第205話 昼休みの逢瀬

視聴覚準備室のドアがコン、コン、と鳴った。

「アキラぁ……」

細く開いたドアの隙間から将の笑顔がのぞいて、思わず聡は準備デスクから立ち上がる。

昼休みになっていた。

「焼きそばパン、売り切れ直前だったー」

将は得意げに購買で買ったパンの袋を聡に見せる。

「午後からモデルやるのに、焼きそばパンなんか食べちゃっていいの。青のりついちゃうんじゃない」

と聡が茶化す。

「焼きそばだけじゃないもん。ほら。鶏めしのおにぎり。アキラ好きでしょ」

「大好き。ゴボウの香りがいいんだよねー」

目を輝かす聡を将は嬉しげに眺めた。

今日は、午後から雑誌のモデルの仕事のために学校を早退しなくてはならない将である。

午前中に英語の授業もないので、将は武藤が迎えにくる12時30分までの短い昼休みに聡と二人の時間を過ごそうと、こっそり休み時間にメールを送っておいたのだ。

カーテンをすっかりあけた視聴覚準備室には、晩春の陽射しが満ちて、半年前、聡がここで暴行されそうになった面影はほとんどない。

いや、その記憶も。

聡にとっては、『将に助けられた』という嬉しい部分が強調されている。

二人は静けさだけが寄り添う思い出の部屋で、購買のパンと鶏めしのおにぎり、紙パックのジュースでちょっとしたピクニック気分を二人は味わった。

「……でさ、奄美ユリに土人、とか言われてさ。アキラ、俺そんなに色黒かなあ」

「そうねえ。間違っても色白、とは言えないわね」

陽射しを背にして聡の笑顔の頬は、産毛が輝いて輪郭が光っているように見えて、思わず将は見とれる。

「チェー。俺、幼稚園ぐらいの頃はすっごく色白だったのに。フランス人に負けないぐらい」

「いつ、黒くなったの?」

「んー。ヒージーんちに預けられたぐらいかなあ。毎日パンツ一丁で遊びまわってたからなあ」

聡は、そんな浅黒い将が魅力的だと思う。笑うと白い歯がこぼれて、あどけなくなるのがいい。

目を細めるのと見開くので別人のように顔が変わるのも好き。

聡は聡で将をいとおしげに見つめる……。

たわいもない話をしているうちに、もう将の携帯が鳴ってしまった。

「ハイ。ハイ。わかった。ちょっとメシ食ってるから、待ってて」

武藤からの電話をさもうるさそうにあしらって、将は切った携帯に文句を言う。

「チェー。まだ12時25分じゃんよ」

「迎えが来たんでしょ。行きなさい」

聡はパンの入っていた袋や鶏めしのパックをくしゃっと丸めながら将を促す。

「仕事なんだから、頑張ってね」と分別臭くいう聡が、将にはちょっと恨めしい。

そんなところは、一夜を共にする前とあまり変わらない。

立ち上がった聡は、同じように立ち上がった将の顔を見あげて「あ」と目を少し見開いた。

次に自らの歯をむき出して指差す。

「青のり。ついてる」

「ホント?……どこ」

将も歯をむき出して、前歯のあたりを手探りで触る。

「とれた?」

「とれてない」

「じゃあ、取って」

将はそういうと、ふいに聡の唇に自分の唇を押し付けた。

どちらからともなく、ほんのりとソースの味が漂うキス。聡の舌が、前歯を撫でていく。

キスしてないのは1日やそこらなのに、そんな感覚がたまらない。

もっと酔いたい将なのに、聡は素早く唇を離した。

「取れたよ。ホラ、早くいかないと」

「チェー。アキラ、メールくれよ」

「わかった……。あたし化粧直しするから。先行って」

将はキスの余韻を味わう間もなく、武藤が待つ校門方面へ向かった。

 
 

武藤はボーっと待っているのも何なので、『メシ食ってるから待ってて』といった将を探すべく、学食に顔を出した。

しかし、そこに将はいなかった。

1学年2クラスずつの小さな学校にも関わらず、学食は結構ゆとりがあった。

メニューは貧弱なようだが、生徒と教師が入り混じってゆったりと寛いでいる。

うどんをすする男子生徒と、持ってきたお弁当を食べる女子のカップルがいたりする。

それを見て……武藤は、ふと、知りたいことが浮かんできた。

将の付き合っている彼女、とは誰なんだろう。

武藤は今までの将の言動から、将の彼女が学校にいるというところまでわかっていた。

通りかかった3年のバッジを付けた女子生徒に声を掛ける。

「あの……鷹枝くんって知ってる?」

「知ってるよ。2組のめっちゃ背ェ高い。mon-moに出てた」

「あ、そう。2組なんだ」

その女子生徒は1組だったので、武藤は2組の生徒を探した。

食後のデザートなのか、購買で買ったヨーグルトを手に持った女子生徒二人組に声を掛ける。

二人とも茶髪に濃い化粧、ミニスカートといかにもギャル風だ。

「あなたたち3年2組の生徒さん?」

「うん。そうだよ」

背の小さい方が敬語も使わずにアニメ声で答えた。

明るい茶色の髪にドロップのような飾りのついたヘアピンが刺さっている。

「あのね。ちょっと訊きたいんだけど……鷹枝くんの付き合っているコってどんなコ?」

武藤は、無意識に声をひそめて訊いた。

それに頓着もしないように、女子生徒は甲高い声をあげた。

「ああー、アキラ先生のこと?めちゃくちゃスタイルがよくて、カワイイよ」

すかさず、隣にいた背の高いサーファーヘアの女子が、

「よしなよ、チャミ」

とたしなめたので、チャミと呼ばれたほうは『しまった』という顔で口に手をあてた。

「すいませーん。あたしたち行かなくちゃ」

と口々に言いながら、逃げるように二人で走り去ってしまった。

しかし、武藤はたしかに『アキラ先生』という単語を聞き逃さなかった。

そこへ、眼鏡を掛けたスラリとした女子生徒が再び購買から出てきた。

やはり3年2組のバッジを付けている。

「あの」

武藤は再び声をかけた。

「何でしょうか?」

今度の女子生徒は、黒いままの髪を2つにわけて結んでいる。

そんな真面目な雰囲気のせいか、きちんと丁寧語を使うことができた。

だがあまり歓迎していないようすが、笑顔のない顔から読み取れた。

「アキラ先生って、何の先生?」

質問を聞いて、女子生徒の眼鏡の奥の整った顔が、あきらかに曇った。

だが、それでも、訊かれたことにきちんと答える礼儀正しさはあった。

「英語です。私のクラスの担任ですけれど」

「そう……。ありがとう」

星野みな子は無言で、武藤に会釈をして立ち去った。

そこへ、ようやく将が現れた。

「武藤さーん!ごめんね、待たせちゃって」

と息をはずませている。

武藤はその将の唇についている、あるものに気付いた。

ほんのわずかに……口紅が付いているのだ。

「いいのよ。ちょっと、先生がたに挨拶していこうと思って。将、悪いけど車に先に乗ってて」

と武藤は将にキーを渡した。

 
 

将の芸能界での活躍は、学校の宣伝になるということで、校長室に通された武藤は、歓迎された。

校長も教頭も、将の芸能活動と高校の単位取得が両立できるように協力すると約束してくれた。

考えてみれば、この学校のポイントシステムは、芸能活動には打ってつけであるといえる。

「失礼します」

そのとき校長室の重い木の扉が開いて、一人の若い女が現れた。

やや長身に地味なスーツを身につけているが、桃のような愛らしさが漂う女だ。

芸能人を見慣れている武藤は素早く女の器量を値踏みした。

「ああ、紹介しましょう。こちらが、鷹枝将の担任の古城先生です。……古城先生、鷹枝くんのマネージャーの武藤さん」

「よろしくお願いします」

聡はぺこりと頭を下げた。

「こちらこそ、よろしくお願いいたします」

そして……武藤は聡の顔を一瞥しただけで、聡が付け直した口紅の色と、将の唇にわずかに付着していた色が同じであることに気付いていた。

そして……この、目の前にいる、柔らかい雰囲気の教師が、将の恋人なのだ、と判ってしまった。

――まずい。

武藤は、聡へと深々と下げたその怜悧な頭の中身を素早く回転させていた。

将に彼女がいるのはいい。一般人との恋愛ならそれほど問題にしないのが事務所の方針だ。

だが、自分の担任と付き合っているのは……十分にスキャンダルの危険性がある。

そう結論付けると、さっそく対策を考え始めた……。

第204話 アドリブ(2)

台本読みは無事終わった。

「どう?将くん」

と将に近寄ってきたPに

「初めてっていうけど、本当に勘がいいわ!とってもイケメンだし先が楽しみね」

と割り込むように絶賛したのは、奄美ユリだ。台本読みが始まる前と正反対の態度に将は唖然とした。

土人って言ったのはどこのどいつだ、と、皮肉が頭の片隅をちら、とかすめるが、それは口に出さず、将は笑顔で頭を下げた。

「ユリちゃんのお墨付きをもらえれば、鬼に金棒だよ」

Pも恵比須顔だ。

「あさってからも頑張りましょうね!将くん」

ちなみにあさってはリハーサルだ。

「ハイ」

ユリは、極上の笑顔で微笑むと立ち上がって将に手を振った。

何もかも許したくなるオーラに、将はやっぱり大女優なんだな、と感心した。

「すごい、将。奄美ユリに気に入られるなんて」

衣装合わせも終わって、事務所に戻る帰りの車の中で武藤は感嘆した。

「あれって気に入られてるの?最初、土人とか言われたしぃ」

将は気疲れして後部座席にもたれている。

「奄美ユリの好みは野性的なタイプよ。今付き合っているロックシンガーのKさんなんてまさにそういうタイプじゃない。

身長が高くて足が長いところも将と似ているわ。……だからといって将、誘惑に乗るんじゃないわよ」

「だーれが。あのひと、もう30代だろ」

と将は悪態をつきながらも、内心、奄美ユリに誘惑されたらそれはそれでちょっと嬉しい、と思った。

だけど自分には聡がいるから、誘惑に乗るつもりは毛頭ないけれど。

武藤は「冗談よ」と笑って

「まあ、奄美ユリは、気分屋だけど、裏表のないさっぱりした性格で有名よ。

誘惑するならハッキリ言われると思うし、たぶん年下の男は子分にしたいだけだと思うわ」

「ええー。今日のあのイジメがさっぱりした性格?」

将は顔をしかめた。前半の、あのねちねちとした、役名間違いのどこがさっぱりとした性格なのだろう、と思う。

「彼女、T歌劇団の出身だから芸には人一倍厳しい人でね。それで実力派と言われているんだけど、

たぶん今回の配役交代のことで何か誤解したんじゃないかしら……。まあ許してあげなさいよ」

「ふーん。別にいいけどぉ」

もともと将は口で言っているほど気にしてはいない。

「それにしても……T歌劇団出身の奄美さんに褒められるなんて、やったじゃない。彼女はお世辞を言わないことでも有名なのよ!」

と武藤は思い出したように振り返った。

 
 

台本読みが終わっても将は解放されなかった。

こんどはリハーサルに向けて、事務所で演技の猛練習があった。

しかし、台本読みのときと違って、一度、プロの俳優たちの演技をまのあたりにした将はふっきれたように照れを捨てて、自分の役を表現できるようになっていた。

「飲み込みがいいよ。それと人に訴える目力は逸品だね。トシのわりに表情も豊かだよ」

指導にあたった演出家も褒めるしかなかった。

演技力はそこそこ認められたものの、発声練習には骨が折れた。

特に「滑舌」をよくするための発声練習は本当に疲れた。

「将くんはもともと声質が低いから、より明瞭にしゃべらないと、何しゃべってるか視聴者に聞こえないよ」

と注意される。

将は一生懸命ハッキリしゃべっているつもりなのに、それでも「不明瞭だ」と指摘される。

「だけど、その声の低さが、女性にはウケると思う。特に、年とってから。日本の俳優は声が甲高い人が多いから。……だから頑張ろう」

頑張ろうと言われても。もともと将は何のために頑張っているのか、わからない。

とりあえず、やれ、と言われるからやっている。

だんだん舌がだるくなって、ろれつが回らなくなる直前に、ようやくレッスンが終了して将は解放された。

来た時同様、武藤がマンションまで送ってくれた。

「明日は、午後から『メンズmon-mo』の撮影だから。学校には早退届を出しておくから。校門に12時30分に迎えにいくからね」

そういって武藤は夜の中走り去っていった。もう時計は23時を指していた。

将は長い一日を思って、深いため息をついた。

 
 

「遅かったな」

ソファに寝転んでテレビを見ていた大悟が、帰ってきた将を見つけて声をかけた。

お互い、マンションで出会うのはあの頭突きの金曜日以来だ。

まだ、ジーンズを穿いているところを見ると、今帰ってきたところらしい。

サイドテーブルの上に缶ビールが置いてある。

「ああ。バイトでな」

将はややロレツが回らないまま答える。しゃべりすぎて舌がだるい。

そして自分も冷蔵庫からビールを取り出して、リップに手をかけた。

プシュっという音がとてつもなくいい音に思える自分は、やっぱりすごく疲れているのだろう。

それきり言葉もなくテレビを見入る大悟は、少し疲れているようだった。

「お前さ……。昨日どこ行ってたの?」

将は一人がけのソファのほうに腰を下ろして、ビールを飲みながら大悟に昨日の泊まりについて訊く。

「いや、バイトとか」

大悟はソファから身を起こすことなく、テレビから目を離すことなく、答えた。

「偽シャブ売りの?」

疲れていた将、単刀直入に訊いてしまって、しまった、と少し思った。

「偽シャブだって?」

大悟はその黒い瞳をぐるりと将の方へ動かした。

「井口から聞いたんだ。お前、また偽シャブ売り始めたんだろ」

引っ込みがつかなくなった将、井口に訊いたことを前面に出すことにしてビールをあおった。

「……」

大悟は一瞬将の顔を見つめたが、将がビールをあおっているのを見て、再び視線をテレビに戻した。

だから、将は無言の大悟にしびれをきらしたように再び話すしかない。

「あれサ……バレたらヤバくない?小学生相手ってわけでもないんだろうしさ。……まさか本物ってことないよな」

できるだけ、角が立たないように、冗談めかす。

将の、できる限りの丸腰の口調が大悟に届いたのか、大悟はテレビから目を離すことなく話し始めた。

「脱法は本物。……瑞樹の遺品に入ってたのを売りさばいた」

「えっ」

「もう全部売り払ったよ」

瑞樹の遺品と聞いて、将は一瞬、あの最悪の薬……つまり覚醒剤のことを思い浮かべた。

が、脱法ドラッグと聞いて、また、すべて売り払ったと聞いて少しホッとした。

それでも、悪いことには変わりないが。

「そっか。……もう、そういうことすんなよ。いいトシなんだしさ」

と将は言いながらも、我ながらうそ臭いほど説教臭いなと、言葉を引っ込めたくなる。それを切り替えるように

「ところでサ、三宅さんから連絡あった?」

と訊いてみる。

三宅弁護士の名前に大悟が再び、その黒い瞳をテレビからこちらに向ける。

「いや。俺も、さっき帰ってきたばっかだから。三宅さんがどうしたの?」

「や……あのさー」

将は、大悟の鋭い視線に、少し躊躇する。

前かがみになってビールの缶をいじりながら、意を決して話す。

「保護者がいなくて、お前がいろいろ困ってるって聞いたからさあ……」

と前置きをしつつ将は、巌の運転手・西嶋の弟が、大悟の保護者になってくれるという件を伝えた。

「西嶋さんは俺も小さい頃から知ってるけど、すっごくいい人だし……。

弟さんも小さな町工場を経営していて、特許付きのすごい技術を持ってるんだって。

だから潰れる心配はないから……大悟の金を使い込むとかそういうのは心配しなくていいし」

その口調からも、将は大悟に払われる金のことも、またそれが親戚に使い果たされていることも知っていそうだった。

なんで将が、それを知っているのか、と大悟はけげんに思ったが、悪い話ではないので、とりあえず

「悪いな。いろいろ面倒をかけて」

と言っておいた。将は大悟の言葉に安心したのか、

「これで、金のことで困らなくて済むじゃん。怪しい薬を売らなくてもいいし」

と背もたれに寄りかかった。

「それにさ……大悟が希望すれば、だけど養子縁組だってしてくれるらしいよ」

それには大悟は返事をしなかった。

「な、いい話だろ。いきたけりゃー学校だって行けるし。うまくいけば社長を継げるかも」

将は、大悟の沈黙には気付かず、明るい調子で続けた。

「ああ……そうだな」

ようやく大悟は言葉を返した。

しかし返事をしながらも、ひどい屈辱を感じているのは否めない。

将は……最初から、金で大悟の人生を買ったのだろうか。

殺人犯という汚名に穢れない……人生を。

そして、自分は無垢な人生を、将に売り渡してしまったのだろうか。

「俺、先に風呂に入っていい?」

将は、大悟が感じている屈辱にまるで気付かないらしく、凝ったらしい首をカクカクと左右に動かしながら訊いてきた。

「いいよ」

大悟はできるだけの笑顔をつくった。

そして

「将」

と呼びかける。

「んー?」

バスルームへ歩く将は伸びをしながら振り返った。健やかに伸びきったその腕はもう少しで天井に届きそうに見える。

「ありがとうな」

「そんな、改まるなよ。照れちゃう~ん」

とふざけながら将は白い歯の笑顔でバスルームに消えた。

リビングに一人残された大悟を、ふたたび屈辱が包んだ。

養子縁組だって。

誰が、そんなもの。

と唇を噛み締める。

本当は……大悟はとうの昔に実の父などあてにしていなかった。

かといって誰かの養子になるなんて、想像もつかない。

という以上に、将にそんな情けを掛けられる自分がみじめだった。

将の罪を被ったことを、金で清算することに甘んじる自分が情けなかった。

本当は、将が見つけてきた保護者だって頼りたくない。

食い扶持が、部屋代が、学校が、月なにがしかの小遣いが何なんだろう。

と一旦は思った大悟だが、やはりそれは大きかった。

いま、大悟の手の中には、脱法ドラッグを売った万札が少しばかりある。

だが……将の罪を被った金に一切頼らないなら、一生暗闇の中ですごさなくてはならない。

大悟の真っ暗な脳裏に、白い粉が舞い散る。

まだ……瑞樹が残した、あの白い粉薬のほうには手をつけていない。

だけど、あれを売るとなると……暗闇に生き、おそらく暗闇に死んでいったであろう父親の二の舞だ。

しかし……それもいいような気がしている自分を、大悟はあわてて揉み潰した。

第203話 アドリブ(1)

8時きっかりに武藤からのモーニングコールが鳴った。

いつもなら起きている時間なのに、昨日の疲れ……こと精神的疲労が大きい……からかぐっすり寝込んでいた将は、

「ハイ……今起きました」

と返事をして電話を切ると、また倒れこんだ。

それを見越してか、20分後にもう一度鳴った。

「将!二度寝したでしょう!」

電話の向こうで武藤が怒鳴る。

「ほぇ……おきてましたよぉ。おきましたってばー」

見透かされた将は、携帯を握り締めたまま、欠伸をすると、そのまま大きく伸びをした。

頭が半分眠っているせいか幸い、巌の全身麻痺のことなどは思い出さずに済んでいる将だが、なんとなく気乗りがしない。

学校だったら、何があっても頑張って毎朝起きるのだが……。聡がいるから。

ボリボリと腹をかきながら、大悟の部屋をのぞいた。

昨日、結局、将が起きている時間に大悟は帰ってこなかったのだ。

「いねえじゃん……なんだよ」

大悟は今朝はどっかに泊まってきたようだ。それとも夜勤か?

瑞樹がまだいたころ、時給がいいからと、大悟はよく夜勤に行っていた。

立ち直って夜勤に行ったのならそれはそれでいい。

あまり時間のない将は、深く考えないようにして、シャワーを浴びて支度をした。

9時に下に降りると、すでに武藤が車で迎えに来ていた。

「おはよう。朝ごはん食べてないでしょ。食べなさい」

と紙袋を後部座席の将に投げるように渡して、運転に戻る。

ラップに包まれたサンドイッチが入っていた。

「武藤さんの手作り?」

「そうよ。嫌だったら食べなくていいわよ。かわりにコンビニに寄るから」

「食べます、食べます。超うまそー」

それはトーストしたパンに焼いたベーコン、レタス、キュウリ、卵などが入っている具沢山で、まだ作りたてらしく、いかにも旨そうだった。

「調子いいわね。もう」

といいながらもバックミラーに映るクールな顔はちょっと嬉しそうだった。

「今日は、10時30分に局入り。わかってると思うけど、局で会う人には、皆愛想よくね。

まあ、アナタは初対面の人には礼儀が正しいみたいだからそこは心配してないけど……。そして台本(ほん)読み、それと衣装あわせ」

武藤は行き先から顔をそらさずに今日の予定を暗誦する。

「ホント、これ旨いよ。わぁ♪バナナサンドもある♪」

「ちょっと、聞いてるー?」

「わかってるって。ところでさ、なんで10時半局入りなのに、こんなに早く出かけてんの?まだ1時間あるじゃん」

将は、デザート代わりにバナナサンドをぱくつきながら訊いた。

はちみつとチョコレートスプレッドの甘さが朝にはいい。コーヒーもポットに淹れてある気の利きようだ。

「もちろん、昨日のおさらいを事務所でしていくに決まってるでしょ」

「ゲロゲロ」

将はバナナサンドを取り落としそうになった。

「ベテラン俳優さんと顔をあわせるんだから当然でしょ。今日は主演の奄美ユリも来るんだからしっかりしないとね」

「まじ!奄美ユリ!『魔女の教室』の!」

『ばくせん』同様、高視聴率を叩き出した人気ドラマである。

「そうよ。だから昨日みたいに笑い出したりしないようにね!」

「わー、緊張してきた。どうしようオレ」

といいつつ、リラックスしている将を、武藤はわかっていた。

武藤が用意したサンドイッチを全部平らげたところからもそれは明快だ。

「ところで将」

武藤は信号待ちを選んで意味深に振り返った。

「オフレコだけど、奄美さん、ロックシンガーの彼ともめてるらしいわ。すっごく機嫌が悪いかもしれない。多少イジられるかもしれないけど、我慢するのよ」

「えー、何だよ、イジられるって」

シートに寄りかかっていた将は、思わず身を起こした。

「大丈夫よ。あなただったら、たぶん。あ、このことは誰にも話しちゃだめよ。話したら出所はアナタだって丸わかりだからね」

それだけ言うと、武藤は車を発進させた。

 
 

「おはようございます」

――これが芸能界特有の『おはようございます』か。

と将は感心しながら、武藤のあとについて自らも「おはようございます」と頭を下げた。

それにしても……皆が、自分に注目している気がする。気のせいだろうか。

「おはよう!将くん!」

将をゴリ押ししたプロデューサーが、ひときわ大きな声をかけて、にこにこ歩いてきた。

「おはようございます。今日はよろしくお願いします」

武藤がぺこぺこと頭を下げる。

「いや、期待してますからね」

とPは将の肩をぽんと叩くと、台本よみの部屋に案内した。

窓のない部屋に細長い会議机が、口の字型にくっつけてあった。

まだ、誰も出演者は来ていないらしく、そこに座る者はいない。

「将くんは、ゲストだからここ。座ってていいよ」

とADに言われ、将はおずおずと席に座った。もっと端がいいのに、なぜか真ん中だった。

武藤とPはどこかに行ってしまい、将はやることもないので、台本を取り出して眺めていた。

そのとき、遠くの方から波が押し寄せてくるように『おはようございます』の声が次々に重なった。廊下のほうだった。

将は何事かと入り口を見た。

そこには、ちょうどジーンズ姿で眼鏡をかけた奄美ユリが入ってきたところだった。付き人を一人だけ従えている。

皆が、ぺこぺこと挨拶をする。将も思わず立ち上がった。

テレビで見るより、ユリがずっと小さいのに将は驚いた。

だけどほとんど無化粧、髪を1つにまとめているラフな姿なのに、後光が射すかのようなオーラが立ち込めている。

ユリは眼鏡の中から『あら』という顔で将を見た。

「こんにちは。このたびはお世話になります。将といいます」

将は、ユリに頭を下げた。

「あら……優ちゃんじゃないの?今日のゲスト」

ユリは、将の挨拶に返事もしないで、スタッフに訊いた。

スタッフは

「いや、それが……」

とユリに耳打ちした。

「ふーん。残念。あたし、優ちゃんを焼肉に連れてってあげる約束してたのになあ」

とユリは将にも聞こえるように言った。

どうやら、ユリは将の前に、この役をやることになっていた宮沢優と知り合いだったようだ。

「それに、ずいぶんおっきいコね。身長いくつ?」

とユリは横目で将を見上げた。

「185です」

将は、どういう顔をしていいのかわからなかったが、とりあえず、訊かれたことには素直に答えた。

「ヤダァ。優ちゃんより12センチも高いじゃなーい。やりにくぅい」

思わず将がムッとしそうになったそのとき、やっとPが飛んできた。

「ユリちゃーん、ごめんねー」

「ちょっと□□さん、聞いてなぁい」

一生懸命Pが奄美ユリの機嫌を取っているのを見て、将はあっけに取られた。

武藤が寄ってきて囁く。

「さっそくやられた?」

「ハァ」

「我慢するのよ」

武藤はファイト、と拳をつくって後ろに下がっていった。

「ハァ」

将はただ呆然としていた。奄美ユリといえば、視聴率女王といわれる人気女優である。

性格もさっぱりとして爽やかとされているが……今日、将がまのあたりにしている奄美ユリはまるでそんな世評とは別人のようだ。

「ねえ、将くん」

将は思わず椅子に座ったまま、のけぞりそうになった。

いつのまにか隣の席にユリが座っていたからだ。どうやら主役は将の隣のようだ。

さっきスタッフやPと話していたのより1オクターブも低い声、おまけにぶっきらぼうな話し方だ。

「あんた、いくつ?」

「18です」

「なーんだ、未成年かー。もっと年いってんのかと思った。……ハッキリいって老けてるね」

勝手なことをいいながら、ユリは、煙草を取り出すとカルチェのライターで火をつける。

――う。

禁煙している将は思わず、咳き込みそうになるのをこらえる。

――健康派というのもウソかぁ。

にしては。紫煙の奥の肌は、36歳にしてはツヤツヤで、聡とそれほど変わりがないように見えたほどだ。

「ユリちゃーん、禁煙だよう」

Pがまるで幼稚園児に語りかけるような声で注意する。

「待ち時間だけ。いいでしょ~。どーせ後ろに空気清浄機あるでしょ」

甘い声でねだられて、禁煙はうやむやになる。

「いままで、どんなドラマに出てるのー?」

紫煙を将の顔に吹きかけながらも、ユリはさっきとは打って変わって、低い声ながら親切そうに訊いて来た。

「初めてです」

「へえ!初めて。Dプロ期待の新人ってわけね、ヒュー」

と、一見褒め言葉をかけながら、茶化しているのは一目瞭然だ。

「色、土人みたく黒いね。表情出にくいんじゃないかなあ。あ、サーファーとか?」

「いえ」

「ふーん、そう。ま、なんにせよ、美白したほうがいいね。お肌はキレイだけど黒光りしてるんじゃない」

ユリは一人でふふふんと笑った。

「ハァ」

……と将は無難に相槌を打ったが、土人のように黒い、などと人から言われたのは初めてだ。

そりゃ、昨年は連日、海辺に夕陽を見に行っていたから、多少浅黒くはあるが、それも一冬越したせいで褪めている。

バカにされてるのか、親切なのかよくわからない。

しかし、将はそんな態度よりむしろ、煙草の煙のほうにうんざりしていた。

 
 

まもなく出演者が揃って台本(ほん)よみが始まった。

最初に、脚本の訂正事項が読み上げられる。

将の役名変更もそのときにみんなに宣言された。

「みなさーん。今回のゲストの役名が、尾崎優から尾崎将に変わりましたから、書き直してください」

ちなみに出演者が全員ここにいるわけでなく、スケジュールがあわない何人かは代役になっている。

その代役にはADや製作会社の人が座っている。ユリの恋人役も今日は代役だ。

それでも。台本よみが始まって将は驚いた。

動作は入らないものの、声だけですでにドラマさながらの演技なのである。

代役の人も、慣れているのか、役にはまりきっている。

将はだんだん動悸がしてきた。いよいよ将の番だ。

『あなたの弁護を担当する大岡政子です。よろしくね』

隣のユリもさっきの嫌味女からはまるで違う女に変貌していた。

声も、低いながらも、さっきのぶっきらぼうな調子とは全然違う。

知的で親身な女弁護士が隣に座っているようだった。

その雰囲気に引っ張られて、思わず将も

「弁護なんか、必要ないし」

ごく自然にセリフを口にすることができた。

だが、その後、ドラマの内容が内容だけに、ユリと将のシーンが多いのだが、

『私は、あなたが殺したとは思えないの。ねえ優くん』

『優くん、本当のことを言って』

とことごとく、将の名前のところを間違える。

「あちゃー、まーた間違えちゃった」

とユリはそのつど舌を出す。3回目に間違えたときは

「だって、急に変わったからぁ。……ねえ」

と流し目で将に同意を求めてきた。

――ねえ、と言われても。

将は「ハァ」と答えるしかない。

だけど、これもどこかで見た、年配のベテラン俳優が

「ユリちゃんにしては珍しいねえ」

と突っ込みを入れたので、ユリの顔から甘えた笑顔が消えた。そして小さく

「わざとやってるにきまってるじゃん」

と呟いた。それは隣にいる将だけに聞こえる大きさの声だった。

将は思わず目だけを動かしてユリの方を見た。

するとちょうどユリも将を横目でちらりと見たところで、二人の目があってしまった。

それで、将はわかった。

もともとこの役を演じる予定だった宮沢優は、ユリの単なる知り合いだけではなく、たぶん相当なお気に入りだったのだろう。

その役を将が横から奪い取ったことに、ユリは腹を立てて、嫌がらせにずっとセリフを間違え続けているのだ。

――そんなことをしても、どうしようもないのに。

将は、なんだか脱力しそうになった。

ユリはフンと勝ち誇ったように鼻で笑うと、さらにセリフを続けた。

『優くん、教えて。どうしてアリバイを証明しなかったの』

『将です、大岡さん。……そんなの俺の勝手だろ』

将が挿入したアドリブがあまりにもナチュラルだったので、すぐに気付いたのはペンでセリフを追っていた脚本家とP、ユリ本人、それと壁際で見学していた武藤だけだった。

ユリは驚いて、将の顔を振り返った。眼鏡越しの目が大きくカッと見開いて将を睨みつけた。

その剣幕に将は威圧されるような気がした。

鳥肌が立ちそうになるほど恐ろしかったが、将は勇気を出して、ユリをまっすぐに見返すと、口の端に笑顔をつくってみた。

すると……ユリは固く見開いていた目を、ふっと柔らかく細めた。

そして顎をクイとあげると艶然と微笑んだ。

続いて「やるじゃん」、と小さく囁くのが聞こえた。

第202話 血の、いとしき源

「大悟ー、……いないの?」

将は、真っ暗なリビングダイニングにあかりを灯しながら呼びかけた。

昨日に引き続き、大悟は出掛けているようだ。

キッチンに入って冷蔵庫から水を取り出すと、グラスに注いで一気に飲む。

体にいきおいよく取り込まれていくミネラルウォーターのかわりのように、大量のため息が出る。……疲れた。

火曜日ももう11時になる。

急遽決まった、ドラマのゲスト出演に備えて、今日、将は学校から直接事務所に来るように言われていた。

演技指導を受けるためである。

事務所に顔を出すと、そこには武藤と一緒に演技の講師がいた。

将は知らない顔だが、若手の演出家だという。30代後半ぐらいに見えた。

「台本は読んだ?」

武藤に訊かれて

「……いいえ」

と将は素直に答えた。すると武藤は、

「やっぱりね。ハイ。こっちをあげるから」

と別の台本を将によこした。

そっくり同じもののようだが、中身を見ると、ほとんどの漢字に振り仮名が振ってある。

そして将の部分に蛍光ペンでラインが引いてある。……すべて武藤の手書きである。

「これだったら読めるでしょう」

と武藤は優しいような目をした。少しだけバカにしているのがわかる。

「漢字は読めますよ。時間がなかったんです」

大人気ないな、と思いつつ将は反論した。

「ハハハ!」

突然演出家は笑うと

「やる気あるじゃん……、上等、上等」

将に向き直った。

「じゃあ、さっそく、この話の説明しよっか。……でも本来は、自分で台本を読んで理解しないといけないところだからね」

と丸い目をきらっと光らせた。年齢に似合わない、子供のような瞳だ、と将は思った。

「この話は、少女が殺害されて、犯人は誰だ、という話ね。で、将くんの役である、尾崎優は、冤罪を着せられる不良少年。

でも、本当は殺人現場の唯一の目撃者なのね。だけど、親に対しての復讐心というか反抗心があって、

犯人のままでいて、親の社会的地位をめちゃくちゃにしてやりたいと思って黙ってる……という設定」

「あ、役の名前は、『将』に変えてもらいました」

と武藤が口をはさむ。

将は台本を素早く目で追う。

しかし、シーンごとに細かく区切られているせいか、読んでいるだけでは、いまいち話がわからない。

演出家は将の役の抱えている内面などを細かく説明した上で、

「でも最後には、主役の女弁護士である大岡政子が将くんが犯人じゃないという証拠を見つけてきて、無罪放免になるわけ。

……まあ、こうやって聞くと複雑だと思うけど、セリフは少ないから」

演出家のいうとおり、将の登場シーンはほとんど、

(優、黙り込んでうつむく)

(優、政子をにらみつける)

(優、目を見開いて立ちすくむ)

とそんなト書きがほとんどだ。

「ま、論より実践。やってみよっか。じゃ武藤さん、政子やってみて……シーン1-5からやってみようか」

武藤は「ハイ」とうなづいて、さっそく、主役の大岡政子のセリフを読み始める。

「『あなたの弁護を担当する大岡政子です。よろしくね』」

プッ。

将は吹きだしてしまった。

「こら!」

そんな将に演出家が目をむく。

「だって、だって、なりきってるんだもん」

将は堪えられずに笑ってしまった。武藤はちょっと頬を赤くしながらもムッとする

「これが仕事なの!将もなりきらないと。明日の台本(ほん)読みはこんなんじゃないよ!」

「そうだよ、笑うのはサイテーだよ……まあ初めてじゃ、仕方ないけど。じゃ次、将のセリフ『弁護なんて必要ないしぃ』」

演出家にもたしなめられ、将は自分の部分を読もうとした。

「べっ……弁護士なんて、必要ないし」

武藤と演出家が同じように額に手をやった。

「ックううう。みごっとな棒読みっ!相当しごかないとな」

武藤がため息をつくそばで、こんどは演出家が額にあてた手の下でくっくっと笑った。

 
 

……と、こんな感じで軽食をはさみながらの演技指導が3時間。そのあとジムが1時間。

ジムの後、夕食をおごってもらったが、将はくたくたになっていた。

将は、台本をもう一度取り出すと、ソファに体を投げ出した。

「『だから、俺が殺したんだよ』、か……」

そのセリフを口にして、ふと大悟を思い出す。

今日、説明を受けていても思ったのだが、将が演じるこの不良少年『尾崎優(武藤のごり押しで、名前は将になったというが)』という役は、なんとなく大悟を思い出させる。

自分がやってもない犯罪を、被ったという点でだろうか。

それでいて、親に対しての反抗心、という部分は自分そのものだ、と思う。

いずれにしても、昔の傷に微妙に触れる面倒な役だと将はため息をついた。

将は胸の古傷に埋め込まれたトゲがチクチクと動くのに、必死で気付かないように、心を鈍感に保っていた。

……それゆえ、必要以上に棒読みになってしまった、というのもあるかもしれない。

 
 

それにしても、大悟はいったいどこに行ったんだろう、と将は携帯を取り出して掛けてみる。

……あいにく、電波が届かないらしい。地下のクラブにでもいるんだろうか。

昨日も……聡の部屋に泊めてもらえなかった将は、12時ごろ帰宅したのだが、そのときもまだ大悟はいなかった。

朝、登校前に部屋をのぞくと、着替えもせずに布団の上に倒れこむように大悟は寝ていた。

その服装から、おそらく夜遊びに行っていたのだろう、ということがわかる。

井口が言っていた……ヤバイ薬を売っていた、というのは本当だろうか。

売っているのは、昔のように偽の薬なのか。

それとも……本物?

本物ならば、どこで調達しているのか。

昼間働いていないのなら、夜遊びの金など……まして薬を仕入れる金もないはずだ。

将は、ソファから起き上がると、大悟が寝室に使っている部屋のドアをあけた。

部屋を見渡す。

万年床になっている布団。壁に掛けられた着替え、かごの中に畳まずに突っ込まれた服。

なんら異常はない中で、将の目をひいたものがあった。

スタンドの下に、きちんと畳まれた女物の衣服の上に、小さな白い犬のぬいぐるみ、骨が入った小さな瓶、瑞樹が写ったプリクラが並べられていた。

おそらく、瑞樹の遺品だろう。

雑然とした部屋の中でその一角だけが、きちんと整っていた。

それを目にして……最近の大悟の行動に、何か一言忠告しなくては、といきまいていた将だったが、そんな気分はしぼんでしまった。

1ヶ月以上が経った今も……大悟はおそらく瑞樹のことで受けた傷が癒えていないのだろう。

だったら、なおさら。将は大悟が立ち直るために、早く伝えたいことがあった……保護者の件だ。

そして、大悟の保護者の件に関連して、将は忘れていた昼間の電話を思い出してしまう。

将は眉間に拳をあてると、走り来る巌の……自分を愛してくれた数少ない血族の最期を思い、うち震えた。

 
 

今日の昼休み。

早々に昼食を食べ終えた将は、ハルさんに、巌の容態を聞くべく電話をかけた。

意識が戻った、とのことだったので、巌本人とも話せれば……できれば話して謝りたいと思っていた将だったが、ハルさんは巌の状況について、言葉を濁した。

「何、意識が戻ったんじゃないの?」

将は携帯に食いつくように尖った声を出した。

「いえ、ええ。意識は戻られたんですが……」

「危ないの……?」

将はおそるおそる、それを口にした。

賑やかな学食の一角から、自然に足が外に向かい、建物の陰に移動する。

「いえ、危ない、というわけでは……。ただ」

「ただ?どうしたの」

ハルさんは沈黙ののち、

「将ぼっちゃま、西嶋が参りましたので、代わります」

うろたえたように、電話を代わった。

「お坊ちゃま、西嶋でございます。……御大から承った、お坊ちゃまのお友達の保護者の件ですが、私の弟が承りました」

運転手の西嶋に電話が代わったことによって、将が知りたい巌の容態から話も自然に切り替わった。

「西嶋さんの弟?」

「ええ。私の弟は、都内で小さな工場をやっているのですが、将ぼっちゃまのお友達の保護者を引き受けさせていただくことになりました」

「ヒージーが西嶋さんに頼んだの?」

「はい。昨日、御大は意識が戻られて、すぐに私に仰せ付けられました」

と西嶋は続けた。西嶋の弟夫婦には子供がいないので、大悟が希望するなら同居も養子縁組も可能だという。

「……弟夫婦は大変世話好きでして、巌様からのご紹介で海外からの留学生を毎年、ホームステイさせたりしているほどなんです」

「そうか……」

運転手の西嶋は実直な人柄だし、その弟も巌と面識があるのなら、信頼できるだろう。

将は身近なところで大悟の保護者が見つかったことに安心した。

「で……、ヒージーは、大丈夫なの?」

巌自ら西嶋に話をするぐらいだから、大丈夫なのだろうと将は少し安心して再度問い掛けた。

「ハイ……。ただ、全身に麻痺が残っているようです……」

遠慮がちにおずおずと話す西嶋の声は、さっきの保護者の件を話すときと違って明らかに低くなっている。それが事の重大さを物語っている。

「動け……ないの?」

「残念ながら、今のところ……」

将は息を飲み込む。

「ただ、ご本人の気力はしっかりしておられます。リハビリに取り組みたい、とさっきも力強くおっしゃっておられました。もう少し回復したら都内の病院に転院されるかもしれません」

西嶋は将が相手だから、極めて希望的に伝えたのだろう。

容態の希望のなさ、は最初のハルさんの態度からもわかる。

100歳の老人が全身麻痺になれば……回復の見込みはほとんどないだろう。

それで、ハルさんは言葉を濁していたのだ。

将は目の前が真っ暗になる気がしてしゃがみこんだ。

西嶋を不安がらせないために

「わかった。保護者の件は……本当にありがとう、近いうちに絶対に大磯に行くから」

とだけ返事をした。

粘りつくような回線を切ると、膝に頭を埋めた。

昼休みの喧騒も何も聞こえなくなった。

心臓の波打つ音、ヒージーから続く血を駆け巡らせる音だけが地響きのように聞こえる。

その血の、いとしき源が……近いうちに逝ってしまう。将は恐怖に震えた。

第201話 相合傘(2)

聡は素直にバッグから手帖を持ってきた。赤茶色の合皮に包まれている。

「へー、これがアキラの手帖かー」

将は、興味深げにぱらぱらと中身を開く。

「やだ、もう。関係ないところ見ないでよ」

といいつつ、聡はたいして止めない。

来年の3月まで日付があるところが気に入って買った手帖は、ほとんど仕事でしか使っていないから。

それに買ったのは昨年の12月で、その頃には聡の心は将に傾いていたから、彼に対してやましいことは何1つ書かれていないはずだ。

「よし、ちゃんと俺の誕生日チェックしてるじゃん」

将は満足げにうなづく。

「てことは……このちっちゃい赤い点は『あの日』?」

「ちょ!」

聡の目が真ん丸くなった。図星だった。

将の誕生日の3日前に生理が始まったということを将は知っているのだ。

聡はあわてて、将の手から手帖を取り上げようとした。

将は、歯をむき出して笑いながら、長い手を高くかざすようにして、手帖を聡から遠ざける。

「もー、返してよ!」

ついに、聡は手帖を追うあまり、将の上半身にタックルするように床の上に押し倒してしまった。

とまどった聡の顔は将の顔の真上で静止していた。

そのまま、将は上に乗った聡の背中に手をまわした。

「アキラ……。俺たち、昨日……」

聡は突然、将の唇に自分のそれを押し付けてきた。

将は、そのままパジャマに包まれた聡の体をそっと抱きしめた。

聡の体の重み。胸の上に押し付けられる柔らかい感触……しかし、昨日の記憶と同じかどうかはさだかでなくて、口づけしながら将は息苦しくなってきた。

長い口づけのあと、聡の黒糖飴のような瞳が少しうるんでいた。

「昨日……、俺……。アキラと寝た、……んだよな」

聡は、ほんのりと微笑んだ。頬も唇も何もつけていないのにばら色だ。

「やっぱり……。覚えてない?」

「ん……。なんとなく、覚えてるけど……」

これは嘘だ。本当はなんにも覚えていない。

聡は将の上からゆっくりと身を起こした。

「ね。あたし、途中で起きて、ご飯食べたんだけど覚えてないよね」

「食べたっけ」

そんな記憶はぜんぜんない。

「あたしだけね。……夕食前だったから、あたしお腹すいちゃって。将を呼んだんだけど『うん』って言うだけで、起きなくて」

本当に覚えていない。

「覚えてない?」

聡の問いに将はうなづきながら、頭を抱えたくなった。

「2回、したのも?」

「2回!?」

聡からもたらされた事実に、将は目を見開いた。

1回も覚えていない自分に、いったいどれだけ酔っ払っていたんだ、と将は自分を責めた。

「……本当に、覚えてないのね」

聡はなぜか可笑しそうだった。そんな聡に将は思わずうつむく。

「中で、出しちゃっ……」

将は聡を盗み見た。聡は悪いことがばれた子供のような将の瞳を見て笑いながらうなづいた。

「たぶん、大丈夫だから、気にしないで」

慰めるような口調に将はますます落ち込む。

将は行為に及ぶ際は必ずコンドームで避妊していた。

まわりのやつが、やれ性病だ、妊娠だと騒ぐのをまのあたりにしていたからだ。

たいして好きでもない相手と面倒な問題を起こすほどバカじゃないというプライドが将にはあった。

その禁を昨日、うっかり破ったのはいい。相手は最愛の聡だから。

仮に妊娠したとしても、責任をとる覚悟は出来ている。

だけど……極上だったはずの感覚をまるで覚えていない、そのことが無念でならない。

「あのさ……。俺、ひょっとして、めちゃくちゃ、独りよがりじゃなかった?」

「えー、どうかなあ」

聡はいたずらっぽい顔で、瞳をくるりと回転させて将の顔を横目で見た。

聡はさっきから可笑しくてたまらなかった。

何気ないふりをしながら、本当は、今日1日、ずっと将にどう接していいかわからなくて、迷っていたのだ。

教え子と、ついに関係を持ってしまった。

罪悪感と恥かしさと、体中に残る余韻。その片鱗も表に出すまいと聡は必死で戦っていたのだ。

でも。昨日、かなりの深酒にヨロヨロになっていた将は、案の定何も覚えていないらしい。

それを知ったとたん、聡は優位に立った気がして、快活な気分になってきた。

……もともと、将と寝たことで、満ち足りた気分ではあるのだが。

「アキラ!」

将は聡ににじり寄ってきた。滑稽なほど真剣な顔で肩を掴む。

「やり直し、させて。頼む」

やり直しって。聡は思わず吹き出しそうになるのをこらえながら

「ダメ-!」

と×ポーズを作った。将の顔が、そんなぁ、と歪む。

「昨日は特別だもーん。続きは卒業のあとでネ」

聡はやんわりと将を振り払うと、手帖を取り戻した。

「えー……。俺なんにも覚えてないのに……」

子供のように唇を尖らせる将がいとおしくて、聡は首を伸ばすようにして、将の額に軽くキスをすると、そのまま唇を耳元に移動させて

「あたしはいっぱい覚えてるよ」

と囁く。そう、体の中に将の形を思い浮かべられるほどに……聡の中の将は鮮明だった。

将は聡の囁く息づかいが耳に染みて、背筋にぞくっとくるような快感に見舞われて、反射的に聡の体を抱き寄せる。

「もう一度、頼む……」

将は聡の頬にくっつくほど顔を寄せて喘ぐように懇願した。だが、聡はうるんだ瞳に将をいっぱいに映しながらも

「……ダメ。今日、教室ですごく恥かしかったから……」

とゆずらない。

「……ぜんぜん、クールだったじゃん」

聡の唇まで、あと1センチというところで、水色のアイシャドウを付けた聡を将は思い出す。

そこに恥らう素振りなどみじんもなかったはずだ。

「一生懸命、隠してたのよ。二人のために……」

それ以上、聡はしゃべれなかった。将の熱い唇にふさがれたからである。

 
 

「で、手帖に何を書くの?」

ひとしきり激しい口づけを終えて、より紅潮した顔で、聡が訊いてきた。

「そうだった」

忘れるところだった、と将は万年筆を手にとってローテーブルに向かった。

聡にもらった万年筆で聡の手帖にぜひ書いておきたいこと。

手帖の裏表紙の半分には赤茶色のカバーが被さっている。

カバーから将は手帖の裏表紙を引き抜くと、そこに文字を書き始めた。

「えー、なあに?」

聡も覗き込む。

そこには、イカスミインクの自然なセピア色で

I love you, Forever

        SHO

と書かれていた。

「フツーすぎるけどぉ」と将は照れて笑い、

「あ、綴り、間違ってないよな」

と聡を振り返って確認した。

聡は頷きながら、その単純ながら心のこもった言葉に、胸がいっぱいになった。

カバーに隠れる部分に書かれた、将のメッセージ。

来年の3月まで……つまり将が卒業して、二人がただの男女になれる日が来るまで、聡はこのメッセージをひそかに抱いて暮らすのだ。

さらに照れたのか、それとも書き味が気に入ったのか将は、手帖の中面を開くと、今日の日付のところに小さな相合傘を書き始めた。

聡はあわてて

「だめよ!そこは仕事で使うんだから!誰かに見られちゃう!」

と止めたが、傘の下にはハートマーク付きで、「あきら」「将」と名前が書かれてしまっていた。

「チェー、わかったよ」

聡の必死の形相に将は、相合傘の上に重ねて×を書くと、その上を塗りつぶし始めた。

結局、今日の日付の欄には、セピア色で塗りつぶされた1センチぐらいの正方形が残った。

その下に隠された相合傘は二人だけの秘密になった。

第200話 相合傘(1)

「じゃ、あさって水曜日、9時に迎えに来るから。……モーニングコールは8時でいいわね。

学校の方は私から電話しておくから。……ああ、そう、明日はジムと演技指導だから、わかった?」

武藤が運転席から顔を出して、降りた将に繰り返す。

すべて車の中で一度言い渡されたことばかりだ。

「台本は読めるところだけでいいから、いちおう目を通しておいてね」

「ホイホイサー」

将はもらった台本とスケジュールをひらひらさせて、そっぽを向いた。

「んもうっ。ほんとにわかってる?……じゃ、明日忘れずにねっ」

と武藤の運転する車は、夜の中に走り去っていった。

もう夜9時を過ぎている。

ちなみに将が手にしている台本は『ばくせん2』のものではない。

△△さんの紹介で、プロデューサーに挨拶に行った将は、そこでもかなり気に入られたらしい。

ただ、演技経験はほとんどない、というところで、本当にその役をできるのかどうか試すことになった。

つまり、プロデューサーが今クールで担当している連ドラのゲストのチョイ役で急遽出演させて、様子を見ることになったのだ。

「女弁護士モノでね。将くんは、冤罪を被せられた不良少年の役。あまりしゃべらない役だけど、そこそこ演技力は必要だから頑張って下さいよ」

とプロデューサーはにこにこと笑った。

5月3週目放送ということで、あさってから早くも台本(ほん)読みが始まり、今週中にリハーサルがあり、来週には撮りが行われるという。

放送日まで1ヶ月足らず、である。

テレビドラマの収録が意外にせっぱつまって行われるのが将には意外だった。

「最近は主要キャストだけ先に決めて、ストーリーはあとからつくる、というドラマも多いの。『ばくせん』のような人気シリーズの2作目なんかは別だけどね」

と、帰り道、武藤が車を運転しながら説明する。

今日台本を渡されたこのドラマも例外でなく、おかげでスケジュールがおせおせなんだという。

「これも、飲酒喫煙の奴の代役?」

と将が聞くと、武藤は平然と

「いいえ。プロデューサーのごり押し。今ごろ、どっかのプロのペーペーのコが泣いてるはずよ」

と言ってのけた。つまりすでに決まっている配役をプロデューサー権限で将に変えたのだ。

「そんなこと……しょっちゅうあるの?」

将はなんだか罪悪感のようなものを感じて武藤に訊いた。

「あまりないね。まあ、今回は、もともと決定済みの子が少しPのイメージと違っていたっていうのもあるから……

もっとも、そのプロダクションにも局のほうで埋め合わせを用意するだろうから、将が心配しなくても大丈夫」

「ふーん」

将は窓の外を流れていくとりどりの街の灯に目を移した。

別に将はテレビやドラマに出たくて出るわけじゃない。

そりゃ『ばくせん』の中田雪絵や、今回の女弁護士ドラマの主役を演じる人気女優にじかに会えるのはまんざらでもない。

だけど本気で俳優になりたいわけでもない。なりゆきでどんどん道が出来ていくから進んでいるだけだ。

そんな将だから、他人の役を奪ってしまったというのが少しせつなかった。

 
 

武藤の車が見えなくなると、将はさっそく聡に電話を掛けようと携帯を取り出して電源を入れた。

今まで武藤の命令で電源を切っていたのだ。

待ちきれない足は駐車場のほうに向いている。

「あ、アキラ?今からそっち行くけど」

有無をいわせない言い方をしながら車のキーを解除する。

「……そのようすだったら、すっかり元気になったみたいね」

プライベートな、低めの聡の声。いつもの声だけど久しぶりのような気がする。

「ご飯は食べた?」

聡のほうから訊いてくれるのが、むずむずするほど嬉しい。

運転席に乗り込むと、勢いよくキーを差し込む。

「……食べた。けど食べたい」……ほんとうは聡を食べたい。

「何ソレ」

と笑いを含んだ聡の声。

すっかり元通りなのが嬉しく、また不安になる。

――昨日のことは、幻だったんだろうか。

綿菓子のように……甘い記憶も感触も溶けてしまって、何も残っていない将である。

「昨日……」と将はいったん舌に乗せかけて

「いいや、直接言う……じゃすぐ行くから」

と一旦電話を切った。

シートベルトを装着し、アクセルを踏もうとしたとたん、留守番電話センターからの着信音が派手に鳴った。

電源を切っている間の着信。もしかしたらハルさんかもしれない、と将は再び携帯を手にとる。

メッセージはやっぱり、ハルさんだった。

『何度かおかけしたのですが、出られないようですので、こちらに失礼します。

巌様の意識が戻られました。ご心配されていたと思いますので、取り急ぎお伝えしておきます。また掛けなおします。失礼します……』

丁寧の上に、さらに丁重を重ねるような口調でもたらされた、巌の無事の一報に将は心からホッとした。

とりあえず、自分のせいでヒージーが死ぬことは避けられた……。

ハルさんに掛けなおそうかとも思ったが、もう9時、年よりは寝ている時間なので明日にしようと、将はより明るい気分で、アクセルを踏んだ。

 
 

薄手の寝巻きに着替えた聡は、風呂上りなのか、ピンク色の頬のままのすっぴんだった。

瞼の水色もない。そんな聡にほっとして、将は玄関先で聡を抱きしめる。

「ちょっと……、将、苦しい」

きつく抱きしめすぎたのか、聡が小さく悲鳴をあげた。

寝巻き越しでも昨日の感触が蘇るかと試したのだが、力を込めすぎたようだ。

残念ながら、この柔らかさやぬくもり、甘い香りが昨日と同じかどうか判別できない。

いつもの聡であることは変わりないけれど。

「ごめん……」

「いちおう、ご飯だけあるよ。それともコーヒーがいい?」

聡が将を中に招きいれる。そんな態度も普通だ。

「あ、うん。……じゃあ、コーヒー」

将の顔をみた聡が、ふっと笑った気がした。

 

「今何してたの?」

背を向けて、コーヒーの準備をしている聡に、将はできるだけ何気なく声をかけてみた。

聡は、豆が入ったドリップペーパーに湧いたお湯をたらたらとかけながら

「お風呂から出たところ。髪乾かしてた」

と答えた。その答え方も別に特に変わったところはない。

その淹れ方がつもよりことさらに丁寧な気がするのは、テレビの音がしないからだろうか。

「昨日さ、俺……」

将はせっかちにも、本題を切り出すことにした。

聡はちょうど、淹れ終わったコーヒーポットとカップを持ってくるところだった。

思わずその胸元に目が行く。

今日はブラジャーをしているようだ。薄手のパジャマの生地にその線がわずかに透けていた。

ここのところ将と二人きりのときは、ノーブラのことも多いのに。

「そうだ。将」

コーヒーを注いでいた聡は、目を見開いて将の顔を見た。

黒糖飴のような瞳の大きさに思わず見とれた将だが、次の瞬間、聡はくるりと背中を向けると、飾り棚の前にあった小さな紙袋を持ってきた。

「ハイ。これ。18歳の誕生プレゼント」

今度は将のほうが目を見開いた。

「マジ!」

「うん。遅くなっちゃってごめんね。土曜日に渡せばよかったんだけど……」

将は紙袋を嬉しげに見つめた。

見たこともない店名だが、厚手の紙で出来た濃い色の袋はいかにも高級そうだ。

「ありがとう……うれしー。あけていい?」

聡も微笑んでうなづく。

シックな包装紙を爪をたてて丁寧に剥いで、その中の箱を慎重にあける。

中には上品な色合いの万年筆が入っていた。

「万年筆!」

将は、聡の顔を見つめた。聡は万年筆を見つめながら

「何をあげたらいいか、わかんなかったから。これだったら邪魔にならないでしょ。

今は使わなくても、とっといたら将来使うだろうし」

と控えめに選んだ理由を声にする。

好きな人からのプレゼント。

それだけでも嬉しいのに、このプレゼントが一生ものになりそうな高級品だというのは将にもわかる。

ペンの握り心地を試したり、色艶をいろいろな角度から見る将に、聡も嬉しそうに

「でね……このインクが実はイカスミなんだよ」

と付け加える。

「へえー、イカスミ。どんな色なんだろ。さっそく書いていい?」

将は瞳をくるっと動かして聡の顔をのぞきこんだ。

「もう使うの?」

「アキラ、手帖持ってきて」

「え?」

「このペンで最初に書きたいことがあるんだ。だから、はやくー」

第199話 青い朝(2)

「じゃ、次はバスケット。希望者が多いのでくじ引きで決めていいでしょうか」

さくさく進めようとする兵藤に

「待てよ、どうせだったら勝てるメンバーを選ばんと」

と珍しく井口が立ち上がって意見を言っている。

そんな会議なぞ完全に上の空の将もまた、聡のいる方向である右後ろに強烈な磁力を感じていた。

なのに、振り返れない。

強烈な紫外線を照射されたように右側の肩や背中は妬けつくようだ。

さっき、入り口をあけたときに目に飛び込んできた聡の姿。

黒に近いグレーのパンツスーツを着て、髪を1つにまとめて……一見いつもと変わらない姿だったが、

瞼にうっすらと水色のアイシャドウを付けているのに将は気付いた。

愛らしい瞳からの視線を、その水色はクールに引き締めていた。

甘さのないその視線は、頭痛薬を飲んでもいっこうに思い出せない昨夜とあいまって、昨日のことは夢だったんじゃないかと、将は疑いそうになる。

「やっぱ、将とかはバスケだろー。あのデカさで卓球はありえないじゃん、なー将」

井口の発言の中で、突然呼ばれて、将はハッとした。

「あ?ああ」

状況がよくわからないので、適当に返事をする。

「しかし、ですね。やっぱりこういうことは公平にしないと」

星野みな子がたしなめる。続いて

「先生はどう思いますか?」

と意見を求めたので、クラス中の目が後ろにいた聡に集まる。

将も、それに乗じて振り返ると聡を盗み見る。

すると、ちょうど将のほうを見ていたのか、聡と一瞬目が合った。

しかし、水色の瞼の下の瞳は、すぐに教師に戻ると

「やっぱりくじ引きが一番なんじゃない?」

と皆に向かって意見を言った。

これが決め手でくじ引きでバスケのメンバーを決めることになった。

 
 

「ありえねーし。卓球かよ」

HRが終わっての下校時間。井口が面白そうにそばに寄ってくるとケケケと笑った。

「るせーし。俺わりと得意よ、ピンポン」

といいながら、将は聡を目で追った。聡は教壇を降りると、振り返りもせず職員室へ向かった。

「じゃな」

「おい、将、マックいかないのかよ!」

という井口の声を背に受けて将は廊下へと聡を追った。

「アキラ!」

と呼びかけて

「……先生」

とすぐさま付け加えたのは、すぐそばに多美先生がいたからである。

「何?鷹枝くん」

聡は教師のままの顔で、将を振り返った。

「いえ……。えーと。明日は補習はありますか?」

「ありますよ」

聡は水色の瞼を少し見開くようにして、『生徒』に対して軽く微笑んだ。

微笑んでいるのに、睨まれているように将は緊張した。

「わ……かりました。じゃあ、さよなら」

将は引き下がるしかなかった。

 
 

「あのさ。昨日、大悟がさー……将、聞いてる?」

ビックマックを食べ終わってポテトをつまみながら、井口。

将は井口と一緒に駅前のマックに来ていた。

だが、将のビックマックはなかなか減らない。

将の意識は、油断するとすぐに聡のところへ飛んでいってしまう。

「え、あ、うん」

「お前、今日おかしーよ。さっきから上の空だし。だいたいなんで私服なんだよ」

「あ、うん……。大悟がどうしたの」

説明できない将は、あわてて話題に上った大悟に話を戻す。

井口はフンと鼻をならして、コークをストローで吸い上げると

「大悟が昨日、クラブに来てた」

「へえ」

少し驚いた将は、テーブルについていた肘を離して、椅子に寄り掛かるようにした。

――遊ぶ金、あるんだ。

と意外に思い、次にどこから調達したんだか、と少し疑念を抱く。

「……て、踊りにじゃないと思う。なんかヤバそうな感じ」

「え?何が」

井口は、将を肩を抱くように顔を寄せてきた。そして囁く。

「たぶん、やばいクスリ売ってんじゃないか、と思う」

はれぼったい瞼の下の井口の目が光った。

「ああ……、偽シャブ売り。あいつ、そんなことまた始めたんだ」

将は、ふっとせせら笑った。

中学の頃、よく二人でやったなあ、と懐かしくさえある。

「いや、それがさあ。ホンモノっぽいよ。ダチがお持ち帰りした女子大生がそれ買っててさあ

……マジでラリッちゃってゲエゲエ吐いたらしいもん」

「まさか。自己暗示だろ」

昔、将たちが、マリファナと偽って売った粉砂糖+すり潰した頭痛薬をブレンドしたものでも、結構みんな『効く』『ラリッた』などと騙されていたから。

しかし、そんなふうに否定しながらも、将は心の中にできた小さなニキビのように嫌な予感を消し去ることができなかった。

 
 

井口とわかれた将は、聡の部屋に帰ってきてしまった。

このまま、聡の帰りを待つつもりだ。

将は、今朝自分が起きたままになっているベッドの掛け布団を上げた。

シーツには、将と聡が確かに結ばれた、いくつかの証拠が染みになってすでに乾いていた。

それを見て、将はため息をついて、汚れたシーツに倒れこんだ。

そして目を閉じる……。

「だめだ」

将は一人、声をあげた。

やっぱり何も思い出せない。将は頭を抱えた。

――何てこった!

最愛の聡との、初めてのセックスなのに……一生の思い出になるはずなのに。なんにも覚えてない。

将が覚えている、聡の肌は……あの山梨の寮で午後の陽射しの中で見たものが最後だ。

温かさとか、柔らかさとか……かろうじて覚えている感覚も、時間の経過とともに薄れ……今は他の女を抱いた記憶と混じってしまいそうだ。

もしも、こうして汚れたシーツがなかったとして。

仮に『そんなことはしていない』と言われたら、信じてしまいそうな、あやふやさ。

……最悪だ。

将は天井に向かってため息をついて、舌打ちをした。

しかし、そうやって舌打ちをしながらも、将はふわふわとした幸福感の中にあった。

一度愛し合ったなら、また何度でも……。

と甘い希望を抱いて、聡はそこまで甘くないだろう、と、さっきの聡の水色の瞼を思い出す。

せっかく18歳になったのだから、一度だけ。

というスタンスでこの土曜日の逢瀬は約束されていたはずだ。昨日はその代わりだったのかもしれない。

昨日、という単語に、巌を思い出す。

康三は『大丈夫』と言っていたが、将は心配になって、ハルさんに電話をしてみた。

たぶん、彼女が巌に付き添っていてくれるだろうから。

だが、ハルさんは電話に出ない。病院の中だから電源を切っているのかもしれない。

思い出してしまった昨日の苦悩だが、聡を抱いたおかげなのか、そこまで自分を責めないで済みそうだ。

将は携帯を閉じようとして、思いついて再び開ける。

聡にメールを送ろうと思ったのだ。

そこで、朝着信した、マネージャーの武藤からのメールを見つける。

そういえば内容をロクに確認していなかった、と開封する。

そこには、今日放課後、事務所に来るように、とあった。

――めんどくせ。

将は、シーツの上に身を起こすと、武藤に電話をかける。何とか理由をつけて断るつもりである。

「もしもし、将?今日これるでしょう?」

武藤は将からの返答を待ちかねていたようだった。

「いや……ちょっと」

行きたくないが、とくに用事があるわけでもない。将は自然に言葉を濁した。

武藤の声には抗議テイストが混じる。

「今日、入学式で学校が早く終わるって言ってたでしょ」

――そんなことまで教えたっけ。

将は

「何でですか?」

と、とりあえず用件を聞くことにした。

「ちょっとあなたに会いたいっていうプロデューサーがいるの。ほら、こないだ言ってた『ばくせん2』の」

「はあ、『ばくせん2』」

その他大勢役で出演できるかも、と言われていた夏に予定されている人気ドラマだ。

「それがね、よく聞いて、将。実は、主要な生徒役のうち、内定していた一人が、急に芸能活動を休むことになっちゃって」

「ハァ」

それがなんだ、と将は興味のない、単なる相槌をいちおう声にする。

「飲酒喫煙がバレて謹慎だそうよ」

「……へーそー」

ドジだな。と将は心の中でせせら笑う。

「でね、代役にあなたを推したいの」

「ハ?」

「……というより、あなたにほぼ、決まりなの。こないだの食事会に来てた△△さんがあなたをとても気に入ってね。あの人、局Pと仲がいいのよ」

「え」

将はわけがわからなくて、短い声しか発することができない。

「ということだから、今日、来てほしいのよ」

武藤は畳み掛けるように言葉を重ねる。

「いや、でも」

「あいてるのね?」

有無をいわせない武藤。その勢いに

「……あいてなくは、ないけど」

つい、将は正直に言ってしまった。

「じゃあ、5時までに事務所に来て。絶対よ」

「えー」

「えー、じゃない。これは仕事よ」

武藤の口調はどんどん強気になってくる。将は承諾せざるを得なかった。

第198話 青い朝(1)

いきなり、携帯がバカでかい音を立てた。メールの着信音だ。

――せっかく気持ちよく寝てんのに。うるせえなあ……。

将は瞼を閉じたまま、無意識にいつも近くに置いているはずの携帯をさぐった。

次の瞬間、いつもと勝手が違うことに気付いて、目を見開く。

ガバ、と上半身を起こした。

違う。将のベッドではない……ここは聡の部屋だ。

「うわ!」

自分の姿に気付いた将は、たった一人で声をあげる。

何も身につけてなかった。真裸だった。

あわてて見回すと、フローリングの床の上に、将の衣類がきちんと畳んで置いてあった。

だが、なぜ、真裸で聡の部屋のベッドで寝ているのか。

そして聡はどこに?

将は思い出そうとして、激しい頭痛にそれを阻まれた。

「……っいてー」

将は、畳んだ服の一番上に置いてあった携帯をなんとか取り上げると、頭を押さえてもう一度ベッドに転がった。

仰向けになって眺めた青いカーテンのあたりは、もう陽が高いことを示している。

将は、鈍く痛む頭を動かさないように、昨日を思い出そうと試みた。

しかし、大悟のスピリタスを拝借して、酔っ払ったまでは覚えているが、その後の記憶は遥として知れなくなっている。

横たわったまま、携帯を開く。今着信したメールは、マネージャーの武藤からだった。

着信履歴の2番目に聡の名前があった。

そうだ。聡のメールを受け取って……電話をかけたんだ。

そこまではなんとか思い出したが、その後は……。

将は目を閉じて、記憶をたぐる。

苦悩。慟哭。不安。孤独。後悔。

将の中で出口を持たずにうずまいていた、負の感情。

やりきれない思い。

そんなものに飲み込まれそうで。

それを、どうにかしてほしくて……救いを聡に求めたのだった。

だが、今の将に……それらはもはや責めて来る事はなかった。

聡はゆうべ確かに将を救ってくれたのだ。

柔らかくてあったかい聡の肌に包まれて……将は行き場を失っていた感情の代わりのものをぶちまけた。

その肉体的な感覚を伴った解放感を思い出して、将は思わず目を開けた。

だけど……、そこへの道のり、いやその行為そのものも思い出せない。

記憶は、すべて感覚に昇華されてしまっている。

将は目を閉じると、わずかに残ったその感覚を反芻した。

温かい液体にすっぽりと包まれた幸福感。

放出する瞬間の圧倒的な……すべてが蒸発していくような快感。

そして……聡の肌のぬくもりと、優しく背中を、髪を撫でる手。

「アキラ!」

将は、再び身を起こすと、部屋を見回した。

時計はもう10時近くを指していた。今日は月曜日、とっくに聡は学校にいったのだろう。

ローテーブルの上に、伏せたお椀、グラスそして頭痛薬と共にメモが置いてあった。

=====

おはよう。

たぶん二日酔いだよね。

今日は入学式だから、学校は休んでもいいよ。

PS

おみそ汁はあっためてね。

あきら

=====

授業中に見る黒板の字より、若干くだけた字ながら、いつも通りの落ち着いた聡の字。

そこには、最後の一線を越えたことなど、まるで感じさせない日常があった。

将は、聡に会いたくて、

会って、昨日二人が結ばれたことを確かめたくて、

頭痛を押して、急いでシャワーを浴びる。

 
 

今年の新入生は、100人あまり、上級生たちより1クラス多く、3クラスになった。

卒業式同様、入学式も上級生同席で、無事行われた。

1年生は入学式後もいろいろとレクチャーがあったり、健康診断があったりするが、2、3年生は1時間のHRのあと、午前中で下校となる。

今日のHRは、6月にあるクラスマッチについての種目決めだ。

生徒数が少ない荒江高校に体育祭というものはなく、代わりにさまざまな種目をクラス別に競うクラスマッチがある。

体育祭をしないのは、応援合戦で喧嘩になったり、体育祭後に飲酒をしたりするのを抑える低偏差値校ならではの配慮でもある。

ちなみに、サボるとポイントがいつも以上に引かれ、かつ、各種目の優勝クラス全員にポイントが加算されるというところはこの学校ならではの仕掛けだろう。

聡は教壇に立って、議事をクラス委員に任せるべく、前ふりをしていた。

「じゃあ、あとは星野さんと兵藤くん、お願いしますね」

と言ったところで、教室の前の入り口がいきおいよく開いた。

将だった。

聡の部屋から直接学校に来たのだろう、私服のままで、急いで階段をあがってきたのか息を切らして、聡を見つめていた。

そんな姿は、二人が初めて教室で顔をあわせた日を聡に思い出させた。

思わず引き寄せられてしまう瞳を、引き剥がすようにして、

「早く席について」

と事務的に聡は言い放った。

「……ハイ」

将は息を切らしながら、素直に席についた。4月から廊下側の、やはり前から2番目の席になっている。

「じゃ、星野さん、兵藤くん、お願い」

聡はあらためて、議事を彼らに渡してしまうと、彼らの会議を見守るべく、教室の後ろの空席に座る。

そうすることによって、将の姿は、他の生徒の陰に隠れてしまい、好都合なはずだった。

だが。気を抜くと……いつしか、聡の思考は将のそばに寄り添ってしまっている。

たとえ、陰に隠れていても、体中に残った将の感触が、まるで磁石に引き寄せられる砂鉄のように将のいる方角へ引き寄せられていくのがわかる。

体内に残る、将が熱く駆けぬけた跡に、聡はこっそりと意識を集中させると、窓の外に目をやった。

今日もよく晴れて、窓の外には若葉が揺れている。

 
 

今朝。

ベッドの上で聡は、カーテンが紺から群青へ、そして青へと変化していくのをぼんやりと見つめていた。

横たわった胸のあたりに、向かい合って横たわる将の頭があった。

将は、眉根を寄せて少し苦悩しているような、いつもの寝顔で、ときおり鼾をかきながら眠っている。

ときおり、無意識に聡にまわした腕に力を込める。

そのたびに、聡に刻印された快感の余韻が、ぴくりと目を覚ます。

まだ、将が何度となく往復した、聡の中は、どことなく熱い感じが残っている。

ときどき……将が放ったものがとろとろと流れ落ちる。

そのたびに、聡は将の髪を撫でた。

体には、まだ熱い感覚があちこちに残っているけれど、聡の心は静かだった。

『アキラ、俺を助けて』

昨日の夕方、いきなり電話をかけてきて、そう訴えた将。

30分もしないうちに聡の部屋に現れた将は、ひどく酔って、そして憔悴しているようだった。

そして聡に抱きつきながら、もう一度

『助けてくれ』と連呼しながら泣いたのだ。

その悲痛な響きに、聡はただ将を抱きしめた。

圧倒的な将への思い……愛情は、将が人を殺した過去など軽く凌駕してしまっていた。

将がなぜ、これほど激しく悲しむのか、後悔しているのか、救いを求めているのか。

理由を知るよりも、まず救いたくて、聡は将を抱いた。

哀しいまでの将への思い。それがつのって、そんな形になった。

自分の中で激しくうずまいていたであろう、やりきれないものを、聡の中に吐き出して、こときれた将は、ひたすら眠っていた。

――もう、戻れないかな。

聡は、青いカーテンの色に自分の瞳を染めながら、ぼんやりと感じていた。

ついに体が……という形式が、ではない。

自分の中に確かにある、将への愛。

将がどんな過去を持って、どんな人間であろうと。

聡は、もう将を見捨てることも、逃げることもできないところまで愛してしまっていた。

肉体的に結ばれることは、単にそれを確認したに過ぎないのだ……。

 
 

将が再び、ぎゅうっとしがみついてきた。

「アキラ……」

寝言を呟く。

いよいよボサボサになった将の髪を梳きながら、聡は自分の中に今までにない感情が生まれているのを感じた。

何かわからないけれど、母性のようなもの……。

今まで、聡にとって、男と寝ることは、すべてを『任せる』喜びだった。

精神的にも、感覚的にも、どこか……感情の、感覚の、果てへ連れて行ってもらい……そのあとは、子猫のように男の懐で無防備に眠る。

それが『寝る』悦びだったはずだ。

だけど、今回は違った。

聡は、ひたすら将を受け止めて、包んだ。

将は、自分の中にうずまく何かをぶつけるように、聡の一番奥に激しくぶつかった。

そんな何かに憑かれたような行為は、けして技巧的に長けたものではなかったけれど……聡はそれで大きな満足感を感じていたのだ。

嵐のような将のすべてを飲み込んで、聡の心は静かな湖面のように凪いだまま青い朝を迎えていた。

第197話 急変

早めに床についたのに、将は寝つかれず、何度も寝返りを打った。

糊が気持ちよくきいた布団なのに、居心地が悪い。

何度も泊まっている部屋なのに、今日は自分を排出しようとしているような、異物感……ちなみに異物は将自身である……がある。

じっとしていると、過去の行いがじわじわと自分自身を侵食してくるようで耐えられない。

自分は、ヒージーにも愛想をつかされてしまったのだろうか。

にも、という助詞に、まず最初に聡に見放されたのかもしれないという自分の中の危機感に気付く。

聡に見放され、ヒージーにも見捨てられ。

――本当に一人ぼっちになってしまうのか……。

将は、一人ぼっちの果てしない寂寥感に、布団の中、苦しくまた寝返りを打った。

13歳の頃も将は、こんな風なひとりぼっちだったはずだ。

だけど、今のほうが何倍もつらい。

人の情愛というものは、知らないよりも、知ってしまった上でそれを亡くすほうが、むしろつらいのだ……。

だけど、いまさらもう知らない頃には戻れない。

つまり、将はずっとこの寂しさを抱えて生きていかなくてはならないのかもしれない。

将はため息をつくと、再び寝返りを打った。

何十回となく寝返りを打って、将にようやく眠りが訪れた。

 
 

あわただしい足音がする。

――うるさいなあ。もっと静かに歩けよ、大悟……。

夢の中で将はそんなことを考えていた。

それにしても、マンションでこんなに頭に振動が響くほど音がするだろうか。

将はそんな自分の中のそんな疑問に気付かないふりをしていたのだが、

足音に、遠くの救急車の音が混じり始めて、その嫌な予感に、急速に現実世界に意識が舞い戻った。

気がつくと、目の前にさっきと同じように杉板天井が広がっていた。

将は、行燈を消すのを忘れたまま眠ってしまったらしい。

夢から覚めたというのに、あいかわらず、救急車の音が止まらない。それどころかまるで頭の真上から聞こえるほど近い。

将は起き上がって、廊下の障子をあけた。もう、夜が白み始めている。

と、救急車の音がやんだ。

近くに急病人が出たのだろうか。そう思いつつ、将の心は濃厚な嫌な予感を察知していた。

「あ」

将は叫びそうになった。白衣を来た救命士2名が担架をかついで、庭に入ってきたからだ。

ふいに後ろから声をかけられる。

「坊ちゃん、お起きになりましたか……。御大が、御大が……」

寝巻きにガウンをひっかけただけのハルさんが、泣きそうになりながら、将に訴える。

「ヒージーが……どうしたの?」

ハルさんのただならないようすに将は目を見開く。

「廊下にお倒れになられているのを、西嶋さんが見つけて……」

「ヒージー!」

ハルさんが言い終わらないうちに将は担架が入っていった方へ走った。

だが2,3歩進んだところで、担架に横たわり酸素吸入器を付けたヒージーが運び出されてきた……そう、生きている人間だったら『運び出され』たりしない。

紙のように顔面蒼白のヒージーは、まるで物体のように動かなかった。

「ヒージー!ヒージー!」

将は、ヒージーの担架を追った。裸足は庭の土にまみれたがかまわない。

ヒージーが息をしているのか、そして体は温かいのか。たしかめようとして止められる。

「坊ちゃん、私がつきそいますから!大丈夫ですから!」

と西嶋が言うのにもかまわず、将は必死でヒージーの名前を呼び続けた。

だが、ヒージーは目をあけないまま、救急車に乗せられてしまった。

救急車は再度、耳をつんざくようなサイレンの音を鳴らして走り去った。

将ははだけた浴衣に、泥だらけの素足のまま、門の前に取り残され……救急車の行く末を見ているしかなかった。

そんな将のもとに非情なほどに冷たい朝が訪れる。

 

大磯総合病院に運び込まれたヒージーはかろうじて生きてはいたものの、容態は重篤だった。

ハルさんと共にすぐに駆けつけた将は、ランプがついた手術室の外で立ち尽くした。

「ヒージー……、俺の……俺のせいだ」

将はやり場のない強烈な罪悪感のあまり頭をかきむしった。

「坊ちゃん、大丈夫ですから……。西嶋がすぐに見つけたんですから……大丈夫ですよ。だからおかけになって」

ハルさんが背伸びをするように将の肩に手を伸ばし、それに抱えられるようにベンチに腰を下ろす。

――もし、ヒージーが死んでしまったら……自分のせいだ。

将が暴露した過去の罪は……激しすぎるショックをヒージーの心身にくらわせたのに違いない。

――もし……もしも、ヒージーが死んでしまったら。

自分はヒージーの血脈を汚しただけでなく、ヒージーの命をも奪ってしまうのだ。

その恐ろしさに、うなだれた将はふるえる。

ことはあまりにも重く、地球……いやこの世のすべての罪の重みに近い重圧を感じている将には、呼吸する空気すら重い。

消毒液の匂いのまじった苦い空気はまるで、何かの毒ガスがまじっているかのように息苦しい。

その息苦しさに、時がつらい。1分を1時間のように感じながら、将は待ちつつ、恐れた。

その長いときの途中で、知らせを受けてすぐにやってきたのだろう、東京から康三と純代が駆けつけた。

一瞬、将と康三は目を合わせたが、お互いに言葉も交わさない。

ハルさんが状況を説明し、将は再びうなだれて審判を待つ。

時の長さが再び戻ってくる。

「や、鷹枝さんの!」

と声がしてふりかえる。そこには白衣に眼鏡をかけた年配の医師がいた。

言葉少なく挨拶をする康三のようすから、どうやらこの病院の院長らしい。

巌は海が見えるこの病院で年に一度、人間ドックを受けていたのだ。

「将くん、かい」

院長は将のほうを振り向いた。将は、会釈をした。笑顔をつくるゆとりすらもない。

「いつも巌さんから聞いてるよ。自慢の、イケメンのひ孫だってね……。本当に大きくなったなあ」

院長は銀縁眼鏡の奥で柔らかく微笑んだ。

「先生……ヒージーは……」

「頑張ってるよ。うちの外科の一番手が手を尽くしてるからね」

将のあまりにも悲痛な表情に、院長は思わず幼児に語りかけるような優しい口調になっている。

その優しさに思わず、張り詰めていた将の緊張が、瓦解した。

「先生、俺の……俺のせいなんです」

言葉と共に、人前だというのに涙がぼろぼろとこぼれてくる。

「俺が……ショックなことをしゃべったから……」

康三が思わずこっちを目で振り返る。だが将はそんなこと、今更どうでもよかった。

「俺が……いけないんです……」

リノリウムの廊下に、涙がぼたぼたと落ちていく。

「将くん」

院長は、自分より背の高い将の肩に手をおいた。

「たぶん、関係ないよ……。巌さんは、いずれにしてももうかなりな年齢だからね。心臓だって悪くなってあたりまえだよ」

院長はそうは言ってくれたが、その100歳の高齢の心臓に負担をかけたのは紛れもない事実なのだ。

将が、手の甲で涙をぬぐったとき……ついに手術室のランプが消えた。

顔をあげた将の前で、扉があいた。

「ヒージー!」

駆け寄る将を、集中治療室へ入りますから、と看護士が止める。

術衣をつけた医師が出てきて、将はそっちに駆け寄った。後ろには同じように康三がいる。

「手術はいちおう成功しました」

と医師が宣言したので一同は皆ほっとした。

 
 

午後も遅くなって将は、マンションに帰って来ていた。

どうやってミニを運転してきたのか、あまり記憶にない。

巌の手術はいちおう成功した、と執刀医は宣言した。

だが……そのあと、執刀医は院長と康三と純代だけを別室に呼んだ。

再び病院の廊下に取り残された将を、またも不安が取り巻く。

暫くののち、出てきた康三と純代の顔は……暗かった。

だが康三は将の顔を見ると

「大丈夫だから、もうお前は東京に帰りなさい」

とだけ、促した。その静かなようすに、逆に将は従わざるをえなかった。

 

大悟は出掛けたらしく、誰もいないリビングで晩春の陽射しだけが将に寄り添おうとした。

しかし、それがうっとうしくて将は窓に背を向けてキッチンへ入る。

温かさに抗うように氷水を飲もうと冷凍庫に手をかけて……その中に大悟のスピリタスの瓶を見つける。

罪悪感は、とりあえずヒージーの命は無事だったという安心を得て、やりきれなさに変化していた。

そのやりきれない思いをどうにかしたくて、将は凍ったスピリタスの瓶を手にとるとグラスに注ぎ、一気に飲んだ。

とたん、喉がやけついて将はむせた。

だけど……その苦しさが、今の将にはよかった。

喉から腹に熱い線が出来る。巌の体を傷つけた将は、自らの体を痛めつけるように、カウンターに立ったまま、ひたすら強い酒をあおった。

熱い線は、それを酒がなぞるたびに、どんどん膨張し、将の体をついにはみだすほどになった。

つまり全身が熱を持つ。

脳が煮えるようになった将は、ようやくふらふらとキッチンを出てソファに自らを投げ出した。

何かを忘れている。

忘れたいものは、脳が煮えても忘れられないのに。

将は、ふふふと鼻先で笑った。

うっとおしい晩春の陽射しも、酒場の女のように煮えた脳には好ましく感じている。

……と。

携帯が鳴る。

瞬時に『忘れていた何か』を思い出す……聡。

メールの着信音だった。

将は自分のポケットなのに、ひったくるように携帯を取り出し、中を見る。

=======

昨日は、本当にごめんなさい。

=======

たった一言で、将の心は聡一色になる。

聡を求め、聡を渇望する将はそのまま、聡に電話をかける。

「もしもし……?」懐かしい声に思わず将はすがっていた。

「アキラ!俺を……助けて!」

第196話 禁断の告白(2)※改題

大悟は嵩高い2つの荷物を抱えて夕方の商店街を歩いていた。

瑞樹のボストンに、例の紙袋。……朝さしていったビニール傘が邪魔だが雨が止んでいてよかった、と心から思う。

と、腹が鳴る。思えば、朝から何も食べていない。

腹が鳴ったとたん内臓が裏返りそうなほどの苦痛に近い空腹が大悟を攻撃してきた。

大悟はボストンを肩にかけると、財布を出す。

弁当屋にいってみようかと思ったのだがあいにく……聡からもらった5000円も、小山までの交通費でほとんど消えてしまい、小さな小銭ばかりしかない。

大悟は舌打ちする。だが、すぐに気を取り直す。

冷蔵庫にまだ何かあったはずだからだ。

それに将が気を利かせてくれれば、今日の夕食は家政婦さんがつくりに来ているはずだ。

部屋に帰ってきた大悟は、自分の寝室に使っている部屋に荷物を下ろして身軽になると、ダイニングへ急いだ。

案の定、テーブルの上には、麻婆豆腐の夕食が1人分用意されていた。

まだそれほど時間が経っていないらしくほんのり温かい。

大悟は、買ってきたビールをあけると、夕食をガツガツと食い始めた。

しばらく食うことに没頭する。

何も頭に浮かばない。部屋がシンとしていることもどうでもいい。

ようやく、胃を満たすことができた大悟は惰性でテレビをつけてみる。

空きっ腹へのビールは、感受性のアンテナを真綿でくるんでしまったかのように、テレビを見ても何も感じない。

大悟はソファにごろり、と横たわった。とたんに瞼が重くなる。

ビールがなくても……昨日からのことで、大悟は心身ともに疲れ切っていたのだ。

大悟が起きたのは、それからずいぶん経って……瑞樹といつも見ていたお笑い番組が始まった頃だった。

大悟はテレビで観客に大うけを博しているコントも無視して大きく伸びをした。

そしてボリボリと首筋を掻く。

眠っていたせいか、大悟の頭からはすべてが抜けていた。

瑞樹が死んだことも。昨日、愛知にいったことも。将と喧嘩したことも……。

大悟はただ、本能的に風呂に入るべく部屋に戻ると照明を点ける。

そこにあった紙袋とボストンを見てようやく、何かが大悟の頭に命中したかのように、すべての出来事とそれにまつわる感情が爆発的に大悟の頭の中に蘇った。

大悟は膝まづくとボストンを開けて犬のぬいぐるみを救出するようにそっと取り出した。

そして内ポケットから骨の瓶を大事に握ると

「瑞樹、お前が好きだったやつだぞ」

と語りかけながら隣に置いてやった。

骨とぬいぐるみは、暖色の灯りに同じような色に染まってお互い懐かしげに寄り添っていた。

そして、瑞樹が滋賀に持っていこうとしたお気に入りの衣類を取り出して、やはり骨のまわりに置いてやる。

続いて……大悟は紙袋から中身を取り出そうとした。

だが、その内容の曲々しさに、大悟はいったん骨とぬいぐるみに背を向けた。

たぶん瑞樹が好んだり愛着を持っていたものの逆だと思ったから。

フローリングの上に置かれたものは、あらためて、すさまじかった。

普通には着用しても意味をなさないような下着類。手錠、首輪、そしてさまざまな玩具と脱法ドラッグ。

出しながら大悟は顔をしかめていた。

中には大悟自身が体を売っていた頃の、嫌な記憶を刺激するものもあったのだ。

これを使って、いったい瑞樹は生前に何をしていたのだろうか……。

全部出し終わったとき、大悟はため息をついた。

何をしていたにしても、瑞樹はもういないのだ……。

大悟は、指定ゴミ袋とスーパーのゴミ袋を持ってくると、見えないようにそれをスーパーの袋にくるんで分別した。

たぶん、瑞樹だって未練はないだろう、そんなものに。

続いて入っていた紙袋をかさばらないように畳んで捨てようとした大悟は、それがうまく畳めないことに気付いた。

底のほうがなんとなくぷっくり膨れている。

大悟は再び紙袋をのぞき込んだ。もう何も入っていないはずだ。

「あ」

紙袋が二重になっていることに気付いた大悟は一人、声をあげた。

二重になった紙袋の底にまだ何かが入っているようだ。

重なっていることがわからないように紙袋の口の折り返しがきちんと被さっている。

その巧妙さに、大悟は何かを直感した。

何かを隠すべく、糊で貼り付けてさえある内袋を大悟は苦心してはがした。

「……!」

紙袋の二重底から出てきたものを見て、大悟は息を飲んだ。

そこにはセロファンの袋に小分けになった、大量の白い粉薬が隠されていた。

瑞樹を狂わせ、死に追いやったあの薬に違いない。

脱法ドラッグとわざわざわけて、こんな風に隠してあるのだから間違いない。

大悟は、帯状につながったままのセロファンの小包を乱暴に取り出すと、ぐしゃっと握りつぶした。

そのまま捨ててしまおうとして、こんなものをゴミに捨てたらマズイということに気付く。

水に流すしかない。

袋を切り刻むべく鋏を持ってこようとして、大悟の足が止まる。

 
 

「殺し……」

巌に問い詰められて将はついに答えてしまった。

恐くて顔をあげて巌の顔を見ることができない。

「殺し……だと?」

巌の声で忌々しい犯罪の名前が繰り返された。

将はだまって頷くしかなかった。

「将、本当にお前、人を殺したのか」

巌は、ソファからいつのまにか身を起こして、枯れ枝のような手で将の両肩を掴んでいた。

「将、顔をあげなさい」

絞り出すような声は、いっそうしわがれている。しかしその迫力に将は顔をあげた。

「本当なのか……、本当にお前が殺したのか」

巌の顔は、上からのアンティークランプの灯りで、その皺がいっそう深く見えた。

しかし丸眼鏡の奥の……いつもは皺に隠れたような瞳だけは、丸くこちらを向いている。

見開かれた目頭のピンク色が痛々しいほどだ。

それに反比例するように、将の目は巌の眼力を受け取るのに耐えられないがごとく、細くゆがんでいった。

歯を食いしばって、将は頷いた。

そのとたん、巌の喉の奥から「クカァァ」と声とも空気ともいえないような音が漏れる。

「戦争でもないのに……、お前は人を殺してしまったのか!」

巌は将の肩に手をおいたまま、悲痛な声を出してうなだれた。

巌の悲痛な声のままに、食いしばるようにぎゅっとつむった将の瞼から沁みだしてくるように涙が現れた。

それはひと筋を呼び水のように、あとからあとから流れ出した。

「何てこと……、何てことをしたんだ……」

巌も将と同じ顔で、涙を流していた。

将は、とめどもない涙を頬に感じながら、今までになく後悔している自分を感じている。

というより、そもそも本気で後悔したことがあっただろうか……そんな自分が恥かしく、苦しい。

罪を覆い隠した父に対しては、反発しか感じなかったが、今こうやって悲嘆にくれる巌を見て、

自分は敬愛する巌の血に殺人犯という泥をつけてしまったのだ、と気付いた。

いまさら気付いても、もう遅い。

巌に申し訳なくて泣く将の脳裏に、長い巻紙がほどけるように蘇った。

菩提寺で見せてもらった、家系図だ。

あのとき……血のようだった夕陽に、将は血脈を感じて息苦しくなった。

その息苦しさの正体は、これだったのかもしれない。

古びて黄ばんだあの重い和紙を、将は自ら血で汚してしまったのだ……。

「ヒージー、ヒージー、……ごめん、……ごめんなさい」

ヒージーは白目を真っ赤にして泣いていた。

たぶん将の目も同じようになっているだろう。

100歳と18歳の泣く顔は、血のつながりのままに、虚しいほど似ているのだった。

それを、古い洋館のアンティークランプの暖かい色が、哀しげに包んでいた。

 

巌は、袂からハンカチーフを取り出すと、丸眼鏡を取って自分の涙をぬぐった。

そして、大きくため息をつくと、ソファに再び寄りかかり、目を閉じた。

将は、巌のソファの腕置きにもたれてまだ泣いていた。

しゃくりあげるように泣くのは、いつ以来だろうか。

静けさが、夜寒と共に、しのびよってきた。

泣いて腫れた唇に、瞼に、その冷ややかさが差し伸べられる。

しばらくののちに

「もう泣くな。やってしまったものは……いくら後悔しても消えんのじゃ」

巌は丸眼鏡を掛けなおすと、将に声をかけた。

その口調は落ち着いていたとはいえ、声は普段になくしわがれていた。

「誰を……、何故殺した」

将は何を言っても、言い訳にしかならないように思えて、鼻だけをすすった。

巌は、軽くため息をついた。

「康三は、お前の罪を、友達の大悟くんに被せたのだな」

「……ハイ」

将は、新たに湧き出た涙を手の甲でぬぐって、鼻をすすった。

「……わかった。大悟くんの保護者の件は、ワシが手を尽くそう」

しわがれた声ながら、どっしりとした口調で巌はそう言うと立ち上がった。

「お前は……せめて康三の配慮を無駄にするな」

それだけ言い残すと巌は、将に背を向けて、母屋へ続くドアのほうに歩こうとした。

その体がグラリと揺れる。

「ヒージー!」思わず将は涙と鼻水をたらしたまま、巌に駆け寄る。

「……大丈夫じゃ。将、ステッキを、ステッキを持ってこい」

ヒージーは漆喰の壁に寄りかかった。

動転している将は、暖炉のわきに立てかけてあった巌のステッキを取ることだけに夢中で……巌の息がいつもより荒いことに気付いていない。

第195話 禁断の告白(1)※改題

ミニは雨に濡れた道路を走っている。

黒く湿った道路とタイヤが立てる冷たい音が、どんよりとした空の下で将の心と共鳴していた。

将は西へと車を走らせながら、寂しかった。

聡の前では、ものわかりのよい男を演じていたけれど、心は孤独で千切れそうだった。

『あたしね。あのマグカップ見るたんびに、あのときの嬉しさが蘇るんだ』

嬉しそうに目を細めていた水曜日。

『忘れ物』

いたずらっぽい瞳で唇を指差した今朝。

そこから、どうしたら……こんな風に鮮やかに、将の期待を裏切れるのだろう。

聡を恨みそうになるのをこらえるようにアクセルを踏む。

苦しげなエンジン音はそのまま苦しい将の気持ちになる。

将は苦しさに唸りをあげるようにして、濡れた道路の音が聞こえなくなるまでアクセルを踏み込む。

そうしないと……涙がこぼれてしまいそうになるから。

こうして大磯をめざしているとクリスマス前の気持ちが蘇ってくる。

あの頃、聡に見捨てられたと思った将は、軌道をはずれて、ひたすら太陽から離れ、宇宙空間へ迷走していく惑星のような寂しさを感じていた。

今また、こうして東京から離れていくのは、ひょっとして、太陽の重力圏を離れていっているようなものなのではないだろうか……ふとそんなことを考えが浮かぶ。

ばかばかしい。

将はすぐに否定した。

今はあのときとは違う。今日は、単に、肉を食いに行くだけの話だ。

それに聡から見捨てられたわけでは……。

もしかして見捨てられたのだろうか。

聡は、将の何かに、愛想をつかしてしまったのだろうか。

ひとたび湧き出た疑問に、将はすぐに引き返して聡に確かめなくてはならない気持ちに支配される。

だけど、もう出口のICだ。

物狂おしいほどの思いは消化できないまま、将はヒージーの家へ向かうしかなかった。

 
 

「そうか、あきらさんは具合が悪いのか」

ヒージーこと巌は少しがっかりした顔をした。

「ああ。4人で食っちまおうぜ」

将は上着を脱ぎ捨てながらそっけなく言った。

4人というのは、将、巌、ハルさん、運転手の西嶋さんのことである。

「ケンカしたのか?」

「……そうじゃないけど」

目を伏せた将の寂しげなようすを、巌は丸眼鏡の奥から心配そうに見た。

「ハルさん、手伝うよ」

将は、巌の視線に気付かないふりをして台所で野菜などの準備をするハルさんに声をかけた。

 

淡いピンクに見えるほどにサシが入った高級な米沢牛は、本当にたっぷりあった。

しゃぶしゃぶ用にあらかじめ薄くスライスされたものと、塊のままのものが大型冷蔵庫を占拠していた。

晴れていれば薪でバーベキューにするのもよかったが、あいにくの雨である。

炭火を起こして、飛騨こんろで炭火焼にすることになった。

ハルさんや運転手の西嶋さんは

「私らまでお相伴させていただいちゃって」

と恐縮していたが、もともと巌の家族のようなものである。

おまけに料理の腕が二人とも素晴らしいのだ。

しゃぶしゃぶにはハルさん特製の胡麻だれ、それと西嶋さんは

「オードブル程度で……」と謙遜しながら炙り寿司をつくってくれた。

そこへ、巌が土蔵から文字通り『秘蔵』のシャトー・マルゴー89年を持ってくる。

将が生まれた年のヴィンテージだ。

わざわざ、この日のために用意していたに違いない。

将は巌の心遣いに、冷えた心がほんのり温まる気がした。

肉の素晴らしい味もさることながら、将がここに預けられていた頃からの古い顔なじみで、久しぶりに将は温かい団欒の夕食を過ごせた。

本来だったら、大食いするような気分ではない将だが、それをすっかり忘れて肉の旨さに没頭する。

渋みの利いた、フルボディのシャトーマルゴーは、ぼってりと甘い米沢牛の脂をすっきりと洗い流して、また新たなる食欲を引き起こす。

それを繰り返しているうちに、一同、腹が重くなるほど、肉を堪能していた。

「まだ肉はたっぷりありますよ」

とハルさんが言う。

「もう入らんわ。将食え」

「もう俺もダメ」

若い将にしてももう腹がはじけそうだった。体が牛になりそうなほど重い。

「じゃあ、明日、牛たたき丼にでもしましょうか。牛丼でもいいですけど」

と西嶋が提案するが、将も巌も顔をしかめて

「今、その話はやめて」

と声がそろってしまった。次の瞬間顔を見合わせて、大笑いした。

じゃあ、食後のコーヒーにしますか、とハルさんは洋館の灯りを点けた。

食事は母屋でいただいたのだが、食後は茶室がわりのそこで寛ぐのが巌の好みだからだ。

雨はもう上がっていて、空は藍色に晴れて月が出ていた。

ただ日中陽がささなかったので、少し冷える。

暖炉ではいくらなんでも強すぎるので、将は火鉢に炭を起こした。

ハルさんはコーヒーと一緒に手作りの小さなみつ豆を切子のお猪口に盛ってきた。

家で寄せた透明とミルクの寒天に、赤えんどう、そして黒蜜だけのシンプルなものだが、これまた将と巌の大好物のデザートだった。

「こりゃー、舌がすっきりするわい」

と巌が上機嫌なところを狙って、将は頼みごとをすることにした。

ワインのおかげですっかり忘れるところだったが、大悟の保護者の件である。

幸い、ハルさんも西嶋も片付けをしているせいか、こっちに来る気配はない。

「すっかり、食べ過ぎたなあ……極楽、極楽」

巌は、一人がけの皮のソファーに身を預け、台に足を乗せ、夢見ごこちの瞳をうっとりと閉じた。

「あのさ、ヒージー。頼みがあるんだけど」

将ももう1つの1人がけのソファに身を沈める。重力を忘れるような、絶妙のすわり心地だ。

「ああ、電話で言ってたな……。何だ」

あいかわらず100歳にしては素晴らしい記憶力だ。

「あのさ……。俺の友達で、島大悟っていうやつがいるんだけど……」

将は、保護者がいない大悟の境涯と自分との関係をざっと話した。

ちなみに巌は、将が殺人を犯して隠していることは知らない。

あのことは、父の康三と三宅弁護士、それと毛利ぐらいしか知らないのだ。

父にも口止めされているし、あの現場にいたヤクザの片割れが殺されたことも知っている将は、たとえ相手が巌だろうと今まで話さなかったのだ。

ゆえに将は少し説明に苦労した。

「あいつ保護者がいなくていろいろ困ってるみたいなんだ」

程度しか大悟の困窮について述べることができなかった。

「それで、ヒージーだったら誰か保護者になれそうな人を紹介してくれるかな、と思って……」

案の定、ヒージーは眉を少し寄せた。疑念のある表情だ。

「それは……いくらでも紹介はできるが……。将、お前はどうして、そんなにその友達のために世話を焼くんだ」

部屋を間貸ししているだけで十分なのではないか、ということだ。

「いや……。保護者がいないと、受け取れる金も、もらえないみたいなんだ」

「なんだそりゃ。本人の金なら、保護者も何も関係なかろう」

将は、ワインのせいで表面に薄い膜が張ったような脳を必死で動かそうとするが巧くいかない。

「いや、そうじゃなくて……」

将は小さく舌打ちした。

「何か、お前、秘密があるんじゃろー」

巌は、ワインの酔いで赤くなった顔を、ぐいと将の方に向けた。そして、ふふ、と笑う。

「……何でも話してみろ。今更、驚かんわ」

もう一度、ソファに寄りかかりながら、腕かけをポンポンと叩いた。

そう言われると、将は、酔いのせいか、『あのこと』を話してもいいような気になってきた。

しかし核心は言わずにおく理性は残っていた。

将はソファから立ち上がって、火鉢の炭をいじくりながら、

「実は、俺さ……前にちょっと悪いことをしちゃってさ。それで……親父がその罪を大悟に被せてバックれたんだ」

とだけ言ってみた。

できるだけ、その『悪いこと』が大したことのないように伝えながら、将の心は押しつぶされるような痛み……罪悪感を覚えていた。

殺人の重さはあれから2年以上経った今も将を大きく動揺させるのに変わりはない。

苦痛に耐えながら大悟のために続ける。

「で、代わりに、大悟は金をもらえるようになってたんだけど、何せ、俺らワルだったからさ……。未成年のうちは保護者がいないと、大悟はその金を受け取れないんだ。だから……、お願い」

「なーにをしたんだ」

巌はソファに寄りかかったまま、視線だけをだるそうに将に投げてきた。

「なんだっていいじゃん。……相当悪いことだよ」

そういいながら、将は緊張のあまり、震えそうになる。

さっきまでワインで火照っていたのに、なぜか寒い。火鉢の上に手と顔をかざす。

巌は目を三日月のように細めて

「オンナか」と訊いた。

「違う」

反射的に将はムッとした。

「そうか、オンナじゃないのか。……よかった、わしゃ、お前がどこぞの娘さんを手篭めにでもしたのかと心配したぞ」

「そんな極悪非道、するわけねーじゃん、俺が」

将は口を尖らせつつも、少し緊張が和らいだ。

「じゃあ、何なんじゃ」

巌は背もたれから身を起こして、食い下がった。

「いいじゃん、もう」

将はそっぽを向いた。すると巌は

「じゃあ、誰も紹介せん!」

とヘソを曲げて「ハルさん、ハルさん」と大声で呼んだ。2回目は声が裏返った。

母屋の奥から「はーい」と聞こえる。

「風呂じゃー!」と巌は叫ぶ。

ヤバイ。このままじゃ、本当にヘソを曲げたままになる。

「いや、ヒージー、困るよ」

将は、火鉢のそばから立ち上がると、ヒージーの腕かけのところに駆け寄った。

「じゃあ、何したんじゃ。教えなさい」

「殺し……」

将は、俯いて小さく呟いた。巌の目は恐くて見ることができない。

第194話 拒絶

――ピンポーン

チャイムの音が意味をなさないほどの直後に将は合鍵を使って部屋に入ってきた。

ベッドにもぐりこんでいた聡は、浅い眠りからとうに目覚めていたが、重い心にひきずられるように、

そのまま布団の中で丸まっていた。

雨の音はいつのまにか布団の中まで届かなくなっていた。

「アキラ!お待たせ!」

呼びかけられて聡は横たわったまま、のろのろと将のほうを振り返った。

「しょう……」

「行こうぜ。ホラ起きて」

将は聡の手を取って無理やり体を起こした。

体を起こした聡だが、顔は将のほうを見ることなく、そのまま下を向いてしまった。

「アキラ?」

聡は俯いてだまっている。

将は、遠慮なくベッド脇に腰掛けると、聡の肩に手をかけてその顔をのぞきこんだ。

まっ白な顔色の中で、黒目がちの瞳がいっそう目立つ。

それは、一瞬将の目のあたりまでもちあがったものの、またすぐに墜落してしまった。

「アキラ……大悟はもう大丈夫だってさ。だから、行こう?」

「将……」

将は、優しく聡をうながした。

だけど、聡の視線は墜落したまま、動かない。長い睫だけがときどきしばたくのが見えるだけだ。

「将……ごめん。あたし、今日、行けない」

「え」

という形の口から将は息を吸い込む。それは鼻から同じ勢いで出て行った。聡の肩から手が離れる。

――やっぱり。

将はさほどショックを受けなかった。こんなことだろうというのは少し予想していたから。

『行けない』と言ってしまった聡の視線はようやく、将の顔まで浮上した。

その顔に、あきらかな落胆が見えて、聡は言い訳をする。

ショックは薄かったが、やはり将の顔には正直に落胆が現れてしまったのだ。

「具合が……悪くなっちゃったの。本当にごめん」

たしかに、体はこれ以上ないほどだるかった。

「ぜんぜん出られない?」

将は咎めるような口調ではなかった。あくまでも優しい。

のぞきこむように、見つめ返されて、聡の視線は再び墜落してしまった。

「今日さ……。俺を可愛がってくれたひーじーさんが大磯に住んでるんだけど。アキラをつれて来いって言われてて……。米沢牛がいっぱいあるんだって」

将はゆっくりと聡に語りかける。

「俺も……、アキラをひーじーさんにぜひ会わせたいんだ。ホテルはいいから、一緒に来てくれないかな」

ひーじーさん、曽祖父。……将の家だったらたぶん、大臣経験者だろう。

家の……言って見れば長老に自分を会わせたいという将の気持ちは、とても嬉しいけれど、今のこんな状態では会うことはできない。

「……ゴメン。無理」

「アキラ……」

将は、うつむく聡を見つめた。

やはり、大悟に何かされたのか。それとも傷つくことでも言われたのだろうか。

しかし、それを口にすることは憚られた。聡は電話で、何もない、と言い切っていたのだ。

疑問を繰り返すことは、聡と大悟の両方を疑うことになる。

将は、聡の表情に何か鍵がないか、覗き込みながら確かめる。

「……どうしても、だめ?」

聡はうつむいたまま、うなづいた。

「ごめん。将……悪いけど、今日はダメ」

「そうか……」

聡の表情からは何も読み取れなかった。

だけど、何かを隠している、と将は直感した。でも……問い詰めても絶対に言わないに違いない。

将は聡の肩にふたたび手を添えると、そのまま聡の体を元通りに横たえた。

そして布団を掛けなおす。

「俺……、今日付き添っていようか?」

将は縋るように聡を見つめた。

聡は将の寂しい瞳の色を見つめた。そのいとおしさは変わらないのに。

だけど、非情にも、首を横に振ってしまう自分に、より胸が苦しくなる。

「ううん……。おじいさま、たぶん将を待ってるわ。お肉もたぶん、将のためにわざわざ用意したんだと思う」

「アキラ……」

「私は寝てれば大丈夫だから……。悪いけど一人で行って」

将の誕生日を祝うはずなのに、どうしてこんなひどいことを言っているんだろう。

聡は自分の心がつかめなくて軽い吐き気さえこみあげてくる。

それを押さえるように寝返りを打って、視界から将を追い出した。

「アキラ……」

背を向けた聡に、将ははっきりと『拒絶』を感じた。

「アキラ……。俺、なんにもしてないよな」

将は立ち上がると、横たわる聡に確かめるべく問い掛けた。

拒絶されるようなことをした覚えは……どんなに考えても思いつかない。

「俺、アキラを傷つけること何もしてないよな。してたら……謝る」

「将は……なんにもしてないよ。あたしが……勝手なだけ」

背を向けたままの聡から、くぐもった声が聞こえた。

そのまま、沈黙が壁のように将を遮った。

冷蔵庫が、かすかに不快なモーター音をたてている。

将はそれに抗うように思い切っていう。

「アキラ……。俺さ。高校にいる間はプラトニックがいい、ってアキラが言うなら、それでもかまわないよ」

将の口調はあくまでも穏やかだった。

「……できないからって、俺の気持ちは変わらないから……。そんな軽い気持ちじゃないから」

10代のまだ青さが残る口調で、一生懸命に伝えようとする。その真摯さは聡にも伝わった。

「前にも言ったと思うけど……アキラは俺の運命のひとだから」

その声に思わず、横たわったままの聡の目から涙がこぼれる。

何かを感じる前に……反射のような涙。左目の涙は右目に入り、そのまま目じりを伝って、枕に落ちていった。

しかし、それは顔の半分を覆った布団で将からは見えなかった。

本当は、聡がどうしてこんな風になったのか、なんとか知りたい。

それに、いつになく顔色の悪い聡が本当に心配だった。

だけど。聡の言うとおり、ヒージーは将のために肉を用意したのだろう。

誕生日の前後の土日にはいつも、ヒージーは将の好物を用意して、強引に呼びつけるのが毎年の習いだったから。

「アキラ……。じゃあ俺、行くから」

将が行く気配を聡の背中は察知していた。

「あとで、電話するから」

「うん」

聡はあいかわらず体を動かさないで小さく返事だけをした。

空気がうごくのがわかる。

呼び止めたい。だけど……。聡の体はびくとも動かない。

ドアが静かにあいて、そして閉まる……そして、外から鍵をかける音を聡はなすすべもなく聞いていた。

将が完全に行ってしまって、ようやく聡は体を起こした。

「将……」

涙をぬぐう。

こんな風に泣くぐらいなら、どうして将にもっと優しくしなかったのか。と自分を責める。

――あんなに楽しみにしていたのに……。

将の嬉しげな様子が聡の脳裏に蘇る。

将が……もちろん聡も楽しみにしていたイベントを聡は自ら壊してしまったのだ。

楽しみにしていたイベントをすっぽかされたのに、将は優しかった。

それを思い出して、聡の目にさらに新しい涙が大量に湧き出てくる。

それを拭うためにティッシュを取ろうとして、聡の視界に小さな紙袋が目に入った。

将にプレゼントとして渡そうとした万年筆が入った紙袋だ。

18歳のプレゼントも渡させなかった……聡は床に座り込んだ。

第193話 禍々しい形見(3)

電話から聡の声が聞こえなくなると、部屋は再び湿った雨音に包まれる。

将は、ソファーにごろりと寝転んで暗い天井を仰いだ。

昨日のワークアウトの残滓か、体がだるい。わずかだが体を動かす度に筋肉痛もある。

大悟を探す、と聡に返事はしたものの……電話もつながらない状況だ。

小山にいる瑞樹の祖母から大悟に連絡があったというが、それだけでは本当に小山にいるのかどうかもわからない。

よしんば、小山にいたとしても、将には瑞樹の祖母の家がどこだかもわからない。調べようもない。瑞樹の自宅に聞けばわかるのかもしれないが、そもそも自宅の番号を知らない。

