第312話 目撃

「あ。あたし学校に忘れ物しちゃった。先に帰ってて」

「えー?みな子ぉ?」

改札の前で、みな子は急に友人のすみれを置いて学校へと引き返した。

3時すぎに下校したものの、駅前のマックですみれの恋話を聞いているうちに時刻はもう4時を大きくまわっている。

すみれは、クリスマス・イブの今日は、付き合っている先輩のバイトが終わるのを待って、イルミネーションの街を歩くそうだ。

しかし、この大雪だ。すみれはマックの窓から恨めしそうにやまない雪をのぞいていた。

だが、相手がいるならいい。

イルミネーションが仮にまったく見えなかったとしても、寄り添って歩けるんだから。

みな子は、すみれに軽く手を振ると、止まない雪の中、学校へと引き返した。

忘れ物は、英語のプリントだった。

さっき、聡に『じゃあもう少しレベルの高い過去問を探しておいてあげる』と言われていたのだ。

みな子はこのところ……まるで聡に張り合うように英語の勉強にせいを出している。

もともと得意だ、ということもあって、やればやるほど面白い。

本当は歴史……こと近代史のほうこそ苦手だからもっと時間を割く必要があったのだが、ついつい英語ばかりをやってしまう。

そして、市販の問題集をやるよりも、聡の解説が聞ける分、聡から問題をもらうほうがより実力がつく手ごたえを感じた。

憎らしい恋のライバルだけど、利用している感じは悪くない。

今日も、みな子は聡に英作文の添削を頼みながら、こっそりとマタニティの腹を盗み見ていた。

――早く、あのお腹が醜く脹れて、他の男の子供を妊娠していることがあきらかになればいい。

……突き詰めればそんなことを思っていたのだ。

北海道のロケが長引いて、今日の終業式に出席できなかった将。将が聡をまだ好きなのは直感でわかっていた。

だけど。聡のお腹が大きくなるにつれて、気持ちも冷めていくだろう……。

それを期待するみな子だが、今日の段階で聡の腹はまだあまり脹れているように見えず、マタニティも単なるAラインのワンピースに見えて、みな子はがっかりした。

降りしきる雪の中、傘をさして、雪道を滑らないように学校へ引き返すみな子は、この1時間やそこらの間に、あたりがかなり暗くなったことに気付いた。

時計をみたが、まだ4時30分をすぎたばかりだ。

ようやく学校にさしかかったそのとき、みな子は校門を出てきた聡が、駅とは反対方向……つまりバス停のほうへ歩いていくのを見た。

「……先生!」

駆け寄ろうとしたみな子は、あと少しというところで、立ち止まる。

聡の身体をヘッドライトが一瞬眩しく照らし、直後に彼女のすぐ横に国産車が止まったからだ。

まもなく運転席のドアが開いて、背の高い男がでてくるのを見た。

その男は……みな子はその男に目が釘付けになった。

開いたまなじりに冷気が突き刺さるのもどうでもいいほど……。

 
 

「アキラ!」

車から出てきた男を見て、聡は目を真ん丸く開いた。

髪をニット帽ですっぽりと隠し、薄いサングラスをかけていたが、サングラスを取る前に聡は男の正体がわかっていた。

それはまぎれもなく、北海道から帰って来れないはずの将だった。

「……将!」

「ただいま……じゃない、メリークリスマス」

一刻ごとにその紫を濃くしていく夕闇に降りしきる雪。その中に微笑みながら将はたしかに佇んでいた。

「どうしたの!飛行機、欠航してるんじゃなかったの?」

将にかけよろうとした聡は、足元の注意を一瞬忘れてしまったらしい。

つるりと滑った身体が大きく揺れる。

「危ない!」

将はあわてて駆け寄ると聡の体を抱きかかえるように支えた。

聡がさしていた傘が、雪の積もった路面に音もなく落ちる。

「……セーフ。気をつけろよ、普通の身体じゃないんだから」

聡は、ひさしぶりの将のぬくもりに、学校のすぐ近くだというのも忘れてしばらくしがみついていた。

抱き合う二人に、さらさらと雪がかかる。

昼間の、ふわふわした花びら状から粉状に変わりつつある雪は、冷え込んだ空気の結晶のようだ。

将は聡の肩に手をあててそっと身体を離すと、落ちた傘を拾って渡した。

「赤ちゃんはどう?動いた?」

コートとマタニティの上から、少しだけ膨らんだお腹をさがそうとした。

吐息が唇に凍りつきそうな寒さの中で、将の身体も、お腹をなでる手も確かに温かかった。

「将、どうしたの?信じられない……」

聡は答えもせず、お腹をなでる将の顔を呆けたように眺めていた。

「飛行機だけが交通手段じゃないでしょ」

将は微笑むと顔を上げて、聡の頬をいとおしげに掌で包んだ。

それはヘッドライトの光りの中、寒さでリンゴのように赤くなっているのがわかった。

聡は車に目を移した。

「は?福島ナンバー?」

驚く聡に、将はいたずらっぽく笑う。

「そ。レンタカー。ずっと、運転してきたんだぜー」

「えー?福島から?」

「それはあとで。寒いだろ、乗れよ。スタッドレスタイヤだから雪でも安心だぜ」

将は助手席のドアをあけると、聡を車の中に招きいれた。

車に乗ろうと腰をかがめると、聡の中では、わずかにお腹が存在を主張するようになっている。

将は、聡が持っていた傘を差しかけて聡が乗り込むのを見届けると、自分も運転席に乗り込んだ。

 
 

みな子は、その国産車が走り去るまで……一部始終をずっと見ていた。

晴れていれば、ここにいるみな子に声をかけるのが自然なほどの距離で……。

他人には、すぐには将だとわからない格好をしていたけれど、彼を恋するみな子にはすぐにわかった。

二人のほうは、車のヘッドライトに照らされた、空から大量にこぼれてくるような雪が壁になって、みな子は見えなかったらしい。

しかしみな子には、まるでスポットライトに照らされた舞台のように、二人が見えていた。

それを見る観客というよりは……雪の壁になり切ってしまったように、みな子は凍り付いていた。

……二人が、まだ、続いていたなんて。

抱き合う二人を見て、最初はまずその事実に息を飲む。

だが、聡への憎らしさが湧いてくる前に……聡のお腹をいとおしげにさする将をまのあたりにして。

みな子の中に次なる疑念が生まれる。

疑念は生じた瞬間に、確信となってみな子の心の真ん中で動かないものとなる。

……聡の、お腹の子供は、将の子だ。きっと……いや、間違いなく。

立ち尽くすみな子に、雪を含んだ風が一瞬強く吹き付けて、みな子は肩をすくめた。

第311話 未曾有の大雪(2)

一晩明けて24日。

いつもより少し早く起きてカーテンを開けた聡は、思わず口を丸くあけていた。

一面降りしきる雪で霜降りのようになったクリスマス・イブの街は、どこか日本海側の都市にいるようだった。

家々の屋根はいずれもこんもりと綿帽子をかぶったように白い雪が乗っかっている。

聡の部屋の狭いバルコニーにも軒から降り込んだ雪が10センチにも積もり、ミントの鉢は可哀想に雪に埋もれている。

せめてミントの鉢に積もった雪をはらってあげようと窓をあけた聡は、突き刺さるような空気に身震いした。

綿のように柔らかそうな雪とはまるで質感の違う湿った冷たい空気。

聡はいったん部屋の中に取って返すとカーデガンを羽織り、しまっておいたつっかけを玄関から持ってきてミントの雪を払った。

白い雪とミントの葉はまるで何かのデザートのような美しさだったが、放って置くと枯れてしまうだろうから。

パイプの手すりの上にも、こんもりと昨晩の雪が積もっている。

ほうきで手早くバルコニーの雪を履きながら、聡はその清浄な雪を思わず手にとりたくなる。

雪に手を延ばした聡は、手すりの下に見えた歩道を見て仰天した。

道はまっ白だった。

朝早い人が踏んで通ったあとが線状に残っているが、舗道にアスファルトの色は見えない。

車道にしても、轍に少々黒ずんだ色が透けてみるだけで、白い部分が大半だ。

東京がこんなふうになるのを、聡は見たことがなかった。

しかも雪は、まだ止むことなく、しんしんと降り続いているのだ。

 
 

聡の出勤時間には、雪の舗道は踏み固められた部分が増えていたものの、固まった路面と新雪との高さの差は20センチもあった。

つまり、長靴を履いていないと、新雪の部分は歩けない。

初めてここを通った人はさぞ苦労しただろうなあ、と聡は、去年北海道へ履いて行った靴で、踏み固められた雪を、ギュッギュッと慎重に踏みしめる。

妊娠5ヶ月の聡は転ぶわけにはいかないのだ。

降る雪の勢いはおさまらないものの、交通は昨日に比べると少しはましになっていた。

バスやタクシーは、ジャリジャリとチェーンの騒音を立てながら果敢にも走っている。

ニュースによればJRは日本海側から除雪車を運んでくるなどして、一部徐行運転を始めたものの、視界が悪くてダイヤは乱れっぱなしだという。

聡はチェーンをつけたバスに乗って、なんとか学校に出勤することができた。

今日は2学期の終業式がある。教え子たちに通信簿を渡さなくてはならない大切な日なのだ。

「ああ、アキラ先生。おはようございます」

「おはようございます。多美先生」

聡が職員用入り口にさしかかったとき、ちょうど多美先生たち屈強教師が校門に出るところだった。

ただし今日は竹刀でなく、おのおの大きなスコップを持っている。

「学校の前だけでも、雪かきです」

権藤が四角い顔をほころばせた。寒さで鼻が少し赤くなっている。

「私も手伝いましょうか?」

気を遣う聡に、

「アキラ先生は赤ちゃんがいるんだから、じっとしていてください」

と多美先生が降りしきる雪に目を細めながら笑ってみせた。

長いコートに毛糸の帽子を被った姿は、なんとなく彼をロシア人のように見せている。

聡はうなづきながら、こっそりと微笑んでしまった。

 
 

驚いたことに、この大雪だというのにほとんどの生徒が出席した。

それにはわけがある。

今年から卒業時の残留ポイントによって、キャッシュバック額に差がつくという決まりが加わったのだ。

自主中退者を増やす作戦が失敗に終わった学校側は、なんとか予算削減を実現すべく、そういう決まりを急遽作ったらしい。

生徒たちは不満ながらも、少しでもポイントを減らしたくない、と必死で学校に来るはめになった。

 

「ね、先生。赤ちゃん動いた?」

「先生、それマタニティ?」

HR前だというのに、チャミとカリナは職員室から離れようとしない。

少しでも暖をとりたいのだろう。この学校の教室には暖房がない。

晴れることの多い関東地方だから、窓を閉めて置けばサンルームのように温かくなり、暖房は必要ないともいえるが、今日のような日は地獄だろう。

スカートの下にジャージを着込み、見た目などどうでもよくなっている女生徒さえいる中で、この二人のミニスカートの下はどうやら生足らしい。

鳥肌が立ち、網目状に紅くなっていかにも寒そうな太もも。

それを見ると、聡は可哀想になって咎める気になれない。

聡はといえば、今日は初めて身につける冬用のマタニティの下に、パンツを重ねて着ている。

そのとりあわせは、まだお腹がさほど大きくなっていないということもあり、意外にお洒落に見えたらしくチャミは『カワイイ~』を連発する。

「センセイ、今日イブだね」

「ダンナさん帰って来るんだよね?」

若い女の子には、今日のイブの過ごし方はとても重要なのだろう。だから

「ううん」

と聡が答えたとたんに二人は職員室にいることも忘れたように、揃って『えー!』と大声をあげた。

聡はあわてて、シーと口の前に指を立てる。

「超さみしくない?」

カリナが不満げに顔を斜めにしている。

「お友達と過ごすから大丈夫よ」

聡は嘘をつき笑顔をつくる。嘘に慣れていく自分が一瞬だけひっかかる。

それにもだいぶ慣れたのがやるせない。

「そうだよね。ケッコンしてるんだし。イブは今年だけじゃないもんね。ずっとあるもんね」

チャミの言葉にうなづきながら、聡は本当の相手……将を思う。

朝のニュースでは飛行機はあいかわらず欠航しているらしい。

将から新しく連絡が入らないということは、北海道から帰れる目途も付かずに往生しているのだろう。

あるいはホテルかどこかにとまって寸暇を惜しんで勉強しているのかもしれない。

――今日は、もしかすると一緒に過ごせないかもしれない。

それは昨日から覚悟していた。なのにやはり寂しい。

来年。将と一緒にすごすクリスマスイブは果たして本当にやってくるんだろうか。

子供はもう引き返せないところに来てしまっていたが、将との未来については、あいかわらず聡は見通すことができないでいる。

 
 

全校集会と、通知表を渡してしまうと、2学期の終業式はおわり、解散になる。

だが、3年の進学希望の生徒は、残って自習をすることを許されていた。

ただあまりにも寒いので、いつもの教室に代わって今日は暖房が効く図書室を開放している。

教師たちは、自習する生徒たちの質問に答えるべく、職務をしながら午後も残ることになっているのだ。

学食から戻った聡は、1枚残った将の通知表をもう一度開いた。

英語だけは星野みな子に首位の座をあけわたしているものの、他はすべて学年でトップになっている。

だが……あいかわらず東大には遠い。

北海道ロケに入る直前に受けたS予備校のセンター・プレ試験では、足切りですらきわどいレベルだった。

英語の成績が一番厳しいのは……やはり準備時間不足なのだろうか。

しかし、学校に来ていなかった将は、つい最近まで英語はやっと中学生レベルだったのだ。

そこから考えると飛躍的な進歩をとげたといえるが、依然東大には届かない。

何かのおりに、将がフランス語がかなりできることを知った聡は、いっそフランス語で受験してみることを勧めてみた。

しかし将は

『絶対英語で受ける。聡の科目だもん。聡に教わりたい』

と、頑として受け入れなかったのだ。

英語が他の科目の足を引っ張っている状況に、将よりもむしろ聡が焦っていた。

 

聡は携帯をあけた。将からの返信はあいかわらずない。

さっき、こっそりかけた電話も

『ただいま、電話をとることができません』というメッセージが流れるばかりだった。

それを、集中して勉強している、と聡は理解するしかない。

この図書室にも20人あまりの3年生が図書室に残って、一心に勉強している。

わからないところがあったら、すぐに教師に聞ける、学校での自習は、受験生たちには好評だった。

皆、昨年の卒業生に比べると、数段成績があがっているといえる。

将やみな子を始め……今年こそは低偏差値校としての悪評を払拭できる進学実績が残せるかもしれない、と校長や教頭も期待しているのだ。

生徒から頼まれた採点を終えた聡は、窓から空を見上げた。

午後3時をすぎたばかりだというのに薄暗い空からはあいかわらず塵のように雪が舞い降りている。

そのとき、図書室の扉が開いて、多美先生が入ってきた。

天気があいかわらずよくならないので、暗くなる前に、生徒達を帰そうということだった。

聡は了解すると、残っていた20名ほどの生徒たちに帰るよう促した。

 

聡が校門を出た4時には、もうあたりの雪が紫色に見えるかのような暗さだった。

さした傘が重くなっていくような雪。白く立ち上った吐く息が、すぐに落ちてきそうな寒さだ。

「ホワイトクリスマス、どころの騒ぎじゃないわね」

聡は小さくつぶやくと、ため息をついた。

昨日、急いで仕上げたマフラーは今日は将に渡せないだろう。

「今日の晩御飯、何、食べようか」

聡は、下腹の小さな命に向かってそっとつぶやいた。

そのとき、夕闇色に染まった雪の舗道を踏みしめる聡を、車のヘッドライトがカッと照らした。

ヘッドライトに切り取られたように、道路上に雪が舞うのが照らし出されている。

振り返った聡は、その国産車と……運転している男を見て、あっと叫んだ。

第310話 未曾有の大雪(1)

「お疲れさまです」

「じゃあ、早いけど、よいお年を!……クリスマスといったほうがいいのかな?」

主演のベテラン俳優が、将にウインクを返した。

若い頃、美男俳優ともてはやされていた彼は年をとってもそういう顔が非常にチャーミングだ。

大雪で押したドラマの撮影だが、月曜からこの3日は順調に進んだ。

将はたった今、出番が終り、その足で東京に帰るべく、残る役者やスタッフに挨拶をしていたのだ。

新年まで撮影はない。もっとも年が明けると、センター試験直前なのにも関わらず、番組宣伝のバラエティなどに多少は出演しなくてはならない。

「やだなあ……、そんなヨユーないです。受験勉強ですよ」

それはフォローでもあったが、余裕がないというのは将の正直な感想だった。

しかし、心は浮き立っていた。余裕がない、といいながらも明日のイブは、聡と一緒に過ごす約束をしている。

といっても外を歩くのは目立ってしまうから、聡の家で英語を教えてもらいながら二人の時間を楽しむ目算だ。

「そうか、そうだったな。頑張れよ」

「そうだ、将。飛行機、止まってたら連絡して」

スタッフのひとりがかけた言葉に将は、え?と止まった。

なんでもスタッフによると、本州は今朝から大雪に見舞われているらしい。

「カミさんから、学校も休みになるくらいひどいって聞いたから」

その場の皆がへえ、と意外そうな顔をする。

それもそのはずだ。皆を取り囲むまっ白な雪の丘の上には雲ひとつない青空が広がってたからだ。

 
 

将は、タクシーに乗るなり携帯を取り出し、まずは事務所に撮影が終わった旨を連絡した。

このところ将は、北海道ロケに関しては単独で動くことが多い。それはマネージャーの分の交通費までは撮影予算で出ないという事情もある。

だが単独で動けるようになった一番の理由は、最近ようやく騒動が収まってきたというところにある。

空港からタクシーで撮影現場に直行する限り、ファンやマスコミに囲まれて身動きがとれなくなるということはなくなっていた。

事務所への連絡をすまし、次は聡に電話しようした将に

「お客さん、東京行きですよね」

と、ふいに運転手が声をかけた。

「はい」

「東京行き、今、止まってるみたいですよ」

「え?」

「こっちはこんなにいい天気なのに、本州は今、すごい雪らしいです」

運転手は、カーラジオを付けた。

折りよく、ニュースをやっていた。

『本州を覆うこの冬一番の寒気団が今朝から各地に記録的な大雪を降らせています。……積雪量は東京で1時間に10センチ、名古屋で5センチ、仙台で……。
この大雪で、都内を始め、交通は大混乱になっており、羽田空港は視界不良のため、航空機の離発着を見合わせています』

将が東京で経験した一番の雪は、一晩で10センチほどだ。それが1時間に10センチ。

前のシートにもたれかかるようにしてラジオに耳を傾けていた将は、ウッソー、と呟くとシートに寄りかかった。

「こっちはこんなに晴れてんのにねえ」

運転手の明るい調子の北海道なまりは、天気予報に相槌を打つようだ。

「こんな異常気象も地球温暖化のせいかねえ……お客さん、どうします?空港に行っても、たぶん飛行機は飛ばないんじゃないかな」

「いちおう、お願いします」

午後3時をすぎた外は、オレンジがかった陽の色に染まった雪の丘の起伏が見えている。

そのなだらかさは聡の肌を思わせて、将は携帯を手に取った。

23日、祝日の今日だから、電話しても咎められることはない。

「将?」

電話から聞こえる、いとしい声。将は自然に携帯に噛み付くような姿勢になっている。

「アキラ、そっちすごい雪なんだって?」

「すごいよ。屋根がみんなまっ白。東京でこんなの初めて見た」

未曾有の大雪を伝える聡の口調なのに、なんだかのんびりしている。

「まだ降ってんの?」

それに対して、将は自分でも焦っているのがわかる。

「うん。朝からずっと降ってる。……将は撮影終わったの?」

「終わったんだけど……。終わって空港に向かってるんだけど、飛行機が止まってるらしい」

「この雪だもんね。仕方ないよ」

「アキラは、大丈夫?」

「大丈夫。病院は土曜日に行ったし、食料も買い込んであるから」

将が訊いたのはそういうことではない……自分に会えなくて心配じゃないのか。

将のほうは、こうやって声を聞いただけで、焦れがつま先からのぼってきて思わず奥歯を噛み締めてしまうほど……聡に逢いたい。

逢って抱きしめたい。

「俺……、絶対明日までにそっちに戻るから」

「うん」

電話の声だけでは、将の狂おしいほどの決意が聡に通じているかどうかがわからなくて、将は続ける。

「俺さ。クリスマスプレゼント、買った。きっとびっくりする……」

それは撮影のあいまの希少な時間に、ひそかに札幌に出かけて買ったものだ。

聡への愛の証であるそれを、将はいつも持ち歩いていた。今も傍らにあるリュックの中に入っている。

「あたしも、将へのプレゼント用意してる。気に入ってくれたらいいんだけど」

将の心に、温かい聡の声が沁みこんでいく。

気がつくと、窓の外の丘が一面の桃色に染まっていた。

それは聡のぬくもりを色にしたかのようだった。逢いたい気持ちは募っていくばかりだ。

 
 

本州行きの飛行機がすべてストップした旭川空港は、客でごったがえしていた。

その中に、今朝出発したはずの相手役の若手女優の○○谷詩織を見つけた。

彼女も一人で疲れたようにベンチに座っていたが、将を見つけると笑顔で手を振った。

将は軽く頭を下げるとベンチに近寄った。

「朝からずっと飛行機が飛ぶのを待ってるんだけど。ダメみたい」

詩織は困ったように笑った。将と同様、伊達眼鏡をかけているが、眼鏡の下のさくらんぼのような唇に聡を重ねて将はハッとした。

聡に逢いたいあまり、こないだからすべての女性の中に、聡との共通点を見つけようとしてしまう。

そんなことにも気付かず、詩織は座っているベンチを少し詰めて隣を将に勧めてくれた。

21歳と将より少し年上の彼女は、若手にしては珍しく舞台畑出身で演技派としても名高い。

今年初めには大河ドラマで評判を取ったという。

にもかかわらず謙虚で気さくな性格の彼女は撮影現場でも皆に好かれている。

「予報だと、明日はもっとひどくなりそうじゃない?だから、どうしよう、と思って……」

「明日、もっとひどいんですか」

将はため息まじりに訊き返す。詩織は頷いてさらに続ける。

「名古屋も、仙台も同じ状況で飛行機が降りれないらしいよ。大阪は今は大丈夫みたいだけど、大阪から東京に向かう新幹線がストップしてるから……はぁ」

いつも元気な詩織が、珍しく語尾にため息をつけた。

空港のテレビでは繰り返し大雪に関する気象情報を放送している。まるで台風のときのようだ。

それによると飛行機だけでなく、雪に慣れない関東一円ではJRも軒並みストップしてしまっているという。

寒気はさらに強まりながら南下するらしく、明日24日の夜まで雪は断続的に降り続くらしい。

東京行きの飛行機が飛び立つのは絶望的だと思われた。

……案の定、まもなく、今日の東京行きの便は全便欠航というアナウンスが流れた。

ごったがえしていた客が一斉についたため息が揃うようだった。

その客の中から、女性3人ほどが、ベンチに座っている将と詩織を見つけてサインを求めてきた。

主に将のファンらしき女性たちは、どうやら飛行機を待ちながら、二人に声をかけるかどうか迷っていたらしい。

詩織は、思いがけないサインと握手に感激しながら去っていくファンを見送りながら

「将くん、どうする?……現場に戻る?それとも、近くのホテルかどっかに泊まる?」

と将に問い掛けた。

そうするしかないんだろうか。

将はあたりを見回した。ざわめくフロアの中で窓が……夕陽が最後に差し出した濃い茜色の陽だまりを透過させていた。

まるで舐めたら甘いような色は聡を……そして聡のイメージは、将を呼んでいるかのようだった。

第309話 恋ゆえの計算

やっと晴れたという将からのメールを、聡は職員室で見た。

青空の下、足跡ひとつなく広がるまっ白な丘の起伏、その向こうに同じく大雪山系が輝くように連なる画像と一緒に

>23日の夜には帰るからイブは一緒に過ごそう

というメッセージ。

「アキラ先生、お正月にはダンナさん帰ってくるんでしょう」

ふいに訊かれた聡はハッとして携帯を折りたたむ。隣の席の権藤先生だった。

「……あ、ハイ。でもとんぼ返り、みたいです」

あわてて、笑顔をつくりながら答える。セリフはもちろん毛利のマニュアル通りだ。

学校では……聡は、海外赴任中の婚約者との間に子供が出来て、籍を入れたことになっている。

『旧姓』で通していることになっている聡だが、通称が『アキラ先生』なのでほとんど支障はない。

婚約者のことも、この学校に入ったばかりの頃、ちらりと漏らしたことがあるので、どの先生も疑わなかったのだ。

あの頃は、まさか将のことを好きになって、博史と別れてしまうなんて思いもしなかった……。

 
 

「センセイ、お腹ちょっと大きくなった?」

「彼氏に会わなくて、つらくない?」

帰りのHRが終わったとたんにチャミやカリナたちが親しげに話し掛けてきた。

聡が妊娠して以来、おなじみの挨拶のような習慣になっている。

身近な聡の妊娠は、女の子たちには興味津々だったのだ。

体のこと、そして結婚のこと。そして相手のこと。

放課後の補習はたびたび、芸能リポーターばりのインタビューの時間になった。

体のことは、教え子たちも将来経験することだから隠さず話そうと思うが、相手のことを話すのはつらかった。

『先生の彼氏ってどんな人?』

『リーマン?』

『いつ知り合ったの?』

『プロポーズは?』

幸せならのろけるのも嬉しいようなことを……聡は嘘で答えなくてはならない。

いや、嘘ではないけれど。博史という、現実に付き合って別れてしまった恋人のことを、現在進行形として話すのは……嘘を話すよりつらい。

そのせいか……聡はこのごろ、よく博史のことを思い出す。

忙しさのあまり中国から帰って来れない『設定』の博史。

本物はいま、どうしているだろうか。

また去年の今ごろ、余命1年だった優しい博史の母親は……今もまだこの世にいるのだろうか。

聡は、それを思い出すたびに、自分の身勝手さに少し苦しくなる。

余命1年の母に孫の顔を見せたいと、聡に子供を望んだ博史。

あのときは、まるで考えられなかった子供を、まさか1年後、こうして宿すことになるとは……。

聡の心は、油断すると、運命のめぐりあわせの不思議さのままに、思い出をずるずるとたぐりよせそうになる。

「先生、この英作文添削してください」

そこへ割って入った生徒がいた。星野みな子だった。

「ホラ、みんなも勉強しなさい」

聡はチャミやカリナたちを追い払いながら、みな子が差し出したプリントを受け取る。

「……ウン、よく出来ているわ。でもここはこういう表現をつかってもいいかも」

行間に赤ペンで構文を書き添えながら、みな子の英作文がこの学校の生徒にはあるまじき優秀さであることにあらためて感嘆する。

英語に限れば、将よりもみな子のほうが成績は上だった。

「だけど、これでもバッチリよ。星野さん」

笑いかける聡に、みな子はすっと立ち上がると一礼した。

こんなとき、聡はみな子からの敵意、のようなものを感じてしまう。

そして、敵意状の空気を肌から発したみな子は、このごろハッとするほど美しいと思う。

ギャル系女子のように化粧もほとんどしていないし、ヘアスタイルも黒い髪をそっけなく2つに結んでいるだけなのに……透き通るような肌は、眼鏡の奥の黒い瞳は……聡に勝負を挑んでいるように見える。

若い子への嫉妬なのか、と聡はそっとセーターの下に隠れたお腹を盗み見る。

あのときも……みな子は聡に助け船を出しながらも、冷ややかな敵意をも発していた。あのとき……それは、聡が妊娠を教え子に公表したときだった。

 
 

つわりから回復して退院した聡は、学校に戻ってすぐのHRの時間に、自らの妊娠を教え子たちに告げなくてはならなかった。結婚したという嘘と共に。

もちろん将が撮影で休んでいる日を選んだのは言うまでもない。

そのときの生徒たちの動揺といったらすごかった。

一瞬、水を打ったように静かになり……各自の喉がごくっと動くのが何かの特殊効果のように連続して見えたほどだ。

「センセー。まさか、将の子供じゃねーだろな」

HRが終わったとたん、井口が駆け寄ってきて叫んだ。後ろにはカイトやユウタも口をパクパクさせている。

あまりの単刀直入に、聡も動揺のあまり瞬きそうになるのを……かろうじて抑える。

丸刈りの兵藤や松岡が、教科書をいじりながら聞き耳を立てているのがよくわかる。

「もー、何いってんの」

……そういわれることを予想してさんざん鏡の前で練習した笑い顔。わざとらしくないだろうか。

そんな心配を無理に飲み込む。

「だってサ。センセイ、将とデキてたんだろ」

カイトが馬鹿でかい声で叫んだ。

「デキてませんっ。ずっと付き合ってた人がいるのよ」

わざとらしく口を尖らせる。嘘をつく喉が焼けついて、声が裏返りそうだ。

井口が顎をあげて、『あー』という形に口を開けた。

彼は思い出したのだ。将と大悟と一緒に聡の実家を訪れたときに同席した男のことを。

「あの、正月に萩に来たリーマン?……先生趣味悪いな」

井口は言葉を放り出す。それは納得したようにも、聡をバカにしているようにも聞こえるが聡は何も言い返せない。

「何、ハルキくん知ってるの?先生の彼氏」

ユウタが金髪を揺らす。

「知ってる、知ってる。なーんだ、ヤルことやってたんだ。できちゃった婚なんて」

井口は少し軽蔑したように、細めた笑い目で聡を見やった。

聡は身が縮む思いだった。

実は、単なるできちゃった婚よりもっと蔑まれることをしている聡だ。

……生徒の子供を妊娠する教師なんて。

それに、井口は将と聡とのプライベートな関係も……将が聡に寄せる一途な思いも、かなり知っていたはずだ。

それで『将を捨てて博史を選んだ』聡への軽蔑を、彼は態度に表しているのだろう。

これ以上はつらい……息があがり、視線をそらしそうになる聡に助け舟が差し出された。

「もうそれぐらいにしたら? 先生のプライバシーでしょ」

星野みな子だった。……みな子は、聡が倒れたときに、その真相を職員室で偶然聞いて知っていたのだ。

みな子はクールな調子で続ける。

「できちゃった婚だって、先生はもう結婚したって問題ない大人なんだから、勝手でしょう」

なんだよ、星野サン、と斜に構えようとした井口が、思い出したように口にした。

「……そっか、将は今、星野サンと付き合ってるんだもんな」

みな子はチラっと聡に視線を走らせると、目を伏せた。

「……付き合ってるとかじゃ、ないけど」

聡は、みな子に礼を言うわけにもいかず、ただ立ち尽くしていたのだが、みな子が割って入って興ざめしたのか、井口たちは去っていった。

かわりに、チャミやカリナら女の子たちが

「先生、式はしないの?」

などと訊いてきたので、聡は少しほっとした。

そんな聡を、みな子は離れたところから見つめていた。

 
 

聡の妊娠を知って……他の男と将を両天秤にかけていた聡を激しく憎んだみな子だったが、2日も経たないうちに熱く激しい胸のうちの溶岩は急速に冷めてしまった。

冷えて固まった岩のようなごつごつした憎しみは依然胸のうちにあったが、それよりも急速にみな子の心に舞い降りてきたのは希望だった。

もはや他の男の子供を妊娠した聡である。

将がいくら愛しているといっても、また聡が意地汚く将に手を出したとしても、所詮聡は他の男のものなのだ……。

将は、いつか……近いうちに、聡のことを忘れるだろう。いや、きっと忘れるに違いない。

みな子はそのときが来るのを待つことにした。

将への思いを『一緒に大学生になる』という希望に転化し、勉強に向かった。

将がどういうわけか、芸能活動を休んで東京大学を目指しているのは、本人から聞いてみな子も知っている。

理由については、将は詳しく語らなかったが、それはどうでもよかった。

曽祖父の死が関係しているのではないか、と思っている。

事実、週刊誌などには、将の急な受験休業について、『敬愛していた曽祖父の死によって政治家の血に目覚めた可能性がある』などと

書き立てられていたからだ。

さすがに、みな子が東大を目指すのは難しかったが、東大のすぐ近くにある大学でN大やM大などみな子でも目指せそうなところがいくつかある。

将の近くで大学生になれば……いつか、自分に振り向いてくれる日がくるのではないだろうか。

みな子は、勉強に励み、少しでも将の目に魅力的に映るように自分を磨いた。

そしてうっとおしくない程度の匙加減を研究しながら、将に親切であるようにした。

すべては熱い恋情による冷静な計算であった。

第308話 嘘

――今日も撮影は休みか……。

将は窓に向かってため息をついた。その息が窓ガラスを白く曇らせるのも見えないほどの白に今、北の大地も空気も染まっている。

天と地の境が見えないほどの猛吹雪に、いつも見える大雪山系も隠れてしまったようだ。

12月も今日で20日。

ドラマ『あした雪の丘で』のロケで北海道入りしている将だが、一昨日からの大雪で撮影が中断してしまっている。

順調に行けば、明日には東京に帰れる予定だったのに……と、将は窓の外の雪を恨んだ。

案の定、直後にADから撮影中止の電話が入った。

将はため息をつきながら、朝食会場へ向かった。

 

このホテルはスキー場から離れているため、閑散期の今は、ほとんどドラマ撮影関係者の貸切状態となっている。

朝食会場も、ほとんど共演の俳優や、ドラマ制作関係者ばかりだった。

その中で、唯一ドラマとは関係ない一家が窓がわに席を取っていた。中年夫婦と娘、の三人家族である。

その夫のほうが将に気付くと手をあげた。

将はそれに頭を下げて会釈をすると、その席のほうに向かった。

途中、将の相手役(といってもケンカばかりしている役だが)の若手女優が

「将くん、一緒に食べません?」

と誘った。そこには若手女優のほかにも、共演者たちがテーブルについていた。

もう6回を撮りだめしている中で、共演者やスタッフたちは家族のような雰囲気を醸し出していたのだ。

しかし将は

「すいません。親戚が来てるんで」

と断った。

「親戚?」

「はい。東京から僕の勉強を見がてらスキーに……」

「あ、もしかして、あの人、政治学で有名な東大の岸田助教授?」

スタッフの一人がそう指摘したとたん、一座は一家の方を振り返った。

背を向けていた助教授はその視線に気付かず、代わりに夫人が会釈を返す。

「何、将くん、裏口入学を手配してもらうの?」

もちろんそれはスタッフの冗談である。

将はそれをほどほどにいなして、助教授一家の席へと移動した。

 

「やあ、まいったな。スキーをやりにきたのに、この大雪じゃ」

岸田助教授は将が席につくなり笑った。

「仕方がないわ。温泉に入りにきたと思いましょう」

夫人がそれをとりなす。このホテルには展望温泉があるのだ。

「それより今日、帰れるのかなあ。明日クリスマス会の練習があるんだよね」

11歳になる助教授の娘の香奈は、心配そうに窓の外を見つめた。

岸田助教授の一家は、金曜からの2泊3日でスキーにやってきている。……というのは名目で、本当は将の勉強を見に来ているのだ。

将の義母・純代の次兄にあたる岸田助教授に将は先々週から論述問題の特訓を受けている。

最初、純代がその話を持ってきたとき、将は反発した。

これ以上、純代に借りを作りたくなかったからである。

だが、純代はそんな将をわざと挑発した。

『正直に言うわ。あなたの今の成績と撮影を抱えている状況じゃ、前期試験での東大合格は難しくてよ』

10月、11月、12月初めと模試を繰り返すにつれて将の成績はぐんぐんあがっていった。

だが、依然東大の合格圏内には、まだほど遠い現実……それは将が一番よく知っていた。

センターの足切りはなんとか乗り切るにしても、4教科にわたる前期試験は膨大な知識を再構築していく能力が求められる。

その膨大な知識の部分をまだやっている自分を考えると将は途方に暮れそうになった。純代の言っていることは事実なのだ。

義母である純代は、将の成績をもとに東大の助教授を務める兄に相談したらしい。

兄の岸田助教授によれば、国語力と論理的な説明力が際立っている将には、今年度(2008年3月実施)から試験方法が変わる後期※のほうが可能性が期待できるのでは、ということだった。

純代は、さらに兄に、予想される出題で将を特訓してほしいと頼み込んだのだ。

『自分でなんとかするから、ほっといてくれ。お義母さんには頼りたくない』

プライドの高い将はそれでも、反抗した。なんとかするあてなど、本当はない。

聡のためのことは……自分ひとりで解決したかった。ただそれだけだ。

そんな将に純代は一喝した。

『私に頼りなくないなんて甘えたことを言うんじゃありません!……望みというのは、大嫌いな相手だろうと利用してこそ、叶えるものですよ。私を利用しなさい』

その翌日から、将は純代に引っ張られるように無理やり岸田助教授のもとに連れて行かれた。

祖父、そして曽祖父の巌の葬儀でしか顔を見たことがない岸田助教授はほとんど初対面も同様だった。

丸顔にたれ目、と親しみやすい容貌は涼しい面差しの義母とはまったく似ていないながら、指導は容赦がなかった。例題で書いた将の論理の穴を次々と指摘する。

しかし、身内らしからぬその厳しさに、将は逆に助教授を信頼するようになり……週に2回、通うことにしたのである。

 
 

この金曜から日曜日にかけては、昼間は将は撮影、助教授一家はスキー、夜に3時間ほど論述問題の特訓をすることになっていたのだが、あいにくの天気で昼間からずっと特訓になっているのは不幸中の幸いというべきか。

いや。この時期は本当は論述問題をやるよりは、センター試験に向けた詰め込みをやらなくてはならない。

だから本当は、早く撮影を終わらせて東京に舞い戻り、睡眠時間を削って詰め込み勉強にまい進すべきなのだが

……撮影で北海道にいる限り、顔のコンディションを崩さないために睡眠を充分とらなくてはならない。

それが撮休が重なるにつれて将には焦りにつながってきた。

しかし、天気には逆らえない。

「雪、早く止んだらいいのにね」

岸田の娘の香奈がココアが入ったカップを両手で包むように持ちながら将に話し掛けた。

そのカップの持ち方は聡がよくやるものだった。聡もココアが好きだった……。

「そうだね」

将は白く吹雪く外に、聡を思った。

もうすぐ来るクリスマスは、二人で過ごせると信じて……。

 
 

>今日も雪で、撮影が休み。明日には帰れなさそう。

将からのメールがいい目覚ましになった。

聡はベッドから体を起こすと、下腹に手をやった。

5ヶ月を迎えた下腹は、このところぽこんと膨らんできた。

――おはよう。北海道は大雪なんだって。

小さく、お腹の子に語りかけると聡は立ち上がって青いカーテンを勢いよく開いた。

北海道は大雪だというけれど、東京はいい天気だ。

放射冷却か窓からの冷気にぞくっときた聡は、着替えることにする。

お腹が膨らんできた聡だが、まだそれは少し太った程度だ。

ふだん細身の聡だから、いまのところ普通の服で大丈夫だが、もうあと一月もすればマタニティを買わないといけないだろう。

 

昨日の土曜日、聡は検診に行ってきた。

医師は『とっても順調ですよ』と太鼓判を押してくれた。

つわりこそ入院するほど酷かったが、それを乗り越えると極めて穏やかな日々が聡に訪れたのだ。

純代が紹介してくれた穏やかなお婆ちゃん産科医は、子供が生まれることをとても楽しいことのように口にする。それで聡はとても楽になった。

早い人だと性別もわかるらしいが、

「赤ちゃん、どうやら恥かしがってるみたいですね。また次の機会にとっておきましょう」

と超音波を見ながらおっとりと産科医は笑ったので聡はつられて笑顔になった。

産科医はそろそろ動く頃ですから楽しみにしてくださいね、とも言ったが、いまのところその気配はない。

 
 

聡は好きな音楽を掛けながらブランチをゆったりと味わった。

テレビよりは音楽の方が赤ちゃんにいいのだろうと思ったからである。

『赤ちゃんはね、思ったよりずっと外の音を聞いているんですよ。そしてね、お母さんの気持ちに反応して笑ったりするの……すごいでしょ。だから聡さんも気持ちをゆったりと持ってね』

という産科医のアドバイスに従ったのだ。

ブランチを食べ終わって掃除と洗濯をしてしまうと、もう午後になっていた。

聡はカフェインのないハーブティを淹れると、紙袋を取り出した。

中からは……毛糸と編みかけのマフラー。

「イブには仕上げなくちゃね」

このところ独り言が多くなった、と聡は自分で思う……本当は独り言というより赤ちゃんに話し掛けているのだが。

お腹がぽこんと出てきてから、また、産科医のアドバイスを聞いてから、聡は急にお腹の赤ちゃんに人格を感じるようになった。

思い返せば、あの、つわりで苦しかった日々も、聡の苦悩がお腹の赤ちゃんを苦しめていたためではないかとも思う。

――赤ちゃんは赤ちゃんなんだから。

将との将来の不安を感じさせてはいけない。

聡は努力して、楽観的になるようにした。

その楽観に、毛利から月々振り込まれる50万は役に立った。

当初聡はいらない、と固辞しようとしたのだが、

「教師をお辞めになるのでしょうから、引越し代と生活費に」

と言われ、断れなかったのだ。

しかし、聡は今のところ学校を辞めていない。

海外赴任中の婚約者と入籍した嘘をつきながら、勤め続けているのは、学校でなら将の顔を見ることができるというのもある。

しかしそれよりも、初めての教え子たちが卒業するところを見たいという願いのほうが大きかった……。

だから、お金は病院代以外はすべて貯金されることになった。

それは、もし将が受験に失敗し、引き裂かれたとしても、独りで赤ちゃんを育てるのに大きな助けになるだろう。

……そんなことを思いながら、これが母になるしたたかさなのか、と自分に目を見張りながらも、聡は一心に編み棒を動かす。

去年、萩の海岸で将とわけあったマフラー。長身の将はあれよりもっと長いものが似合うはずだ。

お金はあるから、クリスマスにはもっと高いものをプレゼントすることもできる。

だが、そのお金は元を正せば将の家から出たものだ。それでプレゼントを簡単に買ってしまうのは、心がこもっていない気がした。

だから、聡は将の好きな色の毛糸を買って、長いマフラーを自分で編むことにしたのだ。

ふいに、携帯が鳴った。

将の着信音ではない。

『実家』という表示を見て、聡はどきり、とした。

「もしもし」

「あ、聡?」

電話は母だった。聡は固唾を、臓腑深くまで飲み下す。

「あんた、今年はいつから帰ってくるんね?」

そんな聡の様子を知らずか、母は極めて能天気に、いつもこの時期にしてくる質問を投げかけてきた。

聡はお腹を一撫ですると、意を決して言葉を発した。

「今年は帰れん」

「えー?なんでぇ?」

とたんに高い声で抗議する母。……当然である。

大学以来上京している聡だが、留学している時以外は毎年正月に帰郷していたから。

「今年は……友達と……美智子たちとスキーに行くことにしたんよ」

本当は妊娠しているから帰れない、とは言えない。

聡は、両親にだけは、『海外赴任中の婚約者との間に子供が出来た』という嘘をつけないでいた。

今年の正月に、博史と結婚できないと告白してしまったことも、理由の1つではある。

博史とよりを戻して妊娠し籍を入れた、などと説明したら、親は呆れつつも、博史の親に挨拶しなければ、とか簡単でいいから式をあげなくては、と事が大きくなるだろう。

それを聡は恐れたのだ。毛利によるマニュアルには、何かと忙しいからと言い含める、とあったが、聡の両親がそれで納得するとは思えなかった。

かといって、妊娠していない振りをして実家に帰るのは危険だった。

まだお腹はそれほど目立たないとはいえ、四六時中親といれば、聡の体の異変に気付くことは確実だった。

だから聡は……この年末年始は実家に帰るのを自粛したのだった。

嘘が自然に聞こえますように、と祈る気持ちと、嘘をつく後ろめたさ。

……無意識のうちに下腹をさすっていた。

「えー、なんね。正月に帰らんなんて」

母は聡を非難し始めた。

「ごめん……代わりに春休みには帰るけぇ」

春休みには、将と二人で……。

将が合格すれば、きっと二人で結婚の報告をしに、実家に帰ることができる。

ふるさとの、桜の咲く川ぞいの土手を、将と二人で歩く姿を想像しようと聡は努力した。

※東京大学の後期試験は2016年から廃止になりました。
この物語は308話段階では2007年が舞台となっています。

第307話 意外な救い(5)

聡の手を取った純代はにっこりと笑うと

「だから、一口、味をみていただけるかしら」

といったん置いたタッパーを手に取った。

「無理じいはしませんけど……大おじいさまもお好きだったのよ」

巌の好物と聞いて……さらに、目の前にいる純代がどうやら敵ではないらしいという安堵感から、聡は急速にそれを口にしてみたくなった。

琥珀色のゼリーのような桜島大根からは、冷めているのに、しみじみとした香ばしい香りがほのかに漂っていたのだ。

ここのところの……空腹感を押さえつけていた強い圧迫感が、やや弱くなった気がする。

「……じゃあ、いただきます」

聡は純代を見上げた。純代は柔らかく目を細めると、タッパーの中の大根を器用に切り取って器に盛った。

それは市販のプリンより小さいほどの量だった。

「一口でおやめになってもいいの。逆におかわりはできないのよ。とりあえずここまでにしておいてね」

不思議なことに純代はそういって聡に器を渡した。

たくさん食べろ、とはよく言われるが、ここまでしか食べるな、というのは久しぶりに言われる気がする。

聡は匙ですくった一口を口にした。

大根は舌の上で溶ける様にあっという間になくなり、親しみやすい……塩味も甘味もカツオダシの香ばしさもすべてが突出していない優しい味が一瞬舌に広がり、あっという間に消えた。

その味を確かめようと、二口、三口と口に運ぶうちに、器から大根はなくなってしまった。

「美味しかったです……。久しぶりに美味しいって思いました」

聡は素直に感想を述べた。

純代は聡の顔色を確かめるように

「気分のほうはどう?吐き気は?」

と訊いた。それで初めて、聡は吐き気をすっかり忘れていたことに気付いた。

食べ物を口にして吐き気がないのは久しぶりだ。

今までは本当に吐かなくても、たえず吐き気を堪えていたから。

だけど今は、もっと食べたいような気さえしている。

そんな聡の気持ちを察したのか、純代は

「おかわりは、30分待ってね」

と微笑んだ。

これが、つわりを治す魔法の一環だったのだ。

純代はほうろう鍋を給湯室に持ち込むと、料理を簡単に温めて、30分後に再び料理を盛ってきた。

これも今度は温めた桜島大根に加えて二口か三口ずつ盛られた3皿だけの料理だった。

食べろとは言わず、『一口ずつでいいから味を見て』とのことだったが、聡はそれを全部平らげてしまった。

すべて優しい味のものばかりだった。

「気分のほうは?」

「すごくいいです。それにとても美味しかったです」

食べる前よりむしろ、胃のたとえようもないムカつきがなくなった。

まるで妊娠する前のようだ。

どれも少しだけだったので聡はまだ食べたい、と思った。

「お昼は、たぶん将が来るから、それまで待っていてね」

純代は微笑んだ。

 
 

将はキツネにつままれたような気分で、純代が用意したちらし寿司の昼食を食べている。

ベッドの上の聡も、同じちらし寿司を気持ちよく片付けている。

その顔色はかなり快復している。

純代の『魔法』と、将と逢えて触れ合えたことで、胃の調子も、精神もかなりの安定を得たのだ。

「アキラ、大丈夫?」

「うん。とても美味しい」

微笑む聡に、純代が

「あまり食べ過ぎないようにしてくださいね。妊娠初期は、お腹をすかせすぎないこと、そして食べすぎないこと。ちょこちょこ食べて血糖値を安定させておくといいいのよ」

デザートを乗せた盆を運びながら語りかける。

あれこれと聡の世話をする純代にどうやら悪意はないらしい。

だが、腑に落ちずに将は純代の様子を盗み見ていた。

食べ終わると、純代は

「じゃあ、わたくしは整形外科の先生にお礼を申し上げてきますから。英語のわからないところを聞いておきなさいね」

と将に言い渡して、再び病室を出て行ってしまった。

『英語のわからないところ』というのは、二人のための口実に違いなかった。

なぜなら将は参考書も何も持っていないから。

 
 

挨拶にしては長い1時間ののち、純代は病室に戻ってくると

「将。まだ勉強があるでしょう。一緒においとましましょう」

と促した。

純代がいない間、久しぶりに抱き合ってお互いのぬくもりを……まるで充電のようにそれぞれの記憶に貯めた二人は別れ際にもう一度見つめあった。

「じゃあ、月曜に学校で」

将は聡が心配だったが、明るくそういった聡を信じることにして、病室をあとにした。

「聡さん、困ったことがあったら、いつでも連絡してくださいね」

「はい。ありがとうございます」

……なんで純代はこんなに聡に優しいのだ。

将はいまだにわからなかった。

駐車場に降りていくエレベーターに純代は一緒に乗ると

「当然……乗せてくれるわよね」

とそっけなく言った。

「ああ」

なぜか断りそびれてしまう。

ミニに義母を乗せるのは初めてだった。

 

 「監視……する気?」

将が口を開いたのは、病院の地下駐車場から出てしばらくの信号待ちだった。

純代は前を向いたままの将の横顔を一瞬見るとため息をついた。

「初めての妊娠でしょう、聡さん。ご両親が山口なら、私がお世話をするのはあたりまえじゃないの」

純代の答えに、将はフッと鼻をならした。うそ臭いとしか思えない。

「世間体はどうすんだよ」

将はアクセルとともに挑発するように訊いた。

「担任の先生が困っている時、父兄がお世話をするのは自然なことでしょう……。何もわたくしだけではないわ。星野さんのお母様や兵藤くんのおかみさんとも連絡を取っているのよ」

今度は将が助手席の義母の横顔を見た。

つまり父兄みんなで手助けしているという手はずを取っている、ぬかりのなさだ。

しかし将にはまだ、義母が……自分たちのことを単に応援しているとは思えない。というか、思いたくない。

聡の妊娠・出産を手助けすることで何か弱みを握りたがっているのではないか……。

将は想像をめぐらせた。

「あのさ」

ある考えに至った将は、ハンドルを握ったまま、顔を再び前にむけるとそれを声に出してみる。

「聡に子供を産ませて……後でばらして、俺をスキャンダルに陥れる、とか考えてるんじゃないの。そうすりゃ孝太が……」

「将!」

純代は鋭い声をあげると、将の汚いセリフを制止した。

あまりの剣幕に将は、思いついた想像を口にするのを中断せざるを得なかった。代わりに純代の顔をのぞく。

純代は将を見据えていたが、やがて、うつむくとため息をついた。

「あなたがそう考えるのも無理はないわ……」

将は再び赤に変わった信号に、前の車との間隔を測りながら、一方で純代から視線が離せない。

純代はそれほどまでに、やるせない表情を浮かべていたから。

「急に信じろといっても、難しいこともわかる……。でもね、将」

車が停止してしまうと、純代はゆっくりと顔をあげた。

せつない瞳は、強い光を宿らせて、再び将を見据えた。

「私が、聡さんにあなたの子供を無事に産んでほしいと願っているのは本当よ」

義母のこんな顔を見るのは初めてだ。

子供の頃、叱られるようなことをしなかった将だから、義母はただ優しくて。

非行に走ったあとは、いつも心配しつつも強いことなどいえない……将はそう高をくくっていた。

「だから、もし……仮に。これが私があなたを陥れるためのワナだったとしても。私を利用しなさい。

私を利用してでも、二人で幸せになって……私を見返しなさい」

純代は凛とした声を車内に響かせた。

第306話 意外な救い(4)

忙しくて家庭を顧みることもままならない夫に代わって、純代は将の面倒を見ることになった。

つまり新婚まもないのに、連れ子の世話に忙殺されるという状況になったのだ。

「将は、明るくて素直で、人を気遣うことができる子供でした。勉強も運動もできて、わたくしは参観日などで学校に行くたびに誇らしかったものです……」

夫と居るより、将といる時間のほうが長いような新婚生活。

だが、それを語る純代は当時を懐かしむべく、陽だまりにいるような穏やかな笑顔を浮かべていた。

それでも政治家一家に生まれ、内閣閣僚である父の忙しさを目にしている純代だが、自分の夫となるとやはり少し寂しい。

まだ20代の若い純代だ。自分のやり方でいいのか途方に暮れることもあった。

かといって実家に頼りすぎるのは、純代の自尊心が許さなかった。手を抜くのも嫌だった。

そんな純代を精神的に支えたのは巌である。

継母と継子の間をとりもつべく、巌はたびたび将と純代の元を訪れた。

手作りの野菜を届けるという名目もあったが、将に会いたかったのだろう。

その巌は、ことあるごとに、

『純代さんはよくやっている。うちには過ぎた、いい嫁だ』

と絶賛した。

「大おじいさまの褒め言葉が、あの頃のわたくしにはどんなに救いだったかしれません」。

純代は巌に励まされて、政治家の妻業というプライベートまで侵食してくる仕事と子育てとに健闘した。

まもなく実子の孝太が生まれて、ますます忙しくなったが、今度は将が孝太の世話を積極的に手伝ってくれた。

赤ん坊のうちはいいが、歩き始めた幼児は片時も目が離せない。

そんな孝太の、聞き分けのないやんちゃぶりにも将は辛抱強く付き合ったのだ。

腹を痛めた孝太は本能でいとおしかったが、純代は理性で将と平等に扱うように心がけた。

夫は相変わらず忙しかったが、鷹枝家は順風満帆に見えた。

 

そんな親子の蜜月を壊したのが、あの爆破事件だった。

「あれは1時すぎでした。犯人は夫の在宅時を狙ったんだと思いますが、幸い夫は帰っておらず、わたくしは先に休んでおりました」

ベッドに入った純代だが、どういうわけか、なかなか寝付かれず、手洗いに立ったそのときだった。

純代は入ったばかりのトイレの個室の中で、激しい衝撃を感じた。

地震かと思った。

あわてて飛び出した純代は、自分が戻るべき方向が、非常灯に照らされた瓦礫の山になっていることに仰天した。

いや、それ以外の方向も変わり果てた姿に崩れており、そこは住みなれた我が家ではなかった。

――逃げなくては。

だが純代はネグリジェ姿だった。こんな姿を非常時といえど一般にさらすわけにはいかない。

純代は今にも崩れそうな自宅の中でややマシだったバスルームとその脱衣所から素早くガウンを見つけるとそれを上に着た。

暗がりの中、手探りで髪も整え、口紅だけをぐいと引く。

なんとか恥にならないところまで、素早く自分を整えた矢先。孝太の泣き声が聞こえて、純代はハッと我に返った。

――孝太、将!

