第395話 最終章・また春が来る(3)

陽には付き添いのマネージャーがいたが、二人の前にコーヒーを置くと気を利かせて席をはずした。

将のために用意された控え室に、今二人はいる。

局のスタジオや廊下の喧騒は、ドアで遮断されて、二人を包むのは沈黙である。

テーブルの角を挟むようにしているのは、真正面から視線がぶつかることを二人とも無意識に避けたに違いなかった。

何から話せばいいものか、と将が思案する間もなく、陽のほうから話を始めてきた。

「実は、今日の対談をお願いしたのは、私のほうからなんです」

耳に沁み込んでいくような、この声は。

間違いなく聡のものだ。

将は思わず、声をかけてしまう。

「君……失礼、陽さんは……僕のことを」

陽はうなづいた。

「知っています」

もう一度、将がその表情を確認する前に、陽は少しうつむくようにすると、服の中に隠れていたネックレスを襟の中から取り出した。

それはチェーンをつけたベビーリングだった。

陽はそれを両手を首の後ろにまわしてはずすと、掌にのせて将に見せた。

ダイヤのベビーリングは薄桃色の陽の掌の中でうずくまるようにして光っていた。

……それは、まぎれもなく、25年前のクリスマスに、まだお腹の中にいた娘に与えたプレゼントだった。

ダイヤのきらめきは、あの、まばゆく輝くようなクリスマスの朝の記憶を連れてきた。

すっかりしまいこんだはずの記憶なのに、思い出せば、まったくといっていいほど褪せていない。

将はたった今、その眩しい雪の朝に遭遇したように、瞬きを繰り返す。

「本当のお父さんがくれたものだ、と6歳のときに教えられてずっと持っていました」

ひなたはそういって大事そうに手のひらのベビーリングに視線を落とした。

長いまつげ。そしてそんな仕草も。

覚えている。……忘れるはずがない。

将の中には、すでに聡の面影と、苦い思い出がよみがえって……やり場のない切ない気持は胸の中ですでに、ぐるぐると渦巻いていた。

顔にはそれを出さなかったけれど、将の胸のなかには、ある記憶が自動再生されていた。

かけがえのない人を諦めた、あの旅。

どうしても諦められなくて、手紙が信じられなくて、将は聡を追った。

はっきりとした居場所もわからないままに、ただボストンへ飛び……そこで偶然目にした光景。

それは陽だまりの公園にいる陽と博史の姿だった。

陽はちょうど1歳くらいだろうか。

陽は自分の足で芝生を踏みしめ、ふんばりながら一歩一歩、前へ進もうとする。

そんな彼女を博史は目を細めて、いとおしそうに見守りながら後に続く。

すぐに腕を差し伸べられるような距離。

ぺたん。歩き出したばかりなのだろうか、陽はすぐにしりもちをついてしまった。

博史は陽を大事そうにそっと抱きあげる。

陽は抱っこされて嬉しいのか声をたてて笑っていた。

あまりに幸せそうな親子に――将はうちのめされた。

聡に会わなくてもわかった。聡は、新しい幸せを手に入れたのだ……。

そのときは、まだわが子になんという名前が付けられたのかも知らなかった。

陽――ひなた。

忘れていたのとは違う。

記憶の奥深くに封印していた聡の思い出と共に蘇る。

この娘の名前はたしかに自分が考えた名前だ。

「ちょっと待って。先生は……結婚されていたと思ったが……」

陽が、自分の本当の父を知っているということが何を意味するのか。

将はそれを確認すべく、心もち身を乗り出した。

陽は再び目を伏せた。

「私が、6歳のときに離婚しました」

息がとまる。胸の動揺は、将の体さえ支配しはじめたのだ。

「どうして……」

「……私は小さかったから、よくわかりません。でも」

しばしの沈黙のあと、陽は答えた。

それは慎重に言葉を選びながら一言ずつ紡ぎ出すようだった。

「母は、一度流産して……それ以来、あまり父とうまくいっていなかったようです」

『どうして俺の子は産めないんだ!』

聡が、博史にどんなふうになじられたのか、一瞬耳元で聞こえた気がした。

