第105話 入院中(1)

コン、コン。

病室のドアがノックされて、ベッドの上でパソコンをいじっていた将は急いで振り返った。

「なーんだ。山口さんかぁ……」

入り口に看護士の山口の姿を見たとたん、がっくりとリクライニングにしたベッドにもたれた。

「ちょっと、なーんだ、はないでしょう」

白衣姿の山口は、笑顔で軽く抗議した。

「内科病棟の看護士ってよっぽど暇なんだな」

将は起き上がると、再び持ち込んだノートパソコンの画面に向かった。

「んま!失礼な。せっかく心配して休憩時間に顔を見に来てあげたのに」

修学旅行に同行した内科病棟の看護士・山口は、聡と行動を共にしていたせいか、すっかり将とも顔なじみになってしまい、外科病棟に入院した将のところにもこうやってちょくちょく様子を見に来るのだ。

将が入院して2日目になる。……つまり、昨日から入院している。

パソコンや携帯が自由に使えるからと個室に入院した将だが、今日の昼過ぎ、すでに退屈していた。

ちなみに、入院の手続きをしたのは義母の純代だが、将に嫌われていることをよく知っている彼女である。必要なことだけを整えると、即座に退散してくれて、将はホッとした。
看護士の山口がちょくちょく来るのは、そうした将の複雑な家庭事情を察したから、というのもあるのだ。

ちなみに将の骨折は『腓骨』といって膝下を支える2本の骨のうち細いほうの骨の骨折だった。

「ちょっとさぁ、山口さん。ここに腓骨骨折した人の話が出てるけど、2泊3日で退院したって書いてあるぜー。何で俺、2週間いないといけないのサ」

将はネットを表示したパソコンの画面を見ながら山口に文句を言った。

「鷹枝くんの場合は、折れた骨がずれてたの。同じところが折れてても、ずれていない場合は短いのよ」

たしかに将の折れた部位は、少しずれていたため、手術が必要だった。折れた骨に金具を入れて補強している。その左足は今、ギプスがはめられて吊り下げられている。

……この、昨日行われた手術が最高に痛かった。

骨に金具を入れているときは、麻酔が効いていたのだが、最後に皮膚を縫合するときに、麻酔が急激に醒めてきた。局部麻酔だったので、当然、将は痛みを訴えた。麻酔を追加してくれるだろう、と思ったのだが。

『もうすぐ終わりですからね。我慢してください』

と我慢を強いられたのだ。あの縫合時のキリキリとした痛みは、将のいままで感じた痛みで、もっとも鋭く感じられた。殴られようと、根性焼きされようと、あの麻酔切れの痛さに比べればまだ甘い。

12のときの大ヤケドの皮膚移植手術でさえ、子供だったせいか、もう少し優しくされたような気がする。昨日の痛みをリアルに思い出して、ぞっとする将に山口は笑いながら続ける。

「……それに、あなたの場合、早く退院させると絶対に無茶をするでしょ。だからよ」

将はプーッとふくれて見せた。が、気を取り直して、

「……センセーは?」と訊いた。

「古城先生の風邪? まだよくならないでしょう?」
「……そっか」

将はがっかりした。

 

  

あの避難小屋での極寒の一夜があけて、聡はやはり風邪をひいていた。

それでも熱で赤い顔をしながら、山口に薬をもらっただけで、最終日だからと、ほぼ立ち詰めで生徒の引率をやりとげた聡。

千歳空港での自由時間、生徒たちが土産物を買っているあいだだけ、聡は空港のベンチで正直にだるそうにしていた。

とりあえず倶知安の病院で骨折の応急処置をしてもらった将は、松葉杖を傍らに置いて、聡に付き添った。どっちがどっちに付き添っているのか分からない状態だ。

風邪の教師と骨折生徒が二人きりでベンチで安静にしていても、それほど不自然ではないのが不幸中の幸いだ。

千歳空港の土産物売り場は広い。カニやホッケ、鮭などの海産物や『白い恋人』などの菓子類でちょっとした市場の様相を呈している。活気ある喧騒の中に、離発着のアナウンスが混じる。そんな騒々しさの中で、聡は傍らの将に話し掛けた。

『将……じゃない、鷹枝くん、お土産買わないの?』
『買ってくヤツ、いねえし』

『自分用にカニは?』

聡は赤い顔をしながらいたずらっぽく笑った。

『何、また、むいてくれんの?アキラ』

具合悪そうな聡の冗談だが、将は冗談で返した。

『だーれが』

と聡はひとしきり笑いつつも

『その足だと動きにくいもんね……。もし、何かほしいのがあったら先生が買ってきてあげるよ? ホッケとか、イクラ、美味しいって言ってたよね』

どちらもホテルでの食事で出たものだ。聡は気を遣って立ち上がろうとした。

『いいよ、アキラ、じっとしてろよ。どうせ俺、明日手術だし、いいよ。……また二人で北海道来ようぜ』

将は思わず、聡の頭をくしゃっと撫でた。

『誰かが見てるかも……』

といいつつ態度で抵抗しないのは、やはりダルいのだろう。聡は膝の上に頬づえをついた。

『……スキー嫌いにならなかった?』

ダルいのか視線だけを将によこす。

『なんでぇ?面白いじゃん。またやりたいよ』
『そう……。よかった。最初にそんなケガしたから、こりごりになったんじゃないかと心配しちゃった』

と聡は熱で潤んだ瞳を細めて微笑んだ。頬に柔らかい髪が貼り付いている。その愛らしいけど弱々しい笑顔に将は抱きしめたくなるのを、必死で堪えていた。

そこへ出発便のアナウンスが響く。好きな人と空港で二人……病気の彼女と二人で出発便を待っている。何かの映画で見たシチュエーションだ。

空港で『助けてください』って叫ぶやつ。

あんな、彼女が先に死んでしまう……悲恋の映画と、自分たちはまったく違う。このとき、将は二人の幸せな未来を、まるで疑っていなかった。

 

  

 
それは、ほんのおとついのことなのに、遠い昔のように将は思った。聡の顔を見ずに、もう何時間過ごしてしまっただろう。数えて将はため息をついた。

「よっぽど古城先生が好きなのね……」

山口はつぶやいた。

「悪いかよ」

将は、悪びれもせずに答えた。

もちろん、山口は将と聡の関係は知らない。

単に将が聡を慕っていると思っているだけで、まさか二人が大人の関係の一歩前……深い口づけをしたり、上半身だけとはいえ素肌を交わしたことがあるなどとは知らないのだろう。

そんな秘密の記憶を思い出したこともあり、将は少し愉快になって口の端で微笑んだ。

 

  

  
日曜から修学旅行だった2年生は、東京に帰った翌日……つまり昨日は振替休日だった。

昨日まで具合が悪かった聡だが、今日はきちんと学校に行ったという。それはメールのやりとりで将も知っている。

だから、病院に顔を出してくれるかも、と期待したのだが、まだ風邪がよくならないのなら難しいだろう。

聡のかわり、というわけでもないが、午後も遅い時間になって、井口、カイト、ユータが病室に現れた。

「個室かよ~、すっげーな」

とカイト&ユータはあたりを見回した。

「超ヒマでよぉ」

と将は伸びをした。

「いいじゃんよ、昼寝し放題でさー」

と井口は勝手に椅子を出してくるとベッドの脇に座り、

「俺、ここに泊まっちゃおうかな」

と笑った。半分ぐらいマジで言ってるな、と将は思った。

「なー、ところでさぁ」

カイトが目を三日月のようにニヤニヤさせて将に話し掛けた。

「アキラセンセとの一夜、どうだったの? やっぱハダカで抱き合ったわけ?」
「バッカ。おまえなー、冷凍庫の中でそれ出来るか?」

将は顔をしかめながら言ったが、

「いや、激しく愛し合えば大丈夫でしょ」

とカイトは一人うなづいた。

将は「ハァ?」と呆れた声を出しながらも

――こいつらの発想って……。でも結局俺も同じだったんだけどさ。

と気付いてちょっと恥かしくなった。

「てゆかさ、鼻水も凍るんだぜぇ。そういう状況じゃ……おいユウタ何やってんだ」

きわどい単語を並べて、あの状況でセックスなどできない、ということを証明しようとしていた将は、左側にまわりこんで将のギプスに何かしているユウタに気付いて咎めた。

「いやー、お約束でしょ」

こちらもニヤニヤ笑うユウタはいつのまにかマーカーを何本も持っていて、将のギプスに落書きをしていた。

「コラ、やめろよ」

しかし、固定された足を動かすこともできず、将のギプスには見事に

将と聡の名前付きの相合傘を初め『巨乳アキラ命』『アキラ先生LOVE』などと下品な落書きが書かれてしまった。カラフルに5色のマーカーをふんだんに使って、グラマーな女性のヌードまで描かれている。それには、もちろん矢印で『アキラ先生』と示してある。

「くっそぉ、覚えてろよ~、てめ~」

拳を握り締める将に、ユータはそれをよける仕草をした。

「ところでさ、アキラ、具合まだ悪そうだった?」

将は井口に訊いた。

「ああ。悪そう、悪そう。映画見ながら鼻水ぐしゅぐしゅしてた。でも今日は社会見学を休みにしてただろ、それ正解って感じ」

考えれば、今日は金曜日、通常なら6時間目に社会見学がある曜日だが、今週は修学旅行があるため、社会見学のほうは休みにしていたのだ。明日は土曜日だが、そんなに具合が悪いのなら聡はこないだろう。

将は、また、ため息をついた。

 

  

   
下品な落書きをされてしまったが、3人が来たおかげで、退屈がまぎれたのも事実だ。

泊まりたそうにしていた井口だが、夕食時間になると素直に帰っていった。

将はまた一人になり退屈になった。今日はテレビも見たいのがない。

「あーあ」

将はひっくり返ると、携帯のメールをチェックした。落としてしまった携帯の代わりに、急遽家に取ってあった前の携帯を引っ張り出したものだ。

聡からの新着は入っていない。やっぱり具合があまりよくないのだろう。

『聡、俺、すっげー暇』

とだけメールを打つ。ちょうど送信し終わったとき。将の部屋のドアがノックされた。面会時間ギリギリだ。

また看護士の山口か、でも聡かも?

期待を捨てきれずに、体を起こしてドアを振り返った将が入り口に見たのは、制服姿の葉山瑞樹だった。
 

第104話 雪山の一夜(3)

それから、1時間あまり、夜が明けるまでが地獄だった。二人は明け方の厳しい冷え込みに震え上がることになった。

その冷え方ときたら、あの満天の星空が地上の熱気とパワーを吸い込んでいくようにさえ思えるほどだ。

さっきと同じ体勢で、二人は体を密着させたが、その寒さは寝付けないほどだった。

「何時ごろ、日が出るかな」

将が、寒さに耐えられず、口にした。

「さあ……。東京は6時半すぎだけど……。ここは緯度が高いから……」

答える聡もさっきから歯がガチガチと鳴らせている。

だから、明かり取りの窓がうっすら青く壁に浮かんだとき、将は待ちきれずに起きあがった。ドアをあけると、あたりはさっきよりかなり明るくなっていた。

あいかわらずの青い世界だが、そのトーンは2段ほど明るくなって、ものの形もよく見える。あれほどあった星も、ほとんどどこかへ消えてしまったようだ。月の光も弱弱しくなり、刺したスキーやストックの陰も消えている。

将は雪の中をズボズボと歩いて、東に開けた斜面に立った。羊蹄山のむこうの空が白んできている。聡も将のあとを着いて来た。いつのまにか吐く息が白に戻っている。

「もうすぐ夜明けだ。……アキラ、降りよう!」

将は意を決したように聡に呼びかけた。聡は首を振った。

「救助を待ったほうがいいと思うけど……」
「いや、この寒さはもう限界でしょ」

将はいっそう白い息を吐きながら、組んだ腕をさすった。

「でも、将、ここを降りられる?」

聡は目の前の急斜面を見て、将に問う。将はなんといっても、たった2日スキー研修を受けただけなのだ。

「大丈夫だよっ!」

そうは言うが、たぶんボーゲンレベルだろう。

それに、明るくなりつつはあるが、こんな明け方、アイスバーンが心配……と一瞬聡は思ったが、それについては心配なさそうだ。これだけ新雪があれば、凍った斜面などありえない。

将のいうとおり、寒さは限界値に思える。

もう明るくなりつつあるから、救助が来るとは思うが、自力で降りたほうが、その分温まるかもしれない。

聡は考えたあげくそう判断すると、多美先生に電話をして、無事なことと、自力下山を試みることを伝えた。

「将、絶対私のいうとおりにするのよ。いい? 危険なことはしないで」
「わかったよ。そのまえに……」

将は聡を抱き寄せた。二人の吐く白い息が交じり合う。雪はだんだん、冷たい青からラベンダー色に変わりつつある。

だんだんとはっきりとしてくる羊蹄山に見守られて、二人は口づけをした。美しい天上の世界、二人の一夜を惜しむかのように……。
 
 

刺したスキーは昨日より深く埋まっていた。それを抜いて、装着する。

新雪は15センチ近く積もっているようで、スキーを履いた足が板ごと埋まっていくようだ。

とりあえず、ロープが張ってある終わりまで、聡が先行して、ゆるゆると進む。ゆっくりと進んでいるせいか、スキー板は新雪に埋まってしまい、まったく見えない。

聡は将を振り返った。まだ緩斜面のせいか、問題なく滑っている。ときおりストックを振り返る聡に向けて振り回すあたりは余裕しゃくしゃくだ。

傷のない滑らかな新雪に二人がつけた、シュプールとはいえないボコボコの通り道が残る。

そしてロープが終わった。

ここからは、いやがおうでも急斜面を下りなくてはならない。

新雪の下は圧雪コースだから凸凹はないとはいえ、今までの緩斜面から見ると、まさに落ちていくような『壁』だ。コースガイドによれば、最大斜度36度だという。

長い『壁』は、新雪に覆われて、滑らかなラベンダー色に沈黙していた。ひそ、とも音がしない。

聡にとってはこれぞ嬉しいパウダーの斜面なのだが、初心者の将が一緒なので、心配が先に立ってしまう。

「将、いい? スピードが出過ぎないようにゆっくりと横切るように行くのよ」

聡は初心者である将に注意をあたえる。

「……それと体重が後ろにかかるとスピードが出ちゃうから。スキーを止めたいときは、足の親指に力を入れるのよ。いい、親指。それでもだめなときは、斜面の山側に転んで」

あれこれ注意をする聡に、将は

「わかった、わかった。大丈夫だから心配しないで」

そういうと、待ちきれないように先に滑り始めた。将も、どうやら、この処女地に手をつけるのが嬉しくて仕方がないらしい。

とりあえず聡のいうとおりに、斜面を横切るように行っている。そこまではスムーズに見えた。
が。ターンしようとしたときだ。

さすがに緩斜面でしかターンをしたことがない将は、重力に負けて曲がりきれず、そのままスピードを出して下に滑り始めてしまった。

「わあっ!」

加速していく。将はもうわけがわからなかった。聡から受けた注意も、研修で受けたことも忘れてしまうようなスピード。しかし、雪しぶきをあげて、誰も滑っていない斜面を滑る快感に将は恐怖を忘れた。

「イヤッホウ!」

叫びながら、斜面を突き進む。しかし、それは一瞬だった。猛スピードで進む将に、コースとの境界を示すロープ見えた。見えたが最後、ぐんぐんと近づいてくる。

「うわああああ!」

将はすんでのところで転がった。転がりながらも慣性で体が斜面の下へと滑っているのがわかる。将が止まったのは、転んだところからさらに5m以上も下だった。

「将!」

聡が叫びながら、滑り降りてきた。雪しぶきにその下半身を覆い隠すようなダイナミックで華麗な滑りだ。

将が斜め一直線に汚くひっかいたような雪面に、美しいカーブを描く。それは機械で描いたかのように、一定間隔の波線だった。どこかで見たプロモーションビデオのようだ。

将は倒れたまま、降りて来る聡に見惚れた。すぐに将の近くまでやってきた。

「大丈夫?」
「……大丈夫デース」

将は雪の斜面の山側に寄りかかるようにして聡に手を上げた。

「アキラ、熱あるのに、スゴイな」

将は素直に感心を口に出した。

「熱なんて……。あれ、将、スキーは?」

将の片方のスキー板は見事にはずれていた。聡に言われるまで将は気付かなかった。あたりを見回してもそれらしきものはない。どうやらフカフカの新雪が、はずれたスキー板を埋めてしまったようなのだ。

「ちょっと待ってて」
聡は、横歩きで将の転んだあたりまで登っていくと、ストックをあたりの新雪に刺しこみながら板を探した。

将も同じことを片足でやろうと思ったが、なにせ雪が深いので埋まってしまう。情けないが、聡が板を見つけてくれるのを待つしかなかった。

板はしばらくして見つかった。新雪の急斜面は外れた板を装着するのも一苦労だった。ようやく立ち上がった将に、聡は羊蹄山に向かって右側に指をさした。

「将、もう曲がらなくていいから。あっちのほうにできるだけスピードを出さないように行って」

今、幸いコースの一番左端にいる。右へと降りていけば初心者コースの入り口に入るのだ。ちょっと自分が情けなくなった将は

「ウン」と神妙に答えた。
 
 

それから、スピードに歓声を上げる&転がる、を繰り返しながら、ようやく上級者コースを脱出できた。あとは初級者コースの組み合わせで、下まで降りられる。

研修で使っているスキー場の隣に降りることになるが、タクシーでも使えばいいことだ。

しかし、初級者コースといえど、ときどき急なところもある。将はそれが楽しくてたまらなくなってきた。

スピードをあげて、新雪を滑っていくのがたまらない。しかも誰もいない、傷一つない新雪に覆われた斜面だ。

途中で太陽も羊蹄山の裾から顔を出してきた。陽の光があたると、新雪は、雪の結晶を浮かびあがらせてキラキラと輝きだした。

透明な粒が集まって、白く反射している。だから目を射るような白さなのだ。将は何回目かに転んだときにそれを目の当たりにした。

振り返ると、聡と将が付けた2つのシュプール。大きななだらかなカーブを描く聡のシュプールに比べて、将のそれは雑でところどころ転んだあとさえある。転んだ将に追いついた聡は

「もっとゆっくり滑んないと!」

と呆れて転んだ将を見下ろしたが、このスピード感こそがたまらないのだ。ゆっくり滑ると雪が深くえぐれるようだが、速く滑るとシュッと雪の表面を薄くそいでいくようなのだ。この『そいでいく』感覚がいい。

「わかったよ。ハニー」

エイヤッと将は雪から起き上がると、聡の頬にチュッとキスをした。しかし聡のアドバイスに反して、将はむしろ直滑降に近い角度で滑っていった。

「もうっ」

聡は将の後を追った。

「アキラ~!」

驚異的なスピードで滑り降りた将は、今回はなだらかなところで転ばずに止まることができた。遅れて続く聡へとストックを振り回した。

「下が見えてきたぜーー!」

バーンの下に、麓の町が見えている。こっちのスキー場はホテルが何軒かあり、ペンションなども寄り集まっているようで、なかなか賑やかそうだ。

聡はホッとした。とりあえず怪我もなくここまで将を連れてこれた……というより暴走する将に連れてこられた、といったほうが正しいかもしれない。

とにかく初心者連れとしては驚異的なスピードでここまで来たと思う。

「最後、キツイから気をつけてね。雪も少ないし」

麓に近いこの辺は、新雪もうっすらとゲレンデを覆う程度しかない。その下は凍りついたアイスバーンなのだ。

「大丈夫って!」

将は、ろくに休みもしないで、最後の坂をほぼ直滑降で滑り始めた。

「イヤッホウ!」

嬌声を上げる将を聡は

「……元気ね」

と見送った。聡はやはり少し熱があるのか、ここまでで少々疲れを感じていた。

と、そのとき。下のほうで、将が頭を下に向けて転んだ。変な転び方だ。スキー板がまたはずれている。

「将!」

聡は、あわてて将のところまで滑り降りた。

思ったとおり凍りついた坂は硬い。それだけでなく、昨日荒れたまま凍りついたのか、ところどころ硬い凸凹がある。どうやら将はその1つに足を取られて転んだらしい。

「大丈夫?」
「……痛ってえ」

顔をしかめながらも将は『大丈夫』と答える。はずれたスキー板は、今度は容易に見つけられたが、装着するときに将はひどく顔をしかめた。

幸いバーンも下のほうだったので、なんとか麓まで滑り降りたが、スキーをはずしても膝下が痛い。

麓では、多美先生がホテルのワゴンをこちらにまわして迎えに来てくれていた。

ホテルに着いた将は、単独行動をこってりと叱られた。罰として3日目の研修……といってもこの日は東京に帰る日なので、2時間ほどしかないのだが……に参加することを禁じられ、正座1時間を命じられた。

しかし、膝下の痛みは、正座もできないほどだった。

おかしいと病院に行った結果、将の膝下の骨は、見事骨折していたのだった。

第103話 雪山の一夜(2)

なぜ、瑞樹はそんな嘘を聡にわざわざついたのだろう、と将は考えていた。

9月3日以来、本当に瑞樹とは関係もないし、だいたい関係があった頃から避妊はきちんとしていた。将の子供などではないことは、当の瑞樹が一番よく知っているはずだ。

――俺とアキラへの嫌がらせか?まったく。

将は、不快感に黙り込んでいた。

「私……、将を信じていいんだよね?」

聡は将に問い掛けた。暗がりだけど、聡の声はせつなげなのがわかる。

「あったりまえだろっ!」

不快感のあまり、強い語調になってしまった。それをフォローするように、聡をもう一度抱き寄せる。

「アキラ、俺を信じて……」

吐息のように耳元で囁く。

「俺は、アキラを絶対に、絶対に、裏切らない。アキラを悲しませるようなことだってしない」

暗闇に響く声は、自分自身への新たなる誓いとなった。

「将……」

聡もまた、将の胸にすがりついてくる。安心したのか、泣いているようだ。

他人を愛することを初めて教えてくれたひと。そのひとも自分を愛している。この至福を守るためには何でもする、と将は思っていた。

真っ暗な避難所は、しんしんと寒さを増していた。あいかわらず、ドアを叩く風の音は激しい。携帯の時計を確認すると、もう21時をまわっていた。

「アキラ、寒い?」

気がつくと聡は体をこきざみに震わせていた。

「大丈夫」

将は暗がりの中、聡の額に手を置いた。

「ちょっと熱いよ、アキラ」
「大丈夫だったら」

聡はそういうが、大丈夫な熱さではないと将は思った。あいにく避難小屋には毛布とかそういうものはない。

カイロを持ってくればよかった、と将は舌打ちした。昨日のスキー研修1日目には持っていたのだが、晴れてて逆に暑くなったので、今日は置いてきたのだ。

よく、遭難した男女が、裸で抱き合って温めあう……というシーンがある。しかしこの、おそらく氷点下10度以下の、まさしく冷凍庫状態の中でのそれは自殺行為だ。

ウェアを着たままでも、せめてもっとくっつければと思うが、壁に据えつけられたベンチでは並んで座るしかなく、体をひねって抱き合うのも疲れてしまう。

将は、意を決して立ち上がると、ウェアの上着を脱いだ。それを闇の中の聡に手探りで着せかける。

「ちょっと、将、だめよ。将のほうが凍死しちゃう」
「アキラ、こっちに来て」

「え?」

聡は暗闇の中、将に手を引っ張られた。その手は低いところに聡を導いた。将は小屋の床にじかに寝転んでいるらしい。

「床がちょっとだけ冷たいけど、この体勢のほうが、体をくっつけられるだろ」
「将、だめよ、そんな格好で。底冷えしちゃう」

小屋のコンクリートの床は、雪がガチガチに凍りついている。

「だから、アキラ、ほらぁ!」

将は半身を起こすと、床の上にしゃがんだ聡を抱きしめた。

「アキラは熱があるんだから。逆に俺の湯たんぽになってよ。外側はそれ着てさ」

聡を抱きしめたまま、将は横に転がるように寝そべった。

「俺は若いんだから大丈夫。子供は風の子っていうだろ。ほら聡はフードかぶって」

聡のウェアのフードを頭にかぶせて枕がわりにさせる。

「んもう、人のこと年寄りみたいにぃ……」

そんな口答えをするぐらいだから、まだひどくはないんだな、と将は安心した。

聡は怒るふりをしながら、聡は将の自己犠牲的な優しさに感動していた。

「待って」

聡は自分のネックウォーマーをはずした。

「これを将の枕にして」

凍りついた床にじかに頬が触れたら凍傷になってしまう。

「ありがと」

二人、凍った床に横たわると、ぴったりと体をくっつけて抱き合う。

「将、寒くない?上着なくて大丈夫?」

スキーウェアの防寒性能は高い。もちろんその下にも防寒のアンダーウェアを着ているはずだが、スキーウェアがあるのとないのでは、耐寒性はかなり違ってくるはずだ。

もちろん、聡は将のスキーウェアに袖は通さず、外側に掛けるようにしている。将の体の半分をせめて覆いたいからだ。

「アキラがあったかいから大丈夫だよ。……それにしても、スキー靴ってこの体勢だと邪魔くさいな」

将は笑った。ほんとうは、アンダーウェアとその下のTシャツだけになった背筋がぞくぞくするほど寒い。

がっちりと膝下を守るプラスチックの重いスキー靴は、足をからめようとすると、ガチンゴチンとぶつかり合う。

将は、片方の膝を、聡の両腿のあいだに割り込ませて来た。こうしないと体が密着しないのだ。両腿のあいだに将の足を感じた聡は、大胆にも、上になった足を高い位置で曲げると、将の腿にからめた。裸だったら、何かの体位になりそうな体勢。

「興奮しちゃうな」

暗がりで見えないけれど将は微笑んでいるようだ。そのまま聡は将にからみつけた腕に力をこめて体をより密着させた。寒そうなアンダーウェアだけの首と背中をできるだけ手で包む。

最初、下からの底冷えが冷たく染みるようだったが、こうしていると、だんだん温まってくるようだ。

「……したい?」

聡はいたずらっぽく訊いた。

「うん」

将はうなづいて聡の背中をなでた。

「あたしもしたい」
「ウソっ!」

将は半身をガバっと起こした。

「……バカね。この状況で出来るわけないじゃない」

聡は離れた将の体を『寒いから、ほら』とまた抱き寄せた。

「もー。アキラの意地悪~」

といいながら将は再び聡を抱きしめる。

「出来ないかな。やってたらあったかいんじゃない?」

と将はまだ未練がましく囁いた。

「やってる際中はね。でも体力を消耗するから、終わったとたんに凍死しちゃうよ、たぶん」
「そっかー、残念」

教師と教え子で「したい」「やってたら」「やってる」という会話。

真面目に話しながら聡はなんだか可笑しかった。

それきり、二人は黙った。風がドアをノックする音を聞きながら、いつしか二人はうとうとしていた。

眠ったら死ぬかもしれない、というのは頭にあったが、寒さや空腹をごまかす一番の方策が襲ってくる眠気に従うことだったのだ。

しかし、さすがに寒いせいか、眠りは浅い。睡眠の深みにはまりそうでいて、すぐに風の音で引き戻される。そのたびに互いを抱く腕の力を強める。それが何度か繰り返されて。

再び寒さに意識が戻った将は、しばらくして風の音がやんでいるのに気付いた。あいかわらずあたりは真っ暗だ。

懐にあった聡の携帯をあける。明るい画面は聡の寝顔と、5時08分という表示を浮かび上がらせた。

起き上がると、ぞくっとした寒さに襲われたが、風の音はたしかに止まっている。

「……将?」

将の体が離れた冷えで聡も目を覚ましたらしい。

「ごめん、起こした?」
「どうしたの?」

聡も体を起こした。

「風が止んでる。ちょっと外を見てみる」

ドアへと立ち上がる将に、聡は自分の体にかけていた将のウェアを渡そうとした。

将は『ちょっとのぞくだけだから、聡が着とけ』と押し戻して、入り口のドアをあけた。

とたんに、尖った冷えが将の頬を刺した。……密閉された小屋の中は、寒いとはいえ、二人の体温で外よりははるかに温まっているらしい。

外界は静まり返り、傷一つないなめらかな雪の表面が青く浮き上がっている。それは神秘的なまでに美しい青だった。

将は鋭い寒さに、顔にまでも鳥肌がたつのを感じながらも誘われるように外に出た。

踏むのをとまどうほどの雪の表面。

将は大きな罪を犯すような気分で、思い切ってそれに一歩を踏み出す。将の足は吸い込まれるように新雪に沈んだ。かろうじてスキー靴の上部までは覆わなかったものの。

さっき目印に刺したスキー板とストックが、沈黙のまま、まろやかな雪の表面に影を落としている。それほどまでに明るい夜空だった。

空の雲はいつのまにか、どこかに行ってしまったようだ。西の空に浮かぶいびつな形の月が空を瑠璃色に照らし、どこから集まってきたのかと思うほど、密集する星々。

ドアからの青い光に誘われて聡も将の後ろに従った。聡も雪に傷をつけるのがしのびなくて、将の足跡を踏む。空を見上げて佇む将の背中にそっとウェアを着せ掛ける。

「すごいな。気持ち悪いぐらい」

将は星を見上げて言葉を漏らした。聡も見上げる。手が届きそう、とはこのことだ。夜の中でも白く浮かび上がる周囲の山々が見えなければ、宇宙空間に投げ出されたかと錯覚を起こしそうな星の数。

未踏の惑星に降り立ったかのような静寂と星々の海が二人を包む。

「ホント。すごいね」

青い山々の遥かに、深い紺色の日本海が在った。海岸線にそって、灯りがポチポチと見える。それは盛大な星の祭典を繰り広げる夜空から比べれば、遠慮がちに見えるほどだった。

夜に歓喜するような空に比べて、地上は息をひそめて、沈黙を守っている。地上側の二人は言葉もなく、立ち尽くした。

「あっ!」

二人揃って声をあげる。大きな流れ星が、空を斬っていったのだ。

「見た?」
「見た」

二人は顔を見合わせると、また視線を空に戻した。すると、今度はコロコロと転がるように星がいくつも連続して落っこちた。伏せたおわんのような天球をなぞるように、コロコロ、コロコロと転がる。

「すごい……本当に降ってきてる」

将は感動のままに口に出した。

「あれ、……隕石なんだよね。見えないよね」
「アキラ、現実的すぎ」

将は、聡の肩を抱き寄せた。明るいので吐く息も見える。

「アキラ、何か願った?」
「将は?」

「たりまえじゃん」
「何を願ったのよ……」

青い世界に聡に微笑みかける将の顔が幽かに浮かぶ。聡は問いかけながらも、それがわかっている。

将は聡を抱きしめると、唇を重ねた。

空気までもその冷気に青ざめたような、この蒼い夜に、お互いの唇だけが、体だけが温かい。

取り残されたような、この瑠璃色の世界で、二人は長い口づけを交わした。

第102話 雪山の一夜(1)

「アキラ、大丈夫か」

激しい雪と風の中で、ひとしきり抱き合うと、将はグローブのまま聡のむきだしの頬を両手で包んだ。それはリンゴのように真っ赤になっている。

聡はそのまま、将を見つめるとこっくりと頷いた。

「眉毛が凍って真っ白だぞ」

将はやさしく、聡の眉毛や瞼を撫でた。張り付いていた氷が薄い破片となってサラサラと落ちていく。そうする将のニット帽から出た髪や眉毛にも次々に白い雪が張り付いていく。

さかんに吐き出される白い息は、あっという間に、将の睫や眉毛に白く結晶してしまった。

将は、聡のネックウォーマーを目のすぐ下までずり上げた。

「すぐそこが避難小屋だからな、このスキー板使っていい?」

将は聡のスキー板を手に取った。

「何に使うの?」
「こうやって、」

将はスキー板を雪に斜めにしっかりと突き刺した。

「目印にしないと、方向がわからなくなる」

吹雪に前髪をなびかせて、将は白い歯を見せて笑った。

見ると聡の手を取って将が歩く方向には、横殴りの雪とまっ白なガスの中、かすかに、将のスキー板が斜めに突き刺さっているのが見えた。

将は、聡のところまで来るのに、元来た方向に向けてスキー板やストックを突き刺して、自分を見失わないように工夫してきたのだ。

何せ視界ゼロ、といっていいほどの状況である。

「板の数は多いほうがいい」

将は聡の手を取って、見えていた板のところまで歩いた。それはわずか2m足らずの距離だった。そこで将は目を凝らした。次の板を探しているのだ。しかし見つからない。少し離れているのだろう。

将は聡の手を握ると、

「絶対に足をそこから動かさないで。万が一のためにスキー板を刺しておけ。いいな」

と聡に言い聞かせ、自分は聡の手を握ったまま、大きく一歩踏み出した。聡の体も大きくそっちへ引っ張られる。将はそこでしばらく目を凝らした。

目印の板はなかったらしい。将は聡の手を握ったまま、横にもう一歩進んでまた目を凝らす。

「あったぞ……あっちだ」

将は聡の手をとってさらに進んだ。それを何度か繰り返して、ようやく避難小屋に着いた。聡がうずくまっていたところから避難小屋まではたったの10mあまりだった。

コンクリート製の避難小屋は、思ったよりずっと狭く、暗い内部には壁に沿ってベンチが作りつけられているだけの簡素な作りだった。いちおう明かりとりの窓はあるが、この雪であまり役割を果たしていないようだった。

凍り付いて開かなくなるといけない、と将が開け放しておいたという出入り口のドアからは、雪が吹き込んで中にまで雪が積もっていた。

そんな場所でも、雪と風の吹きさらしの外に比べると、天国と地獄ほどの差があった。

聡は凍って縮こまっていた肺が、溶けたかのように息を吐き出した。暗がりに吐く息が白く立ち上るのを見て、逆に暖かさを感じるほどだ。いままでは吐く息の白さもわからないほどだったのだ。

将は、ドアのところに凍りついた雪をガシガシとスコップで削って、ドアを閉めようとしている。

「誰も、いないの?」
「うん。俺一人だった。……すっげー心細かった」

将は、寒さでやや赤くなった鼻をすすると、少し照れたように笑った。

「……将」

聡はスコップを使う将に後ろからしがみついた。

「あたし、本当に死ぬかと思った……将が来てくれてよかった」

将は、背中でドアを押さえるようにすると、聡を受け止めて、もう一度抱きしめる。

抱きしめられた聡は自分から、将の頭に腕を伸ばして、彼の唇に自ら押し付けるように自分のそれを重ねた。それは冷えびえとした空気の中、本当に温かかった。

お互いの熱い命をむさぼるように、柔らかな唇を重ねる。

外では雪と風がビュービューと音を立てて、それがときどき将が背中で押さえるドアをがたがたと揺らす。急速に避難小屋の中は暗くなってきた。

「アキラ……、アキラは俺を迎えに来たんだろ?」

将は唇を離すと囁くように言った。

「……そう。あれ……何で知ってるの?」
「メール見た」

「メールって、携帯電源切ってたよね」
「切ってないよ」

と答えて将は、考える。

「……あー、でも寒いからバカになってたかも」

そういえばさっき、聡の携帯も使い物にならなかった。

「暖めたら使えるかな、アキラ携帯出して」
「将の携帯は?」

「リフトの上でメールチェックしてたら落としちゃった」
「うっそー!」

聡は一瞬絶句したが、なんだか笑いがこみ上げてきた。暗がりの中、二人、顔を見合わせて笑う。

聡の携帯はウェアの中で暫く温めると生き返った。表示を見ると16時30分になろうとしていた。

とりあえず多美先生に連絡を入れる。

「古城です。鷹枝くん、見つけました。……今一緒に山頂の避難小屋にいます。……ええ山頂。ええ、そうなんです。無事ですけど……、視界が悪くて降りられないんです……」

最初はっきりとしていた聡の声だが、どんどん沈んでいくのがわかる。

「……わかりました」

携帯を切った聡に、将は即座に問い掛けた。

「何だって?」
「強風で頂上のリフトもゴンドラも止まってるんだって」

聡はため息をついて携帯を下ろした。

「いちおう救助を頼んでみるっていってたけど、たぶん風と雪がおさまるまで無理だと思う……」
「それっていつまで?」
「さあ……」

将は『貸して』と聡の携帯を奪った。

「ちょっと、連絡手段これだけなんだから、電池大事にしないと」

と聡は言ったが、将は聡の携帯で気象情報をチェックしているようだった。

「ガーン」

将はベンチの後ろの壁に寄りかかると、聡に投げるように携帯を返した。

「前線の通過で明日未明まで、ところにより風雪の強い状態が続く、だって〜」

聡も携帯の画面を見た。

こんな山の上はまさに『ところにより』の『ところ』に該当するのだろう。最悪、ここで夜明かしをしなくてはならない。

外にいるよりはマシだが、暗くなるにつれて、ここもしんしんと冷え込んできている。さっきは温かく感じた、吐息の白さだが、暗がりに立ち上るそれはいかにもさむざむとしていた。

「将、寒くない?」
「大丈夫。アキラは?」

本当は少し……というよりかなり寒い。だけど、まだ我慢できる、という意味で

「大丈夫」と聡は答えた。

だが、この我慢がいつまで続くかは……明日朝まで持つかどうかはまるで自信がなかった。たぶん将も同じような状態なのだろう。

あいかわらず、風でドアがガタガタと音をたてている。

陽はとっぷり暮れたようだ。もうお互いの顔も判別できないほど暗くなってしまった。

「お腹、すかない?」

隣にいる将の存在を確かめようと、聡は訊いた。

「大丈夫だよ」

将は聡を安心させるべく、肩を抱き寄せた。こうすると触れ合う面積が増えて、少しは温かい。

「まっくら」

黙ると寂しいので、聡はぽつりと呟いて頭を将のほうに傾けた。

「うん。まっくら」

将は答えながら、聡の頭に自分の頭をもたれかけた。

真っ暗で寒さは徐々に厳しくなってきているのに、将のぬくもりを肩に感じる聡は、あまり怖くなかった。それより将と二人きりの時間がいとおしく、嬉しくさえ感じる。

「アキラさあ」

将が口を開いた。

「なあに?」
「今朝、なんだか怒ってなかった?」

「……そうだったっけ」
「うん。なんか俺のこと無視してた」

そういわれて聡は、昨日から今朝にかけてのことを思い出した。

瑞樹が妊娠したこと、そしてお腹の子は将の子、と聡に告白したこと。

とりあえず生命の危機を脱して、安心したせいか、消えかけていた不安と疑問が、再び燻り始めた。聡はそれを悟られたくなくて、問いに答えずに、新たなる問いで返した。

「それより、将、どうして講習の途中で抜け出したりしたの?」

将は答える前に聡の肩を抱く手に力を込めた。

「だから、それだよ」
「何よ」

「アキラが俺のことを無視するから、腹いせに」
「んもぉ~。心配させてー」

聡はウェアに包まれた将の腿を軽く叩いた。

「俺だって、スッゴイ心配したよ、アキラの変な態度。……でも、抜け出したらきっとアキラが探しに来るとおもったんだ」

将はポケットに突っ込んでいた手を出して、腿を叩く聡の手を握った。

「アキラ……」

将は聡の肩をぐい、と引き寄せた。

「またキスしたくなった」

と囁きながら、暗闇の中、まるで見えるように聡の唇に自分の唇を重ねる。深く舌を挿し入れようとしたとき、聡が顔を逸らし、唇が離れた。

「……どうしたの」

将は聡の肩を抱き寄せて訊いた。ベンチに並んで腰掛けたままだから、体をひねるようにしてようやく抱きしめている。

聡は将に身を預けたまま、息を潜めている。

ドアを叩く風の音が少しだけ激しくなった。

「アキラ、俺、何かいけないことした?」

朝と同じく、優しく安定した将の声。聡は息苦しくなった。何もかも訊いてしまいたい。

――瑞樹のお腹の子は……?

一番最悪な答えを想像して、将の腕の中で、聡は身震いした。

「アキラ、寒い?」

将が気を遣ってくる。聡は即座に首を振った。

「アキラ、なんでも言えよ」

将は聡の頭を、ニット帽ごしに撫でながら、

「ね」

と耳元で囁く。暗闇の中、吐息はよけいに耳を敏感にしびれさせて、聡は将にしがみついた。

ずいぶん時間がたって、聡はようやく口を開いた。

ベンチに横に並んだまま抱き合うのは体がねじれて少々つらい体勢だが、二人ともそのままでいた。

風はあいかわらずひどいらしい。ときどきドアのすきまから風に混じって雪が入ってくるらしい。

「将……」
「……なに」

あいかわらず優しい声は暗闇さえも柔らかいものにする。

「将……、もし……、もしね。私がいなくなったらどうする」
「探す」

将の答えは、即答といっていいほど反射的だった。

「どこを」
「そうだね……世界の果てから新聞の陰まで」将の答えには笑いが含まれている。

「新聞の陰? 何それ?」

突拍子もない答えに、聡は将の胸に埋めていた顔を起こして、暗闇の将の顔があるあたりを見ようとした。だが、もちろん真っ暗で何も見えない。さっきは不透明なまっ白だったが、今度は真っ黒。

だけどどこかで透けているのではないだろうか、と間近な将の声に期待してしまう。

「歌でさ。あったじゃん。『そんなところにいるわけないのに』とかいって探すやつ」

ああ。『中華料理』の人か、と聡はそのミュージシャンがわかった。

「あと漫画で、彼女が小さくなってしまう病気になるってやつ、あったろ。俺、アキラが小さくなっても、すぐに見つけ出してやるよ」

将は、微笑んでいるようだ。声だけで漆黒の闇に将の笑顔が見えるようだ。

「もう……」

といいながら、聡はこんな状況なのに、あったかい毛布にくるまるような、ほのぼのとした幸せを感じた。

「じゃあね。……私が死んだら?」
「後を追う」

「……」

聡は、せつなくなって、もう一度、将の胸に顔を埋めた。

さっき吹雪の中で思った、雪に埋もれて死んだ自分にすがる将のイマジネーション。

将は輝くような白い雪の上に、真っ赤な血を流して、聡と共に斃れるのだろうか。

「死んじゃだめ」

聡は小さく呟いた。すると将は

「アキラがいない人生なんて、生きる意味ない」

と言い切ると、聡を抱く腕の力をいっそう強めた。

「じゃあ……私が将を裏切ったら?」

将の腕の力に締め付けられそうになりながら、押し付けられた胸の中で喘ぐように、聡は最後の問いを口にした。

顔が見えない漆黒。凍るほどの寒さ。ある意味、危険な問いなのに、将は

「俺のアキラがそんなことするはずがない」

ときっぱりと言い切った。

聡は将の胸の中で、目を見開いた。そのまま顔をあげる。暗闇の中で、将がまっすぐに自分を見つめている。それがわかった。

「将……!」

聡は将に強くしがみついた。

「ごめんね……、ごめん」

聡は、瑞樹のことで、将のことを疑った自分を詫びたのだが、将は聡のこの言葉に当惑したようだ。

「アキラ、俺を裏切ったの?……まさか博史と?」

腕を抱く力が少し弱まった。心細そうな声。

「あ、違う、そうじゃなくて……あのね」

聡は、そのまま将の胸から顔を話すと、また隣に同じ向きで座りなおした。寒い中、長いこと、体をひねって抱き合っていたので、少しあちこちがこわばっている。

「あのね……、葉山瑞樹さんが妊娠してるんだって」

将はだまって訊いているようだ。闇に隠れて将の表情はわからないが、もう確認することもないだろう。

聡は将を信じている。

「……3ヶ月だって。葉山さんは、将の子だって言ったんだけど……私は嘘だと思ってる」

将は黙っている。

第100話 まっ白(3)

おかしい。

聡は再びスキーを下ろすと立ち止まった。

もうとっくに20mは歩いているはずだ。なのに、避難小屋に到着しない。

あいかわらず聡を取り巻いている視界2mもない真っ白な霧と、吹きつける強風が方向感覚を狂わせたのか。

それとも、まだ20m歩いていないんだろうか。

そういえば、足元はすでに降り積もった新雪が10センチもの深さになっていて、スキー靴がズボズボとはまりこみ歩きにくいことこの上ない。だから、あまり進んでいないのか。

いずれにせよ、この20mで消耗していた聡は、降ろしたスキー板につかまると、もう一度目を凝らした。

あたりは、壁に塗り込められたような真っ白で、何も見えない。真っ白だからよくわからないが、こうやって立ち止まると雪が勢いを強めているのがわかる。

「さむい」

聡は目の下まであげたネックウォーマーの下で呟くと、がくっと膝を落とした。腿の半分までが、新雪に埋もれた。

雪の上に立てたスキー板が、傾いて聡の肩に寄りかかろうとするのもそのままに、聡はうなだれた。

地上では美しい六角形の華を咲かせていた雪だが、こうやって横なぐりに吹き付けてくる粉雪は、まさに白い悪魔だ。白い悪魔は、このままだと確実に聡の命を奪ってしまうだろう。

歯が、リフトの上でのようにガチガチと音を立て始めた。

――まさか、このまま死ぬんだろうか。

厳しい寒さは、そんな嘘のような予感を連れて来た。

それを振り払うと、聡は慎重にジャケットから携帯を取り出す。

――たしか、山頂部分は携帯が通じたはず。

絶望の中でそれを思い出したのだ。一縷の願いをこめて取り出した携帯は……なんということだろう、あまりの寒さに液晶が役に立たなくなっていた。

聡は絶望のあまり、一瞬、頭の中も真っ白になった。

しかし、生命力なのだろうか、再び生きる方策が頭に湧き出してくる。もしも……携帯が使えても。この視界の悪さだったら、誰も助けにこれないだろう。

風と雪がおさまるまでどこかでそれを避けなくてはならない。それにはやはり、避難小屋を見つけなければ。

――避難小屋に誰かいれば!

聡は、ネックウォーマーをずらすと、再び力を振り絞って

「誰かーーー!」と叫んだ。

大声を出すたびに冷気が肺にまわって、咳き込むほど苦しくなる。だが、負けるわけにはいかない。聡は叫び続けた。肺が破れそうになる。

しかし、聡を取り巻く白い壁が風の轟音で答えるだけで、聡の望む人の声はなかった。

「誰も、誰もこないよ……」

聡は凍りついたネックウォーマーをずりあげて、下を向くと一人ごちた。

「もうダメかな……将」

こんなときに、口からポロッと将の名前が出た。

――もう危ないってときにどうかしてる。

だけど、将の名前を口に出しただけで、心なしか温かいような気がする。

「将」

聡はもう一度その名前を舌に載せてみた。小さな声は風の音にかき消されてしまう。だからもう一度声に出す。

「将」

聡を取り巻く真っ白な壁は将の幻影を一瞬映し出した。

そのときだけ聡は寒さを忘れた。……しかし真っ白な現実に聡は引き戻されてしまう。

聡は凍えながらも、ふっと笑った。なんだかマッチ売りの少女みたいだ。将の名前を呼ぶことが、マッチに火を灯すかわり。温かい料理とか暖炉とかは将のぬくもりの思い出。将にくるまるように抱かれて寝た記憶。

その物語をたどるとしたら、聡は明日、冷たくなって発見されなくてはならない。

聡はなぜか、雪に埋もれた聡の亡骸を、将が発見するシーンを想像した。凍死死体は透き通るように美しいという。

晴れ上がった蒼い空の下、煌めく雪の華に埋もれている、透き通るように青白い聡の亡骸にすがって、将が泣きじゃくる。

それは、どこかで見た古い映画や、小説を編集しなおした、甘いイマジネーションだった。

聡は、頭を抱えて陳腐なそれを振り払った。そもそも、将を探しに来て、こんな目に逢っているのだ。だったら死ぬ前に、将に一目でも逢いたい。

座り込んだ下半身を雪に埋もれさせていた聡は、スキー板につかまるようにして立ち上がった。

「しょーーーーーうーーーー!」

体に残ったすべての力を振り絞って、聡は叫んだ。その声は、風に乗って将のもとに届いてくれるだろうか。

しばらく聡はスキー板をたよりに立ち尽くして、あたりを窺った。聡を取り巻く白は心なしかグレーがかってきている。暗くなってきているのだ。

「やっぱりいないか」

今度こそ絶望した聡は再びその場にしゃがみこんだ。がっちりとしたスキー靴の上に座り込むようにうずくまる。

「………キ……ぁ」

風の音が、人の声に聞こえてきた。これは死神の声だろうか。天使の声だろうか。

――『パトラッシュ、なんだか僕、とっても眠いんだ』だっけ。

聡は名作アニメのラストシーンを思い出しながら、自分も何故か急速に眠くなっていくのを感じていた。

真っ白に吹きすさぶ風にほとんど飛ばされたような意識だったが、かろうじて残った思考力で

――そういえば、昨日ロクに眠ってないんだよな。

と考える。眠れなかった理由を思い出す。この状況で思い出す瑞樹の妊娠騒ぎは、すでに遠い昔のことのようだ。

「バチが……あたったのかな」

うずくまった聡は自分の膝に問い掛けるように一人呟く。

井口は瑞樹のことを将のセフレだといったが、たぶん瑞樹は将のことを本気で好きだったのだろう。そんな彼女から将を奪い取った罰。

帰れないほどの複雑な家庭を持つ瑞樹から将を奪ってしまったのは、どれほど彼女を困らせ、傷つけただろうか。

そして3年越しの優しい婚約者を捨てようとした罰。彼の重病人の母親の生きる希望を、、もしかすると奪おうとしていたのではないか。

――バチがあたっても仕方ないな。

ますます聡は眠くなってきた。

――こんなに眠いなら、もうダメだ。さよなら……将。本気で好きだった……。

人を傷つけても求めずにはいられないくらい愛してた……。

「……お…おー…い…」

聡はハッと目をあけた。きれぎれだが、今度は確実に人の……男性の声だ。

――係員が助けに来た?

聡は最後の力を振り絞って立ち上がった。スキー靴での立ったり座ったりは普通より力がいるのだ。

「こっちでええええす!、こっちぃぃい!おおーーーい!」

どこから聞こえるのかわからない助けの声に向かって、聡は四方八方に向かって大声をあげる。

「おおーーーいい!」

男性の怒鳴り声が今度は確かにはっきりと聞こえた。しかもかなり近くだ。見えないとわかっていても聡はあたりを見回す。

「ここでーーーーす!」

声が聞こえた、と思う後方を振り返って、喉が張り裂けんばかりに大声を出す。ストックも高く掲げて振り回す。

これが幻だったら、もう喉は使い物にならない。死を待つのみになるだろう。

「ここー……!」

急に至近距離に現れた人影に、聡の瞳は釘付けになった。帽子に、ゴーグルを着けた顔のほとんどは見えないけれど……それはまさしく将だった。

将はいきなり、聡の腕が届くところに現れたのだ。もしかして、また幻影か。それにしてはリアルだ。

「アキラか!?」

将はゴーグルをずらした。聡を確認するなり腕を伸ばすと、聡を抱きしめた。

「将!」

聡は身を投げ出すと、将に全体重を預けた。幻影ではない、現実の将が聡の名前を呼んだ。

「アキラ!」

二人は吹きすさぶ雪の中、ついに固く抱き合った。聡は待ち焦がれていた、世界で一番温かいものに包まれた。

二人を包むのは、あいかわらず塗り込められたような真っ白な世界。まるで、この世には二人しか存在しないようだった。

第99話 まっ白(2)

とはいっても、昨日、初めてスキーを履いたばかりの将である。なのに、行くわけがない、と聡は断言できない。むしろ、山頂を目指しているというのは、確信に変わっていく。
なにせ、昨日、聡は山頂の情報を彼に与えてしまっている。将の性格からいって『てっぺん』とか『頂上』はいかにも好きそうだ。

時計は14時30分になるところだった。

聡は、男に会釈をすると、リフトにむかってストックを蹴りだした。

荒江高校がスキー研修をしている隣のスキー場で、山頂部に最も近い、第7リフトは一人乗りだ。ここまで来ると、リフトのすぐ近くから胸がすくような急斜面が始まる。
もし初級者がその下をのぞきこめば、まっ逆さまに落ちていくような視覚に背筋に戦慄が走るはずだ。

こうなると雪の斜面ではなく『崖』である。急な斜面を『壁』と呼ぶが、その表現はまさに正しい。

カフェからダウンヒル第3リフトに乗った聡は、隣のスキー場との間の非圧雪コースを斜面に対して横切るように第7リフトまでやってきた。

非圧雪コースは、晴天続きのせいか新雪もなく、ボーダーの通り道で出来た深い溝と転び跡で、ちょっとしたモーグルコースのようなコブ斜面になっていた。

コブ斜面に長い板をとられて、さすがの聡でもバランスを崩しそうになる。

こんな急斜面で転倒するとダメージが大きい。聡は大きなコブを避けながら慎重にスキーを操った。

金色がかった午後の光を反射して、斜面は裸眼だと、目に焼きついて暫く離れないような強烈な『白』に覆われていた。

ゴーグルもさして役に立たないような強烈な反射……ついさっきまでは。

ようやく第7リフトに着いた聡の上には、灰色の雲が展開し、太陽は隠されてしまっていた。

そこから粉雪が風にあおられるようにちらちら落ちはじめた。スキー場正面に見える羊蹄山もとうに姿を隠してしまっていた。

「あの!」

聡はぐるぐると回るリフトの椅子に積もった雪をほうきで払いのけている係員に、思い切って尋ねた。

「黄色い修学旅行生用のウェアを着た、背が高い男の子を見ませんでした?」

初老の係員は客などロクに見ていないのだろう、首を振った。

「お客さん、山頂にいくの?」

逆に眉根を寄せて問い掛けてきた。

「ハイ」
「危ないから、ガスってきたらすぐに引き返してください。風も出てきたからリフトもじき止まるかもしれないし」

聡は頷いて、リフトに乗った。

係員の注意どおりだった。

地上ではたいしたことのなかった風だが、急斜面を登る一人用のリフトは、ときおり信じられないほどの強風に煽られ、聡はリフトのバーにしがみついた。

標高1000mを超える雪山は、それなりの装備をしている聡なのにとてつもなく寒く、聡は歯をガチガチとさせた。おそらくマイナス15度、いや、それ以下の寒さだろう。

おまけに、あきらかに天気が悪くなってきたせいか、聡の前にも後ろにも誰も客はおらず、心細いことこの上ない。

降り始めた雪は、止むことなく、座る聡の膝の上にサラサラと落ちる。気温が低いせいか真っ白な粉のようなそれは、重さも感触もなく、聡の膝をなぞって落ちていく。

——早く、早く!

聡は祈るように早く上に到着することを願いつつ、寒さに震えた。

しかし、リフトは安全のために速度を落としているせいか、なかなか上にたどりつかない。あまつさえ、風のせいなのか、ときどき止まったりして、聡は目を閉じた。

まさか、こんな状況で、将が山頂にいるわけがないだろう。

いないほうがいい。聡だけならどうということはないが、初心者の将はこの急斜面をどうやって降りるのだ。

そうこうしているうちにようやく上の駅に到着した。

山頂への道はまだ見えているが、雪が降りしきっているせいか、眺めはあまりよくない。しかも白い面積が多いにも関わらず、どことなく暗い感じがする。まだ15時すぎなのに。

雪景色慣れしている聡でも心細くなってきた。

上でも係員に

「ガスってきたら引き返せ」と注意を受けた。

その係員に下で聞いたのと同じことを訊いてみる。すると

「黄色いウェアのスキーヤーは何人か見ましたけど」

という返事が返ってきた。

「一人でしたか?」
「さあ……。だけど一人で来る人も結構いますから」

的を得ない答えだ。

「黄色い人は、ここに引き返してきてないですよね」

聡は係員にさらに問い掛ける。

「ええ。でも普通引き返してきませんから」

山頂までスキーを担いでいって、そこから滑り降りる人が大多数だからだ。実際、右側の斜面には、雪の中に山頂から滑り降りてきたらしいボーダーら何人かの姿が見えた。

それに勇気付けられた聡は、

——いちかばちか、将がいなければそれでいい、とにかく確認してこよう。

とスキーをはずすと担いで、山頂への道を登り始めた。

「風が出てきましたから、注意してくださいよぉ!」

と係員の大声を背後に受けて、聡は雪の階段がつくられた山頂への道を踏み出した。

山頂への道は、途中までは雪を固めて、階段がつくってある。コンディションがよければ15~20分ぐらいで山頂に着くはずだが、なにせ長いスキーを担いで、さらに踵と足首を固定されたスキー靴での歩行は重労働だ。

それに歩く聡に、ときおり突風が吹きつけてくる。

歩くのを止めるほどではないと思ったのだが、立ち止まらないと堪えられないような突風が、

1回吹いたのを皮切りに、繰り返し聡を襲うようになった。風がふくたびに今降り積もったばかりの粉雪が舞い上がり視界を遮る。おまけに舞い上がった雪は、踏みしめる雪の階段をわかりにくくしてしまう。

それが何回か繰り返されるうちに、聡は視界がひどく悪くなっているのに気付いた。

いつのまにか、あたりは米のとぎ汁のような霧に覆われている。

——ヤバイ。ガスってきたんだろうか。

聡はゴーグルのオレンジ色がうっとおしくなり、それを一度ネックウォーマーもろとも顎の下に下げた。

人影は誰もいないようだ。将はいないのだろうか。

「たかえだ、くーーーーん」

大声で呼んだ聡に、今までで最大級の突風が、雪交じりで吹き付けてきた。足に力をいれても飛ばされそうだ。必死で持ちこたえる。冷たさで頬が切れそうに痛い。冷気が目に染みて、聡は目をつぶって風下を向いた。

返事はない。

聡は、斜面の下のほうに目を凝らした。さっきまでいたボーダーが誰もいない。というか、急激に狭まってきた視界に、ゲレンデはほとんど入っていないのだ。

引き返すべきだろうか。

逡巡しつつも、とりあえず前に進んでしまった聡のまわりの世界は、あっという間に米のとぎ汁から画用紙のように不透明な真っ白になった。

たよりにしていた足元も、階段が終わってしまったのか雪に覆われたのか、段差がいつのまにかなくなっている。

視界2mもない。そんな真っ白に聡は閉じ込められた。まさにホワイトアウト。

ゴーグルをはずして目を凝らしても何も見えない。道を示していたロープすらも見えないのだ。

「そんな……」

聡は担いでいた板を降ろして、雪に軽く突き立てると、それにしがみつくようにして、必死で四方に目を凝らした。

もはや自分がどっちから来たかすらもわからない。

何分ぐらい歩いたのだろうか。

風はいよいよ強くなってきた。地吹雪のような雪が吹き付けてくる。吐く息があっというまに睫や眉毛に凍りついて、瞬きをするとパリパリとした違和感がある。

一度はずしたゴーグルは曇ったまま凍ってしまった。グローブの指でいくら擦っても、すりガラス状態は取れない。

聡の脳裏に『遭難』の文字が急激に浮かび上がってくる。不吉な二文字を頭から振り払うと、もう一度

「誰かーーー!いませんかー!」

と叫んだ。

怖い。寒い。心細い。誰でもいいから答えてほしい。さっきの係員に届かないだろうか。聡は涙を堪えて何度か叫んだ。ちなみに泣いたら、涙も凍ってしまうからである。

しかし、叫びは雪交じりの風の中に飛んでいって、ガスの中に吸い込まれていくようだ。変な言い方だが、白いブラックホールさながらに、聡の存在を四次元かどこかへ消してしまってもおかしくない。

絶望しそうになった、そのとき。聡の視界を包む白の濃度が一瞬薄くなった。霧は薄くなったものの、あいかわらず横殴りの雪が降りしきるその先に、何か建物のような影がうっすらと見える気がした。きっと山頂の避難小屋だ。

——急に悪化した天気だ、誰かが避難しているに違いない。

避難小屋の影は、あっという間にもとの濃度になった霧と雪に隠れてしまったが、そうたいした距離ではないようにみえた。10m?20mはないだろう。

聡はスキーをもう一度抱えると、そっちに向かって歩き出した。

第98話 まっ白(1)

ウッディなカフェの窓からは、樹氷越しに羊蹄山が見えていた。が、頂上付近にはさすがに雲が掛かりはじめていた。

聡はホットココアを片手にぼんやりと眺めるともなく景色の中に視線を遊ばせていた。

昼下がりのゲレンデ。ゴンドラを昇った近くにあるカフェに聡は一人でいる。

頭が朝からずっと重いのは、昨夜、ずっと寝付けなかったせいか。それとも……。

あきらかにその原因であろう瑞樹は、さすがに今日はスキー研修を休んだ。

理由は体調不良ということにしているが、実際の理由が理由なだけに、まだそれは聡と山口だけの秘密にしてあった。

研修は授業扱いなので、休んでいる間は、プリントなど自習をやることになる。

その指導には当直の教師があたるのだが、『体調不良』の瑞樹は、聡と山口の客室にやってきて、そこで過ごすことになった。

ウィッグをまるで自分の体の一部のように身につけ、いつもの長い黒髪姿の瑞樹は、聡と必要事項以外話さなかったが、その態度はなんだか勝ち誇ったようなようすが見え隠れしていて、聡は息苦しくなった。

部屋にいると瑞樹とずっと顔を付き合わせることになる。

午前は当直だから、教師としての義務で耐えたが、自由時間の午後まで瑞樹の顔を見るのは苦しい……。

だから、あまりスキーをする気分ではなかったが、いちおう聡はウェアを着こんでゲレンデに出たのだ。

聡はため息をついて、将を思う。

昨夜、ベッドに入っても寝付けない聡だったが、能天気な将は、罰ゲームについてメールを送ってきた。

『さっきは何で、俺にチューしなかったんだよー』

聡は、その返事をいったん書き換えている。
最初はこう書いていた。

『将、葉山さんとは、本当に9月で別れたの?』

質問の返事をあえて書かず、逆に問い返す。

でも……送信ボタンを押せなかった。こんなことはメールで訊くべきではないと思い直したのだ。

なんにも知らない将からは、次々と無邪気なメールが送られてくる。

メールのすべてに、つい、将への不信を書き込んでしまいそうになる。問題の内容に触れたくなる。

聡はそれを押さえるのに骨を折った。

将は眠ってしまったらしく、メールは途中で途絶えた。

いつも思うが、将は、コトンと眠りにつく。

抱き合っているときもだが、3秒前まで深い口づけをしていたはずなのに、気付くと寝息を立てていたりする。

萩の実家でもそうだった。

健康な若さゆえなのか。

いつもは微笑ましい将の寝つきだが、昨日の聡は、一人取り残されて寂しかった。

そのまま悶々と寝付けない夜が、聡の前に横たわった。

そして、完全に寝不足で迎えた今朝。

自分でも将への態度がぎこちないのがわかっていた。

そんな聡に将は

『アキラ。俺、何かしたっけ?』

と素直に訊いてきた。その顔には、聡を心配する優しさと『自分は何もしていないはずだ』という自信が同居していて、そんな将に聡は何も言えなかった。

やはり、あの将が、嘘をついてまで瑞樹と寝るとは、聡にはどうしても考えられない。

聡は再び深いため息をついて窓の外に広がる樹氷の風景を見る。

樹氷は昼下がりの陽光を受けてダイヤをちりばめたようにキラキラ輝いている。

聡はココアを唇に運んだ。

熱すぎて冷まそうとしたココアだが、時間がたちすぎてしまったのか、逆にぬるくなってしまっている。

その甘さをあまり味わうこともなく飲み干す。

カップの最後には、溶けたチョコレート状のココアが沈んでいる。

ココアの最後にそれをすするのは、実は聡のひそかな愉しみなのだが、今日のそれはやたら泥のように粉っぽい気がした。

干潟の泥のように味気ないそれをすすり切ったとき、ふいに携帯が鳴った。

ぼんやりしていた聡はビクッと体を震わせる。

あわててジャケットの内ポケットから騒がしく鳴り続ける携帯を取り出す。

「もしもし?」
「古城先生ですか?」

電話の向こうは多美先生だった。

「……実は、急に鷹枝将が、いなくなりまして」
「ええっ?」

いなくなったとはどういうことだ。聡は携帯にしがみつくように話を聞く。

事情はこうだ。

講習中、急に将は「ションベン行きたい」と言い出した。

トイレはゲレンデの初心者コースを降りきったところにあったが、講師は今の将のレベルだったら十分安全に降りられると判断したらしい。

用を足したら下でそのまま皆が降りてくるのを待っているように、と指示して将を一人で行かせたのが最後、そのままいなくなったらしい。

単独でゲレンデを降りたのが今から40~50分ほど前だという。

「ホテルをさんざん探したのですが見つかりませんで。ゲレンデにいるのでは、と……。今、ゲレンデ放送などをするように手配してますが……、古城先生も、どこか心当たりがあったら探してもらっていいですか? 目立つ黄色のウェアだから、すぐわかると思うんですが」

「わかりました。探してみます」
「お願いします」

電話はあわただしく切られた。

——いったい、どこへ……。

聡は、とりあえず将に電話をかけてみた。ちなみに学校関係者は将の携帯を知らない。

しかし、やっぱり電源は切られていた。

増殖する不安が胃を圧迫する。将がいなくなったあの、12月の何週間かの不安と寂しさを脳がトレースしようとする。

それを打ち消すように、聡は将に、『どこにいるの、みんな心配してるよ。連絡して』と、とりあえず短いメールを打つと席を立った。

 

カフェの前に出ると、聡は前に広がるゲレンデを見渡した。さっきより少し風が吹き始めたようだ。

視界に広がるのは、ニセコアンヌプリ山頂に向かって上り坂の、傾斜がややきつい中級者コースばかりで、当然、修学旅行生用の黄色のウェアはいない。

ふと、聡はニセコアンヌプリの山に目をやった。

雪に覆われた山頂は、午後の光を受けて、白い頂を金色っぽく変えていた。

そのとき、カフェの前で、スキーを手にした聡に、ふいに話し掛ける声があった。

「いいスキーだね。でも今日はパウダー目当てにはがっかりでしょう」

声の主はサングラスの中年男だった。雪の中に置かれたテーブルセットで煙草を吸っている。

聡はとっさに無言で頷いた。とりあえずあいまいに笑顔をつくる。

聡のレンタルしたスキーは、山スキー用の最新モデルだった。

普通のスキーよりもかなり長めのそれは制御しづらく、上級者である証でもある。

北海道なのでチャンスがあったらパウダーを滑りたいと思って昨日レンタルしたのだが、パウダー好きにはあいにくの晴天続きで、ゲレンデはおおむねどこも踏み固められていた。

「僕も、パウダー目当てでさっき山頂に行ってきたんだけど、荒らされちゃってもうダメだね。午後から少し崩れるっていうから、明日に期待したいよ」

スキー場の管理外である山頂部からゲレンデに降りて来る間の区間は、圧雪も入らずパウダー好きには絶好のコースとなっていた。

もちろん傾斜はおおむね30度を超え、上級者以外は受け付けない。

「午後、やっぱり崩れるんですか?」

いちおう予報を見てきた聡だが、降雪確率は30%ぐらいだったはずだ。

「軽く、みたいだけど。ホラ。風も出てきたし」

男が指差した方向をみると、山頂の背後には雲がわずかに見えていた。それは少しずつ面積を増やしていた。

聡は、それを見て、ハッとした。
将は……山頂を目指したのではないだろうか。

続きは復元作業中です

第97話 視線

スキー研修2日目もよく晴れた。

1月にしては珍しく、羊蹄山もニセコアンヌプリの山頂もその白いピークを青い空にくっきりと浮かび上がらせていた。

将は腑に落ちない思いを抱えて、昨日よりは少し傾斜がきつくなった、それでも緩斜面にボーゲンでたどたどしくカーブを描いていた。

2日目は、個別の習熟度によってグループ編成が変わった。

昨日までの内容が巧くできて上の内容に移るグループと、まだ繰り返すグループとに分かれる。

将は当然、上のグループに入った。

おかげで講師はまたも、あのマッチョ講師だったが、将自身のレベルがあがるにつれて、彼がなかなか優秀な講師だということがわかってきた。

カマっぽい口調に、体をすぐに触るのには、少々閉口ぎみだが、何といってもわかりやすい。

おかげで、将は午前中が終わる頃には、ボーゲンながらターンがそこそこできるようになっていた。

昨日は制御しようのなかった雪の斜面が、気持ちのいいものに変化しつつあった。

もともと運動神経は悪くないのと、少しでも聡に近づきたいと頑張ったというのもある。

「ボーゲンがちゃんとできればぁ、理論的には45度まで滑れることになるのよ」

とお墨付きをもらう。聡に少しは近づけただろうか。

 
 

その聡が、昨晩から今朝にかけて、あきらかに変だった。

昨日、トランプのすぐ後に、消灯時間がやってきた。

消灯時間を守っていないのが見回りにきた多美先生にバレると、部屋のメンバー全員が廊下に1時間立たされる。

初日に井口とユウタの部屋のメンバーがそれをさせられた、というのが伝わっていたので、将は布団の中から聡にメールを打った。

『聡、さっきは何で、俺にチューしなかったんだよー』

プンプンと怒る顔文字を添えて送信する。

返信が来るのに時間が掛かった。スキーで体力を使った将である。暗いのと、布団が温まったのとで、急激に眠気が襲ってきた。

イヤホンにしておいた着信音で、自分が眠ってしまっていたことに気付く。

『だって、人前でそんなことできないよ』

と返信が返ってきた。

『ケンちゃんにだったら出来るワケ?』と訊き返す。

またずいぶん時間がかかっての返信には

『だって、将と私のことがこれ以上、みんなにバレたらマズいでしょ』

とあった。教師の立場としては、仕方ないのかもしれない、と将は一応納得する。

思い直して

『明日もスキーやるの?』

と話題を変えた。

『わからない。天気次第かな』

どうも、今日の聡の返信は、鈍い。行きがけのバスの中のようなチャット状態を楽しめない。

おかげで将は、待つたびに眠りに飲み込まれそうになる。

もしかして聡も眠いんだろうか。極限に眠い将の頭は、きっと、そうだろうという答えを導き出した。

だから……もう、おやすみの挨拶を送ろう。

マイスイート・ハニーがいいか、I LOVE YOU がいいかそれともジュテームとフランス語を使うか。

そんなことを考えているうちに将は、体の疲れに引きずられるように熟睡に落ちていった。

そのときは、まだ聡の異変に気付いてなかったのだけど。

 
 

あきらかにおかしいと気付いたのは今朝だ。

朝食の席でも、そのあとのミーティングでも、将はことあるごとに聡を見ていたのだが、聡は将と目があいそうになると、その視線をフイッとはずした。

今までも、人前の場合は、そういうことがあったが、今朝の場合は、なんだかその視線のはずし方が変だった。

単に人目をごまかすため、とは違う。

その証拠に聡もときどき将を盗み見ていた……なのに将と目があうと視線をはずしてしまう。

将は思い切って、朝食の後、皆がスキーの身支度をしているときに、口実を設けて聡たちの部屋を訪ねた。

「すいませーん。筋肉痛がひどいんでシップか何か下さい」

などと山口に頼むふりをしながら、ソファで書類を見ている聡を振り返る。

このときも、だった。聡の顔は……将がこっちを振り返るまで、将のほうを向いていた。

それを将が聡に向き直るなり、まるで『ダルマさんが転んだ』のように膝の上の書類のほうに頭をくるっと向けた。

「センセイ、何みてるのー?」

まだそれを偶然だと思いたい将は、明るく声をかけながら聡のわきに歩いていった。

聡が腰掛けるソファーの横にしゃがみこんで、小声で話し掛ける。

「アキラ、俺、Aグループだぜ」

スキーの習熟度別グループ分けの、上位に入ったことを聡に告げる。

「そう、よかったじゃない」

将が聡の顔をのぞきこんでいるのに、聡の視線は書類から動かない。

いつもは、こんなときは……人前の場合は、教師らしく澄ましたような顔をしながらも……将の瞳を見ながら答えているのに。

「アキラ、今日は午後が自由時間だろ」

将は、ソファーの上で組んだ、聡の膝に手を置いた。

聡は、一瞬将の顔を見て、その視線をツイっと書類に戻した。不自然きわまりない。

そのくせ、

「……そうよ」

としか言わない。

いつもだったら、微笑むか、さもなくば「何?その手は?」などと笑いながら抗議をするはずだ。

――おかしい。何かあったのか。

「アキラ。俺、何かしたっけ?」

それを聞いて、聡の視線は初めて、将の瞳に戻ってきた。

しばらく聡は将を凝視していた。

しかし、視線と一緒に将に注がれていた意識が、次第にどこかに行ってしまったように、

気がつくと、聡のガラス玉のような目は、呆けたまま将に固定されていた。

何か言いたげに唇は心持ち、開いたまま。

「鷹枝くん、はい、シップ。大きさはこれで大丈夫?」

山口の声で、二人は我に返る。

将は立ち上がって、シップを受け取ると、後ろ髪を引かれる思いで、部屋を後にするより他なかった。

そのときだけ……聡は立ち去る将をすがるような目で見ていた。

 
 

昼食のときも、同じだった。将を盗み見るくせに、目をあわせようとすると逸らす聡。

一見、何気ない会話を交わしながら、あきらかに様子が変だ。

朝のようすからだと、将に何か原因があるのか。しかし、将にはまるでわからない。聡に嫌われるようなことをしただろうか。

――スキーが下手すぎるから愛想をつかしたとか。まさかな。

聡がそんな浅はかな女だとは思わない。授業中を思い出す。

もともと聡の担当教科である英語は、他の教科に比べるとあまり得意とはいえない将である。

特に会話中心の授業に移ってから、ロールプレイング中、何度も恥かしい間違いを犯して、クラスの笑いを誘うようなことをしている。

しかし、そんな将を、聡は温かい目で見てくれていた。

『何度も間違えたほうが上達するからね』

などと言ってくれたはずだ。

 
 

そのとき、聡が席を立った。手にしたトレーには、昼食メニューであるスープカレーがまだ半分も残っていた。

食欲がないのだろうか。将は自分も食事の半ばで立ち上がり追った。

「アキラ!」

「将……鷹枝くん、どうしたの」

呼び止められて聡はエレベーターの前で立ち止まった。

一瞬、驚いたような表情を浮かべたが、事務的な顔にすぐ戻る。

「アキラ、話があるんだけど」

「……あとでね。私、着替えるから」とそっけない。

「スキー、やるの?」

将が訊いたとき、チン、と音がしてエレベーターが開いた。

エレベーターの箱の中に移動した聡は、頷きながら、箱の外にいる将を見つめた。

さっきと同じ、何かを訴えたいような、瞳。

将が口を開こうとしたとき、その姿は、両側から閉まったエレベーターの扉によって遮断され、将は取り残された。

第96話 演技

瑞樹の敵意を理解した聡は、意外なほど冷静な態度の自分に気付いた。

動揺していないといえば嘘になる。心臓はずっと鈍い振動を体中に送っている。

しかし、瑞樹の顔を正視し、なんと返せばいいか考えるだけの思考力は保っていた。

感情に任せて行動するなら、

『ウソ!』と叫ぶか。

『いつまで……関係があったの?』と震えながら問い詰めるか。

そんなところだろう。

しかし、聡は、冷静な態度を保ち続けていた。そんな自分が嘘のようだった。

この場合、教師として何と答えるべきか。そんなことを、さすがに動揺して働きがよくない頭で、なんとかシミュレートする。

将で考えるから、私情が入ってしまう。

それに気付いた聡は、身近な例で――例えば、兵藤が瑞樹を孕ませたら?という仮定でシミュレーションしてみる。真面目に寿司修行に励む兵藤に心の中で謝りながら。

だとしたら。

「……鷹枝くんには話したの?」

これが聡の出した答えだ。聡は瑞樹を見つめて問うた。こんどは聡が瑞樹を観察する番だ。挑むような気持ちである。さすがに気持ちまでは教師らしく在ることは難しい。

瑞樹はあきらかに想定外の聡の反応に面食らったようで、眼を大きく見開いた。

聡はもう一度同じ問いを繰り返してみる。

「言ってない」

眼を見開いたまま、抑揚のない声が返ってきた。

しかし、さっき『将の子だよ』と言ったときよりあきらかに落ち着きのない声に思えた。

「病院には行ったのね」

聡は、まるで自分は舞台で芝居をしているようだ、と思った。暴れる心臓を抱えながら、よどみなく巧く、教師、という役を演じる。

瑞樹は目を見開いて、それでも聡の顔から視線を逸らさずにうなづいた。

「ご両親はご存知なの?」

両親、と聞いて瑞樹はプイっと顔をそらした。

「知ってるわけねーだろ」

と小さく呟く。聡は、将から聞いた瑞樹の家庭のことを思い出した。

「……産む、いえ、産みたい?」

それを聞いて、瑞樹は、目をむいて聡を振り返った。

「産めるわけ、ねえだろっ!」

聡の、冷静に自分を見つめる瞳を見て、瑞樹はハッと我に返ったようだ。

「そう……」

聡は、瑞樹を見つめたまま、ソファに腰掛けた。

瑞樹は、取り乱した自分を恥じるように、少し笑いながら、

「センセイさ、自分の彼氏が……、影で他の女を妊娠させたって聞いて、何ともないの?」

と聡に切り込んだ。

聡は黙ったままだ。だが、視線は瑞樹からはずさない。

というより、はずせなかった。女の意地なんだろうか。それとも……将を信じているから?