瑞樹自身が家に帰りたくないといっていたせいなのか、将はそれを知らなかったのだ……。

それに小山は新幹線が止まるような駅だ。駅をずっと見張るというのも無理があるだろう。

それに、だいたいこんな雨だ。人を探すのには不向きだろう。

将は、すぐに出かけない言い訳をしながら再び、ため息をつく。思考を聡の方に向けてみる。

――今日もダメなのかな。

電話の聡の声を思い出せば、早くもそんな諦めが浮かんでくる。

将の予定では、今ごろ、聡を迎えに行って、どこかでランチでも食べて、ホテルを目指している頃だ。

今まで何度も、聡を抱くチャンスがあったのに、そのたびに邪魔が入ってまっとうできなかった。

今回もそうなのだろうか。

将は頭を抱えて、横向きになり、窓を見る。

考えてみれば、聡は、卒業するまで『男と女』にならないほうがいい、といつも言っていた。

それを……せっかく18歳になったのだから、と将がなかば強引にお願いした部分もある。

それでも、今回は聡も楽しみにしているようだったから、今度こそ、と将は期待したのだが、ひょっとしたら大悟の件でお流れなんだろうか……。

将は、もう一度天井を見上げる。そこに聡の姿を投影する。

将はそれを一瞬うらめしく眺めようとして、それでも狂おしいほどに逢いたい自分に気付く。

本当は聡を抱きたい。だけど抱けなくても逢いたい。

もしダメなら、それでもいい。

そんなことで、自分の聡への思いは変わらない。

どんなにじらされても、待たされても……。

将はそれほどに聡が必要な自分を再確認した。

出かけてみるか、とのろのろ起き上がる。

しかし、雷はおさまったものの、あいかわらず雨は続いているようだ。

将は地図を持ってきて開いた。

「ゲー、大磯より遠いじゃん……」

将のマンションからだと、小山はヒージーのいる大磯より少し遠いようだった。

いるかいないか不確実なのに、そんなところまで行きたくない。

と、将は、大磯と比べついでに、ヒージーこと曽祖父の巌を思い出した。

大悟の保護者を……ヒージーになんとかしてもらえないだろうか。

ヒージー本人は100歳だから無理だとしても、大臣まで務めた人物だ。

誰か紹介してもらえるに違いない。

保護者が見つかって、ちゃんとお金を受け取れるようになれば、少しは大悟も気が晴れるのではないだろうか。

将はさっそくヒージーに電話をかけた。

電話口に出たヒージーは、しわがれた大声で

「将か!ちょうどよかった。今から来い!」

と用件も聞かずに怒鳴るように言った。

補聴器を付けているのに、長年のならわしなのか、電話口の声が異常に大きい。

「え、どうしたの」

とまどった将に、ヒージーは

「肉じゃ」

と嬉しそうに笑った。

「米沢牛のとてもいいところをたくさんいただいてな。ちょうどよかった。今日は学校は休みじゃろう。今からすぐ来い。夕食はしゃぶしゃぶと網焼きじゃ」

「いや、俺それどころじゃ」

「とにかく来い!」

日頃穏やかなヒージーだが、年をとったせいか、言い出したら聞かない頑固なときがある。

まさに今のヒージーはそうなっているようだ。

「いや、ヒージー、今日俺、彼女とデートなんだよ」

「あきらさんか。じゃあ、連れてこい。肉はたくさんあるぞ」

100歳の年寄りにしては記憶力がいいな、と一瞬感心した将だが

「そうじゃなくて……頼み事があって電話したんだけど」

と話を戻す。だが

「頼みごとだと?そんなものは、こっちで聞く。とにかく来い!わかったな」

と、一方的に電話は切れた。

将は携帯を握ったままボーゼンとしてしまった。

「連れて来いといわれても……」

聡は、さっきの話のようすだと、大悟のことをひどく心配しているようだ。

大悟のことをほったらかして、聡をホテル……ましてや大磯には誘えない。

将は三たびのため息をつくと、ダメもとで大悟に電話をかけてみる。やはり通じない。

時計を見る。まだ1時すぎだ。

そこで、昼食を食べていない将はひどい空腹に気付く。

一息入れてから、考えよう。

雨で外に出るのも面倒な将は、キッチンをあさり、カップ麺を何とか探し出した。

まだどうにでも出来る。

お湯をわかしながら将は考えた。

なんだったら夕食を大磯で食べて、そのあとホテルに入ってもいい。

極上肉のしゃぶしゃぶと網焼きの、こってりとした脂の甘味を舌の上に想像する。

目の前のカップ麺とのコントラストで、それは光り輝くような夢の味に思えた。

それは逆にいいアイデアなのかもしれない。

大好きなヒージーに聡を紹介する。

それは自分の愛の磐石さと将来への決意を聡に伝えることになるだろう。

――うん。そうしよう。大悟とは何とか連絡を付けて。

ようやく電気を付けたリビングで、カップ麺をすすりながら、その時点で、将は今日という日の幸せをまだ信じていた……。

 
 

時計はもう15時に近くなっていた。だるい体を起こすと将はソファで伸びをした。

昨日よく眠れなかった将である。カップ麺を食べ終わって、どうやらここで少しうたた寝したらしい。

雨音は若干弱まったようだ。

将は、もう1回大悟に電話をかけた。今度はあっさりと繋がった。

本当は、大悟が列車を降りて、瑞樹の祖母・春江に連絡を入れた13時30分前……つまり、将がさっき連絡した直後には繋がるようになっていたのだのだが。

「……大悟?俺」

つながることを想定していなかったので、何て声をかけるべきかを何も考えていなかった将はつい

「昨日は……ごめん」

などと言ってしまった。

言ってしまったあとで何で自分が謝らないといけないんだ、と一瞬後悔した。

だが、やはり暴力をふるったのはいけなかった、とすぐに思い直して撤回はしなかった。

すると大悟のほうからも

「俺の方こそ……悪かった」

と返ってきた。

「大悟、今どこにいるんだ?」

「小山。だけど、もう帰るよ」

やはり大悟は小山にいた。聡が言っていたとおりだ。

「瑞樹のばあさんちか」

「ああ」

「……迎えに、行こうか?」

「いや、いい。寄るところもあるし」

「そうか……」

将はホッとした。迎えに行こうかと提案しつつ、もし頼むといわれたら困る将だった。

何せ、小山まで2時間ぐらいはかかる。往復すれば4時間。もし迎えにいけばヒージーの家にいけなくなってしまうからだ。

「それで大悟……、大丈夫か?」

そんな計算をした罪滅ぼしのように、将は親身な声を出す。

「うん」

短く返事をする大悟の心中など、将はわかるはずもない。

瑞樹の後を追うことを考えた大悟だが、瑞樹の形見を受け取ることでようやく踏みとどまっていた。

特に……残されたコインロッカーのキーに何か胸騒ぎがしていた。

それを確かめたい。絶望の中で、大悟に託された使命が、彼に死を忘れさせていた。

そこへ、ホームに電車が近づくというアナウンスが聞こえた。

将は思わずドキッとする。『あの』現場にいるのでは、と思って思わず携帯を握り締め

「今、駅か」

と問う。

「ああ」

大悟はあいかわらず短く答えた。続いて列車がホームに入ったらしい轟音が聞こえてきた。

大悟がいるのはどうやら在来線らしかった。

「じゃ、俺、電車に乗るから」

アナウンスをバックに大悟の声が聞こえた。

どうやら瑞樹の後を追うつもりで駅にいたのではないらしいのはそのしっかりとした口調からもわかった。

「大悟」

「将……。本当にごめんな」

大悟はそう言い残して、電話を切った。

何に対して大悟が謝ったのか、将はわかっていなかった。

それを知ったら、将は聡の元に行くのに、とてつもない勇気がいるところだった。

だけど……幸せなことに将は聡が、将の昔の罪を……そしてそれを大悟に着せて安穏としていたことを、すでに知っているなんて思いもよらなかった。

 
 

大悟は都内のS駅で快速列車を降りた。巨大なターミナル駅である。

大悟はポケットに手を突っ込んだまま、多くの人に紛れて足早にホームを降りる。

ポケットの中の手には、あのコインロッカーの鍵が握られている。

駅の係員を見つけた大悟は、コインロッカーの鍵を見せた。

この駅のであるというのはわかっているが、瑞樹が逝ってもう1ヶ月以上が経つ。

中身はとっくに出されて保管されているだろう、と大悟は思っていた。

だが、何人かの係員をたらいまわしにされた末に、

「ああ。これは長期契約分のコインロッカーですよ」

ということが判明した。

半年とか1年分の料金を払って、その間、コインロッカーを自分のトランクとして使えるシステムは、最近人気だという。

瑞樹はこのロッカーに半年分の利用料を支払っていて、ちょうど今月末が契約切れになるところだった。

大悟はこのロッカーの契約者がすでに故人で、中身を遺品として受け取りたい旨を伝えた。

こんなケースは初めてだったらしく、係員は他の係員と相談して、大悟に事務所から瑞樹の祖母の電話をかけさせると、念のために彼女に確認を取った。

「本来は、身内の方が取りにこないといけないんですけど……」

と係員は言ったが何せ、瑞樹の祖母・春江は小山在住である。

春江自身も電話口で大悟に譲りたいと希望したこともあって、FAXで印鑑付きの念書を取ったうえでようやく許可してくれた。

 
 

大悟は、教えられた場所にあるロッカーへ行った。

半年契約してまで、入れていた中身。

大悟は、ある予感がしていた。自宅はもちろん、将のマンションにも持って帰れないもの。

注射痕……そして、手首の擦れたような傷。

数々の生前の瑞樹が残した証拠の記憶が、歩く大悟にフラッシュバックする。

大悟は、ロッカーの前に立つと、唾を飲み込んだ。

人波が切れるのをわざわざ待って、大悟はキーを差し込んだ。

中には、大き目の手提げの紙袋が入っていた。

ブランド名が書かれた厚手の紙でできた紙袋なのに、ぷっくりと膨れて見えるほど中身が詰まっていた。

紙袋の口付近には、黒のTシャツが入っていた。

それを掻き分けて、大悟はさらに紙袋の深部をさぐる。

奥には派手な色の下着と一緒に手錠、首輪、縄、そしておぞましい道具類が入っていることが一瞬でわかり、大悟は顔をあげるとあたりを見回した。

誰もいない。

大悟はホッとして紙袋の口に元通りTシャツを被せた。

係員が立ち会わなくてよかった、と胸を撫で下ろした大悟は、その少し重い紙袋を持ち上げると、係員にロッカーの鍵を返すべく歩き出した。

第192話 禍々しい形見(2)

「……将、大悟くん、今考えると、何かすごく思いつめた感じだった……。だから……お願い」

聡に念押しされなくても、将は、大悟が心配でたまらなくなった。

聡と一刻も早く逢いたいのは変わらないが、こんな心配事を抱えたままで彼女を抱くのはよくないように思えた。

「……わかった。なるべく早く見つけて、そっち行くから」

電話を切った後で、将は深いため息をついた。

 
 

聡は、ベッドに腰掛けたまま切れた携帯を見つめた。そこには将の待受画像があった。

気取っているけど、くったくのない表情。

そんな将がいとおしいのは変わりはない。もし目の前にいたなら……そのぬくもりを確かめたくなるだろう。

だけど、彼は『殺人』という、人間に存在する罪の中でもっとも重いものを犯している。

聡は、将がその罪を犯した状況は理解していた。

仮に。

もし、聡の目の前で、将がヤクザに指を切断されそうになっていたら……そこに刃物があれば聡はためらわずヤクザにそれを突き立てるのかもしれない。

理屈、いや心でも、それは理解できることだ。

なのに。

とにかく今日は、将に抱かれるわけにはいかない。

聡は心の奥深くで、すでにそんな風にジャッジを下している。

大悟を探して、と将に願ったうち本心は1/3で、残りは、時間稼ぎだった。

将に対して時間稼ぎなんて真似をする自分が信じられない。

そんな自分が哀しくて聡は携帯を握り締めたまま、ベッドに再び倒れこんだ。

単に今はショックを受けているだけだ。

きっとそうだ。あまりにも事が衝撃的だったから。

そんな風に思い込もうとした聡は、いったん起き上がると蛍光灯を消す。

テレビのほうは、さっき消してある。

昼だというのに濃いグレーに沈んだ部屋は、外の激しい雨音がいっそう響くようだ。

雨音から逃げるように掛け布団とシーツの間に頭までもぐりこむ。

――とにかく今は少し眠ろう。

眠りは、尖った記憶を丸くさせ、波立った感情を静めてくれるだろう。

目覚めたときは、元のように、将に抱かれるのが待ち遠しくなっているに違いない。きっと……。

聡は布団で胎児のように丸まった。

布団の中まで忍び寄る雨音は、最初耳障りだったが、やがて子守唄になり、聡を午睡にいざなっていった。

 
 

大悟は、小山行きの快速に乗っていた。

聡の類推どおり、大悟は昨日、瑞樹の祖母から電話をもらっていた。

どうして、自分の番号を知っているのかわからなかったが、瑞樹の祖母は、遠慮がちな口調ながらも、大悟のことを瑞樹の恋人だったと認識しているようだった。

『先日、東京で、あのこの形見わけをしたんです。それで、もしよかったら、島さんにももらっていただけたら、あのこも喜ぶと思って……』

深酒をしたおかげで、すっかり忘れてしまっていたが、思い出した大悟は、さっそく今日もらいにいっていいか、と連絡を入れた。

小山入りするのに新幹線は避けてしまっていた。

いや、避けたくなくても、大悟の手持ちの金では乗れなかったのだ。

おかげで……あの惨劇の現場を直接目にすることなく、大悟は小山に着いた。

在来線でかつ昼のせいか、あの悲劇をオーバーラップさせる要素はほとんどなかった。

それでも『新幹線のりば』という案内板が大悟の心のかさぶたを引っ掻く。

あのとき、何も見えていなかったはずなのに。

線路上にうずくまる瑞樹。

次の瞬間には、もう縞模様になって通り過ぎる新幹線の車両しか視界になかった……。

あのとき、瑞樹の腕を掴めていれば。

いや、もっと早く、瑞樹を迎えに行っていれば……禁断症状が起きることに早く気がついていれば。

大悟は、今までに何度となく繰り返した後悔を再び繰り返す。

それを振り払うようにして、大悟は瑞樹の祖母の家方面のバスのりばに足を運んだ。

ここでも強い雨に、黒く染まったアスファルトが雨雲を鈍く反射していた。

 

もし、大悟が瑞樹の祖母を前から知っていたら、その老け込み方に驚いたことだろう。

しかし、幸い大悟は、前の姿を知らない。

茶色に染めた髪がとび色に見えてしまうほどのくすんだ白髪に、深く刻まれた皺のこの女性に何の疑問も持たずに挨拶をした。

瑞樹の祖母・春江は駅から少し離れた小さなアパートに独りで暮らしていた。

何の変哲も無いモルタルのアパートだが、雨の中、寄り添う木立がその建物を少し優しげに見せていた。

「あなたが瑞樹の……」

春江は大悟を見ると、涙を流した。

年をとって涙もろくなっているのだろうか……相手がおくめんもなく感情を見せる分、大悟は自然に気丈になっていた。

驚くことに、瑞樹の位牌はこの老婆の部屋にあった。

大悟は、はからずも、ここで焼香することができた。

線香の香りは、雨音が響くアパートの部屋に静かに広がっていった。

位牌と共に飾られた写真は、瑞樹が小さな頃のものと、大悟も持っているクラス写真の2つだった。

他人が見たら、その2枚は、同一人物とは思えないほど印象が違った。

小さい頃の瑞樹は、笑い声が聞こえてきそうな笑顔だった。まん丸なほっぺがいかにも健康的だ。

それに対して、クラス写真はまっ白な顔に真っ黒な髪と、ファインダーに注がれる冷たい瞳。

美しいが見るものを威圧するような冷たさに満ちていた。

「あんな家に置いておくなんて、あまりにも可哀想なものですから」

と春江は大悟の背中に向かって激しい語調で言い放ち、また涙を流した。

泣き崩れるこの老婆は、瑞樹の死の真相を知っているのだろうか。

直接的なもの……覚醒剤のほうはおそらく知らないだろう。

だが間接的なほうは……すなわち、義父からの性的虐待については知っていたのだろうか。

だが、霊前でそれを口にするのを憚られた大悟は、代わりに訊いてみる。

「僕のことは、どうして……?」

「瑞樹が、教えてくれました。大事にしてくれる人と一緒に滋賀にいく、って……。あのこが逝く1週間前に……」

春江の瞳は、まるで涙の塩が水晶体にこびりついてしまったようなグレーだった。

そんな目をしばたかせながら、生前の瑞樹のことを話し出した。

「まだ17歳ですから、私は心配だったんですが、とても落ち着いてて、今までになく幸せそうな様子だったので……」

言葉と一緒にほとばしり出るように、グレーの瞳からは、また涙が溢れてくるのだった。

天が彼女に同情するように、雨音はあいかわらず続いている。

    ◇ ◇ ◇

『滋賀って……お前、高校はどうするのかい?』

『もう、ほとんど行ってないもん』

と瑞樹は春江に笑顔を見せた。

『もし必要なようだったら、大悟と一緒に夜間にでも行くよ』

『でも……滋賀は、遠いねえ。こうやってしょっちゅう遊びにこれなくなってしまうんだろ』

『おばあちゃんが、遊びにきなよ。京都とか一緒にいこうよ』

『そうねえ……。その、大悟って人は、どんな人なの?』

『すっごく、いい人だから心配しないで。ほら!……いまどきの若い人にしては、まじめそうでしょ』

瑞樹はそこで携帯で撮影した写真を見せた。

瑞樹と一緒に新幹線でこなごなになったであろう携帯には、まだ今より髪が短い頃の大悟と瑞樹が写っていたという。

    ◇ ◇ ◇

大悟の携帯番号を聞いたのも、そのときだったという。

「一度、電話ででもご挨拶、と思っていた矢先に……ふびんな子だよ」

春江は、皺だらけの顔がほとびんばかりに泣き出した。

思わず、大悟の目も熱くなり、大悟はあわてて瞬きをした。

「あの……それで、形見を」

「そう、そうだったわね」

春江は涙をぬぐうと、奥の間によろよろと入って、ボストンバックを持ってきた。

「これ……。あのこが滋賀に持っていこうとした荷物です」

大悟は、開けてもいいかと訊いて、そのジッパーを開けた。

「着替えが中心なんですけど……」と春江が言い添える。

きちんと収まった荷物の一番上に、小さなぬいぐるみが入っていた。

白、というよりはグレーの小さな掌サイズの犬。

大悟はそれをそっと取り出した。

「小さい頃あのこは、それをとっても気に入っていてねえ。お母さんに構ってもらえないからなのか、いつも独りでそのこを握りしめててねえ……」

白かったであろう犬は、瑞樹の愛着のままに、その孤独を吸い込んだような寂しげな色に染まっている。

大悟の手の中で、犬はその黒い瞳を大悟のほうに向けた。

はっきりと表情をつくっていない犬の顔は、嬉しいようにも悲しいようにも見えた。

大悟は犬をそっと握ってみた。犬は、古いぬいぐるみ特有の柔らかい感触を大悟に残した。

おそらく、幼い瑞樹の心に同情するように共鳴して、その表情を変えたのだろう。

「そのバッグはあの駅の……ホームに置いてあったんです……」

そういうと、春江はまた湧き出た涙をぬぐった。

犬は……バッグの中で、瑞樹の最期にどんな表情で沈黙していたのだろうか。

それはわからないが、大悟の手の中の犬は、とてつもなく寂しげな顔に見えた。

正視することに耐えられず、犬を握ったまま、大悟は下をむいた。

そのジーンズの腿に、パタパタという小さな音と共に、濃紺の丸い染みが複数現れた……ついに堪えられなくなった大悟の目から、涙が落ちたのだ。

「瑞樹……」

大悟は、このままだと、とめどのない哀しみに飲み込まれそうになる、とあわてて犬を絨毯の上にそっと置くと、涙を手の甲でぬぐった。

そしてボストンの他の荷物を注意深く出す。本当に着替えが中心だった。

ポケットに固い手触りがあった。

大悟は手探りでそれを探し出すと取り出した。鍵だった。おそらくコインロッカーだろう。

「何かしら……気付かなかったわ」

春江が目を見はる。

第191話 禍々しい形見(1)

――ついに言ってしまった。

聡の部屋を辞してコーポの階段を降りきったところで、大悟は大きく息をついた。

一生、自分だけの胸に秘めていよう。いや、本当に刺したのは自分だと思い込もうとしていた。なのに。

――俺も救いようがないな。

階段を降りた大悟の前を、再び春には似合わない滝のような雨が阻む。

――将……ごめんな……。

重い荷物を吐き出して軽くなったはずの心だが、そこにはべっとりと冷たい空虚が残っていた。

別名、絶望というのかもしれない。

絶望は、親友を裏切ったことで、腹にたまった空気のようにさらに自らを不快にさせていた。

『生まれたことが間違いだから』

天からの啓示のように、脳裏に声が蘇る。瑞樹の声だ。

瑞樹がたびたび呟いていた言葉。

彼女からため息のようにその言葉が発せられるたびに、大悟は

『違う。生んだ親は間違いだけど、俺たちは頑張れば幸せになれる』

と励ましていた。だけど、今、瑞樹の気持ちは彼女が乗り移ったようによくわかる。

「瑞樹……。お前のところに行こうか」

死ねば無になるのかもしれない。

このどうしようもない、不快感とも、友人を裏切った後悔とも、そして生きるために必要な金銭の悩みとも別れられるかもしれない。

大悟はポケットから瑞樹の骨の瓶を出した。

骨は雨が別世界のように、瓶の中でさらさらと乾いていた。

いっそ、こんな風になるのも、いいかもしれない。

大悟は瓶の中の白い骨に憧れた。

それほどに……大悟は疲れていたのだ。

親にさえも頼らずに生きてきた大悟の精神は、ただでさえ限界だった。

そこに、殺人犯という重い十字架が加わり。

それに耐えるべく、庇護しつつ頼っていた瑞樹もいなくなり……もう大悟にとって、生きるということはつらいことでしかなかった。

『死のう』

ついに大悟は決意してしまった。あっさりと。

今の大悟には生へと引き止める未練など何も無い。決意してしまえば話は早い。

大悟は死に方を考え始めた。

その前に。

将に、あのことを聡に話してしまったことを謝っておかなくては。

大悟は、将に電話を掛けようとして、着信履歴から将の番号を探した。

そのとき、目に止まった番号があった。

昨日、聡との夕食の後に掛かってきた番号……瑞樹の祖母の番号である。

 
 

「もしもし……」

将からの電話に聡はすぐに電話に出た。

雷が一段落した分、間断なく激しい雨音が続いている。

「あ、アキラ。俺。今、試験場から帰ってきた」

「将……」

なんとなく、返答がだるそうに聞こえるのは気のせいだろうか。

「今日、大悟が来なかった?」

将は、思い切って訊いてみた。

「来たよ」

聡の返事に将は息を飲み込んだ。思わず

「それで!」

と反射的に訊いてしまう。その訊き方は答えづらい、と言ってしまった後で気付く。

だいたい、大悟が何で聡の住所を知っているのだ、と将の思考は慌てた。

しかし……将は思いなおす。将と同居しているのだから、いくらでも知るチャンスはあったのかもしれない。

現に、携帯やパソコン、車のナビから聡の住所の情報が知れる可能性はある。

「それで……って?」

聡は訊き返してきた。

単に質問の意味がわからないのか、それともつらい出来事を隠しているのかを将は、聡の声音から必死で判別しようとした。

「何も……なかった?」

直接的なマズい訊き方だと自分でも思う。

「それ、どういう意味?」

聡の答え方にずっしりしたものを感じてしまう。

「いや……、大悟、聡の部屋にわざわざ何しに行ったのかな……と思って」

「……悩みを、相談しに来ただけ、だよ。……大悟くん、部屋に戻ってないの?」

「ああ。いない」

答えながら、将は聡の答え方について、いやにゆっくりしすぎていると思った。

考えながら、言葉を選んでいるような印象。

それが、将には、悲劇的な出来事を隠しているように思えた。

「アキラ、大悟に何もされなかった?」

将は、あえて直球を投げてみる。

「何もって、何よ。あるわけないじゃない」

怒ったような聡の口調。それでようやく将は安心することができる。

「……自分の、友達でしょ」

怒りだけでなく、軽蔑を含んだ声が電話の向こうから付け加えられ、将は慌てた。

「いや、大悟の様子が変だったからさ。アキラ、大悟、ヘンじゃなかった?」

とフォローを加える。

「……いろいろ悩んでたみたい」

あいかわらず、いつもより低い聡の声。

だけど、大悟に何もされていないのなら、大丈夫。

最初の予定通り、ホテルでの逢瀬へと進めばいい。将は

「そうか。どうしたんだろうなー、あいつ」

声のトーンを無理やり変え、

「アキラ、今から迎えに行くから。準備は出来てるんだろ」

と明るい声を出そうと試みた。

しかし、電話の向こうからは、はずんだ返事は返ってこない。

沈黙が海底を泳ぐエイのようにのったりと横切っていった後、低い聡の声が聞こえてきた。

「将……」

「ん?」

ようやく、聞こえた聡の声は、

「大悟くんに会って」

というものだった。

「え?」

将は思わず電話を持ち直すようにして訊き返す。

「大悟くん、とても辛そうだった」

聡の方は。

将が何を心配しているのか、最初からわかっていた。

将も、大悟が置かれた危機的な状況がわかっているのだ。

だから自暴自棄になって自分に乱暴な形で手を出すのではと恐れていたのだろう。

しかし、大悟の自暴自棄は、別の方向になって自分に向けられた。

将が関わる大悟の不幸の原因の一角を、自分に告白するという形で……。

しかし、それを告白したことによって、大悟はより苦しんでいるのではないか。

聡は、大悟をそれほど知っているわけではない。だけど……

もう5年も将と友達だということ。

将から聞いた瑞樹の死への悲しみ方。

そして萩で一緒だった2~3日。

タンメンを一緒に食べた短い時間とその後……

断片的にしか過ぎない大悟の印象を組み合わせて大悟の人間像を類推する。

すると、どうしても、あのような秘密を暴露してすっきりするような人間ではない、という結論に至ってしまうのだ。

そして……電波の悪いテレビのようにざらついた聡の記憶の中で、聡の部屋を辞すときの大悟の暗い瞳がサブリミナルのように聡の中でフラッシュする。

「……だって、考えてみて。私のところに、わざわざ話しに来たんだよ」

聡は将に訴える。

「何の話、したんだよ」

将の質問に聡は答えられない。まさか将の人殺しを大悟が被っていることを告白されたとは……。

「それは……。悩みとか」

聡は言葉をにごらせた。

「とにかく、将。大悟くんが心配なの。私は待ってるから、大悟くんを探して」

無茶なことを言ってると、自分でも思う。

聡は……早く抱いて欲しい、戻れないところまで連れて行ってほしい、と願いつつ、実は殺人犯だった将に会うのが恐いのだ。

いや、将がこわい、というより、将にあって自分が何を口走るか、どんな態度を取るか、が恐い。

それで将に逢うのを必死で遅らせているのだ、ということを聡はとうに自覚している。

「……って、どこに行ったかわかんないし。電話さっきから掛けてるけどつながんないし」

聡は一瞬考える。

奇跡のように閃く昨日の記憶。あっ、と声に出す。

「昨日、タンメン食べた帰りに、大悟くんの携帯に、葉山さんのおばあちゃんから電話があった」

「え!それホント?」

「うん。瑞樹のおばあちゃん、って訊き返してたから。もしかしてそこに行くかも」

瑞樹の祖母は小山在住である。

その地名を思い出したとき、将の脳裏に暗雲のように1ヶ月あまり前の記憶がたちこめていく。

JR○山駅。鉄道警察隊。DNA鑑定。時速200キロの新幹線。

そこは……瑞樹が、そんなふうに最期を遂げた場所である。

そして、それは嫌な連想となって、将の中で自暴自棄の大悟とつながってしまった。

第190話 春の嵐(4)

「本当は……あのとき、ヤクザを刺し殺したのは……、将なんです」

飲んだ息が詰まっていくように苦しい。言葉はとうに失っている聡だ。

雨がひとしきり強くなった。ベランダの手すりを叩きつけるかのような音。

聡の瞳にひそむ『何故』をキャッチして大悟は続けた。

「あのとき……ヤクザが取り立てに来たとき、将も一緒でした。将はいつも俺とつるんでいましたから……」

聡は、大悟の話を聞きながら、自らの記憶との合致があることに気付いていた。

『鷹枝くんってね、人殺ししたって噂流れてるんだよ』

と言ったのは誰だったか。

「それでヤクザが俺の指を切り落とすって、俺を押さえつけて……。見ていた将がヤクザを刺したんです」

聡はつまった息を無理やり臓腑に落とすがごとく唾を飲み込む。目は見開いたまま瞬きを忘れてしまった。

瞳は大悟のほうを向いていたが、心は目の前の大悟ではなく遠い記憶を彷徨していた。

「それで、ヤクザは出血多量で死にました」

聡の意識はとうに、記憶の中の将のセリフを探し出していた。

『俺は何をしたって許されるんだ。人を、例え、刺し殺したとしても』

まさか、とは思ったが、現実に経験していたとは。

聡は、こびりついたような視線をギリギリと動かして墜落させた。

一方、大悟はどうして自分がそんな告白を聡にしているのかわからなかった。

こんなことは、今まで誰にも話さなかったことである。

自らこそが殺人者である、という身代わりを、当時15歳だった大悟だが、相当の覚悟で引き受けたのだ。

将の父親が相当な権力者だというのは知っている。もし、漏らせば自分の命も危ない。

現に、あのとき事件を目撃したもう一人のヤクザは消されているのだから。

なのに……どうして。こうも口を滑らせてしまうのか。将の最愛の女に向かって。

「先生。でも、将がヤクザを殺さなかったら、俺は今ごろ指がありません……」

目を伏せてしまった聡に、言い訳のように、将の正当性を付け加える。

聡は低い声で何かをつぶやいた。不明瞭で聞こえない。俯いた顔の中で長い睫がふるえているのがわかる。

低く屋根を振るわせるかのような雷が断続的に響いている。

と、聡は顔をあげた。本来だったら自然のまま整ったような優しげな眉毛が歪んでいる。

その下の目もせつなげに歪んで大悟を見据えた。

「将は……大悟くんに、殺人の罪を着せたのね」

「いえ……」

大悟は、聡の苦しげな瞳にひるんだ。あとじさりしたいほど動揺した。

「将自身は、そんなことしたくなかったと思います」

ふいに声になった自らの言葉を聞いて、大悟は、将を陥れたいわけではない自分に気付く。

では、なぜ、こんなことを聡に聞かせて、わざわざ苦しめているのだろう。

大悟は、手渡されたタオルを指で弄んだ。それは雨で湿っている。

しかし、話せば話すほど、心が軽くなっていくのも事実なのだ。

自分がわからないままに大悟は続けた。

「でもアイツは……オヤジが政治家だし……。罪をあきらかにできなかったんだと思います。俺は……それでお金もらうことになってたし」

そうだ。金だった。

母親が早くに出て行き、父親に育児放棄されたかのような大悟は子供の頃から、金に困っていた。

金を稼ぐことのつらさだったら、恵まれた現代には時代遅れなほど、身にしみていた。

それから解放されたかったのも、大悟がその罪を被ることに決めた原因だ。

――腹いせ?

結局、罪を被ることによって得る金を受け取ることが出来ず……逆に自分が犯してもいない罪で社会的に不利益を被っていることへの……腹いせを、聡にぶつけているのだ。

聡の方は……完全に黙り込んでしまった。

色々な思考が一気に聡に押し寄せ、何を話せばいいのかわからなくなってしまったのだ。

……否。

しばらくたって、聡は気付く。訊きたいことの大半は、将に直接訊くべきことだということに。だから黙るしかないのだ。

大悟へは……何もない。

唯一の疑問があった。どうして、こんなことを聡に話すのか、ということ。

それもすぐ計り知れた。

つらいことが続いた大悟はその元凶である身代わりのことを話すことによって、少しでもラクになりたかったのだろう。

案の定、大悟は

「先生。こんなことを言ってすいません。だけど、俺……、誰かに俺が前科者なんかじゃないってわかってほしかったから……。すいません」

としきりに頭を下げるではないか。

聡は、せめて首を振った。

「いいの。大悟くんは、本当に悪くないんだから……」

ほとんど惰性で言葉を並べる。

あとは……放心していた聡は、いつのまにか一人で部屋にいた。

部屋を辞していく大悟の暗い瞳は少し気がかりだったものの、聡は構うことができずに、気がつくと一人になっていた。

雨が降っていることもすっかり意識の外だったが、突然の激しい雷鳴に、ようやく自分を取り戻す。

「将」

声に出してみる。最愛の男の名前は、あいかわらずいとおしいままだった。

――将、早く迎えに来て。

そして……早く抱きしめて。すべてを忘れるほどに。すべて小さなことに思えるように。

いっそ……もう戻れないところまで連れていってほしい。

聡はベッドに突っ伏した。

そんな聡に、休みなく降りしきる激しい雨音が包む……。

 
 

「あの、鷹枝です。ええと、将です。……お久しぶりです」

「あ?将?いやー久しぶりだなあ」

三宅弁護士は突然電話をかけてきた将に、懐かしそうな声を出した。

そのまま近況から思い出話になってしまいそうなところを将は、ぐいっと方向修正する。

「あの、おじさんさ、うちに留守電入れたでしょ?今日」

本題である留守電の意図を三宅に訊く。

「え?」

「なんか、例のお金の件とか言ってたけど」

そこまで将が説明してようやく、三宅は、ああ、と声を出した。

「何、将の電話番号だったの?……つまり島くんは、将の家に住んでるの?」

「え、あの電話、大悟にだったの?」

二人ともが「?」を投げ合うようにして、お互いの答えを類推する。

「そうそう。そうかー、島くんは将と暮らしているのか」

三宅は、同じことを繰り返して

「お前ら、またワルやってないだろうな」

と笑う。その笑いは『もう更生している』という安心感を前提にしたもので、将も

「あたりまえっすよ。もう18ですから」

と笑いながら答えた。そして

「ところでさ、留守電で言ってた、例の金って何?」

将は気になったので訊いてみる。しかし、三宅は

「いや……」

と電話の向こうで口ごもった。

将は直感で、自分に関係することだ、とひらめいた。

「何で、島くんはこっちに来ることになったんだ?」

三宅は逆に訊いてきた。

「大悟、カンベツ出て愛知の親戚ンちに居たんだけど、酷い目にあったみたいで。殴られたり、給料ほとんど取られたり……。それで我慢できなくなって俺んちにきたんです」

将はさらに続ける。

「なのに昨日、なぜか急に、愛知に行ったんです。で帰ってきたら殴られたみたいな傷あるし……。それと、さっきの留守電と何か関係あるんですか?」

「関係は……ないとはいえないが……。将、島くん本人に連絡をとりたいんだが」

三宅はどうしても、核心は将に言いたくないらしい。

だけど、将にはおおよその予想はついている。

「俺も連絡とりたいんですけど、あいつ携帯の電源切ってるみたいで。てか、なんか昨日から様子が変で……。おじさん、ひょっとして俺の身代わりのことで何かあったんですか?」

『俺は……もうダメだ』という大悟のかすれた声が、将の耳元に再びこだまする。

「む……」

三宅は電話の向こうで言いよどんだ。将はさらに切り込む。

「金って、大悟が俺の身代わりになるかわりに渡すことになってたんですよね?」

「将……」

将は別に驚かなかった。金で解決することへの痛みはあるものの、当然すぎる償いだと思うから。

逆に何の償いもなく身代わりになってもらっていたなら、将のほうがつらすぎる。

……もちろん、金で感情まで解決できるなんて思っていないから、それを話す将の心はチクチクとうずく。

「将、それがな……」

三宅は観念したように、話を始めた。大悟が三宅に何を相談したのかを。

話を聞いているうちに将の眉はみるみる歪み、しまいには逆立つほどになった。

「金は……大悟に渡ってない!? 愛知の親戚とやらが全部使い果たしていたってこと!」

将は思わず電話口に叫びそうになった。

「そうだ。大悟くんが高校に行っていると嘘をついてな。もちろんそんないいかげんな親戚に送金を継続できないから、次回からストップするが」

「あたりまえだ!」

将は怒りを吐き捨てるように声をあげた。

「ただ、保護者もいない島くんに、直接お金を渡すわけにはいかない。だが、お前と暮らしているならちょうどいい。とりあえず間接的に家賃や食費の補助はしてあげられるから」

「でも……それだけじゃなくて、なんとかならないのかよ?」

「とにかく、保護者を見つけることが先決だ。保護者がいなければたぶん、就職もできないはずだからね……。なんとかおじさんも、島くんの保護者になってくれる人はいないか探すから」

電話を切ったあとも、将は胸騒ぎが止まらなかった。

瑞樹を亡くし。就職も保護者がいないことで不利。……そして唯一の拠り所だった金も横取りされ。

傷が固まる前に掻き毟られるようなことが、ここのところの大悟に続いていたに違いない。

もう一度大悟の携帯に電話をかける。やはり電源を切っている。

『俺はもうダメだ』

暗いままの将の部屋に、稲光が閃く。

将はソファに腰を落とした。

心配と不安で頭を抱える……と、手が触れて、額の痛みが復活する。

ゆうべ大悟に頭突きをした名残。

『お前が瑞樹で遊んだ分、俺にアキラセンセイを貸してくれたっていいだろ……』

――まさか。

突然、空襲か何かのような爆音が耳をつんざく。すぐ近くに雷が落ちたのだろう。

『俺はもうダメだ』

『アキラ先生とやらせろ』

『俺はもうダメだ』

『アキラ先生とやらせろ』

『俺はもうダメだ』

『アキラ先生とやらせろ』

ゆうべの大悟の言葉が将の脳裏をぐるぐると回転する。

回転速度はどんどん速くなり……ついに2つの言葉が合体してしまい、自暴自棄という答えを出す。

考えたくない。そんなことをするやつだと思いたくない。だけど。

嫌な予感に、将は跳ねるように立ち上がり、携帯を手に取った。

そして聡の無事を確かめる……。

第189話 春の嵐(3)

とうとう、将は正式な免許証を手にした。

とれることはわかりきっていたが、『ヤッタ!』という満足感がひたひたと押し寄せてくる。

18歳になったと同時に、将が前から決めていたことがある。

それは、17歳までの、ウソの自分を金輪際捨てるということだ。

もう『山田』は必要ないから。

ちなみに、家庭教師も3月で辞めている。

教え子やその親は

『山田先生ぐらい、わかりやすくて面白い先生はいない』

と残念がったが、

『大学も3回生になるし、司法試験の準備に力を入れたい』などと言い訳をした。

今まで17歳を20歳といつわって家庭教師をしてきたことについて何の罪悪感も持たなかった将である。

だが最後の授業の別れ際、教え子の

『先生、頑張ってね』

というけなげな瞳を見た将は、ウソをつくことは……たとえどんな内容にしても、そのつじつまを合わせるときに、誰かを傷つけるものだ、と学習した。

思わず『自分はまだ高校生だけど、それでもいいか』と喉まで出かかったのを、かろうじて押さえた。

教え子はいいにしても、三流高校在学中の将を親が許すわけがないから。

しかし仮に、将がモデルを務めた雑誌を、親が美容院かなにかで目にしたとしても、すべては後の祭り、もう咎めたてはしないだろう。

責める理由のない成績を、将は教え子につねにキープさせてきたからである。

あとは弁当屋だけだが、こっちは高校を卒業して、晴れて聡と結婚することになったときにバラすくらいで大丈夫だろう。

――驚くだろうなあ……。

将は、自分の免許証でミニを運転しながら、その様子を想像して思わずにんまりした。

そして、あとわずかに迫った聡との逢瀬に、自然に思考が浮遊してしまう。

雨はあいかわらずひどく、フロントガラスの上を早い速度でワイパーが稼動している。

「おっと」

将は急ブレーキを踏んだ。前の車との車間距離が急激に狭まっている。

角を曲がろうとした前の車が急ブレーキを踏んだらしい。

車の陰からレインコートを着て傘をさしながらの人が操る自転車がひょろひょろと見えた。

「危ないなあ。こんな雨の中チャリなんか乗るなよ」

将はフロントガラスに向かって思わずつぶやく。

そうだ。自分の免許証、ということは事故を起こしたら大変だ。

といっても。偽造免許証だった昔は事故を起こしたら逃げるしかない状況ではあったのだが。

雨のせいか渋滞気味の道路に、将は舌打ちした。

濃いグレーを基調とした風景。濡れた黒い路面に赤く反射するテイルランプが明るく見えるほどの暗さ。

よく眠れなかったせいか少し疲れている。そう自覚した将は、ハンドルに突っ伏すようにした。

……と、昨夜大悟に頭突きをした額がハンドルに触れて痛んだ。

額は、コブになっているようだ。それで大悟のことを思い出した。

『俺は……もうダメだ』

何が、もうダメなのか。聡と逢う前に一度、相談に乗ったほうがいいのかもしれない。

免許がとれた嬉しさと聡と抱き合える喜びに、心が温かくなった将は大悟に優しく話を聞いてやりたい、できれば力になりたい、と思う。

将は、はやる気持ちで、マンションへと急いだ。

 
 

だが、マンションには誰もいなかった。

誰もいない部屋は、雨のせいか昼だというのに真っ暗で、留守番電話の赤い光の点滅だけが白い壁に反射してやたら目立つ。

どこに行ったのか。将は大悟に携帯電話を掛けてみたが、どうやら電源を切っているらしい。

将は、めったにつかわない固定電話機の留守番電話が点滅しているのを、無意識に押す。

『今日10時37分、一件です』という機械音声のアナウンスのあとに男性の声が続いた。

『弁護士の三宅です。携帯電話がつながらないので、こちらにお電話いたしました。例のお金の件ですが、こちらでもいろいろ方策を考えてみましたので、お電話ください』

将は、何のことかわからなかったが、この三宅弁護士は知っている。

将が小さい頃から家族ぐるみで付き合ってきた『三宅のおじちゃん』である。

人のよさそうな紳士を将は思い出した。将が13歳で非行に走るまでは月に1回程度交流があった。

父親の康三が、幼い将に『弁護士を目指しなさい』と言い聞かせていたのは、おそらくこの三宅のおじちゃんの影響だろうと将は思っていた。

その三宅のおじちゃんが今ごろ何の用だろう、と将はいぶかったが、今日、将はたしかに学科試験のときに携帯を切っていた。

幸い留守電には電話番号が表示されていたので、将は掛けなおしてみることにする。

 
 

「ごめんね。ちょっと寝坊しちゃったから」

バスルームで手早く部屋着に着替えた聡が、顔を出した。

「いえ、こっちこそ、突然お邪魔してすいません」

ローテーブルの前で大悟が神妙に頭を下げる。ちょうどコンロではいいタイミングでお湯が沸いたようだ。

突然の大悟の来訪に、聡はあわてた。

大悟は、雨に濡れそぼっていた。

傘も刺せなかったのだろうか、というほどの濡れ方に、聡はとりあえずパジャマ姿のまま、大悟にタオルを渡した。

ベッドにあわててカバーを引っ張り、暗い室内を明るくするために、蛍光灯とスタンド、そしてテレビを付けると、自分は部屋着を持ってバスルームに入る。

カーディガンを引っ掛けているとはいえ、いくらなんでも、ノーブラのパジャマのまま、10代の男の子をもてなすのは刺激的過ぎるだろう、と思ったからだ。

「うち、紅茶はミルクかストレートなんだけど、どっちがいい?」

「……ストレートで」

大悟は頭をタオルで拭きながら、おずおずと希望を述べた。

聡は自分の分だけミルクティーにした。

朝食もまだの聡は、少しこってりしたものが飲みたかったからだ。

鼻先をくすぐるミルクのこってりとした匂いに、雨の日の憂鬱さが融和されていく。

「ここ、どうしたの?」

聡は自分の額を指差すようにして大悟に聞いた。

将に頭突きをされた額は少し赤く腫れていた。

「……転んで」

大悟は下を向いた。

「あのあと?」一緒に食事した後か?と聡は訊く。

「……ハイ」

大悟は、下をむいたまま頷いた。

正直なところ、聡はいきなり部屋に来た大悟にとまどっていた。

どうやって自分の部屋の場所を知ったんだろうとも思ったが、将の親友である。

将が何かの折に教えたのかもしれない、と考えた。

自分のとまどいと動揺を隠すべく、聡は年上の教師らしく、まず会話の先制攻撃を仕掛けることに努力をしていた。

大悟は聡のそんな努力に気付かないように、沈んでいる。

そういえば……昨日、食事を一緒にしたときから、大悟は何かを背負っていそうな雰囲気だったことを聡は思い出す。

それに同情して聡は『悩みがあったら聞く』といい、少しでも元気が出れば、と5000円を手渡したのだ。

「さっそく、何か悩みがあるのね?」

聡はできるだけ優しく、大悟の顔をのぞき込んだ。

「……就職のこと?」

先回りした聡に、大悟の黒い瞳は、初めて視線をあわせた。

――綺麗な顔。

将とは違うタイプながら、ひどく整った顔を持つ大悟に、聡は一瞬みとれた。

しかし、大悟の視線は再び沈んでしまった。

「……それもあるかも、……しれません」

低い、消え入りそうな声。

この年頃の子の、こんなようすを聡は初めて見た。

絶望。という言葉が脳裏をかすめていく。恋人を失った彼は、すべてに絶望しているのだろうか。

「大丈夫よ、今に」

「センセイ」

聡の励ましの言葉は、急に遮られた。下を向いていた大悟が顔をあげて、こちらを見据えている。

「俺、鑑別所に入っていたんです」

聡は動揺が体に現れないようにするのに、最大の努力を払った。

目だけが、しばたいてしまったが、聡は黙ったまま、大悟を見つめた。

次に何を言うかで、聡は自分の態度を決めなくてはならない。

だけど、大悟も同じように、聡の言葉を待っているようだ。

じっと、聡の顔を見つめている。

まるで我慢比べのような時間。それはたいした時間ではなかったが……聡のほうから譲歩することにした。

「どんなことを……したの?」

大悟の喉がごくんと動く。覚悟を飲み下した反動のように

「人殺しです」

と呟いた。

聡は、目を見開いてしまうのを押さえられない。

人殺し。殺人者。聡の脳裏に、新聞沙汰になった、少年による凶悪犯罪が駆け巡る。

しかし……目の前の大悟に対して、不思議に恐怖感は湧かなかった。

この端正な顔の、実直そうな青年が人殺し。

それは、絶対に何か理由があるに違いない、と聡は思い込みたくて訊いた。

「あの……、どうして……、殺したの?」

「俺、父親も前科者で……」

聡が息を飲むのが、大悟にはわかった。なぜか快感を覚えて一気に話す。

父の借金のこと。それを取立てに、たびたびヤクザのような連中が来ては、大悟に暴力をふるったこと。

「……それで、ある時、借金を障害者年金で払えって、指を切り落とされそうになって……。それで、はずみで刺してしまいました」

「……じゃ、ほとんど正当防衛じゃない」

息を詰めて聞いていた聡は、ほっとしたように肩を落とした。

「……よかった」

聡は独り言のように呟いて、ミルクティーのカップに顔をうずめる。

こくん、とミルクティーを一口飲むと、

「大悟くんは悪くないよ。……みんなそう思うよ」

と微笑を作った。

「悪くない、と思ってくれますか」

大悟は自らの犯罪を告白したときと同じ口調で、聡に問い掛けた。

まるで何かを確認するかのような口調だった。

聡はうなづく。

「私は悪くないと思うよ」

大悟は「そうですか」と俯いた。

なぜ、ここで俯くのか聡にはよくわからなかった。

うなだれた大悟は、垂れた前髪と、その向こうに睫が見えるだけで、その表情はまるで見えない。

「……大悟くん?」

聡の声に、大悟は意を決したように、再び顔をあげた。

「先生。俺、本当は殺していません」

「えっ」

「本当は……あのとき、ヤクザを刺し殺したのは……、将なんです」

第188話 春の嵐(2)

金曜の夜、聡は気持ちが昂ぶってなかなか眠れなかった。

大悟と別れて一人になるなり、ついに明日、将に抱かれることで頭がいっぱいになっていた。

夜道を歩く足取りもふわふわして落ち着かない感じがする。

たった今、将に抱きしめられたように……体中が覚えている将の感触が肌に花開くように一気に蘇る。

夜道を歩く聡は、そんな自分が急に恥かしくなって、突然駆け出す。

次の瞬間、そんな奇異な自分を誰かに見られているのではないかとあたりを見回す。

……そんなばかげたことを繰り返してやっと家に帰ってきた。

帰るなり、明日の支度をする。何を着ていこうか。

一張羅は、水曜日に着てしまったので今回は違う服にしたい。

シティホテルだから、あんまりカジュアルな格好もよくないだろう。

だけど……どうせ脱がされるための服。聡は一人顔を赤らめる。

下着は今日、新品を3セットも買ってきてしまった。

いずれも、凝った刺繍がほどこされているものだ。

こうして服を揃えるのに1時間以上もかかり、そして肌に磨きをかけるべく、ゆっくりと風呂に入る。

バスタブにはラベンダーの香りの入浴剤を入れる。

明日、どうせ朝シャワーを浴びるけれど、肌からほのかに香ってくれたらいいな、と夢見る。

こうして自分の裸をみていると、いよいよ明日が現実になるのを感じずにはいられない。

思わず聡は目を閉じる。

再び将の愛撫が肌に蘇る。

一人、浴槽でそんなことを想像する自分は、やはり淫乱なんだろうか。

よく眠れるようにとぬるめの風呂にしたのに、それほど効果はなかったようだ。

部屋を暗くして横たわっていても、ずっと胸がときめいている。

男との泊まりだったら、聡はすでに何度か経験している。

とくに博史とは、もうそれがあたりまえのようにさえなっていた。

こんな風にときめくのは、高2のとき、当時の恋人だった東と親に内緒で、初めて二人きりで旅行に出たとき以来だ。

あのときの前夜も……、こんな風に眠れなかった。

聡は記憶がもたらす甘酸っぱい感覚がしみて瞼をぎゅっとつむった。

懐かしさと淫らさがまじった記憶は、それを発した脳から一気につま先に駆け抜けて、思わず聡はつま先をきゅっと折り曲げた。

何度も寝返りを打って……聡がようやく眠りについたのはもう明け方近くだった。

だから、朝7時30分にドアのチャイムが鳴ったときも、ぐっすりと眠っていた。

 

ピンポーン。

ピンポーン。

ドンドンドン。

ピンポーン。

 

そこでようやく聡は重い瞼を開ける。

粘りついたようにまた降りようとする瞼を無理やりこじあけて、聡は重い体を起こす。

「アキラ」

ドアの外からの聞きなれた声に、聡は急激に覚醒した。

「将」

あわててドアに駆け寄る。

意識は覚醒したが、体はまだ起き切っていないらしく、ローテーブルに脛をしこたまぶつける。

「……いったーい」

と足をひきずりながらドアを開ける。

次の瞬間いきなり。将の姿を確かめる前に、聡はきつく抱きしめられた。

「将、どうしたの」

将の胸の中でつぶやく。

将の匂いと共に、雨の匂いが部屋に入り込んでくる。将自身も少し雨に濡れて湿っていた。

そこでようやく……激しい雨音に聡は気付いた。

「アキラ……急に逢いたくなったんだ」

将は聡の髪に顔をうずめたまま、喘ぐように囁いた。

開いたままのドアから聞こえる激しい雨の音で聴き取りづらい。遠くで雷さえも唸るように響いてくる。

「へんなの……。今日、午後迎えに来てくれるんでしょ」

聡は将の顔を見上げようとした。

今日将は、まず自動車試験場で免許を受け取ってから、午後、車で部屋まで聡を迎えに来ることになっていた。

「アキラ……」

将は聡の肩を掴んで、いとおしいその顔を確かめた。

聡が見た、将の顔はひどくせつなげだった。

突然、天が裂けるような轟音が真上で鳴った。

「うわっ!」

聡は色気もない声で、将にしがみついた。次の瞬間

「びっくりしたぁ。近かったね、雷」

と舌を出して将の顔を見上げた。寝起きの乱れた髪に、素顔の頬がピンク色だ。

それを見て、将は少し安心する。

昨日、将は大悟の態度が気になって眠れなかった。

もちろん、長年の親友だから大悟のことは信用したい。

昨日の言葉は、酒の酔いがもたらした単なる気の迷いだと思いたかった。

でもやはり心配でまんじりともせずに夜を過ごした将は、朝が来るなり聡を訪ねたのだ。

ちなみに大悟はすでにリビングから引き上げているようだった。

半分になったスピリタスとグラスがキッチンカウンターの上に置いてあった。

「アキラ」

将は聡の素顔の頬に両手を添えてしばし見つめた。

黒糖色のビー玉のような2つの瞳に将が映っている。

掌から伝わる温かさと柔らかさに我を忘れる。

「将……?なんかあったの?」

濡れた路面をタイヤが踏みしだいていく冷たい音で、将は現実に戻る。

「……昨日、大悟とメシ食った?」

「うん……?」

聡は質問の意図がわからずに、黒目がちの目をキョトンとさせている。

続いて将は『何もされなかったか?』と訊いてしまいそうになったが踏みとどまる。

それは大悟への信頼を自ら捨てることになる。そこまで疑いたくなかった。

それに聡に、大悟に対しての無駄な警戒心を起こさせることになるのもよくないと思ったのだ。

将はまだ大悟を信じるほうを選択した。

それに聡のこの表情をみれば、大悟が何もしなかったのは明快だ。

聡の件についてホッとした将は、今度は別の部分で胸騒ぎがした。

『俺は……、もうダメだ』

といっていた大悟。

将の知っている大悟は、何があっても弱音など吐いたことはない。

金がなくても盗みでどうにか凌ぎ、取立て屋になぐられようともこっそり金を隠しておく、そんなしぶといまでの大悟の強さを、いつも将は尊敬していたのだ。

……瑞樹のことがまだ癒えていないのだ。

瑞樹を守りつつも、瑞樹を守ること自体が大悟の拠り所になっていた。それを失って……。

そして、昨日、大悟の口元にあった、殴られたような痣。

どうして、あんなに嫌っていた愛知の親戚のところに急に行くことになったのか。

おそらく、そこで大悟に『もうダメだ』言わしむる決定的なことがあったに違いないことは、将でも容易に想像できた。

「……将?」

急にだまりこんで、下方の虚空に視線が固まった将に、不審に思った聡が声をかける。

聡の声に将はハッとした。そして

「ごめん、朝早く。あとで来るから。もう1回寝ろよ」

と立ち去ろうとした。そんな将に聡は

「せっかくだし、コーヒー飲んでく?」

と引き止めたが、将は

「ううん、いい。試験場にいかなくちゃ遅刻しちゃう」

と微笑んだ。

激しい雨を降らせている空が暗いので、今が何時なのか聡はわからなかったが、その微笑を見て聡も安心した。

こんな雨の中、わざわざ試験場に行く前に聡を訪ねる将に、気がかりなことでもあるんだろうか、と少し心配していたのだ。

「将。忘れ物」

聡は呼び止めた。

強くなった雨音は4階の廊下まで響いてくる。

暗い空のどこかで雷が鈍くとどろいているのも聞こえている。

そんな天気に似合わず、聡は晴れやかな笑顔で、尖らせた自分の唇を指した。

昨夜からの将の不安な気持ちは一瞬吹き飛んだ。雨音に似合わない温かいもので心が満ちていく。

将は聡を再び抱き寄せると、そっと唇を重ねた。

それは、今日の期待がなせる技なのか、心配事が晴れたせいなのか、いつもより一段甘く感じた。

時が一瞬止まる。

甘い口づけに、時の感覚が、麻痺する。

濡れたアスファルトの上を車が走っていく音で、ようやく二人は麻痺から覚醒し、唇を離した。

ディープなキスはお互い自粛している。

あとでの楽しみにと、思う気持ちまで一緒だった。

「じゃ、免許とれたら、連絡するよ」

「うん。わかった。がんばってね」

聡は頬をいっそう染めて微笑んだ。

パジャマ姿のまま、廊下で小さく手を振る聡を、階段を降りるまで何度も振り返った。

 
 

時計はまだ7時30分だったので、聡は将が言うとおり、もう一度ベッドに戻った。

ぐっすり眠っていたところを起こされたせいか、今度はあっさりと眠りの中に落ちていくことができた。

朝の眠りは若干浅く、雨音と遠くで響く雷の音を夢の中でも聞いていた気がする……。

 

……ピンポーン

チャイムの音に聡は飛び起きた。何の疑問もはさまずに、将だと思った。

――連絡するっていってなかったけ?

聡はカーディガンをはおる。今度は意識も体も同時に覚醒したせいかスムーズに動く。

さっきローテーブルにぶつけた脛は案の定痣になっていた。

将だと思い込んだ聡はモニターを確認せずに、ドアを開けた。

雨の匂いと共に視界に飛び込んできたのは、大悟だった。

第187話 春の嵐(1)

将がマンションに帰ってきたのは夜の10時すぎだった。

ジムとダンスレッスン、そのあとで、代理店やらアートディレクターやらを交えての食事会への参加を急遽指示される。

和食の店での食事会は事務所が抱える他のタレントが関わったCMなどの慰労会という名目だった。

どこかで見たことのあるタレントの先輩と同席した将は、マネージャーの武藤に言われたとおり愛想よく大人しくしていた。

武藤と一緒にようやく帰りのタクシーに乗ったときはクタクタだった。

「代理店のほうは、アナタをえらく気に入ったようね。よくやったわ」

と武藤は褒めてくれたが、将はとくに、何かしたという覚えはない。

ただ、疲れていたのとお腹がすいていたので、目の前の食事のことしか考えてなかった気がする。

「じゃ、次のジムは火曜日にね。体育の授業のあとに、できるだけたんぱく質をとってね、筋肉になるから。あと、今週は急な連絡が入るかもしれないから、その時はよろしく」

武藤はそういって将をマンションまで送ってくれた。

タクシーが見えなくなって、将は思わず

「あ”~疲れたぁ」

と声に出してしまった。

しかし一人になった将に、生温かい夜風と共に、いよいよ迫った明日が、じっとしていられないほど嬉しくせまってくる。

明日こそ、ついに聡と身も心も1つになれる。

疲れているのにもかかわらず、将はスキップするようなはずんだ足取りでエレベーターに乗った。

――でも、明日、ひょっとして筋肉痛かなぁ……。

日頃、体育の授業も好きな種目だけしか真面目にやらない将なので、若いといえど、ジムトレーニングは結構、体にきたのだ。

「ただいまー」

大悟はリビングにいるらしい。将は

「俺、シャワーあびるから」

声だけで大悟に伝えて、寝室から直接バスルームに入った。

ジムでも浴びたが、着替える前にもう一度浴びてすっきりしたかった。

Tシャツとショートパンツに着替えた将は、タオルで頭を拭きながらキッチンに入り、冷蔵庫からウーロン茶を取り出してぐいっと飲む。

「明日、俺さぁ」

といいながら大悟を振り返る。

「試験場に免許とりにいって、そのあと、アキラとお泊りデートだから……」

そこまで伝えて、大悟の異変に気付いた。

大悟はソファに寝転がって瑞樹の骨の入ったガラス瓶を眺めていた。

「……大悟?」

大悟は瑞樹の骨から視線を移さない。その顔はかなり赤い。

ソファの前の床には、スピリタスの瓶、グラスが置いてある。

「飲んでんのか?」

将は、ウーロン茶片手に大悟に近寄った。

スピリタスは半分になってしまっている。よく見ると、大悟の唇は切れて腫れている。

「愛知で何か、あったのか?」

心配した将は、大悟が寝そべったソファの前にしゃがみこんだ。

だが大悟は、何もいわず、瑞樹の骨の瓶を見ている。

かすかに唇が動いたようだが、声は聞こえない。

「何?」

「今日……アキラセンセイとメシ食った……」

ようやくかすれた声が聞こえた。視線はあいかわらず骨になった瑞樹に注がれたままだ。

「アキラと?」

「……アキラセンセイ、いい女だな……。瑞樹が、かなわないわけだよ」

将にはあいにく、大悟の発音は不明瞭で、よく聞こえない。

「お前何言ってんだ?……酔ってんだな。水もってくるよ」

将は立ち上がって、キッチンへといったん戻る。

冷蔵庫をあけてグラスにミネラルウォーターを注ぐ将の背中に

「将」

とこんどははっきりと声がした。

振り返ると大悟が体を起こしていた。

膝に肘をついて、組んだ両手の中に瑞樹の骨を握り締め……、ボサボサの髪を乗せた頭は将のほうに向けている。

「おう待ってろ、今、水もってくから」

「あのさ」

「ん?」

将は、大悟のところに歩いていって水を手渡そうとした。

大悟は、その端正な形のくっきりとした目を三白眼にするように、将を見上げて言った。

「アキラセンセイ、貸してくれ」

将は意味がわからなくて、

「え?」

と目をパチパチとしばたかせた。その表情は聡とよく似ていると大悟は思った。

どっちかがどっちかに影響された、ということが酔った頭でもよくわかった。

「お前のあとでいい。アキラセンセイとやらせろ」

酔って充血した大悟の目だが、強い眼力が将を突き刺すようだった。

将は思わず、大悟に平手を張った。……その眼力に反発するように。

派手な音がリビングに反響する。

水が入ったグラスを無意識に左手に持ち替えていた。

大悟は髪を乱して、顔は叩かれたままの方を向いたまま、目だけ将のもとに戻した。

将は俯いて思わず謝った。

「ごめん……。酔ってたんだな」

大悟は、あいかわらず目だけで将を見据えたまま、小さく笑った。

「何、謝ってんだよ。将。俺は正気だぜ。……アキラを抱きたい。抱かせろよ」

「お前……」

将は、大悟の顔に目をあげた。

大悟は、酔って充血した目のまま、斜に構えて将を見ていた。

「冗談にもほどがあるぜ」

「だから冗談じゃな……」

大悟がそう言い終わる前に、将は大悟の襟を掴むと、ギラギラとした目で大悟を睨み付けた。

「お前、まさか、アキラに何かしたのか?」

「……した、っていったらどうするんだ」

大悟は襟をつかまれたまま将を見据えると、将の腕をふりほどいた。

将は一瞬ひるんだが、再び大悟につかみかかった。

その勢いに、酔っている大悟はソファに倒れこんだ。

握っていた瑞樹の骨の瓶が大悟の指から離れてフローリングの床に転がった。

「それだけは許せねえ!」

そういいながら将は腕を振り上げた。

しかし、次の大悟の言葉に凍りついた。

将を見上げながら大悟は確かに言ったのだ。

「お前も瑞樹とさんざんヤッたんだろ」

将は腕を振り上げたまま、眦が裂けるほど目を見開いて、大悟を見下ろした。

「さんざん瑞樹をもてあそんだんだろ……」

振り上げた将の腕が震える。

「やめろ……」

「お前が瑞樹で遊んだ分、俺にアキラセンセイを貸してくれたっていいだろ……」

「やめてくれ!」

「俺にアキラを……」

将は大悟の襟を掴んで彼の上体を引き起こすと、その額に自分の額を勢いよくぶち当てた。

頭蓋骨に……その中にある脳と瑞樹への罪悪感もろともに大激震が走る。

「イッ……テエ」

大悟は額を押さえて、ソファに脱力したように仰向けに横たわった。

そんな大悟を見下ろしている将も悪夢のように頭がクラクラしている。

じんじんと額に血液が充満してくるのがわかる。

はっ、と額を押さえたまま、咳き込むように大悟は笑った。

「ウソだよ……。なんにもしてねえよ。アキラセンセイにメシおごってもらっただけだ……」

大悟は将のほうを見ずに言った。そして

「アキラセンセイ、めちゃくちゃ優しいな……」

と遠くを見ているような目で呟いた。

「優しい……センセイ」と反芻する。

その直後に虚空を眺めていた大悟の眉と瞳、そして切れた口元が大きくゆがんだ。

その目じりから、涙が流れる。

そのまま大悟は目を閉じて、視界から将を追い出すと泣きはじめた。

「瑞樹……。みずきぃ……、うう……」

将は無言で立ち上がった。額が熱をもったように痛い……だけど、それ以上に心が痛い。

大悟が言ったことは、真実だから。

将はソファで嗚咽する大悟を残して、リビングを後にしようとする。

……そこで、行く先に転がった、瑞樹の骨の瓶が将の目にとまった。

骨は、哀しげに将を見つめているようだった。何かを訴えているように将の心が揺れた。

将はそれを手に取ると、いったん引き返して、大悟がいるソファの傍らのテーブルの上にそっと置いた。

「将……」

大悟は、目の上を腕で覆ったまま、行こうとする将を呼び止める。

将は立ち止まって振り返った。

もう……大悟を咎める気はない。むしろなじられるのは自分のほうだ、とわかっている。

『瑞樹は、お前のせいで死んだんだ』

そう怒鳴られることをも将は覚悟していた。

覚悟したところでどうしようもない……何もできないけれど。

だが、大悟は目を腕で覆ったまま、

「俺は……、もうダメだ」

と乾いた吐息のように呟いた。

第186話 親友(3)

「はい、タンメンおまちぃ!」

三角巾で髪を覆ったおばちゃんが、タンメン2つを二人の前に置くまで、大悟はなんとなくぼんやりしていたらしい。

聡に割り箸を渡されて、ハッとした。

「わーい。美味しそう。いただきまーす」

聡がにこにことレンゲで湯気の立つ熱いスープをすくい、注意深く唇をつける。

口紅なんぞとっくに剥げてそうなのに、それは餃子の脂のせいなのか、バラ色でつやつやしている。

「本当だ!すっごく美味しい。野菜の味がスープに入ってる!」

と大悟に笑いかけた。

そのまま、麺をすする。

女性なのに結構豪快に麺をすする聡を、大悟は好ましいように思い、自らも麺をすすった。

「ここ、よく将と来るの?」

一段落したのか、聡は麺を箸ですくいながら、大悟に訊いてきた。

「1~2回かな。俺、ずっと家にいたから」

「そっか……」

聡は、スープをすくった。タンメンでよかった、と思った。

麺が延びるのを防ぐため、という名目で、話より食べるほうに集中することを許される。

大悟がずっと家にいた、というのは瑞樹のことで沈んでいたからだろう。

聡は麺をすくいながら

「大悟くん、将とは中学からの付き合いだっていってたよね」

とさりげなく話を変える。

「……ハイ。中学が一緒だったわけじゃないんですけど」

「うん。ワル仲間だったって聞いてる」

聡は可笑しそうに笑っている。

「ね、どんなことしてたの?」

黒目がちの瞳をくるっと動かして訊いてくる。

「えー……」

「やだわ。いまさら警察なんかにいわないわよ。時効だってば……将がどんなコだったのか聞きたいだけ」

聡はビールのジョッキを手にした。

ビールとタンメンの熱さのせいか、頬が上気してよりピンク色に染まっている。

かわいい顔に似合わない低音の声がなければ、聡が年上だということを忘れてしまいそうだ。

「そうですね。いっつもつるんでましたね。アイツは髪をまっ黄っ黄に染めてたし……」

「それ聞いた。ロンブーの亮なみだったって」

「そうそう。そうなんです。今みたいにバカでかくないし、結構カワイかったですけどね」

「見たかったー」

聡は目は細めつつ、口を大きくあけてアハハと笑った。

「……で、ケンカしたり、本盗んで古本屋に売ったり、自転車とかバイクを盗んだり。粉砂糖をマリファナだって嘘ついて小学生に売ったりとかもしてましたねえ」

「うわ!本当に不良、てかそれ立派に犯罪じゃん!」

聡は眉をひそめるようなそぶりを見せながら、目は笑っている。

もう、二人が更生していると思っているから。

それは単なる過去の思い出話としてとらえているようだ。

大悟は、なんで自分がいかにも楽しげにこんな話をしているんだろうと、思った。

同時に、聡が、将が人を殺したことを知らないのだ、ということがわかった。

なぜか、無性にそれを聡に聞かせたくなって……それを必死で自分でとどめるように話題を変える。

「センセイは、なんで将と付き合うようになったんですか?」

「え?」

聡はぽっと頬を染めた気がする。

「博史さんと婚約してたんでしょ」

聡は、大悟の顔を見た。そうだ、大悟は……将と一緒に萩に来てるから、博史のことを知ってるんだ……と気付く。

「わかんない。気がついたら……ねぇ」

聡は年下のコに自分の心の動きを説明するのが照れくさくて、誤魔化した。

「中学のときも……将は、もてたの?」

と話題をそれとなくそらす。

「……そうですね。いつも、誰かいたと思う」

大悟は正直に答えてしまって、ハッとして、フォローする。

「でもコロコロ代わってましたよ。アイツ、ほらイケメンだから、女のほうから寄って来るんですよ」

「ありがと」

聡は大人の顔で微笑んだ。

「気を遣ってくれて。大悟くん、すごくいいコだよね」

「いや、そんな」

包み込むような柔らかい視線。落ち着いた温かい口調。

そんなものをめったに向けられない大悟はどぎまぎして下をむいた。

将が、聡に惹かれるのがよくわかった。

家族の愛に飢えているゆえ、心に寂しさを持つ、不良タイプは聡のような女に弱いのだ。

抱きしめたい、というより、抱きしめられたい。

成熟した、というより満たされている内面からあふれるものが、こちらの寂しさにひたひたと染み入ってくるような感じ。

『大人』というのとはまた違う。

もともと生まれつき深い『情』が、育ちや精神が安定しているゆえに、対峙する相手に献身的に向けられる。

相手を信用していることがわかるゆえ、相手に嘘をつかせない。そんな奇跡的な女がたまにいるのだ……。

――瑞樹……、お前、負けるわけだぜ……。

ふと、瑞樹のことを思い出す。

瑞樹が将を好きでたまらず、セフレに甘んじながらも傍にいたことを大悟は知っている。

そんなふびんな瑞樹を大悟は愛したのだから。

大悟は、聡が瑞樹の担任だったことに思い当たった。

「あの」

大悟は顔をあげた。タンメンはすでに食べ終わっている。

「……瑞樹って、どんなコでした?」

「え……」

聡の笑顔が消える。

わずかに、つらそうな顔になり、それを隠すように下をむいてスープの中に沈んだキャベツやもやしをしきりに掬っている。

井口によると、瑞樹は将をとられた仕返しを聡に企てたりもしたらしい。

そのことを聡は思い出したのだろうか。

ふと、大悟は、瑞樹が将のことをどれくらい好きだったのか、瑞樹が聡に仕返しとして何をしたのか、それを知りたくなる。

聡はようやく、体勢を立て直すと、

「あたしが赴任してきてから、葉山さん、休みがちだったから……。あんまり印象に残ってないの」

と、伏目のまま答えた。

「なんか、センセイにひどいことをしたらしいですね。どんなことをしたんですか?」

「それは……」

聡は箸を置いて、目をしばたいた。

「俺、瑞樹のことは何でも知りたいんです」

大悟は、少し自分が嗜虐的になっていると思う。

そうだ。この女は、虐めたくなるような部分も併せ持っているのだ……将が聡に惹かれる理由がより明確になったと大悟は感じた。

しかし、聡は大悟をまっすぐに見ると、

「もう過ぎたことよ」

と言った。

それは、瑞樹が将を好きだったことに関連する。その事実が大悟を傷つけるのではないか、とも聡は考えたのだ。

だが大悟は食い下がった。

「言いにくいかもしれないけど、俺、瑞樹の思い出が少ないから……知りたいんです。瑞樹が将を好きだったことは本人から聞いて知っています。だから……教えてください」

聡は、大悟の瞳をじっと見つめた。

大悟も、聡の瞳をそのまま見つめ返した。

しばらく、その空間には、テレビの声だけが流れた。

やがて聡はため息をついて

「私は意識がなかったからあまり覚えていないんだけど……」

と前置きをして、話し始めた。

「街で葉山さんが私に話し掛けてきて。そのとたん、なんか男のコたちに薬をかがされて……。気がついたら、どっか知らない小屋に連れてこられてて……」

大悟は思わず眉をひそめ……聞いたことを後悔した。複数の男に聡をレイプさせる。

まさか、そんなことまでしていたとは。

「すいません。嫌なこと思い出させちゃって」

と頭を下げる。聡は、あわてて、ううん、と首と手のひらを振った。

「でもね、将が助けに来てくれたから、結局、何もされなかったのよ」

未遂と聞いて、大悟はほっとした。だが、瑞樹がそれを企てたことは変わりない。

瑞樹は、そんな卑劣なことを企てるほど、将を好きだったのだ。

大悟の心は、締め付けられるように苦しくなった。

なのに、瑞樹の心の軌跡をたどるのを止められない。

「あの……、瑞樹は、いつごろまで将を好きだったと思いますか」

もっと苦しくなるかもしれないのに。大悟は自分で自分をバカだと自覚しながら、やめられない。

聡は、大悟の苦しさを見透かしたように

「さあ……。私にはわからないわ。……ホラ、葉山さん、学校来なかったし」

とだけ答えた。

本当は……、少なくとも妊娠騒ぎがあった修学旅行のときまで、瑞樹が将のことを愛していたのを知っている。

でも大悟を傷つけると思って黙っておいた。代わりに

「……でも、葉山さんは、大悟くんにとても頼っていたって、将に聞いているわ。だから、もう将のことは忘れていたんじゃないかしら」

大悟をなぐさめるためとは別に、自分にも言い聞かせている部分があったのを聡は否めない。

だけど、大悟はそのまま黙り込んでしまった。

 
 

「センセイ、ごちそうさまでした」

口数少なくなった大悟だが、店を出たとき、聡にきちんと礼を言うのは忘れなかった。

聡は、微笑みを浮かべて

「いいのよ」

と答えた。さらに

「もし何かあったら、グチでもいいから、いつでも相談してね。先生がわりとして」

と付け加えた。それほどに大悟の様子は、つらそうだったのだ。

「ありがとうございます」

といって大悟は俯いた。そのとき、大悟の携帯が鳴った。

そのまま、そこで別れようと思っていた聡は、状況的に夜の路上に引きとめられる。

「ハイ……島ですけど。は、瑞樹の……おばあちゃん?」

聡は瑞樹の名前に思わず振り返る。

「ハイ……。ハイ。ありがとうございます。ハイ……わかりました」

あとはたいした内容は聴き取れないままに、電話は切られた。

しかし、瑞樹がらみの内容で、また大悟を落ち込ませるのもなんなので、聡は電話には突っ込まず、『じゃ、これで』と声に出そうとしたとき。

「あの、センセイ……。言いにくいんですけど」

と大悟がおずおずと聡に声を掛けた。

「なあに?」

聡は明るく向き直った。

「あの……、お金を貸してくれませんか?」

大悟の財布の中には、小さなコインしかなくなっていたのだ。

聡は一瞬目をパチパチとさせたが、にっこりと笑った。

「5千円でいい?」

「あ、十分です」

急に大悟の手は、ふんわりとした温かいものに包まれた。

聡が、財布から出した5千円札を

「あげる」

と言って、両手で大悟の手に握らせたのだ。

「いえ、金ができたら……返します」

大悟はふたたびドギマギして、目を見開いて聡の顔を見た。

聡は、ううん、と首を振った。

「いいの。これから就職するんでしょ。将に聞いてる。頑張ってるって……。これは少ないけど前祝だと思って」

大悟は、呆けたように「じゃ」と駅前のネオンの中に去っていく聡の笑顔と後姿を見つめていた。

第185話 親友(2)

「久しぶりね」

元気だった?と言いかけて聡は口をつぐんだ。

大悟は瑞樹を亡くしてまだ1ヶ月しか経っていないのだ。とっさに

「仕事の帰り?」

と続けてみる。大悟は、少し躊躇して

「ハァ。そんなもんです……」

といちおう笑顔を作った。

そのつくり笑顔は、聡にはとても痛々しいものに思えた。

きっと、まだ心の傷が癒えていないんだろうと想像した。

「センセイは?」

それでもけなげに訊き返してくる大悟を、なんだか放っておけなくて聡は

「うん。ちょっと買い物。……もしよかったら、夕食一緒に食べない?今日どうせ、将はバイトだって言ってたし」

と誘ってしまった。

 
 

二人は、駅前の通りから一本入ったところにあるラーメン屋ののれんをくぐった。

大悟のお勧めだった。

「ここのタンメンが旨いんですよ。あと餃子も」

狭い食堂は、カウンターとビニールクロスが掛かったテーブルと背もたれのない丸いパイプの腰掛をいかにも安っぽい蛍光灯が照らしている。

しかし、旨いというのは本当らしく、労働者やサラリーマンっぽい男が上のほうに据えられた14型のテレビを見ながら食事をしていた。

「ホント?じゃそれ頼もう。今日はアタシのオゴリ」

「いいんですか?」

と訊き返しながら、大悟はそうしてもらわないと困るほどお金がなくなっていた。

もともと財布にあった2000円あまりと昨日の給料の8000円あまりから、新宿-名古屋往復のバス代だけで9000円近くを払ってしまっている。

新宿までの交通費はsuicaを使ったからいい。

だが名古屋から親戚の家までの交通費だけで、もう昼食も我慢しなくてはならなかったほど、大悟の財布はすっからかんになっていた。

そこまでしたのに……大悟は、愛知の親戚宅での出来事を思い出して俯いた。

「いいのよ。いつも将がお世話になってるから。ビールも飲む?……いいのよ。未成年だなんて言わなきゃわかんないから」

悪戯っぽい顔になって、小声で飲酒を勧める教師らしからぬ聡に、一瞬大悟は、暗い出来事を忘れた。

――26歳って言ってたっけ。それにしちゃほっぺが桃みたいだな。

井口が『結構カワイイ』といってたのがよくわかる。

メニューをのぞきこむ下向きの顔の中で睫が黒く長い。

固いスーツに包まれた胸のあたりは、井口がいってたほど『巨乳』でもないと思うが、柔らかそうに揺れて、つい触りたくなるような感じだ。

――って何考えてるんだ。将の彼女だろ。センセイだろ。

大悟はあわてて「じゃ、生2つ」と店員に注文する。

「じゃ、カンパーイ」

二人は重いジョッキをガッチンと触れ合わせた。

「大悟くん、ここ、痛くない?」

聡は、自分の口角を指で示した。大悟の切れた口のことを言っているのだろう。

「これぐらい、ぜんぜん平気です」

「やっぱり男の子は強いよね」

感心する聡だが、今大悟が痛いのは、そんな傷より、心であり、経済状況であった。

 
 

今日、早朝に名古屋に降り立った大悟は、そこから私鉄に乗りかえて、親戚の家を訪れた。

留守だったら困るなとは思ったが、そんな心配は無用だった。

遠い親戚のオヤジは朝から酔っ払って家にいたからだ。

玄関をあけたその妻……大悟は『おばさん』と呼んでいた女は大悟を見ると目を見開いた。

「こんにちは」

大悟はいちおう頭を下げた。

小さな古い一戸建ての奥からは、出戻りの娘の子供なのか、ギャンギャンと泣き声が聞こえる。

「今日は、俺の金の件で来ました」

それを聞いた『おばさん』が一瞬息を飲むのが大悟にもわかった。

いちおう家に上げられた大悟は、ここにいたとき寝場所だった居間に通された。

この家にいた頃、大悟は自室すら与えられなかったのだ。

茶も出されずに、待っていると、奥からドカドカという乱暴な足音と共に

「大悟だと?勝手におん出てったヤツがなんダァ?今ごろ」

という罵声が奥から近づいてきて、染みと繕いで彩られた襖がガラッとあいた。

禿げた親戚のオヤジが、肌着のまま腹をボリボリと掻きながら大悟を見下ろした。

朝だと言うのに、禿げ頭から顔、たるんだ首、つやのない胸の皮膚のあたりまで赤らんでいる。

「なんだ今ごろ」

投げるような乱暴な口調。安っぽい日本酒の匂いが大悟の顔に吹き掛かるようだった。

大悟は反抗をあらわにして見上げながらも

「今日は、俺の金の件で来ました」

といちおう丁寧語を使ってやった。

いちおう、この家にいた頃は、不良少年的な言葉づかいや態度をしたことはない。

このオヤジが酔って大悟を殴るときなどは、いつも黙って耐えた。

「金ダァ?」

といいながら、親戚オヤジはどかっとあぐらをかいた。

「俺の学費名目で10万振り込まれているでしょ。俺がここを出てったあとも。2月から3ヶ月分、返してほしいんだけど」

大悟はできるだけ冷静に感情を抑えたのだが、最後のほうはつい、乱暴な言葉づかいになってしまった。

「そんなものはないっ」

親戚オヤジはそっぽを向いた。

「ないはずはないだろ。三宅さんに聞いてンだよ」

三宅というのは、将の父親・康三の代理人の弁護士である。

「俺が高校に通ってるとかいって、学費、食費その他もろもろで10万。受け取ってんのはわかってんだよ」

つい言葉が荒くなる。

「本当は高校いってないんだから1年分の学費を返せって言いたいところを、3か月分に負けてやってんだよ。返せよ」

「ないもんはないっていってんだ」

オヤジは大悟を斜めに見据えると、吐き捨てるように言った。

「もともと、たいして縁のない前科物のテメエを預かってやったんだ。月10万じゃ足りねえや」

「ざけんな!」

大悟はついに立ち上がると、禿げオヤジの肌着の首を掴んだ。

「俺の……俺の給料もほとんど、ぶん取りやがったくせに!」

大悟の大声に触発されたのか、家の奥で、幼児が火がついたように泣き始める。

締め付けられるほど首を掴まれて、禿げオヤジは狼狽した。

「落ち着け……。大悟、落ち着け。うちは年金暮らしで手一杯なんだよぅ……」

「嘘つけ!」

ついに大悟は禿げた親戚オヤジの横っ面にパンチを食らわせた。

古い家全体を振動させてオヤジは転がった。

襖の隙間から見ていた『おばさん』が喉の奥から悲鳴をあげる。

「やりやがったな」

親戚オヤジは唇から流れた血を手の甲でぬぐいながら大悟をにらみつけた。

「やって悪いか。俺の金でさんざん飲んだくれやがって!」

「なんだと、このガキィ~!」

親戚オヤジは立ち上がると大悟に向かってきた。

肉付きがいいオヤジが勢いよくタックルし、大悟はそのまま畳に引き倒される。

そしてそのままつかみ合いになる。

「やめてーっ!」

おばさんの悲鳴。子供の泣き声。

「だいたい、こうなったのは、お前の父親がいけないんだろうが!」

オヤジは大悟にのしかかるようにして首をぎゅうぎゅうと締めながら怒鳴る。

唾が大悟の顔にしぶきのようにかかる。

「俺は関係ねーよ!」

大悟は負けずに、オヤジの首を掴んだまま、勢いよく上体を起こすと、吼えた。

「関係あんだよ!お前の父親の借金を俺が払ってんだろうが」

それを聞いたオヤジの首を掴む大悟の力がゆるんだ。

そこでオヤジが1発、大悟に逆襲した。再び家全体が揺れるようにして大悟の体が飛ばされた。

「お前のダメオヤジがよ、借金の保証人に勝手にウチを指名しやがったんだ」

「ウソだ……。親父はもう何年も行方不明……」

大悟は、口の端から血を流したまま、上半身を重く起こした。

そこで『おばさん』がようやく、禿げオヤジを止めるようにすがりつく。そして大悟に

「本当なんだよ……大悟。闇金融っていうのかい?ヤクザみたいな人が来て、無理やり判を押させられたんだよ。押さないと、娘や孫がどうなるか、って言われて……」

なきそうな顔で『おばさん』は説明した。

「それ、いつ……?」

「1年ぐらい前だよ……。だから、悪いとは思ったんだけど、お前に振り込まれている金で返済にあてさせてもらったんだよ……」

彼女は嘘を言ってなさそうだった。

「悪いなんて、思う必要はねえっ。親父の借金を子供が返すのは、っ当然じゃねえかっ」

禿げオヤジは吐き捨てるように言った。

大悟は、再び親戚オヤジを睨むと立ち上がった。

「……とにかく。僕はもうこの家を出てますから。10万はここには振り込まないようにしてもらいます」

「何ぃ?」

禿げオヤジは目をむいて大悟を睨んだ。

『おばさん』の眉がみるみるうちに八の字になると、大悟にすがりついてきた。

「大悟、そんなこと言わないでくれよ。お前がいなくなって、10万もなくなったら……。私ら殺されてしまうよ」

まるで歌うような声での懇願。

だが、大悟は、唇の血を拭いながら、冷たい目の端で彼女と禿げオヤジを一瞥した。

「……自己破産、すれば」

それだけいうと、大悟は居間を後にした。

「あいつらが、自己破産なんかさせるかよォ!」

という親戚オヤジの声を背に受けて大悟は、狭い廊下を玄関へと向かった。

と、背中に視線を感じる。

この家の出戻りの娘が、子供二人と共に廊下の奥に立っていた。

30になるかならないかの……地味な顔立ちだが、働いていないせいであまり所帯じみてはいない娘。

彼女は、5歳ぐらいの女の子の手をひき、2歳ぐらいの男の子を抱いて、こっちを睨むともなく、静かに注視していた。

さっきまで火が付いたように泣いていた男の子は濡れた瞳のまま、きょとんとした顔で大悟を見ている。

そして、髪を2つに結んだ女の子は、無表情のまま大悟に

「ばいばい」

と言った。

大悟は聞かなかったように踵を返し、その家を辞した。

その3人の姿は、なぜか大悟の心に焼きついて離れなかった……。

第184話 親友(1)

大悟は名古屋行きの夜行バスに乗っていた。

もう日付は金曜日に変わろうとしているとき、携帯が鳴った。将だ。

――そういえば、将に連絡しておくのを忘れた。

大悟はまわりの乗客に遠慮して小声で「もしもし」と携帯に出る。

「大悟?お前、今どこにいるんだ。いきなり夜勤か?」

将は、今日は、聡の家に泊まらずにマンションに帰ってきたらしい。

大悟の帰りが遅いので心配して電話をかけてきたようだ。

「将……。悪い。俺、ちょっと愛知にいってくるから。今バスん中」

「愛知?いつ帰ってくるんだ?」

「明日、……いや今日にはすぐ戻る」

ちょうど日付が変わったところだった。

「愛知に何しに行くんだ?」

「ちょっと、取りに行くものがあって。ごめん、連絡しなくて」

「いや、いいんだけど」

気のいい『親友』は、じゃあ、気をつけて行ってこいよ、と大悟に声を掛けた。

大悟はそれを聞いて、スリッパを履いた足先からじわじわと恥かしさと後ろめたさがよじのぼってくるのを感じた。

だけど。

――必要な金なんだ……。

大悟は閉めたカーテンの隙間から外を見た。

バスはまだ東京を抜け切っていないらしく、窓の外には家々やビルの明かりが散りばめられている。

自分が将の身代わりになった代償として受け取れる金について思い出した大悟は、さっそく将の父の代理人である弁護士に電話をかけてその現状について聞いた。

驚いたことに、その金は、愛知の親類に今も月10万ずつ振り込まれているということだった。

しかも大悟がそこにいたころからずっとだという。

大悟は唇を噛んだ。

自分の給料の大半をぶん取り、酔って暴力をふるったあの親戚のジジイは、給料ばかりでなく、大悟が将の身代わりになった金までこっそりと我が物にしていたのだ。

大悟は、電話口で弁護士に、その親類のしうちについて訴えた。

そして、その金を自分の口座に直接振り込むように頼んだ。

弁護士は、大悟に同情的な口調ながら、未成年である大悟に、大金を直接振り込むわけにはいかない、と諭した。

いくら大悟が懇願しても、その強硬さは変わらなかった。

だから……大悟は、今日の給料となけなしの金をはたいて、夜行バスに乗って、親戚に交渉に行く羽目になったのだ。

 
 

聡は、学校を終えるターミナル駅がある街にやってきた。将のプレゼントを選ぶためである。

ふだんだったら社会見学がある金曜日だが、今週と来週は進路相談のため社会見学のほうは休みになっている。

8歳も若い10代の男の子に何をあげたら喜ぶのか、正直いまだにわからない。

だけど、消耗品や流行ですぐ変わってしまうようなものは避けたかった。

一生もののプレゼント……これが一番難しい。

服やアクセサリー、時計など、聡が買える値段のものはたいてい流行系だ。

そうかといって、生活雑貨は将はあまりなじみがないだろう。

将が生まれた年のワイン。

これは一瞬よさげに思えたが、ワイン好きだった前の恋人の博史を思わせそうなのでNGである

(将はそんなことを知るよしもないのだが、何となく)。

頭を抱える聡の目のまえに、高級ステーショナリーショップがあった。

なんとなくそこへ入ってみる。

桜の木目で彩られた暗めの店内には、皮表紙の手帖や、メタリックに輝くシャープペン、国ごとに色の違う石をはめこんだ地球儀などがまるでギャラリーのように数少なく陳列されていた。

金属板で小さく表示された値段は、聡がふだん職員室で使っている文房具の100倍もするようだった。

――こんなの誰が使うんだろう。

そう思った聡だったが、ガラスケースの前で足をとめた。万年筆が陳列されている。

その万年筆で書いたものとして、さまざまな色の文字が見本として展示されていた。

その中で、聡の気持ちを素晴らしく惹いた、セピア色の文字があった。

「こちらは、●●県の工房がつくっている、手作りの万年筆なんですよ」

見とれる聡に、低い静かな口調で女店員が、声をかけた。

そんなところで、と聡は少し驚いた。

それは日本海側にある、人口が少ない県だったからだ。

「本当はオーダーメイドなんですが、うちでは標準的なものを置かせてもらってるんです。インクもこちらの工房のオリジナルで、こちらは」

と聡が見とれていた色を指す。

「イカの墨を原料にしてつくったインクなんですよ」

「え!イカですか!」

「ええ」

女店員は微笑んだ。聡は、見本の文字に思わず鼻を近づけた。

「匂いはしないんですね」

聡はおどけて微笑んでみせた。

「もちろん」

仕立てのよいスーツを来た女店員は聡のジョークに対応して少し可笑しそうなそぶりを見せた。……感じのいい店員だ。

「よろしかったら、試しに書いてみてください」

「いいんですか」

聡は、万年筆を握った。すっと手になじむ心地よい重みがあった。

ざらつく紙なのに書きやすい。

店員は、この万年筆は100年、いや半永久的に持つものだ、と言った。

創業100年近い工房だから、メンテナンスも万全だという。

3万円台はやや高いが、一生ものなら、十分に許せる値段だ。

イカ墨のセピア以外の色も、独特の色合いで、かつ万年筆ならではの濃淡が美しい。

聡は、自分がこれを欲しくなったほどだった。

そこで、将の文字を思い出す。

長いこと学校をさぼって不良をやっていたくせに、均整のとれた文字を書く将。

国語の担当に、彼が書いた小論文を見せてもらったことがある。

中身はもちろん、字の美しさからもそのクオリティの高さが伺えるような、そんな端正な文字だった。

「すいません。プレゼント用にこれを包んでください」

聡は将のプレゼントを即座に決めた。

 
 

プレゼントも買ったし、明日のために早く帰ろうと、聡は電車に乗った。

ちなみに将は、今日はバイトだという。

「週に2度ジムに通えって言われてさあ」

と口を尖らせた将の顔を思い浮かべる。

事務所としてはもう少し、筋肉をつけさせたいのだろう。

聡の脳裏に、細身だけどしなやかな筋肉がついた、浅黒い将の裸体が蘇る。

思わず聡は顔を伏せた。

あしたの今ごろは……将と。

それを考えるだけで、体の中心に快感の予兆がほとばしる。

聡はそれを追いやるように、踵をもう片方の足に引き寄せた。

そして、そんなことをみじんも考えてませんよ、というまわりへのPRのために、つまらなそうに顔を窓の外に向けてみる。

もう暗いせいか、窓は車内の蛍光灯に照らされた聡の顔を反射した。

幸い、そこには地味なスーツに髪をひっつめた、淫らなことなどとおおよそ縁のなさそうな女が映し出されていた。

ほっとした聡の顔の向こうに、見覚えのある端正な横顔があった。

思わず聡は振り返った。

――やっぱり。

「大悟くん?大悟くんでしょ」

萩の実家に将と一緒にやってきた友人。将は彼を中学時代からの親友と紹介したはずだ。

急に声を掛けられて、振り返った大悟は目を見開いてけげんな顔をしたが、すぐに

「あ、アキラセンセイ」

と気がついた。

聡は、大悟の口元が殴られたような痣とともに切れていることに気付いたが、その顔に隠された憔悴には、まだ気付いていなかった。

第183話 誕生日(3)

「ごめんね……。誕生日なのに」

将の腕の中で、聡はつぶやいた。

もうすぐ、将の誕生日が終わる。二人は聡のベッドの中で肌を寄せ合っていた。

「気にするなよ……。それより痛くない?お腹」

将はパジャマに包まれた聡の体を抱き寄せて、優しく囁いた。

「……大丈夫」

土曜日が待ちきれなくなり、聡を抱きたくなった将だが、聡はあいにく、まだ生理日だったのだ。

しきりに謝る聡を将は包むように抱きしめた。

「いいよ、明日1時間目から英語だろ。もし、今日したら、明日思いっきり顔に出るだろ。これでよかったんだよ」

と将は聡の肩をさすりながら、優しく言って聞かせる。

枕もとのスタンドが、ベッドを温かく照らしている。

将は、素顔の聡を飽かず見つめた。

こちらを見つめる瞳が熱をもって黒糖飴のように光っている。

スタンドの灯りで琥珀色になった髪がいとおしい顔をふちどっている。

あわてなくても、いい。どうせ土曜日には……。

将は、聡の額に唇をよせると、目を細めた。

至近距離ならではの将の甘い瞳。長い睫。聡も彼を飽かず見つめている。

眠るのが惜しい。夢の中でもこうやってずっと抱き合っていられたら。

二人とも同じことを考えながら、ワインの残滓がもたらすまどろみの中に引き込まれていった……。

結局、将は今日も聡の部屋に泊まることになりそうだ。

 
 

木曜日。久しぶりのハケン労働を終えて大悟は心底疲れていた。

今日は菓子工場へのハケンだった。

女の子のハケンも多い行き先だから、楽なことを大悟は期待していた。だが……。

そこで働く者は宇宙服もしくは放射能の防護服を思わせるような白い制服を着る。

靴は借り物だが、皆が借り回したせいか、やけに臭い靴を履く時点で大悟の労働意欲は減退していた。

大悟はやけに暑い、焼き場に連れて行かれた。

むせかえるような甘い香りが『美味しそうないい匂い』だと感じたのは最初だけだった。

髪を包む制帽と、そしてマスクで覆われた顔から見えるのは目のあたりだけ……それがいやにくっきりとした男に、

「この鉄板、掃除してね」

と言われる。口調からどうやら外国人のようだ。

1枚だけでもかなり重い、黒い鉄板にはお菓子のサイズにあわせた小さな窪みが等間隔に空いている。

「ここのゴミを指でとるヨ」

窪みにこびりついた焦げなどを、軍手の指でひっかいたり、なすったりするようにして掃除していく。

力仕事だが単純作業、楽勝だと大悟は思った。

だが、それは最初だけだった。

まだ熱い鉄板を運んで、軍手の指をつかって掃除をし、そして所定の場所へ運ぶ。

それを繰り返しているうちに、だんだん指が痛くなってきた。

焦げ付きをとるのには結構指の力がいる。

中には指のほうが曲がりそうになるほどしつこく焦げ付いたものもあった。

それに、重い鉄板を運ぶのも重労働だ。

大悟が所定の位置に運んだ鉄板に、さっき作業の説明をした外国人が、同僚と笑いながら新しいお菓子用の紙を敷いている。

こっちの作業は楽そうだ。

大悟は鉄板を運びながら、いつか代わってくれるのだろうと期待した。

「チョット」

声がかかって、やっと交代かと大悟は急ぎ足で呼ばれたほうへ行った。

「もうチョト急いでネ」

大悟は脱力した。だが、言われたことはやる、という基本的な責任感が大悟を動かした。

大悟は疲れを意識の外に追いやるように、がむしゃらに働いた。

「熱!」

あまり急いだのか、軍手に覆われていない腕に、鉄板の取っ手が触れてしまった。

じゅっと音がした気がする。

気がつくと大悟の手首には細長い楕円形の赤い痣が出来ていた。

ヒリヒリする。すぐに冷やさなくては……本能が警鐘を鳴らす。

しかし、そんな暇はなさそうだ。大悟は、痛みを無視して仕事を続けた。

ようやく昼休みになった。

大悟は、制服のまま社員食堂の椅子に座り込んだまま、しばらく動けなくなるほど疲れた。

当然食欲はない。昼食代が少なくてすむ、というのを心の拠り所に、しかしまだ午後があと5時間もあると思うとうんざりした。

手首の火傷は水ぶくれになっていた。

その痛みを耐えて、午後も鉄板掃除をする。誰も大悟と交代してくれる者はいなかった。

「ちょっと、そこの人」

勤務時間があと2時間に迫ったところで、ようやく大悟は鉄板から解放された。

かわりに固太りで大柄な年配女性の社員に呼ばれてついていく。

女性とはいえ、マスクの上の目はやぶにらみで、嫌な予感がした。

「このシールを貼って。この見本の通りにね」

とセロファンに包まれた菓子がいっぱいに詰まったプラスチックの箱を運ばされる。

しかし、焼き場よりは涼しいのと、単なるシール貼りが今度の作業ということで大悟は心底ほっとした。

見本と言われた菓子を、大悟は手にとってしげしげと見る。そして注意深くシールを貼り始めた。

女性社員は、そのままシール貼りを大悟にまかせると、太った体をゆすりながら、他のところへ行ってしまったのだが、ようやく1箱分、大悟が終える頃に戻ってくるなり、

「あーあ!」

と声を出した。大悟の顔のすぐそばに、やぶにらみの目がある。

歯槽膿漏だろうか……嫌な匂いがして、大悟は思わず顔をそむけたくなった。

「全然違う!このシールは、真ん中っていったでしょ!もうっ」

え?と大悟は目を丸くした。

彼女は大悟が貼ったシールをこれみよがしに剥がして貼りなおしている。

大悟は見本を見なおした。それには、真ん中より少々上にシールが貼ってあるように見える。

しかし、

『アンタ、真ん中とは言ってないでしょう。この見本のシールは真ん中より上に見えますが!』

と口答えをするほど大悟は子供でもない。

「すいません」

と無難に謝ると、シールの貼りなおしを手伝おうとした。だが、

「もういいっ!こっちをやって」

と同じような新しい菓子のシールを貼るように言われた。

「ここに見本があるから、今度は間違えないようにね!」

――別にさっきだって間違えたわけじゃないのに。てめえがちゃんと教えないからいけないんだろ。

大悟は、胃のあたりがモヤモヤするのを堪えて、注意深くシールを貼った。

すると横で貼りなおしをしながら、また、女は

「あ~ああ」

と手を出してきた。再び嫌な匂いがマスクを通して大悟を襲った。

「アンタ、ちゃんと見てんの?」

「え?」

「ホラ。これはこう!」

女はシールを逆さまだと指摘した。だが大悟にはさっぱりわからない。

しかし、よく見るとわずかに模様が入っている間隔が違った。

――上下があるなんて、教えられもしないで、わかるわけねえよ。

大悟のモヤモヤはさらにイガイガと胃のあたりで暴れ始めた。

そのあとも、シールを貼って並べ終わったあとで、

「並べ方が違う!これじゃ数がわからないじゃない」

といきなり怒鳴られたり、片付けとけと言われたので、シールを貼った後の台紙を捨ててたら、

「あーあ、これは数を数えるのに必要なのよっ!」

あげく

「アンタ、何にも考えてないでしょ」

とまで罵倒された。

しかし大悟は、胸が熱くなるほどのストレスに耐えた。

鉄板のときに駆使した足、そして指ももうボロボロだった。

そこへ罵倒の嵐。

労働ってこんなにつらかっただろうか。

勤務時間が終了したとたん、大悟はマスクと帽子をはずして更衣室の前の廊下に座り込んだ。

するとさっきの口臭デブ女も勤務終了だったらしく、まわりの白衣に「お疲れさまー」といいながらにこやかにこちらへ歩いてきた。

大悟はいちおう、しゃがみこんだままとはいえ「お疲れ様です」と頭を下げた。

本当は口も利きたくない。

女は

「あら、アンタ、さっきのコ?……ふーん、結構カワイイ顔してんじゃない」

と立ち止まった。

大悟は見上げるふりをして、斜めに睨みつけた。

しかしそれを悟られないように頭は軽く会釈して、口元は笑いながら

「どうも」

と愛想をいう。

「また、来なさいよ。お疲れ様ー」

と女は大悟の視線の質を見分けないまま、やぶにらみの顔に能天気な笑顔を浮かべて更衣室に消えた。

――クソッタレ。

思わず口に出そうになるのを大悟は抑えた。

それだけ消耗した1日だったのに……8250円。それが今日の手取りだった。

「くそっ!」

大悟は現金だけをポケットにねじ込むと、明細を破り捨てた。

……自分はスタートラインでひどく損をしている。

それはもはや無視できないほど強く大悟の心に閃いていた。

もし……あのとき。

将の身代わりで人殺しの罪をかぶらなかったら。普通に高校に行って……。

と一瞬考えた大悟は、ひとり、ふっと笑う。

借金から逃げ回るような親しかいなくて、高校なんかいけるわけがない。

カンベツに入ろうと入ってなかろうと、大差はない。大悟は一生懸命そう思おうとした。

自分が選んだ道だ。将のことを恨みたくなかった。

『身代わり』。

大悟は、あることを思い出した。

将の身代わりに人殺しの汚名を引き受ける代わりに、大悟は相当のものを受け取る約束になっていたのだ。

大悟に面談した将の父親の代理人である弁護士は、言ったはずだ。

『成人するまで困らない程度の金額を受け取れます。もし、進学なさりたいなら力になってさしあげることもできます』と。

第182話 誕生日(2)

――やっぱりダメだったか。

大悟は携帯を握った手をダラリと下げた。

水曜日。午前中にあった面接の結果が今、携帯にもたらされたのだ。

これで2件目の不採用。

たった2件ともいえるが、そもそも中卒の大悟が応募できる求人は少ない。2件でも大悟の絶望は深かった。

ため息をつくと、大悟は財布の中身を確認した……もう3000円を切っている。

土曜日にモデルのバイトでもらった1万円だが、求人誌、履歴書、交通費、昼食代などで羽が生えたように飛んでいってしまった。

また、しばらくハケンにでもいかないと、もたないな。

そう思ったやさきに、折りよく、ハケン会社から連絡があった。

「明日、菓子工場で人が足りないんだけれど、島くん、これないかな」

と頼まれる。ちょうどいいタイミングではある。

「ハイ……行きます」

と即答した大悟だが、電話を切ったとたん、再び深いため息をついた。

所詮……自分は日雇いのハケンぐらいしか仕事がないのだろうか。

ハケンも今だけで考えれば悪くはないが、今日は菓子工場、明日は倉庫でダンボール運び、その次はコンビニの弁当詰め、文房具の検品……と毎日その場その場で仕事が違う。

その場の人出不足をまかなうための人材。

つまり、将来への積み重ねのない仕事である、ということを大悟はわかっている。

できれば、少しずつでも確実に自分の能力を積み上げることができるような仕事がしたい……だけどそれすらもダメなのだろうか。

まだ、就職活動を始めてたった4日なのに世間の厳しさに大悟はうなだれていた。

そこへ、いきおいよくドアが開く音がした。制服姿の将だ。学校が終わってまっすぐ帰ってきたらしい。

「あ、大悟、いたんだ」

将はブレザーを脱ぎながらリビングのソファにいる大悟に声をかけた。

なんだか浮き足立ってみえるほど楽しげにこちらに歩いてくると、冷蔵庫をあけてミネラルウォーターを取り出す。

「俺さ、すぐ出かけるから」

「どこに」

「アキラと二人で、俺の誕生パーティだよん」

将はグラスに注いだ水を一気に飲むと、白い歯をむき出していかにも嬉しそうに笑った。

「そっか、将、今日誕生日だっけ……」

大悟はつぶやくと、「おめでとう」と寝室に入った将に言葉を投げる。

将はくぐもった声で「サンキュ」と答えた。なにやら着替えているらしい。

「車でいくの?」

大悟は着替えている将に話し掛けた。

「いや、ワイン飲むから今日は電車」

「また、泊まってくるの?」

昨日も、将は聡の部屋に泊まってきているから。

「いや、今日は、こっちに戻るよ」

答えながら着替えた将が出てきた。

洒落た細身のパンツに細身のジャケットからは黒いストライプのシャツがのぞいている。

いつものストリート系と違って、かなり高価な服だというのは、大悟にもわかった。

そんなふうな私服を着ると、本当に高校生とは思えない将である。

「じゃ、行ってくるよ」

うかない顔で見つめている大悟に将は気付かずじまいだった。

 
 

「じゃあ、改めて将の18歳の誕生日に乾杯」

「乾杯」

聡と将はシャンパンフルートを傾けた。

将の誕生日である水曜日も19時をまわっている。

二人は、初めてデートした高級フランス料理店に来ている。

あのときと違うのは、二人とも塩で汚れていないところと、個室を取っているということだ。

個室は、メインダイニングより一段落ち着いた色調に暗めの照明で、より二人の親密さが増す。

昨夜、突然聡の部屋を訪れた将は、当然のように聡の部屋に泊まっていった。

だけど、抱き合って眠っただけで、一線はあいかわらず越えていない。

土曜日の楽しみを増すかのように、ただ抱きしめあって、お互いの感触だけを確かめ合う。

そのとき、聡が提案した。

「今日が、将の誕生日だよね。もし今日バイトがないなら、二人で乾杯しない?」

将はもちろん賛成した。

聡は近所の将も気に入っている気軽なイタリア料理店を提案したのだが、将はせっかくだから、と、あの初デート以来のこの店を推した。

「高いんでしょ、あそこ。私、将におごりたいけど、払えないわ……」

と躊躇する聡に、将は

「じゃあさ、シャンパンだけおごって」

と微笑んだ。本当は全額将が払ってもいっこうにかまわない。

だけど、聡が自分を祝ってくれる気持ちが嬉しいのでそういうことにしたのだ。

聡も今日は、学校からいったん部屋に帰ってお洒落してきている。

桜色にチョコレート色のアクセントがついたワンピースは、いつも地味で固いデザインの服を着ている聡とは違う印象だ。

でもそんな甘い色使いもよく似合っている。

すでにシャンパンで、服よりも濃いピンク色に頬が染まっているのが可愛い。

将は、そんな聡を見つめた。どんなに見つめても見飽きない。

これからもいろいろな聡を見つめていたい。

将はふと、昨日、マネージャーの武藤にいわれた転校の件を思い出す。

……転校なんてとんでもない。

「何?」

聡が将の視線に気付いた。

「アキラ、ずっと、一緒にいような」

将は優しい……どこか寂しげな目で聡を見つめた。

「え、どうしたの?急に」

聡は微笑んだままだが、お洒落して食事を前にして、という状況で、そういうプライベートなセリフにドギマギしていた。

そういえば個室だったことに、さんざんときめいた後から気付く。

「卒業したらさ。結婚しようぜ」

将のほうは、すでに個室を堪能すべく、大胆な言葉を並べていく。

18になったら、と言っていたのだが、教師と教え子に戻ってしまったので、卒業したら、に延期されている。

聡はいたずらっぽく笑うと

「卒業したときも、将の気持ちが変わってなかったらね」

と答えた。冗談のつもりでいったのに、何故か聡は心にちくっと刺さるものを感じた。

小さな痛みを無理やり消すように

「あたしのほうが9歳年上だから、早くおばあちゃんになるわよ。おっぱいだって垂れちゃうし」

聡はそれを冗談にしてしまうと、シャンパンを口にした。

「8歳だろ。いーじゃん。ばあちゃん上等。だいたい女のほうが寿命長いんだからちょうどいいじゃん」

将はいったん冗談に冗談で応酬すると、

「俺の気持ち、変わるわけないじゃん。俺、聡のこと、もう2年近く好きなんだぜ」

真剣な瞳を聡に注ぎ込んだ。

「俺さ、早くアキラと夫婦……家族になりたい。もう、一人は嫌なんだ」

「将……」

「俺、絶対いい夫になる。子供ができたら優しいお父さんにだってなるよ。……聡と家庭をまず大事にしたい」

聡の心に、将の抱えていた寂しさがダイレクトに流れ込んできた。

小さい頃に実母に死なれ、父は忙しく、頼っていた義母には大事なときに見捨てられ。

聡には考えられない寂しさが将に『一人は嫌だ』と言わせているのだろう。

まだ前菜なのに、聡は胸がいっぱいになった。

「まだ、たよりないかもしれないけどサ」

少し照れたのか、将はいったん俯く。そしてもう一度、顔を上げると崩れた笑い顔を聡に見せた。

なんて笑顔をするんだろう。

聡の胸をいっぱいにしたものは、急激に体の中をこみ上げてきて、目に熱いものを溢れさせた。

「まだ1年あるわ……」

聡はあわてて、それをナプキンで拭うと、まっすぐに将に向き直った。

「将は、将の道をまず見つけて。私は、将をいつも見てるから……」

聡の濡れた、しかし強い光を放つ瞳に、将は、ゆっくりとうなづいた。

 
 

「少し、歩こうか」

「うん」

食事を思い切り堪能して店を出た二人は、賑やかな通りを歩いた。

デザートは店のサービスでろうそくが乗ったケーキだった。

大きなろうそくが1本を取り囲むように、小さなものが8本。

そこまで全部食べるとかなりのボリュームになった。

もう10時近いにもかかわらず、通りは昼間のように賑やかさである。

ワインの酔いも手伝って、二人とも夢心地だった。4月の冷たい夜風がちょうど気持ちいい。

大通りに差し掛かる。

あのとき、酔っ払った将に寄り添って座った中央分離帯を聡は懐かしく眺めた。

――あれからもう、半年以上になるんだ。

「……ね、アキラ」

「?」

将は肘を聡のほうに突き出した。

「ああ!」

やっとわかった聡だが、

「腕なんか組んでるところを誰かに見られたら大変よ」

と笑いながら将の肩を軽く叩いた。

「チェー」

学校から離れているものの、誰かがいるかもしれない。酔っていてもそれを忘れない聡が、少し憎たらしい。

「ねえ、将。なんか欲しいものある?」

聡がふいに訊いた。

通りに面した店は、まだ開いてるところもある。

どうせプレゼントされるなら、一番欲しいものがいいだろう、と聡はサプライズより実用性を重視することにした。

「だから、アキラだってば」

将はおどけて、歩きながら聡の肩に手をまわそうとする。

聡は、やめてよ、人が見てるわ、と笑いながら

「それは土曜日でしょ。そうじゃなくて、何かプレゼントしたいの、誕生日の」

聡は将を見上げた。

「えー、そんなのいいのに。今シャンパンおごってもらったし」

将は、傍らの聡を優しく見つめ返す。

「よくないよ!あたしマグカップもらったもん」

「何、ギブ&テイク?あれ、そんなにいいものじゃないよ」

「そんなんじゃなくて!」

聡は、将の袖を強く引っ張った。

「あたしね。あのマグカップ見るたんびに、あのときの嬉しさが蘇るんだ。だから、将にもそういう思い出の品みたいなのをあげたいの!」

「アキラ……」

「それに、あたし、あのマグカップすごく気に入ってるんだからね」

聡の言葉に将は、胸が熱くなった。ウォッカでも飲んだときのような熱さに、思わず顔を空に向けた。

東京の空は夜なのに、ピンクっぽい色に濁っている。星などはまるで見えない。

だけど、横に聡がいるだけで、二人で見た北海道の、山梨の、降るような星空が透けて見えるようだ。

「俺……。今すっごく、アキラを抱きたい」

将はつぶやいた。

第181話 誕生日(1)

「うわっ、もう11時?」

篠塚が腕時計を見て言った。ようやくコンポジの撮影が終わったところだ。

5時頃から開始したので、6時間も掛かったことになる。

さまざまな衣装、ポーズでの撮影は面白かったが、将はかなり疲れた。

途中で小休憩があり、差し入れがあったが、お腹もすいていた。

ちなみに結局、髪は切らずにそのままで撮影している。

「みんなでどっかでメシ食っていきます?」

アートディレクターが提案したが、

「将は明日も学校があるんでしょ。私が送っていくわ」

とマネージャーの武藤が却下した。

将と武藤以外のスタッフは「お疲れ様ー」と言い合いながら、そのまま夜の街に繰り出すようだった。

「将、お疲れ様。疲れたでしょ。すぐ車をまわすから待ってて」

武藤はクールな顔の中に将への気遣いを見せた。

「ハイ」

将は素直に、通用口の前で待つ間に、携帯を開く。

聡の待ち受けに23:18の表示。もうあと42分で明日、つまり18歳の誕生日だ。

――そうだ。

このまま、聡の家に行こう。

自分の思いつきに将は疲れを忘れて元気になった。

「お待たせ。さ、乗って」

武藤が運転する車が着いた。シルバーの高級国産車だ。

助手席のドアを開けた将は、

「あなたは後ろ。大切なタレントなんだから」

と促される。よく意味がわからなかったが将は素直に後部座席に乗りなおした。

後部座席の窓は、スモークガラスになっていて外から見えにくくなっているのがいかにも芸能プロダクション仕様だ。

「お腹すいた?」

「いいえ、大丈夫です」

本当はお腹が空いていたが、寄り道するよりは一刻も早く聡の部屋に行きたかった。

びっくりさせたいので、敢えてメール連絡はしないことにした。

「185センチ、66キロ。ダイエットの必要はないけど、もう少し筋肉をつけたほうがいいかもしれないわね。週2回程度ジムのスケジュールを入れていいかしら」

「ハァ」

バックミラーに、武藤の眼鏡のあたりが映っている。やや上向きの切れ長の目が将のほうを見ている。

誰かに似てるなあ、と将は思った。

「あ、そうだ!」

思い出した将はすっとんきょうな声を出した。

「武藤さん、スケートのイナバウアーの人に似てるって言われません?」

「えー、何よ、急に」

武藤は、クールな顔と言葉つきを崩した。

「似てる、絶対似てる、そっくり!」

「もう、スケジュールと関係ないでしょ!」

と、たしなめる声が少し大きくなりながらも、アクセルさばきは乱れることはない。

大切なタレントを乗せている自覚があるからだろう。

「……ところで、将」

「何ですか」

「学校は転校することになるからね」

「……え!」

何でいきなり。

将は一瞬狼狽したが、シートから身を起こし、運転席の背もたれに向かってはっきりと

「嫌です」

ときっぱり言った。

今度はそれに武藤が驚いたようだった。幸い信号待ちになり、振り返って

「何で」

と聞いてきた。切れ長の目が見開いてキツイ印象になっている。

将は、武藤を一瞥すると

「そっちこそ、何で、転校しないといけないんですか」

と訊き返す。

「だって、身元を隠すのが、あなたがウチに入る条件でしょう」

武藤の口調は、すでに落ち着いている。

「なんだソレ」

「あなたの保護者から言われたのよ」

「カンケーねーよ」

将は乱暴に言い捨てると、後部座席のシートにふんぞりかえった。

保護者=父関係、が話題に出て、思わず将の言葉は崩れてしまっている。

「だって、学校のお友達や先生は、アナタの身元を知ってるんでしょう?」

「俺の知ったこっちゃねー。とにかく俺は転校は絶対イヤだ」

そのとき、信号が変わった。

武藤はアクセルを踏みながらバックミラー越しに将を見つめる。というより睨むようだ。

「どうしてそんなに転校が嫌なの?」

「……」

将は、バックミラー越しの武藤の視線を避けるように、窓の外に視線を移した。

夜の中に、街の灯が流れていく。

聡がいるから。聡がいなけりゃ学校なんかいかない。……とは言えない。

「身元なんかさ、口止めしとけばいいじゃん」

将は学校に執着する理由のかわりに、対応策を出した。

「バカね。口止めなんか誰が守るもんですか。ちょっと小金を積まれただけで軽くしゃべるわよ」

「フン」

将はそっぽを向いたまま

「とにかく、絶対転校しろっていうなら、俺はこの話降りるぜ」

と言い放った。

武藤は、『なんだこのデカイ態度は』と思った。

本来だったら『アンタの代わりぐらいごまんといる』とも言いたいところだ。

だが、社長強力推薦の新人の将である。ここでヘソを曲げられてしまったら武藤の責任になってしまうので口をつぐんだ。代わりに

「わかったわ。転校の件は少し考えるわ」

とたしなめておいた。

そして、社長から聞いた彼女、というのは学校の中にいるんだな、と確信していた。

 
 

聡は、風呂からあがって一息ついていた。

もうすぐ将の誕生日の日付になる。

土曜日に泊りがけのデートをするのは決まっているけれど、聡はその瞬間に将にメールを送ろうと、メッセージを考えていた。

しかし、文面をどうしようか、と頭を抱えた。

ふと、思いついて、将が聡の26歳の誕生日にくれたカードを取り出す。

雨と涙で滲んでよれよれになったそれには、将から聡への愛が詰まっていた。

――宇宙一愛する聡が世に生まれ出たこの日に感謝、か。

もらったときは、少しクサイかも、と思ったが、こうしてみると、将の聡への愛情表現はなかなかだ。

それ以上のものは思いつかないかもしれない。

そういえば、将の先日の実力テストの成績は、現代国語と小論文だけ飛びぬけてよかった。

この2つだけだったら、どこの大学を受けても問題ない実力だった。

――どうしよう。

聡は悩んだ。文面に悩む頭は、寄り道をしようとして、マグカップのほうに聡の注意を向けた。

そうだ。将は誕生日にマグカップを呉れたんだった。

聡も、せめて土曜日に間に合わせて、何かプレゼントを用意するべきではないのか。

――買う暇あったっけ。

今週、放課後はずっと進路指導で埋まっている。

だけど、5時に終了してダッシュで電車に乗れば、少しは見る時間があるだろう。

木曜日か金曜日に、聡は将のプレゼントを買うことにする。

そして、再び文言に戻る。

「うーん……」

聡は思い浮かばなくて、ベッドの上に寝転がった。

――私は、将が生まれるのをずっと待っていた……年増っぽいなあ。

――将に出会えて幸せです……月並みだなあ。

もうあと3分しかない。

聡はゴロゴロとベッドの上で寝返りを打ってじたばたと足を動かした。

……ピンポーン。

聡はハッと身を起こす。こんな夜更けに誰?

