第287話 夢一夜(4)

「将……、あたしを抱いて」

聡の顔は将のすぐそばにあるらしい。囁きと共に熱い吐息が将の鼻を撫でた。

将の体は思わず、ぶるっ、と震えた。戦慄というやつに違いない。

「ア、アキラ」

声のコントロールができなくて、将の声は暗い部屋に響いた。

し、と聡が小さくそれを制する。

「なんで……?」

自分でもなんでそんな野暮な問いが出てしまうのか、わけがわからない。将は混乱していた。

「……わかんない」

聡は自分でもわからない熱情に突き動かされていた。

将と素肌を交わすことができるのは、このときが一生で最後になる。

……そんなふうに何かを予感していたのかもしれないと後年、聡はこのときを思い出すことになる。

しかし、漠然とした予感はあっても、そんな未来のことを知るよしもない聡は、ただ自分の肌に沸き立つような将への思慕に身も心も委ねていた。

今日が、将と、身も心も結ばれるときなのだ……と聡は将の産毛が唇に触れるほど近くまで顔を近づけた。

聡のたぎる血の温度が将の頬に伝わる。

「い……いいの?」

将は自分にのしかかる聡の影に訊いた。とまどうあまり、こんなことを訊く自分は格好悪いと思う。

自分が聡を抱くときは、きっとリードしようと何度も思い描いていたのに。

幾夜、聡を思って一人眠っただろうか。何度、その肌に思い焦がれて、虚しく処理しただろうか。

ずっと憧れた聡の体が、今差し出されたのに。

将は、思っていたようなことを何1つできずにいた。

と、布がずれる音がして将の顔がふわりと柔らかいものに包まれた。……聡の掌が将の頬に添えられたのだ。

1秒後には、将の唇に甘い感触が降りてきた。まるでひさしぶりに味わうかのような聡の唇に、将の息が止まる。

聡は……将の問いに頷くかわりに唇を押し付けてきたのだ。

聡の舌が、将の唇を越えて、軟体動物のように入り込んできた。

将は思わず、止めていた息を吐き出すと、ようやく聡の舌を自分の舌で受け止めた。

なま温かい舌と舌は絡み付いて、せせらぎに湿った音を混じらせた。

その交わりだけで脳が痺れたように麻痺していく……将はいかに自分が聡に飢えていたかを思い知った。

将は自分にのしかかる聡の背中に再び手をまわそうとして、思いがけない熱さにハッとする。

将の手は聡のなめらかな素肌にいきなり触れたのだ。

聡は……すでに浴衣を脱ぎ捨てていた。下着は乾燥機に入ったままだから、すでに生まれ落ちたままの姿に違いなかった。

背中の素肌で将の手を感じたのか、口づけを交わす聡の唇からかすかに吐息が漏れた。

それを聴きとった将は……いきなり体を起こして聡を抱き締める。

そして今度は聡をやや乱暴に敷布団に押し付けると、自分も帯を解いて浴衣を脱ぎ捨てた。

暗緑色のカーテンに、将の肩のあたりのシルエットが浮かび、聡はもう後戻りはできない、と目を閉じた。

 
 

どれくらい時が経っただろうか。うとうとしていた将の瞳は、暗緑色のカーテンの色調がわずかに明るくなったのをとらえた。

傍らで寄り添い眠る聡が、暗いながらもいつのまにか見えるようになっている。

カーテン上部のたるんだ隙間から見える空は、すでに瑠璃色というには明るすぎる。

将は頭に肘をつくと、傍らで生まれたままの姿で眠っている聡を見つめた。

わずかに唇を緩めて、安心しきった顔で将のほうに体を向けて横たわっている。

ついさっき……昨夜というべきだろうか。夢のようなひととき、触れあい。

2度目のとき、聡は感極まって……将がたどりつくのを待てずに意識をなくしてしまった。

失神したというよりは、いつのまにか返事が聞こえなくなっていたというほうが正しい。

意識をなくした聡は、そのまま眠りに移行したらしい。

そのとき、愛し合う二人の背後で、せせらぎに負けないほどの勢いで聞こえた鼾が今は止んでいる。

たぶん高橋も熟睡しているのだろう。

――もしかしたら、わざと鼾をかいてたのかな。

将は、ふと思った。それほど……今は静かな隣なのだ。

 

部屋は、だんだん明るくなってきた。

緑色にカーテンの色を透かす部屋の中で、聡の姿もはっきりとしてきた。

さっきまで白いシーツとの対比で影のように見えた体も、その肌の蝋のような白さを一面の緑の中に浮かび上がらせ、将は思わずそれに見とれた。

昨日、さんざんその柔らかさを確かめた胸。

下半身は夏がけに隠されているが、夏がけに入る直前にあるウエストの括れときたら。

こうやって無意識に眠っているというのに、何かで削り取ったような極端な細さだ。

二人が横たわる敷布団の上といわず、まわりと言わず、将と聡が汚したくしゃくしゃのティッシュペーパーが散乱している。

その中に裸で眠る聡は、白バラを散らした中に眠るおとぎ話の美女のようにも見える……。

だが将は、おとぎ話を想像するよりは、夏がけをはずして、聡のすべてを、明るくなりゆく中で見たくなった。

考えてみたら昨日はほとんどが手探りだった。

手探りゆえに鋭く感じたというのもあるかもしれないが、聡の体は視覚的にも魅力的だったし、刺激的だった。

行動に入る前に、将は聡の顔を盗み見た。

……いつのまにか、聡は眠ったまま眉根を寄せていた。

何か悪い夢を見ているのだろうか。目を閉じながらもつらそうな表情だ。

将は心配になってその顔をのぞきこんだ。

と、ついに長い睫の下からにじみ出るように、涙が湧き出してきた。