第406話 最終章・また春が来る(14)

「ただいまー。う~寒かったぁ」

震えながらも元気に帰ってきたのは了である。今日は卒業式の稽古とやらで帰りが早かったのだ。

「今日は寒かったでしょう。うがいしてこっちで温まりなさい。すぐにお昼にしましょう」

了は香奈の姿を見ると「あー、お母さんだ!」と嬉しそうな顔になった。

 

あれからよく晴れた温かい日が続いた。

季節はそのまま春に向かうかと思われたが、3月に入った今日、季節は1ヶ月も逆戻りしたようだった。

真昼なのに重い雪雲が垂れこめた空は真っ暗で、今にも白いものを降らせそうだった。

鋭く尖った空気は、ここのところの温かさでゆるんだ体を再びこわばらせるかのようだった。

大学も休みに入り、授業のない香奈は、できるだけ家にいるようにしている。

論文書きやテストの採点など家でやれることは家でやるようにしている。

とはいえ、今日のように朝から一日中家にいるのは珍しいことなのだ。

ちなみに純代は今日はドイツ語会話教室に行っている。

今年こそはデュッセルドルフにいる実子の孝太を訪ねるのに不自由がないようにとドイツ語を習い始めたのだ。

久しぶりの母手作りの昼が嬉しいらしく、赤いほっぺたの了は、しきりに

「なんか手伝うよ」

と香奈のまわりをまとわりつく。

そんな了に適宜、お皿を運んで、などと指示を出しながら香奈は時計を見た。

温かい湯気の向こうの時計はまもなく1時をすぎるところだった。

――もうすぐあの人は、25年ぶりに……。

香奈は夫と、その忘れられない人の再会に思いを馳せる。

 
 

車を降りた将は、重い雲を見上げた。今にも白いものがちらつきそうである。

「こちらです」

秘書の三島が誘導する。

今日は、1週間後に迫った先進国首脳会議にあたってアドバイスがある、ということで香奈の父親で政治学者・岸田氏と会食することになっている。

「ずいぶん洒落たところでの会食だね。お義父さんとは思えない趣味だ」

そう軽口を叩きながら将は、真黒の雲の下にそびえる、レンガ造りの洒落た建物を懐かしく見上げた。

それは将には――ひときわ懐かしいレストランだった。

聡との初めてのデートで訪れた……そして18才の誕生日を祝ってもらったレストラン。

塩でバリバリになったみすぼらしい二人を、余裕をもって迎えてくれたあの思い出は、今も夢に時々みる。

もっとも聡との思い出の場所だったせいか、もう長いこと訪れていなかった……。

「鷹枝様。いらっしゃいませ。お連れ様はもうお着きでいらっしゃいますよ」

うやうやしく迎えてくれる給仕長(メートル・ド・テル)も……もう代替わりしているだろうに、あのときとまったく変わっていない気がする。

「こちらへどうぞ」

足が沈むような毛足の長い絨毯を歩いて個室のウェイティングルームに案内された将は、そこにいた人を見て、凍りついたように立ち止った……。

 
 

「ねえ、陽。私、ドキドキしてきたわ」

「お母さんったら」

陽は瞳を細めて、聡を見つめた。

レストランのウェイティングルーム。

シックながら豪華なしつらえのソファーに聡と陽の親子が腰かけている。

春らしい色のワンピースを身につけた陽、上品な藤色の和服を身に付けた聡の二人は、若いギャルソンから見ると絵物語に出てくる親子のように美しかった。

陽のほうはテレビなどでおなじみの美しさだったが、その母親もかなり美しい。

大学の文学部出身のギャルソンは『ろうたけたような美しさ』とはこの母親のような美しさを指すんだろうな、と想像する。

アペリティフを置いて、ギャルソンが出ていったのを見計らって聡が口を開く。

「だって……陽に大事な人がいるなんて、お母さん、一言も聞いていなかったから」

「隠しててごめんなさい」

陽はアペリティフのグラスを手に取ると、いたずらっぽく口角をあげる。

『実は、お母さんに会わせたい人がいるの。とても大事な人なの』

と陽が打ち明けたのはつい最近だ。今日は、その『大事な人』を交えての昼食ということで、聡と陽は連れだってこの高級レストランにやってきたのだ。

聡にとっては、将との思い出の場所であるレストラン。

……この場所で、娘が大事に思っている恋人と会う。

聡はその偶然を、運命的なものかもしれない、と思う。

願わくば、娘のために……よい運命であることを願う。

「その人とはもう、長いの? まさか……カンヌ映画祭で賞とった映画で共演したあの人?」

「違うわ。やーね」

心配そうに訊く聡に、陽は軽く微笑んだ。

カンヌ映画祭の主演女優賞を受賞したフランス映画で、陽は日本人の俳優を相手に大胆なラブシーンを演じていた。

仕事だ、芸術だ、と頭では理解していても、親としては人としての秘め事をあからさまに演じなくてはならない立場の娘が聡は心配だった。

愛しているわけでもない俳優と、あんなふうに肌も顕わに絡み合う娘が不憫で……せめてその人のことを陽が好きだったら、と聡は期待したのだった。

「……でも、私には、とても大事な人なの。だからお母さんにもぜひ会わせたくて」

陽はそういうと、まっすぐに聡を見つめた。

そんな風に真剣で熱っぽい瞳をすると……陽は将に本当に似ている。

こんなときですら、まだ将を思い出してしまう。

自分はよほど諦めの悪い人間らしい……聡は心の中で自嘲した。

もうとうの昔に、女としての幸せなど諦めたのに、50を越えてなお、自分を女として愛した若い青年のことを、こうして娘の面影の中に見出してしまう……。

こんな自分の往生際の悪さも、もうすぐ終わり。

もうすぐ、すべての人生は幕を閉じるのだ――。

いつ終わるかわからない、でもそれほど残されていない人生でただ一つ心残りだったのは娘の陽のことだったが、彼女は彼女で、いつのまにか『大事な人』をつくっていたのだ……。

そのことに聡は、とまどいながらも、心の大半は安堵していた。

娘とその相手を、温かく見守りながら、穏やかに終わる人生――聡はそれも悪くない、むしろ幸せだと思う……。

だけど、こうして娘の面影に、かなわなかった恋の面影を見つけてしまうのも、まだ生きている自分の心のさまざまなありようを見せつけられるようで……聡はときにそれをもてあましてしまうのだ。

 
 

「いらっしゃいました」

ギャルソンがうやうやしく、待っていた相手の到着を告げて、聡は陽とともに立ち上がった。

陽の大事な相手の登場を一瞬たりとも見逃すまいと聡はまたたきさえ我慢した。

次の瞬間。

その姿が映ったとたん、聡の瞳は思考よりも先に勝手にうるんだ。

考えるより前に、感情が、まっさきにその懐かしい姿をトレースしていた。

それは25年の時を経て……44歳になった将の姿だった。

聡は、将は。

今、25年ぶりに対峙して、立ちすくんだ。