警戒して足音を立てないように、玄関にしのびよる。

インターフォンの画像を確かめようとしたとたん、ドアがいきなり開いて、聡は熱いものに抱きしめられた。

近すぎて見えないけど、懐かしい匂いはまぎれもなく将のものだ。

「アキラ!」

「……将!」

もはや、どうしたの、などとは訊かない。将は聡に逢いに来たのだ。

二人は玄関先できつく抱きしめあった。

「いま、何時?」

ハッとして聡が訊いた。

つけていたテレビがCMから番組に切り替わった。

「ちょうど12時だよ」

将は自分の携帯を開いて確認すると、聡の瞳を見つめた。

聡は、将の顔を両手で包むようにすると、自分のほうに引き寄せた。

そして聡のほうから、将の唇に吸い付く。

「将……、18歳の誕生日おめでとう」

それを言えたのは、長い口づけの後ようやく、だった。

第180話 世間の厳しさと甘さ

メールの着信音が鳴って、大悟は求人誌の中に転がっていた携帯を急いで取り上げた。

そしてため息をつく。将からだった。

『今日、バイトで遅くなる』

との連絡。大悟は携帯を床に置いた。

火曜日も夕方になりつつある。

一念発起して日曜日から就職活動を始めた大悟だが、……きちんと就職するのがこれほど難しいとは思わなかった。

5月で18になる大悟は、そろそろ不安定な日雇いのハケンなどではなく、できるものなら正社員として働きたいと思っていた。

だが、中卒の大悟に、正社員の求人は皆無といってよかった。

1年足らずではあるが自動車部品工場で働いた経歴をもとに、あらゆる求人誌、そして将のパソコンでネット検索してみたが、めぼしいものは、ごくわずかだった。

そもそも履歴書を書くこと自体が困難だった。

大部分は問題なく書ける。だが……未成年の大悟は、保護者の欄を埋めるのに躊躇した。

嫌々ながら愛知の親類を書いて臨んだ今日午後の工場の面接だが、あまり芳しい結果ではなかった。

まず、

「どうして高校にいかなかったのか」

と訊かれた。

もちろん、鑑別所に入っていたから、などと答えるはずはない。ただ、

「親の経済的な理由で」

と答えた。

「今は、愛知に住んでるの?」

「いえ、東京の友達の家に世話になっています」

そう答えた段階で、面接官の視線が斜めになった。

何も言われなかったが、すべてを見透かされている気がした……。

メールの着信音が再び鳴った。大悟はあわてて置いた携帯を拾い上げた。

今度こそ、大悟が待っている連絡だ。

そして……さっきより大きなため息をつく。

不採用だった。

――まあいい。明日も面接がある……。

という希望と

――明日も同じような結果じゃないのか。

という絶望が入り混じる。

まだ希望と絶望は5分5分で大悟の心にマーブルをつくっていたが、心の奥底から泡のように出てくる考えがあった。

自分はひょっとしてスタート時点でひどく損をしているのではないのか。

泡はまだ、小さなものがぷくっと1つ出てきたに過ぎない。

大悟の表層心理は、いまのところ、それを必死で無視している。

 
 

将はM区にある、芸能プロダクション、ダイヤモンド・ダストに来ていた。

制服のままでいいと言われていたのでそのままだ。

今日は土曜ほど暑くないのと、まがりなりにも会社というところに来るので、いつものようにだらしない制服の着こなしは自粛している。

瀟洒なガラス張りの10階建てビルの8階から10階がプロダクションである。

8階の受付で名前を告げると、すぐに社長室に通された。

「あら~、いらっしゃーい。制服姿だとちゃんと高校生なのね」

橋本社長は、あいかわらずのオネエ言葉で椅子から立ち上がって歓迎してくれた。

そしてなにやら社内に電話をかけている。

その直後に、

「失礼します」

と女性が一人入ってきた。

黒いパンツスーツを着て、髪を後ろで1つに束ねている。

眼鏡の奥は少しキツイ感じの一重瞼でいかにもキビキビした印象だった。

「こちらが、鷹枝将くん。芸名はSHOのまんまでいいわ。将くん、アナタの担当マネージャーの武藤さん」

「武藤です。よろしくお願いします」

武藤は低めの声で挨拶した。年の頃、35~6ぐらいだろうか。

将は、よくわからなかったので「こんにちは、よろしくお願いします」と挨拶だけしておいた。

「武藤さんはね、とってもヤリ手の敏腕マネージャーなのよ。だから将くんも安心して彼女に頼ってね。で、武藤さん、今日の予定は?」

社長は椅子に腰を戻しながら武藤に訊いた。

「さっそく、コンポジ撮影に入ります。1スタと篠塚さん、真理ちゃんを押さえてます」

「よく篠塚さん押さえられたわねえ……。たかがコンポジ撮影に」

社長は目を丸くした。

「先日の撮影で、とても気に入ったようでした。写真集撮りたいって言ってましたよ」

「えー!写真集っ!」

社長は驚いて椅子から立ち上がった。

「ギャラが恐いですけどね」

武藤はクスッと笑った。冷たい感じの笑顔。将はクールビューティという言葉を思い出した。

「コンポジ撮ったら、さっそく『ばくせん2』のオーディションに出すつもりです」

「えっ、『ばくせん』?ドラマの?」

思わず将は目を丸くした。

博徒女教師が不良生徒を導いていくという単純なストーリーながら、人気女優と人気アイドルのキャスティングもあって平均視聴率25%以上をマークした、お化けといっていいドラマだ。

「そうよ。7月から『ばくせん2』が始まることが早くも決まってるんだけど、将くんにはその生徒役オーディションを受けてもらうわ。たぶん受かるから心配しないで」

と橋本社長は笑った。

「え、でも。俺」

テレビなんて聞いてない。と言いかけた将に

「その他大勢の役だから、大丈夫よ」

「……なーんだ」

アハハ、と将は照れ笑いをした。主演の中田雪絵とからむのかと一瞬想像してしまったのだった。

 
 

「よ!来たな!」

9Fにあるスタジオに入ると、篠塚が手をあげた。今日も先日と違う形の変わった眼鏡を掛けている。

傍らに、派手な若い女性と、お洒落な感じの男性がいた。

「こんちわー!」

先日のこともあり、将はリラックスして元気に挨拶した。

「このたびはお世話になります」

武藤が篠塚に深々と頭を下げた。

篠塚のような一流フォトグラファーがタレントのコンポジを撮影するためにやってくるのは異例中の異例なのだ。

「こちらは、ヘアメイク兼スタイリストの真理ちゃん、アートディレクターの坂井さんよ」

「よろしくお願いします」

「将、髪は切ってもいいわよね。校則はたしか茶髪OKだったし、役柄にあわせて一段明るくしましょう」

武藤が将に振り返った。呼び捨てにされて、一瞬、将はとまどった。

が、すぐに、「ハイ」と素直に返事した。

聡や友達にはいつも呼び捨てにされて平気なのに、会ったばかりの女性に『将』と呼ばれたのに違和感を感じたのだった。

だけど、すぐに芸名で呼んでいるのだ、と理解した。

「今の色と長さでも撮影しておきたいなぁ。貴公子っぽいし」

と篠塚がストップをかける。それが発端でクリエイター同士議論になった。

それぞれが、将を見て、瞬時に撮影したいイメージを思い浮かべたのだ。

議論している3人を見て、将は武藤にこっそり

「あの~、コンポジってなんですか?」

と訊いた。

「ああ……。あなたのプロフィールにつける写真のことよ。売り込むための重要な資料になるから頑張ってね」

と冷たい一重瞼でにっこりと笑った。そういう顔をすると、なかなか美人なお姉さんだ。

「ハァ」

なんだか、自分を置いてけぼりにして、コトがどんどん進行していくような気がする。

将は、スタジオの窓辺から見える夕景に視線を移した。

夕陽は反対方向にあるらしい。足元に広がる暮れなずむ街に、将は少し心細く聡を思い描いた。

将は、明日18歳になる。

第179話 義母

「俺、芸能プロダクションにスカウトされてるんだ」

聡は驚いたが、将の上に乗せた上半身は動かさなかった。

「将が?」

聡の問いに将はうなづいて

「美智子さんの雑誌に出たのを、プロダクションの社長が見てて、それで」

と言いながら、自分の上に乗った聡の背中を無意識になでた。

「で、どうするの?」

聡もほとんど無意識に訊き返す。

無意識ながら……そこには、将がいなくなる危機感を感じ取っていた。

「まずは、バイト程度って考えてるんだけど……アキラはどう思う?」

「学校は……?」

芸能活動といえば、社会人と同様だから、学校に行けなくなることも当然あるだろう。

「うち、ポイント制だから、何とかなると思う。……それよりアキラはどう?反対?」

聡は、将の胸の上に自分の頬を押し当てた。

将の鼓動が聞こえる。ゆっくりとしている。

何の危機感もなく、将にとっては単に『バイトに誘われたがどうしよう』程度の質問らしいことが、拍動からわかった。

聡は首だけ将のほうに向けた。

枕に頭を預けた将は、二重顎の変な顔になっている。

それを見て思わず聡は微笑みそうになるが、笑いを引っ込めた。

将のそんな顔を知るのは聡だけだ。

そして考える。将は……たぶん芸能界に向いているだろう、と。

弁当屋にいたときから、『このコだったらモデルもできるだろう』と思っていたし、負けん気が強い性格も競争社会に向いているだろう。

だけど、将が芸能界に入るということは、二人の仲の終焉を意味するのではないだろうか。

聡の胸のうちが、触れ合った皮膚から伝わったように

「恋愛禁止ってわけじゃないって社長は言ってた。一般人相手だったらスキャンダルにもならないって。……てか、スキャンダルになるほど売れるわけ、ねーけど。バイト感覚だし」

将はそういって、自分の上にいる聡を抱きしめた。

「そうね……」

そう答えつつ、聡は予感していた。

将は、芸能活動を始めるやいなや、たぶん売れっ子になる。

将の話だと、芸能プロダクションの社長自ら、将に会いに来たらしい。

つまり、目利きから見ても将は輝いているのだ。

そして恐れる。自分の届かないところに行ってしまう、と。

もし、将がスターになったら。担任と恋愛していたことが世間にバレたら……聡は身震いした。

一瞬震えた聡を感じた将は

「アキラ……反対?」

と枕から頭を起こして、聡の顔をのぞきこんだ。

聡は黙って将の顔を見つめた。暗がりだけど、目が慣れたのか、その顔立ちははっきりとわかる。

スターになる、というのは将にとっては素晴らしい成功を意味する。

それに、普通ではできない、貴重な経験を積むこともできる。

それは……、将にとって幸せなことではないのか。

聡は即座に首を振った。

そして微笑みをつくる。

「将がやりたいんだったら、いいと思うよ」

しかし、その顔を続けられなくて、聡は将の胸に頬を押し付けて、

「がんばってみたら。応援してる……」

と呟いた。

将の未来を邪魔する権利はない。

より将が人生で成功するために、聡はいつか、身を引くことになるのかもしれない。

将に密着している、うつ伏せた乳房から伝わる快感は、さっきのように甘い期待ではなく、せつなさを聡にもたらした。

将は、そんな聡の背中を撫でながら、それは聡の本心ではないことはわかっていた。

だけど、将がどんな方向に進めば、聡を幸せにできるのか。

その答えは依然わからないままに、将は聡の顎をあげて、唇を重ねた。

 
 

日曜。高級住宅街にある、鷹枝家では久しぶりに休日を取れた康三がソファで寛いでいた。

つい今しがたまで、食後のコーヒーを片手に新聞を読んでいたのだが、妻の……将には義母にあたる純代の報告に、思わず渋面をつくっていた。

先週、芸能プロダクション・ダイヤモンド・ダストから、将を芸能界に入れたいという勧誘を受けたことを、純代は康三に相談したのだ。

わざわざ将の家を訪ねて橋本社長は言った。

「社会経験だと思っていただければ」。

そのプロダクションについて、裏世界とのつながりや、何かたくらみがないことについては、すでに毛利が調査済みだ、とも純代は付け加えた。

「お前は、どう思うんだ?」

康三は純代に訊いてみた。

純代は、いったん目を伏せたが、まっすぐに康三を見て

「させてみるのもいいんではないでしょうか」

と答えた。

「ちゃんとしたところみたいですし……」

と付け加える。

純代の本心は、将を通り越えて、実の息子の孝太のことを考えていた。

鷹枝の後継ぎは、依然、将である。

しかし、純代は親心として、孝太に跡を継がせてやりたい、と考えていた。

純代は将が憎いわけではない。

鷹枝の後継ぎとして、今も大切な息子だというのはいつも自分に言い聞かせている。

康三のもとに後添えとして嫁してきた純代は、とても誇り高い人間である。

自らも戦後の混乱期に総理大臣を輩出した名家の出だった。

先妻の子である将をしっかりと育てることは自らの義務であると思っていたし、実の子の孝太と分け隔てなく育てることが、世間の規範としてあるべき家の嫁として当然の務めだと自覚している。

あの爆破事件さえなければ、純代は、先妻の子である将を分け隔てなく立派に育て上げた後妻として世間から尊敬されるはずだった。

あのとき……純代は単に恐かったのだ。

柱にはさまって動けない将を助けなくては、と思っているのに。

命の危険を感じた純代の本能は、自分の子だけを連れてまっさきに逃げ出してしまった。

しかし安全なところまで来て、ハッとした。

これがもし、自分の腹を痛めた子だったら。置いてきただろうか……。

案の定、あれ以来、道を踏み外した将に、純代は何度も向き合おうとしたが、将は二度と純代を信頼することはなかった。

そして非行に走り、殺人まで犯してしまった。

純代は……できればだが、将自身が後継ぎを辞退すればいい、と思っていた。

康三が、優秀な元同僚の妻との間に出来た将に、今も期待をかけているのはわかっている。

だが、もう将は手遅れだと純代は思う。

それよりは、名家の血をも継いだ孝太のほうが、後継ぎに相応しいと思うのは純代の贔屓目だけではあるまい。

将が他の道を見つけるなら、なお結構なことだと思ったのだ。

 

「そうか」

康三はジノリのコーヒーカップに残ったブルーマウンテンを飲み干した。

純代の考えは見抜いている。

将が、このまま立ち直らないなら、純代の願いどおりにしてやるのも悪くないと思う。

ただ、孝太は……政治家として人の上に立つには、優しすぎる。

康三は、巌に言われるまでもなく、自分の息子の素養を冷静に判断していた。

ソファに寄り掛かる。

疲れがそのまま、ずっしりと天から降りてきたかのように、康三の体はソファの背もたれに沈んだ。

――芸能界か。

康三は目を閉じた。

大泉総理の長男が、俳優として活躍しているのを目に浮かべる。

最初は若さばかりが目立った彼だが、近頃風格がついてきた、と政治家仲間の中でももっぱら評判だ。

悪くはないのかもしれない、と康三は考える。

芸能界に入れてしまえば、将はプロダクションと衆目の監視を常に受けることになる。

そのほうが、いつぞやの殺人事件のような問題を起こしにくくなるには違いない……。

しかし。

総理の息子は、一応一流大学を卒業している。

将はといえば……。康三は考えると頭を抱えた。

担任教師と相性がいいのか、どうにか3流高校を卒業はできそうだが、総理の息子のような大学にはとうてい進めないに違いない。

それにもし、再度問題を起こせば……それは隠し切れないほどの大問題になる。

そしてそれは、総裁選を来年に控えた康三の足を引っ張ることになるだろう。

「ふむ……」

康三はソファに寄りかかった背中を引き剥がすように起こした。

そして息を深く吐くと、おごそかに純代に伝える。

「いいだろう。ただし、身元については一切公表するな。それが条件だ」  

第178話 欲情

「将の誕生日なのに、悪いわ」

将がホテルを取ったことを伝えると、聡はそんな風に答えた。

聡の部屋で、二人で作った夕食を囲んでいる。

 

ようやく大悟が立ち直りの兆しを見せてくれたこともあり、週末だけ聡の恋人としてふるまえる将は、モデルのバイトが終わると、聡の部屋に直行した。

「何か美味しいものを食べに行こうか?」

という聡に、将は首を振った。

「アキラがつくったものが食べたい」。

だから、久しぶりに二人で買い物をし、一緒に台所に立って、料理をした。

山梨で教わった関西風のすき焼きがテーブルの上にある。

初夏の陽気に、すき焼きは少し熱すぎて、ビールが進む二人だった。

 

「俺が泊まってみたかったんだ。それに、ホテルだったら、思いっきり声出せるでしょ」

と将は悪戯っぽく笑った。

2月に聡とその寸前までいったとき。

聡は快楽に押し流されそうになりながら、それでも声を立てるのを我慢しているのを将はわかっていた。

それは、コーポの壁ごしに、淫らな声が聞こえてしまうことを恐れて、ということもわかる。

かといって、将の部屋には大悟がいる。

「もー。エロいことばっかり」

プーッと膨れるふりをしながら、聡は将の気遣いがわかっている。

声のことだけでなく、『その後』学校で会うことを将なりに考えて、非日常を用意してくれたのだ……。

聡が明確にOKしなかったのにもかかわらず、いつのまにか、聡が来週の土曜日に将とついに結ばれるのは二人の間に周知として横たわっている。

聡自身も、いつのまにか、そのつもりになって、期待している自分がいることに気付いていた。

 
 

本当に久しぶりに、将は聡と一緒にベッドに横たわった。

瑞樹が新幹線に飛び込んだ日以来。……それを思い出した将は、胸が痛んだ。

悲しみにくれるあまり酒やパチンコに溺れる大悟を見ている間は、そっちに気をとられて気付かなかったが、将の罪や責任は決して消えていないのだ。

じわじわと湧いてくる自責の念が恐くて、将は聡の体を抱きしめた。

「将……」

聡もしがみついてくる将を抱きしめた。

もう明日になっている。将が18歳になるまであとまる3日、72時間。

聡は熱くまとわりつく将を抱きしめながら、暗くなりきれない空間に視線を浮遊させる。

土曜日の深夜は、まだどこからともなく、賑やかさが漂ってくるようだ。

来週の今ごろは、二人は……結ばれているんだろうか。

走り来る未来予想は、聡の体をひどく敏感にした。

Tシャツごしに密着した将の肌でさえ……思わず吐息がもれそうになるほどの快感だ。

力を込めあうたびに、肌がぎゅうっと締め付けられる。聡は快感をおさえるために、将に話し掛ける。

「将、来週のホテル代……私が払うよ」

こんな風に抱きしめあっている二人には、両極端といっていいほど不似合いな経済的な話題。

すると将は暗がりの中で、聡の顔を見つめた。白目が青く光っている。

「そんなこと、気にするなよ。アキラ」

将は再び聡を抱く腕に力を込め、足を擦り合わせる。

将の足と擦り合わせた聡の足はその付け根に、期待のような快感をもたらした。

聡は雌の自分を自覚し恥じたが、将の抱擁から逃げることはできない。

ただ、噛み締めるように一人、快感をひた隠しにしている。

上気した頬を隠すように俯いたのを将は誤解したのか、聡を安心させるように

「俺、最近、儲かってんだから、株」

と付け加えた。そんな明るい口調も、聡には気恥ずかしかった。

自分一人で欲情しているのではないのか。

10代の男との一夜を想像する自分は……普通よりひどく淫乱な女なのではないのか。

「楽しみだな、来週が。今週は処理すんのやめとこ」

将がふざけてそう言ってくれなければ、聡は救われなかった。

おかげで、

「もうっ」

と呟いて、将の胸をゲンコツで軽く叩くことで、淫らも、それを責める自分も、なんとか押さえ込むことができた。

二人とも、こうやって抱き合いながら、来週のために、と自分を抑えていたのだ。

それがわかると、なんだか可笑しくなった。

そのまま聡は、健全さをとり戻そうと

「将、来週進路相談だけど、どうするか決めた?」

と教師モードを取り出しながら、将に向き直った。

「アキラは俺に、どうしてほしい?」

と将は訊き返してきた。誤魔化すために質問したのに、意外にまじめな口調で返されて聡はとまどった。

「将は、何をしたいの?」

「……それがわからないから、アキラに訊いてる」

言いよどむ聡に

「教師としてでもいいから、教えてよ。俺、何したらいいかな」

と将は食い下がった。

一方『教師』という言葉に、聡の中の雌は引っ込んだ。

――将は何を生業とすべきなのだろう。

聡は、将の腕をほどいて、暗がりの中にぼんやり浮かぶ将の顔を見つめた。

よく整った鋭い目付きの青年の顔は、このような至近距離で見ると、甘い顔になる。

こんな目付きの青年は……人に使われるのには向かないだろう。

と聡は一瞬思ったが、すぐに考えを翻す。

なぜなら、この年頃の他の子にしても、『勤める』のに向いてそうな子などそうそういないから。

みんな『勤め』に向いていない自分を、型にはまるように変形させて働いているだけなのだ。

「わからなかったら……とりあえず大学に行っておけば?」

教師の答えとしてはあまりよいものではないことは、承知の上で聡はそういった。

しかし、先を決める猶予としては、おおむね有効だと思う。

「大学に行きながら、いろいろバイトを経験してみるのも、いいと思うよ」

これは聡の経験から出た本心だ。

生活のためにバイトをすると、抜けられなくなる恐れがあるが、大学に行っている間に下っ端として揉まれるのはよいことだ。

特に将のように、恵まれた家に生まれて、プライドが高く、かつ苦労しないで金を稼いでいるような子はなおさら。

それを将に伝えると

「ええー、俺、苦労してるぜー」

将は暗がりには大きすぎる声で抗議した。

「一生懸命、データ探して、考えて。そんで投資してるんだぜ。損することだってあるし」

「でもさ、自分で汗水たらして、物をつくったり、売ったり、サービスしたりしてないでしょ。本来働くってそういうことなんだからさ。本質を若いうちに勉強したほうがいいってば」

「アキラがそうしろっていうなら、俺はそうするけどさ……」

将は仰向けになって天井を見た。

ちょっと説教くさかったかな、と聡はそんな将を見つめた。

「でも、将がやりたいことをやるのが一番いいんだからね。今のは、何もなかったら、の話」

聡は言い訳のように付け加えて、仰向けになった将の上に上半身を乗せた。

将が好きだといっていた体勢だ。

だけど、そんな聡のほうを見ずに、将は天井に視線を向けたまま何かを考えているようだ。

「将?」

呼びかけにようやく、将の視線は聡の瞳に戻ってきた。

「……アキラ、俺さ」

息継ぎのように一呼吸置いて……一瞬のためらい。

しかし思い切って言葉を一気に吐き出す。

「俺、芸能プロダクションにスカウトされてるんだ」

第177話 撮影(2)

「彼女いたら、どうして無理なのよ」

橋本は可笑しそうに将に訊き返した。

「いや……、別れさせたりとか、あるんでしょ」

笑われた将は、照れを隠すように、顔をあげた。

「いやね。いつの時代の話?」

そんな将に、橋本はクスりと笑った。

「別に恋愛は禁止してないわよ、うちは。彼女、同級生?」

「いえ……」

将は下をむいた。

さっきから、移ろう将の表情を、篠塚は間隙なくシャッターで撮り続けている。

「何、年上?……そうなのね。いくつ上なの?」

「9、いえ8歳年上です」

もうすぐ将は18になるんだから、8歳差だ。

と将は強気に出ながら、18歳になることを思い出して、うつむいた顔に思わず笑みが出そうになる。

もうすぐ、聡を抱ける。

将は……昨日、来週の土曜日にあわせて海が見えるホテルを予約した。

聡のために、日常から少しでも掛け離れた場所を用意しようと考えた結果だ。

非日常な中の逢瀬なら、その後、学校で会い続けても、聡が恐れる後ろめたさや生々しさが薄れるのではないか、と将は気を遣ったのだ。

今日か明日、聡にそれを伝えることを考えると、将はワクワクした。

「ずいぶん年上なのね。何してる人?本気なの?」

9歳を8歳と少なめに申告したにもかかわらず『ずいぶん年上』であることは変わりないらしい。

橋本は立て続けに訊いて来た。

まさか、自分の担任教師だとは答えられない。

それが、一般的にスキャンダラスであることぐらい、将でもわかっている。

だから顔をあげて、最後の問いにだけ、うなづく。

うなづいた将の瞳に、篠塚のシャッターが炸裂した。

「本気で好きなんだ。いいなぁ。恋する青年」

ひとしきりシャッターを切って篠塚が言葉を発した。

茶化しているような内容なのに、将は不思議に腹が立たなかった。

さっき、つま先から頭のてっぺんまでチェックされたときもそうだが、この篠塚というオヤジは失礼なことを失礼なことと思わせないテクニックに長けているようだ。

「将くん、高3だわよね。進路は?大学はいくの?」

橋本は、質問の方向性を変えてきた。

将は、篠塚に促されて立ち上がると、その指示通り、走った。

走る将を下から篠塚は捕らえている。

将は走りながら「まだ、決めてません」と答える。声が振動で震える。

「そう。じゃあ、進路の候補の中に、ウチも入れておいてよ」

橋本社長は、あっちに行ってしまった将に向かって叫ぶように誘った。

篠塚はカメラを構えながら将に合図を送った。こっちに向かって走って来い、という合図である。

将は言われたとおり、わずかな距離を全力でこっちに駆けてきた。

何度も繰り返すとさすがに、短い距離でも息が上がった。

将は膝に手をついて息を切らせながら

「だけど、俺、結構悪いことをしてますから」

と橋本社長に顔をあげた。

「悪いことっていっても、鑑別所に入ってたわけじゃないんでしょ」

鑑別所、という言葉に将の心はチリリと痛んだ。

本当だったら入ってたかもしれない、檻。

将は頭を地面に投げ出すように、下をむいた。踏み固められた地面に、早くも蟻が這っていた。

「せいぜい、女の子に何かしたとか、それぐらいなもんでしょ?将くん、私調べたのよ。……あなた、官房長官さんの息子さんなんでしょ」

将は再び橋本のほうに顔をあげた。おさまらない息が邪魔だ。……胸が苦しい。

将のヤクザ殺しについては、大悟がやったことになっているから、表には絶対に出ないことになっている。

将自身も、きつく口止めされているから、今まで誰にもしゃべったことがない。

橋本が調べたというのは、中学時代からの将の非行についてのことだろう。

「調べたんなら、ダメだってわかるでしょ。あの親が許すはずがない」

将は視線をはずして、投げやりに言った。

「そうかしら」

橋本は得意げな顔になった。いかにも親の説得に自信がありげな表情である。

立っていた橋本は将に顔を近づけた。

「親御さんの説得は置いといて。……ねえ、家出してて、年上の彼女がいるなら、早く自立したいと思わない?」

実際そうだった。

聡のために早く自活したい。

だけど、何をすれば……。将にはまだ、やりたいこともわからないし、何ができるのかもわからなかった。

そこへ、篠塚が近寄ってきた。

「キミのルックス。お金になるよ。しかも、ハシタ金じゃなくて、一生ゼイタクできるぐらいの。ちょっと努力すれば日本征服できるよ」

と笑った。

――日本征服って、何だよ。

わけもわからず、将はあいまいに笑った。

「篠塚さんの言うとおりよ。……ま、無理強いはしないけど。よかったら今後、バイトしにこない?今日のよりもっと楽しいお仕事まわすわよ」

橋本はウインクした。

「まあ、バイトだったら……」

うさんくささを払拭できない将は、歯切れも悪い返事しかできない。

 
 

篠塚は将の撮影が終わると、そのまま自分の事務所に帰ってしまった。

「いち早くチェックしたい」と言っていた。

将は橋本社長と、再び女性の注目を浴びながら、元の現場に戻った。

戻ってきた将を見て、美智子が

「お疲れさまです!」と声をかけてきた。

何もかも知っているように、ニコニコしている。

午前のヤラセ部門は終わりらしく、皆で食事をすることになった。

大悟はすっかりスタッフと打ち解けて、カメラマンや助手の人に仕事のことをあれこれ聞いては、興味深げにうなづいている。

そんな大悟の様子に、将は誘ってよかった、と心から思った。

二人は、その場で謝礼として1万円ずつもらった。

時給換算すれば、この間より割りは悪いが、それでもラクだったせいか大悟は満足そうだった。

大悟は、帰り道の電車の中、将にポツリとつぶやいた。

「俺も、頑張らないとな」

将はつり革を持ったまま、大悟の横顔を見た。

「明日からちゃんとした仕事を探すよ」

大悟は、窓の向こうの景色をまっすぐに見つめていた。

専門技能を持って働く人たちは、大悟に新しい活力を与えたらしい。

将は、ただ「頑張れよ」と言った。

将も……大悟の立ち直りを喜ぶだけでなく、ちゃんとした自分の将来を見つけなくてはならない。

何をしたらいいのだろうか。

ため息をついた将は、電車の中の家族連れに目がとまる。

土曜の今日は、家族連れも多い。お父さんと、お母さんと、子供。幸せそうだ。

ふと聡を思い出す。

聡は……自分に何をのぞむだろうか。何をやってほしいだろうか。

逆に。やりたいことがない将は、聡がのぞむことなら何でもやれる、と思う。

聡次第で将は、何にでもなれる。聡を思った将は腹の底に温かい力がわいてくるのを感じた。

駅を降りると、

「今日は、アキラ先生の家に泊まってこいよ」

と大悟は微笑んだ。

「だけど、お前、またパチンコ……」

「しないよ。安心しろよ。俺はもう、大丈夫だから」

心配する将の肩を、大悟は、ポンと叩いた。そして

「今までずっと付き合わせて悪かったな。……行ってこいよ」

と笑顔で将を促した。

このとき、将は、大悟が本当に立ち直ったことを疑わなかった。

だが、世間の厳しさの前に、さらに大悟が打ちのめされるのに時間はかからなかった……。

第176話 撮影(1)

「じゃ、二人もうちょっと大股で、カメラにらむ感じで……そうそう」

土曜の午前中。将と大悟は、若者が多いある街角でポーズを取っていた。

ポーズを取る将と大悟の前で、カメラマンはひざまづいたり、立ち上がったりしながらせわしなくシャッターを切る。

そんな様子を通行人が何事かと目を止めていく。

何人かの若いギャルたちがすでに、将と大悟に見とれて足を止めて撮影に見入っている。

カメラマンが場所を変えるたびに、大きなレフ版を持つ助手らしき若い男もその角度を変える。

ほとんど指示なしで、的確な場所へ移動していく。

そのほんのわずかな間に、コームを持った若いヘアメークが寄ってきて、将の前髪を微調整する。

「ハイ。OKです」

彼女はコームの取っ手でちょっとだけ将の前髪を崩すと、飛びのいた。

カメラマンはシャッターのあいまに、

「はい、いいよ、カッコいいよ!……そうそう。大悟くん、その顔、いいね!」

と将たちを誉めそやす。

――カメラマンって、口のほうも忙しい仕事なんだな。

将がそんなことを思っていたら、

「将くん、その顔サイコー!」

と言われてしまった。あとで聞いたのだが

「人をちょっと見下すような顔が、貴公子っぽくていいよね、彼」

とカメラマンは言っていたらしい。

 
 

編集兼ライターの美智子が、ちょちょっと撮影した先日と違って、今回の撮影は思ったより大掛かりだった。

プロのカメラマンとその助手らしき若い男、クライアント(広告主※今回はジーンズのブランド)の担当者が各社1名ずつで2名、スタイリスト、そしてヘアメーク。

グラフィックデザイナー、その場を仕切る美智子と、4月に入社したという出版社の新人編集者の総勢9名。

それに将、大悟を含めて『ヤラセ』モデル4名。

クライアントの担当者はヤラセ部分の撮影が終わったら帰るけど、代わりにあとからデスクが顔を出すと美智子が言っていた。

「午後になって人出が多くなってきたら、その場で、通行人の中から、オシャレでいけてる子を探して口説かないといけないからね。人海戦術よ」

と美智子が説明した。

もっとも今回のような人の多い取材は特別で、通常の取材は、もっと簡単で、美智子とカメラマンのみ、というものも多いらしい。

 
 

薄曇りの今日は4月前半にしては、温かく、気温はすでに20度を越えていた。

編集の美智子は

「温かくてよかったわー。5月発売なのに、みんな寒い格好してたら困るもんね」

とホッとした顔をしていた。

将たちモデルは、あらかじめ初夏にあわせた格好をさせられているが、今日の陽気はそれでちょうどいいぐらいだった。

今朝、休日だというのに、学校に行くのとほぼ同じ時間に起きた将は、大悟と共に、言われたとおりの時間に出版社のビルの前にやってきた。

そこは、将がめったに足を踏み入れない、皇居がある区にあった。

土曜なので、美智子は通用口の前で待っていて、将たちを見つけると手を振った。

「時間通りね。感心、感心」

美智子はニコニコと、通用口に将と大悟を招きいれた。

休日のせいなのか、その大手出版社のビルの中はやけに静かだった。

「おはよーございまーす」

美智子は明るい大きな声で挨拶をして地下にあるスタジオに入った。

そこにいた女4名と、男性3名の視線がさっとこっちに移る。

美智子が手早く紹介と挨拶をする。

それによれば、男性はこの出版社の新入社員とモデル2名、女性ははスタイリストとヘアメイク2名、、それとモデル付きの女性マネージャーということだった。

マネージャー付きの本物のモデルを使う撮影、ということで、将と大悟は少しだけ緊張した。

そのとき

「おはようございまーす!将くんと大悟くん、今日はよろしくね」

とスタイリストと紹介された一番年嵩の女がスケッチブックを持って近寄って来た。

声はしゃがれているが、格好は若々しい。おかげでいくつぐらいなのか見当がつかない。

ヘアメイクとマネージャー、新入社員は先にいたモデルの髪型の相談に戻った。

女が持っているスケッチブックの中には、すでに将たちの今日の衣装が色鉛筆の絵で指示してある。

――こんなふうに指示するんだ。

思わず、二人は興味深くそれをのぞき込んだ。

「大悟くんが176センチ、将くんが185センチだったよね。いちおうジーンズは背丈にそろえてあるけど、試着してみて。ダメだったら他のサイズもあるし、裾直しも頼めるから」

といきなりジーンズを押し付けられて、二人は顔を見合わせながら、スタジオの隅につくられた更衣スペースに神妙に移った。

「勝ったな」

大悟が将に小声で言った。

「え?」

今着ているジーンズを下ろしながら将が訊き返すと、大悟は

「あの二人に」

と、ニヤッと笑った。自分たちのほうがイケてる、ということである。

「まあ、な」

将も笑い返した。

「どう?」

スタイリストの声がしたので、二人はあわててジーンズを身につけた。

「将くんは、ぴったりね。大悟くんは……少し背が伸びたのかもね。ちょっと裾が短めだわ。こっちを着てみて」

「やった、足が伸びたかも?」

大悟は嬉しそうに、代わりのジーンズを受け取って更衣スペースに戻った。

そんな明るい大悟を見るのは久しぶりで、将も嬉しかった。

着る服が決まったら、鏡の前に座って、ヘアメーク。

ケープを掛けられて、将も大悟も少し照れくさかったが、先に来ていた二人は慣れていそうだった。

メイクといっても、別に女性のように化粧をするわけでもない。

ニキビや髭剃りあとを隠したり、透明なリップを付けるぐらいだが、将も大悟も肌に関しては問題がないので色物を塗る必要はなく、少しだけ眉を整える程度で済んだ。

眉についても、二人とも剃りこんでいるわけではないので、長すぎる部分をカットするだけだ。

ヘアメイクの女はさすが本職らしく、自らの化粧も巧みだ。

だが、柔らかい雰囲気でゆったりと話しかけてくれたので、将と大悟の緊張はずいぶんほぐれた。

「将くん、ちょっとだけ髪にメッシュ入れていい?」

「ハァ、いいですよ」

ヘアメイクの女は将の髪をいじり始めた。大悟のほうは、スプレーをかけられ、髪を立てられている。

「将くん、ゆるーく、くせ毛入ってる?パーマじゃないよね」

「ハイ。短いとわからないんですけど、伸ばすと出てくるんですよ」

「でも、ナチュラルでいい感じよ。だいたい、髪キレイだよね」

といいながら、少しだけ鋏を入れる。しゃべり方はフランクだが、その手つきは極めて慎重だった。

20分ほど、彼女が髪をいじっただけで、髪型の印象はガラリと変わった。

「将、カッケー。本物のモデルみたい」

そういう大悟も、眉を少し切って、髪を立てただけでぐっと垢抜けた。

もともといた2名のモデルも、最初に見たときよりあきらかによくなっている。

「わー、カッコイイ~!」

美智子がパチパチと手をたたいた。そこにいたスタイリスト、ヘアメーク、新入社員、モデルのマネージャーも笑顔で拍手して場は盛り上がった。

それから、ワゴン車に分乗して一同は撮影現場であるここへやってきたのだ。

 
 

先にモデルが一人ずつ撮影を終わらせ、マネージャーと共に帰っていった。

将と大悟は友達同士ということで、二人一緒のカットと、別々のカットをそれぞれ場所を移して撮影することになっていた。

将の撮影が終わって、大悟の撮影を見ている将は、肩を後ろからポンポンと叩かれた。

振り返ると、あの髭面の橋本社長がいた。

「こんにちは。将くん。今日はいっそうイケメンじゃない」

と髭面をほころばせて笑った。

「こんにちは……」

頭をぺこっと下げる将の後ろから、

「あら、社長!」

と美智子の声がした。

「来たわよ!お手伝いに」

「ありがとうございます~」

社長は、一般人の撮影に付き合って、その中から有望な若者がいたらスカウトしようとしていたのだ。

もちろん美智子はそれを承知だし、社長の眼力に頼りたい部分もある。

「でね、美智子ちゃん、手伝う代わりにと言ったらなんだけど、将くんをちょっと貸してくれない?……今日はウチのカメラマンも連れてきたの」

橋本社長の後ろには、やはり中年の男性がいた。機材を抱えた助手を連れている。

変わった形の眼鏡をしているな、と将は思った。

「ウチのって……篠塚さんじゃないですか」

美智子は改まって

「いつもお世話になっております」

とカメラマンに挨拶した。篠塚、と呼ばれたカメラマンは

「まいったよ。オフの予定だったのに、社長に呼び出されちゃってさ」

と苦笑した。

「でも、いい目をしてるコだね」

篠塚は将に視線を照射した。それは笑っているのに鋭い目で射抜かれるような感覚だった。

「ふふっ。そうでしょう」

橋本は口角をあげて、篠塚を見た。篠塚は将の足の先から頭のてっぺんまで舐めるように見た。

だが不思議と嫌な感覚ではなかった。

なんだかよく知ってる人に褒められるような、そんな感じがした。

美智子の様子からも、どうやら、橋本社長が連れてきた篠塚は、かなり有名なカメラマンらしかった。

実際、将が知らないだけで、彼は依頼されても、彼が認めた人の写真集しかとらない、一流フォトグラファーだったのだ。

「将くん、いいわよね?」

「ハァ」

にこやかながら断るのを許されない雰囲気に、将はしぶしぶ承諾した。

 
 

将は、大悟が撮影されているのと少し離れたところにある公園に歩いて連れてこられた。

髪を整え、スタイリストが上から下まで揃えた格好をした将は当然目立ち、すれ違う女性が皆振り返った。

機材を抱えたカメラマンも一緒なので

『芸能人?モデル?』とあからさまに噂する人もいて、将は少し照れた。

「やっぱり、いいわ。将くん、今日は本当に、カッコよくしてもらったわね」

橋本は自分のことのように嬉しそうに笑った。

「じゃあ、ここのベンチに腰掛けて。普通にしてくれていていいのよ」

「ハイ」

しかし腰掛けるところからすでに篠塚カメラマンがカシャカシャと撮影を始めた。

助手を使って2台のカメラをせわしなく変えているので、

「あの、どうして2台使っているんですか?」

と将は訊いてみた。

「ああ。デジカメと銀塩カメラと2種類で撮影してるんだよ」

と篠塚は快く答えてくれた。温かい目だ。

「へえ……どう違うんですか?」

「それはね……」

撮影する篠塚に興味深く質問をする将を、橋本はニコニコと見ている。

篠塚は如才なく将をベンチから立たせたりしながら、カメラの種類について説明をしながらも、将のいい顔を見逃さない。

「ねえ、将くん、あの話は考えてくれたかしら?」

カメラの話が一段落したところで、橋本社長が口を挟んだ。

「……ハイ」

「OKしてくれるわよね?」

「いえ……。やっぱり無理です。……すいません」

将の憂いげな顔も篠塚は容赦なく撮影する。

「どうしてぇ?」

橋本社長は咎めるように訊いたが、女言葉のせいか、あまりキツイ印象ではない。

「俺……彼女いるし」

将は答えた。

第175話 小さなしこり

大悟は、昼下がりの街を歩きながら通帳を開いた。もうこれで何度目だろうか。

何度見ても変わらない数字。残高は……153円のみだった。

大悟は爪を噛んだ。

そして後悔する。この1週間……パチンコにはまってしまった自分を。

いつか勝つ、と思って続けているうちに18万あった残高はあっという間に、消えてしまった。

財布に残っているのも300円と少し。

これでは派遣に行くための交通費にもなりやしない。

煙草を買ったら(一番安い煙草でも)もうあといくらも残らない。

大悟は、最近は煙草を吸わなくなっていたが、パチンコ屋で他人の煙に燻されているうちに、いつしか再び口寂しさを煙草で癒すようになっていた。

――煙草は将にもらうか。

しかし、そういえば最近、将が煙草を吸っている姿を見ない。

聡に言われたか何かで、もしかしたら止めたのかもしれない。

大悟はイライラするあまり、道端に転がっていたコーヒー缶を蹴った。

缶は午後の光の中、カラカラと音をたてて転がっていった。

――こんなことになるなら、あのとき将に金を払うんじゃなかった。

あのとき、とは。大悟が瑞樹と滋賀に行くことを決めたとき。

大悟は、いままでタダで将のマンションに居候し、タダで食事を食べさせてもらっていたお礼に、

『これ……。俺と瑞樹の食費と部屋代のかわりに。1ヶ月半にしては少ないけど……』

と5万ほど将に差し出したのだ。将は、

『俺の部屋じゃないし、食費は親持ちだから、いいってば』

とさんざん固辞したのだが、大悟は

『もらってくれないと俺の気がおさまらないから』

と無理やり握らせたのだ。

あのとき将は、いらないって言ってたんだから、無理に受け取らせることもなかった。

――あの5万があれば……。

大悟は、自分の後悔が、すでに歪んでいることに気付かない。

ともあれ、将が帰ってきたら、金を貸してもらうしかない。

そう思った大悟は、コンビニで煙草を買った。

ビールは将の部屋の冷蔵庫にまだあった。

将の帰りを待つ間、昼酒を飲んで、眠ってしまおうという魂胆だ。

 
 

金曜日の6時間目は社会見学だが、今日は女の子向けの企画だったので、関係ない将は、聡もいないことだし、とサボって帰ってきてしまった。

まだ4時前、今日はかなり温かい。

歩いて帰ってきているうちに、将は汗ばんで来た。

ブレザーを着ているのがうっとおしくなって脱ぐと、カバンと一緒に抱える。

ネクタイは緩めているし、シャツはボタンを3つはずした上に、スラックスから出して着ている。

この着方について、聡は「だらしない」と顔をしかめたが、風通しのよさには替えられない。

将の前からサラリーマンらしき男が歩いてきた。スーツをきっちり着ている。

将は思わず、すれ違いざまに、その男を振り返った。

別に知り合いというわけではない。その男の容貌や服装が特徴的だったわけでもない。

単に……あんな格好で暑いだろうな、と思ったのだ。

今週、始業式の翌日に実力テストがあった。

勉強をまったくやっていなかった将は、我ながら出来があまりよくなかったのを自覚していた。

来週から、放課後を使って進路相談が始まるらしい。

大学進学志望者はその実力テストの成績を元にするらしいが、おそらくたいした大学は目指せない成績しか取れてないに違いない、と将はわかっていた。

特に、聡には申し訳ないほど、英語ができなかった。

勉強に対してモチベーションが下がった理由はわかっている。

博史という存在がいなくなったゆえ、別に大学にいかなくてもいいや、という気分になってしまったことを将は否めない。

しかし、就職するのか、といえば。

今の男のように、きちんとスーツを着て働く自分はあまりにも非現実的だった。

だけど、聡と暮らす……家庭を持つには、早く仕事を持って自立したほうがいいのかもしれない、とも思う。

聡のために、聡とその子供のために、窮屈なサラリーマンをこなせるだろうか。

来年の今ごろ、自分はどうしているのだろうか。

将は、初夏の様相を呈した午後の空を仰いだ。

 
 

将は無言で、マンションの自室のドアを開けた。

今週、大悟はずっと帰りが遅い。だから今日もいないだろうと思ったのだ。

リビングに入らずに、寝室に入ると将は解き放たれたように制服を脱いだ。

室内はパンツ一丁でも寒くないほどだ。

教習所は夜間だから、まだ少し時間がある。

もう路上教習まで来ているので、あと少しで卒業検定が受けられる。

誕生日の15日がある来週中には免許を取得できる見込みだった。

将は教習所の時間まで一息いれようと、パンツの上からTシャツを着て、ボリボリと胸のあたりを掻きながら、キッチンへ向かった。

と、リビングのソファで大悟が眠っていたので驚く。

将と同じようにTシャツとトランクス姿だ。シャワーを浴びたらしく煙草臭さはない。

ソファの足元にビールの空き缶が2個転がっている。

それを見て、ビールを飲みたくなったが、教習所がある将は我慢して冷蔵庫からウーロン茶を取り出した。

――どうしてこんなに早く帰ってきたのか、しかし、明日のことを伝えるのにちょうどいい。

と将がグラスを傾けながら大悟のほうに視線を投げたとき、ちょうど大悟が目を覚ました。

「将……、もうそんな時間か」

と大悟は目をこすりながら時計を見た。

「ああ。6限サボった。おまえこそ、今日は早いな」

大悟は身を起こして、ソファに座りなおすと、煙草に火をつけた。

将は内心、嫌な気分になった。

将は、このところ、煙草をやめている。

別に健康のためではない。聡に言われてもいない。

しかし、聡とたびたびキスをするようになって、ヤニ臭くなるのを自粛したのだった。

煙草をやめた将は、できれば室内で煙草を吸って欲しくなかった。

だが、かつて一緒に煙草を吸っていた親友の……しかも、心に傷を負っているであろう大悟に、ちまちまと煩いことを言いたくない。

その葛藤で、将の心に、ごく小さなしこりが出来た。

「あのさ」

大悟は煙草の煙を吐き出すと、言った。思い切ったような煙の吐き出し方だった。

「悪いんだけど、将。……金貸してくれない?」

煙は、午後の光を斜めに差す筋のように映し出した。

「……なんだ。そういうことか……」

将は思わず呟いてしまった。

「そういうことってどういうことだよ」

大悟は、キッチンにいる将を見上げるように、やや不服そうに言い返した。

「どうって」

……パチンコで使い果たしたんだろ、違うか、というセリフが喉まで出掛かったのをかろうじて止める。

『悪いんだけど』と頼まれているんだから、まずは了承して安心させてやればいい、とも思う。

だが、できなかった。将は、いいかげん、大悟に立ち直ってほしい、と心のどこかで強く願うあまり、いらついていたのだ。

将は大悟に近づいた。

いいかげん、漂う煙草の煙は、将も吸わずにはおれないほど、濃厚になっていた。

「もらうぜ」

将はソファに置いてあった大悟の煙草の箱から一本抜いた。

大悟は無言で、そんな将をキラリときつい視線で見た。

金に困っている大悟は……煙草一本でも惜しかったのだ。

火を点ける将に、煙草の許可のように

「金……貸してくれんだよな」

と険しい表情のまま確かめる。

「ああ……いいよ」

将は大悟の横に腰掛けると、煙草の煙を吐き出した。

ひさしぶりの煙草は、たいして旨くなかった。

「ところでさ」

将は煙を手で払いのけながら、大悟に振り返った。

「明日、バイト手伝ってよ」

「バイト?何の」

「なんか……雑誌のオシゴト」

「いくらぐらいもらえんの?」

大悟は険しい顔を緩めていた。

「さあ?でも、前やったときは30分くらいで1万もらったよ」

「そんなに?それヤバいバイトじゃないだろうな」

大悟が行っていた派遣は、7時間程度でようやく日給1万ぐらいだった。

しかも、立ち詰めで働いて。

「いや、モデルなんだけど、素人でいいんだってさ」

「モデルぅ?俺に出来んの?」

普段の大悟なら、雑誌モデルのような派手なことは苦手だったはずだ。

しかし、金のない大悟はすでにその金額に大きく心を動かされていた。

判断基準が、やりたい、やりたくない、ではなくすでに出来る、出来ない、になっている。

「ああ。正月に萩いったときの写真があったじゃん、あれを編集のヒトに見せたら軽くOKだったぜ」

「ふーん」

「俺もやるからさ、一緒にいこうぜえ」

将は明るく、大悟の背中に手を置いた。

「金、それでも足りないようだったら、貸すよ。だけどさ……ぶっちゃけパチンコ代なら貸したくない。……すまんけどよ」

将の言葉を聞いて、大悟はうつむいたが、ゆっくり頷いた。

そして暫くの沈黙のあと、ゆっくりと呟いた。

「俺だって……。そろそろ立ち直らないとって思ってるんだ……」

第174話 もうすぐ18(2)※改題※

将が18歳になれば、二人が結ばれることについて、法律的には何の障害もなくなる。

しかし、二人は依然、教師と生徒なわけで、そこにはモラルの壁が立ちはだかっている。

聡は教師として、社会人として、そのモラルに従っているわけだが、将を恋する一人の女性としては、苦しさは増すばかりだった。

おまけに傷ついた大悟に寄り添って暮らす将だから、聡と触れ合う回数は減ってしまった。

その代償行為なのか、聡はこのところ、将に抱かれる夢をしばしば見る。

夢の中で、聡は自由奔放に将を愛している。

淫らの限りを尽くして、お互い高みに登りつめるところで、いつも目が覚める。

鼓動は、まだ夢の続きで激しく脈打っているのに、聡は冷たい未明の空気の中に現実を認識しなくてはならない。

そして聡をゆっくりと包む自己嫌悪。

――いやだ。

9歳も若い男に欲情している自分が、みじめで憐れで醜いと思った。

幸い春休みで、教室で顔をあわせることはないから、こんな醜い自分は、人知れず抑えればよかったが、これからはそうもいかなくなるだろう……。

将の腕の中で聡は、もう一度将の匂いを吸い込んだ。

『一度でいいから将に抱かれてみたい』

これは聡の願望でもあるのだ。

でも……。

一度、抱かれてしまえば、むしろ落ち着くのかもしれない。

聡の考えは、希望的観測を引き出す。

正反対の場所にある理性が、『なんとあさましい、雌の思考』と自分を嘲笑しているのを自覚しつつも。

聡は、将に悟られないように、こっそりと記憶の引き出しを開ける。

今までに付き合った男との思い出を、順番に検索するように思い出す。

そして。セックスは、どの男とも、『最初』が一番のイベントだったことを改めて確認した。

初めて結ばれるまでの過程が、最も相手を想い、興奮する時期であった……それは否めない。

一旦結ばれてしまえば、その後いっときは狂ったように相手を求めるものの、だんだん単なるコミュニケーション手段として、その感情のほうはむしろ安定していったようにも思う。

(もちろん、博史のように、会えない期間が長い男は、別として)

安定のあとは、倦怠があり……その後、何か理由ができれば、そこで別れてしまったわけだが、聡は将についてそこまで考えが及ばなかった。

というより、無意識に及ばせなかった、というほうが正しい。

将の胸のあたりからは、あいかわらず干草のような香りがしている。

この香りを知って、果たしてどれぐらいの月日が経っただろうか。

その香りに陶然としている聡は、いっそ、『18の誕生日』というイベントに限定して、将と結ばれてもいいような気がしてきた。

いままで恋人だった男の中で、既に、結ばれるまでの日数は、最長を毎日更新し続けているのだから。

だが、もちろん心配はある。

1度、いや1日程度でおさまるのか、という心配。

そして、その後の教室で、そんな二人の淫靡なムードが出てしまわないか、という心配。

しかし、後者についての心配は、薄まっていた。

1週間とはいえ、同棲してしまった二人だが、その間、通常通り学校で『健全な教師と生徒』をきっちり演じていたではないか。

毎晩、抱き合って眠っていたのに、である。

と、将が聡を抱く腕の力をゆるめた。

そして自分の胸から離すと、聡を見つめて言った。

「考えといて。ま、ダメでも、アキラのこと好きなのは変わらないけど」

将はゆっくりと微笑んだ。

――いつのまに、こんなに男っぽい笑顔をするようになったんだろう。

聡は思わず見惚れた。

「……一番嬉しいプレゼントってことでサ。じゃ、俺、帰るわ」

将は、聡からすっかり離れてしまうと、立ち上がった。

3センチ伸びた、と今日確認したせいか、見上げる将はとても大きくなった気がする。

ジーンズを腰パンにしているにもかかわらず、足が長いせいか、そういう風に見えない。

「……もう?」

聡も将を追うように立ち上がった。聡の名残惜しげな顔に、将は柔らかい目で聡を見つめた。

「ん……。大悟が心配だから」

「そう」

聡は寂しさから視線をやや落とした。それでも大人の自覚が、もう一度、笑みをつくらせた。

将はいつになく素直に寂しい様子を見せる聡がいとおしくなり、肩を引き寄せると、軽く唇を重ねた。

「明日、学校で」

軽い口づけとはいえ、聡の唇の柔らかさを充分に堪能して、将は微笑んだ。

「ウン……。あ、明日、実力テストだから」

聡は思い出して顔をあげた。

「そうだった!……やべーや。ぜんぜん勉強してねーや」

将はわざとらしく、『ヤバイ』という顔と素振りをつくっておどけると、

「じゃあ!」

と明るく、鴨居をくぐるようにしてドアの外に出た。

突っ掛けを履いた聡が廊下から外をのぞくと、暗い街灯の下、手をふりながら振り返る将がいた。

 
 

聡との逢瀬を早めに切り上げて帰ってきたのに、大悟はまだ帰っていなかった。

電話をかけてもつながらない。カウンセリングにしては遅すぎる。

「……たく、どこいったんだ」

心配する将をよそに、大悟は何食わぬ顔で、夜10時すぎて戻ってきた。

「大悟、お前、どこいってたんだ」

近寄った将は、大悟から、酒臭さの代わりに、ヤニのような悪臭と化して染み付いた、煙草の臭いを嗅ぎつけた。

「ちょっと、気晴らしに。カウンセラーからも気晴らしをしろって言われたから」

大悟は笑みを浮かべながら答えた。今日は酒は飲んでいないらしい。

「何?ゲーセン?」

「いや……、パチンコ」

とたんに将は渋い顔をする。その顔を見て、大悟は

「閉店まで粘って勝ったんだぜ」

と言い訳をした。

「いくら」

「5万」

大悟は少し得意そうな顔をした。

「……ふーん。そう」

将は、そういってウーロン茶をグラスに注いだ。

18歳未満のくせに、と固いことを言うつもりは毛頭ない。将も遊んだことはあるから。

しかし、結局パチンコ屋が儲かるように出来てるんだ、と、つまらなくなるのに時間はかからなかった。

遊べる時間に対して、金がなくなるペースは速すぎる。それを引き止めるかのようにときどき勝たせてやる。

そんなシステムを知って以来、将はパチンコと聞くと、うさんくさいものの代表のように思え、またそれにハマって、湯水のように大金を擦る大人たちを馬鹿にしていたところがあるのだ。

それに比べると、安価な分、ゲーセンのほうが『まっとうな暇潰し』だと、将には思えていた。

だが、酒も飲まずに、元気が出たような大悟を見ると、気晴らし効果はあるのかな、とも思い「よかったな」と言っておいた。

大悟は一気に、ウーロン茶を飲み干すと、

「風呂入るわ。うータバコくせえ」とバスルームに消えた。

 

だが……その日に勝ったのが災いして、大悟は翌日からもパチンコに通い続けた。

案の定、負けがこんだ。

最初に大きく勝ったのが忘れられず、粘ってしまったせいで、毎日信じられない金額を失っていった。

そして……1ヶ月近く働かなかったせいで、もともと少なくなっていた貯えのほとんどをその週のうちに使い果たしてしまったのであった。

第173話 もうすぐ18(1)※改題※

「それでね。社長のスカウトはちょっと置いといて、とりあえず、こんどこっちに出てくれないかしら」

デザートを食べ終わったところで、今度は美智子が雑誌を取り出した。

将も知ってる若者向けのメンズファッション誌である。

「置いといてって、何よ」

と橋本は文句をいいながらも、椅子に寄りかかった。

「街のベスト・ジーニスト50、っていう読者参加企画なんだけど」

タイトルどおり、街で見かけた、ジーンズの着こなしがいけてる一般人を撮影し、一言コメントと共に紹介する春・秋の人気企画だ。

「これに出てくれないかな。今週の土曜なんだけど」

「え、これってヤラセだったの?」

将は驚いたのと、相手のメインが美智子に移った油断で敬語を使うのを忘れた。

その雑誌の企画は、てっきり取材陣が街角に出て、ちゃんと取材しているのだと思っていたから。

「ヤラセなんかじゃ……。ただ、念のため何人かあらかじめメイン候補を用意しておくだけ。いちおう、広告主から最新モデルも用意してもらえるしね」

「えー、なーんだ、そういうことだったのかぁ。……ガッカリ」

「うう~ん♪ そういう普通の言葉づかいもカワイイ」

橋本が、再度テーブルに頬杖をついたので、将はハッとした。

「あ、……すいません」

将は橋本に軽く頭を下げた。

「いいのよぉ。別に」

橋本は鼻をならした。

「出ときなさいよ。その企画。遊んでギャラもらえるようなものよ。求められてるのは素人なんだし、ラクよぉ」

ハーブティを淹れながら橋本は、将にその雑誌の企画に出るように勧めた。

「でも……」

将はコーヒーカップに手をやりながらうつむいた。

「うちのほうの返事は、よく考えてくれていいのよ。……ところで将くん、家出てどこに住んでるの?」

「○○町、友達と一緒に。……そうだ、美智子さん」

将は、あることを思いついて顔をあげた。

 
 

聡は、一昨日に美智子から送られてきた『mon-mo』を眺めていた。

頤を少し上に向けるように、やるせない瞳をこちらに向ける将。

二次元化されているのに、聡は心をわしづかみにされるような気がした。

始業式の今日は、さすがに残業もなく、聡は5時30分には部屋に帰り着くことができた。

3月28日……あの急な撮影の日以来、1週間も顔を見ることができなかった将をもう一度よく見る。

顔のあたりをなぞる。だけど二次元の将には何の感触も温かみも、ない。

こんなに顔をみなかったのは、山梨に急に転勤になったとき以来だ。

今日久しぶりに、教室で顔を見た将は、すこしやつれているように見えた。

恋人を失った友人を慰めるように暮らす将。そしてその友人の恋人は、かつて将とも……。

将はどんな気持ちを抱えて毎日を過ごしているのだろうか。

あの葬儀のとき。激しく取り乱した将の苦悩は、聡にも伝わった。

きっと後悔と懺悔を繰り返す日々を送っているに違いない……。

こんなときこそ、そばにいてあげたいのに、葬儀以来、逢えたのはあの1日だけだ。

メールは毎日のようにやりとりしているけれど、『ないよりはまし』ぐらいなものだ、と聡は思う。

『元気か』

『今日、何をしたか』

『ちゃんと食事をしたか』……。

聞きたいのはこんなことじゃないし、伝えたいことだってメールの文字にしたらひどく軽軽しい。

ただ、隣にいたい。

つらい気持ちとかやりきれない思いを、癒せないにしても共有したい。

否、それよりも。

聡が、将に会いたかった。将と触れ合いたいのは聡のほうなのだ。

将を思って、聡が深いため息をついたとき。

玄関のチャイムが鳴った。

聡が振り返ったときには、ガチャと鍵が回る音がした。

鍵を持っているのは……!

転がるように聡が玄関に駆け寄ったとき、ドアが開いた。

聡が一番会いたかったひとがそこにいた。

「アキラ!」

「将!」

午前中は教師と生徒だった二人は、しばらく玄関で抱き合ったまま立ち尽くした。

 

たった1週間なのに、懐かしい将の匂い。

将の胸のあたりに顔をうずめた聡は、しばらく、そのぬくもり、胸の固い弾力を味わっていたが、匂いの中に異質なものが混じっていることを嗅ぎ取った。

揚げ油の匂い。

胸から顔をはずして見ると、将は手に白いビニール袋に入った弁当を持っていた。

「一緒に食べようと思って、買ってきた」

将は、聡に微笑みかけながら、ビニール袋を高くあげた。

「……大悟くんは大丈夫なの?」

「うん。教習所終わっていったん帰ったけど、いなかったから。携帯かけてもつながんなかったんだよね。で、もう俺、聡に逢いたくて限界だったからこっち来た」

逢いたくて限界。そんな言葉が嬉しくて、聡はもう一度、胸に顔をうずめる。

「なんか、ここもすごく久しぶりな気がする……。あ、アキラも俺に見とれてたの?」

やっとあがって床に座った将はローテーブルの上に広げられた『mon-mo』を見つけて、いたずらっぽく笑った。

聡だけに向けられた表情に、見とれてしまった聡は、素直にうなづいた。

「ホント?ホントに?」

将はさも嬉しそうに、聡の顔を見た。

そんな子供のように得意げな顔と雑誌の中のやるせない瞳の将はまるで別人みたいだ。

聡だけが知っている将。思わず聡は、目の前の将に対して言葉を漏らす。

「将、ヤバすぎ……」

将は嬉しそうに顔を崩して、ますます聡に近寄ってきた。

「もっと褒めて。俺、アキラに褒められるとゾクゾクする」

しかし、聡の唇から、もはや褒め言葉は出なかった。

なぜなら、それは将の唇でふさがれたから。

二人は、1週間ぶりに、お互いの唾液を味わうかのような、深い口づけに酔った。

 
 

「へー。美智子にイタリアン、おごってもらったんだー」

「俺はパスタが食べたいっていったんだけどサ。なんか豪勢なコースだった」

買ってきた弁当に、聡手作りのみそ汁を付けただけの夕食だが、二人で食べるだけで、昼間のコースランチよりよほど旨い気がしている将だ。

「でさ、またモデルのバイトやってくれってたのまれた。今度は○○で」

「へー、○○?スゴイじゃない」

その男性向けファッション誌は聡も知ってる有名誌だ。そこのモデル出身の人気俳優が何人かいる。

ちなみに、芸能プロダクションからスカウトされたことについて将は、はなから断る気でいたから、話題にしない。

「それがさ。読者のベストジーニスト、みたいな企画あるじゃん。あれ、ヤラセだったんだぜー……」

将は可笑しそうに、その内情を話した。

「で、そのヤラセの片棒を担ぐんだ。いいバイトじゃない」

聡も面白そうに、相槌を打った。

「うん。あとさ、それに大悟を誘おうと思ってサ。美智子さんにはナシ付けといた」

「大悟くんを?」

「イケメンじゃん、アイツ」

たしかに、大悟も将とはまるで異質だが、イケメンの部類に入る。

それにさ、と将は少し声を落として続けた。

「アイツ、カウンセリングのとき以外、ひきこもってんじゃん。だから、バイト手伝え、とかいって無理やり連れ出そうと思ってんだ。……もう、あれから……そろそろ1ヶ月経つんだし」

「そう……」

聡は、それっきり目を伏せて黙り込んだ将を見つめた。

一生懸命耐えて、乗り越えようと努力している将が透けて見えるようで、聡は胸が詰まった。

何か、話さないと、と思うけれど、何も出てこない。

励ましの言葉はたぶん重過ぎるし、関係ない話題もわざとらしすぎる。

聡は、目の前の弁当を食べるしかなかった。

ご飯と一緒に口に入れた、たくあんを噛む、ボリ、という音がやたら響く気がする。

しかし、その音は、将を少し明るい気持ちにさせた。

「ね、アキラ」

先に食べ終わった将は、ローテーブルに肩肘ついて、聡を見つめた。

そんな瞳は、なんだか大人っぽくて、見慣れているはずなのに、聡はときめいてしまう。

将は……見るたびに成長していく。

辛い日々を過ごした将の瞳はまたいっそう深みが増した。聡は思わず吸い込まれそうになる。

将は、自分がそんな瞳をしているのに気付かないのか、いたずらっぽい口調で

「18の誕生日、何くれるの?」

と訊いてきた。

聡は話題が変わって、とりあえずほっとした。みそ汁を最後まで啜って、

「将は、何がほしい?」

と訊き返す。

「そんなの、決まってんじゃん」

将は、はずみをつけるように、肩肘に預けていた頭を起こした。

「何」

聡は箸を置いて、将に向き直った。

「アキラ」

「んもう……」

将のやや真剣な瞳に、聡は下を向いた。

「ダメって言ってる……」

「1日、いや一度だけでもいいんだ」

将は聡の言葉を遮ると、隣の聡のほうに膝を進めた。そのまま聡の体を抱き寄せる。

「一度でいいから、聡と結ばれたい」

強く聡を抱きしめながら、将はせつなく訴えた。

後年。将自身も気付かない心の奥深いところで、何かを予感していたのではないか……聡は若い彼を思うたびに考えてしまっていた。

将は……もうすぐ18歳になる。

第172話 スカウト

「先生、いつも思うんですが、先生はよく車の中で雑誌をお読みになって酔いませんね」

黒塗りの高級車のハンドルを握りながら、帽子をかぶった運転手が後部座席に座る紳士に声をかけた。

議員バッジを付けたその紳士の傍らには漫画誌、ファッション誌などが山積みになっている。そのページを、車の揺れも意に介さないように次々にめくっていく。

「慣れればどうってことない。それに移動中しか読む暇ないしな」

「しかし……、先生の勉強熱心さにはいつも感心します」

「若者の動向を知るのには、こういうのが一番だからね」

話しながらも、目は熱心に内容を追っているこの紳士は、現外務大臣の麻野一朗だ。

来年行われる与党の総裁選の有力候補の一人であり、将の父親で官房長官の鷹枝康三とはライバル関係にある、といわれている。

64歳と、康三より13歳も年上ながら、若者文化に理解があるとされ、近頃とみに人気が急上昇している。

「おぉ?」

麻野氏の目が、あるファッション誌の一角に釘付けになった。

ハガキ大ほどの写真に目を近づけて食い入るように見る。

「これは……鷹枝さんの息子さんじゃないか?」

麻野氏は助手席に座る秘書にそのページを見せた。

秘書は麻野氏から受け取ったファッション誌を確認して

「は。そのようですね」

と答えた。

名前こそ『SHO』となっているが、康三に似ている面影は隠しようがない。学校名も麻野氏が知っている情報と合致している。

ライバルの情報は、その家庭のことまで把握している、そつのない麻野氏なのだ。

「こりゃいい。なかなか男前じゃないか。……鷹枝さんも、総理に倣って、息子さんを俳優さんにでもすればいいのになぁ」

麻野氏は、誌面を軽くはじいて愉快そうに笑った。

麻野氏が言ったとおり、大泉現総理の長男は、その端正なルックスを活かし、大学在学中から俳優宣言している。

親の七光り、とさんざん陰で叩かれつつも、今ではコンスタントにドラマ出演もある売れっ子だ。

しかし、麻野氏が愉快そうなのは、別の理由だ。

来年の総裁選に向けて、少しでもライバルの足を引っ張りたい……そのネタに発展しそうな匂いを、将の写真から嗅ぎつけたからであった。

 
 

「大悟~? いないのー?」

大悟が心配で、学校からまっすぐに帰宅した将だが、昼下がりのマンションは空だった。

空の酒瓶がキッチンに何本も並んでいる。すべて大悟が飲み干した瓶だ。

ゴミステーションに持っていかないと、と思いつつ放っておいてる空瓶は貯まる一方だ。

大悟は、最近は焼酎からさらに強い、ジン、ウォッカ、というものに手を出している。

最近とみに酒量が増えている大悟は、強いスピリッツ(蒸留酒)をも1日一本のようなペースで飲んでしまう。

ただ、空の瓶はきれいにゆすいであり、キッチンに酒臭さは一切残っていなかった。

飲み終わった瓶をきちんとゆすぐ行為は、まだ大悟が立ち直れる証のようだった。

――今日はカウンセリングの日だったっけ。

そういえば、今朝「俺も午後から出かけてくるから」と言っていた。

将は制服も脱がずに、ソファにごろりと転がると伸びをした。

ひとりきりになると、急に聡が恋しくなる。

今日、久しぶりにその姿を見ることができた。あの雑誌の撮影をした……3月28日に逢って以来だ。

でも、教壇の上の聡と個人的に話ができたわけではない。

将は携帯を開けて聡の待ち受けの右上に表示されている時刻を見る。まだ1時前だ。

教師たちは始業式の今日も通常通りの勤務時間だというから、聡は、まだ学校だ。

メールは、春休みの間も毎日やりとりしていたけれど、生のぬくもりが、将は恋しくて仕方がなかった。

――アキラとキスしたい。抱き合って寝たい。囁きが聞きたい。甘い匂いを吸い込みたい。

目を閉じて瞼の裏に聡の姿を思い描く。

そんな将を邪魔するように携帯がいきなり鳴った。

編集者の美智子が表示されていた。

「将くん?幸田です。どうも、先日はお世話になりましたぁ」

ハスキーがかった明るい早口は、静かな昼下がりを急に賑やかなものにした。

「ハァ。こちらこそ」

将はけだるく起き上がると、広げた膝の上に頬杖をつくようにして相槌をうった。

「昨日発売の号、編集部にもすっごく評判よかったのよ。それで、ね、将くん、お昼食べた?」

「ハ? まだですけど」

「じゃさ、今から一緒にお昼食べない? 好きなものおごってあげるからさ。××あたりに出てきてよ」

唐突な美智子の誘いに、将は少し考えたが、教習所の予約時間までまだ間がある。

将はとりあえずOKした。

しかし語尾に、きちんと「ありがとうございます」と付けた折り目正しさを美智子は聞き漏らさなかった。

 
 

「将くん、こっちよー!」

自然光がふんだんに差すレストランカフェの一角で美智子が手を振っている。髭面の男と一緒だった。

「こちら、ダイヤモンド・ダストの橋本社長。『mon-mo』を見て将くんにぜひ会いたいっておっしゃって。……鷹枝将くんです」

「橋本です」

と髭面の男は立ち上がると、名刺を将に差し出した。

背は低いが、細身のパンツ、皮のジャケット、凝った靴と、なかなかオシャレな中年男だ。

名刺も、半透明のプラスチックのような紙に、会社のロゴマークが透かしてある凝ったものだが、名刺を見ても何の会社なのかよくわからない。

「鷹枝です。こんにちは」

将は頭を下げてきちんと挨拶した。

ちゃんとした場所で目上にあったらとりあえずきちんと挨拶するのは小さい頃からの習い性になっている。

「ちょっとぉ、美智子ちゃぁん。いいワァ」

社長はラタン調の椅子に腰掛けながら、髭面に似合わない女言葉で美智子の肩をポンポンと叩いた。

ギョッとする将をよそに、美智子は、中年男の女言葉に何も違和感も示さない。

慣れているのだろう。将は、修学旅行のときのスキーの講師を思い出した。

「そうでしょう?社長」

と美智子は満面の笑みを橋本に返した。そして突っ立ったままの将に

「あ、座って、座って」と椅子を勧めた。

「ハイ」

素直に腰掛ける将に、社長は身を乗り出すようにガラスのテーブルに肘をついて将をまじまじと見つめた。

「……いいわぁ。まず、写真より目がいいわ。一見不良っぽくて鋭いのに、近くで見ると王子様みたいにキラッキラなんだもん。将くん、いくつ?」

「……今度の15日で18歳になります」

「身長は?」

「185です」

ちょうど、今日の健康診断で計ったばかりの値を将は言った。ちなみに去年より3センチ伸びている。

「ちょっとぉ、声もシッブー! 男っぽいッ!美智子ちゃん、この子、うちで預かりたいワ」

社長は将には相槌も打たず、一人はしゃいだ。

将は内心『失礼なヤツだな、コイツ』と思っていたが、美智子の顔を立てて、いちおう笑顔のまま黙っていた。

そのとき、ランチの前菜が運ばれてきた。

「まずは、お食事しましょう。お話は、それから、ということで。私、もーおなかペコペコでぇ。……将くん、ここのイタリアンは結構いけるのよ」

ナイフとフォークを取りながら美智子が、将をうながす。

「あ、ハイ。いただきます」

将もナイフとフォークを取った。

将も腹がすいていたので、遠慮なく皿の上の凝った料理を片付ける。

美智子の言うとおり、料理はなかなか美味しかった。

食事中は美智子と橋本が、あたりさわりのない、出てきた料理やそれに関連した食べ物の話やダイエットの話などに興じていた。

将は、話をふられたときだけ、無難に受け答えをしていた。

メインを食べてしまい、カトラリーを揃えて置いたところで将は、橋本社長がじっと自分を見ているのに気付いた。

「何ですか?」

将はいちおう笑顔をつくって訊いてみた。

すると、橋本の顔が、だらしなく崩れた。

「いやーん、このコ、何者ぉ?」

と橋本はナプキンを持ったまま体をくねらせた。

「ハ?」

「美智子ちゃん、このコ、どっかの御曹司? テーブルマナーといい、口の利き方といい、ほぼ完璧じゃない。いまどきの若いコにしては珍しいわ。躾ける手間が省けるわー」

「将くん、お父さんは何してるんだっけ」

美智子の問いに、将は言いよどんだ。父が官房長官の鷹枝康三だということは、できれば知られたくなかった。

かわりに、さっきからのこの男の反応はなんなのだ、と将は

「あの。さっきから何のお話なんですか」

と訊き返してみた。本当は

『さっきから何の話なんだよ、ったく、きもちわりィな』

と言い捨てたいのを素早く目上向けに翻訳したのである。

美智子と橋本は、将の問いに、お互い目を見合わせた。

その間に、テーブルの上は片付けられて、デザートが運ばれてきた。

美智子は将に向き直ると、

「あのね、将くん。橋本社長はね。あなたをスカウトしたいっておっしゃってるの」

将は、ぽかん、と目を真ん丸くあけた。

スカウト、という響きがあまりにも唐突過ぎて、よくわからない。

だいたい、何にスカウトしたいのかもわからない。

しばしの沈黙ののち、将は再び訊き返す。

「スカウトって、ホストかなんかですか」

今度は、美智子と橋本が椅子からずっこけた。

ずっこけたいきおいで乱れた髪をかき上げながら、

「ふふ、うふふふ。面白いわねえ、将くん。残念ながらホストじゃないわ」

社長は苦笑した。

「うちはね。芸能プロダクションなの。いちおう業界8位よ」

女言葉に似合わない、鋭い目を将に投げかけながら橋本は話を続けた。

「将くん。あなたはいいタレントになるわ。モデルでもいいけども、俳優でもいけると思う。私のカンでは。……あの松野内透を見つけた私が言うんだから間違いないわ」

将は、スカウト、芸能プロダクション、モデル、俳優と自分には遠い世界の言葉ばかりを並べられて目をパチパチさせた。

「ひえー!あの松野内を社長が見つけたんですか!」

美智子が大げさに仰け反る。将でも知っている有名な美男俳優だ。

トレンディドラマの常連だったが、30代半ばになった最近は、すっかり実力派になり、海外でも人気がある。

「そうよぉ。知らなかったのぉ?」

橋本は『失礼ね』と言いたげな、でも得意げな目付きを美智子に向けた。

しかし将に向き直ると、にっこり笑った。この人が女言葉をつかうなんて外見的には信じられない。

「ね。だからウチに来てくれない? 大事に育てるわよぉ~」

しかし、将は目を伏せた。

「いや、あの、せっかくですけど。俺、モデルも俳優もやれません」

「ええー、どうしてぇ?もったいない」

「そうよー。なんでー?」

橋本と美智子が、目を丸くして将を見た。

「いや、その……。俺、いろいろ悪いことしてるし……家出してるし」

「えー、家出少年なの!将くんって」

美智子が驚く中、社長は冷静に

「悪いことって、どの程度?」

と訊いてきた。

「いえ……」

まさか、殺人などと言えるはずはない。困った将に、新しい言い訳がふいにひらめいた。

「そうだ。あと、俺脱いだらキモイんです」

「脱いだらスゴイ、じゃなくて脱いだらキモイ? なに、将くん、×××なの?」

社長は、人前で口にするには、えぐい言葉を平気で言ってのけた。

将は、そんなわけないだろ、と思いながらも、スルーして

「そうじゃなくて、火傷のあとがあるんです」

と答えた。

「根性焼きの跡ぐらいだったら化粧とか、画像処理で消せるわよ」

『根性焼き』などという言葉を軽く思いつく社長の口調からは、似たような不良少年を育てた経験の多さがうかがえた。

「いえ、俺の背中には、こんっなに大きな、火傷のあとがあるんです。だからモデルも俳優も無理です」

将は両手でその大きさを示しながら説明した。

「あら……そうなんだ」

その大きさに美智子が少し残念そうな声を出した。

しかし社長は、太い声で豪快に笑った。

「やだー。そんなのカンケイないって。背中が出ないように演出させるなんて、どうにでもなるもの。

ね、将くん。私の目に狂いはないわ。あなたは絶対、ゼッタイ売れっ子になる。だから、うちに来てみない?最初はバイトのつもりでいいから。ね?」

社長はにっこりと笑いながらも、目を鋭く光らせた。

第171話 モデル

今年の桜は、本当に短かった。

桜は、あのあと、あっという間に満開を迎えたものの、一度の嵐で一気に散ってしまった。

そして、それと同時に荒江高校に新学期が始まり、将は3年になった。

春休みの間ほとんど、大悟につきあっていた将は、心身ともに疲れぎみだったので、学校が始まったことに逆にほっとしていた。

しかし、自分が学校にいっている間の大悟を思えば、あいかわらず心配な状態だった。

心配する将に大悟は

「大丈夫だよ。安心して学校に行って、先生に会ってこいよ」

と笑顔をつくったが、その顔はすでに酒が入って赤かった。

大悟の心の傷を思えばこそ、将は大悟が浴びるように酒を飲むのを黙認してきたが、このままでは依存症になるのでは、と心配だった。

 
 

「?」

靴箱で将は、むずむずとした視線を背中に感じて振り返った。

しかし、見ていたらしい生徒たちは、将が振り返るとぴゅっと引っ込んだ。

「なんだ?」

廊下を歩いていても、遠巻きに見ている誰かがサワサワと噂しているのが聞こえるようだ。

「っかしーなあ……」

将は頭をボリボリ掻きながら、教室に入った。

気を取り直して、くぐるようにして入り口に入ると「はよっス!」と一声。

そんな将に、さっと視線が集まった。

「……何だ?」

将が席につくなり、チャミ&カリナが将の机にやってきた。

雑誌を手に持っている。

「ちょ、これ、ここにいる『SHO・荒江高校3年』って鷹枝くん?」

「ああん?」

将はチャミが差した『mon-mo』という雑誌を受け取ると、そのページを見る。

読者ページの中にある『街で見つけた今号のイケメン男子』というコーナーに、将は確かに載っていた。

将は、さして驚きもせずに

「へー、何、もう売ってんの?」

とチャミを見上げた。

「ねっ、やっぱり写真撮られたの?」

「うん。……なんだよ、笑え笑えっていってたくせに、笑ってない写真使ってんじゃん」

写真の中の将は、頤を心持あげて、こっちを見据えているような顔だ。

「ちょ、これ、将?」

井口やカイト、ユウタも集まってきた。

「すかしとる~」

「何、カッコつけてんだよォ」

「おま、写真写りめっちゃいいな」

と小突かれる。

「いやー、俺の素の魅力だろ。ハッハハ」

とふざけて威張る将が、ハッと気付くと、廊下側の窓に下級生の女子が鈴なりになっている。

振り返って視線をそっちにやると「キャー!」と声があがった。

星野みな子は

――バッカみたい。

と興味なさそうに騒ぐ一団を睥睨していたが、帰りについその雑誌を買ってしまったのだ。

 
 

「今日は入学希望の問い合わせが多いですね」

今まで電話に掛かっていた権藤先生が受話器を置きながら言った。まだ昼休みだ。

低偏差値校である荒江高校の入学式は4月も下旬になって行われる。他校の受験に失敗した生徒たちが問い合わせてくるからだ。

入学希望の最終締め切りは今週末だが、今日はその問い合わせの電話がやたら多い。

「しかも女子ばっかり。今日でもう6件目ですよ」

「もともと、アキラ先生の記事のおかげでいつもより希望者は多いんですが、このままだと、新1年生は1クラス増えそうですね」

先日、美智子が予告していたとおり、聡が始めた荒江高校のユニークなとりくみを新聞社が取材に来た。

結局それは小さなコラム扱いだったが、3月下旬に載ったこともあり、入学希望者の問い合わせは例年になく多かった。

ちなみに始業式と健康診断だけ、という今日は生徒たちは午前中で帰宅になっている。

しかし今日、女子の問い合わせが多いのは、新聞とは無関係だ。

今日、特に女子の問い合わせが多い原因について、思い当たるところがある聡はあいまいに笑った。

 
 

あの、桜がまだ五分咲きだった日。

「あ、幸田です。将くん?あのさ、助けてほしいんだけど。mon-moの街イケに穴が空きそうでさァ……」

と将の携帯にかかってきた美智子の電話。

将は意味がわからなかったので、首をかしげながら無言で電話を聡に渡した。

「もしもし?美智子?どうしたの?」

「あ、聡ァ?一緒でよかった、ちょっとさぁ、連載企画がピンチでさあ。急遽、将くんにモデルをしてほしくて。今どこにいんの?」

「モデル?」

「いや、そんなたいそうなもんじゃないから。とにかく×××ヒルズの前に来て!一生のお願いっ!タクシーで。領収書とっといてね」

早口でまくしたてる美智子に、聡もよく意味がわからなかったが、美智子が困っているのは確からしいので、とりあえずタクシーで×××ヒルズに来てみた。

美智子はすでに来ていて、

「ここ、ここー!聡!」

と大きく手を振っていたのですぐにわかった。

領収書を取るまでもなく、タクシーの料金は美智子が払った。

美智子はあらかじめ見つけておいた、という撮影現場まで歩きながら

「もうさあ、困っちゃうの。今日校了日なのに、この読ペ(※読者ページ)の」

といって美智子は雑誌の1ページが印刷されたものの1箇所を聡と将に指し示した。

『街で見つけた今号のイケメン男子』という葉書大のコーナーに若い男の写真が入っている。

なかなか可愛いコだ。だが上から赤いマーカーで大きく×が書いてある。

「このコーナーなんだけど、このコがさぁ、今日になって急に『やっぱり出さないでくれ』とか言い出してきてさぁ。

なーんか、学校で禁止されてるとか言って。それで、もー、パニくっちゃって。そんとき将くんのことを思い出したわけよ」

「え、ここに俺が載るの?」

将は思わず、目をむいた。

「そうそう。大丈夫。素人のコーナーなんだから。将くんは大学生だから問題ないでしょ」

将は横目で聡に助けを求めた。

「校則って、大丈夫だったっけ……?」

聡はヤバイ、という顔で思わず目をそらした。

美智子は目をパチクリとしながらも、察しが早かった。

「えっ!何、将くん、高校生だったの!」

聡は意を決したように、うなづいた。そして小さな声で

「校則は大丈夫なはずだけど……」

と付け加える。

「あ、だったら問題ないじゃん。将くん、お願いねっ!」

美智子はそういうと、将の肩をぽんと叩いた。

とにかく仕事が切羽詰っているのか、聡が高校生と付き合っていることについての突っ込みは何もない。

聡はとりあえずホッとした。

「でも、聡たちが近くにいてくれて本当によかったぁ~。……あ、将くん、目線ちょうだい」

将と聡は、美智子が予めロケハンしていたケヤキ並木がきれいな通りに移動していた。

美智子はいつもの濃い化粧に下北系の派手な格好、その格好にそぐわない、大きな一眼レフのデジタルカメラを構えて将の写真を撮っている。

「じゃあ、思い切り笑ってみて」

といわれて、将は

「笑えといわれても……」

といいつつ、カメラを構えられるとニィッと歯をむき出して笑い顔をつくる。

「ちょっと体をふってみて」

「ふるって?こう?」

将はパラパラを踊るように体を揺すってみた。

美智子はそれを見て大笑いする。

「アハハ、将くんってば、おもしろーい。じゃなくてー。こうやって体を斜めにむけてみてってことだってぇ」

聡はあいまいに笑いながら、カシャカシャとシャッターを切る美智子と、ポーズをとる将を見てため息をついた。

 

撮影はほんの15分で終わった。

美智子は1眼レフのデジカメのモニターで画像を再生しながら、にこにこと

「うん、うん、イケてる。ばっちり!」

と一人うなづくと、

「どうもありがとう、めっちゃ助かったわー、これ謝礼」

と聡に1万円札を渡し、

「じゃ、私、編集部に戻って作業するから!じゃあね!」

とあわただしく、今度は自分がタクシーを捕まえると挨拶もそこそこに去っていった。

「なーに、あれ」

将は頭をかたむけて、横目を聡に投げた。

「さぁ……」

聡もよくわからずに首をかしげた。嵐のように突然やってきて、あっという間に去っていった美智子。

「だけど、とりあえず昼代、得したな」

将は聡がつまんでいる1万円札を見てにんまり笑った。

第170話 五分咲き

「もう五分咲きね」

聡が桜並木を見上げながら言った。

その瞳に青い空が映っているのを、将はいとおしく見つめた。

綿菓子のようになる満開のときと違って、ぱらぱらと花をつけた桜は、青い空をレースのように透かしている。

逢えなかったのはたった3日なのに、まばたきをするのも惜しいほど、将は聡に見とれていた。桜よりも。

二人で街に出てきたついでに、公園にやってきている。

気候に恵まれたせいか、25日に開花した桜は、今日28日には聡の言うとおりの五分咲きになっていた。

土曜日というのもあり、人出のほうは、満開に近い。

 

24日に終業式があり、荒江高校は春休みに入った。

休みに入ってから、聡に会っていない。

職員の聡は、この時期は入学試験(『電話一本、ハイ合格』の荒江高校といえど、いちおう形式的に入試がある)やら入学手続きや、来年度のカリキュラム検討など、通常通りの出勤だ、というのもある。

しかし、会えなかったのは、むしろ将のほうの事情だった。

「大悟くんは、その後……どう?」

聡は少し心配そうに将の顔を見上げた。

「ああ……少しずつ、立ち直ってるよ」

将は聡を安心させるために、少し、希望的なウソをついた。

あれから……瑞樹の死から大悟は、どこにも出かけず、……もちろん仕事にもいかず、引きこもり状態だった。

滋賀の仕事は、断ってしまったらしい。

あまりにもひどい事故を目撃してしまった、ということで週一度のカウンセリングを受けている大悟だが、

それ以外は一人でいれば1日中、残された瑞樹の写真(将が与えたクラス写真とプリクラ)を見るか、酒を飲むか寝るかで過ごしている。

酒も最初はビールだったのが、最近は焼酎になってきている。

「体に悪いぞ」

さりげなく将が注意するものの、大悟はため息をついて言った。

「正気でいるのがつらいんだ」

その気持ちは将もわからなくもない。

瑞樹への罪の意識が消えない将は、できるだけ大悟と一緒にいるようにした。

お笑い番組を見たり、ゲームをやったりして、大悟の意識を瑞樹の死から少しでも遠ざける時間をつくろう、と努力をした。

だけど、将がそんな努力をすればするほど、大悟は瑞樹の思い出に固執した。

大悟は酔ってくると、将に瑞樹の思い出話を強いた。

いや、強いていたのではない。

大悟にとってかけがえのない瑞樹だったのに、彼女とはたったの2ヶ月足らずの日々しか過ごしていない。

それを補完するがごとく、大悟は、将の思い出の瑞樹をも、共有しようとしていた。

だが……将にとっては、それは苦悶だった。

将はあまり瑞樹のことを覚えていなかった。

1年以上も一緒に暮らしていたようなものなのに、印象に残っていることはあまりにも少なすぎた。好きな食べ物ですら知らなかった。

聡だったら……一緒に暮らしたのはたったの1週間なのに、とても細かいことまで覚えている。

それはまさしく、将が瑞樹のことを『道具』扱いにしていた証拠だった。

覚えてもいないのに。見つめてさえいないのに。欲望だけは発散していた……罪。

自らの罪を……瑞樹を死に追いやった罪の一角を担っているということを嫌でも毎日のように反復させられる。

しかし。つらかったが、それも自分に与えられた罰の1つなのだ、と将は耐えた。

つまり、できる限り大悟に付き合っているゆえに、将は聡に会う時間を削らなくてはならなかったのだ。

今日は、たまたま大悟がカウンセリングにいっているので、ようやく聡の顔を見ることができたのだ。

 
 

桜に見入る将の目を見て、聡は何も言えなくなってしまった。

瑞樹の死は、将にもまた深い傷を残したのだろう。

それだけはわかる。

聡は話題を変えることにした。

「自動車学校のほうはどう?」

将はパッと明るい顔になって、聡を振り返った。

「おう。ばっちりよ。たぶんストレートで合格だぜ」

18歳の誕生日まで1ヶ月を切った将は、自動車学校に通い始めたのだ。

毎日が懺悔のような将の最近の中で、唯一明るい話題だ。

荒江高校は校則で免許取得を禁じているわけではないから、そのへんは問題ない。

「これで、ようやく偽造免許証ともサヨナラね」

聡は将の顔をのぞきこむようにしていたずらっぽく微笑んだ。

「なんだよ。1年半、無事故無違反だぜ」

「無違反のほうは、どうだか。……ところで、やっぱ初心者マーク付けるの?」

「つける必要ないでしょ!」

将は、一枝だけ満開のように咲いている桜の枝に向かっていきなりジャンプした。

惜しいところで届かない。将は何度もチャレンジした。

骨折した足も、今では走ったりジャンプしたりするのに問題ない程度まで回復している。

「チェー、やっぱり届かないや」

将は残念そうに枝を見上げた。

「だめよ。枝を折るなんて」

聡が後ろから咎めた。

「じゃ、こっちで我慢」

将はいきなり振り返ると、聡の唇にいきなり軽くキスをすると、逃げ出すそぶりをした。

「ちょっと、我慢って何よ!待ちなさい!」

将は、笑いながら振り返り振り返り、人をよけながら逃げる。聡も笑いながらそんな将を追う。

「あら?将?」

いつのまにか、将はいなくなっていた。

桜並木からはずれた、公園の一角まで来ていた。

ここはあの賑わいが嘘のようにしん、と静かだった。聡はひとりっきりで取り残されてしまった。

「将、……どこ?」

聡はあたりを見回したが、将の姿はない。

丸く、背の高さほどに刈り込まれた茂みの向こうに見える、高層ビル群に春の陽射しがあたっている。

それを見ていよいよ心細くなった聡は思わず携帯を取り出した。

そのとき、茂みからにゅっと手が伸びてきて、聡の腕を引っ張り込んだ。

「ひっ!」

茂みの陰の芝生に引っ張り倒された聡の目を、後ろから大きな手が覆った。

「……へっへっへー」

声音を変えているけれど、聡はすぐ安心した。

「もうっ、将でしょ!わかってるんだから!」

目隠しされた聡は、怒っているにしては明るい声を出した。

「なーんだよー。えっちなことしてやろーと思ったのに」

復活した視界で、将がいっぱいに微笑んでいた。

「バレバレだってば」

微笑む聡を

「えいっ」

将は芝生の上に押し倒した。

聡は、特に抵抗もしないで芝生の上に仰向けになった。

芝生はまだ枯れた色のままだが、芝生の中に生えたクローバーなどの雑草はすでに青い。

ひんやりした草の感触がなんとなく気持ちいいのはもうすっかり温かくなった証だろう。

将の向こうの青空も雲も、すっかり春めいている。

花見客の楽しげな喧騒がどこからか聞こえてくる。

「なに、ボーっとしてんの?」

青空を将の顔が遮った。

「ん。空がすっかり春だなと思って」

「もー。アオカンしちゃおうかと思ったのに」

過激なことをいいつつ、聡を見下ろす将の目は優しい。

「バカ」

聡は将の顔に手をそえると、身を素早く起こし、将の唇に自分の唇を一瞬押し当てた。

不意打ち。聡からの思いがけないキスに将は一瞬ぼけっとなる。

聡のほうは再び草に寝転んで、ふふっといたずら気な笑いを浮かべて将を上目遣いに見ていた。

「もー!ホントにやっちゃうぞ!」

ハッとした将は、寝転んだ聡にのしかかって、首筋に口づけた。

「キャー、くすぐったい。だめってば、こんなところで」

くすくすと笑いながらじゃれあう。

将は、聡とこんな風にふれあいながら、しばしこのところの暗い気分を……自分の罪も忘れ、ひさしぶりに明るい気分になっていた。

「はあー」

二人は並んで芝生に仰向けに横たわり、青空を眺める。

「んもう、アキラってば、絶対にやらせないんだもんなー」

将が不満げにつぶやく。でもそれは、いつものお約束のようなセリフだ。

「だって、教師と生徒じゃん」

聡の答え。これもお約束。

「教師が、生徒にキスすんの?」

将は笑いながら横にいる聡に目をやる。

「イヤならやんないけど?」

聡も負けずに、言い返す。口調とは逆に目も口も笑っている。

「イヤなんて……言ってないっ!」

将は寝転がったままこっちに向き直ると、聡をぎゅっと抱きしめた。

将の胸に顔をうずめた聡は、干草のような将の香りと、地面から香る青草の匂いに酔いそうだった。

しばらく、二人はお互いの感触を確かめるように、抱き合っていた。

 
 

「……メシいこうか」

どこからともなく流れてくる、ソースの香りに空腹を意識した将は昼食を提案した。

聡もうなづいて、二人が起き上がったちょうどそのとき。

将の電話が鳴った。聡の友人の編集者、美智子からだった。

「美智子さんだ。なんで俺のほうに掛かって来るんだ?」

と言いながら、電話に出る。

「もしもし」

「あ、幸田です。将くん?……あのさ、ちょっと助けてほしいんだけど。mon-moの街イケに穴が空きそうでさァ……」

「ハァ?」

早口でしゃべる美智子のいってることが、将はさっぱりわからなかった。

第169話 葬儀

瑞樹の葬儀は1週間以上も経った土曜日にようやく行われた。

身元確認や捜査があったために通常より遅れたのである。

よく晴れた、だけど風の強い日だった。

桜のつぼみは膨らんで、1週間以内に開花宣言がなされそうだった。

そんな中、葬祭場で行われた葬儀には学校関係者やクラスメートも参列した。

当然、制服姿の将、そして黒い喪服姿の聡もいた。

しかし、瑞樹の恋人である大悟の姿はなかった。

 
 

大悟は、葬儀に参列できなかった。

大悟が瑞樹の死を冷静に受け止められるようになるまで、3日ほどの入院を要した。

先に荼毘に付された瑞樹の骨をもらうことで、ようやく瑞樹の死の事実を受け入れたように見えた。

「これ……本当に瑞樹かな。瑞樹なんだよな……」

透明なガラス瓶に入れられた白い粉末を、今朝も大悟はいとおしそうに耳元で鳴らしていた。

瑞樹の骨はサラサラというなかに、りん、と透明な響きを含ませて、大悟の耳に何かを囁きかける。

大悟は怒涛のように打ち寄せる哀しみを堪えようと、歯を食いしばった。

だが、だめだった。

将は、制服がない大悟のために、黒いスーツと靴を買い揃えたのだが、大悟はそれを着ることが、とうとうできなかった。

大悟は、骨と小さなプリクラの中の瑞樹に手をあわせて、喪に服すことになった。

そのプリクラは将が探し出した、1年前のものだ。

「俺……、瑞樹の写真も持ってない」

将のマンションに帰ってきた日、大悟は呟いた。

「なにやってたんだろ、俺たち」

続けて自虐的な笑いを浮かべた。

無理もない。ここで大悟と瑞樹は一緒に暮らしていたとはいえ、大悟は必死で働いていたのだから。……二人の未来のために。

こんな風に未来を急に失った大悟なのに……懐かしむべき思い出は少なすぎた。

「将、お前は、なんか写真ある?瑞樹の」

将もまた……ちゃんと撮った写真を持っていなかった。

それは瑞樹を弄んでいたくせに恋人だと思っていなかった証拠のようで、将は胸が痛んだ。

(痛んだ胸はまるで膿んだかのようにずっと痛み続けている)

「俺の部分は切ろうか」

といいながら将が探し出したのは、1年前に将と瑞樹の二人で写ったプリクラだ。

それが瑞樹の笑顔の唯一の写真だった。

「いいよ……、瑞樹……。まだ若いな、これ」

大悟は小さなプリクラをいとおしそうに見つめた。

もう1つ、学校で撮影したクラス写真、それだけが将が持つ、瑞樹がこの世にいた証である。

 
 

壇上には、クラス写真から加工した、かつての長い黒髪姿の瑞樹の顔写真が菊の花に囲まれていた。

10代の少女にしては極端に写真が少ない……それは瑞樹の短すぎる人生の本質を象徴しているかのようだった。

通常、こんなふうに若い故人の遺影は、明るい笑顔だったりして、それが白い菊や白と黒の幕に不調和なところが涙をさそうものだろう。

しかし瑞樹のそれは、青白いほどに白い肌に不自然なほどにまっすぐな黒髪、笑顔のないところまで、何故かこの場に調和しすぎていた。

まるで彼女自身が、自分の死を弔うかのように。

カラー写真なのにモノクロのように色みの少ない写真を見ながら、席についている将はいまだに瑞樹が死んでしまったことが信じられない。

……というより、死んだ、という事実にいまだ、思考を深くめぐらすことを避けていた。

ただ、あの心の『膿み』は日一日と痛みを大きくしていった。

「あの、カンオケの中、何にも入ってないんだよな」

「ほとんど骨のカケラしかみつからなかったんでしょ」

「JR○山駅は血煙で赤く染まったってな」

「そりゃそうさ。水風船を時速200キロでぶつけてみろよ。人間の体はほとんど水なんだからさ」

ヒソヒソと噂する生徒もいれば、ほとんど交流がなかったのに泣きじゃくる女子生徒もいる。

ちなみに瑞樹が新幹線に飛び込んだことは伏せてあるのに、誰かがネットか何かで調べたのか、どこからともなく漏れて、噂になっていた。

それでも1年からずっと持ち上がりの彼らである。

2年の後半はほとんど休んでばかりだった瑞樹とはいえ、やはりその死はショックだったのだ。

受けた衝撃を、涙なり、友人としきりに噂するなりして必死で消化しようとしているのである。

星野みな子はどちらでもなかった。

噂話をするでもなく、涙をこぼすわけでもなく、ただ前方に飛び出して見える将のようすを見ていた。

聡が来る前、将が瑞樹と付き合っていたことについて、みな子はもちろん知っている。

めったに学校に来ない、あまつさえ『人殺し』の噂がある将と、口数が少なく、冷たい瞳を持つ瑞樹は外見的にはお似合いともいえなくはなかった。

だが、猫の思い出があるみな子は、なんとなく不思議な思いで二人(二人で学校にいたのはごくまれだが)を見ていたものだ。

その将は……元彼女の自殺をどう受け止めているのだろうか。

だが、壇上を向いたボサボサ頭は微動もせず……何も窺い知ることはできない。

 
 

焼香が始まった。

低く流れる読経の中、校長、教頭、多美先生に続いて、聡が席を立って、瑞樹の遺影に手をあわせ、瑞樹の両親に頭を下げる。

生徒らも前列の者から次々に席を立ち、焼香をする。

将の番が来た。

壇上の『空』の棺と、白い菊に包まれた瑞樹の遺影が近づく。

――本当に、消えてしまったんだな。瑞樹。

――もう少しで……幸せになれるところだったんだぞ、お前。

――なのに、どうして……。

将は、大悟の分まで焼香するつもりで、手をあわせた。

目を閉じて手をあわせる将の耳に、読経に混じって

「このたびは……」

という聡の声が聞こえた。

焼香を終えた聡は、壇の前に立つ瑞樹の両親に頭を下げているところだった。

涙もろい聡は、やはり、泣いているらしい。瑞樹にあんな酷いことをされた聡である。

それにしても、初めての教え子の一人、その死はやはりつらいのだろう。

派手なウェーブを付けたパーマヘアに、化粧の濃い女は、おそらく瑞樹の母親に違いない。

瑞樹の目の大きさは彼女ゆずりだろうが、目を伏せて肩を震わせているため、それは確認できなくなっていた。

彼女は、その横にいる年配の女性を寄り添うように支えていた。

「ううっ、瑞樹や、瑞樹ぃ~……、どうして、どうして~……」

派手に声をたてて嗚咽している白髪交じりの女性は、瑞樹を可愛がったという祖母だろう。

瑞樹の最期のあの日、たまたま、社交ダンス仲間と温泉旅行だったという。

「私が、温泉に行っていなければ……、ううっ、ああ~」

泣き崩れる姿に、思わず目が熱くなった将に、男の声が重なった。

「センセイ……。どうして瑞樹は……。学校でイジメでもあったんじゃないんですか」

将は男の声のほうを見た。瑞樹の義父・康平だった。瑞樹を……瑞樹の体を、まだ子供だった頃から、もて遊んできた男!

将の頭にいままでにない勢いで血が上った。

将はつかつかと大またで義父に近寄ると、その襟首を、グイっと掴んだ。

「何が、イジメだ!」

するどい声で咆哮する。長身の将に襟を掴まれて、康平の体は吊り上げられるような格好になった。

「お前の……お前のせいなんだよ!お前の」

将は憎しみに燃える瞳で、康平をにらみつけた。

葬儀場にいる参列者すべての視線が集中するが、将は止めない。

「や、やめろ!何をするんだ……」

康平はファルセットのように裏返った甲高い声で叫ぶ。

将は康平を燃えるような瞳で睨みつけていた。そして、いつしかその瞳からは涙が流れ始めていた。

「お前のせいで……瑞樹はっ……」

「やめてー!」

瑞樹の母・夏子が叫ぶ。

「やめなさい!鷹枝くん!」

聡が駆け寄って止めさせようとするが、無駄だった。

鉄道警察隊で、将は瑞樹の自殺の原因について、クスリを常用していたこと以外、思い当たることすべてを打ち明けた。

クスリについては、周囲への影響、そして聡の責任までも問われかねないから将は黙っていたのだが、

それ以外は……むろん、瑞樹が11歳から康平に犯され続けていることも話した。

瑞樹の不名誉にはなるが、康平に何らかの罰が下されることを期待したのだ。

なのに康平は、のうのうと、こんな席で父親面をしている。

警察は、結局17歳の将の言うことより、アルコール漬けの無職だろうと、いちおう成人である康平の言うことを信用したのだろう。

多美先生、教頭がようやく駆け寄ってきて、康平から将を引き剥がした。

「離せ!なんでアイツが父親づらしてんだ!瑞樹を傷つけ続けてきた奴が!離せーっ!」

多美先生と教頭によって葬儀場から連れ出される間も喚き続けていた将を、焼香の順番を待ちながら、みな子は目で追っていた。

後ろから促されるまで、みな子は呆けたように将が連れ出された方を見ていた。

いつのまにか、涙が頬を伝っていた。

 
 

将は葬儀場の外の駐車場に連れ出された。

「私が、よく言って聞かせますから!彼もショックを受けているんです」

聡が必死でとりなして、多美先生らはようやく将を解放してくれた。

将はもはや喚いてはいなかったが、息を荒くしたまま、うつろな目で地面を見つめて立ち尽くしていた。

「将……気持ちはわかるけど、場所を考えて」

もはや春風の類ながらも、強い風は聡の髪や喪服の裾をあおっている。

「だって、アキラ……。アイツ、アイツが……。なんでアイツが捕まんないんだ」

将は下を向いたまま呟いた。

将の顔の下にある乾いたアスファルトに黒い染みがぽつ、ぽつと出来る。

聡は将の顔をのぞきこもうとした。

「将……」

「アイツのせいで、瑞樹は!」

のぞきこむまでもなく、将は聡に向き直った。風に飛んだ涙が1滴、聡の頬にあたる。

「アイツ……、アイツのせいでっ……」

将は見開いていた目を歪める。ほとばしる涙で顔は濡れていた。口元もとうに歪んでいる。

「あっ、将……鷹枝くん!」

聡の呼びかけにも答えず、将は走り出していた。

涙でぼやけた視界にかまわず、ひたすらに全力で走る。

信号を無視して大通りを渡る。その行為を責めるクラクションなど、今の将には聞こえないも同然だ。

買い物客にあたりながら、商店街を抜け、大きな川に出る。

休日ながら、少々風が冷たいせいか、人はまばらだ。

土手を駆け降りようとした将は、つる草に足をとられて転ぶ。そのまま土手を転がり落ちる。

草むらはまだ新芽も出ておらず、枯れたままの色だった。

ゴロゴロと回転する視界。青い空と枯れ草が渦を巻くようにシェイクされる。

ようやく止まった将は、そのまま青い空を見た。強い風に流されていくような雲。

泥だらけになりながら、将にはわかっていた。

義父の問われる罪の何分の1かは自分も問われるべきだと。自分も同罪だと。

何が瑞樹を死に至らしめたのか。

その直接的な原因はクスリである。

だけど……なぜ彼女がクスリに手を出すハメになったのか。

彼女は……たぶんそれを前原から覚えたのだろう。

前原のところに身を寄せるはめになった原因は……。

――瑞樹、瑞樹、俺を許してくれ!