こんなときに身支度にかまけていた自分に激しい自己嫌悪を感じると同時に純代は夫婦の寝室の対面にあった子供部屋に向かった。

すでに火が出ているようだった。

元々廊下だった場所に積み重なった瓦礫の隙間から明るい炎が透けて見える。

廊下から子供部屋にたどりつくのが無理だということを瞬時で悟ると、純代は無我夢中で、リビングから庭に脱出し、外側から子供部屋に向かった。

乾燥した冬である。明るく燃えだした火があたりを照らし始めていた。

子供部屋には、爆風で吹き飛んだらしいガラス窓から容易に中に入ることができた。

窓に近い半分ほどの天井が奇跡的に崩れず、孝太はそこで泣いていた。

純代は孝太を抱き上げると、将を探した。将は足元にいた。

運が悪いことに、将は中学受験の勉強をしていたのか、将は2階から潰れてきた天井と柱に下半身を取られた状態でうつ伏せになっていた。

たいした怪我はしていないらしく、脱出しようと必死でもがいているが、何かが引っ掛かっているのか足が抜けないらしい。

純代は見あげる将と目があった。

『助けて……助けて、お母さん』

将は目で縋った。

純代は、将の上に積み重なる柱や瓦礫をどけなくてはと思った。だが、柱はどうみても純代一人の力で持ち上げられそうもない。

そして、火のまわりは早い。ちょうど風向きが変わって、火勢がカッと強まった。

まるで純代を照らし出すかのように。

瓦礫に一斉に火が移る。……ついに将を押さえつけている柱に火が燃え移った。

――もうダメだ。

なすすべがない、と判断した純代は、将に背を向けると一目散に駆け出した。

『お兄ちゃああん!ヤダヤダ!お兄ちゃんも助けてよお……』

叫ぶ孝太は、純代の良心の責めでもあった。

――仕方がない。仕方がないのよ。

孝太に、そして将に心で弁解しながら、純代は無我夢中で走った。気がつくと純代は消防隊員に抱えられるようにして安全な場所に居た。

『お父さん、お兄ちゃんが、お兄ちゃんが』

呆然と突っ立っていた純代は、孝太の泣き声で夫がそこにいることを知った。

『あなた……』

『純代。将は……。将はどうした』

康三はあわてて帰ってきたらしい。髪の毛が乱れて、すすで黒く汚れた顔の中で白目が際立つほど目を見開いている。

純代は何と言ったらいいかわからず黙った。

『将は……まさか、中にいるんじゃないだろうな』

こんな康三を、純代は初めて見た。ふだんは鋭い印象の目を丸く見開いて、瞬きもせず、純代に詰め寄ってくる。

恐ろしかったが、黙ってやりすごすのは卑しい者がすることだ、というプライドが、かろうじて事実を口にさせた。

『まだ……中にいます。助けられませんでした』

『バカヤロー!』

康三は間髪入れずに叫んだ。

上流に育った純代はこんな罵倒を受けるのは初めてだが、何せ非常時である。

罵倒より、今の状況事態がそもそも衝撃的な中で、その乱暴な言葉についてのショックは小さいものの、純代の心に響いた。

『申し訳ありません、あなた』

純代は目を固くつむって頭を下げた。

『それで、将は、まだ中にいるんだな』

康三の目の中には燃え上がる家だけが映り、純代の謝罪など眼中にないようだった。

次の瞬間、康三は家に向かって駆け出した。

だが、すぐに消防隊員に止められる。

『離せ!息子がまだ中にいるんだ!離せ!』

激する康三を止めるのに、消防隊員や警官数人が必要なほどだった。

『落ち着いてください!今救出に向かいましたから』

体を押さえつけながらの必死の説得にも、康三は

『将!……将』

なおも息子の名前を繰り返し叫んでいた。いつしかその目からは涙が流れていた。

ふだん感情をあまり見せない夫が泣いている。

普段、あまり実の息子への愛情をあらわにしない夫を、純代は少し冷たいと感じていた。

もっと息子を可愛がるべきだ、と忙しい夫を理解しながらも、純代は常日頃から思っていたのだ。

だが。夫はやはり、息子を愛していたのだ。自分を犠牲にしてもかまわないほどに。

純代は、自らも涙を流しつつ将の救出を祈りながら……もし将が助かったら、自分と将の今後はどうなるんだろうという予感に震えていた。

……そしてその予感は的中し、将は自分を見捨てた純代を許すことなく、非行に走ったのである。

 
 

「私は、もう将とはダメだと思っておりました。所詮継母と継子は、一度こじれたら通い合うことなどない、と……。ですけど、大おじいさまが最期に言い残したことが心に刺さりました」

修復のしようがない亀裂に誰よりも心を痛めていたのは巌だった。

巌は何かと、荒れた将をなごませようと努力し、かつ荒れ切ってしまわないように最期の砦となって将の良心を守っていたのだ。その巌が亡くなって。

「わたくしは、もう一度、将の信頼を取り戻すべく努力してみようと思ったのです」

純代はすがるような瞳で、ベッドの上の聡を見つめた。

「将が、学校に行くようになり、そして家にも戻ってきたのは……いいえ。

そんな形式的なことではなく、人間の心を取り戻し始めたのは、先生のおかげだと感謝しています。

そりゃ……学校の先生とお付き合いするようになったのは決して褒められたことではないですけれど……。ですけどね。聡さん」

純代は、『先生』ではなく、聡の名前を呼んだ。

聡は……将は、もともと将だったのだ、自分のおかげなどではない、と異論を唱えたい気もしたが、それが本題でないことはわかっていたのでその先に語られるべきことを待った。

「わたくしは、産みの親なら絶対に見捨てない場面で、将を見捨ててしまいました。だから……私は……今度は、世間の皆が……たとえ夫が反対することでも、私だけはとにかく将の味方をしようと思ったのです」

純代の瞳には強い決意があった。純代は椅子から立ち上がると続ける。

「先生、いえあきらさん。たった一人でお腹の中の子供を大きくするのは並大抵のことではないと思いますけれど、わたくしがついています。わたくしができるだけのことをしますから、どうか将のためにも頑張ってください。お願いします」

今度は純代が深く頭を下げた。

「そんな、鷹枝さん……」

つまり、自分たちを認めるというのだろうか。

思いがけない純代の言葉は、聡をとまどわせた。

純代は聡の手を取った。

「大おじいさまも認めた、何よりも将自身が選んだ相手です。たとえ、将が東大がダメでも……何年かかっても私が認めさせます」

聡は大磯での、巌の遺言を思い出した。

将を頼む、と懇願した巌。

この、早すぎた妊娠を……生きていたとしたら巌は許してくれるのだろうか。

第305話 意外な救い(3)

『どけよ』。

怒鳴りつけるべく将は反射的に目の前にいる純代を睨みつけた。

「先生のお部屋だったら、こちらよ」

意外な純代の声に、将は逆に立ちすくんだ。

どういうわけかスーツの上にエプロンを着けた純代は、歩いて来たらしき方向に踵を返しながら、将をいざなう風をした。

付いていくべきか逡巡する将の後ろから、毛利の抗議が純代へと投げかけられる。

「奥様。そんなことをなさると先生が困ります」

もちろん毛利が言っている『先生』とは、将の父の康三のことである。

「あら」

純代はいったん立ち止まると振り返った。

「保護者同伴で、担任の教師を見舞うことに、何か問題がありますか?」

それでも何か反論しようとする毛利だったが

「それにここは将がお世話になった病院です。お礼をしにくるのは至極自然なことでしょう」

純代は凛とした声で圧倒してしまった。

思いがけない展開に呆けたような将に、純代は目配せをすると先に歩き始めた。

 
 

「アキラ!」

純代の前だというのに、聡の姿を目にした将は、いとしいその名前を叫んでベッドに駆け寄った。

聡はいっそう痩せてしまっていた。痩せて小さくなった顔に、黒目がちの目がいっそう大きく見える。

「鷹枝くん」

それでも将を見つけた聡は一瞬顔を輝かせた。

しかし純代の前だから、その微笑みは遠慮がちに小さくなった。

ベッドの上の聡と、その脇で立ちつくす将は、今はただ見つめあった。

そんな二人に

「じゃあ、わたくしは30分ほど、お昼の準備をしますから」

と純代は声を掛けると、自らはそっとドアの外に出た。気を利かせたに違いなかった。

純代の魂胆はわからないが、将は一歩進むとベッドの上の聡に手を延ばした。

二人は久しぶりに、お互いのぬくもりをむさぼるように抱きしめあった。

「アキラ、つわりはひどいの?入院するなんて」

聡は将の腕の中で首を振った。

「でも……すっごい痩せた」

もともと華奢なのに、少しでも力を込めると壊れてしまいそうな聡だ。

その体の中に子供が宿っているなんて……将はさらに脂肪が薄くなった聡の背中をそっとなでた。

「あいつは、何しに来たの?……アキラに何かひどいことを言ったんじゃ」

聡は将の腕の中で顔をあげると、その黒い瞳を将に向けた。そしてかぶりを振ると、ゆっくりと微笑む。

「質問ばっかりね。将」

その、低めで温かい声は将の中の何かを溶かしていく。

「今日はね……つわりはだいぶよくなったの。お義母さまが魔法をかけてくださったみたい」

将には何があったのかわからなかった……だがそこで、病室にかすかにただよう香りに気付いた。

それは昨日から自宅に漂っていた香りと同じ、カツオだしの香りだった。

 
 

1時間ほど前。

聡は思いがけない来訪者に、固唾を飲み込んだ。

「先生。今日は将の母として、お見舞いにあがりました」

現れたのは、将の義母の純代だった。

去年……風邪を引き込んだ将と口づけしている現場を見られ、なじられたことがある聡だから、身を硬くした。

もう終りだ、と覚悟した。

きっと、子供を堕ろしてほしい、と乞われるのだ……。

あれほど迷っていて……自分でも何度も堕ろすべきだ、という方向に向かいかけているにもかかわらず……聡はそれを想像する聡は腹をえぐられるような痛みを想像する。

しずしずと病室に入ってきた純代は深々と礼をした。

聡はさらにとまどった。

礼を尽くした態度に、何と返事をしていいかわからないが、謝らなくてはならないことは確かだろう。

聡はベッドの上に座り直した。まだお腹が大きいわけじゃないから正座して居を正す。

「このたびは申し訳ありません。……担任として、いえ、教師としてあるまじきことをしてしまいました」

担任として……将の未来を台無しにしかねないことをしてしまった。

聡は本心から、布団に頭をすりつけんばかりに臥すと声を絞り出した。

だから、子供は……自分で責任を取ります――口にすることのできない責任が聡の胸で焼けつくようだ。

そしてこみ上げる吐き気。以前だったらすぐに手洗いに駆け込むほど強いそれを聡は必死で耐える。

結ばれてはならない教え子の残した……愛の証は、殺さないでくれ、守ってくれと聡に必死で訴えているのだろうか。

社会への責任感と、将の子供を守りたい母性は聡の中ではみ出すほどに激しくせめぎあう。

「今日は……あなたを責めにきたわけじゃないんですよ」

吐き気をこらえながら純代の言葉を待っていた聡は、優しく抱き起こされた。

抱き起こすだけでなく、純代は聡を見つめた。

その視線には、聡が想像していた『責め』とか『断罪』といった尖ったものが一切なかったので、聡は逆にとまどった。

「だけど……」

「今日はね。あなたに味を見てもらいたいものを持ってきたの」

純代は、聡を楽な姿勢にさせると、風呂敷包みを解いてそこに入ったタッパーのうちの1つを取り出した。

蓋を取ると琥珀色に染まったゼリーのようなものが入っていた。

「桜島大根よ。味を見ていただくだけでいいの」

よくテレビなどで見る、巨大な姿ではなく切り分けた一部らしい。

聡は見た目だけでその柔らかさと味の染み具合がわかるものと、純代の顔とを見比べた。

「薩摩藩時代から鷹枝家に伝わる味なのよ。私も今は亡きお姑さまに教えていただいたの……。あなたにも、将来教えられればいい、ってわたくしは思っていますの」

聡にはわけがわからなかった。

ただ、今しがた強烈にこみ上げていた吐き気は急速におさまり、目の前のものから発せられるカツオだしの香りは聡を苦しめてはいない。

「……先生。わたくし、将から一切の信頼を失っていますの」

純代の口調は、旨そうな煮物を手にしているのには似合わない寂しげなものだった。

前に将から聞いた、家を爆破された事件のことだろうか。

聡は立ったままの純代にやっと気付き、とりあえず椅子を勧める。

純代は微笑むと、それに腰掛けた。

「聞いて頂けるかしら。将とわたくしに何があったか……」

 
 

今から9年半前。名門・岸田家の息女である純代は、前妻の一周忌を待ちかねたように鷹枝家に後妻に入った。

政治家によくありがちな閨閥関係を築くための政略結婚である。

しかし名門に生まれた純代のほうは、いつかはそれをするのがあたりまえだと思っていた。

それに、親の決めた結婚相手で13歳も年上の再婚者とはいえ、政界きっての美貌を持つ鷹枝康三が相手である。

男としての魅力で結婚相手を選ぶことなど叶わないと思っていた純代は、ひそかに自分は幸運だと喜んだ。

1ヶ月に満たない短い新婚生活ののち、康三自身が見合いの席で告げたとおり、前妻の子供が預けられていた曽祖父の家から戻ってきた。

その春から小3になるその男の子……将は、新しい母である純代を親しげに見上げると

『鷹枝将です。よろしくお願いします』

と教えられたのか、ぺこりと頭を下げた。

『親の私が言うのもなんだが、素直でとてもいい子なんだ。だが、母を亡くしたことはどうしてやることもできない。私も忙しくてめったに面倒をみてやれないんだ。だから、どうか可愛がってやってほしい』

前の日に康三は、純代に頭を下げた。

自分のことに関しての要望はそれまで一切せずに、純代のやり方を見守っていたような康三だ。

その康三が初めて純代に頼みごとをしたのが、将のことだったのだ。

もともと、岸田家の息女として代議士の妻を立派に務めることが自分の生き方だと自覚していた純代である。

もちろん前妻の子供をきちんと育てるのはその一環として当たり前だと思っていた。

だが頭を下げる康三に、さらにその決意を新たにした。

もし自分に子供が生まれても、分け隔てすることなく可愛がろう……純代は自分に誓っていた。

康三は、それだけ純代に対しても誠実な夫だったのだ。

だが、9歳になる男の子が、果たして自分になついてくれるのか不安だった。

ことあるごとに前の母と比べて……康三の前の妻の影をちらつかせるのではないか……そんな暗い予想は見事に外れた。

将はその日から純代を『おかあさん』と呼んで、反抗することもなく慕ってくれたのだ。

第304話 意外な救い(2)

漂うかつおだしの香りに将は目が覚めた。

記憶の中にある何かを煮ているような懐かしい匂いは、昨夜遅くに帰宅したときから漂っていた……それを思い出して、将は完全に覚醒した。

旭川からの最終便で、将が羽田に着いたのは、昨夜10時すぎだった。

入院した聡に、真っ先に会いたかったが、病院の面会時間などとうに過ぎている。

ダメもとで電話を掛けたが、病室にいる聡にはやはり通じない。

仕方なく将は、見舞いは翌日の土曜日に行くことにしてまっすぐに帰宅し、そこでかつおだしの香りを嗅いだのだった。

枕もとに置いた携帯を見ると、もう朝10時を過ぎていた。

昨晩のうちに送ったメールに対して聡からの返信がやはりないことを確認すると、将は起き上がった。

大きくあくびをしながら、義母の純代が何か煮物でも作っているんだろうか、と将は匂いの元を探るべく階段を降りる。

すると、階段の音に気付いたのか、ダイニングから孝太が顔を出した。

「お兄ちゃん、おはよう」

孝太は食べ終わった朝食の皿をキッチンに運んでいるところだった。

土曜日の今日は、孝太もゆっくりめの朝食だったらしい。

キッチンに純代の姿はなく、孝太は一人でテレビを見ながら食事をしていたようだ。

「お義母さんは?」

将はパジャマのまま、ジュースを冷蔵庫から出した。

孝太は気を利かせて、ジュース用のコップを戸棚から出して来る。

「お見舞いだって。さっき出掛けたよ」

「ふーん」

代議士夫人である純代が、支援者などのお見舞いに行くのはよくあることなので将はさほど驚かない。

それにしちゃ、この残り香。

しかしキッチンにも冷蔵庫にも、ダシを使って煮るようなものは何も残っていないようだ。

テーブルの上にはほうれん草をいためた物が乗った皿が置いてある。

「お兄ちゃん目玉焼きつくれる?」

孝太は冷凍庫からパンを出してきた。

「うん」

「じゃ、朝ごはんは目玉焼きつくって食べてって。クリームスープはあっためてこの器に入れてってさ」

孝太が伝えるまでもなく、同じ内容がテーブルの上のメモに純代の字で将に宛てて残されていた。

ダシの香りとはまったく逆に、今朝は洋風らしい。

将は香りのもとを突き止めることができずに鍋のスープを火にかける。

「お兄ちゃん、昨日は何時まで頑張ったの?」

「5時くらいかな」

将はスープを温めながら答える。撮影疲れはあったが、仕事がない日こそ勉強をやらなくてはならない。

将は眠気と疲れを我慢しつつ遅れている英語を、聡のために、そして聡を思い出しながら明るくなるまでやった。

……と。将は、急いで聡の元に見舞いに行かなくてはならないことを思い出した。

思い出すと居ても立ってもいられなくなる。

「孝太、パンはいい。……兄ちゃんちょっと出かけないといけないから」

将は慌てて熱いクリームスープを飲もうとして舌を少し火傷してしまった。

 
 

タクシーを呼ぶのももどかしかったので、久しぶりにミニを運転して将は聡の入院する病院へやってきた。

スキーで骨折したとき、それと大悟との死闘での負傷のときに世話になった、看護士の山口がいる病院だ。

みな子は、聡が運び込まれた病院名を告げなかった。

だが、学校で倒れたのならここに運び込まれるだろうとめどを付けた将は、看護士の山口に電話して確認したのだ。

すると案の定、聡はここに入院しているとのことだった。

何もかも忘れていた将だが、電話の向こうの山口が、さも言いにくそうに

「鷹枝くん。先生は赤ちゃんが出来たのよ……」

と口にしたことから、聡のお腹の子が、他の男との子供になっていることにかろうじて気付いた。

将は寝不足の頭を回転させて、

「知ってますよ。ムカつくなあ……」

と明るく、単なる聡を慕う生徒を演じるのに苦労した。

「てっきり、あたし鷹枝くんって、アキラ先生のことを本当に好きなんだと思ってた」

――今でも本当に好きなんだよ。アキラのお腹の子は俺の子なんだよ。

本当は叫びたい将だが、そうするわけにもいかず、ゆるく照れ笑いを返す。

「まさか……」

子供の父親と堂々と名乗れない自分が少しみじめで、将は電話を握り締めた。

「でも、近くまで行くんで、ついでに見舞います」

親に命じられたとはいえ、ウソをつかなくてはいけない自分が、将はちっぽけで情けなかった。

 
 

病院の地下にある駐車場に将はミニを止めた。

ここから内科病棟までエレベーターで直接上がれることを事前に調べてある。

幸いつけてくる記者はいないらしく、将は暗い駐車場でホッとした。

ミニで見舞いに行くことを選んだのは、こうすれば人目に立つのが最低限で済むという計算もあったのだ。

今日の将はサングラスに、髪を全部入れ込んだニット帽で顔を、大きめのジャンパーとブカブカの腰パンで体のラインを隠すべく努力をしている。

なぜなら、順調な上り坂での将の突然の芸能活動休止に、世間は再び蜂の巣をつついたような騒ぎになったからである。

実は官房長官の息子だったという騒ぎが収まったところへ、なものだから世間の騒ぎ方はすごい。

ちょうど、今出ている週刊誌には将の芸能活動休止に関する憶測記事が花盛りだ。

それでも父と芸能プロダクションの努力の成果か、あまりにひどい記事は載っていないようだ。どれも概ね、

『政治家になる将来を見据えて一流大学への進学を目指すためと思われる』

と現実に近いことだけが記事になっていた。

聡のことはどこも嗅ぎつけていないらしいのが幸いだった。

 
 

エレベーターは奇跡的に途中で誰も乗ってくることなく、6Fの内科病棟に着いた。

待合スペースには、土曜日のせいか患者がやたら多い。

将はガムを噛みながら何気なくナースステーションへの直行を試みた。

リズミカルなガニ股は井口の歩き方をイメージしているが、その心の中は見つかって面倒なことにならないように、と必死で祈っている。

病院に似合わない、長身・サングラスにガムを噛むB系男の出現に患者のうちの数人は顔をしかめたが、幸い将だとは気付かなかったらしい。

なんとか待合スペースを抜けることができて気が緩んだ将は、次の瞬間、後ろから腕を強くつかまれた。

驚きのあまり、全身の毛が逆立ち……将は振り返った。

「こちらへ」

毛利は、小柄な体に似合わない力で将の腕を掴み、給湯スペースへと連れ込んだ。

驚きのあまり、一瞬なすすべをなくした将は毛利が引っ張るがままになるしかない。

「困りますね」

毛利は小声ながら、眼鏡の奥の鋭い瞳で将を威圧した。

銀縁眼鏡に流しの上の蛍光灯が無機質に反射している。

「せっかくこちらがあなた様をスキャンダルから守るべく四苦八苦しているのに……。こんなことをされたらすべてが水の泡です」

憮然とすることで自分を取り戻した将は、毛利を無視して給湯スペースを出ようとした。

そうはさせじと毛利は立ちはだかる。

「お帰りください」

「どけよ」

「そうはいきません」

将はこれ以上の押し問答は無駄だと、実力行使をすべく、毛利を軽く突き飛ばそうとした。

だが、毛利はそういうこともあろうかと足を踏ん張っていたのかそれほどよろけず、将を頑として給湯室から出そうとしない。

そこへ。

「何をしているんですか」

鋭い女の声に一瞬の隙を見せた毛利の脇をすり抜けて、将は給湯室から転がり出て……そこに立っていた女を見て、あっ、と声をあげた。

そこにいたのは……義母の純代だった。

第303話 意外な救い(1)

『そのときが来るまでは』

と将の父親の秘書・毛利は言った。

『そのとき』が本当に来るのか、そしてそれはいつなのか、聡は聞きたかったが、聞けるはずもなく、ただ承諾するしかなかった。

 
 

昨晩。鷹枝家の邸宅では、毛利が聡の入院について報告していた。報告を受けているのは将の義母・純代だ。

政務で忙しい康三に代わって、私的なことはこうして純代が報告を受けることも多い。

特に今回の秘密を知るのは、将の両親である康三と純代、そして秘書の毛利だけに留めてあるのだ。

孝太はとっくに眠り、かつ家政婦も帰った22時すぎをわざわざ選んで毛利が来訪したのは秘密が漏れるのを防ぐためなのだ。

「そうですか……」

純代は一瞬目を伏せたが、

「先生の体調のほうは……?」

と訊き返した。

「いいとは言えないようです。いわゆるつわりで食が進まないようで。春の健康診断時に比べて体重が5キロも減ったとのことです。病院では点滴を受けていますので若干快復したようですが」

「5キロ……ですか」

純代は静かに目を見張った。

「つわりだけが原因ではないかもしれませんが」

毛利はあとから付け加えたが

「それにしても……よくないですね」

と純代は美しく整えた眉を寄せた。

「ですが、奥様……」

毛利は茶托から湯飲みを手に取りながら目をあげた。

「こういっては何ですが、古城先生の子供はご無事ではないほうが、鷹枝先生にも将さまの将来にも都合がよいのでは……」

そう言いかけた毛利は、純代が背筋を伸ばしたので、ハッとする。

純代は軽蔑のまなざしで、毛利を見下すと、

「ご報告ご苦労様でした」

とだけ言い放った。そして毛利を早々に追い返すべく自ら席を立った。

毛利はあわてて茶を啜ると、あわてて席を立ち、鷹枝家を辞した。

 
 

「ほとんど食べてないわねえ」

山口は聡の朝食のトレーを見て、首を傾けた。

朝食は喉に通りやすいように、お粥を用意してくれている。だが聡はそれを気持ち程度しか口にできなかった。

「食べないと、お腹の赤ちゃんによくないわよ」

そういわれても、喉に通らないのだ。

お腹の赤ちゃんを育てるべく、たくさん食べないと、という本能はある。

だが、食欲を感じると、すぐさま胃袋を締め上げるような吐き気が込み上げてきて、聡はどうしても食べられない。

吐くときの体力消耗に懲りている聡は、結局少ししか食べられないのだ……。

「何か心配事があるならカウンセラーを手配しようか?」

山口は専門家らしく、次の手を考えてくれたが、聡はうつむくばかりだった。

心配事なんて……分かりきっているから。

そして、それはどんなに優秀なカウンセラーだって解決できないのだ……。

「彼氏に一度、帰って来てもらうわけにはいかないの?」

山口は提案した。

『彼氏』……つまり、相手についての話題が出たときは、元・婚約者である原田博史のことを想定して話すこと。

聡は、毛利に渡された書類を思い出す。

あの日、レストランの個室で現金100万円に引き続いて、毛利はプリントアウトされた書類を聡に手渡した。

それはまるで企画書のような体裁で、今後の聡の行動についてが細かく決められていた。

お腹の子供の父親が将であることを隠すために。

・子供の父親は、中国に赴任中の原田博史とする

・学校には、博史と籍を入れた、と説明する

・それがバレないように、出来るだけ早く学校を辞めて転居すること

……

など妊娠について訊かれた場合についても、ケース別に細かく回答例が書かれていた。

とにかく、聡は友人や両親などすべての人間を騙さなくてはならない、ということがわかった。

毛利の書類によれば、山口がいう『彼氏』は博史を想定することになっている。

だけど、聡はもう博史の顔も思い出すことすら難しかった。

「忙しいから。迷惑かけられないわ」

かろうじて、博史のことを思いやるような演技をする。

「そうだけどさ、二人の赤ちゃんでしょ。向こうのご両親は?」

山口は親身になるあまり、少し呆れた口調になった。

『ヨリを戻した』ことになっている博史のことは、ほぼそのまま現実を説明すればいいが、

その両親――ここだけが事実と異なることを説明しなくてはならない。

「札幌……だから」

聡は博史の両親の住所について嘘を答えながら、少し胃がキリっと痛んだ。

博史の母……薫。クリスマスに余命1年だった薫はまだ生きているだろうか……。

「そうかー。じゃ無理ね。……でも今日は土曜だし、せめて電話で彼氏に甘えなさいよ」

あきらかに1人の患者に接する時間をオーバーしながら、山口はなおも親しげな声で聡を元気付けるべく提案をする。

「うん。そうする」

聡が電話で甘えたいのは……将だ。

将の顔が見たい。声が聞きたい。将に寄りかかれば、たぶんこの苦しさは半分になる。

だけど勉強に頑張る将にそんなことができるはずはない。だけど聡は山口へと微笑をつくった。

 
 

山口が出て行くと、聡は携帯を開いた。

将からのメール1通。ゆうべのうちに届いていたらしい。

井口か誰かから聞いたのか、聡が入院したことについての心配が述べられていた。

だけど、返信することもなく、聡はベッドに横になった。

ずっと空腹のような、だけどムカムカするような胃を抱えて、聡の体には力が入らない。

聡は下腹をなぞりながら、まだ自分がどうしたいのかわからなかった。

『将さまの将来のためですから、何卒よろしくお願いいたします』。

あの秘書は言った。

だけど、それを言うなら。

18歳で父親になることが、将来のためになるはずがない。

聡は、秘書の目を思い出す。

――教師の癖に、教え子と。

そういう世俗的な軽蔑感情を隠すべく、一切が事務的に話されていたのはいい。

だけど……将はどうか知らないが、明らかに歓迎されていない……迷惑な妊娠だということは、聡にだってわかる。

聡ですら、まだ産む決意には至っていないのだから。

――やはり堕ろすべきなのだろうか。

将とこのまま結婚できるとも思えない。

仮に結婚できたとしても。将の人生にいっそう苦難の道を歩かせることになる。

「やっぱり……」

決意しながらも聡は自分の脈とも思えるような小さな脈を腹に探った。

脈は無防備なほど容易に見つかった。動き始めた小さな心臓を、聡は止めてしまわなくてはならないのだろうか……。

「ごめんね」

声もなく呟いた次の瞬間には、自分と結婚するために、必死で勉強に励む将の姿が思い出されて、決意が揺らぐ。

聡は、天井に目を移した。

――自分に会ったばかりに、将は苦しいほうにばかり導かれている。

春から夏にかけて、将と離れていたときは、忘れかけていたこの考え。

今また、再び聡の心を捉えてしまっていた。

――いっそ将と出会わなかったらよかったのに……。

そこまで行き着いた聡の思考が起爆剤となって、次の瞬間、聡の心に将との1年余りの日々が水中花のように一気に蘇った。

膨らみきった思い出が、聡の目から涙を押し出した。

この思い出から将を抜いたら……。

1年前だっただろうか、将と別れることを決心した聡は、爪を引き剥がすような痛みを想像した。

今は……生きてさえいられないと思う。

だけど、近いうちに将の子供を闇に葬り、将とも離れなくてはならないかもしれない……。

その想像は、将と結婚するよりも、痛いほどの現実感となって聡に迫った。

将の思い出と、それを手放す日を想い、涙が止まらなくなってしまった。

そのとき、ノックの音がした。

誰だろうか。医師の診療ではない。だとすると聡がここに入院しているのを知っている学校関係者だろうか。それとも……将。

聡はあわててパジャマの袖で涙を拭い、カーディガンを羽織ると「はい」と返事をした。

静かに開いたドアのところに立っていたのは……。

聡はあまりの思いがけなさに目を見開いた

第302話 偽りの父

聡が入院。将はシートから飛び上がらんばかりに驚いた。

まさか流産。

「それで、容態は!……子供は」

あわてて訊き返してしまった将は

「……って、鷹枝くん、アキラ先生の妊娠知ってたの?」

というみな子に問いにハッとした。

聡のお腹の子供の父親が将であることは誰にも秘密。

康三との約束をかろうじて思い出す。

『今度はことがことだ。芸能活動のときのようになしくずし、というのは絶対にないからな』

と康三は念を押したのだ。

「い、いや。具合が悪そうだから……まさかと思ったんだけど」

将は自らの直前のセリフを、まったくのあてずっぽうに仕立てるのに骨を折った。

プロの俳優らしくない棒読みになりそうになるのを、大げさに驚くことと

「ウソだろ?マジで妊娠?」

と言い訳がましく付け加えることで誤魔化す。

「婚約している人との間に赤ちゃんが出来たんだって。鷹枝くん、アキラ先生が婚約してるって、知ってた?」

――ああ。

将はタクシーの天井に向かって大きくため息をついた。

――そういうことにしたのか……。

聡らしくない策略だが、将はそれがお腹の子の父親が将であることを隠すためだということがすぐにわかった。

「いや……、あ、うん」

将は知っていたことにするべきか、知らなかったことにすべきか悩んだあげく、

「なんとなく、知ってたけど。外国にいってる人だとか言ってたかな」

と博史のことを頭に思い浮かべて、偽の婚約者に仕立てる。

「そう……知ってたんだ。アキラ先生、鷹枝くんに話してたんだ」

聡のお腹の子は、将の子ではない。

海外赴任中の婚約者の子供だということにする……たしかにこうすれば、将が疑われることもないし、

相手は海外赴任中だから周りに見えなくても不自然ではない。

「うん……」

将は自分のことを、みな子にどういう設定と説明するべきか悩みつつ、携帯をあてた頭ごと頷く。

「アキラ先生、婚約者がいるのに……鷹枝くんと付き合ってたんだ」

「あ、いや」

みな子の口調にショックと、かすかな怒りが見えて将はあせった。

「お、俺が、強引にアキラに迫ったんだ。婚約者がいるのに」

「でも……サイテー」

携帯を通してでも、みな子の聡に対する軽蔑が見えるようだ。

「いや、だからアキラは悪くないんだ」

将の弁解は、遠くのみな子にはまるっきり届かないようだ。

「鷹枝くんが可哀想」

「いや、違うんだ」

将はみな子にすべてを話してしまいたくなる衝動を抑えるのに苦労した。

「とにかくアキラは、俺があんまりしつこいから、ときどき付き合ってくれてただけなん……」

「鷹枝くん」

みな子は、将の弁解の途中で、凛とした声で割って入った。

思わず将は黙る。

「まだ、先生のことが好きなの?」

「好き……だけど」

みな子の質問に、考えもしないで……自然に答えが出てしまった。

本当は『もう諦めた』などと答えたほうが安全だとわかっているのに。

聡に対しての想いは……ウソをつけない。

しばらく、携帯を持ったままの将に、冷え込み始めた大地を走る車のエンジン音と振動だけが響いた。

「わかった」

みな子は静かにそれだけ言うと、電話を切った。

将は携帯を持った手を膝におろすと、再びため息をついて外を見た。

丘に沿って、何かの儀式が行われるように一列に並ぶポプラ並木。その上に爪のような月が鋭く輝いていた。

ただ、聡の容態が心配だった。

 
 

みな子は、携帯をベッドに投げつけた。

携帯はベッドの上でバウンドすると、床の上に滑り落ちた。

携帯の代わりに自分の体をベッドに投げ出したみな子は、枕につっぷした。

――信じられない。

みな子は目を固くつむる。

その瞼の裏には、あのバレンタインデーの前日のようすがいやがおうにも蘇る。

あのとき、改札を通った聡は、頬を輝かせて将に駆け寄っていった。

嬉しそうに抱き合っていた二人。

それをまのあたりにして嫉妬に泣いたみな子だったが、狂おしいほどの感情が冷めてしまうと、そこには二人への憧れが残った。

年こそ離れているけれど、背が高くて大人っぽい将と、細身だけど桃のような可憐さを持つ聡はお似合いだった。

あんな風に、誰かと愛し合いたい。

そんな想いは、猫を見にいったときに聞いた

『本当に好きだから、今は離れてる』

という将の純粋な気持ちを耳にしてますます募った。

みんなに秘密だからこそ燃え上がる恋。そんな二人だからみな子は、身をひいたのだ。協力だってしたのだ……。

なのに。

みな子は爪を立てると枕を握り締めた。

こともあろうに聡は……将と婚約者の二股を掛けていたのだ……。

きちんとした婚約者がいながら……のうのうと、淑やかな教師の顔をして、年下の生徒と遊んでいたのだ。

そんな聡なのに、将はまだ懲りずに好きだという。

――憎い。

みな子の心の中に真っ黒な憎悪が沁みこんでいく。

――先生が憎い。

みな子は胸の中で激しく増殖していく憎悪をなすすべもなくもてあましながら、横たわっていた。

 
 

「アキラ先生」

看護士の山口は、いったん細く開けたドアから顔をのぞかせるようにおどけると、

次の瞬間には主任としての職務を遂行すべく、きびきびと入ってきた。

見知った顔に、聡は化粧気のない顔をほころばせると、起き上がった。

「あ、起きなくてもいいのに。……だいぶ顔色はよくなったようね」

「心配かけて、ごめんなさい」

昨日、ひどいつわりのため再び職員室で倒れた聡は、この病院に運び込まれたのだ。

「いいのよ。あたしたちはこれが仕事ですもん」

そういいながら山口は、デジタル体温計を聡にわたす。

山口が働いている総合病院の内科に聡は入院していた。本来は産婦人科に入院すべきなのだろうが、あいているベッドがなかったのだ。

内科のほうも空きベッドがなく、聡は個室を使っている。

「気分のほうはどう?」

「だいぶよくなったわ」

「でも、びっくりしたわ。アキラ先生に婚約者がいたなんて……しかも赤ちゃんができたなんて」

山口はいたずらっぽいまなざしを聡に送った。

聡は何も言えずに、さも渡された体温計を腋の下に挟むためを装うべく、俯いた。

「てっきり、あの鷹枝くんと付き合ってるのかと思い込んでたわ。……ま、よく考えてみれば、教師と教え子でそんなことはありえないんだけど」

山口のほうは、まるっきり悪気はないらしい。その証拠に次の点滴の準備によどみがない。

「でも、妊娠初期は用心しなくちゃ。彼氏は日本に帰って来れないの?」

「忙しいから……」

ウソをつく聡の胃は、また焼けつくように痛む。

「そう。ご両親も萩じゃ来れないしねえ。……まあ、ここではのんびり気楽に過ごしてね。それが一番の薬なんだから。夕食はまたゼリーしか食べられなさそう?」

「ごめんなさい……」

「あたしに謝らないの。いちおうお粥と、スープも用意するから、食べるように努力してね。いつまでも点滴に頼れるわけじゃないんだから」

そういいながら、山口は聡を横たわらせると点滴の針を腕に刺した。

透明な管に、紅い血が少しだけ逆流するのが見えて……やがて点滴液が落ちるのと共にその紅さは見えなくなった。

「じゃ、帰りがけに寄るわ。今日は日勤だから」

山口は踵を返す歩調までもテキパキと去っていった。

 

聡は、しばらく点滴の液がぽとぽとと管へと落ちる様子を見つめていたが、やがて視線を天井にうつす。

おとつい。

聡は点滴をしていないほうの手で下腹をそっとなでた。

腹はわずかに脈打っているものの、あいかわらず平らなままだ。

だけど、ここにはもう3ヶ月にかかろうというお腹の赤ちゃんが育っている。

……この子の父親を、『海外赴任中の婚約者』にしようというたくらみを持って来た、冷たい目の男のことを聡は思い出していた。

その冷たい目は、どこかで見たことがあるような気がしたが、聡は思い出せなかった。

男は、おとついの夕方、勤めが終わって校門を出ようとする聡をベンツで待ち伏せていた。

『鷹枝康三の秘書の毛利といいます。少しだけお話をさせていただいてよろしいでしょうか』

仕立てのよいスーツを着て、あくまでも物腰も柔らかく、礼儀正しかった。

だが、拒否はあくまでも許さないという毅然さを、眼鏡の奥の瞳に光らせながら、毛利は聡を車内に招いた。

毛利は、聡を一流レストランの個室に連れて行った。

もう夕食が出てもおかしくない時間だったが、運ばれてきたのはハーブティだった。

『お体とお腹のお子様に触らないようなブレンドを特別オーダーいたしました。安心してお召し上がりください』

威圧感は揺るがさないまま、毛利に勧められて聡はそのお茶を口にした。

しかしそのお茶は、威圧的な雰囲気の中でもそれは素晴らしく旨く、聡は久しぶりに

『美味しい』

という言葉を口にした。毛利は油断した聡に切り込んできた。

『今日、あなたさまをお呼びだてしたのは、他でもありません……』

……お腹の子供の父が将であることは、鷹枝家の指示があるまで隠しとおすこと。

それは聡にも異存はなかった。

最初からそうするつもりだったから。

頷いた聡に、毛利はさらに

『そうはいっても、父親もなくしてお腹が大きくなるのは、世間が納得しないでしょう』

と身を乗り出してきた。その口調といい、むしろこちらのほうが本題に見えたほどだ。

『それで、です。……聡さんには、以前婚約者がいらっしゃったでしょう』

聡はどうして、将の父親の秘書が、聡の以前の婚約者を知っているのか、といぶかった。

だが、そんな謎を自らあかすはずもなく、毛利は続けた。

『お腹の子供の父親は、そのときが来るまでは、海外赴任中の婚約者だということにしていただけませんか』

そういうと、毛利はすかさず分厚い封筒をテーブルの上に出すと、厚地の光沢のあるテーブルクロスの上を、聡のほうへゆっくりと滑らせた。

『100万入っています。足りなかったら、まだお支払いします』

聡は封筒を一瞥すると、その見開いた大きな瞳を毛利の眼鏡のあたりに向けた。

『どうして……』

『出産費用と、秘密の守秘への報酬です』

毛利はあくまでも事務的だった。

『そんな……』

戸惑う聡に、毛利はさらに付け加える。

『足りないようだったら、さらにお支払いいたします。ただし』

毛利の目が……小刀で削ったような細い目が鋭く光る。

『秘密が、こちらの指示より早く世間に漏れてしまった場合は、お腹の子もろとも安全を保障しかねます』

第301話 秋空

北海道は、黄金色と真紅の秋が訪れていた。

群青色にさえ見えるほど澄んだ秋空の元、大雪山系の山々は白い冠雪に覆われ、白樺の幹を背景に楓の葉はいよいよ燃えるようだ。

やがて訪れる白一色の季節に抗うように、それは色鮮やかだった。

北海道の紅葉は、本州のモミジと違って子供の掌ほどある楓が中心で、背景とのコントラストも併せてどこか洋風だ。

だが、将はそんな北海道の季節感を感じる間もなく台本とくびっぴきだった。

……もう、同じ場面で5回NGを出してしまっている。

元倉亮作品の撮りは、通常のテレビドラマのように

『セリフを噛まずに口に出せればOK。あとは編集任せ』というような生易しいものではなかった。

役者の演技はもちろん、背景を舞う落ち葉までチェックをされる。

今回の5回のNGのうち3回は太陽が雲に隠れてしまった、という気象条件からだ。

今日は風が強く、千切れ雲がどんどん空を滑っていくようだ。そんな雲が気まぐれに太陽を隠してしまったのだ。

しかし残りの2回は将の演技が監督の満足いくものではなかったからで、

「カット!」

といわれて将は唇を噛んだ。

今日は、元倉も見に来ている。それでことさら厳しいのかもしれない。

ちなみにこのシーンが終われば、将はホテルでゆっくりすることになっている。

だから、一刻も早く終わらせて、勉強に取り掛かりたい……そんな焦りは、見事に裏目に出てしまっている。

 
 

結局、脚本家・元倉亮本人の説得で1月期からの連続ドラマ『あした雪の丘で』の出演だけは継続することになった将だが、あの説得の直後、元倉は3話以降の台本を大きく変更した。

それをみた将は仰天した。

将のセリフと登場場面が激増していたからだ。

かつ、ドラマにしては珍しく、カメラを複数使っての長回しが多くなっているらしい。

――イジメかよ。

将は一瞬、ニコニコしている元倉を睨んだ。

「ストーリーを大幅に変えたんだ。民宿の娘はゲスト出演だけの予定だったんだが、急遽レギュラー化して、君とからむことにした」

その民宿の娘役と将の演じる役がたびたびケンカをするために、出番が増えたのだ。

新人の将にとってはケンカのシーンがこれまた難しい。

相手との呼吸をあわせてて畳み込むようなセリフまわしが必要だからだ。

『あした雪の丘で』の撮影現場の、のんびりとしたムードに似合わない厳しさは2話までで身にしみていた将だが、ここまでセリフが長いと覚えるのが大変だ。

将はいままで、台本はざっくりと読んであらすじだけを覚えることにしていた。

あとは本番の雰囲気で自然にセリフが出てきていたのだ。それが出来るのは、ある意味才能があるといえるのかもしれないが、ここまで1場面とセリフが長いとさすがの将も、自信がない。

北海道ロケの待ち時間やホテルでの時間を受験勉強に充てようと思っていた将は、思い切りあてがはずれることになった。

睡眠も、初日に

「なんだ、そのクマは!」

と監督に怒鳴られたので、きっちり6時間は寝なくてはならない。

せめて、『睡眠学習効果』を期待しようと、英語の構文を音声になおしたものをイヤホンで聞きながらベッドに入ったが、

疲れからかすぐに寝入ってしまい、何も覚えておらず、将はがっかりしたのだった。

結局将が受験勉強にとりかかれるのは、夜の撮影がない日の2~3時間だけだった。

 
 

それでも寝る前に1回の聡へのメールは欠かさなかった。

今日の勉強の進行具合や仕事のことを書き、聡の体の調子について訊く。

どうしても文面が長くなってしまうので、持参したノートパソコンから打ちこむこともあった。

本当は電話で声が聞きたかったが、話が尽きなくなるのは目に見えていた。

聡との将来のために、時間が何より大事な将は、今の聡との触れ合いをも削る必要があったのだ。

聡からの返信は、すぐに返ってはくるものの、あいかわらず短めで、省略した文章の中に思わしくない体調が隠れているようだった。

先日のように『食べるたびに吐いてしまう』とは書かれないが、

『今日は何を食べた?』という将の質問に対する返信は

『ちょこちょこ食べてるから心配しないで』。

心配な将だったが、翌日の撮影のためにこれ以上の突っ込みは控えなくてはならなかった。

携帯を閉じる前に現れる、待ち受けの聡の桃のような頬っぺたを撮影したころ、今の聡の青白さは想像もできないかったのに……。

将は聡とその子供の健康を祈るばかりだった。

 
 

6回目。なんとか噛まずにラストまで話せた将だが、NGだった。

「もう一度、いってみよう」

監督の声に、将は人目もはばからずため息をついた。

どこが悪いのか、まるきりわからない。今なんかとてもよくできた気がしているのに。

将は元倉と話している監督のところへと大股で近寄ると

「どこがいけなかったんですか」

と叫ぶように訊いた。もはや口調を気にすることもできない。

監督はあくまでも穏やかだった。

「将くんさ。今、将くんなんだよね。峻じゃない」

役の峻になりきっているつもりだったので、ムッとする。

どうせ、俺は演技力ねーし、と心で毒づく。

「将、昨日の晩飯なんだったか覚えてる?」

そばにいた元倉が唐突に訊いた。

将は答えられなかった。

夕べは、この近くにある元倉主宰の演劇塾のログハウスで親睦会を兼ねての夕食だった。

早く腹を満たして、勉強をしたい一心の将はロクに味わっていなかったのだ。

「昨日はさ。鮭のチャンチャン焼きだったんだけど」

そういわれて、やっと思い出した。

ログハウスの庭で、焚き火を燃やしていた。

その上に鉄板をしつらえて、鮭の半身と味噌、野菜を載せて焼く。

焦げちゃう、といって将とあまり年が違わない塾生たちが楽しそうに騒いでいたっけ。

「峻も、今日のシーンの前日は、同じメニューを食べたという設定なんだ」

将にはわけがわからない。

セリフにもト書きにも、そんなことは書いていないし、それを食べたことに関連した演技が出てくるわけでもない。

キツネにつままれたように、まばたきを繰り返す将の前で、元倉は煙草を取り出した。

「峻はさ。大事なバイクを盗まれて、それでも東京に帰らずに、とりあえずここで暮らしてみることを選んだわけでしょ。

そんな彼が、初めて秋を迎えてさ。民宿や畑の手伝いでブーブー文句をいいながらも、彼は暮らしを楽しんでいる。

よそ者の彼は日々の暮らしで、初めて迎える秋の北海道を堪能しているんだ」

元倉は、台本に出ていない部分を説明しながら、煙草を吸い込んだ。

先日会議室で吸っていたのとは、まるで味が違うことが、他人から見てもわかる。

将は思わずあたりを見回した。

落ちる前の木々の葉が午後の光をうけて金色にキラキラと輝いている。

風はその温度だけでなく、スペアミントのようなスーッとした感触を残す。フィトンチッドだろうか。

元倉はさも旨そうに目を細めて煙を吐くと、将を見上げた。

「その能天気な嬉しさが、君には出ていない。空気感がまるで感じられない。君は……東京から受験を持ち込んで喘いでいる、将のままなんだ」

そういうと、元倉はいきなり将の手から台本を取り上げると命令した。

「あの木のところまで歩いて来い」

元倉が指差した先には……一本のポプラの木があった。

大地がうねっているような丘のつらなり。

遥かに続くその中に小さく見えるその木まで、片道だけで10分は軽くかかりそうに小さく見えた。

「ここの空気を楽しめ。リフレッシュしてこい。仕事も受験も切り替えが大事だ。君の叔父さんはそれが巧かった」

将はハッとして元倉の目を見た。将が生まれる前に亡くなった叔父の周一とこの元倉は都立高校で同級生だったと康三に聞いている。

「俺と同じように遊んでいながら、東大に軽々と現役合格したんだ。切り替え上手ってのはヤツのことだ……それを見習え」

元倉は笑うと、監督に休憩時間をとるように申し出た。

 
 

畑の中の道を将はとぼとぼと歩いた。

おそらくトラクターしか通らないのであろう、未舗装の道はジャリというのには大きすぎる大小の石がゴロついていて、気をつけないと足をとられる。

足元ばかりを見ている将は、巨大な青い半球のような空に気付かない。

ふと、振り返る。

目指す木と撮影現場だとまだ撮影現場のほうが近いくらいだ。

うんざりした将は、誰もこっちを見ていないのを確認すると、牧草地に入り込んだ。

巨大な白いビニールで丸く囲った牧草の陰に座り込む。

撮影と勉強と聡の心配と。将は心底疲れていたのだ。

「はー」

座り込んだが最後、疲れが毛穴から一斉に吐き出されるようだ。

――こっそり煙草でも持ってくればよかった。

将は手持ち無沙汰な両腕を頭の上で組んだ。

こうすると疲れはあくびになって口を大きく開けさせた。あくびは将をとうとうその場に寝そべらせた。

パリにいた小さい頃に連れていかれた、オルセー美術館に、こんな感じの絵があったことを思い出す。

ゴッホだっただろうか。

青空の下、黄金色の草を積み上げた下で、夫婦が幸せそうに寝そべっている絵は、その美しい色合いが幼い将のお気に入りだった。

ひさしぶりに教科書にも台本にも支配されない脳の隙間からは、ぽっかりと聡が浮かんだ。

――アキラとここで寝そべったら幸せだろうな。

だが、一人で寝そべる将の目の前にあるのは、ただただ青い空だ。

聡は津軽海峡で隔てられた1000キロの彼方にいる。

将は、目の前を滑っていくような千切れ雲の一群を眺めた。

雲は形を変えながら、どこからともやってきて、どこかへと流されていく。

それはなんとなく、自分たちを想起させた。

――俺たちどこにいくんだろうな。

これと同じことを、ホテルの部屋で思ったら、それは焦燥感に繋がったはずだ。

だけど、干草の香ばしい香りと太陽に包まれた今の将は、不思議に不安感は遠くにあるようだった……。

目を閉じた将は、しばらくしてカッと目を見開くと起き上がった。

これが元倉が言っていたことに違いなかった。

現実の不安が消えないまでも……確実に薄めてくれる、ここの空気。

ここで暮らす地元の人には感じ得ないこと。

持ち込んだ現実を忘れさせてしまうような……旅人、つまりヨソ者だけに与えられる能天気な空気。

将は立ち上がると、砂利道を撮影現場をめがけて走った。

かくして……7回目はあっさりとOKが出た。

 
 

それから、将の撮りはきわめてスムーズに進んだ。

将は、ここに来ている間は、無理な受験勉強をやめることにしたのだ。

太陽がある間は、できるだけ峻の生活に近い暮らしをするようにした。

そして陽が落ちてから数学の難問を毎日1問ずつ、それ以外の開いた時間は小林秀雄などをじっくりと読むようにした。

せっかく睡眠時間をたっぷり取っているのだから、脳をフル回転させるものに時間を費やすほうが効率がいいと気付いたのだ。

これが受験に不利になるのかどうかはわからない。

だけど、徒に焦れば、時間だけを食って何も結果を残せなくなる。

将はそれを体得したのだ。

撮影は天候にもおおむね恵まれ、秋の北海道ロケも最終日となった。

「将、明日から、存分に受験勉強をしろよ」

小さな打ち上げを終えて、早めに帰る将を、元倉や監督を始めとするスタッフは笑顔で送り出してくれた。

 
 

最終便で帰るべく、旭川空港へ向かうタクシーの中でいきなり携帯が鳴った。

忘れ物でもしたかな、と将はジーンズのポケットからそれを取り出すと開いた。

クラスメートの星野みな子からだった。

彼女とメールをやりとりすることはあっても、電話をかけてくることはない。

何事か、と思いつつも将は通話ボタンを押して「もしもし、みな子?」とこちらから声をかけてみた。

今日でとりあえず秋のロケが終りだという解放感が将に明るい声を出させた。

「鷹枝くん、ごめんね。突然……」

それに対してみな子はあきらかに掛けあぐねたあげく、という様子だった。

将は、タクシーの窓から暗い外を見た。あいにく新月に近い外は、丘のうねりを黒く浮かび上がらせるのみだった。

外灯が少ないところを見るとまだ空港は遠いらしい。

「いいけど、いったいどうしたの?」

ゆっくり話す余裕があると見た将は、タクシーのシートに寄り掛かると、できるだけ優しい声で訊いた。

ちょうどいい、みな子の電話を切ったら聡にメールをしようと思った矢先。

「……アキラ先生が入院したの」

みな子の声はわずかに震えていた。

第300話 責任というもの(2)

外はすっかり暮れたようだ。

元倉と二人っきりでいやに白い蛍光灯が照らす会議室に残された将を沈黙が追い詰める。

息をするのも苦しいような……緊張感に圧迫されて、すでに将は、対峙する元倉の顔をまともに見ることができない。

「急に芸能活動をやめて受験に専念するというからには、よほど何か事情があるのだろう」

元倉は静かな口調で切り出した。

……そうだ。事情があるんだ。だからわかってほしい……将は下を向いたまま念じるしかない。

「だがな。僕は、そんな責任感のない行為を許すことができない。……君は、芸能界を辞めて、お父さんと同じ道を目指すつもりなのか」

つまり、政治家になるつもりか、と訊いてくる。

将の実家が、明治維新から続く政治家の家系だということを知っているのだろう。

「だがな。そもそも、たった1つの仕事をやり遂げられないようなヤツが、国の舵取りを出来るはずがない」

政治家になれるかどうかは知らない。今は、何にも優先して東大に入らなくてはならないのだ……。将は苦しい胸の中で言い訳をする。

「仕事に対して、見てくれる視聴者に対して誠意や責任感というものをもてない男が、受験に成功したところで何になる」

――元倉さんは、俺の事情を、何もわかっていないのだ。

将は息も絶え絶えの心でむなしく反駁する。

「誰もついてくるものか」

そういうと元倉は立ち上がった。部屋を出て行くのではない。

元倉は夜景を映す窓辺に立つと、煙草に火をつけた。

「君は、なぜ、この仕事を請けたのか」

元倉は、煙に眉をしかめながら将に問い掛けてきた。

聡のためだ。将は心の中で、即答した。

聡のために……、聡とのことを世間に認められるために、早く実力派俳優になりたかった。

答えははっきりとしているものの、それを声にすることはできない。

だから将は、この不本意な沈黙を続けなくてはならない。

「僕は」

黙っている将に、元倉は舞台にでも立っているような明瞭な調子で語りかけた。

「君にこの役を依頼したのは……君という人の人間性を重視したからだ」

テーブルの木目を追う将は視線の端に、元倉の痛いほどの視線を感じる。

眼鏡のレンズは、まるで日光を集めて紙を焦がすように、元倉の視線をより鋭く集めて将の横顔に照射するようだった。

「正直なところ演技はまだまだだ。だけど……君は、目覚めたばかりのような、芽吹きかけた木の芽のような勢いがあった。……いっとくが人気が、じゃない」

元倉は煙を吐き出しながら続ける。

「将。君は、ただ楽しいとか目立ちたいといった理由でこの世界に入ったわけじゃないだろう。君は何か一生をかけるものに出会っている。そんな目をしていた」

机の木目の中に、聡の姿が浮かび上がった。

今日もつらそうだった聡。

『ごめんなさいね。ちょっと体調が悪いので座らせてもらいます』

そういいながら、座って授業を続けた聡の顔は青白く、他の生徒も異論を挟まなかった。

あいかわらずゼリーしか食べられないらしい。

土曜日に、将が持っていった残りの栗ご飯も一口しか食べられなかった。

それでも、デザートに純代が手作りした、すだちのゼリーだけは『美味しい』と平らげることができたのだが……。

 
 

「君には好きな人がいるか」

唐突に、元倉は将に問い掛けてきた。

――その、好きな人のために、受験に成功しないといけないんだ。

将はあいかわらず心の内側で叫ぶ。

――だから、解放してくれ。

しかし、声にすることはできないから、

「どうしてですか」

と冷静を装って問い返す。

将が答える間、煙草を口にしていた元倉は、それをハッと吐き出すと

「君は、いつか、好きなひとさえ切り捨てるだろう」

と予言した。

聞き捨てならないその予言に将は、やっと元倉のほうを振り返った。

心臓が鈍く、重苦しく動き出している。

体中の血管に縛り上げられれるようだ。

――聡を……切り捨てる。

――ありえない!

叫ぶ心の裏側で、理性は妊った聡を確かに重荷に感じていた土曜日の事実を突きつけてきて……将は自分の心の暗闇におののく。

「切り捨てる、とか、諦める……ということは、一度やると癖になるんだ」

将の心の動揺を気付かないのか……いや、気付いているのか、元倉は将の瞳を見つめると煙草を灰皿に揉み消した。

焦げ臭い煙は窓際に置かれた空気清浄機にあっという間に吸い込まれていく。

元倉は、マラソンランナーの話を始めた。

「マラソンランナーがいい例だ。一度棄権してしまうとそれが癖になったようにそのランナーはラストまで走り続けることができなくなってしまうんだ。どんなに立派な成績を残した選手でもね」

将は空気清浄機のあたりに目を遊ばせながら、元倉の話に心を集中させる。

自分の心の暗闇から目を逸らすべく。

聡と聡が腹に抱えた二人の運命を……一瞬でも重荷に思った事実を錯覚だったのだと思い込むべく。

「人生はよく、長いマラソンに例えられる」

そんなことは、将も小学校の頃から聞かされていたし、本の中でも何度となく読んだ、使い古された例えだ。

「人生というのは、人と人との関わりあいの中にある。そして人と人とが協力しあって1つのことを成し得ていくのが仕事だ。その積み重ねによって人は食っていくことができるんだ……」

ここまでで元倉が将に伝えたいことの要旨が、おおよそわかってしまい、将の視線は元倉の足元まで落ちてしまった。

それを見届けたのか、元倉はとどめを刺してくる。

「君は若くしてそれに関わるという貴重な経験をしたんだ。それを若いうちに放り出すというのは、人生に棄権癖をつけることだ」

否、と反論したい心の表ですら、すでに力を失っている。

元倉の言葉は、将の決意の隙間に楔を刺すようにてきめんだった。

聡とその子供を守りたい。幸せにしたい。

だから父に言われたとおりに、とりあえず東大を目指す……そこに将自身がいないことに……元倉の正論は付け入ってくる。

そんなことで難関突破を成し遂げられるのか。

いや、そもそもその土台ですら揺らいでいる。

聡のことは愛している。一生でたった一人の女性であることはゆるぎない。彼女との結婚、そして温かい家庭を実現するためなら何でもする、というのは嘘ではない。

だが、あまりに早く、現実だけがやってきて……将も聡も、浮かんでいた夢が現実に背中に乗ってきた重さに喘いでいる。

あまつさえ、棄権する楽さを……土曜日に将は選択しかけてしまっている。

「それは……いつか、かけがえのない人ですら放り出すに違いない」

将は思わず、元倉を鋭い眼で睨み付けた。

元倉は将の視線を受けて、おや、という顔で笑った。

「放り出しません」

将は低い声でようやく反撃する。

「わかるもんか。仕事を放り出す人間に何の信用がある。いっとくが、今回のことで君の信用は各界でガタ落ちになるだろうな」

元倉の眼鏡の奥の瞳が、少しだけ意地悪く光った。

「君は、父上の跡を継ぐにしても、親の七光り以上のことは何もできないだろう」

たしかに国民的な人気を持つドラマの作者である元倉亮だが、そんなに力を持つのだろうか。

「言いふらすんですか……」

訊き返した将に、元倉は

「幼稚だね、君は」

といって笑い返した。

「言いふらしたりしなくても、そんなことはおのずと知れるものだ。人と人との関わりあいを放棄したことがある人間に、世間は冷たいものだよ」

言葉とは裏腹に元倉のまなざしは温かく、口調は誠実だった。

ゆえに、彼が汚い手段で陥れたいわけではないことを将は理解した。

案の定、元倉は窓際を離れて将のほうへ歩いてきた。

「僕はね。この仕事を君にやり遂げてほしいんだ。もちろん僕のこだわりであり、わがままであることは百も承知だ」

元倉は隣に座った。

今吸ったばかりの煙草の香ばしい匂いが近寄ってきたが将は目をあげることもできずに、テーブルの上に置かれた元倉の右手を見つめる。

その中指の第一関節は長年の脚本書きによるペンだこで変形していた。

たくさんの仕事をやり遂げてきた人の、歴史を刻んだ手に、将の心はざわめき出す。

「芸能界に残るかどうかは君が決めることだが、一度引き受けた仕事はやり遂げて欲しい」

こんな手を持つ人に、将が理屈でかなうはずがないのだ……そんな思いと同時に、将はその手に激しい憧れを感じた。

こんなふうに、仕事という歴史を積み重ねていく男になる最初のチャンスを将は自ら捨てようとしているのだ、ということは将にもわかる。

「……僕は、君の人間性に賭けていた。そんな君に、人生の棄権癖を付けて欲しくないんだ。

いずれ父上の跡を継ぐにしても、何かをやり遂げる喜びを積み重ねて成長してほしいんだ。……頼む」

頼む。その言葉に将は目をあげた。とたん元倉の眼鏡の奥の瞳は、将の瞳を通して心まで染み透った。

それは、将の心の……聡への愛と同じ次元にあった何かを突き動かした。それは

『確かな何かを持つ揺るぎない人になりたい』

自分でも気付いていなかった強い願いだった。

もしもそんな人になれれば、自分と聡がどんな立場に置かれても、磐石でいられる。

吹けば飛ぶような自分の軽さを、今度直面した問題で思い知った将は……元倉の懇願をうけいれるより他なかった。

第299話 責任というもの(1)

その電話は早くも火曜日の放課後にかかってきた。チーフマネージャーの武藤からだった。

「将、悪いんだけど、今から出て来れないかしら……」

武藤には珍しい、困りきった声だった……。

 
 

遡って日曜日。

バラエティ番組の収録のあと、将は、一切の芸能活動を辞めなくてはならなくなったことを武藤に告げた。武藤は驚き、絶句しつつも、

「明日、社長が出社したら話し合いましょう」

と努めて冷静に応対してくれた。

また仕事が終わってマンションに戻った将は、生活の拠点を実家に移すべく、すみやかに荷造りをした。

昨日の、一家揃っての昼食の時点で、さっそく今日から帰る事を宣言してある。

ぐずぐずすることで、父に約束を反古にする隙を与えたくなかったのだ。

将が実家に戻ると聞いて、弟の孝太は目を輝かせた。

義母の純代は

「引越しの手伝いをしなくてもいいかしら?」

と親切に申し出てくれたが

「たいして荷物はありませんから」

と将は断った。

その言葉通り、将が実家に持っていくのは、教科書類とノートパソコン、当座の衣類とお気に入りのCDぐらいで、ボストンバックとリュックに収まった。

マンションを畳むわけじゃないので、家具類などはそのままそこに置いたままなのだ。

それでも、将はそこを出るとき、思わず振り返った。

2年あまりにわたって暮らした部屋だ。

ここで、井口やカイトたちと自堕落に過ごした16歳の頃。

あのころ、毎晩のように慰めあった瑞樹もこの世にいない。

ここへひょっこりやってきた大悟。

覚醒剤に錯乱した大悟と格闘した床の傷。……大悟はいま、どうしているだろうか。

そして聡。

傷ついた将を看病してくれた……そしてコンポが星のように散らばる暗闇で抱き合ったベッド。

今、将は聡との未来のために、思い出深いここをいったん去る。

次の春にはここで、聡との新生活を始めることを夢見て――。

 
 

ダイヤモンド・ダストのほうは、どうやら父の康三が手をまわしたらしい。

月曜日、学校を休んで事務所に出頭した将だが、そこで橋本社長はただ、残念だ、と言っただけでしつこく引き止められることはなかった。

ただ、あまりに急な話なので、調整に1~2週間かかること、

かつ、その中にはどうしても出演しなくてはならないものも出てくるかもしれないが、それだけは頼む、と将は逆に頭を下げられた。

もちろん将は頷くしかない。

いまやCM3本を抱えていた将が、急に自己都合で降りるということはおそらく莫大な違約金が発生するに違いなかったが、

それも父がどうにかすると約束したのかもしれない。

そんな非常識なことをしたにもかかわらず社長は、無事に受験が終わったら、将のペースでいいから復帰できないか、と申し出てくれた。

将を見つけ出したのはほかならぬ社長だし、現に今の将の勢いはすごい。

先日行われたある女性誌での『好きな男性タレント』のランキングでは、ベスト9に食いこんだ。

デビューしてまだ半年も経たず、主演作品も持たないうちにである。

実は現官房長官の息子ということが発覚してから、将の名前と顔は一気に世間に広まったのだ。

申し出に対して、将は『考えておきます』とだけ答えた。

今の将には、受験だけでせいいっぱいで、受験が終わったあとなど想像できなかったのだ。

 
 

「将、悪いんだけど、今から出て来れないかしら……」

そのとき、将は放課後も教室に残って、自習形式の補習に参加していた。

数学の難問に取り掛かっていた将は、突然の携帯に思わずムッとした。

ちなみに今日は『どうしても出演しなくてはならない収録』があるとは伝えられていない。

将は焦っていた。

あれから赤本にひととおり目を通した将は、自分が乗り越えるべき壁は、一筋縄ではいかないものであることを早くも痛感していたのだ。

いまだに5教科5科目のセンター試験の受験が必要、かつ論述中心の4科目の2次試験。

時間がたりないことは明白だった。

後期試験も……2次の科目は少ないものの、将がトライする平成20年度から形式が大きく変わることが予告されていることを赤本で知った。

その予告されている問題も……今の将には問題の意味を理解することすら難しい難問だった。

だが将は……くじけたくなるのをぐっと堪えた。

――とにかくやろう。聡のために……。

日曜日の夜から将は、すべての時間を勉強に充てることに決めた。

まずは詰め込め、とばかりに睡眠を3時間まで削り、1日15時間は勉強することを自分に課す。

睡眠不足は頭の働きを鈍らせるだろうが、そんなことを気にしている場合ではないのだ。

学校の授業も自分のペースに比べると遅すぎる。

将は授業を無視して苦手の英語、ほとんどやっていない理科、世界史をがむしゃらにやった。

しかし、やればやるほど、自分がいかに遅れているかを痛感し、焦りに追い込まれていくようだった。

つまり東大を目指して本格的に勉強を始めて、まだ2日なのに、

将は自分に立ちはだかる壁の、てっぺんさえ見えないような高みに心理的に追い込まれつつあったのだ……。

 

だから、武藤の電話はとてつもなく迷惑だった。

「どうしてですか」

自分の非常識な休業宣言をすっかり忘れて将は冷淡な声を出す。

「元倉さんが、どうしても将と直接話をしたいっておっしゃって……」

将を1月からのドラマの準主役に抜擢した、一流脚本家だ。

北海道を舞台にしたドラマは、すでに夏を舞台にした2話まで撮りが終わっている。

いきなり準主役が降板、代役を立てることに、元倉は納得がいかないという。

将はため息をつくと、しぶしぶ了承し、テレビ局に向かうことにした。

 
 

局の小会議室では、元倉と監督、プロデューサー、ディレクター、さらに武藤、橋本社長が勢ぞろいしていた。

タクシーの中ですら世界史の教科書の小さな文字を追っていた将は、いささか車酔い気味のこうべを小さく垂れて、会議室の輪に加わった。

「君の父上から話を聞いた。将くん」

まず監督がテーブルに頬杖をつくように、こちらへ身を乗り出すと、いきなり話を切り出した。

脳と頚椎をつないでいるあたりが、重苦しい。どうかすると嘔吐中枢を刺激しそうだ。

それを堪えて将は、神妙に頭を下げた。

「こちらの勝手な都合で申し訳ありません」

一同が目を見合わせる中で、鋭い声が飛んだ。

「納得できないね」

元倉の声だった。

「謝れば……金を払えば済むというもんじゃない」

車酔いの気分の悪さのせいか、憮然とした表情が思わず顔に出てしまうのを将は止められない。

「仕事というのは、いったん引き受けた以上、必ずやり遂げるという責任が発生する。それぐらいのこと、わかっていると思っていたよ」

元倉は怒りをストレートに将にぶつけてきた。

将が知る、年の割りに少年のようなユニークさと温かみを持つ表情はそこにはない。

こんな風に、赤の他人に責任感を問われたのは初めての将は、ひそかに動揺しつつも、まっすぐに元倉を見据えた。

しかし膝に置いた手の震えは止められない。

元倉は続ける。

「それを急に降りるというのは……どれだけのことか、君はわかっているのか。少なくとも作品はぶち壊しだ」

静かな口調の中に激しい怒りをくるんだものを、元倉は容赦なく将に投げつけてくる。

将の視線はそれに負けてだんだん下がりはじめた。

そこへディレクターが助け舟を出す。

「元倉さん。急に俳優さんが急病になった場合など、やむを得ず代役を立てるケースもありますでしょう。そのケースだと思っていただいて……」

「将くんは、現に生きて健康な状態でそこにいる。俳優の勝手な都合で急に役者を変えるなんて視聴者に対して誠意がなさすぎます」

と助け舟はにべもなく撃沈された。

さらにプロデューサーが新たなる手を提案する。

「こうなったら代役ではなくて、配役を変更してはいかがでしょうか。将くんの登場シーンだけ撮りなおしすれば……」

この局では、出演者が逮捕されたときに、それをやったことがあるのだ。

しかし、それも元倉ははねつけた。

「無理です。北海道の季節を撮りなおすことはできません」

すでに撮影ずみの2話は北海道の夏という設定だ。演技をする将の背景には、ふんだんに北海道の自然が映りこんでいる。

すでに紅葉が始まった北海道を夏に戻すことは不可能だ、と元倉は言っているのだ。

完全に俯いてしまった将は、揺れていた。

自分が担っていた責任の大きさへのおののきと。

なじられて素直に申し訳ない、という気分と。

もしかすると元倉は、自分を困らせるためにわざとゴネているのではという懐疑心と。

「とにかく、将くんと二人で話させてください」

元倉は一際響く声で一同に言い放った。

第298話 不安(2)

「子供……、あきらめる?」

将の声に聡の体がぴくっと動いて震えが止んだ。

将の手はあいかわらず聡の背中を撫でている。

「しょう……」

聡はおそるおそる目をあげた。

「ごめん、アキラ。……俺、アキラが今、どんなにつらいか考えてなかった」

顔をあげた聡は、そこに、いままで見たこともない将の顔があるのを見た。

聡をいたわり、心配するは……苦しげで、哀しそうにさえ見えた。

将はまるでそんな顔を見られまいするように、聡を胸に押し付けるように抱き寄せた。

「でも、信じて。俺……アキラを愛しているんだ。だから子供が出来たのも、すごく嬉しかったんだ」

苦しいほどの抱擁に苦しそうな声。聡は将のぬくもりにすっぽりと包まれる。

「だから……どんなことでもしようと思ったんだ。乗り越えられると思ったんだ。……だけど」

将の声が少し震えている。聡は腕の中で気付いた。

「アキラが苦しいなら……つらいなら。俺もつらいから」

「将」

聡は将の腕を振りほどいた。やっぱり将は泣いていた。真っ赤になった目から涙が頬を伝っている。

聡はもう一度将の名前を呼ぶと、その濡れた頬を聡の両てのひらで包む。

「だから、残念だけど、子供は……」

泣きながら、なおもつらいことを口にしようとする将の唇に聡はそっと自分の唇を押し当てて制した。

いったん離れた聡の唇に、今度は将のほうが押し当てる。

涙で腫れぼったくて熱を帯びた唇。涙交じりの塩辛い味。

泣きながら、言葉の代わりに唇を交わす聡は、下腹が小さく脈打っているのを感じた。

だけど、将の本当の涙の理由を、聡は知らなかった。

将は、自分で自分を恥じていた……。

『子供……、あきらめる?』そう切り出したとき、将の心は、たしかに自分の抱えた重荷が軽くなる、と感じてしまっていたのだ。

聡とその子供への裏切り行為……。将は聡を抱きしめながら、自分を責め、そして聡に詫びていた。

 
 

いつしか、部屋は薄闇になり、静かなはずの雨音が二人を包んでいた。

将と抱き合いながら、聡は下腹の……かぼそい脈が途切れないのに気付いていた。

将の血を受け継いだ命が、とうとう脈を打ち始めたのだ。

「乗り越えられるかな……。あたし」

思考を経由しないで、ぽつりと言葉が出た。

さっきまで、子供を産むなんて考えられない。……いっそ堕ろしたほうがいい、と考えていたのに。

思わず出た、産むことに前向きな言葉を、聡はまるで後悔していないのだった。

――これが、美佐が言ってたことなんだろうか。

ぼんやり考える聡の至近距離にある将の瞳が聡へと動いた。白眼が薄闇の中で揺れる。

「……アキラ」

聡を呼ぶ将の声がかすれている。

「……将。愛してる」

脈絡もなく呟いた聡の思考は、次第にぼんやりから、明晰に将来を想像し始める。

子供を産む将来のことを。将はああ言っているが、東大に合格などするはずがない。

やはり、聡のことまで含めているのかは置いといて、将のこの時期の結婚を反対していることは明確だ。

それを押して、聡が子供を産めば……いったいどうなるんだろうか。

聡はお腹の中の子供にそれを問うように……自らの手を下腹に添わせた。

将の視線が、聡の手にいざなわれるように下腹に移動する。

いとおしい、とまではまだ思えないお腹の生命体。

だけど一生懸命に脈打っているこの小さな命を……殺すことはできない、と聡は感じた。

「アキラ、何考えてんの」

虚ろな聡の瞳を将がとうとう指摘した。

「おなか、どうかした?」

「なんでもない」

将の質問をかわして、聡は思考を進める。

子供を産んだ場合……そう考えて聡はハッとする。

将は芸能人だった。人気俳優の地位を確立しつつある将が、自分の学校の担任に子供を産ませる。

これがスキャンダルでなくて何だろうか。

さらに、芸能活動をしながら東大なんか目指せるはずがない。

聡は視線を将に戻すと、

「将……。東大目指すっていっても……、芸能活動はどうするの?」

と訊いてみる。

「やめる」

将はいとも簡単に、だが力強く答えた。

聡は気付いていないが、それは将の……罪滅ぼしだった。

一瞬でも、子供を殺し、聡の体を傷つける方法を、ちらりとでも望んだ自分への。

「明日、仕事だから、武藤さんに言う」

「そんなに簡単に……」

「大丈夫だよ。いざとなったら、ここだけは親に頼らせてもらう」

つまり康三の政治家としての力でゴリ押してでも聡のために勉強を優先する、というのだ。

「お父様は……」

「プロダクションとの話がこじれたら、相談しろって言ってくれたよ。アキラ……オヤジは、俺を俳優より政治家にしたいんだ。

東大のことは、アキラのことを認める代わりに政治家を目指せってことなんだ。べつにアキラのことを反対するために言ってるわけじゃないよ」

将は聡にゆっくりと説明した。

将が政治家を目指す。

聡の脳裏になぜか、テレビで見た曽祖父の巌の古い映像が蘇った。

外務大臣だった曽祖父の巌。総理だったという祖父、そして父は現官房長官。

そこに将が加わる。

卓越したIQに、正義感と行動力を併せ持つ将に、それは向いているだろうと聡も思う。

だけど……政治家というのは、票を取るために、より規範的な行動を求められる仕事でもある。

そんな立場になる将に……18歳で担任を妊娠させたという過去は……やはり重い十字架となりえるのではないか。

――やっぱり産めない。

この子は闇に葬るしかないのだろうか。

――いいや。

すでに、何がなんでも子供を守りたい聡の本能は、思考をフル回転させて、次々と案を出して来る。

――将の子ではないことにすればいい。

――つまり、一人で産んで育てるってこと?

