第392話 旅立ち(6)

康三はハイヤーから転がり出るように降りると、あわてて頭を下げる関係者に見向きもせず、救急病院の玄関へと駆け込んだ。

そのあとを腰も低く毛利が追う。

手術室の前のベンチには、一足先に到着していた妻の純代が腰かけていたが、康三の姿を見ると、反射的に立ち上がった。

「将はっ……!」

康三は荒い息を整えることもせず、純代に詰め寄った。

純代は立ち上がったものの、呆けたような顔つきで……その視線は康三から確実にそれていた。

「無事なんだろうな!」

純代は答えることもなく、目を伏せた。

「どうなんだ!」

康三はそんな純代に容赦することなく、肩をつかむと揺さぶった。

「……心肺……停止状態だそうです……」

「なんだって!」

恐慌状態に陥った康三は、言葉に詰まった純代をなおも揺さぶり続けた。

まるで純代が、将を危篤に追いやったかのように。

「鷹枝さん!落ち着いてください」

そこにいた看護師が気づいて、取り乱した康三をとめようとすがる。

「心肺停止って、どういうことだ……将は、将は、生きているんだろうな」

「今、蘇生処置をしてますから」

「落ち着いてください!」

看護師2名がかりで取り乱した康三を説得しているまさにその最中に、病院長が現れた。

康三はなおもとどめようとする看護師を押しのけるようにして前に出た。

「将は……息子は!無事なんでしょうね!」

病院長は苦い顔のまま、こちらへ、と康三と純代を応接室へと案内した。

 
 

「傷は、腹部大動脈まで達しており、出血多量による心肺停止状態に陥っています」

「それで、将は……」

病院長による説明に康三はソファから立ち上がらんばかりに上体を乗り出した。

「現在、蘇生術を施していますが、心肺停止状態に陥ってから30分以上が経過しています……」

「それは……」

病院長は顔を伏せた。その先は、聞くまでもなかった。

通常、心肺停止状態から30分が経過すると、その後の生存率ががくんと落ちると言われている。

血流が止まることによって、脳に酸素がいかなくなり……脳組織が徐々に死滅していくからだ。

朝のラッシュ時ということが災いした。

最初の通報から救急車が現場に駆け付けるのに20分がかかってしまい、さらに最寄りの救急病院に到着するのに15分が経過していた。

この病院に到着したとき、すでに将の心臓は止まっていたのだ……。

「そんな……」

力なくうなだれる康三を、そしてすすり泣く純代を、なぐさめるように、病院長は、それでも最善を尽くしている、と繰り返した。

 
 

二人は、そのまま応接室で手術の結果を待つことになった。

現官房長官である鷹枝康三の長男で、人気俳優の将が何者かに刺されて重体という情報はいつのまにかマスコミに漏れ、病院の外側には報道陣が集まり始めていた。

その不躾な取材行動から逃れるためにも、康三と純代はここで待ったほうがいいということになったのだ。

「どうして、こんなことに……」

康三はほとんど声を出さず唇だけで呟いた。

本当だったら、いまごろは東大の後期試験に臨んでいるはずだった将が。

どうして……。

呆けたような夫の傍らで純代はひたすら祈っていた。

――どうか、大おじいさま……、将をお助けください。将を連れていかないでください。お願いします。

天にいるはずの巌に、なぜかすがっていた。

と、思い出す。ここに、いて、将の無事を祈るはずのもう一人の人間を。

純代は立ち上がった。康三はうなだれたまま動かなかった。

ドアをあけると、そこには毛利が控えていた。

「奥さま」

純代に気づいて毛利は立ち上がった。

「毛利。古城先生に、連絡してください」

けげんな顔をする毛利などどうでもいいように、純代は威圧的に命令を下す。

「こちらから目立たないように迎えの車を出して……。そう、孝太が家にいるから、孝太をカモフラージュに使ってちょうだい」

……つまり、孝太のお付き、という形にして聡をここに連れて来いということだ。

「わかりました、奥さま」

「なるべく急いでね」

毛利は一礼すると、きびきびとした動作でそこを出た。

――聡さん。あなたが、将を……将の魂を呼び戻してください。

あとに残された純代は、胸の前で手をあわせると、もう一度祈った。

 
 

