第258話 遺言(1)

「うちで食べると、なんでも旨い」

あゆみに朝粥を口に運んでもらう巌は、心底嬉しそうだった。

それは、おかゆや具を小さく刻んだみそ汁、そしてハルさんの工夫で、畑の朝どれ野菜をカツオだしで煮てすり潰したものなどだったが、巌は1つ1つをいとおしそうに味わった。

将も巌のベッドの近くにダイニングテーブルを運んでもらって一緒に朝食を食べている。

7時というのは、ふだんだったらまだベッドの中でぐずぐずしている時間だ。

なのに、あたりは蝉の声はすでにクライマックスのような大合唱に包まれている。

東京のように、朝からのべったりとした暑さとは対照的に、縁側を開け放していると、笹の香りを含んだ、透き通った風が吹き抜けていくようだ。

目にも、露を浮かべた大輪の青、紫、ボタン色の朝顔、そして笹にまじってひっそりと花をつけたつゆ草がいかにも涼しげだ。

将はかつてそれを集めて色水をつくったことを思い出した。

灰の汁を入れると青い汁がピンク色になるのが面白くて何度も何度もつくったものだ。

「やっぱり、ぜんぶ開け放して風を入れられる日本家屋はよい。湿気の多いわが国に合った建築だ」

巌は『とったばかりの野菜は甘い』と感嘆した後で、こんどは日本家屋を絶賛する。

「そうですわね。マンションなどは壁で仕切られちゃってるから、空気がよどみますものね。

ぜんぶ開け放てる……とまではいかなくても、風がちゃんと通るマンションとか企画するようにお客様に提案してみようかしら」

とあゆみは目をくるりと巌の方に向けて、デザートの桃を差し出す。

「ぜひ、そうするがいい。電気も節約になろうぞ」

小さくきざんだ桃を口に運んでもらいながら、巌は満足げにうなづいた。

 
 

康三・純代・孝太は、朝顔がしおれる頃にやってきた。

出迎えた将の眼帯とテープが貼り付いた顔を見て、一同眉をひそめた。

康三は、将の全身を一瞥すると、口を丸くあけたまま絶句し、間をおいてようやく声を出した。

「お前……」

しかし康三が言葉を探している間に、孝太が

「お兄ちゃん、ケガ、大丈夫?」

と心配そうな声をたてて駆け寄ると見上げる。

将はいったんしゃがむと孝太にだけ

「大丈夫だよ。もう痛くはないんだよ」

と言って聞かせる。

もちろん康三や純代にも聞こえるような声で言っているのは、暗に『大丈夫だから口出しするな』という意味である。

将は孝太の頭をなでながら立ち上がると、康三と純代に向かって、巌のいる部屋のほうへと無言で顎をしゃくった。

 
 

「大おじいさま!」

孝太が巌のベッドに駆け寄る。

「おお、孝太。背がのびたのう」

巌にとっては孝太も可愛いひ孫であるから、ひさしぶりの再会に目を細めた。

孝太の後ろから、康三と純代が入ってきて頭を下げた。

巌のベッドは向きが変えられて、その横の広いスペースに座卓が置かれている。

「そこに座りなさい」

巌は、一家に厳かに指示をした。

ハルさんが間断を置かずに、切子のグラスに冷たい麦茶を淹れてきた。

純代は、

「あ、私が……」

といって立ち上がろうとしたが

「いいんですよ、お気遣いなく」

とハルさんにやんわりとかわされてしまい、きまり悪そうに座布団のうえに座りなおす。

そのまま下がろうとするハルさんに、巌は

「将は」

と訊く。

「お台所を手伝っていただいてますが」

「すぐに呼べ。それから西嶋にあれを持ってくるよう伝えろ」

巌は厳しい口調で命令した。

将が来るまでの間、蝉の声とかすかなエアコンのうなりだけが部屋に響く。

ときおり、巌が、康三に国政についての質問をした。

巌については、暇つぶしのような質問だったが、現官房長官を務める康三にはなかなかの難問だった。

そのつど康三は汗をぬぐいながら、たどたどしく答える。

巌はその答えを聞いて、ふっと歯のない口角をあげる。

その意地悪気な笑顔に傍らのあゆみが団扇で風を送りながら、眉をひそめてときおり巌を睨む。

公然同様である巌の妾のあゆみも、康三家族の前では、一応ひかえめにしているのである。

「ヒージー。なんだよ」

まもなく将が廊下側の障子をあけて現れた。

乱暴な口調に、純代が眉をひそめる。

しかし巌は康三に向けていた意地悪さからはうってかわった笑顔を将に向けた。

「将。そこに座れ」

鴨居をくぐるようにして部屋に入った将は不承不承、康三や純代と同じ卓を囲んで腰を下ろした。

隣の席の孝太だけが嬉しそうに将を見上げた。

永遠に続くかと思われた蝉の声だが、まもなく襖があいて運転手の西嶋が現れた。

こうべを垂れ、鞘に入った日本刀を両手に捧げるように持ち、しずしずと巌のベッドの方へと進んだ。

康三が、ハッとしてその刀の行方を見届ける。

巌はうむ、とうなづくと目の前に差し出された刀を満足そうに見つめた。

あゆみが巌の手を取り、刀の柄や鞘に触れさせる。巌はいとおしそうに、かつ慎重にその感触を確かめる。

「これが何かわかるか……康三はわかるな」

「……ハイ」

康三は神妙にうなづいた。それは将が今までに見たこともない様子だった。

「これは、薩摩藩士だった我が家に伝わる刀じゃ。……伝わるといっても、下っ端の藩士であった我が家じゃ、ご維新の廃刀令からまもなく売り払ったのだが……わしが買い戻したものだ」