――できる?

――やるしかない。

それが将への愛の証しになるかもしれない。

そこへ冷徹な理性が割って入る。

――ダメ!本能の言いなりになっちゃ。産んだところで結婚できるかどうかわからないのよ。

――結婚できなくたって、将を愛していることは変わりないでしょう。

心の中に、さまざまな聡が生まれ、かまびすしいほどに議論をする。

その中に沈み込んだ聡の意識を、ユーモラスな鈍い音が連れ戻した。

「……ごめん。おれの腹」

考えてみればもう夕食を食べてもおかしくない時間だった。

微笑んだ将は、言葉を続けた。

「オヤジがさ、言ったんだ。……お前も家族を持つのなら、家族を信用しろって。

だから俺はオヤジが、俺が東大に受かったらアキラと結婚していいって言ってるのを信じようと思うんだ。だから……」

そこで将は腕を伸ばしてもう一度聡を抱き寄せた。

聡は脈打つ下腹ごと再び将のぬくもりに包まれた。

雨はあいかわらず降り続いている。そんな湿った黄昏に将の肌だけが温かい。

「アキラ。アキラは俺の家族だろう。俺を信じてくれないか」

――家族。

将の肌以上に温かい言葉に、聡は思わず目をあげて将の顔を見つめた。

将も……それがわかっていたように細めた目を聡に向けていた。

「俺を信じて、二人で乗り越えないか」

温かい声だった。

「あのときみたいに。……乗り越えたあとには、きっとすごい幸せがあるって信じて」

あのときを思わせる雨音。

冷たい雨に打たれて真っ暗な道をあてどもなく、二人で寄り添って歩いた。

今、聡は……そして将も人生において同じ状態なのだ。

自分が確実に将の未来の汚点になる、という事実はいまだに聡を苦しめていたが、

今は将の温かい愛情を生きるよすがにしたい……聡は再びにじみ出てきた涙を将のTシャツにこすりつけた。

だが将は……聡には自分を信じろといいながら、自分で自分が一番信じられなくて……彼もまた聡を受け止めながら、その実、彼女に縋っていた。

第297話 不安(1)

「東大に、現役で」

聡は目を丸く見開いた。その白い喉に固唾が落ちていくのが将にも見えた。

昼食を実家で食べて、そのあと巌の墓に寄ってきた将が、聡の部屋を訪れることができたのは、午後も遅い時間だった。

雨はあいかわらず降り続いている。

「うん。とにかく東大に現役で入れば、結婚していいってさ」

将は聡の体を気遣って、自らキッチンに立つと、ハーブティを淹れている。

ティーバッグをガラスのポットに落とすがごとく、何でもないことだ、という風を漂わせてそれを繰り返した。

が、聡は絶句してしまった。

レモンの甘い香りが漂うお茶を将はマグカップに注いでローテーブルに運ぶと

「で、とりあえず、赤本買ってきた。2回もチャンスがあるんだな、東大って……それとコレ」

と紙袋を破いて分厚い本の朱色の表紙と一緒に出した『ママとパパの、はじめての赤ちゃんブック』と書かれた本を聡に嬉しそうに顔の前にかざした。

しかし、かざした本に、いっこうに聡からの手が伸びてこなくて、将は本の陰から顔をおそるおそる出すと聡のようすをうかがう。

将にむけられた聡の瞳はこれ以上ないほど悲壮感が漂っていた。

「無理よ……。今から東大なんて。そんな」

「だーいじょうぶだよ。俺がめちゃくちゃ頭いいの知ってるだろ」

本をテーブルに置きながら胸を張った将に、聡は俯いた頭を横に振った。

「あ、ひどい。ひどいなあ、担任なのに、否定した」

将はハーブティの入ったマグカップを手に取ると湯気の向こうでおどけて笑う。

だけど聡は、そんな将を見ようともせずに、その顔が見えないほど俯ききってしまっていた。

将はマグカップをテーブルの上に置くと、聡の傍らに寄り添った。

「……アキラ?」

「……」

聡に返事はない。

「アーキラ。大丈夫だから」

将は聡の肩に手をまわすと、顔をのぞきこんだ。

聡は泣いてはいなかった。ただ無表情に近いその顔には……絶望の文字だけがあった。

「アキラ、心配するなよ。俺、数学も国語も本当は得意だっしー。歴史もヒージーじこみだし。ちょっと覚え直せばバッチリ。

まあ、英語はちょっと……アレだけど。そこはアキラ教えて?……ね?」

「だめよ……」

ほとんど吐息だけのようなその言葉は、雨音に混じって将にはよく聴き取れなかった。

「やっぱりだめなのよ」

やっと聞こえたのは低い声だった。

「アキラ?」

「許されるはずがない」

「いや、だから」

東大に入れば、と続けようとした将は、言葉を飲み込んだ。下を向いていた聡が急に将を振り返ったから。

「ダメなのよ。教え子の子供を妊娠する担任なんて。常識じゃ考えられない!」

苦しげに聡は叫んだあと、再び吐息のような声に戻る。

「……あたしだって、そんな女、非常識だって思うもの。お父様は……できないことをわざわざ押し付けて……本当は反対してるのよ。わかるわ」

「アキラ」

「9歳も年上の担任教師と結婚なんて、ありえないし。お父様がかわいそう」

聡は、将を見ていなかった。ただ辛そうに……その辛さは自分のことより、将の父の立場を慮っているようにさえ見えるほどだった。

「アキラ。それは違う」

将は聡の両肩を掴んで、聡の視界に無理やり割り込もうと試みる。

「オヤジは俺たちのことは反対していない。本当だ」

「うそ」

聡は将のほうを見ようともしない。低い……冷静とも思えるような短い返事を返すのみだ。

「本当だよ。最初俺は、オヤジにアキラと結婚したい、ってだけ言ったんだ。

そしたら、大学を卒業したら先生とでも誰とでも好きな人と結婚すればいい、って」

聡は下を向くばかりだった。

「オヤジは、ただ早すぎるって言っただけで……。だけど、それも東大に入れば許すって」

聡の黒目は将を避けるように斜め下の床に注がれている。

「なあ。アキラ」

将は聡の肩を軽くゆすった。

だけど視線は微動だにしない。

「アキラ、俺頑張るからさ」

返事はない。聡の視線は床にべったりと貼りついたようだ。

「ね?」

「無理よ」

冷淡と思えるような口調だった。

「なんで」

聡は無理だ、という理由のかわりに

「あたし、自信ない」

と答えた。

「東大受けるのは俺だぜ?アキラは、お腹の子供のことだけ考えればいいから」

「それが」

聡の視線が将に戻った。

「自信がないの。あたし、子供なんか産めない……恐い!」

将にすがりつく瞳がみるみるうちに潤んでいく。そしてそれはついに溢れ出した。

「アキラ」

将は思わず聡を抱きしめた。聡も細い腕を将の体に巻きつけてくる。

「将、あたしダメなの。恐い、恐いの」

聡は将の胸で泣きじゃくった。

……こんなに弱弱しく、感情を剥き出しにした聡を……将は初めて見た。

感受性が豊かで泣き虫だけど、大人の女性として芯は強かったはずの聡。

そんな彼女が……思いがけない局面に対峙して、その恐怖のあまり泣いている。

「こんなの、早すぎる……」

「アキラ」

将はとまどいながらも、聡を受け止めた。

聡の体は、この2日のうちにまたいっそうか細くなった気がした。

思えば、昨日。

食べるたびに吐いてしまう、と書かれたメールを将は受け取っていた。

それからして、そもそもおかしかった。

ふだんの聡なら、将を心配させるようなことなど決してメールに書かない。

だけど、今の聡は、体を襲う異変が不安でたまらないのだ。

その不安に耐えられなかった聡は、思わずそれを素直に将に送信してしまったのだろう。

それほどまでに……聡は、今自分の体と人生を襲う不安に恐れおののいているのだ。

「アキラ……」

胸の中の聡はとても小さく見えた。

将はむせび泣く聡の背中を優しく叩きながら、どうしたら聡の不安を取り除けるか考える。

「アキラ。……ごめんな」

将は謝ってみた。聡の体におこった異変は将の責任だと思ったから。

だが聡は、肩を震わせながらも、首を横に振る。

「将が……わるいんじゃない」

そういうと、いっそう全身を激しく震わせた。

将は、聡の髪を撫でながら、自分の無力さに天井を仰いだ。

聡を幸せにしたいのに。

聡を守りたいのに。

将の子供を宿した不安に押しつぶされかけている聡。

――どうすればいい。

将は深く……ため息を吐いた。

ため息は、将の瞳にも涙を連れてきた。

それをこぼさないよう、将は瞼を閉じると、再び聡の肩とそれにかかる髪に自分の顔を深くうずめた。

甘い香り。すでに離れることのできない愛する人の……。

「ねえ、あきら」

やがて、将は聡の髪に優しく語りかけた。まるで子供に語りかけるような声音。

「子供……、あきらめる……?」

第296話 無理難題(3)

9月の雨は、やむこともなく、かといって雨脚を強めることもなく、土曜の昼下がりを憂鬱なものにした。

高級住宅街にある自宅を出た将は、巌が眠る菩提寺を訪れていた。

濡れて艶めいた墓碑。この下に、巌の骨の大部分が納められている。

まだ巌が亡くなって49日にもならない墓には、誰かしらが白菊を供えている。それも雨に濡れそぼっていた。

「ヒージー」

ビニール傘を差した将はその前にしゃがむと、呼びかけた。

この下に、巌の魂があるわけではない、というのはわかっている。

だけど将は、今日、巌にどうしても話をしたくて、ここにやってきてしまった。

墓というのは……死んだ人のためのものではなく、生きて残された者の拠り所なのだ。今日の将は、それがとても理解できる。

――俺さ。ヒージーと同じ大学に行くことになっちゃったよ。

将は心の中で語りかけてみる。それに対して

――そうか。そりゃ災難じゃのう。せいぜい勉強することだ。

ふぉっふぉっと笑う声が将の心には聞こえた。

――俺、わかってんだ。これヒージーの差し金だろう。

将は墓碑の中に浮かんだ巌のイメージを軽く睨んだ。

――なんでそんなことを思うんだ?

巌は、愉快そうに笑った。

なんでかな、と将は傘を差したまま頬杖をつきながら、濡れそぼった白菊と巌のまっ白な眉毛に共通点を探そうとした。

聡が将の子供を身ごもったこと。聡と結婚するために東大を現役で目指さなくてはならなくなったこと。そして実家に帰ること……。

東大に入るのはゆくゆくは政治家としての鷹枝家を継ぐだめだし、実家に帰れば純代とうまくやっていかねばならない。

聡の妊娠は別として、すべて巌が将にのぞんだことばかりではないのか。

――ヒージー。もしかして、聡のお腹の子は……。

巌の生まれ変わりなのではないのか。

将は甘い露のように菊の花びらに丸く浮かぶ雨粒を見つめながら、かねてからの『疑い』を心の表面に浮かべる。

輪廻転生など馬鹿げている。18歳にして、人の生き死にに、生で接したことがある将は、そんなことを信じなかった。

人は死んだら……見事なまでに動かないし、いなくなる。

それを将は生母をはじめ、祖父、手に掛けたヤクザ、そして今また巌に見てきたから。

だけど……このタイミング。

将は、聡のお腹に子供がいる、とわかったときから、あれは巌の魂がスイッチされたのだ、という考えを消すことができなかったのだ。

 
 

実家に帰るという条件をしぶしぶ飲んだ将に、康三はさらにもう一度確認してきた。

「いいか。お前の結婚は、東大に現役で入らないと認められないんだぞ。わかっているな」

「わかってるよ」

将は再度顔をあげて、父親の目をはっきりと見据えた。

しかし康三は、そんな将に挑むように問い掛けてきた。

「じゃあ、将。もし、東大に落ちたらどうするんだ」

「落ちないから安心しろよ」

軽く微笑みさえ浮かべている将に、康三はいらついた。

偏差値81。しかも他の大学の入試のように、記憶力がメインの試験が行われるわけではない。

記憶させた莫大な知識をもとに、短時間で自分の考えを再構築して述べさせるような試験が行われる東大入試。

康三も辟易のあまり避けたその入試を、この息子は舐めているのではないか。

「お前、先生の子供を堕ろす気はないんだな」

「なんでそんなことをする必要があるんだよ」

将は瞬きをした瞼と一緒に黒目をあげて、康三を睨んだ。

「ということは、先生に子供を産ませるんだな」

「そうだよ」

何度同じことを確認させるんだ、と将の眉根が代弁するようにゆがむ。

「もしお前が、受験に失敗したらどうするんだ。結婚もできないし、先生を未婚の母にするのか」

将は、そのとき、鼻から息をもらすように笑うと

「だから。絶対に失敗なんかしねえってば」

と強く言い放った。どんなに康三に、

「そうはいうが、万が一。万が一落ちた場合、どうするんだ」

問い詰められても、

「万に1つもねえよ。俺は絶対に聡と結婚するに決まってるんだ」

とあくまでも『もしもの受験失敗』について語らなかった。意地になっていたといってもいい。

 
 

――だってさ。ヒージー、いつか『言霊』って言ってたじゃん。

言葉は、口にすると魂を持ち、それを実現させる力を持つ。巌が将に教えたことの1つだ。

将は雨粒を蜜のようにはじいている白い菊の花に、8歳の頃を思い出していた。

あの頃、将はハーモニカが苦手だった。

いつも、吐くところと吸うところを間違えて、変な曲になってしまう。

ピアノは思うとおりに弾けるのに、この小さな金属の箱は将の思うとおりにならなく、将を苛立たせた。

明日は音楽のテストというそのときも、将は縁側で嫌々ながらハーモニカを練習していた。

しかし、自分が思うような曲を吹けず、2~3回くらいで吹くのをやめてしまった。

ランニングに地下足袋姿で庭木をいじっていた巌は、珍妙な音楽がやんだのに気づいて、縁側の将に目をやった。

『どうした。練習はしないのか』

『だって、どうせできないもん』

将は拗ねて、縁側からはみ出た足をぶらぶらさせた。

巌は、剪定バサミで枝を切るのをやめると、縁側に向かって歩いてきた。

『お前は、ピアノは上手じゃないか』

『ハーモニカは別だよ』

と将は唇を尖らせた。だからよけいにムカつくのだ。

『どれ、貸してみろ』

そういうと巌は、将の膝の上にあったハーモニカをひょいと取り上げた。

……次の瞬間、巌が吹くハーモニカから流れてきたのは、将が好きなアニメのエンディングだった。

『ドラえもんのおわりの歌だ!』

将は、自分のハーモニカに巌の口が触れた不潔感を忘れて歓声をあげた。

『そうじゃ』

巌は得意そうに将に微笑んだ。

『いつ練習したの?楽譜は?』

『そんなものはない。聞いたままに吹いたんじゃ』

『すっげー』

将は手渡されたハーモニカを思わずのぞきこむ。だけど自分が吹いていたときとなんらかわらない。

巌は将に、何、コツを覚えれば簡単じゃ、とリズムにあわせてフッフフッフフー、と唄いながら尖らせた唇で息を吸ったり吐いたりした。

それを一緒に繰り返し真似る将に巌は

『将よ。物事は、出来ない、と声に出したら、そのとおり出来なくなるものじゃ』

と語りかけた。

『それをコトダマという』

『コトダマ?』

『そう。言霊じゃ。古来より言葉は声に出すと魂を持つとされていてな。

出来ない、と言ってしまうと、その言霊に引っ張られて本当に出来なくなってしまうんじゃ』

『ふーん』

将は金属で出来たウエハースのようなハーモニカを見つめた。

ウエハースなら好きだが、この物体は将の思うような音を出さない、にっくき存在だ。

それがさっきは、まるで巌に懐いたように、将の好きな唄を奏でてみせた。

『だから、自信がないときほど、出来る。と言葉に出すんじゃ。さすれば今度は言霊が出来る方に導いてくれるのじゃよ』

半信半疑の将に

『ためしに将、お前は大好きなドラえもんの歌を、ハーモニカで吹ける。そう自分に宣言してみろ』

と巌は白髪交じりの睫をしばたいた。うなづいた将は

『僕はドラえもんが吹ける』

と宣言すると、ハーモニカをおごそかに手に取った。

言霊のパワーがハーモニカに満ちますように、と祈るように。

そして、巌におそわったとおりのリズムで息を吹き込んだ……。

♪青い空は……のメロディが口笛ではなくハーモニカの音で縁側に響き、将は『言霊』の霊験に顔を輝かせた……。

 
 

将とて、失敗したらどうするか、を考えなかったわけではない。

いや、油断をすると、聡を連れて逃げてしまったほうが楽だ、という結論に傾きそうになる。

そんな将を踏みとどまらせていたのが、巌が将に託した刀と遺言だった。

聡を連れて駆け落ちしてしまえば、巌の遺言は果たせなくなる。

1年前の将なら、そんなことを気にせずに逃げていただろう。

だが、今の将は違う。

仮に、聡のお腹の子が、巌の生まれ変わりなら。

巌の遺言を……努力もせずに放棄するのは決して許さないだろう。

はっきりそう思ったわけではないが、心の深いところが将を引きとめた。

――東大に行けというのなら、努力しよう。

――巌から続く長男の伝統なら踏襲してやる。

それをきっと成し遂げることが、巌とそして聡、そして生まれてくる子への愛の証になると考えた将は、絶対にそれを成功させるというゲンをかついで、

『もしも失敗したら』

ということを意地でも口に出さないことを誓っていた。

口に出さないどころか、頭の中から一切のイメージを抹消した。

将は自分の脳に、受験成功と聡との結婚だけをイメージするように……そしてそれに続く階段を具体的に築きあげていくことだけに思考を働かせるように厳しく命じた。

 
 

――俺さ、頑張るよ。だからめいっぱい応援してくれよ。ヒージー。

将は立ち上がると、白い空を雨粒のついたビニール傘ごしに一瞬あおいだ。

巌の魂が……仮にあるとしたら。あの空と、この墓の下とどこにいるんだろう。

そんなことを考えながら、将は濡れた石畳を歩く。ここの境内にも大きな桜の木があった。

桜は若干その緑をくすませた葉をいっぱいに茂らせている。

――森村先生のところか。

将は笑みを浮かべると、自分も聡に早く逢いたいと急ぐ。

第295話 無理難題(2)

ここ3日、聡は目覚めとともにお腹に手をやるのが習慣になっている。

お腹は、何の感触も動きもなく平らのままだ。

今日は、学校が休みの土曜日。

毎週、好きなだけ眠る習慣の聡が目覚めたのはもう12時近くだった。いつもは9時過ぎには目覚めるのに。

妊ごもったことがわかってから……聡はやたらに眠くなった。いつも眠い。そして起きるときに布団から感じる引力は10倍になった。

連休があった今週は出勤は3日だけだったが、それでもつらかった。

今も……目は覚めたけれど、体を起こしたくない。

ベッドの中でけだるい体を横たえていた聡は、通過する車のタイヤがたてる湿った音で、ようやく雨が降っていることに気付いた。

重い体を起こすと青いカーテンをあけてみる。目を凝らすと景色の黒っぽい部分に斜めの細い縞が見えた。

「雨かあ……」

それだけを確かめた聡はもう一度ベッドに横たわる。

あいかわらず食欲はない。お腹はすくし、食べなくてはという義務感もある。だが……食べると吐いてしまうのだ。

こうして一人でいると、たまらなく心細くなる。

金曜日の昨日、ここで将は明け方まで、まるで卵を抱える雌鳥のように聡をずっと抱きしめていた。

明け方には約束どおり、タクシーを呼んで自分のマンションに帰り、学校にやってきた。

ずっといたわるような将の視線に支えられて、聡はどうにか授業をこなすことができたようなものだ。

 

聡は再びお腹に手のひらを添わせた。

超音波には確かに映っていたけれど、この平らなお腹に子供がいるなんて……。

信じられないけれど、体はあきらかに変わっていくようだった。

絶え間ない眠気。食事のたびに襲う吐き気。喉の渇き。トイレも近くなった。

気持ちの準備ときたら、まるで出来ていないのに……。

聡は、おなかをなぜながら

「なんで、出来たの」

と皮膚の下にいる胎児に恨み言を吐いてみる。

――二人が……いずれ結ばれて家庭を持つにしても、お前は、まだ早すぎる。

聡にはそうとしか思えない。

大学1年のとき。国語教師の子を身ごもった美佐が言っていたことを思い出す。

『女って変わるんよ。妊娠する前は、出来たら堕ろさないと、とか思うやん。

だけど、いざ出来たらね。絶対にこの子を産みたい!って思うんだから』

だけど、今の聡にはとてもじゃないけど思えなかった。

愛する将の子供だから、状況が許せば産みたい。

だけど、今のこの状況じゃ無理なのはわかりきっている。

木曜日の夕方、将は『絶対に大丈夫。オヤジを説得するから』と聡を抱きしめた。

――でも。

常識的な大人だったら、絶対に許すはずがない。

張本人の聡だって、非常識だと思うのだから。

 

ふいに、胃が空腹を訴えた。

気分としては何も食べなくないけれど、疼痛のような空腹に聡はのろのろと起き上がると、冷蔵庫をあけた。

あいにく、冷凍しておいたパンぐらいしかなかったので、聡は仕方なくそれをトースターで焼いてみる。

……だが、こんがりとキツネ色に焼けたパンの香ばしい香りは、案の定、痙攣のような吐き気となって聡を襲った。

「うっ……、うぐっ……」

聡は洗面所に駆け込んで、吐き気と格闘した。

食べていないのだから何も出るはずはない。吐瀉物のかわりに涙がぽろぽろとこぼれてくる。

自分が、自分の体はいったいどうなってしまうのか。

――将。こわい。

痙攣のような吐き気がようやく治まっても、うずくまった聡はパジャマの膝を涙で濡らしながら、将を待つしかなかった。

 
 

「現役で東大に入れ。それが出来たら結婚を認めてやろう」

康三はさらに続けた。

「……担任の先生を卒業の前に孕ませたなど、鷹枝家の跡取としては言語道断、世間の格好の物笑いとスキャンダルの種だ。

本来だったら絶対に許可などできない。……だが、お前がそこまで言うのなら、物笑いを跳ね返すだけの実力を身につけなさい。

その第一歩が東大に現役で合格することだ。……どうだ、できるか」

康三はもちろん、将がそんなことを承知するはずがないと高をくくっていた。

いっときはS社の模試で偏差値60程度まであげた将の成績は、芸能活動が祟って、かろうじて全国平均あたりにひっかかる程度に下がっている。

同社の模試で偏差値81をマークする東大に合格するなど、まずもって無理だ。

おまけにセンター試験まで3ヶ月と少し。受験勉強に取り掛かるにしても時間的にも足りなさ過ぎる。

康三は、頤を心持あげて跪く将を見下ろしていた。

その将は……一呼吸置くと、立ち上がった。

そして目をあげた。その視線の位置ははすでに康三より高い位置にあった。

「わかった」

将はしっかりとした口調で答えた。

将の即答に、逆に康三のほうがうろたえるようだった。

康三はこちらを見ている将の顔を探ろうとして……自分の息子がそんな顔をするようになったのを初めて知った。

将は……澄みきった瞳に、まっすぐな決意を浮かべていた。

「わかった、というのはどういう意味だ」

将の表情から真意を汲み取れなかった康三は、あらためて訊くしかない。

今までの息子の所業から考えると『鷹枝家など捨てて、聡と出て行く』という言葉が最もありがちなように思える。

だが、自分に注がれるまっすぐな視線は、そういう言動にあまりにふさわしくなかったのだ。

「東大に入るよ。だから結婚を認めてくれ」

将はあっさりと言った。

康三は絶句しかけた。ちなみに三男だった康三は東大出ではない。

孝太が行っている小学校と同系列であるK大の出だ。

『東大がどういうところか知っているんだろうな』と反射的に喉まで出かかった言葉を、舌の上で別の言葉に言い換える。

「お前……本気か?」

そう問いかけながら、本気のはずがないとすでに康三は判断していた。

しかし将は、うなづきながら

「本気だよ。絶対に東大に現役で合格してやる」

とはっきりと宣言さえしようとする。

康三は、ばかな、と小さく嘲笑うと、デスクに置いた資料をめくり始めた。

つまり、戯言扱いしようとしたのだ。

「お前の今の状況じゃ、逆立ちしたって無理だ」

「無理かどうかなんて、やってみないとわからないだろ」

将は康三が立っているデスクのほうに一歩詰め寄った。

「いっとくが、将」

康三は顔をあげて、将の顔を見据えた。

「とりあえず目指したからと、許可させておいて、あとで撤回できない状況にするというのはないぞ」

つまり、『東大に行く』と言葉のうわっつらだけでの結婚許可はない、と康三は断言したのだ。

将はふっと笑うと、

「そんなつもりなんか、さらさらねえから安心しろよ」

といつもの語調で答えた。

笑顔さえ浮かべている息子が康三はわからなくて、康三の舌は丸まった。

「今日からせいいっぱい頑張るよ。合格したらすぐに結婚していいんだろ」

こんどは逆に将が首を少し傾けるようにして康三を見下ろした。

康三は、う、と言葉をつまらせたが、

「先生の出産予定はいつだ」

となんとか体面を保つことができた。

「5月半ば。東大に合格すれば、3月に結婚できるんだろ」

将は笑顔ながらも、視線でじわじわと康三に詰め寄った。

康三はさっき確かに……一瞬将のひたむきな聡への思いにかすかに同情した。

だが、こんなことを本当は許したくはない。

だから絶対に出来ない無理難題を与えたはずなのに、将はやる、と胸を張っている。

その自信たっぷりな息子の表情を見ていると、なんだか本当に難題をクリアしそうな気さえする。

だが、一度口にしてしまったことは、撤回できない。

鷹枝家に育った人間は、そういう口約束をもっとも軽蔑するのだ。

――なに。口だけさ。絶対にできるはずがない。

康三は開き直ることにした。

それに万が一、合格しても……スキャンダルは困るが、将自身の将来のために最高学府の学歴は何かと役に立つ。

そう親心に言い聞かせて康三は

「いいだろう」

と約束をした。しかし目を輝かせた将に、釘を打つように

「ただし、だ」

と条件を付け加える。

「先生のお腹の子供が、お前の子供であることは、合格するまでは絶対に秘密にしろ」

とたんに将の眉根がゆがむ。

「でも……お腹、どんどん大きく……」

「それは、私がなんとか手を打つ」

「オヤジ」

将は何かに思い当たって、まなこを見開いた。

「まさか、毛利に頼んで、アキラに危害をくわえないだろうな。そんなことをしたら……」

オヤジを殺す、と叫ぼうとする将を康三の言葉が遮った。

「そんなことは絶対にしない」

語気が強いあまり、吼えるようなその迫力に将は黙った。

その瞳も将を突き刺すかのようだった。

康三自身も少し過ぎたか、と俯くと

「……仮にもお前の親だ。お前の信頼を失うようなことを、これ以上したくない。……信じろ。

お前も結婚したい、というなら、まず家族を信頼することを覚えろ」

努めて柔らかい声で続けた。そしておもむろに顔をあげた。

「……そうだ。もう1つ。お前はここに……この家に帰ってきなさい」

デスクの上に置かれた康三の手のあたりを見ていた将は、新たなる課題に顔をあげた。

第294話 無理難題(1)

土曜日は、雨が降った。

将は午前中からミニに乗って、高級住宅街にある自宅に向かった。

父の在宅確認のために入れた電話には、義母の純代が出た。

「将、元気なの」

純代の声が、温かく聞こえるのは、やはり巌の葬儀での一件のせいなのだろうか。

そんな風にたやすく義母を許しそうになる自分が将には少し面映い。

だから、意識して固い声を出す。

「ハイ。……今日、オヤジ家にいますか」

「ええ。いるわ。先週まで地方選の応援があったけど、終わったから今日は1日ゆっくりするそうよ」

官房長官でしかも長身・イケメン政治家として人気のある康三は、選挙の応援に狩り出されることも少なくない。

それは当然、来年の総裁選に向けて、自分に投票してくれる議員を一人でも増やすための工作でもある。

……父はやはり総理を狙っているのか、と将は腹の底が少し不安で重くなるのを感じた。

それは今から切り出さねばならないことに関連している。

「……そうですか。今から話があると伝えてもらえますか」

「将、うちに帰って来るの?孝太が喜ぶわ。そうだわ、みんなでお食事にでも行きましょうか」

無理に明るい声を出そうとする純代に将は

「お気遣い無用です」

と冷淡に答えて、短い謝辞を述べると電話を切った。

 
 

「お兄ちゃん!」

開いた玄関から、飛び出すようにして孝太が飛びついてきた。

「孝太、元気にしてるか?」

いつも同じ質問だと思って将は自分に少し苦笑した。

こうやって、この玄関に足を踏み入れて、孝太が駆け寄ってきたのはどれくらいぶりだろうか。

ひょっとして1年以上経っているだろうか。

将は少し背が伸びた孝太の頭を撫でながら少し考えた……そうだ。聡が自分のクラスの担任だと知って。

それで制服を取りに帰ってきて以来なのだ。

つまり理由はともあれ今日と同じく、聡のためにわざわざここを訪れたことに、将はあらためて覚悟を飲み込む。

「将、入って。お茶にしましょう。それとももう、お昼にしたほうがいいかしら」

純代が将をリビングに招き入れる。

「お昼ねえ、お母さんが栗ご飯をつくってくれたんだよ。僕も栗の皮むくの手伝ったの」

孝太が笑顔で将の手を引っ張る。

純代の実家である岸田家の選挙区の支援者から毎年、立派な栗が送られてくる。

それをつかった栗ご飯は、子供の頃の将の大好物だった。もちろん、今も好きだが。

将は孝太の手を出来るだけ優しくほどくと、純代をまっすぐに見据えた。

「あの……。オヤジに話があるんですけど」

「お食事しながらじゃダメなの?」

将は黙って頷いた。

「わかりました。お父さんは書斎にいらっしゃるから……。お茶を持っていくわね」

純代は素直に引き下がると、内部電話で康三に将の到着を伝えた。

 

重厚な木のドアは、ノックすると心地よい反響音と緊張感を将に返した。

「入りなさい」

寛いだ康三の声がした。重めのドアを開けると、モーツァルトが掛かっていた。

こんな風な雨の日に、父はよくクラシックを掛ける。

『雨だと、音が柔らかく響くんだ』

そんなことを聞いたのは、もう10年も前かもしれない。

康三はデスクの前の椅子に掛けて、リラックスした様子で、資料をたぐっていたようである。

将を見ると、顔をあげて笑顔をつくった。

「なんだ、今日は。そこに座りなさい」

康三の書斎は、両側の壁がすべて書棚になっている。真ん中には、秘書などと打ち合わせができるように、皮のソファがしつらえてある。

忙しいときはここで仮眠を取ることもあるスペースを康三は将に勧めた。

「元倉亮のドラマはどうだ。うまくやってるのか」

将はいったん無言で頷いたあと、付け足しのように

「……うん」

と呟いた。

無言で頷くのはもうクセになってしまっていたのだが、今から自分の人生で最も重大なことを願い、いや、宣言しなくてはならない。

そんな将には、声を出さない返事は無責任に思えたので、急遽責任感から声を付け足したのだ。

「今度はいつ北海道に行くのか」

「10月……」

「元倉亮といえば、お父さんのお兄さんの同級生だって知ってたか?」

「いえ……」

将は首を振りながら、純代の茶が遅い、とそわそわした。

重大な話を切り出している間に、あの女が来るのは、あまりに間が悪すぎるからだ。

「そうか。今度会うチャンスがあったら鷹枝周一を知ってるかと聞いてみなさい」

そのとき、ようやく純代のノックがあり、部屋に紅茶が運ばれてきた。

オールド・ノリタケの器に入った紅い茶は、香りからダージリンだとわかった。

薄くスライスしたオレンジと温めたミルクが添えてある。

どちらでも好きなほうを使えということだが、どうやら正午近い今のタイミングに、どんな紅茶を出すのか考えあぐねてのことらしかった。

デスクの前からソファに場所を移した康三は、温めたミルクを自分のカップに垂らして

「お前は使わないのか」

と訊いた。

将は、紅茶どころではなく……純代が出て行ったとたん、いつ話を切り出すかと身構えていた。

「大事な話があるんだけど」

「ああ。お母さんから聞いた。なんの話だ」

康三はミルクと砂糖を入れた紅茶の柔和な香りに顔をなごませながら、カップごしの目でこちらに向き直った。

「結婚……したいんだ」

そのとき、ミルクティは康三の舌にまろやかな軌跡を残しながら喉へ滑り込もうというところだったが、

それを聞いた康三は咽ないために、それをごくっと飲み下さなくてはならなかった。

「誰と」

それでも冷静さを保って、康三はカップをいったんソーサーに置いた。

「古城聡さん……と」

将は聡の名前に先生を付けるかどうか迷った。だが、結婚は一人の女性の問題だから……と付けなかった。

康三は少し考えて、それが将の担任の聡のことだとわかった。

特徴のある聡の苗字、そして将を曲がりなりにも学校に登校するようにしむけた功績を持つ担任教師として、聡の名前は康三の記憶の中にインプットされていた。

康三は「先生か」と呟くとフンと笑った。

「お前が大学を出て社会人になったら、先生でも、誰とでも好きな相手と結婚すればいい」

「それじゃ遅すぎるんだ。今すぐ結婚したいんだ。……だから保護者の許可がいるんだ」

畳み掛けるような将の言葉は、最後のほうは少し弱弱しくなった。

康三はその弱弱しくなったところにつけこむように

「どうしてだ」

と目で将を圧倒した。

将は思わず視線を、手をつけないで透き通ったままの自分の紅茶に落とすと、躊躇する自分を叱咤しながら言葉を絞り出した。

「子供が……出来たんだ」

言ってしまって再び目をあげた将は、康三の顔がひきつるのを見た。

それを見た将は何故か、勇気を得た気がした。というよりふっきれたのかもしれない。

『だから、早く結婚したいんだ』と言おうとした将より一足早く、康三の声が先に出た。

「先生に……か?」

将は再び背筋が凍るように硬直するのを感じた。

明らかに咎める口調……将はもとより、聡のふしだらへの咎を暗示している……に将は必死で反論する。

「アキラは悪くない!俺がいけないんだ」

いけないという言葉を口走った後で、将は一瞬後悔する。聡のお腹の子供がまるで罪のようではないか。

「いや……、俺はアキラが大事なんだ。アキラより大事な人なんて今後絶対に出ない。ヒージーだって認めてた。だから頼む」

将はこうべを垂れた。

康三は自分に頭をさげる将をしばらく見つめていた。

聡に惹かれている将のことは、知っている。

将が月に一度しかいかなかった学校に毎日登校するようになったのも、模擬テストで中ぐらいの成績をとるようになったのも、すべて聡のためなのだ。

去年、なじみのレストランで将と一緒にいた、すらりとしながら柔らかい印象の女性を思い出す。

そういえば、彼女は将のマンションにも来ていたことがあった。

思えば担任教師にしては、将に近すぎた。

将の一途なアタックを受けて情にほだされたのだろうか……。

康三は、やがて静かに口を開いた。

「お前の気持ちはわかった。だが、子供や結婚は早すぎる。今回は諦めなさい」

将は顔をあげた。諦めるというのは、堕ろすということ。すなわち子供を殺すということだ。

「オヤジ!」

将は叫ぶと、ソファから降りた。

柔らかい毛足の絨毯の上に、跪くと這いつくばった。

「頼む。アキラと今すぐ結婚させてくれ。このとおりだ」

せっかく授かった二人の子供を、殺すことはできない。

「俺、アキラを一生守りたいんだ。大学を出て結婚していいなら、今したって同じだろ」

康三は土下座をした将をソファの上から見下ろしていたが、静かに立ち上がると将の横をすりぬけて窓辺に立った。

いつのまにかモーツァルトのCDが終わったらしい。

外の雨脚が強くなったのが、将にもかすかに感じ取れた。

康三は窓の外に顔を向けたまま、言った。

「……一生守りたいといったな。お前、今結婚したとして、彼女をどうやって養うんだ」

思いがけない質問に、将は膝をついたまま顔をあげた。

「それは……。芸能活動とか」

「お前はまだ10代で、アイドルに近い。結婚して子供が出来たなどと知ったら、ファンはすぐに離れるだろう」

将は、そんなことはない、ととっさに言い返そうとして詰まった。

将の中に残る冷静な部分が『それは当たっている』と引き止めたのだ。

「そうかもしれないけど……。じゃあ芸能活動じゃなくてもいい。とにかく何をやってでも聡と子供を守りたいんだ」

将はふたたび、頭を垂れる。

「アキラの体を傷つけたくないんだ。何でもするから……頼む。結婚を許可してくれ」

康三は、ふいに止めていた煙草を吸いたくなった。

将の実母である環がガンであるとわかってから、康三は煙草を吸わなくなった。

政治家の家に生まれた康三は……三男ではあるものの、それなりの令嬢をもらって閨閥を作ることを期待されていた。

だが。外交官の同僚である環に激しく恋をしてしまった。

表立った反対こそされなかったが、あまり歓迎されない結婚だったのはよくわかっていた。

その頃から長老だった巌が、一族に呼びかけて、ようやく形だけは祝福を受けた……その頃の、自分を思い出していた。

あの頃、祝福されない恋、だけどかけがえのない恋、というジレンマに悩んだ康三はよく煙草を吸ったものだ……。

 
 

「何でもする、と言ったな」

長い沈黙の後に、康三は低い声を出した。

その声に顔をあげた将は、康三が顔をこちらに向けていることに気付いた。

「何でもする、と確かに言ったな」

康三は繰り返した。

その低い声は……将が今まで聞いた父の声の中で、一番恐れるべきものだ、と将は本能で身構えた。

しかし、将は頷くだけしかできなかった。

「私の跡を継ぎなさい」

言葉ははっきりと聞こえたが、将には意味がよくわからなかった。

「私の跡を継いで、政治家になると約束しろ」

今度は意味はわかったものの……なんでそんなことを言い出すのか、意図がわからないで将は狼狽した。

だけど、とりあえず返事をしておかなくてはならない。

「なるよ。約束する」

「そして」

康三はさらに続けた。

「鷹枝家の長男は、巌じいさんから私の兄の周一まで、全員現役で東大に入っている。

だから……将、お前も鷹枝家を継ぐ長男なら、現役で東大に入れ。それが出来たら結婚を認めてやろう」

第293話 運命(4)

どれくらいぶりだろうか。将は聡の部屋の、聡のベッドの上で、パジャマ姿の聡を抱きしめて横たわっている。

「アキラ、本当に、ゼリーだけで大丈夫?お腹すかない」

「うん……」

答える声は、いつになく弱弱しい。

すでにスタンドも消しているせいで、その顔色は見えないが、きっと青白いに違いない……それがたやすく想像できる声だ。

せっかく将が買ってきたお弁当だが、聡はほとんど吐いてしまった。

かわりに常備していた携帯ゼリーを半分だけ口に入れて

「もういい」

と聡はその残りをテーブルの上に置いてしまった。

それは『食べないと、お腹の子どもが……』と喉まで出かかったセリフをひっこめるのに充分なほどの顔色の悪さだった。

幸い明日も学校だったので、聡が心配な将は、今日はここに泊まる、と宣言した。

聡は、明日ここから学校に行くのはマズい、と眉根を寄せたが、

『明け方にタクシーを頼んで一回マンションに帰るから』といって将は頑としてここに泊まると言い張った。

二人を包むのは、同棲していた頃と同じ、暗くならない東京の夜だ。

しかし、しん、と冷えて銀色がかった1月頃に比べると、9月の今は濃紺の羽のような薄闇がシングルベッドの上で抱き合う二人をそっと包んでいる。

将が抱きしめている聡の体は、まだ細く華奢だ。

だけど……この体の中に、自分の子供が確かに息づいている。

溶け合って1つになることさえ望んだ、あの夜の……まさしく愛の結晶が、聡の中に……。

深い感動を覚えた将は、聡の肩を抱き寄せた。

「将……。ほんとうにごめんね」

聡がまだ、将の胸のあたりに呟いている。

「あたしが……ちゃんとしてれば」

「あきら」

将は優しく、聡の懺悔を遮った。

「俺、嬉しいんだぜ」

濃紺の中に浮かぶ、聡の顔を将は見つめた。暗さに慣れた将の目は、いとしい聡の顔をはっきりと捉えた。

「アキラが、俺の子供を産んでくれるなんて」

「将……」

聡の瞳がうるむ気配があった。暗がりでもそれはわかった。

いつか、古典か何かで見た気がする。子供が出来るのは前世からの縁だと……将はそれを信じたい気になっている。

そしてそれは前世よりも、むしろ未来へとつながる聡との絆でもあった。

「ねえ、アキラ」

将は上半身を少し起こすと、聡を上から見下ろした。

「おなか、触らせて」

返事が聞こえる前に将は、聡を仰向けにしてそっとパジャマに覆われた下腹部に手を置いた。

「ここに、いるんだ。二人の子供が」

将は暗がりの中で、感慨深げに呟いた。

それは、まだまったく平坦で、贅肉すらないようだった。

その平坦な聡の下腹部に将は頭を載せた。

子供がいるあたりに耳を押し付けているようだ。

「もう……心臓とかできてるのかな。このドキドキしてるのってそうかな」

暗い気分だった聡は少しだけ可笑しくなった。

「違うと思う」

まだ子供は1センチぐらいのはずだ。早い場合は心音が確認できるというが聡はまだそれを感じていない。

「じゃ、アキラのかぁ。……おーい。お父さんだよー」

おどけてお腹に呼びかける将に、聡はほんの少しだが……救われた。

本当に迷惑じゃないんだろうか、負担に思っていないんだろうか、と聡は無邪気な将を見つめた。

聡にとってでさえ、予期せぬ妊娠だ。とまどい、苦しみ、ひたすら自分の体をを責めるばかりで、

とてもじゃないけれど将の子供を『授かった』などとは思えないでいるというのに……。

こうやって、お腹に呼びかけたり、なぜたりしている将は、本当に嬉しそうだった。

「名前、考えなきゃなー」

将は再び隣に横たわると、聡の肩を抱き寄せた。

「もう、受精したときに性別って決まってるんだよな。どっちかな……アキラに似た女の子がいいな」

将があまりにも、楽しげに希望を紡ぐので、聡は思わず口を挟む。

「だけど、わかるのはもっと先よ」

先、と口に出しながら、性別がわかるほどの未来まで、この子を無事にお腹の中で育てられるのだろうか聡にはかいもくわからなかった。

聡の一寸先は文字通り闇だった。

ただ将の、無邪気で一途な愛情に包まれて漂っている。

その行きつく先はまるで想像できないまま、聡は今はただ将のぬくもりを感じていた。

第292話 運命(3)

「アキラ!」

洗面台にかぶさるようにして咳き込む聡の背後に、将も思わずかけよった。

聡の唇から洗面台には白い唾液が落ちるのみで、何か固形物を吐くというわけではない。だが痙攣するかのような嘔吐の動作は続く。

ぜいぜいと苦しげなパジャマの背中をさすりながら、将はある考えに思いがいたる。

「アキラ……、まさか、アキラ」

学校での貧血。そして吐き気。

「……できた……の?」

ようやく波のように逆流する内臓の動きがおさまりつつあった聡は、洗面台から視線をあげる。

洗面台の鏡の中に、息を飲んで自分をみつめる将の顔が映っていた。

将も、鏡の中の聡の顔を見つめていた。その赤くなった顔が……歪んだかと思うと再び鏡の中から崩れるように落ちていった。

ユニットバスの床にしゃがみ込んだ聡は、膝に顔をつけんばかりに俯いた。

パジャマの華奢な肩がこきざみに震えている。

「アキラ……」

思わず将も聡にあわせてユニットバスの床にしゃがみこむ。

「……ごめん」

聡は顔を膝の中に埋めたまま、うめくように呟いた。

「あたしが、いけないんだ……あたしのせいなんだ」

「て、アキラ」

将は、膝で隠れた聡の顔を覗き込むようにした。

だがその顔は膝と腕で隠されていて見えない。

たぶん泣いているのは震えていることからもわかる。

将はできるだけ優しい声を出してもう一度確認する。

「本当に?できたの?」

もうあれから1ヶ月になろうとしている。

せせらぎの中、声をひそめるようにして何度も抱き合ったあの夜の……。

聡は、声を出さずに、より膝に顔を埋めるようにして頷いた。

 
 

まず、生理が4日遅れた時点で、おかしいと思った。

12歳で生理が来てからというもの、聡は始まった年の冬に3日遅れた以外、極めて正確に毎月やってきていたのだ。

遅れたり早まったりしてもせいぜい2日。

だから、あの日……将と結ばれた日は、完全に安全日のはずだったのだ。

それが、もう4日来ない。

もしかして夏バテで体調がおかしかったから、遅れているだけかも。そう思って聡は毎日、それを待った。

5日、6日、7日……日にちが過ぎるごとに、聡は薬局の前を通るときに、威圧感を感じるようになった。

そこには聡が確かめたいことを調べる道具が売っていたから。

日ごと、聡は薬局の前を通るたびに、動悸が強くなるのを感じざるを得ない。

そしてついに14日が過ぎてしまい……聡は薬局に入らざるを得なかった。

まさか、自分がこの商品……妊娠検査薬……を、こんな風に恐れながら買う日が来るとは思わなかった。

こそこそとレジに他の客がいないときを狙って買う未婚の自分は、ひどくだらしない女だと思われているのではないか。

聡は女の店員の様子を盗み見た。

だが、幸い妊娠しても倫理的にも社会的にも問題ない年齢に達していた聡は、何の咎も受けずに、スムーズにそれを買うことができたのだった。

それでも……往生際の悪い聡は、それを買ったまま放置すると、一縷の望みをかけたまま19日から始まる4連休を過ごした。

果たして……生理は来なかった。

連休最終日も夕方になって、聡はようやく意を決すると、検査薬の封を切った。

検査薬は……あっけらかんと、聡が妊娠していることを伝えたのだった。

 
 

「病院、行ったの?間違いないの」

将の問いかけに、聡はあいかわらず無言で頷くしかない。

 

『間違いかもしれない。検査薬が誤った結果を出しただけかもしれない』

という最後の望みをかけて聡は昨日、病院にいった。

学校から遠く離れた、女医がやっている病院をわざわざネットで調べた。

30代後半と思われる痩せぎすの女医は、尿検査の結果を見ると、抑揚のない声で淡々と言った。

「妊娠してますね。最後の生理はいつでしたか」

「8月8日です」

「じゃあ……いま2ヶ月ですね」

そのとき聡は初めて、妊娠○ヶ月というのが、最後の生理が始まった日から数えるものだということを知ったのだった。

それでも聡は、納得できなかった。

どうしてきっちり28日周期の自分が、あのタイミングで妊もるのか。

あの日は安全日じゃなかったのか。

「あの……」

聡は丸椅子の上から控えめに声を出した。

「何か?」

女医の一重瞼にひるみそうになりながら、聡は思い切って問い掛ける。

「排卵日って……急に1週間もずれるものなんですか?それまでずっと正確だったんですけど」

質問を発してしまって、聡はしまった、と後悔した。

これでは自分が望まない妊娠、つまり失敗をしでかしたことが、この女医にバレバレになってしまったではないか。

しかし女医は、首を少しすくめた聡に目もくれず

「風邪をひいたりして薬を飲んだりとか……体調が悪かったり、ストレスが溜まっていたり、ダイエットしたりとか。1週間ぐらいは普通に狂いますよ」

と極めて淡々と回答した。

そういえば今年の夏は聡にとってことさらに暑かった。

きちんとした服を着込んでの蒸し風呂のような教室。そして毎日の補習。

ずっと夏バテで貧血ぎみだったあの頃から……聡の体の歯車は少しずつずれていたのだろうか。

とりあえず淡々とした様子を続ける女医の口調にほっとしたのも束の間、

「産みますか?」

という短剣が聡に突き刺されたのだった。

 
 

いる。……このお腹の中に、将の子が。

あの夜、将から受けた精のうちの1つが……確実にいま、聡の腹の中で育っている。

「アキラ、アキラ」

気がつくと、聡はユニットバスの床に座り込んだまま呆けていたらしい。

将の顔が目の前にある。

さっきと同じ、心配のあまり睨みつけるような顔になってしまっている。だけど聡の肩に置かれた手は温かい。

「将……」

角膜に映る、将の顔が万華鏡のように崩れた。

ゆがめた睫の間から大粒の涙がこぼれて、頬をつたっていった。

――産めるわけがない。

本当は……あの翌日も、その翌日も。

数日間は聡の中で生きているであろう将の精子が……聡は嬉しかった。

自分を抱きしめたくなるほど、いとおしかった。

それが、聡の卵子と結び合って1つの命をつくったのなら……聡にとっては素晴らしい僥倖のはずだった。だけど……。

「ごめんね。将……」

教師が教え子の子を身ごもったなどと、どこの世間が許すだろうか。

まして、将は……人気急上昇中のイケメン俳優、しかも官房長官の息子だ。

『迷惑はかけないから……。自分でなんとかするから』

と哀しい決意を口にしようとした聡は、ふいにがっしりと抱きしめられた。

熱くて弾力がある将の胸が意を決したように深く動いて息を吸い込んだ。

「アキラ……。やっぱり俺たち、こうなる運命だったんだ」

将の声は吐息と共に、聡の背中に染み込むようだった。

そして、将はもう一度聡の両肩をしっかりと掴むと、向き直った。

「結婚しよう」

将の瞳は今までにないほど真剣に聡を見据えていた。

その真剣さに聡の『でも』という言葉はたやすく溶けてしまった。

将は、口元に微笑さえ浮かべながら続ける。

「子供が出来るなんて……、やっぱり俺たちの縁は本物なんだ」

そういうと将は、再び聡を抱き寄せた。首筋に鼻を擦り付けるように……いつになく、髪から背中を優しく撫でる。

「……将」

聡は現実におののきながらも、目の前の将にはからずも、体重を預けてしまう。

「予定日はいつだって?」

予定。産むことなんてまるで頭になかった聡だ。

思い出せるはずが……ない。

あの女医の問いかけにも、聡は『産めません』と答えるしかなかった。

女医はこれまた淡々と、相手の男から署名捺印をもらうように、と中絶同意書を聡に手渡したのだった。

「無理だよ……将」

聡は将の胸に手をおいて自分を引き剥がした。将がどんな顔をしているかは見ないでもわかる。

「ダメだよ。将……産めるわけないよ」

「どうして」

「だって……。教師が生徒の子供を産むなんて……ありえないし」

聡は将の顔を見ることができない。まるでユニットバスに話し掛けるような不自然さで聡は続けるしかない。

「それに、将は……芸能人でしょ。スキャンダルになっちゃう」

「いいよ、俺。学校なんかやめるよ。芸能界だって関係ない……」

そう言いながらなおも聡を抱きしめようとする将を、言葉ごと振り払うようにして聡は言葉を投げる。

「結婚だって。将は未成年でしょ。ご両親の承諾がないとできない……」

振り払った一瞬、聡の視線はとまどった将の瞳まで浮上したが、すぐに墜落してしまった。

「生徒を誘惑して、妊娠した教師なんて……、ご両親が承諾するわけがない」

そこまで言ってしまって、聡は涙が止まらなくなった。

あたりまえの理屈を……自分では納得していることを言っているのに、どうしてこんなに悲しいんだろう。

「堕ろすしかないよ……」

その言葉はすでに涙声になってしまっている。

これではまるで、本当は堕ろすのが嫌で、取り乱しているように見えてしまう。

「アキラ……大丈夫だよ」

案の定、将は懲りずに聡を胸に押し当てた。

聡は、いけないと思いつつ、将の胸にすがってしまう。

すがったら最後、泣きじゃくってしまう。

将はそんな聡の髪を優しくほぐすように撫でた。

「大丈夫。アキラ。せっかくできた二人の子供だろ……。堕ろすとか言うなよ……」

「でも」

しゃくりあげながら、悲観的なことを言おうとする聡を将は優しく制した。

「大丈夫だから。絶対に俺たち結婚できるから」

将は、しゃくりあげる聡の背中を、とんとん、と叩いた。

なんだか、遠い昔……子供の頃、父親にこんなふうになだめられたことがある。

聡の背中で、セピアになった子供の頃の記憶が蘇った。

将は……聡のお腹の子の……すでに父親なのだ。聡は涙と共に、郷愁を飲み込んだ。

「学校や、仕事はいざとなったらやめればいいし……オヤジは絶対説得するから」

「でも、でも。せっかく卒業……それに元倉亮……」

「そんなものより、アキラが大事」

将は優しく、でも、きっぱりと言い切った。

「俺の人生で、アキラが一番大事なんだ」

第291話 運命(2)

「アキラ!」

反射的に立ち上がった将は、誰よりも早く倒れた聡に駆け寄っていた。

今日は下ろしていた濃い栗色の髪が、教壇の上に広がっている。

「アキラ、アキラ、しっかりしろ」

呼びかけても、蒼ざめた顔に、血の色も意識も戻らない。

思わずその白い頬に触れた将は、それがひんやりしていたことに恐怖を覚えた。

将は、聡の体の下に手を入れると、抱えあげた。

……前にふざけて『お姫様抱っこ』をしたときよりずっと軽くなった気がする。

だけど意識も力もまったく失った聡の体は、ぐんにゃりとして頚も腕も将の腕からこぼれ落ちるように垂れた。

将は聡の体を横抱きにすると、足で引き戸を開けて廊下へ出て行った。

そのようすを教室にいた一同は、固唾を飲み込んで見送った。

「みな子……」

すみれが、みな子を気遣うようにそっと寄り添った。

「あの二人……まだ」

「ん」

みな子は何に頷くともなく、少し俯いてプリントのあたりを見つめる。

手が幽かに震えている。それを膝に落として、すみれの視線から隠す。

しばらく、シンとしていた教室だったが、しばらくするとざわめき始めた。

1組のギャル系女生徒が能天気に

「いいナー。ああいうシチュエーション憧れる」

「ドラマチック」

「しかもSHOだもんね」

などと声高に話しているのが聞こえる。

確かに。あれを見たみな子は、あまりの羨ましさに嫉妬を覚えた。

自分が急に倒れたとして。将は聡のように抱えあげてくれるのだろうか……。

嫉妬の炎の痕が、心にちりりと痛んだ。

「先生、どうしたんだろう。心配だね」

その痛みに抗うように、みな子はようやく、傍らのすみれに言うことができた。

 
 

聡を一人で抱きかかえて保健室にやってきた将を見て、保健医の三田先生は驚いたようだったが、反射的にベッドを示してくれた。

将は聡をベッドに横たえながら、

「急に倒れたんです」

と必死の形相で三田先生に訴える。

「先生。聡先生」

三田先生の靴を脱がせながらの呼びかけにも聡は反応しなかった。

いったい、どうしたんだ、と将はぐったりとした聡の顔をのぞきこむ。

いつもばら色の頬は、緑がかって見えるほどの白になり、睫の長さを際立たせた。

形のよい唇は閉じられたまま、紫がかっている。

将の脳裏に、いつか病院で会った聡が浮かんだ。

あのとき、確か、貧血と言っていたはずだ。単なる夏バテだとも。

だけど、今日は長袖でもいいほどの涼しさだ。

いまさら夏バテのはずがない。

貧血といえば……将の脳裏に、2年前に大ヒットした小説のヒロインが浮かぶ。

白血病に冒された恋人と死に別れるあの話でも、たしか最初に出た症状は貧血だった。

聡は……もしかして、とんでもない病気に蝕まれているのか。

――嫌だ。

そのとき、将は確かに、棺に入る聡を白日夢のように見た。

将はそんな想像を一瞬でも浮かべた脳を取り出して掻き毟りたい衝動に駆られる。

――アキラが死ぬわけがない。

「どうもありがとう。あとは私がやるから。職員室に行って、代わりの先生を呼んできなさい」

三田先生は聡の襟元をゆるめながら、将を振り返った。

「先生。……アキラ先生は……」

「夏バテで、体調が悪かったみたいだから……。たぶん、また貧血だと思うけど」

三田は、心配をまるで隠さない将の顔を見上げて、なだめるように言った。

「でも、もう涼しいのに」

将は三田の言葉を遮るように反論した。

「もちろん、聡先生は意識が戻っても戻らなくても病院で診てもらうわ。だけど、夏バテってね。

涼しくなってからドッと出る場合もあるのよ。だから、たぶん大丈夫よ。鷹枝くんは教室に戻って。ね?」

それぐらいではもちろん納得できなかったが、少しだけ冷静さを取り戻した将は、黙ってうなづくと、保健室を出るしかなかった。

心配で、後ろ髪を引かれるとはまさにこのことだった。

 
 

白とグレーと薄緑のだんだら模様が、幾何学模様の平面図になり、やがて遠近感が戻ってきた。

自分の目の前にあるのが天井と薄緑色の仕切りのカーテンだということに聡はようやく気付いた。

聡は起き上がろうとして、いやに冷たい自分の体に気付いた。

「気がついた?」

三田先生が、カーテンを開けて顔を出した。

何か返そうと脳は反射したが、唇に届くまでに思考がまとまらない。

「はい……」

仕方なく短い返事で、気がついたことだけを伝えるに留まる。

「授業のほうは、権藤先生がみてくれているわ。視聴覚組は多美先生が」

実務的なことを持ち出されて、ようやく思考を司る部分に血流がまわりはじめる。

「ありがとうございます」

聡は礼を言いながら上体を起こそうとした。

しかし体を支えようとする腕がしびれたように力が入らなくて聡はベッドの上でふたたびよろけた。

血の流れが滞っていたところへ、急速に流れ始めたからだろう。

三田先生があわてて制する。

「聡先生は、今日は大事を取ってここで休んだあと早退するように、ということです。それと、病院にもう一度行きなさい、と」

聡は黙った。

「もう少し休みなさい」

三田先生は年配らしく聡に命じた。しかし布団を掛けなおす手は優しい。

「ここへは……」

聡は倒れたときのことを思い出そうとした。

黒板が……視界が急に、アンテナが壊れたテレビのような砂嵐に見舞われて……手足の先と脳天が冷たくなっていった。

それだけが聡の覚えている全てである。あとはどうなったのか、どうやってここに来たのかまるきり覚えていない。

「鷹枝将が、一人で抱えてきたのよ」

――将が。

「もうすっかりあのコも大人ね。あなたのことを軽々と持ち上げて、血相を変えてここに飛び込んできたわ」

聡はとっさに三田の顔の中に疑惑の色を探していた。

しかし、進学希望の生徒の中では一番背も高く、がっしりとした将が聡を運んでくることに、さしたる違和感を持っていないようだった。

「鷹枝……くんが」

安心した聡は、将の名前を反芻した。

――将が、自分を抱えて……。

だが甘い想像は、厳しい現実を連れてきた。自分の体が抱え込んだ現実。

実は……聡はすでに昨日、病院に行っていた。

そこで思いがけない現実……運命が自分に訪れたことを知ったのだった。

聡は目の前が、真っ暗になった。

嘘だ、と疑った。

だが、医師は紛れもない事実を聡に突きつけるだけだった。

昨日一晩中、聡は悩み、眠れなかった。

このことを……どうやって将に打ち明けるべきだろうか。

将から受け取った、今日からしばらく学校に来れるというメールをあけて聡は苦しんだ。

そして……今朝。

生徒たちの中に将の顔を、見つけた聡は、緊張と安堵の両極端が体を支配しようとするせめぎ合いの中で、気を失った。

 
 

カラスの声に、聡は目覚めた。

眠ればすべては夢に変わってくれるかもしれない、と期待した聡だった。

しかし目覚めるなり現実が体に寄り添っていることを実感し……起き上がる気力を失った。

もう、夕方らしい。自宅コーポの白い天井は薄墨色になって聡を憐れんだ。

このところ、暮れるのがどんどん早くなる。

聡は鉛のような体を横に向けた。

――どうしよう。どうしよう。どうしよう……。

そればかりが、聡の頭をぐるぐると回り始めた。それがあまりにも煩くて、聡は布団の中にもぐりこむ。すると

――なんで。なんで。なんで……。

リフレインはフレーズを変えて、耳鳴りのように聡の内耳から離れようとしない。

 

ピンポーン。

玄関のチャイムが鳴った。直後に、

「アキラー。俺」

と懐かしい声と共に、小さくドアを叩くノックの音。

聡は、反射的に起きると、玄関に駆け寄った。鉛のような体が、将の一声で軽くなったかのようだった。

ドアをあけるなり、聡は視覚より先になだれ込んできた干草の匂いにふわりと包まれるのを感じた。

抱きしめられる直前に見た……眼鏡をかけ、帽子を被ったその姿は、将に見えなかったけれど、まぎれもなく将なのはその温もりでわかる。

聡は、キラキラしたものの目くらましで、悩みが見えなくなるのがわかった。

「ゴメン。合鍵、しまいこんじゃってたから」

ひとしきり聡を抱きしめた将は、眼鏡と帽子を脱ぎながらいたずらっぽい笑顔で言い訳をした。そして

「病院行った?」

と顔を近くに寄せてきた。心配のあまり睨みつけるような顔になっている。

答えることができない聡は、

「タクシーで来たの?」

と訊き返しながら、目で将を中へいざなった。

「うん、そう。最近ミニのほうはチェックされてるらしいから……」

ドラマの放映は1月からとはいえ、将は最近CMやバラエティで以前より頻繁にテレビに出るようになっている。

官房長官の息子であることがバレてから、知名度が増したのはあきらかで、迂闊に外を出歩けないのだ。

「アキラ……、変な病気じゃないよね」

「あれ?将、なんか匂いがする」

またしても聡は、はぐらかすしかない。聡は将の持っている白いビニール袋に今目をとめたフリをした。

「ああ、これ。一緒に食べようと思って買ってきた。アキラ、ちゃんと食べてないだろ。こないだ金沢でもずいぶんメシ残してたし……」

将が持っていたのは、久々に見る聡が前にバイトしていたお弁当屋さんの包みだった。

「ありがと。お茶淹れるね」

聡はパジャマ姿のままキッチンに立つと、お湯を沸かした。

「いいよ、冷たいので」

「あたしが、あったかいのを飲みたいの」

将と向き合えば、事実を告げなくてはならない。それが恐くて……聡は無意識に将に背を向けていた。

そうとは知らない将のほうは、さっきより顔色がよくなっている聡を見て安心したらしい。

白いビニール袋から出した弁当をローテーブルの上に置きながら話を続けた。

「それがさ、俺が高校生だって、すっかりバレてて『何が東大生だ。だましやがって』ってオヤジに小突かれちゃって」

どうやら、弁当屋夫妻もテレビで将を見て、今までの将の嘘がわかったらしい。

「サインよこせって言われるし。でも色紙ないから、仕方なく弁当の包み紙にサインした」

将が可笑しそうに話すところを見ると、弁当屋夫妻もそれほど怒っていないらしい。

まもなくお湯が沸いたので、聡は美智子にもらったウーロン茶をペアのマグカップに淹れた。

「温かいうちに食べようよ。俺もう腹ぺこだしー」

そういいながら将は、聡がテーブルにつくのを見計らって自分の弁当の蓋に手をかけた。

白いプラスチックの蓋がずれたとたん。

いつもは香ばしいだけの油の匂いが、鼻から不快感として体に伝わるのを聡は感じた。

逆流する何かを堰き止めるように聡は手で口を覆って立ち上がると、ユニットバスに走りこんだ。

第290話 運命(1)

将は、早朝だというのに足取りも軽くマンションを出た。

朝の陽射しは、いつのまにか暖色を帯びているというのに、空気は驚くほど冷たい。

だけど浮き足立つ彼には……北海道帰りだということもあるが……

夏がいってしまったことも、東京の空がいつのまにか高くなっていることにさえ気付かない。

9月に入るなり、北海道ロケが続いた将にとっては久々の登校だった。

もう9月も彼岸を過ぎてしまっていた。

 
 

1月から始まる元倉亮脚本のドラマは、蓋を開けてみると、ほとんど将が主役も同然だった。

将の役どころは、バイクで北海道を旅している途中、愛車を盗まれて、そのまま民宿にいつく青年だ。

いちおうトップクレジットは民宿の主人を演じるベテラン俳優になっているが、物語を実際に引っ張っているのは将だ。

脚の抜釘手術を終わらせた将はすぐさま北海道へ飛ぶことになった。

9月の北海道は、すっかり空が高くなり、陽光は金色がかった柔らかなものとなっていた。

秋は気配どころか、いきなり北の大地を澄んだ空気で覆ってしまったかのようだった。

舞台はB町にある本物の民宿のセットで行われた。

波打っているようななだらかな起伏の地面が、すべて畑で覆われている真ん中にある。

木々が色づく寸前に、夏のシーンを撮ってしまうのだという。

陽射しが「夏らしい」感じになるのは昼間のほんの2~3時間で、その時間を狙って撮影は集中的に行われる。

他の時間はゆったりとしていたので、将は待ち時間に

「この撮影用のバイクに乗って、このへん回ってきていいですか」

などと申し出たほどだ(もちろんダメだったが)。

仕方ないので、宿舎や車の中でセリフを覚える合間に、聡にたびたびメールを送った。

美しい風景に出会うたびに、それを携帯で撮影して添付する。

それは、朝霧が夢のように晴れていくアスパラ畑だったり、茜色に燃える夕映えの下で並ぶポプラ並木のシルエットだったり。

それに対して、聡は忙しいのか、返事は1日に1回程度、それも短いものばかりだったが、それでも将はメールを送らずにはいられない。

撮影待ちや宿舎で一人になると、あの夜のことが思い出される。

せせらぎに包まれて聡を抱いた幸せな夜。

「何、ニヤニヤしてるんですか」

武藤の代わりについてくれた若いマネージャーがけげんな顔をした。

目の前に広がるにんじん畑に聡の姿を思い出していた将は、「なんでもないよ」といいながら伸びをして誤魔化した。

 
 

 
「あ、鷹枝くん」

まだ時間が早いのか、教室にいた数少ない生徒の中で、星野みな子がまっさきに将に気付いた。

「よー、みな子。オハヨ」

将は入り口をくぐるようにしてみな子に手をあげた。

みな子は嬉しそうに授業のコピーの束を持ってきた。

みな子とも……ときおりメールを交わしていた。といっても、みな子から来るときは事務的な連絡がほとんどだ。

>2学期から、進学希望者とそうでない人に授業が分割されたよ。鷹枝くんは進学のほうだよね?