そして瑞樹は、将を聡の彼氏、とすでに位置付けている。

聡が今、演じている台本の設定を、単なる担任教師から、教え子と恋愛する教師、に変えるべきか、迷った。

聡が沈黙したままなので、瑞樹はさらに生々しい言葉を続けなくてはならない。

「センセイとヤりながら、あたしともヤッてたんだよ。悔しくないの!」

それを聞いて、聡の心に何故なのか奇妙な安堵が広がっていった。

――たぶん嘘をついている。

直感。確信は持てないが……。

「鷹枝くんは」

聡は、もう、単なる教師を演じるのをここで止めた。瑞樹の嘘を暴くことに決める。

「9月以来、あなたとは寝ていないって、言ってた」

「そんなのウソに決まってるだろ」

瑞樹は即座に言い返した。

「前の女と続いてる、なんて素直に言う男がどこにいるんだよ」

それは確かにそうだ。再び劣勢になった聡は、再び教師に戻るしかない。

「……産むにしても堕ろすにしても、相手の人には言っておかないと、ね」

とだけ言って、立ち上がると、瑞樹を独り部屋に残して、廊下に出た。

 
 

廊下に出た聡は、困惑していた。

瑞樹は嘘をついていると思う。身ごもっているのは、たぶん将の子ではない。直感でそうは思うものの、確信を持つまでの証拠はない。

『信じて。俺、もう、本当にアキラだけなんだ。9月以来、アイツとは1回もやってない。本当だよ』

という将の言葉だけにすがるしかない。だけど。

9月まで、瑞樹と寝ていたのは事実なのだ。妊娠してもおかしくないような行為を重ねていたのは消しようもない。

むしろ、そちらのほうが聡を苦しめた。

そして、将に『それ』を禁じている聡は、将が本能のままに他の女に手を出さないとは言い切れない。

将はまだ若いのだ。手近に瑞樹のような女がいれば、そういう行為に至ってもおかしくはない。

聡は、どんどん自分の思考がマイナスのほうへ進んでいくのがわかった。

そのとき、メールの着信音が鳴った。

『まだ~?』と将から一言だけのメッセージ。

こんな気持ちで、みんなが楽しくトランプをしているところに合流できるだろうか。

将と……顔をあわせることができるだろうか。いや、むしろ今だからこそ将の顔を、見たい。

瑞樹の言ったことが嘘だという確信を得たい。

だけど……もし、本当だったら。

――怖い。

聡は、携帯を両手で握り締めた。知らず、祈るようなポーズになっている。

 
 

「センセイ、遅ーい」

「ごめんごめん」

聡が大富豪ゲームをする皆の元に戻ったとき、ゲームはもう最後の1回だった。

将が自分を見ているのがわかったけど、目を合わせられない。

「あいかわらずケンちゃんが大富豪だよ。で、俺たちまた大貧民」

何も知らずに将は、トランプを配りながら聡に現状を説明する。

「あら、そう。兵藤くん、何命令しようか~。楽しみだね~」

楽しげに、でも将の顔を見ないように笑顔をつくる自分。ここでも演技をしているようだ。さっきより難しい役柄のように感じる。

「でも、負けたら大貧民だし。立場逆転っすよ」

と兵藤は戦々恐々、というようすで、真剣に配られたトランプを目の前に広げた。

大富豪は一番悪いカード、大貧民は一番よいカードとを交換する。

最初はたいしたことのないカードだったが、交換することでどうにか勝てそうなカードになって、聡と兵藤はほっとした。

そこで、将と真田由紀子が顔を見合わせてニヤっと笑った。

大貧民はカードが不利な分、一番最初に出すことができる……そこでなんと、将たちは、1枚残してカードを全部出した。

「え!」

皆が驚いた。なんと、それは3が4枚、4が4枚、5が4枚でかつ、すべての3・4・5でマークが揃っていた。

もちろん後に誰も出せないから、残りの1枚を由紀子が出してゲームは終了した。

「ヤッター!」

将と由紀子はハイタッチをして喜んだ。

「ウッソー……」

大富豪から大貧民に転落が決まった兵藤はがっくりした。聡も信じられなかった。

「じゃ、罰ゲームねー」

王様ゲームの王様になった将と由紀子は、ゴショゴショと内緒話の末、由紀子が真っ赤になってコクンとうなずいた。

将はニヤリと笑って、兵藤と聡に命令した。

「この中で、一番好きな異性にキスをする」

「ええー!いないよー!」

兵藤がやや顔を赤らめて抗議した。聡も立場上

「ちょっとぉ、だめでしょ、そんなこと」

とたしなめながら、心臓がまた大きく振動を始めていた。

将が自分を見ている。……でも将の顔を正視できない。

「唇? 唇だよね?」

カイトが将に、ワクワクと聞く。

「ちょっと、カンベンしてよ~」

真面目に困っている兵藤と、教師としての聡の立場に少しは配慮したのか将は

「じゃ、おでことか、ほっぺたでもいいや」

としぶしぶ許してやりつつ

「じゃあ、センセイからねっ」

と促す。チャミやカリナら女子が再び、キャー、ヤダーという声を上げる。

皆が、聡は将にキスを与えるのだろうと期待している。

将自身も期待して待っているのがわかった。

能天気な将に、聡は少し腹が立って意地悪をしたくなった。

聡はおもむろに、隣にいる兵藤の頬に両手を添えると、その丸刈りのおでこに唇を寄せた。

その場にいたものは、兵藤の首から耳、丸刈りの地肌が、ピンクから真っ赤に染まっていくのを目撃した。

部屋は「キャー」とか「ウオオー」という騒ぎでいっぱいになった。

将は「ウッソォ」と呟いて唖然としていた。

第95話 敵意

聡は何と答えるべきかわからず、

「3ヶ月、ですか……」

と聞いたことを反復するしかできなかった。眠っている葉山瑞樹のほうに視線が行ってしまう。

離れているのに、閉じた瞳を黒く長い睫がふちどるのが見える。

わきに制服が畳んで置いてある。……おそらくホテル備え付けの浴衣を着ているのだろう。

「……葉山さんが自分で言ったんですか?」

次の言葉が出てきたのは、ずいぶん間があいてだった。

山口は「ええ」と頷いた。

瑞樹は、今日の夕食を食べることができなかった。

レストランに入ったとたんに充満していたジンギスカンの匂いで吐き気をもよおしたのだ。

それは聡も知っていた。だからレストランに頼んで、あっさりとしたメニューを部屋に届けさせたはずだ。

「ええ、でも私、昨日からちょっとおかしいと思ったんで、みんながお風呂に入っている間に、葉山さんにこっそりと訊いてみたんです。一人でいたんで……」

山口はソファに腰掛けながら話を続ける。

「そのときは、何も言わなかったんですが、彼女のほうから、気分が悪いとかで、部屋に来たんです。それで打ち明けてくれたんです……」

「そうですか……」

聡も山口の向かいに腰を下ろし、自分の膝の上に頬杖をついたとたんにため息が出た。

3ヶ月。

12月、11月、10月。

妊娠経験のない聡は、『3ヶ月』の言葉どおり、3ヶ月前に遡った。

10月頃、瑞樹は身ごもったことになるのだろうか。では誰の子を。

将は……違うだろう。彼ははっきりと『9月からは彼女とはやってない』と言っていた。

しかし、なぜ胸騒ぎがとまらないのだろう。

10月頃、自分たちの関係はどうだっただろうか。将と聡の関係は。聡は初めて、苦い思いで将との思い出をたどる。

 
 

「先生、大丈夫ですか? 顔が青いですよ」

山口がうなだれる聡に声をかけた。

「先生の責任というわけじゃ、ありませんから。最近の若いコにはよくあることです」

聡の様子を、担任教師としての責任感に由来するものと捉えたのか、山口はそんな慰めの言葉をかけた。

「お茶でも淹れましょうか」

山口は気を利かす。

「あ、私が……」

立ち上がった聡は、まだ山口が風呂を済ませていないことに気付いた。

「山口さん、せっかくですから、バスルーム使ってください。また、生徒たちが来たら、しばらく使えないでしょう?」

ようやく、気を遣うと共に、微笑をつくることができた。それは上出来とはいえない固い顔だろう、というのは自分でもわかる。

「そうですね。じゃあ、お言葉に甘えて」

山口は柔らかい笑顔で答えると、手早く支度してバスルームに消えた。

残された聡は、窓辺に寄ると、外を観るともなく目を暗闇に泳がせようとした。……が、客室が明るすぎるのか、ガラスは聡のうかない顔と、その奥に眠る瑞樹を映し出した。

聡は、カーテンを閉めると、所在無く、テレビを付けた。

寝ている瑞樹に配慮して音量は絞る。どこかで天気予報でもやっていれば、と思ったのだ。あいにく、タイミングが悪かったらしく、まだしばらく待たなくてはならなそうだ。

聡は、そのまま、バラエティ番組を映し出すテレビをつけたままにして、ソファに腰掛けた。

囁くようなボリュームで聞こえる芸人やタレントの笑い声は、本来の役割である『賑やかし』を果たすこともできず、空虚に響く。

聡は再び、3ヶ月前に思いを馳せる。

将は、最初から聡への好意をあからさまにしていた。

9月にデートをして、告白されて……何日もしないうちに手を握りあって歩いたはずだ。

聡の脳裏に、夕暮れの海やフランス料理店、東京湾岸の夜景が次々と鮮やかに蘇る。

こんな状況で思い出しているのに、思い出は聡の心を温かくさせる。

それから、週1ぐらいで夕食を共にするようにしていたはずだ。10月といったら、その頃だ。

あれは、宣言はしてないものの『付き合って』いたようなものではないのだろうか。

聡の心に『アキラー』と呼ぶ将の声がリフレインする。明るい声、むすくれた声……そして囁き声。

『アキラ、愛してる』

たった今、囁かれたようにそれは鮮やかだった。思い出は、思わぬ涙を連れてきた。聡は、急に湧き出た涙を手でぬぐって、考えを先に進める。

ああいう状況で、将が他の女を抱くとは、やっぱり考えられない。

だから瑞樹のお腹の子は、将の子ではない。聡がそう結論付けたとき、携帯が鳴った。

それが将だったことを、聡は吉兆だと無理やり思い込むようにした。

「アキラー? 何やってんだよ。ケンちゃん一人なのに大富豪になっちゃったよ」

能天気な将の声。聡とペアを組んでいた兵藤は、あとで相当ツキがまわってきたらしい。

「……ごめん。もう少し待って。今山口さんがお風呂だから……」

「あっそー」

「将、いや鷹枝くんは、どうなの?」

瑞樹が万が一、目を覚ましてるといけないので、苗字で呼びなおす。

「俺、今、やっと平民~」

将はえへへ、と電話の向こうで笑う。その笑い声に聡は癒された。

「真田さんは大丈夫なの?」

「ああ、ユキコ? 変わろうか?」

将の声の向こうで、『ええー、ヤダー』と真田由紀子の照れた声が聞こえる。すっかり元気になったのだろう。

聡は、もう少ししたら行く、と伝えて電話を切った。明るい気持ちになっていた聡の背後から

「せんせい。」

と低い声がした。

振り返ると、瑞樹が布団から身を起こしてこちらを見ていた。ショートカットになった瑞樹は、青白いほどの顔に、大きな瞳がいっそうきわだつ。

いつから、目を覚ましていたのか。

聡は一瞬、怖気づいたのをなんとか作り笑いの下に隠して、

「起こしちゃった? ごめんね……。なにか飲む?」

とあわてて、冷蔵庫のほうに近寄ろうとした。

瑞樹は、そんな聡の背後に向かって確かに言った。

 

「将の子だよ」

聡は手にしたグラスを思わず落とした。グラスは柔らかいカーペットの上で低くバウンドし転がった。

聡はグラスも拾わずに、恐る恐る、瑞樹を振り返った。瑞樹は、微動だにしないまま、聡を見すえ、もう一度言った。

「……お腹の子は、将の子だよ。せんせい」

『ウソ』反射的に出てきた言葉を聡は飲み込んだ。

瑞樹は聡の顔を凝視している。……あきらかに聡の反応を観察している。

受けた衝撃の外側で、かろうじて残った理性で、判ったことがある。

――この子は将と自分のことを知っているのだ。

そしてさらに。

瑞樹の側では、将はセフレなどではない。

将を愛していた……もしかすると、今も愛しているのかもしれない……。

瑞樹の今までの敵意の理由を、聡はようやく納得した。

第94話 女生徒たち

「チャミ、お尻に青アザできてるよ!」

「ゲー、ヤダぁ! きっとさっき板の上にコケたときのだー」

食後の温泉大浴場は、昨日より多くの生徒で賑わっていた。

スキー研修・初日は、特にケガ人も出ず、晴天のうちに終わった。

天気がよかったせいか気温は温かめで、研修は汗ばむほどだったのと、夕食のジンギスカンで付いたラム肉の臭いを洗い流したい、というので、昨日風呂をサボった生徒も今日はこぞって大浴場を利用していた。

「あ、アキラ先生だ」

聡はタオルを胸の前にあてて、女生徒たちの嬌声で賑わう大浴場に足を踏み入れた。

客室のバスルームを生徒に占領された聡も、昨日は結局、風呂に入りそびれたのだが、今日はそうはいってられない。

今日も自室のバスルームは『生理』軍団に占拠されているので、聡はあっさりと生徒たちと一緒に大浴場を利用することにしたのだ。

石張りで広い温泉大浴場は、外に露天風呂があることもあり、荒江高校・2クラスの女生徒30人あまりがいっぺんに入っても、それほど窮屈ではない。

浴槽に満ちる少々褐色に濁った温泉の湯がいかにも気持ちよさそうだ。

聡は生徒たちに笑顔で声をかけながら、洗い場のカランの前に腰を下ろした。

「すっげー、ナイスバディ」

浴槽にいたチャミ&カリナの声が揃ってしまった。

「ボン、キュッ、ボンの見本みたいな?」

「エロイよねー」

女風呂では、あまり体を見ないようにする、という暗黙のエチケットがあるのだが、チャミ&カリナはそれをすっかり忘れて、洗い場で泡だらけになっている聡の体を浴槽から観察していた。

「巨乳だったらサ、うちらのクラスのトモちゃんとか、1組のサユリとか、もすごいけど、センセーの場合、ウエストが細っ!それにあんなに胸でっかいのに、腕とか折れそうだしー」

スタイルの観察は女同士のほうが、シビアである。

まもなく、聡が体を洗い終わったのか、浴槽に沈む二人のほうにやってきた。

「センセー、巨乳~ぅ」

「もー、どこみてんのよ」

聡は笑いながら、でも女同士なので特に隠すこともなく、裸体を温泉に沈めた。浴槽に入ってしまえば、少々濁り気味の湯で、体の詳細は見えなくなる。

「おっぱいが浮いてる~」

聡の豊かな胸は、柔らかなその上半分を丸い形で、濁り湯に浮かべていた。聡にとってはいつものことだが、チャミ&カリナには珍しいらしい。

「ホントだ、すごーい」

「いつそんなに大きくなったんですかー?」

「それ知りたい!それと今何カップ?」

バストについて聡に質問攻めするチャミ&カリナだった。

「高2ぐらいのときは、アナタたちより小さかったわよ」

と、答えつつ、聡はいつこんなに成長したかを秘かに思い出していた。親ゆずりの遺伝ではあるけれど……やはり『経験』してから格段に大きくなったと思う。

高2の最初はやっとBカップだったのだが、高校を卒業する時は2サイズも成長していた。女性ホルモンの影響だろう。

ちなみに、今は卒業時よりさらに成長しているのだが……。

「ところで、よく筋肉もんどいたほうがいいわよ。特に腿とか」

なまめかしいことを頭から追い出すべく聡は、話の流れをぶったぎって、無理やりアドバイスを始めた。

 
 

そのあと職員ミーティングのあと、聡はチャミ&カリナに誘われて、女生徒の部屋で行われるトランプに参加することになった。

女生徒の誘いは、聡にとって胸がジンとするほど嬉しいものだった。こんなとき、教師冥利につきる思いがする。

スウェットに着替えて、ラウンジで行われる職員ミーティングに参加しようとしていた聡のもとにメールが入った。将だった。

 

>あとで、また昨日の場所で会おうよ。二人で

とある。聡は、

>ゴメン。今日は、女の子たちにトランプに誘われたからパス

と、それに嬉しい顔文字を添えて返信した。

 

特にけが人もなかったということで職員ミーティングは『明日も気を抜かないようにしましょう!』で短く終わった。

「アキラセンセー、こっちだよ」

ミーティングが終わって解散した聡は、ちょうど廊下をいくチャミ&カリナに声をかけられた。トランプはどうやら男子の部屋でやるらしい。

実は、聡からメールを受け取った将が急遽、セッティングさせたのだ。

将が直接召集すると緊張するだろうから、女子の受けがいい兵藤に客室間電話で誘わせる。

兵藤はパシリをさせられたことにブツブツいいながらも、イベントの内容自体は賛成だったのか、まんざらでもなさそうに女子の部屋に電話をしていた。

 
 

廊下を行く女子たちは、はしゃいでいた。

毎日のように顔をあわせている男子でも、こんな風に夜、ホテルの部屋で遊ぶのは、非日常的でワクワクするのだ。

修学旅行の夜、男女混じってトランプなどで遊ぶのは、お約束のようなものだろう。

……そういう気持ちに覚えがある聡は、まあ不純異性交遊するわけじゃないし、トランプだけだし。自分もついてることだからまあいいか、と黙認した。

トランプの『会場』となった一番広い和洋室・6人部屋には、すでに多くのジャージ姿の男女生徒が集まっていて、チャミやカリナに聡を入れると、全部で16人になった。

よくよく聞くと、カップルに部屋をあけ渡したらしい。

「ちょ、それって不純異性交遊!さすがにだめよ!」

それを聞いて、教師としてさすがに止める立場にある聡は、立ち上がったが

「まー、いいじゃん」

と生徒たちにたしなめられた。きわめつけに、将に、腕を掴まれて、

「本気で愛し合ってるなら、不純じゃないじゃん」

とたしなめられた。将の瞳が『俺たちだってサ……』と信号を送る。聡は何も言えなくなった。こんなふうに丸め込まれるなんて、教師失格……と聡はため息をついた。

生徒たちのほうは、すでにトランプのほうに意識が行っている。

「人数多すぎじゃなーい?」

「トランプ2つ混ぜて使えばいいよ」

「てか、ちょうど男女同数だからペアになったらいいよ」

と提案したのは将である。もちろん聡とペアになるのを狙っている。ペア案にみんな賛成したので、クジでペアをつくる。

しかし、クジは平等に、と男女別につくってそれを合わせるようにしたので、将の企みは見事はずれた。

聡は兵藤と、将は真田由紀子とペアになってしまい、将はがっかりした。

トランプ2つを混ぜて、大富豪ゲームを始めたのだが、トランプが2つ混ざるとなかなか難しい。

順番が回ってくるたびにペアでの作戦談義が行われる。

扇のように広げたトランプの前で、顔をよせあって仲良くあれこれ相談している、丸刈りの兵藤と聡を見るにつけ、将は面白くない。

将の相方の真田由紀子は大人しく、将が何かを相談しようと声をかけるたびに、そのおかっぱの丸顔を真っ赤にしてうつむいてしまう。

将は、さっきのスキー研修中、古いダンス映画のように、由紀子が講師の股の下を潜り抜けた様子を、ふいに思い出して、笑いがこみあげそうになった。

それを必死でこらえていたせいか、よけいにクールな態度になっていたかもしれない。

さて、ゲームのほうは、配られたカードにツキがなかったのか、将&由紀子チームと、聡&兵藤チームが最後に残った。

切り札を隠しているのかを窺いながらの攻防戦となった。

軍配は聡&兵藤チームにあがった。

「ヤッター!」

手を取り合って大貧民にならなかったことを喜ぶ聡と兵藤。

「くっそお」

負けた将は、頬を膨らましながら、大量になって繰りにくいトランプを繰っていく。負けた者が次のゲームのトランプを配る役目になっている。

ちなみに最後にする罰ゲームは、大貧民と大富豪による王様ゲームだ。

今、大富豪は井口&チャミ組である。このままだと何を命令されるかわかったもんじゃない。それに元来、負けず嫌いの将である。

次こそ大貧民は脱出したいと、トランプを念入りに繰った。そんな将の横にいた由紀子が、蚊の泣くような声で

「ごめんなさい」

と謝った。将は一瞬キョトンとした。由紀子は丸顔を真っ赤にさせて泣きそうになりながら、

「……ごめんなさい。私のせいで……」

と視線を下に向けていた。

「ハァ?」

将は、なんで謝られるのか本当にわからなかったが、泣きそうな由紀子が可哀想になり、なるべく優しい声で

「ユキコのせいじゃないよ。気にするな」

と言ってやった。

「でも……」

下を向いた由紀子の目から、ついにポタポタと涙が落ちてジャージの腿に染み込む。皆が由紀子の異変に気付いてシーンとなった。

固唾を飲んで動向を見守る。聡は、教師として何か、由紀子に声をかけようとしたが、その前に

「ほら、泣くなよ。ユキコ、な?」

と将が、由紀子の頭をくしゃくしゃと撫でた。

由紀子はビクッと体をふるわせて、目を真ん丸く見開いた。顔がさらにカーッと赤くなる。

「な、なんだよ」

由紀子の反応に将のほうが面食らっている。ウブな由紀子は、男子に……しかも将に頭を撫でられて、本当にショックだったのだ。

クラスで一番大人っぽくて近寄りがたい『イケメン』の将に。由紀子は、どうしていいかわからなくて、ついに、嗚咽を始めた。

「あー、将が真田を泣かせたー」

「なーかせた~」

井口やカイトが、小学生のようにはやし立てる。

「えー、何、俺のせい? もー、泣くなよぉ、ユキコォ」

将は頭をかいたり、由紀子の顔をのぞきこんだりして、弱り果てている。あわてる将が可笑しくて、聡はクスッと笑った。

その騒ぎの中、客室の電話が鳴る。

電話をとった聡に受話器の向こうで、看護士の山口の

「アキラ先生、ちょっとお話があるんですけど」

という声が聞こえた。

部屋が騒がしいので、意味を聞き取るだけでせいいっぱいだったが、なんだか深刻な声に聞こえた。

聡は、隣にいた相棒の兵藤に「ちょっと呼び出されたから行ってくるね」と断って、部屋を出る。

 
 

山口はなぜか部屋の前の廊下で聡を待っていた。

「アキラ先生、ちょっと……」

聡の姿を見つけると、声をひそめて手招きした。

「よかった、今ちょうど、生徒がお風呂から出てくれたところなんですよ。次の生徒は入れてません」

唯一客室のバスルームが使える聡と山口の部屋は、一人で風呂に入りたい生徒が交代でやってきていたのだ。

山口は部屋のドアを開けると、あたりを用心深く見回すようにして、聡と一緒に客室に入った。

聡と山口の客室は和洋室になっているのだが、和室のほうに床が延べられて、ショートカットの女生徒がそこで眠っていた。

聡は、最初、それが誰だかわからなかった。

が、窓側のソファに置いてある長い黒髪のウィッグを見つけ、驚いてもう一度その寝顔を見た。

それはまぎれもなく葉山瑞樹だった。

「彼女、やっぱり妊娠しているそうです……。3ヶ月めだとか」

山口は重い口調で聡に告げた。

第93話 スキー研修

スキー研修第1日目は快晴に恵まれた。

真っ青な空の下に、ゲレンデはまさに眩しいばかりの白銀で生徒達を待っていた。

ゴンドラで一気に1000m昇った山の上からは、樹氷ごしの真正面に羊蹄山の雄姿を望むはずだった。

しかし。ほぼ全員がスキー初心者という荒江高校の生徒たちにとって、まずは、そのゴンドラにのるどころの話ではないのだった。

将は、兵藤や松岡ら男子生徒10人ほどのグループで並んで、『スキー板で斜面を登る練習』をさせられていた。ブスッとした表情は、修学旅行生お仕着せの黄色いウェアにゼッケンがダサいからというのもある。

傾斜が目に見えないのに、勝手に滑り出すゲレンデに辟易していたというのもあるし、

「ほらー、そこ!後ろに滑らないでェ!」

マッチョなのになんだかカマッぽい講師もキモかった。

しかし、一番の原因は聡がいないからだった。昨夜、別れたあとも将は布団の中から聡にメールを送信していた。
聡からはチャットのように即座に返信が帰って来た。
 
>聡、明日、オレたちがスキーやってる間、何するの?
>久しぶりにスキーやろうかな、とか。天気次第かな

>じゃ、一緒に滑ろうよ
>将はスキー初めてじゃないの?

>すぐ滑れるようになるさー
>そうかなー?

>とにかく、待ってろよ
>わかった
 
と言ってたはずなのに、将たちがグループにわかれて、スキー靴の履き方などを指導されている間に、聡ときたら、さっさとどっかに行ってしまったのだ。

 
 

斜面を横歩きで登ると、次は緩い斜面を、スキーをハの字にして滑って止まるという講習になった。

このようにして文字で書くと簡単だが、初心者にとっては、なかなか難しいのだ。

一番手の兵藤は難なく出来たので、簡単そうに見えたのが間違いだった。

次の男子が止まらずに前のめりに転んだのを皮切りに、皆止まらないわ、転ぶわで、皆雪まみれになっていた。将の前の、松岡などは、

「うわあああああ」

と叫んで、止まらないまま、終わった男子の列に突っ込んでいた。すると突っ込まれた男子が、また後ろに滑り出すわ、止まらないわでパニック。

少し離れたところでは、女子が同じ講習を受けていたが、小柄でぽっちゃりとした真田由紀子が同じく止まらずに、悲鳴をあげていた。

それを女子を担当する若い講師が、なんとか止めようと正面から由紀子の腕を受け止めるも、由紀子は講師の腕を掴んだまま、恐怖のあまりスキー板の上でしゃがんでしまい、なんと講師の股の下をくぐって滑っていってしまった。

そう、まるで、70年代後半のダンス映画での名シーンを雪上でやってしまったのである。見ていた将は、ぶっと吹きだして、腹を抱えて大笑いしてしまった。と、笑ったはずみに、今度は将のスキー板が動き出した。

――やべ!止まらねえっ!

あせった将は、どうやったらスキー板が止まるかを今習ったことなどすっかり忘れてしまい……板を揃えてしまった。よけいにスピードをあげるスキー板。その先にはマッチョ+ゲイ(?)講師がいる。

「うわああああああ!」

激突。

将は一瞬わけがわからなくなった。気がつくとマッチョ講師の上に将がのっかっていた。

「スキーは揃えちゃ、ダメって言ったっしょぉ。イケメンくん」

髭を剃った跡が青く見えるほどの色白に、サングラスがはずれた、将を見る目がなんだか甘い。

――まさかマジでゲイじゃ……。

「す、すいませんっ」

将は飛び起きようとしたが、慣れないスキー靴のせいで、なかなか起きれない。そこへ。

上のほうの急斜面から、ものすごいスピードで滑ってくる女がいた。女だというのは、2つに結んだ髪が肩で揺れていてようやくわかったぐらいで、ダイナミックな滑りは、しばらく性別がわからなかったほどだ。

急斜面ではきれいに波状のカーブをリズミカルに刻んで、緩斜面では、スムーズに大きなカーブを素早く描く。
その女は、背の高さほどまでに雪しぶきをあげて、将たちのグループの前で止まった。

顔の半分がゴーグルで隠れていたが、ファー付フードの、あのメタリックなジャケットは疑いない。ゴーグルを顎の下にずらして現れた顔は、まぎれもなく聡だった。

「先生!」
「スゲエ!」

そこにいた、黄色一色の生徒から歓声があがった。

色白のほっぺたをリンゴのように赤くした聡は、笑顔の下で白い息をしきりに吐いた。将は、講師と抱き合ったまま、呆然と聡を見ていた。

「上から一気に滑ってきたから、さすがにキツイ……あら、鷹枝くん」

聡はマッチョ講師と雪の上でからみあう将に気付いた。

「わーっ、アキラ、違う」

あわてる将を、マッチョ講師は、落ち着いて、えいっと一気に立たせた。はずれたスキーを将に履かせながら、さっと自分のスキーをたてなおすと

「先生、上手ですねー!何級か持ってるんですかぁ?」

すいっと滑って聡の隣に並んだ。

「いや、特には……。ここんとこ、ずっとボードだったから感覚狂っちゃって」

と聡は答えながら、将を見た。将はスキー靴の裏の凹凸に雪が入り込んだのをストックでしきりに叩いている。

「いやいや、なかなかですよぉ!もうリミテッドは行きました?」

リミテッドというのは、このスキー場でもっとも難しいといわれる上級者コースである。

「まだまだ、足ならしですから……」

将は、なかなかうまくはまらないスキーにいらいらしながら、聡とマッチョ講師の会話を聞いていた。聡がそこまでスキーが巧いとは……なんだか悔しかった。

 
 

 
聡は休憩がてら、しばらく講習のようすを見学していた。ほとんど平らなところなのに、皆、面白いように滑って転ぶのが微笑ましい。

ふと女子のほうを見た。

男子と一緒の黄色いウェアに身を包んで、2年2組の女子はすぐ近くで講習を受けていた。

その中に、長い黒髪をなびかせて、おそるおそる滑る瑞樹の姿があった。

身ごもっている女が、スキー研修など受けるはずがない。

彼女……瑞樹が妊娠しているはずがない、と聡は心で断定し、安心した。

 

 
聡はしばらく講習を見ていたが、暇なので、また滑りに行くことにした。上で接続する他のスキー場にも行ってみたい。

「じゃあ、みんな頑張ってね」

と皆に声をかけた聡は、最後に将を一瞬見つめた。そして、声にださず『がんばって』と口を動かすと、ストックを後ろに投げ出すように、行ってしまった。

緩斜面なので、ステップを踏むように軽やかに片足ずつ滑っていく。スケートのようだ。

将はそれを、真似して追おうとして、勝手にスキーが滑ってまた転んだ。スキップするように滑っていったはずなのに……。

「くっそぉ」

大またを開いて雪に尻餅をついた将は、とても悔しかった。

 

転んで、起き上がって、を繰り返して雪まみれになっているうちに、午前中の講習が終わった。あっという間だった。

マッチョ講師と別れて、ホテルにいったん引き上げようとした将たちは、ゴンドラ乗り場の入り口のところにいる聡を見つけた。

「センセと話してるのガイジンじゃん」

井口がいうとおり聡は、背の高い金髪の外国人の男性と談笑していた。

「やっぱり先生、英語うまいね」

立ち止まる将に、兵藤がすれ違いざまに話しかけていく。将は、嫉妬にかられて、板をかついで聡のそばにズカズカと歩いていった。自分でも気付いていないが、将は雪道の歩き方に、いつのまにか慣れていた。

聡は将に気付くと、外国人男性との会話にケリをつけて、最後に

「バイ」

と軽く手を振って別れると将のそばに戻ってきた。

「『バイ』だって」

将は聡の口真似をした。

「何、ガイジンにナンパされてんだよー」

将は、怒ったふうを見せた。本当に怒っているわけじゃないが、さっきから聡には少しムッとしている。

「ナンパなんかじゃないわよ。さっき偶然ゴンドラで乗り合わせた人だったから」
「何人?」

「オージーだって」

最近、北海道のスキー場は、オーストラリア人がとても多いのだ。

「で、何話してたんだよ」
「いや、頂上に行きたいけど、どうやって行くか知ってるかって」

「頂上とか行けんの?」
「うん。一番上のリフトに乗って、隣のスキー場にいったん行かないといけないんだけどね。山の向こうの日本海とか見えてキレイだよ」

やっと止まれるようになった将には遠い話だ。

「ところで、どこまで出来るようになった?」
「やっと止まれるようになった」

将はブスッとした顔のまま答えた。あまりに聡とレベルが違いすぎるのが面白くない。

「面白いでしょ?」
「……まあな」

素直に考えれば面白かった。なにせ雪自体が珍しいのだ、滑っても転んでも突っ込んでも楽しい。スピードが出すぎてしまうのも、車やバイクに乗る将にしてみればどうということはない。たぶん、すぐ制御できるようになりそうな気がする。

しかし。このいらだちは。あきらかに聡とのあまりのレベルの違いに落胆しているほかならない。

聡はやはり、9歳年上、スキー経験も豊富な大人なのだ、という事実を将は改めて突きつけられる。

第92話 月夜の逢引(2)

「将、ここで、この態勢はヤバくない? 廊下から誰かがみてたら……」

「大丈夫。暗いからずっと見てなきゃ見えないよ。廊下から外なんてそんなに長いこと見るわけないし」

「でも……」

「心配性だな」

将は聡を抱いたまま、体を起こした。

「俺、聡に乗っかられるの好きなのに」

将は立ち上がると、同じように聡の腕を引っ張って立ち上がらせた。聡についた雪を払ってくれる。

「なんで?」

「おっぱいがここにあたるから」

ニヤッとして、自分の胸のあたりを示す。

「んもー、エッチ」

といって、将のぬくもりから離れた聡は、寒さにくしゃみを連発した。

「ほら、おいでよ」

正月に、実家の萩近くの日本海へドライブしたときのように、将はダッフルの前をあけた。

ただ、あのときと違うのは、向かい合っていること。聡は、ダッフルの中の将にぎゅっと抱きついた。そんな聡を将はダッフルですっぽりと包んだ。

聡がもはや慣れ親しんだ、干草のような将の匂いがする。

「あったかい……。将、湯冷めしてない? 大丈夫?」

ダッフルの中から首を出して将を見あげる黒目がちの聡の瞳は、将にはなんだか子犬のそれのように見えた。

将はいとおしさでいっぱいになって、聡の背中をそっとなでた。

「ああ、今日面倒だから風呂省略した」

「ヤダー、不潔ー」

といいつつ聡は将から離れない。そういわれてみれば、いつもより匂いが少し強い気がする。

でもそれは、もはや、将の虜になっている聡にとっては、アロマだった。

将の背中に腕をまわして、胸をぎゅうっと押し付けながら、いつもより強い将の香りを吸い込んだ聡は、くらくらするような幸福感に酔った。

ここのところ、このアロマで聡は眠っている。

実は……4日に東京に帰ってきてから、将は毎晩のように聡の家に通ってきていた。

そして、そのまま朝まで二人はベッドの上で抱き合って眠った。

もちろん、聡が禁じたから、抱き合ってキスする以上のことはしない。

だけど、将の息づかい、鼓動、ぬくもり、におい。

それらにくるまって眠る聡は、充分すぎるほどの幸せを感じていた。

女の聡は、それでいい。あれこれしなくても、腕の中にいるだけで、恋の幸せに陶酔できる。

しかし、若い男である将のほうは、それで平気なのだろうか。よく我慢している、といつも思う。

と、口に出して一度言ったら、

「ぶっちゃけ、来る前に、処理してきてマース」

と照れながら口にした。

あのとき聡は、赤くなって『もー!』とか言いながら将を叩くふりをしたと思う。将はそんな聡に

「だって、男の子だもん」と某アニメソングのセリフを真似しておどけたはずだ。

聡は、ふとそれを思い出していた。

聡がそれを『おあずけ』にしているから、将は仕方なく自分で発散しているのだろう。

では、あの葉山瑞樹と付き合っていた頃は?

井口は彼女を将のセフレだといっていた。当然、彼女とそういう行為を何度もしたのだろう……。

聡は将を見上げた。

将は聡が顔をあげたのに気付いて、聡の髪を撫でながら、柔らかい目で聡を見つめた。

髪の毛は冷気で氷の糸のようにひんやりとしていて、将は手を少しだけひっこめたくなった。

髪ほどではないが、月明かりの中に浮かんだ聡の顔は、将と抱きあっているのにはそぐわない真面目な表情を浮かべているのに気付いた。

「将……。ちょっと訊きたいことがあるんだけど」

「なぁに」

「葉山瑞樹さんのことなんだけど」

「ハァ?」

白い息と共に吐かれたのは疑惑なのか……将は眉根を寄せた。

こんなロマンチックな月明かりの雪の中で、どうして聡はそんな話題を持ちだすんだろう、と一瞬恨んだが、疑いだとしたら晴らさないといけない。

「もう、俺、アイツとは無関係だぜ。マジで」

「あ、そうじゃなくて。それはもうわかってる」

もともと、もう今も続いているとは思わないが、不機嫌な顔をした将を見て、聡はとりあえず安心した。

「でさ、いつまで、葉山さんと付き合ってたの?」

「付き合ってないってばー、もー」

将は心底、嫌そうな顔をした。

「……でも、セフレだったんでしょ……」

「アキラ、もしかして、嫉妬してる?」

将は、こちらを向いたままの聡を抱いた腕の力をさらに強めて、自らが吐く白い息がかかるほどに、聡の顔に自分の顔を近づけた。

「嫉妬してくれるんだったら、スゲー嬉しい。だけど、もう昔の話だから」

そういうと、将は再び聡の唇に自分の唇を押し付けた。ひとしきり、口づけをかわす。口づけのあいまに漏れる息が思いのほか白く照らし出される。

が、聡は唇をふい、と離した。

「いつまで、関係、があったの?」

将はガクッとなった。

「ごめん、将。嫉妬とかじゃなくて、ちょっと知りたくて。……教師としてサ」

最後の、『教師としてさ』のあたりは、完全に色気のない口調だった。

「なんだよー」

将は、疑われているのではないと安心しながらも、青い月夜の、こんなにいいムードのときに、そんな話題を持ち出す聡を少し恨んだ。

「だって、彼女、前原くんの、あの事件もあったし。絶対、修学旅行なんか来なさそうなのに、具合悪いのを押してわざわざ来てたから。それに……」

聡は、瑞樹の『つわり』疑惑のことを言いかけて、ハッとした。

「それに、何?」

聡はあわてて、

「う、ううん。謎が多いコだな、と思って。将だったら……、彼女のことを何かわかるかなと思ったの」

と誤魔化す。さらに

「ホラ、私いちおう、担任じゃない?」と付け加える。

将は、まだ軽く自分の体に腕をまわしたままの聡に安心した。

「さあ、……なんか家庭がフクザツらしいぜ。再婚した新しいオヤジに迫られてるから帰りたくないとか、言ってたかも」

「ええっ!義理のお父さんに? ……虐待されているってこと?」

聡は将の腕の中でもう一度顔をあげて、目を見開いた。

「うん。だから家にできるだけ、いたくないって俺んちに入り浸って……」

将は言いかけたまま、目をそらした。

瑞樹が入り浸っていた、ということから、将と関係があったことを聡にはっきりと連想させたくないのと、そんな不びんな瑞樹を追い出した罪悪感が、いまさらながら、ちりりと将の心を引っ掻いたからである。

「ふうん……」

聡は将に抱きついたまま、やはり視線を将の顔からそらして横に向けた。

静寂が二人を包んでいたが、二人は別々のことを考えていた。

「だけど、アキラ」

聡を呼び戻したのはやはり将だった。

「信じて。俺、もう、本当にアキラだけなんだ」

将は目を見開くようにして、聡を見つめた。何かを請うような必死な表情だ。

「それに……だいたい9月からこっち、アイツとは1回もやってない。本当だよ」

「9月?」

「アキラと学校で再会してからは絶対やってない」

「そうなの? 東大生の山田さん」

聡は将の昔の偽名でからかった。聡が微笑んだのに将はホッとして、また聡の体をきつく抱きしめた。

「俺……、アキラ以外の女なんか、一生いらない」

それは聡の瞳に誓うようだった。澄んだ真剣な瞳に捉えられ、聡は身動きができない。

互いの白い吐息が交じり合うほどの至近距離で、二人は見つめあった。

「そんなこと言っちゃっていいの……?」

余裕で茶化すつもりが、かすれた声で切ない確認になってしまった。将は答えるかわりに、聡にあらためて、くちづけしようとした。そのとき、

「そこに、誰かいますかー?こっちのドア施錠しますよー!」

とホテルの従業員らしき男の声がした。

「ヤバ」

二人は顔を見合わせると、舌を出して笑った。そして、ホテルの出入り口のほうへあわてて走った。

教師と生徒に戻った二人は、ホテルの中に入ると何食わぬ顔をして別れた。

もう消灯時間ギリギリだった。

聡が買ったドリンクは、ガチガチに凍ってしまっていた。

第91話 月夜の逢引(1)

「あ、でも疲れが内臓にきているだけかもしれないし……」

こわばった聡の顔を見て、山口がフォローをいれる。

だけど、インクをたらした水のように、ひとたび聡の心に広がった得体の知れない不安は、消えなかった。

聡は、カニをてんこ盛りにした皿を将の前に置きながら、なぜか彼の顔に視線が粘りついたように離れなかった。

何も知らない将は、素直にカニを手にとり格闘している。その、あまりの不器用さに、つい聡は

「もうっ。貸して!美味しいところを全然とってないじゃないっ」

カニを素早くかつ丁寧にほじくると、身だけを取り出した小皿を将に渡した。

「わーい、センセー、サンキュウ!」

無邪気に喜ぶ将。小学生のようだ。それを見ていると聡には、とうてい彼が瑞樹を孕ませたとは、考えられなかった。

というより考えたくなかった……。

「えー、いいなー! 先生、わたしも~!」

うらやましがるチャミやカリナらの手前、聡は彼女らにもカニをほじくってあげるハメになった。

「先生、お母さんみたいですね……」

山口が少し呆れるように言った。

 
 

食後、生徒たちは入浴時間となった。

その間、引率の教師らは簡単にミーティングを行い、それが終わると、消灯後の見回り以外は、教師としては自由時間になる。

しかし、聡は看護士の山口と同じ部屋だったので、自由時間になったといえど、やれお腹が痛くなっただの、頭が痛いだの、と次々に部屋を訪ねてくる生徒がいて、部屋で落ち着くどころではない。

客室備え付けのバスルームもさっきから生徒に占領されている。

「生理中なんです」

と、大浴場に入れないという女生徒がひっきりなしに入りに来ているのだ。

ちなみに生徒たちは基本的に温泉大浴場を利用することになっている。

そのために生徒が泊まる客室の浴槽の水道栓は取り去られているという。これも修学旅行対応らしい。

大浴場も他校とバッティングしないように、時間が定められている。20時までの1時間が荒江高校に割り当てられた時間となっていた。

それに入りそびれた生徒や、また同性の前でも裸になるのが恥かしいという生徒も結構いる。その子たちが『生理』軍団には入っているのだろう。

 

聡は、息抜きに1階のラウンジにいってみることにした。

そこには、荒江高校ともう1つの高校がいりまじって、何組かのカップルがジャージ姿(生徒たちはホテル内はジャージと定められている)でデートしていた。

脱走防止なのか、多美先生ともう一人の教師がソファーで構えているのに、そんなことはカップルたちはおかまいなしのようだ。

ちなみに、そんな風に見張らなくても、今日このホテルに泊まっているのは修学旅行生だけ、というのはホテル側もわかっているから、誰も外出させないだろう。

まして、外出したところで、このホテルのまわりは何もない。2kmほど離れた道道ぞいにいかなくては、民家もコンビニすらもないのだ。

目が合ってしまったので、多美先生ともう1人の教師に聡は会釈し、戻りがてら、売店でソフトドリンクを購入した。本当はビールが欲しかったが、売店も自販機も修学旅行対応になっていてソフトドリンクしかないのだ。

 

所在無い聡は、スキー場への出入り口のほうへ行ってみた。

そろそろナイター営業が終わる頃……といっても今日、このホテルの客でナイターを利用する者もいるはずないのだが、自動扉は開いた。

聡はそこから外に出てみた。ひやっとした空気が額に気持ちいい。

暑いばかりに暖房が効いたホテル内にいたから、外の冷気はなおさら気持ちよく感じた。

しかし、気温は低いらしく、ゲレンデからのライトに照らされた吐息は白い炎のようだ。

まだゲレンデを照らすライトは明るいが、リフトも音楽も既に止まっている。いまナイターが終わったばかりらしい。

上のほうには、別館へ続く連絡道コースが見えているが、そこからこっちに滑り降りてくる客はまったくおらず、

静まり返った中、冷気がしんしんと染みとおってきた。

館内に戻ろうとしたとき、携帯が鳴った。将だ。

「アキラ?いまどこ?」

「どうしたの、鷹枝くん」

いちおう教師モードで答える。

「いや、今、腹が痛いふりして部屋に行こうと思ったんだけど、いなかったから。どこにいんだよ」

聡は反射的にまわりを見回した。

誰も……教師はおろか生徒もホテル従業員も見当たらない。

ゲレンデ側は、ラウンジから丸見えだが、木立を背にするその反対側は、ホテル側からは廊下にあたり、ゲレンデ側から漏れてくるわずかな明かりだけで暗い。

聡は、さくさくと5センチばかり積もった新雪を踏みしめて、ゲレンデの反対方向に移動しながら、こっそりと今いる場所を将に伝えた。

電話を切ったとたんくしゃみが出た。

ジャケットを着てくればよかった、と後悔する。

 
 

「アキラー、どこだよ」

まもなく、将の囁き声が暗い中に響いた。現れた将は、ジャージの上にダッフルを着ている。

どこだよ、といいながら、目が暗さに慣れるやすぐに聡を見つけて駆け寄ってきた。

「滑るから、気をつけて」

と小声で聡が注意するそばから将は雪に滑って転んだ。雪の中での歩き方にまるで慣れてないのだ。

「いてて……」

「大丈夫?」

聡は駆け寄った。転んだ将を上から覗き込もうとして

「キャ」

将に引っ張られて、将の隣の雪の上に転がった。二人、新雪の上に寝転がる形になった。

「冷たあーい。もう将ったら」

セーターにジーンズの聡はすぐに身を起こしたが、将は

「みろよ、満月だぜ」

寝転がったまま指差した。雪雲が割れてそこに満月が顔を出した。

「ほんとだ……」

月はあたりの雪を青白く照らし、驚くほど明るくなった。空はコバルトブルーに変わり、雑木林の木立のシルエットが映る。

なのに雪は、相変わらずどこからともなく、ちらちらと落ちてくる。満月に照らされて、その六角形の華が見えるようだ。

目をこらすと、あたりの新雪の表面も、雪の華そのままの形が無数に重なっている。それが月の光をうけてキラキラと煌めいている。

ぞっとするほど美しい、北国の冬の満月の夜。

そして、将はあたりの雪と同じように青白く浮き上がった聡の横顔を見ていた。

炎のような形で吐く息の白さが、まわりの冷たい世界と異質な、命の……躰の熱さを想像させる。

月にみとれる聡の腕を、将は寝転がったまま、引っ張って肩を抱き寄せる。

そして、将に許された部分である唇に自らの唇をあわせた。

聡は将に乗っかるような形で抱きしめられた。

将のぬくもりに包まれながら、交わす唇も温かくて、聡は寒さを忘れた。

唇をあわせるだけかと思ったのに、濃厚なディープキスになって聡はあわてて唇をはずす。唾液で湿った唇がキーンと冷たい。

「口の中のヤケドはたいしたことないみたいだな」

と将は月の光の中で微笑んだ。いたずらっ子のようなおなじみの笑顔だ。

さっきの揚げジャガのことを言っているのだろう。聡もつられて、笑顔になる。

第90話 修学旅行はじまる(2)

支笏湖は車窓に寄り添うように10分ほど見えていた。

支笏湖と別れるとまもなく休憩所だった。ここで15分ほど休憩がある。生徒たちは皆、先を争ってバスを降りる。

聡は目をつぶってシートに寄りかかっている瑞樹に、

「休憩所だけど、トイレとか、いっておかなくてもいい?」

と声を掛けた。瑞樹は聡の声など聞こえないように、そのままシートに顔を埋めるようにそむけた。仕方ないので、聡は瑞樹を置いてバスを降りた。

広い駐車場の奥に、大きなログハウス風の土産物売り場がある。ラベンダーグッズや、ガラス細工のマスコット、ぬいぐるみ、菓子などが並ぶ。

奥の階下が、トイレになっているようだが、そのトイレが凄かった。

広くてモダンなエントランスを備えている上に、自動ピアノの演奏が流れている。洗面台には全面鏡がついて、パウダールームまである。もちろんトイレの個室数は充分にある。

おそらく、スキーバスのほとんどがここで休憩するのだろう。

店の表では、揚げジャガなどの軽食も売っており、生徒たちはそれをこぞって買った。昼食を食べたばかりで、かつ運動もしてないのに、さすが若い生徒の食欲は旺盛だ。

見れば将もすでに井口らと共にそれを買って、雪だらけの駐車場でパクついていた。

「センセー!」

ダッフル姿の将は、まわりの目もはばからず、聡に手を振って呼んだ。

まあ将一人ではなく、他の男子生徒もいるからいいか、と聡は「なあに」といいながら近寄った。

「センセ、アーンして」

と将は自らの口を大きくあけた。

「え?」

つられて口をあけた聡に、将は自分の爪楊枝で揚げジャガを聡の口に放り込んだ。

「熱ッ……!」

思いがけず、揚げたてのそれに聡は目を白黒させた。

「旨い?」

将はニコニコしている。聡はしばらく、はふはふ口の中の揚げジャガと格闘した。

「んもう、口の中火傷しちゃったよ、おいしいけど」

聡は、文句をいいながらも「じゃあ、集合時間に遅れないようにね」とその場を離れた。

一緒にいた井口は、もはや慣れているのか、何も言わないが、

「いいな~、年上の彼女」とユウタ。

「あいかわらずラブラブだな~」とカイト。

それぞれひやかしながら将を軽くこづいた。

揚げジャガ売り場は、それを手に入れようとする生徒で、ついに行列が出来た。

終わりのほうの生徒は、その場で食べる時間がなくバスの中に持ち込むしかなくなった。

そのせいか、出発直前のバスの中は、揚げ油の匂いで充満した。

「みんな、揃ったー?」

伸び上がって、車内の人数を数える聡の横で、

「うっ!」

と瑞樹が口をハンカチで押さえて、まさに今、閉じようとしていたバスの入り口から外に飛び出した。

「葉山さん?」

聡は、瑞樹以外の生徒が皆揃っているのを数えると、運転手とガイドに

「ちょっと待っててください」

と断り、瑞樹の後を追い、トイレへ行った。あいにく看護士の山口は、行程の後半は、もう一台のバスに移ることになっておりいなかった。

瑞樹は、みかげ石調の洗面台に屈み込むように、咳き込んでいた。聡は、教師としての責任感から、瑞樹の背中をさすった。

吐き気は強いようだが、吐瀉物はない。苦しそうなその唇からは白い唾液が吐き出されるのみだ。

「葉山さん、大丈夫?……看護士の山口さんを呼んでこようか?」

瑞樹は、洗面台の鏡ごしに聡を睨みつけた。屈み込んでいるので三白眼になっているその目は少女とは思えない鋭さだった。

「大丈夫……余計なことすんなよ」

それだけいうと体を起こして、今度はその大きな目で聡をじかに睨みつけた。

「目障りなんだよッ」

きれいな顔に似合わない汚い言葉を聡に吐き捨て、長い髪とコートをひるがえして、行ってしまった。

 
 

窓の外に蝦夷富士・羊蹄山の末広がりが見えていた。空港近くを出発して3時間あまりが経過している。

途中まではゲームをしたりして盛り上がっていた車内の生徒たちも少し疲れたように窓の外の風景を見ている。

羊蹄山やニセコアンヌプリの白い山々を望みつつ、バスの周囲には、なだらかな雪原が広がっている。

そのだだっぴろい平坦さは、まさに北海道の景色だった。

あいかわらず晴れない白い空は、少しだけグレーに変わって夕方になりつつあることを示していた。

ようやく車窓に、山肌を白く削いだようなスキー場が見えてきた。

4つのスキー場が山頂でつながった巨大スキー場は早くもオレンジや緑のライトでゲレンデを照らし始めている。

それを見て、聡の気持ちは浮き立った。

荒江高校の一行が泊まるのは、そのうちの1つのスキー場に隣接するホテルだ。ちなみに生徒のスキー講習を担当するのは、地元の講師である。

スキー講習の間、教師はけが人対策など2人ずつ交代でホテルにいることになっているが、当番以外は自由休憩ということになっている。

朝から晩まで勤務時間が長くなるので、昼間にせめてもの休憩時間を……といったところだ。滑りたければ滑ってもいいですよ、と自らもスキーをやりたい多美先生は言っていた。

明日の午前と、あさっての午後が自由時間だという聡は、北海道のパウダースノーをひさしぶりに目にして、うずうずし始めた。

まもなく、バスは、ホテルにたどりついた。

 
 

一足先にバスを降りた聡は、毛穴が引き締まるほどの冷気を感じた。眠気を誘うほど暖かかったバスの車内とは、まるで正反対だ。

雪で覆われたホテルのエントランスは夕方を迎えていて、濡れた路面も固く凍っている。気温はたぶん氷点下なのだろう。

ガイドとともに聡は、降りてくる生徒に、滑らないよう注意をしながら、様子を注意深く観る。体調が悪い生徒がいたら、ケアしなくてはならない。

葉山瑞樹は、バスを降りるなり、フン、とあからさまに聡から顔をそむける。その様子だと、体調はよくなったようだ、と聡は少し安心する。

いちばん最後に降りた将は、突如にゅっと上半身を聡に近づけた。聡は一瞬キスされるのかと、ドキッとした。

が、将は耳元に口をよせて、

「あとでデートしようぜ」

と素早く囁いた。聡が何か答えようと思ったときには聡に背を向けて、井口が待つエントランスへと走っていた。

 
 

道道沿いの集落やペンション街から離れているこのホテル、平日はほとんど一般客の利用はなく、今日も修学旅行生で貸切だということだ。

ただ、教師を含めて90名弱の荒江高校だけでは満館にはほど遠く、同じ日程でもう1校の約250人も泊まるとのことだった。

しかし、もう1つの学校は、地方の進学校とのことで、聡たち教師は胸を撫で下ろした。ケンカやナンパなどの問題はおそらく起きないだろうから。

ちなみに、スケジュールや部屋割りもホテルのほうで配慮してくれている。

荒江高校一行は、中宴会場に案内され、そこで今後のスケジュールや部屋割りの説明を多美先生が行う。

部屋割りは、だいたい生徒たちの希望通りになっていたのか、生徒たちから文句もほとんどなかった。

ただ、将ら『問題児』と見なされている生徒は、ひと塊にすると何をするかわからない、ということで、将とカイト、井口とユウタで分断され、それぞれ真面目な生徒と一緒にされた。

「なーんだ、寿司屋と一緒か。ヨロ~」

将は、一緒の部屋になった丸刈りの兵藤にニコニコと声をかけて、兵藤に迷惑そうな顔をされていた。

他に大人しい松岡が一緒だが、こっちはゲーム会社の社会見学以来、カイトと交流があるらしい。

特に問題はなさそうだ。……実は聡が考え抜いた部屋割りだが。

 
 

18時からの夕食は、レストランでのバイキングだった。全面窓の外には、すっかり夜になりナイター営業するスキー場を望んでいる。

メニューは、フライや麺類といった無難なものにまじって、北海道らしく茹でた毛ガニやタラバガニが赤く盛り上がっていて、生徒たちはこぞってそれを取った。

最初は生徒を見守っていた聡ら教師も途中から生徒にまじって、バイキングに参加する。

「アキラセンセ、一緒に食べよ」

看護士の山口と一緒に席を探していた聡は、チャミら女子生徒に声をかけられた。窓側に陣取る将の視線を感じていたが、女子の誘いを優先することとする。

すると、将は同室の兵藤や松岡を誘って女子のほうに移動してきた上に、ちゃっかり聡の隣に席をとってしまった。

最初、いきなり近くに来た将に驚いた女子も、兵藤や松岡が一緒だったので安心したらしい。

というより最近の将は「イメージ変わった」「本当はお茶目だよね」と女子の間では評判なのだ。

 

高校生らしい生徒の中に溶け込んでいる将に安心した聡は、もう一度、教師の眼でレストランをみまわした。

さっきの休憩スポットでも感じていたのだが、たった80人ぐらいなのに、同級生カップルが案外多い。

だいたいは、カップル2組ほどで席をとってダブルデートの趣になっているが、中には大胆にも2人きりで、お互いの口に料理を入れあっている生徒もいて、聡は驚いた。

まあ『青春してる』んだろうから目くじらを立てる気は、聡にはない。

そんな賑やかな中、瑞樹があいかわらず隅っこでポツンと座っているのが見えた。

「センセ、アーン」

振り向くと将がハンバーグか何かをフォークで聡のほうに向けている。

「んもうっ」

と聡はフォークを持つ将の腕を握ると、

「ハイ」と将自身の口にそれを入れてやった。

看護士の山口が将のトレーを見て気付いた。

「鷹枝くん、カニ食べないの?」

「ああ、俺、あーいう、殻をむくようなもの苦手なんです」

「わかるー。でもさぁ、カニ自体は嫌いじゃないんでしょ?」

チャミが口を挟んだ。

「そうそう。カニはわりと好きなんだけど、殻をむくのが面倒くさいだけ」

と将は答える。その答え方は、まるっきり普通の17歳、高2で、聡は安堵するような、でもどこかで胸がチクッと痛むようなそんな気がした。

「単なる面倒がりじゃん」

兵藤がシニカルに笑った。

「何だよー」

将は兵藤の皿から輪切りのトウモロコシを奪った。「あー!」兵藤が抗議の声をあげる。

「せっかく北海道なのに。食べなさいよ。美味しいわよ。ついでに持って来てあげるから」

聡は空になったトレーを持って席を立った。

テーブルとテーブルの間隔が広くあけられた『通り道』に出たとたん、前から走ってきた生徒にぶつかった。

「わ!」

聡は危うくトレーを落とすところだった。そんな聡を振り返ることなく走り去る長い黒髪。

瑞樹だった。瑞樹は、また気分が悪くなったのか、口を両手で押さえて手洗いのほうへ一目散に走っていったのだ。

「アキラ先生。彼女……つわりじゃないかしら」

いつのまにか聡の後ろにたっていた山口が、呟いた。

第89話 修学旅行はじまる(1)

「すごっ。真っ白」

「ね、ね、あれ白樺だよね」

千歳空港に着陸したとたん、荒江高校2年生2クラス約80人が搭乗した飛行機の機内はどよめいた。

1月11日、3学期が始まってまもなくの修学旅行・スキー研修である。

「まだ、座席を立たないで」

一般客が降りてから、修学旅行生という順に飛行機を降りるのだが、シートベルトをはずして席を立つ生徒が早くもいる。

生徒に注意しながら聡は『まあ仕方ないか』と思っている。初めての北海道という生徒も多いのだ。

学生時代に一度スキーで来たことがある聡も、やはり東京では見られない真っ白な景色を見るとやはり浮き立つ。

青空ではない小さな窓の外は、空と地面の境界がわからないほど、一面白だった。滑走路と木立でようやく地上だというのがわかる。

注意しながら、将のほうをさりげなく見る。

伸びをして大あくびをしている将と目が合った。目が合うなり将はニッと笑った。

飛行中、気分を悪くした生徒がいないかどうか、見回ったところ、狭い座席に窮屈そうに納まりつつもぐうぐう眠っていたのを見ている。

「センセ、そのダウン、超カワイイ。いいな」

座席をまわる聡にカリナが声をかけた。

「ありがと」

聡が着ているメタリックな光沢のあるダウンジャケットは実はスノボに使っていたウェアだ。ファーにふちどられたフードがついていて、街で着るのにも違和感はない。

スキーをするチャンスがあるかもしれないので一応着てきたのだ。

ようやく、キャビンアテンダントから案内があり、聡たちは降りる指示を生徒たちに伝えた。

待ちくたびれたように生徒たちはゾロゾロと降り始める。

「飛行機の中で、気分が悪くなった生徒さんはいないようですね」

看護士の山口が聡にほっとした笑顔で話し掛けた。今回、生徒を引率する教師は聡とリーダーの多美を含め4人。それに看護士が一人。

彼女『山口さん』は聡より2つ年上で、荒江高校の掛かりつけ病院でチーフをしているという。小柄だけど頼りになりそうな女性だ。

到着ラウンジに着くと聡ら教師は軽く点呼をとり、代表の多美先生が今後のスケジュールをメガホンスピーカーをつかって簡単に説明した。

なんと今回の修学旅行は、一人の欠席者もおらず、全員参加しているのである。

聡にはあの葉山瑞樹が参加しているのが信じられない。

将はもちろん、誰も彼女に話し掛けようとしない。

が、瑞樹は、そんなことを気にもしないように、淡々と行動している。今も、耳にイヤホンを突っ込んで、注意事項など聞いていない。

聡は、仕方なく、生徒たちが体育座りしている中に分け入り、瑞樹に注意する。瑞樹は、うるさそうに聡を横目でちらりと睨みつけ、

「うっせーな」

と小さく呟いて、それでも一応イヤホンを取った。聡はホッとした。

聡を目で追っていた将も安堵する。

 
 

一同は、バス2台に分乗して、まずは空港近くのホテルで弁当の昼食を取った後、Nという北海道で一番大きなスキー場に向かうことになっている。

中宴会場を開放したホテルで、生徒たちは仲良し同士で、思い思いに配られた弁当を食べ始めた。

弁当を配り終えた聡は、看護士の山口に誘われて、空いている席を探す。

将は、2人の姿を見て、呼び寄せようとしたが、あいにく将のいる円卓は、井口やカイト、ユウタなどですでに埋まっており空いている席はなかった。

「古城先生、あそこ……」

山口が指差した先には、瑞樹がぽつんと一人で弁当を食べているテーブルがあった。

「あのこ、イジメというかハブられてるんですか?」

さすがに山口もおかしいと思ったらしい。

「いえ……。あまり学校に来ないから……だけだと思いますけど」

聡は自分の言っていることが担任としてあまりに無責任だとわかっている。

「まあ、あそこしか空いてなさそうですから、行きましょう」

「ハイ」

率先していく山口に聡は、気が進まないがついていった。

「ここ、いいかしら?」

山口は看護士の職業柄なのか、爽やかな笑顔で瑞樹に近づいた。

瑞樹は見上げると無言でうなづいた。見るとまたイヤホンで音楽を聴いていたらしい。

山口の後ろにいる聡のことを、まるで、見えないがごとく無視する。聡としてはむしろ無視してくれて少しほっとした。

山口は、瑞樹の名前などを聞き出し、

「葉山さんはスキーは初めて?」などと積極的に話し掛けていた。

瑞樹は少しうるさそうにそれらの質問に最低限の言葉だけで答えている。

しかし、とうとう、弁当を半分も食べないうちに立ち上がった。

「あら、そんなに残っているじゃない」

山口が瑞樹を咎める。

「食欲ないから」

と言い捨てると瑞樹は長い髪をなびかせて立ち去った。

 
 

バスは千歳の町を抜けると、森を両側に見るまっすぐな坂道をのぼるように走る。

道路の両側にうずたかく積み上げられた雪に最初はいちいち「スゲエ」と歓声をあげていた生徒も、もう慣れたのか、バスガイドの説明を聞きながら、シートに寄りかかっている。

白樺やダテカンバがまじった白い幹が立ち並ぶ森の地面にもふっくらと白い雪が積もっている。誰も踏んでいない新雪が惜しげもなく道路わきにある。

東京だったら、皆にまっさきに踏み荒らされてしまうだろうに、ここではそんな新雪など珍しくもないのだ。

一番前の二人がけのシートに一人で座る聡のもとにメールが届いた。将だ。

 

>聡、北海道は初めて?

 

さりげなく振り返ると、後方の通路がわ座席に座る将がさりげなく手を振った。

メールを送信すると同時にこっちを見ていたらしい。将の隣、窓側のシートの上から井口の金髪が見えている。

学校のみんながいる前で、大胆な気がしたが、

 

>学生時代のときに来たことある。将は?

 

まあ差し障りはないだろう、と聡はメールを返信した。誰も電波を傍受できるわけないだろうけど、スリルに聡は少しときめく。

将からの返事はすぐに来た。

 

>小学校のときに。夏だけど。

 

聡は、『スキーは?』と続ける。

 

>初めて。聡は?

>少しできるよ

>じゃ教えてよ

>研修で習うでしょ

 

とバスの中、何食わぬ顔で二人、メールで語らう。と、そんなとき。

「センセイ、葉山さんが、気分悪そうです」

と女生徒が声をあげた。

聡は携帯を閉じると、山口とともに後ろの瑞樹の席のほうへ向かった。

「バスに酔った?」

山口は瑞樹に問い掛けた。青い顔をした瑞樹は、いかにも具合が悪そうに、うなづいた。

「吐きそう?」

瑞樹は首を苦しげに振った。

「とりあえず、前の席のほうが揺れが少ないわね」

山口に抱えられるようにして、瑞樹は運転席の後ろの席、すなわち、通路をはさんで聡の隣の席に移った。

とりあえず、山口に薬をもらって、できるだけ横になるように座席に落ち着く。その姿は聡が見てもつらそうだった。

ただ、ガイドによると、あと15分ほどで休憩所だというので、瑞樹にはしばらく辛抱してもらう。

思わぬハプニングでガイドが中断したが、窓の外をみてバスガイドはあわててガイドを続け始めた。

「みなさん。窓の右手に見えておりますのが支笏湖です。凍らない湖として知られていまして、凍るのはわずか50年に一度ということです……」

反対側にいた聡は、具合の悪そうな瑞樹の向こうの車窓を見た。

白い山々に抱かれるように、黒っぽい湖面がはるか一面に広がっていた。

第88話 通過地点(3)

将ら3人が、秋月の宿に隠してあったローバーミニに乗り込んで、萩を後にしたのは10時すぎだった。

秋月は妻の綾と共に見送りにでてきた。出発直前、秋月は将に手招きして、近くに呼び寄せると耳元で

「社会人になるまで避妊はしっかりしろ。間違っても聡を妊娠させたりするなよ。俺の大事な思い出のヒトなんだから。いいな」

と囁いて親指をたてた。

『そんなドジはふまねえよ』もしくは『いや、卒業まで許されてないから』と答えてもよかったが、将は何故か素直にうなづいてしまった。

「また聡と一緒に来いよ」

と秋月は笑顔で将の肩を叩いた。

そして綾と二人で、ミニが見えなくなるまで手を振っていた。

萩の地を聡と二人で再び踏む未来は、当然のように来ると将は思っていた。このときは……。

 
 

萩から山口インターまでは1時間程度、一般道だがスムーズだった。

山口インターからは中国自動車道に乗る。11時すぎだった。中国地方の内陸部を通るこの高速はカーブが多いものの車の流れは順調だった。

しかし関西圏に入って、三田を過ぎてから急に車が増えた。途中、サービスエリアで昼を食べたというのもあり、時計はここで16時になるところだった。

吹田JCTあたりで、お決まりのひどい渋滞に巻き込まれた。本来は1時間で通り抜ける距離に2時間以上かかってやっと関西を抜ける。

愛知県の豊田インターでいったん降り、明日から仕事始めだという大悟を送っていき、再び高速に戻る。夜9時30分になっていた。

その先は夜が遅くなったこともあり、渋滞は解消されつつあったが、結局東京に着いて井口を送り届け終わってみると1時近かった。

将は、もう寝てるかな、と思いつつ、車の中から聡に電話をかけてみる。

コールが5回鳴って、聡が出た。

「アキラ?ごめん、寝てた?」

「……ううん」

かすれた声が携帯から聞こえる。否定はしたが寝ていたのだろうと検討をつける。

「今から、行ったら迷惑だよね?」

「ううん……迷惑、なんかじゃない、よ……」

なんだか様子が変だ。眠いんだろうか。それとも酔ってる?

「明日、学校なんだろ、やめとこうか」

気を遣った将だが、実は自分も運転で疲れていた。聡の顔は見たいが、お互い無理をすることもない、と思ったのだが

「……来て。将」

と聡ははっきりと言って電話を切ってしまった。

将は、釈然としないまま、車を聡の家へ走らせた。コインパーキングに車を止めて、コーポの階段をかけ登る。

足音に将を聞き分けたのか、聡のドアの前に将がたどりついたとたん、チャイムも鳴らしていないのにドアが静かに開いた。

スウェット姿の聡が廊下の暗い蛍光灯に細く照らされた。

今朝別れたばかりなのに、ずいぶん顔をみなかったような懐かしさで、将は聡の顔を見つめた。

しかし、聡は、うつむいて、どことなく沈んだ感じだった。

手を伸ばして抱きしめようとした将は、その頬に異変を見つける。左の頬が赤く腫れている。

「アキラ……どうした、そのほっぺた」

将は玄関に一歩踏み込んで部屋に入ると、聡に問いただす。聡は震え出した。

「……将。あたし……」

聡は目をあげた。その目はみるみるうるんで、将のほうを見据えたときは大粒の涙が頬を転がり落ちた。

……もう限界だった。将の顔をみたとたんに、堰を切ったように凍った感情が溶けて激しく流れ出す。

「博史にやられたのか、そうだな」

再び目を伏せる聡をみてそれは図星だと将は確信した。

「ひどいことをしやがる」

将は聡の体を抱き寄せた。しっかりと抱きしめたその体は、まだこきざみに震えている。

「もう大丈夫だから」

将の腕の中で震える聡は、とても小さく見えた。

――守ってやりたい。どんなことをしても。

将の中に、純粋な思いが湧き出してくる。それは清らかな泉のように将の心を浸していく。

冬の夜の静寂に、二人は抱き合ったまま、しばし玄関で佇んでいた。

 
 

「はい、紅茶。はちみつ入れといた。それと保冷材」

ベッドに腰掛けた聡に、将がペアのマグカップのかたわれを渡す。

「ありがとう」

鼻の下を柔らかくくすぐる熱い湯気に、戻ってきた安らぎを感じた。

マグカップのもう1つは隣に座る将の手にある。本来の持ち主に戻ったマグカップ。そのことにも聡は安堵を覚えて、やっと

「将……あたしね」

と落ち着いた声を出すことができた。

「……博史さんにね、とうとう、言ったんだ……結婚できないって」

「それで、殴られたんだ」

本当は違う。『将と寝たこと』を肯定して殴られたのだが、聡は

「うん……。そんなとこ」

と答えて、はちみつで甘くした紅茶を口にする。舌に優しい甘い味は、将といるこの時間の象徴のようだ。

いつのまにか将は、ときめきだけでなく、安らぎも連れてくるようになっていた。

「許せないな。こんど会ったら、俺がぶん殴ってやる。……それで別れられたの?」

将が聡の顔をのぞきこんだ。聡は将の瞳を一瞬見つめて、さらに視線を下に落とした。忌まわしい時間を思い出す。

博史にからだを奪われている間、聡は泣かなかった。というより泣けなかった。

頬を打たれたことで感情がどこかでまひしてしまったように、ただ呆然としていた。

クリスマスのときのように馴れた快楽も、もはや何もなかった。その間中、聡は目を閉じて我慢していた。

ただ、ただ苦痛な時間だった……。

その感覚が蘇った聡は、カップをローテーブルに置くと、両腕を胸の前で固く組んだ。

「アキラ……?」

異変に気付いた将は、自分もカップをテーブルに置くと、迷わず聡の肩を抱き寄せた。

そんな聡を見て、将はだいたいの事情を察した。

「アキラ、もう大丈夫だから。……ね」

将はもう一度聡を抱きしめた。

聡も将に腕をまわして体重を預ける。

熱い将の体温と干草のような将の匂いに包まれて、聡はまた少しずつ安堵を取り戻しつつあった。

そんな聡の脳裏に

『通過地点』

という言葉が稲妻のようにひらめいた。

『聡、お前は通過地点でしかない』

頭蓋骨中に響くように蘇った博史の声。おびえた聡は、将にからめた腕に力をこめてしがみつく。

それに気付いた将は聡の頤を上に傾けると、そっと唇を重ねた。

ほんの少しだけ、博史の声のリフレインは弱まったが、消えない。

聡は将と唇を交わしながら、思い出している。

自分が17歳の時を。

秋月は、東は。17歳のときの恋は確かに『通過地点』だった。

『終着点』の恋、なんてものがあるのかどうか、なんて26歳の聡にもわからない。だけど、自分はともかく、17歳の将にとっては、聡が『通過地点』にならない確率のほうこそ奇跡的だろう。

聡はこの恋の、真っ暗な未来を見た気がしておびえる。

しかし、もうこの思いは止められない。

だけど、いつか確実に。若い将は、自分から離れてしまうだろう。

自分にもそうだったように、ある日突然、誰かに心を奪われるのだろうか。

その日を想像した聡はぎゅっと目を閉じて、無我夢中で目の前にいる現実の将を確かめる。

 
 

気がつくと、聡は唇を離して、将の瞳を見つめていた。

聡の心のうちの不安も知らず、見つめ返す将の瞳は優しい。17歳の若さならではの純粋な、透き通るような視線。

「……将。ずっとそばにいて……」

脳を通さずに、目に涙が満ちるように、唇から言葉がこぼれる。

将は聡を透明な視線で見つめたまま、静かにうなづくと聡を抱いたまま、そっと身を横たえた。

「アキラ。ずっといるよ。だから安心して」

将の声音は、永遠を誓うかのような、磐石な愛情に満ちているようだった。『通過地点』なんて言葉は、今の将からは想像もできない。

将は、そんな聡の背中を、肩を、ずっと優しくなぜていた。

聡が安心するまで、そして眠りに落ちるまで……。

将は、生まれて初めて、はやく大人になりたい、と強く切に願った。

それは、聡を守りたい、という思いと同義だった。

第87話 通過地点(2)

羽田空港についた聡は、ごく自然に博史の車に乗せられ、夕食に連れて行かれた。

明日からまたしばらく中東での日々が続く博史は、麻布の和食店を予約していた。

カウンターと小さなテーブルがいくつかだけ、という店は落ち着いていて感じが良かったが、そのこぢんまりさと、一品ずつ出てくる料理ゆえに、別れを切り出すムードとは遠くかけ離れていた。

そのまま、博史に送られて部屋に帰ってきた聡は、博史を玄関で追い返すこともできず、部屋にあげることになった。

 

「……コーヒー淹れるね」

聡は、部屋に入るとエアコンのスイッチを入れただけで、コートも脱がずキッチンに立った。

お湯をわかそうと、ケトルに水をいれる聡の後ろに、すかさず博史が立ったかと思うと、いきなり後ろから抱きしめた。

「聡……」

耳元で囁きながら、博史は身を固くする聡の顎を手にすると、自分の顔の方を向かせ、その唇を吸った。

聡は思わず目を固くつぶった。嫌悪感がこみ上げてくる。聡の手は無意識に博史の体を引き離すべく押し戻していた。

……と、ふいに博史の唇が離れた。

「……なんだ、その顔は……」

博史は、低い声でとうとう不信を声に出した。

聡はその不機嫌な声にハッとする。しかし博史の顔を正視することができず下を向いた。

「俺とキスするのが嫌なのか」

聡は黙っているしかない。

「聡!」

博史は声を荒げた。聡はその声に身をびくっと震わせる。こんな博史の声を聞くのは初めてだ。

身を震わせた聡に、自分のほうが驚いたのか、博史は、

「俺たち、婚約者じゃないか」

と手のひらを返したように優しい声に変えながら、聡の視線の方向に自分の体をもってくる。

「……3年も前から、結婚を約束してたじゃないか」

博史は聡の両肩を掴んだ。優しいを通り越して、懇願するような声音になっている。

聡は博史の顔を見た。声の通り、懇願するかのような顔だ。

聡は肩を掴む博史の手をゆっくりとふりほどくと、博史の目を見てゆっくりと口にした。

「ごめんなさい。……私、あなたとは結婚できない」

博史は呆然と目を見開いている。だから聡はもう一度繰り返す。

「ごめんなさい。結婚は……なかったことにし」「何いってるんだ!」

言い終わる前に、博史は聡の肩を強く掴んでゆすった。肩の骨に指が食い込み、痛い。

「いまさらそれはないだろう!」

聡の体全体がガクガクと揺さぶられる。

こんなに激しく動揺する博史を見るのは、3年もつきあっているのに初めてだった。

揺さぶられながら、聡はただ『ごめんなさい』を繰り返すしかない。

「勝手すぎるよ!」

博史は、一声叫ぶと聡の肩を突き放した。髪を振り乱した聡は無言で立ち尽くした。

実際、勝手すぎる自分だから。罵倒に耐えるしかない。

「……理由は何なんだ」

博史は、今度は静かに問いただす。しかし、その語尾は震えていた。

聡は答えられない。取り乱した博史に『他の男が好きになった』などとは恐ろしくて答えられない。

「……何なんだ、え?」

こちらを向いた博史の目が光っている。

いつのまにか、それは聡を抱く前の、男性の、目になっていた。

しかし、いつもの優しいそれではない。獲物を目の前にした獣のような鋭い視線。

聡はあとじさった。

「言えないのか!」

そういうと同時に、博史は聡に飛びかかるように抱きついてきた。

抵抗する聡の唇を無理やり奪いながら、力づくでベッドに押し倒す。

「博史さん、やめて!」

唇が離れて、こんどは聡が懇願する。

しかし博史の懇願に聡が応えなかったように、聡の懇願にも博史は応えない。

博史は抵抗する聡の腰をやすやすと持ち上げると、力任せにジーンズを足から引き抜き、下半身を守る小さな下着も剥ぎ取った。

「嫌ッ……!」

裸になった下半身の間に自らの体を割り込ませて、抵抗を続ける2つの腕を片手で頭の上で押さえつけながら、上半身のニットを胸の上までまくりあげ、素肌を露出させた。

「やめて――」

目を閉じる聡に博史の手が止まったのがわかった。

恐る恐る目をあけると、博史の視線がある1ヶ所に集中していた。

まだ下着ははずされていない。視線は、その胸の谷間の横にくっきりとつけられたキスマークに注がれていた。

聡の脳裏にあのときの将が蘇る。将。聡の体は将のもの、という証。

「……あいつか」

博史の鋭い視線は聡の顔に移された。

それをビリビリと頬に受け止めながら、聡は博史の顔を恐る恐る見つめ返した。

細い目、というのは憎しみが宿ると、むしろ残忍な顔になる、というのを聡は初めて知った。

「あの、……鷹枝とかいうガキと寝たのか」

本当は寝ていない。だけど、それは立場上我慢しているだけで、もし何も障壁がなければとっくに寝ている。

それは事実上『寝た』と同意ではないだろうか……。

聡は、意を決して、横たわったまま、深くうなづいた。

とたん、聡の頬に激しい衝撃が走った。

聡は、博史に頬を思い切り打たれたのだ。

こんな風に他人からぶたれたことがない聡にとって、今までの人生で一番激しい衝撃だった。

打たれた頬が熱と痛みを帯びていくのと入れ替わりに、はずみで脳に詰まっていた思考と感情がすべて飛んでいったように、聡は無になってしまった。

博史は、それきり無抵抗になった聡の体を奪った。

 

行為をひととおり終えた博史は、裸の上半身を起こした。

聡の髪に手をやりながら呟くように、ようやく謝る。

「叩いたりして、ごめん……」

聡は無言で、博史に背を向けて横たわっていた。

少し前。

抱けば、もとどおりになってくれるかもしれない、と一縷の望みを託して、また叩いたことへの罪滅ぼしのように、博史は、丹念に聡に愛撫をほどこした。

が、どんなに博史が努力しても、聡は冷たくこごったままだった。

まぶたを固く閉じて、されるがままになっていた。

 
 

「聡……」

背を向けた聡の額の髪を耳にかけるように繰り返し優しく撫でる。

「聡、聞いてくれ……」

聡は体をピクリとも動かさない。布団すらもかけずに、死体のように微動だにせず、その白い体を横たえている。

レイプ同然の博史の仕打ちに、抗議するかのように……。

「アイツと、今は、うまくいってるかもしれないが」

博史は、背を向けた聡のなめらかな肩の線を撫でながら、穏やかにゆっくりと語りかけた。

「聡、お前は、若い頃を懐かしんでるだけじゃないのか……。高校生との恋愛ごっこで」

諭すように、さらに続ける。聡はあいかわらず動かない。

「そして、アイツにとっては……、聡、お前は通過地点でしかない。アイツはまだ、若いんだ……」

光を失ったような聡の瞳が、それを聞いて動いた。虚空にただよっていた視線が戻る。

『通過地点』という言葉が心に突き刺さったのだ。だけど、体は動かさない。

「だから、聡、よく考えなおしてくれ」

博史は横たわったままの聡の裸の背中に語りかけると、立ち上がった。衣服を身につけると

「またメールする」と

静かに玄関から外に出た。廊下を暗く照らす蛍光灯に、吐く息が白くけぶる。

それを避けるようにうつむいて博史は、聡の部屋を後にした。

第86話 通過地点(1)

4日の午後。聡と博史は宇部空港に来ていた。

「ハイ。隣の席取れたよ」

博史が搭乗手続きを済ませたチケットを聡に渡した。

「ありがとう」

空港までは、わざわざ父の大二郎が送ってくれた。

おそらく幸代から話を聞いたのであろう。別れ際に大二郎は聡をじっとみつめた。

「しっかりな」

など博史の手前、短い言葉だったと思う。聡は父の黒い瞳から視線を動かさずにうなづいた。

父の銀髪は、いっそう白く、また目じりの皺は一段深くなったことに、そのとき、気付いた。

そして聡は、自分がとても親不孝をしているような気がした……。

その父が帰ってしまい残された聡は、博史と二人きりになってしまい、そわそわとしていた。

胸にはまだくっきりと残ったキスマークがずきずきと主張を続ける。

 
 

将は、朝のうちに萩を発ってしまった。

いちおう聡の父母の手前、三人はJRの『青春18きっぷ』を利用して萩にやってきたことになっている。

鈍行だから、と三人は「お世話になりましたぁ」と明るく聡の家を後にしたのだ。

実は昨夜も、将はこっそりと聡の部屋にやってきた。

最初はアルバムをめくったりしながら

(もちろん、聡所有のものだから、パンク姿とか水着姿のようなヤバいものは抜いてある。子供の頃の写真が中心だ)

たわいもない話をしていたのだが、何せ『誰も見ていない』部屋だ。

気がつくと二人の距離は縮まっていた。

開いたアルバムを前に口づけを交わすのに時間はかからなかった。気がつくとベッドの上で抱き合っていた。

「ちょっと……」

ベッドの上に倒れ込んだとき、聡は抗議の声を小さくあげた。

「大丈夫。ダッコするだけだから。約束する」

将は、聡に向かって、いたずらな笑顔で小指を立てた。

聡が『しょうがない』という笑顔で、小指を絡ませる。直後に、今度は二人の体が絡みあった。

将は横になった聡に唇を押し当てる。

しんと静まり返った夜は、息遣いさえも響きそうだったが、じきにそれを意識する余裕を二人とも失った。

将は約束を守って、抱擁以上のことはしなかったが、気がつくと早朝だった。

結局、抱き合ったまま眠ってしまったのだ。

もう一度、軽い口づけを交わすと、将はあわてて自分の部屋へ帰っていった。

 
 

飛行機までまだ時間があるので、博史と聡は空港のレストランでコーヒーを飲んだ。

「結局、ぜんぜん二人になれなかったね」

コーヒーをすすりながら博史は少し残念そうだ。

「ごめんね。お正月は、ウチはいつもああなのよ」

と答える聡は博史の目をみないようにコーヒーにミルクを入れる。

「でも、とりあえず最初にご挨拶が出来てよかったよ」

博史は、コーヒーをソーサーに置くと聡の顔を見た。

「挨拶って……」

こんどは聡が顔の下半分をカップで隠すようにコーヒーを飲む。ミルクを入れすぎたコーヒーは舌にからみつくように残る。

「聡さんと結婚させてください、っていう挨拶」

答えない聡は、博史にいつ別れを切り出せば、一番傷つけないで済むか、考えている。

優しげな博史の顔を見ていると、自分がこれからしようとしている行為が、

まるで罪のないものに暴力をふるうような、きれいに整ったものをぐちゃぐちゃに乱すような、そんな暴挙に思えてくる。

目の前に座る、穏やかな男に、確かに惹かれていたときもあったのだ。

もう、愛してはいないが、進んで傷つけたいほど、憎んでいるのではない。

そんな葛藤が、聡に決定句をためらわせていた。

「お父さん、何て言ってた?」

「聡が結婚したいというなら、反対する理由がない、って」

「そう……」

聡は言葉を失った。

両親には、前から『アメリカで知り合った会社員の人と付き合っている』と話していたから、突然現れた博史への返事はそんなものだろう。

男性らしい優しさを漂わせた誠実そうなルックスを持ち、話をすれば聡明さが漂う。おまけに安定した年収もある。

そんな博史を拒む親などいるわけがない。

 

「ところで、昨日、鷹枝君とどこに行ってたの?」

将の苗字だけで聡はギョッとして、質問の意味を理解するのにワンテンポ遅れた。あわてて言い訳を考える。

「え、ああ。ちょっと昔の友達に呼ばれて……」

「友達に?」

「う、うん。力仕事させるために」

とっさに思いついたにしては、まあまあの言い訳だと思ったが、博史はカップを口に運びながら上目遣いで

「ふーん」

と聡を見つめた。聡は慌てて

「ちょっと、お手洗いに行ってくるね」

と席をはずした。

トイレで将からのメールをチェックした。新着はない。朝、受け取ったままだ。それには

 

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1/4日10:03

今、秋月サンち。今から急いで東京へ帰る。

聡が家に着いた頃には、お出迎えできるように。

じゃあ後で 将

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そういえば、今朝『いいってば』という聡にかまわず、

『遠くからわざわざ来たんでしょう。それに聡の初めての教え子さんだし』

と父母は将たちにお年玉を渡していた。

自分たちの教え子には渡さなかったのに、娘の教え子が訪ねてきたのはひときわ嬉しかったのかもしれない。

将はたぶん、それを使って高速道路を利用するのだろう。

『家に着いた頃には、お出迎えできるように』

などと書いてあるが、明日が仕事始めという今日は渋滞することは必須、たぶん無理だろう。

だけど、将のメールを見なおした聡はほんわかと幸せな気持ちになった。

 
 

「東京に着いたら、メシにでも行こうか。最後の夜だし」

飛行機の中。機内誌を手に取る聡に博史が声をかける。『最後の夜』という言葉に聡の体は強張った。

飛行機がつくのは18時すぎである。博史は明日の早朝に出発すると言っていた。

まだ、今夜がある。たぶん博史は、発つ前に聡をあたりまえのように抱くだろう。

なんとか、避けられないだろうか。もう生理も言い訳に使えない。

『疲れ』。でも疲れぐらいで博史が諦めるだろうか。

この年末年始休暇で聡は博史に一度きりしか抱かれていない。

いつもなら、逢えない間を取り戻すように、その数倍は体を重ねていたことを考えると今日は絶対に求めてくるだろう。

――いっそ、今日別れを告げてしまえば……。

聡は窓の外の暗闇に視線を飛ばした。雲の上を飛行しているのか、何も見えない。

そんな聡を、博史は広げた機内誌の端で意識している……。

 
 

昨日。

ベッドの上で、抱擁と口づけを繰り返す聡と将を伺う視線があった。

聡の部屋の入り口の襖の外に、いつのまにか博史が立っていたのだ。

博史は、聡と二人で逢いたい、出来れば抱きたいと思って部屋にやってきたのである。

細く開けた襖からは、スタンドの暗い光の中に、ベッドの下1/3ほどがかろうじて見えるだけである。

しかし、掛け布団の上で抱き合っていたのか、絡みあった4本の足ははっきりと見えていた。

陽に焼けて褐色の長い膝下と、パジャマをまとった白い聡の足首。

4本はこすりあわせるようにしながら、その向きをせわしく変えていた。

襖に付けた耳には、2つの息遣いと、

「将……」「……アキラ」

と声を出さずに何度も呼び合うのが確かに聞こえた。

博史は、開けたときと同じように襖を音をたてずに閉めると、自分の部屋へと忍び足で戻っていった。

第85話 呉越同舟(2)

総勢10人の夕食は、堀ごたつだけだと詰めて8人がけなので、折りたたみテーブルを足していただくことになった。

将は、聡と幸代は足が伸ばせない折りたたみテーブルのほうに座るのだろう、と予想して

「あ、僕、こっちでいいですよ」

と折りたたみテーブルに自ら志願し先手を打った。こうすれば聡の隣の辺か、対面に必ず座れる。

「悪いけど、そうしてくれる?」

と聡も将のたくらみに気付いたようで加勢してくれる。

しかし、博史がさも当然というように、聡の隣にあたる掘りごたつの一番下座に席を取ったのが将には気に入らない。

将は聡の隣の辺を死守した。

夕食は肉団子や豚肉を入れた味噌味の鍋がメインで、ほかに萩名物の瀬付き鯵の刺身、そして食べ盛りの高校生対応で、飛騨コンロで焼く牛肉、腹を膨らますためのコロッケやサラダなどが並んだ。

「まあ、1杯ぐらいは」

という大二郎の粋なはからいで将ら高校生もビールを飲んでいいことになり、座は賑やかになった。

「なあ、大悟、あそこおもしれえな」

「井口も気付いてた?おっかしいの」

大悟と井口が、鍋をつつきながら笑っているのは、聡を真ん中に挟んでの将と博史のバトルである。

「センセー、肉とってやろーか」

将が自分の前に置かれた飛騨コンロで焼けた肉を聡にやろうとすると、博史が

「こっちのほうが食べごろだよ」

と先に自分の近くの飛騨コンロからさっと取って聡の皿に置く。

むっとした将は、

「こっちのほうがレアで旨いぜ。いい肉なんだからっ。見蘭牛でしたっけ、ねー、おかーさん」

と負けずに聡の皿に置く。ちなみに見蘭牛とは萩の離島原産の上質な霜降り肉である。

幸代を『おかーさん』よばわりする将に、博史はムッとした顔を表面に出し、

「君のおかあさんじゃないだろう」

とムキになる。しかし将に『おかーさん』と呼ばれた幸代はまんざらでもなさそうで

「いいのよー、別にぃ、博史さん」とニコニコしている。

聡のグラスが空くと、両側からビール瓶が差し出される。

聡が鍋をかき混ぜはじめると、博史と将の両側からさっと空の器が伸びる。

聡は、年功序列でいちおう博史のほうから先によそってやったものの、将のほうには少し肉団子を多めによそってやった。

将は、それがさっき聡が手でこねていた肉団子だというのを知っているので、嬉しくてつい、

「アキラ、超うめーよ」

と言ってしまった。それを

「おい、先生のことを呼び捨てか」

と博史が咎める。すると聡が

「いいんだってば。あだ名なんだから」

と父や母にも聞こえるようにさりげなくフォローした。

これで将がいつものように『アキラ』と呼んでしまったにしても大丈夫なことになる。

しかし、博史は、聡と反対側の隣に大二郎が座っているので、そっちにも気を遣わなくてはならず、夕食のバトルは、手伝ったことで幸代のポイントをよくしている将が少々有利だった。

 
 

「あ~気持ちいい」

一足先に体を洗った幸代は岩の露天風呂でのんびりと体を伸ばした。

庭園の中にしつらえたような露天風呂が男女各2つずつあるとある旅館の温泉だ。

城下町の萩では平成になって、温泉が掘削されて配湯されるようになった。萩城近くにあるこの旅館にも温泉が配湯されている。

賑やかな夕食の後、大二郎の教え子の3人が帰宅し、残った7人でワゴン車に乗り温泉に来ている。

正月三が日にもかかわらず、時間がずれたせいかそれほど人は多くない。

幸代より髪の毛を洗うのに少し手間取った聡が遅れて、露天風呂に現れた。

本当は内湯で温まりたいが、幸代に話したいことがある聡は、できるだけ幸代のそばでチャンスを伺いたかった。

それにしても、内湯に入らずにいきなり露天に来ると、濡れた肌に寒い風が吹きつけ一瞬で凍えてしまう。

「寒い寒い」と身を縮めながら湯に身を素早く沈める……今度は湯の温かさに逆に一瞬毛穴がギュッと引き締まる。

それが時間の経過と共に弛緩していく。そんなとき、

「あ~気持ちいい」

という声が思わず漏れる。空を見上げたが、さかんに立ち上る湯気のせいか星は見えない。

「あら、聡、それどうしたの?」

「え?」

幸代が指差す先には、ゆうべ胸元に将がつけたキスマークがあった。まだ鮮やかに赤い痣。

「え、あ、やだ」

聡は慌ててそれを手で隠す。

「あ、……なんか虫に刺されたみたい」

と笑ってごまかした。幸代は

「どんな虫だか」

といぶかしげな顔のままだった。

 
 

一方、男湯。

将は、素早く衣服を脱ぐと、誰より早く洗い場へ行き、体を洗ってしまい、内湯に浸かった。

できればあまり、他人に背中のケロイドを見せたくないというのもあるが、将は実は博史の体を観察していたのである。

「お義父さん、背中流しましょう」

と大二郎の背中を流す、博史の裸体。スーツのときはわからなかったが、かなり筋肉質でしかも陽に焼けている。

腹の筋肉などはしっかりと割れている……。

大二郎の背中を流し終わった博史は、湯船の中を将のほうへとまっすぐに歩いてきた。

将の隣に腰をおろすと

「お前はゲイか。人のコカンをジロジロみやがって」

と小声で耳打ちする。

将は、博史の目の前で、わざと勢いよく、ザバっと立ち上がると、

「意識しすぎるテメエのほうこそ、その気があるんじゃねーの」

と言い返して、前も隠さずに露天風呂のほうへ歩いていった。

博史は、将の、大きな傷跡が残りつつも、流れるような筋肉がついた若い背中を憎憎しげに睨んだ。

将の裸体を間近で見た大二郎は、近くに浸かって『一部始終』を見ていた井口と大悟に

「かなり、いい勝負だねぇ~」

と囁いた。目が笑っている。三人は顔を見合わせて笑った。

 
 

「お母さん。あのさ……」

聡は湯に浸かったまま、母に話し掛ける。他の客が露天から消えた今が話しどきだ、と判断したのだ。

幸代は早くもいったんのぼせてきたので、裸のまま浴槽のふちに腰掛けて涼んでいる。

「ん?」

「博史さんのことなんだけど」

話題を口に出したとたん、心臓がどきん、と抵抗を始める。

だけど将からもらったキスマークに勇気をもらい、話を続ける。

「私、博史さんとは結婚しないから」

一息に言った。幸代は、それほど驚きもしなかったが一応

「どうして?指輪をもらっちょるんやろ」

と訊き返してきた。

「他に、……好きな人ができたん。私がいけんのやけど」

「博史さんには?まだいっちょらんの?」

「うん。でも、近いうちに絶対に自分でいうから。指輪も返す」

幸代はもう一度湯船に浸かると聡を見据えた。

「その、好きな人っていうのは……。一時的な気の迷いとかじゃないん?」

聡は深くうなずいた。

「でも……。博史さんのほうは、もうご家族でそのつもりなんやろ。病気のお母様も」

『病気のお母様』という言葉が胸に痛い。頭の中で血液がずきん、ずきんと音をたて始めた。

少しのぼせ始めたらしい。

聡は湯からあがると湯船のふちに腰掛けた。さっきは寒かっただけの外気がすーっとほてった肌をなだめていく。

「すごく悪いとは思ってる。でも、もう……夫婦には、なれない」

『夫婦には、なれない』の意味は、幸代にも理解できる。

幸代は、そんな告白をする娘の裸体を盗み見た。

仲のいい母親と二人のせいか、タオルをかけて隠しているのは下だけだ。

湯で濡れた白い肌は温まったせいか桜色に染まっている。

自分の娘ながら、なまめかしいと思った。そしてたぶん……この娘は、男をもうとうに知っているのだろうとあらためて思う。

幸代は聡の胸元の赤い痣に確信を持った。

「もうあんたも大人なんだから、自分でなんとかするんよ」

幸代は、言った。突き放すような言葉だけど、語調は優しさに満ちている。

「……うん」

聡は自分の胸元に残された将のキスマークを見るようにしてうなづいた。

「訴えられてもしかたないんよ」

幸代はさらに厳しい言葉を、でも穏やかな口調で続ける。

「……覚悟してる」

裸の聡の背中に、少し冷たすぎる夜風が吹き付けた。聡は肩を縮めると、湯船にまた浸かった。

「それにしても、そんなに急に心変わりするなんてねえ……。相手は誰なの」

問われて答えられない聡は、湯の中に頭まで沈んでみる。

「ちょっと聡?聡ってば」

幸代が呼びかける。……しばらくして、プハァと顔を出して、エヘヘと聡は笑った。

「もう、このコは……」

幸代が苦笑いをした。

第84話 呉越同舟(1)

母の後ろから出てきたスーツ姿の博史は、柔らかい視線で聡を出迎えて、すぐに少し鋭い目付きに変わった。

聡の後ろにいた将を睨みつけているのだ。

聡は、振り返らなくても将も、博史を睨み返しているのがわかった。

「……どうして?」

聡は靴も脱がないで、博史にここにいる理由を問い掛けた。博史は将から聡に視線を移すと

「やだなあ。挨拶に来たんだよ。……聡、結婚のこと、ご両親に全然話してなかったんだね」

博史の口調は柔らかいものの、暗に聡を責めている。聡は言葉につまった。

「こんなところで立ち話もなんだから、コタツへどうぞ。……聡は夕食の支度を手伝って。こんな時間までどこに行ってたの」

母の言葉が助け舟になり、聡は

「ごめん」

と母に謝りながら、将を振り返る。聡の後姿を見つめていた将と一瞬目が合う。

聡は目でうなづくと、家にあがり、台所へ向かった。

後に続いて靴をぬぐ将を、博史は見下ろしていたが、踵を返した。

 
 

長方形の堀ごたつの短辺に、帰宅してまもないらしい聡の父・大二郎、長辺の片方に井口と大悟、もう片方に大二郎の教え子で昨年の卒業生だという男女が3人座っていた。

大二郎の傍らの席があいているのは、博史が座っていたのだろう。

どうやら大二郎とビールを酌み交わしていたらしい。コップ2つととビール瓶が大二郎の近くにあった。

将の三歩先を歩く博史は当然のように空いている聡の父のすぐ近くにおさまった。

残りはもう片方の短辺、つまり聡の父と遠く離れた対面しか座る場所がない。

将は、欄間に頭をぶつけないように、身をかがめて注意深く居間に入った。

大悟と井口が「将、」と何か言いたげに振り返った。

将は聡の父と博史の間のこたつの角まで、畳のへりを踏まないように歩いていくと正座した。

「鷹枝将、といいます。古城先生にはお世話になっております」

と丁重に頭を下げた。大二郎は赤ら顔で、微笑むと

「……君は礼儀正しいねえ。今時の若いモンにしては珍しい。それにいい男だねえ」

と上機嫌で将の態度と容姿を褒めた。

そういう大二郎のほうも、まるで刑事ものに出てくる俳優のような渋い熟年である。

50代半ばだろうに、その頭はきれいな銀髪に染まっている。将を気に入ったのか

「こっちに座んなさい」

と隣の席を勧めた。教え子に詰めろと促す。博史が笑顔のまま、瞳だけで将を睨みつける。

「いえ、せっかくですけど、僕、先生を手伝ってきてもいいですか? 台所大変そうだったから」

と将は博史を一瞬睨み返しながら固辞した。

「おお、おお。手伝ってこい」

大二郎はますます相好を崩した。将はもう一度軽く頭を下げると立ち上がり際に博史をちらりと見た。

向こうも一瞬将を睨んだようで、目が合った。大二郎のポイントを稼いだ将が面白くないのだ。

「じゃ僕も手伝いましょうか……」

博史は立ち上がるポーズを見せた。が、

「博史君はいいよ。聡の結婚相手なんだから」

と引き止められる。

――結婚相手。だって?