「よかった。なんとか間に合いましたね」

成田空港にある宅急便のカウンター。

同行する医師の妻が、聡のスーツケースを受け取りながら笑顔で振り返った。

博史・聡に同行するのは、聡の副担当医とその妻だ。

無意識にスーツケースを受け取ろうとする聡だったが

「いいんですよ。あなたはお腹の赤ちゃんだけを無事にアメリカに運んでください」

と、妻のほうにたしなめられる。

「どうもすいません」

博史が代わりに謝る。

「いいんですよ。私たちも役目が終わったらアメリカ旅行を楽しんで帰りますから」

聡たちを無事にボストンに送り届けて、向こうの医師に申し送りをするまでが同行する副担当医夫妻の役目だ。

万が一、飛行機の中で早産しても最善の処置ができるように、医療器具を山のように抱えている。

いま11時前。

出発時刻は正午だから、1時間以上ある。

それでも搭乗・出国手続きがあるからギリギリといえる。

「じゃ、急ぎましょうか」

話は通してあるとはいえ、医療器具を機内に持ち込むのにトラブルがあったらいけないと、夫の副担当医のほうがうながしたそのとき。

突然、博史の携帯が鳴った。

航空会社のカウンターへと歩きながら、電話の相手と話そうとして……その足が止まった。

目で一行に会釈しながら、博史は電話を手のひらで覆うようにしながらその場を一瞬離れた。

「それにしても、赤ちゃんも順調でよかったね」

博史の電話で足止めを食っている間、医師の妻は、まるで赤ちゃんがそこにいるように、お腹にむかってほほ笑んだ。

ついさっき、いつもの病院で出発前の最後の検診を済ませてきた。

それによると、お腹の中の赤ちゃんに異常はまったくなく、健康そのものということだった。

聡はほほ笑みながらお腹を撫でた。

まるで遠足でも楽しむかのように、『ひなた』はぽこっと軽く揺れた。

 
 

博史の電話の相手は、毛利だった。

将が刺されて重体。

それを知った博史は思わず、目の端で聡を意識する。

「聡さんには……絶対に知られないようにしてください」

抑揚のない声で、かつ鋭く、毛利はそういった。

「なにごともなかったように、出国してください」

「……わかりました」

思わず返事に重いため息が混じる。

「空港にはテレビがあると思いますが、くれぐれも気を付けてください」

「……はい」

通話が終わった後も、博史は手の中の携帯を見つめて立ち尽くしていた。

将が、重体。十中八九、見込みはない。毛利はそういった……。

「博史さーん」

医師の妻の声にハッとする。

振り返ると、手を振る彼女の横で聡も小さく微笑んでいる。

その顔を、思わず博史はじっと見つめてしまう。

「急ぎましょ!」

「はい。すいません」

博史はあわてて一行のもとに戻ると、カウンターに向って歩き出した。

「電話、誰からだったの?」

聡が博史を見上げる。

「あ、うん。……オヤジ」

「お父様?」

「あ、えっと……なんか、忘れものだって。どうでもいいものだから、いいっていっといた」

「そう」

ごまかすのに苦労した博史だったが、聡がそれで納得してくれたようなので、心からホッとした。

 
 

出国手続きは多少混んでいたものの、概ねスムーズにいき、4人は出発ラウンジまでやってきた。

ガラス窓の向こうには、一行をアメリカへと運ぶ機体が見えている。

ちょうど、搭乗開始を告げるアナウンスが流れてきた。

「じゃあ、もう乗りましょうか」

博史がさりげなく促す。

……幸い、ラウンジのテレビで、将のことはまだ報じられていなかった。

「そうですね。わたし、ビジネスクラスって初めてなんですよ」

医師の妻は、気さくで明るい性格らしい。

一行の旅を盛り上げるべく、さっきから明るくふるまっている。

おかげで……聡も、悲壮感を漂わせることなく、医師の妻にあわせてさっきから笑みを浮かべている。

だが。

博史には、それがかえって痛々しく見えた。

何も、知らない聡。

いや、知らなくていいのだ。博史は思いなおす。

聡は……すでに将と別れる決断を下したのだから。

聡は、自分が幸せにすればいいのだ……。

博史は聡の肩にさりげなく腕をまわした。

 

肩にまわされた博史の温かい腕に……聡はもう戻れないことを改めて感じていた。

自分は、今から目の前の飛行機に乗って。

新天地でこの人と暮らす。

いずれ生まれてくるひなたのためにも、隣にいる博史と、温かい家庭を築かなくてはならない。

将を忘れて――。

それが、将のためなのだから。

聡は、そう自分に言い聞かせると、最後のゲートに向かって一歩を踏み出した。

 

  ア キ ラ……

 

――将?