>そろそろ推薦入学を希望する人は相談するようにって。

そのたびに、将は

>いつもサンキュ

という文言と一緒に、お礼代わりに待ち時間中に撮った撮影風景などを添付してやる。

それは聡に送ったのと同じ畑の風景だったり、美しい白樺並木だったり、または共演者との寛いだ写真だったりした。

これはみな子が容易に、画像をネット上などに流出させるようなことをしない、とわかっているからできることだ。

みな子は、親しげに将の机に手をついて

「あのね。昨日言われたからメールしなかったんだけど、進学希望者は10月の全国模試を受けるようにって」

と新しい連絡事項を教えてくれた。そして

「今日は、補習までいられるの?」

と訊いてくる。

「うん。今週は学校週なんだ。仕事は放課後にちょっとだけ。今度のドラマは1月から放送だから『ばくせん』のときみたいに拘束厳しくない」

頬杖をついた将はみな子を見上げながら答える。

その、いかにも親しげなようすを見た他の女子生徒は

「やっぱり……」

と囁いている。

みな子は今や、聡に代わって、将の彼女とされているのだ。

当のみな子もそう言われていることを自覚している。

わざと、他のクラスメートに親しいところを見せているのだ……カモフラージュのために。

『本気で好きだから、今は離れている』

将の聡への思いを聞いたみな子は、自分の入る隙などない、と諦めた。

それと同時に、それでも将のことが好きな気持ちは消せないことを知った。

本気で好きだから、という理由で将が聡と離れていられるなら。

将のことを本気で好きなみな子だって、将の恋を……将が幸せになるのを応援したい。

聡に汚い嫉妬をぶつけるより、自己を殺して将のために献身的に尽くす。

こっちのほうがよほど救われる。

もちろんいつか、二人が別れてしまったときは、みな子に手が差し伸べられるかもしれないという計算もある。

だけど、それよりむしろ、仮に将と聡がこのまま結ばれたとしても笑って『よかったね』といってあげたかった。

そうすれば、少なくとも友情は続くだろうから。

初めての恋が、嫉妬に狂って泣いて醜い終焉を迎えるより、かけがえのない友情に転化するほうがずっとマシだとみな子は思ったのだ。

だから、みな子は、将が聡のことを諦めたかのような演技に協力すべく、将に親しげに振舞っているのだ。

みな子の気持ちをどこまで知っているのかわからないが、将もみな子の協力には感謝しているようで、何かの拍子に

「みな子、めちゃくちゃいい奴だよな」

と言ったことがある。

その一言で、みな子は思わず泣きたくなるほど救われた。もっともっと、何でもしてあげたいと思う。

そして……みな子にはさらなる希望を持っている。

「鷹枝くん、W大の一芸入試受けるんだよね」

みな子は、確認のように将の顔をのぞきこんだ。なんだか夏休み前より大人っぽくなった気がする。

「うん。いちおう、そのつもりだけど」

「あたしもね。ムリだとは思うけどW大受けてみる」

そうだ。……来年将と一緒にこの東京で大学生になる。それがみな子のささやかな希望なのだ。

「ホント?じゃ来年も一緒にガッコーいけるんだ」

「でも、こないだの模試、D判定だったからムリっぽいけど」

「今から頑張れば大丈夫だよ。みな子頭いいもん」

将の、この笑顔は、自分を歓迎しているのだと思いたい。

 
 

「お、将じゃん!学校やめたのかと思ったぜー」

井口が入り口でバカでかい声を出したかと思うと、そのまま将とみな子のほうに寄って来た。

「何、朝からいちゃついてんのヨ」

「いちゃついてないー。コピー渡してるだけだし」

井口の軽口に、みな子は軽く反論した。しかしそれも、計算づくだ。

案の定井口は

「あんまりベタベタしないほうがいいぜー。こないだどっかネットで『SYOの彼女は同級生らしい』って書かれてたぜ」

などと答える。

うまくいってるんだ、とみな子は内心ほくそえんだ。

あとで、将にこっそり『カモフラージュ作戦、うまくいってるようだね』とメールしようと思いながら、みな子は将の机をあとにした。

 
 

そのあとまもなく朝のHRが始まり、聡が教室に入ってきた。

半袖ではなく、固い生地のパンツスーツを身につけている。その姿は昨年、赴任してきたばかりの姿を思い出した。

教壇の上に立ち、教室を見渡した聡と、いち生徒として席についた将は一瞬目が合った。

引き剥がすようにして聡が視線をそらすのがわかり、将は軽く俯いた。

毛細血管に及ぶまで、すべての血液の中の鉄分が聡にひきつけられるような感覚。

あの、清流荘で抱き合ってから、もう3週間以上が経っているのに、将の中に残る聡の感触は、聡を求めてU字磁石に引きつけられる砂鉄のようにけばだっている。

将は、聡に逢えた喜びを全身で噛み締めた。

おかげで、聡が教師として何を言っていたのか、ほとんど聞いていなかった。

気がつくと生徒たちがザワザワと移動を始めていた。

生徒のうち半分が、教室を出て行くようだ。

「鷹枝くん、ここいい?」

みな子が席を移って隣にやってきた。

「え?今から何、英語じゃないの?」

「やーね。こないだメールしたでしょ。これから国語と英語は進学希望者とそうでない人で分かれて授業があるって」

みな子によると、進学希望者はこの教室で聡が教え、そうでない生徒は、視聴覚室で今まで通り映画や音楽を元に権藤が教えるという。

3年1組の進学希望者と合同の授業なので、席のほうは自由らしい。

将のもう片方の隣には「よぉ」と手をあげながらカイトが移ってきた。

「何、おまえも、進学すんの?」

およそそうは見えない赤毛のカイトを将は見つめた。

「ウン。俺さ、ゲーム会社に勤めたいんだ。……て、やっぱ学歴あったほうがいいじゃん」

カイトはやや照れて、それでも真面目な顔でプリントを広げた。

去年、毎晩のように将の家にたむろして、ときに女の子に悪さをしていた仲間とは思えないこの変わりよう。

やっぱり、人間、方向性が定まると、自然に努力するものなのだ。

まだ授業が始まるのに間があると思ったのか、カイトは将にいたずらっぽい顔で話し掛けてきた。

「そういやさ、井口に彼女できたの知ってる?」

「え、何それ」

「なんか、夏休みにどっかでパン屋の研修みたいなやつがあって、それで知り合ったらしい」

そういえば井口は毎朝、近くのパン屋にバイトに行っていた。

しかし、研修に参加するほど嵌っていたとは、将にとって初耳だった。

「ウッソー。あいつパン屋になんの?」

「さー、よくわかんない。でもダンサーの夢も捨ててないらしいけど」

そのとき、聡が再び教室に入ってきた。

さっきは気付かなかったけれど、ひどく顔色が悪いと将は気付いた。

黒っぽいスーツと対照的に、蒼ざめた顔は紙の様だ。

CDラジカセをひどく重そうに教卓に置いた。将の知る限り、いつもはそんなことはない。

それでも聡は声を張り上げて

「じゃあ、今から簡単な英文を3回掛けます。何て言ったか、ノートに書いて見てください。適当でもいいですからネ」

と言った。無理やりつくる笑顔が少しつらそうだ。

CDを掛けているあいだ、椅子に腰を下ろしてテキストに視線を落としている聡は、心もち眉根を寄せているような表情だった。

あきらかに具合が悪いのを耐えている。

そんな聡に気を取られていた将は、ロクに聴き取りできなくて、ノートは白紙に近かった。

何人かを当てたあとで

「じゃあ、正解を書きます……」

と聡が立ち上がった次の瞬間。

黒板に向かい、チョークを持った手をあげようとした華奢な体がぐらりと揺れた。

スローモーションのように崩れていく聡の姿に気をとられている矢先に、大きな音が響き、居合わせた生徒たちはハッとした。

聡は教壇の上に倒れたまま、動かなかった。

第289話 夢一夜(6)

ジリリリン、ジリリリン。

なんとも古風な電話の音が部屋に鳴り響き、重なり合ったまま眠っていた二人は同時に目をあける。

電話は、せせらぎも蝉の声も黙らせんばかりの勢いで、まだしつこく鳴っている。

上と下とで顔を見合わせると、上にいた将が、枕の先にある電話へ、文字通り這うように向かった。

――あ……。

そのとき、最後の1回を終えたまま聡の中にいた将が……ぬるりと抜けて、生暖かい液体を聡は感じた。

ティッシュに手を延ばす聡は、1つになったまま二人揃って眠り込んでしまったひとときを、温かく、少しだけ恥かしい気持ちで振り返る。

部屋はすでに朝でいっぱいだった。

軒の上にまわった太陽のかわりに、木々の緑が、爽快な色と風を部屋へと運んでくる。それに、裸はまったく不似合いだった。

「ハイ。あ、わかりました。すぐ降ります」

将は裸のまま、電話に答えながら、聡から受け取ったティッシュを使っている。

チン、と置くときまで古風な音をたてて電話を終わらせた将が、こちらを振り返った。

「朝ごはん、できてるって。……今、何時?」

「もう8時20分かな」

携帯で時間を確認する聡に、将が抱き付いてきた。

それは勢いあまって、聡を布団の上に再び押し倒す格好になった。

ひとしきり深い口づけを交わしたあと、次に移行しようとする将を

「9時にはJAFきちゃうんでしょ」

と聡はたしなめた。

将は残念そうに舌を出すと、起き上がった。

「それにしてもすげえな、この散らかり方」

将は二人がいた布団にちらばるティッシュを見て笑った。

暗闇の中で、くずかごがどこかわからなかったので放置していた、二人の体液がついたティッシュ。

それは聡が白バラに囲まれるように眠っていた夜明けより、また増えている。布団からはみ出すほどだった。

くずかごは、壁際に追いやられていた座卓の向こうにひっそりとあった。

聡はさすがに散らかしっぱなしが少し恥かしくなったのか、丸まったティッシュを拾い集める。

その無防備な姿に将は飽かず見とれてしまう。

つい1時間ほど前、朝の光の中で、その体の入り組んだ場所まで慈しみ、記憶したというのに……。

互い違いに折り重なるようにしてお互いの……将のための場所、聡のための場所を丹念に愛撫しあった。

ほとんど手探りのようだった昨夜に対して、朝は愛しい人の触感だけでなく、艶かしい色と形を浮かび上がらせた。

さっき、汗を浮かべて桜色だった聡の肌は。

どこもかしこも蝋のような半透明で、丸く揺れる胸には青い静脈が網目状に走るのが透けている。

聡は集めたティッシュをくずかごに押し込むと、乾燥機から出しておいた衣類を将に手渡し、自らも身につけはじめた。

将は、そんなにきれいな聡の体を服で覆ってしまうのは、なんだかもったいない気がした。

もっと見ていたい……。

しかし、そんな将の願いは叶うはずもなく。

将は仕方なくトランクスを穿くように、自分の欲望もひっこめるしかなかった。

 
 

朝食は、ご飯、みそ汁、浅漬けに干物、卵焼などが昨日の食堂に準備されていた。

簡単ですまないねえ、と奥さんは謝ったが、ふだんの朝食に比べると充分すぎるほどの質と量だった。

「よく眠れた?川の音はうるさくなかった?」

温かいものをテーブルに置きながら、奥さんがやたらにこにこと話し掛けてくる。

もしかして、夕べの秘め事がぜんぶ聞こえていたんじゃないだろうか、と二人は少し後ろ暗い。

大丈夫でした、と答えながら将は訊いてみる。

「あの……、高橋さんは?」

「ああ。お二人が起きる前に出ましたよ」

二人は顔を見合わせた。

どうやら、『行為』に夢中だった二人は、高橋の動きに気付かなかったらしい。

「いつもはもう少しゆっくりしていくのにねえ……」

思わず二人は、茶碗を持ったまま、下を向いた。

 
 

スタッフが気を利かせたのか、9時ちょうどにJAFがやってきた。

二人は宿泊料金を固辞しようとするご主人夫妻になんとか料金を受け取ってもらい、JAFの車に乗り込むと清流荘をあとにした。

明るい中で見ると、清流荘はいっそう古びていた。

屋根が赤いトタンだということも今気がついた。それは古びたおかげで、べんがら色のような色合いになり、周囲の緑と絶妙に調和していた。

さすがに9時にもなると蝉の声に誘われるように暑さが戻ってくる。しかしそれに、東京のような猛々しさはない。

風のひと撫でで、治まるような控えめな暑さの中、二人はミニの応急修理が終わるのを待った。

1時間かからずに修理とバッテリーの充電が終わった。

しかし応急手当だそうで、東京に戻り次第、きちんと修理する必要があるとのことだった。

うさぎを葬ったあたりにもう一度手をあわせて、さっそく出発することにした。

将の抜釘手術がある今日、急いで東京に戻らなくてはならないから。

「面倒だから、手術はもういいよ。のんびり帰ろう」

将はそう言ったが

「だめよ。ずっとこのあとも仕事が詰まってるんでしょ」

と聡がたしなめるように急がせる。

幸い、この道が聡の予測どおり、国道に通じていることは昨日わかっている。

車が故障した場所から、清流荘まで車だとほんの10分たらずだった。

フロントガラスに再び清流荘の姿が見えたとき、将は思わずそれを懐かしく見つめた。

きのう、二人がたしかに結ばれた場所。

将はハンドルを切りながらその古びた赤いトタン屋根の建物を何度も振り返った。

赤いトタン屋根はいつまでも、木々の影にひっそりと見えていたが、国道へ入るととうとう見えなくなった。

「……高橋さん、気付いてたんだよね」

聡がふとつぶやいた。

将は空いている国道を飛ばしながらわざと「何が」と問い返す。

「きのうの……アレ」

「4回もしちゃったこと?」

将はサングラスの中の目を聡にいたずらっぽく向けた。

聡は無言でハンドルを握る将の肩を叩いた。

車が少しだけセンターをはみ出て、将は笑った。

「ね、アキラ」

口をとがらす聡に将は甘い声を出す。

「何よ」

「アレ、やっぱりこのあとも卒業までお預け?」

「……当然じゃない」

「チェー。残念」

聡は、再び見えてきた槍ケ岳に視線を走らせながら、これからどうしたらいいんだろう、と考えていた。

一度は……将のために、将と離れる決意をしたのに。

それが、このところの色々で、すっかりなし崩しになってしまった。

おまけに、昨日ときたら。聡は、自分から誘って、将とむさぼるように愛し合ってしまったのだ……。

聡は、将とのこれからをどうすればいいのか、また不安になる。

このまま、自分の気持ちに素直なスタンスでいいのか。

それとも、再び距離をおくべきなのか。

人気俳優への道を歩む将。

昨日の忍者寺や、千里浜でもファンに慕われれていた……。

そんな将に、自分の存在は、いつネックになってしまうかもしれないのだ。

スキャンダルという意味もそうだし、将自身のモチベーション的にも。

「……キラ。アキラってば」

聡はハッとして振り返ると、視界に将を戻した。

「なに?」

「あのさ。今ごろ言うのもなんだけど……。アキラ、昨日大丈夫だった?」

「?」

聡は、将の言っていることがわからなくて、瞬きをした。

「ニンシンとか。俺、昨日、避妊具持ってなかったし……。思いっきりぜんぶ中に出しちゃったから……」

少しバツが悪そうな将に、ああ、と聡はようやくうなづくと、即座に

「大丈夫」

と答えてあげた。

「ホント?」

将はホッとしたように、顔をこっちに向けた。

聡はもう一度深く頷いて見せた。

規則的な周期をほとんど崩さない聡にとって、昨日は『安全日』といってよい日だった。

将は、いったん「よかった」と顔を進行方向に向けた。

だが、しばらくしておもむろに付け加える。

「……でもさ、アキラ。もしアキラがニンシンしたら、そのときは……絶対に、結婚しようぜ」

将の口調は、自分に誓うようだった。

聡はとまどった。嬉しい、という気持ちと、それでいいのだろうか、という迷いが聡を俯かせてしまった。

まるで聡の中の迷いを見透かしたような言葉に、聡は目の端で将を盗み見る。

しかし、将のほうは、楽しそうにハンドルを握っているだけだ。

どうやら単に将来の希望として、無邪気にそれを口にしただけらしく、聡はホッとする。

「……大丈夫よ。あたし、将に『出来ちゃった婚』なんて絶対にさせないから。それにしばらく妊娠するようなこと、しないでしょ」

将の顔を見ず、槍ヶ岳に向かってそう呟くのがせいいっぱいだった。

第288話 夢一夜(5)

聡は、冴え冴えとした月明かりの中を将と二人で歩いていた。

道は月光が照らす二人の影のあたりまでしか見えず、その先はまったくの闇だった。

どこに行くのか、または、どこへ帰るのかわからない。

だけど聡は、幸せで、幸せで、ただ幸せで。

しんと冷えた夜の空気の中でも、将とつないだ手と、胸のあたりがほんわかと温かかった。

二人まるきり言葉を交わさなかったが、そのかわりに聡は、ときどき将とつないでいる手に力を込める。

将はそれにこたえるように「ぎゅっぎゅっ」と必ず2回聡の手を握り返す。

それを歩きながら繰り返す。

モールス信号のような、握り合う手での会話。

聡が傍らの将を見上げて微笑めば、将も笑顔を返す。

二人、どこまでもこんな風に歩いていければと、寄り添いあった。

 

ふいに……月が雲に隠れ、二人を浮かび上がらせていた月光は、くるりと闇夜に変わってしまった。

お互いの姿は暗闇に隠されまったく見えなくなってしまった。

聡は傍らにいるはずの将を呼んだが、返事は聞こえない。

聡の手を握っているはずの将の手はいつのまにか、幻だったかのように消えていた。

「将……どこ!」

聡は立ち止まると、叫んだ。

心の中のざわめきが、外に響いてしまうような静けさ。

いくら耳を澄ませても将の声は聞こえない。

漆黒の闇に捕われてしまった聡は、気が狂ったように将の名前を呼び続けた。

将の姿も、声も聡には見つけられなかった。

まるでブラックホールに飲み込まれてしまったかのように、将の姿はこつぜんと消えてしまったのだ。

気がつくと、聡は月明かりの下、たった一人で自分の影を踏んでいた。

月を覆う雲は溶けるように去っていったのに、将は帰ってこなかった。

月が夜空を瑠璃色に輝かせる中、聡の心は途方に暮れていた。

「将……」

将がいなければ、聡の心は闇夜も同然だった。

先に進めない。何も食べたくない。息をするのもうんざりする。

どうして、置き去りにされたのか。

もしかして飽きられてしまったのだろうか……。

浮かんだ考えが恐くて……聡はしゃがみこむと立ち上がれなくなってしまった。

もともと。9も年上の自分は。いつかは飽きられてしまう存在なのだ……。

甘い哀しみに沈み込もうとする意識を、理性がひきずり出す。

いや。違う。

聡はしゃがんだまま目を見開いた。

あの闇の中での真実を思い出す。

あの、息をするのさえ苦しくなるような闇の中。

絶望に囚われて……将の手を離したのは、聡のほうだった。

あの闇の正体は、聡自身の不安が姿を変えたものだったのだ。

将は聡のためなら何でもする。何でも……自分の将来も捨ててしまうほどに。

闇に飲みこまれながら、聡は恐かったのだ。

自分が将の未来を台無しにしてしまうことが。

随分前から知っていた。

やがて将を包む暗雲は自分自身であることを。

それが恐くて、聡は将を自ら手放したのだ……。

 
 

聡はしゃがみこんだまま、いつしか嗚咽していた。

将を手放した悲しみに、涙はとめどなく溢れ、抱えた膝を濡らした。

これでよかったんだとは思う。

だけど、自分から引き裂いた将との絆のあとから噴き出すように涙は止まらない。

涙は永遠に止まらないかと思われた。

体中の水分が涙になってしまうのか。

それとも、死ぬまで泣いて余生を暮らすのか。

涙が止まる未来を想像できず、聡はただ長い時間そこで顔をうずめるようにしゃがんでいた。

 

と。

泣いている聡の肩に、ぽん、と柔らかいものが乗せられた。

その柔らかい感触があまりに無邪気だったので、思わず聡は顔をあげた。

いつのまにか、あたりは明るくなっていた。

まるで冬の陽だまりのような……柔らかな光が聡を包んでいた。

目の前には……温かな陽だまりの色に染まって、可愛い女の子が聡を見下ろしていた。

幼稚園児ぐらいか。

その整った顔は……なぜか懐かしくて、聡はその女の子をよく見ようとした。

女の子は聡を見つめると口をひらいた。大人の男の声音で

「アキラ」

と呼んだ。その声はまぎれもなく将だった……。

 
 

「アキラ、アキラ」

将は、眠ったまま突然涙をこぼし始めた聡の、裸の肩をゆさぶった。

聡の涙に濡れた睫が一瞬、ぴくっと動いた。

そしてゆっくりと瞼が開き、中からねぶった黒糖のようにうるんだ瞳が現れた。

その拍子にまた、ぽろぽろと涙がこぼれた。

「アキラ、大丈夫?」

顔をのぞきこむ将へと、聡の濡れた瞳はゆっくりと動いた。

目を開いた聡は、涙で滲んだ視界に将を見つけて、ほっと安堵の……涙でツンとした鼻の奥の感触を深いため息の中に放った。

夢だった――。

「こわい夢、みたの?」

将は聡の体に腕を伸ばし、抱き寄せた。

声をひそめながらも、これ以上ないほど優しい声だった。

聡は余韻で止まらない涙を、将の裸の胸に押し当てた。

まだ夢の中のような気がして、聡は将の胸の中でもう一度小さく嗚咽した。

将は何も言わずに、聡の髪から、カーテンごしの緑を映す白い背中にかけてをゆっくりと撫でた。

現実の将のぬくもり。少し湿った胸のあたり。

髪に背中に触れる大きな将の掌。

実際に、触れ合っている将。将はここにいる。

やっと安心した聡は、将の胸の上にある、小さな黒子に再会することができた。

ふだんは服で隠れてしまうあたりにある黒子。何度か目にしているそれは、聡にとって懐かしいものになっていた。

……それで、あたりがずいぶん明るくなっていることに、聡はようやく気付いた。

聡はもう一度将を見上げた。そういえば将の顔を見るのも何時間ぶりだろうか。

「しょう」

呼んだ自分の声がひどくかすれている。呼ばなくても将は聡を見つめていた。

――黒子、見つけた。

そういうかわりに、聡は将の滑らかな褐色の肌に浮かぶその黒子にそっと口づけした。

口づけしながら、聡は下腹に、ふだんは服で隠れている、将のもう1つのものが触れるのを感じた。

それで急激に、昨夜の記憶が蘇る。思わず意識を手放すほどの快感。

記憶というより……体中に残った感触が戦慄のようにいきなり屹立し、体の中が自動的に収縮するのを感じた。

あのとき途切れたままの、強い本能は体中の固い蕾を一気に開かせ、聡の心をも支配していく。

――もっと、現実の将を感じたい。

本能は聡の心にそう思わしめた。

「将」

次に呼ばれたとき、濡れて寂しげだった聡の瞳が、妖しく光るのを将は見た。

聡は黒子から唇を離すと、体を起こし、次に将に上からのしかかるようにして激しく唇を押し付けてきた。

第287話 夢一夜(4)

「将……、あたしを抱いて」

聡の顔は将のすぐそばにあるらしい。囁きと共に熱い吐息が将の鼻を撫でた。

将の体は思わず、ぶるっ、と震えた。戦慄というやつに違いない。

「ア、アキラ」

声のコントロールができなくて、将の声は暗い部屋に響いた。

し、と聡が小さくそれを制する。

「なんで……?」

自分でもなんでそんな野暮な問いが出てしまうのか、わけがわからない。将は混乱していた。

「……わかんない」

聡は自分でもわからない熱情に突き動かされていた。

将と素肌を交わすことができるのは、このときが一生で最後になる。

……そんなふうに何かを予感していたのかもしれないと後年、聡はこのときを思い出すことになる。

しかし、漠然とした予感はあっても、そんな未来のことを知るよしもない聡は、ただ自分の肌に沸き立つような将への思慕に身も心も委ねていた。

今日が、将と、身も心も結ばれるときなのだ……と聡は将の産毛が唇に触れるほど近くまで顔を近づけた。

聡のたぎる血の温度が将の頬に伝わる。

「い……いいの?」

将は自分にのしかかる聡の影に訊いた。とまどうあまり、こんなことを訊く自分は格好悪いと思う。

自分が聡を抱くときは、きっとリードしようと何度も思い描いていたのに。

幾夜、聡を思って一人眠っただろうか。何度、その肌に思い焦がれて、虚しく処理しただろうか。

ずっと憧れた聡の体が、今差し出されたのに。

将は、思っていたようなことを何1つできずにいた。

と、布がずれる音がして将の顔がふわりと柔らかいものに包まれた。……聡の掌が将の頬に添えられたのだ。

1秒後には、将の唇に甘い感触が降りてきた。まるでひさしぶりに味わうかのような聡の唇に、将の息が止まる。

聡は……将の問いに頷くかわりに唇を押し付けてきたのだ。

聡の舌が、将の唇を越えて、軟体動物のように入り込んできた。

将は思わず、止めていた息を吐き出すと、ようやく聡の舌を自分の舌で受け止めた。

なま温かい舌と舌は絡み付いて、せせらぎに湿った音を混じらせた。

その交わりだけで脳が痺れたように麻痺していく……将はいかに自分が聡に飢えていたかを思い知った。

将は自分にのしかかる聡の背中に再び手をまわそうとして、思いがけない熱さにハッとする。

将の手は聡のなめらかな素肌にいきなり触れたのだ。

聡は……すでに浴衣を脱ぎ捨てていた。下着は乾燥機に入ったままだから、すでに生まれ落ちたままの姿に違いなかった。

背中の素肌で将の手を感じたのか、口づけを交わす聡の唇からかすかに吐息が漏れた。

それを聴きとった将は……いきなり体を起こして聡を抱き締める。

そして今度は聡をやや乱暴に敷布団に押し付けると、自分も帯を解いて浴衣を脱ぎ捨てた。

暗緑色のカーテンに、将の肩のあたりのシルエットが浮かび、聡はもう後戻りはできない、と目を閉じた。

 
 

どれくらい時が経っただろうか。うとうとしていた将の瞳は、暗緑色のカーテンの色調がわずかに明るくなったのをとらえた。

傍らで寄り添い眠る聡が、暗いながらもいつのまにか見えるようになっている。

カーテン上部のたるんだ隙間から見える空は、すでに瑠璃色というには明るすぎる。

将は頭に肘をつくと、傍らで生まれたままの姿で眠っている聡を見つめた。

わずかに唇を緩めて、安心しきった顔で将のほうに体を向けて横たわっている。

ついさっき……昨夜というべきだろうか。夢のようなひととき、触れあい。

2度目のとき、聡は感極まって……将がたどりつくのを待てずに意識をなくしてしまった。

失神したというよりは、いつのまにか返事が聞こえなくなっていたというほうが正しい。

意識をなくした聡は、そのまま眠りに移行したらしい。

そのとき、愛し合う二人の背後で、せせらぎに負けないほどの勢いで聞こえた鼾が今は止んでいる。

たぶん高橋も熟睡しているのだろう。

――もしかしたら、わざと鼾をかいてたのかな。

将は、ふと思った。それほど……今は静かな隣なのだ。

 

部屋は、だんだん明るくなってきた。

緑色にカーテンの色を透かす部屋の中で、聡の姿もはっきりとしてきた。

さっきまで白いシーツとの対比で影のように見えた体も、その肌の蝋のような白さを一面の緑の中に浮かび上がらせ、将は思わずそれに見とれた。

昨日、さんざんその柔らかさを確かめた胸。

下半身は夏がけに隠されているが、夏がけに入る直前にあるウエストの括れときたら。

こうやって無意識に眠っているというのに、何かで削り取ったような極端な細さだ。

二人が横たわる敷布団の上といわず、まわりと言わず、将と聡が汚したくしゃくしゃのティッシュペーパーが散乱している。

その中に裸で眠る聡は、白バラを散らした中に眠るおとぎ話の美女のようにも見える……。

だが将は、おとぎ話を想像するよりは、夏がけをはずして、聡のすべてを、明るくなりゆく中で見たくなった。

考えてみたら昨日はほとんどが手探りだった。

手探りゆえに鋭く感じたというのもあるかもしれないが、聡の体は視覚的にも魅力的だったし、刺激的だった。

行動に入る前に、将は聡の顔を盗み見た。

……いつのまにか、聡は眠ったまま眉根を寄せていた。

何か悪い夢を見ているのだろうか。目を閉じながらもつらそうな表情だ。

将は心配になってその顔をのぞきこんだ。

と、ついに長い睫の下からにじみ出るように、涙が湧き出してきた。

第286話 夢一夜(3)

「テレビないんだー」

蛍光灯に照らされた部屋を一瞥した将は思わずがっかりした声を出してしまった。

聡はむき出した歯に指を立てて静止する。隣からは高橋の鼾がリズミカルに聞こえている。つまり大声を出すと迷惑だ、という意味だ。

ちなみに1階の食堂で聞こえたのとは違うリズムの鼾である。

二人の部屋は、高橋の部屋と襖で仕切られた6畳間で、すでに床が2組、きちんと並べてのべられていた。

いちおう気を利かせてくれたのか、襖にはお互いが開けられないように、しんばり棒が置かれた上に、

高橋の部屋との仕切り側に、背丈ほどの衝立が置かれている。

そのせいで若干狭く見えるものの、古びた部屋は東京の団地間の6畳とは違って、かなり広い。

窓側に寄せられた座卓の上に、昔ながらの魔法瓶のポットときゅうす、湯のみなども置かれていた。

「まだ11時すぎだよー。暇だよ」

将は座卓が寄せられて狭くなった窓際に寄ると、不満そうに緑色のカーテンをあけて外を見た。

橋の袂の外灯もここまでは薄暗くしか届かないらしく、景色は暗がりの中に沈みこんでいる。

ただ、近くに聞こえるせせらぎで窓の下を川が流れていることだけがわかる。

雨はまだ止まないらしく、軒から雨だれが暗い光に反射しながら落ちていくのがときどき見える。

「歯磨いて、さっさと寝よ」

聡は小声でそれだけいうと、今入ってきた襖を出て、共同の洗面所に立った。

登って来た階段の突き当たりに共同のトイレと洗面所があり、

そのタイル張りの縁に歯磨き粉付きの使い捨て歯ブラシが束になって置いてあった。

その1つを破いて歯を磨く聡は、背後に熱い体温を感じた。将だ。

「今時、珍しくねー?この歯ブラシ。超ーレトロ」

将は明るくそういうと聡の隣に立って歯磨きを始めた。

体をわざとくっつけるようにしてくる将が、聡には苦しい。

みそ汁で引っ込んだ『雌』が、2つ並んだ布団を見て、また復活してしまったようだ。

聡の五感は将の肉体の動きを敏感に感じ取ってしまう。

……と将は聡の背後で、いきなり、くっと膝を曲げた。唐突な「膝かっくん」。聡はバランスを崩しそうになって

「キャ!何すんのよ!」

と声をあげてしまい、逆に将に『シー!』と指を立てられてしまった。

将は白い歯を剥き出しにして顔をくしゃっとさせた。

その顔に少しだけ、照れが見えた。

それを見たとたん、何かあったかいものに緊張感が急に溶かされていくのが、聡にはわかった。

 
 

電気を消した部屋は、ほとんど真っ暗闇になった。

闇の中に、かすかに水銀灯の外灯から漏れる光が、カーテンを幻のような暗緑色に浮かび上がらせている。

光のほとんどない空間は、せせらぎと雨音、そしてかすかに響く高橋の鼾をより強調させた。

二人はすることもないので、並べられた二組の床にそれぞれ横たわっている。

部屋にはエアコンもない。しかし夏布団がないと肌寒いほどの冷ややかさが部屋には漂っていた。

さっきまで、

「ゲー、まじで真っ暗。豆電球にしようよ」

と騒いでいた将も、夏布団を蹴ることもなく静かに横たわっているようだ。

だけど、暗闇に、どこか張り詰めた部分がある……たぶん将は起きているだろう。

しかし聡は……心も体も昂揚していた聡だが、せせらぎを闇に聴いているうちに、布団の中に沈みこんでいくような錯覚を覚えた……落ち着いてきたのだ。

もしかすると闇の中に、清流からのマイナスイオンが溶け込んでいるのだろうか。ふと、そんなことを思う。

聡は横たわったまま、わずかな暗緑色に透けるカーテンを見上げた。

雨の音はまだ続いている。

この雨は……巌の骨を埋めた寺にも降っているのだろうか。

雨が染み込んだ土は……巌の骨と交じり合っているのだろうか。

そんなことを思う聡は、雨が静かに闇の森へと落ちていくように、次第に自分の中へと降りていく。

巌の30年来の妾であるあゆみが、明るく何か話し掛けている……。

……。 

「アキラ……起きてる?」

将の声に、聡はハッとした。眠りの世界の門にちょうど入りかけた聡の意識は、急激に呼び戻された。

「……うん。起きてるよ」

声がかすれてしまう。一瞬自分が把握できない。

「そっち……行っていい?」

続く将の言葉に即座に、ダメ、と言わなかったのも、まだ眠気が聡の意識を包んでいたからだろう。

まだぼんやりしている聡の体を覆っていた薄い夏蒲団がふわりと宙に浮いて、冷ややかな空気が一瞬しのびよる。

だがすぐに熱いものが聡の体の隣に横たわった。

「もう来ちゃった」

囁くような将の声。聡にはその悪戯っぽい笑顔が見える気がした。

「もしかして、寝てた?」

将はごく自然に聡の体に腕をまわした。

「ううん……」

眠気のせいか、理性や自制心がどこかにいったように、聡も将の胸に頬を寄せた。

「……あったかい」

そんな聡のほうこそ、手の中の小鳥のように温かくて柔らかい。

「アキラもあったかいよ。……何考えてたの?」

囁く将の声は雨音よりずっと優しかった。

低い地声なのに、耳元で囁くときは18歳まるだしだ。だけどそんな将の声が、聡は好きだ、と感じている。

「ね」

将は聡の髪をなでると、耳にかけた。手探りだろうに、聡の耳の位置をすっかり覚えているらしい。

「あのね」

安らぎが聡に甘えた声を出させた。

「今、あたしが死んだら……。将と同じお墓には入れないのね、ってこと」

将は驚いたのか、体を少し起こした。暗闇に目をこらして聡の顔をみようと試みるようだった。

……実際、だんだん暗さに目が慣れてきて、お互いの輪郭だったらごくわずかに見えるようになってきている。

「……えんぎでもないこというなよ」

聡は鼻先の吐息に微笑を浮かべながら小さく「ごめん」と謝った。

「……今ね。あゆみさんのことかんがえていたの」

「あゆみって、ヒージーのお妾の?」

将は安心したように、再び聡の横に寝そべると、さっきより少し強く聡を抱き寄せた。

「そう……巌おじいさまのことをすごく理解してて、実質『妻』みたいなものでしょ。だけど……同じお墓には入る権利はないんだな、って……。

たぶん、あゆみさんは割り切ってるんだと思うけど……あたしだったら寂しいなあと思って」

将はうなづくかわりに、聡の浴衣の背中に回した手で、ゆっくりトントンと優しく叩いた。

「……結婚って、死後も夫婦として扱われることでもあるんだな……って思っちゃったりして」

聡は再び吐息で笑うとそれっきり黙った。

実は将もまた、雨音に、寺に埋めてきた巌の骨のことを思い浮かべていたのだ。

巌は、自分の骨のかけらを、初恋にしておそらく最愛の……最愛でなければそんな遺言を残すはずがない……森村史絵の墓が見えるところに埋めるよう言い残した。

巌の骨は、しみこむ雨と共に土に溶け込み、やがて桜の大樹となり史絵を見守る。

それは結ばれることもなく先に逝った女性への、最大にして最後の愛情表現なのだろうが……将は虚しいと思った。

でも、結婚して一緒の墓に入り、子孫に祀られるのは?

あたりまえのような愛の結末だけど……将は少し物足りない気がして、腕の中で温かな聡に問い掛けてみる。

「アキラ……。俺が死んだら……」

言いかけてやめた。自分でも何を訊きたいのかよくわからなかったからだ。

しかし、その消えてしまった語尾は、暗闇の中でたとえようもなく心細く、聡には聞こえた。

生きているうちに結ばれたい。

そのとき、二人は同じことを考えていた。

それでもしばらく二人は暗闇に寄り添ったまま、雨音とせせらぎが溶け合う中に意識を委ねていた。

さっきと違って、眠りは訪れない。……静かなのに闇がざわめいているように肌がぎこちない。

将は、ふいに聡の体が動くのを感じた。

どうやら少し身を起こしたらしい……と感じた直後に将は、のしかかるような聡の気配を感じた。

「将」

ほとんど音声にならない囁きながら、将はそれをはっきりとせせらぎと聞き分けた。

「あたしを抱いて」

第285話 夢一夜(2)

お湯に顎まで沈むと、ふう、と空気が体から押し出されるようにため息が出た。

聡は一人、元民宿だというこの家の風呂に裸身を沈めている。

川のせせらぎと優しい雨の音に、脱衣所で洗濯機が回る音が混じる。

さっきまで下着までびっしょりだった二人の服をまとめて放り込んでいるのだ。

ここに泊まることが決まったとき、民宿の奥さんはまず言った。

「それにしてもその濡れ方じゃあ……。まず二人一緒にお風呂に入っちゃったらどう」

「え」

二人は止まった。

「……やーねえ。いい仲なんでしょう。恥かしがらなくたって」

奥さんは笑いながら二人を風呂に案内した。

すりガラスの引き戸を開けると、そこは洗濯干し場を兼ねたような、雑然とした脱衣所になっていた。

天井からはのれんの様にタオルが干してあり、床には色のさめたバスマット、

その脇には孫用なのか、バケツに入ったカラフルなじょうろやアヒルといった風呂用おもちゃが置いてある。

比較的新しい洗濯機と乾燥機(それでもよく見ると時間が掛かる旧型)、一昔前のピンク色のシャンプードレッサーが木の窓枠とあきらかに異質だ。

「浴衣は大と中でいいね。それと、ハイ。タオル。バスタオルは本来は貸さないんだけど、今日は特別。洗濯機も乾燥機も自由に使ってね」

と奥さんは使い古された柄物のバスタオルを差し出してにっこりと

「じゃ、ごゆっくり」

とすりガラスを閉めてしまった。

思わず聡は、唾をごくっと飲んだ。将の顔をまともに見れない。

「ちょっと……。将、あたしここで洗濯してるから、先に入ってきてよ」

聡は濡れた将のパーカーを脱いで洗濯機に入れながら俯いた。

「えー、なんで。せっかくだし、一緒に入ろうよ」

将は明るく誘った。

「ダメ」

「なんでー」

「ダメったらダメ。……恥かしいもん」

聡はくるりと後ろを向いた。

「いいじゃーん。もう裸のつきあいなんだし」

「とにかく、いやなの」

将は口を尖らせながらも、それ以上無理強いはしなかった。

聡に背を向けると、さっさと濡れた服を脱いで風呂場に入った。湯上がりも

「ぱんつ穿いてないとスース-するな」

などといいながら浴衣を着てしまうと、脱衣所を出て行った。

「ご飯、先に食べてていいから」

その背中に向かって聡はやっと言えた。

ムリにお願いして食べるものを用意してもらっているのだ。

洗濯物は聡が上がった頃に脱水が終わるだろうから、今度は乾燥機に放り込んでおけば明日には着れるだろう。

 
 

まだ8月だけれど、窓の下を川が流れるこの風呂では、体を洗うのももどかしいほどお湯のぬくもりが恋しかった。

しかし、ひとたび湯に入ってしまえば、窓からの川の風はほてりがちの頬と額を冷ましてくれてそれがなんとも気持ちいい。

鉱泉風呂だという湯も、キュッキュッと肌が音をたてそうな独特の柔らかさだ。

2間続きのうちの1部屋を譲ってくれた常連客・高橋が

「ここはお風呂がいいからね。安い上に下手な温泉よりゆっくりできるのがいい」

と絶賛していたのがわかる。

岐阜中をまわる営業マンだという高橋は、ここの鉱泉風呂が気に入って、

民宿を廃業したあとも頼み込んでビジネスホテルの代わりに泊まらせてもらっているということだった。

 

すっかり温まると、聡は髪を洗うべくお湯からあがった。

ちなみに浴槽も床も、今では珍しい昔ながらの凝ったタイルばりだ。

洗い場に置かれたピンク色のプラスチックの腰掛が少し不似合いだが、『ケロリン』の黄色い洗面器とは調和しているかもしれない。

聡はそこに腰掛けると、まとめていた髪をほどいた。

『○○工務店』とくすんだ金文字で書いてある鏡の中に、湯で桜色に染まったなまめかしい女の裸体が映し出された。

聡は思わず鏡から視線を落として、お湯をケロリンの中に勢いよく出した。

すると、こんどは鏡像ではない、自分の裸体がじかに目に映った。

胸の先端は、すでに尖って固まっているのは見ないでもわかる。

聡はそれが……将と同じ部屋に泊まるということが決まったゆえの期待、そして淫らな想像にによるものだということがわかっている。

今日何度目かのため息をついた聡に、洗濯機の振動が風呂場まで響いてきた……おそらく脱水に入ったのだろう。

聡は、欲情が素直すぎるほど露骨に現れてしまう自分の敏感さを恥じた。

何を、期待しているんだろう、とも思う。

自分たちが泊まるのは、あの人のよさそうな高橋と襖1枚隔てた隣なのだ……だから何も起こるはずはないのだ。

そう言い聞かせているはずなのに、体はすでに将に反応している。

聡は備え付けのリンスインシャンプーを頭の上で思い切り泡立てながら思い出す。

思えば。

この冬……同棲していた頃は、将と毎日のように抱き合って眠っていた。

あのとき、抱き合うだけで何もしなかったのが奇跡のように思える。

と。将の肌を思い浮かべた連鎖か、唐突に、聡の中で、そのときの感覚が蘇った。

4月に……傷ついて酔った将に身を任せたときの……。

聡は目をぎゅっとつむって、頭皮に置いた指を掻き毟るように曲げて俯いた。

――恥かしい。あさましい。おぞましい。

聡は男である将に対して暴走する雌の自分を抑えるのが苦しくて泣きそうになった。

夜に響くせせらぎだけが、清らかだった。

 
 

「あ、アキラー。先に食べてるよー」

いちはやく将が聡の浴衣姿を見つけて、ビールのコップを持った手をあげた。

将は台所から続く食堂のテーブルに高橋と一緒にいた。

「やあ奥さん。ご一緒させていただいてます。おかげでおつまみが豪華になりましたよ」

高橋が機嫌よく会釈した。

ビニールクロスがかかったテーブルの上には漬物と残り物の煮物、それにたぶんいそいでつくってくれたのだろう卵焼が乗っていた。

『奥さん』という慣れない呼び名に聡は思わず目を見開いたが、おそらく将が嘘をついたのだろう。

聡はあいまいに笑顔をつくった。

下着はすべて乾燥機の中なので、こうして他人と同席するのは物理的にも、気持ち的にもスースーして落ち着かない。

聡が席につくと同時に、民宿の奥さんが温かいみそ汁とご飯を持ってきてくれた。

みそ汁は、空腹を癒しただけでなく、その味はしみじみと臓腑に沁みて、野性的な欲望と反対側に位置するほのぼのした部分を急速に満たしてくれた。

「アキラも飲めよ」

将が機嫌よくビール瓶を差し出した。

「うん。もらう」

気持ちが和らいだ聡はそれを素直にコップで受けた。そこへ民宿の主人が顔を出した。

「もう、お風呂は抜いて掃除するけど、いい?」

つまり、夜中に風呂は使えないという意味だ。

「はい。お掃除をおそくさせてしまって、どうもすいません」

聡の返事をロクに聞かないうちに、ご主人はとうに風呂に向かってしまっていた。どうやら、聡が出るのを待ちあぐねていたようだ。

そこへ高橋が

「朝5時にはお湯、溜まるけど。夜明けの一番風呂がまた、いいんだ」

とコップに残ったビールを飲み干した。そして

「のぞき趣味はないから、安心して、お二人さん。……じゃ、おやすみ」

と早々に部屋に引き上げていった。きっと気を利かせたに違いなかった。

民宿の奥さんも聡にご飯とみそ汁を出して、将にお代わりをよそうと

「終わった食器はそのままにしておいていいからね」

と引き下がってしまい、蛍光灯に照らされた食堂は、急に静かになってしまった。

居間も電気が消されていて、そこにあるテレビを点けるのは憚られた。

それでもしばらくは、空腹のほうが心に騒がしかったので二人はもくもくと夕食を腹に納めていく。

「将、あたしたちのこと夫婦だって言ったの?」

ようやく落ち着いた聡がお茶を淹れながら訊いてみる。

静かになると、川のせせらぎがここまで届いているのがわかる。

雨が少し弱くなったのか、耳を澄ませば何かの鳥が『ホッホッホッホッホ……』と鳴くのすら聞こえるようだ。

「うん。宿帳にも鷹枝聡って書いておいた。いいだろ。いつか本当になるんだし」

将はご飯をかき込みながらにんまりと笑った。

聡は茶を啜りながら「もう」と将を軽く睨む。

でも、それが本当になるとしたら、いつなのか、果たしてどれだけ遠くなんだろう……と少しだけ途方に暮れた。

 

「それにしても、みんな寝ちゃったんだなあ」

料理をぜんぶ平らげてしまった将は、自分の食器を重ねながらあたりを見回した。

電気がついているのはこの食堂と階段だけで、あとは見事に電気が消されているらしい。

廊下や玄関も薄暗い。

早くもどこからともなく鼾が聞こえてくるのはご主人のものだろうか。

「まだ11時すぎだぜえ。年寄り、夜早すぎ」

将は茶をも飲み干してしまうと頬杖をついた。

「でも将だって、昨日あんまり寝てないでしょ」

聡のいうとおり、将は昨日SAで休憩した3時間程度しか眠っていない。

考えてみたらロクに休憩もしないで、ずっと運転していたのだ。

「そうだな。……じゃあ、そろそろ寝る?」

将は、『寝る』という単語をいやに強調させると、黒目をぐるりと聡に向けて、にやっと笑った。

たかが冗談なのに……聡の心臓は、血をばくっと一気に吐き出すと忙しく動き始めてしまった。

それを隠すように、聡は唇を尖らせて見せた。

第284話 夢一夜(1)

二人は、森へ降り注ぐ雨音だけが響く闇の中で、しばらく抱き合っていた。

将の胸に頬を押し当てて目を閉じていた聡のほうから

「そろそろいこうか」

と顔をあげた。

「うん」

将がポケットに入れた懐中電灯を点けようとしたそのとき、

将の胸から顔を離した聡は、木々の葉陰にぼうっとした光りが見えるような気がした。

「将、あれ……」

といっても指差している指も懐中電灯で照らさなくては見えないような闇だ。

将は聡の手を懐中電灯で照らすと、その方向に目をこらした。

ごくわずかの光りは、懐中電灯の光が邪魔で見えない。

しばらく暗闇で抱き合っていた二人の目には、懐中電灯の暗い光ですら、とても明るく映ったのだ。

将は懐中電灯をもう一度消した……たしかに、幻と見まがうような暗い光が生い茂る原生林の向こうに見える。

「本当だ、やった!」

将と聡は暗闇の中、顔を見合わせた。

「行こう!アキラ」

「うん」

二人は懐中電灯を点けると小走りに道を下り始めた。

民家だったら、事情を話して電話を借りることができる。

最悪外灯だとしても。こんなところで外灯をつけるということは、何かがあるはずだ。

しかし……道を下るにつれて、灯りは再び見えなくなってしまった。

灯りがあるのと逆方向に進んでいるようにさえ感じた。

だが、二人は『道が大きくカーブしているだけだ』と信じて、手を取り合って懸命に歩いた。

曲がりくねった道を30分ほど歩いただろうか。

だんだんまっすぐな道が増えてきて、雨音に混じってどこからともなく沢の音が聞こえ始めた。

「やっぱり見えるよ!」

聡が歓声をあげた。将は目をこらした。

「ほら!あそこ」

今二人がくだっているカーブの下を指差した。

こんどはかなりはっきりと……懐中電灯に負けない明るさで灯りが見える。

しかも1つではない。水銀灯と、その下に民家らしき影も見える。

「よし!もうひと頑張りだ!」

「うん」

二人は手をつなぐと、待ちきれなくて走り始めた。

あんまり走ったので、民家に着く直前に息が切れてしまった。

「ちょっと、……待って」

聡は息を整えるべく橋の欄干に手をついた。水銀灯はその袂に立っていた。

水銀灯の白い灯に照らされて小さな石橋が、沢……というより小さな川に掛かっていた。民家は少し先に見えている。

気がつくと雨が少し小止みになっている。

久しぶりに二人は、お互いの姿を目にすることができた。

「びっしょりねー」

でも走ったおかげで、寒さは忘れている。

「俺、パンツまでびっしょり」

「あたしも」

二人荒い息ながら笑いあう。

「携帯は……まだ圏外みたいね」

「いいよ。あそこの家で電話を借りよう」

二人は、あと10mばかりに迫った家へと、手を取り合った。

 
 

その民家は小雨と水銀灯の暗い光の中でかなりオンボロに見えた。

あまり手入れされていない前庭に、いちおう門灯があるにはあるが、消えたままだ。

だがくすんだ緑色のカーテンから蛍光灯らしき暗い灯が漏れているのが見えるし、

前庭の横の空き地には、軽自動車と軽トラック、こぎれいな国産車が駐まっていた。

「民……宿?って書いてあるよ」

消えた門灯の裏に、泥だらけの看板が置いてあるのを聡は見つけた。

確かに『民宿・清流荘』と書いてある。

「最悪、車が今日中に直らなかったら、泊めてもらえるかな」

そういいながら将は、ガラスの引き戸のわきにあるブザーを押した。

しかし、鳴っている気配がまるでないし、誰も出てこない。

何度か押してみたが誰も出てこない。

二人は顔を見合わせた。そのうち、再び雨がひどくなってきた。

軒にいるから、もう濡れないけれど、川からの風が濡れた体をしばりあげるように急速に冷やし始めた。

さっきまでばら色だった聡の唇がもう紫色になって震えているのを見て、将は引き戸を叩いた。

「すいませーん!夜分すいませーん」

古い地紋ガラスがはまった引き戸は、叩かれて派手に音を立てた。

それでようやく奥から人が出てくる気配がした。

「どなたですか」

それでも年老いた女らしき声は、用心のためか引き戸をあけずに応対しようとする。

その用心を解くべく、聡が将を制して引き戸に向かって話した。

「あの……。この先で車が故障してしまったんですが、携帯が通じなくて困っています。よろしかったら電話を貸していただけないでしょうか」

それで怪しい者ではない、と認識されたのか、ガラリと、戸が開いた。

ハルさんより少し年上くらいだろうか。

寝巻きにカーデガンを羽織った白髪の女が将と聡を見上げた。

「……あらまー、びしょぬれ。ちょっと待って。すぐタオル持ってくるから」

どうやらたやすく警戒を解いてくれたらしい。

白髪の女は小走りに奥にひっこむと、使い古しらしい乾いたタオルを持ってきた。

「すいませんねえ……。年寄りなんで耳が遠くてねえ」

と言い訳をしつつも

「あ、入って、入って。川の風が寒いでしょう」

と暗い蛍光灯に照らされた玄関先に入れてくれた。

立っている玄関の三和土に、足を伝った水滴が落ちて水溜りが出来るほど、二人はずぶぬれだったので二人は有難くタオルを借りることにした。

タオルにも『清流荘』というプリントが消えかかりつつも残っていた。

昔風に少し広い玄関から、2階へあがる階段が目の前にあった。

階段にも、その横の廊下にも、くすんで毛足がほとんどなくなったような赤のカーペットが張り付いていて、壁にはよれた木目調の壁紙。

廊下の奥の、NHKらしきテレビの音が大きく漏れているところが居間のようだ。

そこから丸い禿げ頭がにゅっと顔を出した。

禿げ頭はどうやら先に出てきた老婦人の夫のようだった。

彼は赤いカーペットをどすどすと踏んで、

「どれくらい歩いたの?ずぶ濡れだねえ」

といいながらこちらにやってきた。

小太りなところなどは妻そっくりである。

すでに晩酌済みなのか、玄関の暗い蛍光灯の下でも、禿げた頭に頬、鼻の頭がほんのりピンク色なのが見える。

「ああ……あれだ、洗濯機や乾燥機も使っていいよ」

と気前よく申し出てくれた。しかし、それよりも前に、電話をしなくてはならない。

「あの、すいませんが……電話を貸していただいてよろしいでしょうか」

聡はもう一度お願いした。

「ああ、ああ、いいよ」

といいながらと男は引っ込むと、玄関まで電話の子機を持ってきてくれた。

家の古さに似合わなすぎる、新しい子機を将は受け取ると、携帯に登録しておいたJAFの番号を取り出して掛ける。

その間、聡が、そこに座った夫妻にここに来るまでのいきさつなどを説明する。

しかし、やり取りをする将の顔が、どんどん傾いてくるのを、説明する聡は目の端でとらえた。

しまいには三和土に溜まった水溜りを見ているかのようになってしまった。

「……ハァ。明日しかダメですか……。ハイ。……ハイ。9時。わかりました」

通話を終了すべくボタンを押した将は、深いため息をついた。

「明日しか来ないって?」

最後のほうが聞こえた聡は先回りした。

将は声を出さずに頷いた。

「ここは田舎だからねえ……。もう9時だし」

妻のほうが気の毒そうに言った。いつのまにかお盆にお茶が用意されている。

「じゃ、どっか泊まるところ探さないと……」

と聡がつぶやいたとき、後ろの廊下の奥から、浴衣姿の男性がこちらへ歩いてきた。

首にタオルをひっかけた中年男性は、人のよさそうな顔を湯上りらしくテカテカと火照らせて上機嫌で

「いい湯だったよ」

と夫妻に声をかけた。

そしてそのまま、スリッパを履いた足で階段を上っていってしまった。

「……あの、ここ民宿なんですか?」

将は夫妻に訊いた。暗に『ここに泊まれるのか』という意味の質問に、夫妻は顔を見合わせた。

「残念だけど、今はもう辞めたのよ……」

と妻・つまり民宿の奥さんのほうが、気の毒そうに将を見上げた。

「そうですか……」

思わず返事と共に思わずため息が漏れてしまう。

が、考えてみればもともと、ここでは電話を借りるだけのつもりだった……と将は気を取り直して

「ここから一番近い宿って、どのくらいかかりますかねー」

再び訊いてみる。

「そうだねえ……。民宿が受け入れてくれればいいけど、夜だから……。

新平湯とかにいけば大きな宿があるかもしれないけど、車で20~30分はかかるかねえ……」

奥さんはそう答えながら、古びた電話帳を持ってきた。

将は再び失望のため息をついた。それを聞いて、主人が

「泊めてやればいいじゃないか」

と奥さんに囁いた。だが奥さんは

「でも、お父さん。部屋ずっと使ってないし、物置になってますよ……」

と眉根を寄せる。

「あ……おかまいなく。タクシーで行けますから」

と聡が言おうとしたとき、

「困ってるんだったら、僕の部屋の隣、使っていいですよー」

と階段の上から声がした。さっきの中年男性だ。玄関にいた一同は、階段を見上げた。

男性がスリッパをパタンパタンと響かせて降りてきた。

「ご主人、泊めてあげたら」

ともう一度言った。人のよさそうな男性だ。

「でも、高橋さん……」

奥さんが浴衣の男性に何か言おうとしたが、高橋という男性は先回りした。

「僕だって泊まってんだからさ。いいじゃない」

口の利き方からどうやら、この人のよさそうな男性は、ここの常連客らしい。

「僕だったらかまわないよ。そんなびしょぬれで、雨の中放り出すなんて可哀想でしょ……ただ、部屋は襖で区切ってあるだけだけどね」

将は聡と顔を見合わせた。蛍光灯の下でうなづく聡の顔はいっそう青白く見えた。

もはや選択肢はない。

第283話 夏の終り(8)

