第59話 孤独(1)

聡に抱きついたまま博史はしばらく動かなかった。

「博史さん……」

しかし聡はそれだけで、おおよそ事情がつかめた。結婚を早めたり、子供を欲しがったりしたのは、余命が1年を切った母のためなのだろう。

「ごめん」

しばらく聡を抱きしめていた博史は、体を離して、でも聡をまっすぐに見た。

「もう……、だいぶ悪いの?」

聡の問いに博史は首を振った。

「いまのところ、小康状態」

「お母様は、あと1年というのを知ってるの?」

博史は再び首を振った。

「取り乱すたちだから……告知してない」

そして、聡のバスローブに包まれた肩を両手でつかむ。

「せめて。元気なうちに孫の顔を見せてあげたいと思って。聡、協力してくれるだろ」

そのまま博史は聡を抱き寄せる。

聡は博史のなすがままになりつつ、心は動揺していた。動揺する心が、まるで抵抗するように聡に腕をふりほどかせる。

「協力って……。カタールに行くの?」

と向き直って訊くためのように見えるようにさりげなく。

博史は聡を安心させるように瞳を見つめて答えた。

「中東は遠すぎるから、上司にも事情を話して、異動願いは受け入れられたよ。一度引越しと引継ぎのためにあっちに行くけど、すぐ戻る。3月までは国内で準備をして、4月からはタイか中国のプロジェクトに入ると思う。その前に式を挙げて……どっちにしても聡にもついてきて欲しいんだ」

もちろん、妊娠したら日本の病院で産むんだけど、と付け加えて聡をまた抱き寄せる。

そこまで、具体的に計画しているとは……。

博史の腕の中で、聡は絶句した。

 

  
博史の子供をつくる。

いままで何度も博史を受け入れていても、結婚を約束していても、具体的に考えたこともなかった。

今は――将に心が移っている今は――もっと考えられない。

が、博史に別れを切り出すとなると。

さっきシャワーを浴びながら感じた嫌悪感の中に、それは漠然と含まれていたぐらいで、はっきりと決意するまでには至っていなかった。

何しろ、将への思いが、博史より上回る……というのはさっき、はっきりと自覚したことなのだ。

今、一番好きなのは将だ。これは間違いないといえる。

……だから博史とは結婚できないし、子供も産めない。

そうはっきり言えるほど、整理できてない。

現に、さっきは心は抵抗しながらも抱かれて、結局体はいつも通りの場所まで行った。

博史その人に嫌悪感があるわけではない。よく知っている体に、よく知っている愛撫。

どこをどうすれば聡にとってもっとも効果的か知り抜いている男を、聡の体はまだ信頼していたのだ。

それは心が他の男に移ったからといってすぐに乾くものではない。

もし、同じ行為を、嫌いだったり、知らない男に無理やりされたのであれば、絶対にこんな風にはならない。体も心同様苦痛を覚えるだろう。

博史は今、自分の何なのだろうと、聡は博史の腕の中で考える。

9月までは結婚を夢見ていた、最愛だった、男。もしそのままなら、彼の申し出はむしろ嬉しいものだったに違いない。

しかし、今は。

聡は、その男から無邪気に課せられた役目が苦しい。

だけど、『余命1年』の母を哀しむ男に、その役目を即座に拒否するほど、非情になりきれない。

それに肝心の将は、アメリカに行ってしまうかもしれないのだ。

聡は途方にくれていた。

 

 

  
将はローバーミニを運転してマンションに戻ってきた。

雪は、道路につもるほどの気概もなく、ワイパーに触れるとあっさり溶けた。

鍵をあけると、中は元通りにしつらえてあった。

今朝、ヒージーこと曾祖父の巌が朝食の席で『お前の部屋を元通りにしてやったぞ』と教えてくれたとおりだ。

『わしはクリスチャンではないが、クリスマスプレゼントだ』

巌はカラカラ笑うと

『薪割りがいなくなるのはさみしいが』

と付け加えた。

将は思わず巌の肩にしがみついた。毎朝朝風呂をあびる巌からは、加齢臭らしきものはしない。かすかに線香の匂いがするだけ……東京に妾がいるくせに、毎朝、亡き妻の位牌に線香をあげるのは欠かさないのだ。