将は背中でその言葉を聞いてしまい振り返る。

またも博史と目が合う。こんどは得意そうな顔をしている。将のほうが面白くない顔をする番だ。

「博史君、今日はどこに泊まるんだね」

「ハイ。ビジネスホテルにでも、と思っているんですが」

「まだ予約してないんだったら、うちに泊まりなさい。今日は聡の教え子たちも泊まるが、もう1部屋空いてるから」

「お言葉に甘えてよろしいでしょうか」

「かまわんよ」

大二郎の教え子も高校生とあり、如才なく言葉を交わしていた井口と大悟だったが、

二人とも博史と大二郎のやりとりを耳をダンボのようにして訊いていた。

「なあ。こういうの『呉越同居』っていうんだよな」

と井口がボソッと大悟に耳打ちする。

「違うって。呉越同『舟』(ごえつどうしゅう)だってば」

大悟が訂正する。

「どっちでもいいけど、あいつ結婚相手なんて認められてるよ。将どうすんだァ?」

「さあ。なるようにしかならんでしょ……、おいあれ」

大悟は話の途中で、突然テレビを指差した。一座が皆、自然にテレビに注目した。

テレビの画面には、将の父である鷹枝康三官房長官が映っていた。

新春の午後、テレビでは硬派のバラエティをやっているようで、そこにゲストとして康三が出演していたのだ。

若手ながら次期総理の一番候補とされ、国民の人気も高い康三は、最近、硬軟問わずテレビ出演が多い。

今日も、日本の今後について、タレントから繰り出される幼稚園生レベルのような質問にわかりやすく笑顔で答えている。

「将のオヤジじゃん」

井口がもらした言葉に、大二郎が反応する。

「鷹枝って……、さっきのイケメンくんは、まさか、官房長官の息子さん?」

「そうでぇす」

大悟と井口は口を揃えてうなづいた。

「はー、どうりでねえ……。きちんとしてると思ったよ。明治維新から続く政治家のうちの坊ちゃんじゃ」

大二郎は感心してテレビの康三を見つめる。大悟と井口は顔を見合わせて

『きちんとしてる、だってよ。あの将がヨ』

とこっそり笑いあった。

博史は、将の父の笑顔が映っている画面を冷ややかな横目で見つめていた。

 
 

「聡。博史さんって、アメリカにいたときから付き合ってたって人でしょ。指輪まで頂いて、どうして黙ってたの?」

台所。聡の母の幸代は流しの横で大根の皮を剥きながら聡に問うた。

「お母さん……あたし」

聡は流しの後ろのダイニングテーブルに立って、ニンジンを手に取ったまま一瞬言いよどんだ。

「向こうのお母様の具合もよくないんだから、早く進めてあげないと」

「その話なんだけど……」

聡が言いかけたとき、将が台所ののれんをくぐって身をこごめるようにして入ってきた。

「しょ……鷹枝くん?」

思わず名前で呼びそうになるのを聡はかろうじて抑えた。

「あの、自分手伝います」

「あら、男の子なのに感心ね。ちょうど猫の手も借りたかったところよ」

幸代は、振り返ると笑顔で長身の将を見上げた。

「じゃあ、このゴボウを洗って、笹がきにしてちょうだい」

遠慮なく言いつける。

「笹がきって……」

「聡、教えなさい」

聡は将を流しへと促すと、タワシを持って「こうやって」と教える。

将は熱心に教えを請うふりをして、聡にくっつく寸前、吐息がかかるほど、まで近寄る。

「洗ったら、ここにまな板があるから半分ぐらいに切って」

聡は指示すると、将のそばをつい、と離れて、元の位置に戻る。

幸代は将に

「料理に興味があるの?」とか

「聡は教室ではどんな感じなの?」などとしきりに質問している。

将は感じのよい青年を演じ切っているというか、おそらくこっちのほうこそ将の地なんだろう。

だが、おかげで聡は『博史と結婚する気はない』という大事なことを幸代に言いそびれてしまった。

「センセイ、切りましたー」

「じゃ、こんどはね……」

ボウルを取り出して、水を張ると、エンピツを削る要領でゴボウを削る、と教える。

しかしロクに包丁を握ったこともないどころか、エンピツも削ったことがないような将にそれは難易度が少し高かった。

「違うってば。そうじゃない。てか包丁の握り方がぜんぜん違うし」

「えー、どうすんだよー」

「こう」といいながら将の手を持って包丁を握らせる。

いつのまにか体が触れるほど接近している。

教えるのに夢中な聡は気付いてないが、聡の甘い香りと体温を感じて将は幸せな気分になった。

おかげで、切り方はうわの空で、聡にまた「違う!」と怒られる。

「だから、こうだってばー。ちゃんと家庭科出席してんのぉ?」

再び、くっつくようにして教えているときに、のれんをかき上げて博史が現れて、二人はハッとした。

博史は聡にくっついている将を一瞬睨みつけたが、幸代が振り返ったのを見ると

「ビールもう1本いいですか?」

と爽やかな笑顔をつくった。

「ああ、聡、冷蔵庫からビールを出してあげて」

と幸代に指示された聡は、将から離れるとのれんの横にある冷蔵庫からビールを出した。

博史はそんな聡を見つめて囁いた。

「聡」

「なぁに?」

囁かれたにしては大きすぎる声で聡は答えた。将にあらぬ疑いをかけられたくない。

「聡、明日、何時の飛行機?」

「4時30分だったと思うけど……」

「同じ便だ。じゃあ一緒に帰れるね」

「……ハイ、ビール」

明るく大きな声で、ビールの栓を抜いて渡す。

まだ何か言おうとしていた博史はそれで何も言えなくなり退散した。

聡がため息をつくと、幸代が

「早いうちに、上京して、向こうのご両親ともお会いしておかないとね」

と振り返った。

将が悪戦苦闘するゴボウから顔をあげてこちらを見ている。

「お母さん、あの……」

聡は核心に触れようとしたが、まだ博史が近くにいるかもしれない、と思い一瞬とまどった。

博史にはきちんと自分から別れを告げるべきだろう。

でも両親には、自分の心変わりを先に話しておかないと取り返しのつかないことになる。

だけど、今日泊まっていくという博史は明日までべったりと一緒にいるに違いない。

両親だけに打ち明けるチャンスがあるだろうか。

考えたあげく、妙案が思いついた。

「お母さん、今日なんだけど、人数が多いから、みんなで温泉にでもいかん?うちお風呂狭いしー」

「ああ、いいねえ。秋月くんちにでもいくね?」

それはマズイ。秋月のところの温泉は男女の風呂が壁一枚でしか隔てられていない。

話し声などは筒抜けになる可能性がある。

「もっと広いところにしようよ。露天があったりとか」

聡は男女別になる温泉で、とりあえず母にだけでもうちあけておこうと思ったのだ。

「じゃあ、○○屋敷さんにでも行こうか。あそこは露天風呂もあるし」

話は決まった。

第82話 お年玉

将が宿につくのとほぼ同時に陽が差してきた。今日は快晴らしい。

「よう、朝帰り」

帳場で雑用をしていた秋月が声をかけた。何もかも見透かしたように目が笑っている。

『いや、そこまでやってないんだけど』と将は心の中で弁解しながら、とりあえず照れるポーズをしてみる。

「朝風呂でも浴びて、もう1回寝ろ。ロクに寝てないんだろ」

と気を遣ってくれる。

将は、言われたとおりに朝風呂をもらい、部屋に戻った。部屋ではまだ井口と大悟がイビキをかいて寝ていた。

朝風呂でけだるくなった将は、またすんなりと眠りに落ちていった。

 
 

10時すぎに聡は自家用車で将たちを迎えにいった。

取り回しのよい1300ccの国産車は母のものだが、オートマチックなので聡でもラクに運転できる。ミニよりは内部も広い。

いくらなんでも、教師の親に教え子が無免許で東京から萩まで運転してやってきた、とは言えない。

秋月の宿にローバーミニは隠しておいて、口裏をあわせておく必要があった。

「おー、聡。あいつら今メシ食ってるぜ」

「朝ご飯なんか食べさせなくてもいいのにぃー。ごめんね」

といいながら、聡は財布を取り出す。将たちの宿泊費を払うためだ。

「いいって。どうせボロい部屋だし」

遠慮する秋月が心持ちニヤニヤしている気がする。

そんな風に感じるのは自分が後ろめたいからだ、と聡は自分に言い聞かせる。

まもなく将ら3人が、洗ってもらった服を着て現れた。

今朝つけられた胸のキスマークが一瞬熱くなる。しかし何くわぬ顔をして、

「よく寝れた?温泉は入ったの?」

などたわいもないことを話しかけながら、宿をあとにした。

せっかく山口まで来たということで、秋吉台のカルスト台地に秋芳洞などを観光がてらドライブする。

冬枯れたカルスト台地はベストシーズンとはいえなかったが、天気は快晴で、ラクダ色になったなだらかな丘陵地に羊のように石灰岩が群れる風景は、都会っ子の3人にはそこそこウケた。

昼食は長門で活きたイカを聡がおごり、午後には萩に戻る。

今日は、客間の1つに将たちが泊まると親に言ってある。

『ギイイ……』ときしむ門をくぐり、古い地紋ガラスがはめこまれた引き戸を開けて聡は

「ただいまー」

と奥に向かって大きい声で叫ぶ。

「すっげー家だな」と大悟がキョロキョロと見回す。

「なんか元武家屋敷を借りてるらしい」

答えながら将は門の音に、昨夜の聡との情事をこっそり思い出す。

「あら、いらっしゃい」

聡の母・幸代が奥から出てくる。おそらく50代だろうに、若い生徒に囲まれているせいか若々しい。聡に口元がよく似ている、と将は思った。

「こんちわー」3人は声を揃えてぺこっと頭を下げた。

「私の教え子の井口くん、鷹枝くん、とその友達の島くん」

「あらあらようこそいらっしゃいました。東京のコは大きいねえ」

と目を見張る。一番小柄な大悟でも175ある。中学校の教師の幸代には大男の集団に見えた。

「さあ、あがって。お客が他にもいるけど仲良くしてね」

と、それでもこなれた笑顔で客間へ案内してくれた。

そういわれれば、居間のほうからキャアキャアと声が聞こえる。どうやら幸代の教え子たちがまだいるらしい。

「寒いから居間のこたつのほうへどうぞ。お茶を用意しますから」

「お忙しいところ恐れ入ります」

将は客間に着くと、いったん膝をついて深々とお辞儀をした。

「あら……丁寧に」

その折り目正しさに幸代のほうが面食らう。

それを見て、聡はすっかり忘れていたが、将が『いいところのボンボン』であることを思い出した。

 

客間の大き目の掘りごたつには素朴な風貌の、いかにも地元のコらしい中学生女子が4人、おしゃべりに興じていた。

そこへぬっと現れた大男3人にシーンとなる。しかもなかなかのイケメンぞろいだ。

「あらあら。どうしちゃったのかな。こちらは娘の聡の教え子さんたち。東京の高校2年生なのよね」

お茶とお菓子を持ってきた幸代が笑いながら仲介をする。

やっとポツポツと会話が始まったかと思うとすぐに若いもの同士で話が盛り上がり始めた。

父は昨夜の6人を送ったついでに買い物にいったらしい。聡は座が盛り上がるのを見届けて席をはずすとミカンを運ぶ幸代に

「お母さん、うちのコたち、着替えもなんにも持ってきてないっていうから、秋月ンちから浴衣借りてくる。パジャマ余分ないでしょ」

と耳打ちした。

中学生との会話のほうはうわの空で、席をはずす聡を目で追っていた将は、

「将、」

と大悟に呼ばれて我に帰った。

「え。何?」

「だからぁ。鷹枝さんはカノジョとかいるんですかぁ?」

中学女子からの質問だった。

「あ、うん。……うん、いるよ」

そのとき、将ははっきりと聡を思い浮かべていた。

将の返事に中学女子の「やっぱりぃー」という黄色い声の応酬。

将は『わりぃ』と大悟に断るとコタツを立った。

大悟は察して「しっかりな」と小声で囁いた。

 
 

将が玄関を出るとちょうど聡が車庫にいるところだった。

葉を落とした柿の木から午後の陽射しが斜めに木漏れ日になって聡の体に落ちている。

「アキラ……じゃない、センセイ」

いくらなんでも聡の実家で呼び捨てはマズイだろう、と呼びなおす。

聡は将の姿を見て、胸の痕跡がぎゅっと主張を始めるのを感じた。

「どこいくの」

「秋月んち。あんた達の浴衣やらタオルを借りに。あとお金も払わなくちゃ」

と何気なく答える。

「ああ、俺が払うよ」

「いいって。お年玉がわりだもん」

「でも一緒に行く」

聡は少し頬を染めてうなづいた。

秋月は留守だったが、さんざん遠慮する綾に『これは、クリーニング代です』と無理やり2万を渡す。

用事が済んで、夕食までまだ時間がありそうなので、二人っきりのドライブを楽しむことにした。

今の時期は静かな菊が浜を二人で歩くのもいいと思ったが、知っている人に見られると少し言い訳がめんどくさそうだ。

聡は車を北に向けて走らせる。まもなく左手に海岸線が平行し始めた。

晴れた冬の日本海が濃紺の水平線をくっきりと見せている。

「おおー」

助手席の将が左の窓に張り付く。

 

須佐のあたりの砂浜で車を止めた。

冬の太陽は傾きかけて、あたりをセピアがかった色に変えている。その中に紺碧の日本海が横たわっている。

「おおー!冬の日本海!」

「寒うーい!」

車から降りるなり、冷たい海風が勢いよく吹きつけ二人の髪をぐちゃぐちゃにする。

風があるせいか波は少し荒く、沖のほうまで白い波頭がうねるのが見える。ベージュの砂浜に波が容赦なく叩きつけるかのようだ。

それでも二人は砂浜に降りてみる。

「今日、水かけなんかしたら、凍え死んじゃう」

聡が先に言った。将は聡の瞳を見てうなづいた……二人ともちょうど同じ思い出をたどっていたのだ。

二人は砂浜にある乾いた岩を見つけると腰掛けた。

ちょうどそのとき突風が吹いて、二人とも震え上がった。晴れているのにこんな風が吹くと凍りつくようだ。

「アキラ、おいで」

将は自分のダウンの前をあけて膝を示した。聡の胸でキスマークが熱く主張を始める。

少しためらったが、「はやくー」とせかされて、将のジーンズの膝の上に腰掛ける。

将は自分の膝の上に座った聡をそのまま後ろから抱きしめるようにダウンで包み込む。

そして朝借りたマフラーを二人で半分ずつ二人の首に巻きつける。こうするとお互いのぬくもりでずいぶん温かくなった。

「このまま急に離れたら首がしまっちゃうね」

「じゃ、もっとくっつけよ」

「うん」

聡はさらに腰を引いた。体重を将に預けて寄りかかるようだ。

将は聡の胸のあたりで組む腕の力をそっと強くして二人の体を密着させた。その腕に聡は自分の手を添える。

「重くない?」

「……実は重い。でも聡のお尻だから我慢する」

「……バカ」

しばらく、何もいわない。波の音だけをBGMにお互いのぬくもりを堪能する。

単調な海の風景なのにいっこうに飽きないのはなぜだろう。

ときおり吹き付ける潮風が柔らかい聡の髪で将の頬をなぜる。

将は聡の肩と首に自分の顔を埋める。

温かい将のぬくもりにつつまれて。

温かい聡のぬくもりを抱いて。

――このままずっとこうしていたい。

二人は同じ思いで冬の海を眺めている。

「……将、これ心臓の音?コトコト聞こえるの」

聡がつぶやいた。寄りかかる温かい背中に規則正しい音が伝わっていた。

「うん。緊張してるもん。アキラは?」

将は前で組んだ腕をずらして、聡の左胸に掌を乗せる。

ざっくりと編んだニットのパーカーの下に息づくふくよかな弾力を将の手は捕らえた。

「エッチ」

聡が小さく囁く。でも将はその手をどかさない。

「もっとエッチなことしたじゃん」

「ふ……」

聡は小さく笑った。

将は、聡の前で腕を交差させたまま、右の胸もとらえた。

服の上から両のふくらみをゆっくりと動かす。聡は特に抵抗もせず、だまったまま身を任せている。

けれど潮風も波の音も、寒さも他人事になってしまった。

「すっごいドキドキしてる」

将が聡の心臓の音をとらえたことを耳元で囁く。

囁きと共に漏らされた息で、聡の力は抜けていく反面、体が熱くなっていく。

――だめだ。溺れてしまう。

うねる波の轟音は自分の本能のたてる轟音のようだ。

「……今夜、全部していい?」

将は聡の耳たぶに唇をはわせながら、とうとう訊いた。

聡は将の唾液で湿った耳たぶで潮風を冷たく受け止めていた。吹き付ける風に目を細める。

「……ダメ」
「なんで」
「だって」

聡はマフラーをはずしながら将の膝の上から降りた。

とたんにお互いの体に冷え冷えとした潮風が吹きぬける。

二人寄り添っていたせいか、その前よりずっと寒く感じる。

聡は将に向き直るとゆっくりと諭すように言う。

「私たち、まだ教師と生徒でしょ」

「カンケーないじゃん、そんなの」

立ち上がって聡の肩を掴む将。

斜めの陽射しがあたって、将の顔は彫りが深く大人っぽく見えた。見開いた瞳は明るい茶色に輝いていた。

そのまっすぐなまなざしに耐えられず、聡は思わず目を砂浜に向ける。

「だめよ。だって、……溺れちゃうもん。将と寝たら、たぶん」

「溺れていいよ、一緒に溺れようよ」

と将は聡の体をもう一度抱き寄せる。

まるで溺れる、の言葉に呼応したかのように大きな波がドーンと響きながら打ち寄せた。

冬だけれど白い波の下にはエメラルド色の海水が輝いていた。塩辛いとは思えない、ソーダ色の波頭がシャーベットを砕いたように崩れる。

聡は将の腕をゆっくりとほどいた。

「だめだよ。教室の中できっと、そういうの出ちゃうもん」

「……」

「だから、将が卒業するまで待ちたいの」

遥か彼方をつがいなのか、二匹の鳥がオレンジの光を受けながら飛んでいくのが見える。

「……アキラ、アキラはそれでいいの?」

将のガラスのような瞳は、これ以上ないほど、せつなげだった。

聡はその瞳に少しとまどったが、まっすぐにうなづいた。

「こんなに好きなのに……まだ1年以上先じゃんよ!」

将は聡を追い越して砂浜をずかずかと歩くと、石を海に向かって力いっぱい投げた。

若い将にとって1年はあまりに遠かった。

「ごめん」

聡はその将の後姿にすがりついた。

その日までの道のりを思って二人立ち尽くす。

砂浜に映る長い影は1つになっているのに、二人はそれに気付かないままだった。

 
 

それっきり無言で、二人は車に乗ると、萩への帰路についた。

もうすぐ日が暮れる。

「卒業したら……いいんだよな」

萩の市街地に入ったことを告げる、最初の信号待ちで、将はブスッとつぶやいた。

「卒業したら、セックスできるんだよな」

聡はその直接的な単語に焦ったけれど、意を決して将のほうを見つめると、首を縦に2回振った。

すると将は、『仕方ないや』という顔の中から、にんまりと笑顔を返してきた。

「卒業式が終わったらすぐ、いいんだな」

なんか可笑しくなってきた。聡は

「うん。いいよ」

と澄まして答えると、前を向いた。信号が青になっている。将はアクセルを踏む聡の横で

「じゃぁ、キスは?していいよね」

と明るく訊いてくる。

「……いいよ? 誰も見てなかったら」

聡は顔を前に向けたまま、瞳を宙に一瞬迷わせて、答えた。

「ダッコは?」

「……誰も見てなかったら」

ちょっと聡の答えが自信なげになってきた。

「おっぱいは?」

聡はぐっと言葉に詰まる。

「ねえ」

ちらっと横目で見た、将は二ヤついている。

「ダメー!」

「ええー!じゃ昨日のは、なんだよぉ」

抗議する将は子供のようで、聡は可笑しくなって、ハンドルを握ったまま吹き出した。

「昨日のは、お年玉!」

「チェー、なんだよー……ま、いいや」

将は、腰を前にずらして車のシートにだらしなく寄りかかると、手を頭の後ろで組んだ。

♪卒業したら~、アキラとセックス~、すりきれるまで~♪

と変な節をつけて歌い始めた。

「バカね」

呆れるあまり、交差点のカーブを少し勢いよく曲がりすぎた聡だった。

 

「ただいまー」

教師と教え子に戻って玄関の引き戸をあけた二人に奥から母が出迎えた。

「おかえり。聡、お前にお客さんがもう一人いらっしゃったよ」

「え?」

「おかえり」

奥から出てきたのは、博史だった。

第81話 後朝(きぬぎぬ)

カラスの鳴き声で聡の意識は覚醒した。

ヒーターが吐息のような音をときおり出して稼動しているのが聞こえる。

胸の上が重くて温かい。

ゆっくりとまぶたをあける。障子がコバルトがかった藤色になっているのが見えた。

もう夜明けらしい。

聡の顎のすぐ下に黒い山のように……将の頭があった。

将の髪を撫でたまま聡は眠っていたらしい。

将はうつ伏せで、聡の上に覆いかぶさるように、そのままぐっすりと眠っていた。

少し眉根を寄せたような寝顔だ。

――将ってば。

聡は将の髪の中に埋めた手をゆっくりと動かした。

 

 
昨夜。

激しい抱擁。そして裸の上半身にくまなくほどこされる愛撫と口づけ。

聡は自分の本能と快楽の濁流の中で流木につかまるように意識をかろうじて保っていた。

しかし……ふと正気に戻る。

いつのまにか愛撫は止んで、将は眠ってしまっていた。

すうすうと深い寝息が、聡の皮膚に生暖かくあたっている。

呼びかけても、ゆすっても起きない。

こんな淫らな体勢でいるにもかかわらず聡は、なんだか可笑しくなった。

そっと将を動かさないように、腕を伸ばしてスタンドを消すと、掛け布団を将の肩まで引っ張りあげて、自分もそのまま目を閉じたのだった。

だから聡はパジャマのズボンを着たままだし、将も最後の一枚を身につけたままだ。

結局、最後の一線は越えなかった……。

 

 
そのことに、聡は今ほっとしている。

昨日は少しお酒も入っていたし、何よりも1000キロ以上も運転してはるばる自分に逢いにきた将の思いに感動して、それに応えたいと思っていた。

が、やはり、まだ担任教師と生徒なのだ。

もちろん、こんな風に上半身だけといえど裸で同衾すること自体、問題だと思うが、セックスはやはり特別だ。

それは、やはり二人が教室で出会わない関係になってからのほうがいいと思う。

冷静になった聡に、『けじめ』が線をひく。

それにしても将はよく寝ている。

右の頬を聡の左の胸のふくらみに押し当てるかのようにして、寝息をすうすうと立てている。無防備な寝顔だ。

こうしていると、まるで大きな乳飲み児のようだ。いとしい将。これが母性本能なんだろうか、と聡はぼんやりと思う。

井口によると、元旦の朝に出発してからずっと車に乗りっぱなしだったという。つまり、将はずっと運転しっぱなしだったということだ。

よほど疲れていたのだろう。

そのまま寝顔を見ていたい気もしたが、もうまもなく明るくなる。

誰かが起きてくるかもしれない。

「……将、将、起きて」

聡は意を決すると、胸の上の将に囁きかける。少し強めに髪をくしゃくしゃとする。

「ん……。アキラ……?」

いったんは顔を起こして、半開きの目でこちらを見るが、寝ぼけていただけなのか、顔を胸の上にまた置いてしまう。

「将ってば」

次の瞬間、将は目を見開いた。顔にあたる感触の異様な柔らかさで正気に戻ったらしい。

将はパッと顔を起こすと聡の顔と裸の上半身を見比べた。

「……うわ、アキラ?」

パニックになったようにあわてて起き上がった。裸の自分にも動揺しているようだ。

「しっ、静かに」

聡は身を起こすと掛け布団を自分の胸のところにずりあげて、口元に人差し指をたてる。あわてふためく将が可笑しくて思わず笑みがこぼれる。

「おはよ」

将もつられて困り顔に笑顔をつくり、

「……はよ。あのさ、昨日、俺たち……とうとう?」

と訊いて来た。あせっているようすだと覚えていないらしい。

「してないよ。将、途中で寝ちゃったんだよ」
「なんだー、そうかー」

とホッとしたような残念なような表情で一瞬安堵し、

「ごめん」

と付け加えた。トランクス一丁で頭をかきながら、将は夕べを一生懸命思い出した。

とにかくすごく興奮していたことは覚えている。

やる気まんまんだった。なのになんで?

すべすべと吸い付くようでいて、搗き立ての餅のように温かく柔らかな聡の胸の感触は覚えている。豊かなそれは将の掌に余るほどだったはずだ。

胸の先端を吸ったときに聡が漏らしたかすかなあえぎ声とその感触も覚えている。

ふだんの低めの声とぜんぜん違う聡の声に将はよけいに興奮したはずだったのだが……。

行為を繰り返す途中でだんだん安心したのか、眠気が勝ってきた。

何せ、大晦日から昨日までの3日間で、寝たのは姫路で取った仮眠の3時間だけである。おまけに聡の部屋に来る前に焼酎を2杯も飲んだ。

もっと乱れる聡を見ていたいのに瞼が重くて開けられない。

……それ以降の記憶がぷっつりと途絶えている。将は圧倒的な眠気の前に倒れたのだった。

それにしても、女と、しかも一番大好きな聡と初めてエッチ、という最中に寝てしまうなんて最低だ。将は自分の失態に頭を抱えたくなった。

「ううん、逆によかったかも……しなくて」

聡がフォローしてくれるのも情けない。

将は、情けなさを隠すように聡を布団ごと抱き寄せた。裸の肩は昨日の記憶どおりのなめらかさだ。

動揺が収まってくると、聡の剥き出しの肩ごしに見下ろせる、真っ白な背中を見て、むくむくとヨクボウが再び頭をもたげてきた。

将は聡に朝のキスをした。軽く唇をあわせて

「……続き、しようよ」

聡の耳元で囁くように提案する。しかし聡は

「ダメ。もう誰が起きてくるかわかんないから」

教師の聡に戻ってしまっていた。

そこには、昨日のように、危うい声を漏らしていた聡はみじんもない。

昨日の、あの時間は夢だったかのようだ。

「じゃあさ、せめてキスマーク付けさせて」

将は聡を再びベッドに押し倒すと、隙をついて胸を隠す掛け布団を取ってしまった。

「ダメー。もうダメだってば」

聡は両手を交差させて自分の胸を守ったが、ボリュームがあるのでこぼれている部分も多い。

「いいじゃん」

将は、聡の胸の谷間の横の柔らかい皮膚を力いっぱい吸った。

「いったーいっ!」

あまりの痛さに聡が悲鳴をあげる。

スパッという音をたてて将の唇が離れるとそこには赤い内出血、つまり鮮やかなキスマークが出来ていた。

「俺の、っていう印」

将はいたずらっぽい笑顔でベッドから降りると、脱ぎ捨てた浴衣を着た。

「もう」

といいながらも、聡は背を向けてパジャマを着ながら、胸の赤くなった皮膚をいとおしそうになでた。

将が吸ったキスマーク。将の女である証。

「じゃあ、あとでな」

サッシの窓を開けると、厳しい朝の冷気が、二人のとろりとした夜の余韻から、完全に現実に戻した。

コバルトの空の東が白くなっている。

「寒っ!」

浴衣羽織だけの将は震え上がった。石の上に置きっぱなしにしていた草履は氷のように冷たくなっていた。

「ちょっと待って」

聡は押入れを改造したクロゼットからマフラーを持ってくると、将の浴衣の襟元に巻いた。

「これだけでもずいぶん違うでしょ。あとでうちに来た時に返して」
「ありがと。じゃ」

将は忘れな草色に冷たく染まった庭を、門へと歩き始めた。

「待って」

と行こうとする将を聡はなおも引き止める。

「将、わざわざ萩まで逢いに来てくれてありがとう」
「アキラ……」

将はもう一度縁側に戻ってくると、聡を抱き寄せ口づけをする。今度は深い口づけ。シンと尖った朝の冷気のなかでお互いの唇は温かく、離れがたい。

そのとき、家の奥で音がした。とうとう誰かが起きだしたらしい。

「行って」

聡は唇を離すと将を促した。

将は片手をあげて微笑むと、門を開ける。古い門が再びギイイ……ときしんだ。

第80話 1300キロを越えて(4)

将の顔はちょうど聡の顔の前にあった。縁のすぐ下にある、石の上に立っているらしい。

一瞬だけ見つめあって、聡は将に体重を預けるように体を投げ出した。

将は聡の重みを受け止めると、ためらわず聡の唇に自らの唇を重ねた。

冬の夜半のしん、と尖った空気の中で、温かく柔らかいお互いの唇。

聡は、将を部屋に上げて窓を閉めることを思いつかず、将は草履を脱いで聡の部屋に上がることを忘れて、しばらくそのまま抱き合っていた。

そんな二人を上弦の月が冷たく照らす。

流れるせせらぎさえも今の二人にはまったく感じなかった。

お互いの腕をお互いの体に絡みつけたぬくもりで寒さも感じない……はずだったが、将がくしゃみをして聡は我に返った。

将の姿を見ると、浴衣に薄い羽織だけだった。足元は裸足に草履だけ。

「大変。そんな格好で風邪引いちゃう。……入って」

将は草履を石の上に脱いで、縁側から聡の部屋に入った。

板張りの縁側は、地面からの底冷えで氷のようだったが、長いこと裸足でいた将の足はすでに感覚がない。

月明かりの届かない部屋はお互いの顔がようやく判別できるほどの暗さだった。

そこへゴツン、という鈍い音に続いて

「いて!」

と将の声。背の高い将は、古い家の障子の鴨居におでこをぶつけたのだ。

「大丈夫?」

将はおでこを押さえて苦笑いをした。聡も吹き出す。二人小さく笑いあった。

窓を開け放して抱き合っていた時間は思いのほか長かったらしく、部屋はすっかり冬の空気で冷え切っていた。

パジャマ姿の聡は、ベッドサイドにあるスタンドをつけると、同じくベッド近くに置いた部屋のヒーターを入れた。

二人はヒーターに向かって並んで腰を下ろした。吐く息が室内なのにしばらく白かった。

将はあたりを見回した。

6畳の和室にカーペットを敷いて洋室状に利用している。部屋にはベッドと勉強机、本棚。

杉板張りの天井は、大磯の『ヒージー』の家を思わせる。

たぶん、あのアルバムの中の聡が暮らしていた部屋のままなのだろう。

「寒くない? お茶か何か淹れて来ようか」

将はだまって、ゆっくりと首を振った。聡の顔から目をそらさない。

と、プッと吹き出す。

「な、何?」
「文化祭のパンク姿、見た」

将は笑いながら答える。見る間に聡の顔が赤くなった。

「……ヤダー、もう信じられなーい!秋月ったら、何の写真見せてるんだか!」

「でもカッコよかったぜ」

「んもー。あれは、私の人生の汚点なんだからー。忘れて!ネ?」

聡は将の前で手をあわせた。

「ううん。忘れない」
「ええー、ヤダ」

将は静かに聡の顔を見つめて微笑んだ。

「俺と同い年の、貴重なアキラ画像だもん。心に焼き付けた」

そういうと、将はそっと聡の顔を両手で包むようにした。

「でも、今のアキラが一番好きだ」
「……将」

頬を包む手が冷え切って冷たい。

「アキラ。……本当にこないだはごめん」

今度は聡が首を振る番だ。

「こっちこそごめん。優柔不断な態度で。だけど……」

聡は一瞬下を向いたが、将の目を見つめて言った。

スタンドのオレンジの光を表面に映しながらも明るい金茶色に透けた瞳に吸い込まれそうになる。

「私が好きなのは将、一人だから」

ここまで聞くと、将は聡を抱きしめずにはいられない。

「いろいろ……。まだいろいろ問題があるんだけど、きっと乗り越えるから」

将の熱い体温に包まれた聡は、将の肩に腕をからみつけながらあえぐように宣言する。

「アキラ……」
もうこれ以上の言葉はいらなかった。将は聡の自分に対する思いのすべてを受け取った。

将はいったん聡の体を離すと、その柔らかい唇に再び自分の唇を押し当てた。

力が抜けていくような聡の体をしっかりと支えるように抱きしめながら唇をあわせた。

何度も何度も。

将の舌は聡の口の中のすべてを、そして聡の舌は将の口の中のすべてを愛撫した。

温かくぬるぬるとした唾液が混じりあう。

柔らかくざらざらした舌、つるりとした歯、そして歯茎……そんなところなのに、舌で撫でられるだけで、動悸が昂まるような快感を二人とも共有していた。

 

  
お互いの口を何度舌が絡み合いながら往復しただろうか。

聡は気が付くと将の膝の上で抱えられるような体勢で将を見上げていた。

腕だけを将の首にからめるように回す。また、いっそう将は逞しく成長したように思う。

最後の1回がお互いの唇から唾液の糸をひいて離れたとき、聡はふわりと宙に浮いた。

突然だったので思わず将の首にしがみつく。

将は聡を横抱きにして抱えあげて立ち上がると、彼女をベッドに横たえるようにそっと下ろす。

横たわった聡と将で目が合った。

将は見開いた目で何かを確かめたいような顔だ。聡は何も言わずにうなづいた。

将は聡がうなづくのを見ると、帯を解いて自らの浴衣を脱ぎ始めた。

聡は目を開けてその一部始終を見ていた。

何度か目にしているが、長身に流れるような筋肉がバランスよくついた美しい肉体が浴衣の下から現れる。

トランクス1枚だけになると、聡の華奢な肩の外側に肘をついた体勢でのしかかってきた。

ギシッと鈍い音がする。ベッドか、家か、どっちがきしんだのかわからないが。

聡の目の上の視界は、ほとんど将の裸の上半身に覆われた。

スタンドだけの灯りの中、十代の若者らしい筋肉が、しっとりとした光沢を放っているのがわかる。

これから将が何をしようとしているのかぐらいは、わかる。

聡の意識のどこかでまだ、阻止しなくては、まだ自分と将は教師と生徒だ、という理性が残っていないわけではない。が、聡はもう抗えなかった。

将と行き着くところまで行ってみたら。彼は聡を何処まで連れて行ってくれるのか。

自分に逢いに、自分に愛を告げるために、はるばる1000キロ以上の距離をほぼ寝ずに走破した将に、聡はすべてを与えてもいいと決心した。

将は、そのままの体制で、聡の名前を呼ぶと、聡の首筋に唇を這わせながら、抱きしめてきた。

聡は衣服に覆われない、生(き)のままの将の熱い体温と体臭に包まれた。もう何も考えられない。

将は口づけしながら、聡のパジャマのボタンをはずそうとしているらしい。

しかし、なかなか巧くいかないらしく、とうとう、いったん上半身を離すと、慎重かつ丁寧に聡のパジャマのボタンをはずしはじめた。

聡はされるがままに任せながら、『作業』をする将の顔を下から見上げた。

テストでも解いているような大真面目な顔に、聡は思わず吹きだしそうになるが、こらえた。

すべてのボタンをはずすと、将はいったん聡を抱き起こした。

パジャマの袖を脱がせるつもりだろう。聡は、自らパジャマの前を開くと、肩を開いてそれを脱ぎ捨ててしまった。

聡の、何も身につけない上半身はオレンジ色の灯の下、将の目の前にさらけだされた。

聡は、掛け布団を開けた中に再び横たわると、腕をのばしてスタンドの灯りを一段暗くした。

将は、ベッドに両腕をついて、聡の体をしばらく放心したように眺めていた。あんまり見られて聡はとうとう

「……はずかしい」

と小さくつぶやいて、胸の上に自分の両腕を重ねた。将は

「アキラ、愛してる」

と吐息のように囁きながら、もう一度聡に覆い被さると、何度目だか、もはや二人とも数えていない口づけをした。

剥き出しになったお互いの上半身の、熱い肌と肌を密着させて抱き合う。

くっついた部分から将の血潮が流れ込んで来るような、そんな感覚に聡は酔った。

第79話 1300キロを越えて(3)

 
まず最初は、集合写真だ。

「これが聡で、これが俺。1年のとき学級委員だったんだ」

一番前列で教師の両側に二人はいた。まだ幼さが残る顔だ。

「あんまり今と変わんないじゃん」と大悟。

「おっさん白髪増えたけどね」

とよけいな口を叩く井口のおでこを秋月が『コラ』とこづく。

「おおっ、これ運動会?」

ブルマー姿の聡と秋月のツーショットに思わず皆の目が集まる。

「これは、1年のクラスマッチかな」

「……昔はそんなに巨乳じゃなかったんだな」

「どこ見てるんだよッ!」

こんどは大悟が井口をこづく。

たしかに、足を付け根から剥き出しにしたブルマー姿は清楚な感じだ。

ぴったりくっつくわけでもなく、少しだけ間をあけて立つ秋月との関係は、将にとって安心できるものだとすぐわかった。

「今は女子も短パンなんだろ」

「てかウチはみんな夏でもジャージ着てるけどー」

秋月と井口、大悟のやりとりをよそに将は食い入るように昔の聡を目で追った。

自分と同じ年頃の聡。

仲良しだったという秋月だけあり、聡が写っている写真は多い。

遠足、クラスマッチ、キャンプ、運動会など行事ごとに写真が残っている。

みんなで行ったという海水浴では、目隠しをしてスイカ割りの棒を振り上げているパレオを巻いたビキニ姿まであった。

が、細身の体はまだ発育途中らしくすがすがしい線をつくっていた。

この頃はいずれの写真も、すこしふっくらとした顔にくったくのない明るい笑顔が特徴的だった。

制服も短くしすぎず、田舎の進学校に通う、健全な女子高校生がそこにいた。

将とはあまりにかけ離れていた。

もし目の前にこの聡がいて、果たして好きになっただろうか。

いや、自分は好きになったとして、聡の側は、おそらく将のことなど歯牙にもかけないだろう。

アルバムをめくっていく。

「これ何?」

将が指差した一枚の写真には派手な、たぶんパンクバンドが映っていた。

髪を立て、素顔がわからないほどの化粧をほどこした女性ヴォーカルが中央に映っている。

「聡だよ。2年のときの文化祭かな」
「ええええ!」

一同、宿中に響くほどの大声で驚愕した。秋月がさすがに「しぃ!」と指をたてる。

NANAもびっくりといういでたちである。

「センセーこんなのやってたんだー!」
「すっげー」

井口も大悟も目をみはって写真を見直した。

「このときは、このバンドのヴォーカルの子が急に盲腸になっちゃって、聡が代打で出たんだ。ほら、聡、帰国子女で英語できるだろ。英語の歌を3曲だけ歌ってさぁ」

「すっげー……」

将は、聡のパンク姿を見つめた。

破けまくって、足をまるで覆っていないジーンズに、これまた破けていることも関係なさそうな網のタンクトップからは黒いブラジャーが見えている。

ジャラジャラとつけたクロスなどのアクセサリーは重そうで、髪は根元を高く立てて。黒い口紅に黒々とアイラインを入れた目は、強く観客を睨みつけている。

『照れ』とか、『あがり』がまるでなさそうな、堂々たる迫力のステージが聞こえるようだった。

「でさ、このときだけのつもりだったらしいけど、結構人気がでちゃって、何回かライブでヴォーカルやってたよ。……でこれが、聡の元カレ」

聡の後ろでベースを弾いている男を、秋月は指差した。

ヒュー、と井口が口笛を吹く。

下をむいて演奏に集中しているこの写真ではよくわからない。

将は卒業アルバムを手に取り顔写真を探した。秋月がそれに気付いて、該当ページを開いた。

「この人だよ」

将は目を近づけて、東というその男の写真にガンを飛ばした。悔しいけどイケメンだ。

「センセとこの東クン、どんくらい付き合ってたの?」

将の代わりに井口が訊いてくれた。

「高2の夏から卒業まで、かな」

「へーそう、じゃセンセ食われたかな」

遠慮もない井口だが、秋月は薄く笑ってタバコに火を点けると

「たぶんな」

煙と共にと言い放った。淡々としたようすだ。

将はまた、文化祭のところまで戻った。その後、聡の写真は激減している。特に秋月との2ショットは皆無になってしまった。

修学旅行の電車の中らしき写真など、大勢で写っているものばかりだ。そして、そこに映る聡の横には必ず、あの東がいた。

頭をお互いのほうへ傾けたり、大胆に肩を組んだものまであった。1年のときと違って表情が大人っぽい。

将は、聡をこんなふうに成長させた、写真の中の東に激しい嫉妬が湧き起こるのを感じた。

「秋月サン、この東って人にアキラ先生を取られたの?」

大悟が鋭い質問をした。皆に倣って聡のことを『先生』と呼んでいる。

「……バレた?最近のコは鋭いなあ……。ま、昔の話だけどね」

秋月は煙を吐きながら目を細めて笑った。

食い入るように写真を見ている将に秋月が

「鷹枝くん、だっけ。ちょっと東に似てるよ」
「え」

将は顔をあげて秋月を見あげた。そして訊いてみる。

「アキラ、いや先生は、この人とその後……?」

「さあ。大学入ったら自然消滅したって聞いたけど」

秋月は煙草の煙をひと吐きすると、煙草を灰皿に押し付けた。

将は、なんだか嫌な気がして薄まった焼酎を一気に飲んだ。

「ぶっちゃけ、聡が好き?」
「ゲホ!」

突然秋月に単刀直入されて、将は激しくむせた。

「ごめん、ごめん」

秋月は笑いながら水を差し出した。

将の咳がおさまるのを待って、秋月は静かに言った。

「正直、俺、鷹枝くん、若すぎると思うけど……。でも聡が好きだっていうんだからいいと思うよ」

将は驚いた。

「そんなこと、アキラがいったの?」

「うん。ついさっき。……ちょっと酔ってたからね」

秋月は2本目の煙草に火を点けると、将のグラスに焼酎を注いだ。

それを将は一気に煽った。腹の底が、心と同じように熱くなった将は立ち上がった。

「俺、行ってくる!」
「どこに」

井口が将を見上げる。

「アキラんち」
「もう12時になるぜえ」

大悟も暗に迷惑だぜ、という。

「さすがに飲酒運転はヤバイ。……送ろっか?」

秋月だけがくわえ煙草のままだけれど、将の肩を押した。

「ハイ!」

秋月はうなづくと、「じゃ、行こう」と素早くカウンターを出た。

 
 

 
いつのまにか上弦の月が空をりんどうのような色に明るく照らしていた。

聡の家は車だと本当にすぐだった。それは古い民家がこみ入った小さな通りにあった。秋月は通りの手前で送迎用のワゴン車を止めた。

「この小道を入って最初の門が聡の家。聡の部屋はたぶん玄関に向かって右横すぐだから……じゃ、Good luck!」

といたずらっぽい顔で将を送り出した。

秋月の車が走り去ると、しんとした寒さだけが残った。将は震え上がりながら月明かりの中、聡へ会いに行く。

川というよりは溝といったほうがいい流れが静かな夜にチョロチョロと響いている。

――あった。

元武家屋敷だという聡の家。溝に掛かる石橋を渡り、利休色に変じたこれまた古式ゆかしい木の門扉を押してみる。

それは無用心にもたやすく開いたが、『ギギー……』という音が途中で大きく鳴り、将は飛び上がりそうになった。

 

 
聡は、ちょうどいい具合に酒が入っているにもかかわらず眠れずにいた。

将が、自分に逢いに、はるばる東京から萩までやって来た。そのことだけで胸がいっぱいで、体中の血液が駆けめぐるのが止まらない。

――どうしよう。

もう聡の気持ちはセーブできない。この押さえられない思いのままに、将を選んでしまってもいいのだろうか。

聡は久しぶりの自室のベッドで寝返りを何度も打った。体が火照っているのか、今日は木造の古民家の冷え込みが気にならない。

と。門が開く、ギギー……という音がした。

今日最後に帰ったのは聡である。

――しまった。門を閉め忘れたんだ。

酔っていたせいか、門の鍵を閉めないでそのまま家に入ってしまったらしい。

――犬でも入ってきたのかしら。

聡はベッドから起き上がって、カーテンを開けると、ガラス越しに門のほうを見ようとした。

そのガラスのすぐ外、聡の顔の目の前に男がいた。泥棒?痴漢?

(キャ)

すんでのところで悲鳴が出るところだったが、その前に、聡の目は月明かりの中に将の顔を判別することができた。

聡はあわてて鍵を開けてサッシをからりと開けた。古民家だが、寝室だけサッシに変えているのだ。

冷え込んだ冬の夜の空気と共に、浴衣羽織姿の将の上半身がなだれ込むように飛び込んできた。

第78話 1300キロを越えて(2)

水銀灯の下の将は、まるでスポットがあたっているように見えた。

聡の動きはすべて止まった。いや、まわりの時間さえも止まってしまったかのようだ。活発に動いているのは心臓だけである。

将のほうも、聡を見つめてそのまま動けない。

一瞬だったが、二人は突っ立ったまま見つめあった。二人が会うのはクリスマス以来である。

立ち止まる聡に秋月がやっと気付いてその視線の延長上にいる若者を見た。

そのときには、聡はそこへ小走りで近寄っていた。

「どうしたの?こんなところで。まさか東京から来たとか」

井口と将と両方に話し掛ける。

「そのまさかっすよ。昨日の朝から車乗りっぱー、でようやく着いたところですよー」

井口が顔をしかめながら話す。

「何で?ここに?」

と訊きながら聡はわかっていた。将は自分に逢いに来てくれたのだ。

言葉にできない将のかわりに井口が代弁する。

「こいつがセンセイに逢えなくて死にそーになってたから。……センセイ、あれ誰」

井口が顎をしゃくった。そのとき大悟も戻ってきた。聡を見ると会釈をした。

「ああ。高校のときのクラスメートで秋月くん。今日、同窓会だったの」

秋月はそばに寄ってきた。金髪にピアスといった井口の容貌にもそれほどけげんな顔を見せないのは、客商売をしているせいか。

「聡、教え子さん?」
「うん」

聡は頬が熱くなるのがわかった。

――さっき、あんなこと言わなきゃよかった。

聡は教え子に恋していることを秋月に打ち明けてしまったばかりなのだ。

「はるばる、聡に会いに東京から? この車で! すごいねえ! 何時間かかった?」

秋月は無邪気に話しかけているが、このうちの誰が聡の相手なのかさぐっているのだろう。

「昨日の朝7時ぐらいだから、えーと38時間ぐらいすか」

話すのはもっぱら井口で、将は無言で聡を見詰めている。秋月は、そんな将のようすに気付いたようだ。

「運転は、自分が?」

と秋月は将に向き直ると、訊いた。

「え、あ。……ハイ」

将は気付いて、ようやく返事をする。聡はひさしぶりに将の生の声を聞いた。

「高2、だったら無免許、だね」

――しまった。

聡は反射的に秋月の上着を引っ張った。

「見逃してあげて」

「ああ、いや別に目くじらたてようってわけじゃ。ただスゴイなと思っただけ。俺らも高校生から結構車乗り回してたしな」

秋月が柔らかい目を聡に向けるのを将は見た。

「ところで、いつまで……今日はどこに泊まるの?」

聡は主に井口に訊いた。井口は将、大悟と顔を見合わせた。

「センセイんちに泊めてもらおうと思ってたんだけど……」

あいにく今日は父の昔の教え子6人が泊まっている。新たに将たちを泊める余裕は、聡の家にはもはや、ない。

「今日は……」
「予備室でよかったらだけど、今日はうちに泊まれば」

察した秋月が、申し出てくれた。

「空いてるの?」

聡がすまなそうに秋月に訊く。

「予備室だったらね。改装してない古い部屋だけど」
「ホントにごめんなさい」

聡は秋月に頭を下げた。

「いいって。……車、ナビついてる?じゃ、たぶんうちの宿、登録されてるから」

そういって、秋月は携帯で綾に電話を掛けて部屋の準備をさせる。

その間、聡は将をもう一度見た。そのとき将もちょうど聡を見ていたのか、目が合う。

何て声をかけていいのかわからない。まして秋月や井口の前だ。

「ずーっと、全部、鷹枝くんが運転したの?」
「……うん」

将も秋月を意識しているのか、その答え方は教師に対するものといって遜色なかった。

「……明日だったら、大丈夫だと思うから。明日もいるんでしょ?」

聡はさりげなく、将へ『明日はうちへ来て』という意味を込めて、瞳を見つめた。

将も聡の目を見つめてうなづいた。

 
 

宿へと走り去るミニを見送って、川沿いの道には再び聡と秋月だけが残された。

「びっくりしたぁ」

聡はなるべく明るくおどけた。

「あの、運転してたっていう茶髪のコだろ。聡の……って」

秋月はいたずらっぽい顔で言った。

「すぐわかったよ。最初から最後までずーっと聡のほうを見てたから」

聡はまた顔が熱くなるのを感じて、声に出さずにうなづいた。

 
 

「なんかボロ……」

案内係が消えるなり井口が呟く。

秋月の宿は、最近デザイナーを入れて改装したばかりのモダンな宿だが、6畳の予備室は改装されずにそのままだった。

うぐいす色の砂壁が蛍光灯でぶっきらぼうに照らされ、テレビは一番小さい14型だ。

桜の無垢材を用いた床や壁に間接照明が美しい陰影をつくる、いかにもスタイリッシュなロビーラウンジや廊下を通ってきた将ら一行には、改装していない予備室は、よりみすぼらしく見えた。

畳はささくれてこそないものの、なんだか将は大悟のアパートを思い出した。

ちなみに予備室とはかつて団体客をとっていた頃の名残で、添乗員やバス運転手が泊まるための部屋だ。

それでも、すでにフトンを敷いておいてくれたので、運転疲れも激しい将は倒れこんだ。フトンだけは糊の利いたシーツがかけられた上等なものだった。

「なあ、将、ここの秋月ってオッサン、アキラセンセと単なる同級生かな」

井口が倒れた将の腰をべし、と叩きながら言った。

「二人っきりで歩いてたしなあ」

大悟も同意する。

「さー。知ったこっちゃねー」

と将は掛け布団を抱きしめて、着替えもせずにもぐりこむ。そこへコツコツとドアを叩く音。

「失礼します」

現れたのは若女将の綾……といってもカジュアルな格好だ。

「すいません、浴衣をお持ちしました。それと、着替えをお持ちじゃない、と伺いましたが、お洗濯しておきましょうか?」

実はもう大晦日から3日間着たきりである。将たちは、ありがたい申し出を受けることにした。とりあえず、パンツだけは途中のコンビニで買ってある。

その後ろから、聡を送ってきた秋月が顔を出した。

「温泉も今だったら誰も入っていないぜ。あとで、バーのほうに来い。飲ませてやるから」

「おまえら、行ってこいよ。俺、激ネム……」

将は井口と大悟を促して再び横になった。

「そっか。聡の昔の写真でも見せてやろうかと思ってたんだが」

そう聞いて、将はガバと起き上がる。

 
 

 
最近配湯されるようになったという温泉に浸かり、浴衣に着替えた3人は、バーへ行った。ここも改装されて、モダンな感じのスペースになっている。

暗めの中にある桜の一枚板のカウンターに、懐石盆をイメージしたスポットが各席ごとに丸くあたっている。

「シッブイな」

タオルをバンダナのように頭に巻きつけた井口が感嘆の声を上げる。

といっても、カウンターにバーテンダーもいないし、背後には座り心地のよさそうなソファー席と共に最新のマッサージチェアなどが置かれ、湯あがりの寛ぎスペースといったところだ。

30時間以上の運転でバリバリにこわばった背中をマッサージチェアに預けると堪えられない。

将はマッサージチェアの振動に体を預けながらまたうとうとし始めた。

しばらくして秋月がアルバムを持って現れたとき、将はマッサージチェアの上でぐうぐう眠っていた。

「将、将ってば」

大悟の呼びかけにも反応しないほど熟睡している。

「焼酎とか飲む?」

秋月は、秘蔵だという、奄美の黒糖焼酎をカウンターに座った井口と大悟の二人に見せた。

「飲みます、飲みます」

はしゃぐ二人に秋月は奮発して、『南極の氷』でオンザロックにしてくれた。

しかし、17才に45度の焼酎のオンザロックは少々キツかった。二人とも『おおお』と声をあげた。

「バカだなあ。ロックなんてそんなに一気に飲むもんじゃないぜえ」

秋月は苦笑しながら、オンザロックに水を足した。

「でさ。秋月サンは、アキラセンセイの何なんすか」

井口が得意の単刀直入をやった。

「何、突然。……普通に元クラスメートだけど」

秋月はツマミを用意しながら笑った。

「マジっすか?」
「マジっすよ」

秋月はおどけて井口の口調を真似しながら黒糖焼酎の瓶を磨いている。

「元カレとかじゃなくて?」
「元カレだったとしても、今は関係ないだろ」

秋月はそう言った後で疑惑を晴らすために

「残念ながら元カレじゃないけどサ」

と付け加えた。

「ところで、あのコ、聡の何」

秋月はマッサージチェアの上でぐうぐう寝ている将を指差して井口に訊いた。

「え。彼氏、だと思う」

井口はタオルの上から頭を掻いて答えた。

「やっぱり?」
「たぶん……?」

井口の口調が若干自信なさげになった。

「おい、アイツ、起こしてこいよ」

秋月は大悟に命じた。大悟は素直にカウンターから立ち上がると、将のところへ行き、体を揺さぶった。

「おい、将、起きろよ」
「んー」

熟睡している将はなかなか起きない。

「アキラセンセイのアルバム見ねえの?」
「見る!」

聡の名前がてきめんに効くのを見て、秋月は可笑しくなった。

第77話 1300キロを越えて(1)

「いい人、か……」

聡は空になったぐい呑みを弄びながら、将を思い浮かべる。

「いるけど。好きになっちゃいけないヒトなんだ……」

「何だよ。……まさか不倫してるんじゃないだろうな」

秋月は心配そうに聡をのぞきこんだ。ちなみに聡にあわせて標準語になっている。

昔はお互いもっとキツイ方言で話していた。

「やだなー。違うよ」

「俺さ。聡には本当に早く幸せになってほしいんだ」

秋月は酔っているせいか、少し恥かしいことを神妙な顔で言う。

聡は、ふふ、と笑うと

「なんか私が幸せじゃないみたいね」

と答えながら、ジーンズの足を揃えて胸の前に立てた。

「本当にサ。俺が幸せにしてやりたいって思ってた。17歳のときは」

聡は長期熟成させた酒を飲んだように、胸がじん、と熱くなる。

「あたしも。秋月に片思いしてたんだよ」

「ウソ」

秋月は心から驚いたようだった。見開いた目が酔いで充血している。

「東は……?」

「うん……。何なんだろうね。わかんない……」

聡は立てた膝に顔を半分埋めて、目だけで秋月を見る。

「そっかー。実は両思いだったんだー」

秋月は壁によりかかって天井を見あげた。それきり黙りこむ。

2次会の話で盛り上がっているみんなが遠くにいるような、二人。

だが、二人の間には9年の年月が横たわっている。もう道が交わることはないのだ。

「ほら、ソコ!何いいムードになってる!」

オヤジになった男子にとうとう指摘された。

「おう、邪魔すんなや」

気がつくと秋月も元通りになって笑っていた。

「聡、2次会いく?カラオケだけど」

初美に声をかけられる。

「どうしようかな」

と腰をあげたとたん、フラッと酔いが足に来た。

「大丈夫~?」

「えへへ。ちょっと酔ったかなあ……。今日は帰ろうかな」

「じゃあ、俺送るよ」

と秋月が聡に肩を貸す。

「いいってば」

「何いってんだ、そんなヘロヘロで……。悪い、俺、聡を送ってからまた来るよ」

秋月はそう皆に断ると、聡を促した。

 
 

「ちょ~、まだかよ~、ハギは~、もう2日車に乗ってんじゃん」

井口が後部座席で文句を言う。

「うるさいなあ、お前がやれ、名古屋で味噌カツだ、広島でお好み焼きだ、って言うから遅くなったんだろ」

運転する将もいらついている。

「何だよ!だいたい高速使えばこんなに時間かかんないだろ!お前がケチるからいけないんだろーが!」

「るせー!じゃ、お前高速代出すか?出さねーくせに文句いうなっ!」

思わずカーブを曲がる将のハンドルが荒くなり3人体が傾いた。

「まあまあ。もう山口入りはしてるんだから」

大悟がフォローする。

もう1月2日の夜だというのに、ようやく車は2号線をはずれて北上しているところだ。

元旦の7時に千葉を出てもう37時間が経つ。

ガソリン代がバカにならないので、高速道路代をケチって1号線をひたすら西へ進む。

正月らしく途中何箇所か渋滞があり、思うように進まない中、1日目の夜を名古屋で迎えた。

夕食に名古屋名物の味噌カツを食べ、再び西へ向かう。

大晦日に寝ていない将は、お腹いっぱい食べたおかげでひどい眠気に襲われたが、京都、大阪、神戸といった大都市は夜中に通り抜けるべきだ、と判断して明け方までになんとか姫路まで走りぬけた。

ここまでに井口や大悟は居眠りし放題だったが、将はここでようやく仮眠を取ることができた。

コンビニの駐車場に車を止めて、3時間だけ爆睡して、朝9時には姫路を出発する。

2号線も岡山あたりは順調で、午後には広島についた。

そこで、井口が初詣しよう、と言い出したので、安芸の宮島に行く。運転もせず暇な井口や大悟は携帯などで情報収集に余念がなかったのだ。

そして、市街地にある『お好み村』へ行き、お好み焼きを食べて、そこを出たのが17時である。

そこで今朝3時間しか仮眠していない将はまた馬鹿眠くなってきたが、ひたすら耐えてハンドルを握り続けた。ここへ来て、さすがに若い将でも、肩が凝ってきた。

今、国道262号に入ったところだからあと1時間足らず。

1時間足らずで聡に逢える。もはや執念でハンドルを握る将だ。

 
 

「どうやら着いたらしいけどサ。アキラセンセイんちてドコよ?」

井口が不平ったらしく将に訊いた。萩に到着したらしいが車は依然暗い中を走っている。

「お前、電話かけろよ」

「えー。ヤダよ。びっくりさせたいのに」

将はハンドルを握りながらキョロキョロとしている。

「そんなこと言ってる場合かよ!」

「誰かに聞けばわかるって」

将はうわの空で言った。

「バカか~!渋谷駅で『古城先生の家どこですか』って赤の他人に聞くようなもんじゃねーか!」

井口はブチ切れる。

「そこまで人口多くないって」

と答える将によけいに井口は

「あーそうだよ!誰も訊けるような人いねーし!暗いし!」

と叫ぶ。川に並行して走る一般道に人影はない。ときおり水銀灯が寂しい色の白い光を照らしているのが逆に暗さを引き立てる。

大悟が

「将、さっきから何探してるの」

と訊いた。

「いや、アキラんち、川の近くの武家屋敷って聞いたから。川沿いを走ってる」

「何川」

「A川とかっていってたような……」

「あそこに橋がある。ちょっと川の名前を見てこよう」

大悟は将に、水銀灯の下で車を停めさせた。

広島を出てから4時間あまり。狭いミニの車内に押し込められていた若者3人は、車が泊まるなり外に出て伸びをした。

水銀灯の下とはいえ、東京の明るさに慣れた3人には驚くほど暗い夜だ。車も通らないので川のせせらぎが異様に響く。

そんな外は冷え込んでいるが、逆に新鮮な空気を感じさせる心地よさだ。

「あ、あれ……」

井口が指を差した方向に、こちらへと歩いてくる男女がいた。

 
 

「ごめんね。付き合わせちゃって」

「何いっとん。歩こうっていったのは俺だろ」

聡は、秋月と並んでH川沿いの道を歩いている。

冷たい冬の夜の空気は、それだけで若干聡の酔いを覚ました。

タクシーをつかってもよかったのだが、少し歩こうと提案したのは秋月のほうだった。

A川の近くにある聡の家は、居酒屋のあたりから、歩けば20分ぐらいだ。少しだけ遠回りして、二人でH川沿いの道に来たのだ。春には土手に生える桜並木が美しい道だ。

高校生のとき、ペアで学級委員をやったこともある二人は、桜吹雪の中、自転車を並べて通ったものだ。

吐息が時折ある水銀灯に照らされて暗闇に溶けていく今、コンビニで買ってくれたお茶だけ手に温かい。

「酔いは醒めた?」

「うん。もう大丈夫だよ」

こんな風に並んで歩くのは9年ぶりだ。

お互い思いあっていたのに、『同級生』として並んで歩く以上には、とうとうならなかった二人。

ほんの少し、勇気を出して、手を握るなりすれば違った二人になっていたかもしれない。

手を握る。

将は……あの、湾岸の遊歩道で手を握ってきた将の手の温かさを、聡はふいに思い出す。

そんな聡の脳裏が透けて見えているように秋月は聡に訊いた。

「それでさ。さっき言ってた、好きになっちゃいけないヒトって何なん?」

「ああ」

秋月の幸せを見せてもらった聡は、自分の今の恋を、思い切って秋月に打ち明けたい気がした。

打ち明けたにしても秋月だったら聡のことを軽蔑したりしないだろう、と思う。

「教え子、なの」

聡の告白に秋月は驚いて一瞬足が止まった。しかし、すぐに

「へえ」と相槌を打ち、歩き始めた。

「何年生?」

「高2。17歳。……バカみたいでしょ、あたし」

秋月は黙っている。

「でもね。本当に好きなんだ。だからスゴく悩んでる」

「……意外だなあ。聡は大人が好きだと思ってた」

ようやく秋月が口を開く。特に聡を非難するようすもない、淡々とした口調だ。

「うん。自分でもそう思ってたんだけど……。もう気持ちがぐっちゃぐちゃでさぁ」

聡はなるべく明るく見えるように笑って見せた。

 

そのとき。

「アキラセンセー!」と前方の水銀灯の下から声がした。

ローバーミニが止まっているのをみて、まさか、と聡は心臓が止まりそうになる。

手をふる金髪のガタイの大きな男の横で、見慣れたボサボサの茶髪が振り返る。

「……将!」

聡は思わず立ち止まった。

第76話 同窓会

「お正月ぐらい着物でも着たらどう?せっかくつくってあげたのに」

と出かけるために着替える聡に母が言った。

「やめてよ。飲みに行くのに着物なんか着ていく人誰もいないってば」

新年もあけて2日。聡は夕方から行われる同窓会に出かける準備をしていた。

客間のほうからは父と教え子たちの笑い声が聞こえる。すでにお酒が入っているようだ。

今日は、父の昔の教え子が福岡から総勢6人で来ていて山口旅行がてら泊まっていく予定なのだ。

築100年を越える古民家である聡の実家は父母と聡だけで住んでいたにしてはかなり広い。

聡が小4から中3までカナダにいた聡の一家だが、この萩に戻るにあたって、A川ぞいにある下級武士の家だったここを管理がてら借り受けることにしたのだ。

『古い家でも人が住めば生き続ける。逆に住まなければ荒れる一方だ』

と紹介した人は言ったが、それに父母が感銘を受けたのだ。水まわりを変えたりやエアコンをつけたりなどはしているが、東京のコーポに住みなれた聡にはもはや少し居心地が悪い。

特に冬はすきま風が入るし、廊下は氷のようでとても裸足で歩けないし、とにかく寒いのだ。しかし、来客には、『風情がある』『旅館みたい』とすこぶる好評な家だ。

父も母も教職ということで昔の教え子などの来客が多い。

昨日の元旦は、萩焼の窯元を営む叔父一家が昼からやってきて、酒が入って運転できない、と泊まっていった。

明日も、昼は母の教え子、夕方は父の教え子である中学生がやってくるだろうということだ。

聡が実家でのんびりできたのも年内だけで、新年は来客のたびにもてなしにあれこれ狩り出されて落ち着けなかった。

今夜は同窓会があるおかげで、『パシリ』や『姐や』からやっと解放されて聡はホッとして爪にマニュキアを塗っていた。

秋月も来る、と聞いて浮き立つ聡の気持ちは少し濃い目のマニュキアを選ばせた。

 

マニュキアを乾かすのに少し時間がかかって、開始時間から15分遅れてしまった聡だが、店の引き戸を開けるなり

「聡~!こっち!」

初美が座敷から身を乗り出して手を振った。出席者ほぼ全員がこちらを振り返り、おおー、と声が上がった。

「古城さん久しぶり!」

「ちょっと聡~何年ぶりよ!」

「めちゃくちゃキレイになっちょらん?」

次々に声がかかる中、聡は秋月の姿を探した。まだ着てないようだ。

20人ほどが参加している同窓会は、カウンターと座敷……というより小上がりだけの小さな居酒屋の座敷を占領しているようだ。

とりあえず初美の隣に座る。とたんにビールが注がれる。

「聡!久しぶり!」

と声をかけるふっくらした女がいた。

「……美佐?」

卒業と同時に国語教師と結婚してすでに3人の子持ちだという美佐だ。

「ちょっと、もう3人も子供いるんだって~?」

と声をかけながら、聡の脳裏を将のことがよぎる。教師と生徒の恋愛のなれの果て。

美佐は、小柄で可愛かった高校生の頃の面影はない。それでもまん丸でツヤツヤした頬は幸せそうだ。

「もう、今4人目がいるよ。5ヶ月だよ」

とお腹を差してにっこりする。あいかわらず、聡はそんなふうに国語教師に孕まされている美佐を、少し汚らわしいと感じてしまう。

――もし将と結婚して4人も子供をつくったら、教え子たちは自分を汚らわしい女だと思うんだろうか。

聡がそんな想像をしているとも知らず美佐は

「聡は何してんの?なんかめっちゃ色っぽくなってない?」

と訊き返して来た。

「東京で高校の先生してるんだ」

「なんか胸、すっごく大きくなっちょらん?ニンシンしてんじゃない?」

脈絡もなく話が飛ぶところは昔の美佐のままだ。

聡は今日は少し胸のあいたニットにジーンズというシンプルないでたちだ。それで靴を脱ぐときにかがんだ際、谷間が大胆に見えてしまったらしい。

「ちょっと、いきなり、何いうのよー」

「あー、これしてきてくれたんだー」

初美が返答に困る聡の胸元にペンダントを見つけた。年末にさっそく初美の工房を訪れて買ったものだ。

「昔はもっと胸なかったハズ!」

「ちょっとさぁ。男子が話題に入れなくて困ってるよ」

すでに酔っているのか、しつこい美佐に初美がフォローをいれてくれる。そこで男子も聡になんとなく注目しているのがわかった。

幸い、といったらなんだが、昔、彼氏だった東が来ていないのにほっとする。安心して男子とも声をかけあう。

聡が同窓会に来るのは、成人式以来だから6年ぶりということになる。

それでも、あまり変わらない人と、すごくおじさんになった人といるのにびっくりした。しかもそれは高校時代の美形度に比例していないのだ。

高校のときはカッコよくてモテていた男子が、すごく疲れた感じになっていたり、パッとしない地味な男子がパリッとしていたり。それに対して女子のほうは、美佐は別としてだいたい高校時代の雰囲気を残しているといえよう。

引き戸がガラッと開くたびにそっちを気にする聡に、

「秋月くん、旅館の夕食を出し終わって来るって。今7時すぎだから、もう少しだね」

初美が聡に囁いた。

正月といえば一番の稼ぎ時、旅館も大変なのだろう。

しかし、秋月がどんな風に変わっているのか、聡は少し心配になった。

 
 

それから1時間もたって宴もたけなわになり、出席者は皆赤い顔になっていた。

聡もビールからそろそろ違うお酒にしようかとメニューを見ていたその頃。

引き戸がガラリと開いた。思わず聡の目はメニューからそちらに移動する。

「ごめん!遅くなって!」

秋月が一升瓶を持って現れた。

――変わらない。

たぶんユニクロのフリースを着ているその姿は太りもせず、やつれもせず……。

頭に若白髪が目立ったが、少年っぽい感じなのに落ち着いた雰囲気は変わらなかった。

最初に聡のほうを見た、と思ったのは気のせいだろうか。

しかし。

その後ろに、ショートカットの女性が見えて、聡の甘いノスタルジィはすぐ打ち破られた。

「秋月!それ嫁さん?」

ヒューヒューと冷やかしの声が座敷のあちこちからあがる。

秋月はそれでも、小上がりまで歩いてくると、聡に

「よっ」

と声を掛けて、伴った女性ともども、聡の隣にさりげなく座ると

「まずビールでいいよね」と女性に確認してから「生2つちょうだい」と店の人に注文した。

低い声は完全に大人の男性のものだ。

「聡、すっごいキレイになったねー」

如才なく聡に声を掛けるところなどは少し大人になったのかもしれない。昔はそんな直接的な褒め方をしなかったよう思う。

「そんなことないよ……。奥さん?」

聡は隣にいる女性に気を遣った。

「綾、といいます」

和服が似合いそうな涼しげな目が笑顔のおかげで柔らかくなっている。いかにも旅館の若女将が似合いそうだ。

「福岡の大学のときから付き合ってて、去年結婚したんだよね」

初美が解説するのに代わって、秋月が妻の綾に聡を紹介する。

「こちらは古城聡さん。僕が高校のとき片思いしてたヒト。きれいな人でしょ」

「本当ねー」

綾は悪びれもせずに答える。

聡は思わずドキッとしたのを「ヤダー、もう」と笑って誤魔化す。

――片思い、だって。

片思いはむしろ、聡のほうだと思っていた。

そのとき、秋月が持ってきた酒がさっそくぐい呑みでまわってきた。聡は萩焼のそれを受け取りながら秋月を盗み見る。

秋月のほうは、綾を交えて美佐や初美、まわりの男子と近況を話している。

聡はほっとしたような、がっかりしたような気分でぐい呑みの酒を飲んだ。

「どうですか?」

綾が聡を振り返って話し掛けた。一瞬どぎまぎする聡だったが、酒のことか、と安心する。

「美味しいです。とっても」

「よかったぁ。これうちの里でつくってるお酒なんですよ」

「福岡の?」

「いいえ、山口です」

その『T』という酒は実際口当たりがよく旨かった。

聞けば山口には小さな酒蔵がいっぱいあり、最近は各酒蔵で個性を競った酒造りをしているのだという。

秋月の妻の綾は、とてもさっぱりとした性格のようで、話していて気持ちのいい女性だった。

それで、聡は秋月が今とても幸せなのだということがわかった。だからああやって、聡のこともさらりと話せるようになったのだろう。

 

「じゃあ、私はそろそろ」

綾は30分ほどで席を立った。

「え、もう?今来たばっかりじゃ」

聡の口から社交辞令なしで、心からの引止めの言葉が出た。

秋月が幸せである証拠である綾と話すことで、とてもほっとした気分になっていたのだ。

「3ヶ月の子供がいますんで……。それに皆さんのお邪魔をしちゃ悪いですし。たまには主人に羽を伸ばさせてあげないと」

そうやって引き上げていく綾を見送って、聡は完全に秋月が『過去の人』であることを実感した。

「気をつけて帰れよ」

秋月も身を乗り出して、綾に声を掛ける。本当に幸せな二人なのだ。

「めちゃくちゃ、いい奥さんだね」

口当たりのよいお酒で酔いがまわった聡だから本心しか口にできない。

「そう?」

聡の隣で赤い顔の秋月は心から嬉しそうだ。

「実はさぁ、俺、会社勤めしてたんだけど、萩に戻って旅館を継ごうって言ったのもアイツなんだ」

秋月は綾との出逢いから、萩に戻ったいきさつまでを嬉しそうにひととおり話した。

「聡は、どうなんだよ。東と別れたのはなんとなくわかるけど、誰かいい人いないのかよ」

聡はまたぐい呑みに口をつける。

「いい人ねえ……」

そのとき酔った頭に浮かんだのはまぎれもなく将である。

第75話 出発

イベントのあと、3人は初日の出を見に、将のローバーミニで太平洋に面した海岸をめざした。

井口はまだ踊っていたそうだったが、大悟も将もノリがいまいちだったからだ。

運転は将、井口が助手席で大悟が後部座席、と全員175センチを越す大男の若者3人でミニは悲鳴をあげそうだった。

都内から2時間ほどかけてようやく「本州で一番早い日の出」とやらが見える海岸にたどりついた。

が、うっすら明るくなりかけた水平線はなんだか曇っているらしい。紫色の海面の上は同じく紫色がかった濃いグレーの厚い雲が覆っていた。

「なーんかビミョーだなあ」

といいながら助手席のドアをあけた井口の金髪が、海風に押さえつけられるように歪む。

3人はいちおう、外に出てみた。

「寒っ!」

一同車から出たとたんに身を縮こまらせた。

明け方というのと、吹き付ける海風とで、全身の毛穴がギュッと音をたてそうなほどだ。一同肩を縮めて海のほうを見る。

砂浜に打ち寄せるのは墨色の波。将はまた、聡と二人でびしょぬれになった波打ち際を思い出した。

場所も波の色も、あたりの温度もまるで違うのに。海を見るたびに、聡とのあの海を思い出すのだろうか。この先、永遠に。

将はそんなことを考えた。

あたりには、初日の出を見に来た若者が結構いる。車を新年仕様にペイントした暴走族もいるが、少数のグループのようだ。

「もう明けてもいい頃だな」

大悟が時計を見ながら言った。

しかし、雲は茜色にすらならず、厚いままだ。それでも雲の厚みのムラに光が透けはじめた。

「将さ、今さ、センセーのこと考えてるべ?」

水平線に目をやったまま、ふいに、井口が言った。

あまりに唐突だったので、将は否定も言い訳もできず言葉につまった。実際、ずっと聡のことばかり考えている将なのだ。

「わかるべー!」

井口は金髪に、冬休みで少し伸ばした無精ひげ、という悪人づらに似合わなく明るく笑った。

「そんなに好きなんだー」

大悟も将を振り返る。

「そんなに好きならさ、会いに行けばいいじゃん」

とんでもない提案までする。大悟は昔から将の思っていることを大胆に先回りをするところがあった。

「そうだよ!今から行こーか? みんなでよー」

井口まで賛成する。

「……無茶いうな。アキラんち、萩なんだぜ」

「萩ってドコよ?」

「山口県だよ」

「ヤマグチ~?それって九州?だっけー」

さすが偏差値37、荒江高校の生徒・井口らしい返答だ。

「広島の近くだろ。ちょっと遠いな」

むしろ、中卒の大悟のほうがよっぽどマシだといえる。

「ヒロシマかあ~」

間の抜けた井口の声を最後に皆だまり、再び海を見つめた。

雲の切れ間から眩しい光が海に落ちはじめる。縦に幾筋もの光が水平線近くの海面に落ちて、まるでオーロラのようだ。

それは太陽本体ではなく、光があたった波だけをキラキラと輝かせている。太陽はそれ以上姿を現さないらしい。

「今日はダメだな」

井口の言葉は、初日の出が、という意味なのか、聡に会いに行くのが難しいという意味なのか、わかりかねた。

3人、申し合わせたように車に戻ろうとしたとき。

「何だァ……おまえら」

と背後から声がかかった。

声のほうを振り返ると、シャコタン車とそのまわりに特攻服で『正装』したヤンキー数人が鋭い目付きで将を睨んでいた。

反射的に睨み返す将と大悟だったが、そんなふうに敵意を丸出しにされるようなことをした覚えはない。

しかし、井口だけが、「ヤベ!」とあわてた。

「将、逃げないとマズイぜっ。お前がクリスマスにカランだやつらだよっ」

将はまるで覚えていなかったが、留置場に入れられたときの相手か、と即座に判断した。

「コラァ、あんときはヨォ……」

と剃りこみを入れた『正統派』のやつが凄んでくる。

将は対抗して睨み続けたが、大悟と井口が将を引っ張って車に乗せた。

『早く、早く』と2人にせかされてエンジンをかける。

「逃げんのかコラァ!」

「ぶっ殺してやる!」

獣のような咆哮をあげながらヤンキーも、シャコタンに乗り込む。将はわけもわからず、ミニを急発進させた。

「ゲエエ!追ってくるぜ!」

井口が後ろを見ていう。わざわざ追いかけてくるとは……将は、自分が何をしたのか思い出そうとしたがまるでわからない。

「これ、リミッター切ってる?」

大悟が聞いた。最高速度の制限を解除できるよう改造したか、ということである。改造していない場合、普通の車は180キロ程度しかでない。

「切ってない」

将は必死でアクセルを踏み込んだ。

「やべえじゃん!」

「大丈夫!」

単なるスピードでは負けるが、道路には他の車が何台もおり、全速力を出せる状況ではなかった。せいぜいが100キロだ。

対向車を避けながら、他の車をちょこまかと追い抜いていく。ハンドルを切るたびに3人の体が大きく揺れる。

細かい取りまわしではミニのほうが有利とはいえ、相手も直線で差を縮めてピッタリついてくる。

「わ!渋滞だ!」

前方で車が列をなして止まっているのを見て助手席の井口が悲鳴をあげる。

こんなところで止まったら、引きずり出されてひどい目にあわされるに違いない。何せ、今日は相手の人数が多すぎる。

「見てろ!」

将はハンドルを大きく切るといちかばちか、歩道に乗り上げた。ミニでぎりぎりの幅らしく、街路樹が助手席の窓を激しく擦る。

歩行者がいたら、終わりだ。

無免許運転に、免許証偽造、おまけにこのスピードだ、歩行者がいたら重傷はまぬがれまい。

将は祈るように歩道を猛スピードでくぐりぬける。

シャコタンも続こうとしたが、歩道の幅が狭すぎたらしい。追って来れない。

窓から首を出して何かを悔しそうにほざいているのがバックミラーから確認できた。

「ヤッター!」

大悟が歓声をあげつつ、追って来れないヤン車を振り返って、ベロを出す。

「よっしゃー!」

車中の3人は安堵して、笑いあった。

横断歩道で、本来の車道に戻る。そこでちょうど渋滞区間は終わっていた。

しかし念のためスピードは緩めずに走り続ける。

そのとき、ようやく遅い朝の光が車の中にも差し込んできた。

「なあ!」

笑いながら井口が運転席の将に叫ぶように提案した。

「このまま、今から行こうぜ!ヤマグチ県ハギ!」

「……バカか?1000キロ以上あるんだぜ」

将は前を見たまま言い放った。

「いーじゃん、ヒロシマって、お好み焼きうまいんだろー!」

日本地理にうとい井口にしては、よく知っている。

「面白そうじゃん。行こう、行こう!」

後部座席から身を乗り出して大悟もノってくる。

「バカ、おまえら本気?」

将は呆れたふりをしながら、大きく心が動いていた。

「どーせ、お前が運転すんだから、俺らは別にラクだっしー」

「そーそー」

井口と大悟は顔を見合わせて将を促した。

「もー、マジかよ」

といいながらも将はすでに、萩までどれぐらいの時間で到達できるか計算していた。

千葉-山口。ほぼ本州を横断する形になる。

1000キロ、いや1500キロを走りぬける。聡に逢うために。

決意した将は太陽を背にして、ハンドルを握りなおした。

第74話 それぞれの年末(2)

将とのこと、博史とのことを舌にのせようとしたとき、携帯が鳴った。メールの着信である。

初美に断って、メールを見る。将からだ。
 
=====
さっきは言い過ぎた。ごめん。将
=====
 
短い一言だったが、聡はかなり救われた。

聡の表情の変化は、初美にも伝わったらしい。

「好きな人から?」

「……うん」

聡は携帯を閉じながら微笑んだ。

「悩みは、解決したの?」

初美はいたずらっぽく微笑を返した。

「……少しだけね」

そう。事態が進展したわけではない。だけど、心はずいぶん晴れた。

聡は、自分の心のありようさえ決めてしまう将の存在の大きさを噛み締めていた。

 

 

「将、さっきから何、携帯ばっかいじくってんだよー」

ゲームをしていた大悟はとうとう将にツッこんだ。将はさっきから携帯を開いては閉じ、閉じては開いていた。

それを繰り返して……ようやく、聡に短い謝りの言葉を送信できたところだった。

「アキラセンセーだろー」

井口がゲームを交代しながら言った。

「先生ぇ?」

大悟が不思議そうな顔をする。

「こいつ、担任とデキてんだぜ」

井口が面白半分に大悟に告げ口する。

「ウッソ、マジ」

大悟は冗談だと思い込んでいる顔だ。

「マジ、マジ。でもまだキヨい仲らしいけど。コイツらしくないよなー」

という井口に対してやっと将は

「別にデキてないよ」

とゲームのリモコンを奪いながら答えた。照れてるという感じではなく、そっけない感じである。

「またまたぁ」

「なーんか、彼氏が結婚早めたいらしいぜ」

将はゲームに意識を飛ばしながら、抑揚もなく言い捨てた。

「ウソっ!……だって、アキラセンセ、ここに毎日通ってたじゃん」

「知らねえーよ」

将は答えながら画面に現れる敵をバカスカやっつける。

こんな風に、博史も消してしまえたら。聡は自分だけのものになるだろうか。

そんな将に、井口は、どんな言葉をかければいいかわからない。ただ、将の気持ちは……わかっている。わかっているだけに困った。

「いくつぐらいの先生だよ」

大悟の問いに対し、井口が代わりに答えてやることにする。

「さー?23ぐらい?けっこーかわいくて、足キレイで、しかも巨乳」

と少しでも明るい雰囲気にしようと茶化す。

「26だよ」

将はゲームに目をやったまま、井口の言葉を訂正した。

「えー!アキラセンセ、そんなになるんだ!みえねー!9も年上!」

騒ぐ井口に、大悟が

「まあ、将の年上好みは今に始まったことじゃないけどな」と含み笑いをした。

「え」

大悟を振り返ったおかげでゲーム中で将はやられてしまった。

「そんな……、ヒトのことを年増好きみたいに言うなよっ!」

思わず将はムキになる。年上だからという理由で聡を好きになったわけではない。

「でもさー、結構、将、年上に可愛がられるタイプじゃん」

将の中学生時代の女性関係を知っている大悟である。事実だから将は口答えできない。

実際、将は最初の女も含めて、年上に好かれ、また付き合ったと思う。もっとも、中学時代の将にとって、年下はほとんど『お子様』に思えたからなのだけど。

「ところでさ、昨日の髪の長い子も将の元カノ?」

大悟は井口を振り返った。

「ああ、瑞樹?」

井口の口からこぼれた名前に将の目が鋭くなる。

「何、瑞樹がどうかしたの」

「なんかさー、昨日お前がちょっと留守にしてるときに、たぶん瑞樹だと思うけどー、髪の長い女が来たんだってー」

「そうそう。目がこんなにでっかくてキレイな子。でもすっげー顔色がまっさおでさ」

井口の説明に、大悟が指を丸めて目をかたどりながら、補足をする。

「元カノなんかじゃねーよ」

将は吐き捨てるように言った。

瑞樹が聡にしようとした企み。将が邪魔したから成就することはなかったが、将はそれを決して許していない。

「そういや、瑞樹といえばさあ。お前がここを追い出してから、前原んちに入り浸ってたらしいけど、ホントかな」

将はそれを初めて聞いた。

「何それ」

井口に訊き返す。

「いや、まえにサ、前原が自分で言ってたんだけど、『瑞樹がうちにいる』って」

将は前原の、隈取をしたかのような目を思い出した。

瑞樹は、事情があって……母の再婚相手である義父に迫られているから……家に帰れないと言って将の家にずっと泊まっていた。

その瑞樹が将の家を追い出されて、こんどは前原の家に泊まっていた。『泊まる』というのは将にもしていたように、やることをやっていたのだろう。

その瑞樹が、自分の家に再び現れた、というのは。

なんだか将は嫌な予感がした。

 

 

 
12月31日。

将は井口、大悟らと一緒にクラブのカウントダウンイベントにいった。井口は大ノリで得意のダンスを披露していた。

「上手いなァ。プロみたい」

大悟は井口のダンスを見て、大音量の音楽に負けないよう、叫ぶように言った。

「ホントー!ねー!」

隣にいる今知り合ったばかりのギャル系女子が黄色い声で相槌を打つ。

「なんか、本気で習ってるらしいけど」

将はカシスソーダをあおりながら大悟にだけ聞こえるように教える。

実際、聡の企画した社会見学に刺激された井口は自己流のレッスン以外に、そのときプロに教えてもらったスタジオで本格的にレッスンを始めたのだ。

そのレッスン費用のためにバイトも始めるらしい。

「すごいね~!」

将の隣のギャルにも聞こえていたらしい。ギャルは将と大悟の会話に積極的に参加しようとしているらしい。

明るい感じの可愛いコだったが、正直なところ今の将にはウザかった。

もともとイベントにあまり気乗りのしない将は言葉も少なく、やはり隣にいるギャル系の質問にも

「ああ」とか「うーん」「そうそう」程度に適当に答えている。

そういってるうちに今年もあと30分以内に迫ったクラブは踊ろうにも体を揺らすのが精一杯なほど込み合ってきた。

将たちもフロアに出ることにした。

飛び交う鮮やかなライトに自然に体が動くほどに響く重低音。

しかし、将はふいに体をとめてしまいたいほどの思いにとらわれる。

――聡。

この年末、将の脳裏にはいつも聡がいた。

聡から掛かってきた電話で、ひどいことを言ってしまった。聡に見捨てられたくないのは自分のほうなのに。

しかし、どうしても電話をかけられなかった。かろうじて短いメールを送れたが、そんなものは自分の思いのすべてではない。

表面のフォローだけなのだ。そのフォローメールに聡からの返信はこれまた短いものだった。
 
=====
こっちこそ本当にごめんね。
年が明けたら直接話したい。
=====
 
何を直接話すんだろう。まさか最悪の内容ではないだろうが、と思いつつ将の心は不安になる。

聡を失うことが、今の将にとっては一番の恐怖である。

この東京を襲うかもしれない大地震よりも。無一文になることよりも。そして死よりも。

だからどんなに楽しいイベントも、ゲームも、美味しいものも、もはや将の心の穴を埋めることはできないのだ。

DJが腕を高く上げて、カウントダウンを始める中、将は祈るように聡のことを考えていた。

第73話 それぞれの年末(1)

電話を切ったとたん、将は我に返った。なんか腹立ちまぎれにひどいことを聡に言った気がする。

――すぐに掛けなおして謝らないと。

そう思ったが、なぜか指が動かない。

将は携帯を握り締めた手をあげたり、おろしたりして何分か迷った末、やっと聡に掛けなおした。

しかしその時にはすでに飛行機に搭乗してしまったのか、電波がつながらなかった……。

将は自分が取り返しのつかないことをしたのでは、と気が気でなかった。

 

 

高速バスのアナウンスがまもなく萩に到着することを告げた。

1年ぶりに帰る萩は曇り空だった。日本海側にある萩は、冬の間は曇っていることが多い。

聡はバスの窓の外に映る曇り空に吹きかけるようにため息をついた。

ほどなく、バスは東萩駅前に着いた。

父か母が車で迎えに来るはずだが、まだ着てないらしい。

聡は携帯を手にする。習慣的に発信履歴をあけてしまう。一番上には鷹枝将の名前。

それを見て、またため息をついた聡に、寄ってくる若い女がいた。

「聡、聡じゃない?」

聞き覚えのある声に聡が振り返ると、そこには高校時代の同級生だった初美がいた。

「……初美?」

「久しぶり~!」

初美は人懐こい笑顔を浮かべて寄ってきた。

「ちょっと、ちょっと、聡、すっごく女っぽくなっちょらん?」

「えー、そんなことないよー。ところで初美、なんでここにいんの? 東京で就職したんじゃなかったっけ?やっぱり里帰り?」

初美はにっこりと笑った。

「ま、いろいろ。ね、お茶しない?」

お茶といっても、萩にはスタバなどのカフェはない。

二人は萩で一番賑やかなあたりにある昔ながらの『喫茶店』に入った。聡が高校生ぐらいまで、ゲーム機械がテーブルがわりだったように記憶しているが、さすがに今はない。

しかし、ひさしぶりに来てみると、わりとコーヒーは美味しいように思った。

さっそく同級生の近況に花が咲く。

「美佐はあいかわらずでねー。もう3人の子持ちだよ」

美佐というのは、例の、卒業してすぐに国語教師と結婚した元同級生だ。

この初美と聡は高校の間ずっと同じクラスで仲がよかったにも関わらず、こんなふうにおしゃべりするのは本当にひさしぶりだ。

初美のほうはセミロングだった髪をショートにしたぐらいで、茶色っぽい地毛に小麦色の肌、切れ長の目、と顔立ちもほとんど変わっていない。

たしか、地元国立のY大に進学して、成人式の年に一度会ったが、それきりだ。

「でもさー、本当に聡、別人みたいに女っぽくなったねー。さては結婚相手でもできた?」

結婚相手、という言葉にすこし心がきしむ。

「そんなことないよ。ところで初美は駅で何してたのよ」

「ああ、東京から来たお客さんを見送りにいっちょった。私、実は半年前からここに戻って修行してるんよー」

「修行って、何の?」

「萩焼、というか萩ガラスというか」

と嬉しそうに笑顔を浮かべながら、自分がしていたペンダントをはずして見せてくれた。

そのペンダントトップは小さなクッキーのような陶器に、細かいひびが入った白っぽい水色のガラス釉がかかっている。

昔カナダで見た氷河のような、冷ややかな水色に入ったひびが、光を反射させてオパールのように輝き、なんとも美しい。

「きれい……」

手に取った聡は目をみはった。ガラスでも陶器でもない、こんなのを見るのは初めてだった。

「萩焼に萩ガラスの技法をあわせたものなんだけど、私が弟子入りしている先生が考えたものなんよー」

初美は会社を辞めてそのアクセサリー作家のもとに弟子入りし、学んでいるのだという。

「で、このペンダントトップは私がはじめて成功させたものなん」

「すごいね、初美、すごい」

聡はそのペンダントトップにしばらく見とれた。

「萩に戻ったと言えば……、秋月くんも戻ってるよ」

「え」

聡はひさしぶりに聞く懐かしい名前に思わず手にしていたペンダントトップを取り落としそうになった。

脳裏に、優しい目と、柔らかい声、懐かしいガクラン姿が浮かぶ。

「秋月くん、1年前に結婚して帰ってきて旅館を継いだんよ」

――結婚、したんだ。

聡は飲み干したコーヒーのかわりに水を飲んだ。心をなだめるように。

「彼も、2日の同窓会来るって。きっと彼びっくりするよ、聡を見て。もちろん聡もくるっちゃろー?」

「うん。行く」

心に一瞬たったさざなみ。秋月くんが、萩にいる。また会える。高校生のときに好きだった、というより憧れていたひと。

だけど結局結ばれることもなく、何年も前に封印された思い。聡はホコリを被った箱の中から、読みかけの本を見つけたような気がした。

「それは、そうと、東くんはどうしてるか聡知ってる?」

「うわ、その名前もめっちゃ懐かしい」

聡は、秋月のときとは対照的に、手を髪にやって笑った。こっちは聡が高校生のときに付き合っていた相手である。

「ていうか、付き合ってた相手やろーが」

初美は笑いながら目をむいた。

「知らん。大学入って自然消滅したもん」

現役で東京の大学に進学した聡は、浪人したという東のその後をまるで知らない。

聡は16才で彼と初体験をしている。そんな相手なのに、消息を知ろうとも思わなかった。

秋月に淡い思いを抱いていた聡だったが、東が聡に告白し、なかば強引に交際が始まったのだ。

真面目なサッカー少年だった秋月も下級生に人気があったが、コピーバンドのベースをやってた東は萩じゅうの女子高校生が知っている、というほどの有名人だった。

ちょっと危ない感じの強い視線は、少し寂しい色が混じっていて、告白された聡はその瞳にやられてしまった。

まもなく、聡は同意の上で、東と寝たのだが、そういう関係になっても、秋月に対する淡い思いは忘れがたかった。

それにしても。

東の、あの瞳は……誰かと似ている。聡はなんだかデジャヴを覚えてハッとする。東のあの瞳は、将のそれとそっくりなのだ。

相手のペースに飲まれていく、そしてそのかわりに大事な人を失うあの感じ……。

今のシチュエーションは逆だ。役者を変えて、また同じことが繰り返されるのだろうか。

――将。

聡の脳裏が将の画像でいっぱいになる。

『もういい』と電話は切られてしまった。

いっぱいになった将の記憶に押し出されたように涙がこぼれ落ちた。

「聡?どうしたん?東となんかあったん?」

初美は、話の流れ上、聡が高校時代に付き合っていた東のことを思い出して涙をこぼしたと思ったらしい。

「あ……ちがう。東のことじゃない」

聡はテーブルの上にある、吸水性の悪い紙ナフキンを手に取ると涙をぬぐって、初美を安心させるために笑顔を見せた。

「何、あたしでよかったら、聞くよ」

心から心配そうな顔だ。まるで変わっていない。

高校時代も、いろいろ悩みを打ち明けあって、一緒に泣いたりしたものだ。

こんな昔からの友人だったら、しかも東京から遠く離れている友人だったら、いっそ胸のうちを話してしまってもいいかもしれない。

「私、今年の秋から教師をしているんだけど……」

第72話 いらだち

将が目を覚ましたのは夜更けだった。もう井口も大悟も寝静まっている。

フトンをしいた覚えはないのに、きちんとフトンがひいてあるのは勝手を知っている井口がやったのだろう。

飲みすぎたせいか、やたら喉が渇いて唾がねとつく。将は暗闇の中、キッチンへと歩いていって冷蔵庫をあけるとミネラルウォーターをがぶ飲みした。

暖房と加湿器と井口のいびきが規則的な音を立てる中、ソファで点滅するものがあった。

将の携帯だ。

寝ている間にメールの着信があったらしい。開けると聡だった。
 
=====

12/27土23:02

電話もしたんだけど、出れないみたいなので、メールしました。

明日28日から萩に帰省します。

東京へは4日の夜帰る予定です。また電話します。聡

=====
 
将は、携帯の画面をあけて右手にもったままフトンに転がった。

――わけわかんねーよ。アキラ。人には電話するな、といっといて、自分は電話するって?