冷たい雨が降りしきる山道を歩いて下る二人は、心細さを紛らわすように、聡の提案でしりとりを始めていた。

「リンゴ」

「ゴ……ゴリ!」

「ゴリってなんだよ」

「あら。金沢名物の魚よ。知らないの?」

二人でやるシリトリは、かなり長く続いている。もう15分も続いているだろうか。

こうしてゲームをしていると、雨の冷たさも、サンダルが滑る坂道の歩きにくさも、少しは紛れる気がする。

「ちぇー」

将は少し考え込んで「リベート」と返した。

聡は即座に

「トリ」

と答える。

「リ……リベンジ」

「ジ、ジ、……じどり(地鶏)」

「……アキラ、ま~だ『り』攻め続けるのかよ」

将はつないだ手を前後に振り回した。

へへーん、と聡は笑った。

暗くて見えないけれど、きっと得意げな顔をしているのに違いない。

「くっそう……。リチウム」

「ム・リ」

「リーチ棒」

リーチ、はさっき言ってしまったので、苦しい将はその先に『棒』をつけている。

「将、マージャンやるの?」

聡はあきれたように声がするほうを振り返った。しかし暗い懐中電灯は前を照らしているので、ほとんど将の顔は見えない。

「あんまやんないけど。アキラは?」

『あんまりやんないけど』といいつつ本当はかなりできる将だ。賭け事全般は中学時代にマスターしている。

それをごまかすように聡に訊き返す。

「大学のサークルでちょっとだけ習った。ぼう……でしょ。じゃ、瓜(うり)」

「また?り、り……、えーと」

しばらく考えながら数歩進んだ。もう手持ちの『り』で始まる単語は使い果たした気がする。

「リンゴ飴!」

将はやっと見つけた嬉しさのあまり、おどけて持っていた懐中電灯を自分の顎の下に持ってきた。

「何、それ。ちょー不気味。ずぶ濡れだしー」

聡はその顔を指差して、笑った。笑いながらもつないだ手は離さない。だが、すかさず

「目盛り!」

と得意げに答えた。

「ゲー。もう降参だしー」

「えー、もう降参なのー?つまんない。まだいっぱいあるじゃーん」

といいつつ、聡は携帯をあけてみた。

携帯の画面の光りに、久しぶりに聡の横顔の輪郭が浮かび上がる。

もうそろそろ歩き始めて1時間になる。

「……まだ、圏外?」

訊きながら将が聡の携帯をのぞきこもうとする。

携帯の電池を無駄遣いしないためと、雨に濡れないように聡は手早くそれを閉めた。

……ということは、まだダメということだ。

「うん。……でもきっともうすぐだよ。がんばろう」

聡は前向きな励ましの言葉を繰り返した。

「アキラ……。アキラは強いよな」

雨にうんざりしている将は、思わず口にした。お腹もすいている。サンダルで歩いてきたので足も少し痛い。

まだ頑張るという聡に感嘆したのと呆れたのと中間のような気持ちだ。

雨は一向に止まない。それどころか断続的にどしゃぶりになったりしている。

車という逃げ場を追い出された二人は、いやおうなしにそれに打たれるしかない。

将でいえば、泳いだのと同様の濡れ方だ。パンツまで湿った衣服は、じっとりと重く、また時間の経過と共に確実に冷やし始めている。

気温も東京と違ってかなり寒い。

「しりとりが?……なーんちゃって」

それでもやや弱まった雨の中、おどけた聡の声が少し寂しげに響いた。

「将がいるからだよ」

続いた聡の低めの声は、しみじみと温かかった。

聡は、歩みを止めずに、将の腕に自らの腕をからませてきた。

思いがけないぬくもりに、将は先を照らす懐中電灯を聡の顔に向けた。

聡の、濡れそぼった髪が貼りついた顔は、やはり将のほうを見上げていた。

「こんな状況じゃないと、手なんかつなげないでしょ。……腕なんか組めないでしょ。

みんなから写真をせがまれるようなイケメン俳優で、教え子なんて」

といって嬉しそうに笑った顔は、濡れているせいなのか、寒いからなのか、よけいにまっ白に見えた。

だけど、その唇だけ血の色が差してばら色なのが、暗い灯りのなかでも確認できた。

「しょう」

聡は、将の腕をぎゅっと引き寄せた。そんなふうにすると胸の柔らかさが腕に触れる。

それも温かだったが、覆うTシャツやパーカーは将のそれと同様びっしょりなのがわかった。

「将がいるから強くなれるんだよ。前向きでいられるんだよ」

聡は歩く速度をゆるめずに温かみをおびた低い声で続ける。

「……将がいなかったら、心細くてどうしていいかわからないと思う」

聡につられて雨の音まで優しく響き始めた。

「こうやって将が隣にいてくれるから、冷静にいろいろ考えられるんだよ」

聡は歩きながらも、将の肩のあたりに、一瞬顔を摺り寄せてきた。

「でもさ。今こんなことになってるのは、あきらかに俺の失敗じゃん」

「まーだ、そんなこと言ってるし」

聡は腕を組んだまま将の肩をぺちぺちと叩いた。濡れたTシャツが水音を立てた。

「将はー……」

聡はほどけそうになった腕を再びぎゅっと握ると、語尾を甘く延ばして続ける。

「あたしを何度も助けてくれたじゃない。

誰かに川原の小屋に連れ込まれたときだってそうだし、ニセコのてっぺんでだって……。将がいなかったらあたしはどうなってたか」

「アキラ……」

将は思わず立ち止まると、聡を抱き寄せた。

「だめよ。……ぐずぐずしてたら懐中電灯の電池がなくなっちゃう」

「消すよ。だから……」

このままでいさせて。

……その言葉は吐息と雨音の中に溶けた。将はすでに聡を抱きしめていた。

濡れてじっとりとしたパーカーから水が絞り出るほど強く。

「将……」

瞼を閉じても開けても同じようなこの暗闇の中、お互いの感触とぬくもり、そして吐息だけが確かだった。

 
 

「ねえ。将」

聡は将の腕の中でつぶやいた。

「あたしね、本当は嬉しいんだ」

そういうと聡は将の胸に自分の顔を押し付けるようにしてきた。

「え?」

将は意外な聡の言葉に、思わず訊き返す。

抱き合う二人には少し強めの雨が降り注いでいる。濡れた半袖の将の肌にはさっきまで鳥肌が立っていた。

聡をこうして抱きしめているから少しはましになったけれど。

「こんな経験が二人で出来て」

聡はたしかにそういった。こんな辛い状況が嬉しい?将のけげんな表情が見えないのか聡は続ける。

「たしかに、今は……雨に濡れるわ、寒いわ、歩きにくいわ、少し疲れたわ、お腹すいたわで、ちょっとつらいけどさ。

つらいことって乗り越えたらすっごくいい思い出にならない?」

前半は将にとっても切実な問題だ。でも乗り越えたら、というのがよくわからない。というよりそこまで考えが至らない。

聡は補足するように将の胸に語り掛けるように続ける。

将は、聡の吐息が掛かるところに、さっきから本当に『心』というものが本当にありそうな気がしてならない。

「たとえば旅行だってさ。ハワイあたりでトラブルもなくスムーズで楽しかったです。

……って話聞くよりも、マイナーな、日本人があんまりいない国に行って言葉が通じなくて大変だったけど、なんとか身振り手振りで伝えた、とか、

泥棒に遭ってピンチに陥ったけど、なんとかした、とかそういうほうが面白くない?」

「面白けりゃいいの?」

将は、聡の突拍子もない例えに少し可笑しくなった。

「そりゃもちろん、『乗り越える』っていうのが大前提だけどさ。本人だってそのほうが強く心に残ると思うんだ。

……それがさ、こんなふうに二人で乗り越えたら、きっとすっごく濃ゆい絆にならない?幸せじゃない?」

聡は、さらに一段優しい声でさらに続ける。

「つらいこととか、ピンチとか、試練とかって、乗り越えたときにより強く幸せを感じるためにあるんだと思う。

もちろん、乗り越えてるときはチョーキツイんだけど。今とか」

将は小さな子供になって母親に諭されているような錯覚に陥る。

こうやっているのも抱き合っているのではなく、聡に抱きしめてもらっているのではないだろうか。

「ビールと夏の重労働みたいな関係?」

将は例えで無意識に子供ではないという意思表示をしてしまう。

「もう。未成年のくせに。……でも、そう。それに近いかな。ご褒美というか……あとのウマさをより引き立てるというか」

聡は将の背中をぺちぺち叩いて笑った。

「きっとさ。今だって、あと1時間……ううん30分もしたら、『あのときはキツかったねー』って二人で笑えると思う。

さっきよりもっと二人の思い出が増えるんだよ。それって待ち遠しくない?」

聡の口調は、あったかくて、楽しげで、本当にその時を待っているようだった。

もう少し頑張れば、二人はさっきよりもっと強い絆で結ばれる。

この雨の冷たさも、空腹も、疲れも、あとの幸せを引き立てるためのものなのだ。

そんな風に思える聡を、将はあらためて好きだと思った。

「ね。アキラ」

聡のいうとおり、待ち遠しくなった将は試しに口にしてみた。

「それって、俺たち二人もそうなのかな」

教師と教え子。そんな二人の間に横たわる教育上の問題とか、世間体とか。

まして将は、うかつに恋愛もできないとされる芸能人だ。

これ以上愛し合っている二人はいないはずなのに、なかなか結ばれないことを将は、例えてみる。

「簡単に結ばれるより、いろいろ乗り越えた方が強く結びつくって……。固い絆になって、あとで待ってる幸せがより強くなるのかな」

「……きっとそうよ。そうだよ。いつか二人で、こんなこともあった、って振り返れたらいいね」

あいかわらずの真っ暗闇だけど、将には聡が自分を見上げて微笑むのが見える気がした。

第282話 夏の終り(7)

懐中電灯が、濡れた路面を丸く、降りしきる雨を白い縞に照らしているほかは塗りつぶしたような暗闇。

雨音と、雨に濡れた樹木からかぐわしく立つ芳香だけが歩く二人を包んでいる。

さっき降り始めた雨はいっこうに止む気配はない。

ときおり勢いを弱めたと思うと、断続的にどしゃぶりになったりする。

歩けど歩けど両側の原生林も切れ間がなく、舗装こそされているものの、道も曲がりくねっていて、もはや方向もよくわからない。

当てになるはずの星も雨雲に隠されている。

「将、寒くない?」

将のパーカーを着た聡は振り返った。

車を出るときに将が着せてくれたものだが、すでにずぶ濡れのパーカーは用をなしていない。

「大丈夫」

服のまま頭から水をかぶったようになった将は、雨音にかき消えそうな返事とともに聡の手を少し強く握り返した。

こうやって手をつないでいないと、お互いさえも見失いそうな暗闇と雨音。

二人が雨の中、手を取り合って山道を下り始めて、もう30分以上になるだろうか。

 
 

あれから。

どしゃぶりだった雨が少し弱まったのを音で聴き取った聡は、口づけの余韻でぼうっとなっている将にナビをつけさせた。

バッテリーが残り少ないのは承知の上だ。

二人が乗る車が表示されているのはあいかわらず地図にも表示されていない道らしい。

虚しい空白の上に車の印が表示されている。

それでも聡は表示された地図を拡大したり縮小したりして何かを確認しているようだった。

「これさ。直線距離だと、国道まで3キロぐらいだよね」

聡は明るい声を出した。

ナビの画面から放たれた白い明かりに浮かんだ聡の横顔を将は振り返った。

「……てことは、少し歩けば携帯の電波が入るかも」

聡はさらに具体的な希望を口にした。それに対して将は、しばらく黙り込んだのち

「……だけどさ。いまいる道が国道につながってるかどうかわかんないよ」

悲観的なことを口にした。

口づけと抱擁は噴き出す後悔と罪悪感をなだめてくれたけれど、それでも将はいまだ、心を覆う暗い雨雲から脱出できないでいる。

「こんな風にカーブしてるかもしれないし。行き止まりかもしれないし……」

将はナビの画面を指差して、車のあたりでUターンのようなカーブを描いた。

なにせ、今いる道路が表示されていないのだ。それがどこに接続しているのかは、あいかわらずわからない。

ただ、確実に通過してきた国道、県道と、たどりつきたい国道の間の空白に車は表示されていた。

そのたどりつきたい国道までが、直線で3キロぐらいに見えたのだ。

「でも」

聡は即座に言い返す。

「ここにいたってしょうがないでしょ。車がなおるわけじゃないし。携帯の電波がなかったらJAFだって呼べないじゃない。……ほかの車だって全然通らないし」

聡はそういうと、体を将のほうに向けて宣言した。

「将、歩こう」

将はだまりこんで俯いた。

「直線距離で3キロだったら、どんなにぐるぐるカーブしてたって、10キロにはならないはずだよ。……てことは2時間歩けば、国道に出るよ。そしたら電波だって通じるだろうし」

聡はぐるぐる、というところをリズミカルに発音した。

そうすることによって二人がクリアすべき試練をできるだけ軽く明るくしようとするかのようだった。

実際、ナビの光に横から照らされた聡は、やる気まんまんに見えた。

そんな聡のしっかりとした様子を見ると、やっぱり聡は年上なんだ、と思う……つまり相対的に将は頼りない自分が情けなくなる。

「雨、どうすんの。傘ないよ」

ナビで多少明るくなったせいか、フロントガラスに雨粒が次々とくっついて、雫となって落ちていくのが見える。

それにつられて、さらに否定的なことを言ってしまう自分が将は情けない。

「いいじゃん、夏だし、ちょっとぐらい。水遊びしたと思えば」

聡は笑いながら将の腕を軽く叩いた。

「懐中電灯もあるんでしょ」

「それはあるけど……」

昨日、SAで日よけシートを探したときに懐中電灯を使ったのを聡は見ているのだ。

「じゃあ、行こう!今7時。きっと9時にはJAFに連絡できるよ。……よーし、まずは車を動かすぞー」

聡は力強く声をあげると、意を決したようにドアを開けて外に出た。

とたん、開けたドアから一瞬雨音が強く響いた。フロントガラスに映るよりそれは激しく思えた。

「将、ギア、ニュートラルにして。サイドブレーキも解除して」

聡は雨に打たれながら、運転席の窓の外から叫ぶように言った。

将はしぶしぶギアをローからニュートラルに変えた。サイドはもともと引いていない。

今、車は1.5車線のほぼ真ん中にいる。

このままだと万が一、対向車や後続車がやって来たら通行を妨げてしまうだろうから、聡はこれを端に寄せようとしているのだ。

「どうせ誰も通らないよ、こんなところ」

面倒臭い将は反論してみた。このまま放置してもいいだろう、ということだ。

「でもさ、朝になったらわかんないし」

つまり時間的に、最悪明日まで放置しておく可能性まで考えているらしい。聡はそういって車の後ろにまわった。

「……ライトは小さくして。バッテリーないんでしょ……。将はハンドル切って」

叫ぶように指示する聡の頭に肩に雨が刺さるのが見える。そのまま聡は車体を押し始めた。

バックミラーに、赤い光りに浮かび上がる聡が映った。

雨で髪がみるみる濡れていくのがわかる。

「よいしょ、よいしょ」

声をかけながら聡は体重をかけるべく、体を車に押し付けた。

しかし車はまったく動かない。

サンダルと素足の接点が雨ですべって力を込めにくいというのと、道は前への下り坂のはずだが、たいして傾斜していないらしい。

サイドを引かなくてもいい時点で将にはそれがわかっている。

「くう~っ」

それでも聡は踏ん張った。

将は、運転席に座ったまま、バックミラーで聡のようすを窺っていた。

――女一人の力で、車が動くはずがない。バカだな……。

とさえ思う自分を、次の瞬間に嫌悪する。

大好きな聡が頑張ろうとしているのに、こんなことを思うなんて。将はますます沈み込む。

それに自分が降りれば、少しは軽くなる。

わかっているのに、なぜか将は動けなかった。

このままここで聡と二人でいてもいい。面倒なことをしてまで、助けを呼ぶ必要はない。

と将の心は刹那に走っていたのだ。

それでも聡は、一向にあきらめないらしい。

将はこんどはミラー越しでなく、振り返って聡を見た。

ガラス越しに見える聡はずぶ濡れで、顔をコミカルなほどにくちゃくちゃにして頑張っている。

車が、ごくわずかに動く気配があった。

将が振り返ったのがわかったのか、聡は力を込めながら微笑んだ。

聞こえないけれど『もうちょっと』と呟いたのがわかった。

それを見て、ふいに将の心は温かくなった。

「アキラ」

ついに将は呼びかけると、車を降りた。

降りたとたん、頭や肩に雨が突き刺さってくる。標高が高いせいか、それは思ったより冷たかった。

「……俺が押すよ。アキラは、前でハンドル切って」

テイルランプの赤い光に照らされて聡は嬉しそうに頷いた。

雨で濡れそぼった肌や髪が赤く輝いている。

山に降る雨は、将の体に冷たく染み込むようだったが、心は温かかった。

それでも聡はドアを開けた状態で、運転席のフロントガラスの枠に手をかける。

一緒に押して動き始めたらハンドルを少しずつ切ろうというわけだ。

「……いしょッ」

将と聡が力をあわせたと同時に車はたやすく動きだした。

第281話 夏の終り(6)

「将?」

将の唇が小刻みに震えているのを見て、聡は立ち上がった。

「……死んでる?」

将は目を伏せたまま、ようやく口を開いた。

聡はうなづくしかない。

「……仕方ないよ。あの状況じゃ。……可哀想だけど」

そっけない口調ながら聡は将をなぐさめると、

「これ……どうしようか。ここに置いといたら、他の車に踏まれちゃうし……」

と将の腕に軽く触れた。もっとも、この交通量だったらめったに車など通らないだろうけれど。

「うん……」

さっきまでの明るさが嘘のような将だ。どうやらウサギの死体から目を離せないらしい。

動物を轢いてしまったのがよほどショックだったのだろうか。

それにしても空模様が怪しい。

「将、さっきのスコップ出して」

そう指示すると聡は小走りに車に戻り、コンビニ袋を取り出してきた。カフェオレを買ったときのものだ。

しかし将は、あいかわらず突っ立ったままだ。

「将、スコップは?」

「あ、ああ……」

2回言われて将はようやく、トランクからスコップを取り出した。

水遊びをしながら、きれいに泥を洗ってある。

「やだ。雨。急がなくちゃ」

聡が空を仰いだと同時に、大粒の水滴がボタボタと音を立てるほどの勢いであたりに落ち始めた。

暗い空はとうとう耐えられなくなって雨を落とし始めたのだ。

聡は文字通りでくのぼうのようになっている将からスコップを奪い取ると、スコップを持っていないほうの手にコンビニ袋を手袋のようにはめて、ためらいもなくウサギの死体を持ち上げた。

ウサギに外傷がなく、血がほとんど出ていないのが幸いした。小さい体はそれほど重くはない。

聡はウサギをそっと道のわきに運ぶと、笹の茂みの中にそっと置くように手を離した。

ウサギは笹の中に吸い込まれるように、すとんと落ちた。

聡はその上に枯葉や下生えの雑草をやみくもに引きちぎってかけた。

見ていた将は、それがせめてウサギの死体を葉っぱで隠そうという試みだということはわかったが、手伝う気にはなれなくて、聡のすることをずっと見ていた。

聡はコンビニ袋を手からはずすと、裏返しにして丸め、再びしゃがんだ。

そしてウサギの死体があるあたりに

「ウサギさん、ごめんなさい。せめて成仏してください」

とウサギに手を合わせた。そして将のほうを振り返ると

「いちおう、手あわせときなさいよ。……気持ちなんだから」

と教師の口調で命令した。

その間にも雨は見る間に勢いを強めて、路面は黒曜石のように黒くなってしまった。

物の形が判別できるのが奇跡的な暗さだ。

将がしゃがんで手をあわせたのを見届けると聡は、

「雨、本格的になってきたよ。急ご」

と声をかけて促した。

二人の頭も肩もすでにかなり濡れ、あたりは雨がつくる細かい縦縞に霞んでしまっている。

将はのろのろと立ち上がると、運転席に座ってキーを回した。

そこで、エンジンのかかりが悪くなっていたことを思い出す。

2回、3回、4回とまわす。

エンジンはかからず、セルのまわる苦しげな音が響くばかりだ。

セルモーターがむなしく止まるたびに、雨の音が遠くに遮断された車内は不気味な静けさに包まれた。

「かからないの?」

聡の声に答えずに将は無言でキーをまわし続ける。

こんな、ナビにも表示されていない林道の山の中、しかも雨。

もしもエンジンがかからなかったら……。

あせる将はなんとかエンジンが掛かるよう祈りながらキーをまわす。

しかし、そんな将を嘲笑うように、セルモーターの音が鈍く遅くなってきた。

「……やばい。バッテリーがあがっちまう」

将は呟くとバッテリーをついにオフにした。

ライトが消えた車内はほとんど何も見えない暗がりになった。

もはやお互いの輪郭がようやく判別できるのみだ。

将は携帯を取り出した。だが、案の定圏外であることを確認すると、将はハンドルに突っ伏した。

「……どうしよう」

「将……」

説明なしでも聡には今の状況がわかった。

「俺のせいだ……」

将の声は低かった。あいかわらず突っ伏したままだったので、聡には将が何といったのか、聞き取れなかった。

「どうしよっかねー」

それでも将がなにやら落ち込んでいるのを悟った聡は、シートにすとん、と寄りかかると、おどけるように明るめの声を出してみた。

雨はさっきよりもっと勢いを強めたようだ。

それももう、いくら目をこらしても、音でしか判別できない。

ボンネットを、天井を叩くぼこんぼこんという音でその雨が大粒だということがわかる程度だ。

「ここで夜明かしちゃおうか?」

見えないだろうけれど、せいいっぱいの笑顔をつくって聡は、将のいる運転席のほうに顔をむけた。

「俺のせいだ。……俺が、ウサギを轢かなかったら。俺が道を間違えなかったら……」

将はうめくような声で呟いた。

「将?」

暗闇の中で将の息遣いが粗く不規則になっているのがわかる。ここで聡はようやく将の異変に気づいた。

「ヒージーだって……。俺があんなことを言わなければ……」

「将、何いってるの?」

聡は暗がりに必死で目を凝らして、将のようすを見ようとした。

だが、将の顔も姿も、もはや墨汁のような闇に隠れてしまっている。

そのせいか今までに聞いたこともない、震える声と息遣いがダイレクトに聡に響いた。

「俺が……あんなことをしなければ……大悟だって……。俺の……みんな、俺のせいだ。俺がいけないんだ。俺さえ、いなければみんな……」

それは、将が心の奥底にいつも抱えていた後悔だった。

今、暗闇の中で、まるで自らを傷つけるように、一気に噴出しているのだ。

「俺が、いなければ」

「将、やめて」

聡はシートベルトをはずすと、声のほうに手を伸ばして上体を投げ出した。

聡の手はすぐに声の発信源である将のぬくもりを捉えることができた。

いったん将の体をとらえた聡は、手探りながらすぐに、将の顔を見つけることができた。

それを、ぐいっと引き寄せると、無我夢中で唇を押し付けた。

濡れた将のTシャツからは、雨と潮のまじった生臭い香りがほのかにしたけれど、聡はそれをもっと深く嗅ぐように体を押し付けた。

冷え切った将の心を、体のぬくもりで温めるように。

去年、夜の川で死にかけた将にしたように、熱い息を吹き込むような口づけに、聡は自分の気持ちを込めた。

「将……。あたしは将が必要だから……」

聡は濡れた将の髪をくしゃくしゃとかき混ぜながら呟いた。そして再び唇を寄せる。

わざとなのか、それとも唇がずれたのか、それは将の瞼に、鼻に、頬に……将の顔中に繰り返された。

……聡は視界ゼロの暗闇の中、唇と指で将の姿を確認しようとしていたのだ。

半分濡れた将の髪。耳のカーブ。太いけれど形が整った眉。長い睫に覆われた奥二重ぎみの瞼。高い鼻梁。そして唇。

ぜんぶ、聡が欲しくてたまらないものだ。欠乏すると瀕死に陥るものだ。

「あたしは将がいないとだめなの。……だからそんなこと言わないで」

低い声に似合わない、聡のせつない声が雨音の中に響く。

将は最初されるがままになっていたが、濡れたTシャツに覆われた聡の華奢な背中におずおずと手をまわした。

その温かさと弾力に、感情より先に体が先に反応した。

将の腕はいつのまにか聡をきつく抱きしめて、自らの唇を聡のそれに繰り返し押し付け返し始めた。

ギアとサイドブレーキの存在ももどかしく、二人はお互いの体を密着させようと試みた。

雨の音だけが響く真っ暗な車の中で、お互いのぬくもりと感触だけを確認するように二人は口づけを繰り返した。

第280話 夏の終り(5)

「もしかして、道に迷ってる?」

ついに聡が遠慮がちに声を出した。

「うーん。そうかも」

答える将の声も、明るい調子ながらも、少し弱弱しい。

どんどん暗くなってくる視界とは裏腹に、あいかわらず賑やかなBGMだけが車内に響いている。

将が行きたがっていた千里浜なぎさドライブウェイを走ったあと、帰りがてら五箇山の合掌集落を見て、帰路についた二人である。

合掌集落をあとにしたのが5時前だが、途中、

「こっちのほうが近そうじゃん?来た道を戻るんじゃなくて違う道を行ってみようよ」

と将はナビで案内されている方ではない県道に進んだ。

それでも、そこまではいちおうナビの地図に表示されている道だったのだが、その道が土砂崩れのため通行止めになっていた。

『迂回路』と表示されている道に進んでみたのだが、これがまるっきりの林道、しかもナビに表示されない道だった。

その道のどこかで分岐を間違えてしまったらしい。

今、将と聡を乗せたミニは、すれ違うのもやっとという、両側を森と熊笹に囲まれた細くくねる道をあてどもなく走り続けている。

もう6時をすぎているというのもあるが、千里浜を走っていた頃までの晴天が嘘のように掻き曇った空は、墨色に濁って真っ暗だ。

グレー一色のあたりは、車内からはかろうじて物の形が判別できる程度になってしまっている……それもどんどん沈み込んでいく。

「戻った方がいいんじゃない?さっきから家も全然ないし……携帯も圏外だし」

心配する聡に

「うん。でもUターンも厳しいよ。この道幅じゃ」

と将は両手でハンドルを操りながら答える。

思わず黙り込む聡に、

「……だあいじょうぶだって!」

と将は明るい声を出して聡を振り返った。

その将の顔も、すでに前方を照らすライトの反射でようやく見えるほどの暗さだ。

「大丈夫。なんとかなるって。狭い日本だし。

……アキラ知ってる?日本って国土の面積の3%が道路なんだってさ。だったら、そのうちどこかに出るに決まってるじゃん」

聡は、ふうん、と答えながら、さっきからの将の明るさを考えている。

千里浜でも将は、いつになく明るくふるまっていた。

『ヒャッホウ!』

と叫びながら、わざと波に近いところにミニを走らせる。

タイヤは日本海の波を踏んで、後ろに派手にしぶきをあげた。

千里浜なぎさドライブウェイは、日本で唯一、砂浜を車で運転できる海岸である。

九十九里浜を思わせる長い砂浜をバスや車、バイクがじかに走行し、道路標識まで立てられているのに聡はびっくりした。

砂の粒子が他の海岸に比べて細かいために、タイヤが埋まらないほど砂浜がよく締まっているという。

テンションが高い将は、波が引いたところを狙うようにハンドルを切り、また寄せてくるのを見計らって逃げるようにこれまた反対側にハンドルを切る。

蛇行するミニの車中で、二人の体は大きく揺れて、将はそのたびに笑った。

『ちょっと、海に近寄りすぎじゃない?』

思わず聡は、悲鳴のような声をあげる。

『いいじゃん。すっげえ楽しいよ、おっと』

また波を踏んでしまった感触。派手にしぶきを跳ね飛ばす音がする。

『もう……車が錆びてもしらないわよ』

といいながらも、聡は車よりも、むしろそんな将が少し心配だった。

明るすぎる。……というより無理して明るくふるまっている。聡にはそれがわかった。

やっぱり、巌の死は将にとってかなりショックだったのだろうか……。

『アキラー、こっちこいよー!』

ミニを停めるなり、海へと走っていった将は、すでに膝下を金色の波の下に埋めながら手を振っていた。

聡の足元には将のサンダルが乱暴に脱ぎ捨ててある。

聡は、首を横に振りながら、金色一色になった午後の日本海を眺めた。

車に乗っていたときは気付かなかったが、波はかなり高いらしい。

白い泡立ったような波頭が砂浜に打ちつけ、砂浜を一瞬鏡のように変える。

その金色が砂浜にしみこんでいくように消えたとき、再び波が砂浜を金色にコーティングする。

その繰り返しに見とれながら、聡は眩しさに手をかざす。

『さっきの続き、しよーぜー』

将はまだ叫んでいる。

こうしてシルエットになると、将の手足の長さが際立つ。

金色の波涛をバックに立つ将は、何かの神話に出てくる美少年さながらだ。

聡はミニの後ろに寄りかかると、さっき買った冷たいカフェオレを口にした。

将は諦めたのか、ちょうど走ってきた小さな犬にちょっかいを出し始めた。

濡れる覚悟がないのか、犬を連れてきたらしいカップルは、将がびしょ濡れになるのもかまわずに犬と遊ぶのを見て、笑いながら寄り添っている。

犬が将にじゃれついているのか、将が犬にじゃれついているのかわからないほど将は積極的に遊んでいた。

犬のキャン、キャンという鳴き声に、将の『う~、ワンワン』という声が混じる。

そんな風にはしゃぐ将も、聡にとって初めて見るものだった。

しばらくして、こっちへ戻ってきた将は、去年二人で波打ち際で遊んだときほどではないが、

ジーンズの半分が濡れ、Tシャツはしぶきの水玉模様が盛大についていた。

『またバレたの?』

カップルに乞われたのか握手をして、犬を抱いて携帯で写真を撮られるのが見えた聡は将に訊いた。

『うん、ドラマ見てたって言われたから。……あー面白かったぁ。アキラも来ればよかったのに』

将は白い歯を剥き出しにして笑った。

 
 

そのとき将には、あたたかな金色の午後の光が降り注いでいたのに……今、二人が乗るミニの上は、厚い雲が覆っている。

「やっぱり山に来ると天気が悪いね」

あまり不安に思ってないのか、将はあくまでも軽い口調で声にした。

「予報はどうだった?」

「わかんない。金沢の天気は晴れのち曇りだったけど」

しかし、頭上の雲は、今にも降り出しそうに見えた。日が暮れたせいでそうみえるだけだ、と聡は信じたい。

「大丈夫、ガソリンはまだいっぱいあるから」

この状況になってから何度目だろうか、将は『大丈夫』を繰り返した。

たしかにガソリンは千里浜のあと、高速に乗る前に入れたから、まだ当分持つ。

だけど、道はもうすれ違えないほどの幅になり、おまけにライトに照らされた路面には真ん中に朽ちた枯葉が積もっているほどになってしまった。

ひび割れたアスファルトの端にはどうやらコケすら生えているらしい。

対向車も一度も来ない。この狭さだから来てもらっても困るが、あまりにも来ないのは不安を煽る。

おまけに上り坂の傾斜とカーブはどんどんひどくなる一方だ。

車内に流れているCDはもう3回も同じ物が流れているが、不安な二人はそれに気付いていない。

「やった!峠だ……」

ミニはくねるカーブの上り坂を脱出して、切通しの峠に出た。

あいかわらず道幅は狭いが、これからは下り坂だ。

「これ下ったらきっと大きい道に出るよ」

将の希望的観測があたったのか、すれ違えない幅だった道は、

あいかわらず原生林に囲まれつつも普通車同士だったらすれ違える程度になり、カーブも緩くなった。

「お、直線」

ひさびさに見通しのいい直線に出て、一刻も早く太い道に出たい将は待ちかねたようにアクセルを踏んだ。

と、そのとき。

何か、緑色に光るものが道路わきの熊笹の茂みから跳ね出てきた。

「うわっ!」

「きゃ!」

将は急ブレーキを踏んだが間に合わなかった。

バンパーに何か重いものがボン、とあたって跳ね飛ばした感触ののち、つんのめるようにミニは止まった。

止まった拍子にエンジンも停止してしまったらしい。

しばらく車内を静けさが支配した。

将は、静かな車内で聡を振り返った。ちょうど聡もこっちを振り返ったらしい。

二人は暗い車内でしばし沈黙したまま見つめあった。

暗がりは、聡の紅い唇も栗色の髪もすべて暗めのモノクロに変えてしまっている。

「……なんか、動物、轢いたかな」

聡は呟くと、窓を開けて振り返るように暗い道路に目をこらした。

何か小さなものが横たわっているのが黒っぽく見える。

聡は、ドアをあけて外へ出た。将も躊躇しながらも聡を追うように続いた。

真っ暗に見えた外だが、外灯や懐中電灯なしでも、なんとか物の形は判別できる程度の明るさを保っていた。

「……ウサギだ」

聡は呟いてウサギのそばにしゃがんだ。

野うさぎらしき茶色い小動物は道路に横たわったまま、ぴくりとも動かない。

暗さに慣れてきた目は、ウサギの口からどす黒い血が流れているのをとらえた。

といってもほんのわずか、たいした量ではない。

だが毛は生きている動物にありえないほど乱れていて、もはや死んでいるのは明白だった。

せめて目を閉じていてくれたのが幸いだった。

「どうしようか」

聡は突っ立っている将を見上げた。

……暗がりのなかで将はこきざみに震えはじめたように見えた。

第279話 夏の終り(4)

骨の上に土を被せた将は、終わった終わった、と息をつくと、大きく天に向かって伸びをした。

巌の骨が埋まったあたりの土は、押さえて固めたけれど、まわりより少し茶色が鮮やかになっている。

でもそれも何度か雨が降れば、なじんでいつしかまわりと見分けがつかなくなるだろう。

「ここの桜、見に来たいね」

聡は額に手をかざすように青々とした桜の葉を見あげる。

将は何もいわずに、天に届かんばかりの長い腕を上に伸ばして目を閉じていた。

聡に返事をよこすのは、夏のなごりのツクツクボウシだけだった。

しばらくして将は腕をパタッと落とすと

「行こうか」

と聡に顔を向けてうながした。その顔にはもう涙はなかった。

それでも二人は、墓地をあとにしながら、何度か桜の木を振り返った。

桜は微動だにせず、行く二人を見送っていた。

 
 

寺をそのまま去ろうとする将に、聡がいきがけに桶に水を汲んだ水道を見つけて、手を洗うことを提案した。

スコップをつかったけれど、手は土で汚れているからだ。

「わー……、すんごい冷たい」

聡が思わず声を出した。水道から出てくる水は、この夏の暑さからは想像できない冷たさだった。

長く触れていると手がかじかんでしまいそうなほどだ。

将はだまって、手を水で濡らしていた。

さっきから言葉数がすくない将を聡はのぞきこむ。

巌と本当に別れてしまったこと……生きた巌にはもう会えないことを、将は噛み締めているようだった。

そんなふうに、あんまり沈みこむのもよくない、と聡は、

「将」

と呼びかける。

「ん?」

とあげた将の顔に、ばしゃっ。

片手に掬った冷たい水道水を将の顔をめがけて放り投げた。

反射的に目をつむる将。水は、顔の中心をややはずれて、将の頬のあたりにかかった。

「油断大敵」

聡は濡れた将の顔を指差して笑った。

「やったなー」

目をあけた将は、いつもの顔に戻っていた。

それを確認した次の瞬間、聡は思い切り冷たい水のかたまりが顔で破裂するのを感じた。将の逆襲だ。

「キャー、なにすんのよ」

「そっちが先にやったんだろー」

「なによー」

二人で蛇口を奪い合うようにして、冷水を掛け合う。

蝉がたじろぐほどの笑い声が、二人の白い歯からこぼれる。

夏の日にきらめいてはじける水玉。二人からそれた水を受けて鮮やかになる紫陽花の葉。

しまいに将は、蛇口を指で押さえつけて、噴き出した水鉄砲状の水を聡めがけて狙い打ちする。

水はビームのように、笑いながら逃げ惑う聡を追った。

方向をコントロールする蛇口からは漏れた水が細くはねて、攻撃する将本人も濡れていた。

……ついに聡がすっかり濡れたTシャツをつまみながら頬をふくらませてみせた。

「もう、びしょびしょー」

ハアハアと息を荒くしている将のTシャツも上半身にぺったりと張り付いている。

「……俺も」

二人はこんなに晴れているのにびしょ濡れのお互いの姿を見て、もうひとしきり笑いあった。

前にもこんなふうにびしょ濡れで笑ったことがあった。

それを二人とも思い出している証拠に、笑いながらもいつしか懐かしい目でお互いを見詰め合っていた。

 
 

「さー、どこいこうか。千里浜とか走るのもいいなあ。波打ち際をドライブできるらしいし」

寺をあとにして将は楽しげに提案する。

ミニはまた少しエンジンのかかりが悪く、将は5回もキーをまわした。

だが、金沢へ向かっての下り坂でもあり、いったんエンジンがかかったミニは順調に走っている。

それにあわせて音楽もハイテンションなCDをかけている。

「でも将、明日手術なんでしょ。無理しないで帰ったほうがいいんじゃないの?」

聡は将をたしなめた。

ここにたどりつくのに休憩抜きだと7時間近く掛かっている。

「だーいじょうぶ、だいじょうぶ!夜中までに帰り着けば、たっぷり睡眠とれるし。

せっかく来たんだから4時ぐらいまで遊んで帰ろうぜ」

今、11時をすぎたところだから5時間はある。

「せっかくアキラと二人のオフなんだしー。……忍者寺ってのにも行きたいなあ」

この時点ですでに聡は、将が少し明るすぎることに気付いていた。

無理して、自分を浮き立たせようとしている……そんな様子がありありとわかった。

「よしっ!とりあえず金沢市内だ!」

CDにあわせて鼻歌を歌う将の横顔を、聡は少しだけ痛ましいもののように見つめた。

 
 

二人は将の提案で、忍者寺こと妙立寺を目指して金沢市内に入った。

だが、妙立寺は予約が必要とのことだったので、午後に予約を入れて近くの茶屋で軽く昼食をとる。

食後は犀川や西の廓を少し散策してみようということになったが、いかんせん正午すぎでもあり、暑い。

朝晩は確実に秋の気配が漂っているものの、夏の陽射しはまだまだ逞しくふりそそいでくるのだ。

「アキラ、暑いだろ」

将はそう広くない道の端に植えられた柳のそばにいる聡を振り返った。

二人は妙立寺の近くにある『西の廓』に来ていた。

金沢の代表的な観光地である『東の廓』に比べるとこぢんまりしているが、古い御茶屋の軒並みが何軒か続いている。

それを背にした将は、古い格子戸が並ぶ中ではいっそう長身が目立った。

「うん。でも大丈夫よ。……そろそろ行ってみる?」

聡は答えながら流れてくる汗をハンカチで拭った。

水道で濡れたTシャツはとうに乾いていたが、ポニーテールにしたうなじやこめかみのあたりに玉のように汗が浮かんでいる。

将からは見えないが、うなじからの汗は、鎖骨を伝って胸の谷間へとさっきから何筋も流れている。

予約の15分前になったので、二人は寺へ行ってみた。

そこには、すでに何人もの客が時間を待っていた。

忍者寺といわれる妙立寺は、寺自体は寛永20(1647)年に造られた由緒あるものだが、

23の小部屋と29の階段をめぐるごとに、どんでん返し、迷路、のぞき部屋という仕掛けに出会えることが受けて、若い観光客も多い人気スポットだ。

30分ほどかけてガイドに案内されつつ、その『忍者寺』たるゆえんの仕掛けを体験するようになっている。

ガイドによるとこれらは、すべて昔のままのもので、客寄せのためにつくったわけではないらしい。

身をかがめるようにして部屋を移動する将も、そのつど仕掛けに驚いて

「おおーっ」

と体をのけぞらせては、額や後ろ頭をゴチッと打ち付けたりしていた。

「すげえな。どうなってんだろ。CTスキャンあたりで見てみたいな」

思いがけないところに現れた階段を見ては将が感嘆の声をあげる。

そんな将はすっかり自分が有名人であることを忘れてしまっていた。

いくら伊達眼鏡をかけていても、声と目立つ長身で、一緒にガイドを受けている客の何人かは気付いたらしい。

若い女性の3人グループがヒソヒソと話し合ったあげく、一人が思い切って話し掛けてきた。

「あの……SHOさんですか」

将と聡は固まった。

しかし、違う、とはもはや言えない。

将は観念して

「そうです。……他の人にはナイショにしてね」

とその女性に小さな声で囁いた。

囁かれた一人は両手を口にあてて顔を真っ赤にすると、仲間のところに小走りで戻っていった。

3人で声をひそめつつ、キャーキャーと騒いでいるようだった。

それで不審に思った他の観光客も将をちらちらと見はじめる。

なにせ、将は連続ドラマこそまだ1本だが、いまやCM3本に出演し、顔が売れている。

おかげでガイドは声をはりあげるはめになってしまった。

 
 

妙立寺をあとにし、二人は千里浜に向かっていた。

「アキラ、おっかしーの。なんだよ、さっきの『私は遠い親戚のイトコです』っての」

将はハンドルを切りながら可笑しそうに笑った。金沢市街をあとにすべく、高速を目指す。

「イトコって遠い親戚じゃないじゃん」

「だってー。あせったんだもん」

聡は助手席でプッと脹れてみせた。

冷房の効いた車に戻ることができて、二人ともほっとしている。

見学が終わったあと、将は同じグループにいたファンだという観光客に握手と携帯撮影をせがまれてしまったのだ。

幸い通りにいるほかの観光客は無視してくれたので、将は数人と握手し、携帯で写真をとられるだけで済んだ。

そのとき、一緒にいる聡に、ファンの一人が

『そちらは……?』

と大胆にも訊いてきたので、あせった聡は

『あ……、わ、私は、こっちに住んでいる、遠い親戚の……イトコなんです』

と答えてしまったのだ。

ファンは、なんとか素直にそれを信じてくれたらしい。

あとを追けてくることもなく、そのまま立ち去ってくれた。

第278話 夏の終り(3)

ようやくウトウトし始めた聡は、セルモーターの回転が繰り返される音で目を覚ました。

気がつくと、聡を後部座席に寝かせたまま、将が運転席に座ってエンジンをかけようとしている。いつのまにか毛布が体にかかっていた。

しかし何度もキーを回しているのに、車は苦しそうなうなりをあげるだけで、なかなかエンジンがかからない。

「エンジン、かからないの?」

聡は身を起こして将のほうをのぞきこんだ。

「あ、アキラ。起こしちゃった?ごめん」

将はキーをまわしながら振り返った。

「……ううん。あ、あたし助手席に戻る」

聡がそう答えたとき、7回目でようやくエンジンがかかった。

暖機運転をしている間、聡は後部座席からいったん紫色に染まったアスファルトにおりると、コーヒーを買いに行くことにした。

もう夜明けだ。山々の上の空は徐々に白っぽくなってきている。

外に出た聡にひやりとした空気が半袖の肌にしみた。

もう8月も終わりだ。信州の夜明けは東京に比べるとすでに秋そのもののように思えた。

「結構、冷えるね」

聡は温かいコーヒーを将に手渡しながら言った。

「うん。俺、寒くて目が覚めたもん」

将は湯気に顔をうずめながら笑うと、

「俺はパーカーがあるから……アキラは毛布にくるまってていいよ」

と優しい声をかけてくれる。聡は思わずその口元を見てしまう。

……どうやら、眠っている間に聡が将に何度も口づけしたのはまるで気付いていないらしい。

今、5時30分、もうすぐ夜明けだ。将は、車を発進させた。

「車、調子悪いの?」

シートベルトを締めながら聡は、何食わぬ顔で将の横顔に問い掛けた。

「うん。ずっと乗ってなかったから気付かなかったけど、エンジンのかかりが悪くなったらしい。

もうすぐ車検なんだけど。……でもたぶん大丈夫だよ」

将が言うとおり、いったんエンジンがかかったミニは、さっきの不調を忘れたように順調にスピードをあげていった。

そこへ、山の稜線から朝日が顔を出して、世界を冷たい紫からオレンジ色に染めていった。

松本インターで高速を降りると、二人を乗せたミニは北アルプスへ続く国道158号を西へ進む。

まだ紅葉には早い木々は、1年で一番濃くたくましくなった緑を朝の中に浮かび上がらせた。

トンネルで安房峠を越えると国道471号に入り、富山方面を目指す。

このあたりは、平湯温泉、福地温泉、新穂高温泉郷といった温泉地帯でもある。

「帰りに温泉に寄るのもいいね。二人で貸切とか」

いつもの冗談めいた将の提案なのに、聡はなぜか予言のように思えてしまった。

それが恥かしくて、でもその恥かしさを見せないように、

「温泉は、いいよね」

とだけ言っておく。

カーブが連続する向こうに、朝日に照らされた槍ケ岳がその鋭いピークをのぞかせていた。

 
 

車は北アルプスの山に平行するような国道を下り、富山入りした。

道のカーブはいつしか穏やかになり、右手に見える山は立山連峰になっている。

「アキラ、お腹すかない?」

富山市街に入ったのをきっかけに、将は運転しながら助手席の聡に問い掛けた。

返事はない。

聡はシートに体を預けていつのまにか眠っていた。

朝の光はいつのまにか白い色になって、聡の半袖の腕を眩しく射抜いている。

麓まで来ているせいか、気温もいつのまにか夏のそれを取り戻したらしい。エアコンは冷たい風を車内に送っている。

教室で見ることのないぴったりしたTシャツに包まれた胸は、無防備に盛り上がり、車の振動でぷるぷると小刻みに揺れている。

シートベルトで締め付けられているせいか、その盛り上がりはよけいに目立つ。

それは、その下の肋骨あたりや腕や肩、鎖骨の華奢さから見ると奇跡的な丸みに見えた。

将は、思わずそれに触れたくてたまらなくなる。

「おっと」

気をとられた将は、危うく前の車の減速を見落とすところだった。

あわててブレーキを踏むと、聡の胸から視線を引き剥がし、前を向く。

気を取り直した将にちょうど、富山ICの標識が目に入った。

将は、気をまぎらわすためにFMのボリュームをやや大きくした。

 
 

富山・金沢間の北陸道は日本海も見えず、平野に田んぼや住宅地が広がるのが見えるばかりである。

朝食をとるために寄ったサービスエリアで目覚めたものの、今度は満腹で聡は再び眠り込んでしまった。

一人で運転する将に悪いなと思いつつも、夏の疲れか、聡は睡魔を抑えることができない。

この夏悩まされた貧血は、盆から学校が休みに入ったことでずいぶんよくなったが、それは睡眠時間が増えたゆえの効果、というのもあるのだ。

料金所などで、ときおり目覚めては、うとうと眠るという状態が続き、車は気がつくと山道を走っていた。

さっき金沢市街で菊の花を買ったから、もうすぐつくのだろう。

聡はシートベルトを装着したまま、大きく伸びをした。

「あ、起きた?おはよう」

将がハンドルを握ったまま、振り返った。伊達眼鏡がサングラスに変わっている。

「もうすぐ着くんでしょ?」

聡はさっきのサービスエリアで買っておいたお茶のペットボトルを口に含みながら訊いた。

それにしてもかなりの山奥だ。

両側には森と畑が続くばかりで民家はほとんどない。

聡は、2月に出張していた山梨の学校のあたりを思い出した。

「あった。あそこだ」

将の声に、フロントガラスを見る。車は舗装道路から、まるで田んぼのあぜ道のような未舗装道路に入り、ガタガタと揺れた。

行き先にはこんもりと茂った木々に囲まれて古い瓦屋根が見えていた。

それこそ目指す寺に違いない。

日陰を選んでミニを駐めると、そこにはまるで栽培しているように草が生い茂っていた。

訪れる人が少ないのか、駐車場も単なる空き地と見分けがつかないのだ。

将は懐紙に包まれた巌の骨をジーンズのポケットに入れると、後部座席に乗せた菊、そして小さな金属製のスコップを手にして車を降りた。

露を浮かべたつゆ草やカラスノエンドウが生い茂る草むら。そこにサンダルの足で降り立った二人を蝉の声の大合唱が出迎える。

行く夏を惜しむかのような大音量に思わず空を見上げた二人に、ちょうど崩れかけた土塀が見えた。

土塀の内側には桜が常葉色の葉を茂らせていて、その葉陰に墓石が見え隠れしている。

「大丈夫?」

将は上を見上げている聡に声をかけた。緑色の葉陰で、聡の顔は青白いように見えたのだ。

「うん。……どうして?」

聡は緑色に染まったまま、将を振り返った。

寺だからなのか、いちおうサングラスをはずした将も手にした菊の花束同様、全身を緑に染めている。

「暑いから、また貧血にならないかな、と思って」

「大丈夫。東京よりは暑くないよ」

聡は将をうながして寺への石段を登った。

短い石段から寺の本堂へと続く庭はモミジなどの木々で覆われ、ここにも濃い木陰をつくっている。

石段の丸みや、門の鬼瓦のコケから寺の古さが伺えた。

本堂もすべてが利休色に変わり今にも朽ちそうな古さながら、線香の香りがすることで誰かがここを守っていることが窺い知れた。

二人は言葉もなく、体中を木々を透過した緑色に染めながら、本堂のわきに進んだ。

紫陽花やつつじの花壇の奥に、ひっそりと墓地があった。

花壇がそこそこ手入れされていることからも、気配こそないが、住職か誰かがいるのだろう。

もしかしたら、寺の存続に巌が援助していたのかもしれない。

土塀と桜の木々に囲まれた墓地は、あと1ヶ月足らずで来る彼岸を待つように、夏草を生い茂らせていた。

森村史絵が眠る墓はすぐにわかった。巌の話によれば、史絵の実家はこのあたりの領主だったという。

その話を裏付けるかのように、墓地の入り口近くにさほど大きくはないものの、古くて立派な墓石を構えていたからだ。

二人は、まず史絵のために墓に水をかけ、白い菊の花を供えて手をあわせた。

燦燦と射す太陽と蝉の声の中に、水はあっという間に蒸発していくようだった。

将は、蝉の声にうながされるように、さっそく巌の骨を埋める場所を目で探し始める。

しかし墓の近くの地面は石で覆われて骨を埋められそうにない。

石のないところはいかにも『隙間』でそんなところに巌の骨をねじこむのはあんまりな気がした。

「将、あそこは?」

聡が指差した先に、ひときわ大きな桜の木があった。

その太い幹と張り出した枝は、墓を囲む桜の中で一番樹齢がありそうだった。

将はその桜の下へと歩いた。

桜はきちんと手入れされているらしく、青々と茂った葉に虫食いなどはなく、近くによると威風堂々とした風格があった。

将は、鉄色の鈍い光沢を浮かべた幹に触れてみる。

桜の幹は、ひんやりと固い感触ながらも、なぜか中から温かさが染みてくるような錯覚に将はとらわれた。

史絵の墓とは少しだけ離れているけれど、ここから墓はよく見える。

根元はすこしだけ湿った雑草が生えていたが、骨を埋めるのに問題はなさそうだ。

上を見上げると、葉陰から漏れる木漏れ日がキラキラと小さく揺れ、将はそれを飽かず眺めた。

「将」

気がつくと、幹をはさんで聡がすぐそこに来ていた。

葉陰から見ると、日なたにいる聡はあまりの明るさに霞むようだった。

「……ここにするよ」

聡は木漏れ日から戻ってきた将の目が、わずかに濡れて光ったのを見た。

それを隠すように将はしゃがみこむと、雑草のない地面を選んでスコップで掘り始めた。

聡もしゃがみこんで、冴え冴えとしたこげ茶色が露出していくところをのぞきこむ。

「これぐらいでいいか」

深さ10センチほど掘った将は、聡に問い掛けるともなく声にする。

そしてジーンズのポケットから懐紙の包みを取り出した。

折り畳んだ懐紙を慎重に広げると、小さな匙1つ分ほどの骨の粉末が、将と聡と同じような緑色に染まって現れた。

将はしばらく、別れを惜しむように掌に乗せた骨を眺めていた。

蝉の声が、まるで読経のようにしゃがみこむ二人を包む。

……それが、一瞬切れたとき、将は骨を穴の中にさらさらと落とした。

「そのまま、埋めるの?」

聡が心細いとも、咎めるとも聞こえる口調で将に問うた。

「……うん」

将はココア色の中のフロストシュガーのように見える巌の骨をのぞきこんだ。

こうやって桜の根元に埋められた巌の骨は、やがて土になるだろう。

そして桜の根に吸い取られ、いつか桜自身になる。それは史絵の墓を見守り続けるに違いない。

だけど将は、土に還っていく巌を惜しむように、しばらく白い骨に土をかぶせずに見つめていた。

その目にはとうに涙があふれていたけれど、聡は何も言わずに将につきあって沈黙していた。

第277話 夏の終り(2)

「将、大丈夫?……眠くなったらいつでも休憩してね」

「アキラこそ、着くまで寝てていいよ。毛布、積んであるからかけて」

「大丈夫。夏だもん」

将と聡を乗せたミニは、夜の中央高速を走っていた。日にちは変わって、8月28日になっている。

ナビによると、松本・富山経由で到着予定時刻は朝6時頃となっている。

急に呼び出されての長距離ドライブとなったが、聡はときめいていた。

こんな風に二人で将が運転するミニに乗るのはいつ以来だろうか。

伊達眼鏡をかけた将の横顔を、聡はそっと見た。

顔が売れてしまっているので、いちおう将は伊達眼鏡をかけているのだ。

『帽子は?』と聡はさっき面白がって訊いた。

芸能人はよく、サングラスや伊達眼鏡と共に野球帽をかぶっているではないか。将は

『やだよ。暑いし。冬ならともかく。車ン中だからばれないよ』

と面倒くさそうに答えた。

 
 

将は自分を見る聡の視線に気づいて

「なに?」

と優しく問い返してきた。

その声音は、またいっそう大人になった気がして、聡の心臓は騒いだ。

「だいたい6~7時間。行って帰ってくるだけだね」

聡はナビの情報を口にして誤魔化す。

「そんなことないよ。明日の3時に病院にいればいいから、逆算したら今日はたっぷり遊べるよ。

金沢とかいく?世界遺産の白川郷とかも寄れるよ。せっかくだから俺、千里浜とかドライブしてみたいし」

いつ調べたのか将は楽しげに観光地を並べた。

「寝る暇ないじゃない」

「正月にアキラんちにいったときに比べれば全然マシ。高速使ってるし」

将の笑いにつられて笑いつつ、聡は胸があったかくなった。

はるばると東京から萩まで車を運転して逢いに来てくれた、今年の正月を思い出したからだ。

あのとき、聡は将と一線を超えてもいい、と思っていたのに、3日3晩の運転が祟って将は途中で眠り込んでしまったのだ……。

そのときの記憶をきっかけにして、聡の全身に記憶されている、将から触れられた感覚がふいにフラッシュバックした。

聡は、運転席の将に、それを気づかれないようにわざと窓に頬杖をつくようにして外を見た。

残念ながら高速の脇は、草むらの斜面になっていて、眺望はない。

星も今日は薄曇りなのか、見えない。

聡は自分に小さくため息をついた。

将が大人になるまで離れると決めたのに、最近のこのていたらく。

会うだけでなく、メールや電話も以前に近い状態で復活してしまった。

大悟のこと。それから巌の死。

いろいろあったから仕方ない、と言い訳しつつも、聡は自分に呆れていた。

……だけどそれは自分は本当に将が好きなんだ、将から離れられないんだ、という再確認にもなった。

それに、こんなふうに人目を忍んだ夜更けにドライブすることに、聡は喜悦を禁じえない。

いや、心の喜悦だけではなく、こうしていると自分の中の『女』が急速に目覚めていくのがわかる。

男としての将が欲しい、将に抱かれたい。……油断すると自分の中の欲望が顔を出す。

将に抱かれてから4ヶ月も経っている。そして当の将が目の前にいる……これから丸1日は一緒にいる。

聡は黙っていると膨れ上がっていくような本能を、別の本能でごまかすべく

「夜食に、おにぎりと卵焼きつくってきた。急いだから具は梅干とおかかぐらいだけど……」

と口にした。

「やった。ラッキー。次のパーキングで食べようか」

「ええっ、もう?」

「だって、腹減ったよ……本当は、メシよりアキラが食いたいんだけど」

将は冗談めかして伊達眼鏡の下の目をこちらに走らせた。

「んもう。何いってんだか」

と聡は笑って見せるしかない。

 
 

聡がつくってきたおにぎりと卵焼きで夜食を食べると、すぐに眠気が将に襲ってきたらしい。

それでも、将は諏訪湖SAまで頑張って運転した。そこで仮眠を取ることにする。

時刻は2時30分になっていた。

後部座席で横になりながら、聡はなかなか寝付けなかった。

将は日よけシートを張ったフロントガラスの下の助手席を倒し、ダッシュボードの上に長い足を乗せて

すうすうと寝息を立てている。

聡の足の上に、アイマスクをしたその頭が見えている。

建物から離れた場所に駐めたのに、道路を照らす照明とSAの建物から漏れた光で、車内は字が読めるほどの明るさを保っていた。

眠れない聡は、寝そべったまま、足の上のシートに横たわる将の横顔を見ていた。

目元はアイマスクで隠されてしまっているが、コシがあるけれど艶やかな茶髪に、鋭い鼻梁、形の整った唇。それを見ているだけで飽きない。

――そういえば、去年の8月31日に、初めてキスされたんだっけ。

聡はふいに思い出した。あれから1年。

あのときは、本当にびっくりした。

背の高い将は、やすやすとカウンターごしの聡を抱き寄せて唇をくっつけてきたのだ。

そのときはまだ、将の名前も知らなかった。

弁当屋の常連から、教え子になって……将という名前を知って、もうすぐ1年。聡は上半身を起こすと、シートごと横たわる将の顔を見つめた。

SAから漏れる白い光で、将の顔には深い陰影がついている。

その唇は少しだけ開いている。その下の喉仏が呼吸にあわせて上下しているのが見える。

「将」

小さく呼んでみる。

当然、返事はない。本当に眠り込んでいるらしい。

「……あのときの、仕返し」

聡はそう呟くと、アイマスクの下の将の唇に、自らの唇を重ねた。

いつ以来になるんだろうか……久しぶりの将の唇は、少し湿り気があって温かかった。

唇をくっつけただけなのに、その懐かしい感触はとても心地よくて、聡は繰り返し唇を押し当てた。

しかし、将は本当に疲れているのか、何度口づけしてもまったく起きない。

すとん、と落ちるように、いったん眠り込むと、ずっと起きない将。

こんな将を、聡は何度見ただろうか。

初めて結ばれたときも、こんな感じで、ずっと眠っていた。

IQ値が高い分、脳が疲れるのだろうか。だから眠りが深いのだろうか。

眠れない聡は、いっこうに起きない将の顔を飽かず、見下ろしていた。

第276話 夏の終り(1)

巌の葬儀の翌日から、喪に服すことなく、将は元通りの忙しい日々に戻った。

巌の死に関する悲しみや罪悪感……一切の感情に浸る暇も、深く思索する暇も余裕もないままに、時は淡々とした急流となって将を飲み込んでいく。

将もまた、流れに乗って、立ち止まらないようにしていた。

いったん立ち止まれば、今度は感情の波に飲み込まれてしまうから。

将が鷹枝家の子息であることを知ったマスコミは、隙あらば将に近寄って何かを訊こうとしていたが、

将は事務所の固いガードに守られて、何も話さずに済んだ。

そんな中、脚本家の元倉亮から、次の作品はSHOでなく、本名の『鷹枝将』で出ないか、という提案があった。

「どうする?うちの社長も、お父様も将の好きなようにすればいいって言ってたけど」

と武藤は将の顔を心配そうにのぞきこんだ。

「……いいよ。本名で出ても」

もう身元を隠す必要はなくなったのだ。

鷹枝家がどうこう、というのはあいかわらずバカらしいと思うが、将はもうその名を汚すような行為はしないだろう、という自信はあった。

もろもろの事情などを踏まえて検討した結果、結局将は9月から、全ての仕事を本名の鷹枝将で活動することになった。

 
 

1週間はあっという間に過ぎた。

この週は『ばくせん2』の最終回の撮りがあったが、天気にも恵まれたおかげで、いたってスムーズに終わった。

大仕事を終えてホッとした将だが、すっかり仲良くなった生徒役のみんなと別れるのは寂しかった。

学校を休みがちだった将にとっては、まるで撮影現場が学校のようだったからだ。

大野や四之宮たちとも、

「また共演しよう」

と握手をして別れた。

派手な芸能人やアイドルとはいっても、だいたいの人は、中身はみんな真面目だし、

いや一般人以上に自分の仕事や将来を見据えて、自分に対して厳しい。

人気商売なだけに、他人に対しても、とても気を遣っている。

よく噂で聞く、わがままな行いをする芸能人など、ほんの一握りなのだということがわかった。

この夏、振り返ってみれば、そういう人々に出会ったことによって、将は大きな成長を遂げた……それは自分で認めざるを得なかった。

 
 

「明日は、完全オフだから、ゆっくり休んであさっての抜釘手術に備えてね。……あさっては3時に予約してるから。病院の電話番号はわかるわね」

「うん。大丈夫」

少しでもゆったりした時間が出来ると、スケジュールの確認をしてしまうのは武藤のクセらしい。

ひさしぶりに早めに仕事が片付いた将は、武藤ら事務所の人間と近くの小料理屋に夕食に来ていた。

ここは比較的安い上に、奥に個室があるので、タレントを連れての食事に便利なのだ。

「入院の荷造りは、昨日やったからいいわね」

昨日は遅くなったのに、武藤が部屋に来てくれて、入院に必要なパジャマ類などをリュックにまとめてくれたのだ。

武藤は本当に、母親顔負けで面倒を見てくれる。

一度口に出してそういったら、

「マネージャーですもん、当たり前よっ」

と言われてしまった。

「入院のあとは、2日オフにしてあるから、ゆっくり傷を治しなさい。

……9月からは北海道ロケがあるけど、通常の2倍の期間をかけての撮りだから、『ばくせん』みたいに忙しくはないと思うわ。

だから学校の出席日数を増やして、暇なときは受験勉強なさい。

……まあ、小論文は得意だろうから、たぶん合格すると思うけど、油断禁物だからね」

学校に行ける、つまり聡の顔をどうどうと見れるチャンスが増えると聞いて、将は嬉しさをこらえた。

ところで将は、なしくずしにW大の一芸入試を目指すことになってしまっている。

それでいいのかな、という気持ちも少しあったが、最小限の勉強で一流大に入るなら、それしかない。

W大に入れればそれで満足、という気持ちと、きちんと受験しなくていいのか、という気持ちは将の中でまざりあって、

それはいつも、自分は将来、本当に俳優でやっていくのか、それでもいいのかという方向へ向かう。

身をたてる、という意味では問題ないと思うが、それが本当に自分がやりたいことなのかどうかはわからないからだ。

 
 