将はもちろん、純代も孝太も初めて見る刀だった。

シンプルな柄に鷹枝家の紋だけが入った黒い鞘は、百年以上の歴史を語るように庭からの夏の光りを鈍く反射させた。

「わしは、この刀が代々の鷹枝の跡取に受け継がれるべく、まずは息子の周太郎に託した」

皆は、神妙に巌のしわがれた声に耳を傾けた。心なしか蝉の声も少しやんだようだ。

ちなみに周太郎は巌の長男で、将には祖父にあたる。

「そして周太郎から、周一に渡ったのだが、周一はあのとおり若くして亡くなった」

巌の孫、康三の実兄で将には叔父にあたる周一は、将が生まれる前に事故で亡くなっている。

「いったん周一に渡ったこれは、周太郎のもとに戻された。周太郎は康三に渡さねば、と思っていたらしいが、そのうちに周太郎めも、親より先に死におったわ。親不孝者が」

総理をも務めた将の祖父の周太郎の死は、その親の巌にとっては、親より先に逝ったという悲痛な側面を持っている。

だが、その口調はややユーモラスでさえあった。

「……かくのごとくして、刀はわしの手に戻ってきおった。だが」

巌はそこで言葉を区切った。声がかすれたのをあゆみが気付いて、吸い飲みを差し出す。

それをうまそうに飲んだ巌は、凛として言い放った。

「今日から、この刀は将のものだ」

一同、いっせいに息を飲み……それゆえに空気が張り詰める。

皆、微動だにしない。

驚きのあまり、貼り付いたような瞳をぎこちなく動かして、巌と刀の両方を見比べる将。

目をやや見開きながらも、口を結んで巌をまっすぐに見つめる康三。

眼窩から目が転げ落ちそうなほど目を見開き、はずみで口まで半開きになった純代。

びっくりした顔で将と刀を見比べる孝太。

蝉の合唱だけが、息継ぎを終えたかのように再び激しくなった。

「鷹枝の跡取は、将だ。……康三、よいな」

康三は瞳を将に走らせた。将の視線も康三へと引き寄せられる。目が一瞬あう。

康三は……将の予想に反して、その瞳の奥にはなぜか喜びが映っているように見えた。ほんのわずかであったけれど。

「……はい。わかりました」

康三は神妙に頭を下げた。

「純代さん」

呆けていた純代は、ハッとして姿勢と顔を正した。

「ハイ!」

「まだまだやんちゃな跡取ですが、よろしくお願いします」

巌は、純代を見据えると、動ける最大の角度で純代に頭を垂れようとした。

「は、ハイ。……ゆきとどかないところもありますが」

純代もうろたえながらも、体勢を立て直し、深々と頭を下げる。

「孝太」

「はいっ!」

孝太は背筋を伸ばした。

「お兄ちゃんが好きか」

その口調はいままでのものと違って、ぐっと優しかった。

孝太はなぜか、目をうるませて、大きくうなづいた。

心優しい孝太は病床の巌からいろいろなことを……これが、きっと巌の遺言であることを感じ取っていたのだろう。

「……お前は優しい子だ。将といつまでも仲良く、そして何かの折には、きっと助けてあげるのだよ」

巌は孝太に向かって手を伸ばそうとした。

孝太は、純代に静かにうながされて、立ち上がると巌のベッドのわきに寄った。将とよく似た目の中の瞳はすでに涙で濡れて光っている。

「……お前にも、ちゃんと渡すものがある。あとで西嶋に出してもらいなさい」

巌は穏やかな口調で孝太に言い聞かせた。孝太は深くうなづいた。

最後に巌は、将に顔を向けた。

刀を捧げ持つ西嶋が将に向かって一礼をする。

康三も、将に目で合図をした。

将はごくり、と唾を飲んだ。それを腹まで落としこむと、息を深く吸い込む。

そして意を決して立ち上がる。

鉛のように重く、硬直した関節を引き剥がすように動かしてベッドへと近寄る。

乾いた皺だらけの巌の顔の中で、瞳だけがきらりと光った。

西嶋が刀を将に差し出した。

心臓が鈍い音で全身に血を送っている。

それは耳のそばに埋め込まれたようにどくん、どくんと鳴り響いている。

血とともに先祖から受け継がれた、刀。

躊躇する心とは別に、体を流れる血がそれを懐かしがるかのように、勝手に手が吸い寄せられた。

それは心に重く、物理的には思ったよりずっと軽かった。

そして、意外なほど優しげな感触だった。この中に、人を斬るための武器が入っているとはとうてい思えない。

それを両手で握った将は、今まで息をするのを忘れていたことに気付いて大きく息をついた。

刀を握り締めた将に、巌はいつになく謹厳なる口調で語り始めた。

「将。いいか……これからは鷹枝の跡取として、何をするにも……」

だが、そこまで言ったところで、息が荒くなった。少し根をつめすぎたのだろう。

「無理なさらないで。将さんは、明日までいらっしゃいますから」

あゆみがそっと囁く。巌も

「そうだな。明日のほうがよいだろう……」

と頷いた。

「しんみりさせてもうたが、昼餉にしようじゃないか。わしも腹がすいたわ」

と巌は息を整えると、明るい声を出した。