第363話 卒業(5)

「それにしても……、今日は天気に恵まれましたね」

「……ええ。本当に」

将の父親、鷹枝康三官房長官と対峙した聡だったが、何を話題に選べばいいのかわからない。

彼の本題が……このお腹の子と将のことなのなら……いっそ早く切り出して欲しい。

自暴自棄的にそんな考えが浮かんでくるくせに、その場面を想像するのすら怖い。

聡は笑みを浮かべたまま、いつしか顔をこわばらせていた。

世間話を続ける康三の、心中がわからなすぎて。

「先生のクラスは、無事、全員卒業したんですか」

「はい。……3年になれた子たちは全員」

2年の2学期に聡が赴任して、卒業できなかった生徒は、退学処分になった前原茂樹と、自殺した葉山瑞樹だけであとは全員、今日の日を迎えることができた。

だが田舎の健全な県立高校を卒業した聡の常識の中では、クラスメートが2名も脱落していくのはやはり異常なことだ。

『3年になれた子は』と限定を付けることを恥じて聡は少し俯く。

「さすが、中退率の低さを誇る学校ですね」

と感心するようすを見せたあとで康三は続ける。

「なんでも先生は英語の実用会話と、社会見学を取り入れたそうで……。よろしかったら、文部科学省と一緒に考えている教育再生プログラムの参考にしたいので、詳しく教えていただけませんか」

目の前には、前菜のアスパラガスとパルマハムを使った2色のムースが置かれたところだ。

康三はナイフとフォークを操りながら、如才なく聡を促す。

仕方なく聡は、自らの取り組みを話しながら、康三の本意を見抜こうとしたが……康三は聡の話に興味深げにうなづき、ときにカトラリーを置いてメモすらとる始末であった。

それは、ポーズなどではなく、本当に聡の話を参考にしているかのように見えた。

聡はわけがわからないまま、康三が求めるままに、赴任してから今までの奮闘を話すしかなかった。

 
 

食事の味など、まったくわからないまま、デザートまでが終った。

あとは食後のコーヒーというところで、ノックがあった。

一礼ののちに、毛利が入ってきた。

もう仕事の時間だと、康三に告げに来たのかも、と聡は少しほっとしながらも、ならば解せないと思う。

康三は、本当に昼食を自分にふるまっただけなのか。……教育の実情をヒアリングしただけなのか……。

毛利は、なにやら康三に耳打ちをした。

そしてちらりと……神経を尖らせていないとわからない程度に……聡に目を走らせる。

緊張していた聡だから、すぐにそれに気付いた。

しかし気付いたときには、毛利は一礼をして個室を辞していた。

――やはり、違う。

聡はこの会合について……楽観するわけにはいかない、と唇をきゅっと結んだ。

しかし康三はナプキンの端で口をぬぐいながら、

「いや、先生。とても参考になりました。先生はお若いのにとても優秀な教育者ですね」

などと微笑んだ。

皮肉だろうか、と聡は思わず目を見開く。

だが……聡の視線の先にいた康三はあいかわらず柔らかい表情で微笑んでいる。

聡はうろたえて俯くと「そんな……ことはないです」とつぶやく。

そのとき、給仕が康三にはコーヒー、聡には黒豆茶を運んできた。

康三はコーヒーの湯気に心から憩いの表情を浮かべつつ、それを啜った。

臓腑に落ちた熱さを吐き出すように、ため息をもらしたあと、

「将のことですが……」

と切り出した。

――すわ、本題。

聡は受けた衝撃のあまり、華奢なジノリのカップを、すんでのところで取り落としそうになる……なんとかかろうじて持ちこたえた。

口腔に残る、香ばしい黒豆茶をごくりと飲みくだす。

「親馬鹿なようですが、子供の頃の将はとても優秀でしてね」

康三は、驚愕し一気に緊張が高まった聡の様子など目に見えていないようだった。

「私の仕事の都合で、将は、まだ赤ん坊の頃からパリに行っていたんですが……」

あいかわらず、大きく表情を動かさないまでも……懐かしそうな瞳に穏やかな声で続くのは、将の子供時代のことのようだった。

……聡は、拍子抜けしながらも、ほっとする。

――これは単なる執行猶予なのだろうか。

わからないままに、聡は康三によって話される将の過去に耳を傾ける。

「家内の考えで、将は日本人の幼稚園に行かず、パリの幼稚園に行っていたんです」

聡は黙ってうなづいた。

将が……会話や聞き取りにおいては英語より、フランス語のほうがましだといっていたのはそのためなのだろう。

康三は、将がフランス人の幼稚園園長に『この子の知能はずば抜けている』と太鼓判を押されたことや、日本に帰ってきてからも勉強はもちろん、スポーツや武道、芸術のすべてにおいて優秀だったことを話した。

