第379話 命日(3)

午後の菩提寺は静かに陽を集めていた。

その静かな佇まいの屋根のあたりを将は、いったん見渡す。

空は青く晴れ渡り……将が手にしたアネモネの赤やピンクをいっそうさえざえとさせた。

母が好きだったアネモネの花。

将は今年もそれを墓に備える。

今年は将が一番乗りだったらしい。

墓は将が備えた花で、急に春色にほころんだ。

それを見届けると、静かに手をあわせる。

今日、3月12日は、将を産んだ母・環の命日である。

昨年に引き続き、将はここを訪れていた。

 

午前中に……将は、最後の仕上げに岸田助教授のところへ行って来た。

今日は筆記での練習課題はやらず、ただ新聞に書かれた時事問題などについて岸田と話を交わした。

いたずらに緊張感を高めないためと。

かつ、頭の柔軟性を保つためである。

「あとは、運だけだ。今日はゆっくり寝ろよ」

岸田は笑顔で将の肩をポンと叩いた。

 

将は静かに母に誓っていた。そして、同じ墓に眠る巌へも。

……大切なひとができた、と報告した去年。

今年は……その人とそのお腹にいる子供のために、せいいっぱい力を尽くすことを誓う。

だから。

見守ってほしい……。

将はおぼろげになった母の面影と、巌にすがるような思いだった。

やれることは、たぶん、やったはずだ。

あとは何を出されても、自分の実力だけである。

どう結果が出ても従容と受けいれるべきなのは、頭ではわかっている。

だけど。

聡と引き離されるのは、だめだ。

だから。どうか。力になってほしい……。

将の誓いはいつか、懸命な祈りに変わっていた。

 
 

チーッ、チーッ。

小鳥のさえずりに、将は目をあけた。

ずいぶんな時間……しかも墓に懇願を繰り返していた将は、自分にやや照れる。

――合格したら、聡と一緒にまた来るよ。

墓にそう微笑みかけると、将は墓地の出口に続く石畳へと足の向きを変えた。

そこで、ある人影をみつける。

スーツ姿の……。

「オヤジ」。

こちらへと歩いてくるのは、父・鷹枝康三だった。

手には将が備えたのよりひとまわりも大きいアネモネの花束を持っている。

「将。どうしたんだ」

「本会議中じゃないの?」

同時にお互いへの問いが出て、一瞬沈黙が横切った。

「……本会議が終わってから来た」

そういうと康三は、将の前を通り過ぎた。

花立てが将のアネモネでいっぱいなのを見つけると、自分の花束は墓の前に置き

「明日、2次試験だろう」

と将を振り返る。

ん、と将は軽くうなづきながらも、目の前の康三に、半信半疑だった。

母と静かに語り合えるように康三を残して、その場を立ち去りながら将は思い出す。

やはり、去年……ここの住職が言っていたことは本当だったのだ。

 
 

かなり長い時間がたって、康三は墓地から出てきた。

石段に腰かける将をみつけて

「おう」と声をかける。

別に待たなくてもよかったのだが……将はなぜか父を待ってしまった。

「また、戻るの?」

「ああ。委員会があるからな」

康三は仕事の合間にやってきたらしい。

「ふーん」

「駅まで乗ってくか?」

見ると寺の前に車が待っているのがみえた。

「いい……。ところでサ……毎年、ここに来てたの?」

父は、何も言わずに微笑んだまま、まだつぼみも硬い桜の木を見渡しながら振り返るふうをした。

そしてようやく「ああ」と答えたとき……将にはその表情は見えなくなった。

しかし斜め後ろから見る父の頬のあたりは……少し震えている気がした。

そして……急に蘇る古い記憶。

母の葬儀の時も……同じ角度で……父の震える頬を見た記憶は確かにあった。

母が死んだとき、父は泣かなかった。

しかし、涙は見せなかった、それだけで。

……それは間違いだったのか。

「今年は特に……お前のことを頼まないといけないからな」

そういって振り返ったとき、すでに康三は微笑んでいた。

「俺も直接頼んだよ」

将は……涙を呼ぶ記憶を振り払うように、おどけて肩を大きく揺らしてみせた。

「で、どうなんだ。岸田助教授はなんていってた」

「あとは運だけだってさ」

ハッと康三は笑った。

「まあ、あまり気張らずにな。今日はトンカツでも食ってのんびりしろ」

「今朝、ハハオヤがつくってくれたよ。……今日はホテルなんだ」

試験前日の今日、ホテルに泊まるという将の提案を聞いて……純代は急遽、今朝トンカツを作って持たせてくれたのだった。

康三は目をやや見開いて将の顔をのぞきこんだ。

「……だから、ラッシュにあわないようにだよ」

将はあわてて弁解した。……たくらみがバレて、阻止されたらまずいから。

しかし康三は「そうか」とそれ以上突っ込むことはしなかったので、とりあえずホッとした。

「……じゃあ、今日はゆっくり休めよ」

「まてよ、オヤジ!」

それだけ言って、立ち去ろうとする康三を、将はあわてて引きとめる。

「明日の試験、絶対受かるから」

向き直った康三は、将の瞳を見据えた。その瞳には強い光が宿っていた。

「絶対に、受かるから。そのときは、アキラとのこと。……認めろよ」

しばし、二人は寺の前で対峙した。

そんな二人におだやかな春の陽射しは似合わないようだった。

康三は……ふいに目を細めた。眩しげに。

「せいいっぱいやれ」

そう言い残すと、踵を返し……将を残してその場を立ち去った。