結婚しないと決めた男といつまでもズルズル一緒にいるのも、将には理解できなかった。

――単に、早くきっぱりと別れればいいだけなのに、何をぐずぐずしているんだ。

将は優柔不断な聡に腹が立ってきた。だからといって嫌いにはなれない。

だいたい、なかなか逢えないからいけないんだ。

寝付けない将はごろごろと寝返りを打った。

あることを思いついて、ガバ、と起きた。

――いっそ、萩まで行こうか。ミニで。

行ける。

が、イビキで計画は崩れる。

――こいつらをここに二人っきりにさせるわけにもいかねえだろうし。

一緒に連れて行く?いやミニの狭い車内にでっかい男3人乗って1000キロ以上の旅は酷だ。

将はまた横になって寝返りを打った。眠れないと思ったが、いつのまにか意識がなくなっていた。次に気付いたときは陽が高くのぼっていた。

時計を見る。10時すぎ。

ぼーっと起き上がると、大悟だけ起きて、お湯を沸かしていた。井口はあいかわらずイビキをかいて寝ている。

「おはよー。コーヒー淹れるよ」

「ん、ああ」

将は起き上がると伸びをした。そのとたん腹から鈍い音がした。そういえば昨日、早い段階で酔いつぶれて以来、何も口にしていない。

「俺さ、メシ買ってくるよ」

将は部屋を出ると、商店街を歩き、弁当屋をめざした。

天気は上々で、陽射しのあるところを歩けば寒さはそれほどでもなかった。

「ちわー!」

まだ開店したばかりで、カウンターから引っ込んで仕込みの手伝いをしていたおかみさんを呼び出す。

「あら!山田さん!」

おかみさんは笑顔ではなく驚いた顔ですっとんできた。

「ちょっと、ちょっと!」

菜箸を持ったまま、将をカウンターの隅に呼ぶ。

「アンタとアキラちゃんどうなってんの?別れたの?」
「え?」

「いや、昨日ね、アキラちゃんが男の人と一緒に店に来てね……それがずっと付き合ってて結婚するって……。だからあたしも主人もびっくりして。アキラちゃんは山田さんと付き合ってると思ってたから」

「……はァ」

何と答えていいかわからない将は、どんどん力が抜けていくのを感じた。

「自分も、わかんないスよ」

あいまいに笑うしかない将をみておかみさんは、とりあえず将の気持ちだけは察したらしい。

「あんた、アキラちゃんが好きならしっかりしなよ!」

それに相槌を打つように奥から主人が将を強く睨みつけた。

 

 

聡は博史に送られて空港にやってきた。

いちおう遠慮はしたのだが、どうしても、というので乗せてもらったのである。

日曜日の今日は、早くも帰省ラッシュが始まっていたようで道路は若干混んでいた。そのせいか空港に着いたときはそれほど余裕はなかった。

聡は手早くチェックインすると、名残惜しそうな博史に別れを告げて搭乗口へと向かった。

まだ、搭乗が始まるまで、少しだけだが時間がありそうだ。搭乗ラウンジに腰掛けると、将に電話を掛ける。

 

 

ちょうど将は出来上がった弁当3つを持ってマンションのエントランスに着いたところで携帯が鳴った。

『アキラ』との表示。

「もしもし」
「将?あたし。今空港なの」

「……ふーん」
「4日に帰るから」

「……メールに書いてたよね」

本当は飛び上がるほど嬉しいはずの聡からの電話。おまけに『鷹枝くん』でなく『将』と呼ばれている。なのに、なんでこんなにノリが悪くてむしろ意地悪な答えしかできないんだろう。

「もしかして、寝起きだった?」

そのノリの悪さは聡にも伝わったらしい。気を遣ってくる。

「ううん。寝起きじゃないよ」
「そう……?」

あきらかに不機嫌な将の声に、聡は沈黙してしまう。でも聡は電話を切りたくなかった。

将だって同じだ。だけどこのまま徒に沈黙のまま電波を共有するのにも限界がある。

「アキラさあ」

将は思い切って声にした。

「結婚しないって言ったよね。なのにさ、なんでアイツとずるずる付きあってんの」

気をつけたつもりなのに、かなり腹立ちが声に出てしまった。携帯の向こうで聡が息を飲むのが聞こえる。

「俺、アキラのことが好きだ」

言い訳のように付け加える。セリフに似合わない口調。日本語がわからない人が聞いたら、なにか苦情を申し立てているように聞こえるだろう。

「好きだけど、そういうの理解できないよ。さっさと別れないのは、俺がたよりないから?」
「将……」

聡は何も言えない。博史より将のほうが好きだということが、はっきりとわかってまだ4日だ。

だけど、この4日間、博史のペースに乗せられて、博史の両親に会ってしまった。その両親からことのほか優しくされた……そしてますます別れを言い出しにくくなってしまった。

おまけに博史の母は余命1年だ……。

こんなことを将に説明したところで、どうにもならないだろう。

いずれ聡が決断し、行動しなくては……皆を傷つけなくてはならないのだ。

「将。ごめん。……私、まだ勇気がないの」

優しい人を傷つけてまで将を選ぶ勇気が。

「なんだよ、それ」

それは将には、自分が若すぎて、たよりないから、付き合う勇気が持てないというように聞こえた。

「ようするに、俺じゃダメなんだろ」

「違う。将、聞いて」

「もういいよ。じゃよいお年を」

電話が一方的に切られたのとほぼ同時に、搭乗案内のアナウンスが響いた。

電話を握り締めたまま聡の意識は空港の喧騒の中に蒸発していった。

第71話 たくらみ(2)

将が聡から受け取ったメールはあきらかに変だった。

その前の電話の最後に『また掛けるから』と言っていたのと、あまりにも矛盾している。

だからその言葉どおりを信じるわけにはいかなかった。

そうかといって、ウソだという確証は持てない。

大悟と二人、遅い昼食のカップ麺を食べていた将はいてもたってもいられなくなった。

とうとう立ち上がると

「ちょっと、俺、出かけてくるから」

と家を飛び出した。

 

 

博史がいたおかげで、聡の部屋の掃除ははかどった。午後3時には例年以上に隅々までキレイになった部屋で、博史と二人コーヒーを飲んでいた。

すっかり博史のもののようになってしまったマグカップを見ながら、聡は携帯を気にしていた。

将の連絡があれば、と思ったのだが、携帯はうんともすんとも言わない。

さっきちょっと出かけたときに持っていって……将に連絡すればよかった。

博史はコーヒーを飲みながら、昨日の忘年会のこと、また聡の学校のことを聞いてくる。

聡も辞めたくない、と言った以上、学校や教育に対して熱心なところを話さなくてはならない。

無難に自分がやっているオリジナルの授業のことを話した。

博史はそれを興味深げに聞くそぶりを見せながら、実はそんなことが聞きたいのではない。

あの鷹枝将と聡の関係を、聡の話から窺いたかった。

しかし聡の唇から一度も将の名前は出なかった……そのことは、聡が将のことを意識していることをかえって博史に連想させた。

 

 

将が運転するミニのフロントガラスに聡のコーポが見えてきた、ちょうどそのとき。

階段の一番下に博史の姿が見えた。あとに続いて聡。

二人ともクリスマスのときよりカジュアルな格好で、それは仲良さそうに見えた。

博史は笑顔で聡を促して……背中に手を置いて……将とは反対の方向へと歩いていった。

二人の姿が角を曲がって見えなくなったとき、将は自分が息をとめていたことに気付いた。

一度つかんだ命綱が、再びちぎれて、将は谷底へ突き落とされるような錯覚に陥った。

 

 

気乗りがしなかったが、『親が楽しみにしているんだ』という博史のたっての願いで聡は再び博史のマンションへやってきた。

聡は極上のしゃぶしゃぶで再び歓待を受けることになった。それだけでなく、食後には美味しいケーキも用意されていた。

先日聡が『美味しい』といったのをちゃんと覚えていてくれたのだ。

博史の両親に優しくされればされるほど、聡は申し訳なくて、言葉が少なくなった。

いっそ博史を好きなままだったら、どれほど幸せだったろう。

聡は、博史の両親から『これ、ご両親に差し上げて。つまらないものだけど』と帰省用のお土産までもらってマンションをあとにした。

もちろん博史が送って、である。

「アキは、いつまで萩にいるんだっけ」

運転しながら博史は聡に訊いた。

「4日まで。冬休みは7日までだけど職員は5日が仕事始めなの。博史さんはいつまで日本に?」

「5日の朝早くには、いったんカタールへ発つよ」
「あ、そう」

聡は淡々と返事をしつつ、それだったらもう博史と寝なくてもいいと計算し、ホッとしていた。

去年といえば、聡は31日まで弁当屋の手伝いを口実に東京に残り、3日の夜には戻ってきていた。

……博史と少しでも長く一緒にいたかったからである。

もちろん逢えなかった分を取り返すように、毎晩抱き合った。

去年と今年の自分の気持ちのあまりの変わりように聡は少し怖くなった。

「そういえば11日から修学旅行って言ってたね。どこ?スキー?」

「うん。北海道でスキーなの」

「ふうん。教師も滑れるんだ?」

聡は小学生のときに親が日本人学校の先生をしていた都合で、カナダにいたこともあり、ウィンタースポーツ全般が得意である。

アメリカ留学時代、二人でではないが、博史とスキーにいったこともある。

「さあ。自由時間は滑っていいとは言われたけど。ところでカタールからはいつ帰るの?」

聡は別れを切り出すならいつがいいのか、考えている。

「2月までには帰りたいね。遅くとも4月に式を挙げたいことを考えると」

『式』と聞いて聡は一瞬だまりこんだ。

「……次の赴任先へはいつからの予定なの?」

「辞令が出るのは3月で、4月から書面上は赴任になるんだけど、たぶん最初は出張対応かな。赴任するのはGWあけじゃない?だから新婚旅行はGWに行けばいいよ」

「博史さん。あたし……」

「わかってる。学校は辞められないんだろ。それについてはもう少し二人で考えようよ。俺は、聡が仕事を続けたいってのは尊重したいんだ」

博史は自分がそらぞらしいことを言っていると自覚している。

博史の母親は専業主婦である。そして博史自身、妻子を養えるだけの収入がある代わりに、とても忙しい。

聡には博史の『妻』業に専念してほしいと、漠然と望むというかそれが当然だと思っていた。

そのとき聡の携帯が鳴った。ハンドルを握る博史の目が鋭くなる。

遠慮しながら表示を見ると『弁当屋』とあった。

安心して博史に「元バイト先から」と博史に告げて、出る。博史の目が和らいて再び前を向いた。

「ああ、アキラちゃん。元気だった?」

懐かしいおかみさんの声がした。

「おかみさん」

「アンタ、いつ萩に帰るの? いやね、いつもうちの黒豆を持って帰ってたでしょ。今年も持っていくのかなと思って用意してるのよ」

――そうだった。

一度持ち帰った弁当屋の黒豆は実家で大好評を博し、以来、毎年持って帰っているのである。

「明日、帰るんですけど……。もしよかったら、今から取りにいってもいいですか?……ハイ、いつもすいません」

聡は電話を切ると、事情を博史に話し、弁当屋に寄ってもらうことにした。

 

「おかみさん、よかったぁ、連絡してくれて」

「アキラちゃん、よかったよ、間に合って。ほらコレ」

おかみさんは白いビニール袋に入ったタッパーを聡に渡しながら、聡の後ろに立つ男に気付いて

「そちらは……?」と聡に訊いた。

「あ……」

言いよどむ聡に代わって博史自ら

「原田博史と申します。聡さんとずっとお付き合いしてまして、このたび結婚することになりました」

と名乗った。

「……へえ」

おかみさんは、驚いて目を丸くした。奥で、ご主人もこちらを振り返った。この二人は、聡は山田、つまり将とうまくいってると思い込んでいるのである。

聡は困惑して、でも否定するわけにもいかず、あいまいに笑うしかなかった。

「そう、それはおめでたいねえ」

聡の困惑した顔と博史の顔を見比べていたおかみさんは、とりあえず無難な祝い言葉と笑い声を口にした。

「お代は?」

博史は財布を出した。

「ああ、いいんだよ。これはアキラちゃんちへのお歳暮がわりで」

おかみさんは両手を胸のところで振った。

「ですけど」

博史は万札を出した。

「いいんだって」

「博史さん、いいんだってば。いつも頂いてるんだから」

「聡がお世話になったお礼です」

押し問答の上、博史は強引に万札をおかみさんに受け取らせた。

聡はおかみさんに申し訳なかった。

 

 

 
「大悟じゃーん!」

その夜。将の部屋を訪れた井口は、玄関に出てきた大悟を見て嬉しそうな声をあげた。

「井口クン!ひさしぶり!すっげーピアスだな」

大悟は井口の顔中のピアスを指差すと笑顔を浮かべた。

「いつこっち来たの? ん?将」

将はリビングでぐったりと潰れて寝ている。

「なんか、今日昼出てって、帰ってくるなり、大酒のんじゃってー。こんなんなった」
「おい、将ってば」

井口は将の体を揺さぶった。

「う~……揺さぶるな。気持ち悪」

将は赤い顔に眉根を寄せてつぶやく。

「将のやつ、こないだから変なんだ」

そういう井口は25日に酒を飲んでヤンキー相手に大暴れしたときから一緒で、失踪から戻って以来の将の荒れ方を心配していた。

「ずっと、居んの?」

井口は大悟に訊いた。

「うん。正月中はいるつもり」

「いいなぁ。俺もここに居ようかなあ」

そう言いながら井口はタバコに火を付けた。

「ところで、井口さあ、将の女って知ってる?」

大悟が唐突に質問したので、井口はタバコを取り落としそうになった。

「え?アキラセンセのこと?……てか、なんで?」

「いや、今日の昼な……」

 

 
将の留守中。

いきなり玄関チャイムが鳴った。大悟は、出ていいものか迷ったが宅急便だったりするといけない、と思いつき

『ハイ』

と玄関ドアを開けた。

そこには髪の長い少女が立っていた。

制服姿だったが、青ざめて見えるほどの顔色の悪さが大悟の印象に残った。

少女は出てきた大悟を見て、ただでさえ大きな目を真ん丸くしていた。

『……将は?』
『いま留守、ですけど』

大悟はいちおう丁寧語を使った。

『そう』

少女は失望したようにいっとき目を中空に遊ばせると、大悟に挨拶もせずにそのままエレベーターに向かった……。

井口はその話を聞いただけで、その少女が瑞樹だとわかったが、何で今ごろ彼女がここに現れたのかよくわからなかった。

第70話 たくらみ(1)

――ピンポーン

玄関のチャイムが鳴ったとき、聡はまだベッドの中だった。

昨日の荒江高校の教師たちによる忘年会だが、結局、聡は最後までつきあってしまった。

あれからもカラオケボックスで飲んで歌って大騒ぎ。

アニメソングメドレーのあとは出鱈目な英語で歌う懐かしのディスコやロックナンバーになり、皆ボックスの座席も狭しと踊り始めた。

鬱憤を晴らすように、教師たちは笑い踊った。日頃、いかめしい顔で生徒を監視している姿とは別人のようだった。

聡もボーっと座っているのを許されず、アースウィンド&ファイアの『セプテンバー』に続いて、アバの『セブンティーン』など70年代のナンバーを次々と歌わされてすっかりお抱え歌手状態。

やけくそ気味にディープパープルに続いて今やこれも懐かしい『深紫伝説』をシャウトしてようやくチェンジさせてもらったが、すっかり枯れた喉は、懐メロの『ボヘミアン』でも歌えそうだった。

面白かったが、すっかり疲れた聡は、ようやく訪れた教師の冬休みに寝坊を決め込んでいたのだ。

――ピンポーン

チャイムはもう1回鳴った。

「ん……、将?」

聡は起き上がると大きく伸びをした。寝起きでうまく働かない頭は、訪問者を将だと決め付けていた。

「ハーイ。ちょっと待って」

玄関にむかって叫ぶ。やっぱり声がかすれている。パジャマにしていたスウェットの上にカーディガンを羽織って、乱れた髪を2つに結びなおす。

玄関へ小走りに向かい、扉を開けるとそこにいたのは……博史だった。聡は失望を隠して、

「どうしたの?」

と博史に問い掛けた。

「大掃除するっていってたから。親が『手伝いにいけ』っていうから、来たんだよ。まだ寝てたの?すごいハスキーヴォイス」

博史はそういいながらも、部屋の中に入ってくる。

「うん……、昨日遅くまでカラオケだったから」

「もう11時すぎだぜ。……本当に寝起きなんだー」

博史はベッドを見て言った。いちおうフトンはかぶせてある。

「コーヒー淹れるね」

といってキッチンに立とうとした聡の後姿に、博史は抱きついてきた。

スウェットの裾から侵入した博史の手は、聡の肌に触れた。

「イヤ……、ちょっとやめて、朝から」

博史は荒い息は聡の首筋にある。

聡のハスキーな制止は博史をますます昂ぶらせたらしく、博史は聡を後ろから羽交い絞めにしたままじりじりとベッドに移動した。

「聡、少しだけ……」

そういいながら、博史はついに聡をベッドに押し倒すと、深く口づけをしながら、スウェットをずりあげて聡の胸を剥き出しにした。

「ダメ。ダメだってばー……」

ようやく唇が離れて口がきけるようになった聡だが、博史は唇をその胸の先端に這わせはじめた。

「ちょっと本当にダメ。……今生理」

博史は顔をあげた。そのすきに聡は身を起こして剥き出しになった自分の胸の上にスウェットを被せた。

「何、はじまったの?」

博史も体を起こすと乱れた髪をかきあげながら聡に訊いた。

「うん。急に。働きはじめてから不順になったみたい」

……よく、いけしゃーしゃーとウソをつける、と聡は自分にあきれる。まあ、生理なのは本当なのだが。

「じゃあ仕方ないね」

博史は素直に諦めると、聡の頬に軽くキスをした。

聡は罪悪感から目をあわせることができなかった。

 

それからコーヒーを飲んで、掃除を始めた。

といっても狭い部屋、特に時間がかかるわけでもないが、男手があるとそれなりに仕事は増える。

もうとうに結婚する気が失せている男。その男に掃除を手伝わせてしまっている。手を止めるとそんな罪悪感がふつふつと心に湧いてくる。

それに抗うように、聡はホコリはたきに専念した。

ふと、飾り棚の上にある、将からのよれよれのバースデイカードに目が行った。

――ヤバ。

『宇宙一愛する聡』とか『昨日のようにKISSしたい』とか。

こんな文言が書かれたカードが博史の目に触れたら大変だ。聡はこっそりとカードを化粧道具の奥深くにしまいこんだ。

――将は、どうしているかな。

すぐに着信がわかるように、テーブルの上に置いた携帯だが、着信はないようだ。

「聡、油汚れの洗剤ある?マジックリンとか」

「あ、しまった。ないわー」

電気の笠や換気扇、網戸なんて、聡は引っ越して初めて掃除する気がする。一人だからそれほど汚れないというのもあるが。当然、それに応じた洗剤もないのだ。

「あたし、買ってくる」

「ああ、俺もいくよ」

「ううん、コンビニすぐ近くだから。ついでにお昼も買ってくる。博史さんはちょっと休んでて」

聡は朝食を抜いて、ひどくお腹がすいていたのだ。

それと、狭い部屋で、博史と二人という状態に――もう押し倒されないとは思うけれど――とても緊張していた。

そこから一息つきたかった、というのもある。ジーンズの上からジャケットをひっかけると、聡は外に飛び出した。

 

聡が出て行って、博史は、あらためて部屋を見回した。

飾り棚のほうへ近寄る……クリスマスイブの日にあったカードを確かめようとして、だが、それはすでに片付けられたのか、もうなかった。

博史は、他に将の痕跡を探すべく、聡の部屋のあちこちを開けた。

婚約者のいない間に、こそこそと、その浮気の証拠を探す。そんな自分がいじましいと思ったが、疑惑に抗うことも出来ず、博史は探し続けた。

しかし、ちょっと開けただけでは、何も出てこなかった。

――見つけてどうするのか。

博史は心で自嘲した。聡を責めるのか。それとも別れないでくれと懇願するのか。

そのとき。テーブルの上に置きっぱなしにしてある聡の携帯が鳴った。

『鷹枝将』

と表示されている。博史は動揺した。

無視しようかと、いったんはそっぽを向いたが、吸い寄せられるように手にとってしまった。

そしてもう一度玄関に目をやる。

聡が戻ってくる気配はないのを確認して受話ボタンを押し、耳に携帯を押し当てる。

「アキラ-?俺。今何してんのー?」
「……」

「アキラ?もしもーし、アキラー?聞こえてるー?……」

博史は電話をプチ、と音を立てんばかりに切った。

その若い男は親しげに聡を呼び捨てにしていた。それに自分を『俺』と名乗った。

……つまり、何度もこうやって電話をかけてきているということだ。

博史は将へとわきあがってくる憎しみを冷静に押さえると、今の着信履歴を削除した。

そして、立ち上がると窓辺を見て、聡がまだ帰ってこないのを確認して、メールボタンを押した。

受信フォルダから将のメールはすぐに見つかった。

内容は今はさほど問題じゃない。そのメールに返信ボタンを押し、
 
======
もう電話しないで。さようなら。聡
=====
 
と手早く打つ。

送信ボタンを押したとき、博史の心臓はここ数年で経験していないほど、早く打っていた。

しかし、鼓動を押さえながら冷静に、今度は今のメールの送信履歴を消す。

そこまで終わって、ようやく博史は脱力して座り込むと聡のベッドによりかかった。

そして腕を伸ばして、テーブルの上に、元通りに携帯を置いたちょうどそのとき、玄関があいて聡が現れた。

脱力していた博史は、飛び上がらんばかりに玄関に振り向いた。

「ただいまー。……あら、テレビも付けなかったのー?」

「あ、ああ」

博史は、そんなしどろもどろの自分が、心底情けないと思った。

第69話 将、13歳(2)

『俺、大悟ってんだ。○○中1年。お前は?』

『将、将っていうんだ……。△△中1年』

大悟は将を連れて、深夜もあいてる大型書店に入った。

コミックのコーナーでは何冊か、お勧めコミックの1巻が立ち読みできるようになっている。

『ここで立ち読みしてて。俺のほうは絶対見るなよ』

その1冊を将に立ち読みさせると、大悟は素早く他の棚を物色しはじめた。

大悟は、悪びれもせずに、コミックの数冊をリュックの中に入れた。

気付いた店員がそっちを見るのがわかる。将は立ち読みをしながらヒヤヒヤした。

……しかし、大悟は、レジに行くとリュックからコミックを出してお金を払っていた。

そしてそれが終わると将のところへ来て、

『行くぞ』

と囁きながら将の腿のところに平積みになってるコミックを1冊素早く盗った。

これは店員は気付かなかったらしい。

将は冷や汗が出る思いだった……万引きの現場を見たのは初めてだった。

さらに、大悟はいったんトイレで戦利品のフィルムとスリップを取り外すと、その足で今度はブック〇フへ向かった。

そこで将は、大悟が盗ったのが1冊ではないことに気付いた。さっきリュックに入れたコミックのうち、お金を払ったのはほんの一部で、半分はそのまま持って来ていたのだ。

コミック5冊は新品だったので1000円以上になった。

『やった、メシ代』

ブックオフを出た大悟は将の顔を見てニヤっと笑った。

その夜、将は大悟のアパートに泊めてもらうことになった。

『誰も来ねえから。安心しろよ』

大悟の住んでいるというアパートは、アパート同士、離れてる意味がなさそうなくらい建て込んでいた。翌朝将は、そこの日当たりが最低なことを知るのだが、将がそこに到着したときはまだ夜だった。

大悟は先にベニヤ製のきしむドアを開けると、蛍光灯を付けた。

いやにチカチカと点滅する白い安っぽい光に照らされて、そこは古くて汚いアパートだということが分かった。汚い砂壁のあちこちは砂が剥げ、ひびが入っている。

『痛え!』

裸足だった将は足裏に何かが刺さって足の裏を覗き込んだ。トゲが足の裏にぶっすりと刺さっていた。

『気をつけろよ。畳がときどき刺さるんだ』

大悟はマキロンを投げながら言った。トゲが刺さる畳なんて将は初めてだった。

『やる?』

大悟はショッポを差し出した。将がうなづくと大悟は器用に一本を飛び出させた。

将が不器用に一本を指に挟むと、大悟はそれにライターで火をつけてくれた。

タバコは隠れて何度もやっているが、大悟のいかにも物慣れた動作の前で、将は少し緊張しながら煙を吐いた。

『さっきはありがとうな』

大悟は言った。将はきょとんとした。助けたのはそっちのほうじゃ……。

『お前がタテになってくれたから、俺のほうは疑われないで済んだ。いいよ、その金髪』

大悟はもう一度ニヤッとした。

――ああ、そういうこと?

将は納得した。将の目立つ金髪に気を取られて店員は大悟の万引きをずいぶん見逃してしまったということだ。

『一人暮らし?』

将は大悟に聞いた。大悟は煙を吐いて目を細めながら首を振った。

『オヤジと二人暮し。でもオヤジはめったに帰ってこねえし』
『そっか』

『将、お前は?』
『……』

いいいどむ将に、大悟はあまり深く訊かなかった。ドーナツショップからけっぱってきたであろう灰皿にタバコを揉み潰すと、

『好きなだけここにいればいいや』

とフトンを敷き始めた。

バカオヤジのだけど、いい?と言われたフトンは、思い切りセンベイで、酸っぱいようなカビの臭いとヤニの混ざったようなニオイがひどかった。

おまけに風の通らないアパートの夏の夜は暑くて、将はなかなか寝付けなかった。

 

  
夏休みに入った将は大悟からいろいろなことを教わった。

見つからずに、かつ疑われずに万引きする方法。

普通の薬や小麦粉を『ドラッグ』だといって女の子たちに売りつける方法。

将は、小学生の女の子が夜遊びや援助交際をしているのに最初とても驚いた。が、そんな女の子たちが将たちの顧客だった。

偽の薬で『ラリッた』などとフラフラする女の子を見て、将は可笑しかった。

それは主に遊び代もそうだったが、食うための熾烈な戦いだった。

さらに、自転車の鍵を壊す方法。盗んだ自転車は登録を剥がして、闇業者に売って金にする。

応用編で原付を鍵なしでエンジンをかけるにはどうしたらいいか。また、その運転方法。

将はすぐに原付のリミッターを切って突っ走る快感を知った。どんなに暑い夜も、ノーヘルでぶっ飛ばせば気持ちいい。

大悟を後ろに乗せて金髪をなびかせて盗んだ原付をぶっ飛ばす。笑いながらすべてが後ろにふっとんでいく。

そのとき将も大悟も世界を手にしたような錯覚に酔った。

 

 

   
夏休みの間、大悟の父はまったく帰ってこなかった。ということは、家に金も入れない。

この家の家賃をどうしているのか、という疑問すらまだ中1の将は気付かなかった。

それはそうと、大悟は自分の食い扶持のほとんどは自分で稼がなくてはならなかったのだ。

大悟の父が、借金取りに追われている、というのを知るのはその直後だった。

『将、今日は車を狙おうぜ』

マックで一番安いハンバーガーを食べながら、大悟が言った。その前に、新しい服がほしい、と言っていた。

将も明らかに校則違反の長さに伸びた髪の長さはいいとして、根元が黒くなってきたのが気になり始めていた。

家に帰って、自分名義の通帳を盗んでこようかと思っていた矢先だった。

『え、車を盗むの?』

将はマックシェイクのストローから口を離して言った。

『バカ、車が盗めるわけねーじゃん』

大悟はギャハハとウケた。

その夜。大悟と将はある屋外駐車場に来ていた。

鉄パイプを途中、工事現場からGETしている。そしてなぜか将にバスタオルを持たせている。

『ここは、監視カメラがないんだ。奇跡的だぜ』

大悟は、静かに並ぶ車を見て、声をひそめて囁いた。

大悟は常日頃から、ハンザイは準備がカンヨウだと言っている。カンヨウ、なんて言葉を使うなんて、意外とこいつ、国語できんだ?と将は思う。

『なるだけ目立たないように、車の中を覗くんだ。CDが置いてあったら頂くんだ。カーナビがあったらラッキー』

『頂くって、どうやって』

『これで窓を叩き割るんだよ』

大悟は鉄パイプをかざした。将はそのあまりに大胆な手口に口をあんぐりあけた。

『これは何に使うんだよ』

将はバスタオルを広げた。

『まあ見てろよ。おっ、あったぜ。カーナビ♪ しかもCDもいっぱい出しっぱ』

大悟は、将にいって、窓にそってタオルを広げさせた。そして鉄パイプを振り上げると、タオルの上から窓ガラスにヒットさせる。

鈍い音がして、窓ガラスがバラバラに割れた。

『バスタオル使うと、音が小さくなるでしょ。まわり見とけよ』

大悟は割れた窓に手をつっこんでロックを解除すると車のドアをらくらくとあけた。

そして、ケースに入ったCDを将にまず渡すと、自分はカーナビを取り外し始めた。

カーナビはあっさり外れたが、大悟はダッシュボードを開けてまだ何かを探している。将は、時間が経過するとともにひやひやしてきた。

『大悟、もういいだろ、何探してるんだよ』

『ナビのマニュアル。マニュアルがあると値段があがるんだ。あった』

マニュアルはダッシュボードではなくて、ドアのポケットにあった。

『やべえ、人が来そうだぜ』

将は大悟に囁いた。大悟はナビとマニュアルを手早くリュックに入れると、正面入り口はヤバイと思ったのか将をうながして駐車場の金網を乗り越えた。

 

   
CD20枚以上とカーナビは結構なお金になった。

それから、その日偶然にも大悟の父から2万が現金書留で送られてきた。

おかげで将は根元を染めるための毛染め、大悟は新しい服を買うことができてなお、金は余った。

『これで、今日は焼肉にでも行こうぜ』

などと二人、民生委員に持ってきてもらった扇風機にあたりながら、にこにこと話していたときだ。

廊下に響く靴音に敏感に大悟は振り返った。何枚かある万札の1枚を手早く折り始める。

『なんだ?』

将はそんな大悟の行動が分からなかった。

が、まもなくドンドンドン、とベニヤのドアが乱暴に叩かれて

『島さーん!』
『島ァ、いるんだろ!』

とどなり声が聞こえた。

大悟は折りたたんだ万札の1枚を、畳と壁の間の隙間にねじこむ。

その上から読み古した漫画雑誌を隠すように置いたとき、ベニヤのドアが蹴破られた。

趣味の悪いスーツを着た顔色の悪い男と、アロハシャツの若いチンピラが土足のまま部屋に上がってきた。

『おう、ぼっちゃん。オヤジは?』

年配のほうが聞いてきた。

『……いねえ』

大悟は呟くように答えた。

『おらぁ、隠すんじゃねえ!』

若い方がいきなり大声を出したので、将はその音量にビクッと体を振るわせた。

『お友達は、ここのお父さんに会わなかった?』

年配のほうが将に聞いてきた。将は首をブンブンと振った。

『そう……じゃあ、ぼっちゃん、何かお父さんから預かってない?』

こんどは大悟のほうが首をブンブンと振った。

『かわりにぼっちゃんが利息を払ってくれてもいいんだけど』

年配のヤクザがタバコに火をつけた。

『……そんなの、ありません』大悟はうつむいた。

『ウソつきは』

若いチンピラが大悟の首根っこをつかむと

『泥棒の始まりって』

そのままその顔を殴った。

『やめろ!』

思わず将は立ち上がって叫んだ。若いヤクザはまったく感知せず、倒れた大悟を蹴っている。大悟は身を丸めて耐えている。

『お友達のボク、このコはいつもウソをつくんだよね』

年配のヤクザが将に向き直る。

『うそつきにはお灸を据えないと――』

そういって、年配のヤクザは吸っていた煙草を大悟の肩に押し付けた。

『うあああっ』

じゅっと小さく音がして、大悟が悲鳴をあげた。

その恐ろしい様子を見てしまった将は思わず、その年配のヤクザに飛びつくと……とうとう一発殴った。

こんな風に人を殴ったのは初めてだった。ヤクザは油断していたのかそのまま倒れこんだ。

『小僧――』

若いチンピラが、大悟を蹴るのをやめて将に鉄拳を振り上げた。

大悟がそれを止めようとチンピラの腕にしがみつきながら、

『払います、払いますから』と叫んだ。

将は、起き上がった年配のヤクザに一発仕返しをされた。上級生のパンチなどとは違う。

将の頬から眼窩にもろに決まり将は壁まで飛ばされた。目から火花が散った。おかげで気絶する寸前だったのに

『これでも手加減してやったんだぜ、気をつけろや、ボクちゃん』

と見下ろされた。

大悟はポケットに残っていた札のうち1枚は自分のところに残して、2枚を出した……父から送ってきた全額にあたる。

すると若いチンピラは、2枚を受け取ると、大悟が残そうとした1枚も引っ張った。

『迷惑料だよ』

と凄んだので、大悟は指を離さざるをえなかった。

さらに、チンピラはまわっていた扇風機のコンセントも引っこ抜くとそれを抱えて、ようやく帰ってくれた。

殴られて倒されたままの将に、大悟が振り返った。

『ごめん。将。……あいつらたまに来るんだ。オヤジが利息を払ってないとかで』

将は何もいえなかった。殴られた目が開かない。

しかし、次に大悟は、ニヤッと笑って指差した。

『でもこれだけは見つからなかったぜ』

さっき畳にねじこんだ万札。

将は大悟の笑顔を見て、指を立てて弱弱しく笑顔を返した。

殴られた目は腫れあがり、完全に治るのに1週間以上を要した。

しかし、それ以来、将は人を躊躇せずに殴れるようになった。もともと基礎があった将である。急に強くなった。

おかげで、自分より弱そうな不良からカツアゲをするようになって、金回りもよくなった。

悪い仲間も増え、その年のうちに女も覚えた。

だけど、大悟との友情はずっと続いた。15歳で離れ離れになるまで。

今も……大悟とさまざまな冒険をした13歳の夏は将にとって忘れがたい思い出だった。

あんなことはあったけれど、かけがえのない友情はこれからも続く、と将は信じたかった……。

第68話 将、13歳(1)

その夜、将はリビングで大悟と枕を並べて遅くまで語りあった。

主に二人の中学時代の思い出が中心だったが、懐かしい思い出話の間にも、二人が離れていたあいだの、語り尽くせないいろいろが透けて見えるようだった。

 

 

  
もう4年半以上も前。

将の背中の火傷が治ってしばらくして、中学校が始まった。

火傷のせいで私立中の受験を棒にふり、公立に進むしかなかった将は、失意の中で『不貞腐れている』ポーズをとることでなんとか日々をやりすごしていた。

公立の中学校は、将にはバカばっかりに思えた。

1回説明すればわかるようなことを、50分使って説明するような授業はとても退屈で、将は落書きと居眠りで授業の大半を過ごした。

クラスメートは子供っぽいやつばっかりで、進んで友達になりたいようなやつはいなかった。

気がつくと将は、まわりのやつから浮いていた。イジメられていたというわけではない。恐れられていたというほうが正しい。

中学に入ったばかりのころは、背もそんなに高くなかったのだが、その不遜な言動は上級生の不興を買った。

で、桜が散って青葉になった頃、将はさっそく『なまいきだ』と上級生に因縁をつけられ、お決まりの体育館裏に呼び出されるのである。

『お前、携帯もってんだろ。出せよ。それで許してやる』

声変わりした上級生の声は、実は、将にはとても恐ろしく感じた。しかしプライドの高い将である。

『イヤだ』

とできるだけ低い声で即答した。まだ声変わりしない自分の声が腹立たしい。

『何だよー』

上級生は将の肩をこづいた。中1と中3では体格も筋肉も違う。体が大きく揺れ、よろけたが、目は上級生をにらみつけたままだった。

『何だ、その目はよォ』

左右からこづかれた。将はだまって上級生を睨みつけていた。

『なまいきなんだよ、コラァ』

ふいに体が揺れて地面が近づいた……将は地面に引き倒された。

起き上がろうとする背中を上級生の足が踏みつける。3年生の重みと力に1年の将が逆らえるはずがない。

将は起き上がろうともがいた。その将の襟首を別の上級生がぐいっと引き上げた。

『あのね。僕、暴力ふるいたくないんだ。だからおとなしく携帯出しなヨ』

甘く優しい……将を馬鹿にした声。

『イヤです』

将はいちおー敬語を使ってやったぜ、とその上級生を見つめた。

目の細いにきびづらは、眉を剃って細くしていることで目と眉毛の間隔が広くなり、よけいにのっぺりと間の抜けた顔に見える。

『じゃあしょうがないね、イケメンくん』

将は、その間の抜けたやつにグーでぶん殴られた。

頭が真っ白になった。口の中が切れたのかしょっぱくなった。

――オヤジにも殴られたことないのに。ってセリフがあったな。昔のアニメに。

そんなことを思い浮かべる間もなく、次のグー。

2発で将は起き上がる気力をなくした……小学生時代、武道や空手で優秀だった将は、あの程度だったら立ち向かうこともできたはずだった。

しかし、道場ではないところで実際に人を殴るのは怖くて出来なかった。

倒れた将の上着とズボンのポケットをまさぐり、上級生は携帯を見つけ出した。

『痛い目にあいたくなかったら料金払えよ』

そう言い残して、上級生は立ち去った。

とられた将の携帯は、暴走族の上級生に上納され、さらにそれはヤクザに渡って、闇取引などに使われるのである……そんなことを将は知らない。

将は倒れたまま、青空を眺めた。唾液が鉄臭い。しかし吐く気になれなかった。

なんだか、世界にたった一人で倒れてるような気がした。

 

  
次に、将がトイレに呼び出された、というより連れ込まれたのは連休の後だった。

今度はトイレに付くなり、いきなり突き飛ばされた。

『おい、何で使用停止なんかにしやがるんだよォ』

将はあのあとすぐに携帯を使用停止にしたのだ。それがバレたらしい。

『おかげで恥かいたじゃんか』

掃除をしても臭う、トイレのタイル床に倒れた将の前髪をひっつかんで、上級生は将を立たせる。

『金出せよォ。お前んち金持ちだろー』

『持ってない』

髪を引っ張られて体の自由を奪われた将は、それでも上級生を睨みつけた。

『何だとォ』

上級生は将の髪をつかんだまま引き倒すと、個室に引きずっていき、洋式便器の中に将の顔を無理やり突っ込んだ。

ドラマや漫画で見るような、イジメの典型的な場面。まさか自分がされるとは。

将は便器の水を飲みたくなくて、呼吸をとめながら、頭を押さえる上級生の手をはがそうともがいた。

上級生は意外にも将の力が強いため、押さえ込むのにてこずった。

しかし、将の我慢は1分が限界だった。

『グっ……ガボっ』

将は臭い便所の水を飲み込むハメになった。

――くそ。

その屈辱が将の馬鹿力を引き出した。

将は上級生に押さえつけられた頭を起こした……だが、まだ殴る勇気はない。

叫び声を上げながら、濡れた顔と頭を上級生のみぞおちに押し付けた。

『ウわっ』

将を押さえつけていた上級生はその勢いで個室を飛び出し、後ろ向きに倒れると、後ろ頭を壁に思い切りぶつけてのびてしまった。

将はびしょぬれの頭で、息も荒く立っていた。

『なんだコイツ』

『やっちまえ』

たかが中1の将1人に、上級生が3人も飛びかかった。あっという間に決着がついた。

 

 
トイレは薄暗くなってきた。

――くそっ。

将はトイレの個室の中、うずくまっていた。出るに出れないように……つまり全裸にされていた。

上級生は、将が意地でも金を差し出さないとわかると、将を身ぐるみ剥いでしまったのだ。

彼らは将の背中のケロイドを見て、一瞬ひるんだが、

『毛も生えてないくせに逆らうな、バーカ』

捨て台詞を残して将の制服ごと財布を持っていってしまった。金はたいした額じゃないからいい。

しかし、ここからどうやって出ろというのだ。

初夏の陽気であたたかい今日このごろとはいえ、裸でいると寒い。

ふいに涙が一筋流れた。こんなのが出てくるのすら、負けたみたいで悔しい。

将は流れた涙を手の甲でぐいっとぬぐった。そのときだ。小声で将を呼ぶ声がした。

『鷹枝くん、鷹枝くん』

少し声変わりした声に聞き覚えがあった。

『井口……くん?』

『ジャージもってきた。上から投げるから受け取れよ』

机の横にかけてあった将の体育用のジャージをクラスメートの井口が持ってきてくれたのだ。

それを身につけて、ようやく将は外に出ることができた。

『ありがとう。……なんでわかったの』

『俺も前にされたからさぁ』

井口は1年にしてはガタイがよく、髪も少し赤毛に染めている。それが上級生の気に障ったらしい。

『……俺んときなんか、誰もいなくなってから、マッパで教室に帰ったんだぜぇ。

お前、目付き悪すぎだから絶対やられると思ってたんだけど、やっぱりなぁ』

『目付き悪い?』

『悪い、チョー怖いし。女子なんか避けながらキャーキャーいってんぜ。お前が女子にモテるのもあいつらムカついてんだ、きっと』

井口は少し伸びた天パーの赤毛頭をゆらして笑った。

それで井口と意気投合した将は、夜遅くまで遊ぶようになった。

なんでも、井口には今年就職したばかりのエリートの兄がいて、何かの折に比べられるのがいやでたまらなく、それで家に帰りたくないのだという。

爆破事件以来、義母の純代とギクシャクしている将も家には帰りたくない。

純代の執拗な心配は、殴られたことや、携帯をぶんどられたこと、制服をなくしたことまで、将の非のように聞こえる。

彼女は本当に将を心配しているのではない。

彼女の夫や世間へのメンツのために、将を心配しているポーズをとっているだけだ。

爆破事件以来、それに気付いてしまった将にとって、家は自分の居場所ではなかった。

そうやって帰りが遅くなり、時に外泊する将を、純代はいっそう非難する。

――てめえのせいなんだよ。

将は口に出さずに純代を目でにらんだ。

『金』

将が彼女に口を利くのはこの単語だけだ。この頃、将が遊んでいたのは主にゲーセンである。それには金が要った。

最初はしぶしぶ出していた純代だったが、夏休み直前のある日、

『お父さんにお言いなさい』

というようになった。父には言えないことをわかっているのである。

将はフン、と鼻をならすと、風呂場に入った。今日はまあいい。

実は、この日、将はパジャマの中に毛染めを隠し持っていた。

風呂場に入るなり、臭いそれを全部頭髪に塗りたくる。それは、毛穴にえらく染みた。いてもたってもいられないような冷たさと痛さ。

それに何分か耐え抜いた上で、毛染めを洗い流すと……風呂場の鏡の前には濡れて濃い蜂蜜のような色の髪になった将がいた。

『ヤッタ』

将は裸のまま、自分の姿を見て満足げに微笑んだ。

最近ようやく声変わりが始まった将は、ちょうどあちこちの毛が生え始めてきたところだ。

眉毛やそれらの毛は黒いのに、蜂蜜色の髪。妙でアンバランスだけど、将はそれを気に入った。

蜂蜜色の髪はドライヤーでかわかすと、その髪は見事に明るい金髪になった。

金髪になってバスルームから出てきた将をみて、純代は

『ひっ』

と息を飲んであとずさりした。それは近年まれにみる愉快な気分だった。将は大いに満足した。

翌日、学校にいってもそうだった。

生徒は同級生、上級生を問わず道をあけ、教師があんぐりと口をあける。井口だけが

『将、どうしたん、その頭。超カッケーじゃーん』

と寄ってきて賞讃した。

教師はその日のうちに純代を呼び出し、それは父に伝わった。

ある日、夜遅く家に帰った将は、父にいきなりなぐりつけられた。

『なんだ、その頭は!』

父になぐられたのはそれが初めてだった。倒れこんだ将は、1回だけ父を睨みつけると、そのまま家を出た。

 

 
将は、新しくつくった携帯から井口の家に泊めてもらおうと電話をした。今までも何度か泊めてもらったことがある。

『やー、今日はサ……。ごめん、ちょっと修羅場で』

いつもノリがいい井口らしくなく、弱弱しく困り果てた感じの声が携帯から聞こえた。

断られた将は、途方にくれた。

後で聞いたのだが、あの頃、ちょうど井口の兄が会社を辞めて引きこもり始めて、井口の家庭はめちゃくちゃになりはじめたところだったのだ。

あてどもなく夜の街を一人っきりで歩く、まだ子供っぽさが残る金髪の将は目立った。

そして、高校生らしき不良に因縁をつけられ……案の定一発殴られた。

『警察が来たぞおーっ!』

そのとき誰かが叫んだ。その声に、高校生は一目散に逃げた。

『大丈夫?』

手を差し伸べてきたのは将と同じ年ぐらいの少年だった。

こんな盛り場をうろついている少年には珍しい、きりっとした濃い眉毛と意思の強そうな目を持っていた。

だが、たぶん中学生ぐらいなのに、ピアスをしていたし、某サッカー選手を模したであろう髪型の黒髪は天に向かって立っていた。

『目立つね、それ』

少年は将の金髪頭を指した。そこには笑顔があった。

『一緒に来る?』

少年は顎をしゃくって将を誘った。

その目付きはなんだかガイジンの俳優みたいに余裕があってカッコよかった。だから将は、ついていったのだ。

これが、島大悟との出逢いだった。

第67話 かき消された言葉

ダメもとの電話がつながって、将は立ち止まった。踏み切り近くの路上だった。

「……将」

携帯の向こうから聞こえる、聡の声。クリスマスイブに二言、三言交わしたぎりの懐かしいアルトの声。もう、長いこと聡の声を聞いていない気がした。

まだ通勤帰りの人の往来も多く、将は、邪魔にならないよう警報機の近くの道端に寄った。

聡のほうは防音にも関わらず、カラオケボックスの廊下では各部屋から重低音と歌声が漏れてくる。聡はじりじりと、部屋を離れて店の出口付近へと移動した。

「……アキラ」

お互い、ときめく心臓に言葉を奪われてしまったかのように、言葉がでない。

あんなに待ち焦がれていた電話なのに、名前を呼び合うしかできない。

「学校に残れるんだってね……」

セリフを探して、聡は、ようやくさりげない言葉を探すことができた。

「……うん」

将のほうは何をいうべきか、まだ探せない。

「アキラ、昨日……。いやいい」

昨日の朝のことを言いかけてやめる。

「将、心配してたんだよ。……今までどうしてたの?」

「ヒージー、いやひいじいさんの家に置いてもらってたんだ。アキラ、アキラは……昨日、博史のオヤと会ってたんだろ」

とうとう言ってしまった。本当はこんなことを確かめたいわけじゃない。

「どうして……?」

「俺、あそこにいたんだ」

「……全然、気付かなかった」

聡は昨日を思い出そうとしたが、緊張していたせいか何も思い出せない。言ってしまえば、博史の両親の顔ですら、おぼろげにしか覚えていない。

「やっぱ、あいつとケッコンすんだ」

せっかく聡と話しているのに、つむぎだされるのは言いたくないことばかりだ。

「しない」

聡は反射的にはっきりと口に出してしまった。

じゃあ、どうやって断るのか。あの優しい人たちをどうやって傷つけずに納得させるのか。

聡にはその方法は見当もつかない。だけど。

聡が肝心のことを口にしたところで、踏み切りの警報音が鳴り出した。

間近なので、将は頭が割れるように感じた。

携帯に耳を押し付けるようにする。今、『しない』と聞こえた気がする。

「今、しないって言った?」

将は、警報音に負けないように大声で確認した。

聡の携帯にも、将の近くで鳴り響く踏み切りの警報音が届いた。それは自分への警鐘にも聞こえる。

だけど、一度抑圧された思いは、もはや抗えないほどになっていた。

聡はあまりに暴れすぎて苦しい心臓に対抗する様に言った。

「しない。だって私は……」

聡の言葉の途中で、電車が轟音を立てて踏み切りを通過し始めた。通過列車なのか、猛スピードだ。

「アキラ?聞こえないよ」

どんなに耳を押し付けても聡の声は聞こえない。

その電車は、今までに出会ったどんな電車より大編成に思えた。

「アキラ、ちょっと待って……」

それが通り過ぎるやいなや、次は対向方向からもやってきた。

踏み切りを過ぎたところの駅に止まるのか、いやにゆっくりと踏み切りを通過する。ようやく、聡の声が聞こえるようになるのに1分以上は経っただろうか。

「……ごめんね。変なことを言って」

そのとき、カラオケの出口付近で電話をする聡を、他の教師が聡を見つけたらしい。

「古城先生」と大声で呼びながら寄ってきた。

聡はあわてて、電話にケリをつけようとした。

「アキラ?ごめん、さっきの、聞こえなかったんだけど」

「ん。もういい。ごめんね。また掛けるから」

そういうと、電話は切られた。将は切れた電話を握り締めて、舌打ちした。

それでも、聡はたしかに結婚『しない』と明言した。そのことに将は勇気づけられる。

 

 
「アキラ先生、何してんですか。さあ行きましょう」

近寄ってきたのは権藤先生だった。少し酔っているのか顔が赤らんでいる。

「ハイ」

何食わぬ顔をして一緒に戻る聡だが、まだ心臓がドキドキしていた。

――言ってしまった。

ちょうど、それを言ったとき、電車か何かが通過したらしい。ゴーという音は聡にも聞こえていた。

そのせいか将には聞こえてなかったらしいけど……それでよかったかもしれない。

それでもなんだか、胸のつかえが1つだけ取れて、聡はすっきりしていた。

 

 

大悟は、家にあったスナック菓子にも手をつけずに、将を待っていた。

夕食の時間にしては遅くなったが、帰宅した将は、大悟と一緒に近所の焼肉屋へ行った。バイト先で一度夕食を食べた将だが、食べ盛りなので少しぐらいは平気である。

ビールとタン塩で乾杯したあと、ロース、カルビなどを頼む。

大悟は

「焼肉なんて久しぶりだなあ」

と嬉しそうだ。丁寧に肉をひっくり返すと「旨い、旨い」と繰り返す。

「遠慮すんなよ。どんどん食えよ」

と勧める将に

「お前、あいかわらず株やってんの?」

と大悟が訊いた。

将が、中2のときに遊んだ(というか遊ばれたといったほうが正しい)年上の女の影響で株をはじめたのを大悟は知っている。

「ちょっとだけな」

「元手があると羨ましいな」

熱い肉を飲み込んだ将は再び胸がちくっと痛んだ。その話題からそらすように、

「ところでさ、大悟はなんでこっち来たの?」

と訊いた。

「うん。いろいろあってさ……」

大悟は、焦げかけた肉をつまみながら浮かない顔で話しはじめた。

愛知の自動車部品工場で働く大悟の身元引受人となったのは遠い親戚だった。

借金漬けで行方もしれない父の代わりになってくれた親戚だから感謝している、と前置きしながらも、肩身が狭いのだと大悟は打ち明けた。

その親戚は年金暮らしの夫妻だった。夫妻と、2児を抱える出戻りの娘、という家族の暮らし向きは豊かでなかった。

大悟は給料を全額、その家に入れて、小遣いとして2万だけもらっているという。でも自室も与えられないのだ、と大悟はあくまでも控えめに不満をもらした。

「ひどいな」

将は聞きながらビールが苦くなっていくのを感じた。

「それだけなら、まだいいんだ。俺は居候だから。だけど……」

大悟の話にはまだ先があった。

大悟の身元引受人夫妻の夫のほうは、実は酒とパチンコ癖がひどく、パチンコに負けると酒を浴びるように飲んで、大悟をなぐるのだという。

「この前科者が、といいながらさぁ。もうボッコボコ」

大悟は弱く笑いながら飲み終わったグラスをテーブルに置いた。少し固い音が響いた。

前科者、と聞いて将は、再び激しい罪悪感にとらわれて下を向いた。もう、焼肉の味もしない。

「大悟、ごめん。俺……」

「将?」

大悟のほうは将を責めるつもりではなかったらしい。少し不思議そうな顔をした。

「俺、俺のほうこそ、本当は」

将は搾り出すようにいうと、頭を下げた。

「すまん」

ロースターの上で肉が焦げて縮こまっている。大悟は将のグラスにビールをついで、自分のにも注いだ。

「将、……そんな風に謝るなよ。あれは……あれは、俺がそうしたいと思っていたことをお前が代わりにやってくれただけなんだ」

将はその声に目をあげる。大悟の目が将のそれをまっすぐに見る。

「だから俺はお前のことを恨んだりしてないぜ」

「だけど。だけど……」

「気にすんなよ。だいたい、お前があんときあのバカヤクザをぶっ殺してくれなかったら、俺は今ごろ指がないだろうし」

大悟は笑顔で両手を将の前に出して広げた。

大きな大悟の手のひらはカサカサに乾燥して、その皮膚にはヒビが赤く入っていた。指の関節は将のそれより発達し、膨らんでゴツゴツしている。……あきらかに苦労しているのがわかった。

「ごめん」

将は前を向いていられなくて再び下を向くと、歯を食いしばるようにした。

「だから、もういいんだってばぁ。ホラ、飲めよ」

いくら大悟が笑って許すといっても。将は自分自身が許せない。

第66話 すれちがい(3)

「正月休みの間、ここに置いてくれないか」

という大悟の懇願に

「ああ、いいよ」

将は即、快諾した。

「本当に?……よかったぁ」

大悟は眉毛をゆるめて、安堵したようだった。その顔を見て、将も安心する。

時計を見る。もう18時近い。家庭教師のバイトに行かなくてはならない。

うっかりビールを飲んだので車で行けない分、早く出なくてはならない。

いつもならこの程度の飲酒は無視するが、さっきまで留置場にいた将である。自重することにした。

「悪い、俺今からバイトなんだ。勝手にゆっくりしてくれていいから。帰ってきたら飯にでも行こうぜ」

将は大悟を家に残してバイトに出かけた。

 

 

権藤との打ち合わせが長引き、終わったときには、他の職員たちはあらかたもう忘年会会場に行ってしまっていた。

「権藤先生、忘年会の『××屋』の場所わかります?」

みんなで一緒に移動するつもりだったから、場所を詳しく聞いてなかった聡は権藤に訊いてみた。

「あれ、たしか地図があったはず……」

権藤もガサガサと探しているが心もとない。

さっき整理整頓したばかりだが、整頓というよりは体裁を整えた、といったほうが正しい。この場合、しまいこんだ紙切れなどは、まず出てこない。

聡は、先にいった先生に電話をかけようと携帯を取り出した。

たしか、保健の三田先生の番号を登録していたはずだ、と携帯を開く。……そこで初めて、将からの着信履歴に気付いた。

一瞬、世界がゆれた気がした。携帯を思わず握りなおして、表示されている『鷹枝将』の文字を眺める。

携帯を抱きしめたくなるのをなんとかこらえて、三田先生に電話をかける。そのために画面を切り替えるのですら惜しい気がした。

 

 

将は、乗り換えの地下鉄を待っている間に、もう一度聡に電話をかけてみた。

あいにく話中だった。

かけなおそうとしたとき、電車が入ってきた。

 

 

三田先生に場所を教えてもらい、権藤先生と忘年会の会場へ向かう。最寄り駅前商店街の雑居ビルの地下にある居酒屋だ。

「権藤先生、私1本電話入れますんで、お先にどうぞ」

権藤先生を先に行かせると、店への階段を降りる前に聡は、将にもう一度電話をしてみた。

『この電話は電波が届かないところにあるか……』というメッセージが流れた。

……ちょうどその頃、将は地下鉄に乗っていたのである。

聡はがっかりして、階段を降りた。雑居ビルの地下だけあって、携帯の表示は「圏外」になってしまった。

聡は後ろ髪を引かれる思いをひきずりながら、居酒屋の縄のれんをくぐった。

「おお、今日の主役の登場だ」「古城先生こっちこっち」

聡が登場すると、ムサい男教員が集まるテーブルのあちこちから歓迎の声が飛んだ。

 

 

将の家庭教師先では、今年最後ということで、夕食まで用意されていた。

ボロを出したらまずいので断りたかったが、教え子の母親がはりきって作った料理が並んでいるのを見ると、むげにはできなかった。

父親は単身赴任ということで、小4の教え子と小2の弟、その母親と将の4人で食卓を囲んだ。

そのことは、主に教え子を喜ばせた。教え子は何故か将のことが大好きで、なついているからだ。

「山田さんのおかげで、通信簿の『大変よい』が増えたんですよ」

いつもに増して気合を入れて髪や化粧をセットした30代後半の母親は、にこにこしながら将のグラスにビールをついだ。

公立小だったら、人数制限のない絶対評価だからそれほど価値がない『大変よい』だが、この家の子は私立小に行っている。

そこは昔ながらの相対評価で、クラスのうち『大変よい』がとれる人数は決まっている。つまり、『大変よい』をとった教科は、クラスでトップレベルだということになる。

母親のそのきちんと内巻きにセットされたカールは、将に昨日の朝の聡の髪を思い出させた。

「山田先生は学校の先生より面白いし、わかりやすいもん」

教え子が口をはさんだ。

「山田さんはたしか、法科系でしたわよね。将来は……?」

そらきた。あまり大学のことを訊かれるとまずい将である。

といっても、ウソの身分を名乗る以上は、東大の学内や授業、教授などの情報はネットなどで一通り仕入れて暗記している。

学校をさぼってた頃は、偽の学生証を使って東大の一般教養の授業にこっそり出席してみたこともある。

幸い本物の山田が不真面目で学校をよくさぼっているせいか、バッティングしなかったのだが、背が高く足が長い将の容貌は、学内で目を引いた……特に女子学生の。

授業が終わって

『すいません、キャンパス××といいます。ちょっと写真をとらせてもらっていいですか? 1年生の方ですか?』

とキャンパス誌の記者らしき女子学生に声をかけられてしまった将は、『いや、写真苦手だから』と取り繕ってあわてて逃げたものだ。

 

「そうですね。弁護士にでもなれれば、と思っているんですが」

とっさにウソが出た。それは実は、将がまだグレる前、小学生時代に父から言われていたことだった。

忙しくてたまにしか顔をあわせない父だったが、将と顔をあわせると

『お前は弁護士になるといい。そこで一般市民の悩みや問題などを勉強したあとで、お父さんやお祖父さんの跡を継ぐんだ』

と毎回のように言い聞かせていのだ。

エリート官僚から政治家になった父は、自分に足りないものを自覚していて、それを息子に託したのだ。

「まあ、ステキ。山田さんだったら、ナントカ弁護士みたいに、テレビでも活躍できそうですね」

母親は軽口を叩きながら、またビールを注ぐ。おかげで、少し遅くなってしまった。大悟が待っているだろう。

連絡したいが、大悟は携帯を持っていないといっていた。将は急ぎ足で夜道を歩きながら、聡に電話をかけてみる。

 

 

忘年会は、会場を2次会に移すことになった。

聡は、生理中で体調がいまいち、ということもあり、2次会を固辞しようと思ったのだが、

「ええー!」

「古城先生が来ないと話しになんないよ」

と温かい抗議に引き止められて、かつ他2人の女性教員も行くということだったので、少しだけ付き合うことにした。

2次会はカラオケボックスだった。聡はいったんトイレに立つとそのついでに将に電話をかけてみる。

あいかわらず『この電話は電波が届かないところにあるか……』というメッセージが流れるばかりだ。

「アキラ先生は何歌うの?」

戻るなり、電話帳のように分厚いリストを渡される。

「やっぱ英語カラオケでしょ」

カラオケをつかった英語の授業のことは、教師全員が知っていた。

「いえ、いまどきの歌は、授業で私も一緒に勉強しないとわかんないんですよ」

そこで笑いが起きる。

「英語でナツメロっていったら何」

「ビートルズとかでしょ。僕歌えますよ」

と、やはり自衛隊系の若い体育教師。

「ビートルズもいいと思うんですけど、私はストーンズが好きなんです」

そういった聡の心の底のほうで、ひそかに懐かしくて甘酸っぱい空気が流れた。高校時代を思い出したのだ。

それをかき消すように、さっそく他の教師が、自慢げに最新ヒットナンバーを歌い始め、ボックスは話もできないほどの大音量に包まれた。

いやがおうでも歌に喝采を送るほかはない、という音量だ。

聡も勧められて、はじめのほうのページに載っていた無難な最近のナンバーをリモコンでセットする。

 

カラオケはいよいよ盛り上がりを見せてきた。

最新ナンバーの次には、人気歌手のメドレー、それに触発されて懐メロと続き、酒がまわった頃には多美先生の『宇宙戦艦ヤマト』を皮切りにアニメソングが連続投入された。

「すごい、上手いですね!」

聡は、大音量の中、隣の教師に叫ぶように話し掛けた。隣の教師は

「ホンモノのササキイサオそっくりでしょー!」

と興奮してやはり叫んだ。残念ながら、聡はホンモノを知らないのだが……。

『ガンダム』『ヤマト』『ルパン三世』程度だったら、聡もなんとかメロディぐらいはわかるが、そのうちまったくついてゆけない古いものが次々と大合唱される。

わけもわからず、とりあえず手拍子をとる聡に携帯の振動が伝わった。

聡は、携帯を手にして、部屋を出ながら、表示を見る。

――将!

「もしもし……」

ようやくつながった電波にお互いの思いが交差した。

第65話 すれちがい(2)

もつれそうになる足をひきずって、将はようやく道路の対岸につくと、はやる心でメールをチェックした。あった。聡からの受信メール。

『昨日はごめんなさい。連絡を待ってます』

たった一言だが、将は浮き立つ心でそのまま聡に電話をする。

――出ない。

コールがずっと響き続けた。将はコールが15回鳴ったところでいったん切り、すぐ掛けなおす。

ふだんは無意識にコール数を数えている将だが

――次こそ、次こそつながる?

と期待しているのでカウントしなかった。誰かがカウントしたら何度も掛け直しながら50回も鳴らしていたことになる。

将は少しがっかりしたが、なんといっても聡自身から連絡を待ってるとメールがあったのだ。また掛ければいい。

とりあえずメールをしてもよかったが、

聡の声を聞きたかった。

聡の携帯と電波がつながってる実感が欲しかった。

聡と共通の時間を持ちたかった。

……本当は、聡の家に押しかけてもよいのだが、あいにく今日は年内最後の家庭教師のバイトがある。

将は、明るい気持ちで部屋へ帰ることにした。

二日酔いのだるさも殴られた痛さもどっかにすっとんでいった将はようやく、空に晴れ間が見えていることに気付いた。

 

  
その頃、聡は、年内最後の勤めで学校に行っていた。

将から電話があったときは、最後の職員会議に出席中で、携帯の近くにいなかったのだ。

職員会議では、新学期は1月8日からであること、また2年生は新年そうそうの1月11日より修学旅行がある旨が確認された。

行き先は北海道でスキー研修である。

他校の生徒と問題を起こさないようにという配慮がいかにも問題児の多い学校らしい。

他に、こまごまとした伝達事項があり、職員会議は長引いた。
 
職員会議のあと、聡は教頭に呼ばれた。職員室の一角を区切った打ち合わせスペースに教頭と向かい合う。

「古城先生のクラスの鷹枝将くん、学校に残ることになったから」

開口一番そういわれて、聡は開いた口がふさがらなかった。

「それから、古城先生の授業のおかげで1、2年の英語の成績が全国偏差ポイントで5もアップしたので、来年度もよろしくお願いしますよ」

聡はしばらくボケッとしていたがようやく口をひらくことができた。

「あの……、どうして、でしょうか、何かあったんですか?」

教頭はそれを将のことだと思わずに、後半のことだと思ったらしい。

「だから、英語の成績がアップしたからですよ。古城先生のやり方が認められたんですよ。来年度からは産休代理ではなく、正式に持ち上がりで3年2組の担任をやっていただきます」

「あ、いえ。鷹枝くんは、どうして……」

教頭は目をちらりと聡のほうに向けた。

「さあ。家庭の事情で、アメリカ行きが取りやめになったと聞きましたが」

本当は、学校が政治献金を餌に引き止め工作を行ったのであるが、教頭はそういう風に説明した。

「彼も、『古城先生のおかげ』で素行がかなり改善しました。これも我々は評価しています」

教頭は好色そうな色を少し浮かべて聡を見た。それでも丁寧な口調は変わらない。

「とにかく、古城先生は我々が当初思っていた以上に結果を残してくれました。来年も頑張ってください」

教頭は聡の肩をぽんと叩くと先に打ち合わせスペースを出て行った。

――アメリカに行かないんだ。

最初、呆然としていた聡だが、安心がひたひたと心に広がっていった。

――よかった。

なんだか、期末前から続いていた悪夢の抜け道が見えた気がする。抜け道のむこうにはただ漠然と希望が明るかった。

聡は今はただ、その漠然とした希望にひたった。

 

  
職員室に戻った聡は携帯が点滅しているのを見つけた。

博史だった。漠然とした希望にひたっていた聡は、『婚約者』という現実に引き戻された。

職員室はリラックスしたムードで、取っても問題ないだろう、と聡は電話を手にする。

「はい……」

「アキ?今日さ、学校何時に終わるの?」

穏やかな博史の声は、そのまま夕食に誘いたいと続いた。

「せっかくだけど、今日は終わった後で忘年会があるの」

これは本当だった。そして断る理由があることにほっとしている聡も事実である。

「あ、そうか。じゃあ明日はどう?」

明日は萩に帰る前日。婚約者との食事を断る理由は見当たらない。聡は気乗りがしないままOKして電話を切った。

そこへ隣の権藤から、

『古城先生の授業方法を僕も来年から取り入れたい』と相談があり、そのまま打ち合わせに入る。

おかげで将からの着信に聡は気付かないままだった。

 

将はスキップをするようにマンションへ帰ってきた。

エレベーターをのぼって廊下に出た将は、ある男性を見つけて立ち止まった。

「将!」

その若い男のほうが先に将の名前を懐かしそうに呼んだ。

……以前、将が失踪している間に、将の部屋を訪ねてきた眉の濃い青年だ。

「大悟……!」

将は驚き、一瞬とまどい……かすかに困惑と罪悪感が心をかすめ……そして大悟の顔に将への恨みがみじんもないのを確認してようやく、彼のほうに近寄ることができた。

この青年、島大悟こそ、将のヤクザ殺しの身代わりになった親友である。

 

 

将の部屋。ソファに座った大悟に何を出すか迷った将は、缶ビールを渡した。

大悟は「サンキュ」と嬉しそうに受け取りながら、将に

「お前、でっかくなったなぁ。今何センチよ」と笑いながら、将をこづいた。

「4月で182。去年から今年にかけて10センチ以上も伸びたんだ」

「カンベツ入る前は俺のほうが高かったのにな」

大悟は今175センチで少しだけ伸びたということだった……そんなことより、『カンベツ』という言葉が将の心に突き刺さる。本来は自分が入るべきだった牢獄。

「いつ出てこれたんだ?」

将が遠慮がちに訊くと

「4月には出てきてたんだ、俺模範だったから」

大悟は少し自慢するようなそぶりを見せておどけた。

将は「そう」としか言えない。何か、自分がたどるはずだった運命を聞くのは申し訳ない気がした。

「それにしても、すっげーところに住んでるなあ」

とビールを手にした大悟は部屋を見回している。別に将への恨みなどは見当たらず、昔の大悟のままだというのに安心して、もう少しだけ訊いてみる。

「今、……どうしてるの?」

「愛知の自動車部品工場で働いてる」

「へー、そうなんだ」

将はやりきれなくて、冷蔵庫からビールを取り出すと自分もあおる。

「将は高校いってるの?」

「あ、ああ。井口のやつと同じ学校に行ってるよ」

答えながら、将は息苦しくなった。本来は……殺人者である自分は……のうのうと高校などに行っている自分ではないのだ。

大悟と話をしていると、忘れていた自分の罪が掘り返されていく気がして将は胸が痛んだ。

大悟は、あいかわらず罪のない顔で、ああ、あの卒業できたらキャッシュバックがある学校ね、と微笑んだ。

「井口くんと一緒だったら、茂樹とも一緒だろ?」

一瞬将はその名前が誰のものだかわからなかった。キョトンとする将に大悟は

「前原茂樹」と言い直した。

「あ、ああ……」

そういえば、大悟は前原と同じ中学だった。

まさか、こないだ彼に殺されかけた、とは言えない。将は一瞬迷ったが、思い切って

「前原くんは、一緒だったけど、こないだ中退したよ」

と口にして「麻薬所持とかで捕まって」と付け加えた。

「そう。そうなんだあ……」

大悟は特にショックを受ける様子もなく、つぶやいた。

「今日は、愛知からどうしたん?」

できるだけ何気なく訊いた将に、大悟は目を伏せた。

「将、……実は頼みがあるんだ」

次の瞬間、大悟は濃い眉毛をゆがめ、その下にある端正な目を見開いて苦しげに懇願した。

「正月休みの間、ここに置いてくれないか」

第64話 すれちがい(1)

汚れたタイル床から洗剤と臭気のまじりあった独特の饐えた臭いが漂う駅のトイレ。

薬局でナプキンを買い、やっと手当てをした聡はようやくほっとした。

激しい水流に飲まれていく、赤黒い色に染まったトイレットペーパー。

早く始まったそれは、博史の精液で汚れた聡の中の粘膜を一刻も早く排出しようとしているのだろうか。

『汚れた』という単語を思い浮かべた自分に聡ははっとする。

9月まで……将を好きになるまでは、愛の行為によるそれは、決して『けがれ』などではなかったはずだ。むしろ、何日か聡の中で生きているであろう博史の分身をいとおしくさえ思ったこともあった。それなのに。

緊張がとけたとたんに、そんな自分自身を責めるように、下腹部が鈍く痛み始める。

……聡は、生理痛が重いほうである。

今回はことさら、しくしくと痛む。子宮に詰まっている自己嫌悪が暴れるかのように。脂汗さえ浮かんでくる。

しかし、いつまでもこうやって便座に座っているわけにもいかない。

聡は自分自身をうながすように、立ち上がると駅のトイレから出ると、救いを求めるかのように、重い足取りをひきずりながらメールをチェックする。

待っていたメールの着信はない。

いったんホームに上ると、メールを打とうとして、やはり電話をかけることにする。

将の声が聞きたかった。

将と電波をつなげたかった。

将と同じ時間を共有したかった。

コールが鳴り続ける。一心に待ち続けるホーム上の聡に冷たい風が吹き付ける。

10回以上は鳴らして1回切り、もう1回かける。

乗車方向の電車がホームに入ってくるが、かまわず聡は待ち続ける。電車を1本見送って、またコールを鳴らしたが将は出ない。

突風が聡のコートに殴りつけるように吹いた。携帯を持つ手がかじかんでくる。

ストッキングにパンプスだけの……博史は上品なワンピースにあわせて、靴もプレゼントしてくれたのだ……聡の足先もホームからの冷気で感覚をなくしつつあった。

聡は電話を諦めて、メールにした。

かじかんだ手はミスタッチを繰り返してしまう。両手で包むようにしてようやくキーを打つ。しかし。

『昨日はごめんなさい』

の先が浮かばない。何を打ったらいいのか。何を伝えるべきなのか。

クリスマスイブだった昨夜、ホテルのラウンジで、別れ際を思い出す。あのとき、聡は将にそれを伝えようとした。

結局、チェックインを終えた博史が戻ってきたため、伝えられずじまいだったが……。

将への、もう一人で秘しておくのには耐えられないほどに、せつない思い。

ただ、それをメールで『やっぱり将のことが好き』などと書いてしまうのは軽すぎる気がした。実際打ってみたけれど、携帯メールのいやに丸っこい字が気になった。

悩む聡の前に、乗車方向の電車がまたやってきた。聡はいったん携帯を閉じると、電車に乗った。

結局、車内でも帰り道でも、適切な言葉は思い浮かばなかった。

『昨日はごめんなさい。連絡を待ってます』と送信できたのは、もう25日も終わるギリギリの時間だった。

 

  
ぼんやりと開けた将の目に縞模様が見えた気がした。

頭が痛い……いや、体のあちこちが痛い。

意識がようやく覚醒し、畳の上に身を起こした将の目に映ったのは鉄格子だ。鉄格子の前に、警官の後姿が見える。将は留置場にいるらしい。

将は脱力して、再び畳の上に転がった。その物音で、警官が振り向く。

「目が覚めたか」

意外に優しい声で声をかけられた。将は寝転がったままで

「ハイ」と答えながら、夕べの記憶をたどった。

昨日、いつものあの海辺の防波堤の上で釣りをしながら泣いて。

そのあと都内に帰って井口に連絡して。

ひさしぶりの将からの連絡に、井口は喜び『遊ぼうぜ』と声をかけてきたのだった。

井口の誘いに乗った将は、最初は踊りに行き、最初から強いカクテルを立て続けにあおった。

そこで知り合った女の子たちとカラオケに行き、さらに浴びるようにチューハイとビールをがんがんやった。そのあたりから記憶がごちゃごちゃになっている。

起き上がりながら警官に

「俺、どうしたんすか」

と間の抜けた質問をしながらも、ランダムになった記憶の順番をソートした。

「覚えてないの?」

もう一人、檻の前にやってきた『おじちゃん』という感じの、警官だか刑事だか、が訊き返した。

制服ではなく背広を着ている。

カラオケのあとゲームをしにいったのは覚えている。なんか女の子に無理やりキスされた気がする。

――あと、そうだ、その女がらみでヤンキー軍団と大喧嘩になったんだ。

まもなく将は檻から出されて、調書を取られた。

「君、路上で大喧嘩して、止めようとしたまわりの人まで叩いたあげく、気持ち悪い、とか言い出して吐いちゃってさー、大変だったんだよ」

『おじちゃん』は可笑しそうに将の昨夜の行いを教えてくれた。

「それで、反省を促すために、とりあえず一泊してもらったわけ。……ふーん。君、まだ高2なんだー、見えないねぇ。……でもいけないね。飲酒は」

『おじちゃん』は調書を読み返しながら、穏やかに説教した。

「まあ、前科はないみたいだから、家の人が迎えに来るまで、とりあえずね、留置所で反省してね」

――前科という言葉に将は一瞬ずきん、と心臓が動いた。

とっさに顔をあげた将と、『おじちゃん』の目が合う。笑ったような目だが瞳は厳しく将を見つめていた。

「あの」

反射のように声が出た。『おじちゃん』はそのままの顔で「何?」と訊き返した。

「他のやつらは……?」

「ああ。みんな逃げたよ。君だけここに連れてこられたの。ドジだね」

『おじちゃん』はようやく瞳の奥から笑った。

ふたたび留置場に戻った将は、携帯を取り出そうとして、所持品を取り上げられていることに気付いた。

――そりゃそうだ。留置場の中から携帯できるはずないもんな。

最初から飲む気で、車で行かなかったのが幸いだった、しかも偽造免許証を車の中に置いてきて本当によかった、と将は胸をなでおろした。

もし車で来ていて、偽造免許証のことがばれたら、留置場1泊ぐらいで事は済まないだろう。

それにしても、携帯をはじめ、いじくるものが何もない留置場はとてつもなく暇だった。時間を早く消費するために眠りたくても、二日酔いが邪魔をして眠れない。

いちおう、調書をとりながら水をがぶ飲みさせてもらい、頭痛薬ももらったので二日酔いは回復傾向にはあるものの……。

ケンカでいつのまにか殴られたのか体もあちこち痛い。

横になると、「起きなさい」と注意されるので、将は畳の上で体育座りになり、二日酔いのだるさと格闘した。

昨夜の乱行の道筋が明らかになってしまうと、将の意識は自然に聡のほうへ飛んでいった。

博史に寄り添って頬を染めていた昨日、25日の朝の聡が、将が見た最後の聡である。

しかし、あれは本当に聡だったのだろうか。一度は絶望したものの、ここへ来て将は信じがたく思った。

それよりも、おとつい、クリスマスイブにラウンジで聡が言いかけたこと。これがやはり気になる。

昨夜将は、ナイフを手にしたヤンキーにひるまなかった。聡との愛に絶望した将は、もうどうなってもいいと思っていたのだ。殺されるなら、殺されてもかまわないと。

将はヤンキーに馬乗りになってその顔をぶちのめしながら、ボロ布のようになって死んだ自分の姿を想像していた。

冷たい死体になった自分に、聡はすがって泣いてくれるだろうか。

目に映る留置場の色がグレーだからだろうか。想像はモノクロームで、死体になった自分にすがる聡にだけ、光があたっていた。

とてつもなく美しい、でもどうしようもなく馬鹿馬鹿しい幻想に、将は自虐の笑みを浮かべると自らの膝に顔を埋めた。

殴られて腫れた部分に膝があたり、将は「痛て」と小さくつぶやいた。

そのとき、ようやく「出ろ」と警官からうながされた。午後になって、迎えに来たのは義母の純代だった。純代は何度も警察官や『おじちゃん』に頭を下げていた。

ようやく携帯その他を返してもらい、将は釈放された。

警察署の玄関前の階段を降りてしまうと、将は純代に向き直り

「手間かけたな」

とその場を立ち去ろうとした。

「待ちなさい」

純代は将を呼び止めた。しかし、将はその声に振り向きもせずに、足を早めた。

「大磯の大おじいさまに、ちゃんとお礼を言うのよ、将」

もう何を言っても仕方がないと思っているのか、それだけを将の背中に向かって叫ぶ。

 

  
井口のやつに今日の顛末を電話してやろうと、将は信号が点滅し始めた横断歩道を走りながら携帯を手に取る。

携帯を開いて表示を見て、立ち止まる。聡から夕べ着信があったことを今初めて知る。……しかも2度も。

着信時間を見る。22時25分。ちょうど、踊りに行って大音量の中、バカ騒ぎしていた頃だ。

横断歩道の真ん中に立ち止まる将に、車のクラクションが浴びせられる。

第62話 疑惑

「なんだか過剰接待で、ごめんね」

「……ううん。こっちこそ、いろいろしてもらっちゃって」

もう夜も9時すぎ。聡は博史の運転する車の助手席にいた。

断続的に降る雪は、夜を舞う姿がライトに照らされるだけで、都内では積もることはなかった。

午前中に博史の両親の出迎えでホテルを出て。あれから都下の博史の家で聡は歓待を受けた。

博史の実家はゆったりと作ってある4LDKのマンションで、もちろん聡はそこに足を踏み入れるのは初めてだ。

昼食はダイニングで博史の母・薫の心づくしの料理をいただきながらワインで乾杯。その後リビングで、近所のだという美味しいケーキをいただきながら、博史のアルバムを話題に皆で談笑し、さらに夕食に寿司までとってもらった。

「泊まっていったら」

という申し出を丁重に遠慮したら、博史の父が

「それじゃ、雪も降っているみたいだし、おうちまでお送りしなさい」

と博史に命じた。

「ううん、せめて駅まででいいんです」

聡は遠慮したのだが、

「駅までもうちまでも一緒だよ」

と結局、聡のコーポまで送ってもらうことになった。

博史の家のファミリーカーである国産高級車は中も広く、エンジン音なども静かで快適だった。

しかし、正直なところ、聡は早く車を降りたかった。

というのは……、さっき、ソファの上で笑顔で博史の両親と歓談する聡は、体内を流れ落ちる何かを感じた。断って手洗いを借りると、やはり生理が始まっていた。

ひさしぶりにセックスをしたせいなのだろうか、本来は明日だった予定が狂ったようである。

昨日、あわててうちを出て、結果的にそのままホテルに連れて行かれた聡は、その用意をしていなかった。

なんとかトイレットペーパーで急場をしのいでいるが、シートを汚しやしないか心配だし、できれば駅で降りてナプキンを買いたかった。

でもこんなことは博史には言えない。

常識的に恥かしいというのも、もちろんある。それから――昨日、避妊してくれといったのがウソになってしまう。むしろ聡はそちらを恐れた。

……何を恐れることがあるのだ。バレたら、結婚できない。子供なんてとんでもない。と言えばいいのだ……

聡の中の、本音を手にした悪魔がささやく。

だけど。

優しい博史、そして博史の家の人を――あんなに喜んでくれているのに――傷つけたくない。

いずれ傷つける日がくるのかもしれないが、今はあんまりだと思う。

それから。

本当は早く車を降りて、博史の目の届かないところで携帯をチェックしたい。

将からメールがきているかどうかを確かめたい。来ていなかったらこちらから連絡をとりたい。

婚約している恋人のまえで……仕事上の連絡メールのやりとりなどまずありえない冬休みの聡でもある……携帯をいそいそとチェックするのは憚られた。

「聡、聡ってば」

いろいろなことに気をとられて聡はボーっとしていたようである。呼ばれてはっとした。

「何?」

「年末はいつから萩に帰るの?」

「ああ……。28日の飛行機を予約してある」

学校は明日が最終日で、翌日はいちおう自宅の掃除をするつもりだ。

「年末年始中に一度、ご両親に挨拶にいかないとね」

博史は聡の顔を見た。

「そんな……、いいわよ、まだ」

一瞬博史と目をあわせた聡だが、合わせ続けることができず、視線は下に下がってしまう。

「よくないよ。結婚を急ぐんだから、遅いぐらいだよ……で、学校は、3月までで辞めてくれるよね」

博史は前方から目をそらさずに言った。

聡はとっさに返事ができなかった。もちろん将と離れたくないから。

それに……仮に将がアメリカに行ってしまうにしても。

さんざん授業などに工夫した手ごたえがようやく結果になってきている今、辞めてしまうのは惜しい。聡は言い訳のように考えた。

悪かった生徒たちも、なついてきてくれている。

「聡?」

信号が赤になり、博史は返事をしない聡の顔をのぞきこんだ。

「……辞められない、って言ったら?」

聡は下を向いていた顔をゆっくりとあげて、勇気をだして言葉にした。

「どうして辞められないの?」

博史は咎めるでもなく、優しく訊き返した。

「クラスの子と約束したの。卒業まで見守るって」

これは真実だった。あるとき――たぶん期末テスト近くの放課後の補習だったはず――で、丸刈りの兵藤にふと訊かれた。

『先生さ、産休の先生が帰ってきたら、やっぱりやめちゃうんですか?』

どうやら、産休の教師が子供を無事出産したという連絡が生徒にも入ったらしい。

兵藤のせりふを聞いた、近くにいたチャミ&カリナも寄ってきて、

『ウソー?センセイやめるの?』

遠くにいた井口やカイトもこっちを振り向いた。聡は

『わからない。産休の先生がいつ復帰されるかも聞いてないし』

と正直に答えた。

『先生、やめないでください、絶対』

まず兵藤が言った。するとチャミ&カリナも

『ずっとアキラセンセイがいいよ』

『うちらが卒業するまでいなくちゃヤダ』

と必死な目で訴えた。補習に出ていた一同が同じ目で聡を見ていた。そのとき井口が後ろから寄ってきて

『フツーさあ、もう2年だし卒業まで担任は持ち上がりだろ。心配すんなよ』

とそっけなく言った。彼なりにクラスメートや聡を気遣っているのだ。

新しい授業方法は、生徒は楽しんで勉強できたが、準備する聡は大変だった。何しろ、映画を見てレベルなど適切な映画を探さなくてはならない。そしてその中から授業に使う表現を抜かなくてはならない。

音楽のほうの曲選びは、好きな生徒に協力してもらえばよかったが、それを授業に使えるようにふりがなを振ったり、文法解説をしたり、使える表現を抜いたりとかはすべて聡の手作業だ。

社会見学については見学先を探してアポイントをとる作業まで、これまた聡のボランティアのようなものだ。これらのために聡は無償で相当の時間を費やしたはずだ。

でも。これだけ努力をしたのはたしかに報われている。

聡はそのとき、思わず涙が出そうになったものだ。

 

 
「……ふーん。意外と頑張ってるんだ」

再び青信号になり博史は前を向いたまま言った。その声はさっきより少し硬質なように思えた。

「でもさ」

博史は平坦な調子で続ける。

「俺と、教え子だったらどっちを取るの」

「そんな」

下を向く聡。以前の聡だったら何の迷いもなく博史を選んだはず、と博史はほぞを噛んだ。とまどう聡の向こうに、将の姿が透けて見える気がした。

「究極、どうする?」

博史は追い討ちをかけた。早い話が、博史か将かどっちを取る、と問い詰めているのである。

婚約者なら、自分をとるのが当然だ、と博史はなおも答えない聡にいらだちを感じる。

「あの鷹枝くんが原因?」

いらだつあまり、思わず直球を投げてしまってから、博史はしまった、と思った。

聡は驚いた顔でこちらを見た。その顔に、恐怖が浮かんでいるのを……投げた直球が事実である証拠を……博史は見てしまった。

「……なんで、そんなこと言うの?」

聡の声はふるえた。核心を突かれて聡はなすすべがなかった。

――知っている?

