第301話 秋空

北海道は、黄金色と真紅の秋が訪れていた。

群青色にさえ見えるほど澄んだ秋空の元、大雪山系の山々は白い冠雪に覆われ、白樺の幹を背景に楓の葉はいよいよ燃えるようだ。

やがて訪れる白一色の季節に抗うように、それは色鮮やかだった。

北海道の紅葉は、本州のモミジと違って子供の掌ほどある楓が中心で、背景とのコントラストも併せてどこか洋風だ。

だが、将はそんな北海道の季節感を感じる間もなく台本とくびっぴきだった。

……もう、同じ場面で5回NGを出してしまっている。

元倉亮作品の撮りは、通常のテレビドラマのように

『セリフを噛まずに口に出せればOK。あとは編集任せ』というような生易しいものではなかった。

役者の演技はもちろん、背景を舞う落ち葉までチェックをされる。

今回の5回のNGのうち3回は太陽が雲に隠れてしまった、という気象条件からだ。

今日は風が強く、千切れ雲がどんどん空を滑っていくようだ。そんな雲が気まぐれに太陽を隠してしまったのだ。

しかし残りの2回は将の演技が監督の満足いくものではなかったからで、

「カット!」

といわれて将は唇を噛んだ。

今日は、元倉も見に来ている。それでことさら厳しいのかもしれない。

ちなみにこのシーンが終われば、将はホテルでゆっくりすることになっている。

だから、一刻も早く終わらせて、勉強に取り掛かりたい……そんな焦りは、見事に裏目に出てしまっている。

 
 

結局、脚本家・元倉亮本人の説得で1月期からの連続ドラマ『あした雪の丘で』の出演だけは継続することになった将だが、あの説得の直後、元倉は3話以降の台本を大きく変更した。

それをみた将は仰天した。

将のセリフと登場場面が激増していたからだ。

かつ、ドラマにしては珍しく、カメラを複数使っての長回しが多くなっているらしい。

――イジメかよ。

将は一瞬、ニコニコしている元倉を睨んだ。

「ストーリーを大幅に変えたんだ。民宿の娘はゲスト出演だけの予定だったんだが、急遽レギュラー化して、君とからむことにした」

その民宿の娘役と将の演じる役がたびたびケンカをするために、出番が増えたのだ。

新人の将にとってはケンカのシーンがこれまた難しい。

相手との呼吸をあわせてて畳み込むようなセリフまわしが必要だからだ。

『あした雪の丘で』の撮影現場の、のんびりとしたムードに似合わない厳しさは2話までで身にしみていた将だが、ここまでセリフが長いと覚えるのが大変だ。

将はいままで、台本はざっくりと読んであらすじだけを覚えることにしていた。

あとは本番の雰囲気で自然にセリフが出てきていたのだ。それが出来るのは、ある意味才能があるといえるのかもしれないが、ここまで1場面とセリフが長いとさすがの将も、自信がない。

北海道ロケの待ち時間やホテルでの時間を受験勉強に充てようと思っていた将は、思い切りあてがはずれることになった。

睡眠も、初日に

「なんだ、そのクマは!」

と監督に怒鳴られたので、きっちり6時間は寝なくてはならない。

せめて、『睡眠学習効果』を期待しようと、英語の構文を音声になおしたものをイヤホンで聞きながらベッドに入ったが、

疲れからかすぐに寝入ってしまい、何も覚えておらず、将はがっかりしたのだった。

結局将が受験勉強にとりかかれるのは、夜の撮影がない日の2~3時間だけだった。

 
 

それでも寝る前に1回の聡へのメールは欠かさなかった。

今日の勉強の進行具合や仕事のことを書き、聡の体の調子について訊く。

どうしても文面が長くなってしまうので、持参したノートパソコンから打ちこむこともあった。

本当は電話で声が聞きたかったが、話が尽きなくなるのは目に見えていた。

聡との将来のために、時間が何より大事な将は、今の聡との触れ合いをも削る必要があったのだ。

聡からの返信は、すぐに返ってはくるものの、あいかわらず短めで、省略した文章の中に思わしくない体調が隠れているようだった。

先日のように『食べるたびに吐いてしまう』とは書かれないが、

『今日は何を食べた?』という将の質問に対する返信は

『ちょこちょこ食べてるから心配しないで』。

心配な将だったが、翌日の撮影のためにこれ以上の突っ込みは控えなくてはならなかった。

携帯を閉じる前に現れる、待ち受けの聡の桃のような頬っぺたを撮影したころ、今の聡の青白さは想像もできないかったのに……。

将は聡とその子供の健康を祈るばかりだった。

 
 

