第401話 最終章・また春が来る(9)

暗闇に規則的に繰り返される寝息。

時差があるだろうに、香奈は早々と自分のベッドに入ったかと思うと、すぐに寝息を立て始めた。

やや大きく聞こえる気がするのは、疲れているからだろう。

逆に将のほうは、今日がひさびさのオフだったせいか寝疲れない。

目をつむろうとすればするほど……思考は冴えていくようだ。

無理に眠ることを諦めた将は、思考の行きつくところに自らをゆだねることにした。

思考は暗闇の中に、昨日会った陽の姿を投影した。

自分によく似ていて、しかも美しく成長した陽。

『母に会ってください』

『母は余命を宣告されています』

『母は泣いていました』

陽の、低いけれどよく通る声で、次々と繰り出される真実。

――結局、そこに思考は行きついてしまう。

将は暗闇にため息を吐きだした。

2年前に2年と余命宣告を受けた聡。

医師の余命宣告が正確なら、聡はまもなくこの世から消えていなくなることになる。

聡がこの世からいなくなる。

若いころなら考えただけで胸が張り裂けそうになっていたであろう事実。

それを比較的冷静にとらえている自分を……将はやはり哀しいと思う。

「う……ん」

隣のベッドから声が聞こえて将は思わず振り返った。

どうやら寝言らしい。

香奈は声の後に、むにゃ、と息を飲み込むようにして寝がえりを打った。

その肩が布団から出てしまっているのが、ほの暗い中でも見分けられた。

将は温かい気持ちで妻のほうを見ると起き上がった。

布団から出ると、シンとした冬の冷気がしめつけてくるようだ。

そんな中、香奈は子供のように体を丸めてすやすやと眠っている。

将は、肩口まで覆うように、布団をかけなおしてやった。

子供のように安心しきって眠っている妻。

この妻を裏切ることはできない。

そう思う反面。

余命の少ない恩師に会いに行くことは、世間的には咎められる行為ではない。

特に聡は誰が見ても、手がつけられない不良だった将を、救いあげた人物なのだ。

それをなぜ妻への裏切りだ、などと思うのだ……。

そんな正論をかかげた反論も心に浮き上がってくるのも事実だ。

立ちつくしたまま妻の寝顔を見ていた将は、寒さに思わずぶるっと震えた。

眠れない。

時計は1時をまわっている。

将はガウンをひっかけると寝室を出た。

眠れないときはいっそ起きて仕事をしたほうがいい。

体が疲れているなら横になっているのは意味があるが、ゆっくり休んだ今日だから体に疲れは残っていない。

明日(正確には今日だが)は、党の若手と市民を交えた大きな勉強会がある。

その資料でも読んでおこうと、書斎の鍵を手にする。

 