『将』

瑞樹の声が、ふいに蘇る。声は彼女の生前の姿をも連れてきた。

長い黒髪をなびかせて走ってくる瑞樹。

将のベッドにもぐりこんできて微笑んだ、いたずらな瞳。

抱き合って眠ったぬくもり。

そして、どこか冷たく、寂しげだった笑顔。

彼女が聡を拉致させたとき。

『教えられねーよ!』

と将を罵倒する顔さえ、美しかった。憎悪する顔は

『将のことが好きだから……』

と髪を振り乱して、泣きじゃくる顔にたやすく変化した。

今ならわかる。

聡にあんなことを計画せざるを得ないほど、瑞樹は将を激しく愛していたのだ。

将に追い出されて、その苦しみから、思わずクスリに手を出したのではないのか。

瑞樹を家出に至らしめたのは、義父だ。

だけど、将が彼女を利用しなければ……愛しているような態度を示していた期間がなければ……彼女はクスリを知ることもなかったかもしれない。

将が、彼女の将への好意を利用して、その体に気の向くままに欲望を吐き出していた事実。

あまつさえ将はそのとき、彼女の体を抱きながら、何の罪の意識も持たなかったのだ。

――瑞樹を殺した一人は俺だ……。

将は青い空を隠すように、手の甲で自分の目を覆った。

目を覆っても、瑞樹の姿は消えずに、依然将の瞼の裏に映り続けた。

『もー!将のバカっ!』

瑞樹の面影はキッチンで明るく笑う、最近の姿になっていた。

大悟の愛情に頼ることを知ってからは、その印象はずっと柔らかくなった。

その印象のままに、地毛のまま、明るい髪のショートカットになった瑞樹は、以前の冷たいイメージからがらりと変わって可愛かった。

3人で暮らした日々。手作りのチョコレート。指についた粉砂糖を舐める瑞樹。

大悟と寄り添うようにキッチンに並んで食器を洗う二人……幸せそうだった。

将は手の甲をずらして、青空を盗み見るようにした。

目に染み入る蒼の中に、瑞樹の残像は昇華していった。

「将、お前に『いろいろゴメン、さよなら』って……」

そして代わりに、大悟が将に伝えた声がリフレインする。

――瑞樹、お前、遺言みたいじゃんか。

――謝らないといけないのは、俺のほうなのに。

仰向けになった将の目じりから、とめどなく流れた涙は、耳の下を通過し、首からうなじへと伝う頃には冷たく、将をなじるようだった。

瑞樹は、将の罪を思い出させないためにも、大悟と幸せにならなくてはならなかった。

なのに……。

大悟と瑞樹が幸せになるのを阻んだ根源に……将も確かに加担していたのだ。

「何で……何で死んだんだーー!」

将の虚しい心の声は、早春の青空にいつまでもこだまするかのようだった。

第168話 赤い霧(2)

「昨夜、JR○山駅で、若い女性が新幹線に飛び込むという事故がありまして……。それはどうも状況から島さんのお連れの方らしいのです」

大悟の連れといったら瑞樹しか考えられない。

『俺がついてないと、アイツは』大悟はそういって瑞樹を迎えに行ったはずだ。

なのに新幹線に飛び込んだ。瑞樹が……。

「みず……、その女性は……?」

「即死されました」

将は絶句した。頭がまっ白になり、何の言葉も浮かばない。

瑞樹が……もう、この世にいない。

「それで、今、女性の身元を調べているんですが……」

大悟のショックが激しく、事情を聞ける状態ではないので、身元を一刻も早く確認するために電話したのだ、と鉄道警察隊の宮原は説明した。

そして将から、瑞樹のフルネームと、荒江高校の2年であるという情報を聞き出すと、手短ながら丁重に礼を言い電話を切ろうとした。

将はあわてて、自分が大悟の同居人であることを告げ、大悟が入院している病院を聞き出した。

 
 

「どうしたの?」

いつのまにか将のすぐ後ろに聡がいた。心配そうに眉が寄っている。

断片的な会話からもただならぬ事態が発生したことがわかるらしい。

「アキラ……!」

将は、思わず聡を抱きしめた。

聡は、どうしたの、という言葉を飲み込む。

抱きしめる寸前の将の表情から、また抱きしめている腕の力から、とんでもなくショックな出来事が将を襲ったということだけがわかっているから……。

しかし、ひとしきり聡を抱きしめると、将は力を緩めて、聡に向かい合った。

「アキラ、俺、今日学校休む。……大悟を迎えに行かなくちゃ」

「大悟くんに何かあったの?」

将の悲愴に歪んだ目は聡の瞳を見つめていたが、やがてさらに哀しげに目を伏せると

「瑞樹が……事故にあったらしい」

と短く伝えた。

「え!」

聡はその黒目がちの目を大きく見開いた。

「それで……ケガしたの?」

将は目を伏せると、首を振った。

「……新幹線に飛び込んだらしい」

さらに告げられた、あまりに惨い事実に聡はただ呟く。

「ウソ……そんな……どうして」

聡は将がさっき電話しながら頭に浮かんだ疑問を、そのまま吐き出している。

朝に似合わない、どんよりとした沈黙が二人の前に横たわる。それは将のほうから破るしかなかった。

「大悟、ショックで入院してるらしい。俺、すぐに迎えに行ってくる。それと、たぶん大悟の代わりに警察にいろいろ訊かれると思う。だから……」

「あたしも付いていかなくていい?あたし、いちおう葉山さんの担任だし……」

「いや、いい。学校へはあとで警察から連絡があるはず。……それにアキラ、今日社会見学だろ。人気漫画家にアポが取れたって、言ってたじゃん。それは中止できないでしょ」

将の言うとおり、今日は社会見学がある金曜日だ。

忙しい人気漫画家の仕事場を見学することを許可されて、楽しみにしている生徒も多いのだ。

「そ、そうだけど……」

「必要だったら、警察から学校に出頭要請の連絡があるよ。たぶん。だから聡は、とりあえず学校へ行ったほうがいい」

将は冷静に見えた。実際、判断は冷静だったのだが、聡はその心中を察した。

瑞樹は、親友の大悟の恋人なだけでなく、将とも長いこと一緒に暮らしていたこともあり、関係は深い。

将は瑞樹の死をどう受け止めているのか。

「将は……大丈夫?」

聡は将を見つめた。

「今は、俺より、大悟が心配だ。急ごう」

心配そうに覗き込む聡をよそに、将は立ち上がるとスウェットを脱いだ。幸い着替えは聡の家にまだある。

将は、瑞樹の死をまだ実感していなかった。

というより大悟の心配にすり替えて、自分を冷静に保っていたのである。

瑞樹の……死を直視するのを将自身、恐れていた。

上半身裸になった将に後ろからふわりと柔らかいものが巻きついた。

聡が後ろから将を抱きしめたのだ。

「将、車で行っちゃだめだからね……」

将の背中に囁くように聡は言った。

将を案じていることを、今はそんな言葉でしか表現できない。

偽造免許が警察にバレることの他に、不安な精神状態での運転を……聡は将もショックを受けていることを心配していたのだ。

将はいったん自分に巻きついた聡の腕をそっとほどいて向き直ると

「そんなドジは踏まないよ」

と微笑みをつくった。聡にはそれは痛ましい笑顔に見えた。

 
 

今日もよく晴れて、新幹線の窓からは春らしい少しかすんだ青空が見えていた。

復旧した新幹線に乗って、将は○山入りした。

――この駅で、瑞樹が……。

ホームに降り立った将は、そう思うと息苦しくなった。

だが、JRと鉄道警察隊の尽力のせいか、惨劇の痕跡はあとかたもなくなっていた。

降り立った人々は、何も知らないのか、それとも知らないふりをしているのか、ホームから足早に去っていく。

将は、改札を出ると鉄道警察隊を訪れた。

大悟を迎えに行く前に、まず、鉄道警察隊に顔を出してくれ、と言われていた。

わかることを話さなくてはならなかった。

東京でラッシュアワーにひっかかったせいか、思ったより時間がかかり、10時になるところだった。

 
 

ようやく将が『面会謝絶』と掲げてある病室のドアをあけたとき、大悟はベッドの上に半身を起こして静かに窓の外を見ていた。

春の光は、もうすぐ正午になることを告げながら、殺風景な病室にも爽やかに差し込んでいた。

このときには、血の付いた服は着替えさせられて、顔もきれいに拭ってあった。

「大悟……」

将は大悟の名前を呼んだぎり、何と声をかけていいか困って沈黙した。

ここに入る前に、看護士から

『いままで錯乱状態だったんです。くれぐれも興奮させないように。事故のことは一切口にしないで下さい』

と釘を刺されている。

「……将、どうしたんだ」

振り返った大悟は静かに問うた。錯乱していたというのが、まるでウソのような落ち着いた目の色だ。

「どうしたって……。お前がここに入院したっていうから……」

将はしどろもどろになりそうになるのを、何とか抑える。

「学校は?」

「休んだ」

将はそこで言葉がつまってしまった。何も見つからない。何を訊いても、大悟を傷つけそうで。

「大丈夫か……?」

間抜けな問いだと将は自分でも思った。だけどこれ以外に言葉のかけようがない。

大悟はゆっくりと頷いた。

「一緒に、帰れ……そうか?」

将の問いかけに、大悟は目をあげた。

「瑞樹は、最後までお前の名前を呼んでいたぞ」

将は思わず目を見開いて大悟を見た。大悟は静かに微笑んでさえいるように見えた。

「それはいいとして……瑞樹が、いなくなっちまった」

大悟は将を見つめて言った。将は息を飲んだ。ごくっ、という音が病室中に響くかと思われた。

「瑞樹が、いないんだ……」

将を射る大悟の目。その光はだんだん強さを増してきた。訴えかけるような目になってきた。

「大悟……、瑞樹は……」

将は大悟の目を正視できなくて、目をそらしてしまった。

「知ってるさ、それぐらい!」

急に大悟が大声を出したので、将はビクッと肩をふるわせて、一歩後ろに下がった。

「だけど……、死に顔ぐらい……、見せてくれたっていいじゃないか!最後に瑞樹に会わせてくれたって……いいじゃないか!」

大悟はベッドから立ち上がると、将につかみかからんばかりに詰め寄ってくる。

「誰かが……瑞樹を、隠しちまった」

「お、落ち着け、大悟」

将はそれしか言えない。

「将、お前からも頼んでくれ。瑞樹に、最後に一目、一目だけ、瑞樹に会いたいだけなんだ。頼む、将!頼むよ……」

「だ、大悟……」

見開かれた大悟の目を将は正視できずに、俯いた。

それを、狂気とか錯乱とか呼びたくない。大悟は……正気なのだ。

愛するひとが目の前から消えたら、こうなるのが正しいのだ。

消える。

そう。瑞樹は消えてしまったのだ。

さっき、鉄道警察隊で訊いたあまりにも惨い状況。

『瑞樹は……どうなったんですか。会えないんですか』

将の問いに、鉄道警察隊の宮原は、まだ将が高校生だ、ということもあって、遺体の状況については言葉を濁した。

ただ、『会えない』と言った。

しかし、そのあと、こんな風な説明があった。

状況から瑞樹だということは、ほぼ間違いないが、科学的に検証をする必要がある、と。

『どうやって』と食い下がる将に、宮原は、DNA鑑定という言葉を出した。

そのとき将は、新幹線の窓に映っていた、遠ざかっていく関東平野の風景を思い出した。

窓近くに目をやると、黒く後ろへ飛んでいくような電柱。

リズミカルに繰り返しびゅんびゅんと飛び退っていく電柱は、時速200キロ以上のものに乗っている証明でもある。

そして、思い出す。

何気なく見過ごしている、夏の風景を。

いつものように、ミニを走らせる将。都心を離れていく高速道路。

東名だったか中央だったか忘れたが、道路の両側を緑の山々が囲むようになると車が若干少なくなり走りやすくなる。

そこまで来ると、将はミニのアクセルを踏み込んで一気に加速する。

苦しげなエンジン音ながらメーターは120を越えている。

車が少なくなると……それに反比例するように虫が多くなる。小さな羽虫から、大きなトンボや蝶。

次々と、まるで将の車をめがけるように飛んでくる。

将はそれをいちいち、かわすわけもなく……虫たちはフロントガラスに次々と衝突し、瞬時に粉々になって吹き飛んでいった。

ガラスにたいした痕跡も残さずに、蒸発していくような虫。

時速200キロの新幹線は、瑞樹の体を、フロントガラスにあたった虫のように粉々にしてしまったに違いない。

 
 

将の目から涙が流れた。

「頼む、将!頼む、瑞樹に、会わせてくれ……」

大悟はしきりに訴える。将の肩を掴んで、揺らす。

「頼む!頼む……!」

将は肩をつかまれたまま目を閉じて歯を食いしばった。

しばらくして、ようやく騒ぎを聞きつけた看護士が駆けつけた。

「落ち着いてください、島さん」

「大丈夫ですから」

大悟は看護士を振り払おうとして叫んだ。

「俺は正気だ!瑞樹に会わせてくれ、頼む!……将、お前からも言ってくれ!」

叫ぶ大悟の声を聞きながら、将は、突っ立っているしかなかった。

その目からは涙がとめどもなく流れては、リノリウムの床に落ちて行った。

第167話 赤い霧

「所持品と思われるものを調べましたが、身元につながるものは出てきませんでした」

30歳ぐらいの鉄道警察隊隊員が敬礼と共に警部にキビキビと報告した。

夜のホームでは依然作業が続いている。

いったん帰宅していた中年の警部は、突然の人身事故に呼び出されて再度出勤したのである。

「そうか。男のほうは」

「はい。ショックが強かったらしく錯乱状態でしたので病院に。安定剤を投与して眠っています」

「まあ、そうだろうな。アレをまのあたりにしたらな……。で、男の身元は」

警部は同情を含んだ渋面で隊員を振り返った。

「聞ける状況では……。免許等も所持していないようでした」

「遺体は?」

「『すべて』収容しました」

「どれだけ、『集まった』?」

「……まあ。難しいですね」

難しい、というのは人の形に復元するのは、という意味である。

隊員は今回は、それに当たらずに済んだのであるが、当然その処理の経験はある。

慣れたとはいえ、何度やっても嫌なものだ。彼はそれを思い出して目を伏せた。

「覚醒剤反応の検査にまわしたいが」

「無理かと……」

隊員は、今回の遺体の状況について、収容にあたった隊員からもう少し詳細に聞いていた。

それはもはや遺体と呼べる状況ではなかった。拾えるようなものを見つけるほうが困難だった。

大腿骨の一部らしきもの、それが一番大きなものだった。

惨劇の現場となったホームには、ホームだけでなく、柱、駅名表示板から窓ガラスにまでも、一面に細かい血の飛まつが飛んでいた。

収容よりも、それらの清拭のほうにむしろ時間がかかるとのことだった。

時速200キロ近くの新幹線は、一瞬にして人間の体の大部分を小さな飛まつにしてしまったのだ……。

「ホームにいた他の目撃者の証言によると、あきらかに挙動が変だったらしい。それに……」

警部は煙草をくわえると、つらそうに目をあげた。

「普通の自殺者だったら、新幹線はまず選ばない。速すぎてその恐怖感に負けてしまうんだ。……おっと禁煙だったな」

警部は事態のむごさを想像するあまり、思わずくわえてしまった煙草をケースに戻す。

「いちおう男のほうも、目が覚めたら尿検査をしておけ。復旧は?」

「本日は全面運休をまぬがれません。明日始発から通常通り運行をめざすそうです」

 
 

温かい感覚を頬に感じて、大悟は目をあけた。

蛍光灯の光が目に沁みるようだ……。

ぼんやりとしていた、白衣を着た女性の画像が、だんだんはっきりとしてくる。

彼女は、水色のタオルを持って傍らにたっていた。

どうやら大悟は処置台で眠っていたらしい。

着ていたジャンパーが傍らのかごに入れてある。

「あ、起こしてしまいました?……ごめんなさい。お顔が汚れているから拭いて差し上げようと思ったんですけど」

看護士であろう女性の優しげな声に大悟はほんの少し安心した。

しかし、それに似合わない……彼女が手に持った水色のタオルについたチョコレート色の汚れ。

どれぐらい時間が経ったのか。……どれぐらい?何から?

大悟は跳ね起きると、看護士に詰め寄った。

「瑞樹はッ!瑞樹はどこだ」

大悟は処置台を降りると、診察室のどこかにいるであろう瑞樹を探した。

「瑞樹!瑞樹!どこだ!瑞樹」

看護士は、異変にあわてて医師を呼びに走った。

「瑞樹ッ、みずき!」

叫びながら大悟は、診察室中を歩き回った。診察台の下までのぞきこむ。

「!」

診察室の片隅。洗面台の前の壁に据えつけられた鏡に大悟は釘付けになる。

そこに映った大悟の顔は……。

まるで昔かかった水疱瘡のかさぶたのように……いや、さらに細かく、さらに密集して赤黒い点々が散らばっていた。

看護士がタオルでなぞったところだけそれが消えている。

大悟は鏡にはりつくように、自分の顔をながめた。

手を、そして体を見る。パーカーの前の部分に、細かい水玉模様のように赤黒い染みが点々と付いていた。

大悟の唇は一瞬震えた。そして思い出す。あの一瞬を。

現実的には、何も見えていなかった。

ただ、大悟の心にはたしかに見えたのだ。瑞樹が……一瞬にして赤い霧へと変身したのが。

「わアアーーーー!」

大悟が叫びだすのと、医師が駆けつけてきたのとほぼ同時だった。

「大丈夫ですから、落ち着いてください!」

「落ち着いて!」

大悟は医師と看護士に押さえられて、2本目の安定剤を注射された。

「瑞樹、瑞樹ィ……、なんでこんなことに……、なんで、なんで……ああぁ」

大悟は無理やり意識を遠のかせられながら、なおも瑞樹を呼んだ。

 
 

将は、聡を抱きしめて、幸せな眠りの中にいた。

もう明るくなっていることに二人はまだ気付いていない。

だが、将は朝の浅い眠りがもたらす夢の中でも聡を抱きしめていた。

夢の中でも聡は柔らかくて温かく、香りは甘やかだった。

将はふわふわと空中を漂いながら聡を抱いていたのだ。

二人の上には桃色の空が広がっていた。金の綿菓子のような雲が漂っている。

将はふと、下を覗き込んだ。

下には……漆黒の闇があった。あろうことか、闇はじわじわと聡を抱く将の方へと延びてきているではないか。

『アキラ、しっかりつかまれ』

そう言い聞かせたとたん、聡はするりと落ちた……。

 

ハッ。

将は急に覚醒した。携帯の音が鳴っている。

「ん……」

聡も目を覚ましたらしい。間近にある、ピンク色の頬を見て、将はほっとした。

「……将の携帯だよ」

聡がうながす。眠そうな、その顔がいとしい。将は聡のおでこに軽く唇を寄せると、ベッドを降りた。

「間違いか?……ったく、こんな時間に迷惑だなあ」

といいながら携帯を拾う。

02で始まる市外局番に見覚えはない。まだ7時前だ。やはり間違い電話だろう。

聡がベッドに腰掛けて伸びをしている。ちょうど起きる時間だったらしい。

将は微笑ましい気分で通話ボタンを押した。

「鷹枝将さんですか」

男性の声は、将の名前を正確に呼んだ。

「ハイ」

「栃木県警・鉄道警察隊の宮原といいます。朝早く申し訳ありません」

「は、いいえ」

寝起きの聡を見て不謹慎な想像が頭を占めていた将は『警察』という単語にやや緊張する。

同時に『申し訳ありません』という丁寧な言葉に、自分の非行が暴かれたわけではないのだ、と本能で感じ取っていた。

「今、少々お話できますでしょうか……」

「ハァ」

不意をつかれた将は、鉄道が何だ?と思いながらも、短い相槌だけしか思いつかない。

「昨夜、JR○山駅で起きました人身事故の捜査でお電話しております」

「ハ」

――○山。どっかで聞いたな○山。何だっけ。栃木県警っていってたから栃木県か。

何で栃木で起こった事故のことで自分のところに電話が掛かってくるのか、起きぬけの将はまだわからない。

将は背中をボリボリ掻いた。

「失礼ですが、島大悟さんの携帯から番号をお調べして、捜査の必要上、電話させていただきました。ご了承ください」

将の背中を掻く手が止まった。大悟の携帯……?

大悟に何があったのか、将が問う前に、宮原は続けた。

「2、3質問があるんですが。……瑞樹さんという女性をご存知ですか?」

将の心臓が、キコっと軋む。そのままフル回転のようにドクンドクンと激しく波打ち始める。

人身事故の捜査……大悟の携帯……瑞樹。

血液がまわり始めた頭は、嫌なことを結びつけてある答えを導き出しそうになっている。

「はい……。クラスメートですけど、何かあったんですか!」

血相を変えた将の大声に、聡が思わず振り返った。

第166話 母との訣別

今日の夕方、まだ日があるころ。

瑞樹は自宅である市営住宅のドアを開けた。

――まだこの時間だったらお母さんがいるはず。

スナックを経営する瑞樹の母の出勤前を狙って瑞樹は帰ってきたのだ。

母がいれば、義父にもて遊ばれることもない。

そんなに数はないものの、持っていきたいお気に入りの洋服や、最低限の思い出の品もあった。

しかし……瑞樹の予想に反して、母は留守のようだった。

パチンコにでも行ったんだろうか。いったん玄関に足を踏み入れた瑞樹は、出直そうと踵を返した。

そのとき。瑞樹はものすごい力で腕を引っ張られた。

「ひさしぶりだな」

振り返った瑞樹に視覚より先に酒臭さが襲ってきた。

酔って顔を赤くした義父の康平がニヤニヤしながらそこに立っていた。

瑞樹を掴んでいない方の手は、パンツの中に突っ込んで、なにやらボリボリと掻いている。

「やだっ……」

瑞樹は最初抵抗したが、すぐに諦めた。

――これでどうせ最後だし。

抵抗するよりも、とっとと済ませたほうがラクだと思ったのだ。

康平は、自分からパンツを脱ぐと万年床の上に横になった。

そして瑞樹に、いつものように裸になって康平の下半身を慰めるように命令した。

瑞樹は早く済ませたいばかりに言われるとおりにした。

「いいぞ、瑞樹。……いいぞ」

康平が快楽のあまり、声をもらしたそのとき。

ガチャガチャと鍵が回る音が玄関のほうからした。

「……もう、今日はさんざんだったわー」

という母の声に瑞樹はびくっとして、康平の体から顔を離した。

「ただい……!」

眼窩から目が転げ落ちそうなほどの顔。瑞樹と母親の夏子はそっくりな顔でお互いを見ていた。

夏子の持っていたコンビニ袋が床に落ちる。

「ち、違うんだ!夏子っ!みみみ、瑞樹が、勝手に!」

康平は情け無い裸で跳ね起きると、夏子に言い訳をした。

瑞樹はだまって脱いだものを身につけた。

だまっているのは夏子にはふてぶてしく見えた。

そして磁器のようななめらかさを持つ若い肌は母の夏子を嫉妬させるのに充分だった。

もともと、とうに瑞樹の母親である自覚など失せていた夏子である。

そこにいる瑞樹は単なる若い女……夫をその若さで誘惑するために現れた……にしか見えなかった。

夏子は、万年床をドスドスと踏みつけるように近づくと、まだようやく下着を着け終わったばかりの瑞樹に向かって手を振り上げた。

バシッ!

部屋中に響くような音に、康平すら肩をすくめて怯える。

瑞樹は倒れなかったが、叩かれた頬を押さえて母を見た。

「おかあさん……」

「この……、泥棒猫!」

瑞樹は眉をゆがめて……それでも、母の顔をよく見た。

その中に少しでも自分への情け……愛情のかけらでも残っていないか、確認したかった。

「恐ろしい娘だよ。義理の父親を誘惑しようとするなんて……」

「おかあ……」

母親の顔は憎悪で満たされていた。

本当に、自分はこの母親から生まれたのだろうか。

たぶん違うのだろう。そうとしか考えられない。

瑞樹は唾を飲み込んだ。母親の罵倒は続く。

「今まで出て行きっぱなしだったくせに、なんで帰ってくるんだ」

むしろ、康平のほうがハラハラとして二人を見守っていた。

瑞樹は下着のまま立ち尽くしていた。でも寒いのは格好のせいだけじゃない。

「さっさと出て行け!この親不孝者!」

夏子はそこに脱いであった服を瑞樹に向かって投げつけた。服は瑞樹の胸や腹にあたって下に落ちた。

瑞樹はだまって服を拾うと黙って身につけた。

そして部屋に入ると、修学旅行のときのボストンバックに手早く服を突っ込んだ。

不思議に涙は出なかった。こうなることが当然だったような気さえしている。

所詮、母にとって瑞樹は『いらない子』だったのだ。そんなことは小さい頃から知っていた。

服をあらかたボストンに突っ込むと、学習机に持っていくものはなかったか考える。

その上に、写真があった。……まだ幼い瑞樹と彼女を抱く母親の写真。

毛糸の帽子をかぶった瑞樹と母親に冬の陽射しがあたっている。

だけど温かそうなのは、陽射しだけでなく二人の笑顔のせいだった。

小さい頃から虐待を加えられていたけど、母は優しいときだってあったのだ……。

運動会のときは、お弁当だってつくってくれた。こげた卵焼き入りだったけれど。

かけっこで1等を取った瑞樹を抱きしめてくれたこともあった。

母子だけのクリスマスにはファミリーレストランで2人でハンバーグを食べて、食後はパフェを半分コした。

『おかあさん、瑞樹、うさぎりんご食べていい?』

『いいよ。そのかわりおかあさんに、バナナをちょうだい』

バナナも好きな幼い瑞樹は下をむいた。あのとき機嫌がよかった夏子はすぐに

『わかったよ。バナナは半分コしよう。おかあさんが切ってあげよう』……

 

瑞樹は感傷を振り払うように、机の一番下の引き出しをあける。

小さい頃からのおもちゃなどが無造作に突っ込んである。

そんな中、小さな犬のぬいぐるみが、引き出しの中から瑞樹を懐かしそうに見つめた。

ぬいぐるみ、というより、マスコットといったほうがいいサイズの犬。

瑞樹が幼稚園に入る前の誕生日に母にねだって買ってもらったものだ。

瑞樹は思わずそれを手に取る。

買ったときはまっ白だった犬は、いつも瑞樹と一緒にいたせいか、すっかり汚れてグレーになってしまっている。

だけど握り締めると昔どおりの乾いた弾力が瑞樹の掌に残った。

その柔らかな感触が幼い日々の記憶を蘇らせる。

それをぎゅっと握りしめるとき、瑞樹の幼い心には、いつも母への思慕があった。

瑞樹の目から初めて涙がこぼれた。

涙は、さっき叩かれて熱を持った頬の上にも優しい感触で流れていく。

瑞樹は振り返った。

だけど、母はそこにはいなかった。

いるのは、瑞樹を斜に構えて敵視している単なる中年女だった……。

瑞樹は犬をにぎりしめると、ボストンに入れた。

せめて幼い日の思い出までは……なかったことにしたくない。

あの母はたしかに存在していたのだ。だけど……今はもう死んだ。

瑞樹はそう思い込むことで母と訣別しようと決意した。

瑞樹は別れの言葉も言わずに、家をあとにした。

別れはいう必要はない。母ではなくなった『あの女』とは最初から無関係だったのだから。

だけど、瑞樹の目からは涙がとめどなく流れていた。

夕方の冷え込みの中で叩かれた頬だけが熱い。

 
 

快速列車の中、大悟と電話で話した直後、瑞樹は小山に着いた。さっそく祖母に電話をかける。

突然の訪問だが、今までも突然行くことはあった。

祖母は母と違って、大きくなった瑞樹でも喜んで受け入れてくれた。

しかし。祖母の家の電話は今日に限って留守番電話だった。

――今日、社交ダンスの日だったかなぁ……。

祖母といっても若々しい彼女は、趣味と健康増進を兼ねて社交ダンスを習いにいっていた。

まあ、いずれにせよ、すぐ帰ってくるだろう。

瑞樹は、祖母のアパートの前で待つことにし、バスに乗った。

しかし……アパートの廊下に座り込んで小1時間。祖母はいっこうに帰ってこなかった。

瑞樹はひどくおなかがすいてきた。

喉も渇く。

なんだか寒い。

――どうしたんだろう。おばあちゃん。

瑞樹は再び携帯を開いて時計を見る。もうすぐ9時になる。

携帯を閉じてすぐに、携帯が鳴った。大悟だ。

「俺、今、小山に向かってるから」

「どうしたの、急に」

「……なんか、心配でサ。もうすぐ着くから、一緒に帰ろう。な?」

優しい声。大悟はいつも優しい。

大悟だったら自分を絶対に不幸にしないだろう……。

なのに、どうして……こんなに冷や汗が出るんだろう。

瑞樹は異変を気付かれないように「うん」とうなづいた。

「あのね。おばあちゃん留守みたい。だから私、もう帰るね。大悟が駅に着いたら連絡して」

と瑞樹は冷や汗を忘れるために、無理して元気な声を出した。

電話を切ったとき、瑞樹はすでに細かく震え始めていた。

――駅に、出なくちゃ。駅に。

かろうじて意識を保って、通りへ出るとタクシーを拾う。

しかし、タクシーの中で、瑞樹は運転手にもわかるほどの震えを止めることができなかった。

「お客さん、寒い?」

「い…、いえ。大丈夫です」

――怖い……怖い。大悟、怖いよ。

――おかあさん。わたし泥棒猫じゃない。そんな目で見ないで。

瑞樹はぎゅっと目をつぶる。目をつぶっても母はずっと睨んでいた。その髪が蛇になる。

叩かれた頬にはいつのまにか、大きな蜘蛛が張り付いていた。

蛇は瑞樹の手足をめがけて進んでくる。

「い……いや……」

瑞樹のようすは、運転手から見ても異様だった。

しかし、いったん乗せた客だ。運転手は早く面倒な客を降ろしてしまいたくて、急いだ。

「着きましたよ」

そう声をかけられるまで、瑞樹は幻覚の虜になっていた。

「1260円です」

振り返った運転手は、瑞樹には化け物に見えた。義父の顔に似ている……化け物に。

「いやあっ!」

瑞樹は5000円札を放り出すと、転がるようにタクシーを降りた。

「お客さん、お客さん!お釣り!」

叫ぶ運転手のことなど聞こえないように、フラフラと切符売り場へ歩いていった。

 

「将……。新幹線に……、乗らなくちゃ」

瑞樹は朦朧とした頭で、それでも東京に帰ることを考えていた。

新幹線の切符を買う瑞樹の足元から、天井からおぞおぞとムカデが這ってくるのが見える。

「嫌……、こないで……」

瑞樹は切符をムカデから逃れるように、よろよろと歩くと自動改札を抜けてホームを目指す。

そこへ再び電話。それは幻覚に囚われた瑞樹にもなんとか認識できた。

「もう、あと2分で着く。いまどこだ」

「あたしも……駅にいるよ、将」

新幹線のデッキから電話をした大悟は、瑞樹のようすがあきらかに変なことに気付いた。

ずっと息があらいし、うわごとのような口調。そして……大悟を将と間違えた。

大悟は思わず舌打ちをした。禁断症状が始まってしまったのだ。

「すぐ、いくから。大人しく待ってろよ」

「……うん。でも……こわいよ、将。たすけて」

瑞樹は震える声で訴える。

「すぐ、いくから……」

「将……こわい。こわいよ」

禁断症状は完全に瑞樹をとらえたらしい。幻覚に瑞樹は翻弄されている。

大悟はラチがあかないので「待ってろ、すぐいくから。じゃあいったん切るぞ」といって携帯を切った。

瑞樹は、携帯を握り締めたまま、壁によりかかるようにして、階段を一段一段登った。

冷や汗が出たと思ったら、体がかあっと熱い。

怖い。ムカデに蛇が追ってくる。蟻もいっぱいいる。頬の蜘蛛は大きなタランチュラだ。

みんな瑞樹によじのぼろうとする。

助けて。助けて将。

「怖い……。助けて……」

うつろな目をして独り言を呟きながら瑞樹はホームまで階段をのぼりきった。

幸い、夜9時すぎの新幹線・小山駅のホームは、人影もまばらで、瑞樹に目をとめる人もいない。

瑞樹は、階段を登ったところにあるベンチに座った。

「将……。早く私を助けて」

瑞樹はこきざみに震えながら、天空に将を夢みて、足元からは、ついにムカデと蟻の群れが襲来するのを感じていた。

そのとき、向かいのホームに東京から来た各駅停車の仙台行きが着いた。

それに大悟が乗っていた。自由席に座っていた大悟は、足早に階段へと向かっていた。

彼を追い越すように発車した新幹線はホームから走り去った。

ふと、向かいのホームを見た大悟は、そこに瑞樹が座っているのを見つけた。

「瑞樹!」

大声で呼びかけるが、気付いていないようだ。

座り方はだらしなく、目はうつろで、普通の状態ではないというのが、ここからでもはっきりとわかった。

大悟は、全速力で階段を降りると、コンコースを走りぬけ、今度は瑞樹がいるホームへと階段をかけあがった。

仕事で体が鍛えられている大悟は、息もあがらず、のぼりつめた。

「瑞樹!」

そのとき、瑞樹の世界では、自分の体によじのぼった無数のムカデと蟻が這いまわっている最中だった。

「いやだ……。こんなの……。いや……」

「瑞樹ー!」

大悟の姿が瑞樹の視界に入った。

とたん、瑞樹はおびえたようにベンチから立ち上がった。

顔色が真っ青で、目が異様なほどに見開かれている。

瑞樹は後じさりしながらホームの端へ進んだ。

「いや!こないで……!みないで……!将、お願い、みないでええ!」

「瑞樹、落ち着け!俺だ」

そのとき、ホームにアナウンスがかかる。

『まもなく、当駅を東京行きの列車が通過します……』

大悟が瑞樹に向かって走り寄ろうとしたそのときだ。

「いやああああ!」

瑞樹は、虫にまみれた自分を見られたくなくて、走り出したつもりだった。

瑞樹の腕を掴もうとした大悟の手が……空を掴んだ。

泣き叫ぶ瑞樹は、ホームから身を踊らすように、線路に飛び降りたように見えた。

ああっ、とホームに居た人も駅員も皆驚いて身を乗り出した。

しかし……大悟を含め、皆が、瑞樹が線路上にうずくまっているのを見たのはほんの一瞬だった。

大悟の悲痛な叫びは新幹線の轟音にかき消された。

新幹線の運転士は、緊急ブレーキをかけたが、間にあわず、新幹線は駅を通過して停止した。

だが、瑞樹がいたはずの線路上には『何もなかった』……。

第165話 救いと癒し

「ギャーッ!うそっ!」

美智子は将を見るなり絶叫した。洞窟を模した静かなバーに場所は移っていた。

「背、高っ!足、長っ!顔、小さっ!」

と将の全身を見回した上で、

「めちゃめちゃイケメンじゃん……聡」

と聡を振り返った。

幸い、今日は木曜だから客は少なめで、美智子の絶叫に一度は振り向いた客もすぐにそれぞれの話に戻って、あたりにはジャズが流れる静かな空間が戻ってきた。

「どうも……」

将は笑顔でぺこっと挨拶をしながら名乗るべきが迷った。

というより、偽名の山田を名乗るべきか、本名を名乗るべきか判断しかねたのだ。すると聡のほうが

「鷹枝……将くん。だ、大学生なの」

と美智子に紹介した。

こういうバージョンもありか、と将はとりあえず「鷹枝です」と改めて挨拶した。

美智子はまだ興奮気味で

「いや~ん、年下の彼氏ぃ」と身をよじらせると

「あ、どうも。幸田美智子です。東京××の編集部にいます~」

とピンクメタリックの名刺入れから名刺を取り出して将に渡した。

「ヤダー、ちょー、聡、びっくり。ほんっとにイケメンだよね」

美智子は聡と将の両方をかわるがわる見た。

あげく

「ねえ将くん、だっけ。モデルやんない?」

などと誘っている。将のほうもまんざらでもなさそうで

「ハァ……」

と頭をかきながら、聡にさりげなく「何頼んだ?」と訊く。

聡は「カシスソーダ」と答える。

すると将も店のバーテンに軽く腕をあげると「カシスソーダもう1つ下さい」と頼む。

「ちょっと~、カッコイイ~。あたしこんなにカッコいい子初めて見た~」

美智子は黒々とアイラインを引いた目を細めてうっとりしている。

「ねえねえ、いつ、どこで知り合ったの?」

「えっと……」

聡は将の顔を見ながら、記憶をたどる。

出会いは弁当屋でバイトしていた頃だ、というのはわかる。

だけど、いつ頃から将を意識したんだろう。その辺を思い出せない聡に変わって、将が話し始める。

「アキラがバイトしてた弁当屋に、買いに行ったのがきっかけです……」

それから将は、閉店直後だったにもかかわらず、聡が親切にも主人に声をかけて、将のために弁当を用意してくれたこと、

さらに40円足りなかったのを聡が貸してくれたことを美智子に説明した。

聡はまるで覚えていなかったことだ。

「ホント? 私そんなことしたの?」聡は将に訊き返した。

「あ、覚えてないんだ、ひっでえ。俺は詳細に覚えてるのに」と将。

「いや~ん、将くん、聡にぞっこんなんだ。一目ぼれ?」

「ハイ」

将はやや照れながら、頷いた。美智子が

「いいな~、うらやまし~」

とまた甲高い声をあげる。

別れ際に美智子は、

「ねえ、聡、将くんの電話番号、聞いちゃってもいい? 本当にモデル頼むかもしれない」

「え……?」

聡は将の顔を見上げた。将は

「別に、いいですよ」

と美智子に携帯の番号を直接教えた。

 
 

「将、いいの……?」

もう夜11時近い電車は、座りたければなんとか席が見つかる程度の空き方だった。

なんとか2人並んで座れる席を見つけて電車のシートに腰掛けたとき、聡がつぶやくように将に問い掛けた。

「何が」

将は聡により掛かるようにもたれながら答えた。

「モデルなんて……。将、高校生だってのがバレたら」

「何、嫉妬?」

「ちがうっ……。心配してるの。またお父さんに何か言われたら……」

聡は以前、将がスキャンダル記事になったときのことを思い出していた。

「大丈夫だよ。それに美智子さんだって『頼むかも』っていってただけだし」

「そうだけど……」

将の傾けた頭は、聡の頭にすでにくっついている。

「心配すんなよ……」

膝の上に置かれた聡の手の上に将の大きな手が重なった。

寒々しい夜の列車の照明なのになんだか、ほんのり温かく思えてくる。

「それよりさ。今日だけ、聡の家に泊まってもいい?」

将は、頭を聡にもたれかけたまま、甘えた声で囁いた。

「……今日は、平日よ」

本来二人が教師と生徒でいなくてはならない日だ。

「いいじゃん」

「将、今日、どうしたの……?さっきから変よ」

美智子との食事にいきなり割り込んできたり。

「あとで……話す。今日は、アキラと一緒に寝たい」

小さな声で囁いているのだが、まん前に立つサラリーマン風の男性に聞こえてしまったようだ。

男性はスポーツ新聞の陰から横目でチラリと二人をにらみつけると、再びスポーツ新聞に戻っていった。

「将ってば……。こんなところで」

聡は顔を赤くした。

「いいじゃん……。ね、アキラ」

将はまるでキスするみたいに、聡の顔のまん前、至近距離に自分の顔を移動した。

聡は下をむくしかなかった。

 
 

将は、聡の部屋に入るなり、靴をぬぐのももどかしく、聡の体を抱きしめてきた。

そして、口づけ。

「ちょっと、将……今日、絶対変」

そういいながらも、聡は将の濃厚な口づけを受け入れてしまう。

聡だって、将と一緒にいたい。くっついていたい。それを大人の、社会人の、教師の理性で押さえてるのだ。

それをこんな風に、抱きしめられたら……。

聡の理性なんてひとたまりもなかった。

将は、聡に口づけと抱擁をほどこしながら、じりじりとベッドのほうに移動すると、聡をベッドに押し倒した。

「やっ……。将……、ダメ」

押し倒された聡は将の体の下で、軽く抵抗した。

軽く、というのは、たぶん最後まで求めているわけではない、というのが大体わかっていたから。

将はたぶん、今日何か寂しいことがあって、それで聡に甘えたいのだ。

案の定、将は

「アキラ、ダッコ」

といって自分もベッドに横になった。

聡は自分の横によこたわった将に腕を伸ばすと、ぎゅっと抱きしめてやった。

将の胸に顔をうずめる。熱い体温を確かめる。

将のシャツの胸のあたりから香ばしい匂いがすることに聡は気付いた。

「焼肉の匂いがする」

聡は顔をあげると、5センチと離れていない将の顎に囁いた。

「今日、焼肉行ったの?」

将はなおも聡を強く抱きしめながら、「うん……」とつぶやいた。

「何かあったの……?」

聡は苦しくなるほど強く力を込める将の腕の中で、喘ぐように訊いた。

将はしばらく答えずに、聡の背中をしきりに撫でていた。

「アキラ、アキラは……いつまでも俺のそばにいるよな」

ぽつりと呟いた。

「どうしたの、将」

聡は、将の力がゆるんだ隙にゆっくりと身を起こすと、額にかかった将の髪をゆっくりとかきあげた。

髪の下の瞳は、すがるように聡を見上げていた。

将は、聡を見つめたまま、

「大悟が、滋賀にいっちまう」

と言った。

「仕事が見つかったの?」問い返す聡に

「うん。瑞樹と二人で住み込むんだって」とゆっくり答える。

「そう。大悟くんと葉山さんが……」

聡は、寂しく、せつない将の目を見つめながら優しく髪を撫でた。

親友が部屋を出ていくのがそんなに寂しいのか、と聡は将の心の寂しさを慮った。

だけど、将の哀しい瞳は、大悟のことだけではない。

今日は大悟のことも含めて、あまりにいろいろなことがあった。

母の死の回想。父が墓前に備えていたアネモネ。

そして、自分を見捨てている、と思った父が実は自分に期待していたということ。

しかし、急にそんなことを知っても将はとまどうばかりだった。

将は自分が見捨てられていると思っていたからこそ、家を出てさまざまな非行を重ねたのだ。

そして正当防衛とはいえ殺人まで犯してしまった。

将は自らのアイデンティティが揺らぐ中、聡に救いと癒しを求めていたのだ。

「将。私は、ずっとそばにいるよ……。だから安心して」

聡は子守唄のように、将に囁きかけた。

低いけれど優しい響きに将は安堵に包まれるのを感じた。

「大悟くんだって、落ち着いたらまた会いにいけばいいじゃない。……ね」

髪をなぞる聡の優しい指。将は、再び腕を伸ばして聡を抱き寄せた。

聡は将の上に乗るように抱きしめられた。こうすると将の鼓動がよく聞こえる。

「アキラ……、ずっと俺のそばにいろよ」

「将……」

「やくそくだぜ」

聡は頷く代わりに、将に体重を預けて将の胸に耳を押し当てる。

ゆっくりとした鼓動に安らいでいく。

将は将で、柔らかくて甘い香りがする聡を抱きしめることで、急速に寂しさもとまどいも、アイデンティティの揺らぎもどうでもよくなっていった。

聡がいれば……なんでもどうでもいい。

「あ、そうだ。将」

急に聡が将の体の上で、肩を起こした。

「ね。あたし、匂いキツイ?」

「え?」

唐突な聡の質問に、将は

「え?匂い?って×××の?」

と思わずきわどい単語を口にしてしまった。

「ヤダ!」

聡は、将の顔を傍らにあったクッションでぼすっと叩くと起き上がった。

「ってー」

将は鼻を押さえて、聡を追うように起き上がった。

「アキラ?あれ、泣いてるの?」

聡は、プーッと膨れたまま、思わず目から流れたものを手の甲でぬぐっていた。

将が後ろから肩に手を置いても、フンと振り払う。

将は可笑しくなった。聡は今日はなぜか匂いのことをとても気にしているらしい。

「ちょー、アキラ、アキラの匂い、俺はぜーんぶ好きだってばー」

そういいながら、将は聡を後ろから抱きしめる。

「アキラ、ごめんよぉ」

そうやって抱きしめた聡は、ほんのり甘い香りがする。

この甘い香りがどんなアロマより自分を癒してくれるんだ、と将は聡に伝えたい。

「アキラ、アキラはめっちゃいい匂い。俺いっつもラリっちゃいそう」

と将は囁きながら、聡の髪のあたりで、鼻をくんくんさせる。

ふざけて口にした、ラリッた、という単語で、将は瑞樹を思い出した。

瑞樹に禁断症状が現れるのを心配していた大悟が脳裏にフラッシュバックのように現れた。

――大悟、間に合ったかな……。

将は、機嫌を治した聡と口づけを交わしながら、大悟と瑞樹を思っていた。

どうか二人で幸せになってほしい。

将は、聡を愛することで生まれた、心のきれいなところで願っていた。

しかし……その頃、瑞樹はこの世に、もういなかった。

第164話 嫌な予感

「……大悟、あたし……今日ね……。義理父とのこと、お母さんに見られちゃった」

「えっ!」

当然将には大悟が携帯に向かって発する声しか聞こえない。

しかし、そのただならぬ様子に、思わず身を乗り出すようにする。

大悟は、そのときすでに、瑞樹がすすり上げる音を携帯から拾っていた。

「大丈夫か」

大悟の声に優しいいたわりが混じった。見られてどうなったか、を知るよりも先に瑞樹が心配なのだ。

「……うん」

瑞樹は涙を飲み込むように頷いたらしい。そして続ける。

「お母さんね。私のほうを……叩いたんだ。『泥棒猫』って」

大悟はしばらく沈黙した。

目を伏せて歯を食いしばっている様子から将は、瑞樹によほどひどいことが起きているのだ、と予想し緊張した。

「ひどい」

大悟はようやく漏らした。電話の向こうで、電車の揺れる音に瑞樹がときおりすすり上げる声が混じる。

「いま、どこにいるの……」

これ以上優しい問いかけはない、というような大悟の声を将は聞いた。

携帯を包み込むように持っている。

……焼き網からこげた肉が、目にしみるような煙と嫌な匂いを発し始めて、将はあわててその肉をどける。肉は、もはや炭のようになっていた。

「小山のおばあちゃんにも、お別れを言いにいこうと思って……。しばらく会えなくなるだろうから」

瑞樹はたびたび小山の祖母の家に行っていた。

祖母のほうは、母親と違ってきわめて普通の人らしく孫の瑞樹を可愛がっていたらしい。

「大丈夫か」

大悟は何度目かになるいたわりの言葉を発した。

「……うん。お母さんのことは……、もういい。もうふっきれた。……もう捨てる。あんなヒト、お母さんじゃない」

瑞樹は一言一言区切りながら、自分自身に言い聞かせるようにして、母への訣別を口にした。

携帯を耳に押し当てた大悟の顔が、つらそうに歪んでいくのを将は、見てはいけないもののように盗み見た。

将はわからなかったのだが、そのとき大悟は、自分が父に訣別したことを思い出していた。

借金だらけで、大悟に迷惑ばかりかけてきた父とは、連絡がとれなくなって2年以上経つ。

そんな父でも……たった一人の肉親に引導を渡すのはつらかった。

もう頼るまい、愛情を期待するまい、と思いつつ何度もゆきつ戻りつした、つらい日々。

……大悟は瑞樹のつらさを的確に想像していた。

「おばあちゃんのうちには……泊まるのか?」

「……ううん。終電までには帰る。帰りは新幹線使っちゃおうかな」

瑞樹はきっと、つらそうな笑顔を浮かべているに違いない。

大悟はそっとため息をついたとき、

「あ、もう着くみたい」

と瑞樹が電話の向こうで言った。不明瞭だが車内アナウンスも聞こえる。

「じゃあ、切るね。今日、必ず、帰るから。将に……」

1拍、息を吸い込むような沈黙が混じる。

「今までいろいろゴメン。さよなら、って言っておいて」

「瑞樹」

電話は切れた。

大悟は、しばらく携帯を耳に押し当てたまま、目を見開いていたが、ぎこちなく見えるほどゆっくりと携帯を下ろした。

まるで見えない粘りに捕まった様な、そんな感じだった。

「瑞樹、なんだって」

将は、大悟のようすから、訊くべきじゃないかも、とも思ったが、このシチュエーションじゃ話をいきなり変えるのも変だ。仕方なく問い掛けた。

予想通り、大悟は沈黙している。

まるで魂が抜けたように、それでもジョッキに半分ほど残ったビールをあおると流し込んだ。

「どこにいるって?」

将は答えやすい質問に変えてみた。大悟はビールを飲み干して、大きく息をつくと、

「小山」

と短く呟いた。続けて

「おふくろさんと……いろいろあったらしい」

と慎重に言った。

大悟は、瑞樹の家庭の秘密を将が知っているとは思わなかったからそういう表現をしたのだが、

将はそれで、瑞樹の身に何が起こったかが、だいたいわかってしまい、息を飲んだ。

「将、お前に『いろいろゴメン、さよなら』って……」

大悟はやりきれないように、テーブルに肘をつきながら、瑞樹から託された言葉を将に伝えると頭を抱えるようにがっくりとうなだれた。

「なんだそれ」

と将は反射的に答えながら、急に嫌な予感にとらわれた。

それは大悟も同じだったようだ。うなだれていた頭を電気仕掛けのように上げた。

髪が乱れ、目は四白眼になりそうなほど、見開いている。

「ヤバイ!」

「どうした」

大悟は、目を伏せると左手を出して、指を折りだした。頭の中で何かを数えているようだ。

「禁断症状が……!」

小山から戻ってくるまでに、時間的に瑞樹を禁断症状が襲うであろうことを、大悟は計算したのだ。

「将、悪い。俺、瑞樹を迎えに行く。俺がついてないと……アイツ……瑞樹は!」

大悟は即座に席を立った。

将も追うように席を立ち、

「車出そうか?」

と大悟の肩をつかんだ。

大悟は、つらそうな中で少し笑顔をつくった。

「今日はいい。飲酒運転になっちまうだろ」

大悟は、焼肉代を払うと、わき目もふらず走り出す。が途中で将を振り返った。

「将、本当にいろいろありがとうな!」

そう叫ぶと、一目散に駅のほうへ走っていった。

不安に囚われた将は、大悟が見えなくなるまで佇んでいた。

 
 

「へえ。美智子、4月で独立するんだ」

「ウン。もうこき使われるのはウンザリだからね。もう今年27になるんだし、今後は自分のペースで仕事したいんだよねー」

そういう美智子はあいかわらず素顔がわからないほどの濃い化粧に、明るい色の髪を今日はゆるく2つに結んでいる。

しかし結んだ先の髪は計算されたようなきれいな波を描いていた。

ほのかに香るスパイシーな香水も美智子のこの雰囲気によく似合っている。

しかし、香水をかいだ聡は、今日星野みな子に

『センセイ、臭い』と言われたことを思い出してしまった。

美智子に、試しに

「あたし、匂いキツイかな?」と聞いてみると、

美智子は『?』という顔をし、

「なんにもにおわないよ。聡、香水つけないでしょ」

と言ったので聡は少し安心した。

聡と美智子がいる、カウンターの前に南部鉄っぽい行燈でライトアップされた坪庭が広がるお洒落な創作料理の店。

これも以前の寿司屋同様、美智子が太鼓判を押す店らしく、出てくる料理はどれもキレイなだけでなく旨い。

リンゴのような風味の生のナスにとろりととろけそうな馬肉をあわせたカルパッチオに聡はさっきもため息をついたばかりだ。

店のスタッフに美味だった旨を伝えると彼は嬉しそうに

「シェフの出身の熊本から取り寄せた馬刺しと、肥後紫というナスを使っております。ナスはハウス栽培ですけど」

と説明を加えてくれた。

「いいなー。美智子は。手に職持ってて」

焼酎で少し頬を赤くした聡は頬杖をついて美智子を眺めた。

お菓子のような香ばしい香りのする芋焼酎も大メーカー品ではなく、小さな蔵元からわざわざ取り寄せたものだ。

ロックにしたそれは、少しずつ舐めるように飲むのがちょうどよかった。

「なにいってんの。聡だってキョーシ頑張ってるじゃん。聞いたよ。すっごくユニークな教育方法をやってんだって?」

「そんなたいそうなことじゃ……」

と謙遜しかけて「なんで知ってるの?」と聡は頬杖からやや顔を起こして目を見開いた。

「新聞社の友達に聞いたの。あれ?まだ連絡行ってない? 取材するって言ってたけどな」

「聞いてない、聞いてない。何それ」

美智子によると、中退者が少ない上に、会話を重視した英語教育、将来の夢を見つけるための社会見学を取り入れている荒江高校のとりくみについて、ある新聞社が取り上げたいと言っているらしかった。

「うっそー」

「しかも、それ、ほとんど聡が考えたっていうじゃない」

「中退が少ないのは私とは違うけど……。誰がそんなこと言ってるの?」

「海潮寿司のご主人に聞いたんだと思う」

海潮寿司と聞いて、聡は納得した。教え子の兵藤が修行している店だ。

あの店は、一度美智子の情報誌に掲載されて以来、あっという間に評判が広まってしまった。

テレビ取材の話もあるらしいが、お客さんに迷惑になる、と断り続けているらしい。

聡は、寿司の味と共に皺が刻まれた頑固そうなご主人の顔を思い出した。

兵藤が京極のことで停学になりそうになったとき、学校にやってきた弟子思いな一面もある、素晴らしい職人だ。

「海潮寿司かぁ……。あそこ本当に美味しかったよね」

聡が寿司の味を具体的に思い浮かべようとしたとき、携帯が鳴った。

「ゴメン」と美智子に謝りながらバッグから取り出す。将だった。

「将?」

「アキラ。いますぐ会いたい。どこいるの」

将は聡の声を確認するなり、畳み掛けてきた。

「将、待って。さっきも言ったけど、今友達と食事してるのよ」

男性の名前を呼んでいる聡に対して、美智子があきらかに、好奇心旺盛な目をこちらに向け始める。

「どうしても会いたいんだ」

「いったい、どうしたの?将」

美智子がいつも持ち歩いているメモに『新しい彼氏?』と書いて電話中の聡に見せる。

ちなみに博史と別れたことは、さっき話したばかりだ。

聡はカッと顔が熱くなるのを感じた。

「会ってから話す。今どこ?○○?」

将は街の名前を言った。あたっている。

「食事が終わったら電話するから……」

そこへ美智子が再びメモを見せる。

『聡の新彼、ぜったい見たい!来てもらいなよ』

と書いてある。

「えー、でも……」

思わず、聡は将のほうではなく、美智子のメモに返事をしてしまう。

「○○にいるんだろ。俺、とりあえずそっち行くから。着いたらまた電話する」

「将……ちょっと、」

将は一方的に電話を切ってしまった。

聡はため息をつきながら、電話をバッグにしまった。

「新しい彼氏、しょうっていうんだ……」

美智子が擦り寄ってくる。目が三日月のようになっている。

「婚約者のいる聡を略奪するなんて、どんなオトコなんだろ。ね、今から来るんでしょ。会わせてよ、絶対」

「ヤダ……もう」

まさか教え子の高校生と付き合っているなんて言えない。聡は赤くなって下を向いた。

第163話 禁断症状

補習を終えた聡はひさしぶりに大学時代の友人の美智子と逢うべく、学校をあとにしていた。

もう6時だけれど、まだ空には太陽の明るさが充分残っている。

――もう春なんだ。

風はまだ冷たいし、桜のつぼみもまだ固い。でも日に日に明るくなってくる放課後に聡は確実に来ている春を感じていた。

通りすがりの桜の枝につぼみを確認しながら駅へ向かう聡の携帯がふいに鳴る。将だ。

「将?どうしたの?」

もう学校を遠く離れている聡は躊躇なく名前で呼んだ。

「アキラ、今日、逢えない……?」

「ごめん。今日は、いまから友達と食事なの」

「それが終わってでいい。顔が見たいんだ」

切羽詰った、というより苦しげな様子。いったいどうしたんだろう。

聡は、そういえば今日、将が補習に来ていなかったことを思い出した。

「どうしたの?いったい」

まだ駅まで遠い。歩きながら事情を訊く暇はありそうだ。しかし、将は

「あとで話す。とにかく連絡くれ」

と言って電話を切ってしまった。

 
 

電話を切った将は、待ち受けに戻った携帯を眺める……ずいぶん前に撮影した聡の笑顔が表示されている。

それを見てため息をついたとき、携帯が再び鳴った。

大悟だった。

「将? 今日外で一緒に飯食わない?」

一人でいると、乱れる心はますます収拾がつかなくなる気がする。

将は、気持ちを鎮めるために誰かと逢いたかった。

誰か……できれば聡が一番だが、大悟でも悪くはない。

ふだん仕事で忙しい大悟は、一緒に住んでいながら顔をあわせることが少ない。

たまには食事でもしながら、話をするのはやぶさかではない。こっちから誘いたかったくらいだ。

「おう。食おうぜ。何食う?」

将は明るく返事をした。

 

「上カルビ頼もうぜ。俺がおごるから」

大悟は明るく提案した。

「何、キューリョー日?」

いつになく豪気な大悟に将は笑顔でさぐりをいれる。近所の焼肉屋に来ていた。

「うん。それもある」

大悟の笑顔の前に、ビールの大ジョッキが運ばれてきた。

二人は乾杯した。

「給料日だったら、俺におごるよりも、瑞樹のヤツになんか買ってやったら?……あ、そうだ、もうすぐホワイトデーじゃん」

将はタン塩を焼き網の上に並べながら顔をあげた。

「うん。それはぬかりはないよ」

大悟もタン塩を並べる。その並べ方は将より一段丁寧な感じだった。

タン塩はあっという間に食べごろになり、二人はレモン汁にひたしたそれを口に運んだ。

そこへ、上カルビ、上ロースがやってくる。

あっという間にタン塩を食べ尽くした二人は、しばし無口で、肉を並べて食う、を繰り返す。

満足感の域に達するのは大悟のほうが先だったようだ。

大悟は、もう2杯目になる大ジョッキをぐっとあけると、3杯目をオーダーして

「あのさ」

と将に話し掛けた。

「何」

将は相槌をうちながら、あいかわらず、肉から目を離さない。上カルビは食べ尽くし、並カルビになっている。

レア好きな将だが、安いカルビはよく焼いたものも香ばしくてよい。

これをやりだすのは、将も満足に近いというサインだ。

「俺たち、マンションを出るから」

「あ、そう。……え?」

肉の焼き加減に注意を払っていた将は、しばらくしてその内容を理解し顔をあげた。

「長いこと、世話になったな」

大悟は頭を下げた。

「出るって……どこいくんだ?」

思わず将の声が乱暴になる。

「二人で、滋賀の自動車部品工場に住み込もうと思う。夫婦向けの寮があってさ」

将は大悟の顔を見たまま、無意識に網のうえで肉をひっくりかえす。

「滋賀……」

絶句する将。

正月に萩まで往復した道のりを思い出す。滋賀はちょうどその真ん中ぐらいだっただろうか。

出て行くというのを将への遠慮と解釈した将は

「大悟、俺んちだったら、いつまでも居てくれてかまわないんだぜ」

と優しい声で引き止める。

「ん……。ありがとう。でも、もう決めたんだ」

大悟は、微笑んだまま、将を見据えた。決意は固そうだ。

「なんで、そんな遠くに……」

将はビールをあおると下をむいた。

せっかく再会できた親友がまた遠くに行ってしまう。

焼肉屋の香ばしい匂いは寂寥感とはおよそかけ離れている。

だけど将の心はじわじわと寂しさに浸されていった。

「東京にいると、いろいろと誘惑が多いだろ……」

大悟は、将のようすに言い訳をするように、新しい肉を網の上に載せた。

「瑞樹か……」

大悟はうなづいた。

「あいつさ……。クスリを辞めるどころか、すっかりクセになってしまったみたいで……。

最近は、クスリが切れると苦しいみたいなんだ。幻覚みたいなのも見えるらしいし」

肉を箸でいじりながら話すのには、ふさわしくない話題だ。

「俺が一緒にいるときは、なんとか我慢させてるけど……。本当に苦しそうなんだ」

依存症、とか、禁断症状というのを将も聞いたことがある。

将は、返す言葉を必死で探す。

「治るのか……?」

それだけしか見つからなかった。

大悟は、将の目を見た。そして頷く。

「苦しみにも波があるみたいなんだ。我慢していたら、収まっていくみたいな……。それを繰り返していつかは禁断症状から抜けるらしい」

「そうか……」

「まだ瑞樹は軽いほうだと思う。心配すんなよ」

深刻な雰囲気を崩そうと、大悟は懸命に明るい声を出す。

将は、何を基準に『軽いほう』なのか、とも思ったが、大悟がそういうなら、と口元に笑みをつくってみた。

その試みはあまりうまくいかず、どうしても固い表情が崩せないのが自分でもわかる。

「滋賀だって新幹線に乗ればそんなに遠くじゃないぜ」

大悟は、自分をも励ますように、明るく言うと

「まあお前はミニ運転して来るんだろうけど……落ち着いたら遊びに来いよ」と付け加えた。

「ああ。近いうちに井口とでも行くよ」

とようやく答えた将に「センセーとでもいいんだぜ」と大悟はそっと囁く。目が笑っている。

将は、照れてひとしきり笑うと

「で、今日は、瑞樹は?」

と訊いた。

「荷物取って来るって、さっき自宅にいったん戻った。いちおう母親にも挨拶しておくって。

途中で焼肉合流して、将にも挨拶しておきたいとかいってたけど……そういや連絡遅すぎるな」

自宅、と聞いて、将は少し嫌な予感がした。

瑞樹の自宅には、瑞樹が忌み嫌っていた義父がいるのではないのか。

将の曇った顔を見て、大悟は将の心配がわかったらしい。

「母親がいるなら、義理父も無茶はしないだろ」

とフォローしつつも、

「ちょっと電話してみるわ」

と携帯を取り出して瑞樹に掛ける。

何回もコールがなったあとでようやく瑞樹は出た。

「瑞樹?」

「大悟……」

「どうした。何で連絡しなかったんだ」

「うん……」

的を得ない返答。どうも様子がおかしい。

「瑞樹、聞いてる?」

「聞いてるよ……」

「一緒に夕食食べるっていってなかったか?将いるよ」

しばし沈黙が流れる。

将の名前に対しての沈黙なのか。

大悟はやや舌打ちしたい気持ちのまま瑞樹の携帯が拾う周囲の音を必死で聞き取ろうとした。

規則的なリズムの轟音。列車に乗っているのか。

列車の轟音に、瑞樹の震える声がやっと混じる。

「……大悟、あたし……今日ね……。義理父とのこと、お母さんに見られちゃった」

第162話 血脈

星野みな子は、復活した放課後の自主補習に出席していた。

英語だけでいけば有名大学に合格できるレベルのみな子は、聡からもらった特製のプリントを机の上に広げている。

放課後の補習が復活してもう何日かたつが、みな子は以前のように勉強に身が入らなかった。

原因は……将と聡である。

今日は、将が欠席しているから少しはマシかと思ったが、やはり、補習のほうは、まるで身に入らない。

いつもは将と聡をかわるがわる観察するのだが、みな子の冷徹な視線は、今日は聡一人に注がれた。

軽くカールした、柔らかそうな栗色の髪を今日は下ろしている。

派手ではない化粧は黒目がちの大きな瞳をかえって際立たせている。

小さめだけど、厚みのある唇は健康なバラ色で、いかにも柔らかそうだ。

そして、固いパンツスーツを着ているのに、その下に息づく柔らかさがわかる張り出した胸……。

――あんなふうに駅で抱き合うぐらいだから、きっと二人は……。

聡の女らしい顔も体も、いやらしい、とみな子は思った。

あの髪を、将はかき上げるのだろうか。

あの瞳で将と見詰め合うのだろうか。

あの唇で将と口づけを交わすのだろうか。

そしてあの体で……。

みな子にそんな経験はないだけに、想像だけは、どんどん膨らんでいく。

――教師のくせに、生徒と寝るなんて不潔。いやだ。

みな子はうつむいて固く目を閉じた。

気がつくと、斜め前で兵藤ら、勉強ではなくて会話が練習したいという生徒相手に会話のレッスンをしているのが聞こえる。

しっとりとした低めの声になめらかな発音。男子にまじって楽しそうな笑い声。

その声で、将と愛を語るのだろうか……。

あのことを知るまでは、大好きだった聡。尊敬していた聡。なのに。いまは声を聞くのもつらい。

「星野さん、できた?」

目をあけると、みな子が座る机の脇に聡が立っていた。

いっこうに進んでいない英作文に、聡はかがみながら、みな子に顔をよせて

「これは、この構文を使ってみるといいわよ」

とみな子が持っている参考書を開けて示してくれる。

下ろしている髪のあたりから、甘い香りが、ほのかに漂う。

みな子は、思わずその香りにむせて窒息しそうになる。

「センセイ、臭い」

思わずみな子は口に出してしまった。声を落とさなかったので、まわりの生徒がこっちを振り返った。

「えっ?」

当の聡も、目を見開いて、のけぞるように身をおこした。

「香水、きつい」

みな子は聡の方を見ずに、冷淡かつ平坦な口調で言い放った。

「ご、ごめんね。つけてないんだけど。リンスかな」

あわてる聡に、後ろの席にいたチャミ&カリナが

「みな子、コワイしー」

「センセー、ぜんぜん臭くないよ。気にしなくていいよ」

とフォローした。

聡は、様子が変なみな子が少し気になったが、他の生徒も見てあげなくてはならない忙しさの中、すっかりそれを忘れてしまった。

 
 

寺の年取った住職は、10年も会ってないはずなのに、将を見るとすぐに

「鷹枝さんところの、将くんだね」

と気付いた。母の葬儀のときにお世話になっている。

小学生だった将も可愛がってもらった覚えがある。

将は住職におずおずと頭を下げた。将は住職に訊きたいことがあった……。

「ああ、あの花は、父上の康三さんだよ。毎年、命日には一人でいらっしゃってあの花を供えて手をあわせていくんだよ。どんなに忙しくても、ね」

将は寺の前の石段に腰掛けていた。住職はその上の縁に同じように腰掛ける。

二人に名残のように夕陽があたっている。それは時間が経つにつれて赤みを増していった。

住職はどこかの葬儀か法事にいったあとらしく、立派な長い僧衣を着ている。この衣からかなり位の高い僧であることがわかる。

将は、まだ腑に落ちなかった。

母の死の際に涙も流さなかった父である。よく似た他人ではないだろうか、とさえ思う。

しかし、反論の根拠も探せないまま、口をつぐんだ。

「将くんも大きくなったねえ。巌さんが言ってた通りだ」

巌、つまり曽祖父・ヒージーと懇意にしている住職は、将の死んだ祖父より少し若い。

「……ヒージー、なんでいってたの」

「自慢の跡取だっていってたよ」

住職の丸めた頭はまるで磨きこんだかのようにツヤツヤとして、夕陽を反射している。

かつて大きかったであろう目もこのように微笑むと皺に埋もれて、こうやって細めると皺と見分けがつかないようだ。

将は思わず、ハッと笑って言葉を返す。

「俺は継ぎませんよ」

「どうしてだね?」

住職は、目を皺のままにして訊き返した。

「どうしてって……。俺、家出てるし……」

将はいいよどんだ。

自分は見捨てられているのだ。いや、見捨てられるようなふるまいを自分から重ねているのだ。

跡取なんかでは、決して、ない。

「弟の孝太のほうが後継ぎにふさわしいでしょ」

将は、そっぽを向いて吐き出すように言った。

住職は、ため息をつくと、袈裟をひきずるようにして、無言で暗い寺の奥に消えた。

将は、帰っていいのか迷ったが、夕陽があまりにきれいなのでしばらくそこにいた。

柿の木に残っていた枯れ葉が、スローモーションのように将の前に落ちたとき、住職が奥から再び出てきた。

巻物を持っている。

住職は、巻物を将の前で広げた。

「鷹枝家の系図だ」

「へえ」

思わず将も覗き込む。住職は筆で書かれた系図を差しながら将に説明した。

「これが元薩摩藩士だった初代。……ここに巌さんがおる。亡くなった周太郎さん。そして康三さんだ」

「あ」

将は気付いた。康三の下に、自分の名前が書かれている。孝太の名前はない。

「そう。これはお前さんだ。ここには鷹枝家で15歳を越えた者の名前だけが記されている。……もう1つ気付かないか」

将はわからなかった。

「鷹枝家は、よほどのことがないかぎり、長子が家督を継ぐんだよ」

「で、でもオヤジは」

「そう。康三さんは三男じゃ。本来は康三さんの一番上のお兄さんが継ぐはずだったのだが、事故死されてな。

次男さんはそんなことがあると思わなかったのか、生まれてすぐに養子に出されているから、それで康三さんが継ぐことになったんだよ」

そういえば、康三の政界デビューは遅かった。

詳しく聞いたことがなかった将だが、そういう事情があったことを今日初めて知った。

住職はさらに隠された真実を将に伝える。

「康三さんは、将くんが生まれたとき、ことさら期待されていた。お母さんの環さんも結婚前は優秀な外交官だったから、先が楽しみだ、とね。

それで巌さんに頼んで『国家の将とあれ』という古い漢文からとって『将』と名付けられたんだよ」

将は、腰掛けているにも関わらず、地面が波打つのを感じた。

夕陽が……、沈んでしまう。血のような赤い色で。

自分の中に流れる血脈が重い。重く音を立てて流れる。

――ウソだ。

――ありえない。

――アキラ。アキラ、どうか、そばにいて。

急に混沌としはじめた思考の中で、将はひたすら聡を求めていた。

第161話 アネモネ

カーテンの隙間から、もう高くなった陽射しが差し込んでいる。

目を覚ました大悟は、隣で寝ている瑞樹の顔を見ていた。

青白いような色白に、とび色がかった髪。

……もともとの瑞樹の髪の色は生まれつきこんな明るい色なのだ。ショートカットは首を長く見せている。

こうして目を閉じているとハーフの少女のようにさえ見える。

ハケンを入れなかった日曜日。ひさしぶりに大悟と瑞樹は寝坊を楽しんでいた。

ちなみに、このマンションの部屋の主である将は、昨日から聡の部屋に泊まっている。

視線を感じたのか、瑞樹はゆっくりと目を開けた。

「ん……大悟?」

寝起きのせいかうるんだ瞳で大悟を見る。

「おはよう。瑞樹」

「……おはよう」

瑞樹は自分から大悟に腕をからめてきて、軽く口づけをした。

しかし、大悟は、それを返すこともなく、瑞樹の顔をただ優しく見つめた。

「もう起きる……?」

瑞樹は上目遣いで大悟に訊く。低血圧で貧血気味の瑞樹は朝が弱い。もう少しこうやって寝転がっていたいのだ。

大悟は、優しい目で瑞樹を見つめたまま首を横に振り

「もう少しこのままでいよう」

と瑞樹を抱き寄せた。

瑞樹は嬉しげに大悟のTシャツの胸のあたりに顔をうずめた。

「なあ……。瑞樹」大悟はポツりと呟やくように瑞樹を呼ぶ。

「ん?」

瑞樹は目を閉じて、大悟の胸に顔をよせたままだ。

そんな瑞樹の髪を大悟は撫でながら小さな声で、でもはっきりと言った。

「東京を離れないか」

瑞樹は思わず体を起こした。大きな瞳を見開いて大悟を見る。

「どうして……?」

その問いには答えずに、大悟は

「嫌?」

と訊きながら、瑞樹を見つめる。

瑞樹は自分を見つめる大悟の瞳の深い色をしばらく見つめ返したが、俯いた。

「私のためだよね。私が……クスリをなかなかやめられないから……」

瑞樹はつぶやくとまた大悟の横に自分の身を横たえた。

「東京を出て、どこに行くの?」

大悟は自分の傍らに横たわる瑞樹の肩を撫でながら、

「滋賀に……カップルで住み込みできる自動車部品工場があるんだ」

瑞樹はそっと目を閉じると

「滋賀か……琵琶湖のあるところだよね」

と呟いた。

「将と……離れたくないか」

大悟は思い切って言ってみた。

瑞樹は閉じていた目を開くと、大悟をまっすぐに見た。

「どうして……そんなこと、いうの?」

しばらく、大悟をじっと見つめたあと、瑞樹は震える声でつぶやく。そして

「将なんか……どうでもいい」

大悟にしがみついた。

だけど、大悟の胸に顔を押し付けるようにしていたのは、その表情を見られないためである。

瑞樹は動揺していた。

しかし、そろそろひきずり続けた将への想いを清算する頃だとも、自覚していた。

将への想いへの苦しさをまぎらわすために、瑞樹はクスリを使っていた部分もあるからだ……。

自分とよく似た境涯を持ち、自分を思ってくれる大悟と2人きりで、いっそ遠いところで、新しい人生をやりなおすのはチャンスかもしれない……。

しっかりとしがみついたまま、沈黙する瑞樹の髪から背中を大悟は優しく撫でていた。

それに答えるように、瑞樹は大悟の胸の中で

「滋賀でやりなおしたい……」

とつぶやいた。

 
 

卒業式が終わると、1学年分生徒が少なくなった校舎ながら、元通りの日々が始まった。

聡にとってはほぼ1ヶ月ぶりの教壇は、生徒からの歓迎をもって迎えられた。

映画や洋楽を使った英語の授業に、放課後の自主補習、金曜日の社会見学も復活することになった。

さらにこれらは、来年度から全校に取り入れようということに決まった。

特に聡がありがたかったのは、社会見学に学校の協力が得られるようになったことだ。

いままで見学先は聡の単独努力で見つけて交渉し、少ない学級予算の中から謝礼などを支払っていたから。

聡は、教える生徒がいることに、喜びを感じ、以前よりも教師という仕事に前向きに取り組もうと気分を新たにしていた。

将は……教壇の上でいきいきとしている聡を、最初、複雑な気分で眺めていた。

聡が、自分自身以上に将のことを思っていることはわかっている。

将の未来を誰よりも案じていることも。

だけど、17歳の将には『いま』聡と愛し合うことも、大事なことだった……。

 
 

そんな3月中旬に差し掛かったある放課後。

珍しく放課後の補習に将の姿が見えなかった。

――珍しい。

聡は少し寂しく思いながら、他の生徒に個別指導を行っていた。

いつもなら、最後まで残るのはザラ、聡が業務を終えて職員室から出てくるのを待っていることさえあった。

「ちょっと、ヤバいわよ」

聡が囁くと、ことさら大きな声で

「俺センセーの大ファンだしー。センセーと帰れてうれしーなー」

と他の教師に聞こえるように言う。そして声をひそめて

「あからさまにしたほうが、バレないって」

と聡にウインクする。

「んもう……」

呆れながらも、結局、二人で何度か、夕食まで共にすることもしばしばだった。

 
 

将は、とある寺に来ていた。鷹枝家代々の墓がある菩提寺である。

もうすぐ彼岸を迎えるこの頃、日はだいぶ長くなった。

放課後のこの時間も、寺の瓦や墓石に温かい色をした日光が差している。

だが、夕方に近づくにつれ、まだ春とは思えない冷たい風が時折、将に吹き付ける。

将はこの季節には少し早い、アネモネの花束を大事そうに抱えていた。

……今日、3月12日は、若くしてガンで亡くなった、将の母・環の命日なのだ。

毎年、心でそれを一瞬反芻するだけに留めていたのだが、今年は亡くなってちょうど10年になる。

なぜか、将は母の墓に語り掛けたい気がしていた。

そんな気持ちにさせたのは、まぎれもなく聡の存在である。

――大事なひとができたんだ。

将は母の墓前にそんな報告がしたかったのかもしれない。

将がひときわ鮮明に覚えている思い出。

それは、パリの幼稚園に、フランス人に混じって通っていた頃。

クラスに好きな女の子がいた。濃い栗色の髪に青い瞳を持った可愛いコだった。

たしか名前はロマーヌだっただろうか。

おませな彼女は、黒い髪の将に「あたしの髪とおそろいね。あんたカッコいいわ」と近づいてきたのだ。

小さかった二人は、あっというまに『ろま』『ショー』と呼び合う小さな恋人同士になった。

彼女は、両親が離婚していて父親に引き取られていた。

その父親も仕事の都合で外国に行くことが多く、ロマは15区に住む祖母の家に預けられていたのだ。

そんなロマが、将に「ママンに会いたい」と言い出した。

将は、ロマの願いを叶えるべく、「会いに行こう!」と手に手をとって歩き出した。

だが、ロマのママンの家は小さな二人には遠すぎた。

結局、暗くなってもたどりつけず、さりとて家にも帰り着けず。二人は路頭に迷ってしまった。

泣き出すロマ。将も泣きたかったが耐えた。そこへ警察がやってきて二人は無事保護された。

警察にかけつけた環は将をいきなりひっぱたいた。

『将!遅くまでどこに行ってたの!心配したのよ!』

そう怒鳴った。将は叩かれた頬が痛くて思わず涙ぐんだ。

次の瞬間、環は将を抱きしめて『無事でよかった』と泣きじゃくった……。

 
 

ちなみに墓参りには白い菊、という常識くらい、将とて知っている。

だがアネモネは将の母が好きな花だった。

パリに住んでいた頃、母はいつも街角の花屋でそれを買ってきて、食卓の上に飾っていた。

日本に帰ってきてからは、父の選挙で忙しかったのと、花が高価だったので飾られる頻度はぐっと減ったが、将は特徴あるその花をよく覚えていた。

死の3日前も……7歳だった将が病床見舞いに持っていったそれを、たいそう喜んでいた。

あのときも、こんなふうな午後の遅い時間だったと思う。

病院の白いカーテン、そして白い壁がほんのり橙色がかっていたのを覚えている。

看護婦によって活けられたアネモネは午後の光の中で……病院には場違いなほどに……赤や紫の鮮やかな花弁を輝かせていた。

「将、ありがとう。とってもキレイね」

それが、起き上がった母と言葉を交わせた最後だった……。

思い出すと、今でも涙が出そうになる。だから将はなるべく何も考えないようにして歩を進める。

この寺でひときわ大きな墓石の前で将は立ち止まった。そこには鷹枝家代々の墓、と掘り込んである。

花束を捧げようとした、将はあるものに気付いて、手を止めた。

墓の前には……すでにアネモネが活けてあったのだ。

ちょうど今燃え尽きた線香からは、名残の煙がまだ立ち昇っている。

将は体ごと今来た道を振り返った。しかし誰もいない。

母がアネモネを好きだったことを、将以外で知っているのは、他にはただ一人……父の康三だけだ。

まさか。母の死に際して涙を一滴も流さなかった父が……。

アネモネの花束を抱えた将に、ひときわ強い風が吹き付けた。

第160話 復帰

3月に入って最初の月曜日に卒業式があった。

全学年2クラスずつの荒江高校だから、生徒は全員出席だ。

暦の上ではもう春という今日、まだまだ寒い体育館に全校生徒が並んで座り、端の壁際に沿って全職員が座っている。

在校生として、卒業式に初めて出席する将の視線は、壇上の校長や卒業生からたびたび逸れた。

なぜなら、壁際に並んで座る教職員の中に、スーツ姿の聡の姿があったからだ。

 

聡が2年2組の担任に復帰することが生徒たちに告げられたのは、先週あった期末試験のあとのHRでだ。

兵藤の流血事件があった次の週から、ヤクザ京極は謹慎になり、毎日のHRは学年主任の多美先生が担当した。

それをきっかけに、将たちはボイコットを中止し、通常通りの授業に戻っていた。

たぶん聡が戻ってくるのだろう、という予想は生徒たちの噂でさんざん流れていたが、あらためて多美先生から告げられて生徒たちは皆ワッと歓声をあげた。

そんな中、複雑な表情をしている生徒が2名いた。

一人は……星野みな子だ。

バレンタインの前日に、抱き合う将と聡を目撃してしまった彼女である。

今日卒業式も、職員の席に座る聡と、斜め前方で他の生徒の上に横顔の半分が飛び出しているような将をかわるがわる見ていた。

その将の視線は、たびたび聡のほうに注がれているのは、みな子にもわかった。

もう一人は……言うまでもなく将だ。

「将、よかったな」

多美先生による告知のすぐあと、井口に背中をバンバン叩かれたが、それほど嬉しいわけではない。

なぜなら。二人はこれで担任教師と生徒に戻ってしまうからだ。

聡が山梨に行っている間、つまり将の担任教師という立場ではない間、二人の関係は随分進んでしまっている。

恋人同士としかいいようがない。

それを、止める、もしくは後退させることができるだろうか……。

将は、できない、と強く思った。

担任だろうと、何だろうと、聡は自分の最愛の恋人であることは変わりない。

だけど、聡は。大人である彼女は、立場やけじめを大事にする。

つまり、担任教師と生徒に戻ったということは、二人がこれ以上進展できるのが卒業まで延びるということを意味する。

将は……目の前で卒業証書を授与される3年に目を移した。

あと1年。自分があそこに立つまで、聡を抱くことは許されない……。

将は小さくため息をついた。

 
 

先週の週末。

大きな荷物を持って、山梨から引き上げてきた聡を将は出迎えた。

将は同じ週の頭に、半ギプスも取れて、ようやくステッキをつかずに歩けるようになっている。

彼が半ギプスが取れて最初にやりたかった1つが、車の運転だ。

マニュアルのローバーミニは運転に左足も使う。ゆえにギプスの間は運転をまったくできなかった。

将は意気揚揚と、ローバーミニを運転して新宿駅に向かった。

そして聡を乗せるとそのまま、彼女の家に泊まったのだが……。

「あのね。将」

聡はシャンパンの最後の1口を飲み干すとあらたまった。

将は、聡の復帰祝いにシャンパンを用意していたのだ。

聡の家にはシャンパンフルートがないのでワイングラスに注いで、いましがた乾杯したばかりだ。

「校長先生から注意されたの」

「何を?」

「将とのこと」

「えッ」

聡の隣に座る将は目をむいて聡を振り返った。即座に毛利の姿が頭に浮かぶ。

あのとき……そう。聡が突然転勤させられたとき、彼はたしか校長室にいた……。

「何ていわれたの?」

「将と個人的な関係か、って訊かれて……」

もちろん聡は否定した。仲がいいことは認めるけれど、決して『関係』などではない。と。

「そしたらね。一部の保護者から、誤解を受けているようだから、行動にはくれぐれも気をつけなさいって念を押されて。……いちおう、それだけなんだけど」

一部の保護者。間違いなく毛利だろう。

「そんなこと、気にすんなよ。恋愛は自由だろ」

そういう将に、聡は哀しげに首を横に振った。

「たしかに、恋愛は自由よ。だけど担任教師になったからには、他の生徒への立場や影響があるし……」

聡は、高校時代の自分を思い出していた。同級生と教師の恋愛を不潔だと思っていた自分に。

「だから、校長先生の言い分ももっともだと思うんだ」

「アキラ……」

将は目を伏せた。そして自分でシャンパンを注ぐと、それを喉をそらすようにしてぐいっと飲み干すと、聡の目を見据えて言った。

「俺、学校辞めようかな」

「将、何いうの……」

聡も目を見開いて将を見つめた。

「だって、そうだろ。担任と生徒の関係がダメなら、俺が生徒じゃなくなればいい」

「将……」

絶句した聡に将は腕を伸ばして、柔らかく抱きしめる。

「アキラ。俺、アキラのためなら学校なんて全然惜しくない」

言葉に呼応するように将の腕の力がだんだん強くなっていく。

「……だめよ」

将の匂いと体温に包まれた聡は、一瞬それに酔った。だけど、自分にからめられた腕を解いて、将の目を見る。

「せっかく2年続けられたんじゃない。高校は卒業して……。ううん、大学にも行って」

「アキラ……」

「私だって、将のためなら何でもできるわ」

将が、だったら二人で、と言いかけるのを聡は止める。

「将。私は、将の未来を潰したくないの。二人は、今だけじゃないのよ。ずっとずっと続く長い人生に比べたら、卒業までの1年なんて……」

聡はそういうが、将にとっては1年は永遠のように長い。

「アキラ、アキラは卒業まで俺と会わない、っていうの?」

将は思わず声をふるわせた。

「学校で毎日会えるじゃない」

「いやだ!」

将は聡の体を再び抱きしめた。今度は渾身の力を腕に込めるように強く激しく。

「俺、アキラとこうやって抱き合えない状態が1年も続くなんて耐えられないよ!……やっぱり学校を辞め……」「将」

絞り出すような将の声に対して、聡の声は低く冷静だった。

「私を口実にしないで」

「アキラ?」

将は思わず、聡の肩を掴んで自分の体から離すと、その顔を確認した。

聡も……、双眸を見開いて将を見据えていた。

「学校や受験から逃げる口実にしないで」

「何いってる……」

将の唇は言いかけて止まる。聡の見開いた瞳から涙がこぼれたからだ。

「お願い。将。辞めるなんて言わないで……。私、私のせいで、将の人生を台無しにさせたなんて後悔したくないの……」

「ア、アキラ……」

「私、将が学校を辞めるなら、別れる!」

聡は、ついにそう言い切ってしまった。見開いた目も、眉も唇も歪んでいる。その歪んだ眼から涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。

「ふっ……、ううっ……」

歪んだ口元から嗚咽が漏れた。いつのまにか肩で激しく息をしている。

ついに聡は顔を手で覆ってしまった。

別れる、という言葉を口にしてしまったことに、自分が傷ついたかのように……。

将は聡から告げられた突然の『別れ』という単語に呆然としていた。

「私、将と別れたくないよ……。ずっと一緒にいたいよ……」

聡は顔を覆っていた手をはずすと、涙でぐちゃぐちゃになった顔で、将を見上げた。

「アキラ」

聡が将の胸に寄りかかってくるのと、将が聡に手をのばすのとがほぼ同時だった。

「将……。私、自分より将が大事なの……」

聡の吐息のような告白に、将も目が熱くなった。

結局、『別れ』まで持ち出して、学校に行かせたい聡に、将は従わざるを得なかった。

だけど、週末だけ、ばれない様にするから恋人として会いたい、と将も泣きながら訴えた。

聡は、それについては黙って頷いてくれた。

 
 

卒業式も無事終わり、まだ桜の蕾も固い学校の前では、しきりに卒業生と在校生が写真を撮影しあったり、恒例のボタン争奪戦が行われていた。

青い空に負けずに卒業生の顔が晴れやかなのは、月末に振り込まれるキャッシュバックのおかげでもあるだろう。

将も、上級生の女子から、撮影申し込みの激しい攻勢を受けていた。

背の高い将は、上級生の女子と並んでも見劣りなどもちろんしない。

逆にぽっと顔を赤らめる、上級生の女子のほうが、年下に見えるほどだ。

そんな様子を微笑ましく見ていた聡は、多美先生から声をかけられた。

「古城先生、京極先生への引継ぎはどうでした?」

「ハイ。とてもスムーズに終了しました」

京極は、山梨の新学校の校長に元通り収まったのだ。

先日、聡と入れ替わりになるように山の学校にやってきて、聡から引継ぎを受けている。

彼だけでなく、3月からは何人か教員も山の学校に入り、本格的に準備をすることになっている。

「それにしても、私たちも驚きましたよ。彼に英語教育の経験がまったくなかったなんて……」

多美先生が頭を掻いた。

「ええ。もともと経営畑の方なんですってね。社会人向けに、自己啓発セミナーをされてたって私も聞きました」

聡は、京極が言ったそのままを伝えた。聡が接した京極は、外見ほどに恐ろしくはなかった。

「校長や教頭も、何でそんな人を英語担当にしたのやら……。そりゃうちは私立だし、別に教員免許は不要といえば不要ですが……」

多美先生は苦笑いをした。

多美先生はそれが将の父・鷹枝康三の秘書の毛利からしくまれたたくらみだということは知らない。

 
 

当の毛利は、随分前に博史からメールを受け取っていた。

『例の件はもういいです。ご迷惑をおかけしました』

「フン。だから男女のことは……」

とメールを一瞥した毛利は呟いた。

男女のことは、やはり、ハタであれこれやったところでどうにもならないのである。

結局、博史と将の女の取り合いは、将が決定的勝利をおさめたらしい。

毛利が、それでも『どうにもならない男女のこと』に手を突っ込んでいたのは、

キレた博史がマスコミなどに官房長官に不利な情報を垂れ込むことを恐れたからであって、

その危険がなくなったのならもうどうでもいいことだ。

毛利は、返信もせずにノートパソコンを閉じると、席にふんぞり返って、若い秘書に茶を持ってくるように言った。

 
 

「京極先生も生徒に舐められるまいと必死だったそうですね」

聡は微笑んだ。卒業生の担任ら屈強教師たちも今日は、相好を崩して生徒たちと写真に収まっている。

「ハァ。それだけじゃないと思いますが……」

多美先生は、松岡飛び降り事件の際の京極の言動を一瞬思い出した。が、わざわざ聡に伝えることもないと

「新しい学校で彼は?」質問に切り替える。

「特に科目は持たないそうです。学校運営と、全寮制ですので生活態度とかそういう方面をビシビシと鍛えるそうです」

「そうですか……。それにしても、古城先生、いや、アキラ先生が戻ってらして本当によかった。がんばってくださいよ」

多美先生は聡の肩をぽんと叩いた。ターミネーター顔に柔らかい皺が刻まれた。

第159話 バレンタインデイ・キス

聡は駅前のカフェに入るとあたりを見回した。将の姿を探す。

「アキラ!」

ソファの席で手をふる将をまもなく見つける。

本当は、人目がなければ抱きつきたい今の聡だが、こらえて小走りで駆け寄るだけに留める。

「あ……」

今日はジーンズ姿の将の隣には、子供が座っていた。

小学校低学年ぐらいのその男の子は、聡の姿を見つけると行儀よく、ぺこっと頭を下げた。

……将に似ているその子は見覚えがある。

あれは、将と初めてのデートで行った、夕食のフランス料理店だった。

『弟さん?』と聡が問う前に、将が

「ゴメン、アキラ。どうしても付いていくって聞かないんだ」

済まなそうに説明した。聡は、隣のソファに腰掛けながら

「こんにちは。お名前は何ていうの?」

と優しく訊いた。

「たかえだ・こうた、K大付属小学校1年です!」

と元気よく答える孝太に、聡も

「こじょうあきらです。よろしくね」

と自己紹介する。

「アキラ、本当にゴメンな」

手をあわせて、本当に困っている将に、聡は

「いいよ、別に」と笑顔を返すと、孝太に

「孝太くん、どこ行きたい?」

と身をかがめるようにして、孝太に訊く。

「ぼく、……遊園地にいきたいな」

孝太はやや遠慮がちに、言うと、伺いを立てるように上目遣いで将を見る。

「遊園地、行こうか」

聡は、孝太の頭をなでながら答えると、将にも「いいよね」と訊く。

将は、ふん、とため息をつくように頷くと

「遊園地行ったら、大人しくおうちに帰るんだぞ。わかったな」

と孝太に念押しをした。

孝太は、こっくりと頷いた。話は決まった。

 
 

遊園地といっても、子供連れだ。

ネズミ系や絶叫系のいわゆるテーマパークではなく、3人は昔ながらのベタな『遊園地』を選んだ。

「キャーーー(聡)」

「わああああ(孝太)」

あまり怖くないとされる、マイルドな傾斜と捻りが入ったジェットコースターだが、聡と孝太が並んで歓声をあげている。

後ろの席では、一人で座った将がむすっとして万歳をしていた。

孝太を一人で乗せるわけにはいかず、将と聡でジャンケンをして聡が孝太の横になったのだ。

「怖かったねえー!」

嬉々として聡と手をつないでいるのは孝太だ。将はそのあとをブスっとして、ステッキを付いて歩く。

「本当、案外怖かったね、将」と聡が振り返ったときだけ

「……そうだな」と笑顔をつくる。

中学時代、無免許でバイクを乗り回していた将には、あの程度のスピードや捻りはどうってことはない。

薄曇りだった空には薄日が差していて、2月にしてはほんのり温かい。

梅がちらほら咲き始めていた園内には、家族連れのほかに、バレンタインデーというのもあり、カップルの姿も目立った。

「お兄ちゃん、次はあれ!」

孝太が指差した先には、お化け屋敷があった。

「……二人で行ってこいよ」

将は、さも面倒くさそうに、傍らのベンチに座った。梅がいい香りだ。

「お兄ちゃん、怖いの?」と孝太が無邪気に訊く。

「ハ?」

「怖いんだー」と聡まで笑う。

「ばっ、バカいえ。わかったよ、行けばいいんだろっ!行けばっ」

将は立ち上がると、ステッキを付いて、いきおいよく先に歩き始めた。

お化け屋敷に入るなり、何も見えない暗闇が数メートル続いた。

「将、足元大丈夫?」

聡が将に声を掛ける。こうなんにも見えないと、ステッキを使って歩く将は歩きにくいだろう。

「全然、大丈夫だよ」

と将が答えたとたん、稲妻のような光があたり、目の前に恐ろしい形相の親子の幽霊が3人現れる。

「うわああああーっ!(将・孝太)」

将は驚きのあまり、バランスを崩しそうになる。

半ギプスの方の足は筋肉が衰えていて、とっさのときにふんばることができないのだ。

それを後ろから聡が支える。

幽霊はすぐに消え、ふっと、また暗闇に戻る。

「大丈夫?将」

背中に聡の手を感じて、将はホッとする。心臓はまだドキドキとしている。

「……鏡だよ」

と聡がつぶやいて、

「なんだよー、あービックリした」

と急激に落ち着いた将は、まだドキドキの余韻を感じながらも、

――この暗闇に乗じて聡とキスできるじゃん。

と思い直す。そして手探りで聡の体を引き寄せようとした。

が、そのとき、ごく薄い照明が復活し、将はがっかりした。

以降しばらくは、人が扮した幽霊や妖怪の登場が続く。

急に登場するのに驚くだけで、あまり怖い、というわけではない。

しかし、さっきから心臓はかなりフル稼働だ。

「アキラ、冷静だな」

将は、気味悪い照明に浮かぶ聡に話し掛けた。いつのまにか、聡は将の腕に自分の腕をからませていた。

「え、結構驚いてるよ」

と振り返った聡は。

――顔が、ない!

「わあああ!(将)」

体中に衝撃が走った将はビクッとあとじさって、尻餅をついた。

尻餅をついた将に、聡はあわてて駆け寄る。お面をはずして。

「お兄ちゃん、大丈夫?(孝太)」

「ごめん、足、大丈夫?(聡)」

「なんだよー、アキラ……」

「お化けの一人にもらったの、これ」

聡はいたずらっぽい笑顔で、のっぺらぼうのお面を将に見せた。

「くっそぉ、あとで、覚えとけよ。おしおきしてやるからな」

将は悔しそうに立ち上がった。

ようやくお化け屋敷を出ると、薄曇りながら空が眩しく感じる。

「あんまり怖くなかったね」と孝太が手をつないだ聡を見上げる。

「そうね。将が一番楽しんでたね」と聡は将を振り返る。

将は、いよいよブスっとして二人の後をステッキをついて歩いていた。

あのあとも……、再び真っ暗になった中で、聡にキスしようとした将に、いきなりぐにゃっとしたものが飛んできたりなど、結局将がいちばんビックリさせられたのだ。

 
 

「わーい!」

メリーゴーランドに乗って歓声を挙げている孝太に、手を振る聡。

「大丈夫?将」

聡は、隣で、手すりにもたれてぐったりとしている将を振り返る。

「ああ……」

実はあのあと、コーヒーカップに乗った3人だが、孝太が面白がってカップをぐるぐる回したので、将はすっかり気分が悪くなってしまったのだ。

「俺、スピード系は大丈夫だけど、回転系はダメ……」

とヘロヘロだ。将は

「遊園地でよかったの?デート」

傍らの聡に訊いた。もっと大人っぽいところで、語らいたいのではないのか。

と将は気分が悪いながらも、聡に気遣ったのだ。だが、聡は深く頷いて

「うん。大声で笑いたい気分だったから」

とぐったりした将の髪を撫でた。

聡の優しい指を感じながら、将は訊く。

「博史とは……」

訊きながら、蛇足だな、こんな質問は、とも思う。

「うん……ちゃんと、終わったよ」

案の定、聡はキラキラとまわるメリーゴーランドに視線を浮かべながら答えた。

その横顔は、少し寂しげながら、憑きものが落ちたような晴れやかさが漂っていた。

――これで、アキラは俺だけのアキラ……。

将の朦朧とした頭の中で、今はそれだけが嬉しい。

 
 

メリーゴーランドを終えて、3人は焼きそばの昼食を食べた。

ふだん食べることのない、庶民的なソース焼きそばの味に、孝太は「おいしい!」と食欲旺盛だった。

将もようやく復活し、午後もソフトクリームを舐めながら動物を見物など、休日の遊園地を満喫する。

「ちょっと疲れたね」

聡がもらしたのは、もう午後も遅い時間だった。

薄曇りのまま赤みがかってきた空はすでに夕方の気配だった。

「じゃ、最後はあれで休憩しようか」

と将が指差したのは、観覧車だ。

昼食以外ずっと広い園内を歩き回っている。

普通に歩いていても疲れるが、ステッキをついた将はやや疲れが早い。

同じくヒールのブーツを履いていた聡も疲れているようだ。

「うん……」

なぜか神妙にうなづく孝太。

その理由は、乗ってしばらくしてわかった。

かごの中のベンチに、将と孝太が並んで座り、聡がその向かいに腰掛ける。

3人を乗せたかごは、ゆっくりと上へ登っていった。

「わー(聡)」

「結構眺めがいいなあ(将)」

それほど高度がある観覧車でもないが、かごは徐々に視野の面積を増やしていった。

うっすらとピンクがかった午後の空に近づいていくようだ。

はしゃぐ二人をよそに、孝太は外をみようともせずに、俯いている。

「こうやって見ると、将と孝太くん、本当に似てるよね……将の小さいころもこんな風だったのかな」

聡は、並んで座る将と孝太を見比べた。

孝太は、将に似てるといわれて嬉しいはずのに、ちょっと笑っただけでまた視線を下に戻した。

「孝太くん?」

「あ、お前ひょっとして」

そう。将が気付いたとおり、孝太は高所恐怖症だったのだ。

かごが高くなるにつれて、孝太は目をつぶって、小刻みに震え始めた。

そこへ。

ぐらっと、3人を乗せたかごが揺れた。

すでにかなり高いところに来ているので、やや強い風がかごに吹き付けたのだ。

「怖いよう!」

ついに孝太は将にしがみついた。

将と聡は顔を見合わせて微笑む。

「ほら、孝太。ここに座れ」

将は腰掛けた自分の両膝を広げると、その空間に孝太を座らせた。

そこにすっぽりと収まった孝太の目の上に、将は両手をかぶせた。

「これで、見えないから怖くないだろ。もし落っこちてもお兄ちゃんが捕まえてやるからな」

「うん……」

将に目隠しされた孝太は神妙に、自分の膝の腕に両手を置いている。

聡は、自分の膝の上に頬杖をついて、そんな将と孝太を微笑ましく眺めていた。

かごの中に、午後の名残の薄日が差し始めた。

もうすぐ、てっぺん。最高地点だ。

将は、聡にあごをしゃくって合図をした。

隣に座れという合図だ。

聡は、かごが揺れないように気をつかいながら、そっと将の隣に座りなおした。

「てっぺんだ……」

将はつぶやくと、孝太の目を両手で覆ったまま、首を聡のほうに伸ばして目を閉じた。

薄桃色の雲に一番近い地点。

聡も……、将のほうに肩を乗り出すと、将の唇に、そっと自らの唇を重ねた。

第158話 バレンタインの別れ

午前4時ごろ、大悟は目を覚ました。

傍らで、いつのまに帰ってきたのか、瑞樹が眠っている。

……1時すぎにいったん起きたときは、まだ帰っていなかったので、帰宅はその後だろう。

スタンドを点けたのにも気付かずに、すうすうと寝息を立てて深く眠っているところを見るとよほど疲れているのだろう。

と、大悟は自分の枕もとに、紙袋を見つけた。かなり大きい。

『大悟へ』

とハートマークを添えた宛名。大悟は、包みをとりあげると、開けた。

音を立てないように、と思ったのだが、紙袋なのでガサガサとかなり大きな音がしてしまう。

しかし、瑞樹は目覚めることもなく眠っている。

中には……バッシュとTシャツが入っていた。もちろん新品だ。

靴の中に筒状のメッセージがリボンで止められていた。

巻紙のようなそれを開く。

>>>

 Dear大悟

 靴がボロボロだったんで、使ってね

 大好き。いつも感謝してるよ

    ミズキ

>>>
 
短いメッセージ。あまり上手とはいえないけれど、手書きで一生懸命書いたのがにじみ出ているような字。

大悟は、安堵のため息をついた。

瑞樹がまだ将のことを好きなのでは、という疑惑を大悟は心の底で抱かずにはいられなかったのだ。

そんなことはない、と自分に言い聞かせれば言い聞かせるほど、疑惑は大悟の心の奥深くに地下茎を張っていった。

もちろん、将のほうは聡に夢中で、瑞樹のことなど、もうとっくに眼中にない、というのはわかっている。

だいたい将がいなければ……将がここに置いてくれなければ、自分はどうなっていたのか。

愛知でいつまでも我慢を強いられていたか、路上で再び犯罪に手を染めるか……どっちにしても最悪の暮らしをしていたことには違いない。

だが、将が感謝すべき対象であればあるほど、大悟は将に対して、瑞樹に関する劣等感で、苦しんだ。

さらに親友に対して、そんな風な醜い感情を持つ自分が息苦しかった。

そんな苦しみから……瑞樹からのプレゼントとメッセージ1つでかなり解放された。

「瑞樹……」

大悟は、呟くと、眠っている瑞樹の額に口づけしようとして、直前でやめる。

――風邪をうつしたらいけない。

瑞樹の肩が毛布から出ているのを直そうとして、大悟はハッとした。

同じように毛布から出ている右手首に、何か縛った痕跡のような痣を見つけたからだ。

大悟は、腕に顔を近づけてまじまじと見た。

瑞樹は右利き、注射痕があるのは左手首だ。その反対側の、白い華奢な右手首にぐるりと何かを巻いた跡のようなものは、やっぱりある。

あまつさえ、少し擦れたような擦り傷もある。

「瑞樹、お前、何やってるんだ……。何をしてバッシュの金を稼いだんだ……」

大悟は小さく呟くと、瑞樹の額にかかる髪を撫でた。

 
 

翌土曜日、バレンタインデーは薄曇りだった。そんな天気のせいか、少し寒さが緩んだ午前中。

聡はとある、お洒落な人が集まるとされる街にやってきていた。

博史と待ち合わせたのは、通りに面した新しいファッションビルの2Fにある、ガラス張りのカフェだった。

午前中であることもあり、店内は客も多くなく、静かだった。

博史は先に来ていて、窓際の席にいた。聡を見つけると軽く手をあげた。

その柔らかい笑顔は、二人が別れたことも、先日聡を殴ったことも忘れそうになるほどだった。

だけど聡は、決意も新たに、きゅっと唇を結んで、博史の対面に座った。

博史の前にコーヒーが置かれているのを見て、聡はオーダーを取りに来た店員に

「アールグレイを」

と、紅茶を頼む。

それぎり……何も話すことがなくなる。

博史は、テーブルに両腕をついて、遠くを見ているような、そんな目で、ただ聡を見つめている。

聡を見ているようで、聡の中の思い出を懐かしんでいるような、そんな瞳。

聡は見つめ返すわけにもいかずに膝に手を置いて、何をみるともなく視線を斜め下に置く。

店員が紅茶を持ってくるまで、気まずい沈黙は続いた。

テーブルの上に置かれたアールグレイの香りが、聡のところまで届いたとき、博史が口を開いた。

「覚えてる?ここ」

あくまでも優しい口調。

「……え?」

初めて来る店だと、聡は思っていた。

「ここ、前は違うビルが建ってたんだよ」

それを聞いて、やっと聡は思い出した。

前建っていた雑居ビル。その地下にこぢんまりとした和食屋があった。

そこは……聡が留学を終えて帰国した年の年末に、二人が初めて国内で食事した場所だった。

「思い出した? あの店、最高に不味かったよなあ……」

博史はさも可笑しそうに言った。聡も思わず「そうね」と微笑んでしまった。

 

あのとき。年末、久しぶりに帰国する博史は、留学を終えた夏休みに先に帰国していた聡にメールで

『和食が食べたい。どこか探しといて』

と頼んだ。まだ女子大生だった聡は、よくわからなかったから、情報誌を見て一生懸命探した。

だが、せっかく見つけ出した店なのに。

情報誌の写真は美味しそうだったのに、実物はウソ、といいたくなるほど不味かったのだ……。

帰り道、聡は、泣きそうになりながら

『せっかく楽しみにしてたのに、ごめんね』

と謝った。博史は、そんな聡に頬を寄せて

『アキのせいじゃないだろ』

と優しく囁いた……。

 
 

「あのときの、聡、可愛かったなぁ……。べそべそ泣いちゃって」

博史は、微笑んだまま、窓の外に視線を移していた。

まるで窓に当時のようすが映し出されているように、細い目を糸のように細めている。

聡は、押し寄せる思い出に、思わず胸がしめつけられるように、苦しくなって俯いた。

好きだった博史。

優しかった博史。

何の落ち度もない博史を傷つけなくてはならない、いや、もう傷つけている。

聡は、波のように打ち寄せる記憶に抗うように、バッグから婚約指輪のケースを取り出した。

ケースは、元通り紙箱に入っている。

「あの……これ」

聡は紙箱に入ったリングケースを博史の前に出した。

「ああ……。好きに処分してくれていいのに」

博史は、それを見たとたん投げやりに言った。

聡は首を振って、箱から離した手を元通り膝の上に置いた。

博史の給料3か月分、といえば相当高価なものだ。

その高価な指輪は、所在無くテーブルのやや博史よりの中央に置かれたままになった。

「お義母さまは、その後……」

聡は博史を盗み見るように見ながら訊いた。

「来週、退院できるみたいだ」

「そう……よかった」

指輪を出してしまい、気になることを訊いてしまうと、本当に話すことはなくなった。

ただ、いたずらに時は過ぎていく。

防音ガラスなのか、通りのクラクションも、店内ではBGM程度だ。

聡は冷めてしまったアールグレイをほんの少し口にすると、それをソーサーに置いた。

本当に幕を引くときだ、と覚悟を決める。

「博史さん……。本当にごめんなさい」

博史はだまったまま、窓の外を見ている。

さっき思い出話をしているときに糸のようになっていた目をやや見開いて。

「それから、ありがとう」

「何が」

博史は思いがけないところで、振り返り、訊き返した。

見開いた白目が少し充血しているように見えた。

聡は、とまどった。

「……いろいろ。楽しい思い出……とか」

やっと答える。声が震えてしまう。

「俺は。お礼をいわれるようなことを何もしてないよ」

博史は、そう言い放つと再び窓の外に目を移した。

「そんな……ことない」

抵抗しながら、聡は急激に目が熱くなってくるのを感じた。

「博史さんは、よくしてくれたよ……」

もう耐えられない。聡は下を向いた。急激にあふれた涙がぽとぽとと膝の上に落ちる。

「聡が泣く必要はないだろ……。泣きたいのは俺のほうだ」

そんなことを博史が言うのを初めて聞いた。博史は、まばたきをして窓の外を見ている。

たぶん涙を堪えているのだろう。

こんな風につらそうな博史も初めて見る。博史は……聡の前ではいつも、余裕のある大人だった。

こんなときに、聡は初めて、もう1つの生身の博史に触れた気がした。

だけど、もう終わりなのだ。

哀しみを顕にする博史と思わず別れがたくなるけれど、聡はハンカチを取り出して、涙をぬぐう。

「私……なんかより、もっといい人を、見つけて」

博史は、やりきれないように、ふっと笑うと、

「そうだな」

と低く呟いた。そして

「もう、行けよ。鷹枝くんが待ってるんだろ」

と聡を促した。聡は、行ってはいけない気がした。

だけど、もう一度涙をぬぐって、うなづくしかない。

立ち上がると聡は、最後にもう一度、頭をさげた。

「ごめんね」

それが聡の最後の言葉だった。

 

博史は、窓の外を眺めるふりをしていた……去っていく聡を見るのがあまりに辛かったから。

だけど、最後に、もう一度。

「聡」

博史が、やっと店内を振り返ったとき、聡はもう、いなかった……。

 
 

お代わりのオーダーを取りに来た店員に、博史は煙草を頼んだ。

それをその場では吸わずに、博史は店を後にすると、車に乗り帰途につく。

もう博史は、煙草を辞めて7年にもなる。

信号待ちで、ようやく店のマッチで煙草に火を点ける。

ひさびさの煙草の煙は、あっという間に車の中に充満し、目に沁みる。耐えられず博史は窓を開けた。

博史は、本当は……聡と将を許すつもりはまるでなかった。

とことん、邪魔をしてやっていい、とすら思っていた。

訴えてもいい、とも。

母が持ち直したあとも、そんな気持ちは持続していた。だが……。

「聡さんを許してあげなさい」

博史の母・薫は、日曜の夕方、目を覚ますなり、ベッドの脇に立つ博史に苦しい息の下で言ったのだ。

「おふくろ」

「聡さんを……責めないで……」

そういったきり、薫は再び目を閉じた。

その真意を、健康状態を持ち直した母から、博史が聞けたのは、火曜だった。

「私もね。婚約していた人と別れてしまったことがあるの」

薫は、ゆっくりと博史の父の慎一と結婚する前のことを話し始めた。

その婚約者はとても優しかった。交際は順調にいっていた婚約者だが、その父が経営する会社が突然倒産してしまったのだ。

「ついていくべきだとも思ったけど……。結局、私のほうから離れてしまったの」

母の告白を聞いた博史は、他の男に気持ちを移した聡の場合とは事情が違う、とそのときは反発した。

だけど、病床からの母の懇願をきっかけに、博史の心は急激に溶けていった。

憎しみや恨みが溶け去った博史の心には、ただ哀しさが残った。

自分でも気付かなかった……聡への想いの残骸のごとく、車の中は、紫煙がうっすらと残っている。

それがしつこく、博史の目をちくちくと刺激する。

 

『原田さんの恋人になりたいです!』

4年半前、サンフランシスコの空の下、突然現れて告白してきた若い聡。

当時、博史には、アメリカ人の恋人がいた。

そんな風に現れた聡を、当初博史は、その恋人とうまくいっていなかった空虚さを埋めるだけの存在だと思っていた。

ひとたび抱いた後は、そのグラマーさと若い感性を持つ肢体に溺れた。

だが、自分から結婚を申し込んでいながら……代わりはいくらでもいると思っていた。

単に、ルックスとか抱き心地、語学堪能とか学歴など……スペックがいい、と彼女を選んだのだ、と思いこんでいた。

なのに。彼女に去られての、この孤独感は何なんだろう。

結局、自分は、聡の心をつなぎとめておくことができなかったのだ。

いや、心といえるほど、そもそも聡と繋がっていたのか。

聡は自分を慕ってくれていた。それに酔っていただけではないのか。

自分は聡のことを、どれだけ知っていただろう。

――年に3回の逢瀬しかできなかった恋人じゃしかたないじゃないか……。

博史は、異国で働かなくてはならない自分の境遇を恨み、憐れんだ。

『私なんかより、もっといい人を、見つけて』

最後に聡はそういった。

博史も、聡がたとえ去っても、すぐにもっといい女を見つけられる自信と余裕をいつも備えている、と思っていたのに……。

「あきら……」

声に出さずに、咥えた二本目の煙草の煙で呟く。

すれ違う車のように、二人の思い出が、博史の前に次々と蘇ってくる。

いつのまにか、思ったよりずっと広い面積で、聡は博史の心を占領していたのだ。

日本に帰国する喜びは、実は聡に逢える喜びがその大半を占めていたのだ……。

――今ごろ気付いてどうするんだ。

博史の細い目には、いつしか涙がにじんでいた。

7年ぶりの煙草は、涙の言い訳のためかもしれなかった。

第157話 弟と入浴

湯船に浸かっていた孝太は、入ってきた将を嬉しそうに見上げた。

「ちゃんと洗ったか」

将の問いにも元気にうなづく。

「そうか」

「お兄ちゃんとお風呂に入るの初めてだね!」

「バカいえ。お前が覚えてないだけで、2歳ぐらいのころずいぶん面倒見てやったんだぞ」

「そうだったね」

といいながら、孝太は腰掛に座る将の裸の全身を見回した。

流線型の筋肉が浮き出た肉体は、冬で多少褪めたとはいえ、浅黒い褐色だ。

それが、徐々に白い泡で包まれていく。

孝太は、将がシャワーをあびて、軽く体を洗う一部始終を珍しそうに見ていた。

将は、何で、とも思ったが、思い当たった。

父が忙しい孝太は、男性と風呂に入ることがない。

だから大人の男のハダカが珍しいのだ……。

将もヒージーの家に預けられるまではそうだった。

『人の体をあんまり見るな』と注意しようとも思ったが、まあいい。

将は孝太の視線を気にせずに湯船に浸かった。

「ふー」

クナイプの入浴剤が入った黄色っぽい湯は将で増えた体積分、湯船からざざーっとこぼれ落ちた。

将は入浴剤の香りに憩いながら湯船のふちに寄りかかった。

マンションの浴槽としてはかなりゆったりつくってあるので大男の将と子供が入っても、それほど窮屈ではない。

「お兄ちゃん。大きくなったね」

普通大人が子供に言う言葉を孝太のほうが口にした。

「あー。孝太ももうすぐでっかくなるぞー」

将は湯船の両ふちに両手をかけて、適当に答えた。

「違うよ。おちんちんがだよ」

孝太はいたずらッ子の目をくるっと動かしてこっそり言った。こんな顔を孝太がするのは珍しい。

「ハァ?」

将は一瞬目をむいたが、『コラ』と孝太に軽く湯を飛ばした。手でつくる水鉄砲である。

湯を飛ばされた孝太は、嬉しそうに反撃してきた。

しばし、水鉄砲合戦になる。

将は、かつて、同じように風呂の中でヒージーにならったお湯の飛ばし方のいくつかを孝太に伝授した。

最初はうまく飛ばなかった孝太だがすぐに要領を得て遠くまで飛ぶようになった。

「……お兄ちゃん、おうちには、もう帰ってこないの?」

ひとしきりびしょぬれになって、二人は並んで湯船のふちにつかまるようにしているときだった。

「ん……お兄ちゃんはもう大人だからな」

将は、孝太を優しい目で見た。

湯船のふちに並んでいる将の手と孝太の手を見比べる。

孝太のそれは将と比べるとかなり小さくて色白だ。

それでもモミジのようだった頃から比べると確実に成長している、と将は思う。

今も可愛いが、輪ゴムを腕や足にいっぱいくっつけたような赤ん坊の孝太は、本当に可愛らしかった。

懐かしく思い出している将に、孝太が言った。

「ぼく、お兄ちゃんともっと一緒にいたいな……」

そんなことを言われると、少し孝太がふびんになる。

こうやって兄に甘えたいほど、今日の孝太は寂しいのだろう。

「孝太、頭あらってやろうか。な?」

将は湯船からザバッといきおいよくあがった。

そんな将の裸の背中から尻に孝太の視線が集まるのを感じた。火傷のあとを見ているのだ。

「ぼくのほっぺたと同じ火傷」

遅れて湯船のふちをまたぐ孝太はそんなことを言った。

「ぼく、覚えてるよ、あのときのこと」

「そうか」

将はに孝太の頭にシャンプーを垂らした。

お互いトラウマを掘り返すこともない、と聞き流すことにしたのだ。

水鉄砲合戦でびちゃびちゃになった孝太の頭は新しく濡らす必要はない。

将は指に優しく力をこめて孝太の頭のシャンプーを一通り泡立てると、自分で洗ってみるようにうながす。

「おにいちゃんを置き去りにして、おかあさんは、おとうさんに怒られてた」

今度は自分の頭を泡立て始めていた将、思わず手を止める。

「おとうさんが? 火事のときは仕事でいなかっただろ?」

孝太は目をつぶって、自分の頭にコシコシと指をたてながら、

「ううん。おとうさんいたよ。すごく大きな声でおかあさんに『バカッ』って言ってた。なんでお兄ちゃんを置いてきたんだって。

それで、火の中に入ろうとして、止められて、お兄ちゃんを呼んで泣いてた」

将は、風呂場の鏡にうつる自分の顔を見つめた。

父に似ているといわれる顔はそのまま父の康三の顔になる。

――あいつが……オヤジが……泣いてた?

