第412話 最終章・また春が来る(20)

『おはようございます。鷹枝さん……?』

病室に将がいないのを最初に発見したのは朝いちばんの検温に訪れた看護師だった。

病院は大騒ぎになった。

夜勤担当によれば、夜中3時の巡回時にはちゃんと眠っていたという。

将はそれが終わった直後に抜け出したらしい。

まもなく病院裏口に車いすが乗り捨ててあるのが発見された。

『あんな体でどうやって……』

リハビリ担当医も目を丸くした。

今の将は、車いすこそ自分で動かせるものの、つかまるものがなければ立つことすらおぼつかないのだ。

病院の知らせにあわてて駆け付けた純代だったが、将の行き先にはだいたい見当をつけていた。

 

純代の見立てどおり、将が目指したのは聡が住んでいたコーポだった。

絶対に嘘だ。

聡が自分を捨てるはずがない。

聡の住んでいた家にいけば、きっとその証拠が見つかるはず。

看護師の巡回が3時すぎにあることを知っていた将は、それが終わった後の暗闇に目をあけた。

夜が来ても、将は一睡もしていなかった。眠れるはずなどない。

――聡が、自分を捨てるなど、絶対にありえない。

あの手紙に抗うように……暗闇の中でも頭の中で繰り返していた。

鎮静剤を打たれてもそれは変わらなかった。

沈んだ意識の中でも、いますぐに聡を、聡の手がかりを探さなくてはと、それだけを考えていた。

やがて看護師が完全に行ってしまったのを慎重に聞き取ると、慎重に、できるだけ音をたてないように身をおこす。

さりげなくそばに置いておいたリハビリ用の松葉杖によりかかりながら立つ。

感覚がもどらない、ゆえに力が思うように入れられない足に檄を飛ばしながら2歩。そこに車いすがあった。

車いすに無事乗ってしまえば、病院内の移動はどうということはない。

裏口まで来た将は、そこからこっそり呼んでおいたタクシーに乗る。

まず目指したのは自分のマンションである。そこに聡の部屋の鍵があったからだ。

到着してからが骨だった。

使うのもおぼつかない松葉杖に全体重をかけるようにして車を降りたはいいものの、すぐに転んでしまった。

足に力が入らないため、わずかな地面の凹凸でもバランスを崩してしまうのだ。

『お客さん、大丈夫?』

上半身はすぐに起き上ったものの、なかなか立ち上がれない将を見かねて、タクシーの運転手が降りてきて将に手を差し伸べる。

『ありがとうございます』

小さく浮かべたその笑顔を見て、中年の運転手はどこかでみた顔だと思った。

たぶん芸能人……そういえば、と思い出す。

運転手には中学生の娘がいたが、彼女が騒いでいた背の高いイケメン俳優に似ていたのだ。

しかし、若い俳優の名前など覚えているはずもなく、ただ目の前にあるその顔が素晴らしく整っていると思っただけだった。

そして、きっとこんな夜明け前に病院を抜け出すように外出するなんて、きっとワケありなんだろうとも思う。

松葉杖だけを頼りに歩き出そうとした将だが、またよろける。

運転手は

『お客さん。どこ行きたいの』

と将に肩を貸した。

『管理人室へ……』

入院中の将だから自分の部屋の鍵など持っているはずもなかった。ゆえに顔見知りの管理人に頼んで、鍵をあけてもらうもくろみだった。

管理人は将を見ると、そのパジャマとサンダル姿にけげんな顔をしたがすぐに鍵をあけてくれた。

結局運転手は将の部屋まで、将に肩を貸してくれた。

『あの……このあと、もう1か所行きたいところがあるんですが』

聡の鍵を手にした将は、親切な運転手に頼んだ。

 
 

将は手すりを頼りにコーポの階段をのぼった。

運転手は心配そうな顔をしていたが、『ここでいいです』とチップ込みで少し多めに料金を払い無理やり帰してしまった。

『アキラ……』

下半身に力が入らないから、手すりにつかまる両腕に渾身の力を込めて、一段一段階段をのぼる。

一段ごとに懸垂をしているようなものだ。

将の額から汗が流れ落ちる。

足に引っ掛かっていたサンダルが脱げて転がり落ちたがかまわない。

もう6月、梅雨入り宣言したばかりの明け方は晴れていても、もう肌寒くはない。

松葉杖は役に立たないから階段の下に置いてきてしまった。

永遠に続くと思われた階段だったが、ようやく目的の階に着き、将は荒い息の中からほっと溜息をつく。

しかし、ほっとしたのもつかの間、そこで手すりも終わりだった。

手すりから、廊下のコンクリ製のフェンスによりかかろうとして……うまくいかずよろける。

大きな音をたてて、腰から倒れこんだ将だったが、顔をあげると前だけを睨んだ。

そのまま将は廊下を這いはじめた。

パジャマが汚れるのもかまわなかった。

階段を上ってすでに疲れた腕に、さらに最後の力を込めて将は動かない下半身をひきずって這った。

力が入らないながらも裸足の足で少しでもコンクリを後ろに蹴りだそうとする……感覚がないままにやみくもにそれを繰り返したために親指がすりむけていたが、それも痛みは感じない。

『アキラ。もうすぐだ……』

あと1m。

将のパジャマはすでに汗でびっしょりだった。

コンクリの廊下を擦った下半身は薄黒く汚れていた。

『くっ……』

ようやく将は聡の部屋のドアの前までやってきた。

荒い息を整えることもなく、のびあがるようにして鍵穴に鍵を突っ込む。

鍵がまだ使えることに将は希望をこめる。

ぐい、と渾身の力をこめてノブを引っ張り……開いた隙間に上半身を倒れこますようにして自分の体をねじこんだ将が見たのは……。

がらんとした部屋だった。

『アキラ!』

思わず呼び掛けながら将は、そのまま這い進む。

部屋には何もなかった。

青いカーテンも。

二人で抱き合って眠ったベッドも。

聡が好きなものだけを飾っていた飾り棚も。

二人頬を寄せるようにして英語をおそわったローテーブルも。

何も残っていなかった。

ただ、フローリングの床に、そろそろ明るくなってきた白い空が鈍く反射しているだけだった。

『アキラ……うそだろ』

 

――若いあなたとの時間は、私にとって思いがけないものでした。とても楽しかった。

――だけど、生活は、人生は――そうはいかないと思う。

 

『そんなことないだろ……』

将は脳裏に蘇る手紙に、答えていた。

『そんなこと、やってみないとわからないだろ……』

そのまま涙があふれてくる。

 

――……私は、私にあった安定した人生のために博史さんとやりなおすことにしました。

 

『どうして……どうしてだよ……』

汗と一緒に、将の目から涙がこぼれた。

それは、そのまま幾粒も落ちて、フローリングの床を濡らした。

そのとき夜があけて……家々の間から陽が昇り始めた。

朝の光に包まれながら、将は自身が、孤独という闇に再びとらえられたのを感じていた。

陽射しは、青いカーテンのない窓から、慟哭する将の背中を直接射抜いた。