「?」

書斎の前で、将は立ち止まった。

閉じた書斎の扉の下から、細い線になって光が漏れている。

不審者? と一瞬身構えるが、それはありえない。

家の外のあちこちにはセンサーが設置してある。もしも不審者が侵入したらただちに警報音が鳴り響き、家人と外を警備するポリスボックスに伝わるようになっている。

灯りをつけっぱなしにしてしまったのだろうか。

しかし灯りにもセンサーが付けられているはずだ。

将の体温をとらえられなくなった場合は、15分で消える仕組みなのだ。

どうやら、鍵はかかっているらしい。――それは将がさっき掛けたままといえる。

将は用心深く、かつ、素早く書斎の鍵をあけると中に踏み込んだ。

同時に……将のデスクに座って海が驚いて立ち上がった。

「……海? お前、何やってるんだ」

開いているノートパソコンは将の私物だ。

海が答えるかわりに、デスクの上に置いてある海のスマートフォンから少女の声がした。

『海、どうしたの? 今の、お父さん?』

しばらくの間、海は立ちつくしたままスマホの画面と将の顔を見比べていたが、やがてスマホに向かってうなづいた。

「ごめん。オヤジが起きてきた。切るね」

海は将の前では出したこともない優しい声を出した。

青いけれど……画面の少女をこよなく大事に思っていることがわかるような声。

『うん。バイバイ。おやすみ』

通信は途切れたようだ。

将はドアの前に立ったまま、海からの弁明を待った。

しかし少女との通信が切れても、海は何も言わずにうつむいていた。

「ごめん……」

辛抱強く待った将に、ようやく海が口を開いた。

「勝手にパソコン使っちゃって……」

人のものを勝手に使った、つまり悪いことをしている、ということはわかっているのだろう。

幸い、仕事で使うオフィシャルなパソコンは金庫の中に入れている。

デスクに出ていたのは、将が個人的に使用しているものである。

だが、公的に公開する以前の独自調査や、若手議員から出された法案の原案以前のアイデア、さらに行政の現場からの雑談的な意見に加え、将のスケジュールのコピーなど、重要なものも入っている。

情報が流出すれば、それなりに深刻な事態になるものばかりだった。

「……お前、自分が何をしたかわかっているか?」

海は目を伏せた。ことの重大さはそれなりにわかっているらしい。

「……ごめんなさい。でも、宿題の共有をしてただけ。どうしてもパソコンじゃないとできないことがあって。……本当だよ。オヤジの仕事関係には全然触ってないよ」

「あたりまえだ」

将は静かに、かつ鋭く言い放った。

海のいうとおり、海は宿題を好きな彼女と共有していただけなのだろう。

親の目を盗んで、深夜に二人きり……。

いけないとわかっているけれど、彼を駆り立てたもの。

こみあげてくるあんず色をした懐かしいもの。

自分にも確かに覚えたあるそれを、将は無理やり心の中に押し込む。

「どうやって、パスワードを盗んだんだ」

将のプライベートなパソコンとはいえ……パスワードを入力するか指紋認証を行うかをしないと、使用できないようになっている。

口をつぐんだままの海に、将は「答えなさい」と鋭く迫る。

将の気迫に海の体がびくっと震えるのがわかった。

海も将の子供時代にならって、武道一般を身に付けていて優秀な成績だった。

しかし……実際に人と争ったことなどないのだろう。

まだ幼さを見せる海に、将の心は、親として温かくなった。

「小型カメラを取り付けた」

「ええっ?」

温かい親心は一瞬で吹き飛んだ。形相が再び変わった将に、逆に海がおろおろとした声をたてる。

「パスワードがわかったら、すぐに画像データは消したよ。本当だよ」

「おま……」

将は絶句した。

12才の息子が……小型カメラを父のパソコンに向けて取りつけるとは……。

「そのカメラは、どこで手に入れたんだ。まだあるのか?」

海は量販店の名前を口にすると、素直にカメラを自室から持ってきた。

精巧に出来た、ネジ型のカメラはあきらかに盗撮目的でつくられたに違いなかった。

「すぐに規制しないといけないな」

そういいつつも将にはわかっている。どんなに厳罰で律しても、地下では出回ってしまうだろう。

「座りなさい」

将は海を書斎のソファに座らせた。

そして、自分がやったことに対して、どんなことが予想されるか、最悪の事態を話してみなさい、と厳かに促す。

しかし驚いたことに……海は、最悪の事態をほぼ正確に把握していた。

ネットを通じて、将のパソコンにまだ未知のスパイウェアが入り込むこと。

そこから将の資料が流出する危険。資料が削除、もしくは改ざんされる危険……。

将はため息をついた。

「お前は、お父さんがどういう立場かわかっているのか。そこまでわかっていて、なんで……」

言いかけた将は、海が憮然とした目で将を見ていることに気付いてハッとする。

自分にも……覚えがある反発。

『立場』それは、今でこそ、その重要性がわかるものの……その単語は、多感な年ごろの子供には単なるエゴイズムのように映るのだ。

将は言い換える。

「最悪の事態になったら、お父さんが失脚するだけじゃない。万が一テロ組織に渡ったら。たくさんの人が危険にさらされてしまうリスクだってあるんだぞ」

そして、さらに付け加える。できるだけ静かに。

「お父さんは、一部の人だけが利益を吸い取って、普通の人が生活に喘いでいるような、そんな格差社会を直したいと思って、かなり無理なことをやっているんだ。わかるね」

海は黙ってうなづいた。

「だけど、甘い汁を吸ってきたやつらの中には、お父さんを早く失脚させたり、殺したいやつもいる。そうなったら、この国はどうなる。……そりゃ党はあるけれど、お父さんに代わって改革をやり遂げられる人間など、他にいないはずだ」