幸せそうだった父と子。

聡が手に入れたと思った幸せは、実は長続きしていなかったのだ。

別れはこの娘が6歳のときだったという。

……つまり、あれから数年後。自分はどうしていただろうか。

やり直せた可能性が、いまさら思考を横切っていき、将はハッとした。

しかし今の将には、遠い空を飛行する航空機のように、なすすべがないのに……。

通り過ぎた過去への、焦燥感のような苦しさを将が感じているのをわかっていてか、陽は先へと話を進める。

「離婚した母は……私を連れてフランスに渡りました。鷹枝元総理のはからいで、母はパリの日本人学校の教師の職を得ました」

元総理、つまり将の父、亡き康三だ。

「私は、向こうの高校を卒業して……日本の大学に入学しました」

陽は重苦しいムードを変えたいと思ったのか、微笑みを浮かべながらやや明るい口調でロマーヌのことを話し始めた。

「ロマーヌさんにベビーシッターをしていただいたお返しに、高校生のときには今度は私がロマーヌさんのお子さんのベビーシッターをしたんですよ。ロマーヌさん、総理のことを初恋の人だとおっしゃっていました」

将も……その話題に乗ろうと思ったが、こわばったような頬は、ぴくりとしか動かせなかった。

だから将はせめて陽の身の上をもう少し聞くしかない。

そうすることで、核心から自分を少しでも遠ざけないと……冷静さを保てない。

「大学生の時に、スカウトされて芸能界に入ったんです。もともと演劇は好きで、高校の時に学校で映画をつくったりしていましたから……。

それで、芸能界に入った私を、後押ししてくれたのはやっぱり鷹枝元総理でした」

康三が、陰ながら聡と陽の親子を手助けしていたことについては……将はうすうすわかっていた。

将の手前、聡が勝手に逃げたように装っていたが、康三は聡の行く先をきっと知っている、と将は最初からわかっていたのだ。

「元総理は、お亡くなりになるまで、何かと私たちに目をかけてくださいました。ボストンにいたときも、パリに移ってからも何度か会いに来られて……おしのびだと」

そういって陽は目を細めた。

そうすると……長いまつげに隠されて、目は黒一色になる。

そんな笑い顔まで、聡に似ていた。

仕草や笑い方が似る母子。きっと二人はとても仲が良いのだろう。

……香奈と長男の海の笑い顔がよく似ているように。

こんなときに、妻と家族を思い出したことに、将は思わず、双方向への罪悪感を感じる。

妻に対しても、目の前の陽に対しても。

だから将は、思考を無理やり康三に引き戻すべく、つぶやく。そして父を思い浮かべる。

「そうか、父が……」

康三にとって、なんといっても陽は初孫だ。

聡のお腹の中にいたときは、むしろ邪魔にしていたのに……ひとたび生まれてからは可愛くて仕方がなかったのだろう。

将は、康三に抱えていた小さなわだかまりが、ほどけた気がした。

そんなわだかまりの存在自体、ひさしぶりに思い出すものだったけれど。

 
 

やや冷めたコーヒーのあたりに、しばしの沈黙が漂う。

「今日の対談をお願いしていたのは、お会いしてお礼をしたかったというのもあります」

しばらくして、陽が再び口を開いた。

したかったというのも……つまり他に理由がある、ということだ。

将は目を見開くようにして、今一度陽を見据えた。

陽はすでに、長いまつげの奥の瞳を、将にまっすぐに向けている。

「実は……母に会ってほしくて……そのお願いに参りました」

陽の瞳は、熱を帯びて……いつのまにか歎願するような光をたたえていた。

聡に会ってほしい。

鎮まりかけていた将の心は再び、かきまぜたように乱れ始めた。

それを心の中に押さえつけるようにして将は問い返した。

「先生は、帰国されたの?」

「はい。2年前から……」

陽はゆっくり、かつ深くうなづくとそう答えた。

そしてもう一度、瞳をあげるとはっきりと言った。

「……母は、余命宣告を受けています」