6回目。なんとか噛まずにラストまで話せた将だが、NGだった。

「もう一度、いってみよう」

監督の声に、将は人目もはばからずため息をついた。

どこが悪いのか、まるきりわからない。今なんかとてもよくできた気がしているのに。

将は元倉と話している監督のところへと大股で近寄ると

「どこがいけなかったんですか」

と叫ぶように訊いた。もはや口調を気にすることもできない。

監督はあくまでも穏やかだった。

「将くんさ。今、将くんなんだよね。峻じゃない」

役の峻になりきっているつもりだったので、ムッとする。

どうせ、俺は演技力ねーし、と心で毒づく。

「将、昨日の晩飯なんだったか覚えてる?」

そばにいた元倉が唐突に訊いた。

将は答えられなかった。

夕べは、この近くにある元倉主宰の演劇塾のログハウスで親睦会を兼ねての夕食だった。

早く腹を満たして、勉強をしたい一心の将はロクに味わっていなかったのだ。

「昨日はさ。鮭のチャンチャン焼きだったんだけど」

そういわれて、やっと思い出した。

ログハウスの庭で、焚き火を燃やしていた。

その上に鉄板をしつらえて、鮭の半身と味噌、野菜を載せて焼く。

焦げちゃう、といって将とあまり年が違わない塾生たちが楽しそうに騒いでいたっけ。

「峻も、今日のシーンの前日は、同じメニューを食べたという設定なんだ」

将にはわけがわからない。

セリフにもト書きにも、そんなことは書いていないし、それを食べたことに関連した演技が出てくるわけでもない。

キツネにつままれたように、まばたきを繰り返す将の前で、元倉は煙草を取り出した。

「峻はさ。大事なバイクを盗まれて、それでも東京に帰らずに、とりあえずここで暮らしてみることを選んだわけでしょ。

そんな彼が、初めて秋を迎えてさ。民宿や畑の手伝いでブーブー文句をいいながらも、彼は暮らしを楽しんでいる。

よそ者の彼は日々の暮らしで、初めて迎える秋の北海道を堪能しているんだ」

元倉は、台本に出ていない部分を説明しながら、煙草を吸い込んだ。

先日会議室で吸っていたのとは、まるで味が違うことが、他人から見てもわかる。

将は思わずあたりを見回した。

落ちる前の木々の葉が午後の光をうけて金色にキラキラと輝いている。

風はその温度だけでなく、スペアミントのようなスーッとした感触を残す。フィトンチッドだろうか。

元倉はさも旨そうに目を細めて煙を吐くと、将を見上げた。

「その能天気な嬉しさが、君には出ていない。空気感がまるで感じられない。君は……東京から受験を持ち込んで喘いでいる、将のままなんだ」

そういうと、元倉はいきなり将の手から台本を取り上げると命令した。

「あの木のところまで歩いて来い」

元倉が指差した先には……一本のポプラの木があった。

大地がうねっているような丘のつらなり。

遥かに続くその中に小さく見えるその木まで、片道だけで10分は軽くかかりそうに小さく見えた。

「ここの空気を楽しめ。リフレッシュしてこい。仕事も受験も切り替えが大事だ。君の叔父さんはそれが巧かった」

将はハッとして元倉の目を見た。将が生まれる前に亡くなった叔父の周一とこの元倉は都立高校で同級生だったと康三に聞いている。

「俺と同じように遊んでいながら、東大に軽々と現役合格したんだ。切り替え上手ってのはヤツのことだ……それを見習え」

元倉は笑うと、監督に休憩時間をとるように申し出た。

 
 

