第90話 修学旅行はじまる(2)

支笏湖は車窓に寄り添うように10分ほど見えていた。

支笏湖と別れるとまもなく休憩所だった。ここで15分ほど休憩がある。生徒たちは皆、先を争ってバスを降りる。

聡は目をつぶってシートに寄りかかっている瑞樹に、

「休憩所だけど、トイレとか、いっておかなくてもいい?」

と声を掛けた。瑞樹は聡の声など聞こえないように、そのままシートに顔を埋めるようにそむけた。仕方ないので、聡は瑞樹を置いてバスを降りた。

広い駐車場の奥に、大きなログハウス風の土産物売り場がある。ラベンダーグッズや、ガラス細工のマスコット、ぬいぐるみ、菓子などが並ぶ。

奥の階下が、トイレになっているようだが、そのトイレが凄かった。

広くてモダンなエントランスを備えている上に、自動ピアノの演奏が流れている。洗面台には全面鏡がついて、パウダールームまである。もちろんトイレの個室数は充分にある。

おそらく、スキーバスのほとんどがここで休憩するのだろう。

店の表では、揚げジャガなどの軽食も売っており、生徒たちはそれをこぞって買った。昼食を食べたばかりで、かつ運動もしてないのに、さすが若い生徒の食欲は旺盛だ。

見れば将もすでに井口らと共にそれを買って、雪だらけの駐車場でパクついていた。

「センセー!」

ダッフル姿の将は、まわりの目もはばからず、聡に手を振って呼んだ。

まあ将一人ではなく、他の男子生徒もいるからいいか、と聡は「なあに」といいながら近寄った。

「センセ、アーンして」

と将は自らの口を大きくあけた。

「え?」

つられて口をあけた聡に、将は自分の爪楊枝で揚げジャガを聡の口に放り込んだ。

「熱ッ……!」

思いがけず、揚げたてのそれに聡は目を白黒させた。

「旨い?」

将はニコニコしている。聡はしばらく、はふはふ口の中の揚げジャガと格闘した。

「んもう、口の中火傷しちゃったよ、おいしいけど」

聡は、文句をいいながらも「じゃあ、集合時間に遅れないようにね」とその場を離れた。

一緒にいた井口は、もはや慣れているのか、何も言わないが、

「いいな~、年上の彼女」とユウタ。

「あいかわらずラブラブだな~」とカイト。

それぞれひやかしながら将を軽くこづいた。

揚げジャガ売り場は、それを手に入れようとする生徒で、ついに行列が出来た。

終わりのほうの生徒は、その場で食べる時間がなくバスの中に持ち込むしかなくなった。

そのせいか、出発直前のバスの中は、揚げ油の匂いで充満した。

「みんな、揃ったー?」

伸び上がって、車内の人数を数える聡の横で、

「うっ!」

と瑞樹が口をハンカチで押さえて、まさに今、閉じようとしていたバスの入り口から外に飛び出した。

「葉山さん?」

聡は、瑞樹以外の生徒が皆揃っているのを数えると、運転手とガイドに

「ちょっと待っててください」

と断り、瑞樹の後を追い、トイレへ行った。あいにく看護士の山口は、行程の後半は、もう一台のバスに移ることになっておりいなかった。

瑞樹は、みかげ石調の洗面台に屈み込むように、咳き込んでいた。聡は、教師としての責任感から、瑞樹の背中をさすった。

吐き気は強いようだが、吐瀉物はない。苦しそうなその唇からは白い唾液が吐き出されるのみだ。

「葉山さん、大丈夫?……看護士の山口さんを呼んでこようか?」

瑞樹は、洗面台の鏡ごしに聡を睨みつけた。屈み込んでいるので三白眼になっているその目は少女とは思えない鋭さだった。

「大丈夫……余計なことすんなよ」

それだけいうと体を起こして、今度はその大きな目で聡をじかに睨みつけた。

「目障りなんだよッ」

きれいな顔に似合わない汚い言葉を聡に吐き捨て、長い髪とコートをひるがえして、行ってしまった。

 
 

窓の外に蝦夷富士・羊蹄山の末広がりが見えていた。空港近くを出発して3時間あまりが経過している。

途中まではゲームをしたりして盛り上がっていた車内の生徒たちも少し疲れたように窓の外の風景を見ている。

羊蹄山やニセコアンヌプリの白い山々を望みつつ、バスの周囲には、なだらかな雪原が広がっている。

そのだだっぴろい平坦さは、まさに北海道の景色だった。

あいかわらず晴れない白い空は、少しだけグレーに変わって夕方になりつつあることを示していた。

ようやく車窓に、山肌を白く削いだようなスキー場が見えてきた。

4つのスキー場が山頂でつながった巨大スキー場は早くもオレンジや緑のライトでゲレンデを照らし始めている。

それを見て、聡の気持ちは浮き立った。

荒江高校の一行が泊まるのは、そのうちの1つのスキー場に隣接するホテルだ。ちなみに生徒のスキー講習を担当するのは、地元の講師である。

スキー講習の間、教師はけが人対策など2人ずつ交代でホテルにいることになっているが、当番以外は自由休憩ということになっている。

朝から晩まで勤務時間が長くなるので、昼間にせめてもの休憩時間を……といったところだ。滑りたければ滑ってもいいですよ、と自らもスキーをやりたい多美先生は言っていた。

明日の午前と、あさっての午後が自由時間だという聡は、北海道のパウダースノーをひさしぶりに目にして、うずうずし始めた。

まもなく、バスは、ホテルにたどりついた。

 
 