将の中で、父の表情はだいたい固定されている。その顔は、無表情に近い顔だ。

自分を見つめる目は怒っているか、非難しているかのどちらかだ、と思っていた。

笑い顔でさえ珍しいのに、父が泣くところなんて想像もできなかった。

だいたい、康三は将の実母である環が死んだときでさえ、涙を流さなかったのだ。

将は、ありえない、と立ち上がると栓をひねり、シャワーをいきおいよく出した。

おまけに康三は、将が大火傷で入院していたとき、ロクに顔も見せなかったのだ。

それ以前も、家に帰ることが少ない康三は、将のことなどまるっきり顧みないように思えた。

テストで、武道の試合で、ピアノの発表会でどんなによい成績をとろうと、当たり前のような顔をして声1つかけなかった父。

孝太は記憶違いをしているのだろう。

そう思った将は、孝太の頭にひとしきりシャワーを掛け終わった後、

「それさ、おじいちゃんと間違えてるんじゃないかな?」と訊いてみた。

当時、祖父はまだ存命で、近くに住んでいたから、祖父が駆けつけるのはありえる。

曽祖父の巌(ヒージー)ほどではないが、祖父も将のことをかなり可愛がっていたから。

「ううん。おとうさんだよ。おじいちゃんはおしごとで外国に行ってたもん」

そうだ。あのとき外務大臣だった祖父は、国際会議で留守だった。将は思い出した。

将は腑に落ちない思いで、自分の頭にシャワーをあてる。

考えこむあまり、目をつぶるのを忘れて、シャンプーの入った水分が目に沁みる。

「……っつ」

あわてて水流を顔にむけてそれを洗い流す。

「大丈夫、お兄ちゃん?」

孝太が、小さい頃よく将にいったフレーズを、久しぶりに繰り返した。

第156話 小さな家出人

「弟って……孝太が?一人で?」

異母弟にあたるが、将にとてもなついている10歳年下の弟だ。

「そう。お兄ちゃんは出かけてるって言ったんだけど、帰れないって言って聞かないんだ。俺は風邪っぴきだし、瑞樹は出かけてるし……」

大悟は心底困っているようなので、将はすぐ戻る、と答えて電話を切った。

ベッドの上で身を起こしていた聡のほうに向き直ると

「弟さんがマンションに来てるの?」

と、彼女のほうから訊いてきた。電話の内容が聞こえていたらしい。

将はうなづくと

「アキラ、ちょっと俺、マンションに帰ってくるから」

本当は一瞬、聡と一緒にマンションに帰ろうかとも思った。

正月に一緒に聡の家に泊まった大悟は、聡とも面識があるから問題ない。

が、瑞樹が帰ってきたら。気まずくなるかもしれない、と考えて、将はとりあえず一人で帰ってみることにした。

でも『ちょっと帰ってくる』の言葉どおり、孝太を言い聞かせて実家に戻したらすぐに聡の部屋に戻るつもりである。

聡は、ちょっと残念そうな表情を浮かべたが、そこは大人だ。

何も異論を唱えずに、将を送り出した。

 
 

「お兄ちゃん!」

マンションの玄関ドアをあけるなり、孝太が奥から駆けてきた。

前に会ったときより背が伸びて、子供から少年にまた一歩近づいた感じだ。

しかし、きちんと躾けられている孝太は、飛びついてくるというようなことはない。

靴脱ぎ場のところに立って、将の顔を心底嬉しそうに見あげている。

タクシーの中で

『貴重なデートの邪魔しやがって。叱り付けてやらないと』といきまいていた将だが、そんな孝太の顔にそんな計画はふっとぶ。

「孝太、お前、どうしたんだ……」

靴を脱ぎながら、訊くのがせいいっぱいだった。

孝太を連れてリビングに戻ると、大悟がスウェット姿にマスク姿で起きてゲーム機を手にしていた。

具合が悪いだろうに、どうやら大悟はいままで、孝太の相手をしてくれていたようなのだ。

「将にそっくりだな」

大悟はゲームを終了しながら微笑んだ。

孝太は、大好きな将に似ているといわれて、ちょっと嬉しそうに将を見上げた。

「瑞樹は?」

まだ瑞樹の姿は見えないようだ。

「まだ帰ってこない。メール見たら、どうやらバイトみたいだけど」

大悟は、ようやく帰ってきた将に安堵するように、ソファーに寄りかかった。

「悪いな。具合悪いんだろ。ホラ、孝太、大悟兄ちゃんにお礼いえ」

孝太は素直に、大悟にありがとう、と言っただけでなく

「大丈夫ですか?」と付け加えた。

大悟は、笑いながら、

「大丈夫だよ」

と答えて立ち上がる。そして孝太の頭をくるくると撫でると、

「じゃ、将、俺はもう寝るから」

と将に向き直った。少し疲れているようだ。

「ごめんな」

将は、大悟の後姿にもう一度わびると、しゃがんで孝太に向き直った。

「孝太、いったいどうしたんだ」

孝太は悲しそうにだまった。

「おかあさんかおとうさんに怒られたのか?」

孝太はゆっくりとうなづいた。

「ぼく……まえにテストで80点とっちゃったんだ」

一瞬、子供の頃を忘れていた将は『いい点じゃんか』と口にだしかけた。が、孝太は

「そしたら、おかあさんが『お兄ちゃんは90点以下をとったことないのに』って怒って……」

そういえば『神童』だった小学校時代の将は、学校のテストで90点以下を取ったことはなかった。

義母の純代からもテストのことで怒られたことはない。

というより、義母に好かれようとめいっぱい頑張っていた小学生時代の将は、純代にまったくといっていいほど怒られたことがなかった。

思えば、それだけに、火事の中で置き去りにされたショックは大きかったのだろう……と将は過去を振り返る。

だが。将はいったん自分の傷に飛んだ思考を、テストに戻す。

将が通っていたのは公立小である。

それに対して、孝太は難関と名高い有名私立に幼稚舎から通っている。テストの内容も当然難しいに違いない。

「何、テストが悪くて、怒られたから出てきたの?」

と将はなるべく優しく訊いた。孝太は首を振った。

「ぼく、また85点とっちゃって……また怒られると思って……」

「テストを隠したのがバレたのか」

将が先回りした答えに、孝太は、この世の終わりのような顔でうなづいた。

「そんなことするひきょう者は、うちの子じゃないって言われて……」

孝太は耐えられなくなったのか、泣き始めた。

将は、孝太を抱きしめてやりながら、再び火事の中で置き去りにされたことを思い出していた。

あのとき、将は『うちの子ではない』というのを態度で示されたのである。

もう割り切っているつもりだが、こうやって泣く弟を見ていると、子供の頃の寂しさや、あの12歳のときの絶望が顔を出してくる。

将は、泣く孝太の頭を撫でてやりながら

「おかあさんは、本気でそんなことをいったんじゃないと思うよ……」

と諭した。義母の純代は、孝太にとっては彼を生んだ本当の母である。

しかし、孝太はしゃくりあげながら、

「でも……でも。お兄ちゃんのことは……追い出した」

それだけいうと、孝太は声をあげて本格的に泣き出した。

まるで『追い出した』という言葉に孝太自身が傷ついたかのようだ。

出て行ったっきりの将のことについて、孝太は孝太なりに心配し、傷ついていたのである。

将は10歳年下の弟の、自分を思う心に、胸がいっぱいになった。

思わず涙があふれそうになるのをおさえるように、

「でも、孝太は……おかあさんの本当の子供だから、おかあさんはきっと心配してるよ」

と孝太にいってきかせる。

それは心から出た言葉でもあるが、将は、正直なところ早く孝太を帰して、聡のところに戻りたかったのだ。

しかし孝太は、どんなに言って聞かせても

「今日は、お兄ちゃんのところに泊まる。家には帰りたくない。お兄ちゃんと一緒にいる」

と頑張った。どうやら孝太は義母の言葉にかなり傷ついたようだ。

聡のところに一刻も早く帰りたい将は、舌打ちしたい気持ちになった。

だけど、自分だけを頼っている、いたいけな弟を無碍に放り出すわけにはいかない。

将にとっては、ヒージーに次いで数少ない肉親の情を感じられる相手だ。

まあ、所詮子供だ。

波立った感情が収まれば、ケロリとするのではないか、と将は気を取り直して一晩だけは孝太を泊めてやることにした。

とはいえ、実家では今ごろ大騒ぎだろう。

ヘタすれば捜索願まで出しているかもしれない。

しかし、義母に連絡すれば、孝太の気持ちを無視してすぐに迎えに来るに違いない。

特に将のところに泊めるなんてとんでもない、と考えるのは目に見えている。

ヒージーに説得してもらうのが一番だが、もう9時30分過ぎている。床についている時間だろう。

――あいつに頼るしかないな。

将はパソコンをを開くと、アドレス帳からめったに使わないアドレスを取り出す……毛利である。

メールを打ちながら、傍らでまだしゃくりあげている孝太に

「ところで、孝太、一人で風呂に入れるか」

と訊いた。

「たぶん入れると思う」

との答え。たぶん、というのは、まだ一人で入ったことがないということだろう。

「ちょっと待ってろ。お兄ちゃんと入ろう」

「うん!」

孝太は急に元気になったようだ。

将は、毛利に、孝太が自分のマンションに来ている旨、とにかく無事であること、

叱られてナーバスになっているから落ち着いたら責任をもって帰すこと、捜索願など出して騒がないように――

などを手早くメールにまとめて送信した。

将と義母の純代との関係を知る毛利は、そのへんは巧くやるはずだった。

大嫌いな毛利だが、その辺のたちまわりは、将も信頼しているところだ。

 
 

将は湯船にお湯を溜めながら、孝太が脱いだものをかたっぱしから洗濯機に入れる。

――今ごろは、アキラとラブラブ入浴かもしれなかったのにぃ……。

にこにこと裸んぼうになっている孝太を恨みそうになる自分に

――ま、ありえないか。

と言い聞かせる。

「兄ちゃんすぐ入るから。湯船に入る前によく体洗うんだぞ」

と言い聞かせて、その間に将は聡に電話をする。

「将、……どうだった?弟さん」

電話がつながるなり、聡のほうから様子を訊いてきた。

将は、孝太の家出のいきさつを話して、今日はそっちに帰れそうにない、と謝った。

「明日、朝から二人でどっかいこうぜ」

代わりに明日のことを提案する。

「明日……。明日はね、将……」

聡の声が急に沈んだ。それでも思い切ったように聡は告げた。

「博史さんに会わないといけないの」

――え。

将は一瞬混乱した。なんで、今ごろ博史が。しかもバレンタインデーに。

「最後に、もう一度会って別れたいって言われて……」

そんなことを承諾するのか、とそれは聡への疑惑に一瞬つながりそうになる。

「なんで、バレンタインデーなんかに……」

将は苦々しい思いで抗議する。そういえば、さっき将がもらった聡の手作りチョコを、将は聡の家に置いたままだ。

「私も、断りたかったんだけど、月曜から北京だって言われて。指輪も返さないといけないし……」

困惑した聡の声に……将はかろうじて、日曜日に殴られたことを思い出す。

「おふくろさんは?どうなったって?」

「持ち直したって……。ごめん、将には今日言うつもりだった」

持ち直したという言葉を聞いたとたん『俺だって心配してたんだぜ』と抗議しようとした将だが、

聡に先回りされ、不機嫌に口をつぐむ。しかし、

――こんなことで、心を乱されたくない。もしかしたら、こうやって二人の仲に亀裂を入れる作戦なのかもしれない。アイツ(博史)は。

将は思い直すと、優しい声を出す。

「明日……ひとりで大丈夫? また殴られたりしない?」

「うん……。大丈夫だと思う。もう本当に最後だって言ってたから。午前中に少しだけ会って指輪を返すだけ。本当にそれだけ」

聡のほうも、将に気を遣っているのがひしひしと伝わった。

何も心配することはないのだ……。聡の声が携帯からさらに続く。

「明日、昼からはずっと、将と一緒にいたい」

低いけど温かい声に、将は電話のこちらで頷く。きっと聡は将と同じように携帯を握り締めているだろう。

その姿を想像したとたんに、胸にいっぱいに溜まったいとおしさが溢れ出るようだった。

第155話 チョコレート・タイム

「将……誰かが見てるかもしれない」

いったん抱き合った二人。だが聡は将の腕からするりと離れた。なんといっても、人通りの多い駅の改札である。

将は、あらためて聡の顔をなぞるように見つめると

「おかえり。アキラ」

と微笑んだ。聡も少し恥かしそうに

「ただいま、将」

と微笑んで、将の顔を見つめる。

たった2日だけれど、お互いの顔はとても懐かしいものとして映る。

 

二人は、争うように聡の荷物を取り合っている。

結局、将がステッキのないほうの右手で持つと、二人寄り添うように並んで、タクシー乗り場へと仲よさそうに歩いていった。

みな子は……そんな一部始終を見てしまった。足が震えている。

 
 

みな子は通勤帰宅者で込み合う列車に乗り込んだ。

ドアのところに立って列車の揺れに身を任せていた。

最初ドアの外を見ていたのだが、さっきの夕陽の光景と打って変わって、外は暗い。

暗い外は、ドアのガラスにみな子の憂い顔を映し出した。

みな子は、みじめな自分を見たくなくて、チョコレートの入ったカバンを抱きしめて、ドアに寄りかかるように背を向けた。

金曜の列車には、これからどちらかの家で過ごすのであろう、仲のよいカップルが目立った。

みな子の前にも、人ごみから彼女の体をかばうようにして立つ、若いサラリーマンがいた。

みな子はさっきの将を思い出す。

将と聡の噂はもちろんみな子も知っている。

だけど、ちょっと仲がいいだけで、よくあるキレイな女教師とそれに憧れるやんちゃな男子という構図だと思っていた。

だけど。

今日の二人は明らかに、そのレベルを超えていた、というのはリアルな恋愛経験がないみな子にもわかる。

一瞬なのに、そのときの将の細部まで鮮明に思い出せた。

聡を抱く一瞬前に見せたせつない瞳。

まるで壊れ物を受け止めるかのように、慎重で柔らかい腕の動き。

抱き合っている一瞬の至福に思わず閉じる睫。

すべてスローモーションでみな子の瞼の裏に再現できた。

いずれも、みな子が初めて見る将の姿だった。

――二人は、深く愛し合う恋人同士なのだ……。

みな子は、思わず目を閉じてカバンをぎゅっと抱きしめた。

はじめて目の当たりにした、リアルな、大人の恋。

二人に何の感情もなければ、ただロマンチックに憧れたかもしれない。

でも、その片方は、みな子がはじめて好きになった男性なのだ。

――なんで先生なの。

みな子は涙がこぼれそうになるのを、目を固くつぶって堪えた。

みな子は聡のことも好きだった。

きれいで、威張ってなくて、生徒に理解があって、その将来のこともちゃんと考えてくれる。

そして流暢でわかりやすい英語。

もともと英語が得意だったみな子だが、担当が聡になって、また一段と成績があがっていたのだ。

そんな聡と将が……恋人同士。

みな子は目をつぶったまま首をふる。実際は人ごみの中なので、軽く頤を傾けただけだが……。

 
 

帰宅すると、おやつを食べ過ぎて食欲がない、と言ってみな子は自室に篭った。

カバンからチョコレートを出すと、そのきれいな包み紙をビリビリと思い切り破る。

ピンク色の包み紙はみな子の心そのままにずたずたになって床に落ちた。

箱の中で、チョコレートは溶けもせず、けなげに収まっていた。

それを乱暴につまみあげて口にする。

チョコレートは……見た目以上に旨かった。

まずまったりとした甘さが口に広がり、ほろ苦い後口が残る。

食べながら、みな子はいつしか涙を流していた。

――好き……好き。

血だらけの猫を大事そうに抱えていた将。

ふいに顔をのぞきこまれたときに見た、透き通った茶色の瞳。

ピアノを弾く長い指。大人と子供が交差する表情。

ふだんは乱暴な口調のくせに『星野サン』と改まって呼ぶ低い声。

何もかもいまさら諦められない。

チョコが溶けて、口の中がほろ苦いばかりになったとき、みな子はもう感情を押さえられなかった。

「ううっ……」

制服のままベッドに深くもぐりこむと、親に聞こえないように嗚咽した。

次々に湧き出てくる涙はシーツを濡らした。

初めての恋に破れたみな子。

ただただ、今は恋の悲劇に打ちひしがれるしかない。

悲しみすらもいつしか甘い思い出になる……そんなことは想像もつかなかった。

 
 

将と聡は、聡の家の近くのイタリア料理店に来ていた。

家に近いだけでなく、値段が手ごろで、かつ凝ったものが食べれるので、将が気に入っていたのだ。

「ね、アキラ、チョコは?」

将は席につくなり、いたずらっぽい顔でねだった。

「バレンタインは明日でしょ」

聡も負けずにいたずらっぽい顔で、テーブルに頬杖をつく。

「今日くれてもいいんだけど」

聡は、目で笑うと、ボストンから光沢がある紙袋を出した。

シンプルに銀のシールがついている。

「ハイ。うまく出来てるかどうかわからないよ」

「ひょっとして、手作り?」

「甲府のチョコ屋さんを開発する暇なかったから。チョコつくるの、本当に初めてだから不味いかも」

将は目を輝かせた。手作りのチョコを恋人からもらうなんて初めてなのだ。

「うっそー。俺、すっげー嬉しいんだけど……。開けていい?」

「いまから夕食でしょ」と聡は笑った。

そのとき、遅まきながら店の人がオーダーを取りに来た。

 
 

二人で食べるとなんでも美味しい。しかも、お気に入りの店である。

二人はおなかが重く感じるまで南イタリア風の料理を堪能してしまった。

バレンタインデーということで、今日は聡が払った。

「ゴッチー!」

店を出て将はおどけると、次の瞬間、聡に抱きついた。

「……早く帰ろうぜ。早く二人っきりになりたい」

聡は「バカ」といいながらも、まんざらでもなさそうだ。

そのまま、しっかりと肩を組んで、腰に手をまわして、お互いがお互いのコートになりながら冬の夜道を歩き始める。

将は、そうやってベタベタと歩きながら、毛利がいつ現れるかと警戒していたのだが、今日は邪魔される気配はなかった。

二人は聡の部屋に入るなり、ジャケットだけ脱ぎ捨てるとベッドにごろんと転がった。

「あー、おなか一杯!」

聡は思わず声をあげたが、将のほうは、二人でベッドに転がったことで反射的に聡の体に手を伸ばしてきた。

「アキラ……だっこ」

「将ってば」

そういいつつ、聡も将のほうに向いて、その熱い体に腕をからめた。

腕だけでなく、脚もからめあう。唇が吸い寄せられるようにあわさり、舌もからまりあう。

ニンニクを使った料理をかなり食べたはずだが、二人とも同じ料理を食べたので、気にならない。

食事の最後にデザートとして食べた甘いズコット。

しかし、二人にとっては、こんな触れ合いがまさにデザートである。

「足は、どうなの?」

唇が離れたあいまに、足にあたった固い感触について、聡は将に訊く。

「来週末に半ギプスもとれるかも、だって」

そんな聡の柔らかい唇をもう一度、唇で素早く味わったあと、将は答えた。

「よかったじゃない。本当に長かったね」

聡は将の髪をくしゃくしゃと混ぜるように撫でた。

「でもさ、金具は入ったままだから、夏にもう一度手術受けないといけないんだってさー。あ~あ」

「夏かあ……」

聡は、これから来る、遠い夏を思った。

夏の前には、将の誕生日も来る。18歳になっている将。

この夏には、二人はどうなっているんだろう……もっと固く結ばれているんだろうか。

すると、将のほうも

「夏には、俺も18過ぎてるから、きっとえっち三昧だぜ」

とにんまり笑った。

「んもー。そればっかり!」

「だってぇ、男の子だもん」

といつものセリフに聡は腕の中でくくっと笑って、その広い胸の中に顔をうずめた。

干草のような将の香り……この場合、聡をさらに息苦しくさせ、窒息しそうな錯覚に陥る。

将は、聡の髪の香りを吸い込む。それはいつもの甘い香りと、ほのかに土の匂いがした。

「風呂、入ろうかな。一緒に入らない?」

唐突な提案に、聡はうずめた顔を思わずあげた。

「何いってんの」

「えー。いいじゃん。もう裸の付き合いなんだし」

「……ヤダ」

『裸の付き合い』というセリフにいろいろなことを思い出した聡は、再び将の胸に顔を隠すようにうずめた。

将も何も本気で言っているわけではない(半分ぐらい、あわよくば、という本気が入っているけど)。

恥らう聡が可愛いからつい、そんなことを言ってしまう。

そんなふうに恥らうくせに、将のほうが恥らったり及び腰になると、積極的な行動に出る。

そんな聡の大人の部分も将は愛して止まない。

溶けたチョコレートのように甘くトロリとした聡との時間を、

将はほのぼのと、そして、ときに狂おしく、せつなく……さまざまな感情を織り交ぜながら味わいつくしている。

そんな甘い時間に突如、将の携帯の音が鳴った。

コール3回までは無視したが、聡が「しょう、でんわ」と顔を見上げるので

「……なんだ? いいところで」

将はしぶしぶ立ち上がる。脱ぎ捨てたジャケットのポケットから携帯を取り出した。

大悟からだった。

「もしもし、大悟?」

電話の向こうの大悟は、デート中に電話したことをまずは謝って、本題を切り出した。

「あのさぁ、弟さんがこっちにきてんだけど。帰ってこれない?」

第154話 追跡

体がだるい。どうやら本格的に風邪をひいてしまったらしい……。

激しい悪寒と頭痛に襲われた大悟は、ハケンを予定時間より1時間早くあげてもらい、帰途についていた。

この分だと、予約を入れていた夜のハケンも無理だろう。

最近、ようやく手に入れた携帯で、派遣会社に病欠の連絡をする。

日頃真面目な大悟なので、派遣会社も大悟の体調を心底気遣ってくれているようだった。

「本当に、すいません……」

大悟は電話を切る前にもう一度謝った。

明日は幸い、仕事をいれていなかった。

瑞樹と二人でどこかに遊びにいければ、と思っていたが、体を休めるより他ないだろう。

ふらふらになりながら、大悟はやっとマンションに戻ってきた。

将も瑞樹もいないらしいので鍵を開けて入る。

さっきハケン先で薬を飲んだせいなのか、喉がひどく渇く……水を求めて大悟はキッチンへよろよろと進む。

コップに注いだ水を一気に飲んだ大悟はキッチンのカウンターに目がとまった。

メモと一緒にピンク色のリボンがかけられた包みが乗っている。

隠す様子もなく、それは置いてあった。

>>>

将へ

いつも、ありがとう。

これは感謝の気持ちです。

   ミズキ

>>>
 
おそらく、チョコレートらしきその包みは、市販品でなく、自分で包んだらしい。

ということは中身も、手作りか。

激しい頭痛を抱えた大悟は、それ以上考えることもできず、ソファにごろりと倒れるように寝転んだ。

その10分後、将が帰宅した。

「ただいまー。……あれ、大悟どうしたの?」

ステッキをついた将は、ソファに寝転ぶ大悟を見つけて近寄った。

「……ああ。ちょっと風邪ひいたみたいでサ。……おまえ、ずいぶんもらったんだな」

大悟は将が持っているチョコが入った紙袋に目をとめた。

チョコのうち1つが入っていた小さな手提げの紙袋に、他のを無理やり突っ込んだので、それは無様に膨れていた。

「いくつもらったんだ」

「7つ、いや8つかな。どうせ遊びだろ」

と将は白い歯を出して笑った。その顔は、大悟から見ても、つくづくいい男だった。

「大悟、ちゃんと薬飲んだのか?」

「ハケン先でもらった……。そこにも1つあるぞ」

「え?」

大悟が指差した先には、例の瑞樹からのチョコがあった。

「お前、どうせ明日はいないと思って、今日置いといたんだろ」

大悟が平然としているので、将は安心して、

「サンキュ。瑞樹にそういっといて」

といいながら、瑞樹のチョコをいちおう寝室へ持っていくと、かわりに着替えを持ってバスルームに入る。

「出かけんのか?」

「ああ。今日、アキラが帰ってくるんでお出迎え。たぶん泊まるから」

「そうか……」

複雑な表情で自分を見ている大悟に、聡のことで頭がいっぱいの将はまるで気付かなかった。

 
 

駅に差し掛かったみな子の額に、ビルの隙間からオレンジの光が一筋差した。

もう放課後も遅い。

すみれに付き合ったみな子はすっかり下校が遅くなってしまった。

もう、こんなふうに夕陽が差すなんて。1ヶ月前は暗かった時間だ。

まだ風は冷たいけど、確実に季節は春に向かっていることをみな子は感じていた。

だけど……心は寒い。

その原因は、カバンの中にまだ入っている。……結局、渡しそびれたチョコレート。

ちなみに、授業のほうは、結局今日の6時間目までボイコット状態が続き、ずっと視聴覚室での自習が続いた。

将は、休憩時間や昼休みに、たびたび呼び出され、チョコレートを渡されていた。

中には、わざわざ将にチョコを渡すために登校した上級生もいたようだ。

みな子が数えていたところによると、たぶん7個はもらったはずだ。

他の女生徒の積極さに、すっかり出鼻をくじかれた格好のみな子である。

すみれのほうは、放課後待ち伏せて、なんとか先輩にチョコを渡すことができた。

しかも、渡しただけでなく、先輩にそのままデートに誘われた。

感激のあまり涙をこぼしそうになったすみれは本当に幸福そうだった。

みな子は先輩と二人で夕陽の中に遠ざかるすみれを寂しく見送って今、駅へとやってきたのだ。

将と初めて出逢った時を思わせるような夕陽の色に、みな子は、チョコレートが入ったカバンをそっと抱きかかえた。

ため息をついて改札に差し掛かったときだ。

ステッキをついた背の高い男がみな子の前方を通り過ぎた。

みな子は息が止まりそうになった。——それは、まさに将だった。

ただでさえ長身なうえに、カラージーンズに、皮のジャケット、ニット帽に薄いサングラスまでも身につけた将は、制服を着ているときと別人の、まるっきり大人だった。

クラスの誰が見てもわからないに違いない。

みな子だから……将を好きなみな子だからわかったのだ。

みな子は、将の姿を目で追う。

高校生に見えない将は、みな子にまるで気付かないまま、改札を通った。

チョコレートを渡すチャンス到来……のはずなのに。声をかけるべきなのに、みな子は何故か、将のあとをこっそりと追っていた。

 
 

将は、山の手線に乗り換えた。

乗り換えながら、右手で携帯を取り出して、メールを操作しているようだ。いまのところ、後をつけているみな子にはまるで気付かないようだ。

みな子は、直感で『女に逢うんだ。しかも本命の』と確信していた。

将の本命の恋人を見て、どうするのだ、とも思う。しかし、好奇心なのか、怖いもの見たさなのか、どうしてもみな子はそれを見てみたいと思う。

将が愛するのは……どんな女なんだろう。

高校生離れした、大人っぽい将は、やはり大人の女と付き合っているのだろうか。

山の手線からは、家々の中に今夕陽が沈むところが見えている。夕陽は、通勤帰りの人もそろそろ混じりだした車内をピンク色に照らし出した。

新宿駅で将は降りた。ここで乗降する客は多い。

みな子は、行き交う人波に将を見失わないように、あわてた。

しかし、ステッキをついているうえに、将が人より頭1つ分背が高いことが幸いして、みな子はなんとか将を見失わずに済んだ。

広い改札のうちの1つの前で将は止まる。柱に寄りかかるようにして誰かを待っているようだった。

いつのまにかサングラスをはずしている。

波のように人が襲来するたびに、改札を注意深く見渡しているようだ。

みな子は、将から少し離れた別の柱から将のようすを見守った。

また、列車が着いたようで、人が一斉に改札になだれこんでくる。

と、みな子がいる近くの改札を、見たことのある女が通った。

――古城先生?

2週間前まで担任だった、聡だ。

早いうちから放課後の補習にも参加していたみな子は聡を見間違うはずがない。

大好きな、英語担当の元担任に、みな子は足を踏みだして声をかけようとした。

「センセ……」

次の瞬間、みな子は凍った。

聡は、小走りに将のほうへ駆け寄っていったのだ。

将のほうも、ステッキをつくのももどかしく、聡のほうへ早足で近寄ると、手を伸ばして聡を抱きしめる。

傍目には、『ハグ』のように見えた……しかし、みな子には見えていた。

聡を抱き寄せる寸前の将が浮かべた、せつない表情が。

みな子は、柱の陰で思わず、かばんを落とした。

第153話 流血事件とチョコ(3)

13日の金曜日というのは、今回は皆忘れ去っているであろう……バレンタインデー前日。

意味もなく、一人で行動してみる男子が増える今日、みな子は生まれてはじめて学校にチョコレートを持ってきてみた。もちろん漫研仲間のすみれにも内緒だ。

昨日『自分用』に買ったチョコレート。しかし、自分用にしてはきれいに包装されすぎていた。

だから……それは誰かにプレゼントされるべきなのだろう。

その相手として、みな子は鷹枝将をはっきりと思い浮かべることができた。

みな子は、今は、鷹枝将が好きだと認識している。

そもそも、1年のとき、血だらけの猫を抱えた少年に出会ったときから、好きになり始めていたんだと思う。

今の……少年とは言いがたい、将。彼への愛は、自分でも認めたくなくてみな子は少し葛藤した。

だけどこの1週間。

ボイコットがきっかけで、思いは急成長してしまい、みな子自身にも収拾がつかなくなっている。

恋は、こんなに急激に落っこちてくるものなのだ……みな子はこの甘い驚きをもてあましていた。

 
 

みな子はなんとなく早く登校してしまった。

ドキドキして眠れなかったというのもある。

温かい自宅の室内で、それは溶けてしまうんではないだろうか、という危惧もあった。

両親にももちろん知られたくないから冷蔵庫にも入れられない。

昨日……正確には今朝、3時。

眠れないみな子は、初めて異性へメッセージというものを書いてみた。

3段目の引き出しの奥には、未使用のカードがたくさん入っている。

特に使用する予定もないのに、デザインが気に入って衝動買いしたものが、今役に立つとは思わなかった。

メモ用紙に、まず下書き。

まず、自分の字が気に入らない。

可愛くて感じのいい字ってどんな字だろうか。

みな子はボイコット声明書に書かれた将の字を思い出した。

学校を1年もさぼっていた、不良とは思えない綺麗な文字だった。

――あの紙、コピーしてもらっておけばよかった……。

ピアノがあんなに巧いのだから、お習字もやってたのだろうか。

将が政治家の息子だということはみな子も知っている。

いつから道を踏み外したのかは知らないが、子供の頃はきっと習い事漬けだったんだろうな、とみな子は子供時代の将の姿をなんとなく想像する。

――いけない。脱線してしまった。

みな子は、メッセージに戻る。

字体はあとにして、文言を考える。

2時間も考えて、結局

『足、早くなおるといいね』

だけになった。その前に

『ちょっと気になっています』

というのを入れるかどうかでとても悩んだ。

だけど、

気になっている≒好きだ

じゃないだろうか。

……つまり告白になってしまう。そこまでの勇気は、まだみな子には、ない。

いざとなったら義理チョコのふりができる逃げ道が、恋にウブなみな子には欲しいのだ。

 
 

視聴覚室には、まだ誰も登校していなかった。

いつも将が座る席は決まっている。その机の下に入れておこうか。

だけど、今日に限って他の人が座ることも考えられる。

だいたい、みな子はメッセージに自分の名前を書かなかった。だからそのセンは、ない。

いつも座る自分の位置に腰を下ろしたみな子に、

「よぉ!おはよー!」

と背後から声。みな子の体に大地震のように衝撃が走る。将だ。

「早いじゃん!」

なんにも知らない将は、みな子に声をかけながら、2列前のいつもの場所に、

ステッキをついた足ながらかなりの大またで歩いていく。

みな子は平静を保つのに苦労しながら

「そっちこそ早いじゃん」

と返答した。

「ああ……。寿司屋のこととか気になってさァ。星野サンも?」

席についた将は、みな子のほうを振り返った。

「え……うん」

みな子は頷くしかない。でもチャンスだ、ということはわかっている。

視聴覚室にみな子と将の二人しかいない今、チョコを手渡す絶好のチャンスだと。

『これ、ボイコット仲間として。深く考えないで』

何度となく頭の中で繰り広げたシミュレーション。

眼鏡の奥の瞳が少しでも大きく見えるように、と今日は慣れないマスカラをしてみた。

髪も1つにまとめないで、今日は念入りにアイロンをかけた。

もともとストレートの髪は、おかげで、いつもより、つやつやサラサラになっている。

しかし、チャンスの到来があまりにも突然すぎて、みな子は躊躇してしまっていた。

だけど。みな子は、思い切ってカバンを取り上げた。中に……チョコが入っている。

と。ちょうどそのとき。

「鷹枝サン……」

入り口から、おずおずとした声が将を呼びかけた。

振り返ったみな子に、1年らしい女子の姿が見えた。声を発したのは一人だが、3人かたまっていた。

皆、茶髪に化粧をきちんとほどこしたギャル系だ。

「何」

将は面倒くさそうに、ステッキをついて立ち上がった。

とたん、耐えられずに「キャー」「どうしよう」「ホントに来た!」という声があがる。

「あの、これぇ……」甘く高い声。

チョコを差し出しているであろうことは、背を向けているみな子にもわかる。

「くれるの? ありがとう」

と将の声。アイドル然とした優しい声だ。

1年女子は、チョコを手渡したとたん、きゃあきゃあいいながら走っていってしまったようだ。

「なんだ、アレ」

将は、いっぺんに3個ももらったチョコを、ステッキをついていないほうの右手と体で支えながら席に戻ろうとしたが、そのうちの1つが床におっこちてしまった。

みな子は、それを拾ってあげながら

「モテるのね」

と皮肉った。

「去年は1個ももらわなかったぜー?」

と将はまんざらでもない笑顔で言った。

「当然でしょ。だって学校に来てなかったんだから」

「あー、そっか」

そんな笑顔が、みな子にはなんだか憎たらしかった。

 
 

始業時間が近づいて、生徒たちはぞくぞくと登校してきた。

今日も、2年2組全員が視聴覚室のほうに出席した。

なんとなく、浮き足立っている気がする。バレンタインだからだろうか。

まだチョコを渡していないみな子は、将の動向ばかりを常に気にしていたが、ギリギリに登校してきたすみれに

「やっぱり兵藤くん来てないね。停学決定なのかな」

と言われてやっと、兵藤が来ていないことに気づいた。

それで、ざわついていたのだ……少し自分が恥かしいと思った。

そういえば、真田由紀子も休んでいる。肩の怪我はひどいんだろうか。

すみれが席についてすぐに、HRのチャイムが鳴ったが、ヤクザ京極も、当然現れない。

いつのまにかボイコットのリーダー的存在になった、兵藤が今日はいないせいか、皆少し私語が過ぎるようだ。

教科書は開いているものの、みんな好き勝手に話している。すみれも、

「ねえねえ」

などとみな子に声をひそめながらも話し掛けてくる。

話の内容は、他の生徒にきかれたくないのか、ノートの端に斜めに走り書きしてみな子に見せる。

『チョコ、いつ渡したらいいかな』

とある。みな子がそれを見たらすぐさま、すみれはそれを消しゴムで消す。

みな子は、いつもだったら、そういう話題はまたか、ウザイな、と思うのだが、密かに自分もチョコを持ってきている今日は話は別だ。

恋する少女の話は、そうでない少女から見れば甚だ迷惑なのだが、自分も恋する少女になってしまった場合は話は別だ。

相手の話は、自分のことのように切に迫る。

『休み時間に呼び出せば』

みな子も自分のノートの端に書いて、すみれが見たら即座に消す。

『はずかしいヨ。靴箱に入れとこうかなと思うんだけど』

『ええー、靴箱。汚くない?』

食べるものを土足と一緒に置くのは、非衛生的だと思ったみな子は

『今日は部活に来るんじゃない?そのときにさりげなく、ってのは?』

と提案してあげた。

『そのさりげなく、がムズイよォ~』

とすみれは汗のイラストを添える。みな子が、ファイトォ!と書こうとしたときだ。

視聴覚室の扉が勢いよく開いて視聴覚室の一同がそちらに注目した。

「保護者が来たっ!」

ユータだ。

「ええっ!」

「誰のっ?」

叫びながら飛び込んできたユータに、事情を知りたい皆が寄っていく。

席についたものも耳をそばだてた。しかしそんな必要がないほど、ユータの声は大きかった。

「わからないけど3人来てた。みんな校長室に入っていった。カイトが立ち聞きしてるけど」

「マジ!」

将は立ち上がると、ステッキをついて立ち上がった。井口も立ち上がる。

他のものも続こうとしたが、

「大勢だと目立つだろ!待ってろ!」

と井口にどやされて、仕方なく席についた。

 

「将!」

職員室の窓の外に立っていたカイトが将の姿を見つけて、小声で叫んだ。

「どう?」訊きながら将は身をかがめた。

「なんか面白いことになってるよ」

カイトによると、校長室に来ているのはどうやら松岡の父、由紀子の母、そして兵藤が修行している店の主人ということだった。

それに対して校長室には、校長、教頭、学年主任の多美先生が同席しているようだ。

「……とにかく、うちの憲一は、目上の方に自分から暴力をふるうようなことは絶対にありません。停学を解いて頂きたい」

という声は、おそらく兵藤の店の主人だろう。落ち着いているが、その内容は毅然としたものだ。

「しかし……京極先生は……」

教頭が言い訳をしようとするのを、

「きちんと調べたんですか」

というのは、松岡の父だろう。その口調は弱弱しい松岡にはまるで似ていないが。

「うちの娘は、肩の脱臼の原因は京極先生だと言っています……。京極先生がいる限り、学校には行きたくないと言ってます」

自らも泣きそうな、必死な声は真田由紀子の母親だろう。

「だいたい、何で、古城先生から京極先生に急に担任が代わったんですか。そこのところの説明が何も我々になされていないのはおかしいと思うんですが」

再び寿司屋の主人だ。一番の年長者らしく、また職人らしい語り口だ。

「ハァ……。古城先生は、新しい学校を任せることになったものですから……」

声だけでも校長のあせるようすが手に取るようにわかる。

「と、とにかく、今回の件は、もう一度京極先生に訊いて、ですね」

「教頭先生」

教頭の声に多美先生の声がかぶさる。

「今回の件は、京極先生に非がある、という生徒たちの言い分は、私は正しいと思います」

そのあとの沈黙はおそらく、3人の保護者が黙ってうなづいていたのだろう。

「処分は、兵藤くんではなく、京極先生になされるべきだと思います。それに私は」

多美先生は少しためらったようだが、思い切って続けた。

「月曜日に松岡くんが、屋上から飛び降りた際に、京極先生が松岡くんをけしかけるのを聞いてしまいました……」

「初耳ですね。私は多美先生と一緒にいましたが、聞こえませんでしたが」

反論する教頭に、多美先生は

「私は、音楽をやるものですから、人一倍耳がきくのです……。京極先生はたしかに、『死にたかったら死んだらいい。クラスのお荷物』などと言っておりました。

私はまさか、と耳を疑いました。何か意図があるのか、とも思ったのですが……。ですが生徒たちの様子を見ていましたところ……」

多美先生はいったん言葉を区切って、はっきりと言い放った。

「彼は、あきらかに教師失格です」

「し、しかしだな。問題児が多い我が校にはあれぐらいの強い指導は……」

なおも食い下がろうとする教頭に、

「先生」

松岡の父がとどめを刺す。

「今回のことは、しかるべきところ……例えば都の教育機関などに申し出てもいいんですよ。我々はそれほど重大だと認識しています」

将とカイトがそこまで聞いたとき

「コラ!何をしている!」

と背後から声がした。巡回している屈強教師だった。

「教室に戻れ!」

と怒鳴られたので、将とカイトは視聴覚室に戻らざるを得なかった。

第152話 流血事件とチョコ(2)

兵藤の頭の傷からの血はシャツの襟を赤く染めるほどで、それを見た女子の中にはめまいを起こす者もあるほどだった。

京極は黙って立ち尽くしていた。どうしていいかわからないようだった。

兵藤本人は意識もはっきりしていて、保健室まで自力で歩いていったほどだった。

しかし、場所が場所なので保健室で応急手当を受けて、いちおう病院へ検査を受けに行った。

付き添ったのは、多美先生で、京極は事情を説明するため校長室に呼ばれたっきり出てこずに、他のクラスの京極の担当授業もすべて自習になった。

授業ボイコットしている2年2組はそのまま、視聴覚室で自習するよう、代わりの教師が来て指示していったが、その教師が消えるなり、みな三三五五寄り集まって、

「兵藤くん大丈夫かな」

「血は出てたけど、結構平気で歩いてたよね」

「いやいや、頭は、あとからが怖いんだ……」

「これって暴力傷害事件になるのかな」

「まさか。殴ったわけじゃないし。過失でしょ」

などと噂しあった。

しかし、皆『これで京極はクビ』という期待では一致していた。

そのときだ。

カイトが乱暴に視聴覚室に入ってきた……彼は、校長室のようすを立ち聞きしていたのである。

『どうだった?』と訊かれる前に

「信じられねえぜ!あの京極のヤツ!」と怒鳴った。

 
 

『私は、生徒を授業に戻そうと、声を掛けていたんです。そしたら、急に兵藤君が殴りかかってきまして……。

とっさによけたのですが、その反動で彼は机に頭をぶつけたのです。先に暴力行為におよんだのは兵藤君のほうです』

兵藤は校長らにそう説明したのだ。

「アイツ、ぶっ殺してやる!」

カイトは悔しそうに叫んだ。

「で、何、それを校長は信じてるわけ?」

将の問いに、カイトは悔しそうにうなづいた。

「何だよ、それ」

井口も思わず大声を出す。

カイトはクラスの皆にわざと聞こえるような声で話していたので、その話はクラス中に広まり、いっそうざわめきが大きくなった。

皆、口々に「ヒドイ!」「最低!」と吐き棄てるように言いあった。

5時間目の終了のチャイムが鳴ったとき、多美先生が視聴覚室に入ってきた。

休憩時間だけれど、おかまいなしにマイクの前に立った。

皆、席について静かになった。兵藤につきそった多美先生から説明があることは明らかだからだ。

「みんな心配したと思うが、兵藤は大丈夫だ。頭を2針縫ったが命に別状はない。念のためにCTスキャンも撮ったが異常はなかった」

一瞬、その場に安堵の空気が流れる。

「ただ、京極先生に暴力をふるおうとした、ということで、ポイント減の他に、1週間停学、ということになってしまった」

多美先生がそれを言い終わった瞬間、視聴覚室は一斉に蜂が飛び立ったような攻撃的な騒ぎに包まれた。

「静かに!」

多美先生が叫んでも、騒ぎはおさまらない。

「多美先生!」

星野みな子が勢いよく立ち上がった。女子クラス委員が立ち上がったことで、騒ぎが少し静かになる。

「兵藤くんは京極先生に暴力なんかふるっていません」

そうだ、そうだ、と皆口々に言う。

「暴力をふるったのは、京極先生のほうです。ユキちゃん……いえ真田さんの腕を京極先生が乱暴に引っ張ったので、それを止めようとしたんです。みんな見てました!」

「ユキちゃん、腕ひねられて、肩が腫れてるんだから!」

真田由紀子の隣の田上ルイが悲鳴のように訴えた。

「そうなのか、真田」

多美先生が真田由紀子のほうを見た。

その口調は比較的優しかったにもかかわらず真田由紀子は多美先生のほうをおそるおそる一瞬見ると、

うつむいて……それでもゆっくりうなづいた。

「田上、真田を保健室に連れて行ってやれ」

多美先生はただちに指示をした。そのときには由紀子の目からはぽとぽとと涙が落ちていた。

ルイはそんな由紀子をかばうように視聴覚室から出て行った。

「しかし……京極先生は、あくまでも最初に暴力をふるったのは兵藤だ、と言っているんだが」

「ウソに決まってるだろ!」

とうとう将が立ち上がった。マイクの前に立つ多美先生をまっすぐに見据える。

「先生、生徒を信じないのか。俺はともかく、兵藤くんとか、星野サンとか、真面目なやつの言い分も信じられないのかよ。2年近くも一緒だったこいつらより、あんな会って1ヶ月のヤクザ野郎の言い分をそっくりそのまま信じるのかよッ!」

多美先生は、将のまっすぐな視線を受け止めて、黙り込んだ。

しかし、視線はそのまま将の瞳に注がれた。そして、クラスの皆の瞳を一人一人順番に見つめた。

皆、訴えるような目で、多美先生を見つめていた。

「その件は京極先生に、もう一度確認する。今日はみんな、帰りなさい」

多美先生は、ため息をつきながらも、落ち着いた声で皆を諭した。

 
 

「これ、美味しそう!」

みな子は、ショーケースの中にある1口サイズのハート型の生チョコレートに釘付けになった。

あんな事情で、だが、いつもより1時間早く始まった放課後にラッキー!とばかりにすみれはみな子を連れてチョコを買いに街へ出てきたのだ。

事件のことは気になるし、嘘をついた京極には本当に腹が立つ、と街へ出てくる電車の中ですみれもしきりに言っていた。

しかし、チョコを目の前にして、一連の事件はふっとんだらしい。

学校の事件と恋する心は別問題で、いまは先輩にあげるチョコの問題がすみれの最優先事項らしかった。

美味しそうなチョコに釘付けになっているみな子を見て、すみれは

「みな子も誰かにあげればいいのに」

と言い放った。

誰か、という言葉にみな子の頭に、背の高いボサボサ頭……将がふいに浮かぶ。

さっき、みんなのために多美先生にくってかかった将。端正な横顔のライン。真剣な瞳。

想像は、思いもよらず暴走して、みな子が将にチョコレートをあげるところまで行き着く。

あの、猫のときのようなオレンジ色の夕陽の中、将にチョコレートを渡す自分を思い浮かべる。

「じょっ、冗談じゃない!」

思わずあせったみな子。次の瞬間、そんな自分に照れる。

幸いすみれのほうは、自分のほうのチョコ選びに夢中で、みな子の様子などどうでもいいらしい。

「トリュフもいいけど……でもオーソドックスにハート型にメッセージを入れるのもいいんだよね」

と真剣だ。

ほっとしたみな子は、ショーケースの中のチョコに再び目をうつす。

茶色いココアが降りかかった生チョコレートは一口サイズで上品だし、いかにも美味しそうだ。

しかしどうしても、チョコを見ると、どうしても夕陽の校庭と将がセットになってみな子の頭に顔を出す。

すみれは迷いに迷って、

「やっぱ、ハート型にする!」

と宣言したが、今度はメッセージの文言で悩みだした。

その間、みな子も、生チョコレートの誘惑に悩むことになった。

結局、みな子は、ハート型の生チョコレート3個入りを、「自分用だもん」と言い訳しながら買ってしまった。

第151話 流血事件とチョコ(1)※改題

博史は1回聡を呼んだぎり、黙り込んだ。

聡も何をどう話すべきかわからないままに、沈黙が横たわった。

その重みに耐えられず、ついに聡は自分から口を利いた。

「あの……こないだは、ごめんなさい」

とりあえず的な謝罪。どんな声音で話そうとも、どんな言葉を使おうとも軽軽しさはぬぐえない。

「土曜日に……」

聡の謝罪には答えないまま、ふいに博史から、土曜日という言葉が出た。

さっき将も土曜日、といっていた、バレンタインデーだ。

「逢えないか」

「博史さん……」

聡は博史がどういう意図で、逢いたいなどと言うのか計り知れなくて再び沈黙した。

だけど。もうどの道、元の関係に戻れないのだ。

だから、逢うわけにはいかない。

……ということをどうやって伝えるべきか。深層意識下でその言葉を選び始めた聡に

「最後に、もう一度逢って、話して、別れよう……」

これで最後という宣言が博史からなされた。

身構えていた聡は力が抜けるようだった。

本当に最後なのか。

博史は、別れを承諾してくれるのか。

ならば……薫の容態は、どうなったのだろうか。

「あの……お母様は……」

聡は思い切って自分から訊いてみた。

結婚相手でもない今、博史の母を『お母様』とよぶのにわずかに躊躇する。

だが他に呼びようがないのでそれで通す……いずれにしても、知りたい結果に比べればささいなことだ。

「ああ……。持ち直した。日曜の夜には落ち着いていた……連絡しなくて悪かったね」

聡はその場に座り込みそうになった。

「よかった」

思わず安堵の言葉が漏れたが、博史の母の無事を喜んだのではない。

自分のせいで悪化した、という罪の意識にさいなまされないで済む……重荷がなくなったことへの利己的な安堵。

そして、それを自覚した聡は、自分を少し恥じた。

「土曜日、逢ってくれるよね」

博史はそんな聡を知ってか知らずか、電話の向こうから詰め寄ってきた。

「あの……土曜日じゃなきゃダメ?」

「ああ。月曜から北京なんだ。時間は取らせないよ……。少しでいいんだ」

いずれにせよ、指輪を返さなくてはならないだろう。

承諾の返事と共に、暗い夜に白い息が立ち上る。

いつのまにか、車を止めた駅裏の路上に出てきていたのだ。

 
 

木曜日、再び平日。

始業時間ギリギリに登校した将は、直接、視聴覚室のほうに向かった。入り口に立った将は、唖然とする。人数がやたら増えていたからだ。

全員とまではいかないものの、2/3以上はこっちに移って来ていた。

月曜以来休んでいる松岡は、今日も姿が見えないようだ。

さすがに人数が増えると、ボイコットとサボリを混同している者が増える。視聴覚室は思い思いにしゃべる生徒たちで賑わっていた。

「みんな聞いてください!」

スピーカーからの声で、皆が前を見た。兵藤がマイクの前に立っていた。

「今日からボイコットに加わったひと!ボイコットとサボリは違います。遊びたい人は出て行ってください!」

兵藤の強い口調に、皆、静かになる。

「僕たちは、あの京極先生のやり方についていけない、ということで京極先生を辞めさせて、できれば古城先生に復帰して欲しいという意志をもって、ここに集まっているんです」

将は、ふいに出た聡の名前に、マイクの前に立つ兵藤を見上げた。

「だから、授業をボイコットしても自習するなどして、きちんとした態度を表明しないと学校は動かないと思います。みんな、そのつもりで、きちんとしてください!おねがいします」

兵藤はマイクの前で丸刈り頭を下げた。

パン、パン、パンと単独の拍手が起こった。カイトだ。

カイトにつられて星野みな子、真田由紀子、井口……と拍手は視聴覚室全体に広がっていった。

 
 

最初に兵藤のそんな演説があったので、皆、比較的静かに自習を始めた。

それでも、さわさわと話し声は散発的に起こる。

みな子は、とりあえず木曜日の1時間目である英語のプリントを机に広げていた。

大学進学希望のみな子が広げているのは専用プリントで、B4の用紙1枚全部が英語で埋め尽くされた、論文の抜粋である。

聡は、習熟度に応じて、かなり難度の高いプリントも渡していたのである。

ちなみに同じ進学希望でも、英語があまり得意でない将には、論文ではなく、日本の漫画の英訳プリントなどを渡して、アレルギー反応が起こらないように工夫している。

英語の論文に没頭しようとするみな子に、同じ漫研の木村すみれがそっと話し掛けてきた。

「ね、みな子、今日こそチョコ買うから、放課後、付き合って」

「決めたの?また迷うんじゃないでしょうね」

みな子が皮肉まじりに言うのにはわけがある。

実は休日だった昨日、みな子は、すみれのチョコ選びに付き合わされている。

しかも散々迷った上で、すみれは結局迷って何も買わなかったのだ。

「今日は買うってば。だからお願い」

と懇願するすみれは、随分前から漫研の先輩が好きだという。

卒業前になんとかコクりたい、つまりバレンタインは最後のチャンスなのだという。

もちろん当日は土曜だから学校は休みだが、前日の13日は3年は週に1度の登校日にあたっている。

チョコ目当てで登校する3年は結構多いと思われる。

以前、その先輩のことが好きだと、すみれから聞かされたとき、好きなキャラと全然違うじゃん、とみな子は指摘したが、

「キャラとリアルは違うよ」

などとすみれは言い訳したものだ。それどころか

「みな子もリアルで誰か好きな人ができたらわかるってば」

すみれはみな子をバカにした言い方さえした……。

みな子は、そっと英語のプリントから目をあげて、斜め前方2列前をそっと盗み見る。

……将は机にかがみ込むようにプリントをやっているのか、その広い背中しか見えない。

ふいにその背中が動く。みな子はそれだけで心臓が存在を主張を始めるのを感じた。

将は、少し起きると、左手で頬杖をついたようだ。

広い肩の上に、ボサボサの髪が見える。

――反対側に頬杖をついてくれれば顔が見えるのに。

そう思ってハッとする。なんで顔を見なくてはならないのだ。

みな子はすみれに

「わかったから」

と答えて無理やり自分を英語のプリントに集中させた。

 
 

午後になり、ボイコットはさらに増えた。

「何だコレ」

学食から井口と共に帰ってきた将は、その人数の多さに、視聴覚室の入り口で思わず呆然と立ち尽くした。

まるで教室がそっくりそのまま移動してきたような多さだった。

「将」

一足先に戻っていたカイトとユウタが将に駆け寄ってくる。

カイトがウヒヒと笑いながら言った。

「とうとう全員ボイコットだぜ」

「ウソ」

将は目をみはってあらためて視聴覚教室を眺めた。

ポイントのことで松岡を責めていた島田ですら、面白くなさそうに席についている。

「アイツ(京極)どんな顔してるだろうな」

ステッキをつきながら自分の席に移動する将にくっついて、カイトはさも愉快そうに話す。

と、将が席についたそのときだ。

視聴覚教室の入り口が、バン!と勢いよく開いて、皆いっせいに振り返った。

京極だ。京極が竹刀を片手に立っていた。

外からの逆光を受けて、シルエット状態だが仁王立ちだということはわかる。

京極は竹刀を床に叩きつけるように振り下ろすと一吼えした。

「……てめえら、いつまで遊んでんだ!」

昼休み明けでざわついていた視聴覚教室がシンと静まり返る。

「人が黙ってると思って、調子にのりやがって」

京極はゆっくりと歩き始める。

「さあ、戻れ、戻れ!」

京極は、一番後ろにいた女子生徒の腕を次々と掴んで引っ張り上げた。

「キャー」

「やめてください」

と声があがるが、視聴覚教室の席はベンチ状態なので、引っ張られても嫌々立ち上がるまでしかできない。

京極は、ベンチの一番端にいた小柄な真田由紀子の腕を掴むと、席から引っ張り出そうとした。

「やああ!」

由紀子の悲鳴に、思わず兵藤が京極のそばに駆け寄った。

「乱暴なことは止めてください!」

兵藤の言うことなど、京極が聞くはずがない。

京極は真田由紀子を席から引きずり出そうとなおも強引に華奢な腕を引っ張る。

「痛いいっ!」

由紀子の悲鳴に

「やめてください!」

兵藤が、由紀子を掴む京極の腕に無我夢中で取り付いた。

邪魔な兵藤を京極が力いっぱい振り払った瞬間、その力が強すぎたのか、兵藤は跳ねるように後ろに飛ばされた。

ゴッ、と嫌な音がした。兵藤が飛ばされたあたりには、違う列のベンチの角があった。

飛ばされた兵藤は……丸刈り頭を手で押さえて尻餅をついているように見えた。

しかし3秒後、押さえた手の下から、赤黒い血がどくどくと流れ出すのを、そこにいた全員が目撃した。

女子の叫び声がまず起こり、視聴覚室は怒号と悲鳴に包まれた。

第150話 最終列車

二人、さっきと同じようにくっついて寝そべりながらテレビを見ていた。

違っているのは、ワイドショーが終わって、夕方の地元番組になっていること、窓から差していた陽射しはいつのまにか陰り、空が夕方の色になっていることだった。将の手は、あいかわらず聡の体の柔らかさを、好きなように堪能している。

「今日……、何時までいられるの?」

聡がぽつりと訊いた。いつになく寂しげな声だ。将はそんな寂しそうな声を出す聡がいとおしくなる。

「泊まっ……ちゃおうかな」

などと言いながら聡を抱く腕の力を少し強くした。

「……だめよ。学校でしょ」

寂しそうなくせに、教師らしいことではゆずらない聡だ。

「冗談だよ」

将は聡をこちらに向き直らせると、今日、十数回目かになる口づけをして、髪の毛に顔をうずめた。

「ずっと……こうしていたいな、アキラ」

「うん……」

お互いのぬくもりも、匂いも、声もあと数時間でお別れ。

その事実が、それぞれをいっそう離れがたいものに感じさせて二人はさらに強く体をくっつけるように抱き合った。

 
 

「へえ。肉に直接砂糖を振り掛けるんですか」

将は湯気があがる鍋の中をのぞきこんだ。

寮母の沢村正枝が、鍋の中で焼けた牛肉に直接砂糖を振り掛けている。寮の食堂は、牛脂が焼ける香ばしい匂いでいっぱいだ。

「そうよ。関西風のやり方を習ってね。美味しかったからそれ以来真似してるのよ」

「アキラんちもこのやり方?」

将が隣の聡を振り返った。聡は山口、つまり西日本出身だ。

「ううん、うちは割り下を使っていたように思うけど。関西とか関東とかそういう意味じゃなくて単に手軽だからだと思うんだけど」

「へえ。でも、これってまさにすき『焼き』ですね」

将は正枝に笑いかけて、好青年ぶりを発揮している。

鍋の中では肉の次に、ネギとシイタケ、しらたきが加わり、肉の脂でいい具合に焼かれている。

正枝はその中に素早く酒を振り掛ける。鍋から蒸気が勢いよくあがったところで、正枝はラベルのないガラス瓶を手に取った。

どうやら醤油らしかった。

「そして、これがウチのオリジナル。お手製のダシ醤油よ」

それをぶちまけると、鍋は一気に茶色くなり、かわりに旨そうなすき焼きの匂いがあたりに充満しはじめた。

「ああ~っ、腹減った」

「さあ、あとは白菜とお豆腐を入れて、食べる少し前に春菊をいれるだけよ。純さんを呼んでこなくっちゃ」

純一は、暗くなったのに、外灯を点けて畑づくりにまだ精を出しているのである。

ちなみに、外灯は昨日、純一自身が取り付けたものだ。

 
 

「かんぱ~い」

すき焼きが出来上がり、将、聡と沢村夫妻の4人はビールで乾杯した。

後で将を送らないといけない聡は一口だけだが、それでも4人で鍋を囲むと、静かな山の夜もかなり賑やかになる。

先週ここでたった一人でテレビを見ながら食事をしていたことがまるでウソのようだと聡は思った。

1杯目を空けてしまった将は、純一からビールを注いでもらっている。

聡は、将の飲酒に関しては慣れてしまったので、何も言わない。

「んっ……、本当にウマイ!」

最初にすき焼きに手をつけた将は、感嘆の声をあげた。

「アキラも食ってみろよ、旨いぜ」

「ホント?」

聡もレース状に煮えた肉を取り、生卵につける。

肉を口に入れた聡は、大きな目を見開いて将を見つめた。

「ほんとだ、美味しいね!お肉が柔らかい」

「そんな。二人が買ってきてくれたお肉がいい肉なのよ」

正枝は謙遜した。純一は無言だが、その出来栄えに文句はないようだ。

「うちもぜひ真似しようぜ」

将はわざと『うち』という言葉を使った。聡と将来つくる家庭を想定した言葉に、将は願いをこめた。

聡は、それに気付いたのか気付かないのか

「そうね。ところであのダシ醤油ってどうやってつくるんですか?」

などと正枝にレシピを訊いている。

すると、純一のほうが、気付いたらしい。

「二人は、将来?」

とビールのロング缶の口を将のほうに向けながら訊く。

将来、の先に省略されているのはもちろん『結婚するのか』という質問である。

「ハイ。なるべく早く……と思ってるんですけど」

「何、学生結婚するの?」

グラスから泡立ったビールがこぼれそうになり将はあわてて口をつけながら

「ハイ」

と答えた。学生結婚という言葉に、レシピを訊き終わった聡が振り返る。

「副校長さん、近いうちにご結婚するんですか?」

「ハ?」

聡は目を丸くして、将と純一をかわるがわるに見た。

将は、横目でこっちを見ながら、いたずらっ子のような顔でビールを飲んでいる。

「ヤダ。そんな、まず卒業しないと、とてもとても……」

聡は手を振った。

「そうよねえ。結婚したら赤ちゃんができるかもしれないし、そうしたら副校長さんもお仕事続けられないしねえ」

と正枝が口を挟んだ。

『赤ちゃん』というリアルな言葉に、聡は少し頬が熱くなるのを感じて俯く。

自分と将と二人のDNAを受けついだ赤ちゃん。……愛の結晶。

かつて、博史にそれを提案されたときは、なんだかとてつもない重荷に思えたが、将とのそれを考えるのはなんだか甘い綿菓子を口にするようなフワフワした感覚があった。

「俺……僕は、経済的にはなんとかする自信はあるんですけどね」

将は、ビールで少し気が大きくなったのか、そう言い放った。

 
 

東京方面の特急は21時すぎで終わるが、将によると、甲府発の普通列車であれば、東京まで接続する最終は、22時すぎまであるということだった。

食後も、沢村夫妻は気を利かせてくれて、部屋に切り上げてくれた。

将と聡も、部屋に戻って食後のコーヒーを飲んだが、あっという間にここを出なければならない時間になってしまった。

「将、そろそろ出ないと」

「……まだいいよ」

二人は壁に寄りかかっている。テレビは点いているけど、二人ともほとんど内容は頭に入っていない。

「でも、あたしの運転だし……」

甲府駅までは聡が車で送ることにしている。

「ん……」

将は傍らの聡を振り返った。聡もちょうど将のほうを見ていた。吸い寄せられるように、二人は唇を重ねた。

「なんで泣くの」

唇を離した聡は、涙をこぼしていた。将はその涙を優しく指の背でぬぐう。

長い睫が涙で濡れているのを見て、将は胸が苦しくなるようなせつなさに襲われる。

「将……」

聡は将の胸にすがりついた。聡もせつないのは同じらしい。将は聡を抱きしめると、その耳元で、

「やっぱり……泊まっていこうか」

と囁く。それは本心がかなりの割合でまじっていた。

――このまま、ここに住み着いてしまってもいい。

将は別れのつらさが起こす刹那のあまり、一瞬そんなことさえ考えた。

でも……聡は、やっぱり将の胸の中で首を振ると頤をあげた。

「ごめんね。心配させて。ちょっとだけ寂しかったんだ」

と将の瞳を見つめてゆっくりと言った。そして

「土曜、いや、金曜夜には会えるんだもんね」

と微笑み、「行こうか」と立ち上がった。

立ち上がってコートを着る聡の背中を……将はもう一度後ろからきつく抱きしめた。

 
 

夜空に思い切りぶちまけたような星々が山影を浮き上がらせていた。

そんなに美しい夜空がフロントガラスの上に展開しているというのに、二人は言葉も少なかった。

急がないと、終電に間にあわなくなる。だけど……時を先に進めなくない。

そんな葛藤がハンドルを握る聡の中でうずまく。

しかし、夜の道路はごくスムーズに二人を甲府駅まで運んでしまった。

聡は駅の前で別れようとしたが、名残を惜しんだ将のほうが、聡の入場券を買った。

甲府駅が始発の列車は、もうホームに入っていた。

ときおり乗客が、自分でドアを開けて乗り込んでいる。

冬の間、寒冷地の列車のドアは、ボタンで開閉するようになっているのだ。

「金曜日、ていうかもう、あさってだよね。東京に戻るから」

聡は努めて明るい顔を見せるようにした。

だけど、吐く息もろとも、ホームの寒々しい白い照明に照らされて、ひどく寂しげな顔に、将には見えた。

「アキラ……」

何と声を掛けていいかわからない将は、ただ聡の名前を呼んで列車のドアの前で佇んだ。

白い息だけが二人の間にかわされる言葉のように流れていく。

将は聡をこんな寂しげなホームにひとり残して、列車に乗り込むことが、どうしても出来なかった。

将が見つめる聡がビクッと体をふるわせる。スピーカーから発車のベルが鳴り出したのだ。

「学校に、行ってね……将」

聡の目で、蛍光灯がゆらゆら光る。涙が落ちるのを一生懸命堪えているのだ。

それを見つけてしまった将は「じゃあな」という言葉を飲み込むと、ふいに聡を強く抱きしめて名前を呼ぶ。

別れがたいぬくもり。

「行かなくちゃ、将」

将の胸の中で、聡が苦しげに囁いた。

将は、いったん体を離すと、噛み付くように聡に口づけをした。

そのまま顔はずっと聡のほうを向いたまま、列車に乗り込む。

「じゃあな」

将が乗り込んですぐに、列車は動いた。

将は窓に張り付くようにして、ずっと聡を見ていた。

聡は……その場から動けなかった。聡の中でいま動いているのは頬を伝う涙だけだ。

駅員の視線も、乗客の視線もわかっていたし、羞恥心もあった。

けれど将と離れる圧倒的なせつなさの前では、そんなことは小さなことのようにも思えた。

聡は将を乗せた列車の灯りが、暗闇に溶けるように見えなくなるまで立ち尽くしていた。

どうして、こんなに哀しいのだろう。寂しいんだろう。せつないんだろう。たった2日なのに。

月曜日の朝も同じように二人は別れたはずなのに。

聡は行きは二人でのぼった駅の階段を、たった一人降りながら、考える。

あのときは早朝で……あわただしいのと、頭が眠気に支配されていたので、哀しさもせつなさも、きっと薄まっていたのだろう。

いま、はっきりと覚醒した頭に、星降る夜、最終のホーム、白い吐息と舞台装置が揃いすぎて……

二人にたとえたった2日でも、別れ別れになるつらさをいっそう尖らせた。

聡はさらに記憶をたどる。博史とは、こんなふうに何度も別れのシーンがあったはずだ。

しかも2日とはいわず、4ヶ月逢えないなんてざらだった。

あのときも、こんな風に泣いていただろうか……。

聡は洟をすすった。もう、思い出せなくなっている。

それほどまでに……将への想いは……博史を愛した記憶を追い出すほどまでに強いのだ。

そのとき、携帯が鳴った。

将が、泣いているであろう聡をなぐさめるべく、早くも電話を掛けてきたのだろうか。

聡はバッグのポケットから携帯を取り出した。

暗い中、輝く画面には、『原田博史』の文字が表示されていた。

まるで記憶が、彼を呼んだかのようだった。

しかし、現実の彼から連絡があったということは、おそらく、その危篤の母の動向だろう。

ついに審判が下される。聡は悪い方向ではないことを祈りながら、着信ボタンを押した。

電話の向こうは無言だった。

「……博史さん?」

聡のほうからその名前を呼ぶしかない。

「聡……」

やや低い、感情が読み取れない声で、博史は聡を呼んだ。

第149話 耳掻き

陽光はますます温かい色を、聡の部屋の木の壁に映している。

そんな中、将と聡はテレビを見ていた。壁に寄りかかって足を投げ出した聡の腿に将が頭を乗せて……つまり膝枕の状態だ。

天気もいいことだし、ドライブに行ってもよかった(社用車だけど)。

清里とかの観光地もここからは近い。だけど将はあいかわらず不自由な半ギプス足だ。

そんなこともあって二人は昼食を食べたあと、山の学校に帰ってきてゴロゴロすることに決めたのだ。

テレビは、祝日とはいえ平日と同じプログラムで、ワイドショーをやっていたが、それもさして大事件はないらしく、建国記念日がらみなのか皇室関連のことなどをのんびりと放送している。

6畳間は、大男の将が寝そべるといっそう狭い。

だけど二人には親密な空間ともいえなくはない。

「将、絶対背のびてるよね」

聡は将の髪の毛を優しく撫でながら呟いた。

背も伸びたけど、髪も最初の、海でびしょびしょになって遊んだ頃より少し長めになっている。

こめかみからうなじへと髪を繰り返し撫でる。

ボサボサにしているけど男の子にしてはしなやかな手触りで気持ちがいい。

自然な茶色にカラーリングしているのは聡と同じだ。

『中1から中2ぐらいまで、本当に金髪にしてたんだぜ。ロンブーの亮ぐらいの』

と聞いたことがある。眉の濃い将の金髪姿を想像するのは難しい。

今は普通の色になった髪を陽に焼けた耳の後ろに髪をかけるようにする。

耳にはピアス穴が3つあいている。だけど、今ピアスが入っているのはそのうち1番下の1つだけだ。

と、将が小指をたてて自らの耳の穴に突っ込んでぽりぽりと掻いた。……無意識らしい。

「将、耳掘ってあげようか」

聡は将に声を掛けた。

「やって、やって」

将は嬉しそうに一度起き上がった。

聡はポーチから耳掻きを取り出した。

耳掻きが好きな聡は、毎日のように欠かさないのでいつもそれを持ち歩いているのだ。

自分の耳掻きで赤の他人の耳を掘るなんて、本当だったら絶対嫌なはずだが、何故か自分から言い出してしまった聡。

耳掻きを共有できるほど……好き。

頭の中に浮かんだヘンな言い方に聡は、ふっと微笑む。

こんな日常の中に、たくさんの『好き』がひそんでいる。

そんな思い出にもならないような1つ1つを積み重ねて、二人の関係はいつか確固たるものになっていくのだろうか。

耳を剥き出しにして、将は再び聡の腿にワクワクした横顔を載せた。

「いくわよ」

なぜか声を掛けてしまったことに、なんだか聡は恥かしくなった。

とってもエッチなセリフを吐いた気がするが、気を取り直して、耳掻きを将の耳の中深くに侵入させる。

「おお」

将は一瞬、ぴくっと背筋を震わせた。気持ちがいいらしい。

「わっ!」

しかし、聡のほうは、将の耳の中から取り出した耳掻きを見て驚きのあまり声を出した。

大きなゴミが耳掻きから落ちそうなほどに掻き出された。

聡は、それを将の頬っぺたにいったんなすって、もう一度耳掻きを侵入させる……そのたびに面白いほどにゴミが取れる。

「将、……訊くけど、いつから耳掘ってない?」

「……あ~、いつだろ。高校入って1回は、やったと思うけど」

再びの耳掻きの侵入に将が背筋を震わせ、足先をもじもじさせる。

「あきれた。よく聞こえが悪くならないわね」

「えー、俺、耳いい方なんだけど」

聡は丹念に将の左右の耳を掘り起こして、さらに最後に、綿棒を使って消毒液で拭き取るところまでやった。

自分の耳でもなかなかここまではやらない。

「ほら、出来た!」

聡は将の頬っぺたに山盛りになった白いゴミを自分の掌に移すと、将を起き上がらせた。

「あ~、気持ちよかったァ。最高ッ」

将は気持ちよさそうに伸びをすると、聡の頬に軽くキスをして

「今度は俺が聡のを掘ってやるよ」

と向き直った。

「え~、あたし昨日やったから、いいよ」

「いいじゃん。新しいゴミが入ったかもしんないだろ」

と将は、強引に聡を自分の腿の上に横たえた。

窓から差し込む陽の光がちょうど、横になった聡の上半身に差して、すぐに翳った。

横たわった聡は、上目遣いで窓を見た。青い空に浮かぶちぎれ雲が太陽を隠したところだった。

大きくないからすぐに出てくるだろう、と思ったら案の定、雲のふちが眩しく輝き、太陽が顔を出した。

再び差し込んだ光に、聡の耳が浮かび、思わず将はごくっと唾を飲んだ。

明るすぎる午後の光に、透けるような色で軟骨による複雑な曲線を描きだしていた。

それは桃の実の表面のような、輝く細かい産毛に覆われている。

ふっくらとした耳たぶは、うっすらとした桃色。そこは何度か将が舐めた場所だ。

耳介の下からは、青いほどに白いうなじが始まっている。

細く、たよりない、うなじの生え際の毛。

耳介の下の日陰に生える隠花植物を思わせるようなひっそりとした毛は、金曜の夜に至近距離で見た誰にも見せない部分のちぢれた毛よりも、見ようによっては淫らだった。

将はますます昂ぶった心を押さえるように、耳掻きを、やや桃色の聡の耳の中へ、そっと『侵入』させる。

「くすぐったい」

聡が低い声で笑った。

将は、いつのまにか息をとめて、耳掻きに神経を集中させていた。

昨日、掘ったばかりだという聡の耳からはほとんどゴミは出ない。

耳掻きは、いつのまにか、聡の中に入れない将自身の代役になっていた。

「……気持ちいい?」

将は、低い声でゆっくりと訊いた。

「うん。すっごく」

聡は横顔で頷いた。少し笑いが混じった声は、まるで将の中で暴れる欲望に気付いていない。

将は繰り返し、聡の耳の穴に、耳掻きを出し入れしていたが、徐々に『代替』品で収まらなくなってきた。

聡が向きを変えたのをいいことに、あいている左手をそっと伸ばす。

聡はすぐに横顔のまま、将を見上げて、いたずらっぽく笑いながら

「なあに?この手は」

と自分の胸をまさぐりはじめた将の手に自分の手を乗せた。

将は答えない。

右手は耳を掘り続け、左は服の上からその柔らかさを確かめながら、聡のセーターをずりあげていく。

「エッチ」

聡は上目遣いの笑い顔でそういうと、将の膝の上から体を起こした。

そのまま呆けた顔のままの将の唇に軽く口づけをした。

 

「……ダメってば。沢村さんにわかっちゃう」

聡は自らの快感にも抵抗するように、『沢村さん』の固有名詞を出しながら、セーターの裾を元の位置に戻した。

そうしないと、ずるずると引きずられてしまいそうで。

「……アキラ、今週末何の日だか知ってる?」

「あっ……。バレンタイン?」

将を見つめる目はせつなげに潤み、頬は赤く紅潮していた。将は聡にそっと口づけをして

「俺、チョコいらないから、アキラがほしいな」

といたずらっぽく懇願した。

「だめよ。……将」

「18じゃないから……ていうんだろ。いいじゃん、前倒しで、さ」

将は、あいかわらず、笑顔のまま、そういいながら、聡を押し倒した。

「そんな……ダメだよ、やっぱり」

「ケーチ。でもそういうと思ったんだ」

聡の上にのしかかっていた将は、聡の横にどっかと横になった。

そのまま聡を後ろ向きで抱き寄せると、そのままセーターの裾から手を侵入させて、聡の裸の胸を愛撫し続ける。

「だから、おっぱいだけ。……いいじゃん?」

将は聡の耳に囁いた。耳掻きのおかげでそのセクシーさに気付いた耳。

聡のからだは……あちこちにこんなふうなセクシーが潜んでいるのだろう。

簡単に1つになってしまったら気付かなかったかもしれない。

『じらされている』状態を将は肯定的に楽しむことにした。

まだまだ聡と二人の長い人生はこれからだ、と将は信じているから。

「将ってば、もう」

聡のほうは、そういいながら別段抵抗もせず、好きなように自分の体をまさぐる将に身を任せていた。

第148話 山の休日(2)

沢村夫妻がお茶の支度をしている間、聡はとりあえず将を寮の中にある聡の部屋に案内した。

将は珍しそうに、簡素な木の壁などを見回していた。

「将、どうしたの、急に」

「会いたかったから……。なんだよ、喜んでくれないの?」

といいつつ、将は聡を素早く抱き寄せた。

柔らかな聡の感触をたしかめるように、抱きしめる腕に力を込める。

そんな将にすっぽり包まれた聡も自然に将の体に腕をまわす。

「土の匂いがする」

聡の髪に顔をうずめるようにして、将が囁いた。

「だって、畑づくり……」

顔を上げて説明しようとした聡は、その口を将の唇でふさがれた。

たった2日あけただけなのに、すでに懐かしい感触。

お互いの柔らかさを確かめるように、最初はそっと、だんだんと押し付ける力を強めていく……。

「お茶が入りましたよー」

食堂のほうから、聞こえた正枝の声に、二人は、名残惜しく唇を離すと顔を見合わせて微笑んだ。

 
 

お茶の湯気が窓から斜めに差し込む冬の陽射しを白く反射させる。

部屋や教室と同じようにウッディな食堂は、ガラス窓からふんだんに差し込む温かい陽射しのおかげで、いっそうのどかな雰囲気になっていた。

「鷹枝さんは……、学生さんですか?」

「ハイ。2年生です」

純一の問いに、躊躇もなくしゃーしゃーとウソをつく将を、聡は口をぽかんと開けて眺めた。

「どちらの大学で」

「東京大学です」

どうやら、将は、弁当屋についているウソと同じウソをつくことにしたらしい。

「そりゃ、たいしたもんだ」

と純一は目をみはったまま、聡のほうを見た。

ウソです。本当は高校生なんです、とも言えない聡はなんとなく笑うしかない。

背も高く、肩幅もがっしりとして、近頃さらに大人っぽくなってきた将である。

それに話し方だって、自然に敬語を使うことができるし、年配者に対する物腰も落ち着いている。

大学生といって誰も疑わないだろう。

このあとも、二人の馴れ初めなどについて、将は好きなように話していた。

「沢村さんは、ご結婚されてどれぐらいになるんですか?」

自然な流れで、訊いた将の問いに、夫妻は顔を見合わせた。

その見合わせる時間に、微妙な間合いがあった。

「籍を入れたのは、10年、いや11年かしらね……」

正枝が8年、9年、と数えるように確かめながら答えた。

11年?聡は意外に短いその数字を逆算してみる。50歳のときに結婚?

「わたしら、駆け落ちしたんです。いいトシして」

純一が、少し照れながら、その年齢にふさわしくない告白をした。しかしその顔は穏やかだった。

 
 

「すごいことを聞いちゃったね」

助手席で将が感に耐えずもらす。

ガタガタの未舗装道路を抜けて、舗装道路に出たときだった。

「うん……」

聡はフロントガラスの先に伸びる道路に視線を伸ばしながら、相槌を打った。

舗装道になったとはいえ、急なカーブが連続し、両側は暗い杉林に囲まれている。

二人が乗った軽乗用車は濃い紫の影をひたすら行く。

聡と将の二人は、昼食を兼ねて、夕食の買い物に出てきていた。

夕食は、すき焼きにすることになっていたのだが、若い将が加わったので、

肉や野菜を買い足さないととうてい足りない。

ちなみに将は夜10時の終電までここにいる、と宣言していた。

 
 

お互い、夫や妻、子供がいるのにも関わらず、恋に落ちて、それを全うした沢村夫妻。

特に勤めている会社の重役の娘を妻にしていた純一は、会社にいることもできなくなり、早期退職し、その退職一時金をすべて別れた妻に渡したという。

正枝も、経済的に何の苦労もなかった家を放り出して、純一に従いていった。

「でもね。私も純一さんも離婚が成立するのに3年もかかったんですよ」

以来、二人は住み込みのパチンコ屋や旅館などを転々とし、ここにたどりついたという。

「自分たちでも、何であんなふうになったのかわからないんですけどね。老いらくの恋、は失うものが多いってのは本当ですね」

と笑う正枝に、

「おいおい、47歳はまだ『老いらく』じゃないだろう」

と純一が訂正する。出会ったのが47歳なのだろう。そんなふうに顔を見合わせて笑った夫妻の顔には、経験した労苦にふさわしい皺が深く刻まれていた。だが、

「自分が選んだことですから」

とまっすぐに将と聡を見る二人の顔には、確かに幸せがあった。

 
 

運転しながら、聡は夫妻の話に自分を重ねていた。

博史を……思い出していた。

月曜日、火曜日と麓に降りてメールや留守電をチェックしていた聡だが、博史からの連絡があった気配はない。

危篤だといっていた薫は、どうなったんだろうか。

それを思うと聡は心臓がゆがむような、息苦しさを感じる。

夫妻は、お互いに、元の妻や夫、そして子供たちに申し訳ないことをしてしまった、と話していた。

特に、もう会えない子供のことを話すとき、正枝の目には光るものがあった。

すべてを失ったことも、妻や夫の苦しみを考えれば、当然のことだと言っていた……。

博史と結婚が決まって……指輪までもらっていたのに、将を好きになって別れを決めた自分は。

その報いに何を失うのだろうか。

そして何かの苦しみを与えられるのだろうか。

聡は不思議に怖さは感じなかった。

 
 

将は将で、夫妻の話を思い出して、純粋に感動していた。

17歳の自分には計り知れない、しがらみもあるであろう47歳の恋。

すべてを棄てて、全うすることができる。それほどの強い愛が本当にあるのだ。

そして、自分も、聡のためならすべてを棄ててもいい、と今一度、強く決心した将は運転席にいる聡を振り返る。

浮かない顔で運転に集中している聡。

おそらく、博史とその母のことを思い出して、罪の意識に悩んでいるのだろう。

穏やかなのにもかかわらず、沢村夫妻にあれほど強い結びつきを感じるのは、きっと二人がお互いの罪や苦しみをわかちあって来たからだろう。

幸福という人生の明るい部分だけでなく、暗い部分をもわかちあえる。

つらいことは二人で乗り越える。

聡の苦しみもわかちあって……二人で乗り越えたい。

そう思った将は、そんな決意表明のために、運転する聡の肩に手を置いた。

「運転、うまくなったじゃん」

とさりげなく、笑いかける。

聡は、将を振り返ると、つらそうな瞳のまま、口元で少し微笑んだ。

そして、視線を行き先に戻す。

そのとき、将が見つめていた、聡の瞳に明るい青が反射した。

車は暗い杉林を抜けて、明るい陽射しの当たる県道にようやく出たのだ。

澄んだ冬の青空が、希望のように二人の行く先に広がっている。

第147話 山の休日(1)

「副校長さんは、今日はお休みにならないんですか?」

寮母の沢村正枝が、朝食のみそ汁を聡の前に置きながら言った。今日は建国記念日、国民の祝日である。

「ええ……。休んでも行くところありませんしね」

聡が微笑むと、正枝は気の毒そうに笑い顔をつくりながら、聡の向かいに座る正枝の夫である純一の前にもみそ汁を置いた。

夫妻は、月曜日からこの学校に住み込みで着任している。正枝は寮母、純一は用務員である。

人事資料によると、二人とも62歳とのことで、人のよさそうな顔立ちが夫婦で似通っている。

二人が来てくれたおかげで、山の夜の怖さがなくなり、聡はほっとしていた。

「東京に帰ってくればいいのに」

純一は生卵に醤油をかけながら、聡を気遣うように目をあげた。

「はぁ……、でもトンボ帰りになっちゃうから、かえって疲れそうで」

「そうだなあ」

純一は細い目をみそ汁の湯気にうずめるようにしてみそ汁をすする。

「あ、でも沢村さんたちは、今日は休日ですから、お好きなように過ごして頂いてかまわないんですよ。わたしも暇潰し程度にしか働きませんから」

副校長でこの学校のリーダーである聡はいちおう、気遣った。

聡自ら『休日出勤』するとなると、沢村夫妻もそれに倣うかもしれない。案の定、

「そんな、副校長さんが働くのに私たちが遊ぶわけにはいきません。なあ正枝」

「そうですよ、純さん」

夫妻は顔を見合わせた。お互いを名前で呼び合う夫妻を聡は微笑ましく眺めた。

ちなみに『副校長なんて照れくさいからやめてください』と、聡が何度か頼んだにも関わらず夫妻は聡のことをあいかわらず副校長、と呼んでいる。

62にもなる二人がどういういきさつで、ここに住み込むようになったのか、聡はまだ聞いていない。

だけど、終わった食器を厨房に運んだ際に見た、正枝の年齢以上にゴツゴツした手から、たぶん相当苦労してきたんだろうな、と聡は想像する。

食器洗いを手伝おうとする聡に正枝は

「これは私のお仕事ですから、副校長さんは、副校長さんのお仕事をなさってください」

とやんわりと聡を追い出そうとする。

そんな正枝は、備え付けられた食器洗い機を『たった3人分だから』と使わないで、頑なに手で洗っている。

本来、休日に関しては寮母は休みで、寮に残った職員生徒で協力して家事万端を行うことになっているのだが、聡はひきさがることにした。

「じゃあ、私は、職員室にいますんで……。何か用がありましたらご遠慮なくどうぞ」

 
 

聡は寮を出ると深呼吸をした。今日もよい天気、つまり朝の冷え込みも厳しい。

教室や職員室がある校舎の陰になっている、踏み固められていない地面に、大きな霜柱が20センチにもたっているのを見つける。

もう何回も目にしているのに、聡はその端をそっと踏みしめて『さくっ』と崩れる感覚を楽しんだ。

日が当たっているところは、すでに溶けた霜で濡れた藪がキラキラ光っている。

ようやく聡はこの朝の冷え切った空気に慣れてきた。

冷え切った職員室に入ると、大きなストーブに火を入れる。

時計を見ると9時になるところだ。

――休日なんだし、せめてゆっくり起きる、って伝えとけばよかったかな。

聡は苦笑した。

先週、まだ聡一人のときは、どうせ一人なんだし、と特に用がない限り、ゆっくり起きていた。

その分、夕食のあとまで仕事をしたりしていたから、勤務時間的に問題があったわけではない。

しかし沢村夫妻は……彼らはかなり早起きだ。

昨日、聡は7時30分に準備された朝食を食べ、8時30分には勤務開始してしまうことになった。

それでも沢村夫妻にはゆっくりめらしいことが話してみてわかった。

休日の今日はさらに聡に気を遣ったのだろう、朝食は8時すぎだった。

もっとも聡にとっては平日同然の時間だが……。

聡は、今日は、あまりはかどっていないカリキュラム作成を、ちんたらやることにした。

その前にインスタントコーヒーを淹れて、しばし朝の憩いの時間を持つ。

マグカップから立ち上る湯気の向こうの窓から日の当たる外を眺める。

軍手をはめて、大きなスコップを抱えた沢村夫妻が、駐車スペースの向こうの藪のほうへと歩いていくのが見える。

そういえば、昨夜の夕食時に、畑をつくっていいか、といっていたっけ。

校舎の前のスペースは、平らにならして万能コートにしようと思っていたので、端っこだったらOKですよ、と聡は許可した。

つくるとしても、せいぜい畳1枚か2枚程度の小さな菜園だろうと思っていたのに、夫妻はどうやらさっそく藪を開墾してもっと広いものをつくりたいらしい。

聡はそれを見ながら考えた。

カリキュラムに畑仕事を入れるのはどうだろうか、と。

高校卒業資格取得の予備校とは何の関係もないが、作物が育つのを見るのは長い目で見れば、人生に役に立つはずだし、勉強の息抜きにもなるんじゃないだろうか……。

できた野菜は寮の食材としても使えるし。

聡はコーヒーをぐっと飲み干すと、職員室を出た。

「沢村さーん」

夫妻は揃って聡のほうを振り向いた。

「私にも手伝わせてください。畑づくり」

 
 

畑作り、といっても藪を開墾するところから始めないといけない。

背が高く生い茂った枯れた雑草を引っこ抜くのはなかなか骨だった。

「フンぬ!」

笹の仲間や枯れススキは聡一人で踏ん張っても、抜けない。

地面の下の根っこが意外に深く張っていて、かつまわりに密集した仲間どうして絡み合っているのだ。

工事で使うような大きなスコップを力いっぱい地面に差し込んで根を切ってやらないといけない。

しかし、根もまるで木のように硬い。いやそもそも地面自体が固く締まっているのだ。

「副校長、私がやりましょう」

純一がスコップを差し込むとようやく、引っ張った雑草がズボっと抜ける。

「これ、いっそ焼いちゃったらどうでしょうか」

聡は提案する。焼畑農業という言葉を思い出したからだ。

「何いってるんですか。山につながってるから山火事になっちゃいますよ」

純一と正枝は可笑しそうに笑った。

「そうか、そうですね」

聡もアハハと笑う。

寒いはずなのに、一生懸命引っこ抜く作業を繰り返しているうちに、いつのまにか汗ばんでいた。

 
 

1時間でようやく畳一帖と少しの草を抜いた。

「休憩しましょうか」

聡の提案に、広がった空き地に残った背の低い草を抜いたり、石を取り除いていた正枝が

「お茶でも淹れましょう」

と立ち上がった。

と、そのとき、車のエンジンとタイヤで石を踏みしめる音が近づいてきた。坂を登ってくるらしい。

「誰かしら」

休日の今日は、宅急便も郵便もないはずだ。

警戒した純一が、唯一の男として小走りに敷地の入り口に向かった。タクシーだった。

聡、純一、正枝が見守る中、タクシーは敷地の中ほどで止まると、ドアを開けた。

中から出てきたのは……。

「将!」

聡は思わず叫んだのと同時に、車から降り立った将のほうも、聡を見つけて笑顔で手をあげた。

石でごろごろの敷地はステッキも付きにくいはずだが、早足で聡のほうに歩いてくる。

聡も自然に将のほうへ駆け寄った。将は聡の姿を間近で見ると

「泥だらけじゃん。どうしたんだよ」

と笑った。

「副校長、そちらは……?」

純一と正枝がいつのまにか二人並んで、急に現れた背の高い若い男と聡のほうをかわるがわるにいぶかしそうに眺めていた。

何と説明しようか聡が迷っている間に、将のほうが

「アキラの彼氏で、鷹枝将といいます。アキラが世話になってます」

とぺこっと頭を下げて笑顔を見せた。

聡はカァっと顔が熱くなるのを隠すように、うつむいた。

第146話 春の予感

「聞いた?チャミ、京極のアレ」

「うん。チョーひどいよね。『死にたい奴はとっとと死んだらいい』とか、松岡くんにゆったんでしょ」

残り少ない昼休み。2年2組のあちこちで、「松岡くんは……」「病院……」などと噂が飛んでいた。

一人一人は声をひそめているが、皆が絶え間なく噂話をしているので、教室は全体的にざわめいていた。

そのとき。

カイトのパンチで、同級生の島田の体が教室後ろのロッカーのところまでふっとばされた。

キャー、と甲高い女子の悲鳴があがる。

ふっとばされた島田は、松岡のせいでポイントが減ってしまった、と声高にグチをもらした男子生徒である。

「何するんだよ!」

島田は倒れたまま、殴られた頬を押さえながらカイトに向き直った。

「うるせえ!お前がよけいなことを言うから、松岡は……!」

「やめろよ、カイト」

なおもつかみかかろうとするカイトの肩を、井口が抱きかかえるようにして止める。

「いいじゃんよ。結局、助かったんだから。……まったく人騒がせだよな」

島田は服をはたきながら、起き上がると、懲りずに憎まれ口を利く。

「なにぃ……」

松岡は井口に肩を掴まれたまま、島田をギラギラと睨みつけた。

今から30分ほど前。

屋上のさらに上の水道タンクから飛び降りた松岡は……。

落ちた場所がたまたま植え込みだったこともあり、奇跡的にかすり傷だけで済んだ。

しかし、ショックで気を失っていたので、駆けつけた救急車で病院に運ばれて、念のために検査を受けている。

 
 

そのとき、昼休みの終了を告げる4時間目の予鈴が鳴った。

カイトは、井口の手を払うようにどけると、島田に向かって唾を吐いた。

そして

「俺もボイコット参加するぜ。京極を追い出すまでなっ!」

とクラス中に聞こえるようにボイコットを宣言し、カバンを持って立ち上がった。

井口も無言で立つ。

京極の発言をじかに聞いてしまったからには、もうポイントうんぬんの問題ではない、と井口は判断したのだ。

井口、カイトに、真田由紀子ら松岡と親しかった者らが新たにボイコットに従った結果、午後はクラスの4分の1の生徒がいなくなった。

あちこちに空席がめだった教室で、残った者も、今後どうするかを相談する声が、サワサワと休み時間ごとに響いた。

 
 

「将、俺たちもボイコットに参加するぜっ!」

と鼻息も荒くやってきたカイトらを見て、先に視聴覚室に戻っていた将は苦笑した。

「一気に人数増えたな……いっとくけど、サボリとボイコットは違うからな」

と受け売りで注意をする将をみて、みな子は後ろでクスッと笑った。

「だけど、松岡は本当に運がいいよな」

兵藤が、あらためて感嘆する。

「骨折もしてないんだろ。うらやましいよ」

将は、自分の半ギプス足を軽く叩いて笑った。

「それにしても、京極のヤロー、許せねえ」

カイトが怒りもあらたに、拳を握り締めた。

「……絶対に、クビにしてやる!」

将も、そんなカイトに頷きながら、さっきの京極を思い出す。

……教師があんなことを……生徒が自殺しようとしているときに、さらにけしかけるようなことを言うなんて、許されるはずがない。

「なあ、将。さっきの、校長とかに言いつけても、京極をクビにできないかな」

さっきの京極の言動を一緒にまのあたりにしていた井口が、将に囁く。

「うん……」

校長も教頭もダメだ。

なぜなら、京極の行動を支持し……というより裏で糸をひいている張本人かもしれないからだ。

だけど、そんなこと井口はおろか、他の生徒たちには軽軽しく口に出来ない。

「証拠がないからな……」

将は、逡巡を、とりあえず証拠がないせいにした。

「そうだな。アイツ、いかにもしらばっくれそうだもんなー」

井口も、それに疑いを持たないようで、将はホッとしながらも、気持ちが重かった。

 
 

ボイコット組は、そのまま視聴覚室で終日自習をして過ごした。

今までも視聴覚室を使って授業を行うのは、聡の英語ぐらいだったので、実質上空き教室なのである。

かつ、多美先生のおかげなのだろうか、今日の段階で邪魔はまだ入らなかった。

将は学校帰りに、病院に寄ってみることにした。将が入院していた、看護士の山口が勤める病院だ。

松岡はおそらくそこに運ばれたはずである。

山口への土産に、何かお菓子でも買っていこうと、近くのケーキ屋に寄った将は、そこで異様に客が、こと女性が多いことに気付いた。

一瞬入店するのをためらうほどだった。

隙をついてやっと店内に入った将は、箱詰めのトリュフにハート型のケーキの見本を見て、

今週末がバレンタインデーである、ということをようやく思い出した。

――アキラ、今週も帰ってくるよな。

週末以外に、今週は水曜日に建国記念日がある。だけど、たぶん帰れないと思う、と聡は寂しそうに言っていた。

だったら、いっそ、自分が山梨に聡を訪ねようか。

重かった心が、聡を思うだけでほんのりと温かくなる。

とりあえず、プリンをいくつか買って、表に出た将は、晴れた夕空を見上げた。

夕陽はその色をだんだん赤に近づけながら、オレンジ色の温かい色で将の全身を染めた。

日曜の夜、ベッドの中で聡に結婚しよう、と告げたのは将の心の底からの願いだった。

同じ夕陽の下にいるであろう聡に、将は心で問い掛けてみる。

――アキラ、アキラ、知ってる? 俺を幸せに出来るのは、アキラだけだってこと……。

年上のくせに泣き虫の聡。いつもそばにいて守りたい……。

あいかわらず冷たい木枯らしが、将に向かって吹きつけてくるが、

桃色がかった夕陽の色の中に将は確かに、やがて来る春を感じていた。

 
 

「あら、鷹枝くん」

看護士の山口は、内科病棟のナースステーションに顔を出した将に気付いて軽く手を振った。

ちょうど日勤が終わるところらしかった。

山口によると、かすり傷だけだった松岡は、入院する必要もないと診断された。

意識が戻ってからも、しばらく安静にしていたが、さっき退院したという。

「でも、ショックが大きいからって、いちおう、カウンセラーが派遣されるみたいよ」

病院に駆けつけた松岡の親は、泣きながら、どうしてあんなことをしたのか、松岡に問い詰めていたという。

しかし、松岡は口を閉ざしたまま何も言わなかった。

「学校で何があったの?」

山口も訊きたがったが、将はいちおう

「俺もあんまりわかんないんだ」

と答えておいた。

 
 

「ただいまー」

灯りが漏れていたのが、外からも見えたので、大悟と瑞樹が帰ってきているのだろうと、玄関ドアをあけた将は中に向かって声をあげた。

病院に寄り道してきたので、帰りが少し遅くなった。

さっき美しい夕陽を見せていた空はすっかり暮れている。

「あ、将、おかえり」

中から、瑞樹だけが出てきた。

「大悟は?一緒に帰ってきたんじゃないの?」

「今日は夜勤もするんだって」

大悟は日中のハケンに加えて、夜も働きに行ったのだという。

よく働くな、と感心した将は……瑞樹の手に白い粉が付着しているのに気付いた。

「瑞樹!お前……またっ?」

将は、瑞樹を睨みつける間もなくあがりこむと、半ギプス足をひきずって洗面所に入った。

しかし、そこに注射器もヤクもなかった。

「将?……どうしたの?」

瑞樹は不思議そうに将の背後から声をかけた。

「ヤクはどうしたんだよ」

将は瑞樹に向き直った。

「え?」

「とぼけるなよ」

「え……やってないよ?」

真剣に問い詰める将に、瑞樹は大きく目を見開いて、パチパチとまたたく。

「この手は何だよ」

将は、瑞樹の、白い粉がついた左手の手首をギュッと掴んで持ち上げた。

瑞樹は大きな目をみはっていたが、一呼吸置いてプッと吹き出した。

「何がおかしいんだよ」

将は笑い出す瑞樹に本気で腹を立てた。

「将、こっち来て」

瑞樹は将の袖を引っ張って、キッチンに連れてくると、そこに置いたあるものを見せた。

「あっ」

こげ茶色のハート型に、白い粉が雪のように半分ほどふりかけられたケーキだ。

「今日、初めて焼いてみたんだ。これは、粉、ざ、と、う」

瑞樹はいたずらっぽく笑うと白い粉が付いた手をペロッと舐めた。

「なんだよー、おどかすなよー」

将は怒りと緊張が解けて、ソファーに倒れるように腰を落とすと、脱力したように背もたれに寄りかかる。

そういえば、玄関ドアをあけたときに、甘い匂いがしていた。

白い粉をヤクと勘違いして頭に血が上った将は、それに頭がまわらなかったのだ。

「バレンタイン用?」

ようやく落ち着いた将は、瑞樹に訊く。

「うん。……大悟にはナイショね。まだ練習だから」

と瑞樹は、再び茶漉しに入れた白い粉砂糖を、残り半分にさらさらとふりかけた。

「そうだ、将、食べてみる?夕食前だけど」

「おう。食べる食べる」

将はソファに腰掛けたまま、身を乗り出す。

「冷めたほうが美味しいらしいんだけど……」

といいながら瑞樹は、焼きたてのチョコレートケーキにナイフを入れると皿に盛り、フォークと共に将に持ってきた。

「じゃ、いただきまーす」

将はまだ温かい、その小さめの一切れをフォークで一刺しすると、一気に頬張った。

「うっ」

将はケーキを頬張ったまま、目を見開いて、瑞樹の顔を見た。

「ど、どうしたの? お、美味しくなかった?」

瑞樹が、心配そうに将をのぞきこむ。

「しょ、しょっぺえ……」

「ウソっ!」

瑞樹は、目をみはったかと思うと、オロオロした。

「どうしよう、砂糖と塩、間違えちゃったのかな……」

将は、瑞樹の狼狽振りを充分見届けると

「ふふふ……、ウッソだよ~ん」

と笑って舌を見せた。

「うまかったデース!もう少しちょうだい」

と空になった皿を瑞樹に向かって伸ばす。

瑞樹は、眼窩から目が飛び出しそうなほど、その大きな目を見開くと

「もー!将のバカっ!」

と叫んで、食べたあとの皿を奪った。

「もうあげないッ!」

と怒りの声をあげると、残りのケーキを冷蔵庫の低い位置にしまうためにしゃがみこんだ。

だけど。

――生まれて初めてつくったケーキを将に食べてもらえた。しかも『うまかった』って言ってもらえた。

瑞樹は、ソファーの将からは見えないカウンターの陰で、涙ぐんでいた。

 

……翌日、さらにボイコットする生徒は増え、クラスの半数に達していた。

第145話 屋上

「松岡が屋上に、屋上にのぼってる!」

「えっ!」

井口の取り乱した様子は、ただ単に『のぼっている』だけではないことは明確だった。

みな子も兵藤も井口が行くほうへ走った。将もステッキをつきながら視聴覚室を出た。

近くの靴箱から、上履きのまま外へ踊り出る。

屋上にのぼった、ということは。将たちは、当然、最悪の行動を想像していた。それほど、松岡は傷ついたのだろうか。

「やめろー」と上に向かって叫んでいたカイトが、将たちに気付いた。

外には……おそらく、校舎の外にある学食に、昼食を食べに行こうとして見つけたのだろう、十数人の生徒が上を見上げている。

その騒ぎが伝わったのか、校舎から、また学食から次々に生徒たちが出てきて上を見上げる。

将らも上を見上げた。

正午近くの太陽は、ちょうど将のいるあたりからは、松岡のすぐ後ろで輝いているように見えた。

肝心の松岡は逆光で見えにくい。将は手をかざして、目を細めた。

松岡は……屋上、正確に言うと屋上よりさらに高いところにいた。

3階建ての校舎の屋上の一番端に水道タンクがある。

どうやって登ったのか、松岡はその上にしゃがんで下を眺めていた。逆光で、表情までは見えない。

下では感じないが、上では風が結構強いらしい。

松岡の、そう長くはない髪の毛でも、風に煽られて形を変えている。

タンクに手すりはない。松岡がもし飛び降りる気なら、何も阻むものはないのだ。

「いつから、あそこに?」

将は井口に訊いた。

「わかんない。俺らも今気付いた。だけど3時間目、松岡のやつ、保健室に行くとかいってて」

井口は早口で答えた。

「危ないぞー!」

と叫んで止めようとする上級生もいたが、たいていの生徒は、上にいる松岡を好奇心で見あげているようだった。

騒ぎにやっと気付いた教員が一人、二人出てきて屋上を見上げた。

「井口っ!カイト!」

「おう」

将と井口、そしてカイトは、屋上へ続く階段へかけ登った。

将はまだ走れないので半ギプスの足をひきずるように一歩一歩登る。

こんなときに半ギプスの足はもどかしい……将は、井口とカイトを先に行かせながら、

「井口、鍵持ってる?」

と下から訊いた。

「持ってる」と叫びながら井口は階段を駆け上った。

ふだん、屋上へ通じる鉄のドアは鍵が掛かっている。

だが、将ら不良は、こっそりと鍵を盗んで、合鍵をつくっていた。

そして気の進まない授業のときなど、しばしば屋上に登っては、タバコを吸うなどして暇をつぶしていたのだ。

将はやったことはないが、ここできわどい逢引をする者もいるらしい。

できるだけ将は急いだが、やっと屋上のドアのところにたどりついたときに、

下から

「キャー」「わー」

という悲鳴がいっせいに波のように起こった。

――まさか、やってしまったのか。

屋上に出た将に、思いのほか冷たい突風が『ゴッ』っと吹き付ける。

タンクはドアの後ろのあたりにある。振り返った将は、ほっとした。

松岡はまだタンクの上に立っていたからだ。

どうやらしゃがんでいたのが、立ち上がったために、悲鳴が起こったらしい。

「やめろ!松岡」

井口がタンクの上に向かって叫んでいる。彼は実はあまり高いところが得意ではない。これ以上は登れないだろう。

カイトが、タンクに固定された鉄梯子を登っているところだった。

「く……くるな」

鉄梯子を登りつめて同じ高さにやってきたカイトに、松岡が震え声で制止する。

将も、ステッキを捨てて、鉄梯子を両手で引き寄せるようにして、ギプスではないほうの片足だけで一段一段登る。

ギプス足で、タンクの上に登ってきた将を見て、松岡は驚き、唾を飲み込むのがわかった。

もう、朝のように、泣いてはいないようだった。

しかし、紙のように青ざめた顔に、光が失せた目がやたらギョロッとし、異様な様子だった。

下にはかなりの生徒、そして教員も遅まきながら全員外に出てきたようだ。

ざわめきと、ひときわ通る多美先生の声で

「バカな真似はやめるんだ!」

という叫びが聞こえる。

「松岡、そんなところから落ちても、死なないのはわかってるよな」

将は、松岡に語りかけた。

タンクの上は風がいっそう強い。将の髪も風に踊っているのが自分でもわかる。

松岡は肩をふるわせたまま、それでも少しずつタンクの縁へとじりじり移動する。

「……せいぜい、4階建ての高さだ。怪我をするだけで死なない」

将は、ギプス足をひきずりながらじりじりと少しずつ松岡とのあいだの距離を縮めた。

風の冷たさが目にしみて、将は思わず目を細める。

カイトは、将と違う方向から松岡に同じようにアプローチしている。

「……でも打ち所が悪かったら、最悪、一生動けない体で生きないといけないかもしれないんだぞ」

松岡はうつむいて目をギュッとつむった。

細身の松岡など、そのまま吹き飛んでしまいそうな風が吹き付けてくる。

「あんなヤクザ、いやヤクザ以下のやつの言うことなんか、真に受けるなよ」

とカイトが一生懸命言う。むしろカイトのほうが泣きそうな顔をしていた。

「そうだよ……」

と将がカイトのセリフに同意しようとしたそのとき。

「飛び降りたきゃ、飛び降りればいい」

という声が背後からした。

京極だ。

京極はいつのまにか、屋上にのぼってきていて、タンクを横から見上げていた。

「死にたい奴はとっとと死んだらいい。クラスのお荷物がつらかったら、死ぬのは今のうちだぞ」

と追い討ちをかける。

将は息をするのを忘れるほど激しい憤りを感じた。出来る限りの鋭い視線で、京極を上から睨みつける。

京極は、その固めたパンチパーマもろとも、吹き付ける風にも不動だった。

松岡が、閉じていた目をあけて、そのまま眉ごとゆがめた。歯を強く噛み締めているのが見える。

京極の声は、決して大きな声ではなかった。屋上にいる者だけに聞きとれる程度のボリューム。

下から見たら、京極がタンクの上にいる松岡を説得しているように見えているはずだ。

松岡は、下をちらりと覗きこんで、うつむいた。

将は、そんな松岡を見て、飛び降りられないんだ、と少しほっとした。

時間をかければ、きっと止めさせることができる。

と希望を持った。

ヤクザ教師も、踏みとどまらせるために敢えてひどい言葉を投げたんだろう、と将は少しだけ京極を見直した。

だが、2秒後。

「どうした!まだ飛ばないのかァ!」

と再び京極の怒号が飛んだ。

「思い切って死ぬ勇気もないのか、このヘタレがヨォ」

と、小馬鹿にした調子で続ける。

松岡は、ゆっくりと目を見開くと、初めて、キッと京極を睨んだ。

次の瞬間。

そのまま、身を空中に躍らせた……。

「あっ!」

カイトの声を境に音が止まったように、何も聞こえなくなった。

将は、文字通り息を飲み……声がでない。

……まるでそれはスローモーションを見ているようだった。

松岡は、タンクを蹴り出して、前方の空中に飛び立ち……

その細くて華奢な体はそのままふわっと飛んでいきそうに見えたが、

やがて重力に引きずり込まれるように将とカイトの視界から消えた。

第144話 ボイコット(3)

「ところでさ、誰に提出するの?」

急に、前を歩くみな子が立ち止まって振り返った。

「そういえば、そうだな」

廊下で立ち止まって、将は考えた。

京極の件について裏で糸をひいている校長や教頭に、いきなり渡しても揉み潰されることは明白だ。

どうせ退学を覚悟しているとはいっても、できるだけ効果的に学校を動かすことを考えたい将の前に、屈強な巡回教師が現れた……多美先生だ。

「何してる!」

授業が始まったのに廊下でたむろしている将たちに、多美先生のほうから声をかけてきた。

学年主任で、その怖さは京極が赴任してくるまで学校一だったが、生徒のためを思ってくれている先生である。

将はとっさに、多美先生がいいと判断し、みな子が持っている声明文を差し出した。

多美先生は将の手書きのそれを、その場で読んだ……眉根を寄せた。

「ボイコットって……お前ら。こんなことをしてもポイントが減っていって退学になるだけだぞ」

多美先生は堀の深い顔の眉間に皺を寄せて、心配そうに将ら3人を順番に見詰めた。

「退学覚悟です。俺ら、あの京極……先生のやり方には断固着いていけません!」

将は断言した。

少し声が大きすぎたようで、多美先生が人差し指を口に当ててシー!と将を止めた。

「……話を聞こう」

多美先生は顎をしゃくって、将ら3人の前を促すように前を歩き始めた。

 
 

多美先生が将たちを連れて行ったのは、職員室ではなく、音楽室だった。

ここは多美先生専用のような教室である。防音装置がついているのも都合がいい。

将、兵藤、みな子は口々に兵藤の行状を多美先生に訴えた。

多美先生は、渋い顔をしながら、3人の話をまともに聞いてくれた。

「お前たちの気持ちはよくわかった。だが……」

授業には出ろ、というであろう多美先生に、将は先回りした。

「とにかく、俺たちは……少なくとも俺は、京極がいる限り、授業には出ません! 京極が出て行くか、俺が出て行くか、どっちかです」

将がそういうと、みな子も

「私も鷹枝くんと同じ気持ちです」

と続ける。兵藤はさらに

「僕も同じです。それに京極先生の英語になって、みんなやる気なくしてます。古城先生に戻してもらうことはできないんですか。

だいたい、うちの学校ってクラスも担任もずっと持ち上がりが特徴じゃないですか」

と担任を聡に戻すように訴えた。

聡が話題に出て将は、兵藤のほうに視線を移しながら、聡を思った。

聡が担任に戻るのは嬉しい。2学期以来、将にとって、学校は聡に会える場所だった。

再びそうなるのはやぶさかではない。ただ……聡が担任になると、再び二人は教師と生徒の関係に戻ってしまう。

将は少し複雑な気分になった。

「うーん……」

多美先生は腕組みをして、少し考え込んだ。

「とにかく、俺たちは京極がやめるまで、絶対、授業に出ません」

将は断言した。

 
 

「それ、知ってる。幻想即興曲だよね」

みな子がグランドピアノを弾く将を振り返った。3人は音楽室に残っている。

多美先生は、結局、決心が固い将たちを説得することを諦めた。

ただし

「ボイコットを単なるサボリの理由にするな。みんなが授業を受けている間、お前らなりにちゃんと自習しておけ」

とだけ言い聞かせた。

今日の3時間目に音楽がある。しかし、授業で音楽室は塞がるだろうから、3人はそのまま空いている音楽室に居残り、

1時間目を音楽の自習に充てる事にしたのだ。

将の鍵盤の上の手は、早いスピードで展開する曲を難なく弾きこなすように見えた。

「……すごいな。鷹枝くん、そんな特技があったんだ」

兵藤が目を丸くする。将は無言で指を走らせている。左右とも忙しく指を動かすこの曲の難度はかなり高い。

大きく手を広げるパートに移ると、将の手の大きさが俄然引きたつ。

しかし、クライマックスの高いところから低いところへおりてくるところでつまずいて、

将は一気に興が冷めたのか弾くのをやめてしまった。……深いため息をつく。

……10分ほど前。音楽室から職員室へ戻ろうとする多美先生を将は一人で追った。

兵藤やみな子に聞かれたくない話……金曜日に校長室から立ち聞きした、学校側がわざと中退者を出そうとしている件について、多美先生が知っているかを確認するためである。

将からそれを聞いた多美先生は、

「冗談か何かじゃないのか」

と、いぶかしげな顔をした。

「中退者が少ない、というのは、ウチの学校の特色なんだぞ」

とも言う。やっぱり、その件は一般の教員には知らされていないらしい。

「いや……、その……。経営とか大丈夫、なのかな……とか?」

将は口ごもりながら、なおも訊いてみる。すると多美先生は

「生徒がそんなこと心配するな……というとお前はもっと心配にするんだろうな」

と笑った。将がいっぱしに株式投資をやっているのを知っている多美先生だ。

「荒江学園は、高校以外にも、専門学校や各種スクール、介護施設など多角経営しているのは知っているな。グループ全体としては業績好調だ。そういう意味でも心配するな」

と将の肩を軽く叩いた。

将は腑に落ちなかった。校長たちの話は、結局何をもくろんでいるんだろうか、いよいよわからなくなった。

 
 

「何歳から習ってんの?」

と兵藤の声で、将は我に帰った。

将はグランドピアノの黒い天板に、逆さまに映りこむ自分の顎のあたりを見て一瞬ぼんやりしていたらしい。

「3歳。……母が△△さんのファンでさ。無理やりさせられたんだ」

そういうと将は椅子を立った。△△とは近年もアルバムでオリコン1位を獲得した還暦近い大御所である。

「そう。あたしもピアノ習ってたんだけど、中2で辞めちゃった。受験だから」

将に代わって今度は、みな子がピアノの椅子に座る。ショパンつながりで、ノクターンを弾く。

「俺も小6で辞めた」

しかし、中学受験のため、というわけではない。

ピアノが爆破事件で木っ端微塵になったから、というわけでもないが……。

「ええー!小6で幻想即興曲!マジスゴッ」

みな子は、ノクターンを弾く手を止めて素直に驚いた。

「いいなー。鷹枝くん指長いもんね……あたしなんて、ようやく1オクターブちょいだもんね」

といいながら、みな子はピアノの鍵盤の上に右手をめいいっぱい広げて置いた。

いちおうドから1オクターブ上のミまで届いては、いる。

「あー攣りそう!」

と悲鳴をあげながら、右手をパタパタさせた。

ミスタッチなく弾けるのはドから1オクターブ上のドまでだ、と嘆く。

「どれ」

将はみな子のパタパタさせた手首をふいに取った。

みな子は、体中が振動するほど、心臓が激しく動き出すのを感じた。

将は、無邪気に、みな子の右手に自らの左手をあわせた。

どうやら大きさを比べているらしい。将の手のほうが指の関節1つ分ずつ長い。

……男子の手がこんなに熱いとは思わなかった。

クラスで……いや学校一、大人の雰囲気の鷹枝将の手。

こんなふうに男子とじかに肌を触れ合うのは、たぶん初めてのみな子だ。

ハンドパワーさながらに、触れ合った部分から、何かがみな子に感染していくよう……なんだかいけない気がした。

みな子は、体中がカァっと熱くなり、クラクラした。

しかし将のほうは

「ほーんと、ちっちゃい手だなー」

などとのんきに感想を述べている。

我に帰ったみな子は、将とあわせていた右手を素早く引っ込めた。

「み、右手と左手で比べてもしょーがないじゃんっ!」

「えーそう?ケンちゃんはー?」

と今度は兵藤の右手の甲に、自分の右手をあわせる無邪気な将。

「鷹枝くんは、どうせパーツ全部がデカイんでしょ」

という兵藤に対し、

「あー、わかるぅ?」

といたずらっぽく笑う。……もちろん卑猥な意味である。

みな子は、一人でドキドキしていたのが無性に悔しくて乱暴にピアノを閉めた。

閉めた拍子に、弦がかすかに音階を奏でるように震えた。

 
 

「そうだ、これ」

視聴覚室に戻った将はカバンの中からプリントの束を出した。

かつての英語の教材だった聡の手作りのプリントだった。

京極が来た初日に、破くように命じられ、そのまま将が持ち帰ったものだ。

「ケンちゃんの分は俺のをコピーしたから」

将は、破かれてしまった兵藤の分として、コピーを渡した。

「ケンちゃんの細かい書き込みは復元できなかったけどサ」と付け加えながら。

だけど兵藤は目を輝かせて、それを受け取った。

「鷹枝くん、ありがとう」

将は照れながら、プリントの束の中から、次にみな子のを探し出して渡しながら

「これ、やろうぜ」

と提案した。

「だけどさ、次の映画、なんだかわからないよ」

と兵藤が言った。みな子はさっきからほとんど黙っている。

プリントには簡単な表現を英語だけで先に抜き出してある。

実際に映画を見ながら、その発音や意味を確認する、というやり方だが、プリントには映画のタイトルが書かれていない。

「えっとなあ……」

将は考え込んだ。聡がこのプリントをつくるためにDVDを見ていたのは覚えている。

だけどタイトルが思い出せない。

将は立ち上がると、ステッキをつきながら準備室へ向かった。

「写真は覚えているんだけどなあ。なんかモノクロで古いやつだと思うんだけど。なんかイケメンが出てくるやつ」

などといいながら、準備室にあるDVDを1枚1枚取り出して、ジャケットを確認している。

兵藤とみな子も、探すのを手伝った。モノクロの古い映画は手当たり次第将に見せる。

「これは?」

みな子が探し出した一枚を見た将は

「あーそれそれ!……『エデンの東』かあ」

ジェームス・ディーンをイケメン、とはね。みな子は心の中で苦笑した。

さっそく、遮光カーテンを引いて『エデンの東』を流す。

いつもは、授業にあわせて30分程度ずつの小出しでしか見れないのだが、

どうせボイコット中だからと、ノーカットで全部一気に流す。

みな子は、この有名な名画をテレビか何かで見たことがあった。

しかし、大画面で見ているうちに、自分の中に異変が起きているのに気付いた。

ジェームス・ディーンの顔が、どうしても将に見えるのだ。

――ぜんぜん、違うじゃんっ!

