第271話 夏の別れ(3)

将のスイッチがどうにか入ったのは、武藤からの電話が入ってからだ。

康三からの電話が切れてから、今までの間、どうしていたかさっぱりわからない。

もしかしたら、血流まで止まっていたのかも、と思ってしまうほど、将は微動だにしていなかった。

「ハイ……、起きてます。……わかりました」

何もなかったように答える自分。

本当は、どうあるべきなのか、わからない。

ヒージーが亡くなった……という事実の受け止め方がわからない。

悲しい?悲しいにきまってる。だけど、なぜ涙がでないのだろう。

だが、それを考えている暇はない。

将は現実を重視すべく、感情をひとまず置いといて、行動に移す。

巌のひ孫の鷹枝将ではなく、俳優のSYOを演じなくてはならない。

将は現実感のない現実への禊をすべく、シャワーを浴びた。

 
 

将は、車の中で、武藤にそれを告げた。

「……そう。あなたのひいおじいさま、といったら大臣か何かよね」

「うん。文部大臣、外務大臣とかいろいろやってたと思う」

将は、武藤がつくってくれた朝食のサンドイッチを食べながら淡々と答えた。

武藤のサンドイッチはあいかわらず美味しい、と感じている。

だから、大丈夫だろう、と将は思った。悲しみに飲まれないで、ちゃんと仕事ができる。

「じゃあ、葬儀はすぐにはないわよね。1週間後ぐらいかしら」

武藤は、いつごろ葬儀があるかを予想するために、それを質問したというのがようやくわかる。

「オヤジが連絡するっていってたよ」

「……そのようすだと、仕事のほうは大丈夫そうね」

武藤はバックミラーから将をいたわる瞳を見せた。

彼女には、前に、将が8歳のとき1年間大磯の巌の家に預けられていたことを話してある。

だから、おとついの夜中、ミニで大磯に行くという将を止めなかったのだ。

「たりまえじゃん」

将は笑顔をつくった。

「お葬式には出られるように、スケジュールを調整するから……。つらいと思うけど、頑張ってね」

「うん。ありがとう」

そういう武藤の方がよほど辛い顔をしている、と将は思った。

将は実際のところ、まだ悲しみが実感できていないのだ。

大磯に行けば、まだ『こりゃ』と目を剥く巌の姿がみられそうな気さえしている。

 
 

「SHOくん、今日気合入ってない?」

エアコンのきいたロケバスの中。昼のロケ弁を食べながら大野が言った。

「そっかな」

そう答えつつ、いつもより演技に集中していると、将も自覚している。

目の前の現実にどっぷり浸からないと、ぼうっとしてしまうからだ。

瞼の黒い痣は、新陳代謝が激しいせいか、ここ1週間でかなり薄くなった。

今日は普通のドーランで違和感がないほどまで快復している。

「そういや、SHOは、元倉亮のドラマに出るんだって?」

四之宮が言った。

将と仲良くなったせいか、四之宮は他の共演者にも溶け込むようになっていた。

話してみると、そんなにお高いやつでもないし、先輩風も吹かせないということがわかって、不良生徒役5人の息は最近ぴったり合っているのだった。

「いや、まだ決まったわけじゃないっすよ。オーディションあるし」

「やー、オーディションっていっても、形だけでしょ」

四之宮によると、いちおう局や制作会社の意向でオーディションはやるものの、元倉氏の直指名ならほぼ決まりだということだった。

「へー、すごいな。焼津さんもあのひとのドラマからブレイクしたらしいし……」

大野が羨ましそうに言った。

「でもさ、すっごく拘束されるらしいよ。スペシャルに1年かけて撮影するくらいだから。

『北の大地から』に出ていた××さんによると、雪の上に足跡つけるだけのためにわざわざ北海道に呼ばれたらしいから」

「それマジ?」

「マジマジ」

そんな風に同じ年頃の共演者たちと話していると、今朝の知らせは夢だったのかとさえ錯覚しそうになる。

「じゃ、リハーサルいきまーす!」

ADに呼ばれて将たちはロケバスから川原に出た。

川原に出たとたん、焼けつくような陽射しが照りつけた。将はふと空を見上げた。

大磯より淡い空の色の下、流れ行く川も、川の向こうに霞むビル群も、いつもと変わりないのに、巌はこの世にいない。

自分を愛してくれたものが……一人この世から消えたのに、目に見える世界はまるでいつもと同じなのだった。

 
 

