第279話 夏の終り(4)

骨の上に土を被せた将は、終わった終わった、と息をつくと、大きく天に向かって伸びをした。

巌の骨が埋まったあたりの土は、押さえて固めたけれど、まわりより少し茶色が鮮やかになっている。

でもそれも何度か雨が降れば、なじんでいつしかまわりと見分けがつかなくなるだろう。

「ここの桜、見に来たいね」

聡は額に手をかざすように青々とした桜の葉を見あげる。

将は何もいわずに、天に届かんばかりの長い腕を上に伸ばして目を閉じていた。

聡に返事をよこすのは、夏のなごりのツクツクボウシだけだった。

しばらくして将は腕をパタッと落とすと

「行こうか」

と聡に顔を向けてうながした。その顔にはもう涙はなかった。

それでも二人は、墓地をあとにしながら、何度か桜の木を振り返った。

桜は微動だにせず、行く二人を見送っていた。

 
 

寺をそのまま去ろうとする将に、聡がいきがけに桶に水を汲んだ水道を見つけて、手を洗うことを提案した。

スコップをつかったけれど、手は土で汚れているからだ。

「わー……、すんごい冷たい」

聡が思わず声を出した。水道から出てくる水は、この夏の暑さからは想像できない冷たさだった。

長く触れていると手がかじかんでしまいそうなほどだ。

将はだまって、手を水で濡らしていた。

さっきから言葉数がすくない将を聡はのぞきこむ。

巌と本当に別れてしまったこと……生きた巌にはもう会えないことを、将は噛み締めているようだった。

そんなふうに、あんまり沈みこむのもよくない、と聡は、

「将」

と呼びかける。

「ん?」

とあげた将の顔に、ばしゃっ。

片手に掬った冷たい水道水を将の顔をめがけて放り投げた。

反射的に目をつむる将。水は、顔の中心をややはずれて、将の頬のあたりにかかった。

「油断大敵」

聡は濡れた将の顔を指差して笑った。

「やったなー」

目をあけた将は、いつもの顔に戻っていた。

それを確認した次の瞬間、聡は思い切り冷たい水のかたまりが顔で破裂するのを感じた。将の逆襲だ。

「キャー、なにすんのよ」

「そっちが先にやったんだろー」

「なによー」

二人で蛇口を奪い合うようにして、冷水を掛け合う。

蝉がたじろぐほどの笑い声が、二人の白い歯からこぼれる。

夏の日にきらめいてはじける水玉。二人からそれた水を受けて鮮やかになる紫陽花の葉。

しまいに将は、蛇口を指で押さえつけて、噴き出した水鉄砲状の水を聡めがけて狙い打ちする。

水はビームのように、笑いながら逃げ惑う聡を追った。

方向をコントロールする蛇口からは漏れた水が細くはねて、攻撃する将本人も濡れていた。

……ついに聡がすっかり濡れたTシャツをつまみながら頬をふくらませてみせた。

「もう、びしょびしょー」

ハアハアと息を荒くしている将のTシャツも上半身にぺったりと張り付いている。

「……俺も」

二人はこんなに晴れているのにびしょ濡れのお互いの姿を見て、もうひとしきり笑いあった。

前にもこんなふうにびしょ濡れで笑ったことがあった。

それを二人とも思い出している証拠に、笑いながらもいつしか懐かしい目でお互いを見詰め合っていた。

 
 

「さー、どこいこうか。千里浜とか走るのもいいなあ。波打ち際をドライブできるらしいし」

寺をあとにして将は楽しげに提案する。

ミニはまた少しエンジンのかかりが悪く、将は5回もキーをまわした。

だが、金沢へ向かっての下り坂でもあり、いったんエンジンがかかったミニは順調に走っている。

それにあわせて音楽もハイテンションなCDをかけている。

「でも将、明日手術なんでしょ。無理しないで帰ったほうがいいんじゃないの?」

聡は将をたしなめた。

ここにたどりつくのに休憩抜きだと7時間近く掛かっている。

「だーいじょうぶ、だいじょうぶ!夜中までに帰り着けば、たっぷり睡眠とれるし。

せっかく来たんだから4時ぐらいまで遊んで帰ろうぜ」

今、11時をすぎたところだから5時間はある。

「せっかくアキラと二人のオフなんだしー。……忍者寺ってのにも行きたいなあ」

この時点ですでに聡は、将が少し明るすぎることに気付いていた。

無理して、自分を浮き立たせようとしている……そんな様子がありありとわかった。

「よしっ!とりあえず金沢市内だ!」

CDにあわせて鼻歌を歌う将の横顔を、聡は少しだけ痛ましいもののように見つめた。

 
 

