第349話 涙の懇願(8)

「だから……将。あたしと離れて。自由に生きて。将の才能を活かして……」

「嫌だ!」

聡が言い終える前に、将は鋭く叫んだ。

「何いってんだよ!アキラと離れられるわけないだろ!」

将は目をむいて、聡の細い肩を掴んだ。あまりに強く掴んだので、肩の骨がきしんで痛む。

「俺の才能とかいうけど、それを引き出してくれたのは聡なんだぜ!」

唾がかかるほどの至近距離に将の必死の顔があった。

顔をそむけるほどの余裕もないほどの距離。

かろうじてそらしている聡の視線を、将は自分のほうに向けようと懸命に肩を掴み……それがかなわないとわかると、ついに聡をもう一度ぐいっと抱き寄せた。

「……アキラと離れるなんて、死んだほうがましだ!」

ついに、口にした死という単語。

軽軽しくそんなことをいうものではない……たしなめようと肩の上に覆い被さる将を振り返った聡は、将の……これ以上ないほど哀しい瞳の色をみた。

聡がいままで見た中で、もっとも哀しく寂しい瞳。

おそらく……肉親に捨てられるときの子供の瞳もこんな感じなのかもしれない。

見たことがないけれど、聡はおもわず、たった一人で置き去りにされる子供を想像した。

「しょう……」

そのまま心が透けて見えているような、透き通った茶色の瞳に聡は、理性とは別のところで聡を動かした……聡は無意識に将の髪を撫でていた。

それで、将はいくぶん落ち着いたのか、声のトーンを落として……懇願する口調になった。

「アキラ……。頼むから俺からはなれるなんて言わないでよ」

その唇も瞳もあいかわらず至近距離にある。

聡が将のそれを撫でるように、将も聡の髪を指にからめはじめた。

「……二人で考えようよ。きっと二人別れなくても、世間からコソコソ隠れないでも、幸せになる方法があるよ。きっと」

将の茶色の瞳に、ベッドサイトのスタンドの山吹色の光が映っている。

それは、二人で歩いていく温かいの未来の象徴のようだった。

きっと将には、その陽だまりの道が見えているであろう。

だけど、聡はそっと首を横に振った。

聡の出した答えとて……大人がよくよく考えて出した結論なのだから。

否定した聡に、将は狼狽をかくさず、ため息をついた。

少し下を向いて考えると、笑顔を聡に向けた。少し残念そうに眉が下がった笑顔。

「……なんだったら、すぐに結婚しなくたっていい。何年か先……、俺が……叩かれても、どんなスキャンダルを起こしても必要とされる実力を身に付ければ問題ないでしょ」

実力、という自らが思いついた言葉は将に希望をもたらしたようだ。

残念そうな顔が徐々に明るい顔になっていく。

「そうだ、そうすればいいよ。俺が実力を身につけるまで……二人のことは隠せばいい。なんとかなるよ」

この1年で俳優として大きな成長を遂げ、そしてたった4ヶ月の勉強で難関私大に合格することができた将は、努力して実力を身に付けることの果実を味わっている。

将にとって、社会から必要とされる実力は、もう身近なものになっているのだった。

将は聡に言い聞かせつつ、自らを納得させるようだった。

「ね、アキラ」

将は聡の頬を再び掌で包もうとした。

あらためてキスをしようとした将は、こんどは聡が徐々に寂しげな顔になっていくのに気付いた。

それにかまわず、唇を寄せる。2つの体温が交差し……唇と唇が触れ合う直前。

「だめよ」

聡は無造作に呟いた。

驚いた将は、焦点があう位置まで顔を戻して聡の表情を確認した。

聡の顔は寂しさを通り越して絶望という虚しさに、モノトーンのように色を失っていた。

聡は将を見ずに続けた。

「将は……そのころには、将はきっと、あたしのことなんかどうでもよくなってる」

 
 

聡は……ぽろっと言ってしまった自分に驚いていた。

こんなことを言うつもりではなかったのに。

希望に満ちた将の未来。将がいうとおり、きっと将は着実に実力を身につけていくのだろう。

将が身につけていく実力……可能性。

それは彼の中を占める、聡の面積を徐々に狭めていくのではないだろうか。

そしていつか……将の中から、自分が不要になる日をもたらす。

それに怯えた聡の中の感情の一部分が……つい剥き出しになってしまったのだ。

本当は違う。

将に幸せになることの邪魔はしたくない。

なのに。

……将を失いたくない。

将への不信を口にするのが本当の自分なのか。

それを否定するほうこそ本当の自分なのか。

驚いたのか、困惑したように自分を見つめる将。

一度発した言葉は否定できない。

いや本当は否定したくない、将の本心を今こそ確認したいというもう一人の自分に抗えなくて、聡は言い訳をしないことに決めた。

ただ、将を見つめる。

 
 

「アキラ、何いってるんだ……」

反射的にそう答えつつも、将は聡の瞳に完全に射抜かれていた。

聡の瞳はエックス線のように、将の中の後ろ暗さを探り出した。

あのときの、みな子への……揺らぎ。

みな子へ口づけしてしまった、自分への後悔。

見てみぬふりをしていた、聡への罪悪感が、聡の視線によって否応なく照射され浮かび上がってくる。

「これから……もっと、将のまわりには素敵な人が現れるわ」

聡はそういうと、照射していた視線を下に下ろした。

射抜くような視線は怖かったのに……それが将から離れてしまうと、取り返しがつかないことをしてしまったように将は落ち着かなくなる。

将は、とりあえず聡の顔を自分に向けるべく、語りかける。

「関係ないだろ。俺は、ずっとアキラ一人だから。いつまでもアキラだけだから」

聡は伏せた睫のあたりに虚しさを漂わせて、将のほうを振り向こうとはしない。

「アキラは特別な人だから」

そういうと将は聡の両手を拾い上げて、ぎゅっと握り締めた。

少し冷たい指は、将の掌にその重さを預けながらも、死んだ魚のように脱力していた。

――やっぱり、あのことか。

急に、他の女の事を匂わす発言をする聡。

心当たりといえば『あれ』しかない。

焦った将は

「ひょっとして……あんな週刊誌、気にしてるの?……本気にするなよ。バカだなあ」

とついに自分の後ろ暗さの正体を自ら切り出すハメに陥った。

何でもないことだと、懸命に繰り出すアドリブ。

だが、せいいっぱい明るく演じるそれは、スタンドの灯りが届かない薄闇に染まる壁に空虚に響くのみだ。

聡はその表情を変えない。

将は自分の演技力の底の浅さを呪った。

しかし、言い出してしまったものは、仕方ない。

将は喋り続けるしかなかった。

「言ったろ。○○谷さんは、クリスマスのとき、聡に逢いたくて郡山からレンタカーを飛ばしてきたときのだし、みな子は……」

雑誌の写真は、顔が重なっているだけだった。

だから将は……聡に誤解だと思わせたくて嘘をつく。

「あれは角度でそんなふうに見えただけで。……ふざけてただけだよ。実際には……してない」

将がそこまでのアドリブをなんとか言い終わったとき、静かに……聡が瞳を動かした。

それを見て将はドキッとする。

しかし……ここは、嘘をつきとおさなければならない。

いや、嘘などではない。将の中では『事実』なのだ。

みな子にキスはしたけど……あれは一瞬の気の迷い。

本当に好きなのは……必要なのは……失いたくないのは聡なのだから。