夜9時には食事も終わり、いつものように武藤に送ってもらった。

入院する病院に近いので、ひさしぶりに自宅マンションのほうである。

武藤は

「ゆっくり休みなさい。いいわね」

と念を押して帰っていった。彼女は将がオフになっても、会社でいろいろと仕事があるに違いなかった。

一人きりの3LDKのマンションは、真っ暗でがらん、としていた。

『おかえり』

電気をつけると、リビングのソファに寝転んでいる大悟の姿が、残像のように、ふっと将の前に浮かんで消えた。

大悟は、どうしているだろうか。矯正病院に入院してもう1ヶ月になる。

薬のほうは、だいぶ抜けたのだろうか。

会いに行く暇はないし、電話やメールもできない。気になるけれど将は何もできなかった。

部屋のほうは家政婦が掃除に通っているせいか、1週間家をあけたのに埃1つない。

将は広すぎるリビングに背を向けて寝室に向かうと、スタンドのあかりを点け、その下の引き出しをあけた。

そこには巌の骨を包んだ懐紙が入っていた。1週間前、葬儀から帰った将が入れておいたのだ。

それと一緒に、森村先生の墓がある寺の住所を書いた古いノートも入っている。

骨とノートはスタンドの暖色に染まって、将に巌の約束を訴えかけた。

将は引き出しをあけたまま、ベッドに体を投げ出すと、眼を閉じた。

特に疲れている自覚があるわけではないのだが、ここのところ、ちょっと時間があるとすぐに寝転んで体を休ませるクセがついてしまった。

『I県にあるその寺の、森村先生の墓が見えるところに、骨のかけらを埋めてくれ』

巌の願いを叶えるタイミングを将は、ここ数日、眠りに落ちる前に考えている。

しかし……頭の中に入っているスケジュールによれば、今後いちいちI県までいける暇はなさそうだ。

つまり、明日からのまる1日か、退院後の2日間しかオフはない。

時間の余裕で言えば9月1日からの2日間だが、新たな手術で左足にどれだけダメージを受けるかがわからない。

手術というからには足の皮膚を切り開いて骨から金具を取り出すのだろう……つまりクラッチが踏める状態かどうかがわからないのだ。

それに、巌は『あきらさんと一緒に』と言った。

9月1日は2学期の始業式だから、聡の同行は不可能になる。

……となると。

明日のまる1日しかチャンスはない、ということだ……。

瞼をゆっくりと開けた将は、意を決したように、起き上がった。

地図を取り出すとI県までの道筋を確認する。

高速道路を使えば片道数時間といったところだろうか。見た目でざっと計算すると、夜から出かければ、日帰りが可能に見えた。

将はさっそく聡に電話をかけた。

聡は、お盆から8月30日まで休みだと言っていたはずだ。

第275話 夏の別れ(7)

人々のすすり泣きの中、葬儀は進み、出棺となった。

喪主である康三を先頭に、純代、将、孝太、そして巌の子供――すなわち将の祖父の弟・妹、その子供らが棺と共に邸宅を退出する。

遺族と共に棺が出ようとしたとき、記者たちが将をめがけて一斉に押し寄せてきた。

「SHOさん、鷹枝官房長官の息子さんだったんですね」

「どうして隠されていたんですか」

記者たちは次々に質問をしてくる。

康三のSPたちがしりぞけようとするが、かなりしつこい。

将は、もう泣いていなかったが、シャッター音の激しさに思わず顔をそむける。

「ひいおじいさまを亡くされた心境は」

そう聞かれても、どう答えていいかわからない。

まごつく将を、純代や親族がうながして、どうにか先に進む。

記者たちは康三にも

「SHOさんは、長官の息子さんですよね」

と訊いた。康三は、憮然と

「そうです」

とだけ答えた。

「官房長官、息子さんのこと、どうして隠されていたんですか」

康三はそっちの質問には答えずに、黙って車に乗り込んだ。

それに倣って親族は皆、沈黙を守ったまま車に乗り込み、火葬場に向かった。

残った武藤が、しんがりを務めるように記者団に

「本当に悲しんでいますから、そっとしてあげてください」

と頭を下げた。

聡は離れたところから、首1つ出た将の俯いた横顔が見えなくなるまで眺めていた。

 
 

将たち巌の親族は近くの火葬場へ移動し、巌の棺に最後の別れを告げた。

『窯』の中に入っていく棺を見て、孝太は

「大おじいさまが」

と思わず声をあげて純代を振り返った。あとは言葉にならずに純代に抱きついて泣いてしまった。そんな姿が親族の涙を誘った。

火葬場の係員が、今から火が入ることを告げる。将は思わず俯いていた顔をあげた。

だが、すでに扉は閉じられ、なすすべはない。

そこでも読経がのべられ、親族からは、あらたにすすり泣きが漏れた。

それが終わると、親族一同はあきらめたように待合室へ移った。

親族という集まりが苦手な将は、その間、外に出てみた。

表に出た途端……蝉の合唱と共にもわっとした暑さに包まれる。

外はまだ夏の盛りだった。すべて、葬儀からここまでの間忘れていたものだった。

将は、青空へと伸びる煙突を見上げた。

煙突からは、すでに白い煙がうっすらと出ていた。それは巌のまっ白な髪や眉毛をどことなく思わせた。

だが、暑いせいか、煙は煙突から出るとすぐに空になじんで消えてしまうかのようだった。

煙になって天に帰っていく巌。

将は、敬礼するように手をかざして煙を見送りながら、目の前の出来事をわざと化学的に考えてみる。

人間の体は、たんぱく質や脂肪、水分で出来ている。

60~70キロの体重のうち、形のある骨として残るのはほんの少しで、大半は気体となる。

今、あそこから見えている白い煙は、巌の体の脂肪や炭水化物が酸素と結びついたH2OそしてCO2、すなわち水蒸気と二酸化炭素が大半だろう。

水蒸気は雲になり……雲は雨になり、陸地に降れば土に染み込み、そして植物を育て、残りは川になる。

二酸化炭素は光合成の材料として木々に吸われて、酸素として生まれ変わる。

巌は、彼を愛した人の心にその生の証を残しながらも、体の大半は、分子となって地球や植物にリサイクルされていく。

考えてみれば。地球に存在する原子や分子の総量は……ときおり隕石が落ちて来る以外は、太古からたいして変わっていないのだ、ということに将は気づいた。

46億年前から地球にある原子が、化合や還元を繰り返しながら、今は大量の人間という生命体になっているのだ。

だが人間も、命が尽きれば、物質として地球に還って別の生命体を育む。

将は煙から自分の掌に視線を落とした。赤く眩んだような視界に、左右5本の凹凸が浮かんでくる。

この手を形作っている、皮膚のたんぱく質も、骨のカルシウムも……酸素も水素も炭素も窒素も、46億年前からこの地球上にあった原子なのだ。

地球上にあった原子が、結びついて将も、聡も、巌も、孝太も、大悟も……みんなの肉体をつくっている。

それは平均85年だかの限りある、原子の結びつきだ。

今、それが終わって還元されていくところを将はまのあたりにして……将は、小さな単位が結びついて

『自分』というものを作っていることに奇跡のような神秘を感じた。

 
 

しばらくの時間ののち、巌は骨になっていた。

大きな部分は流木を思わせる形、色は白くなった貝殻のようだった。

皆でそれを拾い、骨壷に収めていく。骨は乾ききって軽かった。

178センチと昔の人にしては長身だった巌が、こんなに壺に収まってしまうのが不思議だった。

将は、純代に懐紙をもらうと、巌の骨を少しだけもらって丁寧に包んだ。

骨壷に収まった骨は、地球へ還らずに頑なに、それが人の一部だった証明のように保存される。

それは、故人のためというより、生き残って彼を覚えている人のためのように将は思えた。

墓自体が、生きている人のために在るモニュメントなのだ――将は今、それがわかった。

そして将は、巌が自らの骨を『森村先生の墓が見えるところに撒いてほしい』といった意味をも理解した気がした。

おそらく巌は、叶わなかった初恋のひとが眠る傍で、土に還ろうと思ったのだ。

土に還った巌のカルシウムは(どことなく不謹慎な言い方だけど)きっと、まわりの草花の養分となり、森村先生の墓をなぐさめるだろう。

巌の気持ちはわかるけれど、やはり哀しすぎると思った。

原子に戻ってから、傍にいても……寂しい。

46億年の歴史を持つ原子がくっつき離れ……そうやって出来た奇跡の体。それに宿る命。

命あるうちに……生きているうちに、絶対に聡と結ばれる。

将はあらためて骨を包んだ懐紙をそっと握り締めた。

懐紙は少しだけ温かい気がした。

 
 

将が、官房長官である鷹枝康三の息子だったことは、さっそくスクープされた。

翌日のテレビ欄には『SHO号泣!元大臣の曽祖父(100歳)の死』などという字面が詰め込まれた。

土曜なので午後のワイドショーはないが、朝のニュース番組で葬儀の模様は放送された。

「いまや若手イケメン俳優として人気者のSHOさんが、鷹枝官房長官の長男として、曽祖父である鷹枝巌さんの葬儀に参列しました」

巌は芸能人ではない上に、まさか人気上昇中の俳優であるSHOが参列するとは誰も予想しなかったらしい。

アナウンサーが急遽芸能リポーターを兼ねている。

「……今、出棺です。SHOさん、悲痛な面持ちです。ドラマで見られる溌剌とした笑顔はありません。

SHOさんからはひいおじいさまにあたる、元外務大臣・鷹枝巌さんの死を、SHOさんはどんな風に感じているのでしょうか」

スタジオのコメンテーターも

「言われてみれば、お父さんの鷹枝官房長官によく似てますよね。目の辺りとか、背が高いところとか」

と感想をもらす。

かくして、SHOは鷹枝官房長官の長男として世間に知れ渡ったのである。

ちなみに、なしくずしに身元がバレてしまった件については、父の康三からは何もお咎めなしだった。

康三は腹を決めたようだった。

「世間に知られてしまったからには仕方がない。お前も鷹枝家の跡取として、そのつもりで行動に気をつけなさい」

と将は釘を刺された。

第274話 夏の別れ(6)

さすがにTVカメラなどマスコミがたむろしている表門からは入るわけにいかず、将と純代は、勝手口から巌の邸宅に入った。

台所から、廊下を通って広間に通される。

祭壇は、すべての襖、障子を取り払った広間に作られ、巌の棺はその正面に遺影とともに安置されていた。

すでに前のほうに座っていた孝太が振り返って、将に気付いて「あ」という顔をした。

さすがに場をわきまえているだけあり、大声で呼んだり笑いかけたりはしない。ただ少しだけ嬉しそうな目をしただけだ。

棺の方に案内される将を見て、表にいるマスコミ関係者が気付いて囁きあいはじめた。

「おい……あれSHOじゃないのか」

さすがに、夏の日差しで目が眩むような外から見ると、屋内は真っ暗も同然で、彼らは必死で目をこらした。

「暗くて見えないぞ。背は高いが」

「やっぱり噂は本当だったんだ」

将は純代にうながされて、棺の前に立った。

棺の近くはひやりと冷気がただよっていた……おそらく、巌の遺体はこの数日冷蔵庫で保管されていたのだろう。

この暑さだから棺にはドライアイスも入っているに違いない。

将は乾いて貼りついた喉にわずかに湧いた唾をごくっと飲んで、棺を覗き込んだ。

……白い菊の花に囲まれて、巌は眠っていた。

ハルさんが言ったとおり、安らかな顔だった。先日、朝食後に見たときのままの……無垢な寝顔だった。

だが、その肌の色は、蝋のように白っぽくて、艶がなくなっていた。

それは顔を囲む瑞々しい菊の花との対比でさらに硬く、乾いて見えた。

わずかに開いた口から、白い綿がかすかに見えたとき、将の中にふたたび地鳴りのようなものがこみあげてきた。

生きていれば……あんな綿が詰め込まれるはずはないのだ。

ヒージーは、もう間違いなく、死んでしまったのだ……。

将は再び歯を食いしばろうとしたが、息苦しくて出来なかった。

視界はとうに、こみあげてきた涙で、巌の死に顔もろとも歪んでいた。

将は、がくっと棺の前に膝をつくと、掌で顔を覆った。

こんなことになったきっかけは……巌は違うと言ってくれたけれど、将がつくってしまったことには間違いない。

悲しみと罪悪感は、竜巻のように将の自我を吹き飛ばしてしまった。

すでに広間には参列者が揃っていたが、それももはや関係なかった。

いや……意識の端にそれがあるから、声をたてるのは抑えているが、それが限界だった。

……ようやく、純代に抱えられるようにして立ち上がると、自分の席に座った。

そんな将を、聡は遥か後ろから見つめていた。

 
 

読経が始まった。

葬儀社の会場ではなく、一般の日本家屋の広間で行われた葬式は、座布団こそ用意されたものの、正座しなくてはならない。

後ろのほうの一般参列者の中には、15分ほどで足が痺れたのか、足をもぞもぞさせる者がかなりいた。

もちろん、広間だけでは入りきれないので、縁側に向かって張られたテントの下に座っている人もずいぶんいた。

さすがに椅子席だが、そちらは暑そうだ。

聡は、かろうじて玄関近くの末席の座布団に座ることができたのだが、案の定、足が痺れてしまった。

庭のテントの下に座っている人が少し羨ましくなった。

スカートの喪服だったのでこっそり足を崩して、ようやくほっとした聡は少し目をあげて将の後姿を盗み見た。

背の高い将は、いつもなら頭1つ分飛び出て見えるはずだが、うなだれているのか、明るい色の髪の毛が黒いスーツの肩の上に少し出ているだけだ。

視線を手元に戻すときに、近くの一般参列者の席にいる武藤と目が合った。

彼女も将を気にしていたらしい。足はやはり崩しているようだ。

二人は、目でお互いに会釈をした。

 
 

俯いた将の心は、からっぽだった。

空洞になった体に、読経がいやに響く。

経をあげているのは、いつか将に家系図を見せてくれた、東京の菩提寺の和尚だ。

話すときの声と、経をあげる声はまるで違う。

一人で経をあげているはずなのに、まるで複数の人間がつくりだすハーモニーのように響き渡る。

その威厳は、悲しみと罪悪感の興奮を不思議に呪文のようになだめてくれた。

朗々と……というのは、この場に相応しくない表現だが、それを聞いている将は次第に自分を取り戻していった。

気がつくと、将は祭壇の上の巌の遺影を眺めていた。

将がここに預けられていた頃の姿だろうか。すでに白髪で長い白い眉毛の姿だが、満面の笑みを浮かべていた。

将は、近親者の葬式を今までに2度経験している。

一度目は将を生んだ母親・環。まだ7歳だった将は、そのようすも悲しみも覚えていない。

二度目は、将の祖父の周一。高校1年のときだった。

初孫である将は、小さい頃には可愛がってもらったはずだが、なにせ心が荒れていた頃である。

お通夜にだけ出席し、興味本位で死に顔だけ見ると、すぐに退出し、その夜から遊んでいた。

髪を今よりさらに明るい色に染め、一目でカタギでないことがわかる将だったから、

世間体を気にする康三も純代も葬儀に出席しない無礼を許していたはずだ。

将は隣にいる純代の膝のあたりに視線を走らせた。

そろえた手の下に数珠が見えた。顔まで視線をあげる勇気はない。

どうして純代は急に、あのような、将を擁護する態度を取ったのか。

純代はきっぱりと『将はうちの跡取だ』と言い放ったうえに『忙しいのによく来た』と言ったのだ。

それは、将が知っている純代と180度違う姿だった。

――いや。

180度という数字に、違和感を感じた将は、急に子供の頃を思い出した。

純代は将に対して……少なくとも巌の継母のような分け隔ては、一度たりともしなかったはずだ。

つねに自分の子の孝太と平等に扱おうと努力していたのは将にもわかっていた。

孝太だけを優先したのは……あの爆破事件のときだけだ。

将は、純代の数珠から目をあげて巌の遺影を眺める。

あの日、森村先生との悲恋の話のあと、共にした最後の夕食での、巌の話が蘇った。

 
 

「ねえ、ヒージー。その後、ヒージーは一高から帝大に入ったんだろ。継母に仕返しなかったの?それ見ろとかさ」

将は気になったことを訊いてみた。

巌は、スプーンで口にいれてもらった細かくしてもらったポトフを味わって飲み込むと、

「仕返しか。今に見ておれ、と思ったのは小学校までだったな」

と遠い目をして答えた。

「えー」

将はつまらなそうに口を尖らせた。

「中学に入って、離れて暮らすようになってからは、憎しみも薄れてしもうた。

高校に入ってからは先生をなくした悲しみを忘れるように勉強に打ち込んだしのう……」

巌は、あゆみに差し出されたもう1口を制して続ける。

「それに、お継母さんは5人子供を産んだのだが、二人は大人になる前に病気で亡くなり、残るうち二人は戦争で兵隊に行って亡くなってしまった。

ワシは戦争当時、すでに官僚職についていたから赤紙を逃れたが、結局、お継母さんに残されたのは女の子が一人だけだった。

それにお継母さんの実家は大陸にその資本の大部分を投資していたから、戦後はもうボロボロでな……」

「ざまあみろ、って思わなかった?」

巌は将をまっすぐに見据えるときっぱりと言い放った。

「思わなかった」

将は、巌が嘘を言っていると思った。本音では絶対、胸がすくような思いをしたに違いないと確信していた。だが、巌は

「とてもじゃないが、気の毒でそんな風には思えなかった」

と繰り返すばかりだった。

「戦後まもなく父が亡くなってからは、お継母さんが頼れるのはワシだけになってしまったんじゃ。

あいかわらずキツイ性格ではあったが、ワシの奥さんと協力して家のことをよく手伝ってくれたものだ。

末の子などは、お継母さんによく懐いていてな……。

よくよく考えてみたら、多少のわけへだてをしたにしても、忙しい父に代わってワシを大きくしてくれたんじゃ。

……ときどき抜いたにしても、三度三度メシを食わせ、きちんとした着物を着せてくれて、学校には弁当を持たせてくれた。

……考えてみろ、新婚なのに聞かん坊の子供の世話をするおなごの気持ちを。

それぐらいの意地悪をしたくなるのは当然だ、とワシは結婚したことで初めて理解したのじゃ」

将は、承服しかねた。巌は人が良すぎる、とそのときは思った。

……だが、今になって将は、純代の気持ち、というのを、自分のほうこそ考えなかったことに気付いた。

康三にとっては再婚だったが、純代にとっては初婚だ。

当時28歳の女性としては結婚生活にいろいろと夢もあっただろうに、彼女は新婚まもなく9歳の男の子の世話を押し付けられたのだ。

なのに、巌の継母のように意地悪をすることもなく、

三度三度メシを食わせ、きちんとした服を着せてくれて……という部分では、充分すぎるほど面倒を見てくれた純代である。

孝太が生まれる前も、市販品の添加物がよくないからと、たびたびおやつに焼き菓子を焼いてさえくれた。

その自然な甘味がふいに将の舌に蘇る。

そこまで優しくされたからこそ、愛されていたと思ったからこそ、火事の中でおきざりにされたことが……裏切られたことがショックだったのだ……。

『純代さんを許してやれ』

遺影から、声が聞こえるようだった。

第273話 夏の別れ(5)

葬儀当日もよく晴れた。

将は、朝から事務所の若手社員の運転する車に乗って、喪服を着た武藤と共に大磯の邸宅を目指していた。

将は高校生だから、本来は制服でもかまわないのだろうが、武藤が喪服の黒のスーツを用意してくれたのでそれを着ている。

幸い、将の顔の痣はこの日までにすっかりなくなった。

足のほうも、わずかな違和感とつま先に黒い内出血が残るものの、むくみもひき、ほとんど支障はない。

スモークの後部座席からの景色は、わずかに青みがかって見える。

将は、夏の太陽の下、きらめく太平洋の水平線を車窓から見つめていた。

世界は巌を失っても、何1つ変わらないように見える。

だが……将の世界では、将を愛した数少ない人間が一人減り、また巌が生きた政治の世界では貴重な長老を失った。

昨日行われた通夜では、焼香をと訪れる大勢の人がひきもきらなかったという。

そうやって、悼む人々は、巌がたしかにこの世にいた証である。

人は……ただ生きているだけではない。

人の中に生きている。人の存在は、他人とのかかわりのなかで初めて意味を持つ。将は今そんなことを考えていた。

将は……世界は1つであって1つではないのでは、と仮定してみる。

それぞれの人の中に、社会の中に、1つずつ世界があるとしたら。例えばドラマのように。

どれだけ多くの世界の中に登場できるのか。

また、誰かの世界で重要な存在に……主要人物になれるか。

それが、人の生きた証になるのではないだろうか。

将にとって巌は、まさに重要な人物だった。

巌は、また将という個人だけでなく、国家という単位の中でも必要とされた。

そういう意味でも偉大な人物だった。

自分は誰かの重要な人物になりえるのだろうか……そう考えた将は、自然に聡を思い出す。

聡の中で……聡の世界の中で、将の世界の中の聡のように、在ることができれば。

それこそ将が生きている証だろう。

いつもと変わらない太平洋を見つめながら、将の思考は、人の生の意味、自分の中の聡、自分の存在を順番にめぐっていた。

 
 

巌の邸宅の近辺から、そろそろ渋滞が始まっていた。

参列者の多くが東京から参列するうえに、重要人物が多いのだ。ゆえに多くが車でやってくる。

それに、マスコミもかなり来ているようだ。数こそそう多くないがテレビカメラも見え隠れしている。

渋滞する車を囲むように、交通整理をする警察やSPらしき黒服がうろうろしている。

彼らは、まるで検問のように運転席の窓を開けさせて、誰が乗っているのかを質問している。

「おそらくテロ対策でしょうね。今日は要人が多いから」

将の車を運転する、事務所の若手社員がつぶやいた。

将たちも質問されたが、そこの関門は難なく通過できた。

巌の邸宅の前の、大木が茂る細い田舎道は、いつもの静かな趣は消えて、車がずらりと並んでいた。

あまりの騒がしさに、いつもは祭典のような蝉の声が、なりをひそめてしまっている。

狭い道なので一方通行にし、門のところで参列者だけ下ろし、運転手は近くの小学校の校庭に車を止めることになっているようだ。

足腰もおぼつかない年寄りの参列者が多いので、降りるのにやたら時間がかかるのと、駐車場になっている小学校の場所の説明で車の進みは遅い。

将と武藤は、目立たないよう、門の手前、土間の台所がある裏門で車を素早く降りた。

そのまま裏木戸の中に入ってしまおうとしたとき、前に立ちはだかる黒いスーツがいた。

毛利だ。

「……困りますね」

小柄な毛利は、小さい声で言うと、銀縁の眼鏡の下から将を見上げた。

将は挑戦的な気分で、毛利を睨み付けた。

しかし、さすがにマスコミもいるこの場での押し問答は、目立ちすぎると毛利もわかっているのか、

「とりあえず、こちらへどうぞ」

と、隣のハルさんの家に将と武藤を案内した。

「まあ、まあ、おぼっちゃま……」

自宅と巌の邸宅の間を往復して、下働きをしていたハルさんは、居間に座る将の姿を見ると涙をこぼした。

「御前もお待ちかねですよ。今日はお忙しいのによくおいでになりました……」

動きづらいのか、着物ではなく、黒いワンピースの上に白い割烹着を着ている。

「巌様は、本当に安らかなお顔をされていました……」

ハルさんは巌の最期のようすを話してくれた。

亡くなる前の日も、いつも通りにあゆみに体をぬぐってもらい、いたって普通に食事をし、そのまま休んだという。

そして朝、起きたあゆみさんが様子を見に行ったら、ベッドの中でそのまま冷たくなっていたという。

医師によると死亡推定時刻は、午前4時頃とのことだった。

『昨日の粥は本当に絶品じゃった。将のやつ、また来ないかのう』

と食事に際して言ったのが最期のことばだったという。

将は、もう耐えられなかった。

さっきまでの挑戦的な緊張感が一気に瓦解した反動でゆるんだ全身の血管に、怒涛のように感情が流れ始めた。

歯こそ噛み締めていたが、声にできない分まで涙があふれはじめた。

悲しい、と意識をするような思考力はない。

ただ、生理的に涙があふれてきてしまうこの状況……将は全身を支配しそうな感情にかろうじて抗って声を出すのをこらえた。

肩が震え始めた将に気付いて武藤が、無言でハンカチを差し出す。

そこへ。

目の前にいたハルさんが、ハッとして将の後ろを見ると、ひれ伏した。

振り返ると、毛利を伴った康三がこちらに向かって歩いてくるところだった。

「来るな、と言っただろう」

康三は座っている将を見下ろした。将は涙を手の甲でぐいとぬぐった。

何も答えられないその瞳は、悲しみの色から、瞬時に怒りに変わった。

しかし、何と言い返せばいいのか、悲しみに膨張してしまったような脳細胞は巧く働かない。

将は唇を震わせて康三を睨みつけるしかなかった。

「康三様……失礼ですが……あんまりじゃありませんか」

ハルさんが、思わず涙声のまま康三に抗議する。

「申し訳ありませんが」

それでも康三は一応、ハルさんに礼儀はつくしつつ、突っぱねる。

「鷹枝家の問題です。口を挟んでいただくにはおよびません……それに武藤さん。今日は来ないように、とご連絡さしあげたはずでしょう」

矛先は武藤に向かった。

武藤は座ったまま、一応深々と礼をすると、深く息を吸い込んで答えた。

「お言葉ですけれど……将は……将さんは子供の頃、故人さまに預けられていたこともあって可愛がられていたと聞いております。

ゆかりの深い親族の葬儀に出席するのは当然だと私が判断したのです」

「ですが」

そこへ毛利が口を挟んだ。

「御社とは、将君の身元を明かさないことを条件に、契約したんですよ。

……この状況で葬儀に出席させるというのは、立派な契約違反ではないですか」

『契約違反』を持ち出されて、武藤は押し黙った。

「……とにかく、今日はお帰りください」

康三は、丁寧な口調ながら冷酷な言葉を、武藤と将に投げかけると、踵を返そうとした。

「待って下さい。一般の参列者としてでもだめでしょうか」

武藤はその背中に向かって叫ぶように訴えた。

康三はゆっくりと振り返った。

「……御社の手腕でしょうか。今では将も、立派に世間に顔が知れるようになっています。

……一般の参列者に置いても、目立ちすぎてしまうでしょう」

静かながら、とにかく将を葬儀に出席させないという決意は固いようだった。

将は、いつしか睨むのをやめて俯いて、畳の目を見ていた。

――ごめん。ヒージー……。約束守れないや。

畳に、巌の在りし日の姿が浮かび上がってきた。俯いた将の目に再び涙が盛り上がってきたそのとき。

「あなた。何という言いようですか」

と鋭い女の声が聞こえた。

顔をあげた将の瞳に、義母の純代の姿が映った。

この暑い中、きっちりと喪服を着けている。

「そんな酷いことを実の息子に向かってお言いになるなんて、あなたは人として恥かしくないんですか」

「純代……」

従順な妻からの思わぬ反撃に、康三はあきらかに狼狽していた。

毛利は、康三の陰に隠れるように一歩奥に下がった。

「それに将は、うちの跡取じゃないですか。跡取が葬儀に参列しないなんて、それこそ道理にあってません」

純代は静かに、しかし威厳を持って、ずい、と進んでくる。

意外な出来事に、将の涙はひっこんでしまった。

康三も毛利も、のけぞるような姿勢になった。

「しかし、将の身元が世間に……」

「身元なんて、隠したっていずれ知れるものでしょう!」

純代は二人に向かって一喝した。凛とした声が、家中に響き渡った。

二人は黙り込むしかなかった。純代は将を振り返ると、そこに静かに正座した。

その立居振舞は、さすがに名門・岸田家の息女だけあり、無駄なく、かつ、たおやかな動きだった。

まず武藤に、両手を揃えて深々と礼をする。そして、将に

「将、忙しいのによくぞ来てくれました……。大おじいさまも、お喜びになるわ。さあ、一緒に参りましょう」

純代は将にむかって膝を進めると、一緒に立ち上がるように促した。

「あちらで孝太も待っているわ」

将は、わけがわからないまま頷くと、純代と一緒に立ち上がった。

康三は、目をパチパチさせながら、自分の目の前を通り過ぎていく、純代とその後に従いていく将を見送った。

「御前のおぼしめしです……」

ハルさんは小さく呟くと、数珠を顔の前にあげて拝んだ。

第272話 夏の別れ(4)

巌の通夜は盆明けの19日、葬儀は翌20日に決まったことが翌日の朝刊で告知された。

マネージャーの武藤は、将の20日のスケジュールをあけるために、再び忙しくあちこちと連絡を取り合って調整に奔走することになった。

ちなみに『ばくせん2』の最終回の撮りは、将が登場する部分は8月27日で終了する。

だが、9月に入ってすぐに元倉亮の新作の撮りが始まるという。

「それ1月期って言ってなかったっけ?」

「ストーリーが夏の終わりから始まるんですって。通常のドラマのスケジュールで行くと、雪景色しか撮れなくなっちゃうから」

「ふーん」

将は、先日のオーディションで会った元倉氏を思い出した。

四之宮の言ったとおり、オーディションというよりは、面談に近かった。

『撮影中は、だいたい月の半分くらいは、ロケ地に滞在することになります』

監督が説明する横で、元倉氏は始終にこやかに将を見つめていた。

そしてこんなことを言ったのだ。

『SHOくん。君、過去に後ろ暗いことがあるだろ?』

将は、あのことを言い当てられた気がしてギョッとした。

元倉氏の視線は、にこやかな表情とはうらはらに鋭くて、将は逃げられない、と思った。だから素直に

『はい』

と答えてしまった。

元倉氏は、まっすぐに答える将を見て、何度もうなづきながら、くっくっと笑った。

そして

『いいよ。君さ……。自分でも気付いていないだろ。すごいコントラストが同居してるんだよ』

と笑いながら将を指差して、指摘を始めた。

明るさと暗さ。優しさと冷酷さ。育ちのよさと野生味。素直さと他人への疑心暗鬼。そして正義感とそれを裏切る過去……。

そんなことを元倉は挙げて

『いいかい。今度の峻という役は、君に極めて近い役どころだ。同じ年代の役者で彼を的確に理解できる者はいないだろう』

シナリオの他に、分厚い設定資料を将に渡した。

何でもドラマに出てくる部分以外の、『峻』の生い立ちが書いてあるらしかった。

将は、分厚いそれを一晩で読んでしまった。

巌の死を思い出さないために……思い出すとぐちゃぐちゃになるまで泣いてしまうから……将はできるだけ空白の時間をつくらないようにしていた。

聡と電話した晩から、悲しみは氷河が一気に解けたように、ことあるごとに将の全身を襲うようになっていた。

『何が悲しい』という理屈ぬきで、体が震えだしてしまう。

熱い何かが腹の底から、脳を圧迫するように突き上げて、涙が押し出される。

そうならないように、将は一人でいるときも、思考に空白を作らないようにしていたのだ。

設定資料を読んだのもその一環ではあったが、

そこにはドラマにはまったく出てこない、『峻』の家庭環境や、過去の女性関係その他もろもろが書いてあった。

『峻』自体のストーリーとして十分面白く、将を引き込ませてくれて、その間は悲しみを思い出さずに済んだのだ。

 
 

「28日からは6日間、オフにしてあるから、その間に足の抜釘手術をするように手配したわ。手術は29日の午後からで、入院は31日までだから」

そこまで話したところで、武藤の携帯が鳴った。

事務所の会議室で、今後のスケジュールについて、打ち合わせをしているところだ。

「……ハイ。ダイヤモンド・ダストの武藤です。……こちらこそお世話になっております。はい。あさっての件ですよね」

あさって、という言葉で将はストローでジュースを吸い込んでいた顔をあげた。

あさっては巌の葬儀の日で、オフになっているはずだ。ということは、実家関係者からの電話だということになる。

「ええっ?ちょっと待って下さい」

武藤が声を荒げたので将は、何事かとその顔を見た。

しかし、武藤は将に背を向けると、会議室を出ていってしまった。

将は、追って立ち上がるとドアに耳をそばだてた。

どうやら武藤はドアの外で話しているらしい。

「どうしてですか」

「そうですけど、そういう約束でしたけど……」

「でも、将くんにとって大事な方の葬儀じゃないですか」

「ひどくないですか」

という声が聞こえてくる。

その声は、最初は抗議の口調だったのが、だんだん悲痛な響きが混じってくるようだった。

どうやら実家の者から、将にとって嫌な知らせがもたらされたらしい。

もともと実家に対して、嫌なイメージがほとんどである将は、

それほど心配もせずに、ドアから離れると元の椅子に座って、ストローで残ったジュースを音を立てて吸い込んだ。

まもなく、武藤が部屋に入ってきた。ドアを閉めるなり、ため息を深くつく。

「どーしたの?」

将は、椅子に寄り掛かるとできるだけ陽気に、問い掛けた。

武藤は、将の前の椅子に、腰を落とすと机に肘をついて、またため息をついた。

いつもクールでしゃきっとしている武藤がこんな様子を見せるのは珍しい。

「電話、誰からだったン?」

将はストローを上下の唇で挟んだユニークな表情で訊いた。

「毛利さん」

武藤は眉根を寄せたまま呟いた。

その名前を聞くだけで、ロクな知らせじゃないな、と将には予想が出来た。

「毛利、何て?」

「それがね……あさってのお葬式、来なくていいって」

「へ?」

「あなたの身元がばれるから、来たら困るって……」

将は口をあけたまま、言葉を失った。ストローが空のプラスチックのコップをそれて床に落ちた。

「……なんだよ、それ」

何でも、葬儀当日は政界関係者や、TVや新聞社、週刊誌までマスコミが多く訪れる可能性があるという。

そんなところに、顔が売れ始めたイケメン俳優のSHOが顔を出すと、

康三がその父親であることを世間に公表してしまうことになるから、葬儀への参列を控えてくれ、という要請だった。

「たしかに、あなたの芸能界デビューは、身元をあかさないのが条件で許可していただいたわ……でも、ひどい」

将もまた、机に肘をついて、額を右手で支えた。自分の頭蓋骨がいっそう重く感じる。

この数日、悲しみを思い出さないようにして頑張ってきたのは……

仕事を片付けて、せめて葬儀には出たい、巌と最期の別れに出たい、という目標があったからだった。

大磯に駆けつけることもならず……それすらもかなわないのか。

「……俺、ヒージーの骨を拾わないといけないんだよ。ヒージーと……約束してるんだ」

将は机に向かって、呟いた。

巌の骨のかけらを、森村先生の墓が見える場所に埋めてほしい。

将と聡に託した、最後の願い。

それを遂げるために将は、巌の骨を拾わなくてはならない……。

武藤は少し顎をあげると、俯く将を見つめた。

悲しげに丸まった、広い背中が武藤の胸をついた。

武藤は立ち上がると、将のわきに立って肩に手を置いた。

「将、心配しないでいいわ。ひいおじいさまの葬儀には私が必ず連れて行ってあげる……」

「武藤さん」

将は傍らに立つ武藤の顔を見上げた。

武藤は、将の傍らにしゃがみこむと力強く微笑み、肩を叩いた。

「一番可愛がっていたひ孫が、送り出せないなんて、絶対にありえないもの……。私がなんとか説得するわ。

……大丈夫よ、行ってしまえばこっちのものよ」

第271話 夏の別れ(3)

将のスイッチがどうにか入ったのは、武藤からの電話が入ってからだ。

康三からの電話が切れてから、今までの間、どうしていたかさっぱりわからない。

もしかしたら、血流まで止まっていたのかも、と思ってしまうほど、将は微動だにしていなかった。

「ハイ……、起きてます。……わかりました」

何もなかったように答える自分。

本当は、どうあるべきなのか、わからない。

ヒージーが亡くなった……という事実の受け止め方がわからない。

悲しい?悲しいにきまってる。だけど、なぜ涙がでないのだろう。

だが、それを考えている暇はない。

将は現実を重視すべく、感情をひとまず置いといて、行動に移す。

巌のひ孫の鷹枝将ではなく、俳優のSYOを演じなくてはならない。

将は現実感のない現実への禊をすべく、シャワーを浴びた。

 
 

将は、車の中で、武藤にそれを告げた。

「……そう。あなたのひいおじいさま、といったら大臣か何かよね」

「うん。文部大臣、外務大臣とかいろいろやってたと思う」

将は、武藤がつくってくれた朝食のサンドイッチを食べながら淡々と答えた。

武藤のサンドイッチはあいかわらず美味しい、と感じている。

だから、大丈夫だろう、と将は思った。悲しみに飲まれないで、ちゃんと仕事ができる。

「じゃあ、葬儀はすぐにはないわよね。1週間後ぐらいかしら」

武藤は、いつごろ葬儀があるかを予想するために、それを質問したというのがようやくわかる。

「オヤジが連絡するっていってたよ」

「……そのようすだと、仕事のほうは大丈夫そうね」

武藤はバックミラーから将をいたわる瞳を見せた。

彼女には、前に、将が8歳のとき1年間大磯の巌の家に預けられていたことを話してある。

だから、おとついの夜中、ミニで大磯に行くという将を止めなかったのだ。

「たりまえじゃん」

将は笑顔をつくった。

「お葬式には出られるように、スケジュールを調整するから……。つらいと思うけど、頑張ってね」

「うん。ありがとう」

そういう武藤の方がよほど辛い顔をしている、と将は思った。

将は実際のところ、まだ悲しみが実感できていないのだ。

大磯に行けば、まだ『こりゃ』と目を剥く巌の姿がみられそうな気さえしている。

 
 

「SHOくん、今日気合入ってない?」

エアコンのきいたロケバスの中。昼のロケ弁を食べながら大野が言った。

「そっかな」

そう答えつつ、いつもより演技に集中していると、将も自覚している。

目の前の現実にどっぷり浸からないと、ぼうっとしてしまうからだ。

瞼の黒い痣は、新陳代謝が激しいせいか、ここ1週間でかなり薄くなった。

今日は普通のドーランで違和感がないほどまで快復している。

「そういや、SHOは、元倉亮のドラマに出るんだって?」

四之宮が言った。

将と仲良くなったせいか、四之宮は他の共演者にも溶け込むようになっていた。

話してみると、そんなにお高いやつでもないし、先輩風も吹かせないということがわかって、不良生徒役5人の息は最近ぴったり合っているのだった。

「いや、まだ決まったわけじゃないっすよ。オーディションあるし」

「やー、オーディションっていっても、形だけでしょ」

四之宮によると、いちおう局や制作会社の意向でオーディションはやるものの、元倉氏の直指名ならほぼ決まりだということだった。

「へー、すごいな。焼津さんもあのひとのドラマからブレイクしたらしいし……」

大野が羨ましそうに言った。

「でもさ、すっごく拘束されるらしいよ。スペシャルに1年かけて撮影するくらいだから。

『北の大地から』に出ていた××さんによると、雪の上に足跡つけるだけのためにわざわざ北海道に呼ばれたらしいから」

「それマジ?」

「マジマジ」

そんな風に同じ年頃の共演者たちと話していると、今朝の知らせは夢だったのかとさえ錯覚しそうになる。

「じゃ、リハーサルいきまーす!」

ADに呼ばれて将たちはロケバスから川原に出た。

川原に出たとたん、焼けつくような陽射しが照りつけた。将はふと空を見上げた。

大磯より淡い空の色の下、流れ行く川も、川の向こうに霞むビル群も、いつもと変わりないのに、巌はこの世にいない。

自分を愛してくれたものが……一人この世から消えたのに、目に見える世界はまるでいつもと同じなのだった。

 
 

今日も、仕事は夜遅くまでかかった。

武藤に送ってもらって、M区の寮についたとき、将は一気に力が抜けてベッドに倒れこんだ。

今日、1日いかに張り詰めていたかがわかった。

シャワーを浴びるのも大儀に感じるほどの疲れは、朝の出来事を遠い昔のことのようにしてしまっている。

将は、ベッドに寝転がったまま、無意識に携帯をチェックした。

10時頃、聡からのメールが着ていた。

将は思わず起き上がった。

>>>

テレビで巌おじいさまが亡くなったことを知りました。

何て言ったらいいのかわからないけれど、ご冥福を祈ります。

   聡

>>>

将は、儀礼的なそれだけでは飽きたらず、聡に電話をかけた。

12時すぎていたけれど、聡はすぐに出た。

「将?」

大磯以来、『鷹枝くん』が将に戻ってしまっている。それが将には嬉しい。

「うん……。あのさ、ヒージーのこと、テレビでやってたの?」

まるでたった今メールの内容を話していたように、将は続けた。

聡は、違和感なく、それに答える。まるで、ずっと二人で会話をしていたかのように。

「やってたよ。報道ステーションで見た」

「そっか……」

政界の長老で、相談役。20世紀の生き証人。巌はそんな風に紹介されたらしい。

昔の映像も放送されたという。

「若い頃の顔が、将にそっくりだったよ」

「昔の人にしては、イケメンだろ」

将は、おどけた。

「そうね」

聡は低く笑いながら相槌を打った。

こうして聡と電波が繋がっていると思うだけで、心が温かくなってくる。

「ところで将、今どこ?大磯?」

「ううん。M区の寮」

「そっか、仕事、か。そうだよね……」

芸能界にいたら、肉親が死んだとしてもすぐに駆けつけられないのだ。それは聡も知っている。

「うん。アキラは萩?」

こないだ東海道線の中で、お盆前で補習が終わったら、萩に帰るかもと話していたからだ。

「ううん。帰ってない……。疲れちゃうかなと思って」

夏バテで貧血気味だったから、自重したのだという。

「じゃ、ずっとこっちにいるんだ」

将は、ほっとした。じかに逢えないにしても、聡と距離が離れてしまうのは寂しい。

「うん。いるよ。実家はお正月に帰ったしね」

「……逢いたいな」

将の口から、まるで吐息のように、ごく自然に思ったままが出た。

今、聡に逢いたい。顔が見たい。ぬくもりに触れたい。

小さな願いは芽生えた途端に、激しく将の全身を走りぬけて、心に小さな渦巻きを残した。

「……将、大丈夫?」

聡は、その一言から、将の気持ちの深いところに発生した渦巻きを察したようだ。

「なにが?」

それに自分自身でも気づいていない将は問い返した。

「大おじいさまのこと……」

聡は遠慮がちにそれを口にした。

まだ今朝逝ったばかり。悲しみはまだ心に痛々しい創傷となって、きっと乾いていないと聡は思ったのだ。

「……うん。大丈夫、だよ」

努めて明るく答えながらも、将の中で、堰き止めていたものがグラリと動いた。

動いた途端、何かがいっせいに流れ始めて……胸を熱いものがこみ上げてくる。

「あたしも、できればお葬式、顔出そうと思うの……迷惑じゃない?」

聡のほうは、将の明るい口調を信じたらしい。次の話題に移っている。

だが将の目からはついに涙があふれ始めてしまった。

それを声音に出さないように、かすれてしまわないように、苦心する。

「迷惑じゃないよ。俺のこと頼まれてただろ……」

自ら口にしたあのときのことが、将の脳裏に、たった今あったことのように鮮やかに蘇る。

蘇った記憶は、涙をとめどないものに変えてしまった。

あとから、あとから流れ出てきては、顎を伝ってぽたぽたと落ちていく。

「聞いてたんだ。……ふふ」

聡は電話のこちらの将の様子にまったく気付いていないらしい。

「アキラ、今泣いてるだろ」

自分の涙まみれを誤魔化すように、聡が泣いていることを言い当てた。

根拠は何もない。

だけど、自分がこれだけ涙があふれている状況、当事者で涙もろい聡が泣いていないわけはない。

将はこみ上げる熱い感情で圧迫されたような脳で、確信していた。

「……わかった?いろいろ思い出しちゃって。つい最近でしょ……」

そのとたん、電話の向こう側で、ぐしゅん、と鼻をすすりあげる音が聞こえた。

将のあてずっぽうは当たった。

聡も泣いているんだ、という回答を飲み込んだら、腹の底から、発作のように嗚咽がこみ上げてきた。

「でもさ……、お父様とお母様が変に思うんじゃないかしら。……将?」

聡の涙声の問いかけに、将はもう答えられない。

将は、聡の声のする携帯を握り締めたまま、ベッドにつっぷして、声もなく全身を震わせて嗚咽していた。

聡はそのまま、携帯を切らなかった。ただ……自らも涙声で将の名前をときおり呼びかけていた。

第270話 夏の別れ(2)

将は夢の中で8歳に戻っていた。

カンカン照りの中、釣竿を肩にかついで、巌のあとをついて歩いていた。

昔の人にしては長身な巌は90にもなるのに大股で、将は小走りにならなくてはならなかった。

そのたびに、将には長すぎる竿が、肩からずれて、そのたびにかつぎなおさなければならない。

――海はすぐ近くだ、って言ったのに、遠いじゃんか……。

将は、ちょっとふくれっつらになりながらも、懸命に長すぎる竿を持って、巌の背中を追いかけた。

『ヒージー、ちょっとゆっくり歩いてよ』

将の訴えなど聞こえないように、巌はスタスタと歩いていく。逆に早足になっていくようだ。

……と、ゴム草履と裸足の間に小さな砂利が入り込んだ。

将は竿を道端に置くと、ゴム草履を脱いで砂利を取るべくかがんだ。

下を向いた将は、地べたの草むらに咲く昼顔を見つけた。

朝顔のミニチュアのような花だが、夏の日差しに負けずに、けなげに咲いている。

淡いピンク色ではかなげだけれど、派手で大きい朝顔より、実は逞しい。

それに心惹かれた将は、思わずしゃがみこんで、それを見つめた。

手折ろうとした将は、背中に巌の声を聞いた。

『将。わしは行くぞ』

ハッとして振り返る。

振り返った将は、波の音に包まれた。気がつくと、波打ち際にいる。巌の姿はどこにも見えない。

『ヒージー』

将は、呼びかけながらあたりを見回した。

……いつのまにか草むらも、昼顔も、釣竿もなくなっていた。

足元を波が容赦なく濡らす。こんなに何もない海岸は初めてだった。

将の目の前に広がるのはただ水平線とその上に金色に輝く太陽。

背後にはサハラ砂漠のような砂丘が、太陽の色に染まっていた。

『ヒージー、どこ』

将はどこまでも続く水平線と砂浜に向かって呼びかける。

返事はない。

波の音と……立ち木など何もないのに、ジージー、ジワジワと電子音のような蝉の音が煩い。

『ヒージー』

将はたった一人で取残されてしまった。

そんな将を、西日が包む……。

 
 

「……ヒージー!」

自分の叫び声で将は目覚めた。

目覚めの瞬間、ふいに落下したような感覚に襲われる。

もう明るいらしい。カーテンから白い光りが漏れている。

一瞬自分がどこにいるのかわからなくて……やっと、M区の寮にいることを把握する。

夢の中で、あんなにうるさく鳴いていた蝉の声が、なぜかピタリと止んでいる。

将は低い天井を見て、ため息をついた。

それを合図にするかのように、蝉が再び鳴き始めた。

携帯で時間を見ると、ちょうど7時になるところだった。

将は、まだ落下したときの戦慄が残っているような体を無理やり起こすと窓辺に寄ってカーテンを開ける。

視線が呼ばれるように西の空に引き寄せられる。

14階なのに、空は失敗したテトリスのような形でしか見えない。

そのとき、ベッドの上で携帯が鳴った。

武藤にしては早すぎる時間……今日は8時30分に迎えに来る、と言っていたはずだ。

胸騒ぎを抑えながら将は、ベッドに置きっぱなしにした携帯を開いた。『自宅』という表示。

将は覚悟をごくり、と飲み干した。そしてそれを胃まで落とし込むと、通話ボタンを押す。

「将か」

電話は父・康三だった。

覚悟したはずなのに、心臓が震え始める。将は立っていられなくなり、そのままベッドに腰掛ける。

「ああ。何」

短く答えるのでせいいっぱいだ。

「大おじいさまが、亡くなった」

康三の口調は、落ち着いたものだった。

――やっぱり。

「朝、ベッドに入ったまま、亡くなっているのをあゆみさんが見つけたそうだ。……おそらく眠っている間に心臓発作が起きたんだろう」

「うん」

将は、何も考えられなくて、短く返事をするしかない。

「これから、すぐ大磯へ向かう。お前は……仕事か」

仕事、という言葉でようやく凍った思考の一部が動き出す。

今週は、将をメインにした8話の撮りのクライマックスになっている。先週ほどではないが、スケジュールは詰まっていた。

「うん」

将は一言で、仕事が詰まっていることを伝えた。

「そうか。じゃあ、一緒に行くのは無理だな」

康三は淡々と続ける。

「葬儀のスケジュールはこれから決めないといけない。葬儀会場を東京にするか、大磯にするか検討しないといけないし」

「オヤジ」

将は巌の死を告げられて初めて、あいづち以外の言葉を口にした。

「……大磯から送り出してやれよ。ヒージーのうちはあそこなんだから。あんなに帰りたがっていたんだから」

巌がことのほか愛していた……命を賭けても帰りたがった、死に場所に決めた、大磯の邸宅。

巌の魂を送り出すのに、他の場所はありえないだろう……。

「……そうだな。その方向で検討しよう」

康三は、将の言うことを静かに受け容れるようだった。最近では……いや、将の生きてきた18年の中でも、それはとても珍しいことだった。

「じゃあ、また連絡する。お前の事務所にも、私から連絡をいれようか?」

「……いいよ。自分で伝えられるよ。オヤジも忙しいんだろ」

珍しく、自分に気を遣う父親が面映くて、将はそれをそっくりと返してみた。

「大丈夫だ。夏休みだからな……私用で国政に穴をあけるな、とつねづね言っていた大おじい様らしい」

そう、今日は8月14日、夏期休暇中である。

まるで、夏休みになるのを待っていたかのようなタイミングで、巌は逝ったのだ。

「じゃあ、また連絡する。お前は……つらいだろうが、仕事はしっかりこなせ」

「わかってる」

電話が切れてしばらく、将は、すべてのスイッチが切れたようになってしまった。

第269話 夏の別れ(1)

殺人的な忙しさ、とはこのことだろうか。

火曜日から、将のスケジュールは早朝から深夜まで仕事でびっしりと埋まった。

もともとは7話だった予定で移動した、将が中心になる8話の収録だけでも出番が多いのに、6話、7話の残り収録もある。

台本は休みの間に読んで覚えていたものの、細切れ度はさらにひどくなり、

同じ場所と同じ役が揃う場面では、衣装だけ変えて7話と8話の同時進行というものもあり、混乱した。

そして、あいかわらず野外ロケが多いが、なにせ例年以上の猛暑である。

内出血の黒い瞼を隠すためのコンシーラーやドーランがすぐに汗で流れ落ちる。その塗りなおしも大変だった。

それでも肌の色はなんとかメイクでごまかせたが、監督は、

「やっぱり、むくんでるね。目のあたりとか」

と撮ったばかりの画を見て言った。

それは将も武藤も感じていたことだった。

痣があるほうの瞼の腫れぼったさは、やはりメイクでは誤魔化せなかったのだ。

ちなみに手首の傷は抜糸したものの、まだ傷を隠すための肌色のテープを貼っている。

まだ今撮影している分がオンエアされているわけでもないのに、これらは、すぐにネットに書き込まれてしまった。

『顔がむくんでいるのは整形?』

『手首に傷があった。例の彼氏に振られて自殺未遂したのかなw』

もちろん将はそんなものを見る暇はない。だが、事務所のスタッフは神経を尖らせた。

先日毛利が見つけた例の記事も、先に事務所で削除させようとしていたのだが、そこのサイトの管理人は出版社のようにバーター関係がないせいか強硬で

『確実に嘘だという証拠がない限り、削除はしないようにしています』

と突っぱねられたのだ。

それでも、毛利が手をまわして、専門の弁護士から裁判をちらつかせたことでようやく削除してくれた。

だが、将が大物政治家の息子であることは、ネット世界ではあっという間に広まり、誰の息子かということでもちきりになった。

もちろん『大物』『その年齢に近い息子がいる』という条件だけで、鷹枝康三の名前は最有力とされた。それを知った康三は頭を抱えた。

将が自分の息子であることが世間にバレるのは、もう少し時間が経って、将の過去の『やんちゃ』が薄れてからのほうが……できれば、来年の総裁選のあとになるのが望ましかったからだ。

 
 

康三や裏方の苦労をよそに、将はエアコンをきかせた車の中でメイクを塗りなおしてもらいながら、今ごろ巌はどうしているかを考えていた。

あれから、仕事漬けになっているうちに、あっという間に1週間が経ってしまった。

暇を見つけて帰るといったけれど、暇などないも同然だった。

せいぜい、電話をするぐらいだが、そのたびにあゆみが出て

「巌さんは、お休みになっておられます」

と答えるばかりだった。

何でも、大磯に戻ってきた安心感なのか、それともやはり疲れがたまったのか、巌は1日の大半を眠ってすごしているというのだ。

「容態が悪いというわけではありませんのでご安心ください。脈拍も安定していますし……」

あゆみはそういったものの、将は心配だった。

だから休んでいた間にたまった仕事が一段落したその翌々日、夜11時に仕事が終わったのにもかかわらず、ミニを飛ばして将は大磯を訪れた。

次の日の仕事は正午からだから、朝までは巌の顔を見ることができる。

大磯に着いたのは、夜12時をすぎていたが、あゆみは起きて将の到着を待っていてくれた。

土と木が多い巌の邸宅付近は、東京のように夜も汗ばむような暑さがまとわりつくこともない。

将は襖を開けてそっと巌の部屋をのぞいたが、暗くて目の前の蚊帳ばかりが反射して巌の寝台はほとんど見えなかった。

ただ、耳をすますと、虫の声の中に幽かに寝息が聞こえた。

「将さん、お疲れでしょう。お風呂用意しましたから、お休みなさいませ……」

あゆみが囁くように背後で呼びかけた。

「ヒージーは、朝は何時に起きるの?」

「まちまちですけれど最近は……8時とか9時でしょうか。前のようにお早くお起きになることはないです」

以前、夏場なら朝5時には起きていた巌としては信じがたいことだ。

「それでも、土曜日の将さんのドラマは、お起きになってご覧になられていましたよ。よくお笑いになっていました」

あゆみは、だから大丈夫だ、と将にもう休むようにと促した。

 
 

翌日、疲れているのに将は7時前に起きてしまった。

寝巻きのまま、巌の寝室をのぞいたのだが、障子からの柔らかな朝の光りの中、巌はまだ眠っていた。

「あら将様、おはようございます」

朝食の支度を始めようとしたハルさんが、襖をのぞきこむ将に気付いて挨拶した。

「ヒージー、いつも遅いの?」

「ええ。最近のお目覚めは9時すぎですよ」

やはり、あゆみの言うとおりらしい。

「ハルさん。ヒージーのおかゆ、かまどで作っていい?……俺、火炊くから」

「将さま」

「な?……俺、着替えてくる」

小柄なハルさんは、真上を向くようにして将を見上げた。

巌がかまどで炊いたご飯を何より愛していることを知っている将は、自分がいるときぐらいそれをしてやりたいと思ったのだ。

将は着替えると、使わないまま積んである薪を鉈で細めに割った。

そして炊き口にしゃがみこみ、新聞紙にマッチで火をつけた。

夏の湿気を吸い込んだ薪は、なかなか乾かず、煙ばかりがもくもくと立ち込めたが、将は咽ながらも辛抱強く火を起こし続けた。

『最初は、木の皮の部分から燃やすんじゃ』

やっと赤い色で踊り始めた火のなかに子供の頃にならった巌の声が蘇る。

パリと東京、といった都会育ちの将に、火の起こし方を教えたのは巌だった。

火が燃えるのが面白くて次々と太い薪をくべようとする8歳の将をたしなめるように、巌はそう言った。

事実、将がくべた太い薪は、燃えずに火勢を弱めるばかりだった。

『空気が入るように、薪を組むんじゃ。湿気た薪は少し外側に置いて辛抱強く乾かして……そうじゃ』

18になった将は巧く火を起こすことができる。鉈だって思ったところに振り下ろせる。それを教えてくれた巌は……もうすぐ逝ってしまうだろう。おそらく。

煙にむせて涙が出るフリをしながら、将はいつしか思い出に涙を流していた。

 
 

おかゆがようやく出来上がった。

「お起きになられましたよ」

土間の方の台所にいる将に、起きてきたあゆみが声をかけた。

将は、ハルさんが用意してくれた細かく刻んだぬか漬けや、みそ汁と共におかゆをお盆に載せて巌の部屋に入った。

「将か。……今朝は薪の匂いで目覚めた。おかげでいい目覚めだった」

巌は可動式ベッドに寄りかかったまま、将に微笑みかけた。

先週より、その姿はいちだんと小さく、声は弱弱しくなった気がした。

「寝坊になったな、ヒージー」

将は、そんな風に生命力が弱った巌を認めたくないから、いつも通りにふるまう。

将の後ろから入ってきたハルさんと西嶋は素早く、かつそっと将が座る食卓を準備している。

「年をとると……日いちにちと、赤ん坊に戻っていくようだ。眠っても眠っても、飽きない……。眠ると楽しい夢ばかりを見る」

「森村先生の夢?」

将は元気付けたくて、わざと茶化すように口にした。

「お前の夢も見るぞ。小さくて可愛かった頃のな」

巌はいつものように悪戯気な顔で笑って見せた。

「どうせ今はバカでかくて、憎たらしいけどな」

将が応酬してみせる向こう側であゆみが、将の炊いた粥をふうふうと冷まして「少し熱いですよ」と巌の口に近づけた。

粥を口に入れた巌は、その熱さが嬉しいとばかりに、はふはふと顔をほころばせた。

「……うまい。同じ粥でも、やはりかまどで炊いたものは違う。甘くてふっくらしておる」

巌は嬉しげに顔をくずした。

「将よ、ありがとう。本当にありがとう。今生のよい想い出じゃ……」

美味しい、美味しいと繰り返しながら粥を味わいつつも、巌の食欲は、将が知っているそれより目に見えて細くなっていた。

そして、食べ終わると再び眠り込んでしまった。将はまだ、食事の途中だった。

「これでも今日はずいぶんお食べになったほうですよ。ねえ」

あゆみはハルさんを見た。ハルさんも、うなづいた。

「今日は、おかゆをぜんぶ召し上がりましたもの。最近は1口、2口は残されますから……」

将は、満腹したのか気持ちよさそうに眠っている巌を見つめた。

本人がいったとおり、赤ん坊を思わせる無心な表情だった。

皺だらけの老人でありながら、わずかに残るまっ白な髪をはじめ、眉毛や睫も白くなったその顔は、どことなく無垢な趣があった。

巌はそのまま、将が東京へ発つときも起きなかった。

将は、まっ白なシーツと掛け布団にくるまれて赤ん坊のようにすやすやと眠る巌に

「じゃ、ヒージー、また来るよ」

と語りかけて、大磯を後にした。

それが……将が生きた巌を見た最後だった。

翌日の未明、巌は100年の生涯を静かに終えたのだった。

第268話 オファー

翌月曜日、将の右手首の傷の快癒は順調で、無事抜糸することができた。

顔のテープも取れ、その下の傷はおおむねきれいに回復していた。

足首の捻挫は、少々痛みが残り力が入りにくい感じがしたものの、ひきずるほどでもない。

これは今後は1ヶ月程度、温熱療法でじっくり治すしかないらしいが、

「スポーツ選手の役でもない限り、無理しなければ大丈夫ですよ」

と医師から太鼓判を押される。

ただ、捻挫したほうの足先と瞼が依然真っ黒なのが気になる。

「足、腐ってんですか?」

将は冗談風に医師に訊いたが、実際そんな風に見える。

「ハハハ……。内出血が固まってこんな色になるんですよ。1ヶ月もすれば自然に取れますよ」

そういわれても、本当だろうか、と将は痛んだバナナの皮のような色をした、腫れぼったい足先を見つめた。

瞼も黒く染まったほうは、少々むくんだ感じだ。

「化粧で隠しても問題ないですよね」

付き添った武藤が訊いた。

「はい。外傷は回復してますから。かぶれない程度に」

武藤はホッと胸を撫で下ろした。

「……ああ、それと。鷹枝くん、君、左膝下に金具が入ってるだろ。あれ、そろそろ取った方がいいよ」

医師に指摘されて、将はスキーで折った左足のことを今、思い出した。

抜釘もやはり手術が必要で、数日の入院が必要とのことだった。

 
 

「よかった。ケガの回復が順調で。明日からのスケジュールをキャンセルしないで済んだわ」

武藤は車を運転しながら、ほっとしていた。

「明日から入れてるの?」

「当然でしょ。もうこれ以上は延ばせないって言われてたの。

脚本変更できなかった分の6回分の撮残しが残ってるし……。もうオンエアまで2週間切っちゃってるから、大変よ」

「抜釘は?」

「当分無理ね……。『ばくせん』の収録が終わったら、オフを入れましょう。

それより、明日からの現場、みんなにちゃんと頭を下げるのよ。ご迷惑かけましたって」

武藤は彼女にしては珍しい早口で説明した。

「それと」

ハンドルを切りながら武藤は続ける。

今日は、事務所で今後の打ち合わせと、化粧のリハーサルをやることになっているのだ。

瞼の痣は、できるだけドラマ以外のところでも隠したい。

それがうまくできるかどうかの実験をヘアメイクさんと共にやるのだ。

「進学の件だけど……。社長と話しあってみたんだけど……、一芸入試があるW大学を目指したらどうかしら」

進学したいと言ってみた将だが、その後いろいろなことがありすぎて、何も考えていなかった将だ。

どうかしら、と言われてもピンと来なかった。

たしかにW大なら名前もあるが……。

「できればね。秋まで連ドラのオファーを受けたいのよ。……結構いい役が来てるから。将『北の大地から』って知ってる?」

武藤は将にさる有名な脚本家によるドラマの名前を出した。

見たことはないけれど、知っている。

「はい。シローおじさんが出てくるやつでしょ」

その強烈なキャラクターはよく芸人にマネをされているので、オリジナルを見たことないのにわかる。

「そうそう。あれを手がけた脚本家の元倉さんって方が、1月期に北海道を舞台に新作をつくるんだけど。

準主役としてオファーが来てるの。……なんでも『ウルウル』が気に入ったらしいわ」

「ふーん。北海道かあ……」

修学旅行。聡と二人きりで夜を過ごしたニセコの避難所。将の脳裏にまっ白な吹雪の中の抱擁が蘇る。

「北海道か……でも、遠いよね」

そのドラマに出るとしたら、聡と離れる日が増えるだろう。

今も、逢えない日ばかりだけれど、同じ東京にいるというのは大きい。

北海道と東京の距離に隔てられるのは……耐えがたい気がした。

「そうなのよ。でも元倉さんに見出された俳優は、必ず実力派で長く売れるわ。

ほら、共演してる焼津さん。彼も元倉さんに掘り出された一人よ」

「ふーん……」

将の思考はあいかわらず、雪の中で聡と抱擁していた。

実力派……とても魅力的な響きではある。しかも、大野が尊敬しているという、教頭役の焼津を見つけ出した脚本家からの指名……。

そのドラマに出れば、年をとって、若いアイドルにバカにされる可能性が少しは減るのだろうか……。

そして、聡と結ばれる日は早まるのだろうか。

そのとき、将は、巌に『いつか国のために……』と言われていたことをすっかり忘れていた。

「もちろん、オーディションはあるけれど。……でも将、大学もいいけど、これはすごいチャンスよ」

武藤が、将の思考を後押しした。

結局将は、そのドラマのオーディションを受けることを承諾した。

 
 

