第365話 卒業(7)

ざわめきの中から自分を呼ぶ声がする気がして、新幹線のホームに並ぼうとしていたみな子は一瞬あたりを見回した。

金曜日の今日、ホームは背広姿のサラリーマンや、週末旅行に出かけるのか女性グループでごったがえしている。

こんなところで……誰も自分を呼ぶはずがない。

みな子は気を取り直して、視線を元通り……こころもち下向きに戻す……。

そのとたん、今度ははっきりと聞こえた。

「みな子!」

はっとして振り返ったみな子が見たのは、新幹線の長いホームを駆けてくる将の姿だった。

「鷹枝くん!」

眼鏡もかけず、制服のまま走ってくる長身の将は、かなり目立った。

ホームにいた乗客が一斉に振り返る。

しかし将はそんなことを気にもせず、一目散に走ってくる。

「みな子!……みな子……よかった、……間にあった」

将はみな子のところまで到着するなり、がっくりと膝に手をつく。

その肩から背中のあたりが、呼吸で激しく上下している。

ホームの端にある自由席乗り場まで……将は全速力で走ってきたらしい。

「なんでこのホームだってわかったの?」

みな子は新幹線の時間も伝えなかったはずだ。

しかも新幹線は16両編成だからホームの長さはとても長い。

どの新幹線に乗るかわからなかったら、人一人を見つけ出すのは奇跡のように難しいはずだ。

「……カン」

将は、ようやく苦しい息の下からぼさぼさ頭をあげていたずらっぽく微笑んだ。

――そのほほえみだ。

みな子は、意に反して胸がきゅっと痛むのを感じた。

将はすくっと背筋を伸ばした。

「最初は向かいのホームにいっちゃったんだ。そしたら、こっちにみな子が見えたから……あわててダッシュしてきた」

もう、新幹線のホーム長すぎ、とそこまで一気にまくしたてると

「そっちは、一人なの?親は?」

と訊いてきた。

みな子は頷くと

「父はもう大阪に勤めてるし、母は弟が卒業するまでこっちなんだ」

と答える。

だから、みな子は、どの新幹線に乗るかも決めずに、気の向くままに大阪まで一人旅気分で過ごそう思っていたのだ。

一人で……将の思い出の土地から離れよう。

離れていく時間を噛み締めようと思っていたのだ。

なのに、なんで。

「わざわざ見送りに来ること、なかったのに」

みな子はそっぽを向いた。

「見送りたかったんだ」

将の声に、列車待ちの客が思わず振り返る。

「ちょっと……!」

みな子は顔を紅くすると、ボタンがなくなった将の袖口をつかんで、ホームの端に連れ出した。

「ちょっと。信じられない。鷹枝くん、芸能人って意識あんの?」

声をひそめてみな子は将を睨む。

「そんなの、カンケーないだろ」

それに対して、将は優しい目でみな子を見つめる。

そんな目で見つめられると……みな子の心臓が甘くときめいてしまう。

「カンケーあるよ。だってみんな見てるし」

「カンケーないだろ」

「カンケーある」

「ない」

「あるッ」……。

押し問答ののち、二人は顔を見合わせた。

同時に……プッと吹きだしてしまう。

明るく笑う将を見て……みな子は泣きたいのになぜか笑ってしまっていた。

こんなふうに笑いあえるのも今日で最後だ。そう思うとせつないほど悲しいのに。

みな子はなぜか声をあげて笑い続ける。

からっぽになった心に、自分の声がこだまするようだ。

それがいっそう悲しい。だけどすがすがしいようにも思う。

ホームの端には、新幹線より先に、春風が入ってきている。

「あのさ。ちゃんと謝りたかったんだ」

笑い止んだ将は、微笑みをやや残した優しい瞳のまま、切り出した。

「……大阪にいっちゃう前に」

「何を?」

みな子はまだ笑いが残っているふりをしていた。

……そうしないと、ふいに涙がこぼれそうだから。

「いろいろ」

将は……一瞬、新幹線のホームに、かつての瑞樹の黒髪がよこぎった気がして……錯覚だとわかっているけれど、その行方を視線で追ってみる。

それは、ホームの間にわずかに見える空の切れ端へと溶けていった。

「いろいろ……利用したみたいになっちゃって」

将はそう言い放つと、再びみな子に視線を戻した。

せつなさを含む……しょっぱい笑顔になっている将。

みな子は見つめられて……反射的に首を横に振る。

いまならはっきりとわかる。利用されるのを望んだのは……むしろ、みな子の方だった。

将に利用されるのが……たとえカモフラージュでも将の役にたてるのが嬉しかった。

「それから……キスしたことも」

「謝らないで」

将はハッとした。みな子の瞳にいつのまにか強い光が宿っている。

だが、すぐにみな子はうつむいた。

「謝られると……よけいに、悲しくなるし」

あれは、間違いだったと明言されるのはつらい。

