第284話 夢一夜(1)

二人は、森へ降り注ぐ雨音だけが響く闇の中で、しばらく抱き合っていた。

将の胸に頬を押し当てて目を閉じていた聡のほうから

「そろそろいこうか」

と顔をあげた。

「うん」

将がポケットに入れた懐中電灯を点けようとしたそのとき、

将の胸から顔を離した聡は、木々の葉陰にぼうっとした光りが見えるような気がした。

「将、あれ……」

といっても指差している指も懐中電灯で照らさなくては見えないような闇だ。

将は聡の手を懐中電灯で照らすと、その方向に目をこらした。

ごくわずかの光りは、懐中電灯の光が邪魔で見えない。

しばらく暗闇で抱き合っていた二人の目には、懐中電灯の暗い光ですら、とても明るく映ったのだ。

将は懐中電灯をもう一度消した……たしかに、幻と見まがうような暗い光が生い茂る原生林の向こうに見える。

「本当だ、やった!」

将と聡は暗闇の中、顔を見合わせた。

「行こう!アキラ」

「うん」

二人は懐中電灯を点けると小走りに道を下り始めた。

民家だったら、事情を話して電話を借りることができる。

最悪外灯だとしても。こんなところで外灯をつけるということは、何かがあるはずだ。

しかし……道を下るにつれて、灯りは再び見えなくなってしまった。

灯りがあるのと逆方向に進んでいるようにさえ感じた。

だが、二人は『道が大きくカーブしているだけだ』と信じて、手を取り合って懸命に歩いた。

曲がりくねった道を30分ほど歩いただろうか。

だんだんまっすぐな道が増えてきて、雨音に混じってどこからともなく沢の音が聞こえ始めた。

「やっぱり見えるよ!」

聡が歓声をあげた。将は目をこらした。

「ほら!あそこ」

今二人がくだっているカーブの下を指差した。

こんどはかなりはっきりと……懐中電灯に負けない明るさで灯りが見える。

しかも1つではない。水銀灯と、その下に民家らしき影も見える。

「よし!もうひと頑張りだ!」

「うん」

二人は手をつなぐと、待ちきれなくて走り始めた。

あんまり走ったので、民家に着く直前に息が切れてしまった。

「ちょっと、……待って」

聡は息を整えるべく橋の欄干に手をついた。水銀灯はその袂に立っていた。

水銀灯の白い灯に照らされて小さな石橋が、沢……というより小さな川に掛かっていた。民家は少し先に見えている。

気がつくと雨が少し小止みになっている。

久しぶりに二人は、お互いの姿を目にすることができた。

「びっしょりねー」

でも走ったおかげで、寒さは忘れている。

「俺、パンツまでびっしょり」

「あたしも」

二人荒い息ながら笑いあう。

「携帯は……まだ圏外みたいね」

「いいよ。あそこの家で電話を借りよう」

二人は、あと10mばかりに迫った家へと、手を取り合った。

 
 