8月を迎えた街は、突き刺さるようなガラス窓からの反射、暴力的なアスファルトからの照り返し、そして重苦しいエアコンの放射熱で増幅される暑さに、人々はうんざりしていた。

エアコンがきいた官房長官・鷹枝康三のオフィスでは、秘書の毛利とその部下が忙しく働いていた。

クール・ビズとはいっても、パソコン類が多いオフィスで、エアコンはフル稼働している。

そのとき、秘書の一人が、

「毛利さん、ちょっと……」

と立ち上がった。ネットをチェックしていた若手の男性である。きちんとスーツを着ている。

「ん?なんだ?」

原稿をチェックしていた毛利は、面倒くさそうにそっちへと歩いていった。

「これ……息子さんですよね」

若手男性秘書は、椅子から立ち上がったまま、屈んで画面を指差した。

そこには

『イケメン俳優SHO(18)ゲイ疑惑?謎の夜遊び』

という見出しの記事が、携帯で撮影したらしき画像と共に掲載されていた。

画像は、いずれも、はっきりと将と確認できるものばかりだった。

その画像のすべては、あの台風の日にクラブで撮影されたものだった。

毛利は、眉をゆがめて、上下の唇を口の中に噛みこむようにして、文面を読んだ。

内容もかなりマズかった。

ゲイ疑惑というのは、クラブで友人の島大悟と思われる男性を無理やり引っ張っていく写真から憶測されたのだろうが、いつか週刊誌に掲載された中学時代の乱行のことなどがこと細かに解説されていた。

しかし、中でも一番まずいのは、SHOがさる大物政治家の息子である、と明言してあるところだ。

毛利は、顔をしかめると、

「まずいな」

と声に出して言った。そして

「このサイトの管理者に即刻削除するように申請してください。ごねたら、名誉毀損で訴えることも辞さないと言っていいです。

それから将くんの事務所に連絡。……私は、いちおう先生(康三)に報告しておきます」

若手秘書にキビキビと指示を出しながら自分の席に戻ると、どっかと座り、康三へメールを打った。

第267話 叶わぬ恋(7)※改題

史絵は、巌が来る10日前に亡くなったという。

森村の家の人は、はるばる東京から訪ねてきた史絵の教え子である巌に大変に親切にしてくれた。

……はずだが、巌はほとんど何も覚えていない。森村家には勧められて1泊した。

史絵が、巌からの手紙を一通も無くさずに大事にとっておいてくれたことと、翌朝、墓参りへの道すがら、つゆ草が涙のような色の露をいっぱいにためていたことだけが印象に残っている。

「ワシは、位牌に線香をあげながら、騙されているような気さえしていた。先生の死があまりにも唐突すぎて信じられなかったんじゃ……」

当時の巌に自分を重ねた将は、思わず聡の横顔を見た。

生きてそこにいる聡をたしかめて、ホッとする。

聡も、当時の巌の気持ちを、その鋭敏な感受性をいっぱいにして想像しているのか、横から見たその目に涙がたまっているのがわかった。

「でも、ヒージー。先生の気持ちは結局、確かめられなかったんだろ……」

それが一番哀しいと将は思った。

「直接はな。もしかしたらワシの一人相撲だったのかもしれん。だが、その後な……」

 

夏の終わりに、一人の男性が祖父の家に巌を訪ねてきた。

麻のスーツを着た30歳ほどの男は、史絵の兄・慶介だと名乗った。史絵が巌の先生だった頃、帝大に行っていたというあの兄だ。

帝大に留まり、講師をしながら英文学の研究を行っているという慶介は、

「君が鷹枝巌くんか……」

と、初めて会うのに懐かしそうな顔で巌を見つめた。

慶介は、巌を近くのミルクホールに連れ出した。今でいうカフェである。

「妹は、結婚に失敗し、もう懲りたから、一人で生きていくのだ、とよく言っておりました」

コーヒーをすする慶介は、わずかに垂れた前髪の下の広い額あたりが、史絵によく似ていた。

史絵とは、互いに学問好きなこともあって、仲のいい兄妹だったという。

『僕にも、同じことをおっしゃっていました』

そういおうとした巌だが、慶介は巌をもう一度懐かしそうに見つめると、話を続けた。

「7月のはじめでしょうか。妹が危ないということで僕は、夏休みを繰り上げにして一度実家に帰ったのです……」

慶介が帰ったとき、史絵は思ったより元気だった。

梅雨のさなかだったが、慶介の帰りを歓迎するように晴れた。

青空に、むせるほどの草の香りが、濡れた地面から立ち上っていた。

気温もあがって暑かったので、慶介は氷をかいて黒蜜をかけたものを史絵につくってやった。

それを匙でそっとすくいながら、史絵は嬉しそうに打ち明けたという。

『お兄様、私ね、教え子から求婚されてるのよ』

『奇特な子がいるもんだなあ。出戻りのお前を貰いたいなんて』

慶介は、軽口を叩いた。これくらいのことは、言い合える仲のよさだった。

『ねえ。そうでしょう』

史絵もくすっと笑った。そして軒の下に横たわる青い空を見上げた。

『でもねえ……。嬉しかったなぁ……。感激して溶けるかと思ったくらい』

空に語りかけるようにして、夢見るような妹の顔。

こけた頬に浮き出た鎖骨は、いよいよ死期が迫っていることを物語っていたが、その瞳だけは天上にいるかのようだったという。

それを聞いた巌は、ついに涙をこぼした。

大の男が人前で、という理性はとっくに失われている。

森村家では辛くもこらえた巌だったが、もう限界だった。

史絵が自分の気持ちを喜んでいた……受け入れられていた、という喜び。

なのにその人は……自分のたった一人の女性は、この世にいないという悲しみ。

それは交互に激しく巌に押し寄せて、混じりあい……いつか悲しみ一色になった。

狂おしいほどの悲しみは、いつも涙となって巌を襲う。一度ほとばしり出ると止めどがなかった。

「結婚して、子に恵まれても……。80年以上経った今も……、その悲しみは、ときおり不意打ちのように……来るんじゃ」

巌は最後にぽつりと言った。

 
 

将と聡を乗せたシトロエンは高速道路を走っていた。西嶋さんが運転して送ってくれているのだ。

「ポトフ、すごく美味しかったね。……あゆみさんの店、こんど美智子にも教えてあげよう」

将の隣で、聡がつぶやく。バックミラーは聡を映し出している。

夜9時すぎ高速道路は、車もそう多くないが、将は用心のために、眼帯の上に薄いサングラスをかけている。

密室なら肩に手をまわしてもっと近くに抱き寄せたい。

とは、思うけれど。西嶋さんの手前、あまりくっつくことも躊躇われる。

二人はぽつりぽつりと言葉を交わしながら、ただ隣り合っていた。

 
 

巌の悲しい恋の話が終わって、まもなく夕食の準備が整った。

あゆみが「うちの店の自慢」というだけあって、それは大変美味しいポトフだった。

悲恋話に少ししんみりした将も聡も、その滋味深い味とあゆみの明るい話術にかなり救われたところがある。

他にもリエットやらハムやらサラダ、デザートなど、ビストロ自慢の味を堪能しての帰り際。

「将、そしてあきらさん。森村先生の墓が見えるところに、わしの骨のカケラを埋めてくれる約束……頼んだぞ」

巌は、将に念を押した。

もうすっかり暗くなっていて、巌のまわりは蚊帳がつるされていた。

行燈の光に照らされた巌の顔は彫が深く見えた。しゃべりすぎて少し疲れたのかもしれない。

「そんなのまだ先だろー」

と将は『もう』とばかりに、怒って見せた。が、もしかして寂しいのかも、と思い直し

「……仕事の都合つけて、すぐまた来るから。リハビリ頑張れよ」

と、付け加えた。

「あきらさん。将をお願いしますよ」

「はい……」

たった、それだけなのに……さっきまで、聡は西嶋さんが運転するシトロエンの中で涙をぬぐっていた。

「アキラ、泣くなよ。ヒージーはまだ大丈夫だから」

「うん……」

なのに、聡はしばらく涙を流し続けていた。

死を予感した巌のことを悲しんでいるのだろうか。

それとも巌の悲恋の話に、何か自分の恋との共通項を感じてしまったのだろうか……。

……叶わなかった悲恋との共通項?とんでもない、とばかりに将は、聡の膝に置いた左手に手を伸ばすと、それをぎゅっと握り締めた。

自分たちの恋は、いずれ成就するのだ。今は……世間的に離れているけれど。

将はそれを体温で伝えようとしたのだ。

聡の左手は温かい将の手に包まれた。

と、そのとき、西嶋運転手が「将さま」と声をかけた。

将は少しビクッとして、

「何?」

と答える。

「弟がお世話させていただいております、島大悟くんのことですが……」

将はハッとした。

覚醒剤依存症で、矯正病院に入れられた大悟。西嶋の弟の隆弘が、そんな大悟の保護者を続行してくれるのか。……恐れつつも知りたかったことだ。

「弟夫妻は、矯正病院に会いに行ったそうです。ですが、まだ面会が出来ない状態だそうで……」

会いにいったということは、保護者を続行してくれるのか。

「心配だと思いますけれど、弟夫妻は、島君の更生を信じているし、それを支援する、と申しておりました。

……いちおうそれはお伝えしておかねばと思いまして」

「本当?西嶋さんの弟さん、大悟の保護者を続けてくれるの?」

将は思わず、前のシートにしがみつくようにした。

「もちろんです。無事更生できたら、養子にしたい気持ちは変わらない、ということでした」

「よかった……。本当に良かった」

将は前のシートに頭をくっつけるようにして、安堵した。

やっと涙が止まった聡も、そんな将を嬉しげに見つめた。

 

車はあいかわらず夜の高速道路を進んでいる。

将は顔をあげて、聡の顔を見つめた。

暗い車内だからか、少し青白く見えた。

ふいに……巌の話が将の脳裏に蘇り、それは不吉なことを想像させた。

もしも、聡が、先に逝ってしまったら。

「アキラ」

ふいに、将は傍らの聡を呼んだ。それはさっきから語り合っている声より少し大きめだった。

将を振り返った聡は、将のあまりに真剣な顔に驚く。

「ねえ、アキラ。貧血って、本当になんでもないよね」

「え、なんで?どうしたの?」

聡は目をまん丸く見開いた。

「心配なんだよ。検査とかしたの?」

「大丈夫だってば。ただの夏ばてなんだから」

「だから、検査はしたのかって聞いてるの」

将は鋭い瞳と強い口調で、聡を責めるように訊いた。

「したよ」

「本当に?」

執拗に訊き返す将に、聡は可笑しそうに

「本当だってば。……血もとったでしょ、頭のCTスキャンもとったし……どこも悪くなかったよ」

と笑いながら話した。

「俺さ……ヒージーみたいなことになったら……、後を追うからな」

将はやや俯くと、少し苦しげに呟いた。

「そんなことになんか、絶対ならないわよ。……あたし健康なんだから。ちょっと今年は異常に暑いからバテたけど」

いつもの温かい低音で答えた聡は、そこまで言って、やや口を尖らせた。

「……将こそ、そんなに傷だらけになって……あたしすごく心配したわよ」

「ごめん」

思わず将は、体を起こして傍らの聡に目を走らせた。

「最初、腫れ上がった顔を見たときは、心臓が止まるかと思った……」

聡はそういうと、ゆっくり将に、頭をもたれた。

聡のほうから頭をもたれかけてくるなんて……将は、久方ぶりの甘い幸せを噛み締めた。

もしこの車が、星もない宇宙の果てに二人を連れて行くにしても、こんな風に寄り添えるならきっと幸せだろう。

将はこっそりと手を聡のほうに伸ばして、聡の手をとった。聡も握り返す。

少しだけ聡の方に近寄ってみる。西嶋さんはわかっているのか、黙ってハンドルを握っている。

聡も少しだけ将のほうに首を傾けてきた。近づいたのはほんの数センチなのに、甘い聡の香りが鼻をくすぐる。将は深呼吸するようにそれを吸い込んだ。

大きく吸い込みすぎて、ひびがはいった肋骨がちょっと痛んだほどだ。

バックミラーには、これ以上ないほど幸せそうな恋人同士が映っていた。

しかし、二人が今から帰るのは、教師と生徒を演じなくてはならない東京の街だ。

車が願わくばいつまでも着かないように……将と聡は、それぞれ祈っていた。

第266話 叶わぬ恋(6)

巌は、そこまでも自分の将来を大切に思ってくれている史絵に深い感動を覚えた。

清らかな水の流れの源に、深い蒼を沈ませた淵をのぞきこんだかのような……巌は自分を思う史絵の心を覗いた気がした。

まもなく、庭先から史絵が戻ってきて、いつも通りに勉強が始まったのだが、巌の鼓動はずっと収まらなかった。

史絵の、寝室も兼ねたこぢんまりとした6畳間にちゃぶ台を出して、そこで二人は頭をつきあわせていたのだが、

巌はいつもの、この近さにめまいがしそうだった。

だがそこから動けない。それどころか、もっと近くに寄ろうとさえ試みてさえいた。

あまりに巌が近すぎると思ったのだろうか。史絵は唐突に

「お茶にしましょうか」

と提案した。懐中時計を取り出すと、なるほどもう3時だった。

史絵は、巌のそばを立つと、火鉢にくべた炭を七輪に移して湯を沸かした。

その間に芋ようかんを切って持って来た。

史絵はようかんの皿をちゃぶ台に置きながら言った。

「鷹枝君。……もう、ここには来ない方がいいわ」

「どうしてですか」

思いがけない言葉に巌は目を見開いた。

史絵は答えずに目を伏せた。いつもの史絵らしくない態度だ。

自分でもそう気がついたのか、史絵はすぐに、姿勢を正して

「いろいろとよくない噂をする人がいるの」

とハッキリと言った。

「噂なんて、関係ありません」

巌は即座に反論した。

先生に勉強を見てもらったから、成績も上がったんです……そう言おうとして、巌は自分でもそれは違うと気がついた。

その目的が、勉強だけではないことは、自分でも意識していた。

史絵が好きだ。自分は史絵に恋している。

そのとき、ヤカンがしゅんしゅん言い出した。

沸騰するヤカンの中の湯と同じように、巌の思いも急速に沸点に達した。

史絵は静かにちゃぶ台から立ち上がると、七輪からヤカンを持ってきて、その中の湯で湯飲みを温めた。

そして、湯飲みの中の湯をきゅうすに移すと茶葉が開くのを待つ。

やかんから立ち上る湯気が、障子の隙間からの光を斜めに浮き上がらせている。

静かな晩秋の部屋にいながら、巌の心の中では史絵への思いが夏の嵐のように吹き荒れていた。

やがて十分に茶が開いた頃合を見て、史絵は温めた湯飲みに茶を注いだ。

茶の乗った茶托を巌の前に置こうとした史絵は、ふいに巌に肩を掴まれた。

茶托はバランスを崩して、ちゃぶ台の上にこぼれた。

巌は、史絵の唇に自らのそれを押し付けていた。

はじめて味わう女の唇は、柔らかくて、思ったより乾いていると思った。

目をあけていたはずなのに、史絵がどんな顔をしていたか覚えていない。

たぶん無我夢中だったのだろう。

こぼれた茶はしばらく顧みられずに、ちゃぶ台から畳へと滴った。

「お茶が……」

史絵は巌の手を振り解くと、布巾を持って来てこぼれた茶を拭いた。

巌はぼうっとして、そんな史絵の、そろそろあかぎれがひどくなってきた指を眺めていた。

「……たわむれにそんなことをしたら、いけないわ」

やっと史絵が口を利いたのは、こぼれた茶が一通りなくなってからだった。

史絵の声を聞いて、巌は我に返る。

「たわむれなんかじゃない」

巌は怒ったように言った。

「僕は、先生が好きです」

史絵はあいかわらず畳を拭いていた。目をしばたいているのが下を向いた睫でわかる。

返事を発することがないまま、史絵は立ち上がった。

奥から乾いた布を持ってくると、しつようなほどに畳の水分を拭き取る。

「先生。僕は本気です。高校に受かったら、結婚してください」

しかし史絵は畳の目にそって乾いた布を動かしながら顔をあげなかった。

やがて、おもむろに顔を上げると

「そういうことは、軽軽しく口にするものじゃありません」

と教師の口調で言い放った。

「軽軽しくじゃない。本気です。ずっと、先生のことを好きだった。嫁に行く前から……!」

巌は、ふたたびにじり寄ると、史絵を抱きしめた。

史絵は巌を振りほどこうとしなかった。

「巌くん……」

「好きだ」

顔を埋めた史絵の首筋からは、ほんのりと甘い白粉の匂いがした。

それをむしゃぶるように嗅ぎながら巌は、好きだ、と喘ぐように言う。

他の言葉が見つからない。英語の”I LOVE YOU” の訳が『愛している』というのはわかる。

だけど、『愛する』というのがどういう感情を現すのか、『好き』『愛』の区別がわからない。

だから巌は、白痴のように「好きだ」を繰り返す。

……どれくらい時間が経ったのか。もしかしたらほんの一瞬だったのかもしれない。

なぜなら、たしなみのある女である史絵が、そんなに長いこと巌に抱きしめられたままになっているはずがないから。

「巌くん。私は……あなたより十も年上よ。……出戻りだし」

巌の気持ちが本気だとわかったのか、史絵は自分の体を抱きしめる巌を引き剥がしながらこんなことを言った。

ゆっくりと落ち着いた物言いだった。

巌の手は依然、史絵の上腕をがしっと掴んでいる。

「年なんか関係ない。この世で先生はたった一人っきりだ。僕には……この世で女は先生だけしかいません」

巌はそういうと、もう一度史絵の体を自分の方に引き寄せた。

そしてその狭い背中に

「先生は、俺のことが好き?……愛してる?」

巌は自分には使わなかったくせに、史絵への問いかけには『愛』という言葉を無意識に使った。

巌の胸に押し付けられた史絵は……今度は本当にしばらく身動きしなかった。

巌は、史絵に心臓の音を聞かれているように思った。

小春日和の陽が差す静かな離れが、自分の鼓動で揺れはじめるのを巌は感じた。

「先生。僕が……好きなんでしょう?」

巌は耐えられなくなって、もう一度問いかけた。史絵は巌の胸から顔を起こした。

そして、まっすぐに巌の顔を見上げながら言った。

「答えが知りたかったら、まず、一高に受かりなさい。そして帝大を、きっと卒業なさい」

巌は史絵の瞳を見ながら、少し狼狽した。

「そりゃ、受かるし、卒業もします……。先生、そのときいくつになる」

あと7年も先の話になってしまう。17歳の若者には永遠とほぼ同義の遠さだ。

「あら。年なんか関係ないと言ったのは、巌君じゃない」

史絵はにっこりと微笑んだ。

「ね。私、巌君が帝大を卒業するのを待っているわ」

 
 

『卒業するのを待っている』。その言葉を巌は、肯定的な言葉として受け取った。

そして、今年こそ一高に受かるべく、猛勉強を始めた。

史絵の部屋へは……無理やり接吻をしてしまったのが恥かしくて、しばらく行けなかったが、代わりに頻繁に……毎日のように文を出した。

ようやく、史絵のもとに顔を出せたのは、年始の挨拶の折だった。

史絵は「ずっと風邪が治らなくて」と小さく咳を繰り返していたが、熱で潤んだ瞳で巌の顔を懐かしそうに見つめた。

せっかくだから、と史絵は巌を近所の神社へ、お参りに連れ出した。

賽銭を投げると、二人拝殿で手を合わせる。

顔をあげた巌の横で史絵はまだ目をつむって神妙に手をあわせていた。

「先生、何祈ったの」

ようやく顔をあげた史絵に、巌は訊いた。

「『今年こそは巌君が一高に受かりますように』って」

「それって、僕が好きだってことですよね」

「またその話」

史絵はつんと横を向くと怒ったふりをした。

そんなようすは、十も年上の女とは思えない。

「今年こそは頑張りなさいよ」

だが史絵は、袂が翻るほど勢いよく振り返ると、強い口調で巌を戒めた。

口調が強すぎたのだろうか、やにわに咳こんだ。

「大丈夫?早く帰って寝ないと」

「大丈夫よ。もう治りがけなんだから。……ところでここの神社のおみくじはとても当たるって評判なのよ。ぜひ引きましょう」

史絵は明るく誘った。

史絵は巌の合格を祈りながら、巌は史絵と結ばれることを願いながら、おみくじを引いた。

「うわっ!」

おみくじを見た巌の顔が歪んだ。

「私は大吉だったわ……どうしたの?」

史絵は、固まってしまった巌と、そのおみくじを覗き込んだ。

……そこには凶、とあった。

「悪いおみくじは、杉の木に結べば『過ぎる』っていうんだから、杉を探しましょう」

史絵は巌を元気付けるように肩を叩いた。

「凶なんて、逆に少ないんだから、巌君、ツイてるわよ。きっと」

そう付け加えながらも、史絵は激しく咳き込んだ。

巌はそれで我に返った。おみくじを丸めて袂に突っ込むと

「もう、家に帰って寝てください」

と咳き込む史絵の背中をさすった。史絵は弱弱しく微笑んでうなづいた。

この帰り道が……今生の別れであることに巌はまだ気付いていなかった。

 
 

「そのときすでに……、いや、ずいぶん前から、先生の体は、労咳におかされていたのじゃ」

「労咳って結核のことだよな」

将でも、それぐらいの単語はわかる。

「そう。……戦後、特効薬が出来るまでは、不治の病じゃった。栄養が足りない時代、この病気に取り付かれると、ほぼ死ぬことが決まったも同然だった」

「ヒージー、先生が労咳だったことを知ってたの?」

「いや……」

巌は、瞼を閉じた。

夕方にさしかかり、蝉の声は一段と高くなったようだ。

カナカナカナカナ……という声も聞こえる。

「わしは、知らなかったんじゃ」

巌の声は、一生分の痛恨を吐露するがごとく、将と聡の心に響いた。

 
 

巌には二度目の挑戦である一高の入試が終わった。

出来栄えに確かな手ごたえを感じたとおり、巌は見事に合格した。

祖父母や父に報告するよりも前に、巌は史絵の部屋に向かって走り出していた。

実は、正月以来、史絵に会っていない。

史絵に会うと嬉しい反面、いつかの接吻を思い出して、ときめく鼓動を抑えられなくなる。

自分の中で蠢く狂おしいほどの激しい恋情に自分が制御できなくなる。

受験に臨んで、巌はそれを律するべく、自ら史絵に会うのを控えたのだ。

試験が終わってすぐに来てもよかったのだが、万一の不合格ということもある。

巌はひたすら合格発表を待ったのだ。

「先生ー!」

巌は、いつものように縁側の障子を勢いよく開けた。

火の気のない部屋は、曇り空の下、冷え冷えとしていた。

そして史絵の姿もなかった。

「先生?」

留守だろうか。それにしては、部屋がどことなくガランとしている。

巌は、壁に立てかけられたいつものちゃぶ台を畳の上に下ろすとどっかと座り込んだ。

合格を告げた時の史絵の顔を想像して、しばし、ひとりニヤつく巌だったが、さすがに寒くなってきた。

まだ3月、火鉢もない部屋は寒すぎるのだ。

巌は奥に入って火鉢を探そうとして……気付く。

道具があらかたなくなっている。

巌は部屋を見回した。

史絵のものは、すべてなくなっていた。

不吉な予感にかられた巌は半狂乱のように押入れや箪笥の引き出しなどを開けてまわった。

そして……文机の中に、手紙を見つけた。

『鷹枝君へ』と宛名が書いてある。

 
 

合格おめでとう。まだ私は君の合格を知りません。

だけど、きっと合格するでしょうから、先にお祝いの言葉を述べておきます。

急なことですが、私は、郷里の○○村に帰ることになりました。

お別れも言えずに、申し訳ないと思いますが、先生はいつまでも巌君を見守っています。

君の今後の栄光と幸せを祈っています。

体に気をつけて、今後も勉学に励んで下さい。

                森村史絵

 

最後の日付には、おとついの日付が書いてあった。

急に帰郷するなんて、また嫁にでも行くんだろうか。

「先生ッ」

巌は、文を懐に押し込むと、縁側を駆け下りるようにして降りた。

そして、隣の、家主の家の戸を激しく叩く。

「もし……!すいません!……すいません!」

やっと開いた引き戸の向こうで、頬が垂れた家主夫人が巌を見上げた。

「あの……先生は?どうして、急に実家に帰られたんですか」

巌は挨拶もそこそこに、疑問をぶつける。

家主夫人は眉を思い切りゆがめて、吐き出すように答えた。

「肺病よ」

その言葉を言うだけで感染するような物言いだった。

「なんか、ずっと咳が止まらないから、病院で検査してもらうように勧めたの。だって子供たちに教える仕事じゃない。そしたら……肺病だってことがわかって」

巌は、史絵が崖から突き落とされるのを見る心持だった。

「悪いけど、うちもそんな病人を置いておくわけにはいかないし……。

史絵ちゃんも、心得ていて、里のほうが空気がいいからって、すぐに学校を辞めて、荷物をまとめて出て行ったよ」

気がつくと巌は庭先に立ち尽くしていた。

脳裏には、苦しげに咳き込む史絵が、汽車にたった独りで乗り込むところが再現された。

暗い色合いの列車の中で、史絵の顔だけが青白く浮き出ている想像は……死出の旅を想像させた。

巌は不吉な想像を振り払うと、懐から文を取り出して手跡をたどる。

短い文面にあわただしさが出ているようだった。

それでも、最後に自分の里の住所がしたためてあった。

それに希望を託した巌は、ようやく庭先の桃が満開であることに気付く。

 

巌はさっそく合格したことを手紙に書いた。夏休みになったらぜひ遊びにいく、とも。

一高にあがった巌は、その学校でのことなどをまるで日記のように手紙に書いて史絵に送った。

医術に詳しい友人に訊いた、治療法なども書き添えた。

史絵からはときおり返事が戻ってきた。

それは来るたびに短く、手跡もかぼそくなっていて、容態の悪化を暗示するようだった。

巌は、毎日史絵の回復を祈った。

やがて、若葉の季節から、うっとおしい梅雨が過ぎ……力強い太陽の復活とともに待ちかねた夏休みがやってきた。

巌は汽車に乗って史絵の里を目指した。

史絵からの手紙は、梅雨のさなかにやってきたものを最後に途絶えている。

それからもう1ヶ月が経つ。

よほど容態が悪いのだろうか。

巌の心配は、汽車の中で走り出したいほど高まっていた。

――早く史絵に会いたい。顔を見たい。

どんなに美しい景色よりも、今巌が見たいのは……会わずにはいられないのは史絵の顔だった。

史絵の里は、金沢から馬車で2時間ほど行った、ずいぶん田舎にあった。

巌は住所が書かれた手紙を懐に持っていたが、そんなものはなくても、苗字だけで御者は

「ああ、森村様の」

と勝手に馬車を走らせた。

元領主である史絵の実家は、農家より一段高いところに蔵を備えた立派な邸宅を構えていて、誰が見てもすぐにわかったのだ。

蝉の声と、夏の日差しがいっせいに降り注ぐような中、巌はそれを見上げた。

しかし……東京から一昼夜かけて、ようやくたどりついた巌を待っていたのは、史絵の位牌だった。

第265話 叶わぬ恋(5)

「チュー、しなかったじゃーん」

将はまるでチューするときのように口を尖らせた。

台所のほうから、いい匂いが流れてきた。きっとあゆみのビストロ自慢のポトフに火が入ったのだろう。

「これからがあるんじゃ。わしは中学に進学したんだが……」

 
 

当時、義務教育は尋常小学校までで、その上には地域や学費、男女別などの違いで高等小学校(2年)、中学校(5年)、女学校(5年)などがあった。

その中でも中学校に進むのはある程度お金に困らず、勉強も出来る比較的エリートな存在といえよう。

国会議員の息子で成績優秀な巌が中学校に進むのは当然だった。

巌は、祖父母の助言に従って家を離れ、いずれ受験する一高に近い祖父母宅に居候することになった。

さらに小学校での成績を教師らから認められて、級長の上の、学年の総長に選ばれた。

だが、史絵と別れた巌は、気力も何もかも抜けてしまったようだった。

勉強もせず、読書も悪友から借りた春本などの悪書を読みふけるばかりで、たびたび学校をさぼり、ぐうたらな毎日を送った。

そんな巌だから、ただでさえ生え抜きの生徒たちの中で、成績は急降下していき、2年生にあがるころには、中ぐらいから中の下までをうろうろするくらいになってしまった。

たまに顔をあわせた継母などは聞こえよがしに

「十で神童、十五で才子、二十歳をすぎればただの人、というけれど、ただの人になるのが早すぎるんじゃないかえ」

とさも楽しそうに嫌味を言ったが、巌は我関せず、と無視した。

その継母の生んだ子供たちは、学習院に小学校から入ったのだが、その成績は今の巌とどっこいどっこいだと祖父宅にいる書生から聞いていたからだった。

悪友とつるんで自堕落な暮らしに耽る巌を、祖父母、及び父はおおむね静観しているようだった。

巌が心の拠り所にしていたのは史絵からの便りだった。

懐かしい手跡が書かれたそれを、巌はそれこそ宝物のように扱かった。

それだけを秘蔵の文箱に入れ、日に三度、必ず目にするようにしていた。

しかし、それも2年、3年と時が経つにつれて心惹かれなくなっていった。

ときおり思い出して取り出すこともあったが、それが何になろう、と巌はため息をついた。

どんなに思っても、所詮、他人の人妻なのだ……。

手に入れられないものに対して興味をなくしていく現金な自分に対し、

大人になったのだ、と嬉しくも、また、こうやって次第に薄汚くなっていくのだろうか、寂しさをも覚えた。

 
 

中学も4年の終わり。巌は一高(のちの東大)を受験し、当然のことながら落ちた(当時は中学4年で高等学校を受験できた)。

合格発表を見に行った巌は、それほどショックを受けなかった。

ろくに勉強もせずに、遊んでいたのだから当然の報いだ、と思った。中学四年で受験できただけでもめっけものだったのだから。

しかし、しばらくの間、巌は合格者だけが張り出された紙をしばらく眺めていた。

「鷹枝君、君も不合格か。悲しいのう」

悪友のうち一人、平岡が背伸びをするようにして、巌の肩にがしっと腕をからみつけてきた。

「なあに、来年もあるさ。今年は腕試し、腕試し」

我ながらカラ元気な声だと思った。

「さりとて、気晴らしをせねば、耐えられないのう。俺はセンシティブだから」

「行くか?」

「行こうぞ」

巌は、同じように一高に落ちた平岡と門田、犬飼と昼間から酒を飲みに行くことにした。

悪友は皆、

「我は○○小ではいつも1番だった」

と威張りながら、遊びすぎが祟って今は……、という巌と似たクチである。皆だらしなく髪を伸ばしているところでも似ていた。

「ヤケ酒は身にしみるなあ」

門田が言った。彼はすでに顔が赤い。

3人がいるのは、縄のれんの居酒屋である。

まだ暗くなるのには間があるのに、3人で銚子がすでに5本開いた。

カラのとっくりをくるくる回して、とっくりの先が差した人間が一杯飲み干すという遊びをしていたものだから、酒はどんどんあいていく。

「ヤケ酒というほど勉強したのか」

巌は笑いながら、とっくりが指してもいないのに、酒をついで口に運んだ。

この中学の4年間で巌が身につけた、他の追随を許さない才能といえば、酒の強さだろうか。

さすがは薩摩隼人の血筋などと、変な褒められ方をした。

「やれ巌君は現実的だのう……」

平岡が、箸で皿をチンと叩きながら、好色な目でへらりと笑った。

「で、このあと……行くか?」

「それはいい。グッドアイデアだ。不合格の不名誉は、女に癒してもらうのが一番だ」

それが好きな門田も犬飼も賛成した。ちなみに行き先は遊郭である。

「巌君は……どうする」

「俺はまだ飲み足りないから、そっちはいいよ」

巌は、あいかわらずおちょこを口に運びながら、そっぽを向いた。

「やっぱり」

3人は同時に声をあげた。

「鷹枝巌君。これを機会に童貞なぞ、捨ててしまった方がいいぞ」

「同感同感。巌君ならモテモテで選りどりみどりだろうに」

巌はおちょこから目をあげた。

その目は鋭くて、3人はギョッとした。

3人が縮み上がるのを見届けたので、巌はとっくりの酒に視線を戻して酒をペロッと舐めた。

もう1つの巌の特技は……喧嘩だった。

泥酔して乱闘になったときも、絶対に負けなかった。

刃物を持ったヤクザと対決して降参させたこともある。

そのとき、ヤクザの持った匕首は巌の眉を掠った。

そのときの傷が、右の眉尻に残っている。

 
 

「今もあるの?その傷」

将は、血は争えないなあ、と思いながら訊いた。

「おう。眉を見てみろ」

将は、長く伸びた巌の白い眉毛をかきわけた。

傷は、あれから80年以上も経つのに、たしかに痕跡を留めていた。

 
 

ケンカと酒命、つまり現代でいえばハードボイルドな奴として悪友から一目置かれていた巌だが、不思議に女遊びだけはしなかった。

年頃の健康な男子として、おおいに誘惑はされたのだが、いつも……心のある一部分が引っ掛かって、遊郭に足が向かわなかった。

引っ掛かった一部分とは……まさに史絵だった。

すべて忘れてしまったような自堕落な日常の中で、そこだけが忘れた頃にときどきうずく。

今度こそ遊郭に足を踏み入れるぞ、と思うたびに、なぜか史絵の泣き顔が浮かんだ。

――あれから4年。

ちらかりきった部屋の中にある、清らかで儚いカットグラスのような心を、巌はもてあましたまま16歳になっていた。

 
 

「梅毒になっちまえ。いっそ鼻がもげりゃいいんだ」

巌は挨拶代わりに毒付きながら、悪友3人と別れると、酒を冷ますべく桜並木にやってきた。

まだ飲み足りない、というのは遊郭を断る口実に過ぎなかった。

最近は、祖父母も巌の乱行を心配しているのが、ありありとわかった。

口やかましく言わず、何も言わないで心配しているのが、巌には一番こたえた。

「サクラチル、か……」

身長5尺8寸(約174センチ。当時の16歳としてはかなり長身)になった巌だから、桜の枝になどすぐに手が届く。

だが、肝心の桜は、まだ蕾も固くこごったようだ。

桜の枝枝に、春の夕陽が細く反射していた。

その枝に浮かんだ桃色の方が、桜の花などより、よほど美しいように思えて、巌は手をかざして夕陽を眺めた。

さすがに日没直前とはいえ、直射日光は巌の目を眩ませた。

巌は眩んだ目で、桜並木に向き直った。眩んでよく見えない目に、向こうから女がやってくるのが見えた。

巌は、よく見えないながらも、その小柄な体型、歩き方をどこかで見たように思った。

視力が回復するに従って、心臓がごとり、と動いた。

――まさか。

巌は、酒のせいで乾いた喉をごくっと動かした。

ごとり、と動いた心臓は、巌の全身を揺らすように、どくん、どくん、と脈打ち始めた。

女は何も気付かずに、伏目がちにこちらへ歩いてくる。

……その女は、まさしく史絵だった。

「……森村……先生?」

巌は声をかけた。

史絵のほうは、最初、自分を呼んだ人間が誰かよくわからなかったらしく、驚いたように身構えた。

無理もない。背は伸び、低い声は完全に男のものだ。そしていがぐりだった頭は、伸び放題のボサボサだ。

自分でも優等生だった小学生の頃の面影はまるでない、と思う。

僕です、鷹枝です、と言おうとしたそのとき、史絵の目が見開いた。

「た、鷹枝君?……そうなのね」

「先生!お久しぶりです」

「大きくなって……」

史絵は懐かしそうに巌を見上げた。

巌も嬉しさのあまり、言葉を失ったまま史絵を見つめた。

史絵は……キラキラ光る瞳や、色白で広い額は変わっていなかった。

いや、あのころよりさらに色白になった気がした。

丸かった頬は肉が削げたようになり、全体に華奢な印象になっていた。

史絵は、いったん嫁にいったのだが、4年近くたっても子が出来なかったために、離縁されて、東京に戻ってきたのだった。

 
 

「ひどい。大正時代になってもそんなことがあったんですか?」

思わず聡が口にした。巌はうなづいた。

「そうじゃ。むしろ、一夫一婦制になってからのほうが、そういうことは増えたはずじゃ。江戸時代は側女を許していたからのう。

だから跡取を生めない妻を離縁して、若い女と再婚することは、跡取が重要とされた家ではよくあったんじゃ。

森村先生は、もう27歳になっていたからのう……」

26歳の聡は自分の年齢に近い当時の女性の不幸に胸が痛んだ。

 
 

巌にとっては幸運なことに、史絵は、巌が身を寄せている祖父母の家の近くに、女一人で間借りしていた。

当時、女の独り暮らしはとても珍しく、なかなか部屋を貸してくれるところはなかったのだが、幸い前田藩時代の父の知り合いが貸間を手配してくれたのだという。

まもなく巌は手土産を持って、そこに足しげく通うようになった。

『勉強を教えてもらう』という名目である。

巌は、目の前にいる史絵を『これぞ運命だ』と熱い瞳で見つめた。

氷漬けになっていた少年の恋情は、史絵の実体を目の前にして、いっきに溶けて燃え上がった。

『結婚はもうこりごり』。そんな風に笑う史絵はどんな苦労をしてきたのだろうか。

お茶を入れる細い指は、関節ごとにひび割れて、痛々しい肉を見せた断面が指の動きで開いたり閉じたりした。

よく見ると、首も筋が浮き出るほど細くなっていた。

全体に脂肪がとれ、造作が浮かび上がったような顔は、その目と睫をいっそうくっきりと見せた。

それは却って美しくなったといえるが、巌にはせつなかった。

――俺だったら、先生をそんな目にあわせない。

巌は、史絵が受けた仕打ちを想像して、唇を噛んだ。

史絵は、そんな巌の気持ちを知ってか知らずか、淡々と勉強を進めた。

史絵の部屋は、家主の庭にある、文机だけを置いた簡素な6畳間の離れである。

台所や厠、風呂は家主と共同という、つましい暮らしの中で、史絵は自らも懸命に勉学に励んだ。

「流行の職業婦人として一生を仕事に捧げるわ」

冗談めかしてそんなことを言う史絵だったが、仕事に一生を捧げるというのは本気らしかった。

だから小学校の教師にもかかわらず、巌の受験勉強の指導もほぼ完璧にできた。

 

史絵と巌が再会して半年以上が過ぎた。

史絵と再会してから、巌の成績は生き返ったようにぐんとあがった。

身なりもきちんとし、悪友と遊び歩くこともめったになくなった。

そんな晩秋も深まった日曜日。

いつものように、本を片手に、縁側から史絵の部屋に入ろうとした巌は、家主宅のほうから女の話し声が聞こえるのに気付いた。

どうやら一人は史絵のようだった。

部屋の前の落ち葉を松葉箒でかき集めたあとがある。

箒がきちんとしまわれずに、垣根に立てかけてあるから、掃除をしているところを呼ばれたのだろう。

「史絵ちゃん。あの背の高い学生さんとはどういう関係なんだい?」

相手は家主夫人らしい。

「昔の教え子ですけど」

毅然とした史絵の声がする。それに対して、家主夫人のこえはあくまでも下出だった。

「そうかい。……こういったら何だけど、近所で噂が立ってるんだよね」

「噂って、何の噂ですか」

史絵の口調はあくまでもハッキリとしている。まるで教壇に立っているときのようだった。

家主夫人は、よくわからない問題を当てられた子供のように、さもいいにくそうに

「……あんたが、学校の先生様なのに、男を連れ込んでるってさ」

それでもはっきりと答えた。

「まあ……。ホホホ」

思いがけない史絵の笑い声に、巌は思わずそっちに身を乗り出す。

だが、丸く刈り込まれたツツジと散りかけたモミジに邪魔されてよく見えない。

いったん笑った史絵だが、それをピタと止めると、おもむろに言い放った。

「あの子は、私の教え子です。

あの子の名誉のために、男を連れ込んでるなんて言わないよう、今度から噂をする人に奥様から言っておいてくださいましな」

家主夫人の返事は聞こえなかった。

たぶんあっけに取られた顔をしているのだろう、と巌は前にみかけたことがある家主夫人の、頬が垂れた顔を思い浮かべた。

「わたしのことは、どんな風に言っていただいてもかまいません。だけど、教え子は将来ある身。間男扱いしないよう、重ねてお願いします」

思わず、巌は声がするほうの庭先にさらに一歩進んで半身を傾けた。

赤くなったモミジの葉陰に、巌は深々と頭をさげる史絵を見た。

第264話 叶わぬ恋(4)

「皮肉なことに、先生の縁談が調ったことで、わしは自分が先生をいかに好いているかを……先生がわしにとっていかに大切な存在かを確認したのじゃ……」

巌は、細めた目を、杉板天井のあたりに漂わせていた。

「でもさ。ヒージー。先生は、お母さんが病気っていう連絡で帰ったんだろ」

将はそのまま疑問をはさむ。

「あの当時、『ハハキトク』の電報は切り札でな。あれで田舎に呼び戻されて、見合いの席が用意されていた、というのはよくあったことなんだ。実は母親はピンピンしていてな」

「なんだ。それじゃ親の陰謀ってわけ?」

将はまるで自分が陰謀にハメられたように口を尖らせた。

「ハハハ……そういうことじゃのう。あの時代、20をすぎた娘が独身だったら、親はそれぐらいのことを画策して当然だったのじゃ」

巌は力なく笑った。

 
 

史絵の実家はI県で前田家に仕えていた武家である。

当時女性は学問など身につけず、早々と嫁に行くのが美徳とされていたが、進歩的だった史絵の父は、学問ができる史絵を女学校にやり、さらに師範学校にやった。

史絵はそんな父を大変に尊敬し、感謝していたが、その父は史絵の師範学校卒業を見ずに亡くなってしまった。

父が亡くなって母は元の領地で、老いた舅夫妻がいる○○村に移った。

史絵を教師にしろ、というのは父の遺言だったから、いったんはそれを守り、東京の帝大に進んだ長男のもとへ送り出したが、23にもなる娘にトウがたつのを心配していた母だ。

ついに強硬手段を用いたのだろう。

史絵は、おそらくそれに感づいていたに違いない。だが電話もない時代だ。

『ハハキトク』の電報の真偽は行ってみるより確かめる手段はない。

そして、まんまと見合いをさせられたのだ……。

 

結婚がきまった史絵は、2学期いっぱいで退職することになった。

本当は、すぐに辞めて10月には輿入れせねば、と母親は急いたのだが、史絵は『せめて卒業まで』と泣いて訴えたらしい。

そこで中間を取って、年内、つまり2学期いっぱいとなったのだ。

輿入れは4月に行われるという。

おそらく桜の花の下、白い綿帽子をかぶるであろう史絵はどことなく輝いて見えた。

そんな史絵を巌は盗み見ては、目があいそうになるとそらした。

そんな巌に、とうとう史絵のほうが声をかけた。

ある日、そっけなく帰ろうとした巌は史絵に呼び止められた。

「鷹枝君。夏休みの宿題の綴り方、また学校代表として市のコンクールに出されたわよ。おめでとう」

巌は、秋口なのに、すでに餅のような白い色になった史絵の広い額を一瞬見て、目をさっとそらした。

「ふん。……おめでたいのは、そっちだろ」

「あら。ありがとう」

史絵は素直に頬を染めた。

「……そんなに嬉しいのかよ」

史絵はそれには答えずにまっすぐに巌を見下ろした。見下ろす角度は年々鈍くなってきている。

まもなく……、その目は史絵と対等なラインになるだろう。

そして逆に巌が史絵を見下ろす日がくる。

……その日を巌は、心から待っていたことに気付く。

胸が苦しい。灼けつくように、そして息ができない。酸欠状態の脳がこんなことを巌に言わせる。

「卒業まで、一緒にいるって言ったのはどこのどいつだよ」

これは事実だった。巌だけに言ったのではないけれど。

『皆さんが卒業証書を受け取る日まで、一緒にいます』

史絵はたしかに教壇の上からそういったはずだ。

「嘘はいけない、って教えたのは、先生じゃないかよ」

史絵をなじる言葉は、あとからあとから出てくる。

本当はこんな風に責めたいんじゃない。

史絵がいなくなることを考えると気が変になりそうだ。

史絵に見守られない自分は、いったいどうなってしまうのだろうか。

史絵のいないころの真っ暗闇に戻りたくない。

――いつまでも一緒にいてほしい。

巌はこみあげてくる自分の思いに耐えられなくなり……。

 
 

「で、チューしたんだ」

ニヤニヤして先回りした将は、巌に

「たわけ」

と目を剥かれる。聡が『もう』と軽く将を睨むように笑みを浮かべる。

「まだ12だぞ。今はどうかしらんが、当時の12といったらまだ子供じゃ。小柄だった先生より背丈も低かったしな。

……わしは、先生を見ているのがつらくなり、逃げ出したんじゃ」

 
 

巌は、史絵に背を向けると、走り出した。

あまりに全力疾走をしたせいか、下駄の鼻緒が切れて砂利道で転んだ。

かまわずにそのまま、裸足で走る。気がつくと巌は、川原に来ていた。

そこは、何度か史絵とひなたぼっこをしながら、本を読みあった場所だ。

この3年あまりの間に、それは10回以上に及んでいた。

堅苦しい文語調も、史絵が読めば、温かい人情話が見えてくるようだった……。

巌は草むらの中に無理やり転がると空を眺めた。

目じりを溢れた温かいものは、9月も終わりの風に吹かれてしだいに冷ややかに、耳の後ろへと流れていった。

――先生が、嫁に行ってしまう。

巌は、鰯雲に花嫁姿の史絵を描こうとした。

しかしそれは巧くいかぬうちに、涙でくずれた。

――先生が、手のとどかないところに……。

巌は声をださずに嗚咽した。

 

それから。

2学期の間、巌は史絵を無視した。

史絵のほうは、何度か話し掛けようと試みたらしいが、それを頑なに拒否した。

本当は……巌は待っていたのだ。

拒否しても拒否しても、史絵が『新しいご本を持ってきたのよ』と声をかけてくれることを。

そっぽを向く自分を無理やりにでも、史絵のほうに向かせることを。

実際、いままでの史絵は、それぐらい強引に巌に指導をすることもあった。

『話をききなさい!いいですか?』

……だが、史絵は、もはやそこまでしてこなかった。

声をかけようとした手は宙をさまよい、一定のラインで止まる。

「やはり、おなごは結婚がきまるとおとなしゅうなりますなあ」

校長や教頭はそう噂した。史絵が竹刀を持って悪ガキ退治をするところは、学校の名シーンだったが、

この2学期の間、ついにそれを見ることはなかったからだ。

そして、ついに2学期の終業式。

どことなく濁った師走の空は、いまにも白いものをちらつかせそうだったが、まだ風花が舞うばかりだった。

史絵は、いつもの袴姿ではなく、羽織姿で教壇に立った。

結婚を控えた娘にしては、地味な色であったが、そのいつもと違った様子は、あきらかに生徒との別れを意識していた。

「皆さん、卒業まであと3ヶ月です。先生は皆さんより一足先に卒業しますが、風邪など引かぬようがんばって勉学に励んでください」

皆に通知表を配り終えた史絵は、張りのある声で教壇の上から皆に最後の言葉を語りかけた。

そのとき、一番前の生徒は、木製の教壇からパタパタと小さな音が響くのを聞いた。

教壇にはすぐに小さな水溜りができた。

生徒たちは皆、ハッとして顔を上げた。

史絵が涙を流しているのだ。

史絵は、涙で、今までにないほど顔を歪ませていた。

漏れそうになる嗚咽を引き結んだ唇で必死で堪えている……そんな苦しげな顔だった。

小さな丸顔は、すでに紅潮して桃色になっていた。

「……皆さんは。……私の、最初の教え子でした。だから……絶対に卒業するところを見たかった……」

振り絞るような声は初めて聞くものだ。

前に座る女子の肩が震えているのを巌は見た。

女子たちは、みんな堪えられずに下をむいて袂を目にあてていた。

男子も、あるものは唇をぎゅっと結び、あるものは膝の上で拳を握り締めている。みんな泣き出しそうになるのを耐えているのだ。

巌は……泣きもせず、ずっと史絵の顔を見ていた。

史絵は、顔を涙でぐちゃぐちゃにしながらも、その顔は正面を向いていた。

そして、おもむろに生徒一人一人の顔を焼き付けんとするばかりに、涙まみれの瞳で生徒をじゅんぐりに見つめはじめた。

そして、巌の番が来た。

 
 

「そのときの森村先生の目は、ウサギのように真っ赤でな。それでわしは、2学期の間中先生に冷たくしたことを後悔したんじゃ」

当時のことを思い出したのか、ほんの少しだけ、巌の瞳にうつる光がゆがんだ。

 
 

最後に、史絵に詫びたい。

帰宅した巌は、ありったけの小遣いを握って、乗合馬車に乗ると、そのまま駅に向かった。

史絵は、終業式を終えたらそのまま、郷里に帰るといっていたからだ。

何時の列車に乗るかわからないので、巌は改札で待ち伏せした。

師走の駅は、帰郷する人、そしてそれを見送る人でごったがえしていた。

だが、懐かしい人はすぐに見つけられた。

煮締めたような色の人々の群れの中で、史絵は季節外れに咲いた桃の花のようだったからだ。

「先生ーっ!」

巌は史絵を見つけると駆け寄った。

史絵はたいそう驚いたようで、目を真ん丸くした。

だがすぐに、目を細めて優しい顔を巌に向けた。

ごったがえすホームで、二人は対峙した。ホームにはすでに史絵が乗る列車がタールのような色の機関車に続いて止まっている。

巌は、勢いで駆け寄ったものの何を話していいかわからなかった。

吐息だけが、暗い色合いのホームでやたら白く目立つ。

「見送りに……来てくれたの?」

史絵はその美しい澄んだ声を巌だけに向けた。

巌は、無言でうなづいた。

「ありがとう」

史絵は、今までにないほど、とびきり優しい口調で礼をいった。

そして、巌の肩に手をおいた。

風花が舞うような寒さの中、肩だけに春が舞い降りたように暖かくなった。

「鷹枝君。中学に入っても……がんばってね。……きっと、きっと偉くなるのよ」

「先生。僕、先生がいなくなったら、独りっきりになっちまうよ」

本当はこんなことを言いにきたわけではないのに。

先生を祝福して、送り出そうと思ってやって来たのに。

ひとりでに恨みの言葉が口に出てしまった。

「独りじゃないわ。鷹枝君にはお父様だっていらっしゃるでしょう」

巌は首を横に激しく振った。

「先生。いかないでくれ。嫁になんかいかないでくれ。ずっと僕と一緒にいてくれ」

心のままを口にしながら、巌の目からも噴き出すがごとく涙が湧き出していた。

涙の勢いに押されて鼻水も一緒に出る。みっともないが、とめられない。

史絵は、羽織の襟元から懐紙を取り出すと、巌の涙と鼻水を拭き取ってくれた。

しかし、あとからあとから湧き出すものだから、懐紙は何枚も使われることになった。

巌は、肩どころか全身を震わせて、湯気を出すようにして、泣きに泣いた。

声は歯を食いしばって押さえたけれど、そのせいか鼻の奥がつーんとしてくる。

「……鷹枝君。先生はずっと一緒にいるよ」

史絵は、震える巌の肩に両手を置いて、見下ろすと確かにそういった。

「本当か?嫁に行くのを止めるのか」

巌は涙でぐちゃぐちゃになった顔をパッと輝かせた。

史絵は少し困った顔をして首を横に振った。

「いつだって、見てるから。先生ね。……巌君のこと、遠くから、ずっと見守っているから」

「そんなのいやだ」

巌は涙を飛ばしながら首を振った。

そのとき、ホームに止まった蒸気機関車が悲鳴のような汽笛を鳴らした――大量に吐き出された白い蒸気はホームにまで流れてくる。

出発の合図である。

巌も、史絵も、ハッとしてその激しく噴き出した蒸気に一瞬気をとられた。

「……巌君、元気でね。本当に見守っているから」

史絵は意を決したように、巌を見つめた。

そして巌の頬に新しく流れた涙を懐紙で拭き取ろうとして、それがないことに気付く。

史絵はハンカチーフを取り出した。それを右手に持って、涙まみれの頬に両手を添えた。

その手は、温かくて柔らかかった。……そのぬくもりこそ……おそらく、巌が一番ほしかった、憧れたものだった。

「先生」

史絵はハンカチで巌の涙を拭くと、それを手に握らせた。

もう時間がない。車掌が急ぐように声をかけてくる。

「えらくなるのよ。いいわね」

史絵はそう言い残すと、巌に背を向けた。その背を向けるまぎわ、史絵の目は涙で光っているように見えた。

「先生」

それを確かめようとして史絵を追った巌は、客車に乗り込まんばかりに近寄ろうとして駅員に止められた。

そして列車は、ゆっくりとリズミカルに力強く車輪を回して走り出した。

そのとき、史絵が……名残を惜しむように、巌から少し離れた客席の窓から顔を出した。

「元気でね」

蒸気機関車の音に負けないよう、史絵は叫ぶように巌に最後の呼びかけをした。

巌は駅員を振り払うと窓の史絵を追った。

史絵は自分のために涙を流しているか。それを確かめたい。

歩いて追いつけるスピードの列車なのに、駅のホームには同じように別れを惜しむ人が大勢いる。

それをかきわけるようにして巌は、列車の窓を追いかける。

しかし、次第に車輪の回転速度はあがり……巌がやっと人波を乗り換えたころには、全力疾走しないと追いつけないスピードになっていた。

「先生っ、先生ーっ!」

下駄を投げ出すようにして巌は懸命に走った。

マフラーがほどけて、ホームに落ちる。

着物の襟は羽織の下ではだけ、下駄のない足袋はあっという間に擦り切れ、裸足同然になったがかまわず巌は走り続けた。

だが、とうとうホームの端まで来ても……巌は、史絵に追いつくことができなかった。

第263話 叶わぬ恋(3)

史絵は学校から歩いて15分ほどのところにある小さな一軒家に、帝大生の兄と一緒に住んでいた。

小さいけれど生垣と坪庭のある家だ。その家には、はみ出すようにして、本がいっぱいあった。

巌が史絵に連れられて家に上がったときは、兄は留守だったが、その本の多さに巌は目を丸くした。

家中が父の書斎のようだと思った。茶の間まで本棚が侵食していた。

「だいたいは兄のよ」

口をぽかんとあけて、並ぶ本の背表紙を眺める巌に史絵は笑いながら言った。

史絵がいつも貸してくれる本はてっきり図書室から貸してくれるのかと思っていたが、それにしては貸し出しカードがついていなかった。

その理由が今わかった。

興味深そうに背表紙を眺める巌に、史絵は

「どうぞ、手にとっていいのよ」

と言ってくれた。巌は、外国語の本の1つを興味本位で手に取った。

「これは独逸語の本。こっちは仏蘭西語。ぜんぶ兄が神田の古本屋で買ってきたの。そのうち鷹枝君もスラスラ読めるようになってよ」

 
 

史絵は巌を、ガラスのコップに入った琥珀色の液体でもてなしてくれた。

よく冷えたそれは口にすると、ほのかに甘く、香ばしく、最後に少しだけ渋みが残り、それが知的で大人っぽい味だと思った。

「……うまい。これ何ですか?」

あまりに感動した巌は素直に口に出した。

「紅茶よ。井戸の水で冷やしてみたの。気に入ってくれてよかったわ」

史絵は嬉しそうに笑みを浮かべた。

あの恐い森村先生が、こんな顔をするのか、と巌は思った。

そんな無防備な笑顔を見るのが、なんだか照れくさくて、巌はまたまわりを囲む本に目を走らせた。

「鷹枝君も、いずれ帝大に進むんでしょう」

巌はハッとして史絵を振り返ると、俯いてしまった。

お前は私の跡取だ、だから一高から帝大に行くんだ――というのは父からよく言われていることだ。

だけど、今回の仕打ちを思い出した巌はつい、言ってしまった。

「僕……小学校を終わったら、家を出ようと思うんです。丁稚奉公でも移民でも、士官学校でもなんでもいいから」

言ってしまってハッとした。

とんでもないことを言った気がする。下を向いた巌は、ちらりと上目で史絵を盗み見た。

史絵は笑顔のままだった。茶の間の外にある柿の木の若葉の緑を映した顔は、少し寂しげに見えた。

しばらく黙って巌を見つめていたが

「家がつらいから、逃げよう、というわけですね……。お父様が悲しみますよ」

父を出された巌の脳裏に、再び、神社で巌を拾う父が蘇った。

「僕……捨て子かもしれません」

「たわけ」

史絵はいつもの口調で即座に巌をいましめた。

目を大きく見開いて巌を睨みつけていたが、その顔はどこか可笑しそうだった。

「捨て子が、こんなにお父様に似るはずないでしょう」

史絵は強く言い放つと、フフっと笑った。その笑顔には若い女のあでやかさがあった。

議員である巌の父は、教育にも熱心で、何度か学校を視察に来ていて、史絵もその顔を知っていたのだ。

だが……巌が、父に似ていると言われたのは初めてだった。

実際、その鋭い目の形、整った鼻梁、太めの眉は、父と見事な相似形を描いていたのだが

(それは将まで受け継がれている)継母に遠慮して誰も巌にそれを告げたことはなかったのだ。

『父に似てる』

その事実を知って、巌は泣きたくなった。

何か巌を苦しめていたものが、雪解けの氷のように溶けて流れ出すかのように、目に涙が溜まりだした。

それを史絵に見られるまい、と必死で瞬いてひっこませる。

史絵はそれを見なかったことにして

「……ところでこないだ貸した本は面白かった?」

と訊いてきた。涙をひっこませることで手一杯の巌は、無言でうなづいた。

「そう。じゃあ、今度は……詩なんかどう?」

と史絵が差し出したのは高村光太郎の『道程』だった。

巌は、それを受け取ると、さっそくその場で開いた。

 
 

「俺、それ読んだことある。『僕の前に道はない。僕のあとに道は出来る』みたいな内容だっけ。……ヒージーが子供の頃からあったんだ」

将は言葉を挟んだ。

「そうじゃ。ちょうどあの頃に刊行されたんじゃ。あの頃の人々は、今よりずっと詩に親しんでおったからのう。

それにしてもあのときのワシには、沁みいるようだった」

巌は、目を閉じて、詩を唄うように呟いた。

 
 

「鷹枝君。自分をいじめる人がいたらね。……自分の道を邪魔する人がいたらね」

史絵はふいに言った。

詩に没頭していた、巌は驚いて顔をあげた。

なんで、先生が、継母のことを知っているんだ、と思った。

実は巌の継母の仕打ちは、おしゃべりな姐やから、近所の奉公人に筒抜けだった。

『うちの奥様は、ご長男をないがしろにしてご自分の子供ばかりを贔屓なさる』

テレビはもちろん芸能週刊誌などのない当時、人の噂は娯楽として面白おかしく伝わった。

もちろん、継母と同じ階層の人々は口をつぐんでいたが、尋常小学校にはそういう奉公人衆の子供も通ってきていたから

口伝えで史絵の耳に入っていたのだ。

「自分を強くしてくれるんだ、自分を偉くしてくれているんだ、と思って我慢しなさい」

巌は険しい顔をした。

即座にそんなのきれい事だ、と思った。

そんな巌の顔にかまわず、史絵は続ける。

「悔しいとか、逃げたいとか、仕返ししたい、などと思ったら、負けですよ」

負けでもいい、そう喉まで出掛かって引っ込んだ。

史絵はまっすぐ巌の瞳を見つめていたからである。

「鷹枝君。君は、頭もいいし、体力もある。輝かしい未来が約束されているのです。それをつまらない相手の挑発に乗って、台無しにするなど、もったないことです」

史絵に『勉強もできるし、体力もある』などと言われたのも初めてだった。

試験で学年一番を取っても

『まだ日本一というわけではない。天狗になるな。まだまだ精進せよ』

などと言われてきたのだから。

「意地悪をする相手は、君が悔しさのあまり、やる気をなくして、落ちぶれるのを望んでいるのです。……相手の思い通りになってやることはない。いつか手の届かないほど偉くなっておやりなさい」

 
 

「目からウロコが落ちるとは、このことじゃった。

ワシはそれまで、継母にいかに仕返しをしてやるか、もしくは逃げてラクになるか……そればかり考えていたからのう。

先生が言うことはもっともだ、と思った」

「偉い先生だと思うけど、なんで好きになったんだよ。接吻はいつだよ」

将は、なかなか恋愛話にならないのに焦れて、つい急かす。

「そう急かすな。そんなわけで、ワシは先生を困らせるのをやめたんじゃ」

 
 

巌は見る間に大人しくなっていった。

本を読んでいろいろな世界に触れることが楽しくなり、ガキ大将として子分を引き連れてチャンバラをやることなどに面白みを感じなくなっていったからである。

今まで、巌は織田信長に倣って、自分のことを『おやかた様』などと子分に呼ばせていたのだが、子分は口々に

『おやかた様が出家してしまった』と囃し立てた。

だが巌はおおむね相手にしなかった。

……ときおり、それが過ぎるときのみ、こっぴどくやり込めてやったので、巌は男子からは一目置かれるようになった。

そして女子や弱い者がいじめられているときは進んで助けてやった。

そんな巌を、史絵は温かく見守った。

史絵が見守ってくれている、史絵が期待してくれている。

そう思うと、自然に学問にも身が入った。

もともと優秀な巌である。綴り方(作文)で4年・5年・6年と連続で東京市の賞をもらったほどだ。

継母による分け隔てに腹を立てることも、依然あったが、怒りの感情をうまくコントロールすることができるようになった。

自分の中の怒りを鎮めるとき、すでに巌は史絵を思い浮かべるようになっていた。

 
 