それっきり、口をつぐんでしまった。

将も、謝るなと言われて、何と声をかければいいのか、わからなくなる。

なすすべのなくなった二人の間を……まもなくひかり号が到着するというアナウンスが横切っていく。

もうすぐ、タイムリミットがやってくる。

「あたしはね」

みな子は小さくため息をつくと、意を決したように将を見上げた。

「鷹枝くんとキスできて嬉しかったよ。だって……初めて好きになった人なんだもん」

言っちゃった、という恥じらいが……体中の毛穴をきゅっと縮めるようだ。

だけど、もう。あと少しで、離れてしまうのだ。

みな子は恥かしさを押さえて、勇気を出す。

「鷹枝くんには先生がいるってわかってても……好きなのは止められなかったし」

そのとき、けたたましく新幹線独特のベルがなった。

みな子が乗るひかり号が入ってきたらしい。

二人は振り返った。

新幹線が二つの目を光らせながら、ゆっくりとこちらに入ってくるのが見えた。

「じゃあね。……あたし、行くね」

みな子は今いるホームの端から、乗客の列に戻ろうとした。

「待てよ」

呼び止められて、みな子は振り返る。

将がせつなげに、そして苦しげに目を細めている。

「あの一瞬。……みな子が好きだった」

新幹線の先頭が、二人の横を通り過ぎる。おろしたみな子の髪が舞い上がる。

16両の車両はリズミカルな轟音を立てながら次々と二人の横を通り過ぎていく。

「好きじゃない子に……キスなんかできない。マジで」

それは轟音の中、みな子にだけ聞こえた。

将は……あのバレンタイン前の金曜日のみな子の問いに、今答えてくれているのだ。

別れを前にして、自分に無理をしてまで……みな子の想いに応えてくれているのだ。

――だけど、もういい……。

その気持ちだけで充分。

それでも、みな子は自動的にこみあげてくる熱いものを胸に感じながら、なすすべもなく立ち尽くしていた。

ようやく――いつもよりいやに長い気がした――みな子が乗る車両が定位置に止まった。

「もし、アキラがいなかったら。みな子を好きになってたかも」

「そんなこと、言うもんじゃないでしょ。先生が……悲しむ」

なんとか、みな子は将をたしなめることができた。

「先生が……一番大事なんでしょ……」

わかっていることなのに。それを口にするみな子は、ガラスを飲んだように、胸が痛んだ。

だけど、無理して笑う。

せめて、別れはきれいにしたい。

「いろいろあるだろうけど、先生と……幸せになってね」

「みな子」

将の苦しげな表情は、まだ緩まない。

みな子は息を吸い込むと、いたずらっぽい顔をつくって将を見上げた。

「あたしみたいな子が出てきても……相手しちゃダメだからね」

冗談をいっているのに、将の瞳はかなしげにみな子を見ているのみだ。

――そんな風に見つめたら。

別れがたくなってしまう。

みな子のチケットは自由席だ。

このまま、いつまでも一緒にいたくなってしまう……。

「あたしは」

みな子は、自分の中の未練に訣別するように、大きな声を出すと、くるりと後ろを向いて新幹線へと歩き出す。

将は待てよ、とみな子に並んで歩く。

「大阪で……鷹枝くんよりいい男見つける。そしたら、会わせるね」

ホームにいた乗客はあらかた乗り込んだようで、もうすぐ出発するらしい。

「関西弁でめっちゃ、いちゃついてやる……じゃ元気でね」

ドアの前でみな子は、笑顔とともに将を振り返った。そのまま乗り込もうとする。

「みな子」

思わず将はみな子を呼び止めてしまう。

「まだ何かある?」

みな子はいったんドアを離れるとつかつかと将に近づいてきた。

そのまま背伸びをして、将に腕を伸ばした……。

「仕返し」

みな子は染まった頬を隠すように、あっかんべーと舌を出した。

「クチビルは先生に悪いから。……じゃね」

将は頬に柔らかい感触がリフレインするまま、新幹線に飛び乗るみな子と、閉まるドアを呆然と眺めていた。

はめ殺しのドアの向こうでみな子が小さく手を振っている。

「みな子」

微笑むみな子を乗せた新幹線がゆっくりと動き始めた。

――バ・イ・バ・イ

ガラス越しにみな子の口が動く。

将は追いかけることもできずに、立ち尽くしたまま、去っていく新幹線を眺めていた。

ガラスの向こうに、将と……駅が遠ざかって見えなくなったとき……みな子の目から一粒目の涙がこぼれ落ちた。

卒業式には出なかった涙。

一番悲しい涙。

涙は、次の涙を連れて来て……とめどがなくなる。

――さよなら。鷹枝くん。さよなら……。

ドアのガラスの向こうでは、昼下がりの東京がキラキラと輝いていた。

遠ざかっていくのは、将といた輝くような日々。

みな子は止まらない涙を流したままデッキに立って、遠ざかっていく東京の街を眺めていた。