当然といえば当然だ。昨日、抱き合っているところを見られているのだから。

かくなる上は博史がどの程度疑念を持っているのかを確かめるしか聡の手は残されていなかった。

聡の瞳に涙がたまってくる――本当は恐怖に震えてなのだが――のを見て博史は動揺した。

「ごめん。そんなつもりじゃないんだ。冗談だよ」

涙をためる自分をずるいと聡は思った。

そんなつもりじゃないにしても涙を、女を……利用しているようなものだ。

だけどそんな理性をよそに、涙は膨れ上がってくる。

まるで、博史を愛していて、彼の疑惑を哀しむように見えてしまうだろう。実際、まだ惰性のような感情が残っているのかもしれない。

聡は涙しながら自分をつかみきれないでいた。

「ここでいい」

赤信号で止まったとき、聡はドアに手をかけた。

その行動はまるで疑惑をぶつける博史を怒っているように見えるだろう。

本当は博史のほうこそ心変わりした聡に腹をたてるべきなのに……。

先に怒るふりを見せたほうが有利なのだ。聡は醒めた頭の中で考える。そんな自分に聡は汚らしい女の性(さが)を見た。

「待てよ」

博史は案の定引き止めようとする。

「今日はありがとう。あとで連絡する」

聡はそれだけを言い残すとドアを開け外に出た。幸い沿線の駅近くだ。雪は小やみになっていたものの、冷気が鋭く聡に迫った。

「待てったら」

博史も車を路肩に寄せて、追ってきた。最寄駅へ急ぐ聡の肩をつかむと、こちらを振り向かせる。

「ごめん。本当にごめん」

せつない博史の目。聡は下を向いた。本当は悪いのは自分のほうなのに。

博史は、そのまま路上で聡を抱き寄せた。温かい体温にすっぽり包まれる聡。

「愛してるんだ……ごめん」

聡の首筋に顔をうめた博史は吐息で囁いた。

聡は目を閉じて深くため息を吐いた。白い吐息は博史の髪の向こうで風にあおられてあっというまに消えた。

――やはり、裏切れない。

離れ離れだったとはいえ4年も付き合った男のぬくもりを聡はむげに突き放せない。

だけど。今日一日、いや、昨日からずっと将のことがいつも心の片隅にあった。こうしていても恋しいのは将、ただ一人だ。

「もう、いいから」

聡は、博史の腕をゆっくりとできるだけ丁寧にほどいた。

「でも、本当に、今日はここまででいいの。ありがとう」

聡はせいいっぱい笑顔をつくると、博史に背を向けて振り返った。

「連絡するから。じゃあ、さよなら」

博史は信号の赤に染まった濡れた路面に立ち尽くしていた。

以前の聡だったら、別れ際に『さよなら』という言葉は使わなかった。些細なことだけど……博史は聡の変化にかき消せない不安を覚えた。

第61話 孤独(3)

ゆっくりめに出勤するのだろうか、9時ごろになるとフロントは平日のクリスマスなりに、チェックアウトするカップルでごったがえしてきた。

一時ほどの流行ではないにしてもやはりクリスマスイブをホテルで過ごす恋人たちはあいかわらず多いらしい。

将は、聡を見逃すまいと、エレベーターが着くたびに目を凝らした。次から次へと着くので気が抜けない。

それでも10時頃にはいったんピークは過ぎたらしい。あわただしさが少し和らいだ。

気がつくと、将の向かいに品のよい老夫婦が腰をおろしていた。60代ぐらいだろうか。二人とも品の良い服を着ている。

「ちょっと電話してみようか」

夫が携帯を取り出す。

「やめなさいよ。まだゆっくりしてるのよ。邪魔しちゃ悪いわ」

とたしなめる妻の細い目のあたりに将は見覚えがある気がした。誰だかわからないが、ごく最近見た気がする……。

そのときまたエレベーターが着いて、中から人が降りてきた。

その、淡い色を身に付けた女性を聡だと判別するのに一瞬とまどった。

――ふだん、教壇に立っている聡は固い色のスーツにひっつめ髪だし、私服の聡はカジュアルなジーンズに髪を後ろで1つか両側に2つに結んでいることが多かった。

その淡い色のシックなワンピースを着けた女性は、下ろした髪をきれいにカールしていたこともさることながら。

スーツを着た博史に寄り添うその顔は、頬を染めて微笑んで幸せそうに見えた。

 

 

  
その10分ほど前。

ホテルのサロンに博史が迎えに行くと、ちょうど見計らったように聡の髪は仕上がるところだった。

「きれいに出来たね。どこから見てもお嬢様だ」

微笑んで賞讃する博史に聡は

「なんか、照れくさいわ」

と答えながら再び鏡を見た。

ふだん身につけることのない、淡い色のワンピースを身に着けた女がその中にいた。

通常は無造作にまとめている栗色の髪は乱れることなく、つややかな内巻きになっている。ピンク色のマニュキアを施された爪に、丁寧に塗られたファンデーション。

鏡の中の像は、自分であって、自分ではないのではないだろうか。

今から、婚約者の両親の家に挨拶にいく慎ましい女。これは果たして聡自身だろうか。

聡は、何か、今から舞台の上で芝居でもやるような気分になっていた。

二人きりのエレベーターで、博史は聡の髪をくずさないように肩を抱き寄せ、そっと囁いた。

「服のサイズは大丈夫だった?」

うなづく聡に

「まあ自信はあったけどね。さんざん実物に触ってるから」

とニヤリと口角をあげる。

「ヤダ……」

聡が赤くなって下を向いたとき、エレベーターが1階についた。

 

 

  
将が聡を見つけて立ち上がったとき、前にいた老夫婦も立ち上がった。

「おう、博史!」

夫のほうが声をかけながら、聡と博史のほうへ大またで歩いていった。

「……父さん?わざわざ迎えに来なくてもよかったのに」

「お前が嫁さんを連れてくるっていうから、いてもたってもいられなくてな……。すごい美人じゃないか」

夫妻そろって聡を微笑んで見ている。

聡は自己紹介と挨拶をした。うまくお嬢さんを演じられていると思う。

「出てきちゃって、母さんは、体は、大丈夫なの?」

博史は母の体を気遣った。

「最近はすっかり大丈夫なのよ。聡さん、これからよろしくね」

「ハ……、ハイ」

聡はあせってお辞儀をした。

博史の母・薫は、『取り乱すたち』には見えず、落ち着いた穏やかな人柄に見えた。顔色も悪くはなく、余命1年というのは言われなければわからないだろう。

「さっそく、うちに帰って乾杯しよう。聡さん、今日はゆっくりできるんだろう?」

話がまとまると、博史はチェックアウトしにいった。

聡はその間、夫妻とにこやかに言葉を交わしていた。

将はラウンジで立ち尽くしたまま、そんな聡をずっと見つめていた。

聡が少しでもこちらのほうを見れば、気がつく距離である。しかし、聡はこちらにまるで気付かない。

――緊張しすぎていてまわりがまるで見えていなかった聡に将を見つけられるはずもない、ということが将には考えられない。

チェックアウトから戻る博史が、将に気付いた。

聡の方を見るが、将に気付いていないのを見ると、わざと聡と将のあいだに立ちふさがり、一同を促した。

4人は駐車場出口へと歩き始めた。

博史だけが将を一度振り返った。聡の姿だけを目で追う将はそんな博史にも気付かない。4人が見えなくなるまで、ラウンジで立ち尽くしていた。

フロントの賑わいからもクリスマスツリーからも取り残されて、将に寄り添うのは孤独、ただそれだけである。

 

 

  
将はミニを走らせていた。

やみくもに車線を変更するように、運転に集中する。聡のことを思い出さないように。

……頬をそめて博史によりそう聡は幸せそうだった。笑顔で博史の両親に会っていた。

信号が赤になった。将はハンドルにつっぷした。

――もうダメなのか。アイツとモトサヤに戻ったのか。そのまま結婚してしまうのか。

すべての希望はなくなったのか。

それを認めたくなくて、青になるなり、アクセルを踏みスピードをあげ運転に没頭する。

 

  
気がつくと、あの海辺の道を走っていた。

聡とびしょぬれになってはしゃいだあの海岸が右に見える。

将はあのときと同じ場所に車を停める。

外に出たとたん、北風が将に吹き付けた。

朝の青空はどこかへ消えて、白い雲に一面に覆われた空の下、冬の海は暗い色をたたえて波が荒い。

サーファーですらいない寒い海。金色に輝くような9月のあの日は幻だったのだろうか。

冷たい風が染みて将の目から涙がこぼれた。涙は突風にあおられて飛んでいった。

それまでは泣くことなど忘れていたような将なのに、聡を好きになってから、何度涙を流しただろうか。

泣くことだけでなく、笑うこと、喜び、哀しむこと、せつなさ、嫉妬……。

爆破事件以来、凍ってしまったかのようなすべての将の感情を溶かしたのは聡その人だ。

将は空を仰いだ。

その聡が、将をおいて、いってしまう。

飛び立ったかもめが1羽、白い空の中を飛び去ってゆくのが見えた。

 

 
「山田さん、山田さんだろ」

と背後から声。

将は防波堤の上で釣りをしていた。聡との想い出の海岸の先にある、聡と……教師と生徒になるまで、通っていた防波堤で。

ゆっくりと振り返ると、黒いボアのついた紺の防寒ジャケットを身につけた『お巡りさん』が自転車をとめてこっちに近づいて来ていた。

空が暗くなって雪が再び舞い始めていた。降り始めるなり雪は勢いを少し強めた。

「ひさしぶりだねえ。どうしたんだい、こんな寒い日に」

『お巡りさん』の制帽や紺の防寒ジャケットも将のところまで歩くだけで雪でまだらになった。

「どうも……」

将は頭を下げると再び釣り糸に意識を飛ばした。

雪は次々と海の中に音もたてずに吸い込まれていく。

「あーあ、雪積もっちゃってるよー」

防波堤に腰掛ける将にもすでに雪が貼り付いている。『お巡りさん』は将の肩や背中、頭の雪を払いながら

「さては彼女に振られたんだろ」

と笑った。

返事をするかわりに、目からまた涙が出てきた。

『お巡りさん』は将の涙を見て、あせって

「すまんっ!悪かった!」

と謝り、

「元気出せ。女は1人じゃないぞ」

と付け加えて金融の広告が入ったティッシュを取り出した。

優しくされて将の涙はますます止まらなくなった。

ふりしきる雪の中、自らが流す涙だけが温かく頬をつたった。

流した涙は口に入ると海の水のようにしょっぱかった……そのしょっぱさですら、あの海での二人につながる。

『お巡りさん』が慰める言葉は頭には入らなかったがその温かさは心には染みた。

そして温かさは、聡の記憶を呼び起こし、次なる涙を連れてくる。

このままつらい思い出になってしまうには美しすぎるかけがえのない場面の数々。

将はただ涙を流し続けた。

差し出されたティッシュは全部なくなってしまった。

第60話 孤独(2)

昨日の残滓のせいか、将は深く眠ることができず、早く目が覚めた。

充電された携帯が使えるようになっていることを思い出す。

将はベッドに横たわったまま、2週間近くチェックしていなかったメールをチェックする。

電源が切れている間にいろんなやつからメールがきている。井口らから安否を気遣うメールがほとんどだ。

その中に聡の名前を見つけて、将は、ガバ、と身を起こした。
 
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12/8月21:20

このメールを見たら
今どこにいるか連絡してください。 
心配しています。古城

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12/10水17:30
 
今日、模試の成績が出ました。
すごくいい成績でした。
連絡を待っています。古城聡

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12/20土0:24

どこにいるの?
会いたい
会いたい。

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3通めのメールを表示した携帯を将は握り締めた。

確かに「会いたい」と表示している。

それを見たとたん、将は手早く服を着ると、駐車場へ駆け下りた。

聡の顔が見たい一心で○○パークホテルへと車を走らす。

昨日の雪はやんで、雲の間から澄んだ青空がのぞいていた。

昨日、タクシーの中で、博史は聡を自分の両親に会わせたいといっていた。

――ということは絶対に、二人はフロントに現れる。

きっと会える。

ハンドルをきりながら将は、高揚していた。

今度会ったら……!

朝日が雲間から将の顔を照らした。

 

  
しかし、赤信号で車が止まると同時に、思考も止まる。

光り輝く太陽から見れば真っ暗な高架の下の影にミニは停車した。

たぶん、昨日の夜、聡は博史に抱かれてしまっただろう。それで、モトサヤかもしれない。

ハンドルを握ったまま肩を落とした。

昨夜の淫らな想像が現実となって脳裏をかすめた。

と、後ろからクラクション。

信号はいつのまにか、気付かないうちに青に変わっていた。

あわててアクセルを踏む、と同時に再び進行するプラス思考。

高架の下を抜けると、冬の朝日がフロントガラスに、希望のように一筋、さしてきた。

昨日の別れ際。博史に肩を抱かれた聡は何度も自分を振り返った。

そのことに希望をつなぐ。

それに昨日、言いかけた言葉。

『私、将のこと……』

それは、前後の行動からいって、絶対に続くのは肯定的な言葉しか、考えられなかった。

 

 

   
ずいぶん早く着いてしまった。

25日、クリスマスといえど今日は平日。将はラッシュがピークを迎える前に到着することができた。

いくらなんでもこんなに早く、二人が出発することはないだろう。

仕方がないので、バカ高いモーニングをとったあとで、ラウンジへ移動し、新聞を読みながらフロントや、上から降りてくるエレベーターに目を光らす。

――あ。そうだ。

気付いた将は、ダメモトで聡にメールを送信する。

『あとできっと会いたい。返信待ってる』

さりげなく読めるように短いメッセージに想いを込める。

 

  
そのころ、聡はシャワーを浴びていた。

部屋ではボーイがディナーを片付け、かわりに朝食を用意していた。

「失礼します」

若い女性のスタッフが大きな箱を持って現れた。リボンが掛かっていていかにもプレゼント風である。

博史はそれを受け取ると、ソファの上に置いた。

ふと、聡のバッグの中で、低い振動音をたてる物体がある。

博史はためらわず、バッグから携帯を取り出した。ピカピカと点滅しながら、案の定『鷹枝将』の文字が表示されている。

博史は携帯を開くと、そのメッセージを読む……顔色一つ変えずに削除した。ゴミ箱も空にして痕跡を残さない。

 

  
ちょうどそのとき、シャワーの音が止んで、博史は携帯を素早くバッグの中の元の位置に戻した。

聡はバスローブに、髪の毛をタオルで包んで、シャワールームを出た。すると、明るい朝日の中で朝食の準備が整っていた。

「……わぁ。すごい」

それにはモーニングシャンパンまで用意されていた。

「せっかくのクリスマスだからね。それと、これは僕から」

博史は笑顔で大きな箱を聡に手渡した。

「え、なあに?」

「クリスマスプレゼント、といっても昨日、あわてて選んだんだけど。開けてみて」

そういわれて、聡ははっとした。博史へのクリスマスプレゼントを何も買っていない。それどころか将へのプレゼントも……。

「ごめん、博史さん、私……」

思わず深刻な顔になる聡に

「何?何だよ」

博史は、おどけて聡に顔を近づけてくると、おでこをくっつけた。あくまでも優しい目が笑っている。

「いいんだよ。聡にはもっといいものをもらえるから」

聡ははっとする。

子ども。

瞳に不安な色を浮かべた聡の、頭に巻かれたタオルを博史はくしゃくしゃっとかき混ぜて笑った。

髪の水分を含んだタオルはとれて、甘栗色になった濡れた髪の毛が露出した。

「開けてみろよ」

美しいリボンがかけられた包みはびりびり破くのにはもったいないと感じるものだった。

ていねいに爪をたててシールをとって箱をあけると、そこには淡い色のワンピースが入っていた。シックなデザインだが上質な色と生地はいかにも高価そうだ。

「ありがとう……」
「今日はそれを着たらいいよ」

「え?」
「今日、俺の両親に会ってくれるんだろ?」

そうだった。余命1年。聡に再び重圧がかかる。

「うん……」

博史は、うかない顔でうなづく聡の濡れた髪の毛をもう1回くしゃっとかき回すと

「俺もシャワー浴びる。あ、髪は、美容室予約しろよ」

と笑顔でバスルームに消えた。

聡は、リモコンでテレビを点けるとソファのほうへ行きバッグを手に取った。

博史の前では見られなかった携帯を取り出しチェックする。

もしかして……万が一のようなものだけど、昨夜のうちに将から何かメールが入っているかも、というかすかな期待があった。

しかし、新着メールはなかった。

聡はため息をついて朝日が差し込む窓辺の外に、将の顔を思い浮かべた。

昨夜、雪の中で夢中でしがみつく寸前、どんな顔をしていただろうか。

思い出せない。聡の中の将の顔は、何故かいつも少しつらそうな笑顔だ。

テレビでは、晴れ間は朝の間だけで、夕方頃から再び雪が舞うと予報していた。

第59話 孤独(1)

聡に抱きついたまま博史はしばらく動かなかった。

「博史さん……」

しかし聡はそれだけで、おおよそ事情がつかめた。結婚を早めたり、子供を欲しがったりしたのは、余命が1年を切った母のためなのだろう。

「ごめん」

しばらく聡を抱きしめていた博史は、体を離して、でも聡をまっすぐに見た。

「もう……、だいぶ悪いの?」

聡の問いに博史は首を振った。

「いまのところ、小康状態」

「お母様は、あと1年というのを知ってるの?」

博史は再び首を振った。

「取り乱すたちだから……告知してない」

そして、聡のバスローブに包まれた肩を両手でつかむ。

「せめて。元気なうちに孫の顔を見せてあげたいと思って。聡、協力してくれるだろ」

そのまま博史は聡を抱き寄せる。

聡は博史のなすがままになりつつ、心は動揺していた。動揺する心が、まるで抵抗するように聡に腕をふりほどかせる。

「協力って……。カタールに行くの?」

と向き直って訊くためのように見えるようにさりげなく。

博史は聡を安心させるように瞳を見つめて答えた。

「中東は遠すぎるから、上司にも事情を話して、異動願いは受け入れられたよ。一度引越しと引継ぎのためにあっちに行くけど、すぐ戻る。3月までは国内で準備をして、4月からはタイか中国のプロジェクトに入ると思う。その前に式を挙げて……どっちにしても聡にもついてきて欲しいんだ」

もちろん、妊娠したら日本の病院で産むんだけど、と付け加えて聡をまた抱き寄せる。

そこまで、具体的に計画しているとは……。

博史の腕の中で、聡は絶句した。

 

  
博史の子供をつくる。

いままで何度も博史を受け入れていても、結婚を約束していても、具体的に考えたこともなかった。

今は――将に心が移っている今は――もっと考えられない。

が、博史に別れを切り出すとなると。

さっきシャワーを浴びながら感じた嫌悪感の中に、それは漠然と含まれていたぐらいで、はっきりと決意するまでには至っていなかった。

何しろ、将への思いが、博史より上回る……というのはさっき、はっきりと自覚したことなのだ。

今、一番好きなのは将だ。これは間違いないといえる。

……だから博史とは結婚できないし、子供も産めない。

そうはっきり言えるほど、整理できてない。

現に、さっきは心は抵抗しながらも抱かれて、結局体はいつも通りの場所まで行った。

博史その人に嫌悪感があるわけではない。よく知っている体に、よく知っている愛撫。

どこをどうすれば聡にとってもっとも効果的か知り抜いている男を、聡の体はまだ信頼していたのだ。

それは心が他の男に移ったからといってすぐに乾くものではない。

もし、同じ行為を、嫌いだったり、知らない男に無理やりされたのであれば、絶対にこんな風にはならない。体も心同様苦痛を覚えるだろう。

博史は今、自分の何なのだろうと、聡は博史の腕の中で考える。

9月までは結婚を夢見ていた、最愛だった、男。もしそのままなら、彼の申し出はむしろ嬉しいものだったに違いない。

しかし、今は。

聡は、その男から無邪気に課せられた役目が苦しい。

だけど、『余命1年』の母を哀しむ男に、その役目を即座に拒否するほど、非情になりきれない。

それに肝心の将は、アメリカに行ってしまうかもしれないのだ。

聡は途方にくれていた。

 

 

  
将はローバーミニを運転してマンションに戻ってきた。

雪は、道路につもるほどの気概もなく、ワイパーに触れるとあっさり溶けた。

鍵をあけると、中は元通りにしつらえてあった。

今朝、ヒージーこと曾祖父の巌が朝食の席で『お前の部屋を元通りにしてやったぞ』と教えてくれたとおりだ。

『わしはクリスチャンではないが、クリスマスプレゼントだ』

巌はカラカラ笑うと

『薪割りがいなくなるのはさみしいが』

と付け加えた。

将は思わず巌の肩にしがみついた。毎朝朝風呂をあびる巌からは、加齢臭らしきものはしない。かすかに線香の匂いがするだけ……東京に妾がいるくせに、毎朝、亡き妻の位牌に線香をあげるのは欠かさないのだ。

『これ、大の男が』と巌は笑った。

子供の頃同じように抱きついたときより、巌の肩が軽くて細くなっていることに将は気が付いた。

元気そうにみえても巌は確実に年老いているのだ。

『また、遊びにこい。あきらさんとうまくやれよ』

と、門のところでハルさんと一緒に手を振っていた巌。……来年のクリスマスにはもうすでに巌からプレゼントをもらうことはない。

このときの将は知るよしもなく、ミニのクラクションで応えて、嬉しい気分で大磯を後にした。

 

  
将は暗いままの寝室のベッドの上に仰向けで倒れて部屋を見上げた。今までと何もかわるところはない。

本当に元通りになっていた。コンポのコンセントも差し込んであるのか、暗闇に黄緑色や赤色の星が浮かんだ。

そう、聡と抱き合って眠ったときのように――。

将は体を横向きにした。

あのときは強く抱き締めたら折れてしまいそうな温かい聡の体が将の体に向かい合って横たわっていた。

今、将の目の前に横たわっているのは、冷たい虚無である。

目の前に、甘い香りがする聡の髪の毛を思い浮かべた。彼女の吐息を胸に感じていた。そして細い腕の、ひんやりとなめらかな肌を撫でた。

腕の回想は、さっきみたウェディングドレス姿の聡と重なった。

――今頃、聡は博史と……。

馴れた、いままでに何度も抱き合ったであろう婚約者。

しかもクリスマスイブの夜ときている。

――いやだ。

将は頭を抱えて身体を丸めた。

白い肌の回想は、再び飯場の記憶から、淫らな格好をさせられていた聡の裸体を引き出した。

そこへ博史が覆いかぶさるイマジネーション。

――いやだ。

頭は嫌悪感で充満しているというのに、体中の熱い血液が1ケ所に集中していくのがわかる。感情とは別のところで嵩まっていく、欲望。

熱さから逃れるように、下半身の着衣を脱ぎ捨てる。そこは、すでに血液を充満させて硬化していた。

想像の中で、体を広げた聡は博史に犯されているように抱かれていた。

将はそんな想像で自分自身を弄ぶ自分をまた嫌悪して、苦しくて、息が荒くなった。でも始まったものは、終わるまでやめられない。

いつしか想像の中の博史は、将自身とバトンタッチしていた。

もっと加速させるために、もっと淫らな行為を想像の中の聡にさせる。さらにさらにエスカレートさせていく。

……やがて急速に沸点がやってきて、将は果てた。

まっ白な解放感が一瞬、将を圧倒する……これが去ると、あいかわらずの暗がり。

セオリー通り自己嫌悪がやってきた。

――聖なる夜に何やってんだ俺。

将は手の中のティッシュペーパーを暗がりの中に見た。

いつもはとっとと捨ててしまうそれに、自虐的な今日の将はなぜか惹かれた。

淫らな想像と、それによって吐き出された精液で汚されたティッシュペーパー。

保健で習った知識によれば、その中には将のDNAを持った精子が1億だか、いるはずだ。

そいつらは、もしも女の中に放出されれば、熾烈な競争を遂げて、タイミングが合えば1匹だけが卵子と結ばれるはずだった。

だけど、ティッシュの中のそいつらは、競争のチャンスも与えられることなくティッシュの中で今次々と乾き死にしている……。

今までだって、ティッシュの中や、コンドームの中で何十、いや何百億匹もムダに放出してきたはず。

そのことについては何も思わなかったのに、なぜ今こんなことを思うのだろう。

――それは、聡という絶対的な対象が出来たから。

そしてその聡が他の男を受け入れてしまったから。

そんなことは深く考えなくてもわかる。

聡と結ばれたい。聡を抱きたい。

あいつらだってどうせ無為に死ぬなら聡の体内で競争を繰り広げたかったはずなのだ。

将は、横たわったまま、さっき自販機で買った煙草を取り出すと火をつけた。

ライターのあかりに下半身をむき出しにした自分の情けない格好が照らし出されるが、すぐに暗がりに戻る。

紫煙は暗がりで見えないが煙草の先は幽かに赤く光っている。

まるで、ヒージーが毎朝仏壇にあげる線香の先端のように。

虚しく死んでゆく精子に虚しい自らを重ねると、そいつらへの供養のように、煙を深く吸って吐いた。

第58話 ホテル(3)

ブライダルコーナーを出ると、博史はチェックインをしにあわただしくフロントへと行ってしまった。

まるで、将に最後の別れを惜しむ時間を猶予するかのように、聡と二人で、ラウンジに残す。

ラウンジの外の滝もクリスマスのライトアップがされていて、夜の中に幻想的な世界を浮かべていた。

あたりは、ディナー前の待ち合わせか、恋人同士ばかりだった。将と聡も幸せそうなその中に溶け込んでいた。

なのに、二人ときたらまるで言葉が出てこないのだった。

時折思い出したように相手の顔を見つめて、そのたびに視線が沈んでいく。

訊きたいことはお互いいろいろあるのに。時が徒に流れていく。

やっと将の口からでたのは

「あのドレスで、ケッコンすんのか、あいつと」

という言葉だった。聡は将の顔を見つめるとゆっくりと首を横に振った。

その目には決意があった。それに勇気百倍した将はさらに続ける。

「……今日、来てくれたってことは、期待して、いいんだろ」

聡はまたたきもせず将を見つめた。

なんて返事したらいいかわからない。

いっそこの気持ちにまかせてYESと言いたい。

言ったところでどうなるのだ。立場は変わらない。

でも、こんな状況だから、せめて気持ちだけでも伝えておきたい。

でも、そうしたところで、それでどうなるのか……。

だけど。

「私……将のこと……」

聡は観念してその言葉を口にだそうとした。

言いかけたところで、聡は体の側面に重圧を感じた。

聡の座るソファーのわきに博史が立って二人を見下ろしていた。

「……じゃ行こうか、聡。ディナーは部屋にルームサービスを用意してもらってるから」

博史は聡を促した。将には手をひっぱるようにして無理やり立たせたように見えた。聡がすがるような目でこちらを見ている。

「鷹枝くん。付き合わせて悪かったね。みんなに聡は急用が出来たと伝えてくれ」

博史は聡の肩を抱きながら、そっけなく将に伝えると、そのままスタスタとエレベーターのほうへ向かって歩き出した。

拉致されるかのような聡は何度も将を振り返った。見る間に二人の距離が離れていく。

「待てよっ!」

将は二人を追った。

すると博史が振り返った。細い目をいっそう鋭くさせて将をにらみつける。

「先生にこれ以上何か用か?弟クン」

それっきり将は動けなくなった。目の前で二人がエレベーターに消えるのを見ているしかなかった。

 

  
エレベーターの扉が閉じるなり、博史は聡を箱の角に押しやると、他の客の目もはばからず唇を押し付けてきた。

今日はクリスマスイブということで、同乗する客も心得ていて皆知らないふりをしている。

逆に下手に抵抗するほうが恥になる、ということを博史は逆手にとったように、聡の唇を自分の唇で押さえ込む……。

 

  
ホテルの外に出た将は、再び白いものが舞い落ちているのに気がついた。

風にあおられて少し勢いが強くなっている雪の中に将は立ちすくんだ。

降ってくる先を確かめるように、空を見上げたところに、モザイクのような灯りを浮かべてホテルがそびえていた。

聡が連れて行かれたのはどのあたりなのか。

……どの灯りの中で、聡はあの男に抱かれているのか。

将はしばらく雪にかまわず、灯りを見つめていた。上をむいているのにもかかわらず、目尻から涙が一筋流れた。

 

 

  
聡はシャワールームにいた……すべて終わった後である。

激しい雨のようにふりそそぐシャワーの下で、聡は立ち尽くしていた。

時折、博史が放出した液体が体内から逆流し腿を伝っていく。

シャワーとまざってタイルへと落ちていく濁った色を見て聡はシャワールームの壁にもたれた。

――イヤだ。

体全体を支配する嫌悪感はシャワーごときで流れるはずはない。

皮肉なことに博史に抱かれることで、聡は完全に博史への気持ちが冷めている自分を、そして、自分の心にいま住み着いているのは将であることをはっきりと再確認したのだった。
 
さっき。部屋に入るなり、博史は聡を抱きしめた。そして有無をいわせずにベッドへと押し倒した。

それは別に、将の存在ゆえ、というわけでもない。博史の帰国時はいつもそんなものだった。

乾いた砂漠の国で、禁欲を強いられていた男性が恋人に出会ったときの反応としては普通だろうし、むしろ聡もそれを喜んでさえいたはずだ。

そして、それは別に乱暴だったわけではない。むしろ、いつもより時間をかけた丁寧な愛撫があった。

心は拒否していたけれど、何度も交わり馴れた相手――。

結局、聡の体はいつもどおりに反応してしまい、あとは何事もなくいつものところへたどりついた。

しかし、我に返ってみると、心はあいかわらず元の沈んだ場所にあった。

今まで博史に抱かれることで感じたような、身も心も高揚するような至福は訪れなかった。

そうして聡は知った。心と体が合致しない交わりの哀しさを。

馴れた相手に体がいくら快感を示しても、そこに心がなければ、あとに残るのはとてつもない後悔と虚しさだけということを。

他の男を愛しているとわかった今、体が心を裏切った辛さを、聡は味わうことになった。

終わったとき、聡はいつのまにか涙を流していた。そんな聡の顔を見た博史は

「ごめん……つらかった?」

と優しく口づけした。

いちおう事前に聡は「今日は体調がよくない」と抵抗を試みていたから。

聡は博史の唇が離れると、背を向けて

「……シャワー浴びるね」

と静かにベッドを出た。

 

 

 
博史はそんな聡に確かに異変を感じていた。

いつもだったら。余韻を楽しむかのように、しばらく裸のままお互いの肌のあちこちをくっつけて抱き合うのが習慣だったのに。

そのまま2回目に突入することも少なくなかった。

シャワーの音はまだ続いている。博史は将の姿を思い浮かべていた。

博史にはわかっている。

聡も将もお互いに惹かれあっていることを。

しかし、たぶん……これは男のカンのようなものだが……一線は越えてないだろう。

ということは、まだ取り戻せると博史は思っていた。

女なんて、肉体の快楽に勝てない生き物だ。

博史はいままでの経験上、そう思い込んでいた。

実際、今まで付き合った女と危機に陥ったとき、どんなに博史が不利な状況でも、思い切り快感をあたえてやればもとどおりだったから……。

だが、そのあとの聡のようすから、少し不安を覚えた。

もっとも、今までだったら、別に他の男に取られてもどうということはない。

他の女を探せばいいだけだ。博史はさほど女に不自由したことがない。

しかし……ある事情を抱える今の博史には聡を離すわけにはいかなかった。

 

 

だからシャワーを浴び終わった聡がバスローブを身に着けて出てきたのを見て、博史は少しほっとした。

もしかして、今からでも、服を着て将のところに戻るのでは、という不安があったからだ。

「ねえ」

聡は、バスローブ姿でソファに座るとベッドの上の博史のほうをまっすぐ見て問いかけた。

博史はまだ裸のまま、シーツの下に下半身を隠しているだけだ。

「さっきの……、どういうこと?」

 

さっき、ベッドの上で。

聡は愛撫に飲み込まれそうになって危うい意識の下で博史に最後の抵抗をした。

『今日は避妊して』と。

しかし、聡の周期がきっちりとしていることを知っている博史は

『今日は大丈夫な日じゃなかった?』

と聡の肌に顔を埋めたまま訊き返してきた。

実際『大丈夫な日』だったが、体のなかを、せめて汚されたくなかった。だから聡はとっさに

『最近ちょっと狂ってるから……』

と嘘をついた。すると博史は

『いいんだ。……出来たって。むしろ出来たほうがいい』

と答えてそのまま続けたのだった。

 

 
「あたし、出来ちゃった婚なんてイヤ」

聡は少し強い口調で言った。

「聡」

博史は裸のままベッドを降りるとバスローブを羽織り、可動式テーブルにセットされた冷めたディナーの横にある冷やされたシャンパンの瓶を手にとった。

将と初めて海へドライブした帰りに寄った高級フランス料理店で飲んだシャンパンはクリュグだったことを思い出す。

――こんな、他の男に抱かれた直後ですら、将の思い出から離れられないのだ。

聡は自虐的に考えている。

ワイン好きの博史だから栓を抜くのも慣れたものだ。低く『ポン』という音がして、シャンパンフルートに金色の液体が注がれた。

フルート1つを聡に手渡すと隣に腰を下ろした。

「早く、子供をつくりたいんだ」

意外な発言に聡は、目を見開いた。何も言葉が出てこない。

博史はシャンパンフルートをあおるようにして空にすると、聡の肩に腕をまわす。

至近距離に博史の哀しそうな目。聡は目を下に向けた。

「聡、聞いて……おふくろが……先月、余命1年を宣告されたんだ」

それだけ言うと、博史はそのまま聡を抱き寄せて首筋に顔を埋めた。

第57話 ホテル(2)

将は博史のおもいがけないセリフに思わず振り返って聡を見た。

ちょうど同じように驚いた聡がよりかかっていたシートから身を起こすところだった。

目があった。

二人の視線の一瞬の邂逅を博史は見逃さなかった。

聡は博史のほうに向き直ると

「何で?急に?」

と訊いた。なんとなく、そういうことを言われるかも、と予想はしていたが、この状況でいわれるとは……。

「何か、悪いこと言ったみたいだなぁ」

博史は笑いを含んだ声で答え、聡の髪を撫でていた右手を自分の頭に持っていった。

その目だけが……明るい調子のセリフとかけ離れている。その目に気おされて聡は

「いや、そうじゃないけど……」

と下を向いた。将も後ろに意識を飛ばせたまま前を向くしかない。

「後で二人になったら話すけど、いろいろと事情があってね」

『後で二人になったら』今夜絶対に博史は聡を抱くつもりだ。将は思わず瞳だけが後ろを見ようと右に寄ってしまう。

――絶対に、何があっても邪魔してやる。

助手席で将がそんなふうに悶々とした思いを抱えていると知っているのか、

「賛成してくれるだろ。前からアキも早く結婚したがってたことだし」

と博史は二人にプレッシャーをかけるように付け加える。

そのとき、タクシーは○○パークホテルに滑り込んだ。

 

 

 
○○パークホテルは特に新しいわけでも、斬新なデザインでもなく、派手な設備やテナントがあるわけでもないのに、女性誌などで行われる「有名人に聞いた好きなホテル」などといったアンケート企画に必ず名前を連ねるホテルだ。

「垢抜けないけどなんとなくゆったりとした雰囲気がいい」

などと誉められている記事を聡もサロンで読んだことがある。

その明るすぎない吹き抜けのロビーを聡の手を引っ張るようにして博史は突っ切った。将のことは無視しているかのようだ。

引っ張られた聡はときどき将をすがるように振りかえる。

こんなところまで将が付いてきたのは、聡のためだけだ。

奥のほうにブライダルコーナーがある。

クリーム色を基調としたここだけは、ひどく明るい印象で、将は足を踏み入れるのが気恥ずかしいほどだった。

博史はそんなことはまるで気にしないように、毛足が長く足が沈む上品なピンク色のカーペットを踏み込んだ。

「ドレスの試着はまだできますよね」

博史は、笑顔で控えている受付の女性に申し出た。

『クリスマスにドレスの試着をしてみませんか』という案内があるのを将は見つけた。

「ほら、すごいだろ」

博史は無邪気に聡をドレスルームに連れて行った。そこには壁にぐるりと何十着、いや百着を超えるドレスが下がっていた。

将はあたりを見回して圧倒された。ウェディングドレスが白だけでないことを将は初めて知った。

案内の女性が、ここにあるのはすべてブランド物だと控えめに告げる。

「好きなの着ていいよ。……これなんか聡に似合うんじゃない?」

博史が選び出したのは、シンプルだけど複雑な光沢の織りが豪華な真珠色の一着だった。

「あ、あたし、まだいいわ……」

聡は遠慮するふりをして、逃げようとした。

「何で」

博史が無邪気ながら、絶対に逃がさないという声をあげる。

「だって……」

「せっかく来たんだからさ。鷹枝くんだっけ、……も見てみたいだろ?」

いきなり将は自分に話をふられて、とまどった。

困惑する聡を見て『どうでもいい』と言ってもよかったが、ここはそういう雰囲気ではない、というのは将にもわかる。それに好奇心もあった。

「アキラ、着てみろよ」

といつもどおり呼び捨てにしまってから、聡の目が見開いたのに気づいた。

――やべえ。『先生』だった……。

博史のほうを恐る恐る確認したが、彼は気づいたのか気づかないのか軽く笑みを浮かべたまま

「ほら、ね?」

と聡に優しくかつ、絶対的権力をもって向き直った。

聡はスタッフに促されて、博史が選んだドレスと共にフィッティングルームに消えた。

 

 

 
聡を待つ間、ソファーを勧められた二人の男は互いにそっぽを向いたまま、話すこともなく沈黙していた。そんな気まずい空気を悟ってか、お茶を持ってきたスタッフが

「お式の予定は?」

と博史に聞いた。

「そうですね。3月か4月を考えているのですが」

――ウソ!もう半年ないじゃん。

博史を、将は思わず見てしまった。博史は将がこちらを向くのを予想していたように構えていた。

「まあ、もう、すぐじゃないですか」

「ええ。そうなんです。ちょっと急ぎたい事情がありまして」

結婚に関しての具体的なことを話すスタッフと博史を見て、

『自分たちはこれ以上進まないほうがいい』という聡の言葉はこれが原因か、という疑惑が浮かんできて、みぞおちがズキっとした気がした。

しかし次の瞬間、雪の中、髪を振り乱して走ってきた聡が鮮やかに浮かんだ。

――そうだ。さっき車の中でだって、結婚を早めたいといわれて、聡はひどくとまどっていたじゃないか。

将はみぞおちに話しかけるように自らを落ち着かせた。

 

 

 
そのとき「わあーステキですぅ」と若いスタッフが思わず声をあげるのをソファーの3人は聞いた。

振り返った将は思わず立ち上がった。

真珠色のドレスに包まれた聡がいた。その姿は光り輝くようで、将は息を呑んだ。

博史をはじめまわりのものが手を叩いて賞賛するのもまるで頭に入らなかった。

「ステキです、ステキですぅ~!まるで女優さんみたい」

居合わせたスタッフが皆駆け寄っていくのはお世辞ではないだろう。ベールこそしていないが、聡はそのドレスを見事に着こなしていた。

「こういうストラップのないドレスは着る人を選ぶんですけど、聡さんは問題ないですね」

スタッフのいうとおり、大胆に肩を出したドレスは、ある程度、胸が豊かじゃないとずり落ちてしまうだろう。

そのくせ、さる高級ブランドの新作だというそのドレスはウエストが信じられないぐらい細いが、聡はジャストサイズだった。

将は、聡の丸出しになった白くてなめらかな肩や、ドレスの中へとつながる胸の谷間を見て心臓が騒いだ。

胸の辺りは少し窮屈そうに見えるほどだったが、肩から続く腕は、あの抱き合って眠った夜の感触の通りとても細く華奢だった。

肩や胸元の白い肌は、あの川ぞいの飯場から救出するときに見た、聡の裸像をフラッシュバックさせた。意識がないとはいえ、ひどい格好をさせられていた……聡の姿は一瞬でも将の脳裏に焼きついている。

いけないとは思いつつ、将はすでに何度かそれを思い浮かべてしまっている。

そんなこともあって、なんだか見ちゃいけないような気がして将はそっぽを向いた。

「弟さんも、お姉さんがキレイでびっくりされたんじゃないですか?」

スタッフの一人が将に話しかけた。弟。スタッフの無邪気な言葉に、将は自分が聡には若すぎるということを思い知らされた。

自分は聡の恋人ではなく弟として世間に見られるのが妥当……。

愕然とした将は、もう一度聡のほうに向き直った。

高価なドレスは、着る女性によっては、女性のほうが負けてしまうものだが、聡の場合は違った。

派手な化粧をしているわけではないのに、ドレスのほうが完全に聡の引き立て役になっている。

そのオーラは、将にみだらな想像をさせることを封じてしまったほどだ。

しかし、当の聡はといえば、皆に賞賛されるほど似合うドレスを着ているとは思えないような、困ったような顔で、伏し目がちだった。

「本当に、すっげーキレイ。アキラ……」

思わず素直な言葉を口にした将に、聡は視線をゆっくりとあげた。

二人はお互いにせつない目で見つめあった。

「ちょっと胸の辺りが窮屈なんじゃない?」

博史は見つめあう二人の間に割って入るように、ドレスの上端をつまむように、

そこはつまり聡の胸元の、やわらかいところ……そこは恋人か夫だけに許された聖域である……に指を少し入れた。

「うん、やっぱりちょっとキツイだろ?」

将はそれをみて『あっ』と声をたてそうになった。

単に布の締め付け具合を確かめただけだったが、二人が深い関係でないとできないことだった。それはまだ、将には許されていないことだった。

聡は視線をもう将からはずしてしまい、博史の指が触れる自分の胸元を見ているようだった。博史のその何気ない行為を嫌悪するようすもない。それほど馴れた二人なのだ……。

ふいに、さっき聡を待っていたときに感じた寂しさの影が、将を襲う。

第56話 ホテル(1)

博史の視線を照射された聡は、メデューサに魅入られたがごとく動けなくなった。

ただ無意識に将にからめていた腕をはずし、将のそばから一歩下がった。

将は聡の腕が離れて初めてこちらを見ている博史の存在に気づいた。

――この男が……。

将は視線に力を入れた。それは博史の顔をよく見ようと目をこらしたから……だけではない。

博史は、むしろほほえんでいるような顔で、こちらに近づいてきた。

……強い風が吹いて、雪が舞乱れた。

ついに、将の目の前、殴ろうと思えばお互い殴れる距離に博史が立った。

聡は、博史のほうを凍りついたように見て、ただ唇をふるわせていた。

17歳の約2倍、33歳だという男は、将のことなど見ていなかった。さっきの低い声とはまるで違うやさしい声音で

「教え子さん?」と聡に訊いた。

訊かれたとたん聡は下を向いた。かすかに肩がふるえている。

将は聡を守ろうと自ら口を利いた。

「古城先生の教え子で鷹枝将といいます」

視線は博史の顔に残したまま、頭を軽くゆっくりと下げた。

博史はそこで初めて将のことを一瞥――つま先から頭まで一通り――し、最後に目をあわせて

「原田です」

と低めの声で苗字のみを名乗った。当然ながら頭は下げない。

笑顔に見えるその細い目は何もかも知っている目だった……つまり将のことを間男として蔑ずむべく、目の奥には憎しみがやどっていた。

「教え子さんとパーティだったの?」

博史は笑った顔のまま、目の奥で将をにらみつつ言った。

聡はあいかわらず下を向いたままだ。長い睫がふるえているのがわかる。そのようすが聡を守るべく将にウソをつかせた。

「そうです。他にもメンバーがいるし、僕はただ迎えに来ただけです」

――こんなくだらない嘘、信じるはずがない。

将はわかっていても嘘をつくほかはなかった。

「先生、言ってた彼氏ぃ?」

下を向く聡のほうを見て、演技を続ける。聡は泣きそうな顔で一瞬将の顔を見上げた。しかし、すぐに博史の視線を感じて、視線を落とす。

「そうよ……」

将の気遣う視線がわかった聡は、かろうじて声にすることができた。

「……どうして、ここに?」

不自然でないように、博史に訊き返そうとしたが、恐くて博史の顔をどうしてもまともに見ることができない。目を伏せてしまった。

「さっき言ってた、今日付き合ってほしいところの店じまいが、思ってたより早かったんでね。それから、だめモトでキャンセル待ちしてたホテルが空いたという連絡が急に入ったんで追ったんだ」

ホテル。今夜、博史が聡を抱くために用意した部屋。将は思わず再び博史への視線を強めてしまった。

博史のほうはとうに将のほうなど見ていなかった。聡の肩に手をかけると、優しい声で

「来てくれるね?」

と言った。

今度は将が聡を見つめる番だった。思わず奥歯を噛み締める。

――いやだ。

せっかく逢えたのに、他の男に抱かれるために行ってしまうなんて。

将のすがるような目線を感じたのか、意外なことに博史は

「君も来る?」

と将に声をかけた。将は、そして聡も、え?と目を丸くして博史の顔を見た。

博史は、その二人の表情がそっくりなことに嫉妬したが、ひっこみがつかない。

――ここは遠慮するよな、普通。

という思惑は見事はずれた。

将はことさら明るく笑顔をつくり

「ええー、いいんですかぁ。俺どうせ暇だからうれしーなー」

と鈍重でバカな小僧を演じきった。それはひとえに聡が博史に抱かれるのを阻止するためだった。

 

 

 
さっきは舞っていた雪は止んでしまっていた。

混んだ通りを避けて、3人は少し歩いて別の通りに出てタクシーを拾う。もちろん交わす言葉などない。

タクシーに乗り込むときに、聡は遠慮がちに初めて博史の顔を見て

「あの……、どこに行くの?」

と問いかけた。博史は細い目で微笑みながら、聡を先にシートに座らせて

「いいところ」

とだけ答えた。運転手には「○○パークホテルへ」と告げた。

その隣に博史が乗り込んだところで、将は博史の隣に――つまり後部座席に3人並んで座ろうとした――ジーンズの腰を押し込もうとした。

博史はあきれて

「君は助手席」

と命令した。

「あー、すいませーん」

将はえへへと笑うと後ろ頭を掻いた。これも鈍くてバカな若者を演じるアドリブなのだが。

――3人でホテルなんて、何を……。

聡は、博史がどういうつもりだかが理解できなかった。

 

 

 
タクシーは今度は順調に夜の街へ向かって滑り出した。

将は後ろの座席が気になって仕方がなかった。しかし助手席というのは意外に後ろが見えない。バックミラーは運転手専用のようなものだし、サイドミラーは暗くてよく見えない。

そうかといって、後ろをしょっちゅう振り返るのは、聡の立場を考えると博史がいる限り、難しかった。仕方なく将は精神を集中して後ろの会話に聞き耳をたてた。

タクシーが動き出すなり、博史は聡の手の甲に自分の手を重ねた。

聡は一瞬びくっと体をふるわせたが、何も声をたてられない。心臓が存在を主張し始める。

行き先を見るような振りをして前をみつつ目の端で将の姿を追った。

しかし前の車の赤いテイルランプに照らされたボサボサ頭は前を向いたままじっとしているだけだ。

博史は聡の顔を見ながら、聡の手をさすった――自らの指をたてて、聡の指と指の付け根の柔らかい部分を、さするように愛撫する。

それは主に愛しあったあとによく行われた慣れた行為だった。

聡は目を伏せて、触れられた手を固く握ることで指の股に挿し入れられた博史の指を追い出そうとした。

すると締め出された博史の手はだいたんにも、聡の太ももに取り付いた。

博史とは逆の方向に閉じて揃えられたそれはスカートとストッキングに覆われていたため、博史はしばらく布地の上から太ももの上を往復しはじめる。

聡は再びびくっと体を硬直させると前を――後姿の将の髪を再び――今度ははっきりと助手席のほうを見てしまった。

次に、しまった、と博史の顔を見た。鼓動が早くなるのがわかる。暗い車内で、細い目のはずなのに博史の白目がピカっと光った。

そのまま、手を伸ばして太ももに這わせた手を、膝あたりにあるスカートの裾に持っていくと、膝の内側に手をかけて、そのままグイ、と引いて聡の足を開脚させた。

「やめて」

思わず、聡は大きな声を出してしまった。心臓は胸から飛び出しそうなほど暴れている。

もはや振り返っても不自然ではない声に、当然将は後ろを振り返る。

運転手もバックミラー越しに興味津々なのがわかる。

博史は手をさっと引っ込めて知らんふりをすると、聡に微笑んだ。

「冗談だよ。バカだな」

そういうと将の見ている前で――将の視線を十分に意識しながら――後ろから手をまわして聡の頭を撫でた。

将は、何もいえず、無表情をとりつくろって再びゆっくりと前を向いた。髪に聡のすがるような視線がからみついているのがわかる。

「なあ、聡、明日学校休める?」

博史は聡の髪をいじりながら訊いた。

「どうして?」

声がうわずってしまっている。

「明日こそ、両親に紹介したいと思ってさ」
「……ずいぶん急ね」

少し低めの声は、暗に強引な博史を非難したつもりである。

「実は、結婚を早めたいんだ」

博史の声は落ち着いたものながら、車内に響いた――もちろん将に聞かせるためだ。

第55話 クリスマスの約束(4)

聡は色とりどりの灯りに彩られた通りを、やみくもに走り続けていた。

空気は思ったより冷えていて、それを吸い込む肺がきしむように感じたのも初めのうちで、今は激しく波打つ心臓と一緒に破けてしまうのでは、と思うほど痛い。

走って30秒もしないうちに、ヒールの足が痛んで、これも今は棒のようだ。

それに優雅に舞っているように見えた雪は、走る聡を意外にも阻み、ひらひらと舞い落ちては、走る聡の顔に髪に次々と張り付いて溶けた。

汗と雪どけの水分で、きれいに整えた髪はめちゃくちゃになるが、かまわず走り続ける。

段差にヒールをとられてあわや転びそうになるのを、こらえて足が吊りそうになる。

さっきタクシーで追い越し追い越されつつしていたカップルが見えてきた。傘2つで道幅いっぱいに歩いているのが、今の聡には邪魔だ。よけてくれる時間すら惜しい、待てない。

「すいません」といいながら、肩がぶつかって、身を翻す。

カップルの男のほうが何か叫んでいたがかまわない。

聡は無視して走り続けた。

 

 

 
会場前の時計は18時30分を指していた。

―――やはり来ないのだろうか。

降りしきる、というほどではないが、雪が舞い落ちていく中を、将は立ち尽くしていた。

もう開演時間というのもあり、さっきさんざん通り過ぎた、幸せそうなカップルたちすら通らない。

なんとかして携帯を充電するんだった、と30分ほど前、将は悔やんだ。

でも―――こんな日だから、来るときは遅れてでも来るだろう。

逆に、携帯やメールが通じたなら。

『ごめん。やっぱり行けない』というメッセージを受け取ってしまうかもしれない。

むしろそちらを、将は恐れた。辛抱強く待つことを決めた将の頭の中に、古い歌が流れ始める。

 

 
雨は夜更け過ぎに 雪へと変わるだろう

きっと君は来ない ひとりきりのクリスマスイブ……

 

 
歌はひとたび流れ始めるとリフレインとなって何度も押し寄せてくる。

―――本当に来ないつもりかよ?

聡は本当に将を見捨ててしまうのだろうか。寒さもあいまって、それが現実になる怖さに将は震えた。

美しい色とりどりのライトアップに繰り返されるクリスマスソングが今の将には虚しい。

宇宙空間にたった一人よりむしろ、賑やかな中、たった一人で取り残されるほうが寂しいというのを将は思い知った。

いっそ最初から、愛を知らなければ、こんな思いをすることもなかっただろう。

聡を愛してしまった将は、一人ぼっちだと思っていた頃より、ずっと寂しくなった。

太陽の温かさを知る幸せは、それを失えば闇の冷たさがさらに突き刺さるということなのだ……。

「……まいったな」

誰にも聞こえないくらいの声でぽつりと呟いて、将は目の焦点をぼかした。

色とりどりの光が万華鏡の中の光景のように崩れて、目の前が単なる二次元になった。

そうしないと涙がこぼれてしまいそうだから。

時計は18時45分になろうとしていた。

将はもう一度雪が降ってくる空を見上げた。ため息が白く立ち上っていく。

この思いも白い蒸気のようにいつか、消えていくんだろうか。

 

 

……とうとう将は歩き始めた。

下を向くとよけいに涙がこぼれそうだから、前を向いて、できるだけ何も思わないように意識して歩く。

でもどこへ行けばいいんだろう。これから、どうすればいいのだろう。

―――どうすんだよ、アキラ!

最後に将は聡を心で呼んだ。

その名前を思い浮かべただけで、とうとう堪えられずに将の目から涙がこぼれおちた。

 

 

そのとき、将は聡の声を聞いた気がした。まるで心での呼びかけに答えるかのタイミングだった。

「将!」

もう一度、こんどははっきりと聞こえた。

半信半疑で振り返った将の瞳は、確かに捉えた。駆けてくる聡を。

雪と汗でぐしゃぐしゃになったその顔は、将の姿を見つけて、さらに涙が加わった。

将も知らず、聡が来るほうへと走りはじめていた。

聡はよろよろになりながらも最後の力を振り絞って走った。

「アキラ!」

将の呼びかけを合図に、聡はタックルするように将の腕の中に飛び込んだ。

「将……」

力を出し切った聡は、そのまま力尽きるように倒れこんできた。

「ごめんね……遅くなって」

聡はそれだけ言うと、体をかけめぐる激しい血流に、頭の中が真っ白になり何も考えられなくなった。

ただ、腕だけが、将を求めて、将の体にからみつく。

将は聡の全体重を受け止める。まるで体全部が心臓になったような激しい動悸が、聡から伝わっている。全身、湯気がでそうなほどの熱さだ。

責めの言葉も、理由を求める言葉も……愛を告げる言葉ですら出てこない。

将はただ聡を力の限り抱きしめるしかなかった。

そんな二人を色とりどりのライトと舞い落ちる雪が包む。

さっきと変わらない風景は、限りなく美しい情景となって将の目に映った。

 

 

「……ずいぶん、インターナショナルな挨拶だな」

将の腕に抱かれた聡は、聞き覚えのある低い声を背後に聞いた。

ゆっくりと振り返る……恐れていた通り、そこには博史が立っていた。

第54話 クリスマスの約束(3)

「すいません、できるだけ急いでください」

行き先と共に聡は付け加えた。

「やってみるけど、今日はクリスマス・イブだから都心は混んでるよ」

運転手は暗にそれが難しいと口にした。

携帯を開いて時刻を確認する。もうすぐ18時。コンサート会場前の待ち合わせ場所まで急いでも30分はかかるだろう。

「できるだけ、お願いいたします」

聡はそれでもお願いするしかなかった。

 

  
急いた気持ちの聡には、窓の外の美しいネオンなどまるで目に入らない。

将に電話をかけてみる。あいかわらず、いつものメッセージだ。

携帯を開きついでに美智子に電話をかける。

「予定より早く博史さんが帰ってきて……。それで行くって言ってたのに申し訳ないんだけど、今日やっぱり行けそうにない。ごめんね」

博史には、美智子をいいわけにし、美智子には博史のせいにしている。美智子も、聡を何も疑うことなく

「それじゃ、しょうがないね。でも、よかったじゃーん。博史さんにヨロー」

と明るく返事を返してくる。

「……○○や△△によろしくね」

そこまで嘘をついて、教え子に逢いにいく自分は、なんと堕ちた存在なんだろう。

携帯を切った聡は、ようやくシートに寄りかかって、窓の外に目を移した。暗い窓には、自分の顔が映っている。

―――卑しい顔をしていないだろうか。

そんな聡はさっき、博史と口づけを交わしたことを思い出した。

コンパクトを取り出して、口紅を塗りなおす。つやつやとしたそれで装う唇は、まさに9才も年下の教え子のためのものである。

それでも、一目だけでもいいから逢いたい。暴走する感情に聡はもう抗うすべを持たない。

口紅を塗りなおした聡が、髪をととのえようと再び窓を鏡にしたときだ。

ガラス窓に白いものが吸い寄せられるようにくっついて、すぐに消えた。

聡は窓に顔を近寄せた。

―――雪だ。

黒い空にも、ぼってりとにごった色を際立たせた雪雲は、とうとう耐えられずに白い華を散らしはじめた。

「とうとう降りだしましたねー」

運転手がフロントガラスから空を仰いで聡に聞かせるように独り言を言った。

道路もだんだん流れが滞りがちになってきた。でも、まだ歩くよりは早い速度だ、ということに聡は希望を持つ。

しかし。

だんだん、車が停車するたびに、歩道を歩く人に追い越されるようになってきた。

雪はそれほどひどくはないのだが……。

雪の舞う歩道を、手をつないで歩く若いカップルが聡の目に入った。

ビニール傘を1つずつ手にし、舞い落ちる雪を楽しむように、ゆっくりと歩く。

寒さは、お互いの手の温かさを際立たせるだろう。たぶん、この寒さでさえ、あの二人にとっては、この夜をひきたたせる演出でしかないのだ。

聡は、いつしか、将とはじめて手をつないだあの湾岸を思い出していた。

あのころは今日のように寒くはなかった。将の指は博史と同じぐらい長いが、育ちがいいせいなのか、若いせいなのか、それは柔らかい感触だった。

あの手の感触も、腕の感触も、唇の感触も――鉄くさい味がした傷だらけのキスも――すべて聡には忘れがたいものになっていた。

窓の外をいく二人に、聡は自分と将を重ねた。

聡が乗るタクシーは、信号が緑のときは、その二人をのろのろと追い越し、赤に変わると二人のほうがタクシーを追い越した。しばらくそんなことを繰り返していたのだが……。

とうとう、タクシーは二人を追い越せなくなった。聡は窓に顔をくっつけるようにして二人の姿をみようとした。氷のような窓の冷気が産毛から頬に伝わるようだった。

二人の姿は、はるか前方に歩いていってしまったようで、聡からは舞い落ちる雪しか見えなくなっていた。

待ち合わせの場所まであともう少しというところで、車の流れは完全に滞ってしまった。

「お客さん、事故か何かですかねえ……もう進まないみたいですよ。歩いたほうが早いですよ」

運転手は観念して聡に告げた。待ち合わせ場所まではここから歩けば10分ぐらいだろう。

車道側を見れば、片側4車線の大通りの真ん中の車あたりからも、あきらめた人が車から降りて歩き出している。

傘を忘れてしまったし、歩きにくいヒールのブーツを履いてきてしまった。

もう一度携帯を開いて時間を見る。18時35分。もう待ち合わせから1時間以上も経ってしまっている。でも。

聡は意を決すると、そこでタクシーを降りた。道路に足がついたとたんに、車の間を縫って走り始める。

 

 

  
将はコンサート会場の前で待っていた。

ここもクリスマスらしい、電飾とライトアップがなされていて、コンサートへ向かうカップルがそれを指差しながら次々と将の横を楽しげに通り過ぎていった。

――アキラ、来てくれるよな。

クリスマスソングがどこからともなく聞こえてくる中、将は、空を見上げた。

聡へのメモには17時30分と書いたが、開演は18時30分なのでまだ余裕がある。

将のすぐ近くを、手をつないだカップルが通り過ぎた。明らかに男のほうが若いカップル。

あきらかに40代の彼女のほうは年甲斐もなく、20代のように見える彼によりそい甘えている。

こんなにあからさまなカップルだっているのだ。聡は何を尻込みすることがあろうか。

なかなか自分に甘えようとはしてくれない聡。でも本当はとても泣き虫なことを、将は知っている。

――いつだったっけ。

たぶん、将と聡が初めて手を握り合ってしばらくして、だったと思う。

将と聡は週に1度ほど食事をともにするようになっていた。教え子におごられるのを聡は嫌ったから、安い定食屋やラーメン屋がほとんどだったけれど。

そんなあるとき、聡が「ちょっと本屋に寄っていい?」と提案した。

将に別に異存はなかった。今日発売の漫画誌ではない月刊誌を聡は見つけ出すと、それに1つだけ連載されている漫画を開いた。

「キョーシが立ち読みかよー、しかも漫画」

将はわざとあきれたように言った。

「だってぇ。これ先が気になってたんだもん」

それだけ言うと、聡は漫画に集中し始めた。将は他の本を広げるふりをしながら漫画に見入る聡の横顔を見ていた。

聡は平穏な顔をよそおいながら、その表情を微妙に変化させていった。読み始めとは明らかに見開く目の大きさが違っている。

お、と将はたじろいだ。

聡の瞳に涙がたまりはじめていたからだ。

さすがに本人も涙を流すのはまずいと思っているのか何回もまばたきを始めた。

熟読に耐えられないのか、本と顔の距離を離して、早いペースでページをめくりはじめた。

「ハイ。もういいよ」

聡はその雑誌を棚に戻すと、将に向き直った。その目にはまだ涙が残っているのか、まばたきを素早く繰り返している。

下りエスカレーターに乗りながら、聡は無口だった。

「アキラ、さっきうるうるしてただろ」

通りに出て将は笑いを浮かべて言った。

「……え」
「俺、漫画の立ち読みでうるってる女初めて見た」

と将がくすっと笑うと、聡は

「うるさいっ」

と、そっぽを向いてすたすたと歩を早めた。

「アキラー、アキラセンセイ?」

将は聡の後を追うと、さきまわりして聡の肩を正面からつかんだ。

ぷうっとふくれて横を向く聡の瞳から、たまりすぎていたのか、ぽろっと1粒の涙が転げ落ちた。涙は赤いネオンを移してルビーのようにきらめいた。

それを見た将は、なんだか温かい気持ちで心がいっぱいになるのを感じた。

「……いいじゃん。俺、そういうの好きだよ。何をみてもムハンノーよりずっといいと思うよ」

それはフォローなどでなく、たった今湧き出した将の本心だった。

前に一緒にいることが多かった瑞樹は、聡よりかなり若いにもかかわらず、あまり感情を出さない女だった。

そして将自身もあの爆破事件以来、感情を表にだすのを我慢してきたようなところがある。

いままで、漫画や本で涙を流すような女はむしろ嫌いだったはずだ。だが、そんな聡を好きになって。

素直に感情を顔に出す聡といることで、存在を忘れていたような将自身の感受性が再び息を吹き返したのだ。

「うるさいっ。生意気なこと言わないのっ」

聡は涙をぐいっとぬぐって将をにらみつけた。

 

こんなときに思い出すのは、そんな何気ないことだ。

記憶を彷徨していた将の意識がふっと、現実に戻ると、白いものが舞いだしていた。

第53話 クリスマスの約束(2)

ドアをあけるなり抱きしめられた聡は懐かしい博史の匂いに包まれた。森林を思わせるような香りに、思考が一瞬飛ぶ。

博史は、いったん聡を離すと、ドアを閉めてもう一度聡を抱いた。

しばらく聡をきつく抱きしめたあと、

「顔をよく見せて」

博史は聡の頬を両手ではさむようにして顔を近づけた。

お互いの視界がお互いの顔だけになるほどの距離まで近づく。もう少しで唇がふれあう、というときに、

「どうしたの……?明日じゃなかったの?」

と聡が訊いた。自分でもかすれてうわずった声だと思った。

「喜んでくれないの?」

聡の視界いっぱいに笑顔を浮かべて、博史はそのまま、聡の唇を吸った。

馴れた博史の口づけに、聡はされるがままに『なるしかなかった』。

そう。いつもどおりの深い口づけを交わしながら、聡は、完全に醒めている自分の心を自覚していた。

聡はからんでいた舌を手始めに、体をするりと離した。

「寒かったでしょ。コーヒーいれるね」

そんな理由もなんとか通用する寒さでよかった、と思う。

 

 

  
博史は、仕事が予定より早く終わったので、急遽有給休暇を取得して飛行機を1日早めてきたのだという。

そんな博史の話を聞きつつ、聡は微笑みをつくりながらコーヒーを淹れ、なお余る頭の余白で考えていた。

博史の顔を見れば、案外自分は博史にまた戻っていくのではないか、という予想は見事にはずれた。

やはり、スキンシップのせいなどではない。自分の心は完全に移動してしまったのだ。

博史の唇を受けながら、醒めた頭のどこかで思い浮かべていたのはやはり将だった。

――将は?将との約束は?

聡は思わず時計を見る。17時23分だ。

「聡の部屋に来るのはじめてなんだよね。結構センスいいね」

博史は、そんなことをいいながら、コーヒーを淹れる聡に気を利かせて、棚からペアのマグカップを出してローテーブルの上に並べた。

デキャンタにコーヒーをもってきた聡はそのカップに気付いた。

――将からのバースデイプレゼントのカップ。

1つはもちろん自分のものだ。もう1つを使う権利があるのは……。

でも、聡にそれを言い出せるはずはない。

聡は心で将に謝りながら、もう1つのカップにコーヒーを注ぐしかなかった。

「ところで……重要な話って何?」

聡は博史に訊いた。

博史は将のためのマグカップからたちのぼるコーヒーの湯気に顔をうずめながら、それに答えない。かわりに

「アキ、あの指輪をはめたところを見せて」

と言った。

聡は、一瞬どきっとしたが、飾り棚の下の引き出しからびろうどのケースを持ってきた。

博史はケースをあけた。室内なのにダイヤは明るく煌めいた。

博史は長い指でそのダイヤのリングを丁寧につまみだすと、もう片方の手で、聡の手をとった。聡の薬指に静かにダイヤ付きのプラチナの輪を通していく。

美しい輝きとはうらはらに薬指に約束の重みが課せられ、聡の心は枷をはめられたように苦しくなった。

聡は救いを求めるようにまた時計を見た。17時40分。約束の時間は過ぎている。

だけど……だけど、きっと彼は待っているだろう。

きらめくダイヤで豪華になった聡の手を博史は握った。

熱くて硬い博史の手に聡の手は包まれて、身動きがとれない。

「似合うよ。よかった」

博史は細い目を糸にして微笑んだ。

違う。欲しいのはその手ではない。

やはり将の顔が――アメリカに行ってしまうにしても――せめて一度だけでも見たい。

熱くて固い手から、聡は手を思い切って抜いた。博史は少し驚いた顔で聡の顔を見た。

「聡?」
「あ、あの」

聡は指輪を自分で薬指から引き抜きながら、下を向いて言う。

「実は、博史さんが帰ってくるの明日だと思い込んでいたから……。友達とパーティの約束を入れちゃったの」

博史は、ああ、とうなづきながら特に聡を疑う様子もない。

「あ、そう。そうだよね。今日はイブだもんな。それで出かける格好だったんだ」

聡は、疑わない博史に新たな罪悪感を感じて付け加える。今はまだ、婚約者だから。

「ごめんね。ちょっとだけ顔を出して戻るから」

「僕も一緒に顔だそうか?」

「う、ううん。すぐ、すぐに戻るから待ってて」

博史に見られないように、聡は手早くチケットとメモをバッグに入れる。

「じゃあ、僕も1回家に帰ろうかな」

博史の家は都下にある。

「そうして。あとで電話するから、待ち合わせよ……」

「そうだな。実はアキに今日付き合って欲しいところがあるんだ」

「……わかった」

聡はマグカップを流しへと持っていき、その足で、ストッキングを身につけるためにバスルームへ入る。

いったん脱いだコートを着ようとして博史は、飾り棚に奇妙なものを見つけた。

よれよれになったカードだ。『Happy Birthday』とある。にじんだ青いインクで書かれたメッセージは、カードを手にとるだけでたやすく読めた。

……博史は細い目を一瞬、見開いた。

 

  
「ごめんね。せっかくうちまで来てもらったのに」

声がして、バスルームからストッキングを身につけた聡が出てくるまえに、博史はカードを棚に戻した。

「いいよ。こっちも突然だったから」

カードの中身など見なかったように、博史はことさら優しい声を出す。

 

 
聡のコーポを出た二人は、タクシーが拾える通りまで久しぶりに並んで歩いた。

博史は、聡の腰にさりげなく手をまわした。

8月までは嬉しかった動作なのに、今の聡はとまどった。それを隠すように

「寒いね。今夜はホワイトクリスマスかな」

とたわいもないことを口にする。

たしかにいっそう厚くなった雲は、雪雲のようだ。透明感のないグレイはいっそう寒そうだ。

「そうだね」

博史は聡の耳元で小さく同意した。

ちょうど通りに出たので、博史は手を高くあげてタクシーを呼んだ。たまたま流しのタクシーがすぐ捕まった。

「先に乗りなよ」

博史は、聡にタクシーをゆずった。

「すぐ、戻るから」

聡は罪悪感からシートから博史を見上げて言う。博史はうなづくと、

「……今夜は一緒に過ごせるんだろ」

と聡の瞳を見つめて確認した。だまってうなづいた聡が、目をそらすのを博史は見てしまった。

聡のタクシーが発車してすぐ、博史はすぐ後ろに来たタクシーに乗り込んだ。

「前のタクシーを追ってください」

運転手に頼むと、博史はシートに深く沈みこんだ。

第52話 クリスマスの約束(1)

その夜、将は寝床の中で考えた。

すでにコンサートは3日後だが、聡は来るだろうか。

仰向けの将の目の前には、行灯の光に暗く照らし出された杉板の古風な天井が広がっている。

少し考えて、『来る』と結論付けた。

なぜなら、あのとき『これ以上進まないほうがいい』という話をしている間、聡は自分と一度も目をあわせられなかったから。

あんなことを言った聡はきっと後悔し、自分を探したに違いない。探したに決まっている。探しただろう。探していてほしい……。

もし、探してなかったら。コンサートに来なかったら。

……もし聡に見捨てられたら。

将は、太陽の軌道をはずれて暗い宇宙を迷走する惑星を思い浮かべた。陽の光の届かない、漆黒厳寒の空間。そんな心細さを想像して震えた。

いや、そんなことはありえない。

将は寝返りを打って宇宙空間をかき消した。

聡は絶対、自分のことを好きなはずだ。聡の行動を思い起こせばそうとしか思えない。

万が一――。

もし来なくても、将は学校を辞めないで済むのだから毎日逢える。毎日、顔をあわせているうちに、いつか元に戻るはず。

だから、来なくても悲嘆することはない……将は自分を無理やり納得させると、行灯を消して深く布団に入り込んだ。

でも、きっと来る。まどろみとの境界線で将はやはり希望を持った。

――3日たてば、きっと聡に逢えるはず……。

 

 

 
――よかった。将は無事だった。

聡は、土曜日の午後から床に入るまで、チケットと封筒、短いメモを何度も繰り返し見た。

将がとにかく無事でいてくれる。

たった1つの安堵だったが、その安心感は聡を緊張から解き放ち、土曜日の夜は、ひさしぶりに深く眠れた。

しかし。

一夜明けると、今度は将がどこにいるのか、どうやって暮らしているのかが気になり始めた。

もしかして、悪いことでもやっているのではないのか。

そうやって結局、聡の心を将が独占している状況は変わらなかった。

聡はもう一度メモを見た。

――3日後になれば、将に逢える。

逢えば、きっと前と同じように、将は自分を抱きしめるだろう。

その瞬間を思うと聡は、確実に来る喜悦の予感に震えた。

今までどおり、いや理性で堪えていた歯止めが利かなくなり、行き着くところまで行くかもしれない。

それでも……かまわない。今度こそ将を離したくない。

走り出す感情の前に、事実が立ちはだかる。

25日、つまり将にあう翌日に帰国する博史。ダイヤの指輪をくれた『婚約者』の博史は……。彼のことはどうするのだ。

聡は正直なところ、博史への気持ちが今自分でどうなっているのか掴めなかった。

目くらましのような将の愛情にさらされている聡に、沈静化している博史への気持ちが確認できるわけがない。

実際に博史の顔を見て、口づけを交わし、抱かれれば、博史の元に戻るのかもしれない。

そんな現実的な予想は案外あたっているかもしれない。

畢竟、自分はスキンシップに弱いだけの流されやすい女なだけかもしれない。

悪魔のような理性がはじき出した考えを聡ははっきりと否定できない。でももしそうだとしたら……なんて、さもしいんだろう。

ため息をついたとき、携帯にメールの着信音が鳴った。

大学時代の友人の美智子だった。
 
======

ちゃお~元気?

聡24日(つまりイブだけど)あいてる?

彼氏帰ってこないんだったら、うちの雑誌でパーティを企画してるんだけど、来ない?

いちおう、○○とか△△も来るって。24日の19時からだよ。

じゃ、返事まってる☆

ミチコ
 
========
 
○○や△△というのは美智子同様、大学時代の友人だ。

聡は携帯を閉じると、もう一度将からのチケットとメモを見た。

将とこれ以上進まないというのは、自分が決めた道だ。

よしんば、行ってヨリが戻ったところで、将は所詮アメリカ行きが決まっている身だ。

離れ離れになって、またつらい思いをするのは同じ事だ。

だからやはり、行けない。

――将、ごめん。

結局、自分がつらいという理由――聡はそんな自己中心な自分に軽く吐き気のような嫌悪を感じた。

聡は、パーティに出席する、と美智子に返信した。

 

 

 
24日が来た。終業式でもあるこの日は、日曜日から続いたおだやかな天気から打って変わって冷え込んだ。

将の誘いに行かない、と決意した聡だが、将のことが心を占めている現状はあいかわらずだ。

月曜日に、聡は、思い切って教頭に将のことについて聞いた。

将が失踪しているのは、学校も周知の事実である。それを受けて、将の2学期末での中退をどうするのか、ということを聞いてみたのである。

聡は、学校の理事と校長が、将の引き止め工作をやっていることをもちろん知らない。

教頭は知っていたが、康三からの正式な回答はまだだった。

なので、『そのまま2学期末で除籍になります』という答えが返ってきて聡は失望した。
 
今日、コンサートに聡が行かなかったら、観念してアメリカに行くつもりなのだろうか。

胸がおしつぶされるような痛みに聡は人知れず耐えるしかない。

 

教室で聡は、教師として初めて採点した通知表を皆に渡した。一人一人を、教卓のところまで呼んで、一言ねぎらいとはっぱの言葉を掛ける。

状況的に、呼ばれた者以外の生徒は自由にしゃべっていた。

通知表はテストと違ってそれほど悲嘆するものもいないようだ。

「センセイ、やっぱ元気ないよね」

チャミが後ろの席のカリナに言った。

「やっぱ、鷹枝くんとラブラブってホント?」

とカリナがいうと、

「ラブラブ。ちょ~ラブラブ」

と二人の間にカイトが割り込んできた。

「うっそー!マジぃ」

チャミとカリナが思わず黄色い声を出す。しぃとカイトが歯を剥き出しにして人差し指をたてる。

「で、もうやってんのかナ?」とチャミ。

「やってるやってる。ハゲシくやってる」

とカイトは下品に腰を振った。

チャミもカリナも口をあんぐり四角く開けて一瞬だまった。

そのカイトの茶髪の後ろ頭を、井口がぼこっと殴った。

「バカ。でっちあげんな」
「ってー、ホントのことだろー」

「やってない、って、いちおーセンセイは言ってたぞ」
「ちょー、井口クン、それ、信じるわけ?信じるわけ?」

カイトは井口を指差して半目に笑いを浮かべてのけぞった。

と、そこへちょうど井口が呼ばれて、中断した。井口は通知表を受け取りながら訊いた。

「センセー、将みつからんの?」

心配そうな表情だ。

聡は井口にだけ聞こえるように

「アメリカに留学するのかも」

と伝えた。

「ええー!いいなあ!」

と井口は大声を出した。そのバカ声に、一番前の席の丸刈りの兵藤ら数人が思わず顔を上げる。

「でも、それならそうと、連絡してくれてもいいのに」

と聡の制止もたいして気にせず、井口は元のボリュームで続ける。

「あ、おうちの方がそう望んでいるだけで、鷹枝くんがどこにいるのかは、わからないのよ」

と聡は小声でフォローした。

「なーんだ。……心配だね。センセ」

と聡に一言かけて席に帰る井口に、カイトやチャミ&カリナまで寄っていろいろ訊いている。

なんだかんだ言って将のことは、クラスのみんなが心配しているのだ。

 

 

 
24日の今日は教師らも16時までで業務を終了した。

ちなみに教師は26日まで登校することになっているが、荒江高校の場合、生徒の休み中の教師は自由勤務状態になる。会議やおのおのの業務さえこなせばよいことになっているのだ。

19時までには間があるから、聡はいったん帰ってパーティの支度をすることにした。

着替えて、髪を整え、化粧をやり直す。

ローテーブルの上で化粧をやり直しながら、どうしても気になる……メモとコンサートチケットが。

今になって「あきらめる」という文字が気になりだした。

やはりアメリカに行ってしまうのだろうか。

時計を見る。17時15分を指していた。

突然、玄関のチャイムが鳴った。

あわててインターフォンに駆け寄る。映っていたのは……。

「アキ!」

ドアが開くなり、博史は聡を抱きしめた。

第51話 隠棲

日曜日の大磯はよい天気に恵まれた。

大磯、といってもロングビーチから離れた閑静なあたり、水平線をのぞむ高台に、樹齢100年以上の大木に囲まれて古風かつ重厚な邸宅があった。今は個人宅では贅沢なものとなった、濡れ縁を備えた純和風・数寄屋造り。

昔ながらの三和土の土間に、釜の炊口が据えつけられた台所から続く裏庭で――東京なら家が一軒たつほど、裏庭と呼ぶのにはもったいないほどの広さだが――1人の青年が一心に薪を割っていた。

将である。

台に30~40センチに切った丸太を縦に置いて、鉈を力いっぱい振り下ろして細く割って薪にする。

慣れないうちはなかなか薪に鉈がヒットしなかったが、今は真ん中に鉈を振り下ろせるようになった。

今日は何本の丸太を薪に替えただろうか。鉈をふりあげる腕がもうダルい。

冬だというのに将の額から汗が流れる。

薪割を始めた今朝は防寒用として首に巻いたタオルで、汗をぬぐう。

「ぼっちゃん、熱心だねえ。少し休んだら」

生垣越しに声を掛けたのは、隣(といっても庭ごしだから少し離れているが)に住む小太りの年配婦人だ。

将はぺこっと頭だけ下げて、すでに束にした薪を示して

「このへん、ハルさんちのだから、あとで持っていきます」と言った。
「悪いねえ。うちの分まで。……これ、おやつに」

ハルさんは、手作りらしき饅頭を乗せたお盆を将に見えるようにかざした。

「ハイ、いただきます」

将は薪割をいったん中断すると、ハルさんと一緒に縁側にまわった。

濡れ縁と奥の間を仕切る障子には、富士を彫った凝った擦りガラスがはめ込まれている。古い濡れ縁は、巾が広い木が庭に対して垂直につらなった、今では寺などでしか見られない古い様式だ。

その広い板の1枚の上で、温かい冬の陽だまりを受けて、トラ猫が平和そうにとぐろをまいている。

お湯と茶碗を乗せたお盆を持ってきた将に

「御大、留守なんだって?」

とハルさんが聞いてきた。

「はい。昨日から東京に。……いただきます」

将はハルさんの饅頭をパクついた。

ふだんはそれほど甘いものが好きというわけじゃないのに、肉体労働をしているせいか、とても美味しい。

「うめえ」

将は思わず口に出した。将の笑顔を見て

「ここにいたころはちっちゃかったのに、本当にいい男になったねぇ……。もっとおあがりよ」

ハルさんは目を細めた。そういう顔をすると、乾いたツヤをのせた肌の目元にしわがくしゃくしゃに寄る。

もう80歳近いのだろうか。

母を亡くしてここに預けられた将の幼い頃を知っているハルさんはこの家の手伝いもやってくれている、気のいいご近所さんだった。

行方をくらました将がこの家に来るかも、というのは東京でも最初に予想していて、何度か『将が来ていないか。来たら連絡してくれ』と電話があったらしい。

しかし、将の希望通り、曽祖父もハルさんも、ここにいることを秘密にしてくれている。

 

 

 
「おや、ご帰還のようだね」

黒塗りのクラシックカーが門の前に止まった。

巌は、運転手がうやうやしく開けたドアから、出てくると、ステッキをつきながら玉砂利の中を歩いてきた。

運転手が大荷物を持って後ろからついてくる。

「ヒージー!東京の『おめかけ』元気だったぁ~?」

将は手を振った。ハルさんは居住まいを正して頭を下げる。

「コラ!俗なことをいうでない! 薪割りはどうした!」

巌はステッキを振り上げて声を荒げた。

ステッキをつかなくても本当はスタスタとこちらへ歩いてこれるのだ。

「一休みしてるだけだよ。……これハルさんが」と饅頭を指差す。
「よろしかったらどうぞ」
「いただこう」

巌はどっかと縁側に腰を下ろす。

「ヒージー、うまくやってくれた?」

将は巌にお茶を差し出しながら聞いた。湯飲みも骨董屋でしか見かけなさそうな、細密な絵が書かれた古伊万里である。

「まったくおまえら親子は、100を過ぎた老人をこきつかいおって……」

巌は顔をしかめながら茶を受け取ると饅頭をむぐむぐと食べ始めた。

ちなみに巌は、将から見ると曽祖父、つまり『ひいじいさん』にあたる。それを略して『ヒージー』と呼んでいるのだ。

「説得してくれた?」
「あいつはワシにさからえん。ばっちりじゃ」

巌はにっかと入れ歯を見せて笑った。ちなみにあいつとは、巌からは孫にあたる康三のことである。

「ヤッター!さすがヒージー!」

将は手を叩いて喜んだ。

「これで薪割の日々ともサヨナラ……」ニヤニヤしてつぶやいた将を巌は
「甘い!年内やってもらうぞ」とこづく。

将は巌に頼んで、荒江高校を辞めさせてアメリカへ行かせるという父の企みを阻止してもらったのだ。

 

 

 
あの日、お金もあまりなく、行き場のない将は、ギリギリのガソリンでこの大磯に住む巌の邸宅にやってきたのだった。

母を亡くしたときに預けられていたこともあって、巌は将を可愛がっていた。

将から事情を聞くと、極秘で将をここに置いてくれたのだが、タダで置いてくれたわけではない。

『働かざるもの食うべからず!』という激が何度飛んだだろうか。

将は巌に付き合って毎朝5時に起こされ、畑仕事から薪割りに風呂焚き、庭掃除に床磨きなど雑用にこき使われたのだった。

「ちょー、なんでユニットバスもあるのに、こっちを使うんだよ~」

将は風呂のたき口で煙に咳き込みながら文句を言った。

古風に小石のタイルをはめこんだ浴槽では巌が鼻歌を歌いながら、『働かざるもの食うべからず!』と決まり文句を一喝し笑った。

将がいるようになって、巌はわざと、薪で沸かす旧型の風呂と、薪で炊くかまどのご飯を復活させた。

表の日本庭園の向こうには、小さな洋館がある。

年をとって膝をまげるのがおっくうになった巌はそこで寛ぐのを好んだが、ここの暖炉も薪を使う。将はそれに使う薪を毎日割らなくてはならなくなった。

先日は、軽トラックで近くの人と雑木林に入り、チェーンソーで来年の丸太を切り出してきた。

近所の人たちは、ストーブや燻製、陶芸などで薪を使うのを好む。

今年切った丸太は1年乾かしておいて、来年割って薪にする。薪も非常に時間と手間がかかるのだ。

ガスがあるのになんで、こんな手間のかかることをするのか。

将は最初はよくわからなかったが、最近なんとなくわかるような気がしてきた。

人に危険を知らせるための臭いがつけてあるガスと違って、薪が燃える匂いは、香ばしくて安らぐ。

苦労して割った薪を燃やして入る風呂は、かすかにその香ばしさが漂ってとても気持ちいい。

同じように薪を燃やして炊くかまどのご飯は、漬物と味噌汁だけでも充分に旨い。

巌は年寄りのくせに肉も好んだが、薪でバーベキューをすると、肉に薫香が付き、たまらない。

ようするに、費やした労力は、それに相当する快楽となって将を労ってくれるのだ。

そして、夜。肉体の疲れは、将を安らかな眠りへといざなってくれる。

何も考えずに深く眠る幸せを将は思い出した。

ここに預けられていた子供の頃――川や海で毎日泥んこになって遊んだ毎日がそうだったはずだ。

この2週間、ここで暮らすうちに、将は体の中の汚れがすべて出て行って、肉体的にも精神的にも健康になった気がした。

それを素直に口に出すと巌は

「お前のお祖父さん、つまりワシの息子は、それをとうとうわからずじまいだった。だから親を残して先立ってしまったんじゃ」

と遠い目をした。将の祖父、鷹枝周太郎元首相は、将が高校に入ってすぐに亡くなった。まだ75歳で、議員在職中だった。

比べると、巌は現在100歳だがぴんぴんしている。

80歳で惜しまれつつ政界を勇退して以来、この大磯で畑を耕し、庭木の世話をし、ときおり釣りにでかけながら悠悠自適で暮らしているせいだろう。

頭や目のほうも達者で、例の週刊誌の記事も老眼鏡でしっかりと読んで

「このタワケ!」

とそれを丸めたもので将の頭をはたいた。が、そのあとでこっそり

「まあ、ワシも昔、お前くらいの頃は、芸者遊びが過ぎてな。一度失敗してやっと東大に入ったものだ」

とウインクする。

将はそんな曽祖父が好きだった。父には似たくないが曽祖父と血がつながっていて、本当によかった、と誇りに思っている。

 

 

  
ハルさんが、お湯をわかしに台所へと席を立った間。

「そうだ。約束のものを持っていったときに、偶然、あきらさんに会ったぞ」
「アキラに?」

将の笑っていた目が真剣に見開いた。

「なんでアキラがわかったのさ」

住所とコーポ名、部屋番号しかメモしなかったはずだ。

「前に、お前のシャメーを勝手に見せてもらったことがある」

『写メ』をシャメーと引っ張るのが年寄りっぽい。何度か指摘したが直らないのが100歳っぽいな、と将は思う。

つまり、こっそり将の携帯の写真を見た、ということである。

携帯は充電コードを忘れてしまって以来、ずっと電源がきれたままだから(巌の家にはそういうものはない)、将がここに来たばかりのときに見たのだろう。

「……環さんに似ているな」

巌は目を細めた。環とは、将を生んだ母の名前だ。

「うそぉ。ぜんぜん似てねえよッ」将は反論した。マザコン扱いされたくない。
「顔が、じゃない。雰囲気が、だ」

雰囲気といわれても、7歳で母を亡くした将には本当によくわからないのだ。

「しかし、先生に手を出すとはつくづくワシそっくりじゃ。ワシも小学校のころ、担任だった先生が好きでたまらず、無理やり接吻してな……」

とカラカラと巌は笑った。

その昔話を聞きながら将は縁側から青い水平線に目をやった。

消印から居所がばれるといけない、とわざわざ巌に頼んで、聡の家に届けてもらったコンサートチケット。

聡には知られてもいいが、万が一、聡が学校や父母に連絡するといけないから……。

――聡は来てくれるだろうか。

「あきらさんを、本当に好きなんだな」

巌は丸眼鏡の奥から将を見つめた。年寄りだが濁りのない目だ。

将はうなづいた。巌は将の目に強い光を見た。

「ワシの頃と違って、今は……」巌は途中まで言いかけてやめると空を仰いだ。

高い空を鳶が、グライダーのように悠然と舞っていた。

「いくら好きでも、成就せん恋もある……。むしろそんな恋のほうが多いものだ」

こんなに哀しい曽祖父の顔を、将は初めて見た。

第50話 失踪(4)

胸の中に広がる不安にかきたてられた聡は無駄だとわかっているのに、将が住んでいたマンションに自転車で来てしまった。

北風に逆らって急いで自転車をこいだので、目に冷たい空気が染みて、涙がまた出た。

曇天の下、マンションがそびえている。

聡はマフラー姿のまま、将の部屋のあたりを見上げた。

と、ちょうど住人が出てきた。その隙にふらふらとオートロックのエントランスをくぐる。

聡は無意識に将の部屋を目指してエレベーターに乗っていた。

エレベーターを降りて廊下に出ると……部屋の前に人影があった。

――将?