急に聡が足を止めたので、博史は傍らを振り返る。

聡は……まるで誰かに呼び止められたように……後ろを振り向いていた。

いまの声。

たしかに、将だった。

将が、背後から自分を呼んだ。はっきりと聞こえた。

聡は、ラウンジにいる人の中に、すでに懐かしいその面影を探す。

「どうしたの?」

いるわけがない。

将が、ここに来るわけがない。

今頃、将は、東大の後期試験に挑んでいるところなのだから。

「……ううん。なんでもない」

聡は、そういって博史を安心させるように微笑むと、ゲートを通った。

聡が、キャビンへと消えたあと。

入れ替わるように、ラウンジのテレビにテロップが入った。

『鷹枝官房長官の長男で俳優の鷹枝将さん、襲われ重体』

 
 

機内のテレビは、ニュースを流していなかった。

おそらく毛利が手配したのだろう。

博史はホッとしながらも、細やかすぎる冷酷さに少しだけ胸やけがする思いがした。

ここまで徹底的に、二人を引き裂くのか――。

毛利の計画に加担している立場ながら、博史は罪悪感さえ覚えていた。

心肺停止。十中八九、助からないだろう。

忠誠を誓う上司の息子の危機に際して、毛利は電話でそう言い放った。

十中八九、死ぬとわかっているのなら。

せめて死に目に恋人を会わせてやる……そんな配慮はみじんも浮かばなかったのだろうか、あの男は。

「どうしたの?」

今度は聡が博史に問いかけた。

博史はぼんやりしていたらしい。

「なんでもないよ」

博史はほほ笑みを作った。

お互いになんでもない、と気遣いあいながら……二人はこの先も生きていくのだろうか。

それは、とてもさみしいことなのかもしれない、と思った直後で博史はその考えを否定した。

大丈夫。二人は幸せになれる。幸せにならなくてはならない。

「聡」

聡は目を見開くようにして博史にその黒目がちの瞳を向けた。

「幸せになろう」

そういうと博史は聡の手の上にみずからの手のひらを重ねた。

 
 

機体はゆっくりと滑走路を移動して、離陸を待つばかりになった。

今、正午。

きっと、将は苦手の英語を終えたところだ。

聡は窓の外に広がる平らな風景に目をやる。

空港の上には、霞がかかった春の空が広がっていた。

次はいつ帰ってくるかわからない、日本の空。

この空の下に、将がいる。

『ただいまから離陸いたします』

アナウンスが響いたとたん、聡の胸の中には万感の思いが急に膨れ上がって……再び焼けつくように熱くなった。

エンジンの音が、まるで胸の嵐のように次第に高まっていく。

聡を乗せた機体はゆるやかに滑りはじめた。

次第にスピードをあげていく機体。

同じスピードで聡の心は何かから引きちぎられるような鋭い痛みを感じていた。

引き裂かれていく。

いつしか聡は窓に貼りつくようにして外を見つめていた。

引き裂かれていく、残されていくものを、見ようとして。

ついに、機体が浮いた。

懐かしい日本の土地から、将から、完全に引き離された聡は……涙をこぼしていた。

引きちぎられた箇所から噴き出す血のかわりに、涙がとめどなくあふれてくる。

機体はどんどん高度をあげ、雲を超えて……あっという間に街は地図のようになった。

将と過ごしたあの街は、どのあたりだろうか。

いま、将がいるのは、どのあたりだろうか。

なおも探しながら、聡は涙をぼろぼろとこぼす。

「……聡」

博史の声に、聡は我に返った。

「……大丈夫?」

遠慮がちながら……心配そうな顔をして、聡にハンカチを差し出している。

「……ごめんなさい」

聡は、そのハンカチを受け取らず、手の甲で涙をぬぐうと、もう一度窓に向かった。

――将。さようなら。

日本は窓に貼りつくようにしてみないと見えない程、遠ざかって……足元には紺碧の太平洋が広がっていた。

――将、さようなら。さようなら。幸せに……なって。

再びの涙で……空と海の境界線はぼやけて……いつのまにか澄んだ青一色になっていた。