あせったみな子は、暗がりの中、ひそかに首をプルプル振るったり、目を閉じてパッと見開いたり、両手で目を覆って隙間から見たりと工夫してみたが、どう見ても、モノクロ画面の中の寂しげな不良少年はすべて将になってしまう。

みな子は、とうとう画面から視線をそらした。

しかし、そらした視線は今度は、自然に、斜め前で頬杖をついて画面に見入る将のほうへ向いてしまう。

斜め45度からの将の横顔は、画面の光の中で、いっそう大人っぽく見える。

――これって……。

やたら胸がドキドキする。みな子は必死でそれを否定した。

将に翻弄されているうちに、映画は終了した。

兵藤が遮光カーテンを開ける。

さっと入り込んでくる冬の光に、自分の心がさらけ出されそうで、みな子は思わず窓に背を向ける。

だけど、その視線の先にいる将を盗み見る。

「あー、ひさしぶりに、まともな英語聞いたァ」

将は伸びをしていた。

――あんなにしょっちゅう伸びばっかりしてるから背が伸びるんだわ。

「ね、星野サン」

ふいに話し掛けられて、みな子は再びビクンと体を震わせる。

「そ、そうねっ」

「今の、ジェームス・ディーンって俺っぽくね?」

まるで思っていることを言い当てられたように、みな子は焦った。

「ぜっ、ぜんぜんっ!ぜんぜん似てないっ!」

「えー」

あまりの激しい否定に将は、ぶーっと口をとがらせた。

そのユーモラスな顔に、みな子の焦りは急激に緩和された。

大人の男性に近い容貌と雰囲気を持つ将なのに、ものすごく子供っぽいときがある。

これもさっきの至近距離の目と同様、ごく近くにいる者しか知りえない将なのだ。

みな子は、いけないものを知ってしまった気がして、密かに切なくなった。

 
 

そのとき、チャイムが鳴った。3時間目が終わって昼休みになったらしい。

「さーて、メシでも食いに行くかぁ。星野サンは?」

将は席を立った。あっさりと機嫌を治したらしい。

「あ、あたしはお弁当だから、教室に戻ろうかな」

みな子も小さなトートバックに入れた弁当を持って、あわてて立ち上がった。

「ふーん。ヤクザのヤローに気をつけてね」

こんなとき、将はとてつもなく優しい目をする。

それは、猫を抱いていたときの将と今の将の唯一の接点のようにみな子は思った。

そして、それはみな子の心臓を再び忙しくさせる。

「ありがと」

みな子は小さく言って、急ぐ必要はないのに、速打ちを始めた心臓にせかされるように、走って視聴覚室を出ようとした。

出口で、逆に急いで視聴覚室に入ろうとした誰かとぶつかりそうになる。

それは将に負けないほど、デカイ生徒――井口だった。

井口は、息も荒く叫んだ。

「将、大変、大変だ! 松岡が屋上に――」

第143話 ボイコット(2)

「俺、授業ボイコットする。全部」

将のボイコット宣言にクラス中の皆が目を丸くした。

「お、おい。そんなことしたら、ヤクザ、いや京極が」

井口が身を乗り出して、止めるべく立ち上がろうとしたところで

「僕も付き合う」

と澄んだ声がした。丸刈りの兵藤だった。

兵藤は凛とした迷いのない顔で席に戻ると、いったん机に入れた教科書をカバンの中に戻し、将の後に従った。

「……あたしも、行く」

スクッと立ち上がったのは、女子クラス委員の星野みな子だった。

手早く教科書をカバンに入れて、将と兵藤の後を追う。

さすがにそれ以上、立ち上がる者はいなかったが、将だけでなく、真面目な兵藤に星野がボイコットに加わったことで動揺が広がっていた。

中には

「あんなことしたら、また連帯責任とかいわれんじゃないの?まったく無責任なヤツらだよなー」

と、とばっちりのポイント減を恐れるあまり、あからさまに非難するものもいた。

教室に残った井口は、非難したやつの顔を横目で睨みつけた。

金髪をやめたとはいえ、ガタイが大きく、普通にしていても目付きがもともと悪い井口に睨まれて、そいつは黙り込んだ。

しかし井口もポイント減は避けたいクチである。

井口は、なんとか無事卒業して、もらえるキャッシュバックを、あの引きこもりの兄がいる暗い家からの独立資金に充てようと計画している。

そいつがグチをいいたくなる気持ちもわからなくはなかった。

 
 

将たち3人はとりあえず視聴覚室で作戦会議をすることにした。

将が、視聴覚室の一番前の椅子にどっかりと腰掛けたとき、1時限目の始業のチャイムが鳴った。

「これからどうする」

将の後ろに座った兵藤が訊いた。

「サボっちゃおうか」

半分ふざけて答えた将に、

「サボリとボイコットは違うでしょ」

と同じく後ろに座った星野みな子が軽蔑したように将を見た。

「どう違うのよ、星野サン」

将は振り返ると、みな子の机に頬杖をついた。

一瞬、キスができるほどの距離まで近づいた将の顔に、みな子はあわててのけぞった。

「だ、だからぁ。ボイコットってのは何か意志を表明しないと」

一見鋭い印象の、男性的な切れ長に見える将の目。

それは整える必要のない端正な眉毛ゆえそう見えるのだ、とみな子は初めて知った。

眉の下の目は、睫が長く、大きな瞳を持つ二重瞼である……というのは至近距離まで近づいた者だけが知る秘密だ。

そんな距離に近づいたら最後、その切なくも甘くも見える瞳に、女は簡単に陥落してしまうだろう。

……それを垣間見てしまったみな子は、ただドキドキする。

本人は、といえば、自分がそんな罪作りな目をしているとは、まるで気付いてないらしい。

「なるほどね」

将は、あわてたみな子にまるで気付かず、前を向くとカバンの中からレポートを取り出した。

そして

「本当は、パソコンで作成したいよなあ、こういうの」

などと言いながら、机に屈み込んで、なにやら文字を書いている。

みな子はまだ、想定外のドキドキをもてあましながら、その肩幅を盗み見る。

将のことをイケメンだと騒いでいるのは、主にギャル系の女子生徒である。

みな子たちオタク、すなわち二次元を愛する女子からみれば、将は『ヨゴレ』過ぎていた。

――何を、誰とどんな風にどれだけしているかわかったもんじゃない。

みな子らから見ると、将はてんで遠い存在だった。

だけど……みな子は思い出している。

1年のときに偶然見た、将の意外な優しさを。

 

あれは5月の放課後だった。みな子は教室で漫研のクラブ活動に励んでいた。

漫研も部室はあるが、狭い部室は漫画雑誌や同人誌であふれんばかりになっているので、実質の活動は教室で行うのが通常だった。

勉強ができるみな子は、もちろんこの学校を志望していたわけではない。

滑り止めの学校の入試日、運悪く虫垂炎になってしまった。

ランクを落として受験した女子高も、必要以上に緊張したせいなのか、落ちてしまい……まったく腑に落ちない状態で荒江高校に入学したのだ。

そんなみな子が漫研に入ったのは、たまたま入学式のときに隣に座った子に誘われたからだ。

聡明なみな子は知っている。こういう『頭の悪い』学校に限ってイジメやシカトが激しいことを。

特に自分のように――ギャルでもなく、サービス精神旺盛なしゃべりも苦手で、マイペースで、プライドをこっそり隠し持っていて、下手に勉強さえできてしまう生徒は――

女子生徒にとても嫌われやすいタイプであるというのは、みな子が中学時代に学んだことだった。

だからこそ、早めに『どこかに……所属する』ということが重要だ、とみな子は考えた。

低偏差値校の女子は、だいたいギャルかオタクに2分されるらしい。

ギャルにはどうしてもなれないみな子は、学校ではオタクに属しておけば安心だ、と漫研に所属することにしたのだ。

次の同人誌は新人特集だという。どんな漫画を書こうか。

陽の当たる校庭をぼんやりと眺めながら、みな子は悩んでいた。

みな子はイラストは嫌いではなかったが……むしろ巧いと人から褒められるほどだったが、話を考えるのは少し面倒だった。

鉛筆を軽く紙の上に走らせる。それはみな子好みの美少年キャラの顔になっている。

校庭に再び目を移すと、なぜか制服のまま、3人の男子がサッカーを始めたところだった。

たぶん上級生だ。制服のだらしない着こなしでわかった。

いや、サッカーではなかった。

白いビニール袋に入れたゴミをサッカーのゴールに向かって蹴りこむ、という遊びを一人一人順番にやっていた。

何が面白いのか、ゴールに決まるたびにゲラゲラと腹を抱えて笑う。

下品な笑い声はみな子のいる窓辺まで届いた。

舗装していない校庭は夕陽の中で、みな子が前にテレビで見たサハラ砂漠みたいな色になっていた。

陽がかなり傾いているのが少年たちの影の長さでわかる。

みな子は、その時点では何も気付かなかった。

2人ほどがゴールを決めた時点だった。

校庭の塀を乗り越えて、猛スピードで一人の少年が駆けてきたかと思うと……ゴールを決めたばかりの男子を思い切り殴りつけたのだ。

その殴り方は鮮やかで、身のこなしは素早く……アニメの1シーンを見ているようだった。

私服の少年は、上級生より小さくみえたのにダントツ強かった。

遊んでいた上級生がほうほうの体で退散するのに10分もかからなかった。

少年は、ゴールの網の下に転がっていたゴミ袋を拾い、縛ってある口を開けた。

見ていたみな子は思わず『あっ』と声をあげた。

ビニールの中からは血だらけの何か、小動物が出てきたのだ。

あの上級生たちは、ビニールの中に小さな動物を入れて、それをサッカーボール代わりに思い切りシュートしていたに違いない。

――ひどい!

見てしまったみな子は、教室を出て、校庭へ駆け出た。

ちょうど、少年がその血だらけの動物を抱いて、こちらへ歩いてくるところだった。

長めの明るい色の茶髪に、耳には3個ずつピアス、腰パンにしたジーンズと、いかにも『不良です』とわかる格好にも関わらず、全身に西日を受けて、何故か輝いているように見えた。

「うっ」

その動物を間近で見たみな子は口を手で押さえた。子猫だった。可哀想な子猫からは腸がはみ出ていた。

あんなに血が出てるなら、もうとっくに死んでるだろうと、みな子は思った。

少年の服はすでに猫の血で汚れていたが、少年はそんなことにまるで頓着しないようだった。

少年は、夕陽を背中に立ち尽くしているみな子に気付くと、

「このへんで犬猫病院知らない?」

と訊いた。まだ、あどけなさが残る声だった。

それは……みな子が現実で初めて見た、といっていいほど美しい少年だった。

夕陽がまぶしいのか、端正な顔をややしかめているが、その金茶色に輝く瞳でみな子をまっすぐに見つめた。

「し、しらない……」

「そっか」

少年は、みな子の横を素通りした。血の匂いが一瞬、ツンと鼻をついた。

振り返ったみな子は、少年が抱いた猫から、弱弱しく『ニャー……』という声が聞こえた気がした。

みな子は、その少年が忘れられなかった。

だが、それ以来、校内や、学校近くを歩くときは注意していたのだが、少年の姿を見ることはなかった。

ひょっとして天使なのかも、という自分の考えを、馬鹿馬鹿しいと振り払う。

「わー、これいいね。みな子のオリジナル?」

という声に驚いてみな子は顔をあげた。漫研の先輩の声に、そのへんにいた部員が皆集まってきた。

みな子のスケッチブックの上にはあのときの少年が描かれている。

すっかり治った猫を抱いて、笑顔になっていた。笑顔はもちろん、みな子の想像だが。

無意識に描いてしまっていたことに、みな子は顔を赤くした。

しばらくして、みな子は、あの少年が実は、入学以来欠席していたクラスメートの鷹枝将だということを知り、愕然とするのだった。

――あの猫、その後どうなったの?死んじゃったの?

みな子は聞きたかったけれど、めったに学校に来ない将だ。

なかなか訊くチャンスがなかったし、だいたい、札付きの……みな子は信じていないけど『人殺し』なんて噂のある将に話し掛けるのも憚られた。

それに、将はしばらく学校にこないうちに『ニョキッ』と音を立てるように、いつのまにか大男に変貌してしまった。

それは猫を助けた頃の、天使のような少年とはまるで別人の『男性』が現れたかのようだった……。

 
 

その将が、こんなに近くにいる……。ボイコット仲間として。

さっき、間近で見た瞳は、あのとき夕陽に照らされたときのままだった……。

「できた!」

見つめていた丸まった背中が、急に起き上がったので、みな子は再びのけぞった。

席を立った兵藤の後に着いて将の机の上のレポート用紙をのぞきこんだ。

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 人権侵害教師・京極の罷免を要求する!

 

 我々は、教育という言葉を曲解し、生徒の正当な権利を迫害する京極の行為の数々を断固許さない。

 よって彼を2年2組の担任、および英語担当からの罷免を要求するため、一切の授業をボイコットするものとする。

 

     2年2組 鷹枝将

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知ってる限りの硬い表現を使って、将はようやく文章を書き上げた。

将は、連名のサインを書くように指示しながら、

「誤字ないかな。星野サン」

と親しげに話し掛けた。

みな子は、急に話し掛けられてまた、ドキっとしたが、

「たぶん……ない、と思うけど」

となんとか冷静に答えることができた。

逆に1年以上、ほとんど授業をサボっていたのに、よくこんなに漢字の熟語を手書きで使えると感心する。

「でもさ、意志を表明したところで、受け入れられるかな」

と署名し終わった兵藤が上目遣いで言った。

「まあ、無理でしょ」

書いた本人の将も、いいかげんに答えながら伸びをする。

そんな格好をすると、ただでさえある上背がグーンと伸びて、いっそうあのときの少年と掛け離れてしまう、とみな子は思った。

「いいんだ、オレ、学校クビになったって」

伸びをし終わると将は、片方ずつ肩を上げ下げしながら言った。

すると兵藤も

「そうだな。僕も、寿司屋になるのに、もともと高校なんて関係ないしな」

と笑った。将と兵藤の視線はしぜんにみな子に集まった。

「あ……、あたしだって。退学ぐらい。……高卒資格試験ぐらいチョロイわよっ」

みな子はあわてるあまり、思わず豪語してしまった。

「さっすが、星野サン!」

「キャ!」

思わずみな子が声をあげたのは、将の長い手がにゅっと伸びてきて、みな子の肩を軽く叩いたからだ。

……そんな声をあげてしまって、逆に照れたみな子は、すっくと立ち上がると

「これ、さっそく提出しにいきましょ」

と将の手書きの声明文を手にとった。

将は、さっきからみな子が可愛らしいヤツだと思っている。

流行りのツンデレちゃんなのかな、と廊下を大またで歩く姿を微笑ましく追った。

ふと、萩にあったアルバムで見た、高校時代の聡もこんな感じだったのかな、と想像した。

第142話 ボイコット(1)

週末が終わってしまった。将はため息をついた。

聡が東京に帰ってきていた、夢の時間。

今朝早く、出発する聡のタクシーに便乗して、将は自宅マンションに戻ってきた。

別れ際に、運転手の目を気にする聡にかまわず、後部座席で将は聡と唇を重ねた。

そのぬくもりはまだ生々しいのに、将がいるマンションの廊下は思わずふるえあがるほど寒い。

今日も天気は好いらしく、その分冷え込みもひどい。

マンションでは、早くも大悟と瑞樹が起きていて、朝食を食べているところだった。

「はよ……、将、なんだその顔?」

大悟が、顔に赤や青のアザが残る将の顔を見咎める。

瑞樹も目を見開いている。

「ああ、コレ。なんでもない。……いまからハケン?」

将は、あまり深く追求するなという意味で、大悟に逆に訊き返した。

大悟はそれをさとったのか、

「ああ」とだけ答えた。

瑞樹までジーンズ姿なので訊くと、今日から一緒にハケンに行くことにしたのだという。

朝食を終えた二人は、あわただしくも、仲良くハケンへ出かけてしまった。

将は取り残されて一人になってしまった。

――しかし好都合。

これで、学校をサボれる。

将は自分のベッドに横になった。

それにしてもよかった……瑞樹が真面目に働こうとしているのはいいことだ。

これがヤクと離れるきっかけになってくれれば……。

まだ寝足りない将はすぐにウトウトとしてきた。

と、そのとき。携帯が鳴った。

「なんだよぉ~」

寝付いたばかりの将は、目をあけるのももどかしく携帯を手探りで取った。

井口からだ。

「なんだよー、朝っぱらからよぉ」

めいっぱい不機嫌な声で出る。

「おう、将、おまえさ、今日学校こいよ、絶対」

「あんだよー。そんなことかよ。……カンケーね-だろ、切るぞ」

まだ眠い将は、井口がなんでいちいちそんな電話をかけてくるのかもちろんわからない。

「おい、切るなよ。将」

井口があわてて大声をあげる。

「ヤクザ(京極)のヤツ、今度から一人でも無断欠席がいたら、クラス全員のポイントをさっぴくなんて言い出しやがってさぁ。ホラ、お前、金曜サボったろ」

「ほわぁ~……マジかよ」

返事をする将は、まだアクビまじりだ。

「マジだぜ。いいか、俺は伝えたからな。絶対欠席すんなよ。わかったな」

井口は、しつこく念を押してようやく電話を切ってくれた。

将は電話を持ったまま、そのまま仰向けに目を閉じた。

――知るもんか。

眠気に支配された将の思考は無視しろ、と指令を出す。

――畜生!

十数秒後、将は、目をカッと見開くとガバッと起きた。

「クソー、あの京極のヤロー!」

とブツクサ言いながら制服に着替えた。

 
 

タクシーに乗った将は、金曜の件を唐突に思い出した。

ちなみに、半ギプスになったとはいえ、まだ徒歩10分の学校に杖をついて行くのはしんどい。

ゆえにまだタクシーを利用しているのだ。

金曜の件……あの京極の強圧的な指導は、中退者をわざと出してキャッシュバック額を少なくするためのものだということ。

そして出た中退者は、あわよくば、山梨に新設中の中退者用の全寮制の予備校に取り込もうという陰謀。

思い出してしまった将は、だんだん学校に行く気が萎えてくるのを感じた。

が、タクシーは校門前についてしまい、

「おう、鷹枝将」

と、タクシーを降りるなり、竹刀を片手にしたヤクザ教師京極に目をつけられることになった。

「金曜日は、無断欠席で、どこにいってたんだァ、ケンカか? オイ」

京極は竹刀で地面を突付きながら、斜に構えて将にすごんでくる。

将の顔のアザは『ケンカ』と勝手に決め付けたようだ。

将は、無視して先に進もうとしたが

「オイ、聞いてンのかァ!」

京極はいきなり、竹刀で地面をバシッと叩いて軽くキレるパフォーマンスをした。

将は面倒くさそうに横目だけで振り返ると

「足。ギプスを半ギプスにした。届忘れただけだっつの」

と言い訳してとっととそこから立ち去った(本当はサボリだったが)。

 
 

「あ、将!……ちゃんと来たか、あ~よかったぁ」

将の姿を入り口に見つけた井口は、ほっとしたように教壇に座り込んだ。

「なんだよ」

将はステッキをつきながら、教壇に座り込んだ井口の前を通り過ぎて自分の席についた。

「もー、金曜お前がサボったおかげで、あのヤクザ、さんざんだったんだぜー!」

井口は将の顔のアザをみてもなんにもいわない。

そういうのに慣れているというのもあるが、今は、アザよりヤクザ京極の仕打ちを訴えたいらしい。

「へーそー」

将は興味なさそうにカバンを机の横にかけると、机の上につっぷした。

「将、教科書持ってきてるの?」

「ない」

井口の心配そうな問いに将はさも面倒くさそうに答える。

「もー。俺、また借りにいくのかよ~?」

井口が抗議する。英語の教科書を将はとうに紛失している。

だからいつも井口が1組から借りてきてくれてるのだ。

「いーよ。別に借りなくても。フン」

「そういうわけにはいかねーだろ。ヤクザがまたキレるし」

すると、将の斜め後ろから、教科書が無言で差し出された。

女子クラス委員の星野みな子だ。

「星野サン?」

将は、教科書が差し出されたほうを振り返った。

「部室に先輩のが置きっぱだったから。たぶん今年のと同じだから、使えば」

星野は将の顔をみずに、そっぽを向いて答えた。

ツンと横を向いた眼鏡の横顔は、なかなか美人だということに将は今気付いた。

漫研所属、どっちかというとアニオタ腐女子系で、この学校で珍しく勉強ができる星野である。

彼女のことを美人だなんて気づいているやつは誰もいないに違いない。

「……どうもありがとう。星野サン」

将は素直に星野に礼を言った。

星野はあいかわらず将から目をそらしていたが、その頬はほんのりと染まっていた。

 
 

乱暴に引き戸が開くのを合図に、チャイムより早めにHRが始まるのも、すでに日常になりつつある。

京極はズカズカと教壇に登ると、

「今日は、無断欠席はいないようだな」

とわざわざ将のほうをみて言った。

しかし当の将は、わざとらしく窓の外に目をそらしていて、京極の嫌味にはまるで気付かない。

京極は、チッと舌打ちをすると、全員の出欠を順番に取りはじめた。

「松岡。……松岡は無断欠席か」

生徒たちは少々ざわめいた。

その見た目からして弱弱しい松岡は、いたって真面目で無断欠席などしたことがないからだ。

鼻をほじっていた将は、振り返った。なるほど、松岡の席はあいている。

京極は、そのまま最後まで出欠を取ったところで、いきなりバシッと教卓を竹刀で叩いた。

生徒がのけぞるように身を固くする。

「……俺が金曜日になんていったか覚えてるよな」

教壇の上から、生徒らを睥睨する。

「一人でも、無断欠席がいたら、お前ら全員100P引きとな!」

生徒一人一人の目がせつなそうに歪む。沈黙こそ守っているが

『そんな殺生な……』という声が聞こえてきそうだった。

そのときだ。ガラッと前の引き戸が開いて、

「すいません。遅くなりまして」

と息をはずませて、松岡が飛び込んできた。

クラス中の目が松岡に集まる中、彼は教室に入るなり前のめりにかがむように倒れこんだ。

ゼイゼイという息に、ヒューヒューという音が混じる呼吸は誰が見ても体調が悪そうだった。

京極だけが教壇の上から、床に手をついて苦しげな松岡を平然と見下ろして

「あぁっ?遅くなった、だとう?」

と威嚇の大声をあげる。

「理由は!届は出てないぞ!」

「す……すいませ……ん。登校中に……急に……発作が」

理由を述べる松岡の喉からは、ヒューヒューという苦しげな音が響いた。

それは、どんなに鈍い者でも呼吸困難の苦しさを想像できるほどの音だった。

現に一番前の真田由紀子などは、自分が呼吸困難になっているような苦しげな表情に思わず変わっている。

「発作だァ……?」

京極は教壇をドカドカと降りると、床に手をつく松岡の襟首を乱暴に引っ張りあげた。

はずみで、松岡の喉から咽るような咳が立て続けに出た。

「たるんでるからそうなるんだ!」

そういって、叩きつけるように引っ張り挙げた襟から手を離した。

松岡は、倒れこみはしなかったものの、体を曲げて苦しげに咳を続けた。

京極は「ケッ」と吐きすてるように言うと

「無断遅刻は、無断欠席同様、連帯責任と俺はいったはずだ」

とクラス中に聞こえるように怒鳴った。

「全員50P引き!」

「えー」

今度は、やや控えめに抗議の声があがった。

「そ、そんな」

松岡も咳で赤くなった顔を泣きそうにゆがめた。

彼のせい……彼の発作のせいでクラス全員が咎を受けるのが彼には耐えられないのだ。

「先生!」

とうとうクラスの皆を代表して丸刈りの兵藤が立ち上がった。

「松岡くんは、喘息持ちなんです。大目に見てもらえませんか」

兵藤の言うとおり、松岡は日頃から鼻炎に喘息とアレルギー系の慢性病に悩まされていたのだった。

兵藤が、京極の目をまっすぐに見据えているのを将は見た。

「ふっ」

京極は兵藤に向かって斜に構えると、軽く笑った。次に

「そんな病気、甘えだ」

と言い放った。

「ヒドイ!」「ひどすぎる」

クラス中がざわめくのを、京極は竹刀で一喝する。

「だが!」

シンと静まり返った教室に京極は偉そうに言った。

「今回は特別に大目に見てやろう。全員30P引きにしてやる」

生徒たちは不満を飲み込んで押し黙った。

「お前も30P引きでいい。そのかわりに罰を受けろ」

と京極は松岡に向き直ると、黒板にチョークでなにやら文字を書き始めた。

書き終わると、京極は松岡に、

「お前は、次の俺の授業までずっとここに座っていろ。命令だ」

黒板に書いた文字の下の教壇に正座することを命じた。

皆固唾を呑んで、松岡を見守った。

松岡は、うつむくと、京極の言うとおり教壇に座った。

その頬には耐えられなかったのか、涙が流れていた。

黒板にはこう書いてあった。

『私は、たるんだ精神のせいで、病気持ちです。それでクラスに迷惑をかけてしまいました。このままでは社会のお荷物です。負け組決定です』

もはや罰を超越している、ひどい屈辱を、京極は松岡に与えているのだ。

将は座ったまま、京極を睨みつけた。

 
 

HRはやや延長して終わった。

授業開始まで7分しかないが、何人かの生徒たちは心配そうに、前に座らされている松岡のところに集まった。

松岡は、涙にうるんだ目のまま、休憩時間だというのにずっとそこに座っていた。

「みんな、ゴメン。俺のせいで……」

としきりに謝る。

「なんだよ松岡、お前、そんなところに座っている必要ないよ」

とカイト。カイトは茶髪のワルながら、ゲーム会社の社会見学以来、松岡と親しいのだ。

「そうだよ」

兵藤もうなづく。

だが――不良のカイトが松岡に同情的な態度なので、表立って松岡を非難するものはいなかったが――

なんで松岡のせいで自分のポイントが減じられないといけないのか。

生徒の中には、そんな不満を持つ者がいるのも明らかだった。

遠巻きに集まる冷たい視線を感じるのか、松岡はかたくなに、そこに座ったままだった。

そして京極の書いた言葉に直接傷ついただけでなく、ナイーブな松岡は自らを深く傷つけてしまっているのだ。

将は、自分の席から立たずに、松岡の悲しげな顔を見つめた。

――こんなことまですんのか。金のために……。

まず、京極に腹が立った。そして次に彼のそういう行動を容認かつ推奨している学校に。

さらには、自分のポイントのことしか考えないあさましいクラスメートに。

将の中の怒りは、熱く燃え上った……。

将はついに立ち上がった。

ステッキをついて、松岡のいる教壇に上がる。

背の高い将に皆の注目が集まる。

将は黒板消しを取ると、いとも簡単に、松岡の後ろに書かれた言葉を全部消してしまった。

そのまま、松岡の後ろを通り過ぎて、前の引き戸から廊下へ出る。

その手にはいつのまにかカバンを持っていた。

「将、どこいくんだよ。あとちょっとで授業始まるぜ」

井口が将の背中に、大声で訊く。

クラス中の皆が将の動向を見守る中、将は、ゆっくりと振り返ると皆に聞こえるようにはっきりと宣言した。

「俺、授業ボイコットする。全部」

第141話 悪夢

特急あずさに揺られて、聡はいつのまにかシートに身を預けて眠っていた。

今朝早かったというのもある。

それに、この週末。

金曜の夜は、呑み過ぎ。

土曜の夜は、博史の母に真実を打ち明けてしまったことへの後悔。

日曜の夜は、博史の母がもし、最悪の事態になったらどうしよう、という心配と、将からの思いがけないプロポーズ。

気がかりなこと、興奮することだらけでぐっすり眠るわけにはいかなかった聡の脳は、

本人は気付いていないけれど睡眠を渇望していたのだ。

 
 

携帯が鳴っている。

――あれ。音がしないよう設定したはずだけど……。

聡は眠りの中で、眼を閉じたまま、思った。

早く出ないと、他の乗客に迷惑だ、と常識が後追いで目を覚ます。

聡は、くっついた上下の瞼を引き剥がすようにこじ開けると、バッグの中に入れた携帯を探す。

――ない?

取り出しやすいようにバッグのポケットの中に入れたはずなのにない。

ボストンのほうのポケットだっただろうか。それともコートのポケット?

聡はあわてて、あちこちのポケットに手をつっこんで携帯を探した。

その間も、携帯はしつこく鳴り続けている。

こんなに大きな音で鳴るなら、浅いところに入っているはずだ。

それにしても、こんなに朝早く携帯を鳴らすなんて、誰だろう。

すべてのポケットをまさぐり終わったのに携帯はない。

聡は、もう一度バッグを膝の上に取ると、その中身をかきまぜるように丹念に探した。それでもない。

携帯はまだ鳴っている。

絶対にありえない、と思いながら、今度はボストンを取る。

これも中に入った衣類を1枚1枚掻き分けながら用心深く見る。どうしてもない。

ボストンをもとどおり隣の席に置いてため息をついた聡の目に、膝の上で点滅する携帯の姿が飛び込んできた。

――ウソ!あんなに探したのに、なんでこんなところに。

聡はまだ鳴り続けている携帯を、誰からかも確かめずに、あわてて開ける。

『もしもし』

『聡』

博史だった。……まるでうまくいっている時のような、優しい声で博史は聡を呼んだ。

その穏やかな声は聡に次の言葉を想像させるのを阻んだ。

電話の向こうで博史はゆっくりと、告げた。

『母が……死んだ』

――えっ。

ウソ。と普段だったら反射的に出る返答も、喉が貼り付いてしまったように声が出ない。

『母が死んだ。死んだんだ』

博史は電話の中で繰り返す。口調がやや早くなっている。

声が出ない。いや、それ以前に答える言葉も見つからない。

不本意ながら……いや深層では意図的になのか、沈黙してしまう聡。

こんなに早く。余命は11月から1年だったはずではないのか。

余命宣告はそんなに、大きく外れてしまうものなのか。

余命宣告の不確かさに思考を延ばす聡。無意識に……自分をなんとか擁護したいからに他ならない。

博史はさらに追い討ちをかける。

『聡、お前のせいで、死んでしまったんだ』

博史は、低い声で……とうとう、聡の罪を指摘した。

『1年は生きられるはずだったのに……。お前のせいだ』

母の死は、医師の宣告ミスなどではない、と断言する。

声は、あいかわらず出ない。何か一声でもたてなくては、と思うのに出ない。

『お前のせいだ』

博史の電話の声は、だんだん低くなっていく。

『お前が、母を絶望させた』

声がでない。助けて。

『お前が殺したんだ』

やめて。お願い。

『いつか、お前も、絶望して死ぬ。必ず……必ず』

やめて――。

 
 

『まもなく○○、○○駅に到着します』

ハッ。

聡は、びくん、と体をふるわせて、現実の世界へと覚醒した。

いつのまにか、背筋にじっとりと汗をかいている。

自分がなぜ列車に乗っているのかを思い出すのに一瞬考えなくてはならなかった。

まだ、自分が把握できていない聡は手の中にあるはずの携帯を見ようとした。

手は……何も握っていなかった。

聡はタガがかかったような体を動かして、バッグのポケットを見る。

そこに、バイブ設定がなされた携帯がきちんと入っていたのを見て、聡は体中の力が一気に抜けてシートに寄りかかった。

――夢、だったんだ。

とてつもなくリアルで、怖い夢だった。

一気に安堵した聡はしばらく何も考えられなくて、外の景色に目を移した。

いつのまにか、窓の外に立ち並ぶ家々はなくなっていて、

かわりに出現したブロッコリーのような山々に温かそうな朝日があたっていた。

ほどなく○○駅に停車した。降りる客はほとんどおらず、乗ってくる客中心だが、席はまだ充分に空いている。

まだ聡の降車駅には、まだ間がある。

聡は、窓の外に広がる、冬の緑にぼんやりと視線を遊ばせていた。

ふいに、トンネルに入った。

トンネルは、窓を素早く鏡にし、うかない聡の顔を映し出した。

聡は、自分の表情に思わず目をそらした。

あれは……まさか、予知夢じゃないだろうか。

自らの不吉な表情は、一番嫌な考えを聡に突きつけた。

聡は、バッグの中から携帯を取り出す。8時になるところだ。

博史に、電話をかけて、確かめてみたら――。

聡は博史の番号を画面に表示させてみた。

薫が危篤だ、と告げられてからもうまもなく24時間が経つ。

もう、峠を越えるなら、越えているはずだろう……。

――だめ。

聡は携帯をパチンと音を立てて閉じた。

やはり怖い。

もしも。あの夢が正夢になっていたら。何と答えればいいのだ。

あれが現実でも、聡は何も答えられないはずだった。

それに、博史のいうとおり、薫の容態悪化の大きな原因をつくったのは聡だ。

どんな顔をして、博史に電話をかけられるというのだ。

それに……まだ8時。一般の社会人だったら電車の中か、忙しく出かける前の準備をしているところだ。

聡は消極的な自分に、もっともな理由を見つけ出してため息をついて、とうに鏡ではなくなった外に再び視線を移した。

甲府盆地に近づくにつれて空がだんだん広くなっていき、そして青が濃くなるような気がした。

気を取り直そうと、聡は朝食代わりに、と駅で買ったパンの袋を開けた。

第140話 運命のひと

自分こそが、将を辛い目にばかりあわせているのではないか。

自分は将を不幸にするのではないか。

そんな考えに囚われた聡はいつしか動きを止めていた。

将が、そんな聡のようすに気付いて、唇を離した。

「どうした……?アキラ」

切れた唇を唾液で艶めかせた将は、心配そうに聡の顔を覗き込むと、聡の体を抱き寄せた。

「心配するなよ、アキラ」

その大きな手で聡の背中を優しくなぜる。

将の腕の中に抱かれた聡は、そのぬくもりと将の匂いに酔うことで、その考えを振り払おうとした。

しかし、白い布についた油性インクのように、心の奥底にいったん染み付いてしまったその考えは、聡を離れることはなかった……。

 
 

日曜日は、昨日の雨を忘れてしまったかのように、よく晴れた。

しかし朝の出来事もあって、二人は部屋で息をひそめるように、小春日和の午後を過ごした。

将にとっては……部屋の外に出たら、毛利が見張っているかも、という恐れがあった、というのもある。

だらだらと寝巻きのままベッドにねっころがって、テレビを見たり、ときおり抱き合ったり、口づけしたりして、時間が過ぎていった。

テレビの感想などのほかは、あまり言葉も交わさなかった。

それは……やはり二人にとって、今朝伝えられた、博史の母の容態が気になっているからだろう。

もし、訃報がもたらされたら……。そんな緊張感がつねに部屋に張り詰めていた。

それに耐えられなくなったとき、聡は将にしがみついた。

将はそんな聡をいつでも抱きとめ、髪や背中を撫でる。

「大丈夫だよ」と何度も耳元で囁く。

それに、いったんは癒される聡だが、そうこうしているうちに、心の底にこびりついた『自分は将を不幸にする』

という考えが、将の優しさに照らされてまるで浮き彫りになったように蘇ってくる。

そんな繰り返しだった。

 
 

月曜日の早朝。

聡は、朝一番の特急『あずさ』のシートに身を沈めた。

朝9時に山の中の学校に到着する用務員夫妻を出迎えるためだ。

1泊のつもりだった先週よりも、今週はかなり荷物が多くなっている。

シートに座った聡はほっとして、明けたばかりの東京の景色を窓の外に見つめた。

青空の下、連なる家々にビルが次々に後ろへと飛んでいくようだ。

さっきまで一緒にいた、将のぬくもりも、声も、すぐ近くにいるかのように思い出せるのに、

時速120キロでどんどん遠ざかっていく――。

その中で、聡は窓の中の東京に、将の顔を投影した。

それははっきりと聡の顔を見ていた。そして。

『18になったら、結婚しよう』

窓の中の将は、ゆうべのセリフを繰り返した……。

 
 

昨日、当然のように将は聡の部屋に泊まった。

夕食の、久しぶりになった聡の手料理を将は『うまい、うまい』と、食欲のない聡の分までたいらげた。

ベッドの上で抱き合って横たわった二人だが、昨日と違って将は聡の素肌に手を出そうとはしなかった。

「しょう……」

スタンドも消した暗がりの中、聡は将の胸の中で訊いた。

すべての明かりを消しても、決して真っ暗にならない東京の夜だ。

玄関の横に、明日のための聡の荷物が準備万端整えてあるのが、うっすらと暗がりに見える。

「なに?」

まだ眠っていなかった将は、即座に返事をする。

「今日は……なにもしないのね」

「なんか、してほしい?」

将は聡を抱いた腕に少し力を込めると、いたずらっぽく囁いた。

「バカ……」

ほとんど吐息だけで甘く呟くと聡は、将の胸に顔を押し付けた。

「エッチなこと……する気分じゃないだろ、今日は」

背中を撫でる将の声は優しい。聡の気持ちをわかってくれているのだ。

「それに、18になるまでダ、メ、なんだろ」

おとつい、聡が酔っ払って言ったことをちゃんと覚えているのだ。

聡はなんだか恥かしくなって裸足の足先をもぞもぞと動かした。

それは将の足に触れた。すると将も膝下を聡のそれに擦り付けるように動かしてくる。

半ギプスを包む包帯の乾いた感触が温かくて、聡は何故か「もう」と声を出した。

「何が、もう、だよ」

将は低く笑いながら囁く。二人はクスクス笑って足を優しくからめあった。

ひとしきり足を擦り付け終わって、将は聡を抱いたまま、ふぅ、とため息をついた。

そして「アキラ」と呼ぶ。聡は将の胸にうずめていた顔をあげた。

将は聡を見つめていた。真剣な顔をしているというのは暗がりの中でもわかった。

「アキラ、俺さ、ずっと考えてたことがあるんだ」

「……なあに」

将は、聡の背中を再び撫で始めた。

「あのさ。俺が18になったらさ、結婚しよう」

言い終わると、将は笑顔を浮かべた。

聡は……あまりにも突拍子もない、将からのケッコンという発音が意味と結びつくのに、

習いたての外国語を理解するほどに時間を要した。

そしてそれが求婚……プロポーズの言葉だとわかっても、何を答えていいかがわからず

「将……」

と、とりあえず名前を呼んで、呆けたように、暗がりの中の将の瞳を見つめるしかなかった。

将は、もう一度ゆっくりと繰り返す。

「結婚しよう、アキラ」

低いけど、まだ10代のあどけなさの残る口調での求婚が繰り返された。

聡は胸が苦しくなった。苦しいほどの、狂おしいほどのせつなさに……もう一度将の胸に顔をうずめた。

温かい胸とゆっくりとした将の鼓動に、少しだけ落ち着きを取り戻すと

「そんなに……やすやすと、結婚なんて口にするもんじゃないわ」

聡は苦しい呼吸の中から、大人らしい言葉をようやく探し出して口にした。

「やすやすと、じゃないぜ」

将は自分の胸に聡を押し付けるように抱きしめた。

「俺さ、離れてみて、あらためてわかったんだ。アキラなしじゃ、俺やってけないってことが」

二人が片時も離れないようになったのは、つい最近と言えるが、それがまるでずっと続いていたことのように将は言った。

「こんなに好きあってるんだ。離れて暮らしてるほうが不自然だよ。それに18になって……するなら、結婚したっておかしくないだろう」

将は古典の授業で得た知識なのか「平安時代なんかだと、セックス=結婚だろ」と、おどけて付け加える。

「俺、弁当屋の頃から数えると、もう1年半もアキラを好きなんだし」

1年半。だけど、聡は4年近く好きだった博史からあっけなく去ったばかりである……。

そんな現実を思い出した聡は、将に別の現実をつきつけてみる。

「だけど、将。18になってもあなた、まだ高校生でしょ」

「カンケーねえよ。高校生なのが問題なら、高校なんかやめてやる」

「そんな……」

聡は将の胸の中で絶句した。なのに将の腕の中から離れられない。

「ねえアキラ。アキラは俺と結婚したくないの?」

将は聡を依然強く抱きしめながら耳もとで呟いた。

「将……」

将の熱い血潮が聡に流れ込んでくるかのような抱擁。もうこれで何度目だろうか。

聡はそれを愛していないといったら嘘になる。

熱い体温も、とうに慣れたはずの鼓動も。声もぶっきらぼうな話し方も、顔も、歩き方も……みんな愛している。思えば狂おしくなるほどに。

自分のものにしたいか、といえばもちろんだ。

将は、聡の答えを聞く前に「俺は」と思いのたけを吐露しはじめる。

「毎日アキラのことばかり考えてる。アキラなしじゃ生きられない」

しっかりとした声で将はさらに続ける。

「俺がまともに笑えるようになったのは、アキラのおかげだ。アキラに出会うまで俺、死んだも同然だったし……」

将の声の後半はどんどん小さくなっていって、最後に「クサかった……かな」と照れた声が加わった。

「だけど、本心だから」

でも最後に、将ははっきりと言い切った。

母が死に、厳格な上に多忙な父、義母の優しさはまやかしと気づいて、そして唯一の親友は鑑別所。

愛に絶望し、冷たくこごえていた16歳の将の唯一の温かさが聡だった。

そしてその聡と愛し合うようになった、幸せな今。

将は一生聡を離すまい、と自分の中で誓っていた。

そして願わくば、個人的かつ肉体的なつながりだけでなく、誰もが認めるすべての次元において聡とつながりたいと急速に思い始めたのだった。

やっと、聡が将の胸の中で口を開いた。

「将……。あたしも将を好き。誰よりも将が大切だよ……だけど」

低めの優しい声で、ゆっくりと将への愛を語る聡。

将は聡の声があたる胸のあたりが、ほんのり温かく、溶けたように柔らかくなるように感じた。

だけどそのとき、聡はたしかに『自分は将を不幸にする』のではないか、ということを恐れていた。

そして、将が早すぎる結婚を望むのも、その一環のように思えたのだ。

「だけど、将、考えてみて。まだ18でしょ。これからもっといい人に出会うことだってありう……」

「絶対ない。アキラ以上の女なんて俺にはありえない」

将は聡の言葉を遮って、断言した。

「18だろうと28だろうと、88になっても変わらないって。アキラは、俺を変えた、たった一人の運命のひと、なんだから……」

一言一言、区切るように聡に言い聞かせる。

『運命のひと』という甘くドラマチックな響きに聡は思わず顔をあげて将を見る。

将の、聡に向けた静かな微笑みは、暗がりの中でもはっきりとわかった。

「何十年経とうと、何百年経とうと、死が二人を分かつとしても……だっけ」

将は結婚式で登場する牧師の言葉から一部を引用して、一瞬冗談めかして笑う。

だけど、すぐに真顔に戻って最高級の愛の言葉を続けた。

「俺はアキラだけを愛し続けるよ。神にも誓えるよ」

今度は『クサかったかな』とは付け加えなかった。

温かい波が聡の中でどんどん満ちていく。

急激にそれは聡の胸を満たしていき、心の壁に激しく打ち寄せた。

決壊寸前。胸が張り裂けそうになって、将の胸に顔をうずめた聡は、瞳からあふれでたものをこっそりと将の着ているスウェットでぬぐった。

聡が泣いているのを覚った将は、

「……とりあえず、俺の決意、だから。俺の誕生日まであと2ヶ月、アキラ、いい返事待ってる」

将は、幸せな気分で、いとしい聡をもう一度抱きしめた。

将は、聡の気持ちはわかっていると、少なくともそのときは、そう思っていた。

しかし……思わず泣くほど感動しながらも、聡は、将の言葉を冷静に解釈していた。

思い出すだけで胸がキラキラしたもので満たされるような言葉。それは将の若さゆえの、純粋さや一途さのほとばしりに近いものなのだと……。

まさか、将のその言葉どおりに、自分が将の生涯最後の恋人になるとは、今の聡には想像もできないことだった。

第139話 罪と罰(2)

危篤。

聡の人生に初めてじかに登場した思いがけない単語。

その重すぎる意味を噛み砕く前に、博史は畳み掛けてくる。

「お前……、おふくろに、何を言ったんだ!」

博史が、聡のことを『お前』なんて呼ぶのも初めてだ。

「何を言ったんだ……えぇっ?」

博史は、倒れてかろうじて上半身を起こした聡の目線まで腰を落とすと、聡の肩をがしっと掴んで詰め寄った。

そのままガクガクと激しく揺さぶりながら

「何を言ったんだ……何を言ったんだ」

だけを繰り返す。聡をゆさぶりながら、博史自身の乱れた髪もゆさゆさと揺れてますます乱れていく。

細い目は、狂人さながらに限界まで見開いて、聡を見据えている。

聡は、博史のそんな異様な顔から目もそらすこともできず、血走った白目のあたりを見ながら揺さぶられるままになっていた。

「やめろよ!」

そこへ割って入った将が、聡の体を奪うように、博史の手を遮った。

博史は無言で将のスウェットの襟元を掴んで、引っ張り挙げるように立ち上がると、猶予もなく将を殴りつけた。

大きな音をたてて、フローリングの床に将の体が倒れこむ。

「将!」

と叫びながらも、聡の脳裏に『下の部屋に響いてしまう』という常識がちらりとよぎる。

……それで聡は自分の心には冷静さが残っていることを自覚した。しかし、それはすぐにふっとんでいった。

「お前のせいだ!」

博史は靴のまま、部屋に倒れた将に馬乗りになると、さらにその顔を殴りつけようとした。

「やめて!」

聡は殴りつけようとする博史を止めようとその腕にしがみついた。

しかし博史はすごい力で聡を振り払うと、将の顔を再び殴った。

振り払われた勢いでまた倒れた聡は、少しひるんだが、殴られる将を見て無意識に再び博史の横腹にタックルした。

「やめてー!」

聡の渾身の体当たりに、博史の体は将から離れて倒れた。倒れた博史の上に、聡の体が重なっていた。

「やめて……博史さん。将は悪くない……」

聡の双眸からまた涙がほとばしりはじめた。

「悪いのは……私だから……。私が……いけないの」

聡の頬を流れ落ちた涙は、博史の頚のあたりを濡らした。

博史は、自分の上の聡を払うようにして跳ね起きると、

「母が……このまま死んだら、おまえらのせいだからな!」

と一吼えして走り去った。

建物中が振動するような大きな音をたててドアが乱暴に閉まって、階段を下りる音が響いた。

将は仰向けのまま、聡は座り込んだまま、言葉もなく呆然として音が消えるのを待っていた。

『死』というもっとも重い単語が、二人を沈黙させていた。

そんな中、先に言葉を発したのは将だった。

「大丈夫か、アキラ。いてて……」

聡を気遣いながら体を起こす。聡はそれでハッと気付き、

「将、足は?」

と起き上がった将に駆け寄る。

「大丈夫。足もたぶん大丈夫」

将は気丈にも答えたが、口の端から紅い血が流れている。

ティッシュで拭こうとする聡だったが、将は立ち上がると洗面所へ行き、血混じりの唾液をブッと吐いた。

口の中も切れているのだ。

そのまま将は水道を出して口の周りを洗うと自分の顔を見た。

殴られた頬がアザになっている。

「……あいつ、こんなこともできんだな。もっと上品なやつだと思ってたけど」

洗面所から出た将は、聡から差し出された保冷剤を受け取りながら、心配させるまい、と笑顔を見せた。

「将……、ごめんね」

「……ほら、また泣く。本当にアキラは泣き虫だな」

また涙を浮かべる聡の頭を、将は笑いながらくしゃくしゃと混ぜた。

そのとき、聞きなれたユーモラスな鈍い音。将の腹からだった。

「ほら、腹の虫も泣くなってよ」

「将ってば……」

ようやく聡も涙の下から笑顔を見せた。

 
 

「ごめんね。素うどんだけど」

「でも稲庭うどんじゃん。いただきまーす」

1週間家をあけて、聡の部屋にはほとんど食料が残っていなかった。

その中からどうにか見つけた乾麺を茹でて朝食代わりにした。

食パンもあったけど、口の中が傷だらけの将に、トーストは厳しいだろうと思ったのだ。

だけど、将はそんなことは気にしないようで

「口の中を切るたびに絶食してたら飢え死にするぜ」

と笑い「うめえ。稲庭うめえよ」と赤や青に内出血した痛々しい顔ながら豪快にうどんを啜りこんだ。

「……でさ、アキラ、博史のおふくろさんに何いったの?」

聡がうどんを食べ終わるのを見計らって将は訊いた。

聡の倍量だったにもかかわらず、随分早く食べ終わった将は、昨日セットしたまま置きっぱなしになっていたコーヒー豆に湯を注いでいる。

「うん……」

うつむいた聡は、だし汁が残るどんぶりの中をのぞいているようにさえ見えた。

「言いたくなかったら、いいけどさ」

将は淹れたコーヒーをマグカップに注ぎ分けながら、フォローする。

聡は無言で、テーブルの上のどんぶりを将の分まで重ねてキッチンに持って来た。

一人部屋の狭いキッチンではコーヒーを淹れる将と、どんぶりを流しに置く聡は触れ合うほどになる。

ほのかな体温が磁力のように互いの体を吸い寄せる。

腕が互いの体にのびて、そっと抱きしめあう。二人はしばらく抱き合ったまま流しの前で佇んだ。

 
 

聡は、将に昨日のことを打ち明けた。

博史に別れを告げたものの、母のために冷却期間ということにしてほしい、と頼まれたこと。

別れを隠したまま、昨日見舞いに行ったこと。

その博史の母から、姑の形見のエメラルドの指輪を託されてしまい、婚約破棄を隠せなくなった聡は、思わず本当のことを打ち明けてしまったこと。

「……でね。博史さんのお母さんね。……それでもまだ、博史さんのほうが、何かあたしにいけないことをしたんじゃないか、って心配していたの」

二人ベッドに寄りかかって、床に足を投げ出すように座っていた。

将の肩に体重をかけるように、聡は寄りかかって、ぽつりぽつりと打ち明ける。

将はそんな聡の肩を抱き、ときおり相槌を打ちながら、肘を曲げて髪を優しく撫でる。

その、博史の母・薫が、急に危篤になった。

きっかけは……やはり聡の告白なのだろう。

昨日まで元気そうに見えた薫。

それは、おそらく博史の結婚、という喜びが彼女の生命力にとって大きな支えだったのだろう。

聡は、彼女の生きる支えを奪ったことになる。

聡は別れ際の薫の声を思い出す。

『さようなら聡さん。いろいろと……ごめんなさいね』

最後まで気丈な態度だった薫だが、生きる支えを失って、聡以上にボロボロだったのだ……。

あのとき、彼女はどんな顔だっただろうか。聡は自分がつらすぎて覚えていない。

身勝手な自分。聡は改めて、己の罪深さにおののいた。

「いつか……天罰を受けるね。きっと……」

天罰。

そのあまりに重い響きが聡の唇からこぼれるのを聞いた将は、聡の肩を少し強く抱き寄せる。

聡にのしかかる重みを、少しでも分け合おうと無意識に感じての行動。

「……アキラ、そんなことないよ。俺だって……もしも俺がアキラでもウソはつき続けられないよ」

告白を終わった聡の頬に、また涙が筋をつくっていた。

将は、聡を抱き寄せた。そして頬に流れる涙を舐めてみた。

それは温かくて、優しいしょっぱさだった。生きている聡。

17歳の将は、26歳の聡よりもたぶん、『死』を多く、かつ生々しく体験している。

母の死。そして自分が殺したヤクザの死。

どちらも相応に重く、質は違えど辛い思い出だった。

そして、いま。もしかすると博史の母の死にかかわろうとしている……。

将は子犬のように聡の頬に流れる涙を舐め続けた。

聡に圧し掛かる辛さを、ソフトクリームのように、少しでも舐め取って減じることができれば。

将自身も気付いていないけど、具体的に例えるなら、そんな気持ちで将は聡の頬を流れる涙を舐めていた。

……その将の唇に、頬より柔らかで滑らかで温かいものが重なる。聡が唇を重ねてきたのだ。

将は聡の唇の中に、今まで涙を舐めていた舌を優しくしのびこませる。

涙に比べると、唾液はさらに温かく、そして甘かった。

聡は、将の唾液に混じる鉄の味を……将は慣れてしまって、もはや感じなかったが……感じた。

こんなふうに、血の混じったキスを、前にもしたことがある。

聡はぼんやりと思い出した。

あのとき……拉致された聡を助け出そうとして、殴られた将。

聡は将と舌をからませたまま、軽く閉じていた目を思わず開けた。

焦点をあわすのも難しいほどの至近距離にある将の顔。彼は口づけを続けながら目を閉じている。

聡は目を開けたまま、惰性で将と唇をあわせながら、今生まれた考えにおびえた。

それは……

聡と出会ってしまったことで、将はつらい目にばかりあっているのではないだろうか……

という恐れだった。

恐れは思い出の数々とつながることによって

『聡が将を辛い目にあわせている』

という確信に変わりそうになっていき、それは聡の心を次第に侵食していった。

第138話 罪と罰(1)

博史の車に乗る聡を偶然見てしまった将は、一瞬、聡を疑った。

だが、すぐに博史に余命1年の母がいるといって、罪悪感に震えていた聡を思い出した。

おそらく、聡が博史の車に乗りこんだのは、その母の見舞いに行くために違いない。

そう分かっているのに、将の心はざわめいていた。

落ち着かない自分の心を無理に納得させて、将は井口との待ち合わせ場所に戻った。

 
 

結局将が、聡のコーポのチャイムを鳴らしたのは夜11時近くだった。

あのあと井口と少し遊んで、一緒に夕食を食って、マンションに来てもらった。

大悟もその頃には帰ってきていて、3人で少し酒を飲んだ。

そのせいか、遅くはなったものの、聡のコーポに来るまでに毛利の邪魔が入ることはなかった……。

ちなみに冬にしては強く降っていた雨は、夕方には止んでいた。

しかしそのかわりに、急激で厳しい冷え込みが襲ってきて、ドアの前に立つ将は白い息を吐きながら震えた。

 

少し間があいて、聡がドアをあけた。

細く開いたドアから見える聡の様子はかなり変だった。陰気な顔をして沈んでいる。

腫れあがった瞼は、泣きはらしたんだろうか。

「……お茶、飲む?」

それでもパジャマ姿の聡は将を部屋にあげると、マグカップをテーブルに置いた。

天井の明かりはつけず、スタンドのあかりだけにしてあった。

寝ていたのだろうか、と将は聡のようすを推し量りながらテーブルのわきに座る。

「うん……」

逢ったらすぐに抱きしめようと思っていたのに出鼻をくじかれた格好の将だ。

「ごめんね、おそくなって」

と到着が遅くなったことを、まずは謝る。

「ううん……」

聡は、ヤカンに水を入れながら、将のほうを見ないで答えている。

「見舞い……、どうだった?」

将はキッチンで湯をわかす聡に尋ねた。

「うん……」

レンジに向かう聡は聞こえているのか聞こえていないのかわからないような、あいまいなようすである。

心ここにあらず、といった感じだ。

「博史のおふくろさん、容態悪かったの?」

焦れた将は……ついに、自分からそれを言った。

自分は何もかもわかってるから……、という自己アピールと、

万が一博史との仲が仮にまだ続いているなら、という牽制の意味がある。

それを聞いた聡は、振り返ると腫れた瞼の目で将を見つめた。

将はその悲しそうな視線にとまどう。

「いや、アキラ、まえに博史のおふくろさんが、余命1年っていってただろ。だから今日の見舞いもそうかな、と思ったんだ……」

聡の瞳から思わず涙がこぼれる。まだ午後の傷は乾いていない。

人を傷つけた自覚によって、自分が深く、かつ複雑に傷ついている聡である。

ささいな刺激で、傷口からの血さながらに、涙がにじみでてくる。

「アキラ」

将は立ち上がると、涙をこぼす聡を抱き寄せた。聡も将の体に腕を巻きつけてくる。

声こそ出さないが、ときどきすすり上げる音が聞こえる。

『牽制』なんて気分は吹き飛んで、将は聡の髪の毛を優しくときほぐすようになでる。

「……将」

聡は優しい将にすべてを吐露したくなる。

今日、雨に打たれてびしょぬれになりながらも、心からは決して流れ去らない自己嫌悪。

余命短い優しいひとを傷つけてしまったこと。

形見のエメラルド……。

だけど。

それを、当事者の将に言ってしまえば。

聞き様によっては「将と出会わなければよかった」というふうに聞こえてしまうかもしれない。

『出会わなければよかった』?

聡は将の腕の中で目を見開いた。将と出会わなければ、すべてはうまくいっていたのだろうか……。

誰を傷つけることなく……。

聡は、自分の中に芽生えた考えに、ぞくっとする。

心の声は必死で『違う、違う』と叫ぶ。

だけど、一度芽生えた考えは、菌糸のように聡の思考にじわじわと根を生やしていく。

『将と出会わなければ、はやく結婚したいという博史の申し出だって嬉しかったはずだ。博史を、薫を傷つけることになったのは、将のせいだ』

否。

聡は将にからませた腕に力をこめる。

将が悪いわけではない。将を好きになったのは、他でもない聡自身なのだ。

将は、しがみつく聡の腕の力が強まったのを感じて、聡の顔を自分のほうに向けた。

そのまま唇をあわせる。

最初聡の舌は、とまどっていたようだったが、そのうち意を決したように将のそれにからみついてきた。

ヤカンが沸いてシュンシュンと音を立てはじめた。

しかしそれをよそに二人は、口づけと抱擁を続ける。

将は、聡と舌をからませたまま手を伸ばして、ガスをとめる。

そしてそのまま、少しずつベッドのほうへ移動を試みた。聡は将に体重を預けて、抵抗する様子はない。

将は、ベッドのそばまでくると、聡をベッドに押し倒した。

「将」

押し倒された聡は、目を開けて、上にのしかかる将を見上げた。

せつなく光る目に、口元はわずかに微笑むよう。

複雑な表情を一瞬だけ見せて、すぐに髪の毛しか見えなくなる……将は聡の首筋に唇を這わせてきたのだ。

右手はパジャマ越しに聡の胸をまさぐり始めている。

「……イヤ。やめて、将」

聡の声をとめるように、将は聡の口を自らの口でふさぐ。

「きのうの、つづき」

しばらくして唇を離した将は、聡にそう呟いて笑顔をつくると、再び……こんどはパジャマの裾から聡の素肌に手をはわせる。

「いや……。お願い、やめて将」

将はやめない。

本気で抵抗する聡は体をよじらせる。それを無理やり仰向けのまま固定しようとする将。

将は、再び聡の首筋に唇をはわせながら、掌はパジャマの下の肌をじかにとらえた。

「やめて!」

聡は将の手から身を守るように体を丸めると、乱暴に将から背をむけた。

「アキラ……?」

さすがに乱暴に抵抗しすぎた。おそるおそる将を振り返ると、彼は聡を呆然と見つめていた。

聡は付け足しのように、だけど極力優しく将に言い訳する。

「ごめん。今日はダメ……。そんな気分になれないの」

将の困惑した顔に、だんだん怒りが混じり始める。

「ごめん……」

聡は体を起こすと、将に手を延ばした。

将は、怒りを隠すように俯くと、ベッドから降りて立ち上がった。

「オレ、帰ったほうがいい?」

言葉は拗ねているけれど。後姿はひどく寂しげだった。

存在を全否定されたかのような、悲哀。

――ちがう、将を拒絶したんじゃない……。

「将……」

聡は将の背中に、すがるように呼びかけると、ベッドから降りて、将を後ろから抱きしめた。

「ごめん……帰らないで。将」

しかし将は後ろを向いたままだ。聡は将の背中にすがりついたままさらに嘆願した。

「帰らないで。お願い……」

将は後ろを向いたまま呟いた。

「今日、オレ、見てたんだ」

その広い背中は少し震えているようだ。

「アキラが博史の車に乗るのを……」

そこで将は、聡の腕をほどいて、振り返ると聡に向き合う。

「オレ、一瞬聡を疑った。だけど、博史のおふくろの話を聞いてたから、疑わないようにしたんだ」

寂しげな将の瞳。スタンドの灯りを受けてそれはトパーズのような色に反射している。

「将……」

「オレ、アキラを信じたい。だけど……、こんなふうに拒否られると、すっげー……」

将は『すっげー』のあとを続けられなかった。

文字通り、言い表せないほどの哀しみや寂しさ、せつなさだったのだ。

聡を直視していた将のトパーズの瞳が、降りてきた睫によってだんだん隠されていく。

将は目を伏せたまま、ついに聡から瞳をそらした。

「将」

聡は将の胸に倒れこむように飛び込んだ。

「ごめんね……」

温かい胸に語りかける。

「今日は、いろいろありすぎて……」

将の胸からは鼓動が聡にかすかに伝わっている。

「でも、信じて。私が好きなのは、将一人、だから」

鼓動をさらに確かめるように、聡は頬を将の胸に押し当てた。

「どんな罰でも受ける……。将のためなら……」

思いがけないところで聡の口から出た『罰』という言葉に将は思わず胸にすがる聡を見下ろした。

『罰』を受ける。ということは。彼女は『罪』を犯したことになる。

将のために犯す罪……。

そのインモラルでドラマチックな響きに無意識に聡を抱きしめる。

ちょうど顔をあげた聡と目があった。

聡の瞳にまた涙が溜まっている。

涙を溜めた瞳の上にある瞼がうす赤く腫れているように、唇もいつもよりぼってりとして濃いばら色になっている。

「泣き虫だな」

つぶやいた将は、少しため息をついた。やはり聡は、いとしい。

将がため息をついたのと同じタイミングで聡が洟をすすった。

二人は同時にゆっくりと微笑うと、互いに吸い寄せられるように唇を重ねた。

 
 

将と聡は久しぶりに、ベッドの上で静かに抱き合って眠った。

聡の転勤前は、ギプス足のせいで仰向けで手をつなぐしか許されなかったが、半ギプスの今はこうやってお互いの体に腕をまわして、抱き合うことができる。

本当は将は、聡のすべてがほしかったけど、これでもいいと思うことにした。

ときどき聡は、将にさらに強くしがみつくようにしてきた。まるで発作のように激しく。

将は、聡がそうするたびに、優しく髪を撫でておでこに口づけをした。

いったい、博史の母の見舞いで、どんな傷を受けたのだろうか。

将は、それを詳しく訊こうかとも思ったけど、なぜか訊けなかった。

さっき聡の口からこぼれた『罰』という言葉。罰というからには罪があるはず。

すべてそれがキーワードなのだと思う。

将は聡の髪を、背中を、優しく撫でて続けてやることにした。聡が寝息を立てるまで……。

それが聡の傷を少しでも軽くするなら……。

 

寝付いたのが遅い二人が、まだベッドの上で寝息をたてている朝の時間。

玄関のチャイムがけたたましく鳴った。

ピンポーン、ピンポーン、ピンポン、ピポン……、と何度となく間隔を考えずに連続して押しているらしい。

最初の1回で二人とも目が覚めていたが、そのただごとならぬほどせわしない連続チャイムに、聡はカーディガンを羽織ってあわてて玄関に出た。

将は、目をこすりながら自分の携帯を開いて、時刻を見る。9時前だった。

チェーンをはずすのももどかしく、ドアをあける。

そこには、博史が立っていた。

聡は博史が突然ここに来たことにも驚いたが、その様子にも思わず目を見開く。

髪はボサボサ、充血した目は憔悴しきったようで、あきらかに異様だった。

「どうしたの、博史さん……」

聡が言い終わるかどうかというところで

バシッ

という鋭い音がして、聡は玄関に倒れこんだ。

将は、その音に思わずベッドから立ち上がった。

倒れた聡は赤く腫れた頬を押さえて、博史を見上げる。

将が何か言おうとする前に、博史が聡を睨みつけたまま低い声を出した。

「おふくろが危篤だ」

第137話 形見

博史がドアの向こうに消えると、薫はあらためて聡にゆっくりと微笑みかけた。

「聡さん、ちょっと悪いけど、そこの引き出しをあけてもらえるかしら」

薫は枕の下から鍵を取り出すと、聡の掌の中にそっと置いた。鍵付きの、貴重品用の引き出しである。

聡は立ち上がると言うとおりにした。

引き出しの中には、深緑色のびろうどに覆われた古風なリングケースらしきものが入っていた。

「その緑色のケースを出して」

聡はそのケースをそっと取り出しながら、薫が何をしたいのかが、おおよそわかってしまい……困惑した。

「聡さん、お誕生日はいつ?」

薫はそういいながら聡の手からリングケースを受け取ると、大事そうにそっと開けた。

「11月……21日です」

「そう。じゃあ誕生石はトパーズね」

とニッコリ笑って聡を見上げた。

「ぜんぜん誕生石とは関係ないんだけど……それにデザインもちょっと古いんだけど」

薫の手の中にあるリングケースの中には、緑色の石に彩られた指輪があった。

それは雨で暗い窓辺にあっても、明るく澄んだ緑色にきらりと光った。

両脇に小さなダイヤが寄り添う豪華なものだった。

「エメラルドよ。これはね、私が博史を産んだときに、お姑さんからいただいたの」

薫はケースの中の指輪をいとおしそうに見つめながら、温かい声で語る。

大事な古い宝物を取り出して慈しむような……おそらく薫には大切な思い出なのだろう。そんな語り方だ。

「お姑さんの、形見、みたいなものかしら……」

形見、という言葉に聡は、思わず薫の顔から目をそらす。

「それでね。私も博史がお嫁さんをもらう時が来たら、その人にあげるんだ、って決めてたの」

薫は突っ立ったままの聡のほうを見上げると、

「聡さん、これもらってくれるわよね」

と微笑んだ。

聡は、ごくりと唾を飲み込んだ。

薫は、それが彼女自身の形見になってしまう日が来るのが、遠くないことを知っているのだろうか……。

「さあ、聡さん」

そうとも知らず、薫はケースを開けたまま、指輪を聡に手渡す。

緑色の石は、ピカッと光って、それは正義のように聡を射抜いた。

足が震え出す。

人を騙すということは……こんなに苦しいことだったのだ。

現実の音はまったく聞こえなくなったくせに、世界中が聡を責める声がこだまのように頭に響いている。

目をぎゅっとつむった。

「聡さん?」

様子がおかしい聡に薫が、声をかけた。

聡はかろうじて、ケースを閉じて薫の手に押し付けるように返した。

「いただけません……」

「そんな、遠慮しないで」

聡のようすを遠慮と思い込んだ薫は、優しくケースを聡の手に戻そうとした。

「私が、もらってほしいのよ」

薫が、ベッドから少し乗り出すようにして、聡の瞳をのぞきこんだ。

細い目の奥から、聡を見つめる澄んだ瞳。

――もう、これ以上はダメ。この人を騙せない……。

薫の瞳から注入された温かさが、聡の瞳に涙をあふれさせていく。

うつむいた聡の瞳から、涙が床へとたて続けに落ちて行った。

「いただけ……ないんです……。わたし、博史さんと……結婚しない……んです」

聡は、ついに真実を口にしてしまった。

この、余命短い、優しいひとを傷つけるであろう真実を。

驚いた薫は細い目を見開いて、そんな聡を見つめた。

リングケースは薫のベッドの上で、今だかつて、こんなふうな置かれ方はしなかっただろう角度で無造作に転がっていた。

聡は一瞬、それを告げたことを後悔したが、もう遅い。

婚約者を裏切った責め。

そして自分がつらい、というだけでこの優しいひとを傷つける事実を告げてしまった責め。

2つの責めが聡の心をつらぬいていく。

「ごめんなさいっ……!」

聡は顔を覆うと、その場にしゃがみこんだ。

薫は、しばらく見開いていた目をしばたくと、

「本当に?」

と訊いた。聡は涙でぐちゃぐちゃになった顔をあげると、うなづいた。

「博史が……、あなたに、何かいけないことをしたの?」

薫は心配そうに聡を見た。

そんな顔をみて聡はさらに激しい罪悪感にさいなまされて新たなる涙が湧き出てきた。

この期におよんで、薫はまだ聡のほうを心配しているのだ。

「違いますっ……博史さんは悪くありません……。わたしが……、わたしがいけないんです」

そう。何もかも聡が悪いのだ。

博史と結婚を約束していながら、他の男を好きになるのを止められなかった。

博史には何も落ち度はない。

聡は再び、顔を手で覆った。

「そう……」

薫はしゃがんで泣きじゃくる聡から目をあげると、リクライニングになったベッドに寄りかかる。

小さくため息をつくと、目を静かに閉じた。

聡は涙のとめ方もわからないまま、立ち上がった。

「本当に……すいません……でした」

寄りかかる薫に、頭を深く下げる。頭を下げたことによってまた新しい涙がぽたぽたと床に落ちる。

薫は目をあけると、ベッドの上に転がったリングケースを手に取った。そして

「いつから……だめになっていたの?」

と聡に問い掛けた。問い詰めるような口調ではない。

リングケースに話し掛けているような静かな口調だ。

聡は答えられなくて、黙り込んだ。また涙が頬を伝う。

「クリスマスにはじめてお会いしたときには、もう……?」

薫はリングケースから顔をあげて、聡の瞳をのぞきこんだ。

その顔は、怒っておらず、むしろ聡を憐れむような顔だ。

聡はうつむくしかなかった。涙がいっそう激しく湧いてくる。

しかし薫は、聡の涙に答えを見つけたようで、

「そう……、そうなの……」

と呟いて、雨にけぶる窓の外を見つめた。

 
 

聡は病院の非常階段を駆け下りていた。涙はまだ止まらない。

『そんな顔で博史に会ったら、大変だわ』

と薫がベッドから身を乗り出すようにして非常階段のありかを教えてくれたのだ。

待合室で暇をつぶしているであろう博史と顔をあわさないように。

非常灯が暗く灯る踊り場で、聡は手すりに寄りかかってすすり泣いた。

あんな、ひどいことを告げたのに、聡に気を遣ってくれるひとなのだ。

薫は最後に言った。

「さようなら聡さん。いろいろと……ごめんなさいね」

薫も博史も、謝ることなんて、ないのだ。

悪いのはすべて、心変わりをした自分なのだ。

聡は足をひきずるようにして、非常階段を降りきった。

土曜日とあり、1階の受付にはかなりの人がいた。

すれ違う人も、ベンチに座る人も、涙でぐちゃぐちゃになった聡の顔を、好奇の目で、もしくは気の毒そうな目でチラリと見る。

ふらふらと玄関にでた聡は、タクシーの扉が自分をめがけて開くのを無視して、降りしきる雨の中に傘も差さずに踊り出た。

傘立てに差した傘のことなど忘れている。

雨は、聡の顔の上の涙を流そうとしたが、あとからあとから湧き出てくるそれと交じり合うのがせいいっぱいだった。

第136話 見舞い

翌土曜日は2月にしては珍しく、雨が降った。

その気圧の低さゆえか、昨日の酒が残ってしまったのか、目覚めた聡は起き上がるのも大儀なほどのだるさに包まれているのを感じた。

時計を見ると、もう11時近い。

今朝未明、いったん目覚めてしまった聡だが、体に残る悪質なアルコールに邪魔されて、寝付けなくなってしまった。

だけど本などを読むには頭がズキズキと痛すぎる。

つぶせない時間が頭痛と共に悶々と横たわる。

無理やり頭痛薬を飲んで祈るように目をつぶった。

――早く、効いて、早く……。

そんなこんなで、気が付くとこの時間だった。

聡は粘りつくようなだるさを引き剥がすようにベッドから起きると青いカーテンを開ける。

空は、だるさを増幅するようなグレー、雨でけぶるようないつもの景色に聡はうんざりした。

何も考えたくないような頭痛はあいかわらずだ。

食欲はないが、食べて頭痛薬を飲まないと、と常備していたゼリーを流し込む。

酔い覚ましにシャワーでも浴びようか、と考えつつも、動かないままの聡を促すように携帯が鳴った。

博史だった。思わず聡は身構える。

「今日、何時ごろ見舞いに来る?」

すぐに用件に入るのは、もう聡に恋人としての役割は一切、期待してないということなのだろうか。

「午後にしようと思ってるんだけど」

「1時ごろ迎えにいこうか」

この天気を気遣っての提案なのだろう。

そこで聡は、ここに来るといっていた将を思い出す。

迎えに来た博史を偶然見てしまう、ということもあるかもしれない。

無駄な疑惑を呼ぶような行為は避けたい。

「うん……。でも駅まででいい」

「そう。わかった。じゃあ駅に1時半はどう?」

博史はあっけなく聡の望むとおりの約束をすると、無駄話をせずにすぐに電話を切った。

身構えていた聡はなんだか拍子抜けするような気がした。

 
 

将は、寝室で横たわったまま、雨音を聞いていた。そして考える。

どうやって、毛利に気取られずに聡の家に行くかを。

おそらく……聡が東京にいるとなれば、毛利本人ではないにしても、誰かが常に見張っているに違いない。

といっても通りから一本入った静かなあたりにある聡のコーポを常に見張るのは難しい。

不審者扱いされて通報される恐れがあるからだ。警察の巡回も多い。

以上のことから、おそらく見張るとしたら将のほうである、と将は結論を出した。

大悟は今朝も朝早くから仕事に出たらしい。

早朝に物音と瑞樹との話し声がしていたのを将はうとうとと聞いた。

今は……部屋中がしんとしている。瑞樹もどこかにでかけたらしい。

将は寝返りを打った。この部屋で、聡と抱き合って眠った夜を思い出す。

将は、あのときと違って柔らかな聡の素肌を脳裏に再現することもできるのだ。

それを思い出した将は狂おしいほどの思慕が体中を駆け巡るのを感じた。

 
 

昼頃、将は雨を押して出かけた。タクシーでだが、当然つけられていると考えている。

それぐらいのことは毛利にはなんでもないことだろう。

若者が集まる街で井口と待ち合わせをしている。

そうやって油断させておいて、夕方か夜、聡を訪ねるつもりだった。

雨で、かつ半ギプスになったとはいえ不自由な足を引きずってでも、聡に逢うためだったらいくらでも策を講じる。変装したっていいぐらいに考えていた。

将は挑戦的な気分で、待ち合わせの最寄り駅でタクシーを降りた。

まだ、井口との待ち合わせには早かったらしい。

将は、駅の中にあるカフェに入って暇をつぶすことにした。

腹も減っている。サンドイッチを食べ終わると、聡に遅くなりそうだ、とメールを打つ。

と、窓の外に無意識に惹かれた。

チューリップの花束を持った、やや背の高い女が、茶色のセミロングをなびかせて通り過ぎるところだった。

ほっそりとした長い手足に似合わず、前をあけたコートとマフラーの下で張り出した豊かな胸が歩く振動で震えている。

地味な色の服なのに、女らしく優しげなオーラに包まれているようだった。

――聡に似てる。もろタイプだ。

と焦点をあわせる。……それは聡本人だった。

「アキラっ」

将は、反射的に立ち上がった。ガラスの向こうの聡は、こっちに気付かないらしい。

聡はちょうど改札から降りてきたらしく、駅の出口に向かって歩いている。

――そういえば、今日、知人の見舞いに行くって言ってたな。

将はびっくりさせてやろうと、ステッキを付きながら後を追った。

なんだったら、このままデートしてもいい。

聡は、追いかけている将にあいかわらず気付かない。

屋根が終わって外に出るところで、いったん空を見上げると傘を差そうとした。

アキラ、と呼びかけようとして将は息を飲んだ。

傘を差そうとした聡に、一人の男が走ってきて傘を差しかけたのだ。

博史だった。

そのまま、博史が差した傘に、聡を入れると小走りに歩道を渡り、車へ走っていく。

博史は助手席のドアを開けて濡れないように傘を差しながら、聡を車の中に乗せると、自分も傘を持って車の後ろをまわって運転席に座った。

そしてまもなく車は走り去った。

将は呆然としてそれを見ていた。

 
 

「ひどい天気だね」

博史はワイパーが忙しく動くフロントガラスを見ながら、聡に話し掛けた。

「そうね……」

薬が効いて聡の頭痛はようやく止んでいた。だけどダルさはあいかわらずだ。

今までと変わらない博史の雰囲気に、聡は、別れをまだ伝えてなかったかのような錯覚に陥る。

「その後、お母様はどうなの?」

「検査の結果、再検査になってね。結果待ちで少なくとも来週までは病院だよ」

「そう……」

聡は雨粒が貼り付いた窓の外に目をやった。

今度はこっちの罪悪感が胸にこみあげてくる。

重い鉛のようなものを必死で胃が逆流させようとしているかのような息苦しさ。

そして吐き気。聡は思わず、この苦しみの期限を計ってしまう。

……博史は、冷却期間を置きたいといった。それはいつまでなのだろう。

つまり聡はいつまで、博史の母親・薫の前で婚約者の演技をする必要があるのだろうか。

博史は、いつか薫に、聡との別れを説明してくれるのだろうか。

それとも薫が……亡くなるまで演技を続けるのだろうか。

亡くなる、死ぬ。

聡はそんなことを思った自分にぞくっとした。

同時に自分の身勝手さにますます吐き気がするようだった。

「顔色が悪い」

博史は前方から目を離さずに言った。

「そうなの? 検査……心配ね」

こちらを見透かされたような気がして、聡は心配そうな声を出すことに、そしてそれがわざとらしくならないように努めた。

「聡が、だよ」

博史は、こっちを一瞬向いて微笑んだ。勘違いだったことを指摘された聡は下をむくと、

「天気のせいよ」

と呟く。まさか二日酔いだとはいえない。

車は病院の地下の駐車場に入っていった。

 
 

「聡さん、待ってたのよ! まあ、きれいなチューリップ」

ベッドの上から薫は、元気な声を出した。上半身を起こしている。だがその顔色はそれほどよい、とはいえない。

「博史に聞いてびっくりしたわ。山梨に転勤ですって?」

薫はベッドの上で、その細い目を見開くようにして聡を見た。

「え、ええ」

「女性一人で心細いでしょう」

薫はベッドの脇の椅子を勧めながら、たたみかけるように話し掛けてくる。

聡は、根掘り葉掘り訊いてくる薫の質問に、

でも空気はいいですよ、とか、

雪はあまり降らないみたいです、とか、

月曜から用務員のご夫婦が来るんで安心です、

などそれぞれに丁寧に答えるしかない。

……だけど、息苦しい。

博史はといえば、立ったままにこにこと聡と母の薫を見守っている。

聡は、演技を続けるしかない。それは、失敗を許されないドラマなのだ。

「あの、チューリップ、いけてきましょうか」

聡はこの場を一瞬でも退場したくて、親切心を装う。

しかし、薫は、

「ううん、聡さんとお話がしたいわ」

と離してくれない。

博史が

「花瓶に差すだけだったら俺がやっとくよ」

と花瓶と花束を持って立ち上がった。その博史に薫は

「ついでにちょっと聡さんと秘密の話があるから席をはずしてちょうだい」

と意味ありげに言った。その顔は、温かい笑顔だ。

聡は笑顔を保ちながらもなんだか胸騒ぎがして、薫の顔を盗み見た。

「何?おふくろ。何の話?」

博史も笑顔のまま、いぶかる。

「ふふ。ナイショ。いいことよ……。ね、聡さん」

薫は楽しげに、いたずらっぽい顔で聡のほうを向いた。

わけがわからない聡はあいまいに笑顔を作り続けるしかなかった。

第135話 羞恥

ふっ、と光が弱くなり、ベンツから人が降りてきた。

降りてくるまでもなく、それが毛利だということは、将にはわかっている。

将は目が眩んで真っ暗な視界を、見えないまま睨みつけた。聡は将にしがみついたまま、同じように光のほうを見ている。

まっすぐに歩いてきたスーツ姿の毛利に将は先制した。

「何の真似だ、毛利」

「将さま。迎えに参りました」

毛利の言葉づかいは丁寧だが、頭一つ下げるわけでもない。

「マンションにお帰りください」

「今日は帰らねえよ」

息巻く将に毛利はわざとらしくため息をつく。

「高校生が飲酒するのはよくないですね……。しかも先生同伴で」

「何ぃ?」

「将、誰……?」

将の腕の中で聡が訊く。その声は少し酔いが醒めたようだ。

「父の関係」

将はそれだけ答えると、抱いていた聡からそっと手を離してその場に立たせた。

そして毛利のそばにステッキをつきながらもズカズカと歩いていった。

聡は酔って赤らんだ顔ながらも心配そうな顔をして将を見ている。

至近距離に近づいた将は、毛利の眼鏡越しの瞳に鋭い視線を刺しこんだ。

しかし、毛利はひるまず、低い声でさらに付け加える。

「このことが学校に知れたらどうなるでしょうね」

「だったら知らすなよ」

将はすごんだ。将のほうが背が高いので、毛利を見下ろす形になる。

「……では今日は、お帰りください」

「お前、どういうつもりなんだよ。オレとアキラを引き裂くことで、お前やオヤジになんかメリットあんのか」

将は毛利の耳元で低い声、かつ早口で囁いた。将の嫌いな毛利の整髪料の匂いが反撃のように香る。

将のセリフを聞いて毛利はフッと笑った。爬虫類を思わせるような表情が夜の中に浮かんだ。

「教育的な配慮です」

「ふざけんな!」

将がいきなり怒鳴ったので、立っていた聡がびくっと震えた。だが、毛利は微動だにしなかった。

将は、そんな毛利を睨みつけていた。

しばらくそのままでいたが、らちがあかないと見切りをつけた将は、聡が立っているほうへ踵を返そうとした。

「山梨では最近、連続強姦殺人が起こっているようですね」

将だけに聞こえるような毛利の低い声が背後から響いた。将はハッとして振り返った。

「まだ犯人は捕まっていないようですが……」

無表情のまま、抑揚なく話す毛利。将は得たいの知れない不気味さを感じた。

将は恐怖の中に怒りを混じえて、毛利にふたたび詰め寄ると、その襟首を掴んだ。

「お前……アキラを……やる気、なのか」

しかし毛利は、襟首を捕まれたまま表情をゆるめて、はじめて将の『顔』を見つめた。

「そんなことはしませんよ。夜道は危険だから、先生もお送りしようと申し上げようとしただけで」

しかし、将にはそれもわざとらしく感じた。

でも結局。

……言うとおりにするしかない。

将は聡の肩を抱いて、ベンツへと歩いた。毛利が、後部座席のドアを慇懃無礼に開けた……。

 
 

ベンツに乗るまでもなく聡の家はすぐだった。

心配そうな将を残して、聡は一人でベンツから降ろされた。その時点で、酔いは冷めてほとんど正気に戻っていた。

部屋に入ると、明かりをつけて、冷蔵庫の水をごくごくと飲む。

――ふう。

人心地つくと、寝乱れたベッドが急に目に飛び込んできた。

同時にさっき将が自分に行った行為が感覚とともに鮮やかに思い出された。

「もう、ヤダ!」

恥かしさが、大きな声になって出る。そんな自分がまた恥ずかしくて手で顔を覆ってしまう。

まだ酒が残ってるんだな、と心に残った冷静な部分で考える。

ベッドのそばに座り込むと、頭をシーツの上に預けてぐったりとしてみた。

なんとなく湿気を帯びたシーツは、かすかに二人の体臭の混ざった匂いがする……その中から聡は将の体臭をかぎ分けた。

「しょう」

聡は、つぶやいてみる。目を閉じると、酔った頭に将の顔が浮かぶ。

ベンツから降りる間際に見たせつない顔だった。

――さっきの、いったい何だったんだろう。

酔っていたので、あやふやだが、将と自分をベンツに乗せたあの男は……。

聡はシーツに預けた頭を少し起こした。

しわくちゃになったシーツの真ん中に、乾いた薄いしみがついていた。あのときの快楽の……痕跡。

それを見るなり、再びいろんな記憶が一気に聡に襲い掛かってきた。

聡はさっきそれをされていたときのように息苦しくなってきた。主に恥かしさで、である。

体中の血液に充満した恥かしさが聡の体中をぐるぐると駆け巡る。

瀉血するように恥かしさを抜きたいけど、抜けない。

聡はなすすべもなく暴走する恥かしさに地団駄を踏みたい気分だった。

地団駄の代わりに、証拠物件である湿ったシーツを一気にはぎ取る。

酔いがまだ残っているのか、大きな動きをすると、脳が頭からはみでて浮遊しているような感覚でぐらぐらする。

それを耐えて、自分も洗い清めようとシャワールームに入る。

しかし、自分の裸でさえも、あの淫らな行為の『証拠物件』なのだ。

聡は恥かしくて、このままシャワーに溶けてしまいたい気分になった。

だけど、石鹸ですべてを洗い流し、清潔な下着に穿き替え、洗ったパジャマを着ると、さすがに落ち着いてきた。

乾いたシーツに換えたベッドに横たわると、隣に将がいないのが急にさみしくなってきた。

将のことは愛している。いつも一緒にいたい。ぬくもりがほしい。

だけど、こんなに動揺するなんて。正直、聡はさっきの行為を後悔していた。

あのまま最後までいかなくてよかった、とほっとしている。

すごく気持ちよかった。溶けて蒸発しそうだった。死んでもいいぐらいだった。

しかももう教え子じゃない。

だけど。

将は依然17歳なのだ。

愛という大義名分のもと、法律を犯してまで1つになるのは、やはり怖い。

心の片隅にこびりついた、良心というか常識というか、そんなものは意外にも、心を深く操っていたのだ。

それが、酔った聡の言動に現れたのだ。

――愛よりも常識なんだ……。私って。

そんな自分の計算高さのようなものを寂しい、と聡は思った。

聡はため息をつくと、寝返りを打った。

そこへ、メールの着信音。

たぶん、将からメールがあるだろうと、携帯は枕元に置いていた。

案の定、将だった。

『今日はごめん。明日、なんとか抜け出すから、そっち行っていい?』

そっち=聡の部屋。聡は、またさっきの行為を思い出して、顔が一瞬熱くなる。

それをかき消すように、繰り返し携帯に表示されたメールを読む。

文言の一部が気になった。

抜け出す、とは、いったい?

さっきのスーツ姿の『毛利』という人のことだろうか。あの人は将を監視しているのだろうか?

聡の心を少しだけ嫌な予感がよぎる。

だけど、抜け出すって言ってるんだし、『毛利』のことはあとで将に訊けばいい。

いいよ、と打とうとした直前に、聡はかろうじて思い出した。

博史との……博史の母を明日見舞うという約束を。

これもあったんだ。と聡は天井を見て再びため息をついた。

どうしよう。だけど、せっかくの土日だ。将とは少しでも長く逢っていたい。

考えたあげく、

『いいけど、明日午後、ちょっと出ないといけないんだ。その間留守番になるけどいい?』

と送信した。すると間もなく将から

『どこに行くの』

と問い返してきた。

『知っている人のお見舞い』

聡は嘘をつかないように返事をした。

第134話 酔っぱらい

「じゃ、あらためてお帰り、アキラ」
「ただいまー、将」

「かんぱーい」

二人は生ビールで乾杯した。居酒屋の個室にいる。もう10時近いのであいてるのは居酒屋ぐらいだったのだ。

空腹が切実になった将は、すっかり機嫌をなおしてカラアゲや串焼き、モツ鍋、焼きそばなどをどんどん頼んだ。

盛大に食べる将を聡はじっと見つめた。

「何?」

将が、聡の視線に気付いて、そのまま視線を返してくる。

「ううん。なんでもない」

聡は、串焼きを取り皿に取るふりをしながら、顔を赤らめた。

こうやってきちんと服を着て、学校の書類なんかを持っていると、さっきの行為がすごく恥かしくなる。

恥かしいだけではなく、17歳の将を相手に淫らなことに耽ったことへ後ろめたさまで芽生えてくる。

愛の行為、だけど、淫らな行為。

そしてその淫らな快感に聡は確かに酔っていたのだ……。

その罪の意識を軽くすべく、将は年上の教師らしい質問を口にした。

「将、ちゃんと学校いってる?」

「ウン」

将は将で、返事をしつつ、牛さがりの串焼きを歯でグイッと抜くのに専念するふりをした。

……本当は、今日、将は学校をさぼってしまったのだ。

今朝、校長室の窓を離れた将は、教室に戻らずに校門を出た。

まだ早い時間で、屈強教師も立ってないのも幸いと、そのままタクシーを拾い、聡のコーポへ来てしまったのだ。

幸いコーポのまわりに怪しい……たとえば毛利の監視らしき人間とか……人影はなく、将は合鍵で中に入ると、月曜日に将が起きたままになっているベッドにごろり、と横になった。

あのヤクザ教師・京極の『厳しすぎる』指導は、理事の命令で、荒江高校からわざと中退者を出すためのものだった。

そして、中退者をあわよくば、山梨に新設している新しい予備校に取り込もうという策略。

そういわれてみれば、あの強圧的な態度も納得できる。

――結局、金儲けかよ。

腹立たしい一方で、何も知らずに山梨の山の中で不自由な思いをして働いている聡が可哀想になった……。

 

「新しい担任の先生はどう? 携帯を取り上げられたってメールに書いてたけど」

聡はビールのジョッキを片手に頬杖をついて将の顔をのぞいた。

将の動きが一瞬止まった。

聡には……ほとんど何も教えていない。

授業中に携帯を取り上げられるようになったので昼はメールを送れない、とだけ伝えている。

あとは、新しい担任がヤクザ同然だということも、その授業の内容も、心配させるだろうから将は一切メールに書かなかった。

もちろん、それらに隠れた陰謀は将も今日知ったばかりだから、教えようもない。

「みんな……井口も寿司屋もチャミもカリナも星野女史も、アキラがいいって言ってたよ」

将は手を伸ばして焼きそばを皿に取ると、ソース味のそれに集中するふりをしながら、答える。

「そう」

聡は一瞬嬉しそうな返事をした。

あの陰謀を知った将は、もう学校に行く気になれない。だけどそれでは、アイツの思う壺だ……。

聡は「そうだ、」と目を見開いて、いたずらっぽく顔を上げた。

「昼メールくれたってことは、将、今日学校さぼったのね!」

「ああ、今日は……病院があったから」

とっさの質問だったけど、将はうまく誤魔化せた。

ついでに将は、話題をそらすために今日、ギプスをカットして半ギプスにした件を面白おかしく話した。

「あれってさぁ、今までのギプスを、足にくっつけたまま本当に切るんだぜー。ちょっと怖かったしー」

ギプスを縦にカットして足の後ろ半分を残したものは、風呂に入るときなど、簡単に取り外しできる。

普段は包帯で固定するのだ。

「松葉杖じゃなくなったけど、片手のステッキもバランスがとれないんだよねー。……あ、そうだ山口サンがアキラによろしくって言ってたよ」

「山口さんかー」

修学旅行に同行した看護士。聡はその名前に、ニセコの雪景色を連想した。

まっ白なガスと吹雪の中、遭難しかけたこと。

将と抱き合って眠った避難小屋。星降る青い夜のキス。ラベンダー色のパウダースノーの斜面。

まだようやく1ヶ月しか経たないのに、ずいぶん昔のように感じる。

 
 

個室だったというのもあり、また久しぶりに東京に帰ってきたという開放感、さらにさっきの行為に対する恥かしさと後ろめたさから、聡は少し飲みすぎてしまった。

気がつくと、なんだか、踏みしめる足元がフワフワして、意味もなくとても楽しくなっていた。

――酔ってる。かんぺきに。

酔いを自覚するほど飲むのは、本当に久しぶりだ。

足元をふらつかせながら、夜道をふわふわと歩く聡を将が心配する。

「アキラー、大丈夫かよー」

居酒屋は聡のコーポから歩いて10分足らずのところにあるので、二人は歩いて帰途についていた。

「ふふっ。ぜーんぜん大丈夫っ!」

「もー、まったくぅ」

まだステッキが必要な足のくせに、将は聡の肩を抱いて支えようとした。

「そんなことしたら、足に悪いでしょ!」

聡は将をふりほどくと、スキップを始める。だけどそのラインはおもいっきり波線になっている。

「危ないぞー!」

「へーき、へーき」

といっているそばから「キャー!」という声。何かにつまづいたのか、聡は道に倒れこんだ。

「ほらー」

将は聡にステッキで出来る限りの早足で駆け寄ると、手を差し伸べた。

「将……。ダッコ」

聡はとろんとした目で、将を見上げた。

「しょーがないなあ」

将は聡を助け起こすと、その体を抱きしめた。酒に酔っているせいかいつもより熱い。

聡のほうも将にひしっとしがみついてくる。

「そんなに酔っちゃって、続きできんのかよ」

「……」

将は聡を抱きしめると、背中を優しくさすった。

「……続きって、セックスのぉ?」

「バカ、はっきり言うなよ、こんなところで」

12時近いとはいえ、金曜日だ。歩道には人通りがある。

「……セックス、なんかしないも~ん」

聡は上半身を離すと、紅い顔で将をはすに見上げた。

「ハァ?」

将は、聡のいたずらっぽい、かつ色っぽい酔眼に、心底惑った。

「だってえ、将、まだ17でしょ。インコーになっちゃうじゃーん」

そういうと聡は将の手からするりと離れて、

「うふふ、うふふ」

とまたスキップを始めた。

「……しっ、信じられねえ、二重人格……。おいっ、アキラ!」

「じゅうはちになるまで、だめだ、もーん」

聡は振り返ると、将にあっかんべーと舌を思いっきり出した。

そして再びよろよろとスキップを始めて、大通りからコーポへ続く静かな通りへと先に曲がった。

「こら、アキラ!待てよ」

将はステッキをつくのももどかしく聡を追った。

よろよろの聡はすぐに捕まった。

「つかまえた。コラ、アキラ。いったいどういうつもりなんだよ」

ケタケタと笑う聡の体をぐいっと抱き寄せ、唇をあてがって笑いを止める。

息がかなり酒臭い。それにかまわず、将は深いキスに進む。

「ん……」

聡はあっさりと将を受け入れる。腕の中で聡の力がだんだん抜けていくのがわかる。

「……さんざんその気にさせて。『おあずけ』はないだろ?アキラ」

唇を離した聡は、こころもち目を伏せてぼーっとしている。

そのとき、二人を強烈な光が殴るように照らし出した。あまりに急激な、圧力さえ感じるような眩しさ。

将はその光源を探ろうとしたが、しばらく目がくらんで何も見えない。

やっと目が慣れた将は、それがベンツのヘッドライトだということに気付いた。

第133話 リバウンド(2)

「だめっ……」

将の指を感じたとたん、聡は反射的に腰をひいた。

唇が離れた聡の顔を、将は見つめていた……目を見開いた真剣な顔だ。

そんな顔のくせに、さらに指を割り込ませてくる。

聡も将を見つめ返してくる。

だけど頬は尋常ではないほど紅潮しているし口は半開きになっている。

呆けたような表情に、いままで舌をからませていたその唇は唾液で濡れて光り、たまらなく淫らな顔だ。

きっと、将がとらえたあたりも唇と同じようになっているに違いない。

「シャワー……あびないと」

聡は、やっと言葉を口にすることができた。

将はかまわず、続ける。

1秒後には聡は体をびくっと痙攣させて、さっきより高い声を漏らした。

聡は何度も、だめ、だめ、と首をふりながら逃げようと腰をひいたが、将は執拗に聡の敏感な場所を追ってくる。

それはどんどん的確にさえなってきている。

次第に、だめ、という言葉は、将に対する制止というより、快楽に溺れて一人歩きしそうな自らの肉体への、せめてもの抵抗と戒めになっている。

しかしそれも、もはや用をなさず、結局快楽を示すサインとなってしまった。

そして……ついに、将は聡から最後の1枚を抜き取ってしまった。

聡は将の前で、生まれたままの姿になってしまった。

将は一糸まとわぬ聡の体をいとおしく眺めた。

次々と襲う感覚に耐えられずに、目を閉じて肩を上下させている……なまめかしい聡。

聡をここまで連れて来たのは、まぎれもなく将である。

将は、それに満足し、さらに新たなる興奮を得ていた。

そして自分も同じように最後の1枚を脱ぎ捨てた。

聡は将がそのまま覆い被さってくるのかと思いきや、かつて聡が将自身に施したのと同じことを始めたので驚いた。

「や……そんなこと、しなくていい」

驚いた聡は横たわったまま将を見下ろして、息も絶えだえにようやく口にした。

が、まもなく、さっきより何十倍も鋭利な刺激がそこから体中に走るのを感じた。

ギターの、張りつめた高い弦を尖ったものでつま弾くような、そんな鋭い刺激。

制止の言葉を口にしようとするが、脳が麻痺してしまったように、言葉にならない声となって口から漏れていく。

あまりにも強い刺激……逃れたくても、将にがっちりと下半身を固定されている。

一方、将のほうは、進んでこんな行為に及んでいる自分に少し驚いていた。

もちろん、何度も経験はあるが、それまでは『ギブ&テイク』という感覚でのサービスだった。

存分に気持ちよくしてやるから、あとでその分返せよ、という損得勘定。

快感をこっちから与える能動的な時間と、向こうから与えてもらう受動的な時間が存在する、と17歳にして将は割り切っていたのだ。

だけど、聡を目の前にして。

『将がどうやったら気持ちよくなるか一生懸命だった』

聡がかつて将自身を愛したとき言ったこと……将は立場を変えてそれがよく理解できた。

そして今、将の前にさらけだされた聡のすべてが、いっそういとおしく思えた。

 

まだ17歳のくせに、こんなこと、するんだ。聡のわずかに残る意識が、無駄な抵抗を試みる。

だけど……将だから……。

理性も恥かしいという感情も、繰り返す刺激のうねりにとうに飲み込まれてしまった。

今聡を支配するのは、剥き出しになった『女』としての感覚だ。それが淫らな声をしきりに漏らす。

もう少しで……てっぺん。

「しょう、将、」

聡は、いま、心も体も、かつてないほど将を激しく求めて、手を伸ばした……。

 
 

そのとき、頂に到達してまっ白になった聡の思考を切り裂くように携帯が鳴った。

バッグの中に入ったままの聡の携帯だ。

携帯の音は、現実世界に生きる聡を一気に呼び戻した。

だけど将は、そんな音は聞こえないように続けている。

聡は自分の意図と関係なく、勝手にビクビクと痙攣する体で、息も絶え絶えになりながら

「……将、電話」

やっと声を出す。ひどくかすれた声だ。

将は、そこから顔を上げて、聡と目をあわせると

「……ほっとけよ」

と一言で元の場所に戻った。

しかし、携帯はしつこく鳴り続けている。

「出なくちゃ……」

「……」

「ねえ、ってば」

とうとう、いち社会人の聡が、肉体の快楽に勝った。

聡は腰を引くと、起き上がってボストンのポケットから携帯を取り出した。

そこには学校の番号が表示されていた。

聡はベッドの端に腰掛けると、同じように裸でベッドの真ん中に座り込む将に「学校」と小さく伝えて、電話を取った。

「お疲れ様です、古城先生。無事東京に戻られましたか」

電話の相手は、教頭だった。

「あ……ハイ」

聡は普通の声を出すべく苦労したが、どうしても声がかすれてしまう。

「もうお休みでしたか」

「いえ」

聡は、教え子との濡れ場を見透かされたかのようにドキっとする。

こんなふうに裸でいるのも覗かれているような錯覚。

聡は将の愛撫を受けていたときとは違った感覚で顔がカッと熱くなるのを感じた。

背中に熱気を感じて振り返る。電話で話す聡のすぐそばに将が寄り添っていた。

「それで、急で申し訳ないんですが、古城先生に渡しておきたい書類があるんです……」

教頭の用件を真剣に聞く聡を、将がいたずら心で後ろから抱きしめる。

「月曜日でも、とも思ったんですが、月曜日は用務員夫婦さんが朝から入られるから出発は早いだろうと思いまして」

「あッ」

思わず聡は場違いな声をもらしてしまった。話に対してではない。

後ろから将が、聡を急に抱きしめたのだ。

思いがけなかったのと、さっきの余韻で敏感になっている聡は、声を抑えることができなかった。

「古城先生?」

電話の向こうで教頭のけげんな声が聞こえた。

「いえ……」

聡は、携帯に向かって取り繕いながら、背筋を伸ばすと、将を睨みつけて、拳を振り上げるポーズをした。

将は声を立てずに笑いながらベッドの上に転がり『やられた』ポーズをした。

「それで、その書類ですが、今から取りに来ていただけませんか」

まったく体を隠さず、大の字に倒れている裸の将だから、当然何もかも丸見えだ。

「今から、ですか」

聡は将から目をそらして、急な用件に軽く抗議の声をあげた。

時計を見ると9時半に近い。

「ハイ。明日は休みですし……。取りに来ていただくだけですから」

聡はため息をついて、了解すると電話を切った。

電話を切るなり、横たわっていた将はバネのように起き上がり、座って携帯を握ったままの聡に抱きついてきた。

「今から、なんだって」

聡はため息をつきながら、唇を尖らせて命令された内容を言う。

「ガッコ-に書類を取りに来い、だって」

「ええー!」

将は驚いたようだ。眉を歪めて目を見開いて、そりゃないぜ、という抗議を顔全体で現している。

「いまからぁ!……やめとけよ」

そのまま聡を押し倒して、口づけをする。

「そういうわけにもいかないでしょ」

聡は将の唇から自分の唇を引き剥がした。

「じゃあさ、1回終わってからにしようよ」

起き上がろうとする聡を将は押さえつけたが、聡はもう完全に仕事モードになっているようだった。

「ダメ。教頭先生、待ってるみたいだもん」

聡は将を制して起き上がると、ベッドの中でくちゃくちゃになっていた下着を見つけ出して穿いた。

将は裸のまま、ブスっとして、聡が服を次々と身につけていくさまを見ていた。

あっという間に、さっき喘ぎ声を出していた女とは別人のような社会人に変身してしまった。

「あんなに……たくせに」

「え、何?」

聡は化粧を直しているコンパクトから将に振り返った。

「フン」

とそっぽを向いて拗ねる将の声に、長く響く鈍い音が重なった。

「あ……」

興奮から醒めた将の内臓が空腹を一気に訴え始めたのだ。

「書類もらうだけだから、一緒に行く?帰りにご飯でも食べようよ」

さっきの淫らさをみじんも見せずに、聡は微笑みながら、まだ裸でいる将の隣に腰をおろした。

「ね?」

そういって首を少し傾けて上目遣いで将を見る。

そんな聡はやっぱり可愛い。将は聡の肩を抱き寄せると、

「オレ、メシより、アキラが食いたいんだけど」

といって軽く唇をあわせる。

「腹が減っては戦はできぬ、っていうでしょ。ほら服着て」

聡は将のほっぺたに音を立ててキスを返した。

第132話 リバウンド(1)

「じゃあ、明日」

コーポの前で聡を降ろすと、博史は運転席から離れることなく、確認するようにそれだけ言って車を発進させた。

走り去る博史の車を見送る聡はため息をついた。

夜に溶ける白い息は、安堵と明日の約束に対する重圧感の姿だった。

携帯をあけて時間を見ると、20時30分を少し過ぎたところだ。

コーポを見上げると電気がついている。

それを見たとたん、聡は階段を駆け上がっていた。今週の疲れも何もかも忘れて。

聡が着く前に、ドアが開いた。

開いたドアの内側に将を見たとたん、聡はボストンバックを放り出して飛びついた。

「将!」

懐かしい将のぬくもり。干草のような彼の匂い。

もう100年も会ってない気がする。

将は聡を受け止めると、しっかりと抱きしめた。

二人は部屋に入るのも忘れて、どちらからともなく唇を求める。

ひとしきり口づけを交わしたあとで、将は

「アキラ、おかえり」

と微笑んだ。そうやって微笑む将は、また少し大人っぽくなっている。

「ただいま……。将」

聡はせつなくなって、また将の胸に顔をうずめた。

「早かったじゃん」

「うん……」

聡は将の胸に顔を押し付けたまま離れない。

「アキラ、ちょっとボストン拾わせて」

「離れたくないの……」

「ったく、子供みたいだなあ」

将は笑いながら、聡を抱きしめたまま、手を伸ばしてボストンを拾った。

次の瞬間、聡の体がふわりと宙に浮いた。

将に横抱きにされたのだ。そのまま家に入ろうと、長身の将は聡を抱いたまま、注意深く首をかがめた。

「ちょ、ちょっと将、足は大丈夫なの?」

ギプスがとれたといっても、急にそんなことをして大丈夫なんだろうか。

急に視点が高くなった聡は、怖くて将の首にしがみつく。

「ちょ、アキラ、前が見えない」

ゴン!