その民家は小雨と水銀灯の暗い光の中でかなりオンボロに見えた。

あまり手入れされていない前庭に、いちおう門灯があるにはあるが、消えたままだ。

だがくすんだ緑色のカーテンから蛍光灯らしき暗い灯が漏れているのが見えるし、

前庭の横の空き地には、軽自動車と軽トラック、こぎれいな国産車が駐まっていた。

「民……宿?って書いてあるよ」

消えた門灯の裏に、泥だらけの看板が置いてあるのを聡は見つけた。

確かに『民宿・清流荘』と書いてある。

「最悪、車が今日中に直らなかったら、泊めてもらえるかな」

そういいながら将は、ガラスの引き戸のわきにあるブザーを押した。

しかし、鳴っている気配がまるでないし、誰も出てこない。

何度か押してみたが誰も出てこない。

二人は顔を見合わせた。そのうち、再び雨がひどくなってきた。

軒にいるから、もう濡れないけれど、川からの風が濡れた体をしばりあげるように急速に冷やし始めた。

さっきまでばら色だった聡の唇がもう紫色になって震えているのを見て、将は引き戸を叩いた。

「すいませーん!夜分すいませーん」

古い地紋ガラスがはまった引き戸は、叩かれて派手に音を立てた。

それでようやく奥から人が出てくる気配がした。

「どなたですか」

それでも年老いた女らしき声は、用心のためか引き戸をあけずに応対しようとする。

その用心を解くべく、聡が将を制して引き戸に向かって話した。

「あの……。この先で車が故障してしまったんですが、携帯が通じなくて困っています。よろしかったら電話を貸していただけないでしょうか」

それで怪しい者ではない、と認識されたのか、ガラリと、戸が開いた。

ハルさんより少し年上くらいだろうか。

寝巻きにカーデガンを羽織った白髪の女が将と聡を見上げた。

「……あらまー、びしょぬれ。ちょっと待って。すぐタオル持ってくるから」

どうやらたやすく警戒を解いてくれたらしい。

白髪の女は小走りに奥にひっこむと、使い古しらしい乾いたタオルを持ってきた。

「すいませんねえ……。年寄りなんで耳が遠くてねえ」

と言い訳をしつつも

「あ、入って、入って。川の風が寒いでしょう」

と暗い蛍光灯に照らされた玄関先に入れてくれた。

立っている玄関の三和土に、足を伝った水滴が落ちて水溜りが出来るほど、二人はずぶぬれだったので二人は有難くタオルを借りることにした。

タオルにも『清流荘』というプリントが消えかかりつつも残っていた。

昔風に少し広い玄関から、2階へあがる階段が目の前にあった。

階段にも、その横の廊下にも、くすんで毛足がほとんどなくなったような赤のカーペットが張り付いていて、壁にはよれた木目調の壁紙。

廊下の奥の、NHKらしきテレビの音が大きく漏れているところが居間のようだ。

そこから丸い禿げ頭がにゅっと顔を出した。

禿げ頭はどうやら先に出てきた老婦人の夫のようだった。

彼は赤いカーペットをどすどすと踏んで、

「どれくらい歩いたの?ずぶ濡れだねえ」

といいながらこちらにやってきた。

小太りなところなどは妻そっくりである。

すでに晩酌済みなのか、玄関の暗い蛍光灯の下でも、禿げた頭に頬、鼻の頭がほんのりピンク色なのが見える。

「ああ……あれだ、洗濯機や乾燥機も使っていいよ」

と気前よく申し出てくれた。しかし、それよりも前に、電話をしなくてはならない。

「あの、すいませんが……電話を貸していただいてよろしいでしょうか」

聡はもう一度お願いした。

「ああ、ああ、いいよ」

といいながらと男は引っ込むと、玄関まで電話の子機を持ってきてくれた。

家の古さに似合わなすぎる、新しい子機を将は受け取ると、携帯に登録しておいたJAFの番号を取り出して掛ける。

その間、聡が、そこに座った夫妻にここに来るまでのいきさつなどを説明する。

しかし、やり取りをする将の顔が、どんどん傾いてくるのを、説明する聡は目の端でとらえた。

しまいには三和土に溜まった水溜りを見ているかのようになってしまった。

「……ハァ。明日しかダメですか……。ハイ。……ハイ。9時。わかりました」

通話を終了すべくボタンを押した将は、深いため息をついた。

「明日しか来ないって?」

最後のほうが聞こえた聡は先回りした。

将は声を出さずに頷いた。

「ここは田舎だからねえ……。もう9時だし」

妻のほうが気の毒そうに言った。いつのまにかお盆にお茶が用意されている。

「じゃ、どっか泊まるところ探さないと……」

と聡がつぶやいたとき、後ろの廊下の奥から、浴衣姿の男性がこちらへ歩いてきた。

首にタオルをひっかけた中年男性は、人のよさそうな顔を湯上りらしくテカテカと火照らせて上機嫌で

「いい湯だったよ」

と夫妻に声をかけた。

そしてそのまま、スリッパを履いた足で階段を上っていってしまった。

「……あの、ここ民宿なんですか?」

将は夫妻に訊いた。暗に『ここに泊まれるのか』という意味の質問に、夫妻は顔を見合わせた。

「残念だけど、今はもう辞めたのよ……」

と妻・つまり民宿の奥さんのほうが、気の毒そうに将を見上げた。

「そうですか……」

思わず返事と共に思わずため息が漏れてしまう。

が、考えてみればもともと、ここでは電話を借りるだけのつもりだった……と将は気を取り直して

「ここから一番近い宿って、どのくらいかかりますかねー」

再び訊いてみる。

「そうだねえ……。民宿が受け入れてくれればいいけど、夜だから……。

新平湯とかにいけば大きな宿があるかもしれないけど、車で20~30分はかかるかねえ……」

奥さんはそう答えながら、古びた電話帳を持ってきた。

将は再び失望のため息をついた。それを聞いて、主人が

「泊めてやればいいじゃないか」

と奥さんに囁いた。だが奥さんは

「でも、お父さん。部屋ずっと使ってないし、物置になってますよ……」

と眉根を寄せる。

「あ……おかまいなく。タクシーで行けますから」

と聡が言おうとしたとき、

「困ってるんだったら、僕の部屋の隣、使っていいですよー」

と階段の上から声がした。さっきの中年男性だ。玄関にいた一同は、階段を見上げた。

男性がスリッパをパタンパタンと響かせて降りてきた。

「ご主人、泊めてあげたら」

ともう一度言った。人のよさそうな男性だ。

「でも、高橋さん……」

奥さんが浴衣の男性に何か言おうとしたが、高橋という男性は先回りした。

「僕だって泊まってんだからさ。いいじゃない」

口の利き方からどうやら、この人のよさそうな男性は、ここの常連客らしい。

「僕だったらかまわないよ。そんなびしょぬれで、雨の中放り出すなんて可哀想でしょ……ただ、部屋は襖で区切ってあるだけだけどね」

将は聡と顔を見合わせた。蛍光灯の下でうなづく聡の顔はいっそう青白く見えた。

もはや選択肢はない。