聡は一瞬期待したが、違った。背丈も髪形もまったく違う。

その男は振り向いた。まだ若い男性だ。

短く刈り込んだ髪は黒く、今時の若者にしては眉が太くきりっとした古風な顔立ちだ。

ジーンズと地味なジャケットを着て、バックパックを持っている。

「……あの」

男は聡に話し掛けてきた。将の部屋を示して問い掛けてくる。

「ここに住んでいた方は、もう引っ越したんですか?」
「……わかりません」

不審な答えだと聡は自分でも思った。男は少しけげんな顔をした。それを払拭するように

「私もわからないから、来てみたんです」

と付け加えた。

「そうですか……」

男はあきらかに肩を落とした。

「何か御用だったんですか?」
「あ、いえ。たいした用じゃないんです。すいませんでした」

男はぺこっと聡に頭を下げるとバックパックを背負い、エレベーターへと小走りで走っていった。

聡は、男の背中を見送ると、10Fの廊下から広がる景色を見下ろした。

マッチ箱のような下町の家々。この景色のどこかに将がいると信じて心で話し掛ける。

――将。誰かお友達が来てたよ。どこにいるの? ねえ将……。

さっきの男が道をいくのが小さく見える。

そのまま、マンションのすぐ下をのぞきこむ。

高さが目に見せる圧迫感が胃をつきあげるような感覚となって迫る。

心臓が一瞬どくん、と音をたてる。

――まさか。

将はまさか、例えば、こんなところから飛び降りてないだろうか……。

自分も引き込まれそうになって聡は軽く恐怖を覚える。

ふっと湧き出たような、飛び降りたい衝動に抗うと、聡はエレベーターに駆け込んだ。

――将。お願い。生きていて。

聡は、どこにいるとも知れない将のことを祈るしかできない。

 

 

 
重い足取りで自転車をこいで、ようやく家の近くまで帰ってきた。

角を曲がろうとしたそのとき。聡はちょうどそこから出てきた人とぶつかりそうになった。

あわててブレーキをかけたおかげで、人とはぶつからなかったが、聡のほうが派手に転んだ。

「痛たたた」

聡は地面に腰をしこたま打ちつけてしまった。

人のほうは転びもしなかったらしく、声をかけてきた。

「大丈夫、ですかな?」

多少しわがれた声はずいぶん年配のようだった。

仕立てのよいコートを着ていて、帽子の下は総白髪、これまた高級そうなステッキをついている。

「……大丈夫です。そちらは大丈夫ですか」

聡は腰をさすりながら自転車を起こした。

「なあに……。少し驚いただけじゃ。心臓の訓練によい」

老人はふぉっふぉっと笑った。丸眼鏡の奥の顔には深い皺がきざまれている。

「どうもすいませんでした」

聡は頭を下げた。

「いいんじゃ。気をつけてな。あきらさん」

聡は頭を下げて自転車にまたがると、あわててその場を立ち去った。

気が動転していた聡は、初対面の老人が自分の名前を呼んだことにまるで気付いていなかった。

 

 

 
鷹枝康三は、約束の時間から30分遅れてレストランの個室に現れた。

「わざわざお越しいただきまして恐縮です」

立ち上がって康三を迎えたのは、荒江高校を経営する荒江学園の理事、そして校長だ。

閣僚としては若手の康三は、会合の場として、料亭などより、レストランの個室を好んだ。ここなら、料理を食べずに、コーヒーだけの利用も許されるという利点もあるからだ。

ギャルソンがコーヒーを素早く持ってくるのと同時に康三は口を開いた。

「時間がない。ご用件だけを伺いましょう」

「はい。……実は息子さんの将くんの件ですが……」

「あれは、2学期いっぱいで中退させてアメリカへ留学させると申し上げましたが」

「その件で、もう一度お願いがあるのです……」

理事は満面に笑みを浮かべて、康三を見上げた。

 

 

 
会合を終えた康三は、車の後部座席で考え込んでいた。

荒江学園の理事の提案は、政治的には悪くはない話だと思う。

――さて、どうしたものかな。

車は自宅前にさしかかったが、いつもと違う位置で停止した。

「どうした」

康三は運転手に少し尖った声をかける。少しでも合理的でない行動は康三のカンにさわる。

「は……あの」

困惑する運転手の声に、康三は運転席ごしに前を見た。

自宅玄関前に、漆のような艶を乗せた黒塗りのクラシックカーが止まっている。

――あれは。

それを確認した瞬間、康三はドアから転がり出ると、黒塗りの車に近寄って康三自らドアを開けた。

「お、お祖父様!どうなさったんですか」

総白髪の――さっき聡にぶつかりかけた老人がシートに座っていた。

老人はドアがあくなり、康三にどなりつけた。

「康三!話があって今来たんだ!まったく親子そろって100歳の年寄りをこきつかいおって!」

この人こそ、康三の祖父、将には曽祖父にあたる鷹枝巌(いわお)・元外相である。

 

 

 
転んだ腰に多少のきしみを抱えながら、聡はなんとか家まで戻ってきた。

階段をあがろうとして、郵便ポストに新しい封書を見つけた。

差出人も宛名も書いてない、真新しい封筒はしっかりと糊付けしてある。

よくある広告かと思って一瞬、破り捨てようとした聡は、ある予感を感じて、封を注意深く開けた。

そこには、封筒いっぱいの幅で、聡が好きな大御所のフィルムコンサートのチケットが入っていた。

コンサートの日程は24日、クリスマスイブになっている。メモが一緒にひらりと出てきた。

 ===

○○前で17時30分に待ってる。

来れないなら、もうあきらめる。

      将 

 ===
 
すでに懐かしい将の文字だった。

第49話 失踪(3)

「……将!」

また将の夢を見て、聡は目覚めた。目じりから涙が枕へとつたっている。

ここのところ、いつも将の夢を見ては泣いて目が覚める。

 

 
将がいなくなってもう2週間になる。

教室は何も変わらないように見える。ぽっかり空いた、教卓のまん前の席を除いては。

最初の月曜日。康三の秘書と義母がやってきて、将が2学期末で中退する旨を学校に伝えた。

義母の純代は応接室に聡を呼ぶと、人払いをした。

そして、誰もいなくなるやいなや、聡に深々と頭を下げた。

「どうか、あの子から連絡がありましたら、お知らせください。お願いいたします」

その目は必死だった。義理や建前でやってるとは思えない真摯さがあった。

聡はぼんやりと、この人が将を炎の中に置き去りにして逃げたんだ……と見ていた。

将の捜索は、父親の鷹枝康三氏の立場もあり、極秘で行われているらしい。

 

 
皮肉なことに、その週に学校に届けられた、模擬試験の結果は――。

生徒たちは、聡が今までどおりの英語の授業を続けるのに、充分な結果を残していた。

将は、といえば現代国語と小論文、数学は東大のボーダーにもう少し、というところだった。

9月まで中学の復習をやっていたことを考えれば素晴らしい成績だった。

英語などの記憶系教科は東大、ワセダ、ケイオーには届かないものの、いわゆるMARCH大だったら充分合格をめざせるレベルに到達していた。

いずれも短期間で驚異的な成績を残していた。

 
 

 
聡が考えた独自の英語授業はそのまま続行されることになった。

映画やカラオケを使った、にぎやかな授業風景。

最初の頃と違って、生徒たちは聡を信頼し、慕ってくれる。教師冥利につきる毎日があった。

……ただ、将だけがいない。

笑って授業をしながら聡の胸には風穴があいたような虚無感があった。

 

 
今年最後の社会見学は『ダンサー』だった。

クリスマスイベントを参加・見学、かつその楽屋で話を聞くという、いままでにない派手な企画だった。

私服での参加を許可した初めての社会見学だったが、井口らは最高にエキサイトし、ノッていた。

イベントは聡とて一緒に盛り上がってもよかったのだが、そんな気になれなかった。

あくまでも引率の教師という立場を貫いたのは、いうまでもなく心が沈みきっていたからだ。

理由は簡単。将がいないからだ。

将のいない世界は、なんだか醒めたスクリーンの向こうの世界を見ているようなそらぞらしさだった。

どんなに鮮やかなライトも色あせて見え、どんな音楽も単なる空気振動にすぎなかった。

世界は無味乾燥になり、時はいたづらに規則正しく過ぎていくだけだった。

 
 

 
22時まえに社会見学を終えて、生徒たちと別れた聡は、近づくクリスマスに浮き立つ街を独り、歩いていた。

自分から離れたくせに、この2週間、将のことばかり考えている。

あれから、将を探そうとしたことがある。

携帯の番号にかけても、ずっと『この携帯は電源が入っていないか電波の届かないところにあるか……』のメッセージが流れるだけだ。

メールも送ったが届いているのかわからない。

だけど、他にどこに電話をかけたらいいのか、どこを歩けばいいのか、わからない。

聡は、将のことを何もしらない自分に初めて気付いた。

 

 
――どこへいってしまったの。

聡は都会の明るさに星も見えない夜空を見上げた。雪さえも降る様子がない。

と、交差点の向こうの人ごみに背の高いぼさぼさ頭が見えた。

「将!」

聡は思わず車道に走り出た。

急ブレーキをかける車。バランスをくずして倒れる聡。抗議のクラクションが鳴り響く。

「気をつけろ、ブス!」

罵声と共に走り去る車。

――違った。将じゃなかった……。

聡はその場に座り込んでしまった。

年配の男性や女性が見かねて「大丈夫ですか?」と肩を貸すまで放心していた。

 

 
聡はあてどもなく、将と歩いたところをさまよった。

そのときの将が、幻影となって浮かんでは消える。

あのカフェの前を通った。ガラスごしにソファが見える。

温かい色の照明に照らし出されたそこに座っているのは仲がよさそうな若いカップルだ。

『もう一度ショウって呼べよ。呼ぶまで離さない』

じゃれあった思い出が蘇る。

「将……」

聡の頬を涙がつたっていた。涙にネオンが反射してきらきらと光る。

通り過ぎる人が不審と好奇の入り混じった目で聡を見るが、今の聡にはまるで関係なかった。

――将に会いたい。会いたい、将。

聡は手で顔を覆った。

聡は、今までの人生で自分の選択をこれほど後悔したことはない。

 
 

 
土曜日も同じだった。

夢の中で将に再会し、嬉し涙を流したところで、目が覚めた。

聡は涙を流したまま、天井を見つめた。

――夢でもし逢えたら素敵なことね、なんて歌があったっけ。

現実に目を覚まさなくてはならない、いまの聡には、つらいばかりだ。

しかし夢にも現れなくなったときが来ることを考えるのはいやだ。

将がいなくなって、聡の眠りは浅くなった。気力がないから早く床につくが、ずっと眠れない。

寝返りばかり打つ夜の長さは、聡の選択を失敗だ、失敗だと責める。

休みだというのに早く起きてしまった聡はパソコンを開いた。

博史からメールが届いていた。
 
=========
アキ

なかなか連絡できなくてごめん。

今年は、25日の朝に成田に到着しそうです。

そのあとは年内は休暇になるので、二人でゆっくりと過ごそう。

それから、前にも伝えたと思うけど、重要な話があるんだ。

君はきっと喜んで協力してくれると思う。

それがお互い最大のクリスマスプレゼントになればいいなぁ……。

もうすぐ逢えるのを楽しみにしています。
 

博史
========
 
博史にあと1週間もしないうちに逢えるというのに、聡は何も感じなかった。

4ヶ月前、お盆に帰国したときは、指折りながら帰国の日を待ちわびたのに。

今の聡は、むしろ不安を感じた。

『聡がきっと喜んで協力する重要なこと』って……。

中東赴任が終わるとか、結婚を早めるとか、そういうことなのか。

しかし協力とあるのは、何なのか。

聡はいつのまにか博史に逢うことに恐怖を感じていた。

第48話 失踪(2)

試験を終えた将がマンションに戻ると、部屋はすでにもぬけの殻になっていたのだった。

ご丁寧に電気も水道も止められている。将名義の通帳もパソコンもすべて持ち去られていた。

ただ、知らなかったのか忘れていたのかは分からないが、かろうじて駐車場にミニだけは置いてあった。

幸い、車のキーは部屋の鍵と同じホルダーに付けていたので、将はミニまで盗られてたまるか、と出てきたのだった。

 

 
「そこまでする……」

聡は言葉を失った。康三は本気で将を外国にやるつもりなのだろう。

冬の夕方に廊下で立ち話も何なので、聡は将を部屋に入れて、温かいコーヒーを淹れた。

将が誕生日にくれたマグカップを初めて使う。

「だからサ、しばらく泊めてよ」

将は困っているようだが、喜んでいるようにも見えた。

「誰かお友達はいないの?井口くんとかは?」
「引きこもりがいる家に居候は無理だろ」

他のクラスメートを聡は提案してみたが、皆期待できなさそうなのだった。

「そんなこと言っても……。……ねえ、将……じゃない、鷹枝くん」

聡はマグカップをろーテーブルの上に置いた。

「お父様は絶対外国に行かせるつもりでしょ」
「俺は絶対行かないよ。……絶対襲わないからさ。頼むっ!」

将は聡の前で手を合わせて拝んだ。

「しばらく泊まったとしても、そのあとどうするの?」
「どうって……」

将は下を向いた。一度決めたことを曲げない父のことを、一番知っているのは他でもない将なのだった。

「俺、いっそ家を出るよ」
「そんなこと……」

「家を出て、学校もやめて、アキラと暮らす」

将は顔を上げて聡の顔をまっすぐに見た。無謀なことを言っているとは思えない澄んだ瞳。

その瞳の中に、聡はどこか世界の果ての、小さな家で寄り添って暮らす、おとぎ話のような二人を一瞬夢想した。が、口にしたのは現実だ。

「そんなことできるわけないじゃない」
「できるよ。俺、聡と離れたくないんだ」

私だって、と聡は喉まで出掛かったのを飲み込む。

「アキラと一緒にいるためなら、何でもやれる」

将は腕を伸ばして、狭いテーブルの隣の辺にいる聡の肩に手を置くと、ぐい、と抱き寄せた。「アキラがいれば何もいらないんだ」

将は自分の心臓の音を聞かせるように聡の頭を胸に押し付けた。

その力強い腕とぬくもりに聡は一瞬、我を忘れそうになった。だけど……。

「……ダメ!」

聡は将の手を振りほどいた。

「そんな非現実的なこと、できるわけないでしょ」

何でこんな冷たいことを言えるのだろう。と聡は自分でも思った。

「それに……私、考えてた」

理性が聡の感情とはまったく反対のことを言わせる。

「私たち、もうこれ以上、進んだらいけないと思う……」

もちろん将の目を見ることはできない。聡は床の木目を見ながら一息に言う。

「だから、将が外国に行くのも、いいと思う……」

どうして大人は思ってもいないことを、自分が望んでもいないことを、やすやすと言えるのだろう。

言い終わって聡は、顔を上げた。そこには驚きと困惑と哀しみと怒りをいっしょくたに同居させたような将の顔があった。

「なんでだよ……」

将は目を歪ませた。その目は赤く充血している。

「あの週刊誌のことを気にしているの?」

聡は首を振った。

「違う。お互いの今後のために」

ひどく落ち着いた声は、より将を傷つけるだろう。なのに何故こんな声が出るのだろう。

「俺……アキラなしの今後なんて、考えられないよ」
「将……」

「アキラは俺のことを好きじゃないのか!」

聡は再び床の木目を見るしかない。将は聡の肩を再度つかむと揺さぶった。

「アキラ……、アキラ!」

握り合った手は、深い口づけは、口移しは、抱き合って眠った夜はいったい何だったのだ。

揺さぶられながら、聡は目を堅くつぶっていた。目を開けて将の姿を見たら最後、泣いてすがってしまうだろう。

気がつくと、将はがっくりと肩を落として立ち尽くしていた。

「将、遅くならないうちに帰って……」
「思ってもないことを言うな!」

将は叫ぶと、玄関ドアへ身を投げ出すように出て行った。

聡は追うこともできず、目を閉じて遠ざかる足音を聞くしかなかった。

その足音も消えてしまったとき

――終わった。

と力が抜けた。あまりにあっけない終わりだと思った。

視線を床から上げた聡はローテーブルの上にペアのマグカップを見た。

将がくれたカップ。聡は吸い寄せられるように飾り棚へ近寄った。

にじんだ将の字が記されたカードがそこにあった。

もう耐えられなかった。涙がぼろぼろとこぼれて床に落ちていった。

――将のことを考えれば、自分がとった行動は正しかったのだ。

とは、思うけれど。聡はベッドに倒れると、カードを抱きしめて、声をたてて泣いた。

夕陽が斜めに差し込む放課後の教室。狭いローバーミニの車内と大御所の歌。ずぶ濡れで笑いあったあの波打ち際。

きらめく都市高速と湾岸の遊歩道。カフェのソファー。……そして雪が花びらのように舞う夜の川とコンポの星を浮かべた暗い寝室。

将のいた風景が聡に押し寄せてくる。

将がいなければ振り返れない日々はどれも煌めいている。

忘れる日など永遠に来ない。聡は泣きながら確信していた。
 
……その夜から、将の姿が、消えた

第47話 失踪(1)

将は流れ落ちる涙をぬぐいもせず、立ち尽くしていた。

聡はその悲しげな瞳に思わず立ち止まりたくなった。

しかし、聡の足は非情にも勝手に出口へと向かっていく。

ついにドアの向こうに聡の姿が消えてしまった。

「畜生!」

将は吼えると、残された雑誌を床に投げつけた。雑誌の上に涙の粒がいくつも落ちた。

 
 

 
一方、拾ったタクシーの中でも、家にたどりついても、聡の心は千々に乱れていた。

最後に見た将の涙。

言葉は発しなかったけれど、行かないでくれという将の懇願は聡の心にダイレクトに伝わっていた。

前にもこんなことがあった。

寂しい将の生い立ちを知った聡は、将がどれだけ愛情を渇望しているか、あのときよりさらに知っているのに。

くだらない週刊誌の記事に心乱されたぐらいでなぜ自分はそばに居てやれないのか。聡は自分を責めた。

昔の女性のことを責めるなら、自分は何なのだ。博史と婚約を続けていて、将とこうやって心を通わす自分は汚い二股女ではないか。

将の「今」をなぜ尊重してやらないのか。

しかし、理性という冷たく計算高いものが聡の心の脇から顔を出す。

――いや、これをきっかけにいっそ離れたほうがいいのだ……。

――康三は将を外国にやる、と言っていた。外国にいけば、将は今の気持ちなどすぐに忘れるに違いない。

――そうだ。将は若いのだから、自分のことなどすぐにきれいに忘れる。

――だから、ダイヤを呉れた博史と、元通り一緒になるのが賢明な道なのだ……。

理性は聡の感情を逆なでする考えに平気でたどりつく。

将が自分を忘れる。外国へ行ってしまう。それを思うと、聡の心は張り裂けそうになる。

将の声、温もり、笑顔……そして涙。

すべてが別れがたい聡の一部となっている。

永遠に別れてしまうとしたら……体の一部を生きながら引きちぎられるような痛み。それを想像した聡は身震いした。

すでに耐えられる自信がない。

では、そこまで愛しているのになぜ、たかが過去、しかも週刊誌の誇張記事のことで、さっきあんな態度をとったのか。

理性は、今度は正反対の正論で聡を責め始める。

そう……結局、そこに戻るのだ。

聡はベッドに入っても何度も寝返りを打つばかりで、なかなか眠れなかった。

 
 

 
翌金曜日、将は休んだ。

――無理をしたから風邪が悪化したのだろうか?

聡は彼の病状が気になりながらも、その週末はとうとう部屋には顔を出せなかった。

幸い、週刊誌の記事が他のメディアに飛び火することはないようだった。

偽造免許証のことや他のこと(例えば聡がまだ知らない将の昔の殺人のこととか)も新しく出る気配もない。

きっと父の康三が手をつくしたというのもあるのだろう。

週があけて、12月になった。この週には期末テストがある。

将は、火曜から始まった期末テストには出席した。

喉の化膿はとれたのか、風邪はもういいのか、聡自身も気になっていた。

が、将を避けてしまっていた。

試験の監督をするときも、教卓にいると、目の前の将のことが気になる。

だから、できるだけ教室を歩き回った。

それでも試験が終わると、席の後ろから順繰りにテストは回収され、一番前の将から聡に手渡される。

渡されたテストとともに、将のすがるような目線が聡につきささるのが見ないでもわかる。

だが目をあわせられなかった。

 

 
意外なことに葉山瑞樹もテストには来ていた。彼女の姿を見つけて聡は動揺したが、彼女のほうは聡を今までどおり無視していた。

瑞樹は将を見ると、冷たく口角をあげ、次の瞬間そっぽを向いたが、将にはどうでもよかった。

将がナイフで短く切ったはずの髪は、元の髪型にそっくりなウィッグを付けているのか、見た目にはあまり変わらないようになっている。

心には波乱を抱えて、でも表面は極めて穏やかに、4日間あった期末テストの最終日は終わっていった。

12月に入って天気も安定しているように生徒の顔は、皆晴れ晴れとしている。

聡にとってはこれから、採点業務に続いて通知表付けがあるから大変なのだが、無事に試験を終えて晴れやかな顔の生徒を見るとこっちまで少し明るい気分になる。

英語は最後の時間だった。教材に使った英語の映画や、カラオケからの表現を抜き出したヒアリングで、ほとんどの試験問題を作成した。

例の模擬試験と違い、こっちは、授業に出てさえすれば、ほぼ皆合格点を採れるだろう。

帰りのHRが終わって、将は再び何か言いたげな顔をこちらに向けたが、聡はわざと目をそらした。

試験最終日の今日は午前中までである。聡は足早に教室を後にした。

がっくりとうなだれた将に、隣の席の丸刈りの兵藤が「鷹枝くん、今週、先生になんか嫌われてるよね」とクールに声をかけた。

「うるせー、寿司屋」と答える声も元気がない。

 

 
生徒らは午前中までだが、教師は採点やらなにやらで、定時の17時まで仕事がある。

土曜日に出たくなかった聡も1時間ばかり残業をして採点をやった。

期末試験の結果は、聡の担当する1年も2年もおおむねよかった。

ヒアリング部分だけでなく、中学の復習の部分も、前よりかなり平均点は高くなっていた。

文法というより、語彙や熟語で得点を伸ばしているところなどは、やはり印象的な言い回しなどを覚えているからだろう。

しかし……問題は先週あった模擬試験である。

まだ結果が出ていないが、それ次第ではせっかく皆集中してくれるようになった授業をまた元に戻さないといけなくなる。

こちらは聡たちが採点するのではなく、業者が一括で採点するのでしばらく結果を待たなくてはならない。

 

 
聡は週末の疲れと残業の疲れ、そして将のことでの心理的な疲労をしょって帰途についた。

17時すぎだがもう真っ暗だ。12月に入ったせいか、寒さが定着している。

聡は手を吐息で温めながら自宅コーポの階段を上った。……自室のドアの前にうずくまる男がいた。

「アキラ」

聡の足音を聞き分けて立ち上がった長身の男は――やっぱり将だった。

将はいままでに見たことのないような心細い顔をしていた。

「……『鷹枝くん』、どうしたの」
「アキラ、今日泊めて」

泊めてというわりには準備が何もない。学校帰りのままの格好だった。かろうじて手にしているのは車のキーだ。

『そんなこと、困る』と聡が言う前に将は

「今日、帰ったら部屋がなくなってたんだよ」

と頭に手をやりながら、うつむいて本当に困っているようだった。

聡は一瞬将の言葉の意味がよくわからなかった。

「どういうこと?」

「たぶんオヤジのやつが、俺の部屋を勝手に引き払ったんだ……」

第46話 スキャンダル(2)

「なぜこうやって問題ばかり起こすんだ!」

康三は倒れた将に向かって怒鳴った。

テレビでおなじみのおだやかな官房長官と同一人物とは思えない激昂ぶりだった。

将は、目の前に叩きつけられた週刊誌を見ようともせず、父親を睨みつけた。叩かれた衝撃で誘発されたのか、咳をしながら。

「お前を日本に置いておいたのが間違いだった……」

聡は将に駆け寄りたいのをかろうじて押さえて立ち尽くしていた。将の保護者の前で『単なる教師』のふるまいを保つゆえに。

そんな自分を……愛情より立場で行動を選んでいる自分を、聡は汚いと自覚している。

「近々、お前は外国にやることにするからそのつもりでいろ」

康三は将に言い捨てると踵を返した。リビングの入り口に突っ立っていた聡を見つけると、渋面のまま、いちおう会釈をしたが、言葉をかわすこともなく玄関へ去っていった。

玄関のドアが閉まる音がして、聡はようやく将へと近寄ることが出来た。

「……大丈夫?」
「心配するな。いつものことだ」

将は咳をしながらも立ち上がった。

「……自分の立場だけでヒトのこと殴りやがる。どうせ俺のことで、何か自分に不利なことでも書かれたんだろ」

聡は週刊誌を拾って中を見た。明日都内発売のものを康三はいち早く手に入れたらしい。憎憎しげに頁を折ってあったのですぐ該当の記事がわかった。

『スクープ!次期総理候補・鷹枝康三の長男(17)のすさんだ(暴力・オンナ・ドラッグ……)青春』

というタイトルの記事は2Pにわたる大きめのものだった。

タイトルにからめて(教育改革推進論者・自分の子はいったい……?)と茶化した見出しが差し込まれている。

写真は、将が写っているものは2点だけで、他はたむろする若者とか、コギャルとか合コンのようすなどの資料写真のようだが、それだけ見るといかにも将がそういう世界に生きているように見えてしまうレイアウトだった。

将の写真は、1つめは学校のファイルにある証明写真だ。いちおう目のところに黒いラインが引いてある。

「これ、中3のとき撮影したやつ」と将は特に気にする様子もなく言った。

もう1つはどこから狙っていたのか、先週聡が連れ込まれた飯場がある川原のようだ。

乱闘している不良は暗いせいか、どれが誰だかよくわからないが、いちおうどれも顔がモザイクになっている。

 

『早くも、××年(さ来年)の総裁選では出馬しないとの宣言が飛び出した大泉総理。

後釜候補として若手ながら有力視されているのが鷹枝康三官房長官(51)だ。

議員キャリアはまだ10年ながら大泉総理の改革路線を引き継ぐ者として注目を集めている。

中でも彼が強力に推進しているのが教育改革。

従来のゆとり教育を廃止し、職業教育と愛国心教育、教育への社会人参加と斬新な案をお持ちのようだが、ちょっと待った。

彼自身の教育手腕は、いったいいかがなものなのだろうか。

取材を進めるうちに、都内の高校に通う彼の長男、○○クン(仮名・17才)の、とんでもない模範ぶりが判明した。

取材中に彼のクラスメートである少年Aが婦女暴行未遂・麻薬所持で逮捕されたニュースが入ったが、

彼と親しかったとされる○○クンの行状も次々とつまびらかになっていった……』

 

このような書き出しで始まった記事は、将が日常的にオヤジ狩りをするなど、荒れた日常生活を送っている、という記事を元仲間の少年Bや中学の担任の証言を交えて掲載してある。

前原が麻薬所持で捕まった事件についても触れ、『○○(将)もドラッグをやっていてもおかしくない』と少年Bの口を借りて疑惑を報じている。

「少年Bって誰だぁ?」

衝撃的な内容に聡は座ることを忘れて行を追ったが、将のほうは、まったく動じる様子がない。疲れたのかソファに体を落とした。

さらに元彼女C子の証言として、

『一人暮らしの豪華マンションに女を連れ込んで乱交パーティをすることはしょっちゅう』だとある。

元彼女、の字面を見て、記事を垂れ込んだのが瑞樹だと将はわかった。

だが、いち女子高校生の垂れ込みだけでこんなに大きな記事にはなるまい。

おそらく、父・鷹枝康三と次期総理を争うライバルとされる年配の議員による、康三つぶしの力が働いたのだろう。なんとなく将は予想した。

記事は『人様の子供の教育を論じる前に、自分の子供を何とかすべきなのでは?』と結んである。

息を飲んで真剣に誌面を追う聡に、将は

「こんなのでっちあげだから信じるなよ」

と声をかけた。

しかし『乱交パーティ』と『セフレ・瑞樹』が聡の中で結びついてしまい、聡の心は激しく動揺した。

聡は赴任したてのときに、暴行を受けそうになったときのことを思い出していた。

しかも、あのとき誰かが将に『一番最初にやっていい』と譲ってたような気がする。

つまり、そういう場面を何度も経験しているのだろう。聡はおぞけがした。

「でもここに書いてあることに、近いことはやってるんだよね……」
「やってないってば。だいたいオヤジ狩りが必要なほど金に困ってねえし。逆にオヤジ狩りを退治してるんだぜぇ」

「でも、それも暴力だよね……」

将は返答につまって、新しいでっちあげ箇所を指摘した。

「……ドラッグは嫌いだから、今はぜんぜんやんないし」
「今は? 嫌いってことは、やったことは、あるんだ」

聡はため息をついた。

「やったことあるといっても、合法のやつだよ!」
「合法って今はいわないでしょ。脱法でしょ」

「でもカクセー剤なんかやったこともねーよ!」
「そんなの、あたりまえでしょ!それに……ここで乱交パーティって」

「俺は参加してない」

本当は聡と知り合う前は、参加したこともあるのだが、それは口に出さなかった。

「これは何よ」

聡は記事を指差して将に見せる。

『イケメンの彼は、何もしないでも女のほうから寄ってくるんです。連れ込んだ相手は中学生から30代人妻までさまざまでした』

そこはC子談となっていた。

「こんなの、瑞樹がでっち上げたんだよ!」

将は聡を見据えた。

「……じゃあ瑞樹さん、いや葉山さんとはどういう関係なのよ」

聡は下を向いたままつぶやいた。

「今はなんにもないよ……」

将はソファから立ち上がると聡の肩に手を置いた。

「元彼女なの? 井口くんはセフレだって言ってた……」
「もう関係ないよ。今はアキラだけだ……」

将は聡を抱きしめようとしたが聡はそれを拒んだ。

「セフレって何よ。好きでもないのに、できるの? 信じられない」

聡は哀しそうに目を伏せたままそっぽを向いた。

将は一瞬絶句した。

聡が現れる前の、混沌とした暗闇の中で自分がやったこと。自分でもなんでそんなことをしたのかよくわからないことがいっぱいある。

自分でもそうなのだから聡に理解してもらうのは不可能だと将はわかっている。

「今は違う。今は違うんだ」

『今』は違うのだ、と将は必死で訴える。

聡は態度で将を拒みながら、将の過去の行いについて、理解しないわけではない。

12歳で愛に絶望し、すさんだ日常に落ちていった将。ちょうど、『男』としての人生の始まりの頃をそんな環境で過ごせば。体の中で活発に生産される欲望を吐き出すのに、身近に擦り寄る女がいれば、利用するのは当然だ。

頭ではわかっているのに、女としての気持ちが聡を拒否させていた。

「今はアキラ以外は何もいらないんだ……」

聡の肩に再びかけられた将の手を聡は冷たく振り払った。

「ごめん。今日は帰る」
「アキラ……」

将の手は空で行き場をなくした。

そんな風に将のことを責められるほど自分も清らかではない。いや、むしろ婚約者を裏切っている立場なのに、この態度はなんだろう。

聡は自己嫌悪を隠すように

「ゴハンはリゾットの残りが冷凍してあるから。それと今買ってきた卵豆腐を食べて」

とそっけなく伝えて、そのまま立ち去ろうとする。そういえばコートも着たままだった。

「じゃあ……」

それでも帰る前に一瞬将を振り返る。……将は涙を流してこちらを見ていた。

第44話 スキャンダル(1)

前原らは将を半殺しにした後、さらにカップル狩りをしようとし、通報され警察に捕まった。

そして覚醒剤反応が出て――ということだ。

いちおう彼の担任である聡は教頭に、職員会議後、校長室に来るようにと言われた。

「今回のことは、古城先生に責任はない、と我々は認識しています」

と校長はデスクの上で手を組んで言った。

学校側はもちろん、聡が前原らに拉致されて、あわや輪姦寸前だったことなど知る由もない。

それどころか、それを助けようとした将が川に投げ込まれ、殺されかけたことも知らないはずだ。

「ただ……、どうだろう。古城先生は生徒に甘くないですか?」

と教頭が聡を見下した目で言う。聡は顔を上げて教頭の顔を見る。

教頭と一瞬目が合うが教頭はそれをつい、とそらして続ける。

「型破りな英語の授業といい、社会見学といい。生徒の人気取りもいいが、もっと厳しく指導していただかないと……」

――人気とり?

聡はむっとして教頭をにらみつけた。

「お言葉ですが、私はそれらの指導計画については、きちんと教頭先生と校長先生に提出しました。お二人が許可なさったから、実行したまでです」

校長は広げた両手を机の上でぷるぷると震わせて

「いや、何も、それがいけないと言ってるんじゃないんですよ。ただもう少し厳しく指導すべきだと……」
「そうです。一部生徒ばかりに愛情を注ぐのではなく……ね」

教頭は少し粘りつくような目で聡を見た。聡はそれが将のことを示しているのだ、とわかった。

「それはどういう意味でしょうか」

聡は、キッと教頭を見た。

「さあ……それは先生が一番ご存知のはず」

教頭はそっぽを向いた。校長はそれをとりなすように、

「とにかく、2年生は緩みやすい時期ですので、古城先生は厳しく指導するように心がけてください。あと英語の授業については、あさって木曜日に行われる、大学進学志望者への模擬試験の結果で是非を問うということでいかがでしょうか」

あさって。早すぎる。ようやく、皆英語に親しみ始めたところなのだ。

親しんで、興味を持ち、学ぶ、というステップがあるのに、今の段階で是非を問うとは。

「ちょっと待って下さい」と聡が言う前に、教頭が
「そうしましょう。それで行きましょう」

と声を高くして賛同したので、聡は口を挟む余地を与えられなかった。

 
 

前原の退学はあっという間にクラス中に伝わった。

もっとも、最近休みも多く、言動もキレがちだった前原に同情する意見はほとんどなく

「あー、やっぱりぃ?」

という感想を皆で述べあうと、ほとんど平常に戻った。

「センセー」

朝のHRのあと、廊下で井口が声をかけてきた。

「将、やっぱまだ悪いの?」
「喉が化膿しちゃってるの」と聡はうなづいた。

「あそー。今日、俺行ってもいいかなぁ」
「別に私に聞かなくてもいいわよ」

「じゃ、いく。センセーも行くんだろ」

聡はあたりを見回して、他の教師が誰もいないのを確認すると、無言でうなづいた。

将から、今日も絶対に来るようにと約束させられているのだ。

 
 

補習と雑用を済ませた聡が将のマンションのインターフォンを押したのは夜の7時をまわっていた。

奥からドドドと走ってくる音が聞こえると同時に、玄関のドアが開き、聡はパジャマ姿の将にいきなり抱きしめられた。

「おかえり、アキラ。超待ってた」
「ちょ、ちょっと」

聡は仕事モードがまだ抜けてなく、将のそんな行動が照れくさい。

リビングにいる井口が、こっちを見ているのが将の肩越しにわかった。

井口はまた目を三日月にしてニヤッと笑うと、会釈をした。

聡はどう反応していいかわからなかった。

 

 
「そっか、前原は退学になったんだ……」

と将。少し安堵したように見える。

将、井口、聡で夕食のテーブルを囲んでいる。

井口と聡は弁当だが、将だけ喉に柔らかい豆乳入りのおかゆを聡につくってもらっている。

いちおう将も食べられる豆腐の味噌汁を手早く作って加えた。

「カクセー剤のほかにも、あいつ余罪いっぱいあるから、しばらくカンベツ間違いなしだぜ」

井口が食べながらピアスを揺らす。

「で、瑞樹は」

将が井口に訊くのをみて、聡はドキッとした。セフレという単語が再び蘇る。

「休み。あいつずっと休んでるよな、センセー」

聡はだまってうなづくと、将の目をじっと見た。

しかし、聡が何を思って将を見つめたのか、将はわかっていないように

「なんだよ、アキラ」と微笑んだ。
「あ、将、センセー大変なんだぜ」

と井口が新しい話題に持っていく。

「あさっての模擬試験の成績が悪かったら、英語、元の教科書に戻るんだよな?」

食べ終わった井口は金髪に手をやって伸びをした。

「……なんでそんなこと知ってるの」

聡は井口に訊き返す。

「校長室立ち聞きしたんでーす。みんな知ってるぜ」

井口は悪びれもせずに答えた。

「マジ?」将は聡に訊いた。聡はうなづくしかない。

将はいきなり立ち上がった。

「俺、今から勉強するから」

 
 

将は翌水曜日まで休んだが、木曜日には無理して登校し、模擬試験を受けた。

聡も試験監督をやったが、治りがけの、痰がからんだ咳を繰り返しつつ試験を受ける将は苦しげだった。

この日は試験があったので、補習もなく、聡は17時30分には学校を後にすることが出来た。

すっかり暗くなった道を足早に歩く聡は、ふいに腕を強く引っ張られた。

反射的に叫び声が出そうになる聡は口に手をあてられた。

振り返ると制服の上にダッフルを着た将がいた。

「もう、なによ~」

聡はへなへなと力が抜けた。

「保健室で寝て待ってた。今日も来てくれるんだろ、一緒に帰ろうぜ」
「もー……」

といいつつ、本当に体調が悪くなったのかもしれない、と思いなおし

「喉はどう?」と訊いた。
「うん。まあボチボチ」

明るく答えた声音からは特に悪化したわけでもなさそうだ。

「試験はどうだった?」
「うん。まあボチボチ」

今度は、ちょっと自信なげの声になった。

「志望校はどこを書いたの?」
「東大、ワセダ、ケイオー」

「バカ……」

聡は絶句した。無謀にも程がある。9月まで中学の復習をやりなおしていた将である。

「大丈夫だよ。俺めっちゃ勉強したし。それに、博史に絶対負けたくないんだもん」

その名前をひさしぶりに聞く気がした。エンゲージリングをもらっている婚約者なのに、すっかり忘れていた。

聡は薬指に重みを感じてだまりこんだ。

でも、婚約者に義理立てして『ここで帰る』などとは言わない。聡は将と並んで歩くことを無意識に選んだ。そのまま二人、しばらくだまって歩いた。

「……あれ?」

先に声を発したのは聡だった。

見上げたマンションの、誰もいないはずの将の部屋に明かりがついている。

「電気ついてるよ?」

聡の指摘に将も見上げる。

「あ、ホントだー。つけっぱだったかな?」

将は簡単に納得すると、そのまま何も疑いもせずマンションのエントランスをくぐった。後ろに聡も続く。

鍵を開けて部屋に入ると、灯りのついたリビングのソファに座っていた男が立ち上がった。

聡はその、きちんとスーツを着た身なりのいい中年男性をどこかで見たと思った。

「オヤジ……」

将はつぶやいた。それは父、鷹枝康三だった。

康三は、開いたリビングのドアに将を見つけると大またで近寄り、右手を振り上げた。

次の瞬間『バシッ』という大きな音が響いた。

殴られた将は赤くなった左頬を押さえてリビングに倒れた。

聡は口を手で覆って立ち尽くすしかできない。

「何だ、これは!」

康三は倒れた将の前の床に週刊誌を叩きつけた。

第43話 寝室(4)

「これだけ離れれば問題ないだろ」

将は聡から見てセミダブルベッドの反対側の端に寄った。

それでも、手を伸ばせば届く距離に二人は並んで横たわっている。

コンポの星々を眺めながら、聡は疲れているはずなのに、目が冴えていくのを感じた。心臓の音が暗闇の中に空気も震わすほどよく聞こえる。

目が慣れると、将の体が横たわっている影がよく見える。

将は眠ったのだろうか、沈黙している。数分たって、聡はのしかかる静けさに耐えられず声を出した。

「……寝ちゃった?」
「起きてるよ」

かすれた将の声がして、聡は安心したのか、自分の心境を素直に吐露する。

「なんか……やっぱキンチョーするかも」
「なーんで」

こちらを振り向く将が立てる布団の音と、あいかわらずかすれた将の声。さっき話しすぎて、治りかけた喉を痛めたのだろうか。

「だってサ……」

暗闇の中、こちらを向いた将の視線を感じて聡の胸は息苦しいばかりに振動した。

「アキラ、やっぱ俺のこと、好きなんだろ?」
「……」

また、将は返答に詰まる問いかけをしてきた。聡の心臓どころか、体中の脈がドクンドクンと音を立て始める。
なんで、将は答えられない質問ばかりするんだろうか。わかっているくせに。

「そうなんだろ?」

その声と同時に、将の手が聡の体に伸びてきた。そして、聡の体を、ベッドの中で不意にきつく抱きしめた。

聡は将の匂いを強く感じた。聡の鼻先にある彼の首筋からは、風呂に入っていないせいか、男性の香りが強く香ってくる。

しかしそれは嫌な匂いではなかった。逆に聡の中の『女』を強く目覚めさせるような香りだった。

将の匂いと、きつく聡の体を抱きしめる腕の感触、そして熱い体温。すべてがむせるような将の実体となって聡を襲う。聡はあせった。

「ちょっと、何もしないって言わなかった?」
「何もしてないよ。ダッコしてるだけ」

聡は、体中が熱くなるのを感じた。
本能を制御するどこかが溶けて、それが下腹部の奥から液体となって流れ出すのがわかる。体中が心臓になったように脈打っている……と思ったら、実はそれは将から伝わる音だった。

聡を抱きしめる将も同じように、強い鼓動に翻弄されているのだ。

理性が溶けた聡は抵抗することすら思いつかず、そのままに任せていた。

もう、どうなってもいい――諦めと願いの境界は、聡自身でもわからなくなっている。

そして将は聡の髪に顔を埋めながら、さらに腕に力を込める。華奢な肩がきしむようだ。

自分の腕を聡の背中で交差させて、より彼女の体を自分に密着させようとする。

ひんやりとした、聡の上腕。滑らかで柔らかい皮膚に覆われているが、華奢で細い。腕だけでなく体中の骨が簡単に折れそうな細さなのだ。

将は、子供の頃に買ってもらったヒヨコを思い出した。両手で大事に包むように握る。温かくほわほわの体は、慎重に扱わないとつぶれてしまいそうだった。

腕の中の聡もそんな感じだ。

聡はといえば、そんなふうに撫でられるだけで、背筋がぞくぞくするような感覚を感じていた。
将に触れている全身で「感じて」しまう……そんな危うさが怖いけれど、聡は将の腕から逃れられない。

聡も無意識のうちに、将の背中に手を回していた。二人はしばらく、お互いの鼓動を感じながらそのまま抱き合っていた。

どれくらい時がたっただろう。
狂おしいほどの本能は、優しく穏やかな体温にいつしか溶けていった。興奮は安らぎへと変貌を遂げていった。

 

「将……」

聡は将の首筋に顔をうずめながら囁いてみた。

将は聡を抱きしめたまま無言だった。

聡は熱い体温に抱きしめられたままの状態で、暗闇の中で将の顔を見た。

将は眠っていた。暗い中に将の幸せそうな顔が見える気がした。

――将ってば。

聡はふっと微笑むと、将の胸に顔をうずめた。ゆっくりと打つ、将の鼓動に耳を傾けた。

鼓動を100も数えないうちに、聡も眠りに落ちていった。

 
 

遮光カーテンの細い隙間から朝日が漏れて、将の瞼の血の色を赤く透けさせている。

なんだか体が温かい。おそるおそる目をあけた将の目の前には……。

茶色がかった女の髪の毛――忘れていた将だが、瞬時にそれが聡だとわかった。聡の腕が自分の体に巻きついている。

一瞬びっくりするが、ゆうべの記憶はすぐにフラッシュバックし、将は幸せな気分になった。

朝の光の中で、聡を抱いている。

こんなに幸せで安らいで、それでいてわくわくする朝を過ごしたことがあるだろうか?

聡を愛したときから、将にとって女は世界に彼女一人きりになった。

まだ、男女として交わったわけではないが、その聡と抱き合って眠った。

将は幸せのあまり目が熱くなるのをこらえて、聡の髪を撫でた。

「…んん……」

すると、聡は寝ぼけたのか、よけいにギュッと将を抱きしめてくる。

すると将の腹のあたりで聡の柔らかな胸の感触。

――ヤバ。

その刺激でもう一人の将が、いきなり起きてしまった。

「アキラ、アキラ」

聡の耳もとで将は小声で囁いた。

「うん……?」

聡はようやく目が覚まし、将の顔を見上げた。顔がピンク色に紅潮し、半開きの目は黒目がちに潤んでいかにも眠そうだ。

「……将?」
「アキラ、あんまり胸くっつけんなよ。俺、ヤバイ」

「あ」

次の瞬間、聡の顔がはっきりした。お腹にあたるものは……。聡は一瞬顔を赤くしたが、イタズラっぽい顔で微笑むと、

「すっかり元気じゃん」

と将のおでこをこづいて、さっと起き上がり、ベッドを降りた。

将は聡のむきだしの脚を一瞬目にし、しばらくベッドから起き上がれなかった。

 
 

高い熱は下がり、容態がある程度落ち着いた将だが、喉の腫れはなかなか引かなかった。声もずっとかすれたままだった。口を開けると、喉の奥に大きな潰瘍状の患部の一部が見えた。

あまりに喉が腫れたので、それが化膿したのである。

月曜日の夜までなんやかやと世話をする聡に、将は

「ハスキーヴォイスがセクシーだろ」などと冗談を言って強がったが

夕食に聡が柔らかめに作ったリゾットも

「美味しい」と喜びつつ、顔をしかめて食べている。喉を通るときに相当痛むらしいのだ。

プリンや茶碗蒸し、ゼリーに葛湯といった柔らかいものでさえヒイヒイいいながらようやく喉に通している。

聡が心配だからと、将は翌火曜日から学校に行きたがったが、これでは無理だった。

すると将は、井口に電話をして『前原のやつを聡に近づけないでくれ』と念を押した。

しかし、火曜日に学校に行った聡は、朝の職員会議で前原茂樹の退学処分を知った。

前原は麻薬所持で警察に捕まったのである。

第42話 寝室(3)

小1の終わりに実母を亡くした将は、父が当選したばかりで忙しかったこともあり、父方、母方の里それぞれに預けられた。

将が小3になって家に戻ると、そこには新しい母がいた。それが今の義母・純代である。良家の子女で、きちんと礼儀正しい純代は、前妻の子供である将のことも、とても可愛がった。

まだお母さんが恋しい年頃で、かつ素直な性格の将は、ひねくれもせず純代になついた。

しかし純代との蜜月は孝太の誕生で終焉を迎える。将が10歳のときだった。

純代は手が掛かる初めての乳児の世話にかかりきりになり、将は寂しくなった。

だが、孝太の面倒をみれば純代が喜んでくれる、と将は時に友達と遊ぶのを断って孝太を可愛がった。

義母である純代の愛情が欲しいばかりに、孝太に愛情を必死で注いだのである。言葉もわからない孝太に、将は一生懸命に本を読んでやり、話し掛けた。

そのせいか、孝太は早い段階で人の言葉がわかるようになっていた。そんな孝太が初めて話した2語の言葉が「おにいちゃ、大丈夫?」である。

『孝太はお兄ちゃん子ね』そんな純代の言葉を将はどんなに嬉しく思っただろう。

そして勉強はもとより、スポーツも武道も頑張った。小5からは私立の有名中学に入るために努力をし、実際、塾や学校では『神童』『天才』の評判がついた。

それらは何もかも純代に「えらいわ、将」と言われたいが為だった。

あの日まで、将は愛情を得るために多少の努力をしている、と感じるだけで、おおむね幸せだったのだ……。将が12歳のあの日まで……。

 
 

ところで将の父方の家は、代々政治家の家系である。将の父は現官房長官、祖父は各閣僚を経験している。

将が12歳だったときに閣僚入りしていた祖父は、アメリカとの外交を重視し、アジア諸国、ことC国に対して日本は強硬な立場をとるべきである、と明言して近隣諸国から嫌われていた。

そして、将が中学受験を控えた12月に、あの事件が起こる。

将の一家の住む家が爆破されたのだ。

犯人は、C国の過激派が有力視されているが、いまだにわからない。

それは、一家が寝静まる夜に行われた。家はあっという間に瓦礫の山になり、将といえば、柱の下敷きになっていた。

幸い壊れた机などがつっかえ棒になり、背骨を傷つけるまではなかったが、どうしても抜け出せない。

同じ部屋に寝ていた2歳の孝太は無事だったが、将がはさまれているのを見ると、その小さな手で一生懸命引っ張り出そうとした。

『おにいちゃ、大丈夫?』
『孝太……』

将は必死で体をひっぱりだそうとしたが、足先が何かに引っ掛かっていてどうしても抜けない。

そうこうしているうちに、火の手が迫っているらしい。

まず、足先に異様な熱さを感じた。だがそのうちに、足よりも先に、頭の上が明るくなった。

火の手は上から襲って来たのだ。煙にまかれる。将はパジャマの袖を鼻と口にあてた。火の粉がパチパチと音をたてて舞う。

『お兄ちゃん、お兄ちゃん』

孝太はそれにもひるまず、煙に咳き込みながらも将を引っ張り出そうとする。

その火の粉が孝太の頬にかかった。

とたんに泣き喚く孝太。その声に呼ばれたのか、純代が現れた。将は少し安堵した。

『孝太!』

純代は頬に火傷を負った孝太を抱き上げた。

『助けて……助けて、おかあさん』

将も助けてもらえるのだろう、と手を伸ばして純代に助けを求めた。

しばらく純代は将を見下ろしていた。無表情に見えた。

ガウン姿なのに、口紅をつけている――そういえば純代が素顔で表に出るのを見たことがない。外に出るときは必ず化粧を欠かさない女だった。

そのとき将を押さえつける柱に火が燃え移った。空気が乾燥していたせいか、パチパチと炎をあげはじめる。
その炎が純代の瞳に反射したそのとき、将に背中を向けて、次の瞬間走り去った。

――自分を見捨てるのか。

『お兄ちゃあーん!お兄ちゃあーん!やだやだ!お兄ちゃんも助けてよおお……』

純代に抱かれた孝太だけがいつまでも泣いていた。

それすらも遠ざかり、将は絶望した。

せまりくる『死』に対してというより、自分は母からは必要のない子供だったのだ、ということが将を気絶させた……。

 
 

「たぶん、気を失ってすぐに消防が来たと思うんだ。背中からお尻の火傷は部分的に3度っていうのかな?になってて、何度も自分の皮膚を植えて、3ヶ月も入院したんだ」

将はパジャマのズボンを下ろすと、片膝を上げて、腿の裏を指差した。

「ここから皮膚を持ってきてね」

と説明したそこは火傷ほどではないが、少しえぐれたような傷跡がかすかにあった。

「……もちろん中学受験はパー。その後、グレたってわけ。単純だろ」

将は聡の顔を見て微笑んだが、聡は絶句するしかなかった。

「あ、アキラさあ、また勝手にパンツ脱がすなよ。恥かしいじゃんか」

将は明るくふるまおうとする。

聡は、上半身裸のままの将を思わず抱きしめた。

「アキラ?」

聡は何もいわずに将の肩をぎゅっと抱きしめると、顔をその胸に埋めた。

胸に温かいものが流れ落ちるのを、将は感じた。聡が泣いているのだ。

「アキラ、泣くなよ」

といいつつ、聡は自分のかわりに泣いてくれているのだ、とわかった。

将は、あのヤケドの治療中、どんなに痛くても泣かなかった。

泣けなかったのである。

泣いたところで、自分を本気で心配するヤツなんて一人もいない。

だから無駄な涙は流さない。

と、あの事件をきっかけに、将は自分の心の柔らかいところから湧き起こる感情のすべてを封印することにしたのだ。

将は、聡に会うまで、人のぬくもりをわざと避けて暮らしていたようなところがある。

――否、たった一人の親友がいた。しかし、親友は将の罪を被って、檻の中にいる。

もう二度と会えないだろう。

親友が捕われの身となり、将の心は再び冷たい闇の中に沈んでいた。

闇に沈みながらも、将の本心は太陽を求めていた。だから毎日夕陽を見にドライブを続けていたのだろう。

そして将の心を温かく明るく照らしたのが、聡だった。

素直さや優しさ、自分の才能を信じること、一途に努力をすることなど、本当は将が持っていた善きものの全ては、

聡との出逢いによって再び育くまれだしたのだ。

そういう意味で、聡は将のすべてで、将は聡のものだった。

聡を愛し始めてから、将は生まれなおしたようなものなのだ。

イブは、アダムの肋骨から生まれた、というが逆に、将は聡の何かから生まれたことになっても納得できる。

 

将がくしゃみをして、聡は我に返った。

「ごめん」と将から離れる。
「いいよ。俺のかわりに泣いてくれたんだろ」

将は聡の髪をくしゃと混ぜた。まだベソをかいている。そういう顔は、年上なのに幼女のように見える。

将は聡から差し出されたTシャツを着て、薬を飲むと再びベッドに横たわった。

「今日は帰るね」もう大丈夫と判断した聡は将に告げた。

「ええっ、何でー。今日も泊まっていけよ」将は抗議の声をあげた。
「明日学校だし。実は超眠いんだ……」

聡は本当に眠かった。金曜は将の枕辺、土曜はソファーで仮眠とほとんど寝てないのだ。それで、さっきまで居眠りしていたというのもある。

「明日、勤労感謝の日の振換休日だぜー?」
「え、ウソ」

聡はカレンダーを見る。

「ホントだ……」

いろいろあってすっかり3連休というのが頭から抜けてしまっていた。

「だから、ここで寝ろよ、ほら」

将はベッドの上で布団をあけた。広いセミダブルだから成人二人でも狭くはない。

「ええー」
「ほらあ。なんにもしないからぁ」

将はベッドの片側に寄ると甘えた声を出した。

その言葉を信じたわけじゃないが、聡はまあいいか、とベッドに腰掛けた。さっきのことで人肌が恋しくなっているのかもしれない。

「ジーンズのまま布団に入る気?」
「んもう」

聡は、立ち上がるとスタンドを消してあたりを闇にすると、ジーンズとセーターを脱いだ。

Tシャツと下着だけになると、暗がりで将が布団をあけて待っているところにもぐりこんだ。

第41話 寝室(2)

眠る将の額に浮かぶ汗をふき取りながら、聡は葉山瑞樹について思い出してみた。

休みが多い彼女だが、案外強い印象がある。黒い長い髪を持ち、印象的な瞳を持っていた彼女はひょっとすると聡より美人かもしれない。

しかし、聡に対してつねに無視というか反抗的なムードを漂わせていた。あの、将来についてのアンケートも提出してなかったはずだ。

彼女が、将と関係があった。『セフレ』として。

――何なんだろう、そのセフレというのは。

さして好きでもない相手と性欲処理のために寝る。聡には理解できなかった。

異物の侵入を許し、あまつさえもそれで出来たものを9ヶ月あまりも育てなくてはならない、そんなリスクがつねにセックスという行為に伴う女という性。

少なくとも女性のほうは、多少は相手に好意がないと無理だ、と聡は思う。

だから、瑞樹が将のことを好きなんだろう、ということは井口に言われなくてもわかる。

おそらく、聡にあんなことを計画するほどまでに、激しく恋していたのだろう。

そして将は、そんな彼女を利用していたのだ、性欲処理に……。

聡は寝ている将が少し憎たらしく、汚らわしくなった。

――たかだか17歳のくせに、セフレって何よ。

「将のバカ」

聡は思わず口に出してしまって、自分の声に驚く。

幸い将は、声に起きることもなく、口をあけて眠り続けている。

聡は罪滅ぼしのように、再び将の汗をぬぐった。

もう17だ、同じ学年のガールフレンドがいるくらい、当たり前だ、驚くこともない。

自分に言い聞かせる。が、聡の心はよじれていく。

――いくつから女を知っているのか、今までに何人と関係があるのか。

こんなこと、博史のときには思わなかった。

過去の女を思わせる行動の端々に嫉妬したこともある。

が、聡より8歳も年上の博史が女性経験が豊富なのは、年をとれば皺が出来るように自然なことだと思っていた。

だが逆に9歳近く年下で10代の将が、すでに清らかでないという証拠を目の前にたたきつけられた今、心が激しくざわめく。

もちろん童貞だなんて絶対思ってなかったけれど。だけど『セフレ』がいたという事実は嫌だ、許せない。

そして、聡は気が付く。

こんな嫌悪感を抱かずにいられないほど、将のことを愛してしまっている自分に。

 
 

  
将の額に再び手をかざす。まだ熱いが薬を飲んだせいか、少しましになっている。

枕の氷が溶けているのに気付き、キッチンへ替えの氷をとりにいった聡は、カウンターの上に置かれた包みに気がつく。

水分を含んでふにゃふにゃになった水色の包みには、やはり濡れてしおれた紺のリボンが掛かっている。

そして”Happy Birthday” と印刷された二つ折のカードがこれまた水分でよれてリボンに引っ掛かっている。

包みを開けると、可愛らしいペアのマグカップが入っていた。

聡は、カードを手に取って開けた。

見覚えのある将の字があった。

 
 

  
 26才おめでとう、聡。

宇宙一愛する聡が、世に生まれ出たこの日に感謝!

月並みだけど、聡は僕の太陽だ(照れるぜ)

聡と昨日みたいに何度でもKISSしたい。

 

  
  聡がいてこその将

 
 

  
店のマーカーで急いで書いたと思われるやや雑な将の字。

ブルーのインクは包み同様濡れたのか、にじんでいる。その上に新たに雫が落ちた。

聡はもはや、目からほとばしり落ちるものを止めることはできない。

真面目に書いたと思われるクサい文言だけでなく、命がけで自分を守った将の愛情が心に迫った。

愛されている。これ以上ないほどに。何を嫌悪することがあったのか。

幸せなのに、せつなくて、涙はつぎつぎと湧き出してくる。

制御できない感情があふれだすように、涙が止まらない。

聡は顔を覆って、むせび泣いた。

 
 

聡は深夜から翌日にかけて精力的に将の看病をした。

口の中を切っていて、かつ気管支が炎症を起こして痛い将のために、ポタージュやジュースをつくり、薬を飲ませ、汗を拭き、氷を替える。

土日の2日間、聡が精力的に看病したおかげで、将の容態は落ち着きを見せはじめた。

気がつくと聡は将のベッドの端に肩から上を預けて眠っていた。

もう日曜の日はすっかり落ちて、再び夜になっている。

スタンドをつけて、眠っている将を見ると、アザは残るものの顔の腫れはだいたい引いた。

聡は将の額に手を置いた。熱はかなり下がったが、着ているものが汗で湿っている。

聡の手で将は目が覚めた。

「……アキラ」

声はあいかわらずかすれ気味だが、瞳は透明だ。まっすぐ聡のほうを見ている。

「あ、起きた?ちょうどよかった、着替えようか」

うなづく将の体を起こすのを手伝って、替えのTシャツをバスルームから持ってくると、将は自分でパジャマの上を脱いで上半身裸になていた。

「ちょっとまって」

聡は暖房を再び強くすると、給湯器の熱いお湯でタオルを湿らせたものをいくつか持ってきた。

「汗で気持ち悪いでしょ。ちょっとだけでも拭いたら違うから」

そういうと聡は将の裸の上半身をタオルで拭き始めた。すこしドキドキする。

贅肉というものがついていない、流れるような筋肉に覆われた将の裸。

がっしりとした肩や、筋張った首筋、関節など、汗をかいていそうなところを先に拭く。

「くすぐったいよ、自分でやるよ」

我慢していた将だが、ついに笑い出す。将はタオルを聡から受け取り、自分で脇の下を拭いた。脇も体毛もそれほど濃くない。

――体毛が濃くない人は、性欲も薄いんだっけ?

聡は変なことを思い出した自分に少し恥じ入った。まだ『セフレ』という単語がひっかかっているらしい。

「じゃあ、背中を拭くね」

といった聡は背中を拭こうとして、あの傷跡を目にして、動きを止めた。

「……アキラ?」
「あ、ううん。なんでもない」

「ヤケドのあとだろ」

聡はうなづいた。聞いちゃいけない気がしたが、黙ってるのも不自然なので、何気なく聞いた。

「どうして、ヤケドしたの?」

将は静かに目を伏せるように答えた。

「俺んち、昔、爆破されたんだ。そんときの傷」

第40話 寝室(1)

タクシーをつかまえ、急いで家に帰った聡は、もう一度体を点検した。

あんな格好で倒れていたということは、意識を失っている間にレイプされてしまったかもしれないからだ。

自分でわかる限り、その痕跡はない――聡は少し安堵したが、何をされたかわかったもんじゃない、と寒気がして、あわててシャワーの栓を捻った。

「!」

シャワーからは冷水が出てきた。

いつもは蛇口でお湯に変わるのを確かめてからシャワーに切り替えるのに、あわてた今日はそれを忘れたのだ。

今日の冷え込みに蛇口の水は凍る寸前のように冷えていた。その水の冷たさに、川の水の冷たさを……そして水に濡れた将がはっきりと蘇った。

ガラが最悪に悪い、不良どもに殴られ、川に放り投げられる恐ろしい光景と共に。

――たった一人で助けに来てくれたんだ。

来てくれなかったら今ごろ自分はどうなっていただろう?

それを想像すると、シャワーが温かい湯に変わっているのに聡は震えた。

手早くかつ念入りに体を洗うと、髪の毛を大雑把に乾かしながら携帯でタクシーを呼ぶ。

今、夜の10時になるところだ。

生乾きの髪は1つにまとめ、Tシャツ、セーターにジーンズを身につけて無化粧でコートを再び羽織ると、ちょうど来たタクシーに乗り込む。

 
 

 
「センセー、将のやつ、すっげー熱出てる」

マンションに戻ってきた聡を出迎えた井口は、開口一番、そのピアス顔を心配そうにゆがめて将の容態を伝えた。

寝室で将は赤い顔をして目を閉じていた。あいかわらず殴られたアザが痛々しい。額に汗を浮かべ、苦しそうに口で息をしている。

聡は将の額にそっと手を乗せた。今まで何度か同じ行為をした中で一番――すぐに手を引っ込めたくなるような熱さだった。

若い男があまり熱を出すのはいけない、というのを聡は思い出した。

「保冷材ある?」

「あるけど、あっという間に溶けたから今冷やしてる」

聡は舌打ちした。うちから余分を持ってくればよかった。

「薬は飲んでた?」

井口は首を横に振った。

「シャワーから出てきたらすぐ寝た。いちおう枕の下に氷入れてるけど……」

ビニールに二重にくるまれた氷がタオルにくるまれて枕の下にある。意外に適切な処置だ。

でも、次の氷が固まるまでに溶けてしまうだろうと思って聡は、井口に1万円札を渡して「これで氷と保冷材と製氷皿を買ってきて。氷はいっぱいね」と頼んだ。

赴任直後の事件や万引き未遂で捕まったことを考えると、この生徒にお金を渡すのはどう考えても無謀なのだが、今の井口は信頼できる気がした。

「わかった」

井口は神妙にうなづいて金を受け取ったが、次にニヤッと笑って

「な、ところでセンセイ、ホントに将とはエッチしてないの?」

と訊いてきた。聡はドキッとする。実はまさに昨日、この場所で、そうなってもいいと思っていたからだ。

「してるわけないでしょ!」

心にやましいところがある聡は、語気も激しく否定した。

「ふーん、そっかぁ。ずっと前から絶対デキてると思ったのになあ」
「バカなこといわないで早く買ってきて。あ、そうだ牛乳も買ってきて」

「で、チューはしてるんだろ?」

……ヤバ。聡はたじろいたが、

「……し、してないっ!だいたい、井口くんが想像するような関係じゃないですッ」
「ふーん、そー?」

いぶかしげな井口の目が笑っている。

「そうッ」
「でもさ将、センセーの名前寝言でずっと呼んでたしぃ。……じゃ、いってくる」

井口はガタイのよい体と金髪を揺らして、買い物に出て行った。

井口が出て行ったあと、聡は将の枕もとに戻った。

ベッドの脇にひざまづくと、乾いたタオルで額に浮かんだ大粒の汗をそっと押すようにぬぐう。と、将の瞼が静かに開いた。

「アキラ……」

声がかすれている。起きたとたんに苦しげな咳が吐き出された。

「ごめん、起こした?」
「あんな大声、誰だって起きるよ……」

咳を挟みながら、将は苦しげに明るい声を出そうと努めている。

「ごめん。……ねえ、薬飲まない?」

聡は水薬を持ってきた。昨日病院でもらったものだ。

「ウソは……いけないよ」

将は苦しい咳の下からつぶやいた。

「チュー、したじゃん、もう何度も」

アザだらけの顔で微笑んで見せると、布団の下から手を伸ばしてきた。

「俺、すっげー嬉しかったんだ、昨日」

将は聡の髪をなでた。

「さっきだって……。アキラの……人工呼吸だから俺は生き返ったんだ……」

声はかすれ、唇を通る空気だけで、一生懸命言葉をつむぐ。その間にもヒューヒューと苦しげな息がまざる。顔はますます赤くなり、汗が流れ落ちる。

「将……もういいから」

聡はその汗をぬぐった。目が熱くなるのをまたたきでこらえる。

「ねえ……、またやってよ……」

将は水薬を指差した。つまり、口うつしで飲ませてくれという意味に聡は少し躊躇した。

ほとんど忘れているけれど、今朝まで聡は将との関係を清算するつもりでいたのだ。

針でつつかなくては出てこないような隅にこびりついた、教師としての義務感がかろうじて聡をためらわせていた。

が、将は自分を命がけで助けてくれたのだ。

それに対する恩という大義名分のようなものが、将への聡の思いを正当化し、抗いがたいものにした。

義務感は大義名分にあっさりと負けた。

聡は甘ったるい水薬を口に含むと、将に上からのしかかるようにして自分の唇を将の唇に押し当てる。

将は、せまりくる聡の顔を見ながら、聡の背中に腕をまわした。

唇がふれあう瞬間、二人とも同時に目を閉じた。

将は音をたてて聡の唇から薬を吸った。

上半身は密着して聡の豊かな胸はセーターごしに将の胸のあたりにふんわりと温かな弾力を与えた。

将の唇も口の中も切れていてかなり痛んだが、そんな痛みはどうということはない。

聡を守るために得た痛みは逆に勲章のような誇らしさを将に与えた。

……聡とのふれあいはモルヒネなのだ。すべての苦痛も忘れられるかわりに、もっともっとほしくなる。

将は薬を全部吸い尽くしたにもかかわらず、聡と舌をかわしていた。

唇から糸をひいて、聡が離れた。「口の中が傷だらけ」と。

甘い薬を将が飲んでしまうと、塩辛く、鉄臭い味が聡の舌に伝わった。聡は将の血の味が嫌だったわけじゃない。痛みを気遣ったのだ。

「いいんだ」

将は聡をまた抱き寄せた。

「ダメ。もう寝なきゃ」

聡はアザだらけの将の顔に向き直ると、汗で濡れた額に口づけをして布団をかけなおした。

「ずっとついてるから、寝なさい」

その言葉に将は安心して目を閉じた。

聡は正直なところ、博史のことも、義母のことも、そして自分が教師であることも忘れてしまっていた。

 
 

 
まもなく、井口が戻ってきた。彼なりに気を利かせて、サプリメントや、ドリンク剤、桃缶も買ってきていた。

「将寝てる?」と寝室をのぞく。
「うん。今薬を飲んだから」

「あっそー」

なぜか井口は聡の顔をじーっと見た。

聡は再びドキっとした。まさか顔に『口移しで薬を飲ませました』とは書いてないだろうに。

聡は自分の顔がみるみる熱くなるのを感じて思わず顔をそらしてしまった。井口はプッと吹き出した。

「センセー、中坊みたいだなー」

あーおかしーと笑い出す。

「邪魔だろうから、俺帰るわ」
「そんな、井口くん……」

といいつつ聡は井口が泊まるといっても困るのだが。ずかずかと玄関へ向かう井口を聡は追った。

「あの、どうもありがとうね、井口くん」
「こっちこそよぉー」

靴を履いた井口は振り返った。

「まえにケーサツに捕まったのをガッコに言わないどいてくれてサンキュ」

ちょっと照れくさそうに体を揺らしてそっぽを向きながら、初めて聡に礼を言った。そのようすは案外可愛らしい。

「あ、そうだ、あとよ」

井口は体を揺らすのをやめて聡に向き直った。

「瑞樹のやつには気をつけたほうがいいぜ。あいつ、将をとられて、ブチ切れてるはずだから。センセーに」

聡は駅で瑞樹に話し掛けられたそのときに、薬をかがされたことを思い出した。

「なんで葉山さんが……」
「将の元セフレなんだ、あいつ」

「セフ……?」

唐突だったので聡は一瞬意味をうまくとらえられなかった。井口は、その単語をもういちど繰り返して

「もっとも瑞樹のほうは、そう割り切ってなさそうだったけどさぁ」

と付け足した。だとしたら、今回のことは瑞樹がたくらんだことなのか。

「今日も相当ヤバかったんだろ」
「……うん」

「あいつ、コワイ女だし、今回だけで諦めるとは思えないからサ。気をつけときー。じゃーね、センセー」

玄関のドアをあける井口の金髪が、吹き込む風で揺れた。外は寒そうだがそのまま出て行く。

「わかった。ありがとう」

聡はススキの中で迷子にされたように、心が揺れた。瑞樹との関係に投影させられた、将の『男性』としての側面にとまどったのだ。

第39話 夜の川(2)

※引き続き暴力的・衝撃的な表現があります。閲覧にはご注意ください。

 

 
寒さは聡を思いのほか早く覚醒させた。目が覚めた聡の上に粗末なベニヤ板の天井が広がっていた。

――ここ、どこ?

あまりに見慣れない風景に一瞬、夢なのかと思ったが、寒さのあまりくしゃみが2回連続で出て、聡は体を起こした。次の瞬間、自分の姿に気付いた。

――何コレ!

上着がなぜか掛かっていたが、右の膝下にストッキングとちぎれたショーツがかろうじて残っているほかは素裸だった。

しかし誰も居ない。

聡はあわてて体を確認したが、何かをされたような痕跡も感覚もない。ケガもしていないようだ。

まわりにあった服をかき集めた。破けて使い物にならないブラウスにアンダーシャツ。ショーツも片側が見事に切られている。

聡は何も考える余裕もなく、かろうじて無事なスラックスを裸の下半身に穿き、ブラジャーと上着、コートを身につけてから、自分に何があったのかを思い出そうとして頭がくらっとした。

――そうだ、何か薬をかがされて……。

駅の風景が脳裏にひらめく。黒髪の女。そうだ。

駅で教え子の葉山瑞樹が「話があるんですけど」と寄ってきた。その直後に誰かにタオルを口にあてられたんだ。

と、複数の若者の笑い声がプレハブの外から聞こえた。

聡は靴を履くと本能的に身を隠しながら、サッシの入り口から外を覗いた。

そこでは恐ろしい遊びが行われていた。いたぶられているのが誰だかわからないが、聡は血が凍る光景を見た。

 
 

川に投げ込まれた将は、体全体に染み込む冷たい水に、逆に意識がはっきりした。浅瀬だったせいもあり、立ち上がろうとした。

しかし、殴られ続けたのと、氷のような冷たさに体全体がこわばり、思うように動けない。

やっと立ち上がったと思ったら川底の石に滑って転んだ。再び、全身を冷たい水が縛り上げる。

それを見た川原にいる前原ら不良5人が大笑いする。

なんとかずぶ濡れで立ち上がると、川原に向かって歩き始めた。

歯の根があわないとはこのことだろう。ガチガチと将の歯が小刻みに鳴る。

歯が鳴るのは生死に関わる体温低下にさらされている証拠である。しかし、将はまだ自分が死ぬとは考えられない。

将はすべての思考を停止し、単に生存本能だけで起き上がり、岸へと歩いた。

雨は、いつのまにか雪に変わっていた。暗い水銀灯に照らされて雪が舞う。

ふらふらと岸にあがってくる将に、こんどは赤毛と金髪が向かった。

ちょっと蹴っただけで倒れる将を再び、二人で抱える。水に濡れた将の体は氷のようで、持つだけで手が固くかじかむようだった。

よくこれで生きてると二人は思ったが、勢いをつけて再び川の中に投げ込む。

この二人もまだ将が死ぬとは思っていない。また死んだ場合どうしよう、とも考えていない。

軽い感覚で、この見栄えの良い青年をいたぶるゲームを楽しんでいた。ゲームは最高に楽しかった。だから寒いのを忘れて転げるように笑う。

もうあがってこない、と誰もが――サッシから覗いていた聡も――信じたが、2分ほどして、少し下流に流された将は再び立ち上がった。

横なぐりのように降るボタ雪の中を、さっきより若干早いペースで岸に向かって歩いてくる。

「お前、しぶとすぎッ!」

前原は狂気の叫び声をあげると、氷のような川の中を歩いてくる将に向かった。自らも川の中ジャブジャブと入る。

前原はここに来る前にクスリをやっていた。そんな彼には水の冷たさは感じていても関係なかった。

雪が降る川の浅瀬にやっと立っている将を三たび川の中へ殴り倒す。

起きようとするその顔を水の中に押し込んだ。

「死ねやあああ!」

「がふっガボっ」

将はすごい力でもがいて水面に顔を出そうとする。ばしゃばしゃと手を動かして水面に押し付ける前原の手をどけようとする。

氷のような水しぶきが前原の顔や体にかかった。

前原はやみくもに動かす将の手を払いのけながら、将の頭をさらに水中に押さえ込む。

川原ではやしたてていた不良はいつしか固唾を飲んでいた。

――あいつヤバくない?

――本当に死んだらどうする気だ?

ふっと前原の手をどかそうとする将の手の力が抜けて、水面が静かになった。

川のせせらぎが雪の中に不気味に響く。将はうつぶせのまま動かなくなった。

突如、サイレンが鳴り響いた。暗闇の対岸遠くに赤いランプが点滅した。

「ヤバイ!」川原にいた不良はあわてた。

髭面が川の中に入り、なおも気違いじみた力で将の顔を水中に押さえ込む前原を連れ戻すとワゴンを急発進させた。窓から聡のカバンを放り投げる。

聡は不良が退散したとたん、サッシを開けて、外へ出た。

暗い空に水銀灯に照らされて雪が花びらのように舞っていた。

「将!」

川の浅瀬でぐったりと倒れる男がはっきりと見えたわけではない。ただ直感で聡はそれが将だと確信した。

聡は川に足を浸した。冷たいというよりは痛いような川の水。

川底の丸みのある石にローヒールの靴底をとられそうになりながら、将のいる川の浅瀬に入っていった。

深さ20センチぐらいのところに将は倒れていた。

「将!しっかり」

聡は力をふりしぼって将の体をひきずった。

が、足をとられて二人とも倒れた。水際といえるほど浅い場所だった。

聡は自分が濡れるのもかまわずにその場で横たわる将の顔をぴしゃぴしゃと叩いたが、将は呼吸していなかった。

暗い水銀灯とプレハブからもれたわずかな光の中浮き上がった将の顔は、殴られた跡の色とりどりの鮮やかな痣が浮き上がっているものの、不思議に青白かった。

その上に白い雪が舞い落ちる。葬列の花を予感させるようなぞっとする美しさだった。

聡は死の予感に負けじ、と将の唇に自らの唇を押し当てた。将の唇は氷のように冷たくなっていた。

聡は自分の息が将の肺へと届くのを祈り、熱い息を将の中へと吹き込んだ。

「将!将!しっかりして!」

呼びかけながら胸をマッサージして再び息を吹き込む。

何度か繰り返すうちに喉でごぼっ、と音がして、水が将の口から逆流した。

やっとあいた将の眼に、髪の毛に雪をくっつけた聡が映った。

「ア……キラ」

将は手を伸ばすと、聡の髪に手をやった。

「雪が……」

将は深く息を吸い込んで目をあけると、苦しそうにむせて水を吐き出した。

「将……よかった、よかった……」

聡は安堵して、咽る将の背中をさすりながら泣いた。

そこへ、やっと井口とカイトが走ってきた。

「将!」

「大丈夫か」

二人はカイトのバイクに二人乗りしてやってきたのだ。

「センセーも無事?」将のそばにかがみこんだ井口が聡をふりかえった。

「私は大丈夫よ」

カイトが赤く点滅するサイレンを手に持っていた。

「覆面パトから前に盗んだヤツです。なんとかだませたらしーな」

にやっと笑って聡に差し出した。

「ありがとう……」

聡は二人に頭を下げると再び涙をこぼした。

そのとき雪雲の陰から月が顔を出した。雪がやみそうだった。

 
 

 
ミニは井口が運転して、なんとか将をマンションに連れて帰ることができた。

長身の将は、同じくガタイがでかい井口と聡の2人がかりで運ぶのも大変だった。

将の体は、さっきとはうってかわって火のように熱くなっていた。

さっきからのひどい状況で風邪が悪化したのだろう。意識が飛んでいるらしいが、息はしている。

救急車を呼ぶことを聡は提案したが、車の中で将自身が却下した。いろいろと面倒なことになるから、と。

「何だこれ。髪?」

リビングの入り口にちらばった黒髪を見て井口は言った。

「片付けてくれる、いえ、まず濡れた服を脱がすのを手伝って」

何度も川に投げ込まれた将は、全身びっしょりだ。

このままベッドにいれたらベッドもぐっしょりになってしまうだろう。

聡はソファにバスタオルを敷くとそこに将を寝かせて井口と二人で服を脱がせた。脱がせながら乾いたタオルで水気をぬぐっていく。

部屋の暖房は最強にした。濡れたシャツを脱がせた聡はハッとした。

将の背中にケロイドのような古い傷跡を見つけたからだ。傷跡は水でふやけて蝋のようになっている。

火傷だろうか。もし火傷だとしたらかなりひどい傷だったはずだ。

聡は一瞬躊躇したが傷のあたりもそっと拭ってパジャマを手早く着せた。

将の体は湯気が出そうなほど熱くなっていて、意識がないままガタガタと震えていた。

「センセイ、パンツもびしょびしょなんだけど」

ジーンズと靴下を苦労して脱がせた井口が聡に伺いをたてた。

濡れたジーンズに包まれていた将の足は蝋人形の足のように白っぽくなっていて、腰のまわりにはまだびしょびしょのトランクスがぴったりと貼り付いている。

聡は顔をそむけて「もちろん、脱がせて」と指示した。

「ええー。はずかしいんだけど」

「バカなこと言わないの。男同士でしょ」

聡は強い調子で言った。

「やだよ。センセイやれよ。彼女なんだし、もう何度も見てんだろ」

井口はぷいっと横を向いたがニヤニヤして続けた。

「違うっ……!まだそういう関係じゃないっ」

聡は目をむいて否定した。

「あ、そ、『まだ』そういう関係じゃないんだぁ」

井口はピアス顔の目を三日月のようにニヤつかせた。

こんなことをしている間にも震えと熱が心配だ。らちがあかないので、

「乾いたタオル、もっと持ってきて」

と井口に命令すると、仕方なく将のトランクスの腰の後ろに手を回してずり下ろした……。

「何してる」

急に将の目が覚めた。

「ご、ごめん。下着まで濡れてたから、替えようと思って」

聡は腿のあたりまでずり下ろした将のトランクスからとびのいた。

「……自分でやる」

将はかすれた声で言うと、いったん脱がされかけたトランクスをずりあげて起き上がった。

いつもだったら聡には何か冗談の1つもいう将なのにそういう余裕もないようだ。

よろけて柱にもたれかかる。頭はボーっとしているようだ。

「大丈夫かよ?」

井口が肩を貸してなんとかふらつきながらもバスルームへ行った。

バスルームの脱衣所からは立て続けに激しい咳が聞こえてきた。

「で、見た?」

井口が再び目を三日月にして聡をのぞきこんだ。聡は顔を赤くした。

「見たんだ、見たんだー!」

「何コドモみたいに騒いでるの。これ片付けてっ」

聡は井口にリビングの入り口にちらばった髪を片付けさせた。

「あたし、1回着替えてくるから、井口くん、ちょっとここにいてね!1時間以内に戻るから。将が出てきたら寝かせて、顔に氷をあててあげて!」

聡も実は下着を着けていないのが、そろそろ気になっていたのだ。

「ほいほいサー、……将、ね」

井口は、いつのまにか『将』と呼んでいる聡に気付いていた。なぜかほほえましく思っていた。

そして掃除機でちらばった黒髪を吸い取りながら、これは瑞樹の髪だ、と直感した。

第38話 夜の川(1)

※暴力的・衝撃的な表現があります。閲覧にはご注意ください。

 
将は車を飛ばしていた。雨はいくぶん小止みになったようだが、それでもスピードをあげるミニのフロントガラスのワイパーの下に氷の粒がたまっていった。

将が運転するミニは、東京郊外の大きな川を遡っていた。

この県境を流れる川の中流の河川敷で護岸工事をやっている。前原の父が請け負っている工事だが、泊まりの土木作業員のための飯場が川原にあるという。

この土日はそこが留守になるとのことで、そこで「パーティ」をやるのだという。

――早く、早く!

