

イザベラは、山盛りになったいんげんから一本一本気に入ったものを選りだして自分のビニールに入れる几帳面さがあったのを懐かしく思い出す。

「ウイ。セ『オーシャン』」

ロマーヌもその頃を思い出したのか、ニッコリと笑った。

アパルトマンの中は、日本の住宅と大差はない。リビングダイニングの一角にダイニングテーブルを置いて、そこで食事もお茶もする。

家具の配置も、将が幼稚園に行っていた頃と何も変わっていない。将は部屋を見回した。

ただ、将が驚いたのは、そこが思ったよりずっと、狭かったことだ。

ここに預けられていた小さい頃は、もっと広い印象があった。

だけど……将が今いるこの部屋は、将が大悟と住んでいるマンションよりかなり狭い。

「変わってないでしょ」

ロマーヌがマグカップに淹れたコーヒーをテーブルに置きながら微笑んだ。

その腕は、蝋のように白い。

ロマーヌは細身の、体の線がぴったりと出る黒い七部袖のTシャツに、ローライズのジーンズというくだけた姿だ。

黒褐色の髪は、一見、後ろから見ると彼女を日本の少女のように見せているが、よく見るとゆるくウェイブがかかったその髪は、東洋人のそれよりとても細いのがわかる。

ロマーヌもフランス人の特徴ともいえる、白人の中では比較的フラットな顔立ちだった。

日本人にも親しみの持てるすっきりとした顔立ちだが、オークルを含んでいない肌の白さと細く尖った鼻梁に、やはり人種の違いが出ている。

たぶん無化粧のその顔は、多少大人びたとはいえ、あまり変わっていない。

「ショーのほうは……すごく、背が伸びたのね。びっくりしたわ」

そういうロマーヌはフランス人としてはやや小柄で、聡より少し小さいぐらいか。

「そちらは?」

ロマーヌは、自分もテーブルに付きながら、篠塚に微笑んだ。

「あー、ボンジュール、マドモワゼル・ロマーヌ」

「コンニチワ」

お互い、それぞれの相手の国の言葉で挨拶をすることで、その場の雰囲気がぐっと柔らかくなる。

「こちらは篠塚さん。彼は、とても有名な写真家なんだ」

とフランス語でロマーヌに紹介したあとで、今度は日本語で

「彼女はロマーヌ。小さい頃、仲が良かったんだ」

と篠塚に説明する。

「エスクヴゼット……hisじゃない、えーと何だっけ?プティタミ?」

直訳すると、『あなたは、his○×△□、恋人?』

という感じだが、ロマーヌはにっこりと笑って、

「ムッシュウ・シノヅカはフランス語が出来るの?」

と訊いた。篠塚は両手を挙げて降参する素振りを見せながら、

「Non!エクスキュゼモワ、パルレヴーアングレ?」

つまり、英語ができるかをロマーヌに訊いた。

「イエース、オブコース!」

ロマーヌは英語ができるらしい。

「ショーは?英語は?」

将は思わず顔をしかめた。

「俺はまるでダメ。話すならフランス語のほうがマシ」

「あたしが、日本語がもっと出来ればいいんだけどね。アリガトウ、ゴメナサイ、あと……カワイイ」

そういって、ロマはハハっと笑った。大人びているけれどそんな笑顔は昔のロマーヌのままだ。

「で、ショーは何しにパリに来たの?」

とロマーヌはテーブルに肘をついて、身を乗り出した。

「えーと、何だろ。小さな仕事」

将は、『アルバイト』にあたるフランス語がわからなかったので、代わりに『小さな仕事』と言ってみる。

「仕事?将は高校に行ってないの?」

ロマーヌが青い瞳を丸く開けた。

その青さはポスターなどで見かける南の海のような色で、白人の中でも際立って美しい青だ。

「行ってる、行ってるよ」

その様子に、篠塚が英語で割って入る。

「何?どうしたの?」

するとロマーヌは英語で、篠塚に、同じ質問をしたらしい。

「写真集の撮影の仕事で来てるんだ。彼は、新人の俳優なんだよ」

ロマーヌも篠塚も英語が母国語ではない人間なので、その会話は将にもなんとか理解できた。

「オゥ!ショーは俳優をしているの?」

篠塚の答えを聞いて、ロマーヌはさらに南の海の瞳を見開いた。

「え、だから『小さな仕事』で」

「えぇ?日本では俳優は小さな仕事なの?何てこと!」