今日も、仕事は夜遅くまでかかった。

武藤に送ってもらって、M区の寮についたとき、将は一気に力が抜けてベッドに倒れこんだ。

今日、1日いかに張り詰めていたかがわかった。

シャワーを浴びるのも大儀に感じるほどの疲れは、朝の出来事を遠い昔のことのようにしてしまっている。

将は、ベッドに寝転がったまま、無意識に携帯をチェックした。

10時頃、聡からのメールが着ていた。

将は思わず起き上がった。

>>>

テレビで巌おじいさまが亡くなったことを知りました。

何て言ったらいいのかわからないけれど、ご冥福を祈ります。

   聡

>>>

将は、儀礼的なそれだけでは飽きたらず、聡に電話をかけた。

12時すぎていたけれど、聡はすぐに出た。

「将?」

大磯以来、『鷹枝くん』が将に戻ってしまっている。それが将には嬉しい。

「うん……。あのさ、ヒージーのこと、テレビでやってたの?」

まるでたった今メールの内容を話していたように、将は続けた。

聡は、違和感なく、それに答える。まるで、ずっと二人で会話をしていたかのように。

「やってたよ。報道ステーションで見た」

「そっか……」

政界の長老で、相談役。20世紀の生き証人。巌はそんな風に紹介されたらしい。

昔の映像も放送されたという。

「若い頃の顔が、将にそっくりだったよ」

「昔の人にしては、イケメンだろ」

将は、おどけた。

「そうね」

聡は低く笑いながら相槌を打った。

こうして聡と電波が繋がっていると思うだけで、心が温かくなってくる。

「ところで将、今どこ?大磯?」

「ううん。M区の寮」

「そっか、仕事、か。そうだよね……」

芸能界にいたら、肉親が死んだとしてもすぐに駆けつけられないのだ。それは聡も知っている。

「うん。アキラは萩?」

こないだ東海道線の中で、お盆前で補習が終わったら、萩に帰るかもと話していたからだ。

「ううん。帰ってない……。疲れちゃうかなと思って」

夏バテで貧血気味だったから、自重したのだという。

「じゃ、ずっとこっちにいるんだ」

将は、ほっとした。じかに逢えないにしても、聡と距離が離れてしまうのは寂しい。

「うん。いるよ。実家はお正月に帰ったしね」

「……逢いたいな」

将の口から、まるで吐息のように、ごく自然に思ったままが出た。

今、聡に逢いたい。顔が見たい。ぬくもりに触れたい。

小さな願いは芽生えた途端に、激しく将の全身を走りぬけて、心に小さな渦巻きを残した。

「……将、大丈夫?」

聡は、その一言から、将の気持ちの深いところに発生した渦巻きを察したようだ。

「なにが?」

それに自分自身でも気づいていない将は問い返した。

「大おじいさまのこと……」

聡は遠慮がちにそれを口にした。

まだ今朝逝ったばかり。悲しみはまだ心に痛々しい創傷となって、きっと乾いていないと聡は思ったのだ。

「……うん。大丈夫、だよ」

努めて明るく答えながらも、将の中で、堰き止めていたものがグラリと動いた。

動いた途端、何かがいっせいに流れ始めて……胸を熱いものがこみ上げてくる。

「あたしも、できればお葬式、顔出そうと思うの……迷惑じゃない?」

聡のほうは、将の明るい口調を信じたらしい。次の話題に移っている。

だが将の目からはついに涙があふれ始めてしまった。

それを声音に出さないように、かすれてしまわないように、苦心する。

「迷惑じゃないよ。俺のこと頼まれてただろ……」

自ら口にしたあのときのことが、将の脳裏に、たった今あったことのように鮮やかに蘇る。

蘇った記憶は、涙をとめどないものに変えてしまった。

あとから、あとから流れ出てきては、顎を伝ってぽたぽたと落ちていく。

「聞いてたんだ。……ふふ」

聡は電話のこちらの将の様子にまったく気付いていないらしい。

「アキラ、今泣いてるだろ」

自分の涙まみれを誤魔化すように、聡が泣いていることを言い当てた。

根拠は何もない。

だけど、自分がこれだけ涙があふれている状況、当事者で涙もろい聡が泣いていないわけはない。

将はこみ上げる熱い感情で圧迫されたような脳で、確信していた。

「……わかった?いろいろ思い出しちゃって。つい最近でしょ……」

そのとたん、電話の向こう側で、ぐしゅん、と鼻をすすりあげる音が聞こえた。

将のあてずっぽうは当たった。

聡も泣いているんだ、という回答を飲み込んだら、腹の底から、発作のように嗚咽がこみ上げてきた。

「でもさ……、お父様とお母様が変に思うんじゃないかしら。……将?」

聡の涙声の問いかけに、将はもう答えられない。

将は、聡の声のする携帯を握り締めたまま、ベッドにつっぷして、声もなく全身を震わせて嗚咽していた。

聡はそのまま、携帯を切らなかった。ただ……自らも涙声で将の名前をときおり呼びかけていた。