将はスピードをあげた。濡れた服で冷え切った体は車内の暖房でカッと熱くなっていた。たぶん熱が出てきたのだろう。

しかしそんなことはおかまいなしに将はアクセルを踏み、前を行く車と対向車の間を縫って危険な追い抜きを繰り返した。

 
 

 
「寒いなー、ここ」

「こんなんで『パーティ』やれんの?」

金髪と赤毛が飯場に入るなりまわりを見渡して文句を言った。

すぐ近くに川が流れるプレハブの飯場は冷え切っていた。室内だというのに、息が白く、震えがくる。

一度も掃除などしてないがごとく、醤油や油が隙間なくこびりついたガス台が置かれた汚い台所が入り口を兼ねていて、その奥に小上がりのような6畳間があり、隅に布団が畳んであった。

「文句いうなよ。今ストーブいれっからよ」

前原が台所にあった丸い石油ストーブに火を入れた。

とたんに金髪と赤毛はストーブに寄ってきて「寒い、寒い」と手を温め、

「酒も飲めないよ、この寒さじゃ」

と不平たらたらだ。

「酒がだめならドラッグでしょー」

と車を運転していた髭面が笑った。

聡を抱えてきたスキンヘッドがことさら大声で続ける。

「ハゲしく動けば平気でしょ」

一同はげらげらと笑った。

スキンヘッドは、畳に聡を下ろした。薬をかがされた聡はまだ眠っている。

他の者はストーブにあたっているのに、スキンヘッドはせっかちに聡の上着のボタンに手をかけている。

「なんだよ、超せっかちだなー」

ストーブを囲んで他の者が笑う中、缶チューハイを手にしていた前原は「俺が先だぜ」と聡に近寄るとパンツスーツのジッパーを下げる。

「意識がないとやりにくいな」

スキンヘッドは聡の上着を脱がせながらつぶやく。

実際、薬で眠った聡はぐんにゃりとして、固いスーツの片袖を脱がすだけでも、スキンヘッド一人ではそうとう手間がかかった。

前原は聡の腰を少し持ち上げると、あっさりと聡の脚からスラックスを抜き去ったが、今日は寒かったせいか、スラックスの下にストッキングが張り付いていた。

「おい手伝えよ」

スキンヘッドがストーブのまわりで見物する3人に声をかけた。

「破いちゃえばいいじゃん」

といいながら髭面が近寄ってきた。

「こんなふうにさぁ」

髭面は聡のブラウスを乱暴に左右に引っ張った。ボタンがぶちん、ぶちん、と次々に飛び、眠った聡の前がはだけた。が、ここにも聡はアンダーウェアを着けていた。

「ち、ババシャツかよ、厚着な女だなー」

といいながら髭面は薄いアンダーウェアを引っ張り、そこをナイフの先で突く。薄い布はピリピリと見る間に裂けて、肌が露出した。

「なるほど、こんなふうに、ね」

前原は、聡のストッキングをショーツごと腰骨のあたりからナイフをくぐらせた。

ショーツの脇は切れるのに多少手ごたえがあったがストッキングは手ごたえも何もなく、空気のようにナイフの刃で裂けた。

スキンヘッドは後ろから手をまわして聡の胸を守るランジェリーも上にずりあげて中身を露出させた。ほとんど全裸になった聡に、赤毛や金髪も寒さを忘れて寄ってきた。

「いい体だな」

「センコーなんかよりAV出たほうがいいんじゃねー?」

「起きねえな」

髭面は、眠ったままの聡の頬を軽くはたいた。だが聡は眠ったままだ。

「突っ込みゃ、起きるよ」

前原は聡の膝を持ち上げた。意識がないから抵抗もない。目で合図をして聡の両側に陣取る金髪と赤毛に片足ずつ渡すように固定させる。

「……じゃあ、当然俺が一番でいいな」

と前原はせっかちに自分のズボンを下ろした。そのとき。

ガラリと台所の入り口のサッシが勢いよく開いて聡に群がっていた不良たちは一斉に振り返った。

将は、不良たちの中にいる聡の姿を見て、髪の毛が逆立つほど逆上した。

次の瞬間、前原の体がふっとんだ。前原は下半身を露出したまま壁に激突し、プレハブの飯場全体が揺れた。

将は振り返りざま髭面の横面にキックを決めた。髭面は台所のほうに飛んでいき、安物の水屋にぶつかった。

水屋からこれまた安物の湯飲みや茶碗が固い床に落ちて割れた。

将は裸で倒れている聡に落ちている上着を素早く掛けた。

そこへ赤毛がナイフを振りかざして将の後ろから突刺しようとしたが、将はそれをかわして足をかけた。赤毛は窓側の壁にぶつかり、その衝撃でサッシの窓にひびが入った。

金髪とスキンヘッドはナイフを片手に将のすきを伺っている。

口から血を流して起き上がった前原は、萎縮した下半身の上にズボンをずりあげながら、

「……ここじゃまずい。これ以上壊すと、オヤジに怒られちまう」とつぶやいた。

「外に出ろ」

将は前原を引っ張り上げると外に蹴飛ばすように出した。

「お前らも外に出ろ」

将はのびている赤毛をはたき起こすとこれも引きずり起こした。

5人全員を聡の体から距離を置かせると自らも外に出た。

外の雨は小雨になりながらもその冷たさは失われていなかった。

将が外に出るなりまだ一度もやられていない金髪とスキンヘッドがナイフを片手に向かってきた。

将は素早くかわしながら金髪のほうを膝で蹴ると、スキンヘッドの腹にむしゃぶりついて押し倒し、ナイフを奪い取った。

しかし、その瞬間、復活した髭面が将の腰にとりついてスキンヘッドから将を引き剥がした。

その無防備になった将の腹に赤毛の蹴りが決まった。

将は、かがみこむと激しく咳き込んだ。そこの横腹を赤毛は蹴り続ける。エビのように体を丸めて倒れた将は、そのまま咳を続ける。

「フン」

離れて見ていた前原がおもむろに近づいてきた。赤毛と入れ替わると横向きに倒れた将を、前に自らがされたように仰向けにする。

仰向けにされても将は、目を閉じて喉からひゅーひゅーと音をたてて肩で息をしている。

「いいざまだな」

とかがんで将に声をかけた前原だが、再び、横たわっているはずの将にアッパーをくらった。差し歯が夜の川のほうへ飛んでいった。

将はふらふらと立ち上がった。

……が、すぐに赤毛とスキンヘッドに両肩を掴まれた。

髭づらが動けない将の顔にパンチをあびせる。両側から、まるでサンドバックのように執拗に。

ようやく気が済んだのか、将は解放されると、立ち上がる力もなく、川原に倒れこんだ。

わずかに残る意識の中で、顔にあたる小雨がひんやりと気持ちいい。

「さあて、変な邪魔がはいっちゃったけど、続き続き」

スキンヘッドが言って、プレハブの中に入ろうとした。将は最後の力を振り絞って、スキンヘッドの足にとりついた。

どんなに蹴られても離さない。すっぽんのように将は耐えた。

やっと復活した前原と髭の2人がかりでスキンヘッドの足から将を剥がした。前原と髭面で将の肩と足を持ち上げ抱えると、10mほどのところを流れる川へと進む。

水際で何度か揺らして勢いをつけると、将の体を川に投げ込んだ。

「目には目をだっけ。人殺しは死んで償わなきゃ!」

前原はハッハハーと笑うと夜の川に向かって叫んだ。

第37話 拉致(4)

 
雹交じりの雨はいよいよひどくなった。

雨だけでなく雷もとどろき、駅は雨宿りとタクシー待ちの人でごったがえした。

将は駅から家までタクシーを使おうかと思ったが、待つ人が多く断念せざるを得なかった。

たかだか1メーターだ。しかし1メーターといえど歩けば10分近くある。

白い粒を包んだ雨はますますひどく道路を叩き、強風にあおられたしぶきが屋根の下まで飛んでくる。

景色がかすんで見えるほどのひどい雨。将は意を決して、冷たい雨の中に飛び出した。

全速力で走る。咳が邪魔をする。信号無視した将に、するどくクラクションが鳴るがかまわない。

頭はあっという間にびしょぬれになり、皮のコートは濡れてずっしりと重くなった。

靴もとうに水浸しになり、その下の靴下ごと用をなさなくなっている。

と、持っていた紙袋が破けて中身が水溜りに落ちた。プレゼントのマグカップが入った紙箱だ。

将は拾い上げた。箱はびちゃびちゃになっていたがかまわず、抱えて走る。

やっとマンションのエントランスにたどりつくと、将はその場にひざまづいて苦しく咳き込んだ。

咳き込むたびに冷たい空気が将の肺に苦しく沁み、それがますます激しい咳を誘発した。

血でも出るのではないかというほど、将の胸から喉は激しく痛んだ。

……ようやく、落ち着いた頃、ちょうどエントランスに瑞樹が現れた。

駅でビニール傘を買って歩いてきたらしい。ローファーに紺の靴下が濡れている。

「将。どうしたの?」

びしょぬれで壁にもたれかかる将に瑞樹は驚いたようだ。将は睨み付けそうになるのをこらえて笑顔を作った。

「部屋、行こうぜ」

瑞樹が部屋に入るのを見届けて、将は入り口の鍵を閉めた。

しかし瑞樹は、逃げ出そうという気配もない。すっかり将のことを信用しているのだ。

「早く、拭かないと」

瑞樹は勝手を知っているバスルームからタオルを持ってくる。

将はタオルを受け取らずに、

「アキラはどこだ」

といきなり切り出した。1秒でも時間が惜しい。

瑞樹は一瞬驚いた顔をしたが、すぐにそれは冷たい笑顔になった。

「そういうこと?おっかしいと思ったんだよね」
「だからどこだ」

将はずぶぬれのまま瑞樹に詰め寄った。

濡れた冷たい雫が頭から湧き出してくるように顔に流れてくる。濡れた衣類が将の体を冷たくしぼりあげるようだ。

「いうはずないじゃん」

瑞樹は嘲笑った。

「言えよッ!」

将は、瑞樹の両肩をつかんだ。しかしそのはずみに激しく咳がでる。
瑞樹は肩をつかまれたまま将をにらみつけた。

「やだよ……絶対言わない」

将は思わず右手を振り上げた。しかし瑞樹はみじろぎもせず言い放つ。

「殴れるはずないよね。将、言ってたもんね。生理的に女を殴れないって」

将は唇を噛み締めて、右手を下ろした。

そのまま瑞樹の足元に崩れるように膝をついた。床に両手もつく。

「頼む。教えてくれ。頼む」

頭を下げた将の髪の毛からの雫が床にぽたぽたと落ちる。

床に土下座して自分に頭を下げる将を、瑞樹は驚いて見下ろした。

……あのプライドの高い将が、あの女のためにこんな格好をするなんて。

――ますます許せない。

「教えられねーよ。そんな格好をしたって無駄なんだよ」

乱暴な言葉を発した瑞樹は顔をそむけると

「そういう用件だったら帰る」

と玄関へ踵を返し始めた。

「待てよ」

将は立ち上がると瑞樹を追った。思わずナイフを持って先回りする。

「アキラの居場所を教えるまで帰さない」

リビング出口のドアに手をかける瑞樹の前に立ちはだかる。

「そんなもので……刺せるわけ?刺せるなら刺せば」

瑞樹はバカにするように言った。しかし言った後で、将の噂を思い出した。

瑞樹も真相は知らないが、将が人を殺したという噂を信じている一人だからだ。

将は鋭い目で瑞樹をにらみつけると、瑞樹に左手を伸ばした。

「キャ……」

刺される、と思わず目を閉じた瑞樹。

……将は瑞樹の黒髪を掴んでいた。髪にひっぱられて瑞樹の頭が傾く。

「もう一度聞く。アキラはどこだ」

顔は熱で赤くなっていたが、それと逆に将の目は無機質に光っていた。瑞樹は将のこんな顔を初めて見た。

「教えろ」

調子は静かだったが髪を掴まれた瑞樹はだまって将の顔を見るしかない。

数秒沈黙が続いた。

将の右手のナイフが次の瞬間、瑞樹の髪へと非情に動いた。黒髪はジャクっと嫌な音をたてて、瑞樹の頭から離れた。

「……!」

瑞樹は信じられないという顔で将が床に放たれた自分の黒髪と将の顔をかわるがわるに見た。

無表情を続ける将は、再び瑞樹の残った髪を握ると再びナイフを動かす。

「非道い……」

瑞樹の大きな瞳に涙があふれた。

「非道いのはお前のほうだ。丸坊主になりたくなかったら、早く教えろ」

将は瑞樹の涙にもひるまずに、瑞樹の頭に残った、すでに短くなった髪も乱暴にナイフで切り取っていく。

「……くっ」
女に暴力をふるわない、といっていた将にこんな行為をさせるあの女が憎い。

――絶対に言うもんか。

瑞樹は歯を食いしばって落ちていく髪を見ていた。

瑞樹の頭髪がほとんどめちゃくちゃのショートカットになったとき、将の携帯が鳴った。井口だった。

「前原の行き先がわかったぞ」
「どこだ!」

井口は気を利かせて、カイトに『今から参加したい』と嘘をつかせて、場所を手に入れたのだ。
将は、濡れた服のまま、鍵もかけず部屋を出た。

――アキラ!無事でいてくれ!

将はローバーミニのキーを差し込むのももどかしく急発進させた。

瑞樹は切り取られた自らの髪の中にへたりこんでいた。

さっきまでつややかな長い黒髪が自慢だった頭は、部分的に刈りたての芝生ほどに短くなっているのが手触りでわかった。

――悔しい。

――どんなことをしても二人の邪魔をしてやる。

瑞樹は床にうねる髪に誓うと、携帯を取り出した。アドレス帳からある人間を探し出して掛ける。

「はい。週刊パパラッチの安藤です。瑞樹ちゃん?」

「もしもし。面白いネタがあるんだけど……」

第36話 拉致(3)

 
将には「やられかけた」と話したが、実は瑞樹の処女を奪ったのは、母の再婚相手の義父だった。まだ瑞樹が小5のときだ。

こんなことは誰にも話したくないから、瑞樹は初体験の年齢を聞かれたときはいつも『14歳のとき。ナンパされて、なんとなく』と明るめに嘘を言った。

義父の相手をするのが嫌で嫌で、友達の家に泊まったり、街角で夜明かしをしたこともある。

そのうち瑞樹は、体を他人にまかすことで、宿を得ることを思いつき、中学に入ってついに家出をした。

男に身をまかせて、その家に居着く。または、夜の街で知り合ったばかりの友達の家に何日も居候をする。

そうやって義父の魔の手から自分を守ってきた瑞樹は、高校に入ってようやく安住の地を見つける。

それが将の家だったのだ。

自分と同じように家に帰れない理由をもつ将だから、1年以上も「帰れ」とは言わなかった。

なのに。

あんな年上の教師に熱をあげた将は、あっさりと自分を追い出したのだ。

2ヶ月前、将の家を追い出された瑞樹はふりだしに戻ってしまった。

アイツ(義父)のところには帰りたくないから、出会い系サイトで、その日の宿になる男を捜す日々。

しょぼい男にあたり、やるだけやられて、くれたのははした金だけ、泊めてくれもしない雨の夜もあった。

雨に濡れて、しかたなく家に帰ると待っていたのは義父の下半身だった。その日2人目のものを咥えさせられながら瑞樹の脳裏には炭火のように小さく、しかし深く熱く復讐の炎が燃えはじめていた。

――許せない。

なんで自分だけがこんな、娼婦のような暮らしをしなくてはならないのだ。

復讐の炎は、自分を追い出した将でもなく、倒錯した義父でもなく、将を夢中にした聡のほうに一途に向かったのだ。

そして1ヶ月ほど前。

疲れた瑞樹は、繁華街の道端で、制服姿でうずくまっていた。

10月の夜は、暖かかった昼間からガラリと変貌して、冷たい夜風を瑞樹に吹き付けた。

生理中だった瑞樹は、宿になる男を捕まえることもできず、しくしくと痛む下腹に耐えられず道端にしゃがみこんでいたのだ。

「何やってんの」

そんな瑞樹に声をかける聞き覚えのある声があった。

隈取をしたような大きな目、分厚い唇、まわりの髭といったラテン系の濃い顔立ちに、根元が黒くなった茶髪のマカロニくずれ。同じクラスの前原だった。

瑞樹は返事をする力もなく目をあげた。

元・将の女だった瑞樹が、将に追い出されたらしいことは不良仲間は皆知っていた。

「うちにくればぁ?」

前原は語尾を延ばしたバカっぽい話し方で瑞樹を誘った。

ついていけば、何をされるかわかっていたが、疲れていた瑞樹はもうどうでもよかった。

工務店の社長をしている前原の家は、一戸建てで、母屋から独立した離れが前原の部屋になっていた。前原の親は放任主義で、警察沙汰にならない限り、離れで前原が何をしようと口を出さないらしい。

その離れで案の定、前原はヤリたがったが、瑞樹が生理中だと知ると、あっさり引き下がって、母屋から鎮痛剤を持ってきて

「女は大変だよなー」とヘラヘラ笑った。

そして立ち上がると押入れの奥から箱を取り出してきた。

「コレは効かないのかな」

と、開けた箱の中には白い粉と注射器が入っていた。

瑞樹は目を丸くして前原の顔を見た。本物を初めて見た。

――こいつヤバイかも。

「やってみる?」

瑞樹は無言で首を横に振った。前原はケケケと笑うと

「そんな顔で見るなよ。別にチュードクじゃないんだから。たまに楽しむだけだよ。気持ちいいぜ。悩みがふっとぶ」

と箱をしまった。

生理が終わり次第、関係を持つことになってしまったが、瑞樹は幸いしばらくそこに居着くことが出来そうだった。

前原との行為は、どうでもよかったが、薬をヤッてるせいか、途中でやたらと将と比べたがるのには閉口した。

大きさ、技巧、優しさ、よさ。

すべての項目を執拗に聞いてくる。全部、将のほうが優れている。などとは言えない。

返事をしないでいると、痛い行為に及んでくる。その目には狂気があった。

だから、声を出さずにうなづくなど適当にごまかすが、毎回のことで、さすがに瑞樹も嫌になった。

よほど、この男は将に劣等感を持っているのだろう。瑞樹は必死で体を揺らす前原の下で、その濃い顔を見上げた。

――バーカ。ぜんっぜんよくない。早く終われ。

そういうかわりに、わざとらしく声を出してやった。

もうたまらない、とばかりに、体をのけぞらす。早くこの不快な摩擦を終わらせるためには、このくらいの演技は軽い。

瑞樹は偽りの声をあげながら、早くここを抜け出したいとそればかりを感じた。

だけど、どこへ――瑞樹には居場所がない。絶望にとらわれた瑞樹は、とうとう、前原に薬をもらった。

体が軽くなると同時に、思考はぼんやりとしてし、かわりに本能が剥き出しになる、と自分でも思った。

いつもより前原の行為を好ましく感じてしまう自分に嫌悪しながら、居場所を奪ったあの女への憎しみが脳を占めていく。

薬は一時的に体を軽くしてくれたが、翌日、瑞樹は激しい吐き気をもよおした。

だるくてだるくて苦しい。瑞樹は布団の上でもがいた。そのとき離れの縁側が開いた。

「アンタ、今日1日家に居るの?」前原の母だった。

ダンプカーを思わせる四角く太った体の両端に垂れた胸がついている。

「出かけるなら、今出て。私もでかけるんだから」

そんなわけで、瑞樹は最悪の体調を抱えて、前原の家を出かけなくてはならなくなった。それが先週の金曜日だった。

瑞樹はダメだと思いながらも将の家に近くに来てしまった。

運が悪く、自分より年下らしき非行少年に目をつけられてしまった。

体が思うように動かない瑞樹は、倒れこんでしまった。どこだかもわからない。そんなあのとき、助けてくれたのが将だ。

しかし、将は非情にも、瑞樹を家に置いてくれず、別れたあと、瑞樹は前原の家に帰るしかなかった。

「な、将って、あのアキラと付き合ってんのな」

瑞樹を抱いたあと、前原は蛍光灯を付けると煙草をふかしながら言った。夜には薬は抜けてだいぶマシにはなっていた。

「見たの?」
「ああ。スタバで仲良さそうに抱き合ってたぜ」

前原に背を向けていた瑞樹の動きが止まった。

「瑞樹?」

前にまわった前原は能面のような瑞樹の顔を見た。

「……せない」
「なんだよ?」

「許せない」

唇を噛み締めた瑞樹は、決意を固めていた。

――絶対に復讐してやる。

瑞樹は前原に向き直った。

「ねえ。茂樹ィ、将のこと憎たらしくない?」

高めの声で急にしなをつくる。前原は、一瞬ぎくっとした。失禁させられたことを言われたのかと思った。もちろんこれは皆に秘密にしてある。

「だってサ、差し歯」

ああ、そっち。前原はほっとしたが、今度はすっかり忘れていた、アッパーを食わされたときの悔しさが蘇ってきた。

「将のさ、新しい彼女をひどい目にあわせない?」
「新しい彼女って……」

「そう。アキラせんせい」

瑞樹は前原の肩に顔を乗せて瞳だけで前原の顔をのぞきこんだ。そうすると白目が妖しく光り、抗うことは絶対許さないという目になった。

瑞樹は立ち上がると、いつもの隠し場所から薬を持ってきて、注射器にセットして、前原に渡した。

「茂樹だって、あのときやり損ねたうえに、殴られて悔しかったでしょ……だから、ね」

不快な屈辱の思い出に駆られて、前原は注射器を奪うようにして自らの手に打った。前原にその計画を拒否することはもはや、できない。


 

 
瑞樹は、自分の携帯が鳴るのに気付いた。将が表示されている。

将が企みに気付いたのかもしれない、と一瞬ギクっとする。瑞樹が声を出す前に将の声が聞こえた。

「俺」
「何?」

「暇だから久しぶりに会いたいんだけど。今どこ」

将は何気ないふりを装った。咳をこらえるのに苦労する。

「何よ、いまさら」

冷たい調子を装い答えるものの、会いたいという言葉に瑞樹の気持ちは動いた。

「いいじゃーん……」

――こうしている間にも、聡は?

将は瑞樹とつながる電話の向こうの音を必死で聞き取ろうとした。聡を乗せた車はまだ走っているらしい。ということは、まだ無事。

「ねえ。やっぱ、お前がいいんだよ」

そらぞらしく聞こえないだろうか。将は嘘をつく自分に気持ちが悪くなる。しかし聡を助けるためだ。

「ちょっと待って」

瑞樹はそれを信じたらしい。携帯の向こうで、『いまどのへん』と誰かに問う瑞樹の声が聞こえる。

将はそのすきに、こらえていた咳をする。喉の奥の痛みは咳にかわりつつあった。

「もしもし」瑞樹の声が戻る。
「今どこ。迎えに行くよ」

「もうすぐ××ぐらいなんだけど」

そこだったら、まだ近い。少しいけば将の家がある。

「じゃ、今すぐうち来いよ」

将は、電車に乗るために、携帯がつながったまま、駅へと足早に向かう。歩き始めたせいで咳が出そうになるがこらえる。

「わかった」
「すぐだぞ」

なんとかだましおおせたらしい。
携帯を切った瑞樹は

「将だった」

と助手席の前原に言った。

「何だァ」

前原は剃った眉毛を歪ませた。

「あたしさ、念のために将の足止めしてこようか」

瑞樹のガラにもなく浮き足立った様子に、前原は面白くなかったが

「そうだな。お前がいてもヤることないしな」

と仕方なく途中下車を許可した。少し回り道して××駅へまわる。

駅前のネオンを反射する濡れた路面に白い粒がバラバラと落ちてくる。

瑞樹は、ミニスカートと長い黒髪をなびかせてワゴン車を飛び降りると駅へ駆け込んだ。

前原が、瑞樹の長い黒髪姿を目にした最後だった。

第35話 拉致(2)

 
聡がヤバイと聞いて、将は真っ先に義母を思い浮かべた。口止めしたのに、告げ口したんだろうか。

「何、学校にバレた?」咳をこらえて将は訊き返した。

「いや、たぶん前原。松岡が見たっていってんだけどよー……」井口は続きを話し始めた。
   
     ◇ ◇ ◇

今日の社会見学は、『ゲーム会社の社員』だった。

希望者が多いので何回か実施すると予告した第1回には、くじ引きで選ばれた生徒6人が参加していた。

中には松岡と不良仲間の沖田海人(カイト)が含まれていた。

「服装がきちんとしていない人は連れて行けません」

と事前にいわれていたのでカイトは腰パンをやめ、今日はきちんと制服を着こなしている。

こうしてみると、なかなかジャニーズ系にも見えるのになんで、なぜわざわざずんだれているのか、謎である。

ゲーム会社は皆が知る大手の会社で、超近代的な高層ビルにあった。

聡の大学時代のサークルの先輩が、ここで働いていることもあり、快く社会見学を許してくれたのだ。

近代的なパーテーションで区切られた広いフロアに生徒たちは息を飲んだ。

そこで、ふだん「リーマン」と呼んでバカにしている大人たちが忙しく働いている。

パーテーションの中にはディスプレイがあり、そこでおのおのの仕事に集中している。

「制作はチームごとにわかれてやっています。報酬は能力主義なので、ヒット作を企画制作したチームはボーナスをいっぱいもらえるという仕組みです」

1つのパーテーションで制作途中のゲームソフトを大きなディスプレイ画面で見せてもらったときは皆興奮した。

ひととおり会社一周と仕事の様子を見学したのだが、会社が広いのと、案内担当が聡の知り合いということもあり、説明を丁寧に行ってくれたので、見学だけで少し予定時間を押した。

そのあと、小会議室で社員の1人に話を聞く。最初営業職で入社して、積極的に社内コンテストに参加し、見事優勝、企画に異動したという社員が語り役になったが、この人の話がまた面白かった。

成功だけでなく失敗談など、今は笑いで話しているが相当苦労しているという生の経験談に生徒一人一人が真剣な目になった。

そのとき、メモをとっていた松岡のシャーペンの芯がなくなった。替えもないらしい。動揺する松岡を聡が察して、黙ってペンを差し出した。

松岡は、首だけでぴょこんとお辞儀をして話に戻っていった。

質問もいろいろと飛び、社員のほうも丁寧に答えるので、予定時間をだいぶ過ぎた。

長く掛かったことを社員や聡の先輩に詫びて、皆で会社を出たのはすでに18時30分近い時間だった。

もう外は暗かったし、予想では雨または雪だったので、お茶はしないで解散することになった。

同じ方面の聡、松岡、カイトが一緒に電車に乗った。

ふだんは話もしない松岡とカイトだったが、聡が一緒だったということもあり、電車の中、今日の話でなごんだ。

3人は同じ駅で降りた。駅の階段を降りたところで

「じゃあ、気をつけてね」

と聡は2人を背にして歩き出した。

松岡とカイトも「じゃっ」と別れたが、

松岡は、数歩進んで「あ!」と聡に借りたペンを思い出した。かばんからペンを取り出して、返そうと、引き返す。

――間に合った。

聡の後姿はまだそこにいた。『先生!』と声をかけようとした松岡だったが……。

    ◇ ◇ ◇

「瑞樹が?」

将は意外な名前に電話を握りなおした。寒さから手がかじかんでくる。風が強く吹いて、みぞれまじりの雨が将のほうまで飛んできた。

「ああ。センセーは瑞樹のヤツと話してるように見えたらしい。でもすぐに……」

松岡は、現れたラテン頭に嫌なやつを見た気がして反射的に隠れた。

隠れた松岡はそっと顔を出して、見てしまった。

聡が数人の不良に囲まれ、抵抗する間もなく口に何か布をあてられて、その場に崩れるのを。

そのまま抱えられて、車道に着けた、黒いフィルムが貼られたワゴン車に乗せられてしまった。

一瞬だったので行き交う人の誰もが気付いていないようだった。

松岡は、誰かに連絡しないとと思ったが、彼は携帯を持たない。

警察はあてにならない、と直感で思った彼は、今別れたばかりのカイトを全速力で走って追った。

そのカイトから井口に連絡があったのだ。しかも、カイトは実は昨日、前原からメールを受け取っていたのだ。
 
>明日、面白いパーティをやるけど来ない?
 
「もちろんパスしたから、連絡きたわけだけど」と井口はここまで一気に話した。

将はすべてを聞いて、地面が脈打つのを感じた。

「それで、瑞樹は?」
「前原と一緒にワゴンに乗ったらしい」

「わかった」
「将、どうすん…」井口が言いかけている間に将は電話を切った。

そのまま瑞樹の番号にかける。

将は、あせる気持ちを必死で鎮めた。どこに行く気なのか、冷静に聞き出さなくてはならない。

  
その頃、都心と反対方向へと走るワゴン車の中では、念のために薬をしみこませたタオルを鼻と口に固定された聡が後部座席に倒れていた。

「結構、いい女じゃん」

スキンヘッドの不良は眠る聡の顔をのぞきこんで言った。

今日、前原の主催する集まりに参加したのは前原を含めて5人。他校生やフリーターばかりで、誰一人としてまともな風貌の者がいなかった。

赤や黄色の髪、髭づら、ピアスにタトゥーで趣味の悪さを競うがごとし、だったが肌や歯、濁った目は不健康さでも際立った。

「オッパイもたぶん大きいよね」

待ちきれない赤毛は聡のコートのボタンをはずしていた。

パンツスーツはきっちりとボタンをはめて着込んでいるが、その胸のあたりは、固い布のスーツにも関わらず、はちきれそうに横にピンと張り詰めている。

「瑞樹、マジでアレやんの?」

不良の一人が瑞樹の横顔に訊いた。

中シートに座っていた瑞樹は、振り返って後部座席に倒れる聡を一瞥した。

「そうよ。明日の昼、スクランブル交差点で放り出すの。マッパでね」
「こっえー」

車内の不良どもは皆笑った。

「そんなに憎たらしいんだ、この女が」
「顔はカワイイけどねー」

瑞樹は前に向き直ると

「恥をかかせるぐらいじゃ足りない。殺したっていいぐらい」

と窓に向かって少し大きな声で言った。すると助手席に座っていた前原が

「あそこ、生コンあるよ」

と瑞樹を振り返った。あそこ、とは今から行く目的地である。

不良どもが、「ひええー」「コンクリ詰め!」「冗談でしょぉ」とひゃらひゃら騒ぐ。

「やるだけやって、ダムに捨てちゃうのもいいんじゃない? 絶対ばれないよ」

瑞樹は、前原による、その残虐な企画に眉一つ動かさず、

「そうね」

と窓の外に目をやった。雨が降り始めている。みぞれまじりの雨は瑞樹が乗るワゴン車の窓を激しく打った。

白い粒粒が窓の下に溜まる。みぞれは雹になっている。

――アイツさえ現れなければ。将は……。

瑞樹はこの2ヶ月の屈辱を思い起こした。

将に追い出されてからの瑞樹の生活を思えば、それぐらいの仕打ちは当然だ。

瑞樹は雨に濡れて赤く光る路面を見つめた。

第34話 拉致(1)

 
あまりよく眠れずに、聡は金曜日の朝を迎えた。

目覚めた瞬間に内容は忘れたが、悪夢にうなされていた。いやな残滓だけがしつこく残っている。

青いカーテンの向こうはすでに明るいらしい。

聡はベッドから降りると立ち上がって窓を開けた。

予報は雨もしくは雪だが、空には明けたばかりの濃い青色が冷たく広がっていた。聡は今日、26歳になる。

まだ起きるべき時間より30分ほど早いが、聡はベッドを降りてパソコンを開く。

案の定、博史から聡の誕生日を祝うメールが来ていた。そういう記念ごとを、ぜったい外さない男だ。

ただ、指輪に同封されていたカードに書いてあった「重要なこと」については触れていない。

聡は返信を手早く打った。何事もなかったかのような、今までの二人にありふれた文面で。

将にはっきり伝えなくてはいけないだろうか。

やはり、自分たちはこれ以上先に進んではいけない、と。単なる教師と生徒に戻るべきだと。

いや、言ったところで納得するまい。

決意はしたものの、聡は将にどう説明すべきか、どうしたら諦めてくれるか、というよい考えが浮かばなかった。

>鷹枝くん、ごめんなさい。今日、やっぱり行けません。

携帯でメールを打ってみたが、やはり、送信する勇気がない。

うだうだ悩んでいるうちに出勤時間が迫っていることに気付いて、聡は携帯を閉じた。

ところが、鷹枝将は今日は欠席だった。

ぽっかりと空いた教卓のまん前を見て、再会して以来、将が欠席したのは初めてだということに聡は気がついた。

――風邪がとても悪化したのではないだろうか。

聡は心配で、気もそぞろに、今日の社会見学の確認事項を伝えるのみでHRを終わった。

職員室に戻ると携帯に着信があった。将だった。

>ちょっと準備があるから今日、学校休む。
>風邪はだいたい治ったから心配すんな。
>じゃあ18時30分に。△△で。

 
準備とは何か。いずれにせよ、聡は今日行けない。それを言わなくては。

ズル休みを諌める口実で自分の心に言い訳をしながら将へ電話をかけた。

何コールも待たされてやっと将が出た。

「……アキラ?」

将はどうやらメールを打ったあと二度寝していたらしい。声がひどくしゃがれている。声を聞く限り、風邪は昨日より悪化していそうだ。

――準備などではなく、本当に具合が悪いのだ。

聡は瞬時に悟った。

「鷹枝くん、風邪はひどいの?」
「心配いらねえよ」

という将の声の次に鼻をすする音がまざるが、ことさら元気そうに「夕方までには完全に治るよ」と付け加えた。

「……無理しないで」
「大丈夫だってば。じゃ、俺もう少し寝るから」

「ちょっと鷹枝くん」
「あ、誕生日おめでとう、アキラ。じゃあな」

電話は一方的に切られた。どうしても『今日行けない』の一言が聡には言えなくて、聡は携帯を握り締めてうなだれた。

 
晴れていたのは朝だけで、空は徐々に厚い雲に覆われてきた。

午後の早い時間から不透明で暗い雲が垂れこめ、その割れ目から射す太陽はオレンジがかってそれがいっそう寒そうに見えた。

将は約束の場所で待っていた。忠犬の銅像で有名な広場である。

日はとっぷり暮れてもうすっかり夜の風情である。空に厚い雲があるなら、冷え込まないはずなのに、しんしんと冷える。

皮のコートにマフラーと厚着をした将だが、15分も待っていると震えが歯に来た。

――待ち合わせ、店の中にすればよかったかな。

手の中には紙袋がある。中には沖縄行きのチケットと急遽買ったプレゼント。

今朝、将は昨日買ったばかりの新しい体温計の中に38度7分という数字を見た。

昨日はうがいできる場所が痛かった喉は、その痛い場所をより下に下げて、じんじんと痛んだ。体はあちこちが筋肉痛になっている。

薬を飲んで、昼の間寝れば治るだろうと、聡が昨日つくっといてくれた煮リンゴを食べる。

柔らかいはずなのに、喉を通るときに激痛がする。将はそれでも全部食べ、聡にメールをするともう一度寝た。そこへ、聡から電話があったわけだ。

しかし、喉の激しい痛みは将を少し弱気にした。

――もしかしたら、沖縄行き、拒否られるかもな。『病人でしょ、何いってんの』とか言って。いかにも聡が言いそうだ。

将は午後少し早めに起きた。風邪のほうは、そんなに短時間でよくなるはずはない。

薬のおかげで熱は37度8分に下がっていたが、喉の痛さはあいかわらず、というより、むせて咳が出る分ひどくなった、といえる。

しかし、将は着替えると街へ出た。

『いくらなんでも沖縄は』と拒否られたときのために、聡へプレゼントを買うことにしたのだ。

鼻水をすすりながら、最近出来たナントカヒルズあたりへ行ってみる。

熱があるせいかボーっとする。最初は聡に似合いそうな服関係を見ていたが、サイズがわからない。

何せ、いくら今まで女に不自由しなかった将だといっても、女、しかも大人の女性に服をプレゼントしたことなどはない。

熱も手伝って売り場にボーゼンと立ち尽くしてしまった。

アクセサリーは、あまり聡は付けないみたいだし、ジュエリー売り場は、店員の目が厳しくて、風邪をひいた今の将はしりごみした。

途方にくれて歩き回っていると、雑貨屋のガラスの棚に乗った可愛いペアのマグを見つけた。

将は、まだ暑かった頃訪ねた聡の家を思い出した。

あのとき、テストの成績次第でデートしてくれる、と約束して、将が勉強に集中しはじめて。

聡は眠気覚ましに、とコーヒーを淹れてくれたのだ。

でも、将にはソーサー付きのティーカップ、聡は自分専用らしいマグカップと、不揃いだった。おまけに聡のマグカップは少し縁が欠けていた。

『大学のとき、友達から誕生日のプレゼントでもらって、気に入ってるんだけど、うっかり落としちゃって』

と言っていた。

コーヒーを飲んだにしては、すぐに寝ちゃった聡。あのあと、将がキスしようとしたら、寝言で『博史』なんていいやがった。

――今なら?今でも『博史』と言うだろうか……。

言うはずがない。将はそれについては、今は自信がある。

聡は将に自ら深い口づけをしてきたのである。しかも、風邪をひいている自分に、だ。

博史には作っていない料理だって作ってくれた。

手をしっかりと握り合ったように、心はしっかりと結ばれているはずだ。

『これ以上はダメ』と制止したが、それは教師という立場上の話で、本当は心身結ばれたいはず……。

まあ、それは置いといて、将は聡へとそのマグカップを買った。

少し安易に決めちゃったかな、と思ったが、あくまでも沖縄チケット(将同伴)が本当のプレゼントで、これはサブという位置付けだから、まあいいか、と将は妥協した。

  
――おっそいなー。

待ち合わせ時間を15分過ぎている。

寒さが将を少しいらつかせた。携帯を鳴らしてみる。

『この電話はただいま電波の届かないところに……』

将は舌打ちすると、空を眺めた。

暗いが、雨か雪がふりそうな雲がたれこめているのがわかる。

将は耐えられずゆっくりと足ぶみを始めた。

沖縄行きの最終は20時30分だ。手続きを考えると19時すぎには空港に向かわなくてはならないだろう。

通常だったら聡の家に直接車で迎えにいったほうが確実だったが、社会見学で都心に出ている今日は交通機関を使ったほうがいいだろう、と判断したのだが……。

こんな寒い日だが、金曜ということも手伝ってか、ここで待ち合わせをするカップルも多い。

将の目の前を、相方を待っていた何組かが幸せそうに二人で腕を組んで夜の街へと消えていった。

あと少しで自分もその1組になれる……。

骨身にこたえる寒さは聡のぬくもりにかわる、と信じて将は待ち続けている。

が、時計はついに19時をまわった。

不安になった将に追い討ちをかけるように、雨が降り始めた。

晩秋の、みぞれ交じりの冷たい雨となって、いきなり強く激しく。待ち人を待つ人は皆、ちりぢりに屋根のあるところに避難を始めた。

将もあわてて避難して、聡に再度電話をする。が、電波が届かないメッセージだけが繰り返される。メールを送る。

>アキラ、何やってんだよ。
>俺、こごえそうだよ。
>社会見学が長引いてるなら連絡くれ。

 
しかし5分たっても10分たっても着信はない。

まさか、来ないつもりじゃ。という考えを将は無理やり打ち消す。

そんなはずはない。聡は絶対に来る。絶対に……。

将はポケットに手をつっこんで雨宿りをしながら、吐く白い息に聡を夢想した。

屋根がいっそううるさく鳴り、雨だれが白く濁って見えるのは、アラレを含むからだろうか。

一度浮かんだ不安は、将の胸の中で蟹が吐く泡のようにぶくぶくと不穏に膨らんだ。

――アキラ、何やってんだよ。早く来いよ。早く――

と、やっと。不安で張り裂けそうになった胸を抱えた将が右手に握り締めた携帯が鳴った。

『何やってんだよ』とセリフを準備しつつ、期待して開けた携帯に表示されていたのは聡ではなく、井口春樹だった。

「何?」

がっかりした将はあからさまに不機嫌な声で出た。声を出したはずみで痛い喉が咳を2,3回返してきた。

「将?センセーがなんかヤバイらしーぜ」井口の緊迫した早口が聞こえた。

第33話 急接近(4)

 
右手の親指にシャンプーがしみて、聡は我に帰った。

気がつくと、聡は自分の部屋のバスルームにいた。

将のマンションを出てからどうやってバスルームまでたどりついたかを、聡はほとんど覚えていなかった。

タクシーのシートにもたれて、流れゆく街の灯りを見たことだけ、なんとなく覚えている……。

ぼんやり髪を洗っていたら、ばんそうこうがずれて、さっき包丁を滑らせた傷にシャンプーがしみたのだ。

将のために将の部屋で料理をつくってできた傷。

ずれたばんそうこうはふやけてほとんど用をなさなくなって、ただ親指の傷口に粘着していた。

聡はシャワーの栓をひねった。高い位置にあるシャワーからは雨のように湯が聡の体にかかった。

その中で、ばんそうこうを剥いでしまおうとして、聡はその手を止める。

将の家にあったばんそうこう。

『ほい』とばんそうこうを置いた将を呼び水に、今日の将の思い出が怒涛のようにあきらに押し寄せた。

タクシーの中で握った手。

おでこへのキス。

二人で買い物したときめき。

聡がつくった料理を旨いと、食べる将。

聡の傷ついた親指を唇にあてる将。

そして暗闇で押し倒されての抱擁。

そして……聡からしかけた深いキス。

蘇る将の声。

『博史にはまだ食わせてない、って言ってたよね。俺ラッキー』

『食器洗いついてるから、使って。傷にしみるだろ』……

『こんな風に教え子を誘惑されるなんて!』
 
甘い思い出の中に、将の義母の声が雷鳴のようにとどろいた。そのまま聡の脳裏をこだまする。

確かに、自分は誘惑した。

17歳の将の唇に自分から舌を挿し込んだ行為は『淫行』だといわれても仕方がない。

あのとき、聡の本能は、将と行き着くところまで行くことを望んでいたんだと思う。

本能は本心だったのではないか?

聡はシャワーの雨に打たれて、あまりに鮮やかな今日の前にただうなだれていた。

シャワーからあがった聡は、飾り棚の博史の写真と目が合った。

でも博史は遠い過去になってしまっているかのように心は冷たく固まったまま動かない。

わかっているのだ。

将への想いは断ち切って、ダイヤの指輪をくれた婚約者と何もなかったように結婚すべきだと。それがお互いのためだと。

だけれど。聡は、自分をきつく抱いた将の腕を、もう忘れることはできない。

唇も舌も手のひらも指も、将以外の男を忘れてしまったかのように、もう彼しか考えられない。

なぜ、教師と生徒なんて立場になってしまったのだろう。

聡は一瞬、教師をやめた自分を夢想した。やめて、ただの男と女になって……。

――だめだ。

聡の心に1枚のアンケート用紙が舞い落ちる。

『今、何をしているときが一番楽しいか』
……アキラと二人きりでいるとき。

『これから始めたい趣味はあるか』
……アキラが喜ぶことぜんぶ。

それは喉が痛いのを堪えて聡のために、大声を出して弁解するさっきの将と重なった。

将は自分のために、すべてを捨てるに違いない。そんな危惧はより確実となって聡を襲う。

許されない恋をまっとうすることは、彼の人生をめちゃくちゃにすることを意味するだろう。

聡は、写真の前に置いた、びろうどの指輪ケースを手にとって蓋をあける。ダイヤがあいかわらず美しく煌いた。

聡はエンゲージリングを右手の薬指に嵌めてみる。親指には、くたびれたばんそうこうがまだ未練がましく貼り付いている。

薬指のダイヤに、親指は汚いばんそうこう。

用をなさないそれは「将がくれた」、ただそれだけの理由でくっついている。

聡は、ばんそうこうを剥いだ。

ばんそうこうはあっさりはがれると、単なるゴミとなった。

ばんそうこうに覆われていた皮膚は白くふやけ、ぱっくりと切れた傷口からは赤っぽい肉が少し見えている。

血はとまったようだが、心が痛い。

テーブルの上でゴミになったばんそうこうを見て聡の目には涙が盛り上がってきた。

そのとき、テーブルの上で携帯電話がメールの着信を告げた。

将からだった。

義母に、学校によけいなことを言わないよう、きつく口止めをしたから大丈夫だ、ということ、それから明日の待ち合わせ場所が記してあった。そして

『明日は絶対こいよ』と付け加えてある。

聡は携帯を握り締めた。涙はとうとう溜まりきれず、聡の頬をつたった。

落ち始めると、とめどがなく、流れて顎からぽたぽたと落ちて、それはテーブルの上に小さな水溜りをつくった。

そこは2ヶ月前、突然休日に来た将が座った場所だ。

何もかも、将の思い出につながってしまう。聡の世界はすでに将で満ちている。

そんな自分の中から将を消せるだろうか。

将のいない世界に生きることは可能だろうか。

この想いも単なる気の迷いとして笑える日がくるのだろうか。

聡にはすべてが不可能なように思えた。

だけど、決意しなくてはならない。

聡は自分の心が、ちぎれていくのを感じている。

第32話 急接近(3)

 
暗がりで、いきなり熱い塊に聡は包まれた。そのまま天地が逆転するように倒れこむ。

でも、何が起きたかわからない……といったら嘘になる。

予想まではしていなかったけど、予感ぐらいは聡にもあった。

将は病人とは思えない力でベッドに聡を押し付けるやいなや、聡の髪からバレッタを抜き去り、首筋に唇をはわせてきた。

聡の背筋に反射的に信号が走り、思わず声をあげそうになってしまうのをかろうじて飲み込んで制止の言葉にいい換える。

「……やめて」

やめるはずがない。

それでも、風邪をうつしてしまうと気遣っているのか、唇同士のふれあいは求めず、将の唇は首筋から耳たぶに移った。

ヤバい。声はまたかろうじて止めたけど、体がビクっと反応するのは制御しようがない。

――17歳のくせに、慣れているんだ。

将はしつように抵抗しようとする聡を抑え込みながら器用に耳たぶに舌をはわせる。

ここでいきなり笑い出して「くすぐったい」などと言えれば。もちろん今の聡にはいえるわけもない。

「病人でしょ。やめて」

何とか聡は声に出すことに成功した。が、その声はかすれてしまい、抑止になるとは思えなかった。

「我慢できないんだ」

将は耳から舌をはずして、ようやく答えた。その声はやはり苦しげにかすれている。

コンポのパイロットランプの星々の中に将の輪郭が黒く浮かんでいる。暗がりに目が慣れた聡にはぼんやりと将の苦しい表情が見えるようだった。

「……将」

将は次の瞬間、唇に柔らかい感触を感じた。聡の唇だった。

聡が頭を起こして自分から将に口づけをしたのだ。将はあまりにびっくりして、すべての動きを止めた。

口づけだけでない。聡は将の口の中に自らの舌を割り込ませた。

将は自分の口の中に入り込んできた柔らかい聡の舌をどうしていいものか一瞬とまどった。

が、すぐに聡の舌と将の舌はからみあった。

息も唾液も交換するような口づけ。その直接的な快感よりも、将は精神的な至福感に包まれた。

手をつないだときは駆け出したい気分になったが、今は違う。

宇宙のすべてが自分の味方になったような、そんな安心感に心が温かくなった。

聡といえば、夢中で将と舌をこすりあわせながら、なんで自分がそんな行動に出たのかがまだわかってなかった。

でも、1つだけ確実なのは、とうとう将を、1人の男として好きになってしまったということ。

でも、そんなことは前からわかっていたような気もする。いつから?

将の部屋に入ったときから? 

手を握り返したときから? 

デートをOKしたときから? 

それとももっとずっと前……弁当屋ではじめて逢ったときから?

聡の思考は逆回転する時間をたどっていた。

それと同時にかろうじて残った理性が、警報を激しく鳴らす。危険地帯に入り込んでしまったと。しかも、これ以上『進まない自信』はない。

「風邪をうつしちゃう」と将は自分から唇を離した。
「……大丈夫よ」

再び頭をベッドに横たえた聡は、その手を将の顔にまわした。

頬を優しくなでられて、将はもう一度ベッドの上で聡の体を抱きしめた。

「でも……これ以上はだめ。風邪が悪化しちゃう」

かろうじて理性が勝ったらしい。聡は自らの声で悟った。

「……わかった。でももう少しこのままでいさせて」
「……じゃあ、ベッドに入って」

暖房が効いているといっても、風邪をひいた体だ。温かくしないといけない。

聡はいったん立ち上がって乱れた髪を手ぐしで整えた。

将はランプをつけた。暗かった部屋を暖色の暖かい光が照らした。そのまま素直にベッドカバーの下の布団の中にもぐった。

「来いよ、アキラ」

聡は布団に入った将の傍らに腰掛けると、身をよじって将のおでこに唇をよせた。

ランプで明るくなったために、そんな風に上からのしかかる動作をすると、ニットの中の膨らみが将の目の前で丸く揺れるのがわかる。

将は再び聡を抱きたくなって、聡の背中に手をまわした。

ガチャ。

ふいにドアが開く音に二人は振り返った。それはすでに玄関ではなく、寝室の入り口だ。

そこには毛皮を着た将の義母・純代が立っていた。

「何してるんです」

厳しい声は二人の接近を目撃した証である。

聡は反射的にベッドから降りて立ち上がった。顔がカッとほてってくるのがわかる。

「あ……あ、あの」何かいいわけをしなくてはならない。

「お前こそ、なんだよ」将は身をおこした。

親を呼ぶのに似つかわしくない乱暴な呼び方。二人のぎくしゃくした関係が聡にはわかった。

「なんで来たんだよ」
「××病院から連絡が来たんです。お宅の息子さんが今日風邪で来たって。それで心配して来たんですよ」

今日将が点滴を受けた病院だ。

「心配ないから帰れよ」

純代は将の最後のセリフは無視して、聡に向き直った。

「先生はどうしてここに?」

聡が答える前に将がどなるように答える。

「見りゃわかるだろ。センセイが俺を看病してくれてんだよ」

寝室の床には単純にそう言えない証拠に、聡のコートやかばんが置いたとは思えない状況で落ちていた。だから将を無視して純代は聡を糾弾する。

「先生。わたくし、先生を少し信頼してましたのよ。息子がきちんと学校に行くように指導くださって……。なのに、こんな風に教え子を誘惑されるなんて……」

聡は下を向いたまま何も言えない。本当のことだからだ。

「アキラは誘惑なんかしてねえってば!俺のほうが誘ったんだよ!」

――そんな大声出したら、喉が……。

将の体が心配な聡だが、将のほうを見るのは許されない。

そんな将の弁解など聞こえなかったかのように純代は

「今日のことは、学校にあとでお伝えしておきます。今日はおひきとりください」

と聡に命令した。

「どうも……すいませんでした」

聡は頭を下げると、コートとかばんを拾って寝室を後にした。将の顔を見ることはできない。

「アキラ、行くなよ!」

将の叫び声が最後に聡の背中にからみついた。

純代は聡が出て行くと、さっきとはうってかわった優しい調子で、ベッドの将に近づいた。

「こんなことがあるから、いつもおうちに帰ってきなさいといっているのに。……ご飯は食べたの?」

今度は将が純代を無視する。冷たい目は伏せていたから純代には見えない。

「コレ、つくってきたから、お台所に置いておくわね」

と風呂敷に包んだ重箱をいそいそとキッチンへもっていった。

「誰がうちに入っていいって言った」

将は静かに口を開くと

「帰れよ」と続ける。
「将」

「帰れっていってんだよ!」

将はベッドから降りて一気にキッチンまで早足で歩くと、純代をキッチンから引っ張り出した。

「将。私はあなたのために……」

玄関の上がり口まで追い詰められて純代は未練がましく将を見上げて何かをいいかけたが、

「俺が本当に助けて欲しいときは見捨てたくせに、いまさら母親づらするな!」

それを聞くと、純代は靴をはかざるを得なかった。

「それから」

すでに将は激したために息が苦しくなっているのか言葉を区切った。しかし苦しい息の底から低い声を出して続けた。

「アキラが困るようなことを学校の奴らやオヤジに告げ口してみろ……」

純代は今まで誰からも向けられたことのないような鋭く冷たい視線で射抜かれた。

「そんなことしてみろ、お前を必ず殺す」

あまりの恐ろしさに固唾を飲む。純代は将が、かつて人を手に掛けたことを知っているから。

「早く、出て行け!」

将はドアを自分で開けると、純代を押し出してチェーンを締めた。

苦しい息にやけつくように痛い喉をなだめるために、キッチンへ向かい、ミネラルウォーターを一気に飲む。

そこで置いてある風呂敷包みに気付いた。

――こんなもの!

将は風呂敷包みごとゴミ箱に投げ込んだ。

――5年前。

燃えさかる火が迫るのが足先の熱さでわかる。

将は腰にのしかかる柱から脱出できないでいた。煙と熱さに頭が朦朧とする。

「お兄ちゃん!お兄ちゃん!」

と必死に叫んで、小さな手で将の手を引っ張ろうとするまだ2歳の孝太。火の粉が孝太の頬にかかる。

現れたあの女は。動けない将を見下ろした。

「助けて……助けて、おかあさん」

将は手を伸ばして助けを求めた。将を押さえつける柱がパチパチと炎をあげはじめる。

女は目の中に炎を映してしばしたたずんだ。その顔は能面のように無表情だった。口紅が異様に朱くみえた。ふだん優しい義母のこんな顔を、12歳の将ははじめて見た。

「おかあさん?」

純代は……素早く孝太だけを抱きあげると、そのまま走り去った。

「お兄ちゃあーん!お兄ちゃあーん!やだやだ!」

純代に抱かれた孝太の泣き声が遠ざかっていく。

将は絶望のあまり、そこで気を失った……。

第31話 急接近(2)

 
聡は将の部屋の台所に立っていた。

喉の痛い将には、口当たりが柔らかくて、かつ温かく、栄養がある食べ物が必要だったが、そういうものに限って売っていない。

実家に帰るのは将が断固拒否したので、聡は『仕方がなく』将の夕食の面倒まで見てやることになってしまったのだ。

家には材料がなんにもない、というのでスーパーで急遽米や野菜を買いそろえる。

「なんか、新婚さんみたい?俺ら」

カートを押す聡の横で将が囁く。

「バカね。制服姿の新婚さんがいるわけないでしょ」

と聡はクールに野菜を選ぶふり。

「嫌いな野菜とかあるんだっけ?」
「ないない。アキラがつくるもんは何でも食う」

「なんか……全然元気みたいじゃん」

聡のつっこみに、

「あ、急に熱上がってきた」

と将は急にふらふらとするリアクション。

「先に帰ってていいよ」

と聡が鼻をすすりながらついてくる将を気遣う。

「先に帰ったらどうやってうちに来るんだよ」
「あ、そっか」

ままごとのような買い物--博史とはこういう時間を過ごしたことがない。聡はそっけなくふるまいながらもほのぼのとした幸せに浸った。

「すっごいマンションね」

弁当屋の近くの庶民的な町の中にある、不似合いなスタイリッシュなマンション、ここに将が一人で住んでいるという。

10Fの将の部屋までエレベーターの狭い箱の中で二人きりになったが、将はさっきはしゃぎすぎて疲れてしまったのか黙って壁にもたれている。

きっと防犯カメラに映った二人はそっけない関係に見えるに違いない。でも将の顔はにやついて聡を見つめていた。

「なによ」
「いや、嬉しいな、と思って」

「オカユつくるだけだからね。……変なことしないでよ」
「変なことって何だよ」と笑いをふくんだ将の声。

「……知らない」

チン、と10Fへの到着を告げる音。

「すっごい部屋ね。本当に1人で住んでるの」

元々3LDKの将の部屋は、4人家族でも住めそうなものだった。

1間をつぶして、広くしたリビングはフローリング。埋め込みの間接照明、天井はスポット光とつくりも凝っている。そこにはすわり心地のよさそうなソファーとコンポ類、大型液晶テレビだけが置いてある。それ以外は家具がないのでよけいに広く感じる。

案外片付いている理由を訊くと、家政婦が通っているんだそうだ。

「家の人は来るの?」

聡は使ってないせいで異様にきれいなカウンターキッチンにスーパーのビニール袋を置きながら訊いた。

「めったに来ない、つか来ない。最初にオヤジが来ただけ」

将は大型冷蔵庫からウーロン茶を出した。

「あ、それとも温かいのがいい?」
「いいから。あたしがやるから、着替えて早く寝なさい」

「ハーイ」

といいつつ将はソファでだらだらしていた。毛布だけはかぶっていたけれど。本当は、キッチンで働く聡を、ただ見ていたかったのだ。

――だって本当に、新婚さんみたいじゃん?

バレッタで髪をまとめた聡は、いかにも新妻っぽく、将は聡が自分の部屋のキッチンに立っている幸せに酔いしれた。

「何?」聡が将の視線に気付いた。
「ううん、嬉しいなあ、と思って」

「さっきからそればっかり」
「だって嬉しいもん。何つくってくれるのかなー」

将はソファの上で毛布にくるまって頬杖をついた。わくわくしている、という姿勢である。

――さて、何をつくるか。

将の期待には応えたい聡だったが、つくれるものは限られていた。

設備だけは素晴らしいが、肝心の調理器具もあまりないからだ。

聡は、おかゆではなく、栄養を考えて具が入った雑炊をつくることにした。

2年前の聡だったら絶対にできなかったが、弁当屋にいたおかげで、これぐらいのものだったら簡単に出来るようになっていた。

若いくせに舌が肥えている将のために、ダシは念入りにかつ、濃厚に取る。

聡が料理に集中しはじめたので、将は1回着替えることにした。

そのついでに、ソファに放り出してあった旅行パンフレットを、聡の目に触れないようにさりげなく持ち去った。

実は、明日の夜から、聡を強引にどこかへ連れて行く心づもりで、行き先を検討していたのだ。さんざん迷って、結局さっき授業中に、携帯サイトから明日の沖縄行き最終便を予約した。

国内だったら、手ぶらで行ってもなんとかなる。

――びっくりするだろうなあ。

拒まれることなど毛頭考えてない。根拠はないが、将には何故か自信があったのだ。

「うまい。うまいよ」

将は聡のつくった雑炊をハフハフと口に運んだ。レンゲも土鍋もさっき買ったものだ。

雑炊と一緒に、絹ごし豆腐のあんかけとビタミン不足を補うべく、ほうれん草のおひたしを付けた。冷蔵庫には煮リンゴが冷やしてある。

「喉にさわらない?」

聡はキッチンであいかわらず何か仕事しながら訊いた。

「大丈夫。本当に超旨いよ。アキラ、料理うまいな」
「よかった」

それはお世辞抜きで、口当たりもよく美味しかった。

カツオの香りがするダシはまさに将が今食べたいものだった。腹がすいていた将はしばらく食べることに没頭した。

食べ終わっても聡はあいかわらず、キッチンで何かをつくっているようだ。

「何してんの?」
「残った野菜、野菜のままだったら食べないだろうから、レンジでチンするだけで食べられるようにしてる」

余ったネギやらにんじん、ほうれん草をチャーハンやキッシュ風の卵焼きにしているのだ。

……というのは口実で、二人でまったりした空気をつくると、自分の気持ちが押さえきれなくなる。

聡はそんな自分を予感して料理に逃げているのである。

「いいよ、野菜なんて持って帰ってくれて」
「ダメ。将、ふだん野菜食べないでしょ。だから風邪ひくんだよ」

「……また、ショウって言った」将が嬉しそうに指摘する。
「シマッタ」

聡は笑って舌を出した。すでに癖になってしまってるかもしれない。

「でも本当にアキラ、料理がうまいよ。いい嫁さんになれるね」
「……ありがとう」

りんごを笹がき状に剥いていた頃がウソのようだ。

「博史にはまだ食わせてない、って言ってたよね。……俺ラッキー」

将は聡の顔を見ながらわざと言ってみた。

聡は将の顔をみないように無言でにんじんの皮を剥いた。

本当は博史の花嫁になるために、料理を修業したはずなのに。こうして他の男から賛辞をもらっている。罪悪感を感じたせいなのか、手元が狂った。

「痛ッ」

包丁を使っていた聡が右手親指を反射的に唇にあてた。

「大丈夫!?」

将はテーブルからあわてて立ち上がり、聡のそばに行った。

「ちょっと滑っただけ」
「見せて」

親指に赤く血が滲んでいる。将はいたずらっぽくその手を取ると自分の唇にあてようとした。

「大丈夫だってば」

聡は将の手から自分の手を引き抜くとその乱暴さを誤魔化すように

「もう食べた?」と付け加えた。

幸いあんまり気にしてないようだ。食べた食器をカウンターの中に持ってくる。

「デザートもあるんだからね。……まだ冷えてないか」
「もう腹いっぱいだよ」

「じゃ、あとで食べて。薬は?」
「今飲む」

将は冷蔵庫からミネラルウォーターを出すと、「ほい」と聡の前にばんそうこうを置いた。

「……ありがと」
「食器洗いついてるから、使って。傷にしみるだろ」

優しい声だ。聡はさっき将から乱暴に手を引き抜いたことを後悔して、将の顔を見上げた。

「また汗かいたからシャワー浴びる。その間に帰るなよ」

聡はだまってうなづいた。

なんとか残り野菜をすぐ食べられるように料理して、台所を片付けたところで、将が頭をふきながらバスルームから出てきた。急いで出てきたようだが、まだ聡がいるのを見て安心したように顔をゆるめた。

「じゃあ、そろそろ帰るね」
「ええっもう?まだいいじゃん」

「風邪っぴきは早く寝なさい。治らないわよ」

聡はコートとかばんをとったが、どっちから入ってきたか一瞬迷った。

「アキラ、こっち」

将が先導して聡をドアの向こうに誘導した。

「え?」

そこは真っ暗で、明らかに玄関ではないようだった。

将は素早くドアを閉めると、聡をきつく抱きしめる。そして、そのままベッドに押し倒した。

第30話 急接近(1)

 
「来週は、大学受験者を対象にした全国模試があります。それから……」

「ぶへっくしょん!」

将の派手なくしゃみのおかげで、帰りのHRでの聡の言葉が中断された。

将は、ずずーっと鼻水をすすると「ごめん」と聡やまわりの生徒らにぺこりと頭を下げた。

「ええと、それからその次の週には期末試験がありますので、そろそろ苦手なところは対策するように……」

「ぶしゅん!」

2回目のくしゃみは横にむかって吹いた。丸刈りの兵藤が嫌な顔をする。

「鷹枝くん、風邪?」聡は教卓のまん前の将への言葉をはさんだ。

将は「ハイ」とうなづいた。

「急に冷え込んだので、風邪には注意してください。みんな、うがいを欠かさずにね。それと明日の社会見学はゲーム会社の人、だけど行くのは○○くん………の6人ね。聞きたいことがあったらちゃんと整理してきてください。以上」

木曜日になっていた。帰りのHRが終わり、帰る生徒は制服の上にダウンやコートを羽織った。

今週初めから、さらに急激に気温が下がった。それまで20度近くあった最高気温が、雨を境に急激に15度までいかなくなったのだ。こういうことは11月中旬にはよくあることだ。

補習の前にいったん職員室に戻ろうとした聡は、将のようすが少し気になったので教卓を降りて机のわきに立つ。

「何、センセイ」

将はいつもはアキラと呼びすてのくせに、学校ではセンセイと、器用に呼び名を使い分けている。

「鷹枝くん、大丈夫? 今日は補習やめて帰りなさい?」

「そうだよ。鷹枝くん、顔赤いよ」

丸刈りの兵藤も同意する。さっきからクシャミのシャワーをさんざん浴びているのだ。

「大丈夫だよ!来週試験なんだろ」

と将は元気に言ったが、試験なんて本当はどうでもいい。今日は聡と一緒に帰りたいのだ。

明日は聡の誕生日だ。逢う約束をしておきたい。メ−ルを送ってもいいのだが、直接逢って話がしたかった。

将はあきらかに風邪を引いていた。しかもかなり性質が悪い。

頭がフラフラするのはたぶん高い熱があるんだろう。家に体温計がない将でもそれは分かる。いくら着こんでも寒く、体の節々が痛い。そして喉の激しい痛み。

実のところ、将は学校に来るだけでせいいっぱいだったのだ。

瑞樹のことで、罪悪感で心にモヤモヤしたものを抱えていた将は、火曜日の夜、井口らに誘われるままに「オヤジガリガリ」に酒を飲んで参加した。

弱そうなチンピラはパンチでモヤモヤを発散させるのにうってつけだったが、その最中にあられ交じりの大雨がざっと襲ってきたのだ。

皆クモの子を散らすように退散したが、イライラしていた将はそのうちのリーダー格を執拗に攻撃しつづけた。

……気がつくと全身びしょぬれの自分が一人でつったっていた。

あられがビチビチと痛いほど体を打ち付けている。酒が冷めてきたのか、体の芯からゾクゾクとしてきた。

翌日からさっそく喉が痛くなり、あとはすべて今日の将に続く現実である。

と、聡が将の額に手をかざした。教室の後ろでたむろしていた、女子生徒がそれを見て小さく「キャー」「やっぱりぃ?」と顔を見合わせた。

今の将には聡の手はひんやりとなめらかで救いのように思えた。

「すごい熱」聡は絶句した。ゆたんぽに直接ふれたかと思うかのような熱さ。

「大丈夫だってば」

「大丈夫じゃないわよ。保健室にいきなさい……あとで病院に付き添ってあげるから。兵藤くん、鷹枝くんを保健室に連れて行ってあげて」

将は、あとで付き添ってもらえる、という言葉ゆえに素直に従った。

ちなみに葉山瑞樹は今週はずっと欠席していた。

   ◇

補習が終わるとすっかり暗くなっていた。このところ暗くなるのが本当に早くなった。

聡が帰り支度を整えた姿で保健室へ入ると、荒江高校で数少ない女性職員の1人、年配の保健教師・三田先生が椅子から立ち上がった。

「あ、古城先生。寝てますよ、鷹枝くん」

「すいません、遅くまで付き添って頂いて」

聡は頭を下げた。

「いいのよ。まだ部活の生徒なんかも来るから……。おうちに連絡しなくていいのかしら」

「いろいろと事情があるみたいですので……。とりあえず病院に連れて行ってそれから私のほうで対応しておきます」

将をおこさないように静かに言うと、聡は眠っている将に近づいた。

「いちおう総合感冒薬を飲ませておいたから、熱は下がってると思うわ」

「何度ありました?」

「39度いってたのよ」三田は顔をしかめた。

将は、赤い顔をして寝ていた。鼻がつまっているのか口を軽く開けている。風邪薬のせいか、汗が額に浮かんでいる。

聡は将の額の汗をタオルでそっと押さえるようにぬぐった。将が目をあけた。

「……アキラ」熱で目が少し充血している。

「起きた?今から病院にいきましょ」

将はうなづくと、体を起こそうとした。それを聡が抱きかかえるように手伝う。

「センセイにそんなに優しくしてもらうなんて、風邪っぴきも悪くないな」

と将は鼻をシュンとすすりながら言った。息が荒い。

「バカいいなさんな……。じゃ、三田先生、失礼いたします」

「お大事に」

校門の前には呼んでおいたタクシーが待っていた。

将を抱えるように乗り込んで「××病院へお願いします」と運転手に行き先を伝えると、聡はシートに体重を預けた。

室内灯が消えた車内は住宅街の間は、冷たい暗さになった。その聡の肩に将が頭を預けてくる。息が荒く、苦しそうだ。

「大丈夫?」
「ぜんぜん、大丈夫。……なんでもねえよ」将は目を閉じたまま答えた。

「熱、39度だって」
「すぐ下がるよ……。だって明日、アキラの誕生日だろ。俺、いろいろ準備してるんだぜ」

「それどころじゃ……ないでしょ」
「アキラ」

将は手を伸ばすと、軽く腕を組んでいる聡の腕に触れた。聡はドキドキしながらも将にされるがままになっていた。将は聡の手をとると握り締めた。

「アキラの手、冷たくて気持ちいー……ねえ、絶対明日までに風邪なおすから、約束してよ」

聡の側から見れば、将の手は熱すぎた。長い指を持つ大きな手が、熱で乾いている。

「ねえ」
「……」

カーラジオが、明日、いっそう強い寒気団が来ることを伝えている。平年より早い初雪になるかもしれない、とも。

「雪かあ……」

将は聡の手を握ったりさすったりしている。

ダイヤのエンゲージリングがすでに定められているとも知らず、聡の薬指をも将は柔らかく握り締める。

結婚を約束して3年以上にもなる博史を指輪ごと捨てることなどは考えられない。

そうかといって聡の心に深く入り込んでいる将を置き去りにするのは、今の聡には爪をはぐような痛みを想像させた。

――時が止まってほしい。

聡は将の手をいつのまにか握り締めていた。将もその手をさらに固く握る。

後部シートでお互いに寄り添う二人の顔を、対向車のライトだけが定期的に照らす。

早くもクリスマスの装いを始めた街の上に、墨色ににごった夜空が寒そうにのしかかっていた。

「復活!」点滴が終わった将は、元気そうに台から降りた。

インフルエンザではなく、単なる風邪だったようで、注射と点滴を打ったせいかだいぶ調子がよくなったようだ。

「本当に大丈夫なの?」

「大丈夫、大丈夫」

抗生物質と、感冒薬と、喉の炎症を取る薬などを受け取ると、病院の玄関のところで将は

「栄養があるもの食べにいこうよ」と聡を誘った。

「ダメよ。すぐに帰って温かくしなくちゃ。……それに、明日があるんでしょ」

将は立ち止まった。聡は少し頬を染めているけど将をまっすぐ見ている。

「明日?いいの?」

「誕生日祝ってくれるんでしょ」今度は照れて少し視線をそらす。

将は、目を輝かせると、走り出すと、玄関のところにある階段10段ほどをジャンプして一気に飛び降りた。

「ヤッター!」

「あ、コラ!だから静かにしないと」

将は再び階段を駆け上がると、聡をきつく抱きしめた。聡はコートごと少しいつもより汗臭い将の香りに包まれた。

病院に出入りする人が、まじまじと見る。将はそんなことおかまいなしだ。

「コラ…、風邪うつす気?」

将は聡を抱いたまま唇を尖らせて顔を近づけていた。聡は10センチの超至近距離で、将の眼を見つめてストップをかけた。

「心配すんなよ」将は目を細めて聡のおでこにチュッとキスをした。

「もうっ」

聡の無意識は『今』を味わいつくすことに、決めていた。

エンゲージリングは確実に聡を追い詰めていたけれど、それに対する反動なのかもしれない。

第29話 教師と生徒の恋(3)

 
聡は将のローバーミニが遠ざかっていくのを見送ったあと、習慣的に見た郵便受けの中に、ダイレクトメールに混じって、国際郵便の不在通知を聡は見つけた。

差出人は原田博史とある。聡は地面が揺れるようなショックを感じた。急いで階段をかけあがると、ふるえる指で携帯を取り出し、再配達を依頼する。

30分もたたないうちに再配達されたそれは、英語のスタンプが押された茶色の包装紙だった。包みを開けてみる。

箱の中には、花束の写真のカードとさらに小さな紙箱が入っていた。

聡へ

誕生日おめでとう。

少し早いけど、僕の気持ちです。

本当は手渡したかったけれど、善は急げということで。

いちおう、給料3ヶ月分です(←古い?)

気に入ってくれるかなあ……。

僕は似合うと思うんだけど。

PS.

クリスマスには日本に帰れそうです。

そのときに重要な話があります。

聡にぜひ協力してほしいんだ。

博史

小さな紙箱をあけると、紺のびろうどに覆われたリングケースが入っていた。それをあけると、シルクの中に埋め込まれたダイヤモンド。石はキラリと光って聡を見つめた。

小さな石は、蛍光灯の安っぽい光をも鋭く反射させ、聡の揺れる心を射抜いてカラッポにした。

聡はしばし、美しいダイヤのエンゲージリングを箱に入ったまま見入った。

あまりに豪華なので、指にはめていいか迷ったのだが、意を決して、取り上げる。いつ測ったのか、プラチナのリングは聡の薬指のサイズにピッタリだった。

小さな石1つで、豪華に彩られた自分の指を眺めながら、聡はだんだん息が苦しくなってきた。

薬指に重みを感じて、そっとそれをはずした。元通りにおさめて、ローテーブルの上に置く。

給料3ヶ月分のダイヤをあしらったエンゲージリング。それをもらって喜ばない婚約者はいないだろう。

ダイヤは、確かに聡の気持ちを無にするほど美しかった。

しかしそれ以上に、ダイヤに託された「エンゲージ=約束」の重みが聡にのしかかってきていた。

それに聡が協力しなくてはならない、重要な話とは何だろう。

最近、博史は仕事で忙しいのか、メールも疎遠になっている。

わざわざ婚約指輪に添えたカードに書いた重要なこと、とは結婚がらみのことだろうか。

聡はローテーブルの上に頬杖をついて、もう一度ダイヤを眺めた。

――どうしよう。

ダイヤは無垢な光をキラキラと聡の瞳に返した。

ダイヤよりきらめくものに惹かれている聡。引き返せる自信はなく、聡は途方にくれるしかなかった。

   ◇

「もう一度、やり直せない?」

すがりついた瑞樹に将は沈黙した。

「なんでもするから、ここに置いて。お願い」

瑞樹は将の胸に顔をうずめた。将はしばらくそのまま瑞樹を受け止めていた。

が、しばらくしてそっと瑞樹の肩に手を置くと、自分の胸から引き離した。

「ごめん。無理なんだ」

「どうして……?あたしたち、ずっとうまくやってたじゃない」

瑞樹は将の顔に両手を伸ばして包み込むと、自分の顔に近づけようとした。

将はその手を振り払うと、

「俺たちは、もう何もないよ」とそっぽを向いた。

何もない、と言われた瑞樹は、カッとなって

「さんざんヤッたくせに!」と叫んだ。

しかし、将は無言のままだ。

瑞樹は、横を向いたまま何もいわない将の正面にまわると、

「お願い。将が嫌なところはなおすから……。ここに置いて」

と、再びひざまづいて将にすがりついて泣いた。

将は石のように動かなかった。そのとき洗濯乾燥機の終了音が張り詰めた空気に穴をあけた。

「……ごめん。ダメなんだ」

「それって、あのキョーシのことが好きだから?」

瑞樹は涙をためた大きな瞳で将を見上げた。うるんでいるものの、黒目をふちどる白目は恨みに燃えていて、将は少し怖くなった。

「関係ねえよ」

とだけ答えて、「制服、できたらしいよ」とバスルームを顎でしゃくった。

瑞樹は不服そうに、バスルームへ戻る。しばらくドライヤーの音が聞こえていたが、着替えて戻ってきた。

制服姿の瑞樹を見ると、将は「送っていくよ」と立ち上がった。瑞樹はだまってうなだれた。

ローバーミニの中で二人は無言だった。

将は本当は、家に帰っても大丈夫なのか、訊きたかった。しかし、あれほど将の家にいたがった瑞樹を見ればそれは一目瞭然だろう。

それを拒んだ自分。

だけど、将の胸の中には聡が住んでいる。

いくら可哀想といっても瑞樹を部屋に置くわけにはいかなかった。

「……誰か友達んちにでも送っていこうか」

将はそれだけ訊いた。が瑞樹は首をふった。

「最近、なんとかうまくやってるから……大丈夫」

そういったわりには、

「○○駅でいい」

と降りたのは瑞樹の家から、まだ5駅も離れた駅だった。

「ここでいいの?」

瑞樹はうなづいた。

「……ありがとう。じゃね」

それだけ言ってミニを降りるとドアを閉めた。

将は交通量の多い駅前だけに運転席を離れるわけにいかなかったが、瑞樹の青白くなった頬に、まっすぐな黒髪がかかるのを見ると、急に罪悪感に捕われた。

「……ごめん」

将は窓の向こうにたたずむ瑞樹にせめての謝罪をする。

瑞樹は何もいわなかった。ただ、今日助けたときのような呆けた顔をしていた。

将は少し心にひっかかりを残して、車を発進させた。

瑞樹はしばらく歩道に立ち尽くしていた。

今夜から冷え込みが厳しくなるらしい。吹いてきた木枯らしにふるえが来た。

黒髪をなびかせて駅へあがると、瑞樹は家とは反対方向のきっぷを買った。そして携帯をかける。

第28話 教師と生徒の恋(2)

―――へー、そういうこと、なんだ。

男は心でつぶやくと、人ごみの中に消えていった。

   ◇

「アキラ、メシ行こうよ」将の誘いを

「ダメよ。そんなに毎週外食なんて」と聡ははねつけた。

実は、聡の経済状況はかなり厳しいのだ。なぜなら、弁当屋のバイトから急に教師になったことで、「キチンとした服」を買うのにまとまったお金が掛かった。

それから、毎日忙しいことからつい、自炊を怠ってしまい、食費もかさんだ。

かつ、疲れが累積した木曜日の朝が雨だったりすると、どうしても混んだ通勤のバスに乗ることが出来ず、タクシーを使ってしまう。

そこへ毎週、生徒へのお茶代。

毎月1万ずつこつこつと貯めてきた貯金もここ2ヶ月滞っている。

9月以来、気がつくと毎週1回は将と外食している。将は払いたがったが、聡は示しがつかなくなる、とたいていワリカンにした。

「おごるのにぃ」将はいかにも残念そうだ。
「夕食何すんの。作るの?」

「そうねえ」

そうはいってももう、19時近い。今から帰っても20時近くになる。とてもじゃないけど週末疲れで、それから作る気になどなれない。

「……お弁当屋さんで買うわ」
「じゃ、俺もそうしよーっと。そうするから、乗ってけよ。な?」

お金のない聡は、将の申し出に従うことにした。

「アキラ、何かほしいものとかあるの?」

ローバーミニの中は相変わらず狭い。でも今の聡にとってはその狭ささえ嬉しく感じるようになっている。

「え?何で?」
「だってサ……」誕生日でしょ。将は言葉を飲み込んだ。できればびっくりさせてあげたかった。

「そうねえ……」将がほしい。
ゴホッ、ゴホッ。とっさに浮かんだセリフに、聡は一人でむせた。

「大丈夫?」

ドアのほうにうつむいて咳き込む聡を将がのぞきこむ。

―――何だ、今のは!

自分で自分が信じられない聡の背中を、追い討ちをかけるように将がさすった。信号が赤になったらしい。

「風邪流行ってるから。気をつけて」

後ろめたい聡はうなづくだけでせいいっぱいだった。

   ◇

弁当屋の女将さんは入ってきた聡と将を見つけるやいなや

「あら~アキラちゃんと、山田さん!」

と親しげに声をかけた。

将は「どーも」と顔をぺこっと下げ、聡は会釈した。

「あたし、野菜弁当」
「俺、揚げ弁」

「仲いいねえ。あんたら美男美女で本当にお似合いだよ」

と女将さんはにこにこしながら奥に行った。揚げ油の前では、一瞬ご主人が晴れやかに聡を見たが、隣に将を見つけたとたん、ムスッとした顔で油に視線を戻した。

弁当屋では将はいまだに山田なのである。

それは、先日、初めて二人で弁当屋に来たとき

「あらあら。二人で……あんたたちいつのまにそういう仲に」

と女将さんは目を丸くした。誤解を解こうと聡が、

「いいえ、あの教え子な……」

と言いかけたところで将はカウンターから見えない部分にある聡の足を軽く蹴って

「教え子の兄です」と笑顔と共に付け加えた。

女将さんは「じゃあ弟さんが荒江高校に?」と訊いた。

将は「ハイ。出来の悪い弟で……」とさらにごまかす。

女将さんが「兄さんに似ればよかったのにねえ」と笑いながら奥に消えたとき聡は

「なにすんのよ、痛いじゃない」

と抗議した。将は人差し指を口にあてながら

「だって俺、前に『東大生山田』で聡の住所聞いてるんだぜ。マズイよ」

と声を出さずに言い訳した。

他の客が途切れたからか、出来た弁当と一緒に、主人が出てきた。眉毛の中の白いものは、また少し増えたようだ。

「聡、学校はその後どうだ」
「ハイ。なんとか」

主人は、将のほうに目をやった。長身の将は主人から見ると見上げる形になる。

「ま、こんな男にうつつをぬかしているようなら、仕事のほうは問題ないようだな」
「いえ……」

聡は何もいえずに固まった。でも頬だけは赤く染まっていた。

「あら、山田さんはいい男じゃないですか。ちょっとこんなコいませんよ」

と奥さんが横槍を入れる。

「オイ、山田、聡を泣かすようなことすんじゃねえぞ」

と主人が将にむかって言った。将は素直に「ハイ」と返事をした。

聡はなぜか切なくて、胸がギュッとした。

それは弁当屋の主人の愛情が沁みたのか、将の素直な返事が響いたのか。

「フン。とっとといっちまえ」

主人はお弁当代の端数を聡の掌に返した。

   ◇

「弁当屋のオッサン、こないだも、同じ事言ってたね」

弁当を受け取り、再びハンドルを握った将はつぶやいた。

「聡を泣かすようなことすんじゃねえぞ、って。……アキラ、泣いてるの」
「……ううん」

といいつつ、聡はもうなんども目から溢れる涙を手の甲でぬぐっていた。

「きったないなあ。手鼻かむなよ〜」

将は後部座席からティッシュを取って聡に手渡した。

「そんだこと、してだいぼん」

といいつつ、聡はティッシュをうけとると、ヂーン、と鼻を派手にかんだ。

「……ったく。オッサンこそ、アキラを泣かしてるじゃん」

とつぶやきながら、運転中、助手席の聡を何度も振り返った。

あんな風に、あれ以上に聡に優しくありたい。将はハンドルを握ったままフロントガラス越しの夜空を仰いだ。

都会の空の上ではカシオペアが弱弱しく光っていた。

「いつぼ、どうぼありがとう」

家につくまえに、なんとか泣き止んだ聡だが、まだ鼻をぐしゅぐしゅさせていた。

「いいえ。じゃ、またな」

本当は将は、聡の家にあがりこんで、一緒に夕食を食べようと思っていたのだが、泣いた聡に、ついそれを言いそびれてしまった。仕方なく、一人で家へと車を走らせる。

と、ガラの悪そうな少年2人が路地に入るところをローバーミニのヘッドライトが照らした。眉を剃った金髪に、だらっとしたトレーナーに腰パンを将は見た。それは別にいいが、肩を押されていた黒髪の少女は……。

将は、車を急いで道のわきに停めると、路地に駆け戻った。

雑居ビルの非常階段の分の幅しかない路地は、空き瓶用のプラケースやごみバケツで雑然としている。非常階段の下の暗がりで、瑞樹は今、少年に押されてよろけて倒れたところだった。

「瑞樹!」

将は、一人の少年に体当たりを食らわせて倒すと、すかさず向き直りもう1人のみぞおちを蹴った。

少年らはケンカ技量の差を知るとあっさり引き下がった。たぶん中学生なのだろう。

半身を起こした瑞樹は、ほうけたような顔をしている。そういえばここ2〜3日、また学校を休んでいた。制服が薄汚れている。

「大丈夫か」
「将……」

瑞樹は将にすがりついた。

  ◇

洗濯乾燥機が回り、瑞樹はシャワーを浴びていた……将のマンションである。

将は、ソファに寝転がり、テレビを見ながら、心配そうにバスルームのほうを振り返った。テレビの内容など頭に入ってきやしなかった。

さっき、すがりついてきた瑞樹を受け止めてきたとき、キツい男性の体臭のような臭いがした。

将のマンションを追い出された瑞樹は、学校を休みがちになっていた。前に、家に帰れない事情を聞いていた将だけに、少し心配をしていたが、その心配は的中しているかもしれない。

タオルを頭に巻きつけて、バスローブを借りて出てきた瑞樹を見て、将はソファから起き上がった。

ウーロン茶を手渡しながら「大丈夫?」ともう1回訊いた。

「……うん」とうなづく瑞樹。こんな風に眼力の失せた瑞樹を将は初めてみた。

「半分食べる?」将は買ってきた弁当を見せた。

「ううん、いい」
「そう……」

将はそう言われるとなぜか、自分も食べるべきじゃない気がして、ソファに腰を下ろした。お腹はひどくすいているのだが。

瑞樹は静かに将の隣に腰を下ろした。

将は、ぎくりとして反射的に立ち上がった。

「……制服、乾くまでゆっくりしてていいから」

可哀想だと思いながら、釘をさす自分を将は残酷だと自覚していた。

「……将」

将を見上げる瑞樹はあきらかに痩せた。バスローブの襟元の鎖骨が前よりくっきりと浮き出ている。

「もう一度、やり直せない?」瑞樹が再びすがりついた。

第27話 教師と生徒の恋(1)

当然のように1つのソファの中の聡の隣に座った将。聡は少し腰をずらした。あまりに将が接近して座ったので、少し距離を置くためだ。

それでも同じソファの中、将の体温というか香りというかオーラが聡に迫ってくる。

「ネイルどうだった?」

将は自分が発しているさまざまなものに気付いていないのかまったく悪びれる様子もない。

「……よかったよ。すっごくいいヒトだったよ」

聡は答えながらも、やはりときめきを抑えられない。毎日教卓の上と下で顔をあわせているのに。

こうやって制服を脱いだ将は、教師と生徒という制約を少しだけはずしたような感じで、だからこそよけいに聡は我慢をするのが苦しい。

二人が教師と生徒になってもう2ヶ月以上になる。

将と親しい井口や、一部の女子生徒は二人の接近に気付いているものの、表面上は、それ以上には、なっていない。

『やましいこと』は何1つない。外見上は。

が、聡は日に日に増殖していく自分の心をもてあましていた。いまは辛くも理性で押さえているけれど……。

   

 
聡は、高校時代の同級生の女子生徒を思い出していた。若い男性国語教師に恋をし、アタックを繰り返したあの子。

同学年の彼氏と付き合っていた聡はあんなオジサンのどこがいいのか、とからかったりもした。
が、そのたびに彼女は

「ふん。あんたたちに○○先生のよさがわかるわけないし。あたし絶対○○と結婚するんだもん」

と夕陽にむかって瞳をキラキラ輝かせた。なんと彼女は卒業とともに、その国語教師と結婚したのである。

そして、聡が大学生になった夏休みにもっと仰天する告白を聞くことになる。

「実はさ。私、高3のときから、○○と何度もシてたんだよ」

18歳で人妻となった彼女は大きなお腹をさすりながら、隠す必要もなくなった秘密を暴露した。

――そりゃそうだ。そうでなければ夏休みにもう8ヶ月なんてね。

しかし、あのときその告白を聞いた聡はとても嫌な気分になった。なんといっても同じ国語教師に習っていたのである。

冗談1つ言わず、真面目な顔で受験指導をしていたあの教師が陰で友達と寝ていた。何度も、子供ができるほどに。

同級生とさんざん同じようなことをしているにもかかわらず、聡はその教師のことをとても不潔だと思った……。

 
しかしだ。男性教師と女子生徒だったら、まあよくあるケースと言えるだろう。

20代後半の男性と17~8の女子生徒なら年まわりもちょうどいいと言えなくもない。ドラマとか漫画とかでも見かける設定だ。

だけど、女性教師と男子生徒の場合は。不潔感はその比ではない。その非は、男子生徒のほうではなく、主に年上の女教師のほうに問われるのは間違いない。

「年上のくせに」
「教え子に欲情して」
「教師失格」
「けがらわしい」

聡は自分への責めの言葉を容易に想像できた。

しかし、そんなことはむしろ小さなことのように思える。

将の思いを受け入れたい聡を阻害するもの。その1つが将の未来、可能性だった。あのアンケートに将はこんな風に答えていた。

『将来なりたい仕事はあるか』
アキラの彼氏。

『今、何をしているときが一番楽しいか』
アキラと二人きりでいるとき。

『これから始めたい趣味はあるか』
アキラが喜ぶことぜんぶ。

職員室でこのアンケートを読み返したとき、聡は喉につきあげてくるほど胸がいっぱいになると同時に、そこまで将の心を独占している自分が怖くなった。

激しい気性を持つ将は、いつか自分のために未来までゴミ箱につっこむのではないか。それが怖かった。

 
「アキラ、アキラってば」

将に呼ばれるまで聡はぼーっとしていたらしい。

「ん……?」

聡はあわててマグカップを唇にあてた。半分ほど残った、『本日のコーヒー』はすっかり冷めて苦いばかりになってしまっていた。

「何、っボーっとしてんだよ」

将は薄いサングラスをはずした優しい目で聡を見た。

この2ヶ月の間で、ますます男っぽくなった、と成長期にある彼を思う。長い首の途中で節のように喉仏が飛び出している。教卓から、制服姿の彼を見下ろしている限りは見えない喉仏。

だけどこうやって同じ目線で座るとそれは聡の内部に火をつける……そうなると聡はもうダメだ。

将がどんな風に自分を抱くのか、そんな妄想から逃げるためには聡はそっぽを向くしかない。今回は視線をかろうじて冷めたマグの中に落とした。

「ん。少し考え事してた」
「もー。聞けよ。アキラ、来週の金曜日誕生日だろ」

「そうだけど、なんで、知ってるの?」
「教員ファイルを見た」

隙をみて職員室に忍び込んで、パスワードをGETしたという。あいかわらず頭脳犯は健在だ。

「26歳になるんだよな」
「うん」

この年になると、あんまりおめでたくない。それに……。

「9歳違い、かー。でもあと5ヶ月で今度は俺が18になるよ」

4月生まれ、牡羊座生まれの将。星占いにはいかにもそれらしい性格が示されている。

将は『18になったら結婚だってできる』と言おうとしたが、聡の言葉がそれを遮った。

「うん。でも将と比べたら、オバサンだよ」
「そんなことない。……アキラ、今、俺のこと、何て呼んだ?」

将はいかにも嬉しそうに訊き返した。

――しまった。つい。名前で呼んでしまった。

もう、心の中ではずっと前から名前で呼んでいるから……。

「ちょ、ちょっと間違えたのよ。鷹枝くん」

聡はあわてて言い直したがもう遅い。

「いいってば!ショウで。他に誰もいないし」
「だめよ。癖になっちゃうもん」

聡は薄くコーヒーが残るマグを低いテーブルに置いた。

「いいーってば!」
「ダメよ!キャ」

将はカフェのソファのうえで、隣の聡を急に抱きよせた。聡の頭をぎゅうっと自分の胸板に押し付ける。

「ちょっと、ダメよ。人が見てるし、ちょっと」

聡は皮の匂いと干草のような香ばしい匂いが混ざった将の腕の中でもがいた。

皮のジャケットの下は、どうやらTシャツ1枚らしい。聡が押し付けている頬の、木綿1枚の下は将の素肌だ。

熱い将の血潮が肌をつたわって急激に脳天にまわったようで聡はクラクラした。

「ショウってもう1回呼べよ。呼ぶまで離さない~っと」

将は細くて華奢な聡の肩を抱きながら楽しげに言った。

さっきのんだカフェモカより甘く感じる聡の香りが将をさらにハイにふるまわせる。

聡は飴色のブーツを履いた足をバタバタさせた。

「もうやめてよ!……ショウ、ってば」

将はパッと聡の肩をつかんで元の位置に戻してあげた。

髪がぐしゃぐしゃに乱れ、頬を桃のように染めて可愛らしいその姿は9歳近く年上とは思えなかった。お洒落関係の仕事の訪問だから、普段学校で見る服より少しお洒落をしてきている。

スカートだし、髪も下ろしてきているのだ。将は笑いながら、乱れた聡の髪をなでつけるのを片手で手伝ってあげた。そして提案。

「来週さ。アキラの誕生パーティしようよ。俺と二人で」
「そんなの、まだわからないわ」

聡はまだ怒ったふりをしてツンと横を向く。実はまだ心臓がバクバク言っている。

将は「どうせ博史はこれないんだろ」と付け加えた。

聡は向き直ると「わかんないわよ。急に飛んでくるかもしれないし」と答える。本当のことをいうと博史の名前なんか出して欲しくなかった。

聡はほとんど残っていないマグをとると、残った液体を、上をむくようにして流し込んだ。

将は、そんな聡をみながら、来週は二人でもっと幸せな時間を共有できることを信じて疑わなかった。

 
そのとき、カフェの外、ガラスの向こうの夜の街から、ソファの上のそんな二人を見ている男がいたことに、二人はまるで気付いていなかった。

第25話 握り合う手(2)

聡は自分の気持ちに気付かないふりをしている自分を、とうに自覚していた。

以前、聡が大学生のときに、同じサークルの同級生に真剣な思いを告白されたことがある。

それまでは、一緒によく遊び、悩みの相談にも乗ってくれたとてもいい友達だった。が。彼の告白によってすべては無になってしまった。

聡が「ごめんなさい」と謝ったとき、彼は「友達でいてもいい?」と訊き、聡はうなづいたはずなのだが……。

気がつくと彼のことを避けている自分がいた。

潔癖な聡は異性関係に関して、YESかNOか、残酷なほどに態度に出てしまうタイプだった。

しかし、将に関しては。NOといいながら、こうして一緒にいる。ときめいてさえいるじゃないか。

――将のことを好きになりかけている。

担任教師であること、年上であること、そして博史のこと。

これらが仮になかったら?