一足先にバスを降りた聡は、毛穴が引き締まるほどの冷気を感じた。眠気を誘うほど暖かかったバスの車内とは、まるで正反対だ。

雪で覆われたホテルのエントランスは夕方を迎えていて、濡れた路面も固く凍っている。気温はたぶん氷点下なのだろう。

ガイドとともに聡は、降りてくる生徒に、滑らないよう注意をしながら、様子を注意深く観る。体調が悪い生徒がいたら、ケアしなくてはならない。

葉山瑞樹は、バスを降りるなり、フン、とあからさまに聡から顔をそむける。その様子だと、体調はよくなったようだ、と聡は少し安心する。

いちばん最後に降りた将は、突如にゅっと上半身を聡に近づけた。聡は一瞬キスされるのかと、ドキッとした。

が、将は耳元に口をよせて、

「あとでデートしようぜ」

と素早く囁いた。聡が何か答えようと思ったときには聡に背を向けて、井口が待つエントランスへと走っていた。

 
 

道道沿いの集落やペンション街から離れているこのホテル、平日はほとんど一般客の利用はなく、今日も修学旅行生で貸切だということだ。

ただ、教師を含めて90名弱の荒江高校だけでは満館にはほど遠く、同じ日程でもう1校の約250人も泊まるとのことだった。

しかし、もう1つの学校は、地方の進学校とのことで、聡たち教師は胸を撫で下ろした。ケンカやナンパなどの問題はおそらく起きないだろうから。

ちなみに、スケジュールや部屋割りもホテルのほうで配慮してくれている。

荒江高校一行は、中宴会場に案内され、そこで今後のスケジュールや部屋割りの説明を多美先生が行う。

部屋割りは、だいたい生徒たちの希望通りになっていたのか、生徒たちから文句もほとんどなかった。

ただ、将ら『問題児』と見なされている生徒は、ひと塊にすると何をするかわからない、ということで、将とカイト、井口とユウタで分断され、それぞれ真面目な生徒と一緒にされた。

「なーんだ、寿司屋と一緒か。ヨロ~」

将は、一緒の部屋になった丸刈りの兵藤にニコニコと声をかけて、兵藤に迷惑そうな顔をされていた。

他に大人しい松岡が一緒だが、こっちはゲーム会社の社会見学以来、カイトと交流があるらしい。

特に問題はなさそうだ。……実は聡が考え抜いた部屋割りだが。

 
 

18時からの夕食は、レストランでのバイキングだった。全面窓の外には、すっかり夜になりナイター営業するスキー場を望んでいる。

メニューは、フライや麺類といった無難なものにまじって、北海道らしく茹でた毛ガニやタラバガニが赤く盛り上がっていて、生徒たちはこぞってそれを取った。

最初は生徒を見守っていた聡ら教師も途中から生徒にまじって、バイキングに参加する。

「アキラセンセ、一緒に食べよ」

看護士の山口と一緒に席を探していた聡は、チャミら女子生徒に声をかけられた。窓側に陣取る将の視線を感じていたが、女子の誘いを優先することとする。

すると、将は同室の兵藤や松岡を誘って女子のほうに移動してきた上に、ちゃっかり聡の隣に席をとってしまった。

最初、いきなり近くに来た将に驚いた女子も、兵藤や松岡が一緒だったので安心したらしい。

というより最近の将は「イメージ変わった」「本当はお茶目だよね」と女子の間では評判なのだ。

 

高校生らしい生徒の中に溶け込んでいる将に安心した聡は、もう一度、教師の眼でレストランをみまわした。

さっきの休憩スポットでも感じていたのだが、たった80人ぐらいなのに、同級生カップルが案外多い。

だいたいは、カップル2組ほどで席をとってダブルデートの趣になっているが、中には大胆にも2人きりで、お互いの口に料理を入れあっている生徒もいて、聡は驚いた。

まあ『青春してる』んだろうから目くじらを立てる気は、聡にはない。

そんな賑やかな中、瑞樹があいかわらず隅っこでポツンと座っているのが見えた。

「センセ、アーン」

振り向くと将がハンバーグか何かをフォークで聡のほうに向けている。

「んもうっ」

と聡はフォークを持つ将の腕を握ると、

「ハイ」と将自身の口にそれを入れてやった。

看護士の山口が将のトレーを見て気付いた。

「鷹枝くん、カニ食べないの?」

「ああ、俺、あーいう、殻をむくようなもの苦手なんです」

「わかるー。でもさぁ、カニ自体は嫌いじゃないんでしょ?」

チャミが口を挟んだ。

「そうそう。カニはわりと好きなんだけど、殻をむくのが面倒くさいだけ」

と将は答える。その答え方は、まるっきり普通の17歳、高2で、聡は安堵するような、でもどこかで胸がチクッと痛むようなそんな気がした。

「単なる面倒がりじゃん」

兵藤がシニカルに笑った。

「何だよー」

将は兵藤の皿から輪切りのトウモロコシを奪った。「あー!」兵藤が抗議の声をあげる。

「せっかく北海道なのに。食べなさいよ。美味しいわよ。ついでに持って来てあげるから」

聡は空になったトレーを持って席を立った。

テーブルとテーブルの間隔が広くあけられた『通り道』に出たとたん、前から走ってきた生徒にぶつかった。

「わ!」

聡は危うくトレーを落とすところだった。そんな聡を振り返ることなく走り去る長い黒髪。

瑞樹だった。瑞樹は、また気分が悪くなったのか、口を両手で押さえて手洗いのほうへ一目散に走っていったのだ。

「アキラ先生。彼女……つわりじゃないかしら」

いつのまにか聡の後ろにたっていた山口が、呟いた。