少し首を伸ばすタイミングが早かった将は、入り口におでこをぶつけてしまった。

「いってえ~」

将の情けない顔は、聡のすぐ近くにある。

泣きそうな顔だけど、聡の体は離さない。

「将、背伸びたんじゃない?」

聡は将に横抱きにされたまま、クスッと笑った。

「たぶん……、コラ、笑うなよ」

「だって」

ふふふ、と笑いが出てくる。

「おしおきするぞ」

そういうと、将は横抱きにした聡をベッドの上に横たえるようにそっと降ろし、

部屋の電灯を消してスタンドだけにするとそのまま覆い被さってきた。

「ヤダ、くすぐったい」

聡は本当にくすぐったくて笑った。

「将、ご飯は?」

「そんなの、どうでもいいよ」

将のせつない顔を見て、その広い背中に聡は腕をからませた。

「すっげえ、逢いたかったんだ。アキラ」

「あたしもよ。将」

ベッドの上で再び、唇をあわせる。

服の上からでも、お互い隙間ができるのを惜しむように、体を密着させる。

「寂しくて、死んでしまうかと思ったぜ、アキラ」

「……将」

触れ合いながらも互いの名前を何度も呼び合う。

その瞳、ぬくもり、唇の感触、そして声。

呼び合う名前さえも、全部……互いが互いを愛している。必要だった。

食事を無理に制限していた者が、タガがはずれて過食に走るように。

逢えなかった二人は、今、まさに愛のリバウンド状態、歯止めが利かない状態にいる。

将は、聡と舌をからめあいながら、聡のニットの下の素肌に手を忍び込ませていた。

聡も知っていて止めない。

このままだと一線を越えてしまうかも……そんな理性が鳴らす警報音が小さく頭の隅で鳴っているけれど、今はそれどころではない。

聡は将への激情に完全に身を任せてしまっていた。

逢えなかった分を取り戻すような、濃厚な逢瀬。

ニットの下、最初控えめだった将の手だが、だんだん大胆になる。

それを察知しながら聡は止めもせず、逆に将の着ているシャツの裾から、自分も将のなだらかな背中にじかに手のひらを這わせた。

背中であの火傷のあとが盛り上がっているのがわかる。

将の受けた心の傷の象徴……聡はそれをやさしく指でなぞった。

それに気付いた将は、一瞬優しい目で聡を見つめた。

と、素早く聡の体を起こすと、その上半身からニットを取り去ってしまった。

「……だめ」

といいつつ、聡の感情はとうに覚悟を決めていた。

理性のほうは……とっくに押し流されてどこかへ行ってしまっている。

気が付くと聡は、最後の1枚だけを身につけてベッドの上に横たわっていた。

正月の実家のときより裸に近い状態なのに、火照っているのか寒さを感じない。

今日こそは将と1つになるときなのだ、と体同様、理性を脱ぎ捨てて裸の感情だけになった聡は胸を高鳴らせた。

将も、いったん立ち上がって、来ているものを脱いでいる。

ボクサーパンツ1枚になった将を聡はあらためて見上げた。

長身に、流れるようにしなやかな褐色の筋肉がついた十代の体には贅肉がまるでない。

スタンドの暖色の灯りに照らされたそれは、滑らかな影としっとりとした艶に彩られていた。

広い肩幅と、見るたびにガッチリしていくような長い首が、顔をより小さく見せている。

意思を秘めた……睨みつけるような……強い瞳で聡を見下ろしている。

腕で胸を隠して横たわる聡の上にまたのしかかってきた。

骨折した足は、ジーンズを脱ぐと、あいかわらず白い包帯で巻かれていた。

「足は……大丈夫なの?」

「うん。これ半ギプスなんだ……」

それだけ答えると、将は裸の聡をそっと、だけど強く抱きしめた。

服の上からとは比較にならない熱い将の体温。

肌と肌が触れ合っただけで、吐息が漏れそうになるほどの快感が聡を包み、それは一撃で聡を完全に支配してしまった。

一方将も、柔らかく滑らかな聡に触れただけで、全身の血がたぎるほどの興奮に支配された。

そして緊張した。

――今日こそ聡と1つになれる。

そう思ってはやる気持ちを抑えながら夢中で、かつ自分に出来る限りの慎重さをもって、聡のさまざまな場所へと口づけを落としていく。

「あっ……」

胸の一番敏感な場所への口づけに、思わず聡は声をもらしてしまった。抑える暇もない……反射。

その反射信号は背筋を伝って、将を受け入れる場所に同じような甘い刺激をもたらした。

のけぞるように体が斜めに傾いている。

聡は、行き場なく体中をさまよう、とまどいと恥じらい、愛情そして快感の混じったものを両掌に込めて、胸の上にある将のボサボサ頭をくしゃくしゃと撫でた。

すると将はいっそう、そこへの刺激を強める。

繰り返し狭い面積の皮膚に施される口づけと愛撫。

息を忘れるほどの甘い刺激に、聡は本当に呼吸を忘れた。そしてやっと苦しくなって、大きく息を吸って吐く。

息をする自由も奪われて、聡は大波にさらわれたようにもがいた。

溺れてしまいそうな聡は、必死で将の頭や、背中に手を伸ばしてしがみつく。

将は、荒くなっていく聡の息づかいと共に、話し声からは想像できない甘い声が、我慢できずにもれるのを聞き、いとおしさでいっぱいになった。

愛する聡を、自分が、悦ばせている。

それはかつて他の女に感じた攻撃的な征服感とは違った幸福感だった。

いったん、胸から顔をあげると、聡を見つめた。

やや斜めに傾けた白い体が桜色に染まっているのが、スタンドの灯りでもわかった。

髪は乱れ、ほつれ毛が頬や首筋に貼り付いて、閉じた長い睫が紅潮した頬に影を落としている。

目を閉じていた聡は、将の動きがとまったのでゆっくりと瞼を開けた。瞳がうるんでいる。

いとおしく、美しく、淫らで、可愛い聡。

「アキラ、愛してる」

将はもう一度、聡に長い口づけをして、ぎゅっと抱きしめた。

滑らかな肌同士が、吸い付くように密着する。

「将、あたしも」

唇が離れると今度は聡のほうから唇をあわせてきた。

濃厚な口づけを交わしながら、将は手をひそかに聡の最後の布の中に侵入させた。

第131話 冷却期間

鳴り続けるけたたましい警報音に、聡はなすすべもなく身を固くした。

――どうしよう。どうしよう。

職員室にカーテンはない。

新しい木造の校舎は、ガラス張りの窓が多く取られた開放的なつくりで、教室も職員室も、もともと外から丸見えである。

しかも外はもう暗く、覗こうと思えばどこからでも覗けるような状態になっている。

そして、ここにいるのは聡一人きりである。

とっさに隠れ場所を探した聡は、机の下にしゃがみこんだ。机の影にいればしばらくは、やり過ごせるかと思ったのだ。

だけど、ああ。

電灯がついているということは、ここに誰かがいるという印になってしまっている。

おまけに聡の机のスタンドもまだついたままだ。

聡はしゃがんだまま、耳をそばだてて不審者の情報を得ようとした。

騒がしい警報音に隠れて、エンジン音と共に未舗装の敷地をタイヤが踏みしめる音が聞こえた気がする。

聡は……勇気を出して、入り口にある顔の高さのガラス窓から外のようすをうかがった。

ちょうど車のヘッドライトが消えるところだった。

明るさに目がなれた聡には、闇に隠れてしまったその車のようすがよく見えない。

……男が一人、降りてくる。がっちりした男が校舎から漏れる明かりに浮きだされたが、その詳細はよくわからない。

聡はガラス戸の鍵を閉めると、壁に寄った。

――何か武器はないだろうか、武器は!

護身用に金属バットかスタンガンでも買っておくべきだった、と後悔する聡の前のガラス戸にとうとう男の顔が見えた……。

――博史さん?

ガラス戸の向こうで、壁にへばりついた聡を見つけた博史は、ガラス戸を笑顔でコツコツとノックする。

口元の動きで『聡』と呼んでいるのがわかった。聡は全身の力が抜けるようにホッとした。

ガラス戸の鍵をあけたとたん、博史がガラス戸を開けて中に入ってきた。

聡を抱きしめようとして止まった博史の手を見て、聡は新しい緊張が走るのを感じた。

「すごい音だね。聡」

言われて聡はようやく、警報音がまだ鳴り続けていることに気付いた。

「ちょっと待って」

聡は奥にある警報装置のところへ駆け寄ると、警報音を止めた。

「……どうしたの? こんなところに」

聡は自分のデスクに向かうと、意味もなくファイルなどを確認するふりをしながら、博史に出来るだけそっけなく問い掛けた。

「迎えにきたんだよ」

博史は温かみのある声で答えた。

「どうしてここが……?」

あいかわらず、ファイルに視線を落とす聡。博史の顔を見るのが怖かったが、

「学校に教えてもらった。婚約者だって言って」

婚約者、という言葉に聡は博史を振り返る。

博史の細い目の笑顔からは、何の意図があるのか汲み取れない。

「……会社は?」

「今日は有休を取った。ずっと休み無しで引継ぎやってたからさ」

『あたしたち、もう婚約者じゃないでしょ』と聡が言い出す前に博史は聡の近くに来ると、ボストンを持った。

「どうせ、今から東京に戻るところだったんだろ」

柔和な口調。だけど、強引だった。

 
 

「まだ、仕事?」

博史は実家の国産車の運転席から、助手席の聡に向かって話し掛けた。

「うん……」

助手席に座った聡は、さっきの画像を送信すべく、膝の上でノートパソコンを操作しているのだ。

聡は、その操作をことさらゆっくりと行ったつもりだった……博史と車の中で二人きりでいまさら何を話せというのか。

それを恐れた聡はひたすら逃げていたのである。

しかし、とうとう送信し終わってしまった。聡は観念してノートパソコンを閉じた。

「終わった?お疲れ様」

「うん……」

博史は行く先から目をそらさずに、優しい言葉をかけてくる。

暗い高速道路を走っているフロントガラスの上のほうに、車内にいる聡と博史の姿が映し出された。

サンフランシスコにいた頃は、頬を寄せて、キスする二人が映し出されたこともあったのに、今の二人は沈黙するばかりである。

「東京に着くの遅くなりそうだから、何か食べていく?」

目の前には、パーキングエリアの表示が出ている。

「ううん、いい……」

早く家に帰りたいから、というより博史と向かい合って食事をするのが怖い。

しかし、博史はパーキングのほうに車線変更をした。

「コーヒー飲もうよ。自販機のだけど」

と柔らかい笑顔をこちらに向けた。

 
 

聡はパーキングの女子トイレに入るとメールをチェックした。

将から2件。

1件目は今日の昼だ。仕事に集中していた聡は気付いてなかったのだ。

『連続殺人のニュース見て心配してる。大丈夫?気をつけろよ』

将もあのニュースを知って気に掛けてくれたのだ。

もう一件は夕方になっている。

『松葉杖が取れたよ。何時ぐらいに帰れそう?ご飯一緒に食べようよ』

いま夜の7時すぎだから、おそらくコーポに帰れるのは9時ごろと見当をつける。

早く将に逢いたい。そこで聡は不安になる。

博史は、聡をちゃんと帰してくれるのだろうか。

新年に乱暴されるように抱かれたことが悪夢のように蘇る。

それを振り払うように、将には帰りは9時すぎるかもと返信する。

博史は、コーヒーを買って車で待っていてくれた。

「ありがとう」

それだけ言って、コーヒーを受け取る。自販機の中でも、やや高級なものなのだろう。その香りと湯気は聡を少し安心させる。

「じゃあ、出発するよ」

博史はエンジンをかけた。

 
 

しばらく暗い道が続く。

博史の国産車は濃いグレーの道路だけを照らしている。行く先は真っ暗だ。

しかし、高速道路にいるあいだは、たぶん安心だ。

博史が口を開いた。

「……それにしても。聡、とんでもないところに転勤になったもんだな」

「……そうね」

「あんな山奥に、女性一人なんて危険だよ」

「……」

それは聡もそう思っている。

「あんなところ辞め……」「博史さん」

博史の言葉の先を予想した聡は、それを遮る。

「あたし、博史さんとは結婚できない。考えたけど、決心は変わらない……から」

行く先の闇に語りかけるように、だけど一気に言った。

「ごめんなさい」

その部分でだけ、ハンドルを握る博史の横顔を恐る恐る見る。

「もう……絶対、なのか」

博史は、行く先から目をそらさず、淡々とした口調で問い返す。ハンドルも安定したままだ。

ゆっくり頷く聡の顔がフロントガラスに映しだされた。

しばらくエンジン音だけが響いた。国産車だけあって、高速走行でも静かだ。

そういえば、音楽をかけていないことに聡は気付いた。さっきはFMが掛かっていたが、このあたりの周波数に合わせていないのだろう。

両側は山だから、電波が入らないのかもしれない。

そういえば……博史は、何の音楽が好きだっただろうか。

3年以上も付き合っていたのに、聡は博史の音楽の好みを知らなかった。

聡は、自分がひどく不誠実なように思われた。あわてて博史が好きだったものを思い出す。

映画が好きだった。

スカッシュが得意だった。

スキーもボードも上手かった。

ワインが好きだった。

色々飲んだけど、赤だったらやっぱりボルドータイプに戻った、なんて言ってたっけ。コスパのわりに味が安定してるって……。

料理も出来たし、中でもパスタが得意だった。

夏の午後、サンフランシスコの摩天楼が見える部屋で、博史は抱いた後の聡にそれを食べさせてくれた……。

優しかった博史。

笑うと目が糸になる博史。

優しかった博史の想い出は、聡をひどい女だと責める。

聡はそれに耐えられず……ついに涙をこぼした。

「なんで泣くの」

博史は前を向いたまま、問い掛けた。相変わらず淡々とした口調だ。

聡は答えられず、バッグからティッシュを取り出すと、だまって涙をぬぐった。

「ごめん……」

「……そうだな。本当にひどいよな。海外赴任中に、彼女が……婚約者が心変わりなんてさ」

博史の口調は、聡を責める内容に似つかわしくないほど静かだ。

だけど、博史の言うとおりの、ひどい聡なのだ。聡の目からまた涙があふれてくる。

「自分をひどいと思うなら、頼みを聞いてくれないか」

「……なに」

聡は涙声で博史の横顔を振り返った。

「冷却期間を置いてくれ」

博史は、聡のほうを向かず、その視線を暗い道路にむけたままだ。

「もう、ダメだってことはわかった。でも俺の気持ちを整理したい。だから冷却期間ということにしてくれ」

うつむいて躊躇する聡に、博史はさらに続ける。

「それに……うちの母があんな調子だ。母に、まさかこんなことになったなんて言えない」

博史の横顔からは、なにもウェットなものは感じられない。

「母は、聡をすごく気に入ってるから……」

博史の母・薫を、聡は思い出した。

『一緒にカナダに紅葉を見に行きましょうね』

と微笑んだ博史に似ている目元。

メイプルの紅葉が美しいカナダの秋。その頃まで余命があるかどうかわからないそのひと。

「……わかった」

聡は新たに湧き出た涙をぬぐいながら小さく答えた。

「それで、さっそくなんだけど、明日、見舞いに行ってやってくれないか」

「……うん。わかった」

それが少しでも罪滅ぼしになるなら、と心ですがるように聡は約束をする。

博史は、あいかわらず目をそらさずに前を向いていた。

ほとんど口をつけていない彼のコーヒーは、すっかり冷めてしまっている。

第130話 陰謀

ヤクザ教師・京極のやり方に不満を募らせながらも、生徒たちは我慢して、その週は過ぎるかに見えた。

将も、ときどき京極と小競り合いになりながらも、毎日学校には来ていた。

それは将自身の意思というよりも、マンションにいると瑞樹と二人になってしまうので、大悟に気を遣って学校に来ているのだった。

大悟はあいかわらず、日雇いの派遣に行っている。それは工場だったり、流通センターでの力仕事だったり。毎日へとへとになって帰ってくる。

そんな一生懸命に働く大悟に、瑞樹のことでいらぬ心配をさせたくなかったのだ。

そうこうするうちに将にとって、ようやく待ち焦がれた金曜日がやってきた。今夜は聡が帰ってくる。

おまけに松葉杖とギプスは今日まで、と医者から言われているのだ。

もちろん急に普通に歩くのを許可されるわけではなく、代わりに足には半ギプスとサポーター、歩くときは片手で支えるステッキが必須ではあるが、松葉杖の不自由さに辟易していた将は解放的な気分でいっぱいだった。

ちなみに聡とは毎日欠かさずメールをしていた。

山奥の学校の準備が忙しいのか、それは短いやりとりだったけれど、

短い文面でも聡とつながっていることが、ここのところの理不尽な学校生活を送る将の唯一の救いになっていた。その聡に今日やっと逢えるのだ。

将は久しぶりに明るい気分で、かなり早めに学校へ向かった。

「鷹枝くん、今日日直だよ」

浮かれていた将は、同じく早めに登校していた部活の生徒にいわれて当番だったことに気付いた。

日直は、主に授業の後の黒板消しと日誌を書くことが役目である。機嫌がとてもいい将は、

「日誌取ってくるよ」

と率先して松葉杖を操るのも軽ろやかに、職員室まで日誌を取りにいった。

しかし、廊下に近い場所にある、各クラスの日誌置き場に日誌が置いてない。

将は、前の日直が

「京極のヤツ、日誌を適当に放り出してやんの。あれで担任かよ」

と憤慨していたのを思い出した。

おまけに、雑なサインだけをするだけで、内容をチェックする様子もない。

聡のときは……個別補習授業にオリジナル教材づくり、社会見学の準備で忙しいだろうに、ちゃんと毎日、日誌の内容に合ったコメントが書いてあった。

それはユーモアや時事問題を交えたりして、よく考えた内容であることは明確だった。

聡を思い出すと、京極のようすが腹立たしくなる。

将は、京極の机に移動した。幸い京極はいない。……それにしても汚い机である。

聡のときも、仕事が忙しいせいか、書類が山積みになり、決してキレイとは言えなかったのだが、少なくとも京極のように、飲んだ後の缶が何本も置きっぱなしになっている、というようなことはなかった。

将はビニールの下敷きの上に、缶の輪染みが残る京極の机をざっと見渡した。

日誌は見当たらず、今朝のスポーツ新聞がばさっと置いてあるのが目立った。

「どうした?」

将の姿を見て、多美先生がコーヒー片手に声をかけてきた。

「いや、日誌がないんで……。京極はどこ?」

「ああ、今校長室に行ったみたいだぞ」

「ふーん、わかった」

将は、日誌は諦めて、いったん教室に戻ろうとした。

だが、京極が校長と何を話しているのかが気になりだした。場合によっては弱みを握れるかもしれない。

将は、松葉杖をついて、校舎をいったん出ると、校長室の窓の外、カーテンの陰に立った。

南側を向いた校長室の窓には冬の薄い陽射しが差しているが、まだ早朝だ。

冷え込んだ空気に、コートを着ていない将は震え上がった。

カーテン越しのすりガラスを通して、中の会話が聞こえる。

「京極先生、その後、例のプロジェクトはいかがですか?」

とは校長の声。

「はい。意外にしぶとくて苦労してます」

京極がふだんとは違う神妙な口調で答えている。

――何がしぶといんだろう。それにプロジェクトって何だ?

「もっと、厳しくしないとダメじゃないですか?」

と教頭。

「しかし、体罰禁止ですから……。そう厳しいことも出来ません」

渋る京極に対して

「力に訴えるより、理不尽かつ威圧的なことをやらないと、自主退学者は出ませんよ」

教頭は強い口調で主張した。

――自主退学?

将はさらにカーテンの陰のガラスに耳をくっつけるようにした。ガラスは氷のように冷えている。

「……理事命令とはいえ、いやな仕事ですな」

校長が、重々しく口をはさむ。続くセリフを聞いて、将の眉は一気に吊り上った。

「ご自分で、生徒を中退するように仕向けるとは……」

「しかしです。うちの学校から中退させれば、キャッシュバックを払わないで済みます。中退した生徒は、入学金を格安にして南アルプス予備校に入れれば、一石二鳥というものです」

教頭のしたり顔が見えるようだった。

「ですが、今のところ、退学の兆しが見えているのは鷹枝将一人です」

京極の声で自分の名前が出され、将は身を固くした。

「鷹枝将ですか。たしかに、官房長官の息子である彼が南アルプス予備校に入れば、宣伝効果は絶大ですね。おまけに彼の成績なら、順当に高校卒業資格試験に合格できるでしょうから」

将は、いつのまにか爪が手のひらに食い込むほど強く拳を握り締めていた。

 
 

連続殺人のニュースを見たあと、聡は、もう一度全室の戸締り、警報装置をチェックした。

なおかつ、ここに女性が一人でいることを知られてはならない、と窓からのぞきこめる場所にあるものをチェックした。それでも怖い。

ここのところ、ようやく山の中の静かな夜に慣れてきたところだったのに、聡はまた眠れない夜を迎えることになった。

 

一夜明けて、金曜日になった。今日の17時までが勤務時間である。

この日、聡はインフラ整備ではなく、滞っていたカリキュラム作成をやろうと思っていたが、どうも、この山奥にいるのが怖い。

最初は職員室でその作業をやっていたのだが、風が戸を揺らすガタっという音だけで震え上がってしまい、アイデアどころではない。

考えた挙句、聡は昼から車で麓に降りることにした。

ファミレスで昼食をとり、そのままそこでカリキュラム作成をする。

しかし、いくら暇な田舎のファミレスといっても、3時間も居座るのはとても気を遣う。

聡はランチとドリンクバーの他に、欲しくもないのに、ケーキを追加してしまった。

苦労のかいあって、『今週暫定分』としては、そこそこのものができたときには16時前になっていた。

ファミレスを出た聡は、そのままコンビニに向かい、1週間分の業務日報をFAXで学校に流した。

これで仕事は終了。東京に戻れる。とホッとしている聡のバッグで携帯が鳴った。教頭からだった。

「お疲れ様です。業務日報読みました」

本当に疲れたよ、と心の中でつぶやきつつ、聡は苦笑した。

「問題がないようなら、このまま東京に戻ります」

伝えた聡に、教頭は

「問題はないんですが、1つお願いしたいことが」

とさらに業務を付け加えるべく、話を切り出した。

もうすっかり終わったつもりでいた聡は思わず身構える。

「何でしょうか……」

「いえ、そちらの校舎の画像を撮影して送って欲しいんですよ。パンフレットをつくるんですが急遽必要だといわれまして」

「撮影といっても……」

カメラもデジカメもない。携帯電話のカメラでいいかときいたら、紙媒体なのでダメだという。

「適当なデジカメを買って頂いて、それで撮影してください。画像はパソコンで送信できますよね」

「今から、ですか?」

「そうです」

教頭は、こともなく言ってのけた。聡は向こうに聞こえないようにため息をついた。

電話を切った後、聡はあわてて量販店に駆け込み、一番使いやすそうなデジカメを買い、山に戻った。

――もう直接、特急に乗ろうと思っていたのに……。

聡は泣きたかったが、歯を食いしばるようにして、耐えて車を運転した。

外観から撮らないと日が暮れてしまうが、充電しないと撮影できない。

聡はあせりながら、コードをそれぞれの場所のコンセントにいちいち差しながら、教室、寮、職員室を撮影してまわった。

ようやく少しだけ充電が出来て外に出たときは、陽は翳り、校舎は紫色の山影の中に入っていた。

それでもいい、と聡はシャッターを切ったが、暗いせいか手ブレしてしまう。

――さっき、三脚を勧められたとき、一緒に買っておけばよかった。

後悔後先たたず。三脚無しで手ぶれしない写真をとるべく、聡は四苦八苦した。

あせって撮影をする聡は、恐ろしい風の音も、殺人鬼のニュースもすっかり忘れてしまっていた。

何度となく失敗して、ようやく撮影できたとき、充電がちょうど切れた。

聡はあせりながら校舎に戻り、ノートパソコンに画像を落とす作業に移る。

しかし、その前に、新品のデジカメは、ソフトをパソコンにダウンロードしなくてはならない。

ネットがまだつながってないから、インターネットからの自動ダウンロードができない。

あせる聡はキーッと叫びそうになりながら、ダウンロードを完了し、次にマニュアルと格闘しながら画像をなんとかパソコンに落とした。

あせっているときはなおさらだが……マニュアルってどうしてこんなに分かりにくいのだろう、と憤慨しつつ、パソコンを閉じる。

送信はどっちにしろ麓に行かないとできないので、聡は降りる支度を素早くする。

そのときには、外はすっかり暗くなっていた。

時計を見ると18時になるところ、である。まだまだ特急はある。

校舎をあとにしようとした聡の耳に、突如警報音が入ってきた。

そのけたたましい電子音に、聡のほうが思わずビクッと体を震わせる。

それは敷地に不審者が侵入したサインだった。

忘れていた殺人鬼のニュースを、聡は急に思い出した。

第129話 反抗

「将、お前、よくさからえるなあ」

京極が行ってしまうと、再び井口らが席に寄ってきた。

「あいつ、すぐポイントちらつかせんだぜー」

なー、とカイトとユウタは顔を見合わせた。

将は、椅子にもたれて

「何、そんなに退学がコワイわけ」

と言い放つ。三人はしばし顔を見合わせた。

「……そりゃ。もう2年も3学期だぜ。もったいないじゃん。あと1年我慢すればキャッシュバックがもらえるのに」

井口が3人を代表するように言い「お前は金持ちだから関係ないだろうけど」と小さく付け加えた。

将は窓の外を眺めた。今日も冷たく晴れている。この冷たい青空は聡がいる山梨までつながっているんだろうか。

「あっ!」

「何だ、将」

突然声をあげた将に、井口らがあわてる。

「くっそ、携帯預けんじゃなかった!アキラにメール打てないじゃん!」

「……なんだ、そんなことかよ」

「そんなこと、だけじゃないぜ。取引もできねえし。しまったァ」

将は頭を抱えた。株取引は平日の昼間に行われる。携帯を取り上げられたら、何もできない。

デイトレーディングでコツコツと儲けている将である。それは大損害だった。

将は乱暴に立ち上がると、松葉杖をついて職員室に向かった。そんな将を、3人は心配そうに見送った。

 
 

挨拶もなしに無言で職員室に入った将に、教員たちが一斉に注目した。

将はそんな視線にはかまわず、松葉杖をついて京極が座る席に直行する。

京極は将が脇に立っているのに気付いているくせに、無視して机上作業をしていた。

「携帯、返せよ」

将は、京極のパンチ頭の後頭部に向かって切り出した。

「何ィ?」

京極はやっと立っている将を振り返った。

「休憩時間に使うんだからよ」

「何に使うんだ。出会い系サイトか」

京極は勝手に使い道を限定すると、にやりと笑った。

将は、ムカッと来たのを抑えて、それでも京極を心底バカにした目つきで見下ろしながら

「株取引だよ」

と用途を短く話した。

「カブゥ?」

京極は目を細めて将を睨みつけた。その目付きは将が街でたびたび遭遇したチンピラそっくりだった。

「高校生にそんなものは必要ないッ」

1拍おいて京極は怒鳴りつけた。

職員室中がシーンとなった。隣で角刈りの権藤がハラハラしている。

騒ぎに学年主任の多美先生が近寄ってきた。

「どうしたんです」

事情を訊く多美先生に

「授業中に携帯なんて必要ない、と言っていたんです」

京極は、いちおう丁寧な口調で、でも内容は適当に答えていた。

「違うだろ!」

思わず叫ぶ将に、多美先生が

「鷹枝!言葉遣い!」

と注意する。

「コイツ……先生が、勝手に携帯を取り上げたんです」

何かわめこうとする京極を多美先生が制止してくれた。

「で俺、休憩時間に株取引をしているから困るって話してたんです」

「京極先生」

多美先生は京極に向き直った。

「高校生に、株取引は早すぎます。それに儲けたとしたら、よけいな金銭を持つことになり、非行のもとになります」

京極も、さすがに学年主任の多美先生には逆らえず、ブスっとしながらもその趣旨を説明した。

「早いかどうかなんて、誰が決めたんだよ!」

将はそれを聞いて思わず怒鳴る。

多美先生は腕組みをして考えたが、

「この件は、あとで職員会議にかけましょう。鷹枝、わかったな」

「わからねえよ!正当な財産権を奪うのかよ!」

将はなおも反抗した。株取引もそうだが、聡にメールを打てないのは痛い。

「何が『財産権』だ。きいたふうな口を利くな!……いいか。お前ら未成年は犯罪を犯しても名前がでない分、責任もない。責任がないってことは、権利も主張できないんだ。覚えとけ!」

京極の応酬に、将は悔しいが言い返す言葉が見つからなく、歯を噛み締めた。

多美先生は、なお京極をにらみつける将に、

「もう、授業が始まるぞ。……教室に戻りなさい」

と落ち着いた口調で諭した。

 
 

京極の英語は、この日は2時間目だった。

さすがに今日は、皆、教科書を持ってきていた。

将は持ってきていなかったが、気を利かせた井口が、1組の不良仲間に借りてきてくれた。

京極は授業開始2分前に、乱暴に引き戸をあけて教室に入ってくると、チャイムと同時に黒板に英文を書きはじめた。

無言で何かの例文を10ほど一気に書いてしまうと、教壇から教室の皆に向き直った。

「15分でこれを覚えろ」

意外な展開に生徒はサワサワと、控えめにざわめいた。どれも単語を10以上使った長めの例文だ。

「あ、あの……」

その成績のよさから、女子の学級委員を務める星野みな子が手をあげた。

「なんだ」

京極は不愉快そうに返事をする。それでも女子なのでいちおう静かな口調ではある。

「英文の意味が、わからないんですけど……」

「わからなくても覚えろ。機械的にな」

京極の答えに、星野は不服そうに黙った。

初めて目にする単語もあり、読み方すらもわからなかったが、生徒たちはしぶしぶと暗記を始めた。

将は、アホらしい、そっぽを向いた。そんな将の態度が目に付いたのか、京極は

「15分経ったらテストをする。半分以上覚えてなかったものは、マイナス50ポイントだ!」

「ええー!」

と小さく声があがったが、ギロリと睨む京極に生徒は縮み上がった。暗記を続けるしかない。

将はそれを聞いても、暗記をしようともせず外を見ていた。

 
 

「ねえ。アイツの英語、思いっきりヘンだよね」

と将の斜め後ろでチャミが相棒のカリナに言うのが聞こえた。

「うん。あれは『イングリッシュ』じゃなくて、『ジャングリッシュ』だってば」

とカリナも答える。

英語が終わっての休憩時間。こんなに休憩が待ち遠しかったことはない。生徒たちは皆緊張が解けて一気に脱力していた。

テストは小テスト形式で行われ、隣の生徒と答案を交換して採点する方式だった。

将は、白紙のままテストを終えた。

回答は京極が読み上げるのだが、それが思い切り日本語的な発音だった。単語ごとに区切っているし、かつ、thとかrの発音なんて最悪だ。

聡のネイティブに近い発音や、映画の生の英語に慣れていた生徒たちにはとても奇妙な言葉に聞こえた。

「……やっぱり、アキラ先生がいいな」

チャミがそうつぶやくとカリナも

「もう、アキラ先生戻ってこないのかな」

としんみりした。

将だけでなく……クラスのみんなも、聡を早くも懐かしんでいるのだった。

 
 

火曜日、真っ暗になって山の学校に戻ってきた聡は、風呂にも入りたくないほどくたくたに疲れていた。

それでも疲れた体に鞭打つように、なんとか風呂に入ると人心地ついた。

今日もカリキュラム作成には手をつけず、テレビをつけて、そのまま横になる。ざらざらの画面を見て、気がつく。

――ああ、テレビもちゃんと映るようにしないと。

聡はのろのろ起き上がると、メモに『テレビ』と書き加えた。あまりにも必要なものが多いので、そのつど書かないと忘れてしまうのだ。

再び床に戻ると、携帯を取り出す。将からのメールを読むためだ。

しかし、メールは昨夜寝る前に打ったらしい

『今から寝る。おやすみ。また明日メールする』

の一言だけだった。今日の分はない。

がっかりした聡だったが、そのうち疲れに負けて、ことん、と眠りについた。

翌日も、メモからはみ出すほどの数になった、必要なものをそろえるべく聡は買ったばかりの車で奔走することになった。

3万円以上のものを買うときは、いちいち本校に伺いを立てねばならず、そのたびに麓に降りて連絡して……面倒くさいことこの上ない。

聡は朝から晩まで、買い物と工事手続きに走り回った。

木曜もそれが続き……やっと夜。

聡は風呂上りにビールを飲みながら、業務日誌を付けている。

今週は文字通りバタバタしていて、毎日業務日誌を付けるどころではなかったので、あわてて1週間分を付けているのである。

それでも、明日夜には東京に戻れるので、聡の気持ちは少し明るかった。

アンテナ工事をしたテレビは、前よりずっとクリアーになり、BGMがわりにニュースを伝えている。

「よし!これで大丈夫でしょう!」

日誌になんとかケリをつけた聡はウーン、と伸びをした。

と、そんな聡の耳に『連続殺人事件』という不穏な響きが入ってきた。

伸びをしたままテレビに目を向ける。女性キャスターがその不穏なニュースを伝えていた。

『山梨県で起きている連続強姦殺人事件の続報です。昨日、N市でまた新しい犠牲者が出てしまった事件ですが、依然犯人像はつかめておりません……』

N市と聞いて、聡は思わずテレビに釘付けになる。聡のいる山の学校に近い場所だ。

テレビは、女性キャスターから現場の映像へと移り、さらにコンピューターグラフィックを使った地図が映し出され、男性のナレーションが入る。

『被害はいずれも20代の女性で、N市からK市までの間で起きている。今回のD子さんのケースは独りで車に乗っているところを狙われたと見られる。

犯人は何らかの形でD子さんの車を止め、その中に押し入り、暴行殺害。そのまま車を運転して遺体を運び、山中に放置したと思われる』

ニュースは、昨日殺されたD子だけでなく、前に殺されたA子からC子までの殺害したと見られる場所から遺体の発見状況まで詳細に伝えた。

いずれも聡のいるところから近いところばかりだった。聡は固唾を飲んだ。

山の中に独り。その危険が改めて聡に迫り、聡は身震いした。 

第128話 依存

結局将は、月曜日1日、学校をサボってしまった。

車の中で弁当を食べてしまい、漫画も一通り読んでしまうと、午後は何食わぬ顔で病院にリハビリに行き、それが終わると、看護士の山口としゃべる。

山口も、聡の転勤に驚いたようだった。

電話も届かない山奥だと聞いて

「普通、若い女性をそんなところに一人きりで赴任させるかしら。業務だとしたって」

と憤慨する。

――そうだよな。それが普通の感覚だよな。

と将は深く頷く。

そうこうしているうちに、暗くなってきた。

そろそろ大悟が帰っているだろうと、将は商店街でラーメンを食べてマンションに戻った。

 

「おう、将じゃん。どうしたの。入れよ」

笑顔でリビングに迎えてくれた大悟に、

「あのさ……」

と切り出す。やはりちょっと言いにくい。

「何だよ」

と大悟はソファの上、湯上りの寛いだ顔で微笑んだ。将はバツの悪さを感じながらも、

「……悪いんだけどさ。アキラが山梨に転勤になっちまったんだ。それで悪いんだけど、ここに戻っていいかな」

と用件を一気に言った。

「いいけど……」

大悟は予想通り、OKしてくれたが、その返事の仕方は将が思っていたのと違った。

もっと明るく賛成してくれると思ったのだが……。

もっとも将も、彼女と二人で棲んでいるところに友達が転がりこんできたら嫌だよな、しかもその友達は元カレみたいなもんだし、と大悟の気持ちを慮って、

「ごめんな。邪魔しちゃって……」

と頭を下げた。

「いや、ここはお前の部屋なんだから、気にすんなよ」

ようやくそう言ってくれた大悟ではあるが、あきらかに将のことは想定外だったようで少しとまどっているようだった。

「できるだけ、瑞樹と二人にはならないようにするから……」

将は言っていいものか一瞬迷った末、一応断っておいた。すると大悟はあわてて将のほうを向き直って

「別に、お前のほうは心配してないんだ。お前はわざわざ車1000キロ走らせて萩にいくほどセンセイにぞっこんなんだし……」

と、とりなした。そして「ただ……」と続けてうつむいた。

「瑞樹のことを心配してんのか?」

将は大悟の顔をのぞきこんだ。

「……だったら、心配要らないぜ。瑞樹はお前のことが好きだ、ってハッキリいってたぜ」

「マジ?」

大悟は顔をあげた。

「マジ、マジ」

将は大悟の肩をぽんぽんと叩いた。

「……いつ、聞いたんだよ」

「あ……。言おうと思ってたんだけど、今日昼、1回こっちに戻ったんだ。そんとき……あ、大悟!」

大事なことを思い出した将は、話を中断して大悟にそれを告げた。昼間、瑞樹が薬をやっていた件。

「もちろん、取り上げて捨てたんだけど。いちおうあれが最後だっていってたけど……」

「またか」

端正な眉をゆがめて、それでも目を見開いて将の話を聞いていた大悟だが、全部聞き終わると深くため息をついた。

「オレも何度かとりあげてるんだ。そのたびに最後だって言うんだけど……。どこで調達してるんだか……」

将の問いにうなだれるように頷いた大悟に、将は何て言葉をかけていいかわからず、しばし沈黙するしかなかった。

そういえば、瑞樹の姿が見えないことに、将は今気付いた。

「瑞樹は?」

「おばあちゃんちに行くっていって、さっき出てったけど……」

将の思考は、嫌な考えにゆきあたった。

「なあ、大悟。アレって1万もするんだろ」

「知らないけど、たぶんな……」

大悟は将の顔を見ないで、搾り出すように答えた。

そのようすを見ると、大悟も同じことを考えているのだろう。

「……アイツ、オレのこと本当に、好きだっていったのか……?」

しばしの沈黙ののち、大悟は呟くように将に尋ねた。

そのすがるような表情に、将は言葉が出てくる前に深く頷いた。

「いった」

「そうか……」

なのに、大悟は手を伸びかけた髪に埋めるようにしてうなだれた。憔悴しているように見えた。

将は、本当にそれ以上何も言えなくなった。

 
 

将は久しぶりに自分のベッドに横たわった。

聡にメールを打とうとして……画面を切り替える。瑞樹に電話をかけてみる。

しかし、案の定、電源を切っているのかつながらない。

将は……瑞樹が援助交際を再開したのは間違いないと思っていた。

大悟もたぶん、わかっている。だからあんなに憔悴した様子だったのだ。

それにしても女は、好きな男がいても援助交際なんかできるんだろうか。

将は、聡を思い出す。

今、聡にそれを聞いてみたい気がしてメールにそれを打とうとする。

だけど、メールの文字にしてみるとその問いは、生々しく、かつ、軽軽しかった。

将はいったん書いた文面を削除してため息をついた。

かわりに聡の答えを想像するべく彼女の画像を開けてみる。想像は簡単だった。

『そんなことできるわけないじゃない』

聡だったらそういうに決まっていた。

 
 

大悟のことを好きなのに援助交際をして。そうまでしても薬は離れがたいのか。

薬に……依存しているのか。

将は再び考える。瑞樹に巣食っている、依存、という得体のしれないものを。

それがないと正常さを欠くほどの耽溺。

自分ではどうしようもなくなった心の隙間を埋めるために、いや忘れるために、何かに依存することが必要。

瑞樹には……大悟では埋められない心の隙間があるのか。

まさか。まだ……。

入院中、将の病室で泣きじゃくった瑞樹を思い出す。

いや、思い過ごしだ。思い過ごしに決まっている。

瑞樹は大悟のことを好きだとハッキリ言ったのだ。

不安になった将は暗くなった携帯のボタンを押して、聡の笑顔を復活させる。

この場合、聡は精神安定剤だった。

しかし、それを見ているうちに、もっともっと欲しくなる。

逢いたい。話したい。触れ合いたい。

将は、ふと気付いて微笑む。自分も依存しているじゃないか。聡に……。

 
 

瑞樹は結局朝まで帰ってこなかった。

だが、将は学校、大悟は派遣があったので二人ともあわただしくマンションをあとにした。

学校に行くのは気乗りがしなかったが、仕方がない。タクシーを降りたところに、さっそく嫌なヤツがいた。

「へっ、タクシー通学か。お坊ちゃんがよ」

校門で竹刀を持って立っていたヤクザ教師・京極が将に聞こえるようにわざと言った。

立っていたもう一人の屈強教師も唖然とした顔になった。

どう考えてもケンカを売っているようにしか思えない言動だが、

朝で完全にエンジンがかかっていない将は、頭の働きも鈍い分、腹立ちも半分で済んだ。

軽く睨みつけるだけで、靴箱へと松葉杖をつく。

 
 

「将、お前昨日どうしたんだよー」

教室に入ってきた将の姿を見て、井口が寄ってきた。

「昨日よォ、お前が帰ったあと、あのヤクザめちゃくちゃだったんだぜ」

だが将の返事を聞かずに、まくしたてる。

「めちゃくちゃって……」

将が問い返していると、HRの予鈴チャイムが鳴った。

それを聞いて井口はあわてて席に戻った。井口だけでなくほかの生徒も席に着きはじめていた。

予鈴なのになんだ?と将が思う間もなく、引き戸を乱暴に開けて京極が入ってきた。

ずかずかと教壇に登ると、クラス中を睨むように見渡す。

クラス全員、ライオンに目をつけられたガゼルのように縮み上がった。

そしてHRの本鈴チャイムが鳴り始めると共に、チャイムのボリュームに負けない音量の声で

「きさまら、携帯を出せ」

と生徒たちに命じた。

「ハァ?何でだよ!」

将は、座ったまま抗議の声を上げた。他の生徒のハラハラとした視線が将に集まる。

「説明する必要はない」

京極は言い放った。

「じゃあ、オレも携帯をお前に預ける必要はない」

将も、低い声で応酬する。

「上等だ、鷹枝将。しかしだ」

最初静かな口調で微笑んでさえいるような京極だったが、

次の瞬間、将の席までズカズカと歩いてきて、机を竹刀でビシっと叩いた。

その鋭い音に、まわりの生徒が、身を震わせる。

「教師を『お前』とは何事だァっ!」

と咆哮を上げ、将の襟首をつかんで引っ張り上げた。

クラス中が、固唾を飲んで、成り行きを見守る。恐ろしさのあまり手で顔を覆う女生徒もいた。

「体罰厳禁じゃねえのか、この暴力教師」

将は襟首をつかまれたまま、すくっと立つと上から京極に言い放った。

長身なので、立ち上がると襟首をつかむ京極より視線が上になるのだ。

「説明もなしに、信頼もクソもないテメエに貴重品を渡せるか」

将は京極を見下ろしながらさらに続ける。

「こ、こンのぉ……」

京極は顔を紅くして歯を剥き出しにすると、将の襟首を、投げつけるように解放した。将は、襟元を整えながら、バカにした目で京極を見据えた。

「授業中に使うバカがいるから預かってるんだ!授業が終了したら返す!」

京極はやっと説明した。

「だったら最初からそう言えっつの」

将はもっと反抗しても良かったのだが、まわりの凍りついた空気に、これぐらいにしてやろう、と携帯を出して渡してやった。

まわりの生徒はホーッと安堵の吐息をついた。

……が、携帯を集め終わっても、京極は教壇の上から、鎌首をあげた蛇のように将を睨みつけていた。

第127話 しばしの離別(2)

「学校には絶対に行ってね……」

懐かしい聡の声はそこで途切れてしまった。電波のせいだろうか。

「アキラ、オレ、待ってるから」

それが聡に届いたかどうかはわからない。

聡との電話が途切れて、将のいる駐車場は再び、濃い灰色の静けさに包まれた。

聡無しであと5日もやりすごさねばならない。

将は、腹の奥底から突き上げて身を震わせるような、寂寥感に耐えた。

この感じ。昔に経験している。

思い出して将はハッとした。

母との死別。

まだ7歳だった将は、それがもはやどんな気持ちだったか、具体的に思い出すことはできない。

だけど腹の底からつきあげてくるような悲しさは、体が感覚として覚えている。

それは、長いこと断続的に将を襲ったものだ。

母の死に顔。出棺。火葬場で見送った煙。そういった直接的なものに触発された悲しさとは違う。

それは、大磯でヒージーと一緒に行った釣りの帰りに見た夕陽の中や、

友達と川で遊んで一人で帰るんぼのあぜ道の真ん中、

秋の夜中にふと起きて虫の声に包まれているのを感じたときだったり……。

将は、気を取り直そうと、助手席に置いた弁当を取った。

何で、そんなのを今、思い出すんだ。聡とは週末にちゃんと会えるのに。

死んでしまった母とは違うのだ。

将は感覚を頭で追い払おうとした。

それにしても。

何でこんなことになったんだろう。

将は、今回のことを秘書官の毛利のしわざだと確信していた。

だけど、何で?

親元を離れてから、こと、将がらみの手続きに関わることが多い毛利だが、今まで将のプライベートに関して介入してくることはなかった。

乱行を逐一知ってはいるだろう、というのは将はわかっていた。

だけど、瑞樹と同棲しようと、免許を偽造しようと、車を勝手に購入しようと、それを阻止したことはない。

毛利には、例えば将のヤクザ殺しのように、仮に問題が起きても、それをもみ消す才覚があるから、将のやることにいちいち口出しをしないのだ。

大嫌いな毛利だが、そのへんは……奇妙な言い方だが……将は信頼していた、といってもいい。

なのに、なぜ聡とは引き離し工作をするのだろう。

将は戦闘的な気分でアジフライを噛み砕いた。

どこかで、答えがわかっている気がする。ヒントは、たぶん手にしていると思う。

続いて、レンコンのはさみ揚げを頬張りながら考えるが、わからない。今は。

――ちくしょう!

そのとき、将は、レンコンの陰にウズラの卵のフライが隠れていたことに気付いた。

本当はこの弁当にそんなフライは入らない。ウズラの卵好きの将のために、主人がサービスしてくれたのだ。

それを見つけて、将の心は、少し柔らかくなった。

柔らかくなった心は、自動的に聡を映し出した。聡の泣き顔。

聡が電話の向こうで泣いていたのは、はっきりとわかった。

聡に逢えなくて自分もつらいけど、電話もロクに届かない山奥に閉じ込められた聡はもっとつらいのだろう。

将は、自分のこと以上に胸が痛む気がした。

他人のつらさが、自分に迫る。頭で理解するのではなく……。

こんなことは生まれて初めてだ。

 
 

将に逢える週末までの時間について、果てしなく長く感じていた聡だが、感傷に浸る暇もない忙しさが、その週を埋めることになるのをまだ気付いていなかった。

まず、将との電話が切れてすぐ、タクシーの運転手からデパートが遠いことを聞かされた。

急遽予定を変更して、スーパーで食料だけ買って、山に戻る。

運転手には翌日午後に山まで迎えに来てもらうように頼んでおく。

タクシーが敷地から出て行って、すぐに警備会社の社員が工事にやってきた。

だが、連絡に使うのは電話回線なので、それがまだつながってないのなら警備会社への自動連絡システムはできない、と言われ聡は愕然とした。

仕方なく、自動連絡なしでもいいから、警報装置を付けてくれと頼み、セ○ムの社員は翌日出直すことになった。

社員たちが帰ってしまうと、聡はまた山の中に独り、取り残された。

冬の日は2月になってやや長くなったとはいえ、早くも夕暮れの兆しである。

独りぼっちになると、木々を渡っていく風の音だけでも恐ろしい。

――オーディオを買おう。どうせ英語でも使うんだし。

聡は、前向きに考えると『必要なものメモ』にそれを書き込んだ。

ちなみに3万以下のものは、領収書があれば事後報告でよいといわれている。

それに買い物をしてきたから今日はカップ麺でなくまともなものが食べれるんだし。

聡は気持ちを明るく持って、早めではあるけれど、夕食の準備を始めた。

 
 

ケモノの声が怖くて、あいかわらずカラスの行水で風呂に入ってしまうと、やることがなくなった。

カリキュラム作成の仕事があるが、もちろん今からやる気になるはずもない。

聡は寒さから逃れるために布団にくるまると、もう一度携帯のメールを見た。

さっき受信した、将からのメールを1つ1つ噛み締めるように読む。

すべてに聡を心配し、連絡を待っている将がいた。

聡はそんな将を今すぐ抱きしめたくなる。将のぬくもりが恋しくてせつなくなる。

そんな中。

受信箱を占める将からのメールの中に1通だけ。

……博史からのメールが混じっていた。

それを見つけて聡の体は緊張した。

さっきはざっと見ただけなので気付かなかったのだ。

===========

こないだ、母を見舞いにいってくれたんだってね。

母がとても喜んでいました。

ありがとう。

ようやくカタールでの引継ぎにケリをつけて帰ってこれました。

2月からしばらく本社勤務になります。

週末にでも一度会って話がしたい。

  博史

==========

聡は忘れていた苦しみが再び重く胸にのしかかるのを感じた。

博史のことよりも、その母のこと……、

余命1年ない病人に新たなる悲しみと絶望を与えることになるかもしれない……そのことである。

独りで山の中にいる恐ろしさも忘れて、聡はうなだれた。

そして。博史。はっきりと結婚できないと伝えたけれど、彼はまだ承服していないようだ。

このメールに返事をするべきだろうか。

――どうしよう。どうしよう。こわい……こわい、将。

思わず、聡は将に救いを求める。だけどすぐに、そんな莫迦な自分に気付いた。

莫迦だと思うけれど。聡はフォトフォルダの将を再び開ける。

まるで、キリスト教徒のクロスのように、仏教との数珠のように。

今の聡の救いである将を象徴し凝縮した携帯の画像に聡はすがる。

 
 

結局、博史には、返信をしないことにした。

『無視』という形をとる自分を卑怯だとは思う。だけど何を返事すればいいのだろう。

相手が望む返事ができないことだけは、わかっている。

だから……何もしない。

 

火曜日朝、ノートパソコンが届く。新品なので、その立ち上げにマニュアルとくびっぴきで苦労する。

しばらくは携帯に接続してネットが使えるようにしなくてはならないが(それも麓でしか使えないのだが)それをするための部品もない。

そうこうしているうちに、昨日いったん帰ったセ○ムの社員がやってきて、監視カメラや警報装置の取り付け工事が始まる。

午後は、昨日頼んでおいたタクシーで、車を見に行く。

一刻も早く車は必要だったので、中古屋につくなり聡は

「諸経費込みで100万以下の車を下さい!」

と叫ぶように言った。だが、人のよさそうな中古屋は

『これは車検が○年までついてますが』

『取り回しだったら』

『燃費だったら』

果ては『ナビはつけますか?』

『ナビはハードディスクとDVDがありますが』

『イオンコーティングもできますが』

などとあれこれいちいち聡に訊いてくる。

とにかく車がないと困る聡には、全部どうでもよかったが、何とか全てに判定を下した。

ちなみに自分で車を買うのが初めてな聡は、どんな書類が必要かわからなかったので、社判から通帳から登記書コピーまで、全部の書類を持ってきていた。

それが幸いしたところもあるのだが、ふと『これって重要書類だよね』と気付いて、納車前に中古屋が手配してくれたレンタカーを運転して文房具店に行き、金庫を買う。

それまでで、陽は傾いていた。夕食はつくるのが面倒になったので、ファミレスで済ます。しかし聡はそれを思い切り後悔することになる。

すっかり陽が落ちた帰り道は真っ暗で、車でも恐ろしい山道が連続していた。こと、未舗装道路と来たら、暗闇の中ガタガタと揺れる。

ときおり、大きな石に乗り上げるのか、揺れ方が一定ではないのが恐ろしい。

運転に不慣れなこともあり、聡は前にネズミ系テーマパークで乗ったアトラクションを思い出す羽目になった。

レンタカーがナビ付でよかった、もしこんな真っ暗な山道で迷ったら。車の中で夜明かしすることを考えるとぞっとした。

やっと学校の敷地に着いたときは、どっと気疲れした。

寮でそんな聡を迎えたのは、盛大な電子音だった。

規定の時間を過ぎて車が敷地内に入ったので、センサーが反応して、電子音が鳴り出したのだ。

あわててそれを止めようとするが、まだ新しいのでやり方がわからない。

耳障りな電子音が鳴り続ける中、マニュアルを読み、どうにかそれを止めたときには、心底ぐったりした。

第126話 しばしの離別(1)

教頭との電話を切って、聡は大きくため息をついた。

……宅急便の配達員に呼んでもらったタクシーで、携帯が通じるエリアのコンビニまで下りてきている。

突然の、異動転勤命令について説明を訊くべく、聡はまっさきに学校に電話連絡したのだった。

そして結果的には。聡の転勤はもう決まったことで覆せないということがわかった。

聡はしばらく、山の中の新予備校に滞在し、インフラ整備とカリキュラム作成に専念……という任務が改めて口頭で言い渡された。

それにしても、携帯も電話もない山の中に女一人で当直し続けるのはあまりにも危険ではないか。

聡の意見に、教頭は次のように答えた。

電話については手続きは済んでいる。ただあまりに遠いので、工事に時間が掛かっていて、もう少し待ってほしいということ。

さらに警備については、敷地に夜間警備システムを完備するということ。

来週から、掃除と警備のため、高齢者ではあるが夫婦が入寮すること。

「それで今日、セ○ムさんが、そちらに警備システムの工事に入る予定なんです。さっそくですが、また現地に戻っていただけませんか」

「でも、私、一度あそこにいったら、電話も通じないし、タクシーも呼べないし、出てこれなくなっちゃうんですよ……」

「それについては、車を買ってください」

と教頭は簡単に言ってのけた。

「諸経費込み100万ぐらいで中古の。もちろん学校に請求してもらってかまいません。車種は古城先生に任せます」

「はぁ……」

聡は呆然とするあまり、携帯を持ったままコンビニの店先でしゃがみこんだ。

「あの、私、着替えとか1泊分しか持ってきてないんですよね。留守宅もそんなに長く開けるようにしてないし……」

声が思わず低く尖るのがわかる。

「そうですね。ただ、さきほど言いましたように、今日はセ○ムさんの工事のアポが入ってるんですよ。

あと、明日はノートパソコンなどを発送しましたんで、それが着くはずなんです。

なので受け取るまでは現地に滞在してほしいんです。

もし着替えや生活用品で必要なものがあったら経費で落として現地調達してもらってかまいませんから」

「ハァ……」

このため息のような返事を、何度しただろう。

ようするに、聡は今週の週末まで、東京に帰ることを許されないのだ、ということだけがわかった。

「業務連絡とかは、どうすれば……」

「毎日業務日誌を付けてもらって、電話が開通するまでは、週末にコンビニからFAXで流していただければいいです。そちらからの緊急連絡などは車で携帯が通じるところまで降りてきてください」

「ハァ……」

教頭は、聡の、英語教育で見せた、ユニークな発想と教育方法に期待していると結んだが、なんだかそらぞらしく聞こえた。

なお転勤手当てで3万、月給の基本給が2万加算、週末の帰京代は経費でOKと破格の待遇を約束されたのだが、聡の心は沈むばかりだった。

電話を切っても、しばらくコンビニの店先でしゃがんだまま立ち上がれなかった。

田舎のコンビニは、客も少なく、そんな聡に目をとめる人もいない。

聡はそのまま空を見上げた。朝まで雨が降っていた空は、青空が見え始めている。

冷たい冬の青空のかけらに将を思い出した。

握った携帯でメールをチェックする。メールボックスは将からのメールでいっぱいだった。

連絡もなく帰らなかったことへの将の心配がそのメールの数で伝わった。

聡は、将の愛情を感じながら、そのメールの1つ1つを読んだ。

将に会いたい。顔を見たい。声が聞きたい。

……メールをあけるたびに、そんな思いが聡の心を占領していく。

何もかも放り出して会いに行きたい。

聡は無意識に将に電話をかけようとしてハッとした。

まだ11時、授業中である。辛くもそれに気付いた聡は、将に携帯としては少し長めのメールを打った。

 

==========

心配かけてごめんね。

なんとか無事です。生きてますw

将の足のほうはどう?

なんと私は、電話も携帯も届かない山奥の新しい学校に閉じ込められています。

このメールも、麓のコンビニまで降りてきてようやく打てました。

そして今、その新しい学校への異動を命じられ、びっくりしています。

どうやら今週いっぱい東京もどれそうにない……TT

大ショックです。

大悟くんと葉山さんのこと、少し驚いたけど、

もしできるようなら、将、マンションに帰ったほうがいいかも。

(二人にはお邪魔虫かもしれないけど)

何せ電波が通じない場所なので、電話もメールもできないけど、

1日1回はなんとか麓に下りるつもりです。

そのときに必ずメールチェックします。

将のことや、よかったら、クラスのみんなの様子、新しい先生のこととか教えてね。

週末には東京に絶対戻ります。

たしか週末、将の松葉杖もとれるんだったよね。二人でそのお祝いもしようね。

 将に会えなくて寂しい聡

=========

 

さんざん時間をかけてメールを打つと、聡は祈るように送信ボタンを押した。

その電話で、聡はタクシーを呼ぶ。当座で必要なものを買わなくてはならない。

タクシー会社への電話を切ってすぐに携帯が鳴った。

将だ。

「アキラ!」「将!」

二人同時に名前を呼んだあと、1拍の沈黙があった。

「将、……連絡できなくてごめんね」

先に聡が切り出す。

「……めちゃくちゃ、死にそうなほど、心配した、アキラ」

聞きたかった将の声。耳から聡の体に沁み込んでいくようだ。

聡は将の声からその表情を目の前に描いた。

「うん……本当にゴメン」

「いや、……無事ならいいんだけどさ。週末まで帰れないの?」

優しく気遣う声から、その唇を思い出す。ほどよい厚みの、形のよい、熱い唇。

「そうなの……」

本当は、あそこで夜を過ごす心細さとか、わけわからない任務の重責とか、連絡もロクにできない不自由さとか、話したいことはいっぱいある。

だけど、せっかく将とつながった電話でそんなグチをぶちまけたくなかった。

「……ところで、将、授業中じゃないの?」

「サボった。聡がいない学校なんて……」

「将……」

本当は咎めるべきところなのだが、聡は胸がいっぱいになって、しばらく黙ってそれを噛み締めた。

「ダメよ。ちゃんと学校に行かなくちゃ」

どうでもいいセリフだと自分でも思う。

「だってヨォ……」

一方、将のほうも、新しいヤクザ教師の非道さを話したかった。

だけど聡が苦労してつくったプリントをビリビリに破かれたことなんて、言えない。

「俺、……今すぐアキラのところに行きたい」

いっぱいになった胸が、うずくように乱れていくのを、聡は感じた。

聡だって、今すぐ将のところへ飛んでいきたい。

「……そんなこと、できるわけないでしょ。いい?午後の授業にはちゃんと出るのよ」

「……」

かろうじて常識を踏まえた大人らしいことを言うことができた。……将は沈黙している。

「あと、マンションに戻れそう?」

「ん……。大悟は一緒に暮らそうって言ってくれたけど……」

「そう。だったらよかった。家政婦さんもいるんだから、マンションに戻ってて」

そのとき、聡の前に、呼んだタクシーがやってきた。

乗り込みながら一瞬携帯をずらして「このへんで一番近いデパートへ」と運転手に指示する。

「アキラ、週末には帰って来るんだよな」

将の声はせつなげに懇願するようだった。

「うん」

その声を聞いて、聡の目が熱くなってきた。鼻の奥がツーンとする。

まだ月曜、週末まではとてつもなく長い。今までの26年の人生よりも長い道のりに思えた。

「絶対、だよな」

確認してくる将の声。低いけど、ダダッ子のような確認。聡はもうだめだった。

将は今、どんな顔をしているのか……。

タクシーの後部座席に腰掛けた聡の目から、ついに涙がこぼれた。

たかが1週間の別れに。そんな自分が少し大げさだ、と思う理性もある。だけど、もう涙は止まらない。

聡の感情は、将と離れる暮らしなど耐えられない、と次々に涙を湧き上がらせる。

それは頬を伝い、顎から膝の上に落ちていく。

「うん、絶対。毎日、毎日メールする」

それだけいうと、聡は鼻水を啜り上げた。完全に涙声になってしまった。

「俺もメールするから」

「学校には絶対に行ってね……」

そこで通話は途切れた。電波が弱くなったのか。

声は聞こえないが、画面を見ると通話時間がまだカウントされている。

しかし、どんなに電話を押し付けても、懐かしい将の声は、もはや聞こえなかった。

だけど。自分から通話を切ることは聡にはできない。

自動的に通話が切れたとき、聡は携帯を握り締めて、シートに座ったままうなだれた……。

第125話 やめられない ※改題

「じゃあ、将さま。お大事に」

毛利はマンションの玄関で将を降ろすと、本当は具合など悪くないのを知っているくせに、そういってベンツを運転して行ってしまった。

最後に鋭い目配せをしたので、将は聡のコーポに戻るわけにもいかない。

将はため息をついて、エレベーターに乗った。

携帯をあけて聡の待ち受け画面に表示された時刻を見る。10時30分すぎだ。聡からの連絡はない。

大悟と瑞樹が暮らす中に、お邪魔虫させていただくしかなさそうである。

――まさか、エッチの最中とかじゃないよな。

鍵を取り出した将は一瞬迷った。

だが、なんだか、予感のようなものが、将にチャイムを押させることなく鍵を開けさせた。

玄関に大悟の靴はない。

将は、松葉杖をついて、ずかずかと部屋にあがった。

洗面所のドアを開ける。そこにいてちょうど振り返った瑞樹と目が合った。

瑞樹は、大きな目を転げ落ちそうなほど見開いて将を見た。

将のほうも、同じように目を見開いていた……しかしその先にあるのは、瑞樹の顔ではなく、彼女が持った注射器である。

「何やってんだ!」

将は、松葉杖を投げ出して瑞樹に近寄ると、その手から注射器をもぎ取った。

瑞樹は、目を見開いたまま凍りついたように、無抵抗でそれを手から離した。

洗面台の上には……風邪薬ほどの大きさの透明な袋に入った白い薬。

「お前……、大悟の留守に……!」

将は、薬が入ったセロファン袋を乱暴に破いて、洗面ボウルの中にぶちまけた。

クリーム色の洗面ボウルに散った薬は粉砂糖のようだった。

将は蛇口から水を出すとそれを全部流してしまった。

瑞樹は、その1万もする薬が水に流されていくのを、止めるでもなく、呆然と見ているだけだった。

二人はしばらくその場に立ち尽くしていたが、線香花火のように膨らんだ沈黙に耐えられなくなった将がぽつりと口を開く。

「……いつから、やってんだよ」

瑞樹は観念したように呟いた。

「……11月ごろから」

「前原か……?」

瑞樹は、目を伏せたまま頷いた。将はため息をついた。

「今日、大悟は……?」

「……ハケンに行ってる」

派遣での日雇いの工場勤務に大悟は行っているのだという。

「大悟が真面目に働いてるのに、お前、隠れてこんな……」

「やめられないんだ」

瑞樹が将の言葉をさえぎるように、低く呟いた。

「やめたいけど、やめられないんだ。やめなきゃって思ってるのに……」

瑞樹は、ゆっくり淡々と告白した。自嘲するようにも見えた。

「薬は……あれだけか?」

瑞樹はいちおう頷いた。将は深くため息をついた。

「大悟は……、お前とやり直すって言ってた。それを裏切るような真似をするなよ」

「わかってる」

将の言葉を聞いたとたん、瑞樹の大きな目に涙が噴き出してきた。

「わかってるのに。大悟が心配してるのもわかってるのに……あたし……」

あとは言葉にならなかった。瑞樹は両手で顔を覆うと、肩をふるわせてむせび泣きだした。

将は、思わず、瑞樹を抱きしめなくてはならない気になった。それをぐっと抑える。

別に、瑞樹のことを好きなわけじゃない。

だけど、こうやって女が目の前で泣いているのを見ると、支えてあげたくなってしまうのは、男の性(さが)なのだろうか。

瑞樹のことを抱きしめるわけにはいかない将は突っ立って、泣いている瑞樹を見守るしかなかった。

 
 

将は、少し落ち着いたところで瑞樹を狭い洗面所からリビングに連れ出した。

瑞樹は、放心したようにソファに腰を下ろした。

あいかわらず痩せているが、ショートカットになったせいか、以前よりずっと少女らしく見える。

「ずっと家にいるからいけないんだ」

将はカフェオレをつくって渡した。

「学校に……」

言いかけて将は黙った。今朝のヤクザ教師を思い出したからだ。

学校、と聞いて瑞樹は顔をあげた。カフェオレの湯気が少し彼女を元気付けたらしい。

「ところで将、今日学校は? なんでこんな時間に帰ってきたの?」

「あ、ああ。ちょっと忘れ物してさ」

将は取り繕った。

ヤクザ教師のことも、聡の転勤のことも、聡の部屋に戻れないことも、なんだかまだ言ってはいけない気がした。

「そう……」

瑞樹は別に疑ってないようだったが、カフェオレの入ったマグをサイドテーブルに置くと、

涙が乾いた目を見開くようにして

「あたし、もう学校には行かないかも」

と落ち着いた口調で言った。

もともと、瑞樹は、聡が担任になってから休みがちだった。修学旅行から帰ってからはずっと休んでいる。だから将は、特に驚かなかった。

「やめるの?」

との問いに、瑞樹は、少し微笑むように頷く。

「……働くのか?」

「働くのも……いいかもね」

将と目をあわせずに、ショートの髪を自分でさらっとかき上げる。

少し投げやりな感じの、だけど今までの瑞樹に見たことのない飄々とした態度。

将はそんな瑞樹にたとえようのない不安を覚える。なんだか影が薄いような……そんな不安。

「お前さ……。大悟を好きなんだよな」

「なんで?」

瑞樹は顔を傾けて、少し目を見開いた。

「いや……」

将もなんでそんな確認をしようと思ったのかよくわからなかった。

「……大悟はお前のことを、似たもの同士だって、すごく大事に思ってるから」

「そう……」

瑞樹は、もう一度サイドテーブルからカップを取り上げて、カップの中に顔の半分を隠すようにそれを飲む。

「好き……だよ」

瑞樹はカップの中に話し掛けるように言った。少し間を開けて付け加える。

「あたしのこと心配してくれるし」

それを聞いて将は安心した。

「そうかー。そうだよな。あいつはいいヤツだもんな。オレに負けずにイケメンだし」

アハハとわざと明るく、将は頭を掻いて笑った。そうしないとなんだか間が持たない気がして。

瑞樹もカップに向かって少し照れたように口角を上げた。

――大悟のことは……お父さんとかお兄さんみたいな『好き』。

そんなことを瑞樹はもちろん口に出さなかった。

 
 

『忘れ物』と言った手前、将はまたマンションを出なくてはならなくなった。

玄関に立った将は、また携帯を開けて聡の待ち受け画面を見た。連絡はない。

別に外でサボるのは、慣れているし、やぶさかではないが、松葉杖をついた足で外をぶらぶらと歩き回るのは面倒くさい。

足さえ普通だったら、車でどっかに行くのに。と、思い至った将は、車の中でぼんやりすることにした。

聡がいなかった今朝は、朝食も抜きだったので、弁当屋に寄る。

「あら、こんな時間にどうしたの?」

案の定、おかみさんにチェックを入れられたが、

「はあ、休講だったんです」

と大学用語を使って抜け目なくフォローする。

弁当が入ったビニール袋と、コンビニで買ったペットボトルと漫画雑誌を持って、将は久しぶりにローバーミニに乗った。

運転するわけじゃないので、めいっぱい座席を後ろにずらしてリクライニングを倒す。

暗い駐車場の景色のせめての景気付けに、FMをつける。

「あー腹減ったァ」

と独り言と共に弁当のフタを開けようとしたときに、ダッフルのポケットに入れた携帯からメールの着信音が鳴った。

将はあわてて、弁当を助手席に置くと、携帯を取り出した。

……待ち焦がれた『アキラ』の表示。

第124話 山の中に独り

電話もない。携帯も通じないところに置き去りにされてしまった。

聡はしばらく愕然として何も考えられなかった。

――明日になったら、歩いて降りればいい。

と、ポジティブな考えが出てくるのに随分時間がかかった。

一番近くの民家を思い出す。たしか5分ほど続いた未舗装道路の手前、どれぐらいだっただろうか……?

電卓を出して冷静に計算してみる。駅からここまで車で40分ぐらいだったはず。そしてその真ん中ぐらいまでは確実に民家があった。

終わりのほうは、山道や未舗装で速度はゆっくりめだったはず。時速30キロだったとして、20分で10キロ。

10キロ……つまりどんなに長くても2時間も歩けば絶対に民家がある。

ローヒールで2時間はつらいけど、あくまでも最大だから。そこまでいかなくても途中で携帯も通じるようになると思うし。

なんとか結論を出して、聡はようやく自分を安心させる方向に仕向けた。

そして、時間が早く経つように、仕事を再開し、念入りに学校のチェックを始めた。

そのあとの夜が……長かった。

夕食は買い置きのカップ麺とビールしかない。

炊飯器はあるものの、前いた人はそれを使わずに車で弁当を買いに行っていたようだ。

インスタントの麺だけの夕食はさっさと食べ終わってしまう。

風呂は新しいユニットでまともに使えたが、シーンとしたなか、湯船につかっていると、ときおり、野犬なのか

『ワオーン!』

『ウオー!』

といった遠吠えも聞こえてくる。

無防備な裸でいるのがとても危険に思えた。

ゆっくり温まっている場合ではない、と早々に上がり、もう一度、寮の入り口、すべての窓の鍵を確認せずにはいられなかった。

そしてカーテンをしっかりと隙間なく閉める。

――まさか熊とか出ないでしょうね。

そんなことまで考えてしまう。

テレビもざらざらとした砂嵐の中にようやく輪郭が映るようなありさまで、まともに見えるとはいえない。

DVDの機械はあったが、ソフトはアダルトばかりで、どうやら前にここに泊まっていたのはあきらかに男性のようだった。

しかし、テレビを消してしまうと、恐ろしいほどの静けさが聡を襲う。

恐ろしくて、雑音が入るテレビなのに、付けっぱなしで聡は床に入った。

床もシーツこそ洗ってあるがどこどなくタバコ臭い匂いがして、気持ち悪かった。

聡は、早くこの夜が過ぎて欲しい、とそればかりを願った。

眠くなって気付いたら朝、というのが望ましかったが、恐怖に神経が昂ぶっていて睡眠はなかなか訪れてくれなかった。

 
 

目覚めると、ほの明るかった。いつのまにか眠っていたらしい。

ケモノどもの泣き声もおさまって、静かな朝がやってきていた。

寝不足で、体中にタガがかかったようなだるさを自覚しながら、カーテンをあけた聡は、『あっ』と声をあげた。

音もなく雪が舞い降りていた。大量に……。

突っ掛けを履いて、寮の入り口に出る。

「うそぉ……」

雪は、敷地内に粉砂糖を振りまいたようにうっすらとあたりを雪化粧させていた。

この状態で下り坂をローヒールで歩くのは危険だ、ということは聡にもわかる。

聡はため息をついた。ため息はまっ白になって雪景色の中に溶けていった。

 
 

甲府地方の冬に、それほど雪は降らないと聞く。

そのうち止んで、雪も解けるだろう、と聡は窓を眺めたが、いっこうに止む気配はない。

雪の勢いは逆に強くなっていくようだ。

砂嵐のテレビをつけて天気予報をみようとしたが、あいにく日曜日。

午前中はどこも天気予報をやっていない。NHKで正午前にやる天気予報まで待つはめになった。

天気予報を見て聡は、また途方にくれることになった。

それによると、寒気の影響で今日いっぱい雪は止まないとのこと。

――明日、学校に行かなくちゃいけないのにどうしたらいい?

聡は、しばらく考えて、気温が高いうちに自力で降りることにした。

夜になって凍りついたほうがもっと危ない、と思ったのだ。

幸いビニール傘がホコリをかぶった状態で置いてある。

聡はボストンを持って、傘をさして外に出た。あいかわらずうっすらと雪が積もっている状態は変わらない。

――北海道のニセコアンヌプリの頂上で吹雪にあったときよりははるかに温かいんだから。

そう思って自分にゲキを飛ばす。だが、装備もあのときと段違いに薄いのだ、というのもわかっている。

滑らないように小またで一歩一歩進む。普通に歩くときの2倍の時間をかけて慎重に進む。学校の敷地の出口にやってきた。

細い未舗装道路の坂道が続いている。

突然、ざざっと音がして、聡はビクッと震えた。

両側の高く茂った原生林が揺れただけだった。風が少し出てきたらしい。

未舗装道路は深い轍に大きな石がゴロゴロと落ちていていかにも歩きにくそうだ。

それらにも、うっすらと粉砂糖をふるったような白い雪が積もっている。

聡はさっきよりもまして慎重に歩を進めた……つもりだった。

ずるっ。

「キャー!」

粉砂糖のような雪の下は、粘土質の泥になっていて、聡はそれに足をとられて尻餅をついた。

「イタタタ……」

思い切り腰を打った。みるとコートも持っていたボストンも泥だらけになっている。

「あっ!」

手から離れた、開いたままのビニール傘が風にあおられて、聡が座り込んでいる場所から下のほうに飛ばされていく。

それを追おうとして、足首がずきっとした。

「捻挫……?」

転んだときに捻ったのか。傘は聡をあざ笑うかのように、一人で坂の下のほうに行ってしまった。

なすすべもなく傘を見送る聡に雪がふりかかる。

北海道の雪と違って、湿ったボタ雪は、聡の体にくっついたとたんに溶けて染みていく。

聡は、泥だらけで座りこんだまま、泣きそうになるのをなんとかこらえていた。

 
 

足は、軽い捻挫のようだったが、結局天気が回復せず、携帯も電話もないという状態で、聡は麓に降りれないまま2日目の夜を迎えた。

皮肉なことに……雪は、転んだ後、聡が寮に戻ってまもなく雨に変わった。

しかし、雪でも雨でもあの坂が危ないのは変わらなかった。

――このまま降りれなかったらどうしよう。

そんな恐怖が現実となって聡を襲った。

それに、明日このままだと、無断欠勤になってしまう。

――将、心配してるだろうな。

結局、考えはそこにいく。

聡は、携帯のフォトフォルダを開けた。こんなことをするのは、たぶん携帯を買って初めてじゃないだろうか……。

そこには秋吉台での2ショット写真や、雪の羊蹄山をバックに撮影した悪ガキ4人組などと共に、同棲を始めた日にふざけて撮影した、ブロマイド状にカッコつけた笑顔の将が居た。

ウインクしているものまである。思わず聡はそれを見て

「バカ……」

と、一人笑った。それを呼び水にして将のさまざまな様子が、次々に頭の中に蘇る。

その1つ1つが……何気ない日常でも胸を締めつけるような想い出になっている。

そう。

思えば、9月の赴任まもなくから、聡は将を見ていた。

日常の……授業中も、何のそぶりも見せずに授業をしているときも、将がそこにいることに安心していたと思う。

悪ガキ同士、学食に向かう後ろ姿から聞こえる笑い声を聞いていた。

1年生に小テストをやらせている午後の窓から、体育でサッカーボールを追って校庭を走る将を目で追っていた……。

もう将の姿を1日以上見ていない。

聡は、自動的に暗くなってしまう携帯を何度も開けて、将の顔を確認した。

将に会いたい……。

2日目の夜も、よく眠れなかった。

 
 

雨は月曜日の朝まで残ったが、9時ごろにようやく止んだ。

聡は、もう降らないというのを見届けると安心して帰り支度を始めた。

足は少々痛いが、歩けないほどではない。

そのとき表にエンジン音がした。軽トラックが敷地内に入ってきて止まった様だ。

「古城さん!いますか!宅急便です!」

配達員が、寮の入り口を叩いた。

「ハーイ!」

聡は、ラッキー!と入り口に出て行った。

この配達員に乗せてもらうか、タクシーを呼んでもらうよう頼めばいいからだ。

「誰もいなかったらどうしようかと思いましたよー」

と配達員は軽口を叩きながら、ずっしり重い書類封筒を聡に渡した。

そしてタクシーを呼んで欲しいという聡の依頼を快く引き受けてくれた。

――よかった。歩いて下に降りないで済む。

聡は、ホッとして、自分宛になっている書類の封を開けた。

――えっ!

聡はその文面に目が貼り付いた。

そこには

『古城聡を南アルプス予備校(仮名)の副校長に任命する』

と書いてあった。

そしてその下に、教頭らしき字の手書きで

『今週は現地で、環境を整える作業と、高校資格取得者用のカリキュラム案の作成作業をしてください。

現地の豊かな自然を取り入れたユニークな案を古城先生に期待しています』

と書いてあった。

社判などとともに、高校資格取得者の傾向等についての分厚い資料も入っている。

――うそ。

急な転勤命令に聡は、目がまわりそうになった。

第123話 陳情

「毛利……」

校長室の扉を開けた将は、校長や教頭と共にそこにいた男の名前をつぶやいた……父の秘書官である。

そして瞬時に、今回のことが、この毛利の差し金だということを理解した。

紺のスーツ姿で、眼鏡の奥の毛利の目が冷徹に将を捉えた。

将も負けずに、彼を睨みつけた。

 
 

「毛利、どういうことだ」

将はベンツの後部座席からバックミラー越しに運転する毛利を睨みながら問い掛けた。学校を出て最初の信号待ち。

この日、結局、将は気分が悪いことにして学校を早退したのである。

松葉杖やカバンなどは、毛利が教室から持ってきたので将の手元にある。

「何が、ですか?」

毛利は将の視線など気付かないように、ハンドルを握ったまま前を向いている。

「とぼけるな。お前の差し金だろ。アキラをどこに隠したんだ」

「何のことでしょうか。アキラというのは古城先生のことですか……」

毛利はそしらぬ顔でしらばっくれると、さらに続けた。

「学校の人事のことまで、私が口出しできるわけがないでしょう」

「オレは人事のことなんて一言も言ってないぜ」

一瞬、勝ったと将は思った。

「なんで、オレが人事のことを言ってると思うんだ」

将は毛利をさらに問い詰めた。しかし毛利は

「わたくしも、今、校長先生に担任の交代のことを聞かされておりましたので。てっきりそのことかと思ったんですよ。将さま」

とするりと交わした。将はシートから身を乗り出すと、運転席の毛利の顔の横に顔を出し

「……絶対お前に決まってる。何を企んでるんだ。オヤジの差し金か」

と、低い声で囁いた。クシがきっちりと入った毛利の髪から、上等の整髪剤の香りがする。将の嫌いな香り。

将には確信があった。

この男は多忙な父に代わって、将の学校の手続きなど家族の雑事を行うことが多い。

高校1年の終わり、将がポイント不足で退学になりそうになったのを、裏工作でとどめたのもこの男だ。

感謝してもいいことをしているわりには、将はこの男が好きになれなかった。

というより、はっきりと嫌いだ。

それはひとえに、すべてを将の気持ちなどを考えずに事務的に行っているから、というのと、自分のことをどこまで知っているのか、という気味悪さからだった。

冷たい眼鏡の下で感情を一切表に出さないのも、計り知れない不気味さがあった。

「私は何も……。長官が何を」

らちがあかない。将は、これ以上この男に直接訊いても無駄だと思った。

「もういい。ここで降りる」

弁当屋もある商店街の入り口で将は降りた。マンションまであと200mもない。

将は、毛利の運転するベンツが行ってしまうのを確認すると、聡の部屋に戻るべくタクシーを拾った。

しかし……、聡のコーポの前でタクシーを降りた将は、そこに毛利のシルバーのベンツを見つけてしまった。

毛利が静かにベンツから降りてきた。

「何だよ」

「将さま。マンションにお戻りください」

毛利は静かに言った。

「お前には関係ないだろ!」

将は松葉杖をついてコーポの階段へ向かおうとした。その背中に向かって毛利は抑揚のない声で言った。

「お戻りいただかないと、古城先生がもっと困ったことになります」

「何ィ?」

将は足をとめて振り向いた。

「……ですからどうぞ、ご自分のマンションにお戻りください」

毛利の口調は静かながら、有無を言わせない強いものだった。

この男が『困ったことになる』というのは、この男自ら聡を『困らせる』……苦しめるということで、何をするかわからない不気味さがあった。

将の脳裏に、自分が殺したヤクザの仲間の末路が浮かんだ。将がヤクザを殺すところを目撃したチンピラである。

港に浮かんだ、ブロック塀を括りつけられた腐乱死体が彼の最期の姿だったという。

将はそれを見たわけではないが……ああなるように『手配』したのも毛利だと将は確信している。

裏の世界ともつながりのある男なのだ。

「……アキラはどこにいるんだよ」

「山梨の新しい学校にいらっしゃいます」

「生きてるんだろうな。ちゃんと無事なんだろうな」

将は目を見開いて、毛利の瞳を見た。

「はい。確かに。ご無事です」

毛利はまっすぐに将の視線を返した。これは嘘ではないらしい。

将はそっぽを向いて小さくため息をついた。安心と諦めのまじった息は白い色になってあっという間に冬の空気に溶けた。

言うとおりにするしかなさそうだ。

 
 

 
遡ること数日前。

毛利は、官房長官との面会を希望していたある男と、ホテルでアポイントがあった。

議員会館や党本部ではなく、目立たないように、ホテルのラウンジを毛利は指定した。

一流企業の名前が印刷された名刺を出した男は30代で、身なりもきちんとしていた。

整った顔だが、色男というには、それは穏やかすぎる面構えだった。

しきりに恐縮して挨拶をするあたり、変な恐喝などではなさそうだった。

政治家をやっていると……こと、地位が上になってくると、そういう手合いが実に多いのだ……。

そういうのと一々官房長官自ら会っていたら時間がいくらあっても足りない。

さまざまな面会者の処理も毛利ら秘書官の仕事だった。

男の陳情は以下の様なものだった。

『官房長官の、高校生である長男が、担任教師である自分の婚約者を誘惑して困っている。なんとか引き離してくれないか』

聞いたとたん、馬鹿馬鹿しい話だと毛利は思い、男を睥睨した。

しかし、男は冗談などではなく真剣そうだった。

もちろん、こんな私事は、官房長官の耳にじかに入れることもないだろう。

今のところ、これをネタに金品を強請ったり、スキャンダルを起こして長官の足を引っ張ったりしようとしている手合いではない、と毛利は男を値踏みした。

長男がその担任教師と、男女の仲らしいというのは、毛利もすでに感づいていることだ。

長男はまだ10代、旺盛な性欲からくる独占心を、恋愛感情と勘違いしているのだろう。

あるいは実母と早くに死に別れているゆえの、マザコン的な感情の嵩まりか。いずれにしても、距離を置けば、すぐに冷めるだろう。

手っ取り早いのは、どちらかを辞めさせればいい。毛利は瞬時に方策を計算した。

長男がこの学校をえらく気に入っているというのは、年末に一騒動あったので毛利も知っている。

ということは……担任教師のほうをどこかへやればいいのである。

といっても、男女のことなんてハタからどうこうしたところで、どうにもならない。高校生に女を寝取られるような、この男がふぬけなだけだ。

やることはやりました、と形を見せればあとは知ったこっちゃないさ、と毛利は心の奥底でせせら笑った。

毛利は承諾した旨を『ご迷惑をおかけしました』と言い添えて、さも申し訳なさそうに返事した。

男が帰ってすぐ毛利は、長男の学校に電話をかけた。小面倒なことはさっさと片付けるに限る。

携帯を握ったまま、残されたまぬけな男の名刺に日付と時間を書き込む。

毛利は面会者の名前すらもまともに覚える気がない。

その場では無意識に名前を繰り返し、別れたとたんに忘れるという習慣が出来ているのだ。

問題があったときは、また名刺を取り出せばいいことだ。

その名刺には原田博史、と印刷してあった……。

第122話 置き去り

将は、仕方なく保健室へ向かった。

年配の保健教師・三田先生も聡の配置転換の理由については何も聞かされていないとのことだ。

ただ、1つわかったのは、あの極道教師・京極のほうこそ、もともとは新しい学校の校長を務めるはずだったということだ。

「……なんで、いきなり、古城先生と彼が配置転換になったのかしら。本当にわからないのよ」

サボリの生徒には、いつもイヤミの1つも言う三田先生も、今日の将には同情的だ。

「山梨の学校って、まだ出来てないって聞いたけど……」

将の問いに、三田先生も頷いた。

「ええ。やっと校舎ができたかどうかって……。でも携帯が通じない場所らしくて」

三田先生や多美先生も聡に連絡をとろうとしたが、通じなかったらしい。

「山梨の学校って、詳しい住所わかる?」

将は、とにかく聡の顔が見たかった。聡の無事を確認したかった。が、三田は首を振った。

「誰に聞けばわかるんだよ!」

「校長先生や教頭先生だったら……」

将はすぐさま立ち上がった。

鷹枝くん!という三田の叫び声を背中に受けて、将は松葉杖がないのもものともせず、ギプスの足をひきずって保健室をあとにした。

他の部屋は粗末な引き戸なのに、校長室のドアだけ重厚な飴色の木で出来た扉になっている。

将は、その扉をノックもせずにいきなり開けた。

「あっ……!」

将が息を飲んだのは、そこにいた一同が一斉に振り返ったからではない。

将の視線は、校長、教頭と共にいた、一人の男に集中していた。

それは、将も知っている男だった。将は固唾を飲んだ。

 
 

 
遡って土曜日。聡は中央本線のとある駅で降りて、少し買い物をすると、タクシーに乗った。

聡は、行き先を告げる代わりに、教頭からもらった紙を運転手に見せた。

中年の、ワイシャツにチョッキを重ね着した運転手は

「へえ……」

と口をはんびらきにしたまま、紙と聡の顔をかわるがわるに見た。

聡は少し不安になったが、行くしかない。車は出発した。

甲府盆地はよく晴れて、山々の上に濃い色の青空を浮かべていたが、そこかしこにある葉を落とした葡萄棚がどことなくうらさびしい雰囲気だった。

タクシーは平坦だった盆地から、山へと登り始めた。

「お客さん、あんなところに、何しにいくの?」

運転手がミラー越しに聡の顔を見ながら言った。

「あ、ハイ。新しくつくる学校の視察に……」

運転手の『あんなところ』というのが気になった聡だが、いちおう自分の任務を答える。

「あ~、あんなところに学校が出来るの!」

『あんなところ』ってどんなところ?聡はとても不安になった。

それを裏付けるように最初広かった道は、まもなく車が行き合うときにいちいち徐行しなくてはならないほどになった。

もっとも通る車も数えるほどなのだが……。

しかし聡の不安感を増したのは道の狭さよりむしろ、あたりの暗さだった。

高い杉の木に覆われ、正午すぎだというのに道は夕暮れのように暗い。最初はところどころに固まるようにあった民家も、見かけなくなった。

30分近く走ったところで、道は未舗装道路になった。道路を両側も杉から原生林になっている。

ガタガタと揺れる車の窓の外にはもうもうと砂埃がたつのが見える。

砂埃に暗い原生林から時折漏れる陽の光がオーロラのような筋をつくる。

「もうすぐですからね。辛抱してくださいよ」

運転手が声をかける。

最後の民家を見てどれぐらい経つだろうか。

聡はこきざみな車の揺れで、体中の柔らかいところがブルブルと揺れるのを感じた。

外からの震えに、掻き立てられるように聡の不安は増していった。

「ここです。お客さん」

未舗装道路を5分も走って、ようやく目的地にたどりついた。

そこには、森を切り開いたような空間があり、そこに真新しい洒落た山荘風の平屋が3軒ほど建っていた。

わりときれいに見えたので聡はホッとした。

「へえ。こんなところに、こんなのが出来てたなんてねえ」

タクシーの運転手も聡と一緒に降りて、興味深そうにその建物を眺めた。

聡は、運転手に料金を払うと領収書をもらった。運転手は

「で、いつ、迎えに来ましょうか?」

と気を利かせた。聡はここで気付くべきだった。迎えに来てもらわないと帰れない場所だということに。

「あ……今日はここに泊まらないといけないので……。明日電話します」

「わかりました。じゃ、ここに連絡してください」

運転手はにこやかに名刺を取り出して聡に渡すと、一礼して車に乗り込んだ。

そして砂埃を立てて発車すると、元来た道を行ってしまった。

タクシーが見えなくなると、聡はため息をついた。その自分のため息が異様に大きく響く気がする。

ヒソ、とも音のしない静寂に聡は包まれて、聡は身震いした。

が、さっそく仕事に取り掛かることにした。

預かっていた鍵をバッグのポケットから取り出そうとして、携帯に気付く。

仕事の前に、将に『着いた』と一言メールしておこう、と携帯を取り出す。

そこで聡は、ここが圏外であることに気づいた。

しかし、そのとき聡は、

――そりゃそうよね。こんなところだもん。電波が来るわけないか。

と、まだ事を軽く捉えていた。

 
 

 
聡に与えられた任務は『この学校の居心地のチェック』だった。

教頭によると、こうだ。

『全寮制の学校の寮や教室などの使い勝手を古城先生の感覚で評価してください。いちおう生活できるようにはなってますが、足りないところや改善点を挙げていただきたいのです』

とりあえず3つの建物は、寮と教室、武道場らしい。

聡はまず寮に入った。1番大きな建物だ。がらん、とした中に、新しい木の香りだけがかんばしい。

1室だけが泊まれるようにしつらえてある……そこが今夜、聡の寝る場所らしい。

聡はそこに荷物を置くと、食堂に入った。昼食にするつもりなのだ。

もう1時すぎている。

とりあえず今日の昼食には、途中の駅で旨そうな釜飯を買ってきてある。

食事はすべて自炊だと聞いている。

が、現地に何が揃っているかわからなかったので、何があるかを見てから決めよう、足りなかったらまた買い足せばいい、とたいしたものは買っていない。

食堂はどうやら、生徒や教師一同で自炊するしくみらしく、調理スペースとダイニングが開放的な感じになっている。

木の色が明るく、窓が広く取られて、明るい雰囲気なのは悪くない。

しかし、天井が高い分、外と変わらないほど寒い。

調理スペースには、すでに誰かが使ったのか、ビニールの中に捨てられたゴミがかすかな腐臭を放っていた。

が、生ゴミはまったくなく、カップ麺やコンビニ弁当のプラスチックがその大半だった。

見ると炊事場の片隅に段ボール箱に入ったカップ麺が積み上げられている。缶詰、そしてサプリメント。

冷蔵庫を開けると、壮観なほどに並べられたビールに栄養ドリンク。いちおうウーロン茶などもあることはある。

冷蔵庫が、生徒と教師共用なのはいけない、と聡は思い、気付いたこととして書き留めた。

生ものがまったくないところを見ると、前ここにいたのは男性らしい。工事関係者だろうか、と聡は想像した。

炊飯器、鍋など炊事用具は一通り揃っているがあまり使われた形跡はない。

温かいお茶が飲みたかった聡は、コートのままヤカンに水を入れてお湯を沸かすと、暖房のスイッチを探した。

それはすぐに見つかったが、なかなか効かない。

聡は『エアコンのほかに冬場はストーブが必要』と書き加えた。

とりあえず、昼食を食べて落ち着いた聡は、コートを脱ぐことなく、教室をチェックした。

こちらは椅子や机も入っていなくてガランとしている。

こちらも、新しい木の香りがして、荒江高校と比べると遥かによいつくりであったが何せ寒い。

暖房を入れても効きが悪いのは寮と同じだった。

それにしても、電線もないのに、こんなところに電気が通ってるなんて……と思った聡は外に出て納得した。自家発電装置があったのである。

職員室のほうは、とりあえず机と椅子は入っていたが、どことなくガランとしているのは同じだった。

事務用机椅子セットの1つに腰掛けてみる。

建物は新しいが、緑がかったグレーの事務用机と椅子はうす汚れている。中古品を購入したらしかった。

座ったままあたりを見回した聡は、そういえば、まだOA機器が入っていないな、と気付いた。

パソコンもなければ、コピー機もない。電話、FAXも……。

電話、FAX?

聡はハッとして立ち上がった。

そういえば電話!聡はあわてて、電話を求めて寮、校舎をすみずみまで見て回った。

寮も校舎もそんなに広くない……あっという間に一周して、聡は愕然とした。

電話がない!

もう一度携帯を取り出す。

隅に表示されている『圏外』の文字。

そんなばかな。

連絡不能。

電話が通じなければタクシーを呼ぶことさえできない。

そんな場所に、聡は閉じ込められてしまったのだ……。

第121話 ヤクザ教師(2)

走りたいのに、こんなときに松葉杖はもどかしい。

将はできる限り、松葉杖を大きく傾けながら職員室へと急いだ。他の生徒も将に付いてきている。

「タミー!」

タミーとは多美先生のことだ……将は職員室の引き戸を開けると、大声で読んだ。

その大声に、京極が振り返って睨みつけた。先週まで聡が座っていた席に座っている。

その蛇のような目付きに、将の後ろで様子を伺っていた生徒は、ぴゅっと引っ込んだ。

お茶を入れていた多美先生は、京極に「まあまあ」ととりなして、将のほうへ歩いてきた。

「なんだ、鷹枝」

将の言いたいことがわかっているのか、後ろ手で引き戸を閉めながら廊下に出る。

ターミネーターのような容貌の学年主任・多美先生は、京極に負けないコワモテで、将もたびたび彼に叱られていた。

だが、その怖い顔の中にある目は温かいのが京極と違った。比べると京極はアナコンダのように冷たく、残忍な目をしているように思えた。

「何だよ、あの極道は? アキラ……センセイはどうしたんだよ」

「コラ、口の利き方に気をつけなさい」

多美先生はいちおう将の乱暴なタメ口を静かに注意しながらも、その瞳は将ら生徒に同情していた。

「先生もよくわからないんだよ。今朝の職員会議でいきなり配置転換が発表になって……。みんな驚いているんだよ」

多美先生はため息交じりだった。

「なんでっ……」

将は前のめりになって多美先生を問い詰めた。

「わからないんだ……。古城先生の指導は高い評価だったはずなのに……」

多美先生は首を横にふって目を伏せた。

「あの……、それでセンセイはどこに……?」

頭がまっ白になった将に変わって、横から兵藤が割り込んで質問した。

「山梨の……新しい施設の副校長に任命されたんだが……」

「副校長ー?」

将と兵藤の声が思わず揃った。

「しかし、あそこはまだ電話もなければ、建物も出来てないはずなんだが……」

多美先生も本当に困惑して、首をひねっている。

そのとき、1時限目開始の予鈴チャイムが鳴り、職員室入り口の引き戸をガラッとあけて京極が現れた。

「お前ら、さっさと教室に戻らんかっ!」

多美先生がいるのをものともせず、将らに怒鳴りつける。

多美先生の優しいテノールの声と違って、男にしては耳に響く甲高い声だ。

同時に小さな雷鳴のような音が下から鼓膜をふるわせた。京極は竹刀を持っていて、それを廊下にたたきつけたのだ。

そこにいた生徒は皆、逃げだすように走って教室へ向かったが、将は松葉杖のまま、立ち尽くして彼を睨みつけた。

「なんだぁ?その目は」

京極は、因縁をつけるヤクザのように将にむかって肩をいからせて寄ってきた。もちろん、睨みつけるのを将が、やめるはずがない。

「京極先生、けが人ですから……」

と多美先生があわてて、とりなそうとする。

「よぉ……。鷹枝将」

京極は、将のことをフルネームで呼んだ。

将の瞼がピクリと動き、そのまま少し目を細める……そうすることで睨みつける目がさらに鋭くなった。

「根性ある目してんじゃねーか、え?」

京極は、竹刀を持ち上げると、その先で将の肩を小突いた。

「京極先生、相手は子供ですよ!」

フッと鼻で笑い、京極は一瞬多美先生を振り返った。

「これが子供の目ですか? ガタイも立派だ……彼は立派に大人ですよ。なぁ鷹枝将」

それだけ言うとすぐに、京極は将のほうに向き直った。

「いいか……。オレは政治家の息子だろうと、けが人だろうと容赦はしねえ。それがわかったらとっとと教室に戻れ!」

多美先生のほうが、あわてて京極を睨み続ける将に

「早く教室に行きなさい!早く」

と肩を抱きかかえるようにして促した。

 
 

 
「早く教室に入れ」

教室の入り口で京極は、将の肩を小突いた。松葉杖をつこうとしていた将はバランスを崩して転びそうになった。

片方の松葉杖がガターンと音を立てて倒れた。

将は、一番前の席に手をついて、危うく転倒を免れた。

一番前の席になった真田由紀子が、倒れた松葉杖を拾って将に渡す。

「サンキュ」

由紀子に礼を言った将に、京極は後ろから

「無駄口を叩かないで、早く席に着け」

とどやす。

「てめえが後ろから押したんだろ!」

将は向き直った。

「押されたくなかったらとっとと席につけ」

「なんだとぉ……」

思わず将は、足がギプスなのも忘れて拳を構えた。

「マイナス2000点」

京極は、将に向かって斜に構えて、冷酷に言い放った。

「教師への暴力はマイナス2000点。もっともお前に2000もの持ちポイントが残ってるのかな。鷹枝将」

「なにぃ」

「退学になりたかったら、早く殴れ」

将は拳を震わせながら京極を睨みつけた。

「ほら、どうした」

「将!やめろってば!」

ギラギラとした目で京極を睨みつける将を、後ろから井口が飛び出てきて、辛くも引き止めた。

井口は将に肩を貸して、席へと連れて行った。振り返った将は京極を鋭い目で追い続けた。

京極は、さっさと教壇にあがると、

「今日は、教科書109ページ!」

と叫んだ。それにまた生徒がざわめく。

「なんだ、早く出せっ!」

出せといっても、出せないのだ……なぜなら、聡の授業のときは、教科書を使わなかったから。

恐ろしくて誰もそれを言いだせない中、勇気ある兵藤がまた手をあげた。

「なんだ、またお前か。丸刈り。言ってみろ」

クラス中が水を打ったように静まり返って、京極と兵藤の動向を見守った。

「古城先生は……、教科書を使ってませんでした」

「なんだと?……じゃあ、どうやって授業をやってたんだ」

京極が、竹刀片手に兵藤の席に近寄っていく。その途中の生徒は、上体を仰け反らすようにして、道をあける。

「こ、これで……」

近寄ってきた京極に、さすがに兵藤の声もうわずっている。

聡が手作りしたプリントを出した。映画やカラオケからの抜粋表現である。

京極は、兵藤の手からそれを奪うように取ると、綴じられた中身をパラパラ読みながら教壇へ戻った。

教壇にあがるなり、

「くだらん!」

とそのプリントの束をバリっと2つに破いた。

「ああっ!」

思わず兵藤が声を上げた。2つに破いたものをさらに重ねて、もう一度破く。

厚みがあるはずなのに、ものともせずにビリビリに破く。

兵藤のプリントはあっというまに修復不能なほどにビリビリに破かれてしまった。

「チョー、ヒドーイ!」

「何するんですか!」

生徒から抗議の声があがる。兵藤は、といったら口をあけたまま呆然としている。

「おい!人のもの勝手に破っていいのかよ!」

将は耐えかねて片足で立ち上がった。

「そうだー!」「そうだー!」

井口やカイト、ユウタの援護に続いて、クラス中から抗議の声があがった。

「うるさいっ!」

京極が教卓をビシッと竹刀で叩いた。

それで沸いていたクラスはシーンとなった。将一人が立ったまま、京極を睨んでいた。

「ということは……お前ら、全員教科書を持たないんだな……なっとらんっ!」

教壇を降りた京極は、一番前の席……そこはちょうど真田由紀子の机だった……を竹刀でもう一発ビシッと叩いた。

真田由紀子はのけぞって、両手で顔を覆った。

「罰として、この時間、全員机の上で正座!」

ええー、と再びクラス中から抗議の声があがる。

それに答えるように、京極は、一番前の生徒の机を順繰りにバシバシと叩いていった。

「文句があるやつは、マイナス100ポイントだ! 授業妨害だから当然だ!」

それには全員シーンとした。

「わかったらさっさと正座ッ!」

皆しぶしぶ、自分の机の上にあがり、正座を始めた。

そんな中、ギプスで正座できない将と京極の目があった。

というより、将はさっきからずっと京極を見据えていたのだ。もちろん仮に正座ができたとしても絶対する気はない。

「鷹枝。お前は正座ができないんだな……。そしたらこっちへこい」

将は黙ったまま、動かなかった。

すると、京極は正座する生徒の間をズカズカと歩いてきて、

「こっちへ来るんだよ」

と引っ張った。もう将の足はかなり回復していて、今週末に松葉杖からステッキに変わる。それでも、むちゃくちゃだ。

将はギプスの足をひきずるように前に連れてこられた。

足が踏ん張れたら、そう無様に引っ張られないのだが……。

京極は教卓脇の椅子に将を座らせると

「おれが、このふざけたプリントを集めるから、お前全員の分を破れ」

何をいうのか、と将は京極を見上げた。

将は、そのプリントをつくるのに聡がとても苦労していたのを知っている。

毎日、視聴覚室でDVDをMDにダビングしてきて、必要な部分を英文と聞こえるとおりの振り仮名などに直してパソコンに打つのを家で遅くまでやっていたからだ。

もちろん、将との同棲が始まってからも。

『将、これさ、○○○に聞こえる?それとも○△○に聞こえる?』などと、将もたびたび聞かれたものだ……。

京極は将を一瞬睥睨すると、生徒たちの机の中から次々とプリントを出し始めた。

プリント以外にも私物が入っていた生徒には、まるでヤクザが恫喝するように、怒鳴りつけた。

怒鳴られて泣き出す女子もいた。そして15分以上たつと、皆揃って正座がつらそうになってきた。

ようやく、全員分のプリントを集めてきた京極は、将に

「さあ、破れ」

と命じた。将は黙って座っていた。

「破るんだよッ、ほら」

黙って座る将の肩を、京極はまた小突き始めた。

しかし将はどんなに小突かれて体が揺れようとも、返事をしなかった。

「コラ、お前逆らう気か、アア?」

唾が雨のように将の顔に降り注いで、将は京極のほうに鋭くした目を突き刺した。

「コイツ……」

京極は憎憎しげに将を睨み返した。

クラス中が、正座の苦しみの中から将の動向を見つめていた。

「減点されていいんだな」

「ハイ」

将はあっさりと返事すると、集められたプリントを持って、立ち上がった。そして、ギプスの足を引きずりながら、教室を出た。

京極は追わなかった。そしてわざとクラス全員に聞こえるように

「授業妨害でマイナス100。授業放棄でマイナス100。計200マイナス」

と大声で言った。

将は、手すりを頼りながら、なんとか階段を降り、職員室にやってきた。しかし、頼みの多美先生はいない。

将は、がっくりと肩を落として校門を出るべく、靴を履き替えた。

もう、学校にいる気がしなかった。ヤクザ教師だけがその理由ではない。……聡がいない学校なんて。

朝の冷えた空気で、将はマフラーもダッフルも教室に置きっぱなしだったことを思い出した。

松葉杖はいいとして、カバンも全部だ。

携帯はポケットに入っているが、財布がカバンの中だからタクシーにも乗れない。

将は、そのまま空を見上げた。

――アキラ、どこにいるんだよ。いったいどうしちゃったんだよ!

第120話 ヤクザ教師(1)※改題

 
「おっかしーなぁ……」

ついに将は声に出してつぶやいた。そばにいた大悟がそれを聞いて

「どうした」

と振り返った。

「……うん」

そのくせ将は、ろくに返事をせずに携帯をいじくっている。

もう、日曜日も夕方になりつつあるのに、聡から一度も連絡がないのだ。何度かメールを送っているのに。

『聡、何時ごろ着くか連絡して。それにあわせて帰るから』と送ったメールの返事もない。

メールだけでなく、昼過ぎから何度か電話もしている。

『電波の届かないところにあるか、電源が入っていないため……』のメッセージを今日何回聞いただろうか。

大悟の問いに答えず電話をして、また同じメッセージを聞いた将は、口をとがらせた。

「アキラと連絡がとれない。電波がずっと届かない」

「地下とかにいるんじゃないの?」

大悟は言った。それは将も考えた。地下にいるかもしれないし、田舎すぎて電波が届かないのかもしれない。

もしかしたら仕事中だからと電源を切っているのかもしれない。

だけど、おかしい。

昨日、朝からもう30時間も電話もメールもないなんてありえない。

「俺さ、いったんアキラの部屋に帰ってみるわ」

「夕飯食っていかないの?」

今日は日曜なので、家政婦が早めに来てつくった夕食がテーブルの上にすでにセットされている。

「うん。……いいや。アキラ、連絡しないでいきなり帰ってくるかもしれないし」

聡の性格からは、あまり考えられない行動なのだが……。

「じゃあさ、持っていけよ。瑞樹ちゃん、タッパー出して」

大悟は気を利かせた。瑞樹がキッチンの棚からタッパーを出す。

そんなふうに素直に動く瑞樹を見て、将は少し安堵する。

大悟の気持ちはともかく、もしかして……瑞樹が何か企んでいるのでは、と将はまだ少し警戒していたのだ。

「センセイだって、腹すかして帰ってきて自分でつくるんじゃ大変だろ」

大悟は瑞樹と並んでキッチンに立つと箸で、タッパーに今日のおかずのロールキャベツを詰めた。

瑞樹は、きんぴらを小さいタッパーに詰めながら

「これぐらいでいいかな」と大悟に聞いている。

ショートカットになったせいもあるが、瑞樹の印象はとても変わったように思う。

しかも、玄関を出るときに、瑞樹はうつむきながらも

「将、ごめんね。あと、ありがとう」

と言ったのだ……。

昨日、瑞樹の都合の悪いことを大悟に伝えようとしてしまった将は、少しおもはゆいような思いで、

「うん……」

としか答えられなかった。

夕食を詰めたタッパーを入れたリュックを背負って、将はタクシーで自宅マンションを後にした。

コーポの前に立った将は、がっかりした。もう薄暗いのに、聡の部屋の窓は暗いままだったからだ。

聡はまだ帰っていないらしい。

タクシーの中でも携帯をチェックしたのだが、あいかわらずメールボックスは沈黙したままだ。

『聡、今日遅くなる? 夕食、大悟に分けてもらったよ。連絡くれ』

とメールを打った。

蛍光灯がチカチカと点滅をはじめた階段を、将は松葉杖で一段一段登ると、鍵をあけて聡の部屋に入った。

……その様子を夕闇にまぎれて下から見ている男がいた。原田博史である。

博史は、将が聡の部屋に鍵をあけて入り、電灯がつくところまで見届けると、きびすを返した。

 
 

 
聡のいない部屋は、ひえびえとして、所在無くて、テレビをつけても雑音にしかならない。

何をやっても手につかないので、片足立ちで、部屋の中に干してあった洗濯物を適当に畳む。

一人で勝手に風呂に入ってみるが、メールが気になって、カラスの行水になってしまった。

真裸で部屋に出てきて携帯を取り上げる。しかし携帯はうんともすんとも言わない。裸のまま、将はフローリングに腰を下ろした。

――今、帰ってきたら、アキラのやつどんな顔するかな。

ちょっといたずらッ気が顔を出す。そんな将は、まだ、単に聡が帰ってくるのが遅いだけだ、と信じている。

なぜなら、明日は月曜日、学校だってあるから。帰ってこないわけがない……。

しかし、くしゃみが出て寝巻きを着ても……、法律番組が終わっても、聡が好きだと言っていたウルルンが終わっても聡は帰ってこない。

途中、空腹に耐えかねて、タッパーにいれてもらったロールキャベツを1つだけ食べる。

最初は15分に一度だったメールチェックは、しまいには5分になる始末だった。

電話はCMになるたびにかけている。が、あいかわらず電波が届かない。

待ち受けは聡の笑顔にしているが、メールチェックだけでなく、その顔自体がだんだん懐かしく恋しくなってきた。

将は、行き先を細かく聞いておけばよかった、と後悔した。どうせ1泊だから、と宿泊先の住所も電話番号も聞いてないのだ。

情熱大陸も世界遺産も終わって日付が変わっても聡は戻ってこなかった。

将は、携帯をチェックしながらまんじりともせずに、夜を明かした……。

 

 
結局、聡は帰ってこなかった。

将は、最大級の不安を抱えながら、タクシーで少し早めに学校へ向かった。

もしかして、出張先から直接学校に来てるかも、という一縷の望みがあったから。

勇気を出して職員室にも顔を出してみた。

だが、そこに聡の姿を見つけることはできなかった。

 
 

 
ガラガラッ!