「私は仕事の都合であまりかまってやれなかったものの、鼻が高かったものです」

そんなことを語るとき、康三の目は幼い将がそこに座っているかのように、優しい目をしていた。

それは同じ笑顔でも定例記者会見のそれとはまるで違う、柔らかな……父親の笑顔だった。

「あの」

聡はその柔らかな顔に誘われるように、つい口を挟んでしまった。

「鷹枝くんの……本当のお母さまというのは……。どうしてお亡くなりになったんですか」

将は……産みの母親は病気で亡くなったといっていた。

それと同時に、父のせいだとも。

そして母の死に際して、涙ひとつ流さなかった父の非情さを訴えていた。

将が直接道をはずれたのは、あの爆破事件のせいだとしても……それまでに将とその父の間には、亡くなった母を通して何か感情のすれ違いがあったのではないのか。

「将はなんと?」

訊き返した康三に

「ご病気で……と」

さすがに『康三の選挙のせいで手遅れになった、と言っていた』とはいえなくて聡は口をつぐんだ。

康三はしばし沈黙したのち、意を決したように重い口を開いた。

「……将の母親は、私が外務省に勤めていた頃の同僚でした。コネなしで採用された、と噂がたつほど優秀な人材で……」

将の母親・環に、どことなく似ている聡の容貌に誘われてなのか、康三はその死についてではなく、その馴れ初めから語り始めた。

将を生んだ母親、環は康三とは2年違いで外務省に入った。

5ヶ国語を自由に操り、その仕事ぶりは、数少ない女性外交官ながら、男性顔負けだったという。

「それでいて奢らず、優しくて……。みんなの憧れの的でした……」

傾けたコーヒーカップの中に、セピア色の当時が映っている様に、康三は心持ち下を向きながら淡々と昔話を続ける。

「そんな環が……仕事をなげうって私との結婚を選んでくれたときは、本当に天にものぼる心持でした」。

しかし、明治維新から続く政治家の家系・鷹枝家に生まれた康三である。

康三の親は、康三を政治的に有利な令嬢と結婚させようと考えていたらしく、二人の結婚にあまりよい顔をしなかった。

「助け舟をだしてくれたのは祖父です」

康三の祖父とは、即ち将の曽祖父、巌のことである。

康三の話を聞きながら、ぼんやりとテーブルの中央に飾られた花を眺めていた聡だったが、巌の名前にハッとして顔をあげた。

『将のことを頼む』

しわがれた声が、頭の中に、いまいちど響いたようだ。

巌だったら……わかる。

家柄より、個人の資質、なにより本人の意思を大事にするであろうことが聡にもわかる気がした。

「祖父がどうにか両親を説得してくれて、ようやく結婚することができたのです」

聡と目があって、康三は、カップに残ったコーヒーを飲み干した。さらに話は続く。

「憧れの人と結婚できて……しかも、すぐに将をさずかって、パリでの私は本当に夢のようでした」

康三は、目を細めると、

「赤ん坊のころの将は、本当に可愛かった。……本当にね。フランス人に混じっても一人で輝いているように見えましたよ」

といたずらっぽい顔で、聡に冗談すら投げかける。

その顔は将に似ていて……思わずつられて微笑む聡は、クリスマスに大磯で目にした、大量の写真を容易に思い浮かべることができた。

アルバムに収まりきれないほどの写真は、やはりこの父が撮影したものなのだ。

――将。将。……あなた、すごく愛されてたんじゃない。

聡の思いはいつしか、大晦日の夜にタイムスリップしている。うかない、寂しげな顔の将に……ひとこと、この父親の顔を届けることができたら。

聡はせつなくなった。

「彼女と将と一緒なら、世界中どこの国に赴任することになっても、うまくやっていけると思っていました……ですが」

パリでの親子3人の幸せな暮らしは、5年で終わる。

将が6つになる少し前に、すでに議員として当選していた、康三の一番上の兄が事故死したのだ。

政治家としての鷹枝家を継ぐはずの、長兄の急死は、康三一家の運命を変える。

「二番目の兄は、母方の兄に養子に出されていまして……それで私が急遽、帰国して立候補することになってしまったのです」

三男ながら、いきなり康三は鷹枝家の跡取として、96年に行われた衆議院選に出馬しなくてはならなくなったのだ。

帰国後、妻の環は、康三の初選挙に、身を削って尽くした。まだ小学1年生である将の世話も手を抜くことなく。

康三の両親の手前、無理やり結婚した償いのように……無理をした。

その頃から体に異変はあったに違いない。しかし環は、不調を疲れだと思い込み、頑張ってしまった。

幸い、事故死した長兄の分の票も集めることができ、康三は初当選を果たした。

しかしそのときすでに、環の体は病魔に冒され……当選後まもなく倒れてしまった。

「病院に入院したときすでに……余命3ヶ月を宣告されました。進行性胃がんでした」

康三は少し前に見せた、いたずらな笑顔がまるで幻のように……それでも淡々と、つらい当時を語り続ける。

「私はできるだけ妻についていたかったが……政界のことなどたいして知らずに入った三男の私ですから、毎日忙しく……どうすることもできなかった」

涙を見せたり、顔を歪ませたりもしない康三だったが、聡は自分がその場にいるかのように胸を締め付けられる思いがした。

「妻は日に日に悪くなり……将をくれぐれも頼む、と私に託して、11年前の3月12日に息を引き取りました」

今日は3月5日。ちょうど1週間後の今日が命日だ。

聡はハッと顔をあげて康三を思わず見つめる。

康三も聡を見つめていた。

端正なその顔は、無表情に近く……しかし、その瞳は強く光っていた。

その瞳を直視した聡は、瞬時に当時の康三の悲しみを理解した。

最愛の妻を、亡くした悲しみ。

しかも自分のせいで、病気の発見が遅れて……。

康三は泣かなかったのではない。悲しみが強すぎて泣けなかったのだ――。

泣くことすらできない、強い悲しみを想像した聡は、思わず涙ぐんでしまう。

しかし、新人議員の康三に、きっと感傷にひたる暇はなく、悲しみを押し殺して働かなくてはならなかったに違いない。

何度も傷を負った皮膚が固く厚くなるように、妻の死の悲しみを覆った心の表面は厚くなり……いつしか康三の感情を隠すようになってしまったのだろう。