二人は将の提案で、忍者寺こと妙立寺を目指して金沢市内に入った。

だが、妙立寺は予約が必要とのことだったので、午後に予約を入れて近くの茶屋で軽く昼食をとる。

食後は犀川や西の廓を少し散策してみようということになったが、いかんせん正午すぎでもあり、暑い。

朝晩は確実に秋の気配が漂っているものの、夏の陽射しはまだまだ逞しくふりそそいでくるのだ。

「アキラ、暑いだろ」

将はそう広くない道の端に植えられた柳のそばにいる聡を振り返った。

二人は妙立寺の近くにある『西の廓』に来ていた。

金沢の代表的な観光地である『東の廓』に比べるとこぢんまりしているが、古い御茶屋の軒並みが何軒か続いている。

それを背にした将は、古い格子戸が並ぶ中ではいっそう長身が目立った。

「うん。でも大丈夫よ。……そろそろ行ってみる?」

聡は答えながら流れてくる汗をハンカチで拭った。

水道で濡れたTシャツはとうに乾いていたが、ポニーテールにしたうなじやこめかみのあたりに玉のように汗が浮かんでいる。

将からは見えないが、うなじからの汗は、鎖骨を伝って胸の谷間へとさっきから何筋も流れている。

予約の15分前になったので、二人は寺へ行ってみた。

そこには、すでに何人もの客が時間を待っていた。

忍者寺といわれる妙立寺は、寺自体は寛永20(1647)年に造られた由緒あるものだが、

23の小部屋と29の階段をめぐるごとに、どんでん返し、迷路、のぞき部屋という仕掛けに出会えることが受けて、若い観光客も多い人気スポットだ。

30分ほどかけてガイドに案内されつつ、その『忍者寺』たるゆえんの仕掛けを体験するようになっている。

ガイドによるとこれらは、すべて昔のままのもので、客寄せのためにつくったわけではないらしい。

身をかがめるようにして部屋を移動する将も、そのつど仕掛けに驚いて

「おおーっ」

と体をのけぞらせては、額や後ろ頭をゴチッと打ち付けたりしていた。

「すげえな。どうなってんだろ。CTスキャンあたりで見てみたいな」

思いがけないところに現れた階段を見ては将が感嘆の声をあげる。

そんな将はすっかり自分が有名人であることを忘れてしまっていた。

いくら伊達眼鏡をかけていても、声と目立つ長身で、一緒にガイドを受けている客の何人かは気付いたらしい。

若い女性の3人グループがヒソヒソと話し合ったあげく、一人が思い切って話し掛けてきた。

「あの……SHOさんですか」

将と聡は固まった。

しかし、違う、とはもはや言えない。

将は観念して

「そうです。……他の人にはナイショにしてね」

とその女性に小さな声で囁いた。

囁かれた一人は両手を口にあてて顔を真っ赤にすると、仲間のところに小走りで戻っていった。

3人で声をひそめつつ、キャーキャーと騒いでいるようだった。

それで不審に思った他の観光客も将をちらちらと見はじめる。

なにせ、将は連続ドラマこそまだ1本だが、いまやCM3本に出演し、顔が売れている。

おかげでガイドは声をはりあげるはめになってしまった。

 
 

妙立寺をあとにし、二人は千里浜に向かっていた。

「アキラ、おっかしーの。なんだよ、さっきの『私は遠い親戚のイトコです』っての」

将はハンドルを切りながら可笑しそうに笑った。金沢市街をあとにすべく、高速を目指す。

「イトコって遠い親戚じゃないじゃん」

「だってー。あせったんだもん」

聡は助手席でプッと脹れてみせた。

冷房の効いた車に戻ることができて、二人ともほっとしている。

見学が終わったあと、将は同じグループにいたファンだという観光客に握手と携帯撮影をせがまれてしまったのだ。

幸い通りにいるほかの観光客は無視してくれたので、将は数人と握手し、携帯で写真をとられるだけで済んだ。

そのとき、一緒にいる聡に、ファンの一人が

『そちらは……?』

と大胆にも訊いてきたので、あせった聡は

『あ……、わ、私は、こっちに住んでいる、遠い親戚の……イトコなんです』

と答えてしまったのだ。

ファンは、なんとか素直にそれを信じてくれたらしい。

あとを追けてくることもなく、そのまま立ち去ってくれた。