畑の中の道を将はとぼとぼと歩いた。

おそらくトラクターしか通らないのであろう、未舗装の道はジャリというのには大きすぎる大小の石がゴロついていて、気をつけないと足をとられる。

足元ばかりを見ている将は、巨大な青い半球のような空に気付かない。

ふと、振り返る。

目指す木と撮影現場だとまだ撮影現場のほうが近いくらいだ。

うんざりした将は、誰もこっちを見ていないのを確認すると、牧草地に入り込んだ。

巨大な白いビニールで丸く囲った牧草の陰に座り込む。

撮影と勉強と聡の心配と。将は心底疲れていたのだ。

「はー」

座り込んだが最後、疲れが毛穴から一斉に吐き出されるようだ。

――こっそり煙草でも持ってくればよかった。

将は手持ち無沙汰な両腕を頭の上で組んだ。

こうすると疲れはあくびになって口を大きく開けさせた。あくびは将をとうとうその場に寝そべらせた。

パリにいた小さい頃に連れていかれた、オルセー美術館に、こんな感じの絵があったことを思い出す。

ゴッホだっただろうか。

青空の下、黄金色の草を積み上げた下で、夫婦が幸せそうに寝そべっている絵は、その美しい色合いが幼い将のお気に入りだった。

ひさしぶりに教科書にも台本にも支配されない脳の隙間からは、ぽっかりと聡が浮かんだ。

――アキラとここで寝そべったら幸せだろうな。

だが、一人で寝そべる将の目の前にあるのは、ただただ青い空だ。

聡は津軽海峡で隔てられた1000キロの彼方にいる。

将は、目の前を滑っていくような千切れ雲の一群を眺めた。

雲は形を変えながら、どこからともやってきて、どこかへと流されていく。

それはなんとなく、自分たちを想起させた。

――俺たちどこにいくんだろうな。

これと同じことを、ホテルの部屋で思ったら、それは焦燥感に繋がったはずだ。

だけど、干草の香ばしい香りと太陽に包まれた今の将は、不思議に不安感は遠くにあるようだった……。

目を閉じた将は、しばらくしてカッと目を見開くと起き上がった。

これが元倉が言っていたことに違いなかった。

現実の不安が消えないまでも……確実に薄めてくれる、ここの空気。

ここで暮らす地元の人には感じ得ないこと。

持ち込んだ現実を忘れさせてしまうような……旅人、つまりヨソ者だけに与えられる能天気な空気。

将は立ち上がると、砂利道を撮影現場をめがけて走った。

かくして……7回目はあっさりとOKが出た。

 
 

それから、将の撮りはきわめてスムーズに進んだ。

将は、ここに来ている間は、無理な受験勉強をやめることにしたのだ。

太陽がある間は、できるだけ峻の生活に近い暮らしをするようにした。

そして陽が落ちてから数学の難問を毎日1問ずつ、それ以外の開いた時間は小林秀雄などをじっくりと読むようにした。

せっかく睡眠時間をたっぷり取っているのだから、脳をフル回転させるものに時間を費やすほうが効率がいいと気付いたのだ。

これが受験に不利になるのかどうかはわからない。

だけど、徒に焦れば、時間だけを食って何も結果を残せなくなる。

将はそれを体得したのだ。

撮影は天候にもおおむね恵まれ、秋の北海道ロケも最終日となった。

「将、明日から、存分に受験勉強をしろよ」

小さな打ち上げを終えて、早めに帰る将を、元倉や監督を始めとするスタッフは笑顔で送り出してくれた。

 
 

最終便で帰るべく、旭川空港へ向かうタクシーの中でいきなり携帯が鳴った。

忘れ物でもしたかな、と将はジーンズのポケットからそれを取り出すと開いた。

クラスメートの星野みな子からだった。

彼女とメールをやりとりすることはあっても、電話をかけてくることはない。

何事か、と思いつつも将は通話ボタンを押して「もしもし、みな子?」とこちらから声をかけてみた。

今日でとりあえず秋のロケが終りだという解放感が将に明るい声を出させた。

「鷹枝くん、ごめんね。突然……」

それに対してみな子はあきらかに掛けあぐねたあげく、という様子だった。

将は、タクシーの窓から暗い外を見た。あいにく新月に近い外は、丘のうねりを黒く浮かび上がらせるのみだった。

外灯が少ないところを見るとまだ空港は遠いらしい。

「いいけど、いったいどうしたの?」

ゆっくり話す余裕があると見た将は、タクシーのシートに寄り掛かると、できるだけ優しい声で訊いた。

ちょうどいい、みな子の電話を切ったら聡にメールをしようと思った矢先。

「……アキラ先生が入院したの」

みな子の声はわずかに震えていた。