HRのチャイムが鳴る前に、教室前の引き戸が勢いよく開いた。

立て付けがよくない引き戸をこんな風に開けるにはよほどの力が必要だ。

好きなところでしゃべっていた生徒が、いっせいに前の引き戸に注目したときには、男はズカズカと教壇に上がるところだった。

皆、その場でシーンとなった。

「席に戻れ!」

男は吼えるように生徒たちに命令した。

生徒たちは無言で、席にサワサワと戻った。

松葉杖の将は、自分の席にいて携帯を開け閉めしていた。

メールチェックを兼ねて、待ち受け画面の聡の顔を見て、心配で憂鬱な気分を紛らわしていたのだが、さすがに、いきなり教壇に立った男に驚いて顔をあげた。

短いパンチパーマの目付きの悪い男がそこにいた。

「今日から2年2組の担任になった京極だ!」

「ええーっ!」

クラス中がいっせいにどよめいた。それはあきらかに好意的なものではなかった。

「静かにしろっ!」

京極は出席簿で教卓をバシバシと叩いた。

「あの!」

果敢にも、手をあげたのは丸刈りの兵藤だった。彼は三学期の席替えで教室の真ん中あたり、前から3列目の席に移っていた。

「なんだ」

京極はにらみつけながらも兵藤に発言を許した。

「古城先生は、どうしたんでしょうか。なんで急に担任が変わったんですか。説明してください!」

皆の訊きたいことを兵藤が代弁した。皆、固唾を飲んで、答えを待った。

「知らんっ!」

京極は一言で突っぱねた。

「でも……」

「つべこべ言うな!学校の決定だ!」

京極は、なおも食い下がろうとする兵藤を一蹴した。

「いっとくが、オレは甘やかさないからな。お前ら野獣どもを人間に仕立てるのがオレの仕事だ。オレの仕事を邪魔するやつは容赦しない!いいなっ!」

京極は強圧的にHRを終えると、入ってきたときと同じように引き戸を乱暴に閉めて去った。

はめ込まれたガラスがビーンと振動しているようだった。

生徒たちは再びどよめいた。

「ねえ、なんでなんで?」

「アキラ先生は? どこいっちゃったの?」

チャミとカリナが甲高い声を立てるとそれに呼応するように

「おい、将、お前なんか知ってんのか?」

と黒髪になった井口が将の席に飛んでいくように、寄っていった。

そのあとにカイトやユータが続き、兵藤や松岡やその他の生徒もそのようすを伺っていた。

「知らない……んだ。俺も」

将は立ち上がると松葉杖をつくのももどかしく教室を出た。

第119話 似たもの同士

その夜、リビングでビール片手に語り合う将と大悟に遠慮して、瑞樹は寝室に早々に引き上げた。まだ、将に対して、なんとなく気まずいのだろう。

将のほうも、瑞樹が部屋に引き上げてくれてホッとした。

ちなみに夕食は、家政婦さんがシチューをつくってくれたのでそれを3人で食べた。

家政婦さんは急に将が帰ってきたので驚いたようだが、急遽夕食の量をふやしてくれた。

将と大悟は、しばらくは将の足のことや、テレビを見ながら当り障りのない話題を話していたのだが、

「な、大悟……。瑞樹のこと、マジなの?」

と将は思い切って切り出した。

「なんだよ、急に」と笑う大悟。

「いや、急なのはお前のほうだろぉ」

と将は、目をむいた。すると大悟は、ちょっと恥かしそうに下を向いたが、すぐに視線を将に戻して、

「うん。マジだよ」

と微笑んだ。それは同じ男の将なのに、思わず惚れそうになるほど、魅力的な笑顔だった。

昔の俳優を思わせるような男っぽさに溢れている。

「あ、そ」

将はその笑顔に圧倒されて、目をしばたくしかない。

しばらく、テレビのお笑い番組で芸人がリズムに乗ったテンポのよいコントを繰り出すのが響いた。

思い出せば、中学の頃、大悟は将と違って、それほど女付きあいが派手だったわけではない。

「あ、あのさ。言いにくいんだけど、瑞樹って……」

将は、大悟の身ぎれいさに、瑞樹のような女は合わない気がして、自らも加担した瑞樹の過去を口にしようとした。

すると大悟は、将がそれを言う前に

「知ってる。お前のだったんだろ」

と言って微笑んだ。将は、先手を打たれてとまどった。

視線も舌もどこに落ち着けていいか、わからなくて、とりあえず目の前の缶ビールを飲む。

空に近いそれを、天井にむけてあおっても、液体は2~3滴、将の舌の上に落ちたぎりで味がしない。

「援交をいっぱいやってたのも知ってる。こないだ中絶したのも……」

将は、缶を顔の上に乗せるように上をむいたまま、固まった。

おそるおそる、瞳だけを動かして大悟の顔を盗み見る。大悟は、さっきと同じ男っぽい笑顔で将を見ていた。

「……瑞樹が……自分で言ったの?」

「……うん。俺たち似たもの同士なんだ」

大悟は、また少しうつむくと、空になったビールの缶を握って少しだけつぶした。ペコ、という音がどことなく哀しげだった。

その缶の音に続いて、将は信じられない告白を聞くことになった。

「実は俺も、援交してたんだぜ。もちろん買うほうじゃない。……売るほうな」

大悟も援助交際という名の売春を重ねていた、というのだ。

「ウソ……だろ」

将は大悟と過ごした中学時代を思い出した。

借金まみれでめったに帰らないばかりかロクに生活費も渡さない大悟の父。

たびたび万引きや盗みを犯して生活費を稼いでいた大悟に将も加担していた。

それは、生き抜くため、というのもあったが、ワクワクするようなスリルに満ちた日々だった……。

「あれだけで、暮らせるわけないだろ」

目の前の大悟は、あは、と咳き込むように小さく笑った。将もそれだけで暮らしているとは思わなかった。

自分と同様に、なんだかんだいって親から金をせびっているのだとばかり思っていた。

「……最初の客は、カオリさんに紹介してもらったんだ」

カオリというのは、将も知っている元レディースの投資家女性だ。

将はこの『カオリさん』にとても気に入られて、一時、付き合っていた。将に株式投資を教えたのも彼女だ。

「最初は、金持ちの主婦とかが客だったんだけど、そのうち男からも犯られるようになってさ。IT長者ってやつ?」

そういう趣味の男がいるということは認識していたが、実際にそんなに身近にいたとは……。

「やつら、金はいっぱい呉れたけどよ。アレやられるとたまんないぜ。痛いし、尻から血が出るし。おかげでウ〇コが出せないから、ゲリと便秘を繰り返すようになるしヨォ……」

大悟は、淡々と、想像するのすら恐ろしいようなことを告白する。思わず無言で身震いする将に

「育ちのいいお前とは別世界だから、言えなかったんだけどさ……」

と大悟はソファーに寄りかかって顔を仰向けた。

二人が『男』になったのは中1の終わりだった。

それから、鑑別所に入れられるまでのおよそ2年間、大悟は体を売ることによって主な生計を立てていたというのだ。

将は、本当に何といって声をかけていいかわからなかった。

空になったビール缶を弄びながら、喉がどうしようもなく渇いて、声帯が張り付いたように声がでない。

立ち上がって、水なり、ビールのお代わりなり持ってこなくては、とそればかりを思う。

だけど、動作が大げさになってしまう松葉杖をとても不便だと、今実感する。

動けない将と、天井をあおぐ大悟に、沈黙がヘドロのように積もったまま時間だけが経過していく。

女性が甲高い声で不満をぶちまけるコントとそれに対する観客の笑い声がだけが部屋に響いた。

「まあ、そんな感じでさ。……だから、俺たちとっても似てるんだ」

しばらく天井を仰いでいた大悟は、顔を静かに将のほうに向けた。

「瑞樹ちゃんのこと、汚いとか、思わないぜ。あのコが悪いんじゃないんだ」

まっすぐな瞳だ。真っ黒なのに、澄んでいるような印象の瞳。

「ただ、生んだ親がマズかっただけなんだ……」

将は、再び罪の意識が腹の底でむくむくと増殖し、それが心をちくちくと攻め始めるのを感じていた。

恵まれない家庭に生まれたゆえに、家を飛び出すしかなかった瑞樹の体を発散対象にしたまぎれもない事実。

しかし、大悟は、罪の意識にさいなまれる将にまったく気付かないのか、

「お前とキョーダイ?になっちまったけどサ」

といたずらっぽい顔になって、軽く将の肩を叩いた。

「そのうち目途がついたらさ、二人で、出て行くから。そんでやり直すんだ」

希望を口にする大悟は、すがすがしい顔だった。

その顔に癒されて将は、かろうじて、頑張れよというエールを発することができた。

そして、空になったビールを、ようやくどうにかしようと

「ビールお代わりいらない?」と気を利かせた。

このビールはもともと将がここに買っておいたストックだ。

もう1本飲みたいのを、大悟は遠慮しているかもしれない、と思い至ったのだ。

案の定、大悟は「いい?」と言いながら立ち上がると将の分と2本持ってきた。

冷えた缶ビールの感触が、まずは手に心地よい。

「だけどさ……」

大悟は缶のリップに指をかけると、少し浮かない顔になった。

「将、おまえさ、ヤクとかやってないだろ」

「やるわけねーだろ」

将は、なんでいきなり大悟がそんなことを言うのかわからなかった。

ケンカに女、盗み、恐喝、偽造など、かなりの非行に手を染めたといえる将だが、やらないと決めていたのが『薬=ドラッグ』だった。

やらないと決めていたというより、好奇心で試した合法(脱法)ドラッグの類が、ことごとく体にあわなかったので敬遠していたといったほうが正しい。

それは大悟も知っていることだ。

「そうだよな。そうに決まってるよな」

大悟は頷いた。

「ていうのがさ。瑞樹ちゃんの腕にさ……」

大悟は瑞樹の腕に複数の注射痕を見つけてしまったというのだ。

将は、大悟の告白のときほどではないが、再び驚いた。

一緒にいる時、瑞樹が覚醒剤をやっているなんて、見たこともなかった。

そのとき、将の頭に濃いラテン顔が浮かんだ。前原茂樹。

……前原かもしれない。覚醒剤所持で捕まった彼のもとに身を寄せていた瑞樹だ。将は、そのままを大悟に伝えた。

「そっかー。まあ、オレのほうで、絶対やめさせるように、気をつけるけどさ」

大悟は、ため息をつくと、冷えたビールをぐいとあおった。

「ところで、将、お前いったいどこに泊まってんの? 瑞樹ちゃんに気を遣ってるんだろうけど、俺も入れて3人だったら問題ないだろ? 帰ってくれば」

大悟は、人のいい笑顔で、将に同居しようと誘った。まったくわだかまりなどない顔だ。

「いや、邪魔だろ」

将も、ようやく笑い顔を出すことができた。

「そんなことないって。部屋もあるんだし、戻ってきたらいいのに。なんてオレが言うのも変だけどな。お前の部屋なんだし」

と大悟は頭を掻いて、快活に笑った。その笑顔につられてようやく、将は自分のことを話す事ができた。

「ん……実は、アキラと棲んでる、んだ」

「ああー、あの萩のセンセイと!……そうか。よかった、よかったな」

大悟は自分のことのように喜んで将の肩をばんばん叩いた。その振動に将はやっと心から安心できた。

この週末、聡が出張で留守なので、今日だけ戻ってきた旨を大悟に説明する。

そのとき、自分が今日一日、聡にメールも送ってないことに気付いて、携帯を取り出した。

たぶん気付かなかっただけで着信があるはずだ……そう思った将だが、メールは空だった。

とりあえず、

『聡、出張はどう? 俺のほうは部屋に戻ったら、大悟がこっちに来てた。瑞樹と付き合っているらしい。落ち着いたら電話くれ』

と打っておいた。

そのまま、遅くまで大悟とまったりと酒を飲みながら語らっていたので、気付かなかったが……。

その日も翌日も、聡からはメールも電話も来なかった。

その異変に将が気付くのは、日曜日も夕方になってだった。

第118話 思いがけない縁

イタリア料理店から帰るなり、聡はほろ酔いなのにもかかわらず、洗濯機をまわしていた。

急に出張を言いつけられたので、土日にやるつもりだった家事を明日の午前中までに片付けないといけない。

といっても、週末は将をいったん家に帰すつもりなので、とりあえず洗濯だけでいい。

家の中にロープをわたして、洗濯物を干した中で、二人は手をつないで眠りについた。

足のギプスのせいで抱き合えない分、毎晩、手をつないで眠る……だから結局、新しい布団はほとんど使っていない。

「あさっての夜には戻るんだろ」

将は、暗がりの中、何度目かになる同じ質問をした。

「うん。だから、そんなに心配しないで」

聡は体を将のほうに向けた。将はとっくに顔をこっちにむけている。

「オレ、ここで待ってようかな……」

「ゴハン、どうするの」

「ピザでもとればいいじゃん」

聡は首を振った。

「将の部屋のほうが、エレベーターだし、コンビや弁当屋さんも近いし。お手伝いさんも毎日来てくれてるんでしょ」

「そうだけど……」

実は、さっき聡がバスルームの中にいるときに、瑞樹に連絡をしようとした。

だが、ずっと出かけているのか『電波が届かないところにいるか……』のメッセージばかりだ。

「1泊だけだから、そんな顔しないで」

聡の暗がりに慣れた目には、不安そうな将の顔がわかる。聡は手を伸ばして将の頬を撫でた。

聡の手は少しひんやりとしている。

「……キスして。アキラ」

聡は、何もいわずに、暗がりの中で身を起こすと、唇を重ねてきた。

手はひんやりとしていたのに、唇は温かくて柔らかい……。

こんなふうに口づけを交わす夜。本当は一晩でも失いたくない。

将は、上にのしかかる聡の体に両腕を伸ばすと、その柔らかい体をしっかりと抱き寄せた。

ひとしきり口づけを交わすと二人は並んで、手をつないで眠りを待った。

聡より眠りの到着が遅かった将は、暗い天井を仰いだ。

ふと、瑞樹とこのまま連絡がとれなかったら、大磯のヒージーの家にでも行くかな、と思いついた。

 
 

 
翌朝、学校に行くのよりは少し遅い時間に出発した聡を見送って、将はもう一度瑞樹の携帯に電話をしてみた。

やはり同じメッセージだ。電源を切っているのだろうか。

あっさりと諦めた将は、曽祖父である巌こと、ヒージーの家に電話をする。

すると、電話にはハルさんが出た。隣に住むハルさんは、巌の家のことも手伝ってくれているのだ。

「あ、ハルさん? ヒージーは?」

「まあ、将ぼっちゃん、久しぶり……」

ハルさんは、年寄りのせいか、前置きの挨拶が長い。

将は、元気だ、学校にも行っている、ちゃんと食べている、などといちいち質問に答えなくてはならない。

そしてようやく本題にたどりついてみると、巌は昨日から2泊3日で人間ドックに入っているというのだ。

将は脱力して、しばらく、ハルさんが一方的に話すヒージーの近況を聞いたのちに電話を切った。

人間ドックは定期的なもので、特に体調が悪いというわけではないらしい。

 
 

 
――どうしよう。

将はベッドに寝転がった。

このままここで聡の帰りを待つべきだろうか。

しかし……聡の言うとおり、松葉杖をついての暮らしは、着替え1つ出すのでも不自由だ。

と、将は瑞樹の携帯がどうしてつながらないのかが少し気になりだした。

何か問題に巻き込まれているのか。

いや、どうでもいい。あまり彼女のことに首を突っ込まないほうがいい。

将は仰向けに寝転がったまま目を閉じた。

本来は寝坊を楽しむ土曜日なのに、聡に付き合って早く起きてしまった。だから少し眠ろうと思う。

が……将はなかなか眠れなかった。心の奥に何かがひっかかっていて小さな警告音が鳴り続けているようだ。

警告音はどんどん大きくなっていく。

ついに将は上半身を起こした。

もう一度瑞樹の携帯に電話をする。結果はさっきと同じだ。

将は、そのまま携帯でタクシーを呼んだ。

 
 

 
1週間ぶりに自宅マンションの前に立った将は、最後にもう一度携帯を鳴らすが、反応はさっきと同じだ。

将は、松葉杖でエレベーターに乗ると自室に向かった。

誰もいなかったら予備の鍵を使おうと思ったが、とりあえずインターホンを鳴らす。

1回目、部屋の中に響いているピンポーンという音がかすかにする。が、反応はない。

将は念のためにもう一度鳴らしてみた。

すると、次は中からドタドタとドアに駆け寄ってくる音が聞こえた。

「ハーイ」

ドアの内側から響いた声に将はとても驚いた。男性の声だったからだ。

次の瞬間ドアがガチャと開いた。

「将?」

顔を出したのは、上半身裸の島大悟だった……。

 
 

 
「なんだよ、お前、どうしたんだよ」

と将が問い掛ければ、大悟のほうも

「お前こそ、その足はどうしたんだよー」

とコーヒーを淹れながら、笑って訊き返す。バスルームからは水音……瑞樹がシャワーを使う音が聞こえている。

「や、オレのほうはスキーで折ったんだけどさァ」

とソファに腰掛けた将は笑うと、コーヒーを運んできた大悟の耳に口を寄せて

「何、おまえら、ここで、そういう関係になったわけ」

と声をひそめた。

大悟は端正な顔をやや赤く染めると

「……まあ。実は昨日がはじめて、だったんだけど」

と下を向いた。正月に会ったときより少し髪が伸びて耳にかかっている。

訊くと、とうとう暴力に耐えられずに愛知の親類宅を飛び出してしまった大悟は、身を寄せる場所もなかったので、将の部屋を訪れたのだという。

それが先週の日曜日だった。

「ちょうどお前と入れ違いだったんだってな。来てみたらお前じゃなくて、女の子が住んでたからびっくりしたよ。そうだお前、どこに入りびたってんだよ」

「あ、うん。いろいろ……。で、今日まで瑞樹と一緒にいたわけ?」

聡の家にいることは思わず隠してしまった。

「うん。俺、携帯ないし、他に行くとこもないだろ。途方に暮れていたら、瑞樹ちゃんがここにいてもいいって言ってくれて」

「でもさ、だったら何で、瑞樹のやつ、オレに連絡くれなかったんだ?」

「あ、それ。充電器を無くしたって言ってたぜ」

将は、あまりにあっけなく簡単な答えにホッとし、かつガクッと力が抜けてソファーにもたれた。

「買えばいいのに……そんなの。人騒がせだな」

「いやー、瑞樹ちゃん、金がぜんぜんないんだって。ほら、毎日ここにオバサン通ってきてるじゃん。あのオバサンが作ってくれるご飯だけが命綱って感じで暮らしてたらしいぜ。俺も人に貸すほど持ち合わせないし……」

オバサンとは、巌が派遣してくれている家政婦のことだろう。将が骨折している間だけ、毎日通うようになっているのだ。

「ふーん」

たしかに、瑞樹には中絶費用だけしか渡してないから、そういうこともあるのかもしれない。

家に帰れずに、中絶したばかりで援交もできないとしたら、金はないだろう。

将が、コーヒーを口にしたとき、瑞樹がバスルームから出てきた。

バスローブを着て、ようやく見られるほどに伸びたのか、ウィッグをやめた髪はショートカットになっている。

将を見つけると、その大きな目を見開いた。次に、そのまま大悟に視線を移した。大悟も瑞樹を見つめて、うなづいた。

「それでさ、将。俺、このまま東京にいようと思うんだ。で、悪いんだけど、仕事見つかって部屋借りられるようになるまで、ここに置いてくれないか?」

大悟は端正な顔を少しゆがめるように『頼む!』と懇願した。

「や、それは別に、ぜんぜんいいんだけど……」

「マジ?ホントに?」

「いや、ぜんぜん……ずっと居ろよ。遠慮せずに」

将は少し困惑したのだが、親友の窮地を救わないわけにはいかない。安心させるべく笑顔をつくった。

「よかったー。ホント、恩に着る、将」

大悟は、将に向かって手をあわせた。

それにしても大悟と瑞樹が……将はなんだか複雑な思いだった。

瑞樹が『将のことが本当に好きだったから』と涙してから、まだ1ヶ月も経っていない。

そんなに簡単に、他の男に心が移るものなのだろうか。しかも相手は、将の大事な親友である大悟だ。

大悟は、かいがいしく牛乳を沸かしてカフェオレをつくり、瑞樹に渡していた。

瑞樹もクールな顔に笑顔を浮かべて、大悟と仲むつまじくしているようだ。

冷めたコーヒーの味が、なぜかいっそう苦々しく将の舌の上に広がった。

第117話 急な出張

「ごめん、アキラ……」

呟やく将に聡は、将の腕の中で首を振った。

「将が、悪いんじゃない……。私が……私が決めたことだもん」

聡は、涙にまみれた顔をあげて、将を見つめた。

「将を好きになったのは……、私だもん」

どうしようもなく、将を愛してしまった。

人を傷つける予感だけで、今の聡の心は血を流すほど痛い。それでも戻れないほどの想い。

「アキラ」

傷ついてまで自分を選んだ聡がいとおしい。

かくなるうえは聡の苦しみを、痛みを一緒に背負いたい。

決意した将は、聡を再び強く抱きしめた。

その夜、二人は、また手をつないで眠った。

お互いの手のひらをとおして、優しさが二人の体全体を包む……。

 
 

 
夜が更けた。この寒いのに、遠くを走る暴走族のクラクションが静かな夜に響く。

将は、もうとっくに寝付いたようだったが、聡は寝付けず、将の手の温かさを感じたまま目を開けていた。

罪の意識が、聡を寝かせないのである。

いつか……博史の両親に、博史とは結婚できないことを打ち明けなくてはならないだろう。

一体、いつ?

余命1年の博史の母……薫。

余命1年というのが確かであれば、今後容態は少しずつ悪くなっていく一方なのだろう。

……だとしたら、時間がたてばたつほど、言いにくくなる。

――早く、打ち明けなくては。

つらい決意はできるだけ早く実行しなくてはならない。

聡はそのつらさを思うと暗がりの中で深いため息をついた。

そして……そんな風に、薫の余命を測る自分の冷酷さが恐ろしくなって、思わず救いを求めるように将の寝顔を見た。

そういえば。

聡は、博史の父・慎一が、博史が『月末までカタール』といっていたことを思い出した。もう今週末が月末である。

聡は灯りもつけずに、体を起こした。

将を起こさないようにベッドを降りると、パソコンの電源を入れた。もしかしたら、博史から帰国の連絡が入っているのかもしれない。

将と一緒に寝起きするようになって今日で3晩め、聡はパソコンのメールをチェックするのをすっかり忘れていたのだ。

暗闇の中、異世界への窓のように輝くパソコンの液晶画面。

しかし……博史からのメールは着信していなかった。

1月4日に聡を乱暴するように抱いたあと、『メールする』と言っていたにもかかわらず、帰国予定日の連絡はない。

受信箱は不気味な沈黙を保ったままだ。

聡は、ほっとしたような、しかし不安な気持ちに襲われてまた、ため息をついた。

「……アキラ?」

暗がりの中、将の声がした。振り返ると将が、半身を起こしてこっちを見ていた。

白目と歯がパソコンの光の中に浮かび上がっている。

パソコンが起動する音は真夜中の部屋に意外に響いていたのだろうか。

「ごめん、起こしちゃった?」

「何……してんの?」

将は優しい調子で、聡に訊いた。

「うん……。メールをね。チェックしてた」

聡はパソコンの電源を落とすと、部屋を暗がりに戻した。そして注意深く、将がいるベッドに戻った。

「なんの、メール?」

「あのね」

少し躊躇したが、隠すこともないだろう、と暗がりの中、聡は話し始めた。

「今日、病院で聞いたんだけど、博史さんが月末に帰ってくるんだって。……で、メールがこっちにも来てないかと思ったの」

「博史が……そっか」

聡は将の隣に先に体を横たえた。

「アキラ、それで、どうするの?」

将もつられて横になった。体は仰向けで顔だけ聡のほうに向ける。

「どうって……。どうにもしないよ」

将の心配そうな声音に、聡は将のほうに体を向けると、ほのかに見える将の輪郭にそって手を添えた。

「もう、博史さんには結婚できない、って伝えてるし……心配しないで」

「でも……」

将は、聡が博史に殴られたことを思い出した。

そんなことをするように見えない優しげな顔の博史。細い目が、いかにも穏やかそうな男。だけど。

――ああいうやつに限って、逆上すると何をするかわからないんだ。

将は、その言葉を飲み込んだ。

低レベルな嫉妬と間違われたくなかったからである。

暗がりに心配そうな将の目。目を見開いてこっちを見ているのが青く反射する白目でわかる。

「大丈夫だから……。明日も学校でしょ。もう寝よう」

聡は将の手をとった。それはさっき以上に温かいように思えた。

 
 

 
同棲を始めて最初の週は、学校に発覚することもなく、なんとか過ぎていった。

松葉杖なこともあり、家のことをほとんど聡にやらせっぱなしの将は、なんだか申し訳ない気がしたが、それでも二人で夕食を食べ、手をつないで眠るのは幸せだった。

弁当屋の主人が口にした『結婚』という単語。

将が今受けている授業は、得意の数学の時間である。だけど将はうわの空だった。

例題ではなく、窓から見る冬晴れの空に、聡と作る家庭を思い描いてみた。

二人が結婚したら、こんな幸せが毎日続くのだろうか。

それだけじゃない。毎晩、聡を抱いて……そこに、しばらくすると聡と自分にそっくりな子供が加わる。

聡が自分の子供を産む。それを考えて将はひとり照れた。

そこで思った。

自分は何をして……何を仕事にして、聡との家庭を守るのだろう。

 
 

 
金曜日の朝。

今日を無事終われば、1週間何事もなく終わる。聡は、朝から気合が入っていた。

今日の6時間目は社会見学、それが終わったら、将と二人で食事にでも行こうか。

週末はどう過ごそうか。まだ松葉杖だし、家事もたまっているから、ゆっくりしたほうがいいんだろうか。

そんなことを考えていた聡に、教頭が声をかけた。

「古城先生、ちょっと一緒に校長室に来てください」

「ハイ」

いったい何だろうと思いつつ、聡は素直に席を立って、教頭のあとについて校長室に向かった……。

 
 

 
「視察~!?」

将があまりに大きな声をあげたので、聡は

「シー!」

とまわりを見渡して人差し指を立てた。聡の家の近所にある、こぢんまりとしたイタリア料理店に来ている。

漆喰の壁にチェックのテーブルクロスが、イタリア南部の家庭の味の演出に一役買っている。

社会見学が終わって、二人で今日は外食、としゃれ込んだのだ。

将は、いったん聡の部屋に帰って着替えたので私服になっており、グラスワインを傾ける姿も違和感がない。

「なんだよ、それ」

将は、ウナギの稚魚が乗ったブルスケッタを持ったまま、ふだんクールな印象の目を、丸く大きくしたままだ。

「うん、なんかね。山梨に大検試験をめざす全寮制の予備校だかをつくるんだって。ホラ、引きこもりとか、不登校のコのためなんだって」

聡もよくわからないので、聞いたままを伝えて、鰯のエスカベーシュにフォークを突き刺す。

「いつからできんの」

将はようやく、ワインを口にした。魚介類の前菜にあわせての白ワインは、少し安いのか酸味がきつい。

「この4月開校だってー」

「でさ、なんで明日から、アキラが1泊で視察なんだよ」

「知らないッ……」

将の抗議する口調に対して、聡も唇をとがらせてすねた表情で将を一瞬見つめた。

「でも行けって言われたから……しょーがないもん。断れないじゃん」

そう言うとグラスをぐいっと傾けて、グラスに残った白ワインを一気に煽った。

「アキラ独りでかよ」

聡はグラスを置くと、唇をとがらせたまま、頷いた。

将はため息をついて椅子の背もたれに寄りかかった。

「わけわっかんねーの。……でさ、アキラ行ってる間、オレどうするんだよ」

「それなんだけど、どうせ土日だけだから、瑞樹さんにお祖母ちゃんちに行ってもらえないかな。どうせ一人でいるんだったら、エレベーター付きの将の家のほうが便利でしょ」

「それはたぶん大丈夫と思うけどさぁ……なんかオレ心配」

「う……ん」

実は聡も、急な出張が心配だった。

実際何の仕事をするというのか、校長や教頭の説明を聞いてもいまいちわからなかったし、何の意図があるのだろう。

「でも、どうせ1泊だし。大丈夫よ」

聡は自分に言い聞かせるように明るい声をあげると、ワインの追加を頼んだ。

だけど将は、なぜか胸騒ぎが止まらなかった。

この胸騒ぎは……的中した。

聡は、月曜になっても帰ってこなかった。

第116話 欺瞞

不安は的中した。電話の向こうから

「原田です。聡さんですか?」

と声がした。

一瞬、聡はその声が誰か判別がつかなかった。しかし気付いたとたん『あっ』と声が出そうになった。

それは博史の父の慎一だった。クリスマスに実家のマンションを訪ねたとき、聡のグラスに何度もワインを注いだ、バリトンの朗らかな笑い声の紳士を思い出す。

聡は、どもりそうになるのを押さえて

「ハイ、その節はいろいろとごちそうになりまして……」

となんとか挨拶の言葉をつむぎだす。気付くと、心臓がどくん、どくん、と暴れ始めている。

慎一のほうは、聡が苦労してつないだ挨拶には軽く返事をしただけで、

「聡さん、実は家内が、緊急入院しまして……」

とすぐに本題を切り出してきた。

「えっ!」

博史の母の薫は、ガンで余命1年というのは知っていた。

しかしそれは11月時点の話で、まだ1月末であるいま、危篤になるのは早すぎるのではないか。

「いえ、まだ命がどうこう、というわけではないとは思うのですが……」

聡の驚いた声に、慎一はあわてて、取り繕う。

が、はっきりとした言葉をいわないところに却って不安がつのる。

「もしよかったら、聡さん、来ていただけませんか。うちのやつ、聡さんにお会いしたいって、ずっと言ってたから……」

聡はしばらく、絶句した。何か言わなくてはと口は開いているのだが、何を言っていいのかがわからない。

『わかりました、すぐ行きます』と言う関係……博史には、もはやそういう感情を持っていない。

かといって『行けない』と言って捨てるほど聡は非情になりきれない。

心づくしの料理を出してくれた博史の母・薫の柔らかい笑顔を思い出して、聡は苦しくなった。

あの……何の罪もない、優しい人たちを傷つけなくてはならない。自分がこれから行う罪の痛みを想像して聡は目をぎゅっとつむった。

やはり、今は言う時ではない。

聡は、仕方なく「今から、行きます……」と答えるしかなかった。

 
 

 
待合室のベンチに座っていた慎一は聡の姿を見つけると、立ち上がった。

「聡さん、すいません。お疲れのところ……」

と、頭を下げる。品よく櫛が入った銀髪が少し乱れている。もう遅めの時間のせいか、待合室にいる人は少ない。

「あの……ご容態は……」

聡は、考えたあげく『お義母さま』という主語を省いてしまった。

「あ、ああ。急に倒れたのでびっくりしたんですが、ちょっと強い貧血でした。もう大丈夫です。でもいちおう、念のために、検査入院するんですが……」

とりあえず、危篤ではないということに、聡は胸を撫で下ろした。

「よかった……」

「ええ、本当に。あれも、月末まではカタールって言ってたんで、もし今、何かあったらと気が気じゃなかったんですが、本当によかった」

慎一は本当に安堵したらしい。笑顔で顔を皺だらけにしながら、この年齢の男性にしては珍しく、早口で一気に話す。それだけ、心配から一気に解放されたのだろう。

逆に聡は、慎一の口から出た博史の近況に、ややびくつく。

「ああ、そうだ。うちのが、せっかくお呼びしたのなら、お会いしたいと言ってまして」

一方的にまくしたてていたことに、慎一はようやく気付いて、聡を薫の病室に案内すると言い出した。

大丈夫なのなら、そろそろ帰る言葉を口にしようとしていた聡は、少し怖気づいた。

しかし、ここで帰るのはさらに不自然だろう。

聡は、バンジージャンプをする前に似た緊張と覚悟を持って、薫の病室へと向かった。

 
 

 
「聡さん!お会いしたかったわ」

個室にいた薫は思ったよりずっと元気そうだった。少し顔色が悪い気がしたが、体を起こして聡を迎えた。

聡は、ふと将が入院していた病室を思い出した。まったく別の病院だが、個室というのは雰囲気が似ていると思った。

ハッとする。こんなときにまで将のことを考えるなんてどうかしている。

「すいません。あの、手ぶらで来てしまいまして申し訳ありません」

それに対する言い訳のように聡は頭を下げた。

「いいのよ、さあ、ここに座って」

と薫はベッドのそばの椅子を勧める。

「あの、先日はご馳走いただいたのに、ろくにお礼もしませんで……」

「ふふ。聡さん、謝ってばっかりね」

薫は、目を糸のように細めて聡を見た。その細い一重瞼は、あきらかに博史そっくりだ。

聡は、博史そっくりの、その笑顔を見て心臓が苦しくなった。

「博史がいなくても、気軽に遊びに来てくれたらいいのに」

「ハイ……」

聡は返事をしながら腋の下にじっとりと汗が出てくるのを感じていた。

「今日は、学校だったの?」

「ハイ……」

「英語を教えてらっしゃるんだったわね。お嫁に来たら、私にも教えてちょうだい」

薫は無邪気に、未来の聡に願い事をする。聡は困惑した。

「そんな……お教えできるレベルじゃありません」

「あら、ごけんそん。あのコは聡さんの英語は自分より流暢だってベタぼめなのよ。ぜひ教えて?」

そこで、慎一が口をはさむ。

「どうだい。博史は反対するだろうが、聡さんは結婚しても、東京にいてもらうってのは。……私ら、ずっと可愛い娘がほしかったんだ。一緒に仲良く暮らすってのはどうだね」

「あら、いい考え。ねえ、聡さん、そうしましょうよ。聡さんだって日本がいいでしょ」

薫は、弾んだ声をあげると、少女のように浴衣の手を前であわせた。

「そして一緒にあちこち旅行しましょう。私、まだカナダに行ったことないの。カナダの紅葉ってすごくきれいなんでしょう?」

きっと博史から聡が子供の頃、カナダにいたことがあることを聞いているのだろう。

「え、ええ。きれいです……とても」

聡は、それを答えるだけでせいいっぱいだった。

この11月に余命1年足らずを宣告された薫。

カナダの紅葉が一番美しい10月。次の10月に……薫はこの世にいるのだろうか。

いっせいにメイプルの葉が舞い落ちる心象風景に、聡は飲み込まれそうになる。

心に積もるメイプルの葉は、涙をいきおいよく押し出そうとする。

下を向くと流れだしてしまう。薫の顔を見ると涙の湧出が増えてしまう。

ここで泣くことは、薫に自身の余命の短さを、バらしてしまうことになる。聡は焦点をぼかすことによって必死で堪えた。

「じゃあ、約束よ。一緒に行きましょうね」

薫は聡の手を握った。温かいけれど乾いた感触。それにつられて思わず、聡は薫の瞳を見てしまった。年齢に不似合いな澄んだ瞳。

聡は、薫が、自分の余命を知っているのでは、と思った。

不自然に瞬きを繰り返して、涙は止めたけれど……。

気がつくと慎一も耐えられないのか、顔をそらしていた。肩が……かすかに震えている。

この、大きな悲しみを持つ家族に、いずれ、あらたなる鉈をふるわなくてはならない聡は、自分の罪深さにおののいた。

 
 

 
「アキラ、遅いじゃん!どこ行ってたんだよ」

ドアを開けて出迎えた将がパジャマ姿で抗議の声をあげた。もう9時すぎになっている。

「オレ、待ってたんだぜ。お腹ぺこぺこだよ!」

そういう将の後ろのローテーブルには、買ってきた弁当がビニール袋に入ったまま置かれている。

将は、聡が帰ってくるまで夕食を待っていたらしい。先に風呂に入るなどして必死で空腹を紛らわしていたのだろう。

「ごめん……」

将の顔を見たとたん、聡は、もう限界だった。

鼻の奥がつーんと痛くなり、目が熱くなる。

聡は、将の胸にすがりついた。涙が堰を切ったように流れ出す。いったん流れ始めると、止めどなくそれは溢れていく。

すがりついた聡を支えようとして、腋に挟んだ将の松葉杖が、がたんと音をたてて倒れた。

「ううーっ……」

聡は声を出して、激しく嗚咽していた。

「アキラ、どうしたんだよ、ねえ、アキラ?」

将のとまどう声が聞こえる。

だけど聡は、次々と津波のように押し寄せてくる感情に流されたまま、説明もできず、ただしばらく泣き続けるしかなかった。

 
 

 
「……で、さっきはどうしたの?」

ようやく落ち着いて、遅い夕食をとった後。将は聡にできるだけ優しく訊いた。

聡はだまりこんだ。

「……学校で、なんかあったの?」

将はそう訊きながら、そうではないことだけはわかっている。

だまっている聡の瞳が低い虚空を眺めたまま、柔らかいゼリーのように膨らみ始めた。それがポロリとこぼれて、頬を伝った。

「アキラ?大丈夫?」

涙を見て、将はまた、とまどったようだ。聡は涙を頬に伝わせたままハッとしたように上を向いた。

「う、うん」

聡は、あわてて将のほうを向くと、涙を手の甲でぬぐった。

しかし、鼻水まで出てきてしまった。聡は1回立ち上がるとティッシュを掴んで鼻をかんだ。

そのユーモラスで不躾な音に、聡はかろうじて自分を取り戻した。

そしてベッドに寄りかかる将の隣に座る。

将は腕を伸ばすと、聡の頭を自分の肩のほうに引き寄せた。もう、何も考えないで出てくる動作だ。

「余命1年なの」

まったく想像しなかった単語に将は、自分に寄りかかる聡の顔を見ようとする。

しかし、聡はうつむいているので震える睫だけしか見えない。

「誰が……?」

まさか、聡ではないだろう、と将は訊く。

「博史さんのお母さん……。今日、倒れたって連絡があって、病院に行ってきて……」

聡はそれだけ言うと、こみ上げる涙に言葉を流されたように失ってしまった。

いろいろなことが、また一度に押し寄せる。

薫の乾いた手。細い目を糸にした笑顔。見たいと言っていたカナダの紅葉。

しかし、次の紅葉まで彼女は生きられないかもしれない。

よしんば、余命が延びたとしても聡は彼女に同行できないのだ……。

将は、聡の涙声を聞いて、おおよその事情を察した。

聡のとまどいと苦しみ、哀しみが触れている肩を通じて将の心にも流れ込んでくるようだった。

将は聡を抱く手に力を込めた。

「アキラ、……ごめんな」

聡が苦しむそれらは、自分のせいでもある。

将はそれがわかるから、聡のふるえる両肩に腕を伸ばした。

聡は将の胸にもたれかかって、長いこと震えるように泣いていた。

将はそんな聡をずっと受け止めるしかなかった。

第115話 久しぶりの登校

 
月曜日の朝がやってきた。

あわただしさを予想した聡は、いつもより30分も早く起きた。朝の支度が二人重なった場合の待ち時間のロスを考えたからだ。

洗面所とトイレが一緒になった狭いバスルームは、二人で暮らすのにはとても不便だ。

しかし、幸いといっていいのか、将はいつまでも寝ていた。

 
 

 
さすがに、ゆうべは土曜の夜のようなことはしていない。

ただ、将があまりにも乞うので、聡は将と手をつないでベッドで横になった。

将が寝付くまで、と思っていたのだが、将の手の温かい感触に、聡のほうが先に眠ってしまったかもしれなかった。

気がついたときは夜中の3時だった。静かな夜に、すうすうと将の安らかな寝息が響いていた。

聡は幸せのあまり、真っ暗にはならない東京の夜に浮かぶ、将の横顔の輪郭をずっと眺めていた……。

 
 

 
昨日のブランチよりもかなり簡単に朝食をつくると、聡は将を起こした。

「将、今日学校でしょ、もう起きなくていいの?」

「ん……、もう少し……」

といって、あおむけになった顔に布団を自分でかぶせた。

「もう7時30分になるよ、あたしはもうすぐ出ちゃうよ」

8時40分の始業には8時20分にはここを出る必要がある。職員の聡はさらに30分早い出勤だ。

「うん……。タクシーで行くからいい」

かぶった布団の中からくぐもった声が聞こえる。

「んま!あきれた」

「だって、足がさあ……」

将は布団から顔をだした。ほんとうに眠そうな半開きの目だ。

たしかに、松葉杖でバスに乗るのはつらそうだ。贅沢だが仕方がないかもしれない。

「将、じゃあ、しばらくタクシー通学すんの?」

「うん」

「あっそ」

さすがボンボンだ。まあお金は心配ないのだろう。

「あたしさ、今日、補習のあと職員会議あるから、将より遅いはずなんだよね。悪いけど、将、今日はお弁当屋さんで何か買ってきておいて。私は野菜弁で」

「んーー、わかった」

将は布団の中で伸びをすると

「もう、出かけるの?」

とやっと目を見開いて聡を見た。髪はいつもよりさらにボサボサで、寝起きでうるんだ目は赤ん坊のようだ。

「うん。今日はいろいろやることがあるから早めに出る」

「忘れ物」

「え?」

将は、布団に入ったまま、自分の唇を指差した。

「えー、もう口紅つけちゃったよ」

「いいから」

聡は、将の唇に、素早くキスした。素早く……のつもりだったが、将が布団の中から腕を伸ばしてきて聡の体を抱き寄せたので、本格的に唇を交わすことになった。

――将でも髭のびるんだ。

将の頬にふだんは、髭の気配を感じることはなかったが、今朝はわずかにざらつく感じがあった。

このキスで5分オーバー。

聡はあわてて、もう一度口紅を塗りなおすと

「じゃ、鍵ここ置いとくから」

とあわただしく出勤していった。

将は、そんな聡を微笑んで見送ると、大きくあくびをした。

「すっかり、目が覚めちゃったよ~」

と上半身を起こした。ローテーブルの上には、

『トースターで温めて!』というメモと共にハムチーズのトーストが置いてあった。

 
 

 
二人の同棲はもちろん秘密である。

教師と生徒で、登下校に時間差があるから、『同伴登校』でバレるということはまずない。

クラスでは井口だけに、将が聡の家に転がり込んでいることを話している。

他のユウタやカイトなどには話していない。彼らから女子に伝わる可能性があるからである。噂好きの女子に漏れると、学校中に広まり、それは教師たちにも知れることとなるだろう。

将のマンションを貸している瑞樹にも、将の居場所自体は教えていない。

もう、何もしないとは思うが、やはり聡の家にいることが彼女に知れると、何かと弱みになると危ぶんだからである。

しかし、そんな心配は無用だった。瑞樹自体が先週からずっと学校を休んだままなのだ。

将が久しぶりに登校しての月曜のHRが終わると、井口らが将の席に集まってきた。

3学期になり、席替えをして、将の席は教卓のまん前ではなくなってしまった。が、闇取引をして、なんとか前から2番目のはじっこの席を確保した。

それでも、聡から少し遠いのが不満だが、窓側なので条件はまずまずだ。

ちなみに、井口はこの月曜から髪が黒くなっていて、将を始め、クラスメートの皆を驚かせた。ピアスも減っている。

「どーしたのよ、いったい。普通の高校生みたいじゃん」

と将が茶化しながら訊くと

「いやー、バイトでさあ」

と井口は黒髪の頭をかきながら、照れて答えた。

ダンスのレッスンを本格的に始めた井口は、そのレッスン料金のためのバイトを始めたのだ。

「何してんの?」

「……パン屋」

「パン屋ぁ? らしくねー!」

将はひゃひゃひゃと笑ったが、井口は『うるせぇ』と顔を赤くして下をむいた。

なんでも、パン屋のバイトは朝4時から7時までだから、夕方はレッスンに費やせるのだという。家の近所なのも都合がいいらしい。

「なーる……」

将はなんだか急に井口が大人になった気がした。

「がんばれよ。こんどパン買いにいくからサ」

将は励ましながらも、自分のやりたいことを見つけて邁進する井口が、とてもうらやましかった。

 
 

 
夕方、将は、学校帰りにタクシーで弁当屋に寄った。

大学生のふりをしている弁当屋に制服で寄るのは暴挙だが、冬だということもあり、ダッフルにマフラーをつけているから、たぶんわかるまい、と将は強気でいった。

「あら、山田さん、足はどうしたの」

カウンターにいたおかみさんは、すぐに将の腋にはさんだ松葉杖に気付いたものの、その裾が制服であるということには、案の定気付かないらしい。

「ハァ。スキーで転びまして……」

「おやおや、まあまあ……。気をつけないと」

おかみさんは、悲痛な声を出した。

「今日は野菜弁当と、カルシウム弁当、それとフライ盛り合わせをください」

と将は注文した。おかみさんは奥にいるご主人に向かって注文を繰り返した。

「で、アキラちゃんと会ってるの?」

将は思いがけないところで聡の名前を聞いて、思わず頬がゆるんでしまった。

「え、ええ……毎日」

「ニヤニヤして気持ち悪いねえ、なんだい?」

おかみさんはご飯を詰めながら訊き返して来た。

弁当屋に暴露しても問題はないだろう、と将はつい口走ってしまった。

「あの、オレとアキラ、一緒に棲んでるんです」

「ええーっ!」

おかみさんは、しゃもじを取り落としそうになるほど驚いたらしい。さらに、主人も菜箸をもったまま、カウンターに駆け寄ってきた。

深い皺の中、眼窩から飛び出しそうなほどに目をむいている。

「な、何! 聡とお前がっ?」

殴るような勢いで詰め寄ってきた。白髪交じりの眉が激しく上下する。

「は、ハイ……」

将は思わずたじたじとなった。

「こうなったら、セキニンは、ちゃんと取るんだろうな!」

「は? セキニンですか?」

「ケッコンだよ!結婚。嫁入り前の娘だろ、聡は! いずれ結婚するんだろうな!」

結婚。聡と結婚する。夫婦になる……家族になる。

弁当屋の主人にすごい剣幕で詰め寄られながら、将の頭には急激に、フワフワとこの甘く厳粛な単語が舞い始めた。

 
 

 
聡は補習後、事務仕事に拘束されていた。

日いちにちと夕闇の訪れは遅くなってきているが、もうあたりは紫色の闇に物の輪郭がぼんやりとしている時間だ。

修学旅行や風邪引きでたまった分がようやく片付いて、平常どおりになってきている。ホッとしているのは、それがなんとか終わりが見えてきたというのともう1つ。

教室で将に対して、なんとか平常どおりに接することができた……ということ。

一緒に暮らしている恋人同士が、教室では教師と生徒という関係を演じなくてはならない。それを無事演じきることができた、ということに聡はひとまず安堵していた。

ちなみに、修学旅行中、聡と将が二人きりで避難小屋で一夜を過ごしたことは、同行教師らに緘口令が敷かれていた。

そのことについて表向きは、将が単独行動をして怪我をしているのを聡は見つけただけ、ということになっている。

よけいなことが校長や教頭、他の教員に知られて、聡が困った立場に置かれないように、という多美先生の配慮なのだ……。

と、そのとき携帯が鳴った。

表示を見ても、番号に覚えはない。しかし、04で始まる市外局番に不安があった……。

第114話 能動的な愛

昨日の聡の行為の起爆剤は、瑞樹への嫉妬だったことは否めない。

自分より前に将と一緒に暮らして、将のことを自分より知っている瑞樹に対する、我を……常識を忘れてしまうほどの激しい嫉妬。

あのとき、聡は瑞樹に対する対抗心で、将に手を伸ばした。

だけど、そのうち……将の肉体の温かさに触れているうちに、恍惚としている将を目にするうちに、ひたひたと聡の心に満ちてくるものがあった。

それは、将への純粋な感情だった。いとおしさ……愛情。

 
 

 
愛の行為において女はおおむね受身とされている。

それは体の構造上、仕方のないことではある。

そのせいか、男と女でつくりだす『幸せ』というものに対しても、女は受身であたりまえ、と考えられてはいないだろうか。

例えば、流行歌などでは

『幸せにしてやる』などと歌うのは男性歌手で、それに対して女性歌手は『幸せになりたい』と歌う。

『幸せになりたい』と歌う歌詞の主語は、もちろん『私』、もしくは広く見ても『私たち』、である。

つまり、女性は、幸せにおいて(主に恋愛において)自分本位とまではいかないが、主体であることをつねに自認し、かつ黙認されているのが一般的だろう。

 

 
今までの聡もそうだった。今まで……といっても高校生や大学生のときの彼氏までは、恋愛に対して幼すぎて、そのときどきの甘い感情や行為に酔うだけで、『幸せ』につながっていく『愛』などおそらく自覚していなかった……そういう深い感情があったかどうかもさだかではない。

聡が、恋愛が深い至福につながっているのを実感したのは、博史からである。博史との恋愛時、確かに『幸せ』につながる『愛情』に聡は包まれていた。

「愛されている」

「この人なら私を幸せにしてくれる」

博史の愛情に包まれて、聡はただただ幸せと、それが将来に続いていく予感に酔った。

それは、すべてを男に任せてついていく幸せだったのだけれど。

 
 

 
将を愛する今の聡は違った。それを昨夜、聡は確認したのだ。

もちろん、幸せになりたい、というのは人間の生存本能として常に存在するとして。

聡は、むしろ将を幸せにしたい、と強く願った。

その願いは生まれたとたんに、涙が出るほどせつなくて、命を掛けたいほど強い願望になった。

それは、暗闇に迷う旅人にとっての北極星のように、将を愛する聡の道しるべになって、心に燦然と輝いた。

将を、傍目には淫らな行為で愛しながら、聡の心は徐々に純化していった。

将を気持ちよくしてあげたい。できれば幸せにしてあげたい。

そこに、聡自身の存在はどうでもよかった。

愛を受けるだけでなく、与えたい。

将が幸せなら、聡も幸せ。

幸せは与えられるものでなく、自分がつくりだすものになったのだ。

将に対して、今までもそんな気持ちがなかったわけではない。

だけど、どうしても教師と生徒という立場上、女が男にできること、という形でそれをすることは憚られた。

だけど、瑞樹というきっかけで、タガがはずれた聡は、将に『女』という形で愛を与えることができない自分のもどかしさの大きさを知った。

もはや受身ではいられないほどの強い想い。

それが昨夜の聡の原動力だった。

将を手に入れて幸せになるのではない。将を幸せにすることが自分の幸せ。

26歳の聡は、そんな大人の愛し方で、瑞樹に先んじたい、と無意識に願っていたのかもしれなかった……。

そして聡は、果てた将の寝顔をなぞりながら、もし仮に、自分の幸せか、将の幸せか、どちらかしかとれない、そんな状況になったら将の方を迷わず選ぼう……そう心に誓っていた。

しかし本当にその日が来ると、まだ予想もしていない聡は、将の頬に軽く唇を押し当てると、ベッドを降りて自分の寝床に入った。

 
 

 
「そうそう。将、上手じゃん」

日曜も夕方になっている。『ちびまる子』ちゃんを映すテレビをBGMに二人は餃子包みに励んでいた。

将が餃子を包むのはもちろん初めてだが、手先が器用なのか、長い指を操って、3つめには等間隔にタックをとってきれいに包めていた。

それきり、二人は無言で餃子を包むのに集中するかに見えた。

なにせちまちまとスプーンで救う量に対して、膨大な肉がボウルの中にある。

西日本出身の聡は一口で食べられるような小さめの餃子が好みだから、皮は小さめだ。ゆえに大量の餃子を包まなくてはならない。

部屋にはしばらく、まる子と友蔵、キートン山田の声だけが響いていた。

将はあいかわらず無口だが、別に聡のことを避けるようでもない。

チラチラと聡のことをさっきから盗み見ているのを知っている。

聡はそんな将をほうっておくことにした。しかし考えてみたら、今日はキスもしていないのだった。

「まる子、終わっちゃったね」

聡は指先に神経を集中させながら、将に話し掛ける。

「ああ」

無関心を装いながら、実は直前まで聡を見ていた。それを無理やり餃子に神経を集中させているかのよう。

「チャンネル変える?」

「……どうでもいいよ」

「じゃ、サザエのまんまにしとくねー」

それっきりしばらく沈黙が続いた。そして将のチラ見が始まる。

聡は助け舟を出すことにした。将のほうを見ずに餃子を包みながら

「将、なんか言いたいことある?」

と問い掛けてみた。

「え、ええ?」

肉を掬うところだった将は、聡からの思いがけない質問に、思わず力が入ってしまったらしい。

とうてい包めない量の肉がスプーンに山盛りになっていた。

しかし、それを減らすこともなく、餃子の皮に乗せる。

「あ、……えと……」

いいよどんだまま、大量の肉をむりやり餃子の皮で包んでしまおうと格闘する。

しかし、餃子の皮が破けてしまい、将は意を決したように聡に問い掛けた。

「あのさ……、ゆうべの……、ことなんだけど」

「なあに?」

聡は、1つの餃子を包み終わって、皿に並べながら将の顔を見た。

将は破けた餃子を皿の端に置いて、下を向いている。

「アキラ、昨日みたいなこと、いつも……」

言いかけて止まってしまった。あいかわらず下を向いたままでボサボサの前髪の下で睫がしばたいているようだ。

ふいに将が顔をあげた。目が合う。真剣に何かを乞うような目だ。

「アキラ、ぶっちゃけ、オレって何人目?」

「なあに……、いきなり」

「いいから」

「そんなこと聞いてどうするの?」

「知りたいんだ。博史のほかに、東のほかにも、いたの?」

「なんで東を」

聡は、少し驚いた。なんで高校時代の彼氏の名前を将が知っているのだ。

「萩で秋月さんに聞いたんだ。アキラに、あんな……ことを教えたのは東なの……?」

将の声は最後は消え入りそうになった。声の調子と同じように目線はどんどん落下していった。

聡は静かに立つと、流しで肉と餃子の皮の粉で汚れた手を洗った。

そして、うなだれる将の隣に座ると、肩を抱き寄せた。

「将……イヤだった?」

聡の囁きに、将はびっくりして、首を横に振った。

体をねじって自らも聡の体を強く抱きしめようとしたのだが、手が餃子の皮の粉で汚れていて、それは宙にとどまった。

「イヤじゃない、むしろ嬉しかった……けど、」

「けど?」

「すっげえ、気持ちよかったけど……」

一瞬、ゆうべの感触がリアルに蘇り、将はあせる。

「オレ、アキラにそんなことを教えた昔の男に嫉妬してるんだ」

「将……」

聡は将の胸に顔をうずめながら広い背中を撫でた。が、おもむろに顔をあげて

「40人め」

と言った。

「へ?」

突拍子もない数字に、さすがに、将は笑い顔のまま顔をひきつらせた。

「……とか言ったらどうする」

と聡は顔をあげたまま、いたずらっぽく笑った。

「ありえないでしょ、アキラが」

将は、冗談だとわかって、だけどホッとした。

「わかんないよー? そしたら、やっぱり将は私が不潔だと思う? 別れちゃう?」

「もー、アキラ、茶化すなよぉ」

将は、粉まみれの手でついに聡の頬を撫でた。聡の頬に白い指の跡がつく。

「あのね。誰に教わったんじゃなくって」

聡は自分の頬を包む将の手に自分の手を添えた。

「私が……もし、処女でも、同じようにできたと思うよ」

聡はちょっと照れて、視線を下にずらした。長い睫が染まった頬の上でしばたいているのを将は見た。

「将が……どうやったら気持ちよくなるか、一生懸命だっただけだもん……。誰にも教わってないよ。将が気持ちいいやり方なんて」

聡は顔をあげた。白い粉を頬につけたまま、まっすぐな瞳で将を見ると、ゆっくりと微笑んだ。

そして、そのまま立て膝をして、将の唇に軽く触れるようなキスをした。

将は目をあけたまま、それを受けた。優しくて温かい聡の唇の感触。

……将にとってずいぶん長いこと忘れていたような感覚だった。

考えてみたら、今日、初めてのキスだった。

なんだか、知りたいことはうやむやにされた気もする。

だけど、粉をつけたままキスしてきた聡があんまり可愛かったので、もうどうでもよくなった。

将は聡をもう一度抱き寄せると、今度は将のほうから深いキスをした。

そのまま抱擁と長い口づけを繰り返す。

聡の服も髪も餃子の粉だらけになった。

第113話 聖女

 
忘れてしまったが、いい夢を見ていた。

そこへ、コーヒーの香りが混じった。

どこからコーヒーの香りが漂ってくるのか。それを考え始めたとたん、ぱちん、とはじけるように将は眠りから覚醒した。

横たわったまま天井を見上げる。

――ああ、そうだ、やっと退院してきたんだ。ここはアキラの部屋だ。

――アキラ? そうだ、オレ、ゆうべ……。

その、感覚が将の体に鮮やかに蘇る。

将は、体を起こして、キッチンのほうを見て、次に、自分の体を確認する。寝巻きは着ている。

あれは、夢、だったんだろうか……。と将は半信半疑になった。

「起きた?」

聡はちょうどコーヒーをいれながらこっちを振り向いたところで、目が合う。

将の脳裏に、ゆうべの生々しい記憶が鮮やかに蘇った。絶対に夢じゃない。

しかし、聡のほうは、なんにもなかったように、

「おはよ。ちょうどコーヒーが入ったよ」

と将に声をかけてくる。頬が輝いているような、とびきりの笑顔だ。

そしてそれは、まるでゆうべの淫らなことが、将一人の夢だったかのように思わせるほどの爽やかさだった。

「あ、うん」

動転した将は松葉杖なしで歩こうとして、

「いててて」とベッドに再び座り込んだ。

「大丈夫?」

聡が駆け寄ってくる。

「大丈夫……」

と答えながら、将は聡の口元を見てしまった。ゆうべの……将のやましさの原因になっている場所。

それはたぶん、すっぴんだと思うが、健康的なバラ色だった。弁当屋にいるときの聡の唇がよくこんな色だった。

「着替える?それともしばらくそのままでいる?」

そういう聡は、もう着替えていた。今日は髪を束ねて、ロングスカートを穿いている。

「しばらく、そのまま……」

将はぼうっとしていた。

まだ信じられない。聡があんなことをするなんて。しかも自らすすんで。

もちろん、将は、それまで相手にした大勢の女からそれをされたことがあった。

たいていの男がそれを好きなように、将もそれが嫌いではない。

だけど、まだ寝てもいない聡が、いきなり、あんなことを……。

聡は

「もう、遅いから、ブランチにするね」

などといいながら、将に背中を向けて目玉焼きだかを焼いているようだ。

将は、聡のことをもちろん処女だとは思っていない。

だけど、将のなかの彼女の位置付けは、聖女に近いものがあったのだ。

穢れた自分自身に対して、聡は手を差し伸べてくれる聖母のように優しく、かつ冒し難い存在でもあった。

体も大きく力も強い将だから、聡を無理やり抱くことぐらい、どうってことない。

何度となくあったチャンスにも、それを敢えてせずに、聡の体を抱きしめるだけにとどめていたのは、そんな聡に対する崇拝のような感情、というのも大きい。

手の中でそっと守るべきものでありながら、同時に崇拝するべきもの……隠れキリシタンが持っていたというクロスやマリア観音のような存在に近いかもしれない。

だけど、ゆうべの聡は違った。

そして、聡によるそれは、とても、よかった。

とろりとした温かい液体に包まれるような……将のことを慈しむような愛撫。

だから、将は、始まってまもなく、耐えられずに放出してしまったのだ。聡の……口の中に。将はあわてて謝った。

しかし、聡はそんなことは気にならないように、優しく微笑んで将を抱きしめたのだ。

それは……再び聖女に戻った聡だった。

本当に、聡がそんなことをするとは思わなかった。

将にとってそれは、とても嬉しいことのはずだったのに、そして発散になったはずなのに、なぜか心にもやもやしたものが残った。

「ハイ。ブランチできたよ~」

聡は目玉焼きとサラダとスープをローテーブルいっぱいに置いた。

目玉焼きは黄桃缶のような濃い黄色、おまけに、つやつやとした半熟で、とても旨そうだった。

「ふうん。将も目玉焼きは塩コショーなんだね」

「……うん。パンのときは、ね」

将が使い終わった、粒コショウと岩塩が入った容器を聡は受け取って、ガリガリと自分のそれにかけている。

しかし将は、砕かれて降りかかる塩コショウを見るふりをしながら、聡を盗み見てしまう。

なぜか、今朝の聡はすごくきれいになっているように見える。

しかし、将がさっきから、いや昨日の真っ最中から、急に気になっているのは、聡の過去だった。

何人にそれをしてやったのだろう。そして、いつ覚えたのか。

「スープ美味しくなかった?」

聡が首をかしげている。なんだかそんな仕草も異様に可愛く見えてしまう。将はどうやら、ブスっとしてスープを飲んでいたようなのだ。

「あ、いや、うまいよ。すっごく」

「ふふ。そうでしょ。実は昨日のぉ……」

将は昨日という言葉にドキッとする。

「将が剥いた大根とか人参の皮を入れたんだよ」

将はほっとした。ひどく……疲れが残っている気がした。

 
 

 
朝食のあとも、一緒の部屋にいるのに、将はロクに話もしないで、ずっと聡の姿を目で追っていた。

聡は食器を洗ったり、洗濯をしたり、掃除をしたりと忙しく家事をこなしていた。

「手伝うよ」

将は声をかけたのだが

「その足じゃ、何もできないでしょ」

といなされてしまった。

だから将は、悶々と聡の過去について思う暇をつぶすことができずにいる。

「今日のさ、夕食だけど」

聡が洗濯を干しながら将に提案した。

「餃子にする?それだったら一緒に包めるでしょ」

しかし将は聡の方を向いたままぼーっとしていた。

「将?」

聡が洗濯を干す手をとめて将を見る。

「……」

「将、どうしたの?」

視界の中の聡がこっちを向いて将の意識はようやく戻った。

「え、あ、ああ、何?」

あわてて取り繕う。

「今日、餃子一緒に包まないかって聞いたの」

「ああ、うん、……うん、包む」

「じゃあ、これ終わったら買い物いってくるね」

「うん……」

いつもの将だったら、俺も行く、というところだが……。

聡もまた、ひんやりと固く湿った、青い空のような香りがするタオルを干しながら昨夜を思い出していた。

将の態度が朝からぎこちないのは、そのせいだろう。よっぽどびっくりしたのか。

聡自身も自分にびっくりしているぐらいだから。

まだ、最後の一線を越えたわけではないが、17歳の教え子相手であれば、もう完全な犯罪ゾーン。いや、そもそも、正月に上半身裸で抱き合ったのも、ヤバイエリアだった。

でもそのときは、聡は、まだ受身だった、といえる。

しかし、昨夜は……聡は自分から将自身を剥き出しにして、口にしてしまったわけで、その積極的な行動は17歳の少年に対しては立派な『淫行』という名の犯罪だった。

だけど、不思議に聡は後悔していなかった。

将が、果てたとき……世間に対して重大な秘密を持ってしまったのに、そして聡自身が慰められたわけではないのに、口をゆすぎながら、なぜか爽快感が聡を包んだ。

しきりに謝る将を抱きしめて、彼が眠りにつくまで、寄り添った。

将の寝息を聞きながら、抑圧されたものが、解放されたような、快活な気分になっていた……。

第112話 同棲開始(2)

 
「ああ、生理」

将は、ああ、という形で口をあけたまま、ハハと笑って顔をそらした。

「ご、ごめん。なまなましくて……」

聡はうつむいた。若い男のコ相手に、こんなことを口にするのは、知っているとわかっていても恥かしい。

「いいよ、そんな。女のヒトだったら、当然だもんな。で、痛いの? おナカ」

「う、ううん。今は大丈夫、大丈夫よ……。バファリン飲んでるから」

「そっかー。瑞樹のヤツも腹が痛いってよく機嫌悪くなってたし……」

――しまった!

言ってしまって将はハッとした。

一瞬見開いた聡の目と、視線が合ってしまった。しかも、こっちから、そらしてしまった。バツが悪くてなんだけど……。

「あ、えっと……。昔の話ね、昔の」

将はあわててフォローした。

「そ、そうね。瑞樹さん、いかにも体が弱そうだもんね」

聡も、フォローに答えようとしていたが、その声はうわずってしまっていた。

――そうだった。将は女性と暮らすの、初めてじゃないんだ……。

聡をにらみつける瑞樹の瞳が聡の脳裏にフラッシュバックした。

家に帰りたくなかった瑞樹が将の家に『入りびたっていた』というのは一緒に棲んでいた、と考えて間違いないだろう。

うすうすわかっていたはずなのに、その事実を将自身から知らされると、体が震えるほどのショックを聡は感じざるを得ない。

それを隠すように、聡はベッドを降りると

「これ、片付けるね。ほとんど着替えなんでしょ」

と明るく将のリュックに手をかけた。

「ああ、ああ、頼むよ」

将もベッドの上から明るくそれに答えた。

聡は、無造作にリュックに突っ込まれた将のTシャツやジーンズなどを引っ張り出すと畳みなおした。

「あ!」

先に将のほうが気付いて声をあげた。しかし、阻止する前に、

「あら……」

聡がリュックの中に潜んでいた『それ』に気付いて顔を赤くした。……何枚かのコンドーム。

「はははは……、一応、念のため、なんちゃって」

いぶかしげな顔をしていた聡だったが、照れ笑いする将についつられて、

「もう……まったくー」

と、ようやく苦笑いを浮かべることができた。

 
 

 
夕食は、将のリクエストで、萩の実家で食べた肉団子の鍋になった。

聡一人で作ろうとしたのだが、将は手伝うといって聞かなかった。

「これからは、オレも料理覚えるよ」

とあまりにも頑張るので、ローテーブルで野菜の皮むきをさせることにした。

その不器用な手つきに、聡はキッチンで作業をしながら、ハラハラしどおしだった。

「ちょっと、これなあに?」

結局、手こそ切らなかったが、剥いた大根の皮は、いやに分厚かった。5mmぐらいの厚みがある。

「ええー、初めてにしては上出来だろ」

「しょーがないから、これは取っといて明日キンピラか何かにしないとね……」

聡は分厚い大根の皮をタッパーに収めると冷蔵庫に入れた。

5時から作業を始めたのに、結局出来上がったのは7時近くになってだった。

「まだあ?オレ、超おなかぺこぺこだよ~」

野菜をむく以外は、座ってできる作業はなかったので、将は持ってきたDSをやっていたのだがもう空腹は限界だった。

「ハイハイ、お待たせ~」

聡は台所で煮ていた土鍋をローテーブルの上にセットしたカセットコンロに持ってきた。このカセットコンロも急遽買ってきたものだ。

「わーお、うまそう!」

鍋のほかに、卵焼きや、キムチなども並べる。

「アキラ、なんか足りないものない?」

「ん?ご飯もよそったよね。醤油も持ってきたし……」

ご飯は、将がどれだけ食べるかわからないので、とりあえず3合炊いた。これは聡の持っている炊飯器の限界値である。

「泡が出るやつ」

暗にビールのことを言っていることに聡も気づいた。

「……もー!未成年でしょ」

「いいじゃん、今日は退院祝いで」

と将は子供のようにせがむ。そのいたずらっ子のような顔に聡は弱い。

ま、今日ぐらいは、いっか。と聡は冷蔵庫から缶ビールとグラスを持ってきた。

「じゃあ、将の退院に乾杯」

「オレとアキラの同棲第1日目に乾杯」

二人は杯を触れさせると、ぐっとビールをあおった。

将は足を深く曲げられないので、ローテーブルに添うように横向きに座っている。

聡は、そんな動きづらい将を気遣って将の器に鍋をよそってやるのだが、あっというまに食べてしまう。

そうこうしている間に小さめの鍋の中身はあっという間になくなり、新しい具が煮えるのを待たなくてはいけない。聡が食べる暇もないほどの好評ぶりだ。

もともと鍋料理は、野菜もたくさん食べれるので、独り暮らしにはうってつけ、聡の冬の定番だったのだが、こうやって好きな二人でつつくほうが数倍美味しい、と食べる暇もないのに、幸福を聡は噛み締めた。

食後は、先に将に風呂を使わせて、聡はキッチンで食器洗いをしようと思ったのだが、将は

「いいよ、俺。昨日病院で風呂入ったし。冬だから毎日入る必要もないでしょ」

などと言う。

「ええー!不潔っ!鍋で汗かいたでしょー!」

聡がさんざん抗議したので、

「わかったよ。ギプスかばうの面倒なんだぜー、もう」

将はしぶしぶバスルームに消えた。それから素直に、しばらくバスルームから水音がしていたのだが、

「あ!」

聡は食器を洗う手を止めた。将は……案の定、タオルを持って入るのを忘れている。

将のマンションは、脱衣所に一通り揃っていたのだろう。聡がタオルを用意しようとしたそのとき、水音が止んで、中から

「ヤベえ」

と声がした。

「将」タオル持っていくから、と声をかけようとしたそのとき。

ガチャとバスルームの戸が開いて髪の毛がびしょぬれの将が顔を出した。

顔だけでなく隙間から濡れた体の一部が見えている。暖色のバスルームのライトを背にした、褐色の将の肌。聡は思わず目をそらした。

「アキラ、ごめん、タオル忘れちゃったよ」

「ハイ、タオル」

聡は目をそらしたまま、あわてて、タオルを渡した。あわてたので何か忘れた気がする。

それに気付いたときは遅かった。将は、腰にバスタオルを巻きつけただけの姿で、頭を拭きながら出てきたのだ。

「ぱんつも、忘れちゃったよー」

と別にあわてたようすもなく、聡に笑いかける。

頭を拭いているほうの腕は高くあげられているせいか、腋毛が見えている。毛深くない将なのに、やはり腋は黒々としている。

別に腋毛ぐらい、夏場だったら見えるものだし、どうってことないものだが、間近、しかも自分の部屋で見た聡は少しとまどった。

聡は、さっきしまったトランクスを取り出すと手渡した。別にトランクスぐらい、とも思うのだが、とても恥かしい。聡は顔が火照ってくるのがわかった。

「あっ、あたしもお風呂入っちゃうから、将、部屋のほうで着替えてていいよ。広いほうが着替えやすいでしょっ、暖房強くしてるから」

ごまかすように、そういうと、聡はタオルを持ってバスルームに入った。

しかし……なんてことだ。動揺したせいか、こんどは聡自身が下着を忘れてしまったのである。

もともと、聡は独り暮らしなので、風呂あがりは、せいぜい身につけてバスローブぐらいだった。

そしてバスルームが狭いので、部屋のほうでゆったりとテレビでもみながら、乾燥しやすい背中などに化粧水や乳液を塗りこんで、それからパジャマを身につけるのが冬の習慣になっていた。

つまり、バスルームに着替えを持ち込む習慣がなかったのでうっかり忘れてしまったのである。

――しまったぁ……。

聡はパジャマを手にして舌打ちした。

生理中ということもあり下着なしで、いったんパジャマを着るのも抵抗がある。

「将……」

聡は、バスタオルを体に巻きつけると、バスルームから顔を出して将に声をかけた。

将は聡がゆったりと湯船に浸かっているあいだに、下着も寝巻きも身につけたようだ。

リラックスしてテレビを見ていたのだが、バスルームから顔を出した聡を見て、ハッと上半身を起こす。

「あのさ……着替え忘れちゃったから、目ぇつぶっててぇ……」

将は

「マジ!目つぶるはずないじゃん」

と目をわざと見開くそぶりをする。

「もうヤダ~」

そういっているあいだにどんどん湯冷めしていく。聡は仕方なくバスタオルを巻いた姿で

「もう。覚えてなさいよ」

と毒付きながらバスルームから小走りにクロゼットに近寄り、中の引き出しから下着を引っ張り出した。

「アキラのぱんつ置き場お~ぼえた~」

などとからかう将に、聡は拳を振り上げようとして、胸からタオルがずれそうになって焦る。

なんとか、狭くて不自由ながらバスルームの中でパジャマまで着替えると、聡は小さくため息をついた。

 
 

 
あっという間に、寝る時間がやってきた。

聡はベッドに添って床に新しい敷布団を敷いた。こっちに自分が寝るつもりである。

「えー。アキラ、やっぱそっちに寝るの~?」

将はベッドの上にギプスの足を投げ出した姿勢だ。

「だって、狭いでしょ。あたし、折れたところ蹴るかもしれないよ」

聡はてきぱきと毛布と夏用のタオルケットを自分用に重ねた。

「それでもいいから一緒に寝ようよぅ……」

寂しそうに将は口をとがらせた。

「だーめ」

「じゃあ、おやすみのキス、しよ」

将は自分の唇を人差し指で指した。それには聡は、ちょっと下を向いて照れると、

「いいよ……」

とベッドサイドのスタンドを付けて、真上の蛍光灯を消すとベッドのふちに腰掛けた。

将は聡が腰掛けるのを待ちきれないように抱き寄せると、唇を重ねて、舌を割り込ませてきた。

今、歯を磨いたばかりの将の唾液は、ミントの味がかすかに残っている。それは爽やかで、セクシュアルなキスに似合わない味だった。

将はさらにミント味とかけ離れた行動……聡を抱き寄せたまま一緒にベッドに倒れこんだのだ。

「このまま、一緒に寝ようぜ。な」

将は自分の胸の上に聡を抱えたまま耳元で囁いた。

聡のベッドに横たわる将は、目を安心したように細めて二重の幅が広くなっている。

その瞳は、あどけない子供のようで、聡の母性本能をくすぐった。そして再び始まった深い口づけは男性として聡の中の『女』をじわじわと刺激していく。

いつしか、聡は将にのしかかると、さっきのように、いやさっきより大胆に自らリードしていた。

なんだか変だ。変になっていく。

本当に歯止めが利かなくなっていく。

聡はそんな自分を自覚していた。さっきもそうだった。

夕食のときに2本、風呂上りに1本飲んだビールのせいだろうか。いや、それだけではない。聡を燃え立たせているのは……。

「アキラ、その体勢はヤバ……」

聡は将の体に自分の体を重ねるように口づけを繰り返していた。パジャマ越しに柔らかい胸のふくらみを、将の胸板に押し付けている。

「あ……」

とうとう聡の腿に、将自身があたった。

「ゴメン……。ずっと処理してないから……」

将は素直に聡に謝った。なにせ、今まで入院していたのだ。敏感になっているのは仕方ないだろう。

聡はまばたきもしないで、将の顔をじっと見つめた。

「将、……あたしと……寝たい?」

将は、聡の瞳に吸い込まれそうになった。なんで聡がこんなことを言うのかわからなかった。

「あたしと……したい?」

将は、聡に何かを吸い取られてしまったように、何もいえずに、ただ深くうなずいた。が、

「でも、今は足が……」

と自ら、なぜか言い訳をしてしまった。いつもなら聡の側が自粛しようというのに、今は違う。

聡は、といえば、自分の中の『女』が暴走しているのはわかっている。

それは、嫉妬によるものだということを、とうに気付いているのに、止められない。

第111話 同棲開始(1)

 
将の足の経過は、若いだけあって極めて良好で、本人も希望もあり、土曜日に退院することになった。

おかげで聡は土曜の午前中、部屋の整理や、片付けに追われることになった。

そう、結局、将は聡の部屋に『暫定的に』一緒に棲むことになってしまったのである。

昨日、将は

「一緒に住むっていったって、この足だぜ。変なことできねーし」

といって笑いながら聡の頭をくしゃくしゃと撫でた。

たしかに、退院するとはいっても将の足は、松葉杖がとれるまで、まだ2週間はかかるとのことだ。

それまで、足は大きなギプスに覆われていて、当然、寝るときなどは姿勢を変えないほうがいいのだ。

なお走ってもいいほどの完治までは2ヶ月弱かかるらしい。

聡は、自分の下着や生理用品を、将の目の届かない場所に隠すようにしまいながら『寝ていない、だけど相思相愛の二人』の同棲が、とても難しいことのように感じた。

おまけに、昨日から聡は生理が始まってしまった。狂ったわけでなく予定通りの日程なのだが、さっそく血で汚れたものをどこに置くかで悩むことになった。

いままではトイレと一緒になったバスルームの片隅に汚物入れを置いていたのだが、なんだか目立つような気がしてならない。

結局他に置くところがないからそこに置いたままになるのだが……。

これが、もし一線を越え、体のすみずみまで触れ合い、目にしているような状況なら、こうやって女性特有のものを神経質に隠す必要もないのではないか。

しかも、二人は社会的には担任教師と生徒なのだ。事情があるとはいえ、一緒に暮らしていることがバレたら一大事だ。

聡は、この狭い8帖のワンルームで、将と身を寄せ合うように暮らせる幸せに酔う暇もなく、初めての同棲に対して緊張していた。

 
 

 
聡が、片付けに心を悩ませている頃、将は退院していた。

いちおう義母の純代が迎えに来たが、マンションの部屋まで送り届けるだけになっている。

ちなみに、先週から将のマンションに居着いている瑞樹は、中絶手術のあと、ずっと学校を休んでいたが、この日は小山の祖母の家に行き、部屋を一時的にあけてくれることになっている。

タクシーの中で、純代は

「将……。本当に大丈夫なの?そんな足で、独りで平気なの?」

と訊いた。

……どうせ、うるさがられる、と思っているのか淡々とした口調だが、いちおう眉のあたりに心配そうな表情が浮かんでいる。

将もまた、

「お手伝いの××さんが松葉杖の間だけ、毎日来るんだろ。全然平気」

と淡々と答える。

お手伝いの××さんには、マンションには瑞樹が住み着いて、かつ、それを両親に絶対にもらさないように、と言い含めてある。

もともと、お手伝いさんの××さんは、曽祖父の巌のツテで来るようになった者だから、将に対して忠実だ。

 
 

 
マンションに着いて、心配そうな純代を追い返してしまうと、将は部屋の中から、当面必要な着替えなどを出して荷造りをした。

聡との同棲は嬉しくてたまらないが、松葉杖をついての行動はいちいち不便だ。

左足を大きく曲げられないので、クロゼットの下のほうの引き出しをあけるときなど、とても苦労した。

洗面台からは気に入ってる電動歯ブラシやら髭剃り、ヘアムースなどをリュックに入れ、次に寝室で気に入ってるCD数枚を持っていくべく探す。

だいたいはラックにあったが残り1枚がどうしてもない。

そういえば、歌詞カードを寝る前に眺めたかも、と将は松葉杖の不自由な足をひきずって、ベッドサイドにまわるとスタンドの下の引き出しを開けた。

目当てのCDはそこにあった。

しかしそれと一緒に、コンドームが何枚か入っていたのを見つけてしまった。

……この足だ。まずそういう行為はできないだろう、自粛すべきだと自分でもわかっている。将は、一瞬悩んだが、やっぱり念のためにそれをリュックに放り込んだ。

冬だから着替えがかさばる、というのもあり当座のものだけで、大き目のリュックはパンパンに膨れた。

それを背負うと、将は部屋を出てタクシーを拾った。

 
 

ピンポーン。玄関チャイムが鳴る。

――もう来た!

片付けは出来ているのに聡はあせった。あわててドアに駆け寄る。

案の定、そこには松葉杖をついた将が微笑んでいた。松葉杖で3階まで登るのに苦労したのか頬が紅潮している。

「今日からお世話になりまーす」

ドアのところで将は、神妙にペコリと頭を下げると、軽くウインクした。

といっても狭い部屋だ。将は勧められてベッドの上に、壁に寄りかかって足を投げ出すように座ると、あらためて部屋を見回した。

座っているベッドのすぐそばの床に、新しい布団がたたんである。

「アキラ、布団買ったの?」

とキッチンで紅茶を入れている聡に問い掛ける。

「うん。無印の安いのだけど、敷布団だけ。将が私のベッドと掛け布団を使って、私はその敷布団に毛布とタオルケットを重ねてかければ大丈夫かなーと思ってね」

「ええー、一緒に寝ないの?」

将は抗議の声をあげた。

「だって、そのベッド狭いじゃない。私、寝相あんまりよくないから将の足を蹴るかもしれないでしょ」

「別に、そんなのいいのに……」

聡からマグカップで紅茶を受け取りながら将は小声でつぶやいた。

「これ、着替えとかでしょ。片付けようか? クロゼット、将のスペース少し空けたんだよ」

聡は自分の分の紅茶をテーブルに置くと、将のリュックのジッパーに手をかけながら訊いた。

将は、聡が自分を部屋に受け入れる用意をしてくれていたのを聞くと、とても嬉しくなった(布団はあまり嬉しくなかったが)。

「そのまえにさぁ」

将は、湯気の出るマグカップから顔をあげると、上目遣いで聡を見て甘えた声を出した。

「今日、チューしてない」

「え……」

聡は顔を少し赤くした。

「アキラ、おいで」

将の声に操られるように聡は、将が座るベッドの隣に座った。

将の指が聡の紅潮した頬を持ち上げる。素顔の頬のすべすべとした感触、柔らかい髪の毛の感覚を確かめるように将は指でいとおしむと、吸い寄せられるように聡の唇に自らのそれを重ねた。

最初は、お互いの唇の感触を確かめるように浅く、軽いものを。

「やっぱり、チューは毎日しないとね」

鼻先がくっつくような至近距離で笑った。

「毎日?」

聡もくすっと笑って訊き返した。

「毎日最低3回、同棲の鉄則でしょ」

将は囁くと、聡を再び抱き寄せた。こうしていると、聡はやはり一緒にいることの幸せを感じずにはいられない。

これが、しばらく毎日続くのだ。

聡は体の中心が、幸せのあまり、うずくように震えるのを感じた。

……最初は、あの避難小屋のベンチのときのように、隣に並んで体をよじって深く口づけをしていたが、じきに、聡は将の投げ出した足の上にまたがるように正面にまわった。

将の足の不自由さが脳裏にあっての聡の行動だが、将はその大胆なポーズに、驚いたように眼を見開いた。

しかし、将の腿にまたがるように立てひざをした聡は、そんな将の顔を手のひらで包みこみ、上から改めて今度は聡のほうから将に口づけをする。

将は、そんな大胆な聡に、大きくときめいた。

大人の女ならではの、天衣無縫かつ大胆無敵な色気を聡に垣間見た気がしたから。

そして、聡が恥じらいを捨てて、そんな様子を出すのは、自分を愛し、信じているからこそだろう、という結論を出す。

将はそんな聡に答えるべく、聡の口づけに自らを任せつつ、手は聡の背中から腰を撫でた。

華奢な背中はなだらかにそり返り、それに手を添わせていくと、急にジーンズの固い生地に覆われた弾力が現れる。

たぶん、後ろに突き出すようにした聡の腰だ。そのセクシーなポーズを将は見ることをできないが、撫でる手で十分に感じている。

聡の後ろにまわした将の手は、ニットをまくると、ローライズのジーンズの下に息づく、2つの弾力をじかにさぐった。

ジーンズがゆったりとしていたせいか、将の両手はすべすべした肌に導かれてすっぽりと聡のジーンズの中に入ってしまった。

それは、搗き立ての餅のように柔らかい胸のふくらみに比べるとかなり固い張りがあり、ひんやりとしていた。

しかしすべすべしているのは変わりない。将が手をいっぱいに広げた中にようやくおさまるほどの締まったヒップだ。

「あ、ダメ」

聡は、唇を離して、いきなり場違いな声を出すと、腰をひいた。

「ごめん……。今、生理中なんだ」

バツの悪そうな顔で、聡は将から離れた。

第110話 家庭訪問

瑞樹の家は古い市営住宅だった。

白かったであろう、ざらざらとした壁はグレーに変わり、その外壁を配管が伝っていた。

エレベーターがないその住宅の狭い階段を登るのに、松葉杖に慣れない将は少し苦労した。

すでに外は薄暗くなっていて、外気に露出している階段は寒い。にもかかわらず、3階まで登った将はじんわり汗をかいていた。

聡は、将が落ち着くのを待って、ブザーを押した。

『ブー』という音が鳴る旧式なものだ。

「ハァイ」

中から答える男の声がして、ドタドタと出てくる足音が響いた。

ドアがあくなり、ツンと鼻をつく匂い。アルコールの匂いだった。

「どなた?」

義父、というには、案外若く見えた。30代前半だろうか。

いやボサボサの頭に無精ひげ、チェックのシャツが若く見えただけかもしれない。

頬から顎に掛けてのラインがだらしなく、そこだけ見たら中年過ぎにも見える。ドアノブに片手をかけながらブカブカのジーパンの前を今ごろ閉めている。たぶん家の中では穿いてなかったのだろう……聡は目をそらした。

「こんにちは。さきほどご連絡しました、荒江高校の古城と申します」

「ああ、センセイ。どうぞどうぞ」

赤い顔をした義父は、ドアを開けると、聡と将を中へ招きいれた。

このとき早くも聡は、将についてきてもらってよかった、とホッとしていた。

 
 

  
聡と将はダイニングにあるテーブルの席を勧められた。

セロテープであちこちを繕ったビニールのクロスが掛けられている。家の中も古く、クロス同様、安っぽい内装と家具で覆われていた。

例えば床は色のさめてグレーがかった色になったピンク色のカーペットで覆われていて……丸見えの台所の水道は、いまどき家庭では珍しい、捻る蛇口だった。

そしてさらに給湯器が剥き出しになっていて、その上には、扇風機の羽のような換気扇が油でべっとりと汚れてやはり剥き出しだった。

「あいにく家内は仕事に出かけたんですよ、この時間はだいたい仕事なんで……」

お茶を淹れながら義父は、申し訳なさそうに聡に謝った。赤い顔をして酒の匂いをさせていながらも、いちおう常識的なことは言えるらしい。

「そうですか……、お父様は何をなさっているんですか?」

将は、顔を上げた義父が、一瞬、鋭い目をしたのを見逃さなかった。

――聡は今の目を見逃さなかっただろうか。

しかし、義父はすぐに相好を崩すと

「お恥ずかしい。家内のかわりに家のことをやっております。いわゆるシュオット(主夫)です」

といってハハハと笑い、お茶を勧めた。

とりあえず、世間話を一通り済ませた後、

「これは、月曜からの分のノートのコピーです」

と『学級委員』を装った将がノートを差し出した。

瑞樹は中絶手術のために月曜から休んでいる(もちろん、親には内緒だが)ので、その間のノート、ということだが、実はそれは、昨日将の見舞いに訪れた、兵藤と真田由紀子が将にと届けたコピーなのである。

そのあと聡は、休みがちな瑞樹の状況を義父に伝えた。すると

「ハァ、そうですか……。私は、てっきり学校に行ってると思ってましたから……。よく友達の家を泊まり歩いているらしくて、私もあの子のことは、よくわからないんですよ」

義父は頭を掻いた。

「次に帰ってきたら、よく、言っておきます……」

ちょっと……というか、かなりだらしなさそうだけど、それだけで、普通の人にも見える。聡は判断しかねていた。

それにしても……西日があたるせいか、この部屋の中は暑い。いったい何度に設定しているんだろう。

コートは玄関ドアの外で脱いでいたが、寒い学校に対応した格好をしていた聡はパンツスーツの上着を着ているのもつらいほどだった。将といえば、とうにブレザーを脱いでいた。

「ちょっと失礼します」

といいながら聡はスーツの上着を脱いだ。

瞬間、ニットだけになった胸に鋭い視線を感じた。むずがゆいほど粘りつく視線に聡は顔をあげた。そこには義父の顔があった。

瑞樹の義父は、聡と目が合うと、パッと視線を逸らした。

「家での瑞樹さんは、どんな感じなんですか?」
「は?」

義父は赤い顔の中にある充血した目を見開いた。瑞樹に似ていない一重瞼は、明らかに血のつながりがない証明となっている。

「ああ、……優しくていい子ですよ。……親思いで」

取り繕った答え。さっきは『よくわからない』と言っていたのに。

酒に酔っているのか、本能に素直なようだ。義父の視線は、さっきからニットの下で大きく膨らんだ聡の胸ばかりに集中している。

手で覆い隠すか、背中を向けるたくなるのを聡はぐっと堪えた。しかし、まだ決定打ではないように思った。

聡は急に立ち上がると、

「こちらが瑞樹さんのお部屋ですか」

と閉じた襖を開けた。その奥には6畳間があり、瑞樹のものらしき学習机と椅子が見えた……。

「アッ!」

義父は立ち上がった。急に動こうとしたのでテーブルに腰があたり、その上の茶が激しく揺れてこぼれた。

それにかまいもせず、襖に近寄ると

「勝手にあけないで下さいッ!」

と、ぴしゃん、と閉めた。

 
 

  
家庭訪問が終わって、タクシーを拾ったときには、すっかり夜になっていた。

タクシーに乗っても二人はしばらく無口だった。先に口を開いたのは聡の方だった。

「将……。さっきの……見た?」

「……椅子の上にあった手錠だろ。見たさ」

「やっぱり……なのかな」

呟く聡に、

「絶対だろ」

と将は答える。

聡は、さっきの……瑞樹の家を辞した際のことを汚らわしく思い出す。

瑞樹の家の玄関は狭かった。

狭いだけでなく、どうやら瑞樹の母のものらしき靴がずらりと並んでいて足の踏み場もないほどだった。

だから、聡は松葉杖の将を先に外に出した。

すると、瑞樹の義父は、急に聡の肩をポンポンと叩いたのだ。

……さっき出会ったばかりの人だ。

聡は特に親しくない人に体を触られて平気なほど、人懐こくない。

「何でしょうか」

それでも教え子の父兄だから聡は礼儀をもって振り返った。

義父は好色そうな目で、聡のパンツスーツの胸や腰のあたりに視線を這わせながら言ったのだ。

「センセイ、いい体してますねー」

何を言い出すのか、と思った。

しかし、こういうことを褒め言葉だと思っている輩かもしれない。聡はあいまいに笑った。

「こんな色っぽい人がセンセイだなんて、いい世の中ですねえ……。またぜひ遊びに来てくださいよ。ねえ」

といいながら、聡の尻をするりと撫でたのだ。

それは、極めて自然に当たったかのようだった。しかし、当たったにしては指が柔らかい形で尻に添っていた……。聡はぞくっとした。

若い女教師だと思って舐められているのである。

 
 

  
……このことからも、瑞樹が語った家庭の状況というのはウソではないらしい。

聡は考え込んだ。あんな家庭状況を知ってしまったからには、人道的に考えて、あの家に瑞樹を帰すわけにはいかないだろう。

親類も遠いとなると、施設にお願いするしかない。さりとて、母親には言えない状況で、施設にお願いできるだろうか。

「やっぱり、しばらく、俺んちに置いとくしかないよね」

将が、現在実施中の暫定的な案を肯定すべく、聡に問い掛けた。

「うーん……。そうね……。でも将もいつまでも入院ってわけじゃないんでしょ」

「うん、この分だと退院早まるよ。早かったらあさって土曜日だって」

将が少し嬉しそうなのは、入院生活から解放されるからだけでは、当然ない。

「そっかー……」

「だから、俺を聡の部屋に置いてよ」

「……」

いつまで続くかわからない暫定状態。聡は他のパターンを無理やり考えてみた。

将の部屋に瑞樹と将が一緒に暮らす……絶対嫌だ。

聡の部屋に瑞樹をしばらく置く……聡も嫌だし瑞樹も来るはずがない。

やはり将の提案を受けるしかないのだろうか。

聡はため息をつきながら、心のどこかがフワフワと浮き立っているのを感じずにはいられなかった。

第109話 信頼

将は思い切って話を切り出すと、本題を一気に話した。

瑞樹のお腹の子の本当の親は、鑑別所に入っている前原か、瑞樹の義理の父のどちらかだということ。

そして瑞樹は小5から義理の父に犯され続けていること、そして幼少の頃から虐待を受けてきた瑞樹の家庭環境……。

聡はだまって将の話を聞いていた。

その内容のあまりのどぎつさに、顔が徐々にこわばっていくのがわかった。

「……アキラ、だから、せめて俺が入院している間だけ、マンションにアイツを泊めてやることにしてるけど、でも……」
「わかった」

意外にも聡の返事は冷静だった。逆に将は心配になる。

「俺の女はアキラだけだから」

不安が消えない将は、念を押した。

「うん……」

将の不安どおり、隣に座る聡の頤はどんどん下を向いていく。

「……アキラ?心配?」
「ん……」

聡は顔をあげると一瞬将の顔を見た。

そのときの聡の表情は、巷で人気のあるうさぎや猫のキャラクターを思わせるような、無表情で……目だけが何かを言いたげだった。

すぐに下を向くと、

「将の気持ちは心配してない。だけど……」

ゆっくりと語り始めた。

「ごめん、私、葉山瑞樹さんの言ってることが本当かどうか、まだ信用できない……」

将は当然だと納得する。瑞樹のせいで、輪姦寸前のひどい目にあったし、ついこないだもウソをつかれているのだ。信用できなくて当然だ。聡は下を向いたままふっと笑うと

「教え子を信じられないなんて、ダメ教師だね」
「アキラ……そんなことないって」

将は寄りかかったまま聡の頭に手を置くと、髪をくしゃっとしたまま、自分の肩へ引き寄せる。聡は無抵抗に、将の肩にもたれるように一緒にベッドに寄りかかった。二人寄り添ってベッドにもたれかかる。

「アキラ、……ごめんな。気分よくないだろ」

聡は無言で首を振ると、付け加えた。

「別に、将と葉山さんが、同棲するわけじゃないし……」
「アキラ……」

「だけど、仮に、葉山さんの話が本当だとして……将が退院したらどうするの……?」
「そうだな……」

将は、聡の髪を撫でながら、空中に視線を遊ばせていたが、ハッとして、寄りかかっていた上半身を起こした。

「そうだ、アキラ!」

そしてまだ寄りかかっている聡を振り返る。

「退院したら、俺たち一緒に住もうよ!」

けだるい雰囲気で寄りかかっていた聡は、将の突拍子もない提案に、目を丸くした。

「将ってば、何言い出すの?」
「俺んちに、瑞樹が住んでさ、俺はアキラんちに住むの。これって名案くない?」

将は、思いついた計画を意気揚揚と聡に話した。

「ええー、そんなのありえないでしょ」
「なんでー、ぜんぜんアリじゃん。俺とアキラは愛し合ってるんだし」

「何いってるのよ。教師と生徒の同棲なんてありえないで……キャ」

将は、またいきおいよくベッドに寄りかかると、聡をぎゅっと抱き寄せた。そして再びキスする直前のような至近距離に顔を近づける。

「俺……前から思ってた。アキラと暮らしたいって。アキラと1つ屋根の下、いっつも一緒にいられたらって……」

それだけ言うと、将は聡の肩に顔をうずめるように抱きしめた。

「これってチャンスじゃん」
「ちょっと、待ってよ!将!」

聡は、抱きついた将を思い切り振り払った。ちょっと力が入りすぎたらしい。左足が動いたのか、将は一瞬顔をしかめて

「イタタ……」とうめいた。
「……大変、大丈夫?」

聡は、ベッドの上でおろおろと、将の顔とギプスの足を見比べた。

「大丈夫。ちょっと動いただけ。……アキラ、俺と暮らしたくないの?」
「そういう問題じゃなくて!」

聡はそういいながらも、将と暮らしている様が一瞬にして頭に広がるのを感じた。

朝から晩まで、将と一緒にいられる。

毎日、将と一緒に目覚める。

聡が作った料理を将が食べる。

萩の実家のときのように二人で並んでキッチンにたつのもいい。

きっと将はコーヒーを淹れてくれる。

将の隣で一緒にテレビを見て笑う。

将の隣で寝れる……。

寝る、といえば当然……。

たぶん一緒に住んだら絶対歯止めが利かなくなるだろう。想像はポン菓子のように一気に膨れ上がり、聡はハッとした。

――何、私ってば、現実感のない少年のたわごとを本気にしてるんだ!

とプルプルと頭を振る。

「アキラァ?……さては、またエッチなこと考えてただろ」

聡の顔を観察していた将が笑い声で指摘した。

「や……そーじゃなくて。そうじゃなくて」

聡は、あわてて反論したが、急に教師の声を取り戻して

「……家庭訪問してみる」

と発言した。まだ将のベッドの上だ。

「ハ?」

いきなり教師モードになった聡に、将は目を丸くしてキョトンとしている。

「葉山さんの自宅を訪問してみる。……それで、あのコが言ってることが信じられるか確かめてみる」

聡は、乱れた髪や服を正しながら、宣言した。

とりあえず、彼女の言動を確かめることが先決だと思っていた。

 
 

  
葉山瑞樹の家庭訪問は、木曜日になってしまった。

風邪で早く帰っていた先週の仕事を火曜、水曜で片付けなくてはならなかったからだ。

当日は放課後の補習を休みにして、授業が終わると聡はさっそく瑞樹の自宅へ向かって学校を出た。

1月の夕方4時すぎは日没間近で、玄関を出るなり暖かそうな西日の色に似合わない北風が、聡に吹き付けた。その冷たさにマフラーを顔までずりあげながら校門を出たところで……。

「ワッ!」

急に背の高い人影が聡の前に立ちはだかった。眼鏡がキラリと反射して足が4本ある?

「……、ギャーッ!」

逆光で顔も見えず、聡は思わず大声を出して、腰を抜かした。

「バカだなあ、俺だってば、俺」

声に目を凝らす。……将だった。松葉杖をついた将がなぜか眼鏡をかけて、そこにいたのだ。ダッフルの下は制服を着ているようだ。

「ちょ、ちょっとおどかさないでよ」

聡は深いため息をついて、次の瞬間『ん?』と気付いた。

「将、なんでこんなところにいるのよ。病院は。しかも何で眼鏡?」
「ああ、これ?優等生に見えるだろ」

将は、黒ぶちの四角いフレームの眼鏡をはずした。裸眼1.2の将だから当然、ダテめがねだ。ピアスもはずし、制服もいつもと違って、ピシッと着ている。

「足は!病院はどうしたのよ!」
「テストってウソついて、外出許可もらった」

将はニヤっと笑うと舌を出した。

「なんで、そんな必要があるのよ」
「アキラが心配だったから。学級委員役として葉山さんの家庭訪問に同行しまーす」

「そんな茶髪の優等生なんていないと思うけど」
「えー、これぐらいのカラー普通だぜえ」

聡はあきれながらも、少しだけ胸がじん、とするのを押さえられなかった。

「俺も、アイツが本当のこと言ってるのか、ちょっと自信ないし……確認したいってのある」

と言っているが、再婚相手の娘に手を出すような常識に欠けた男と、ひょっとして二人になるかもしれないから、と心配してくれたのだろう。

「でも……足は大丈夫なの?」
「どうせ、本当は1週間で退院できるんだから、かまわないよ。リハビリだって土曜からやってるし。さ、いこうぜ」

最近は手術の直後からリハビリをさせられると、聡も聞いたことがある。

将は、ちょうどやってきたタクシーに向かって、手をあげた。

第108話 甘い時間

「鷹枝くん、元気?」

病室のドアが開いて、看護士の山口が顔を出した。

もう月曜日、入院して5日目の夕方だ。

「へいへい、と」

初め、聡がいつ現れるかと、ノックがあるたびに期待していた将だが、聡の風邪は思ったよりひどかったらしい。

この土日も『伝染るといけないから』とメールがあって、将の病室を聡が訪れることはなかった。

この時間だったら日勤を終えた山口だろうと、と将はパソコンの画面から顔もあげなかった。

「もうっ、可愛くない。いいもの見せてあげないわよっ」
「ハイハイ、何ですか~……、……!!」

ようやく顔をあげた将は、嬉しさのあまり口がパクパクしてしまった。ドアのところには、聡が立っていたのだ。

逢いたくて、触れたくて、声が聞きたくてたまらなかった聡。

「アキラ!風邪治ったの?」

将は自由のきかない体をベッドの上から乗り出すようにして、聡に声をかけた。本当は駆け寄りたい。

「これ、何ですか、先生を呼び捨てで」

咎める山口を

「いいんですよ。いつものことですから」

聡がなだめる。少し低めの、でも温かみのある声。将がどんな音楽よりも聞きたかった声だ。

「アキラ、こっちこいよ。山口さん、ありがとね。もう帰っていいから」
「んまー!なまいきっ」
「どうもすいません。あの、よろしかったら一緒に食べませんか?」

と聡はお見舞いが入ったケーキ店の紙袋を指差した。

「ええー!山口さんには明日、あげるからサ」

早く聡と二人になりたい将は、追い払うように山口を帰してしまった。

「将ってば……。山口さんに失礼よ」
「アキラ、ここに座れよ」

咎める聡にはまるでおかまいなしに、将は腰をずらして、ベッドの自分の隣の空間を少しあけた。

「もう……。痛みは治まったの?」

聡は苦笑しながら、将の隣に腰掛けた。

将はそのぬくもりが100年ぶりのように思えた。

殺風景な病室も、聡がいるだけで、華やぎ、寛ぎの空間になる。

その効果はたとえ見舞いの花で病室が埋め尽くされようと、かなわない。

だから、将は問いかけにまったく答えずに、いきなり聡の肩を抱き寄せた。そして素早く唇を重ねる。

柔らかな聡の唇、学校帰りだから塗りなおしたのであろう口紅がついている。

将はべとべとしたそれが付くのを気にもせずに、聡の唇をむさぼった。

「ん……、ダメ。誰かくるかも」

将の強い匂いに包まれた聡はクラクラしそうになりながら、将の肩を手で押し戻した。将の唇に、ナチュラルピンクの口紅がべっとりとついている。

「大丈夫だってば。夕食まで誰もこないよ」

再び将は聡を強く抱きしめて、続きをした。聡の唇から舌を挿し入れる。口の中で聡の舌と将のそれがからみあう。湿った粘膜の官能的な感触。

「コラ……。なあに、この手は」

聡が小さくとがめる。将は聡に深い口づけをしながら、服の上から聡の胸のふくらみに手を置いているのだ。

「いいじゃん。俺、もう限界……。アキラが会いにきてくれないから」

左手で聡の肩を抱いたまま、右手は聡の胸をとらえて、大きく円をえがくように揺らす。

聡は、ブラジャーに守られた先端が硬くなり、心臓が甘く動き出すのを感じた。

「あれに毎日挑発されてるからさぁ」

早くも頬を紅潮させ始めた聡の耳元に囁く。聡がそっちに目を走らせると、そこには大きなギプスに覆われた将の左足があった。

「もうっ。なあに、あれ?」

ギプスには、マーカーで、さまざまな落書きと共に、ピンク色の乳首もなまめかしく、女のヌードが描いてあった。しかも矢印で『アキラ先生』と示してある。

「ユウタのヤツが描いた」
「もう……」

といいつつも、聡は頬を紅潮させて、将の顔をみてフフっと笑った。

「……口紅、ついてる。将、女装も似合うんじゃない」
「もうアキラ、ムードないなー」

将も聡のふくよかな胸の感触を服地の上から、今一度確かめるように揺らすと、聡の瞳を見て笑った。

二人は笑いあうと、もう一度軽くキスをした。

 
 

 
まもなく夕食時間になったが、将があまりに頼むので聡は、病室にいることにした。

看護士が夕食を運んできたときはさすがに傍らの椅子に座りなおしたが、看護士がドアの向こうに消えた今、また将の隣に座っている。

まるで会えなかった5日間のぬくもりを取り戻すかのように、将は聡に触りたがった。

聡も……パジャマごしに触れる将の固い筋肉や熱い体温、若いけど低い声を感じて、自分がいかにそれを恋しがっていたかを実感した。

理性で押さえていたけれど、逢えば逢うほど歯止めが利かなくなっていく……。

まさにベタベタするカップルの典型。自嘲しながらも聡は幸せに酔いしれていた。

「アキラ、いる?」

将が、トレーの上の酢豚を示した。実は……お腹が少し空いていた聡は、トレーの上に載っている夕食が旨そうに思えていた。

「じゃあ、一口だけ、ちょうだい」

将は、メニューの酢豚を箸に乗せて、聡のほうに向けた。

「ほい、あーん」

何回か将が口に運んで、舐った箸。当然、間接キス。あんなに唾液まみれの深い口づけを何度もしているのに、口をあけながら、聡は少し緊張した。

「アキラ、何赤くなってんの?」

酢豚を聡の口の中に運んだ将がいたずらっぽく指摘した。

「さてはエッチなこと想像してただろー」
「もー、そんなんじゃないってば!」

聡は肉を素早く噛むと、ますます赤くなりながら反論した。
 

 
 

「アキラ、もういいの?」

将は食事を続けながら聡に訊いた。何回かおかずをわけてもらっている。

「うん。あとはおうちで食べる」
「ここに泊まっていけばいいのに」

実際、個室の病室は、付き添い用のベッドを入れることもできるのだ。

「そういうわけにもいかないでしょ。明日も学校あるし。……ところで、将こないだ電話で言ってた、話しておきたいことってなあに?」
「ああ……」

食欲旺盛だった将の箸が少し止まった。

将は、少し残っていたおかずを全部たいらげてしまうと、ナースコールをした。インターホンに「終わりました」という。

ということは看護士が片付けに来る。聡はあわてて、ベッドから降りた。

……金曜日の夜。瑞樹が帰ったあとで、将はどうしても聡の声が聞きたくて電話をかけたのだ。

『話しておきたいことがある』と伝えたのはそのときだ。

夕食が片付けられると、将は聡をまたベッドの上に招いた。

両腕で聡の肩を抱き寄せる。しかし、今度は片方の肩に自分の頭をもたれるように聡に体重をかけた。

「なあに? 急に甘えん坊になってない?」

将の体重を感じた聡は、将の髪の毛に自分の指を埋めた。

――入院してよほど寂しかったんだろうか。

聡はすがりつくように体重をかけてくる将の髪や背中を優しく撫でた。

「アキラ……、何があっても俺のこと信じてくれる?」

将は、聡の耳に唇を押し付けるように、囁いた。

「なあに?突然」

聡は、笑いを含んだ声で答える。

将は体を離すと、今度は聡の両肩をつかんで、目と目を息がかかるほどの至近距離で合わせる。まるで口づけする直前のようだ。

びっくりして将を見つめる聡の瞳は、至近距離で見ると黒糖飴のような色だった。その瞳に将は誓うように宣言する。

「信じて、アキラ。俺、アキラしかいないから」

それに対して聡は、真剣に見開いた将の目は、間近に見ると、意外に大きいことに今気付いた。

どちらかというと将の目は、男らしい切れ長だと思っていた。二重瞼の甘いマスクでもあるのに、そう見えないのは、人を冷たく睨みつけるような表情によるものなのだろう。

「俺、自分から、信頼失うようなことしてるかもしれないけど……」

将はいったん、悲しげに目を伏せた。が、次の瞬間、

「だけど、信じて」

と再び目を見開いて聡の瞳を見つめた。

「ど……どうしたの?いったい」

聡は肩に置かれた将の手をそっと解きながら問い掛けた。

将は、そのまま、体を離すと聡を隣に置いたまま、リクライニングになったベッドに寄りかかった。遠い目をしている。

「将……」
「アキラ、瑞樹のことなんだけど」

将は重々しく話し始めた。

第107話 罪

将は最初それを、聞き違いかと思った。次に、オヤジ世代の男、という意味なのかと思った。だから、

「どこのオヤジ」

と訊き直した。

瑞樹は一瞬、将の目を見て、息を飲んだ。白い喉がごくっと揺れるのが見える。が、すぐに視線を下にはずした。そして

「うちの……オヤジ」

と呟いた。将が『えっ』と言う間もなく、

「義理の父親」

と付け足すと、また視線を将の瞳に戻した。見開いたその目からは、大粒の涙が流れ落ちた。

それはもはや粒の形もとどめないほど大量で、頬には涙の筋が光って見えた。

将は……出そうとした声がひっこんでしまい、それが腹の底に鉛のように重く沈んでいくのを感じた。

舌はおびえたように上あごにくっついてしまったっきりだ。

しかし、瑞樹のほうは、涙を流しながらも、大きな秘密を思い切って将に分け与えたせいで多少は楽になったのか、話を続けた。

「あたしね……、小5からオヤジにずっとヤられてるんだ……」

逆に大きな秘密を与えられてしまった将は、その重さに辟易していた。

たしかに、以前にも瑞樹自身から

『義理の父親に迫られて困っているから家に帰りたくない』

と打ち明けられたことがある。

だけど、実際に関係があったとは……しかも小学生の頃から。

もちろん、義理の父親だから、瑞樹と血のつながりはない。

だけど、瑞樹の母親と結婚している男が、その娘に手を、本当に出すなんて。

あまりに長すぎる間を置いて、将はやっと掛ける言葉を探し出した。

「おかあ……母親には……?」

瑞樹は諦めたように首を横に振った。ウィッグの黒髪が左右にゆらゆらと揺れる。

たしか瑞樹の母親は、小さなスナックを経営している、と聞いたことがある。

「……言える訳ないよ。……あのヒト、オヤジにぞっこんだもん……。オヤジと結婚してようやく母親らしくなったぐらいだし……」

瑞樹はさらに、小さい頃から母親に虐待を受けていたことを話した。

瑞樹が物心つく前に離婚した母親は、手が掛かる幼児をもてあまして、しばしば虐待に及んでいたというのだ。

幼かった瑞樹は、たびたび

「お前のせいだ。お前のせいでっ!」

と大酒を飲んだ母親に殴られ、蹴飛ばされた。食事もろくに与えられなかったことも多い。

何が『瑞樹のせい』なのかわからなかった瑞樹だが、成長するに従って、母親は、男に逃げられるたびに荒れるのだ、ということが分かってきた。

そして、瑞樹が小5のとき。寂しかった母親は、ようやく男と結婚することができた。

母にとって年下だった男は、瑞樹の母親と結婚するなり仕事を辞め、家でぶらぶらしているという『ヒモ』に徹するのだが、瑞樹にとってはこの男が来たおかげで、母親の暴力が止んで、瑞樹にも優しくしてくれるようになった、と初めは感謝していたほどなのだ。

しかし、瑞樹が小5の夏。男、つまり新しい父は家にいた瑞樹を犯したのである。

 

 
そんな告白を聞きながら、なぜか将はぼんやり瑞樹のウィッグの毛先を眺めていた……。

考えが……そこにいかないようにコントロールしているのに、どうしても行ってしまう。

そこ、とは。瑞樹の義父同様、自分も瑞樹を、瑞樹の性を弄んだ共犯者なのだ、という事実。

毎晩のように、瑞樹のその部分に欲望の塊を挿し入れて、自分を満足させていたという、現実。

それはいつのまにか将の背中にのしかかり、将の心を責めた。

 

 
9月に将のマンションを追い出された瑞樹は、再び援交などを繰り返して、家に戻らないように努力していた。

同じようなことをするわけだが、援交相手は少なくともお金をくれる。エイズが怖いのか、たいてい避妊もしてくれる。

それに対して義父は、成長した瑞樹に、どんどん変態行為を要求するようになってきた。いわゆるSM行為である。まだノーマルで金をくれる分、援交のほうがマシだったのだ。

10月に前原から声をかけられるまでそれが続き……10月から11月に前原が逮捕されるまで、瑞樹は前原の家の離れで過ごした。

前原の家を急に追い出された瑞樹は、将に髪を切られたこともあり、嫌々ながら家に戻っていたのだ。

受胎したのはおそらくその頃だろう、と瑞樹は言った。

そんなわけで、瑞樹が妊娠した体を抱えて、スキー研修に参加した理由は、1つは研修中は義父と離れられることだった。

もう1つは。

「スキーで、できれば子供を流産したかった」。

もういい。やめてくれ。将は顔をこわばらせながら、心の中で叫んでいた……。

 

  
気がつくと、二人とも沈黙していた。

瑞樹の涙は乾いていた。今まで背負ってきた重いものを吐き出したせいか、うつむきながらも、ほんのすこしホッとしたようすが見える。

逆に将は、もてあますほどの事実を聞かされて、またその事実でいやがおうにも自分の罪を思い出し、その重さにあえいでいた。

瑞樹を弄んだ罪。そしてそんな瑞樹を放り出した罪。

瑞樹の苦難の半分は自分の責任だ――将は良心が繰り出す責め苦に、息もたえだえになりそうなのをかろうじて持ちこたえていた。

せめて自分の罪を軽くしたい。いつしか、それだけを願っていた将は、瑞樹に答えた。

「わかった……。サインはするよ」

瑞樹は、目を見開くと

「ありがとう。……ごめんね。本当にごめんね、将」

と再び涙をこぼした。

『謝るな、謝らないでいい』。将は、心の中で懺悔していた。

瑞樹に……いまさらだけど、何かできることはないのか。

将は、とにかく自分の抱えた罪の重さを軽くしたくて、必死で考えた。

「今は……どうしてるの?」
「小山にお婆ちゃんがいるんだ……。今週はそこにいさせてもらってる。

休みのときは、できるだけ、そこに行くようにしてるから……でも、来週は学校があるし」

「そうか……」

相槌を打った次の瞬間、考えが浮かぶ。

将は、瑞樹に、傍らの引き出しをあけさせた。そこにはマンションのキーや車のキーがついた、キーホルダーが入っていた。将はキーホルダーからマンションの鍵だけを抜くと瑞樹の手の中に落とした。

「俺、2週間も入院するらしいから、その間、俺のマンションに泊まれよ」

瑞樹は丸く見開いた目で、手の中の鍵と将の顔を見比べながら、

「……いいの?」

と呟いた。将はうなづいた。

「これぐらいしか、お前にしてやれることないし。……金は、明日病院のATMで下ろしておくから」

それでも将は瑞樹の目をまともに見ることができない。

だけど、瑞樹のその大きな双眸に、涙が盛り上がるのが視界の端に確認できた。

「将……、ありがとう。ありがとう……、ごめんね」

瑞樹は鍵を握り締めた手で、溢れてくる涙をぬぐった。

それきり、安心して力が抜けたのか、しばらく嗚咽していた。

「そんなに泣くなよ……」

瑞樹にティッシュを手渡しながら、まだ飲み込む唾に、異様に苦い味を将は感じていた。

自分の罪はまだ消えたわけではない。苦しむ心は、いつしか聡を求めていた。

聡に会いたい。聡だったら自分の苦しみを受け止めてくれるだろう。自分を温かく包んでくれるだろう。

そう思う反面、聡を思えば思うほど、背負った苦しみが重みを増していく……そんな気がするのも、また事実だった。

第106話 入院中(2)

病室に入ってきた瑞樹を将は黙ってにらみつけた。

瑞樹は最初、将の顔をその大きな目で見たが、将の形相を見て下を向いた。ウィッグの長い髪が顔の両側を覆い、瑞樹の表情を隠した。

しかし、出て行くわけではなく、閉じたドアの内側に佇んだままだ。

沈黙が続いた。

「……何の用だよ」

先に声を出したのは将のほうだった。

下を向いていた瑞樹は、将の声に反射的に顔を上げた。

しかし、いつもの、人をバカにするような冷たい表情でも、将だけに見せる媚びた笑顔でもない。

顔の筋肉に力が入っていないような……ニュートラルな顔だった。

呆けたようなその唇から漏れた言葉は

「お金を……貸して」

だった。

将は、にらみつけるのをやめて、下を向いて一瞬、ハッ、と吐き出すように笑った。

そしてもう一度瑞樹のほうに顔を向けた、

左目だけ目を細めるように眉根を寄せた、人をいぶかしがりながら、さげずむ表情。将がよくする顔だ。

「お前さ、そんなこと頼めるギリかよ」

将の言葉にも、瑞樹は呆けた顔をやめない。

「アキラにとんでもないウソついてよォ! どういうつもりなんだよ」

聡の名前を聞いて、瑞樹はようやく、再びうつむいた。しかし返答もしないで黙ったままだ。

瑞樹がだまったままなので、将は瑞樹を、にらみつけながら観察した。

うつむいているが、震えるわけでもなく、どことなくふてぶてしい感じだ。

将はベッドにいる自分がもどかしく感じた。

動けるなら、肩をゆすって威嚇するなり、手をひっぱって病室の外に追い出すなりしたい。

しかし、昨日手術したばかりの左足を固定している将は、彼女をにらむしかできない。

たぶん、貸してほしい金の使い道というのは中絶費用だろう。

イライラした将は、むしょうに煙草が吸いたくなった。

「誰の……だよ。腹の」

と、この状態にいらつく将は多少譲歩して、問い掛けた。

なのに瑞樹は答えないままだ。……時間を稼ごうとしているのだろうか。将のイライラは頂点に達した。

「あのさ。出て行ってくれない。俺、ムカついて気分悪いし。てかお前が男だったらブン殴ってる。……金は貸せないし。自分で援交でもすれば」

言ってしまって、将は自分の言葉の冷酷さに、ややビクついた。

しかし……瑞樹はふてぶてしい女だということを将はよく知っている。

これぐらい言わないと、わからない。と将は自分の良心に言い訳した。

瑞樹は、やっと顔をあげた。その目に涙が溜まっている。すがるような顔だ。

「将、お願い。センセーにウソついたのは謝るよ」

声を出したとたん、涙がぼろぼろとこぼれる。大量に流れたそれを両手でぬぐう。

そんな、か弱い女のようなポーズを、瑞樹がするのを初めて将は見た。

「……だって、だって。センセーが……。将を取ったセンセーがにくたらしかったんだもん……。困らせたかったんだもん」

しゃくりあげ、嗚咽をまぜながらの泣き声は震えて、いつもの落ち着いた瑞樹の声とかけ離れている。

表面はそんな瑞樹を睥睨しながら、将は内心動揺していた。

「私、……将のこと、本当に好きだったから……」

震える声でそこまで言うと、瑞樹はしゃがみこんでしまった。

顔を覆っているので表情は見えないが、肩を激しくふるわせている。ときどき嗚咽と、しゃくりあげる声が聞こえる。

将の中で罪悪感、というものが顔を出す。それは、いつも瑞樹に対して抱えていたものだ。

愛情もない瑞樹を、性の発散の対象としていたことに対して……。

毎日のように瑞樹を抱いていた頃は、それはまったくといっていいほど感じなかった。

避妊しているし。俺は義務はきちんとしている--と、うそぶいていた将。

だけど、聡を愛したことによって……そんなふうに女を排泄道具のように抱いたことが、いまさら罪の意識となって発作のように襲い、将は苦しんだ。

そして今。『どっちもどっちだったから』と無理やり覆い隠していたそれが、将の心を動かしていく。

しかし将は、嗚咽する瑞樹をもてあましていた。

聡を複数の男に襲わせようとしたり、聡に嘘をついたりしたことは、やはり許しがたい。

だから、将は瑞樹の体をいわばオモチャのように使ったことについて、謝れないでいた。

将は、瑞樹の姿を見るのがつらくなって、そっぽを向いた。

「金って……、中絶費用?」

瑞樹をみないまま、宙に問い掛けるように訊く。

「……ウン」

瑞樹はあいかわらず嗚咽しながら答えた。

「いくら、かかんの……?」
「15万ぐらい」

将はそっぽを向いたまま、ため息をついた。

高校生には高額な金だ。しかし将には最近、儲かった株がある。それを現金化すればたいしたことのない額だ。

将は、瑞樹をもう一度見据えた。

「もう、アキラに変なことしようとか考えるなよ」

瑞樹は立ち上がった。泣きはらして、ぐちゃぐちゃになった顔だ。マスカラがとれて下瞼にくっついている。

将は、瑞樹がそれを丹念に塗る動作を思い出した。

瑞樹はマスカラがとれたままの顔で、深くうなづいた。

「絶対、だぞ」

将は念を押した。

「わかった……」

瑞樹はうなづきながら、将のベッドに近寄ってきた。

将は思わずあとじさりしたくなったが、あいにくベッドから動けない。

「それで……将、もうひとつお願いがあるんだ……」
「な、何だよ」

瑞樹はベッドの脇に立った。目線は将と同じぐらいの高さにある。

「中絶の書類にサインしてほしいの」

将は、眉根を寄せて、瑞樹を見つめた。瑞樹は泣きはらした顔のまま将をじっと見ている。必死な表情だ。

――何をいうんだ、この女。

「何で……俺がそんなことする必要があるんだよ。サインぐらい相手にしてもらえよ」

将は瑞樹から目を逸らすと、冷静に言った。

「……してもらえないんだもん」

将はおそるおそる……しかし表面上はそんな様子を見せず、瑞樹を見やった。

瑞樹は、またうつむいている。その目から、雨だれのように涙がポタ、ポタ、と下に落ちていく。

「サインしてもらえないって……、お前、相手誰なんだよ」

瑞樹は歯を食いしばったような顔で、顔をあげた。涙が頬をつたう。

すこし間をおいて、覚悟したように相手の名前を告げた。

「前原……」

その名前を訊いて、将は納得した。カンベツに入所している前原に、たしかにサインは出来ないだろう。しかし瑞樹は、思いつめた声でさらに続ける。

「……か、オヤジ」