いや、すでに『なければいいのに』という願いさえ一瞬浮かんだ自分を責めるもう一人の聡。

乱れた聡の心が泣きたい気持ちにさせたのだ。

「いこうか」

聡は涙を浮かべる前に、将に微笑んでうながした。

背の高い将の左側を、さっきより近い位置で並んで歩き始める。

と、将の左手の甲が聡の右手の甲に擦り合わせてきた。そのまま聡の右手を握り締める。

「……!」

聡が将の顔を見上げると、将は一瞬いたずらっぽく笑って、そして右側の夜の東京湾に顔をそらす。でも握った手は離さない。

手を振り払って『やめてよ!』と怒鳴るべきなのだ。

わかっているけど、聡の声帯は働きをやめてしまったように沈黙している。

9月も下旬、夜の港はひんやりとした涼しさだが、将の手は温かく聡の手を包んでいる。そこから将の血液が聡の体内に流れてくるような錯覚さえ起こしそうな、触れ合い。

つながれた手を揺らして歩きながら、『浮気』というものの線引きを聡は考えている。

無理やりのキスを受けるのは?

休日の部屋へあげて二人きりになるのは?

二人で海へとデートするのは?

こうして手をとりあって歩くのは?

……そしてその先は?

遠い異国にいる博史の顔を思い浮かべて判断しようと試みた。

しかし、将の温かい手が聡の思考を支配してしまったように、博史の顔がどうしても思い出せない。

 
将の左手の甲が、ふいに少し温かくなった―――いままで握られていた聡の右手が、将の左手を握り返したのだ。

将は思わず聡を見た。聡は将と一瞬目をあわせるとまっすぐに前を見た。

……タガが1つはずれた聡は将の手の温かさに対して素直になることにしたのだ。

将は胸がいっぱいになった。こんな幸福感を味わったことは、彼の17年間で初めてだった。

走り出したい気分を、左手にこめて、よりギュッと聡の手を握って空を仰いだ。

夜空は地上の明るさに負けて、漆黒になりきれていない。そんな夜空だが、将の目には満点の星空が見えるようだった。

  ◇ ◇ ◇

校庭を囲む桜の木は、葉の色を赤く変え、そして今、その葉をすっかり落としてしまっている。

11月のある金曜日の6時間目。聡は女子生徒数人と街に出ていた。

ネイルアーティストの見学と、話を聞くためである。

聡と同じ年ぐらいの、若い女性アーティストによって、一人の女子生徒の爪がみるみる可愛らしい色と柄で満たされていくのに、皆はため息をついた。
   
聡が金曜日の6時間目の自由学習の時間に企画したのがこの、社会見学である。

英語の授業を画期的に変えた週の金曜日の6時間目、聡はクラスの生徒にアンケートを行ったのだ。それには

『将来なりたい仕事はあるか』
『今、何をしているときが一番楽しいか』
『これから始めたい趣味はあるか』

などの質問があった。

「これから、金曜日の6時間目は社会見学にあてます。このアンケートは見学先を決めるためのもので……」

『なりたい仕事』があれば、もちろんだが、『一番楽しいこと』についてもそれに関連した仕事を調べて、その現場とその仕事にたずさわる人を訪ねるという企画だ。

聡は、アンケートを配り終えると、手を叩いて話を聞くよう求めた。

「じゃあね、今から質問するから、あてられた人は答えてね。じゃあ井口くん」

この前日、井口が万引きで捕まった件を、聡は結局、他の教師に話さなかった。

井口はそんな恩なんか感じていなさそうに、机の上に脚を投げ出している。が、聡のほうをむいているだけマシだともいえる。

「ライオンは、何を食べますか」

井口は思いがけない質問にアァ?とピアスだらけの眉根を寄せたが、

「肉」

とそっけなく、しかし素直に答えた。

「野生のライオンは、肉をどうやって手に入れる?」と聡は続ける。

「捕まえる?」

井口は自信なさそうに語尾を上げた。

「そう。他の動物を捕まえるよね。……じゃ次、豊川さん」指されたカリナは、神妙に問いを待った。

「鹿は何を食べる?」
「えー鹿ぁ?」とまどったカリナは前の席のチャミと相談している。

横の席の葉山瑞樹は今日は出てきていたが、一心に爪をみていて、この妙な授業を態度で拒否している。

「草?葉っぱ?とか?」
「そう、そうOK。じゃ野生の鹿はどうやってそれを手に入れる?」

「生えてるところまでぇ、探す」今度は単独で答えられた。
「そう。探して歩くわけです」

聡はそこで、一息置くと話を続けた。

「動物は、みんな生きるために餌を食べるよね。みんなだってゴハンを食べるでしょ。動物だったら、餌をとるために、自分でいろいろな行動をします。これが労働です……」

ライオンは、餌をとる―――すなわち狩りをするとき以外はズッと寝ている。

動物は本来、何もしたくない、寝ていたいという本能があるけれど、飼われているのではない動物だったら、自由な立場のかわりに自分で餌をとらなくてはならない。

「人間も動物のうちの1種類なんだけど、人間の場合は、餌じゃなくて、餌を買うお金をもらうわけね。でもどうせだったら、できるだけラクにもらいたい。そうだよね。そこで」

自分がもともと好きなことに関連する仕事を選べば、多少のつらさは我慢できるだろう。聡は寿司屋の主人の話を思い出していた。

「ただ、みんなが好きだな、と思うこととか、楽だなって思うことって重なりやすいんです。
だから、就職は、スタートが自由な椅子とりゲームのようなものだと思ってください」

椅子へ近寄る瞬発力の差はあるかもしれないが、その椅子へ向かって早く行動したものが座れる可能性が高まる。

聡は、学力で劣る生徒たちに、一足でも早く社会への道を踏み出してもらおうと考えてこの社会見学を考えたのである。

もちろんクラス全員が訪ねたら大変なことになるので、希望が強い数人を聡が引率することにし、残った者は、自分が好きなものや興味があることに関連する仕事があるかどうか、またどうやったらなれるのか、またその年収や待遇について、情報処理室や図書室を利用して調べる。

ふだん授業に関しては昼寝ばかりしている生徒も、これに関しては、好きなことをネットで調べられるということで、多少は生き生きとしはじめた。

 
  今回のネイルアーティストの見学に参加したのは、チャミら「お洒落が好き」という女子生徒たちだ。

10月からスタートしたこの企画ですでに「カフェ店主」「声優」を訪ねている。

このために聡はツテを頼ったり、何もないところから連絡先を探したり、とますます忙しくなった。何せ、謝礼もろくに用意できないのだ。快く引き受けてくれる人は限られている。

訪ねるにしても、できるだけ、今の生徒たちと同じ出発点からスタートした人を探したいと聡はねばった。

やりたい仕事が出来ていても、「親の跡をついだ」とか「コネがあった」とか「金を出してもらった」というのでは意味がない。

だけど、聡はそうやって訪問先を調べているうちに、その3種類に恵まれた人が思ったより多いことを知った。

自分がやっていることは生徒たちにむしろ残酷なことなのかもしれないとも迷った。

だが、今日のネイルアーティストの女性は違った。高校を出て普通に社会人デビューし、独自にネイルを研究していたという。

そのうち趣味が嵩じて学校にも通ったというが、成功の一番のポイントはファッションビルの改装のニュースを聞いて、自分で「ネイルのコーナーを持ちたい」と掛け合いにいったことである。

たまたま話を聞いてくれた人が、女性で興味を持ってくれたことを、彼女は「とてもラッキーでした」とさらりと言ったが、自分で売り込みに行ったその勇気は素晴らしいと聡も生徒たちも感動した。
 
「すごいよねー」
「いいハナシ聞かせてもらったわー」
「あたしも絶対がんばろーっと」

女生徒たちは皆興奮していた。帰りに寄ったカフェ。聡は生徒たちにカフェ・マキアートなどをおごった。ほぼ毎回おごっているから、少々痛い出費だが、生徒たちの若い素直な感動に立ち会うのは聡としても嬉しいことだ。

今日はガラス窓近くのソファを運よく陣取ることができた。18時近い今、ガラスごしの通りはすでに暗くなっている。

「先生。あれ……」
『本日のコーヒー』をすする聡を女生徒の一人がつついた。

カフェの自動扉を通って今店内に入ってきたのは将だった。聡たちには、そしらぬ顔で私服の皮のジャケットに薄いサングラスをかけているが、一目でそれとわかった。

「きっと先生目当てだよね」チャミがくすっと笑う。
「でもこうやって私服だとまたすっごいイケメンだよね」
「邪魔しちゃアレだから、いこ」生徒たちは次々に立ち上がった。

「ちょっと、みんな……」
「じゃあね先生、さようなら」

皆ミニスカートの制服をひるがえして店を出て行った。

すると、将はさもわざとらしく、今気付いたような顔をしてソファに残された聡のほうへ寄ってきた。カフェモカを片手にソファの聡の横に座る。

第24話 握り合う手(1)

「俺さ、アキラが頼ってくれて、めっちゃ嬉しい」

最初の角を曲がる前に将ははずんだ声で告げた。

「頼ったなんて……」

反射的につい、意地をはったセリフがこぼれてしまった聡だが、今回の場合は明らかに『頼って』いたことに相違ない。

「……そうね。どうもありがとう」

と素直に感謝の言葉に言い換えた。が

「手間をかけてごめんなさいね」

と『大人』を強調しようと、気遣いの言葉も末尾に付け加えた。

「何いってんだよ。いくらでも頼れよ。俺アキラのためなら何でもやるんだから」

信号待ちになり、将は顔を軽くこちらに向けてくる。ヘッドライトにてらされた左頬に線のような傷があるのを聡は見つけた。

「頬の傷、どうしたの」

将は傷にいままで気付いていなかったようだ。バックミラーで確認して

「ほんとだ。あのヤロー」

と小さくつぶやいた。夕方に松岡を助けたときに、前原のナイフの先がかすったらしい。しかしそんなことは聡に言う必要はない、と将は判断した。

「なんでもないよ」とミラーを戻すと、
「さーて、どこに行こうかー?」とおどける。

「バカいわないの。明日も授業あるでしょ」

将は「チェー」といいながらも

「でもちょっとぐらい夜のドライブに付き合ってよ。呼び出したお礼にさ」

と車線を変更した。

聡は本当は疲れているから、早く帰りたかったのだが、まあ仕方ないか、とあえて異論は唱えなかった。

車は首都高に乗った。進む先には星を撒いたような都心部が、空に半月を浮かべて展開していた。

「で、井口くんの事情って何なの」

まるで恋人のような雰囲気に抵抗するため、聡は教師としての責任感を前に出した。

「ああ」

将は井口に引きこもりの兄がいることを説明した。

「たしか、アキラと同じぐらいのトシじゃなかったかな。すっごいベンキョーができたみたいで、××大に進んで、一流企業っていうのかな。……に入ったんだけど、1回仕事で失敗しただか、でそれっきり」

親も黙って見ているだけでなく、いろいろするらしいが、そのたびに修羅場になり、それが井口に飛び火することも少なくない、という。

「……ちょっと可哀想なやつなんだ」
「そう……」

でも聡はあのピアスだらけの風貌の井口がどうしても恐ろしい。

「だからさ、あんなふうにオッパイみられて悔しいと思うけど、アイツを許してやってよ」

将からそんな言葉を聞いて、聡は顔が熱くなった。それを見られないように、窓の外の夜景に目を移そうとしたが、あいにく防音壁があり、それほどよくは見えない。あのとき、一瞬だったとはいえ、たぶん将も聡の裸の胸を目にしたはずなのだ。

それを思い出したとき、悔しさではなく、恥かしさが、しかし、ときめきに似た感情が聡の心を支配した。それを振り払うように、聡は

「知らない」

と肩をすくめた。

沈黙する二人の行く先では夜を彩る光の色合いがどんどん派手になってきた。街を区切るように赤いテイルランプが連なる道路同士が並行し、上下し、交差する。

色とりどりの光の海に光の網を投げたようだ。車の中も赤い光、オレンジの光につぎつぎと照らされた。

「あ……」

聡の目の前に東京タワーが現れた。鉄柱のあちこちにランプをつけた姿は季節外れのクリスマスツリーのようだ。
上のほうには赤い光が点滅している。

「こんなに近くでタワーを見たの、初めて」

窓に張り付くようにして見上げる聡が、将には嬉しくて、すぐ近くに見える月までドライブできそうな気さえした。

 
今度は聡のおごりで軽く食事を済ませた後、二人は湾岸の遊歩道を歩いていた。ドラマなどで、よく恋人同士がデートする場所だ。

今日もまだ平日だというのに、若い恋人同士がよりそいあって歩いている。

実は聡も博史とではないが、学生時代に付き合っていた男と一度歩いたことがある。

「高級フレンチをおごってもらったのに、ごめんね」

聡は手すりによりかかって対岸の夜景を眺めながら言った。狭くなった東京湾は対岸の夜景をゆらゆらと水面に映している。聡がおごったのはごくごく普通の値段の店だった。

「アキラとだったら、それだけでなんでも旨いよ」

本当は聡の肩に腕をまわしたい。それをぐっとこらえて将は聡の隣の手すりに体重をかけた。腕同士がふれるかふれないか、そんな距離は、将に聡の香りを感じさせた。

香りは、将の理性を少し蹴飛ばした。

左にいる、香りの源をのぞきこんだ。すると、聡も将を見ていたのか、至近距離で運命のように目が合った。聡の視線ははじかれたように夜景に戻っていった。

将も鼓動が手すりから聡に伝わりそうな気がして、湾に背を向けて、手すりによりかかった。

その前を、まだ付き合いはじめ、のような初々しいカップルが手をつないで通り過ぎた。二人がつなぐ手に将の目は釘付けになった。

今まで付き合った女のコとは、手をつなぐ前に、いきなり肩や腕を組んでいた。肩は男のほうからさりげなく抱くものだ。

『イケメン』の将だからだいたいの女の子はそうされても嫌がらず、むしろうっとりとして体重を預けてきたものだ。

腕のほうは女の子のほうからたぐってくるもので、それも将はたいてい拒んだことはない。

だけど、『手』はお互いの手が握り合うものだ、ということに将は気がついた。

握り合った手は想いあう二人の象徴なのだ。

将は、聡とあんなふうに手をつなぎたい!という思いでいっぱいになった。再び聡と同じ方向に向き直った将は、隣の聡に

「ね、手。出して」

と言った。聡は唐突な将の申し出に、

「なあに?」と言いながらも右手を差し出した。

その右手を、将は左手でガシッと握り締めた。柔らかくてしなやかな聡の手。

「?」

聡はわけがわからず、目を丸くしている。

――だめだ、こんなんじゃない。

将は聡の手を握ったままうなだれた。聡のほうは、いきなり聡の手を握り締めた、将の熱い手に困惑していた。博史の固い手とも違う、若者らしいみずみずしさが残る、手。

「アキラ、俺のことどう思ってる?」

急に投げられた質問と視線に聡はますますとまどった。

「どうって」
「男として好き?嫌い?」

男として。たしかに聡の手を握り締めて、見つめるその顔は『男』だ。

「そんな……」

いよいよ視線を熱くする将の瞳を見ることもできず、聡はうつむいた。

「手を離して」
「……ゴメン」

将は素直に手をはなした。聡はなぜか、もどかしいような思いにとらわれた。このまま手を離さないでほしい、そんな想いがどこかにあった自分に言い訳をするように

「私には結婚を約束した人がいるから……」

とかろうじて言った。

「博史?博史のどこが好きなのさ」

将は不満そうに少し頤をあげた。

「そうね……。おだやかなところとか、大人なところとか、かしら」

わざと、将と真逆のことを言いながら、聡はちくちくと心が痛んだ。

「あと、安定した収入とか?」

不機嫌そうに将は付け足すと、すぐに反論した。

「俺だっていつまでも17じゃない。すぐ大人にだってなる。収入だって、博史なんかに負けないぐらい稼ぐよ」
「そんな……だけど私は……担任教師だし、9歳も年上よ」

「関係ないよ」将は聡の言葉がおわる前に即座に言ってのける。

「そんなの関係ないよ……アキラ」もう一度言い聞かせる。

目の前の揺れる波がそのゆらぎを大きくした。沖のほうで船が通ったのだろうか。

「私の……いったいどこがいいの」

聡は波に問い掛けるように小さく訊いた。将は訊かれてしばし沈黙した。何を伝えたらいいのかわからない。

「どこが、なんて。……わかんないよ」

将は聡と同じように、波に答えるように答えてさらに考える。時間だけが流れていく。

足元の岸壁に波がうちよせる水音だけが聞こえる。将は意を決したように答え始めた。

「全部好き。知れば知るほど。毎日好きになる。アキラと毎日逢えるだけで嬉しい。マジで超好きだから……どこなんて言えないよ」

将は少しだけ大きな声でいうと、照れてうつむいた。

聡は同じ質問を博史にしたことを思い出した。あのときもこんな風に二人並んでいたと思う。

『私のどこが好き?』

博史の顔をのぞきこむ聡に、博史は微笑みを返しながら

『そうだね』と考え込むふりをした。
『まずは顔。それから感度抜群のボディ』

エッチ、と聡は博史を殴るふりをする。それをかわしながら

『若くて素直な性格。まずまずの教養。語学堪能なところ。どこに出しても恥かしくない嫁さんになってくれそうなところ』

と続ける博史。あのとき聡は博史に認めれたようで、嬉しかった……。

だけど、目のまえの若い男は、全部が好きだという。マジで好きだから、どこなんて言えないといった。毎日逢えるだけで幸せだともいった。

何かが聡の心のなにかを強く押し流していくのがわかる。

せつない気持ちでいっぱいになって、ただ「ありがとう」とだけつぶやいた。

泣きたいような気持ちになった。

第23話 不穏(2)

警察によると荒江高校の生徒が何か問題をおこしたらしい。生徒の両親は連絡がとれないので、学校関係者に来てほしいとの連絡だった。

聡は、自分が行っていいのかとも思ったが、他の教師はすでに帰宅している。教師の個人宅への電話番号は、「個人情報」とのことで公表されていない。教頭の番号のみ教えられているが、それではあまりに事が大きくなりすぎると聡は判断し、警察に出向くことにした。

――まさか、将?

いやな予感をかき消しながらタクシーを拾う。

 
「あっちゃ~……」

目をつぶった松岡は、将の声でおそるおそる目をあけた。前原は血まみれではなかった。

将の視線の先には、血の海ではなく、濡れたコンクリートの面積が徐々に広がっていた……前原の腰の下あたりから。

将が振り下ろしたナイフは、前原の脇の下すれすれのコンクリートを傷つけただけだった。

しかし、あまりの恐怖に前原は失禁してしまったのだ。

「うっ……」

前原は悔しさと恥かしさでうめいた。将は、ナイフを握りなおすともう一度訊いた。

「金とカードは?」
「返す、返すからやめてくれ」

前原は泣きながら懇願した。将は前原の両手から足を引いた。前原は起き上がるとカードと2万を出した。

「あとの3万は!」

将はナイフを前原の目の前にかざして厳しく問い詰める。

「もうない。……使っちまった」
「何だァ?」

再びいきりたつ将は、前原の襟をつかんだ。松岡が、とめに入る。

「も、もういいです」
「よくないッ!」

将は松岡を一喝してさらに前原を責める。

「どこで使ったんだ!」

将はナイフを前原の喉もとにつきたてた。前原はひっ、とうめくと、

「……ゲーセンとか……ふ、風俗とか」と白状した。
「フーゾクだぁ?」将はあきれた。

松岡が将を懇願するように止める。

「鷹枝くん、本当にもういいんです。親の財布から盗った分は戻ってきたから……」

松岡は、前原に脅されて、親の財布からの盗みまで犯したというのだ。

幸い、カードの暗証番号を問い詰められていたところで将が割って入ったらしい。将は、最後に前原を一瞥すると、松岡をうながしてその場を立ち去った。

前原は自ら垂れ流した尿にまみれて、腰が抜けていた。

「チキショウ……。覚えてろよ」

しかしラテン系の大きな目は、将の後姿をいつまでも睨んでいた。

 
聡は料金を払うのももどかしく、タクシーから転がるようにして降りると、警察署への階段を駆け上がった。

古い警察署の建物のグレーを基調とした部屋は、蛍光灯の緑がかった光でよけいにくすんで見える。

そんな中で待っていたのは、ピアス男の井口春樹だった。

……将ではなかった。聡はほっとしたと同時に、再び緊張した。なんといっても井口春樹は先々週、赴任したての聡を集団暴行しようとしたリーダー格である。

今度は何をしでかしたのか。

熟年の、温和そうな警察官が説明する。

「××書店で万引きをしましてね。店の人によると、1回は注意をして見逃したそうですが、今回が2回めなので、通報したとのことです」

「万引き……」

聡は力が抜けた。当の井口は警察官の前でも不貞腐れたようにそっぽを向いている。

「ただ、いずれも未遂ですし、反省しているようですので、補導するほどでもない、ということで。厳重注意で今回は穏便に済まそうと、署では判断しまして。それで再三、おうちのほうにも電話をしたんですが、お留守のようで、時間も遅くなりましたので先生に来ていただいたんです」

井口は、椅子に浅く腰掛け、手をズボンのポケットに入れて、バカでかい体を斜めに仰向けにしている。

この、不良そのもののポーズのどこが反省しているのだ。聡はなんで補導しないんだ、とさえ思った。

「どうも、お手数をおかけしまして、申し訳ありません」

聡は一応儀礼的に謝った。

「今日は先生にお任せしてよろしいですか?」

聡は、一瞬とまどった。視聴覚室で組み敷かれた嫌な思い出が蘇る。夜道をこんな危ないやつと二人で帰るのは自分が危険だと思ったのだ。

「……あの、もう一度、おうちに電話をしてみてもよろしいですか?」

聡は警察官に申し出て、再度、井口の家に電話をする。

……本当に出ない。

聡は根気強く、コールを30回以上鳴らした。すると、一瞬受話器を上げる音がした。

「もしも」ガチャッ。ツー、ツー、ツー、ツー。

聡が呼びかける前に受話器は置かれてしまった。一度は確かに誰かが出たはずだが……。もう一度かけても、もうつながらない。

――どうしよう。

聡は途方にくれた。

……結局、聡は井口と二人で警察署を出るしかなかった。歩きながらも一定の間隔を保つようにする。

しかし警察署から少し離れると「じゃーね。先生よ、」と言って井口のほうから勝手にいってしまおうとする。

「待ちなさい!私はあんたを家に送り届ける義務があるんだから」
「……ンだよ」

井口は、振り返るとこっちへ歩いてきた。腰パンのポケットに手をつっこみ、バッシュの踵を踏みつけてサンダルのように足をひきずりながら、ガニ股で肩をいからせて聡にまっすぐに近寄ってくる。

「や……」

聡が声をあげそうになったその時。聡の後ろでパッパー、とクラクションが鳴った。

井口が聡の横をすりぬけて「将じゃん、何だよ」と親しげな声を出した。

聡が振り返ると、ローバーミニがいた。運転席の窓から将が頭を出す。

「先生、迎えにきたよ」

困り果てて聡は、将に電話をしたのだ。
 

 
「万引きィ?だっせーの」

将は夜の町を運転しながら笑った。

「うっせえ」

助手席の井口は照れて窓の外に顔をそらした。後部座席にいる聡は、そんなふうに照れる井口を意外に思った。

「で、なんでやったの?金ないの?」

将の問いに

「ないね」

と井口はあっさり答えた。人気の漫画本を万引きして古本屋に売れば金になる。井口はそれで稼ごうとしたのだ。

「なんでよ」
「お前のせいなんだよ」

井口は運転席の将に向き直って吐き出すように言った。

「なーんで」

答えながら将はバックミラーに目を走らせる。暗がりの中で対向車のライトに照らされた聡の顔が白く浮き出ている。聡はバックミラー越しに自分を見る将の視線に気付いて、視界から逃げようとした。将はそんな聡にふっと笑う。

「お前最近付き合い悪いじゃん。だから……」

井口は二人の様子にも、気付かずに将に不平をもらした。

「あ~……」

将は理解した。いつも金を出す将が一緒に遊ばないから、遊ぶ金がない、というわけだ。後ろにいる聡にはさっぱり意味がわからない。

「何、そんなに遊びたいわけ?」

将の問いに井口は答えないで再び窓の外に顔をそらした。

「俺、あすこ、帰りたくないんだけど」

しばらくして井口が将に言う。「今日もお前んち泊めてよ」と続ける。聡はそれを阻止する。

「ダメよ!今日はおうちに帰らないと」
「うるせえなあ」

井口が助手席から振り返って睨みつけたので聡はひるんだ。

「まあ、今日は帰れよ」

将が助け舟を出してくれた。

「え~……。今日、『バカ』しかいねえからなあ」

と井口はいかにも嫌そうに言った。

「あ~」将は再びそれだけで分かったように答えた。
「なあに、『バカ』って。ご両親今日は留守なの?」

聡は後ろから訊く。すると井口はいかにもうざそうに「ホージ」と一言で答えた。つまり法事に出かけているということだ。

「でも誰かいらっしゃるのね。よかった。挨拶くらいしておかないと」
「『アイツ』が挨拶なんかするわけねえよ」

そうこう言っているうちに、井口の家についた。わりときれいな一戸建てである。聡は唾を吐きながら歩く井口と共に、玄関に立った。井口は自分で勝手に鍵を開けると、聡などいないように中に入ろうとする。

「おうちの方は?」

聡が訊くと、井口は「いねえも同然だよ」と答えると「じゃな先生、手間かけたな」と奥へ行ってしまった。

「ちょっと……!」と引きとめようとする聡の肩を将がつかんだ。
「いろいろ事情があるんだよ」

「でも……」
「いいから」

将は聡の手を引っ張って、ローバーミニの助手席に乗せると、夜の街へとアクセルを踏んだ。

第22話 不穏(1)

放課後の補習は、また少し人数が増えた。大学進学志望者が入ってきたほかに、口コミでわかりやすい、というのが広まったからである。

授業中寝てたやつも、「個別の進度にあわせて」というのに惹かれてか、放課後にはのこのこやってくる。

聡は一人一人に、どこでつまづいたかテストをし、遡って説明しなくてはいけないので大忙しとなった。

将ときたら、いよいよほったらかしにされて不満である。

新規参加組にチャミとカリナもいた。

彼女たちは、前に座った聡の顔を見て「先生、こないだはごめんね」と謝った。聡が暴行されそうになったとき、井口ら不良グループを手引きしたことを言っているのだ。

「うちら、アイツらに脅されて……。先生、ヤられてないよね」
「大丈夫よ」

聡が答えると、二人とも両手を顎の下で握り締めて

「よかったー。学校来てたから大丈夫だとは思ったけどぉ、でも心配でぇぇ」

と顔を見合わせた。

「でも何で助かったの?あいつらツるんでたでしょ」

聡はちらっと将のほうに目を走らせた。するとこっちを見ていた将と目が合った。呆けたような顔が、聡と目があったとたん、ニッと笑う。

「人が偶然来てくれてね」

聡はあわてて視線を戻したが、チャミとカリナは将とのアイコンタクトに気付いたようだ。

「鷹枝くんと先生って仲いいよね」

さすが女子高校生、前触れもなくズバリと突いてくる。

「え、フツー、だけど」

聡はあせって答えた。

するとチャミは急に声をひそめて、聡だけに聞こえるように言った。

「だけど先生、鷹枝くんのこと、怖くない?」
「?」

「鷹枝くんってね……。人殺ししたって噂流れてるんだよ」

聡は一瞬ぞくっとした。

『俺は何をしたって許されるんだ。人を、例え、刺し殺したとしても』

と土曜日に将が言ったセリフを思い出す。

「よしなよ、チャミ。噂でしょ」

カリナが制止する。聡は、勉強に戻るよう彼女らにうながすしかできなかった。

 
将は暇でしかたなかった。こんなんなら、夕陽を見に海へ行ったほうがマシかもと思ったが、最近いよいよ日暮れが早くなってきている。

授業が終わって車を飛ばしたとしても間に合うかどうかである。

将は、松岡のことが気になって、彼を見る。反対側の頬しか見えないので、特に異変はないように見える。

しかし。なんとなく嫌な予感がしていた。将は聡の顔と松岡の腕の傷を交互に眺めていたが、次第にうつらうつらしてきた。

昨日は久しぶりに、井口らと夜遊びに出たのだ。たいして出たくもなかったが、井口が、

「オヤジガリガリしようぜ」

というのでしぶしぶ外出したのだが

(ちなみにオヤジガリガリ、というのはオヤジ狩りをする、自分たちより弱そうな不良を狩る、という正義の味方ごっこである)、

実際に行ったのは踊るほうのクラブだった。

将がいると女の子が寄ってくるという井口の計算だったが、なるほどブスっとしている将はクールな雰囲気で女受けは悪くない。

平日のクラブはほとんど高校生と大学生ばかりで、12時すぎに2度目の盛り上がりのピークを迎えた。それに便乗してバカ騒ぎをした……。

「……くん、鷹枝くん」

聡の声で将は目が覚めた。

「んあ?」

将は寝ぼけて頭をあげると前に聡が立っていた。いつのまにか机につっぷして寝ていたらしい。
教室にはもう誰もいない。

「下校時間よ」

いまいち頭がはっきりしない。ボーっとしている。どれぐらい眠っていたんだろうか。教科書を閉じた将は、あ、と気付いた。

「センセイ、松岡くんは?」
「帰ったわよ」

ヤッバ、とつぶやくと即座に「先生さよなら!」と教室をダッと駆け出た。

「教科書出しっぱなしよ!」と聡の声が背中に聞こえた。

将は校門を出ると、学校近くの公園に走った。

桜並木に囲まれ、砂場と鉄棒、ジャングルジムにブランコ、そしてベンチがある、子供を遊ばせるためのような公園だが、夕暮れで薄暗い今の時間には誰もいない。

将はコンクリート製のトイレの裏にまわった。

――やっぱり。

そこにはトイレの裏の壁に張り付くように財布を手にした松岡、その前に前原がいた。

「何してんだ!」

走ってきた将は息をきらせながら叫んだ。前原は将の姿を見るとギョッとしたようだが、すぐに居直った。

「見りゃわかるだろ。邪魔すんな……」

と前原が言い終わる前に将は彼に殴りかかった。その濃い顔にパンチをくらわせる。次の瞬間には前原は赤っぽいカタバミの葉が生い茂る湿っぽい地面になぎ倒された。右頬が次第に赤くなり、分厚い口の端から血が流れていた。

「おまえ、何様だァ……!」

前原は隈取をしたかのように見える大きな目を歪ませて将を睨みつけると、ポケットからナイフを取り出した。壁に張り付いていた松岡がふるえあがった。

ナイフを振りかざして前原は突進してくる。将はそれを素早くかわすと膝で前原のみぞおちを蹴り上げていた。

前原は貯水タンクの地面を固めるコンクリートの上に飛ばされた。横向きに丸まり、ゴホッゴホッと咳き込んでいる。

「大丈夫、松岡くん」

将は松岡を振り返った。

「……ありがとう」

松岡は壁にはりついたまま小さな声を出すのが精一杯だった。

「で、いくら取られたの?」
「全部で……5万、それとカード」

松岡は倒れている前原をチラチラ見ながらさらに小声で言った。将は再び倒れている前原のところへ近寄ると、

「金とカード、返せよ」

と上から言った。前原は苦しそうに咳ばかりをしつつも将には

「なんのことだよ」

としらばっくれる。将は前原からナイフをとりあげた。そして彼を靴先で転がして仰向けにさせると、その長い足で彼をまたいで、両手のひらを足で踏んで固定した。

前原の指の骨は固いコンクリートと将の体重が掛かった靴底に挟まれてギシギシと悲鳴をあげた。あまりの苦痛に前原がうめく。

「松岡くんからとった金とカードは?」

両手を踏みつけたまま、前原の顔を見下ろして、もう一度訊く。

「し、しらねえよ」

将は、そのままの体制でナイフの刃を再び出した。それは今から果物でも剥くのかと思うような日常的な出し方だった。

「知らないはずはないんだけど」

といいながら、将はナイフを高くかざす。前原が見上げた将は、能面のような無表情だった。

明るいところでは茶色っぽく見える将の瞳が薄闇のせいで光のない真っ黒に見える―――TVで見たホオジロザメの目のように。それが冷酷さを極めた顔であるというのを彼は知らない。

「おかしいなぁ」

将は無表情のまま、あまり抑揚もなく言うと、その刃を一気に前原の胸に向かって振り下ろした。

松岡ですら、その恐ろしさに、顔を壁に向けて目を閉じたほどだ。

「ギャアアアアア!」

夕闇せまる誰もいない公園に前原の悲鳴が響き渡った。

   ◇

補習を終えた聡は、職員室に一人残り、残業をしていた。新人教師の聡は、授業が終わるといろいろとやることがある。

プリントの作成や会議のレポートをまとめたり、研修資料をつくったり、コピーを何十部もとったり。補習をしなくても忙しいのに、放課後に補習を1時間入れたばかりに、仕事はたまりにたまっていた。

英語の授業が映画鑑賞に変わった件について、生徒にはおおむね好評のようだった。もちろん聡は映画鑑賞だけで終わらせるつもりはない。ここから中学レベルでもできる日常表現を抜き出して、文字列に頼らずに耳と口で覚えさせるつもりだった。

実際、聡はアメリカ・サンフランシスコに1年間留学したことがあるのだが、発音がクリアーではない西部だったせいもあり、そのとき向こうで出会った日本人留学生は日本でTOEFL対策でやったヒアリングなど、日常ではほとんど役に立たないも同然だと言っていた。

聡は両親が日本人学校の教師をしていた都合で小学生から中学生にかけてカナダのバンクーバーにいたのでそれほど苦労しなかったのだが、外国語を習得するには、結局「字」に頼らない体験にまさるものはないのである。

それと、友人の美智子は高校の勉強の意義の1つを「忍耐力の養成」と言った。そして勉強の退屈が「世代を超える共通体験」とも。

しかし、せっかく頭の働きが一番いいときに、興味のない授業の忍耐で時間をつぶすのはもったいない、と聡は思った。

教育要項には英語の重要な役割に「国際人の養成」とあった。それだったら、つまらなくてレベルばかり高い英語の教科書よりも、英語にひっかけて、映画でも見たほうが、よほど一般教養にもなるし、海外の文化の勉強にもなると思う。

英語は将来忘れても、感動した映画のストーリーは容易に忘れないだろうから。英語の他にも、聡はいずれ英語のカラオケをさせる予定もあった。

流行の英語の歌をカラオケで歌えればカッコイイ。その方が大学にもいかない生徒らには「役に立つ」だろう。それに、音楽に助けられて英単語や熟語もすっと頭に入りやすくなるに違いない。

そして、さらに英語の授業の改革のほかに、聡が考えていることがあった。

気がつくと、今日は他の教師は皆帰ってしまい、聡一人になっていた。

もう外はすっかり暗い。

「もういいや。今日は帰ろうッと」

聡が帰り支度をして、警備員に自分が最後だと告げにいこうとしたときだ。職員室の電話が鳴った。

こんな時間に?と聡は踵を返して電話をとる。

「もしもし。お待たせいたしました、荒江高校ですが」
「もしもし、こちら○○署ですが。お宅の生徒さんのことで―――」

警察からの突然の電話だった。

続きは復元作業中です

第17話 過去(2)

そのまま身を翻して、振り返りもせず、聡は走り去ってしまった。

将はローバーミニによりかかってようやく立っていた。聡の姿が見えなくなったとき、涙が膨れ上がってきて、それは頬を伝った。

――行くなよ。俺を置いていくな。

今度こそ本当に世界から見捨てられたような気がした。

 
あれは同級生が高校受験を控えた15歳の冬だった。

古くて汚いアパートの1室。風が吹くと、ベニヤのドアがガタガタと音を立てた。汚い砂壁のあちこちは砂が剥げ、ひびが入っていた。畳はあちこちがささくれて、裸足で歩くと刺が刺さった。

そんな家でも外にいるよりははるかにマシだった。寒さ―――風を凌げるという点だけでも。そこは将が唯一、親友と呼べる少年の家だった。

将と少年はたった一つの暖房器具である電気ストーブにあたっていた。

少年とその父の二人暮し、というにしては家具がまったくない6畳間。ほとんどの家財は「あいつら」が持っていったという。

電気ストーブは民生委員の人が好意で持ってきてくれたものだった。そこへ、ヤクザのような「あいつら」が突然やって来たのだ。

ヤクザは少年の父親の居所を執拗に少年に聞いた。

少年の父親はおそらく多額の借金を抱えていて、取立てから逃れるべく姿をくらましていた――

将もその少年の父親を見たことがなかった。もうずいぶん前から。

「知らない」という少年をヤクザは殴った。そのまま理不尽に殴られ続ける友人。止めようとした将も連れのヤクザに1発殴られた。

ケンカ慣れしている大人の手加減しない1発は、まだ15歳の将を真の恐怖に陥れた。将は恐ろしくて、流しの隅でへたりこんで見ているしかなかった。

そのうち、ヤクザは刃物を取り出した。友人の指をつめる、と言い出したのだ。障害者になったら年金が出る。それで借金を返せとむちゃくちゃな理由だ。

もう一人のヤクザは友人の手を床に固定した。

『やめて、やめてくれ』という友人の絶叫が響いた。

将は絶叫に操られるように、知らず、流しから出刃包丁を取り出していた。

『観念しろや』ヤクザのセリフは自らへの言葉となった。

将は無我夢中で体を丸めて、ヤクザの腰のあたりに突進していった。

『ぐああっ』

気がつくと、友人に向かって刃物を振りかざしていたヤクザは倒れ、大量の血を傷口から噴出していた。

将たちが軽い怪我をしたときに見るようなどす黒い血ではない。朱色のような鮮やかな赤い液体が定期的にどくっどくっと脈打つようにヤクザの体から流れ、ささくれた畳を血で染めた。

もう一人のヤクザは『ひぃいい!』と叫んだぎり逃げて、とうにいなかった。将は返り血を浴びて突っ立っていた。

『ショウっ……』友人は泣きながらそんな将にすがりついてきた。

結局ヤクザは出血多量で死んだ。

が、将の父が手をまわして、ヤクザを刺したのは将ではなく、友人だったということにされた。

将が刺したのを知っていたはずの連れのヤクザも、半年ほどたってどこかの港に浮いているのが発見された。ブロック塀を括りつけられた無残な腐乱死体として。

友人は、正当防衛性が認められたものの、それまでの素行から、鑑別所に入っている……。

 
将は、なんとか自力で運転してマンションに戻ってきた。

体ごと倒れこむようにドアを開ける。すると部屋の奥からは瑞樹が出てきた。

「……将、どうしたの」

塩で汚れた服、バリバリに乱れた髪、それよりも異様なのは赤く充血した目と憔悴しきったような顔である。

将は瑞樹の声などまったく聞こえなかったかのように、また瑞樹などいないかのように、歩を進める。

今日は瑞樹以外はまだ誰も来ていないらしい。土曜日の11時前だから外で遊んでいるのだろう。特にピアス男の井口は最近は踊りにハマッていると聞いた。将はキッチンに入ると、冷蔵庫から水を取り出し、がぶ飲みした。

「将、今日はどこにいってたの」

瑞樹は将のあとを追うように傍らに立った。将は無視してキッチンを出ると、ソファに寝転がった。置いてあった漫画を開く。

「誰と会ってたの?」

瑞樹はソファの足元に立つと将を見下ろした。お気に入りのヴィンテージのジーンズを穿いているところを見ると、単にいつものドライブではなさそうだ。

「あの、キョーシと会ってたの?そうなのね」

とたん、将は漫画雑誌を閉じて体を起こした。

「うるせえよ!」

怒鳴りつける。思わぬ大声、そしてその形相に瑞樹は黒髪を揺らしてひるんだ。

が、彼女には、今までの関係から、まだ自信があった。

「ふられたのね」

そういうと、体を起こした将の横に腰かけた。将はそれを拒むように立ち上がるとバスルームに向かって歩き始めた。その将の前に立ちふさがるように瑞樹は

「そうでしょ」

と将の顔を見上げた。将からみたその目は三白眼になっている。笑っているような口から

「代わりになってあげるから、さ」

という言葉。そして、将のジーンズに手をかけようとする。

――今までなら。そのまま将は、瑞樹がしたいように、下半身を預けたのだが。

将は瑞樹の手を振り払うと静かに言った。

「……出ていけ」
「……?」

「出ていけと言ってる」
「……将」

将は瑞樹の手を掴むと、引っ張った。そのまま玄関のほうへ歩く。

「将、どうしたの?将ったら」
「出ていけッ!邪魔なんだよッ」

将は瑞樹の手をつかんだまま、裸足で玄関のドアを開けた。

そのまま力いっぱい瑞樹を突き飛ばす。瑞樹はマンションの廊下に倒れた。その上に玄関にあった瑞樹のサンダルをも放り出すとドアを閉めた。夜のマンションの廊下にその音はひときわ大きく響いた。続いて内側からチェーンをかけるチャリチャリという音。

「将、どうしたの、何を怒ってるの?」

瑞樹は立ち上がると、閉じられたドアを叩きながら叫んだ。

「将!将!ねえ、ショウ!」

瑞樹はしつこく叫んだ。隣の住人が、その騒ぎにドアを開けてこちらを見る。瑞樹はかまわずドアを叩き続けた。

と、ドアが開いた。

「将」

チェーンの鎖の分だけ開いたドアからは瑞樹のバッグが放り投げられた。

「将、どうしたのよ、私、何か悪いことした?」

瑞樹は必死で、細く開いたドアをキープしようと手を割り込ませる。

ドアの細い隙間から見上げた将の顔……瑞樹がこれまで見たこともないような冷酷な目でこちらを見下ろしていた。
いや、瑞樹のことを人としては見ていない。そんな視線。

「ケガするぞ」

それだけのセリフでドアに割って入った瑞樹の手をひっこめさすと、将はドアを閉めてしまった。

瑞樹は冷え込み始めたマンションの廊下に裸足で立ち尽くしていた。

 
聡は放心していた。

タクシーを拾い、部屋にたどりつくと、水を飲み、そして塩でバリバリになった服を脱ぎ、シャワーを浴びた。

そこまではほとんど無意識状態だった。習慣というか本能で動いていたに過ぎない。汚れも落として、ようやく「ヒト」としてマシになるといろいろなことが頭に浮かんだ。

――いろんなことがあった1日。

楽しかった海、幼くして亡くなった将の母、レストランで貴公子然とした将、父・官房長官との偶然の出会い、父親に無視される将、酔っ払った将の重み。

そして、再びの深い口づけ。

しかし、今の聡にはそんなことより、将の背負った過去のほうにより心が動かされていた。

――あのまま、置いてきてよかったのかしら。

同時に後悔もした。突然の唇に動揺してしまったが、置いてきてはいけなかったのではないだろうか。

問題児と名高い将。偽造免許証や、同級生を思い切り殴りつける姿。

「何をやっても許される」との開き直り。

それはすべて、人並みはずれた寂しさが一因なのには違いあるまい。聡は、床に入っても将のことが頭から離れなかった。

 
聡は夢を見た。

博史と海岸を歩いている。顔は逆光でまぶしくて見えないが、こんな風に並んで歩く男性は博史しか考えられない。

なぜか裸足。黒い砂に吸い込まれるような足が気持ちいい。

博史はなぜか突然海に駆け出していった。顔を見ようとするがあいかわらずまぶしくて見えない。

ざぶざぶと中へ入っていく。静かだった海がだんだんと波が高くなっていく。

ついに波が彼を隠してしまった。

聡は追って海へ歩こうとするが、粘りついたように足がなかなか動かない。それでもなんとか博史に追いついた聡はその背中に抱きついた。そのまま二人は海中に倒れこむ。

とたん床が抜けたように、海の中に二人抱き合って沈んでいく。その沈んでいく感覚が気持ちいい。髪も服も海水になびいている。

ゆらゆらと光る海面がどんどん遠くなっていく。

深い青の世界を二人はゆっくりと深みへと降下しながら長い口づけを交わした。水中のはずなのに息が苦しくない。

冷ややかになっていく海水の中で柔らかく温かい唇をお互いにむさぼった。

聡は目をあけて自分を抱く男の顔を確認しようとした。するとそれは博史ではなかった。

将が、寂しい顔をして微笑んでいた……。

第16話 過去(1)

突然の告白。

聡は―――もちろん、なんて答えればいいか、なんてわからないで呆然としていた。

自分は教師で、彼は単なる教え子である。そして自分には結婚を約束した恋人がいる。それを再確認させればいい。

頭の冷静なところでは理解しているのだが、口に出せない。

ただ、将の顔を眺めていた―――眺めていたというより、顔のほうをむいて目を開いていたという状態―――。

―――流れにまかせて言っちゃったぜ、俺ってば。

将のほうは、告白したところで、正気に戻った。一瞬後悔したが、ええい、本当のことだ、と開き直った。

初めて自分から好きになったひと。心の片隅に芽生えた淡い思いは9月になって急に将の心を支配し、それが年上だろうと、担任教師だろうと、婚約者がいようと、口に出さずにはいられなくなったのだ。

1000万回「好きだ」といえば思いが通じるなら、たぶん今の将は愛の言葉を繰り返すだろう。

「アキラ」目の前の聡にもう一度呼びかけてみる。
「あたし……」

聡は握りこぶしを握って、うつむいた。

そんな聡をみて、これは『もう婚約者がいる』、もしくは『私は教師、あなたは生徒よ』と1分以内にいわれるな、と将は覚悟した。

まあそんなことは告白した時点で『想定の範囲内(←古いか、あははby将)』だけど。

どうしたら、彼女が俺に振り向くか。

そりゃ決まってる。博史より俺のほうが彼女を幸せにすると確信させればいい。しかしどうやったら彼女は幸せを感じるのか?彼女の幸せって何だ? 将は1秒のあいだに考えた。

「アキラ、俺は」と、あてどもなく、思考の海へ漕ぎ出したところへ
「お兄ちゃんだ」

思いもかけないところから聞き覚えのある子供の声。声のほうを振り向く。義弟の孝太がなぜかいた。後ろにはメートルに案内されてまさにこちらに来ようとしている父・鷹枝康三と義母がいた。

父と義母も孝太の声で将の方に気付いたようだ。孝太は子供ながらに蝶ネクタイのついたかわいらしい正装をしていた。

―――そうか、今日は孝太の誕生日か。

将はすべてを理解した。

「お、お父様っ?」

聡は、こないだ学校に来た義母と、テレビで見る官房長官の組み合わせで、それが瞬時に将の両親だと言うことに気がつき、立ち上がると、ぺこりと挨拶した。

康三は、今日は世間で人気を集めているクールビズ姿ではなく、きちんとスーツを着た正装に近い姿をしている。テレビよりも痩せていて、端正なおもざしは将によく似ている。義母が康三に耳打ちをした。

「お兄ちゃんも一緒に食べようよ」
「孝太、来なさい」

康三は孝太を連れ戻して、聡には目で挨拶した。義母も軽く会釈をした。しかし康三は、将の席のすぐ近くを通ったのに、声もかけずに個室のほうへ消えた。

孝太だけが個室に入る寸前まで将のほうをなんども振り返った。

   ◇

「ちょっと、飲みすぎよ」

将の、ワインを飲むペースはあれからあきらかに早まった。まるで1杯を一口のように飲み続けている。エシェゾーは聡に1杯注がれただけで、あとは全部将が飲んでしまった。追加してグラスワインも頼む。

シャンパンも2/3は将が飲んだことを考えると2本ぐらい将が開けたことになる。

「まだ足りないよ~。せっかく飯がうまいのに、ワインが足りないと哀しいじゃん……」

明るくふるまっているが、聡には将の気持ちも理解できなくはなかった。

家出した息子とはいえ、あれが実の父の態度だろうか。テレビで見る官房長官のにこやかな姿とはまるで違う。冷たい目で将を一瞥したきり、まるきり無視していた。言葉の1つもかけず……。

「食後酒っ……マールちょうだい」

将はデザートの途中でさらに酒をオーダーした。マールとはワインの絞りカスでつくった焼酎のような強い酒である。聡の鼻先を強いアルコールの匂いがツンと突いた。

顔にはあまり出ないタイプなのかもしれないが、目が完全に据わっている。

「もう一杯!」というのをなんとか制止して、お勘定を頼む。

様子が変な将に配慮してか、ギャルソンは勘定を一瞬、聡のほうに持っていこうとした。が「勘定はこっちでしょー!」と将は大声を出す。

財布からカードを取り出して、ぽいっと皮の皿に載せる。

「ごちそうさまー」
「あの、代行をご用意しましょうか?」とメートルが気を利かすが
「大丈夫、大丈夫。まだお茶するから」と将は却下してしまった。

いちおう、ギャルソンの手前、すくっと立って、多少軸をぶらしながらもまっすぐ歩く……店内までは。

広い通りに出て、ギャルソンが見えなくなった瞬間、将の体がぐらりと揺れる。あわてて聡は支えた。熱い体温。息がもろ酒臭い。

「アキラ、大丈夫、大丈夫だよ。少し酔いをさませば……」といいつつ、離れるとグラグラする。
「ちょ、ちょっと……」

ぐらつく将を抱きかかえるように支える。
182センチの大男の体重が聡にかかり、聡も倒れそうになるのを踏ん張りながら横断歩道を渡る。
しかし、歩行者の横断を告げる音楽が止んでしまった。わたりきれないと判断した聡は、抱きかかえるように将を中央分離帯の植え込みの縁に座らせた。

将は聡にしがみついたまま離れようとしない。

「アキラぁ。俺さ」
「何」

「俺……」

聡の肩に首を埋めたまま、吐息のように呟いた将の声は、動き出した車の音にかき消された。

「しっかりして」聡はそういって肩にからみついた将の腕をはがそうとした。

するとなおさら、がっしりとしがみついてくる。

「……このままで。このままでいさせて」

将は聡の肩に顔をうずめたまま、うめくように呟いた。

酔っ払っているから引き剥がすのは簡単だろう。しかし聡は突っぱねる気になれなかった。聡は将のとなりに座り、しばらく将の肩を受け止めて、通りを眺めていた。車の、赤いヘッドライトがつぎつぎと流れていく。

再び、歩行者の横断を告げる音楽。行き交う通行人が二人を好奇の目で見ながらも、それぞれが行くべき道を歩いていく。

家庭の中に居場所がない。そんなことは今の世の中、悲劇とも言えないほどありふれたことだとも言える。

しかし実母をわずか6歳か7歳のときに失い、残された父にあのように冷遇されたなら。

将はどんな10年を過ごしてきたのだろう。

夕陽に照らされた将のいたずらっぽい笑顔。きらめく水しぶきが蘇る。

目の前の焦点をわざとぶらす。夜の街は揺らめく赤やピンクの光の集合体になった。そのまま焦点がぶれたまま、光は重なって揺れた。聡は知らず目に涙を溜めているのだった。

   ◇

何回、人々がここを横断しただろうか。将が頭をあげた。

「……大丈夫?」

聡は何度かよけいに瞬きをして、目に溜まった涙をどこかにやりながら将を気遣った。

将は呆けた目をしながらもうなづき、立ち上がる。多少ぐらつきながらも、歩こうとする。しかし車がびゅんびゅん来る大通りにそのまま出ようとして、

「だめよ、まだ赤だってば」と聡に止められる。
「あ、うん」その目はまだボーっとしている。

あまりに危なっかしい姿に聡は支えようとするが、将は

「もう大丈夫」と振りほどいた。

信号がやっと青になった。将は元きた道を戻る。

「酔いをさますんじゃないの」
「……もう大丈夫だから」

そうはいってもまだまっすぐ歩けていない。
「じゃあ代行よぶわ」聡はバッグに携帯をさぐる。
「いらねえよ」

「でも」
「大丈夫」

「だめよ」
「いいったら」

将は多少だらしない口調ながら足を速めていった。駐車場についてしまった。

「だめよ。事故を起こしたら……、万が一、人をはねたらどうするの」

聡は車のドアのまえに立ちはだかった。

「大丈夫だよ」将はそんな聡をどけようとする。
「大丈夫じゃないわ」

将は一瞬聡の顔を見た。心配そうな顔をしている。それを見ると将はいったん視線を下に落とした。そのまま目だけで聡に向き直る。

「万が一、人をはねても……あの親父がなかったことにしてくれるさ」
「な……」

聡は固まった。そんな聡の肩をつかんで将は続ける。目には強い光が戻っていた。聡にとってこんな将を見るのははじめてだ。

「俺は何をしたって許されるんだ。人を、例え、刺し殺したとしても。親父のチカラでな」

聡が驚いたのか呆れたのか確認もせず、将は聡の首をひったくるようにして、唇をあわせる。突然の隙をついて舌までも差し込む。

「……アキラ!」

次の瞬間、将の頬に熱い衝撃が走り、酒で足元がふらついていた将はよろめいた。顔をあげると髪をふりみだして息が荒くした聡が睨みつけていた。

「何てこというの!」

叫ぶその顔からは今噴き出したらしい涙がぼたぼたと落ちている。

「情けない……見損なったわ」

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第15話 汐風の中で(3)

そのとき、ある音がエンジン音をもしのいで車内に響いた。

聡がうつむいた。お腹の空腹のサインが派手に鳴ってしまったのだ。

「ほら。ゴハンいこ」信号が青に変わり、将は笑いながらハンドルをきった。

――まあファミレスぐらいなら、つきあってもいいか。

と思った聡だったが、到着したのは……。

 
 「ちょっと……。ここ1食3万は下らないってレストランだよね」

シャンデリアの下、豪華な織りのクロスがかかるテーブルをはさんで向かい合う二人。テーブルの上にかがみこむように聡は囁いた。

「ここは大丈夫。俺がおごるから」
「そういう問題じゃなくて……、問題でもあるけど……。こんな汚いカッコで。見てよ、ジャケットなんか塩ふいてるよ」

「それをいうなら俺もだってば」

服のまま海で泳いだような二人は、髪も服も塩でバリバリに固まっていた。

よくも、出迎えた年配の食堂支配人(メートル・ド・テル)は通してくれたと思う。

ジャケット着用でないと入れない一流フランス料理店。食堂支配人はジーンズ姿の将を見ると、気を利かせて奥から若いギャルソンにジャケットを持ってこさせて着用させた。

「ほかでもない鷹枝様ですから」

とにっこりする。

ふかふかの絨毯に高い天井。フランスの本店とほぼ同じといわれるインテリアは写真などでみるより落ち着いた雰囲気だ。

モダンとかスタイリッシュといった客寄せのための奇抜さとは無縁。さらに明るすぎない照明、客の会話を邪魔しない程度の静かなクラシック音楽が上品な寛ぎの世界を演出している。

「食前酒などいかがでしょうか」
「シャンパン。クリュグ」と将は即答した。

メートルが去ったあとで、聡は小声で「未成年でしょ!」と咎めたが、将は知らん顔でメニューを開き

「アキラ何食べる?」などと言う。
「えー。何がなんだかよくわからない……」

それもそうだ。メニューは全部フランス語で書いてある。

「嫌いなものとかあるの?」
「……特には」

「じゃあ、デギュスタシオンにすれば」

つまりおすすめ品お試しコースである。

「そんなの書いてないよ」
「大丈夫だって」

将は、自らメニューをとりにきたメートルに、

「ムニュ・デギュスタシオン2つ」とオーダーした。

するとメートルは、恭しく「かしこまりました」と承った。それどころか「今日は鶉とスズキがいいようですが」と付け加える。

「うん。いいんじゃない。それも入れといて」と将。

次にすかさず、

「ワインは何になさいますか」

ソムリエがやってくる。大きなメダルのようなものを首から下げた、本物のソムリエ。聡はドラマの中でしか見たことがなかった。

「アキラ何か飲みたいのある?」

と聞かれても、いまいちわからない。

――ていうか、未成年でしょーっ!

と言いたいのを押さえて、

「グラスでいいんじゃない?私だけだし」。

すると将は、その皮肉に気付かないのか、あるいは気付かないふりをしているのか

「せっかく二人なんだから1本頼もうよ」

などとワインリストを前に考えている。

結局、ソムリエと話し合って勝手に決めてしまったらしい。その慣れたようすは、とても17歳に見えない。

聡は再度テーブルの上に身をかがめるようにして、

「お酒!未成年でしょ!それに運転はどうするの」と囁いた。
「こんな店で野暮いうなよ。運転はいざとなったら代行頼めばいいよ」

ととりあわない。

そこへ、アミューズと共にシャンパンが運ばれてきた。

「……クリュグでございます」

そういってラベルを示すと、開栓した。ポン、という音と共に瓶の中でシュワーっと泡がざわめいた。聡のほうのグラスからついでくれる。

細長いシャンパンフルートの底から細かい泡が立ち上ぼり、表面でピチピチとはねる様子が小さな線香花火のように可憐で美しい。

「じゃあ、アキラと俺の初デートに乾杯」
「……乾杯」

シャンパンフルートの細い脚はそれがとても高価なガラスであることを告げている。

金色の液体を含むと、泡と爽やかな甘味と酸味が口いっぱいに広がり、聡は素直に「美味しい」と呟いた。

ウニとキャビア、マスの卵を使ったアミューズも口にとろりと溶けていく。

「うまー」
「本当に美味しい」

ムニュ・デギュスタシオンはさまざまな料理が少しずつ味わえて、客としては嬉しいシステムである。

しかし、少量でも掛かる手間は同じなのでシェフ泣かせともいえるのだが、店の者は将をとても優遇しているように見えた。

「……なんども来てるの?」
「うん。ここは本当に旨いからね。それはアキラも期待してていいよ」

始まったばかりのコース、前菜に手をつける聡はなんだか腑に落ちなくて自分もカトラリーを手に取った。

そんなことより、聡が無意識に知りたかったのは、いつ頃から、誰と来ているのかを知りたかったのだが……

自分でも明確に意識していない設問を相手が答えるはずもない。

将はアミューズもその次の前菜も、にこにこほくほくしながら次々と平らげた。

姿勢もカトラリーのあしらいも、きちんと躾けられたものらしく、自然に寛ぎながらも、見よいものだった。

前菜はどれも手が込んだものなうえに、素材自体がとてもいいように見えた。聡は話題の泡ソースというものを初めて食べた。

何度か博史と食べたことがあるフォワグラも、コンソメで柔らかく煮込んだ大根をサンドしてまた、別の旨さになっている。

スープは栗をつかったヴィシソワーズ。冷たいポタージュだ。

「これがうまいんだ。だれも見てなかったら皿を舐めたいくらい」

といって将はせっかちにスプーンを手に取った。ほこほこした栗が濃厚なクリームに生まれ変わったような、そんな逸品に聡もうっとりした。

もはや、ボキャブラリーを忘れたように「美味しい」しかいえなくなっている。

「アキラがバイトしてた弁当屋も相当うまかったけどね」

魚料理が運ばれてきた。スズキのポワレをクレープで包んだ凝った料理だ。

「値段がぜんぜん違うでしょ」
「アキラも料理とかすんの?」

「ちょっとだけね。大学生までは全然ダメだったのよ。でも博史に……」

りんごをゴボウの笹がきのように剥いて博史に笑われた。弁当屋でバイトすることにしたのは料理修行の意味もあった。あそこで野菜の見分け方から、いろいろご主人や女将さんにおそわってだいぶマシになったのだ。

そんないきさつを聡は楽しげに話した。シャンパンが入って気楽になっているせいか、博史の名前を出してしまっていた。

「でもやりだすと料理って楽しいんだよね」

――博史、っていうんだ、彼氏。

将は、博史のためにわざわざ料理修行をしたという話を、自分に楽しそうに聞かせる聡が少し憎らしくなって

「ふうん。その博史にはつくってやったの?」

わざとその名前を呼び捨てで呼んでやる。

「ううん。まだ……だってずっと外国だもん。日本にいるときは実家かホテルにいるし」

気付かずにいる聡に少し腹立たしくなって、将はグラスに残ったシャンパンをグイッと一気に飲んだ。そこでソムリエがきびきびと赤ワインを持ってくる。
「エシェゾーでございます」

ここでもラベルをきちんと見せる。少しだけ将のグラスに注ぐ。つまりテイスティングだ。将は、器用にグラスをくるっと傾けると、その香りを嗅いで、味わった。

「いいです」

クールにOKを告げる。その動作には一切よどみがない。

聡でも聞いたことのある有名ワインの値段も気になったが、まさか17歳、塩でバリバリになったジーンズを穿いているとは思えない紳士ぶりである。

「本当にお坊ちゃまなのね」

シャンパンで多少放恣になった聡はつぶやいた。

「ねえ、お坊ちゃまがなんで、あんな学校に行ってるの?」
「あんな学校ってどんな学校?」

と将は鶉の身を骨からはずし、それにチョコレートソースを器用からめながら口に放り込みながらおどけた。

「……ちゃかさないで。アンタみたいに頭が抜群に良くて、金持ちだったら、どうにか名門校に入れるでしょ。なのになんで」
「なんでかなー、ねえ。家出したからじゃない?」

「じゃなんで家出したの」

聡は下を向いて、鶉と格闘しながら聞いた。骨をはずすのがなかなか至難だ。

「……つっつくなよ、アキラ。アキラはなんで教師やってんだよ」
「あたし?」

やっとはずした肉を口に入れたところだ。

実は聡は特に教師になろうとめざしていたわけではない。教職の単位はなんとなく取ったに過ぎない。博史と卒業後すぐに結婚しようと思っていたのだが、博史は中東勤務になり、結婚はのびた。

急に就職しなくてはならない羽目に陥って、頭に浮かんだのが、教師だったのだ。その影響はやはりいずれも教師だった両親に負うところが大きい。

「うちにはね、あたしがいつも小さい頃から、親の教え子が出入りしてたの。こっそり悩みを相談しにきたりとか、親とケンカして帰れない子とか」

そんな風に慕われる父母だったから、いつも夫婦で教育について熱心に語り合っていた。

「教師は、教室の中では絶対的な存在だ。だから、それに見合った重い責任がある。だからいつも自分を律して生きなくてはならない」ということをいつも言っていた。

それから「子供たちは教師を追い抜いていく存在だ。その才能の芽をつぶすような時間のすごさせ方を学校でしてはいけない」とも。

「ふーん。偉いご両親だね」

将は赤ワインで酔いが少し進んだ頭でぼんやりと聡の話を聞いていた。

シャンパンで少し頬が紅潮していた聡の顔。口紅はとうに剥げているはずなのに、バラ色の唇。つぶらな黒い瞳。細長い首。ナイフとフォークをあやつる白くて細い指、細い手首。ネイルアートなんかしなくても、十分に艶めいて魅力的な爪。

可愛い顔に反比例する低めの声は、「しっとり包み込む」って表現がぴったりだと思う。

こうやってずっと彼女と二人で向かい合っていたい……と将は願っていた。

「……はあるの?」
「は?」

ボーっとしていた。話を聞いている間に、皿は肉2品めの子羊に変わっていた。

「悩みとかあるの?」

聡がまっすぐに将のほうを見ている。

「ああ。いろいろ……いろいろあるよ」将は、肉を切って頬張った。
「もし、よかったら先生に相談して」

教育の話をしたあとだから、自分のことを思わず『先生』と呼ぶ聡。

「うん。……1つ相談があるんだ」
「何?」

思わず聡は身を乗り出すようにして聞いた。

将は食事の手をとめると、テーブルのうえに頬づえをついた。

「俺さ、好きな人がいるんだ。でもその人は、他の男に夢中みたいでさ……」

聡は、カトラリーをカタン、と皿の上に置いた。

「どうやったら、俺のほうを好きになってくれると思う?」

こんどは将のほうが聡をまっすぐに見る。多少充血しているが、射るような瞳である。

「好きだ」

聡のまわりの音がすべて止まった。

第14話 汐風の中で(2)

「……ここに寄ってみよっか」

将が唐突に言ったので、聡はなんのことかわからなかった。

「この歌の場所に」

CDはちょうど今の季節を歌った歌に移っていた。歌の中に出てくる港を見下ろす小高い公園、へ行ってみよう、と将は誘ったのだ。

「行ったことある?」
「ない」

「俺もない。いいじゃん、初めての場所に先生と初めてデート」

そこは、もろ、デートスポットだった。土曜日のせいか、人出も多く、その多くがカップルである。

しかし真昼のせいか淫靡なムードはまるっきりなく、明るい雰囲気で、将と聡も安心してそれらのカップルのうちの1組として溶け込むことができた。

「見えるねー、港が」
「ヨコハマって感じ」

無邪気に語らいながら二人は展望台に並んで立った。

港から吹いてくる風が聡の髪を揺らして、甘い香りと共に将の頬をくすぐる。柔らかく濃い栗色の髪だ。

「今、気がついた。先生、いつもと雰囲気違うね」
「そお?」

「うん。髪とか、スカートとか」

そういえば、聡がこんな風に髪を下ろしているのを、将は初めて見たのだった。

髪を下ろしてスカートを穿いた聡は、他のカップルのパートナーと比べても、とてもきれいに見えた。

女性としてはやや長身なうえにさらにヒールを履いているから、さらにスラリと小顔に見える。

固い色と柔らかい色とを大胆に配色し、センスよく着こなしている聡のまわりにはオーラさえ立ち込めているようだ。

化粧を少し変えているのが、また教師のときと違って色っぽい。

まわりの男性どころか女性までが羨望のまなざしをむけるのがわかる。もっとも実は、女性の羨望のまなざしは将に向けたものが半分なのだが。

ほとんど聡しか見えていない将には、その区別がつかなかった。

将は、これ以上、男の視線に聡を晒すこともないと思い、将は人の少なそうなほうへと歩き始めた。港への方向にあたる。

「先生って、いくつだっけ」

普通は女性にはそういうことは聞かないものよ、と注釈をつけながら、聡はもうすぐ26歳になる25と教えてくれた。

8歳違い、学年でいうと9年違うのか、と将はすばやく計算し一瞬落胆した。17歳から見たら25や26は大人もいいところである。

「見えないね。大学出たばっかりかと思った」

と将が答えたのは事実でもあるが、自分の年との差を縮めたい、将のせめてもの抵抗でもある。だから

「でも、そっちは大人っぽいよね。私、大学生っていうの信じてたもん」

という聡の言葉に一層希望を持った。

公園の奥へ進むにつれて、木立が増え、静かになってきた。

木陰のベンチでは昼間から堂々とくちづけを交わすカップルなどもいて、聡は目をそむけた。

将は気がついているんだろうか。

さらに進むと橋があった。このあたりには、奇跡的に人が誰もいなかった。橋の真ん中で聡は声をあげた。

「ほら、ベイブリッジが」

木々のむこう、目の前に青く霞むようにベイブリッジが見える。

「すごいね、穴場だね」将は一人ではしゃぐ聡の両肩をつかまえた。

そのままぐっと引き寄せる。せつなげな将の顔が、ベイブリッジを遮って聡の目の前に迫る。

どことなく懐かしい夏草のような匂いに聡はめまいがしそうになる。

「……もう一度引っぱたかれたい?」

聞こえてしまいそうなほどの鼓動を隠して、かろうじて聡は制止の台詞を、上の立場で口にした。その華奢な肩がふるえているのが将にもわかった。

将は微笑むと、と聡の肩においていた腕を自分の頭の後ろで伸ばしたり曲げたりしながら

「せっかくいいムードだったのにぃ~。アキラのバーカ」

と聡の香りを振り払うように背を向けて元来た道を歩き始めた。

再び車に乗って、海をめざす。

将はいつもの海をめざそうと思っていた。夕陽に間に合わせようと再び高速に乗る。

秋の日が落ちるは早い。地球との追いかけっこだ。

あいかわらず聡の好きな大御所のCDがBGMだ。

将も知ってる歌になり、運転しながら無意識にサビの部分を一緒に歌い出したときだ。

「ところで、この車って、自分の?」

それまで無口だった聡が急に口をきいた。

「そうだよ」将は歌うのをやめて答えた。

「……お父様に買ってもらったの?」
「自分で買ったんだよ。去年、株の儲けで」

「お父様は、……が車を乗り回してること知ってるの?」

さっきから聡は将のことを何て呼んでいいか無意識に迷っている。だから主語を誤魔化した。

「さぁ?」将は短く答えると歌を続けた。

大御所より1オクターブ低い声で軽く歌っているのが男っぽい。しかし聡はわざとその歌を遮って

「免許は?どうしたの?」と質問した。

将は合点がいった。この歌の歌詞を意識して、必死で阻止しているのだろう。

「プ……アッハハハ」

将は今度こそ本当に吹き出し、笑い始めた。笑いながら、聡のほうをわざとちらちら見ながら続ける。

♪君を抱いていいの 好きになってもいいの♪

案の定、聡は赤くなって目をそらした。

「担任をからかうんじゃないわ」とかろうじて呟いた。

 
高速道路を降りた。ようやく落ち着いて聡はもう一度質問した。

「で免許は?どうしたのよ」
「本当の山田さんにもらった」

「ウソばっか」
「本当だよ。去年東大に入った山田ってやつがいてさぁ……」

その山田某も国会議員の息子である。

その山田某は、高校生の頃、前に話題になったSというサークルの集団強姦事件に関わっていた。

かろうじて捜査網にはひっかからなかったが、将はそのことを知っていた。

早い話が、将は、その事件をネタに、学生証ごと山田から恐喝して免許証を手に入れたのである。

それをスキャンして写真を入れ替えて偽造したのが今持っている将の免許証と学生証だ。

「でも、もう本人にちゃんと返したし。これが本物のコピー」

将が取り出した、本物の免許には本物の山田某の写真が載っていた。顔は全然違うが骨格が似ていないこともない。

「山田本人はもっとちっちゃい。でも免許には身長のデータを書く欄なんてないし」

楽しげに免許証と学生証偽造の顛末を話す将を見て、やっぱり問題児だ、と聡はため息をついた。

そのときフロントガラスが金色の光に包まれ、聡はまぶしさに目を細めた。

目が慣れると目の前にはきらきらと輝く海が広がっていた。

「やった、海だ」思わず聡は叫んだ。

将は得意げに海岸線をさらに南へと車を走らせる。

将の横顔越しに見える9月の海には、さすがに泳いでいる人はいない。もう夕方だというのにサーファーが熱心にパドルをしているのが見える。

聡は実家の近くの日本海を思い出した。しかしここは太平洋だ。

「ね、降りてみたい」
「ここで?」

将はもっと先へ急ぐつもりだったが、この砂浜も悪くはない、と車を停めた。待ちきれないように聡は外に出る。

「わー、潮の匂い」聡は伸びをした。

風が、聡の髪とスカートを煽る。おかまいなしに、砂浜へ出てみる。ヒールの足がずぶずぶと入り込み歩きにくい。

ブーツを履いてきたのを死ぬほど後悔した。そろそろと波打ち際に近づこうとして、バランスをくずした。

「わわわ」

尻餅をつくように後ろに倒れる。

倒れた聡の下から「いて!」と声。

将が見事下敷きになっていた。将はいつのまにか聡に追いついていたらしい。

倒れた聡の顔のすぐ近くに灰色の砂がある。聡は将の上にのっかったまま砂を手に乗せた。

「あったかい……」

日差しで温まった砂は灰のような色だ。故郷の海のベージュの砂とは全然違う。

「もー、はやくどけよー、重いしー」

将は文句をいいながらも、柔らかい聡の重みはそんなに嫌じゃなかった。

「不良少年にお仕置きだよーん」といいつつ腰をどかしてあげた。
「そんなの、履いてるからだよー」

ヒールのブーツを指した。

「脱げよ」

意味はわかってるのに、聡はそんなセリフの1つ1つにドキッとしてしまう。

「ほらあ」

将は聡のブーツのジッパーに手をかけると、足から引っこ抜こうとした。

聡は、夕陽を眺めながら将にされるがままにしておいた。

力を込めるのにブーツはなかなか抜けない。……とスポッと抜けて、そのはずみで将はまた尻餅をついた。

「あはは……」

聡は指差して笑った。起き上がった将も、聡を指差して笑う。

「なんだよー、その靴下、ババくっせー」

聡はブーツの下に靴下を履いていたのだ。生足でブーツを履くのに抵抗があったから。

「いいじゃんっ!」

聡は自分でもう片方のブーツと靴下を脱いではだしになると、小走りに波打ち際に向かった。

「わ、ぬるい」

まだ9月だからなのか、今日一日晴れていたせいなのか、聡の裸足に寄せてきた波はそれほど冷たくなかった。

波が寄せたときは白く泡立った波がシャワシャワと聡の足首まで覆う。そしてひとしきり寄せると引いていく。

引いていく波は、下を見ているとそのまま波に連れて行かれそうになる。

そして足の下から砂がごっそりと持っていかれる感覚。

聡は久しぶりのその感覚を味わうかのように足元をじっと見つめて立っていた。

落ちる間際の夕陽の日差しが、聡の影を長く砂浜に映している。

そこへ。
バシャッ!

「キャッ」

将から海水攻撃だ。海水は聡の顔を直撃した。潮臭さが鼻にくる。

「イエーイ」全身を太陽と同じオレンジに染め、潮風に髪をぼさぼさにして将が無邪気に喜ぶ。すでに将自身もかなり濡れている。

「いやーん、びっしょり……やったわねー!」

聡は波うちぎわで反撃した。横から海水をすくうように将に向かって投げる。

交差する水しぶきが夕陽を反射して金色に光る。

よけながら、新たなる攻撃をしかけようとする将は、ジーンズを膝まで折り曲げていたが、すでにそれ以上の深さまで走りこんでいった。

「それっ」
「キャ」将が投げつけた何かが聡の顔にべちゃっとついた。何かの藻だ。

「へへへー!」夕陽を背に受けて将があっかんべーをする。
「もー許さないわよーっ!」

聡も藻を探そうとした。しかし、将よりは分別があるので、そうそう深みにはいけない。

――あった。

ちょっとだけ深いところに藻を見つけ、取ろうとして……本日二度目の転倒。

しかもちょうど寄せてきた波の中に。倒れた聡にようしゃなく波が打ちよせる。

「アキラ?」

急に視界から消えた聡。次の瞬間、引いた波の中にびしょぬれで聡が倒れているのを見つけた。

「大丈夫っ?」

あんまりあわてて助けに行こうとしたのか、聡のすぐ近くで、将も転倒した。

塩辛い海水。ずぶぬれで起き上がろうとした将の顔に、

バシャッ

聡の反撃。冷たく目に染みる海水をぬぐって目をあけると、すぐそばに聡が全身濡れ鼠で笑って立っていた。

髪の毛からしずくがトパーズのようにきらめいて滴っている。

夕映えの空の中で、濡れた服が体に張り付いて、体のラインのほぼそのままがシルエットになっている。

見とれる将の前で聡は、おもむろにスカートを前で絞った。ジャーっと海水が滴る。

それをみて二人はびしょぬれになりながら波打ち際で笑いあったのだった。

 
紅色、といえるほど赤くなった太陽は、水平線のすぐ上のもやの中に吸い込まれていった。

―――今日で100回め。

将は流木の上に聡と並んで座りながら、心の中でカウントした。

「寒くない?アキラ」
「ちょっと。でも平気。そっちは?」

「うん大丈夫」
「ヴィンテージがびしょぬれだね」

「関係ないよ」

9月の夕暮れに服のまま泳いだような二人。

車の中にどうにかあった1枚のタオルと聡のハンカチでおおかたの水分をとって、流木の上で夕陽を浴びながら、少しでも乾くのを待っていた。

いつのまにか、将は聡のことを「アキラ」と呼び捨てにしていたが、聡はあまり気にならなかった。

教師としては本当は咎めるべきなのだろうが、今日はこのままでいいや、と思う。

しかし、風は二人を乾かしながらも、急激に冷やしつつあった。空が黄昏るのを見届けていたら風邪をひいてしまうかもしれない。

「車に戻ろうか」将が聡を気遣った。
「でも、このまま座ったらシートが……」

「いいって。俺もだし」

結局、二人とも大して乾かず、潮臭いまま、ミニに乗り込んだ。

暖房を入れて、途中コンビニで顔を洗ってタオルを手に入れて、どうにか都心に戻る頃には見た目だけは乾いた。外はもう真っ暗だった。

「今日は楽しかった」信号待ちで聡は素直に心のままを口に出した。

すると将が

「何、シメてんだよ。まだまだ、だよ!」と聡のほうへ向き直った。

第13話 汐風の中で(1)

土曜日。午後の空はすでに金色の粒子を含んだような秋の色になっていた。

聡はローバーミニの助手席に乗っていた。運転席には楽しげにFMラジオにあわせて鼻歌の将。

ローバーミニの狭い車内は、二人の距離をとても近いものにしていた。

昨日。

自宅に帰りついてから聡は将に電話をかけた。

「先生?」

将は電話に出るなり聡を呼んだ。きっと番号を登録してあるのだろう。

「今日は残念だったね」
「フン……で、なんだよ」

「明日デートしてもいいよ」
「ウソっ!?マジ?……何で」

「前に助けてもらったのに、お礼もしてなかったでしょ。携帯も拾ってもらったし。それにテストすごい頑張ったし……」

電話を切って、聡は思わず、博史の写真を振り返った。細い目の笑顔はいつもと変わりがない。

「浮気じゃないよ。教え子のご褒美にちょっと付き合うだけだから、ね?」

と写真の博史に囁く。

このちくちくとした罪悪感は婚約者以外の男性と2人でデートするからであって、特別なものではない、と聡は思い込んで納得する。

しかし、高校生とのデートに何を着ていくべきなのか。

あんまり若作りするのも何だし。

あんまり気合を入れたと思われるのも何だし。

そうかといっていつも学校に着ていくようなスーツじゃあんまりだし。

鏡の前であれこれ合わせ。挙句、床に紙を敷いて靴まで合わせないと気が気じゃなくなる。聡は小一時間たっぷり悩んだ。

結局、聡は学校では着れないフェミナンな柔らかい生地の、柄もののスカートに黒いノースリーブのカットソーとデザインジャケット、それに少し早めではあるがブーツをあわせることにした。

黒は流行を問わず、聡の好む色だ。肌の色が引き立って大人っぽく見える上に、スタイルのよさを引き立てることを知っている。

これなら少し年上の雰囲気もあって、ブーツで可愛さもあるし、いいだろう。

聡は髪に艶出しのヘアオイルをいつもより多めに塗った。

家まで迎えに来るというので、待っていると時間に、合図どおりワンギリコール。

外に出ると将はローバーミニの横から手を振っていたのだ。

「た、鷹枝くんっ、あなた無免許」聡は階段を降りて駆け寄る。

「先生、ここ、駐禁だから早く乗って」

サングラスをかけた将は、聡を強引に助手席に座らせてアクセルを踏んだ。

「どこいこうか?」

将はのんびりと運転している。そのサングラスをかけた横顔はとても高校生には見えない。高く鋭い鼻梁に、整った形の良い唇。聡は一瞬見惚れてしまった。

長い足を包んでいるのはジーンズ、たぶん高価なヴィンテージものだろう。そこらの不良少年のように「腰パン」などにしていない。

「ちょっと、鷹枝くん、無免許でしょ」
「免許?もってるから心配しないで。ほら」

よこした免許は写真だけ将にすり替わっていて、他は山田某名義になっている。

「これは山田のでしょーっ!先生に運転代わりなさい!」
「え、先生免許持ってるの?」

一応持っている。もっとも高校を卒業した春休みに取得して以来、ほとんど運転してないが……。でも無免許の教え子に運転させてたことがバレたらそれこそ一大事だ。

将はしぶしぶ、道路わきに車を止めた。

聡は覚悟を決めて、運転席に座った。

――え、うそ。マニュアル車?

いちおう聡の免許はマニュアルも運転できるものだが、本当に教習所以来運転していない。アメリカで少々運転したのは、すべてAT車だった。

「ちょっとクラッチ固めだから」助手席に移った将がアドバイスする。

なんとかなるさ、と再度覚悟を決めてクラッチをおそるおそる踏みつつアクセルを踏む。

前に進まない。

――なんで?

「先生、ハンドブレーキ、ハンドブレーキ」
「あ、そうか」

ハンドブレーキ解除。よし。クラッチとアクセルをゆっくり……。

「危ねえっ!」振り返っていた将の緊迫した声。

「ええっ?キャ!」

とたん、運転席の窓ギリギリを原付バイクが走り抜けていった。

車を出していたら接触したかもしれない。聡は胸が痛くなるほどドキドキした。

「ちゃんと後ろ確認して」思わず将の声が少し鋭くなる。

今度は確認した。聡は再度クラッチとアクセルを踏んだ。

ガクッと車がのめった。お決まりのエンスト。

「……やっぱり俺が運転するよ」

「で、どこに行こうか」

落ち込む聡だったが将は別段気にする様子もない。

「水族館、遊園地、動物園、映画、海……デートっていったらこのへん?」

聡は思わず博史とのデートを思い出していた。博史が帰国したときに一緒にいくところ、といったら、ホテ……。

――バカ、そればっかじゃないでしょ!

聡は照れ隠しに窓の外に顔をむけた。それは将にはそっぽを向いたように見えた。

窓の外に聡は博史との思い出を投影していた。

お盆に行ったのが温泉。聡は一人頬を染める。前には和食、映画、美術館、歌舞伎、買い物に行っている。

ひとつひとつに博史の思い出がまとわりついている。

外国に赴任している博史は、帰国すると『日本』にどっぷり浸かろうとする。

今年一緒に行った温泉宿でも、浴衣に檜風呂、冷酒にうっとりしていたっけ。

竹林にひらけた縁側、浴衣姿で同じく浴衣姿の博史に膝枕を与えて、和紙の団扇で風を送った今年の夏。

竹林がさわさわと風の訪れを告げ、風鈴が儚げな音色をたてた……。

「どうするよー」将の声で窓の外は竹林から殺風景な国道沿線に戻った。

夏の回想を振り払うように将の提案を検討してみた。

水族館は行ったことがある。

遊園地、これはネズミのキャラクターで有名なあそこに行った。

動物園、行った。海。

――そういえば、今年の夏は海にいかなかったな。

聡の実家は山口県萩市。あのあたりは透明度で有名な海岸線が続いている。聡は子供の頃、よく泳ぎにいったものだ。

「じゃ、とりあえず、海にむかってドライブしよっか」

将が、聡の心を読んだように言った。でも、本当の恋人同士でもないのに、単に海を見に行くなんて、間が持つんだろうか。

海へ行く、といったがまだまだ道のりは遠い。車はようやく高速道路の南下をはじめたばかりだ。

「音楽どんなの聴く?」

好きな音楽が終わったのか、将はラジオのチャンネルを切り替えながら聡に訊いた。

「え、別に普通の……」

音楽に関しては、流行りにまったく疎い聡は、若くていかにも洒落者っぽい将に普段自分が聞く音楽を言う自信がない。

「……が好きだろ?」

将が、あるJポップアーチストの名前を挙げた。少年のような声がずっと変わらない大御所である。

「なんで知ってるの?」
「CDが部屋にあったから」

「! 勝手に引き出しを開けたのね!」

めったにCDを聞かない聡はそれを引き出しにしまいこんでいたはずだ。

「いいじゃん、別に下着盗んだわけじゃなし」

将は笑う。「んもう!」膨れる聡に

「俺のおふくろも好きだったよ。といっても……の頃だけど」

といってそのアーチストが昔所属していたグループ名を言った。

「へえ……、あのお母様が」

聡は校長室に苦情を言いにきた和服姿の将の母親を思い浮かべた。流行歌などまったく聞きそうにない雰囲気だったと思う。

「いや、俺の本当のおふくろの方。こないだ学校に来たのはママハハ」
「……そうなんだ」

まずいことを聞いてしまったと思った。問題児といわれる将がそうなるには、きっと家庭の問題があったのに違いない。

しかし、担任教師としての使命感なのか、単なる好奇心なのか、聡は質問をやめることができない。

「本当のお母様は……?」
「小1のときに死んだ。病気で」

将は淡々と答えながらCDをセットした。

「……ごめん」

今度こそマジでまずいことを聞いてしまったと聡は後悔した。ハンドルを握る横顔はサングラスでその表情が隠されてしまっている。

小1といえば、将の父が選挙に出た、といっていたのも小1だ。父の立候補、母の死、さまざまな出来事がまだ小さい将をゆがめたのかもしれない。ゆがめた? 横にいる将はゆがんでいる人間には、あまり見えない。聡が知る限り、将は明るくて快活な普通の17歳だ。

カーオーディオからは聡が好きな歌声が流れ始めた。

「これ、俺も好きなほうだよ」

聡はその声に救われた。

「あんたみたいな若い子が意外ね」

あんた言うな。と将は笑った。CDの中で大御所が『また来る 哀しみは 超えてゆくもの』と歌っていた。

それは二人の遥かな未来を暗示していた。

哀しみの到来も、そのまえの嵐も、きらめきも、まだかすかな予感にすぎなかった。