『これ、大の男が』と巌は笑った。

子供の頃同じように抱きついたときより、巌の肩が軽くて細くなっていることに将は気が付いた。

元気そうにみえても巌は確実に年老いているのだ。

『また、遊びにこい。あきらさんとうまくやれよ』

と、門のところでハルさんと一緒に手を振っていた巌。……来年のクリスマスにはもうすでに巌からプレゼントをもらうことはない。

このときの将は知るよしもなく、ミニのクラクションで応えて、嬉しい気分で大磯を後にした。

 

  
将は暗いままの寝室のベッドの上に仰向けで倒れて部屋を見上げた。今までと何もかわるところはない。

本当に元通りになっていた。コンポのコンセントも差し込んであるのか、暗闇に黄緑色や赤色の星が浮かんだ。

そう、聡と抱き合って眠ったときのように――。

将は体を横向きにした。

あのときは強く抱き締めたら折れてしまいそうな温かい聡の体が将の体に向かい合って横たわっていた。

今、将の目の前に横たわっているのは、冷たい虚無である。

目の前に、甘い香りがする聡の髪の毛を思い浮かべた。彼女の吐息を胸に感じていた。そして細い腕の、ひんやりとなめらかな肌を撫でた。

腕の回想は、さっきみたウェディングドレス姿の聡と重なった。

――今頃、聡は博史と……。

馴れた、いままでに何度も抱き合ったであろう婚約者。

しかもクリスマスイブの夜ときている。

――いやだ。

将は頭を抱えて身体を丸めた。

白い肌の回想は、再び飯場の記憶から、淫らな格好をさせられていた聡の裸体を引き出した。

そこへ博史が覆いかぶさるイマジネーション。

――いやだ。

頭は嫌悪感で充満しているというのに、体中の熱い血液が1ケ所に集中していくのがわかる。感情とは別のところで嵩まっていく、欲望。

熱さから逃れるように、下半身の着衣を脱ぎ捨てる。そこは、すでに血液を充満させて硬化していた。

想像の中で、体を広げた聡は博史に犯されているように抱かれていた。

将はそんな想像で自分自身を弄ぶ自分をまた嫌悪して、苦しくて、息が荒くなった。でも始まったものは、終わるまでやめられない。

いつしか想像の中の博史は、将自身とバトンタッチしていた。

もっと加速させるために、もっと淫らな行為を想像の中の聡にさせる。さらにさらにエスカレートさせていく。

……やがて急速に沸点がやってきて、将は果てた。

まっ白な解放感が一瞬、将を圧倒する……これが去ると、あいかわらずの暗がり。

セオリー通り自己嫌悪がやってきた。

――聖なる夜に何やってんだ俺。

将は手の中のティッシュペーパーを暗がりの中に見た。

いつもはとっとと捨ててしまうそれに、自虐的な今日の将はなぜか惹かれた。

淫らな想像と、それによって吐き出された精液で汚されたティッシュペーパー。

保健で習った知識によれば、その中には将のDNAを持った精子が1億だか、いるはずだ。

そいつらは、もしも女の中に放出されれば、熾烈な競争を遂げて、タイミングが合えば1匹だけが卵子と結ばれるはずだった。

だけど、ティッシュの中のそいつらは、競争のチャンスも与えられることなくティッシュの中で今次々と乾き死にしている……。

今までだって、ティッシュの中や、コンドームの中で何十、いや何百億匹もムダに放出してきたはず。

そのことについては何も思わなかったのに、なぜ今こんなことを思うのだろう。

――それは、聡という絶対的な対象が出来たから。

そしてその聡が他の男を受け入れてしまったから。

そんなことは深く考えなくてもわかる。

聡と結ばれたい。聡を抱きたい。

あいつらだってどうせ無為に死ぬなら聡の体内で競争を繰り広げたかったはずなのだ。

将は、横たわったまま、さっき自販機で買った煙草を取り出すと火をつけた。

ライターのあかりに下半身をむき出しにした自分の情けない格好が照らし出されるが、すぐに暗がりに戻る。

紫煙は暗がりで見えないが煙草の先は幽かに赤く光っている。

まるで、ヒージーが毎朝仏壇にあげる線香の先端のように。

虚しく死んでゆく精子に虚しい自らを重ねると、そいつらへの供養のように、煙を深く吸って吐いた。