将は自ら断言した。

巌の意志を継ぐと決めて。自分が積み重ねてきたものに一切のゆるぎはなかった。

若いうちは美貌を活かして俳優業で人気をとり、その人気が健在なうちに東京都知事に当選。

リーダーとしてさまざまな都政改革の実績を残した上で、国会議員へと転身。

将ほど若くして鮮やかにトップにのぼりつめたものは歴史上誰もいないだろう。

他の者の前では謙虚にふるまっているものの、将には自分に代わる者など誰ひとりとしていない自信があった。

「お父さんが追い込まれると、国民がさらに貧しくなって、格差が広がってしまうんだ」

「……わかったよ」

海は将の言葉を遮るように返事をすると、将に視線を返した。

そんな鋭い目つきを見ていると――『海はあなたにそっくりね』という香奈の言葉がよくわかる。

そしてよくよく考えてみると……海と陽も、よく似ていた。

睨みつけるような瞳に将は念を押すように、強い視線を返す。

「本当に、わかってくれたんだろうな」

「……うん」

海は将の視線に気圧されたのか、弱弱しく瞳を膝の上に落した。

「ごめんなさい。もう二度とやらない」

本当に反省しているようだ。そんなようすはまだまだ子供だ。将は安心した。

「……もう寝ていい?」

「待ちなさい」

立ち上がろうとした海を将は引き留める。

「お前、本当は……公立中に行きたいのか?」

思いがけない質問に、海は目を見張った。しかし、すぐに目を伏せると

「ううん」

と首を振った。将に――つまり、親に気をつかっているのだろうことははっきりとわかった。

格差社会がさらに進んだ今、多くの公立中学は問題を抱えている。

そこに進めば、親を心配させることは海でもわかるのだろう。

「お父さんは――。お前が公立に進むのに反対しない」

将の言葉に、海はゆっくりと目をあげた。あまりに意外だったらしい。

「いろいろな階層の人間と出会うことで見える真実がある。私立は確かに安全だが……限られた階層の人間としか出会えなくなる。お父さんにはそれが心配だった」

将は海に『鷹枝家』を継ぐことを強制はしないつもりだった。

だがもしも。

将のように政治家を目指すのなら、多感な時期に世の中の不条理を肌で知っておくことはとても大事だ。

将が、巌の意志を継ぐことに決めたのも……社会の底辺をまのあたりにしてきたからだった。

恵まれているばかりの人間がいくら理想を掲げても、人心に訴える実行力を持たないだろう、というのは将の生きてきた実感だった。

「……だが公立にいけば、恵まれた立場にいるお前だから妬まれることもあるだろう。精神的肉体的暴力を受けることもある。それに耐えられる覚悟が持てるかどうかを……よく考えなさい」

海は強い光をたたえたまま、目をゆがめていた。

それは泣きだしそうなのを堪えているようにも、嬉しさに目を細めているようにも、どちらともつかないような瞳だった。

海は深くうなづくと、書斎を辞した。

恵まれた立場ゆえの妬み、暴力。将は自分の中学時代を思い出していた。

携帯電話や有り金、服をはぎ取られたあげく裸にされ、トイレから出られなかったあの日。

将はそれに対抗しようとして、負けた。

髪を金色に染め、自らが悪くなることで、彼らに対抗したことは……負けたことなのだ。

今の将には、それがわかる。

長いこと泥にまみれていた将を救い出してくれたのは、まさに、あの人だった。

「……パスワード変えないといけないな」

将は、デスクに腰かけるとパスワードを入力した。

“@ 1 k 1 I 2 r 1 a”

将とまったく関係ない英数字を連ねたかに見える不規則な羅列は、おそらく誰も解析できないだろう。

“akira”

に彼女の誕生日である11月21日をしのばせたそれを……将はひそかに愛用していたのだ。