巌は、尋常小学校6年になった。ちなみに当時の義務教育はここまでである。

その頃、巌は史絵が自分にはなくてはならない人だと自覚していたが、それが恋だとは気付いていなかった。

ある夏休みが近づいた月曜日。

史絵が初めて学校を休んだ。

史絵が学校を休んだことなど、巌が3年生のときに赴任してきてから一度もなかったので、巌は心配して、代わりに教壇に立った教頭に理由を訊いた。

「何でも田舎のお母様が危篤だと、電報があったようです」

学校一いや、市で一番の秀才と評判の高い巌ゆえ、教頭は丁寧に教えてくれた。

夏休みまでに帰ってきますように、と巌は毎晩祈ったが、史絵はとうとう帰らぬまま夏休みに突入した。

夏休み、巌は祖父母の家に逗留するのが習慣になっていた。

さすがに父も、継母が巌を嫌っていることに気付いていた。

休みの間、四六時中顔をあわせるのは巌があまりに可哀想だ、ということで祖父母の家にやっていたのである。

祖父母は優秀な巌をたいそう気にいっていたから、巌は羽を伸ばし放題だった。

だが、3年までは夏休みが来るのを心待ちにしていたのだが、4年あたりからは、なんとなく寂しい気がした。

休みに入り、史絵に逢えなくなるのが物足りない気がしたのだ。

今年はとうとう、史絵が心配で、祖父母の家に行きたくない気分にさえなってしまった。

だが、継母と1日中顔を突き合せるのは気ぶっせいだから、結局、祖父母の家にやっかいになることにした。

だが、毎日考えるのは史絵のことばかりで、

――まさか、このまま会えないなんてことはないだろうか。

と心配した。祖父母が

「中学にあがったら、ここから通いなさいな。ここなら一高も近いですし」

などと提案するのも上の空だった。

 
 

2学期になるのがこれほど、待ち遠しかったことはなかった。

巌は、いつもは帰りたくなかった自宅に帰ると、念入りに夏休みの宿題などを整えた。

そして誰よりも早く学校へでかけると、用もないのに、職員室をのぞいた。

……そこに、海老茶の袴にきりりとマーガレイトと呼ばれる髪型に結い上げた史絵の後ろ姿を見つけると巌はホッとした。

史絵はなぜか他の教師に囲まれていた。

「先生……」

思わず、声をかけようとした巌に聞こえてきたのが

「何はともあれ、おめでとう」

「してお式は……」

という史絵を囲む教師の言葉だった。

史絵は……故郷で縁談がきまったというのだ。

巌は目の前が真っ暗になった。

第262話 叶わぬ恋(2)

小柄で、まだ20歳と若く、可愛らしい丸顔の森村先生は、すぐに生徒たちの人気者になった。

なによりも皆を魅了したのは、顔に不似合いなほどほっそりとした指で弾くオルガン、そして歌だった。

森村先生のオルガンはたいそう巧かった。学校の行事のときは、ピアノを担当していたほどだ。

前に担任だった先生はオルガンがとても下手で、どんな歌も今でいう”Cコード”で通していたというツワモノだったから、

森村先生のそれは、素晴らしい音楽に聞こえた。

そして声が大変透き通っていて、小柄な体から信じられないような声量で唱歌を朗々と歌う様に、生徒は皆一瞬聞きほれたほどだ。

「しかしじゃ。森村先生がホトケのような笑顔だったのは、最初だけじゃった。そのうち、鬼のような形相で怒るようになってのう。

廊下に立たされるのはもちろん、帳面で叩かれたり、しまいには竹刀を持って追いまわされたわ」

落ちぶれたりといえど武家の血をひく史絵は武芸にも自信があったらしい。

袴を翻して女とは思えない速さで巌に向かってきた。あっという間に追いつかれ、竹刀でバシバシと何度も叩かれた。

現代でいえば、忌み嫌われている体罰にあたる。そんな記憶なのに巌は、さも懐かしそうに目を細めた。

 
 

「こっえー。いったい何をやらかしたんだよ」

「そうじゃな。いろいろあるが……イナゴって、聡さん、わかるか?」

聡はうなづいた。バッタのような昆虫である。たしか佃煮にして食べる地方があったようにも記憶している。

「昔の子は野蛮でのう。それを捕まえては着物の襟や袂に噛み付かせての。

思い切り噛み付いたところで体をひっぱると、首だけが残るんじゃ。イナゴの首とりといってよく遊んだものだ」

「俺知ってる。それと同じ遊びを『次郎物語』で読んだ」

将は得意げに下村湖人の名作のタイトルを挙げた。

「そうじゃ。似たような時代だからのう」

「……ところでヒージー、子供の頃、都心近くに住んでたって言わなかった?虫とかいたのかよ」

将が素直に出した疑問に

「昔は東京といっても、今と違ってかなり空き地もあった。渋谷や原宿なぞ田んぼが広がっていたもんだ。幕張メッセのあたりなど、遠浅のきれいな砂浜でな。潮干狩りにいくとアサリやハマグリが山のように取れたんじゃ」

巌は目を閉じて、瞼の裏にその頃の景色が見えているように語った。

「……で、その取ったイナゴの首をな。先生が弾くオルガンの鍵盤の上にずらっと並べたんだ。しかし、先生は悲鳴1つあげずに……」

 

史絵は、弾こうとしたオルガンをパタンとしめた。

女の悲鳴を期待していた巌は、期待はずれに落胆した。が、史絵のようすを、いっときも漏らすまいと観察する。

「こりゃ。罪のない虫を29匹も殺めたのは誰です」

と唱歌のときとまったく異なる低い声で問うと生徒を見回した。皆、巌とその手下の仕業だと知っているが黙っている。

「誰じゃ、と訊いておる」

史絵は低い声で繰り返した。

その静かなる剣幕に、それをやった生徒はよりこうべを垂れ、やっていない生徒はちらちらとやった生徒のほうに目を走らせ始めた。

張り詰めた緊張で、木造の教室はきしむかと思われた。

巌は知らぬふりをして、前に座る女子のおかっぱ頭のうなじの剃りこみと、自分で結んだのであろう、

下手糞な帯の結び目をかわるがわるに見つめていた。

と、その黒いおかっぱがさらりと揺れて崩れた。……彼女はそっと振り返って巌の顔に目を走らせたのである。

気がつくと皆、巌と巌の一味の顔を盗み見ていた。

こうして先生と生徒の根競べは、あっさりと生徒が負けた。

皆から注目を浴び始めた巌は、観念して

「僕がやりました」

と立ち上がった。

「鷹枝君」

史絵は立ち上がった鷹枝の前にゆっくりと歩いてきた。そして目の前に立った。なぜか少し哀しそうな目だと思った。

「歯を食いしばりなさい」

史絵は冷静にそういうと、大きく腕を振りかざした。

矢絣の袂が翻り、それは鳥が羽を広げたようだった。

次の瞬間、巌は思い切り頬を打たれた。

パーンという大きな音が木造の教室に響き渡り、生徒たちは首をすくめた。

「罪もない生き物を、こうやって悪戯に使うとは何事だ!こんなことをしたら、いつか天罰で自分も首をとられるんですよ!」

生徒たちはぞっとした。どこかで見た首を取られた武将の気味悪い絵が、おのおのの脳裏に蘇ったからだ。

「……さっさと弔って来い!」

史絵は、外を指差した。

巌は叩かれて赤くなった頬をプッと膨れさせて、オルガンの鍵盤の上に並んだイナゴの首を右手で左の掌の中に払い落とした。

イナゴの首のあたりには、白い柔らかい肉がとろりと垂れていたが、それが乾燥して鍵盤にくっついたのか、

数個が落ちずに、取るのに巌は苦労した。

巌は教場を出ると、若葉になり始めた桜の木の下に首をまとめて埋めた。

「ナンミョーホーレンゲッキョー」

と、とりあえず、経を適当にあげて立ち上がったそのとき。

今埋めたイナゴの塚の上に毛虫がぽとり、と落ちた。

毛虫は葉っぱの上でないところに落ちて、居心地が悪いのか、もぞもぞと動いていた。

巌は、足を高くあげる。腹いせにそれを踏み殺そうとしたのだ。

しかし……寸前でなぜか止めてしまった。

止めたことになぜかすごく腹が立った。だが、もう一度足をあげようとは思わなかった。

教室には戻りたくなかったので、サボることにした。

川原の土手に来ると寝転んだ。赤い茎のスイバがあったので噛んだ。いつもより酸っぱく感じた。

継母に、新しい担任。女は皆、鬼なんだ。

巌は青い空に、くそくらえ、と小さく叫んだ。

 
 

しかし、森村先生はガミガミ叱るだけではなかった。

いろいろな本を貸してくれた。

それは、当時すでに文豪として名高かった夏目漱石の「我が輩は猫である」、森鴎外の「山椒太夫」など、小学3年生にしては難しい本だった。

だが、巌の成績なら読めるだろうと、森村先生は見込んだのだ。

「まあ、こんな難しい大人向けの本は、級長でもない鷹枝君には読めないでしょうね」

史絵はそういって、ふふんと笑った。

まんまとひっかかった巌は、それを史絵の手から奪い取ると読み始めた。

最初『フン、こんなもの』と思っていた巌だが、それを読み進めるうちにやめられなくなっていった。

外で遊べない雨の日など、神社の軒下で一心に本を読む巌を、帰宅途中に史絵はたびたび見かけることになる。

 
 

4年になり、再び級長に返り咲くことが出来た巌だが、森村先生とはあいかわらずだった。

「級長なんだから、自覚を持ちなさい。……いいですね」

森村先生は巌にそういって聞かせたが、巌は上の空だった。

級長に返り咲けたことを、早く父に報告したいと、ただそれだけを思っていた。

継母に冷遇されていた巌は、父だけが拠り所だったのだ。

衆議院議員になった父は、議会がある日は国会議事堂の近くにある祖父宅に泊まることも多かったが、

それでも毎週土曜日には必ず帰宅した。

父が帰ってくるだけでも巌は嬉しかったが、巌がもう1つ楽しみにしていたのが、ときおり父が買ってくる、ハイカラな洋菓子だった。

文明開化と共に東京には、外国人客向けにさまざまな洋菓子店が出来たが、それは新しもの好きの東京の人にも好評を博し、

大正時代にはすっかり定着していた。

……とはいえ、庶民にとっては、現代のように気軽に食べられるものではなく、甘味自体がまだ貴重だったこともあり高嶺の花的存在であった。

巌は一度、祖父の家に遊びにいった折に銀座の資生堂パーラーに連れて行ってもらったことがある。

こんなに冷たくて甘くて美味しいものがこの世にあるのか、とアイスクリームを食べた巌はしばらくぼーっとしていたものだ。

家に帰ってから『あいすくりいむ』というタイトルで詩を書いたほどだ。

先々週は村上開新堂のビスケットだった。

あれも、さくさくとして後をひく味だった。

夢中で食べる巌に、継母が

「巌さん。いくつ食べるのですか。弟や妹のことを考えなさい」

とたしなめた。

言われなくても巌は遠慮していた。弟が1枚食べた。妹も1枚食べた。その下の弟が……次は自分の番だ、と思って手を出したのに……。

下を向いてシュンとする巌を見かねて父が

「いいじゃないか。巌は弟たちに比べてお兄さんなんだから」

と味方してくれた。しかし、このときは継母はゆずらなかった。

「兄だからこそ、下へのいたわりが必要なのです」

巌は結局、ビスケットを2枚しか食べられなかった。

 
 

絣の部屋着に着替えて、ちゃぶ台の前に座った父に、級長になれた旨を話すとたいそう喜んでくれた。

「父さんも、シュークリームを買ってきたかいがあったというものだ」

と上機嫌で今日の土産を教えてくれた。

「ほんとうですか!」

巌は手を打って喜んだ。

食後のデザートとして出された風月堂のシュークリームは、まさに極楽に登るような味だと巌は思った。

アイスのように冷たくはないけれど、バターの香り香ばしい皮と、とろりとしてコクのあるクリームの取り合わせがたまらない。

あまりにも巌が美味しそうに、また大事に少しずつ食べるものだから、父は

「よし。父さんの分もあげよう」

といって1口だけ手をつけたシュークリームを巌に譲ってくれた。

「まあ。行儀が悪い」

継母は、食いかけを譲る無作法に顔をしかめたが、父は

「級長になれた祝いだ」

と微笑んだまま、取り合わなかった。

 
 

その後のある日。

その日巌は、どういうわけか早く帰宅した。

いつもは雑のうも置かずに、そのまま遊びにいくのだが、たまたま宿題が多かった日だったのだろうか。試験があると予告されたのかもしれない。

その記憶は定かではないが、とにかく巌はその日はまっすぐに家に帰ってきた。

「ただいま」

玄関の引き戸を開けた巌に聞こえてきたのは、ちゃぶ台のほうからの笑い声だった。

継母、弟妹たちの声にまじって若い男の声がする。

巌は、声にひかれて、ふすまを開けた。

そこには……風月堂のシュークリームを食べている義理の弟妹たちの姿があった。

弟妹たちは巌を見上げると、気まずそうに下を向いた。

その皿の上には、シュークリームが1人あたり2つずつ載っていた。

「巌さん、お帰りなさい」

ちゃぶ台の下座で振り返って挨拶した若い男を、巌は知っている。

裕福な継母の実家に仕える書生である。

(書生とはこの場合、下宿人のことである。下宿代は無料で滞在する代わりに、そこの家の使い走りなどで奉公する必要があった。主に若い学生や浪人生がなった)

それで巌はすべて理解した。

風月堂のシュークリームを、継母は実家に仕えるこの男に頼んで買いにいかせたのだ。

「あれ。巌さんの分は買ってませんよ。今日はいないからいい、という話でしたよね、奥様」

男は薄汚れたヨレヨレの紺袴に現れたとおりのズボラさで、フケの浮いたザンギリ頭を掻きながら継母を振り返った。

黒い足袋の踵が擦り切れているのが見える。

弟妹の皿には、シュークリームが2つずつ載っているのに、巌にはない、というのだ。

「いいんですよ。巌さんはこないだ、お父様によけいにいただいたのですから」

と継母は澄ましている。

巌は、誰に、ともなく一礼すると襖をぴしゃんと閉めた。

そのまま、草履を履くと玄関から弾丸のように飛び出した。

すれ違った姐や(※お手伝いさん)が何か声をかけたらしいが、それはすでに遥か後ろだった。

 
 

「……それも、『次郎』で同じようなの、なかった? あれは卵焼だったと思うけど」

遥か昔……小学校低学年で読んだ本なのに、将は鮮明に内容を覚えている。

あれはたしか、お婆さんが、家で育った長男と三男だけに卵焼を与えて、里子に出されて戻ってきた次郎にはわざとあげない、というエピソードだった。

将にも強烈な印象が残っているのは、読んだのがちょうど義母の純代に孝太が生まれた頃で、その話に何か自分との共通項を見出したからなのかもしれない。

「卵焼はワシもやられたわ。他にバナナやらチョコレートやら、牛肉やら挙げ出したらキリがない。あの時代、食い物での分け隔ては、もっとも精神的に参ったからのう」

巌は当時を思い出したのか、心持ちうなだれて、白い睫の下の眼は辛そうだった。

「義母は、わしの好物を知ると、わざとそれを出さないようにして、そのくせ、わしがいないときを見計らって山のようにつくる、ということをよくやってくれたものだ。嫌いなものはテンコ盛りにしてくれてのう。そういうときだけ『お体によろしいですから』などと抜かすんじゃ」

「ひどいですね」

聡は思わず声を漏らす。

巌はあくまでもユーモラスに話しているのだが、その内容は、子供には想像を絶する悲惨さだろうと、聡は思う。

「ヒージー、あとで仕返しした?」

将は興味深げに訊いた。巌はため息をつくと、

「いつか仕返ししてやろう、と思っていたんだが……森村先生がな」

と本題に戻った。

 
 

家を飛び出した巌は、いつもの場所になった神社にやってくると、賽銭箱の前に座りこんで膝の中に顔を埋めた。

先週、そこに捨て子があった。

巌が発見したわけではないが、近所中が大騒ぎになったから巌もよく知っている。

子供の親は結局見つからず、結局乳児院に預けられるということだった。

――僕は邪魔ものなんだ。

――生まれない方がよかったんだ。

これらは、いままでに、すでに何度も思ったことである。

そしてそれは何度目だろうと、思い浮かべるたびに巌の心をひどく傷つけた。

心が傷ついて、噴き出した血のように、いつも涙がこぼれてしまう。

泣いたら負けだ、と思うけれど。

もしかしたら。自分はもしかしたら……父が拾ってきた捨て子なのかもしれない。

そんな想像が浮かんできた。

白いくるみに包まれた巌に、父が神社で出会う姿が、まるで白日夢のように浮かんだ。

想像の中の父は、土曜日に帰ってくるときのように、3ツ揃いのスーツにソフト帽の姿だった。

彼はカバンを置き、しきりに泣く赤ん坊を、慈悲深く抱き上げると、あやそうとした。

だが、泣き止まない赤ん坊に、薩摩藩出身の祖父譲りの濃い眉毛とゆがませて、心底困ったような顔になった……。

想像に、涙はとめどなく流れて、巌の縞の着物の膝を濡らした。

「鷹枝君」

自分を呼ぶ澄んだ声に、巌はハッとした。

あわてて涙を袂でぬぐいながら顔をあげる。

そこには……というより思いがけない近さで森村先生の顔があった。

史絵は、いつのまにか巌の前にしゃがんでいたのだ。

そして大きな目を見開いていた。……それは巌の異変を目にしたしるしだった。

巌は恥かしくて、弱みを握られた気がして、ただ下を向いた。

『どうした?』といつもの男言葉で訊いてくるだろうと身構えた。

だが……史絵は何も訊かなかった。ただ、優しい声で

「先生のうちに来なさい。あたらしいご本を貸してあげるから」

と誘った。

第261話 叶わぬ恋(1)

それからしばらくして、あゆみが帰ってきて、大磯の邸宅は再び賑やかになった。

あゆみは聡を見ると

「まあ……素敵なお嬢さんですわね」

と華やかに微笑んだ。そして

「ぜひ、うちのポトフを食べていってくださいね。季節外れだから材料をそろえるのに苦労したとシェフが申しておりましたが。

……こういったら何ですけれど、うちの自信作なんですのよ」

と夕食を食べていくように勧めた。

巌も将も強く勧めたので、聡はそのまま皆と一緒に夕食をいただいていくことになった。

「わたくしは、今日はお台所をさせていただきますので、失礼ですけれど、巌様のお手を揉んでさしあげて」

あゆみは、将と聡に巌の手を揉み解すように言いつけて、忙しく台所に消えた。

「ほっほっほ。忙しい女よのお」

巌はそれでも楽しげにあゆみの背中を見送った。

将と聡は巌の両側に座って、その皺だらけの手を取る。

ハルさんが持ってきた熱いおしぼりで丹念に指の間もぬぐってやると、巌は気持ちよさげに息をついた。

掌を揉んだり、その指を握り締めさせたり、指を一本ずつ開かせたり、肘を動かしたりといった軽いリハビリも行う。

全身が麻痺してしまった巌だが、あゆみはこうして毎日のように手足を揉んだり関節をゆっくり動かしたりして少しずつリハビリをしていたのだ。

「痛くないですか?」

聡は心配そうに巌の顔をのぞきこんだ。

あくまでも優しくゆっくり、ではあるが聡は大胆な角度に肘の関節を曲げさせている。

「気持ちいい。こわばった肘がほぐれるようだ。もっとやってくれ」

そうは言うが、苦痛もともなうのだろう。巌は目を閉じて少しだけ白い眉をしかめていた。だが

「痛い、ということはまだ神経が生きているんじゃ。見ておれ。いまに……箸とて持てるぞ」

巌は嬉しげに呟く。

巌の回復を願う将も右腕を聡と同じように動かしてみる。

そんな3人がいる和室には、そろそろ床の間あたりに薄闇がしのびより始めていた。

ガラス障子に映る庭は徐々にオレンジがかってきて午後も遅い時間に入ったことを告げている。

しかし蝉の声はあいかわらずだ。

今日という日を惜しむかのように鳴き続けている。

巌は、熱心に手の運動を続ける二人を「もうよい」と制すると、

「実はな。二人に頼みがあるんだ」

としっかりとした声で語った。そして将に

『書斎の机の右側の一番下の引き出し。上から3番目にある帳面』

と細かく指示をして、それを持ってこさせた。あいかわらずすごい記憶力だと、将は思う。

「一番後ろの背表紙にI県の住所が書いてあるだろう」

将は少々黄ばんだ古いノートの背表紙をめくる。

たしかに巌が言ったとおり、そこにはI県の住所が書いてあった。

「その村に、安楽寺という小さな寺がある。そこに森村という家の墓がある。

わしが死んだら……聡さんと二人でそこへ行き、わしの骨の一片なりとも、その森村の墓が見えるところに撒いてくれ」

将は巌による『死』という言葉にいきりたち、言葉を中断させようとした。

だが、巌の声音は淡々としながら真摯な響きに満ちていたので、その機会を逸して黙っていた。

聡は巌の顔を一心に見つめているようだ。

「どうして、そんなところに……持っていくんだよ。うちの墓は、東京にあるんだろ」

墓という単語を口にするのに少しためらう。

だけど、あまり過敏になるのは、逆に巌の死が近いものであると自ら認めているようなものだ、と将は気づいた。

だから明るく、少々乱暴な口調でさりげなく口にした。

「いかにも。わしの骨の大部分は東京の墓に入る。そこには先に逝った妻、周太郎たちがいる。

……だが、そっちには……わしが若いみぎりに……きっと添い遂げようと誓ったひとが眠っているのじゃ」

巌は遠い目を蝉の泣き止まない庭に投げた。

「叶わなかった恋ではあるが……。わしは墓のまわりの土となって、あのひとの墓を見守りたいんじゃ」

「前に言ってた、無理やり接吻したっていう小学校の先生?」

将は好奇心旺盛な声に、悲壮感を隠して訊いた。

「いかにも。……よく覚えてるのう」

巌は遠くに行きかけた目を将に向けると笑った。

『死』『墓』という言葉の響きが薄まったような気がして、将は心から安堵した。

「生みの母を早うに亡くし、学校の先生に惚れたというところで、わしはお前のことが自分のことのように思えて仕方がないのじゃ。

わしの恋は叶わずじまいであったが、お前は先生とうまくいきそうだ」

巌につられて、将は傍らの聡を見た。聡は恥かしそうに頬を染めて少し俯いていた。

だけど、その口元はまんざらでもない。

「そのお前たち二人に、わしの骨をあの人の墓のそばにひそかに埋めてもらえれば、わしはたいそう浮かばれる。

あの人もきっと喜んでくれると思うのじゃ……自己満足かもしれんがのう」

巌は言葉の最後を、静かに微笑みで締めくくる。

「ヒージーの好きだった先生って、何て名前?」

将はこの話題、つまり巌の『恋バナ』をしていれば、暗い雰囲気がなくなるかもしれない、と突っ込んでみる。

「うん。彼女は森村先生といった。名は史絵(ふみえ)といってな。前田家に仕えていた武家の出じゃ……」

何十年ぶりになるだろうか。巌は彼女の名前を舌に乗せていとおしんだ。

白い睫にふちどられた将と同じ色の巌の瞳。

それには黄金色に輝く夏の庭が映っていたが、巌自身はそれではなく、遠い記憶を見つめていた。

 
 

明治の終わり、鷹枝巌は東京で生まれた。

このころ薩摩藩士の出である祖父は衆議院の議員を務めていた。その待望の初孫ということで皆に期待と歓迎を受けての誕生だった。

だが、医療が今ほど発達していなかった当時、巌を生んだ母は、産後の肥立ちが悪くて、巌を生んですぐに亡くなってしまった。

衆議院議員の家といえど、それほど裕福でもなかった鷹枝家では、常時乳母を頼むこともできず、

巌は飼っていたヤギの乳を飲んで、それでもすくすくと育った。

巌の父もいつまでも『やもめ』でいるわけにもいかないだろう、と財産家の娘を後添いにもらって自らも衆議院に出馬することになった。

巌が5歳のときである。

継母はすぐに巌の義弟や義妹を次々に生んだ。

 
 

「この継母が、きつい人でのう」

巌は、遠い目をやや下に向けて、吐息のように笑った。

「もう亡くなっているから言うが、長男であるわしは、とかく目の敵にされてのう。

たまったもんじゃなかったわ。今の言葉でいえば『ムカツク』といったところだのう」

「ふーん。アイツと一緒じゃん」

将は同調して笑った。ちなみにアイツとは将の義母の純代のことである。

「ばかめ。一緒にするでない。純代さんのようにわきまえた後添いはいない。お前と孝太をほとんど分け隔てなく可愛がっていたではないか」

巌は目をむいた。とたんにふくれる将にかまわず、

「将。もう1ついっておくことがある。……いいかげん、純代さんを許してやれ。これがわしのもう1つの遺言だ」

将は、そっぽを向きながらも、

「で、それで、どうしたの。ママハハは。センセーはいつ出てくんの」

と続きを乞うた。

「おうよ」

巌は得たり、とばかりに話を続ける。

 
 

社会全体がそれほど裕福でなかった当時である。

継母の態度は、今では考えられないほどあからさまだったのだ。

それでも、長男で後継ぎとされた巌だから、父が在宅のときは、それなりにきちんとしてくれた。

しかし何といっても新人議員の父は忙しい。家をあけることも多く、そのたびに巌はつらく当たられた。

まもなく尋常小学校にあがった巌は、父や祖父の期待通り大変優秀で、毎年のように級長に選ばれた。

それも継母には面白くなかったらしい。

手習いをしているそばを、わざわざ床が震えるほどドスドスと通り過ぎたり、静かに本を読んでいる時にわざと子守りを頼んだり、

作文を読んでやろうといって『これではダメです』とビリビリに破かれたり、さんざんな仕打ちをされた。

父に継母の行いを訴えると、いちおう叱りつけてくれた。継母は父の前では神妙に

『そんなつもりではございませんでした。あいすいませんでした』

と手をついて謝る。

だがそのあと、父の目が届かないところで、頬が伸びんばかりに力いっぱいつねられたり、寒い中の水汲みを命じられたり、挙句、

『そんなに憎らしいわたしのご飯などいらないであろう。毒を盛ってるやもしれぬしな』

と食事を抜かれたりした。

結局とばっちりはまだ幼い巌のもとに倍となって返って来たのである。

だから、いつしか巌は継母の行いを父に告げ口するのはやめてしまった。

男尊女卑の世とはいえ、一家の実権を握っていたのは主婦なのである。

家で疎外感にさいなまされた巌だから、学校は天国のようだった。

勉強も出来、負けん気の強い巌だったから、ケンカも強かった。

家でのうっぷんを外で晴らすがごとく、巌はガキ大将になっていった。

 
 

「ガキ大将、といってもお前の世代にはわからぬであろう」

「ジャイアン、みたいな感じ?」

将は訊いた。

「あのような乱暴者とはちと違うがのう。ワシは歌もうまかったぞ」

おどける巌に、聡はくすっと笑いながらも、100歳でドラえもんがわかるなんてすごい、と内心驚いていた。

ちなみに巌は、将を預かっていたときに一緒に『ドラえもん』を読んでいたゆえに、100歳にして『ジャイアン』が通じるのだ。

「あまりに乱暴が過ぎて小学校3年のとき、初めて級長を落ちた。成績は学級どころか学年で一番だったのだがのう……。

そのときの先生が森村先生じゃ」

小学校3年生のときに、師範学校を出たばかりで赴任してきたのが森村先生だった。

級長という名誉職を剥奪された巌は、当初、恨みを持って教壇の森村史絵を見つめた。

「当時、成績は廊下に1番からドンケツまで張り出されたものじゃ。級長をはずされたわしは、見ておれ、と猛勉強をした」

恨みに燃える巌だったが、当時20歳の森村先生は、他の生徒と同様、にこにこと優しく見つめるだけだった。

第260話 遺言(3)

空の青さと蝉の声が東京より一段階強い、と駅舎を出た聡は思った。

「アキラ!」

声に振り返ると、漆のような黒塗りに太陽を反射させたシロトエンの横で将が手を振っていた。

『将』という呼びかけを、思わず飲み込んだのは、運転席の傍らできちんと帽子をかぶった運転手がこちらに一礼したからである。

聡も深々とお辞儀を返すと、教師バージョンで将を呼ぶ。

「鷹枝くん」

「将でいいよ。こっちでは、もう公認だから」

将はそういうと、目を細めて眩しげに聡を見つめた。

夏の日差しが眩しいのか、聡も目を細めている。

その顔や紺色のノースリーブのブラウスから剥き出しの腕の白さは太陽の光をそっくり照り返すかのようだ。

白いプリーツスカートは教室では見ないものだ。

「貧血は大丈夫?」

「ええ。サプリメントを飲んでるから、だいぶよくなったよ。……ケガのほうは?回復は順調?」

将でいい、といわれたが、そぐわない気がした聡は、主語を省略してしまった。

「手首は明日抜歯。腫れもだいたい引いたんだけど、左目と右足がどす黒くなっちゃってさぁ。気持ち悪いのなんのって」

将が冗談めかして答えたところで

「暑い中、立ち話も何ですから、中へどうぞ」

運転手の西嶋が、にこやかにシトロエンのドアをあけた。

 
 

「ヒージー。アキラを連れて来たよ」

将は唐長の襖に向かって声を張り上げると、それをいきなりすっと開けた。

聡はあわてて頭を深々と下げた。

「お初にお目にかかります。古城聡と申します」

「おお、おお、あきらさん。こっちに来て掛けなさい」

可動式ベッドに寄りかかっているのは、枯れ木のように痩せた老人だった。

だが、窓からの眩しい照り返しにも、重厚な調度にも負けないオーラが、どことなく漂っている。

なんといっても、大臣を務めたこともある政界の長老なのだ。

ちなみに今日は、巌のベッドのそばには、洋館から持ってきたソファがしつらえてある。

「あれ?あゆみさんは?」

いつも巌の世話をしているあゆみの姿が見えない。

「あれの『びすとろ』とやらのポトフが食いたいと言ってやったでな、なにやら慌てて取りに帰ったわ。

本当はお前が若い美人を連れてくるから、やきもちを焼いたらいかんと、わしが気を遣ったのじゃ」

といって巌はいたずらな笑顔を将、聡に向けた。

「若くて美しいだけでなく、好い所のお嬢さんじゃな。あきらさんは」

巌は細めた優しい目を聡に向けた。

「いいえ。とんでもありません。うちは共稼ぎの一般的な庶民です」

聡は笑みを浮かべながら、一言一言穏やかに返した。

「ふっふ。最近の若い娘さんで、畳の縁を踏まないように躾されている者は少ないぞ」

聡は声にしないで『ハイ』とやや照れて俯いた。萩の武家屋敷を借りて住んでいるゆえの賜物だろう。

いわゆる日本家屋における立居振舞は、家を大事に長持ちさせるための、合理的なものなのだ、と萩焼を焼く叔父に教わったのが役に立った。

「ところで……あきらさんは、将の学校の先生なのじゃな」

「ハイ……」

出された麦茶を飲んでいた聡は、喉がつまる思いがした。

それがどういう意図なのか、少し動悸がする。

将はたしか、二人のことはここでは公認だ、といった。

それを裏付けるようにさっきからアキラ、アキラと呼び捨てだ。

運転手も、お茶を出してくれた老婦人も、皆心底歓迎してくれているように感じた。

だが、先生=教師が教え子を……という事実を問い質されるのではないか、と聡は戦々恐々として巌のほうに視線をあげた。

「実は、学校の先生をしているあきらさんにぜひ訊いてみたいことがあったんじゃ」

「ハイ」

答えながら聡は思わず逃げ出したくなった。

将は、何も気づかないように、笑顔で聡と巌を見比べている。

「わしはな。畑仕事のあいまに、子供を持つ親御さんを集めて、教育についての意見などを聴くことにしているのだが……」

どうやら、将との恋仲を問い質されるのではない、とわかって、聡の張り詰めた気持ちが急にほぐれる。

「その中で『とにかく他人に迷惑をかけないように』という意見がやたらに目立つのじゃ。あきらさん、あきらさんはそれについてどうお考えじゃ?」

聡は思いがけない質問に軽く目を伏せた。

将は、聡の長い睫が下をむいたまま3回またたいて、再び巌の方に戻るのを見た。

「大事なことだと思います。……ですが」

「ほお?」

巌は、ですが、という接続詞に大いに興味を示した。

「あくまでも最低限、の話だと思います。それだけに終わってはいけないと思います」

将は、低い声で、ゆっくりながらも自分の意見を述べる聡の横顔を驚いて見つめた。

「その心は、いかに?」

「はい。……人間というのは生まれながらにして、知らず知らずのうちに誰かに迷惑をかけているものです。

それに、何が迷惑になるかは、個人の価値観や習慣によって違ったりします……」

「そうだな。日本では泥足で家に入ることは迷惑千万だが、英国などでは臭足を見せることのほうこそ迷惑だそうだからな」

「はい。ですから、どうしても迷惑をかけてしまうことを前提に、その分、何をすれば人の役に立てるか、喜ばせることができるか、を考えるほうが建設的だと思います」

聡はまっすぐに巌を見据えるといったんそう言い切った。だがすぐに「ただ」と付け加える。

「それはあくまでも私の理想です。……私の勤める高校では、最低限を身につけさせることでせいいっぱいです」

下を向いた聡の声は、最後には消え入りそうになった。

将はただ驚いていた。聡が、そのうるんだ瞳の中で、胸の中でこんなことを考えているとは。

「天晴れじゃ!」

いきなり大きな声が発せられたので、将も聡も驚いて巌のほうを見た。

巌は心から嬉しそうな顔を見せた。

「将!あきらさんは素晴らしい先生だ。お前も精進しないと、すぐに捨てられるぞ」

「そんな」

聡は思わず乗り出すようにして声にしてしまった。

『そんなことはない』という言葉の向こうにある自分の気持ち。

それを確認して思わず熱くなった顔を隠すように俯く。

「将、台所のハルさんを手伝ってきなさい」

なぜか巌は急に将に申し付けた。

「えー、なんで」

将は不満げに口を尖らせた。

「あきらさんに話があるんじゃ。つべこべ抜かすな」

なんだかんだ言っても巌には逆らえない。

将はちらりと聡のほうに視線を投げた。聡も心細げな顔を将のほうに向けたが、再び俯いてしまった。

巌の真剣な視線に、将は仕方なく立ち上がると、襖の向こうに消えた。

将がいなくなると、部屋はたちまち広くなってしまった。

昼下がりの庭から届く蝉の声はいっそう激しくなったように思えた。

「あきらさん」

永遠のように感じられる、重い沈黙のひとときを破って、巌は今までで最も優しい声をかけた。

「はい」

思いがけない声音に聡は顔をあげる。

こわごわ……だが、もう後戻りはできない、と意を決して可動式ベッドによりかかった巌の顔を見ようと試みた。

何の話か、だいたい予想はついている。

「将を……誠に好いてくれているのか」

あんなに騒がしかった蝉の声が感じられなくなった。

予想していたはずなのに、聡はとっさになんと答えていいかわからなくなった。

聡の視線はいとも簡単に、自らの膝のあたりに墜落した。

「……申し訳……ありません」

声にしたとたん、目をぎゅっとつむる。それがせいいっぱいだった。

恐い。

皺だらけの顔に、ほとんど動かないらしい体。優しい声。

だけど巌にはオーラがあった。

こんな立派な紳士の前で……教師が生徒に恋している、そんな浮ついた告白など、どうして出来ようか。

「あきらさん」

巌はぽつりと、呟くように聡の名を呼んだ。仙人の呼びかけのような、すべてを悟った声。

「……はい」

「顔をあげなさい」

巌の声は穏やかだったが、威厳に満ちていたので聡は、ぎこちなく顔をあげた。

聡の目にはすでに涙が浮かんでいた。恐ろしくて泣いてしまうなど、何年ぶりだろうか。

「……あやまることも、泣くこともない。わしは、あなた様を責めたいわけではないのじゃ」

「で、でも……すいません」

再び俯く聡の声の最後のほうは、喉の奥から絞り出すような細いものになっていた。

将は、襖のこちら側で盗み聞きしながら、聡がどれだけ自分とのことに罪の意識を持っているのかを再確認することになり、胸が痛んだ。

「なあ。あきらさん。あれは不憫な子でのう」

巌は俯いたままの聡に静かな調子で話し始めた。

「まだ子供の頃に母親を亡くし、寂しいときに父親は多忙のきわみ、やっときちんとした継母がやってきたと思ったら、爆破事件でぎくしゃくしてしもうた」

巌によって語られる将の身の上。将は襖の向こうで身じろぎもせずに聞いていた。

「家出中もいろいろとあったらしい」

いろいろ、とは主に殺人事件のことだろう。巌が略した内容は、聡も知っている。

聡は、そのことと、それがもたらした今回の将の負傷を思い、唾を飲み込んだ。

「……わかるかの。あれは心も体も傷だらけなのじゃ」

「……はい」

聡は返事をしながらハンカチで涙をぬぐっていた。

それは、最初は自らの罪の意識から出た恐れによるものだったが、徐々に将の身の上を再確認したゆえの憐憫の涙に変わっていた。

「1年前まで……あれの目はほんとうに冷たくて、そのくせ寂しげでのう。暮し向きも刹那的で殺伐としていたらしい。

あのままなら、あれはどうなっていたやら……だが」

巌はそこで言葉を区切る。聡に視線を注ぐ……それを感じて聡も、ハンカチを目にあてたまま、おずおずと顔を上げた。

「あれを変えたのは、あきらさん、まさに、あなた様なのじゃ」

皺の一部のような瞼を見開くようにして、聡を見つめている……その老人ながら澄んだ瞳は、すでに涙で潤んでいた。

「あなたのことを好いたおかげで、あれは本来の姿を取り戻したんじゃ」

聡は眉をゆがめて、必死でかぶりを振った。

違う。将は、最初から将だった。聡はそう思っている。

しかし、巌は続ける。

「単なる惚れたはれただけでは、こうはいかんだろう。あなた様だから将は立ち直ったんじゃ。

……あきらさん。あなたは将にとって、先生であり、恋人であり……、そして……おそらく、母でもあったのだろう」

りん、と風鈴が障子の外で鳴った。

風はガラス障子に遮られてここには届かない。

だが、それが合図のように、蝉の声が一瞬静かになった。

「あきらさん……どうか」

ぼうっとしていた聡はハッとして、巌のほうを見た。声の調子が穏やかなものから変わったからだ。

巌は左手をこきざみにふるわせて、こちらに伸ばそうとしていた。

聡は立ち上がると、ベッドの脇に寄ってその手をとった。

夏のさかりだというのに、乾いた手。乾いた薄い皮膚に覆われた長い指は……たしかに将との血のつながりを感じさせた。

巌は聡の顔を嬉しそうに見上げた。

「……あきらさん。どうか……頼む。わしの代わりに、あれ……将が」

巌の手は、表面だけでなく、その内部にも水分というものが極端に少ないように感じた。

かすかに感じる温かさを確かめるように聡は、握る手、そして巌を見つめる視線にそっと力をこめた。

「道をはずさぬよう……見守って……」

巌は白くなった睫にふちどられた目に涙を貯めて聡の顔を見つめた。

「そして……願わくば……倖せにしてやってくれ」

聡は、しばらく100歳の老人の瞳を見つめていた。

手の皮膚とおなじように乾いた瞼の中、涙に揺れる瞳の色は将と同じ色だった。

自分の目にも涙が溜まりはじめているせいか、それは徐々にぼやけていく。

そして、意を決すると、瞳から視線を動かさないまま、深くうなづいた。

巌は、安心したように微笑むと、ゆっくりと目を閉じた。

目じりから涙が次々と流れ落ちて掛け布団のカバーにしみをつくった。

そして聡に握られた手を、握り返すべく、ときおり震わせた。それが生きている証だった。

さっきより温かくなった気がする……そんな巌の手を握ったままの聡も、新しい涙が湧いてはとめどなく流れていた。

襖の向こう側では……将も涙ぐんでいた。

いつのまにか蝉の合唱が輪唱のようにこだましていた。

第259話 遺言(2)

「俺……知らないよ」

将は金色が徐々に赤みがかっていく空が見える縁側でつぶやいた。傍らには渦をまく蚊取り線香が置かれている。

打ち水で立ちのぼった土の香り、そして蚊取り線香の香り。これらは夏の夕暮れの気配をより濃厚にしている。

康三らは帰り、もとどおり縁側に沿うようにして巌のベッドは置かれている。

日が落ちてからは、待ちわびたようにいったんエアコンは止められ、蚊帳がつるされた。

夕風は、それで充分なほど、昼間の暑さを黙らせて、涼やかさを連れて来た。

いつも巌の傍らに寄り添うあゆみは風呂をもらっているところで、今、ここには巌と将の2人だけだ。

「生まれた順番だから、跡取なんて言われても……そんなのおかしいよ」

将は時間の経過につれ浮かび上がるような蚊取り線香の赤い火を見つめながらつぶやいた。

巌は、ふ、と笑みを浮かべて縁側にシルエットになった将の背中をみやった。

「わしの目はそれほど節穴ではないぞ」

夕食を終えたばかりで力がみなぎってきたのか、しっかりとした声で将に語りかける。

将は蚊取り線香と同じ色の蚊帳の中にいる巌を振り返った。

こちらが暗いのと、ベッドのわきに行燈があるから、中は透けてよく見える。

「だって……寺の系図に。長男が相続するって……」

将は、母の命日に菩提寺で見た、系図のことを口にしてみる。

「あれは、たまたまじゃ。もしお前の代で変えたければ、変えてもかまわん。ただし」

巌は意外にもそんなことを言ったあとで、

「長幼の序というのは、一理ある」

と付け加えた。腑に落ちない顔をしているであろう将に巌は続ける。

「早くに親の乳離れを強いられ、幼い弟妹の世話をしているうちに、おのずから強い忍耐力と統率力が鍛えられるのだ。

……もっとも最近は甘やかすばかりで長男をダメにする親も多いがな。お前の母の環さんは違った」

母の名前が出て、将は蚊取り線香の渦巻きの中に必死でおぼろげな母の顔を思い出そうとした。

しかし将が母のことで思い出すことといったら、ロマと一緒に出奔した際に、思い切りぶたれたこと、そしてあと抱きしめられたこと、それと病床のアネモネぐらいだ。

片手で数えられるほどの記憶を将はたぐりよせてみる。

「環さんはお前を厳しく躾けた。お前は生まれつき大変優秀な子供だった。普通の親だったら褒めてダメにするところだ。

『褒めて育てる』などというが、それは並みの子供を並に育てる際にすることじゃ。

学校で褒められるような優秀な子ほど、社会に出るまでは親が厳しくして精神力を鍛えてやらねば、社会の厳しさに挫折してしまう。

社会は勉強や運動が出来るだけでは渡っていけないからのう。

引きこもりやら、ニートなんてのは得てして、精神力と能力がアンバランスに育ってしまい、社会の厳しさに負けたよい例じゃ」

巌は持論を展開しつつ、将の実母の環を称えた。

「……自信をつけてやるのと甘やかすのは別の話じゃ。環さんはそれをよくわかっておった」

確かに、将は母親に甘やかされた記憶がない。

もっとも、フランスにいた将は、まわりの子を見てもそれがあたりまえだったので自分がことさらに不幸だと思ったことはない。

それよりも日本に帰ってきてから、スーパーでひっくり返ってダダをこねる自分と同年輩の子、またそれが恥かしいから、と折れて菓子を買ってやる親を見て逆にびっくりしたものだ。

または「みんなが見てるからやめなさい」というセリフ。

では、みんなが見ていなければやってもいいのか、と将は子供心に可笑しかった。

「それだけでなく、お前は母を早くに亡くしてしまった分、芯が強い。そして情愛に飢えた分、その大切さが身に沁みておる。

康三や純代さんに反抗したのもその裏返しだろう。お前は大変に誇り高い人間だからな」

年若い将は、誇り高いという言葉が居心地悪い。

将の年代で『誇り高い』『プライドが高い』という単語は、単にワガママで見栄張りと混同されている節がある。

用例を出せば『あの娘はプライドが高いから、ブランド品しか持たない』などだ。

もちろん国語力が際立って高い将は、その用例が間違っていることを知っている。

だが、なんとなくその言葉は、自分を形容する言葉としては面映かった。そんなことを将が感じているとは知らず、巌は続ける。

「誇り、というものは非常に大切だ。誇りのない人間は、他人の気をひくためや、金のため、生活のために簡単に魂を売り渡す。

ワシが入院していた病院にもな、バカめが毎日のようにお追従をのべにきよったわ……」

東京で巌が入院していた病院は、マスコミなどもシャットアウトする体制が出来ているとあって、要人御用達だった。

ゆえにそこは、汚職や言い訳のできないことをしでかした悪徳な政治家が逃げ込む場所でもあった。

健康でピンピンしているのに、『体調不良』を理由に入院している議員や官僚が、政界の大御所たる巌の入院にこぞって頭をさげに来たのだ。

巌は怒鳴りつけたかったが、言葉が不自由なこともあり、睨みつけるしかできなかったのだが、その冷たい視線に、そんな輩はほうほうの体で病室から逃げ出したものだ。

「己れが己れたるための誇りというものがある。ときとして、その誇りのために命を賭す場合もある。お前はそれに耐え得るだろう」

将は、それは買いかぶりだと思った。

脳裏の暗闇に瑞樹、そして大悟の顔が浮かぶ。

人殺しの罪を被せた上に、薬物依存から救い出すこともできなかった大悟……。

「俺よりも」

将は顔をあげて巌の瞳を見ようとして挫折した。視線は墜落して蚊取り線香に戻る。

「……孝太のほうが、血筋がいいんじゃないの」

孝太の実母である純代はやはり総理を輩出した岸田家の娘である。

「孝太はな。康三に似たのか、優しすぎる」

将は本当に驚いた。あの康三が優しい? 実母以上に、康三に可愛がってもらった記憶などない。

「オヤジが優しいって? ウッソだろ」

思わず将は、心のままを吐き出すようにしてしまった。

すると巌は楽しげに笑い声をたてた。

「ホッホッホ。覚えていないのか。お前が4つぐらいまで、康三はそれこそ舐めるように可愛がっておったんだがのう」

「……」

巌が語る康三の姿は将の記憶とはつながらない。だいたい、孝太に対してだって、そんな様子は見せたことはないのだから。

「家では威張っているんだろうが、あいつは穏やかすぎて、外ではケンカができん。だから皆に好かれるし、票集めは得意だろう」

巌は将の前で初めて父親を評し始めた。こんなことは初めてだ。

「次期総理などと、もてはやされているようだが、あいつは敢えて敵を作ることも、それを抑えこむこともできない。

……みておれ。あれが総理になったとたんに、大泉くんに押さえられていた魑魅魍魎どもが息を吹き返すぞ」

現大泉総理は、いままでの与党総理の中では画期的な改革を進めた。

おかげで『族議員』といわれる与党の古株たちはつねにホゾを噛み続けて来たといえる。

株式投資のために、世情を掴む必要のあった将も、そのあたりはだいたい知っている。

しかし自分にはかように厳しいあの父親が、世間的には穏やかで優しいという評価だとは知らなかった。

「将。わしが何故にお前に、『将』の名を与えたか知っているか」

巌は声の調子を変えて、将に問うた。

「孟子だか韓愈だかの漢文だろ」

「そうだ」

巌は満足そうにうなづいた。

いつのまに、空が赤く染まっている。あの、菩提寺で見たのより、いっそう明るい紅(くれない)。

「お前は、その名前に相応しい、豪胆さを身につけたはずだ……」

その紅色は、軒に隠れて、巌からは見えないらしい。巌は言葉をつむぐのをやめない。

「よいか、将。お前は罪を犯した。理由はともあれ、それは、人の罪の中で最も重いものだ」

将は空に見とれていた瞳を、思わず巌に戻した。

行燈に浮かび上がる巌は、言葉とはうらはらに穏やかだった。

「誰を守るためにしても、他人の命を奪ったことには変わりない」

あのとき、はっきりと言えなかった、将が人殺しにいたった理由を、巌は誰かに調べさせたのだろう。将はうつむいた。

腕に蚊が静かに止まった。それを叩きつぶそうとした手が……止まってしまう。

「しかしだ。その罪の意識ゆえ、お前はつねに正義をも意識して生きることになる。そして苦しむ人々をもまのあたりにしたはずだ」

再び大悟と瑞樹が蘇る。父に捨てられたような……父の代わりに借金取りに殴られる大悟。

生活のために犯罪に手を染めざるを得なかった大悟。

そして瑞樹。実母に虐待され、義父に犯され、帰る家もなかった瑞樹。

恵まれた社会とは、誰が言ったのだろうか。

将が垣間見た社会は、あまりにもすさんでいた。

蚊は将の血潮で腹を満たすと飛び立っていった。かすかにそこが痒い。

「将よ。……こっちへ来い」

巌は将を呼んだ。将は立ち上がると、蚊帳を静かにめくって巌の枕辺に立った。

巌は将のほうへ、ぶるぶると手を動かして言った。

「お前の誇り高き魂は……苦しむ人々とそれを守るべく在る国家のために使え」

将は三たび、巌の顔を見た。行燈に照らされた顔は、黄昏の薄闇の中で、いっそう厳かに見えた。目は稲妻のように光って将を見据えた。

将は、刀を受け取ったときと同じく……身震いするほどの緊張を覚えた。

「人気商売の世界で勉強するもよい。……だが、いずれ必ず、お国のために尽くせ。国土を喰らって肥え太る蛆虫どもを叩きだし、国を正すのじゃ」

将は緊張に耐えられず、

「何、俺にレーガンやシュワちゃんになれっていうの?」

とおどけてみた。巌は何も言わずに、目を細めると稲妻のような視線を弱めた。

「……将。これは、ワシの遺言だからな」

と微笑んだ巌に、将のほうが険しい顔になった。

「まだ早いよ! ヒージー」

「ところで……将よ、あきらさんに連絡はしたか」

巌は将の険しい顔を解くべく、聡の名前を出した。将は首を横に振る。

「何だ。早く呼べ」

「何でだよ」

「ワシが会いたいんじゃ。いろいろ話しておきたいことがあるんじゃ」

えー、ともったいぶる将に、

「明日がいい。お前はまた忙しくなるんだろう。明日来るように……今ここで電話しろ」

と巌は命令した。

将は言われて仕方なく……しかしさっきとは違った緊張を感じながら携帯を耳にあてた。

巌はそんな将を穏やかな笑顔で見守った。

第258話 遺言(1)

「うちで食べると、なんでも旨い」

あゆみに朝粥を口に運んでもらう巌は、心底嬉しそうだった。

それは、おかゆや具を小さく刻んだみそ汁、そしてハルさんの工夫で、畑の朝どれ野菜をカツオだしで煮てすり潰したものなどだったが、巌は1つ1つをいとおしそうに味わった。

将も巌のベッドの近くにダイニングテーブルを運んでもらって一緒に朝食を食べている。

7時というのは、ふだんだったらまだベッドの中でぐずぐずしている時間だ。

なのに、あたりは蝉の声はすでにクライマックスのような大合唱に包まれている。

東京のように、朝からのべったりとした暑さとは対照的に、縁側を開け放していると、笹の香りを含んだ、透き通った風が吹き抜けていくようだ。

目にも、露を浮かべた大輪の青、紫、ボタン色の朝顔、そして笹にまじってひっそりと花をつけたつゆ草がいかにも涼しげだ。

将はかつてそれを集めて色水をつくったことを思い出した。

灰の汁を入れると青い汁がピンク色になるのが面白くて何度も何度もつくったものだ。

「やっぱり、ぜんぶ開け放して風を入れられる日本家屋はよい。湿気の多いわが国に合った建築だ」

巌は『とったばかりの野菜は甘い』と感嘆した後で、こんどは日本家屋を絶賛する。

「そうですわね。マンションなどは壁で仕切られちゃってるから、空気がよどみますものね。

ぜんぶ開け放てる……とまではいかなくても、風がちゃんと通るマンションとか企画するようにお客様に提案してみようかしら」

とあゆみは目をくるりと巌の方に向けて、デザートの桃を差し出す。

「ぜひ、そうするがいい。電気も節約になろうぞ」

小さくきざんだ桃を口に運んでもらいながら、巌は満足げにうなづいた。

 
 

康三・純代・孝太は、朝顔がしおれる頃にやってきた。

出迎えた将の眼帯とテープが貼り付いた顔を見て、一同眉をひそめた。

康三は、将の全身を一瞥すると、口を丸くあけたまま絶句し、間をおいてようやく声を出した。

「お前……」

しかし康三が言葉を探している間に、孝太が

「お兄ちゃん、ケガ、大丈夫?」

と心配そうな声をたてて駆け寄ると見上げる。

将はいったんしゃがむと孝太にだけ

「大丈夫だよ。もう痛くはないんだよ」

と言って聞かせる。

もちろん康三や純代にも聞こえるような声で言っているのは、暗に『大丈夫だから口出しするな』という意味である。

将は孝太の頭をなでながら立ち上がると、康三と純代に向かって、巌のいる部屋のほうへと無言で顎をしゃくった。

 
 

「大おじいさま!」

孝太が巌のベッドに駆け寄る。

「おお、孝太。背がのびたのう」

巌にとっては孝太も可愛いひ孫であるから、ひさしぶりの再会に目を細めた。

孝太の後ろから、康三と純代が入ってきて頭を下げた。

巌のベッドは向きが変えられて、その横の広いスペースに座卓が置かれている。

「そこに座りなさい」

巌は、一家に厳かに指示をした。

ハルさんが間断を置かずに、切子のグラスに冷たい麦茶を淹れてきた。

純代は、

「あ、私が……」

といって立ち上がろうとしたが

「いいんですよ、お気遣いなく」

とハルさんにやんわりとかわされてしまい、きまり悪そうに座布団のうえに座りなおす。

そのまま下がろうとするハルさんに、巌は

「将は」

と訊く。

「お台所を手伝っていただいてますが」

「すぐに呼べ。それから西嶋にあれを持ってくるよう伝えろ」

巌は厳しい口調で命令した。

将が来るまでの間、蝉の声とかすかなエアコンのうなりだけが部屋に響く。

ときおり、巌が、康三に国政についての質問をした。

巌については、暇つぶしのような質問だったが、現官房長官を務める康三にはなかなかの難問だった。

そのつど康三は汗をぬぐいながら、たどたどしく答える。

巌はその答えを聞いて、ふっと歯のない口角をあげる。

その意地悪気な笑顔に傍らのあゆみが団扇で風を送りながら、眉をひそめてときおり巌を睨む。

公然同様である巌の妾のあゆみも、康三家族の前では、一応ひかえめにしているのである。

「ヒージー。なんだよ」

まもなく将が廊下側の障子をあけて現れた。

乱暴な口調に、純代が眉をひそめる。

しかし巌は康三に向けていた意地悪さからはうってかわった笑顔を将に向けた。

「将。そこに座れ」

鴨居をくぐるようにして部屋に入った将は不承不承、康三や純代と同じ卓を囲んで腰を下ろした。

隣の席の孝太だけが嬉しそうに将を見上げた。

永遠に続くかと思われた蝉の声だが、まもなく襖があいて運転手の西嶋が現れた。

こうべを垂れ、鞘に入った日本刀を両手に捧げるように持ち、しずしずと巌のベッドの方へと進んだ。

康三が、ハッとしてその刀の行方を見届ける。

巌はうむ、とうなづくと目の前に差し出された刀を満足そうに見つめた。

あゆみが巌の手を取り、刀の柄や鞘に触れさせる。巌はいとおしそうに、かつ慎重にその感触を確かめる。

「これが何かわかるか……康三はわかるな」

「……ハイ」

康三は神妙にうなづいた。それは将が今までに見たこともない様子だった。

「これは、薩摩藩士だった我が家に伝わる刀じゃ。……伝わるといっても、下っ端の藩士であった我が家じゃ、ご維新の廃刀令からまもなく売り払ったのだが……わしが買い戻したものだ」

将はもちろん、純代も孝太も初めて見る刀だった。

シンプルな柄に鷹枝家の紋だけが入った黒い鞘は、百年以上の歴史を語るように庭からの夏の光りを鈍く反射させた。

「わしは、この刀が代々の鷹枝の跡取に受け継がれるべく、まずは息子の周太郎に託した」

皆は、神妙に巌のしわがれた声に耳を傾けた。心なしか蝉の声も少しやんだようだ。

ちなみに周太郎は巌の長男で、将には祖父にあたる。

「そして周太郎から、周一に渡ったのだが、周一はあのとおり若くして亡くなった」

巌の孫、康三の実兄で将には叔父にあたる周一は、将が生まれる前に事故で亡くなっている。

「いったん周一に渡ったこれは、周太郎のもとに戻された。周太郎は康三に渡さねば、と思っていたらしいが、そのうちに周太郎めも、親より先に死におったわ。親不孝者が」

総理をも務めた将の祖父の周太郎の死は、その親の巌にとっては、親より先に逝ったという悲痛な側面を持っている。

だが、その口調はややユーモラスでさえあった。

「……かくのごとくして、刀はわしの手に戻ってきおった。だが」

巌はそこで言葉を区切った。声がかすれたのをあゆみが気付いて、吸い飲みを差し出す。

それをうまそうに飲んだ巌は、凛として言い放った。

「今日から、この刀は将のものだ」

一同、いっせいに息を飲み……それゆえに空気が張り詰める。

皆、微動だにしない。

驚きのあまり、貼り付いたような瞳をぎこちなく動かして、巌と刀の両方を見比べる将。

目をやや見開きながらも、口を結んで巌をまっすぐに見つめる康三。

眼窩から目が転げ落ちそうなほど目を見開き、はずみで口まで半開きになった純代。

びっくりした顔で将と刀を見比べる孝太。

蝉の合唱だけが、息継ぎを終えたかのように再び激しくなった。

「鷹枝の跡取は、将だ。……康三、よいな」

康三は瞳を将に走らせた。将の視線も康三へと引き寄せられる。目が一瞬あう。

康三は……将の予想に反して、その瞳の奥にはなぜか喜びが映っているように見えた。ほんのわずかであったけれど。

「……はい。わかりました」

康三は神妙に頭を下げた。

「純代さん」

呆けていた純代は、ハッとして姿勢と顔を正した。

「ハイ!」

「まだまだやんちゃな跡取ですが、よろしくお願いします」

巌は、純代を見据えると、動ける最大の角度で純代に頭を垂れようとした。

「は、ハイ。……ゆきとどかないところもありますが」

純代もうろたえながらも、体勢を立て直し、深々と頭を下げる。

「孝太」

「はいっ!」

孝太は背筋を伸ばした。

「お兄ちゃんが好きか」

その口調はいままでのものと違って、ぐっと優しかった。

孝太はなぜか、目をうるませて、大きくうなづいた。

心優しい孝太は病床の巌からいろいろなことを……これが、きっと巌の遺言であることを感じ取っていたのだろう。

「……お前は優しい子だ。将といつまでも仲良く、そして何かの折には、きっと助けてあげるのだよ」

巌は孝太に向かって手を伸ばそうとした。

孝太は、純代に静かにうながされて、立ち上がると巌のベッドのわきに寄った。将とよく似た目の中の瞳はすでに涙で濡れて光っている。

「……お前にも、ちゃんと渡すものがある。あとで西嶋に出してもらいなさい」

巌は穏やかな口調で孝太に言い聞かせた。孝太は深くうなづいた。

最後に巌は、将に顔を向けた。

刀を捧げ持つ西嶋が将に向かって一礼をする。

康三も、将に目で合図をした。

将はごくり、と唾を飲んだ。それを腹まで落としこむと、息を深く吸い込む。

そして意を決して立ち上がる。

鉛のように重く、硬直した関節を引き剥がすように動かしてベッドへと近寄る。

乾いた皺だらけの巌の顔の中で、瞳だけがきらりと光った。

西嶋が刀を将に差し出した。

心臓が鈍い音で全身に血を送っている。

それは耳のそばに埋め込まれたようにどくん、どくんと鳴り響いている。

血とともに先祖から受け継がれた、刀。

躊躇する心とは別に、体を流れる血がそれを懐かしがるかのように、勝手に手が吸い寄せられた。

それは心に重く、物理的には思ったよりずっと軽かった。

そして、意外なほど優しげな感触だった。この中に、人を斬るための武器が入っているとはとうてい思えない。

それを両手で握った将は、今まで息をするのを忘れていたことに気付いて大きく息をついた。

刀を握り締めた将に、巌はいつになく謹厳なる口調で語り始めた。

「将。いいか……これからは鷹枝の跡取として、何をするにも……」

だが、そこまで言ったところで、息が荒くなった。少し根をつめすぎたのだろう。

「無理なさらないで。将さんは、明日までいらっしゃいますから」

あゆみがそっと囁く。巌も

「そうだな。明日のほうがよいだろう……」

と頷いた。

「しんみりさせてもうたが、昼餉にしようじゃないか。わしも腹がすいたわ」

と巌は息を整えると、明るい声を出した。

第257話 最後の夏空(3)

「将。どうした。うかない顔をして」

巌の声に、水平線の上あたりに彷徨していた将の意識は、車の中に舞い戻った。

将は今、巌と彼が横たわるベッドごと乗せた、病院の患者搬送車に同乗している。

車はすでに東名高速を走っている。窓の外には、紺色に霞む水平線が見えている。

「ん……なんでもないよ」

将はあいかわらず眼帯をした顔を巌の方に向けた。

「なんでもない、という顔じゃあるまい」

そんなことを問いかけながら、巌はごきげんだった。

あんなに帰りたがっていた大磯にいよいよ帰れるのだ。

あまりに嬉しかったのか、不自由だった言葉もほとんど元に戻っている。結局、

『死に体になってまで生き延びとうないわ。人権とやらを尊重しろ』

との罵声まで交えた、巌の懇願に病院長が折れた形になる。

『いい顔をしない』といっていた康三や純代も、結局、巌には逆らえなかった。

純代とあゆみが連携して、大磯の邸宅での看護ができうるよう設備や人を整えることになった。

将が一緒に頼まなくても、充分説得できたのでは、と将は少し可笑しかった。

そして、用意が整った金曜日、巌は待ちきれないように退院し、こうして特別仕様車で搬送されているのだ。

将のケガの方だが、今日までに顔の腫れはだいたいひいた。

だが、傷はまだ治っていないし(一応手首の傷は月曜に抜糸といわれた)、左瞼の痣は真っ黒になって残ったのでそれを隠すべく眼帯をしている。

足のほうの腫れは引きつつあるが、それでもまだ普通の靴は履けない(それもサンダルの時期だからあまり違和感はない。包帯が暑苦しいだけだ)。

痛み的にはかなり改善されたのだが、見た目的にはまだまだで、昨日顔を見に来た武藤はため息をついたほどだ。

 
 

「……さては、あきらさんとケンカでもしたのか」

「違うよ」

将はふいに出てきた聡の名前にハッとした。名前だけでも、心がふんわりしたものに、一瞬だけ包まれる。

「じゃあ、どうしたんだ」

将は黙り込んだ。将が窓の外に考えていたのは、大悟のことだった。

大悟はいまごろ……拘束されて苦しんでいるのだろうか。

『俺を見捨てるのか』というリフレインは、しつこく将を苦しめていた。

「友達のことで。ちょっと」

将は素直に、少しだけ打ち明けた。

「島大悟くんのことか……。わしでよかったら、相談に乗るぞ」

大悟の一件を何も知らない巌は、ひ孫をいたわるような優しい瞳をベッドの上から向けた。

将は首を振ると、もう一度窓の外に視線を投げた。

「もう……いいんだ」

どうにもならないんだ。という言葉を静かに飲みくだす。

せっかく巌のつてで、保護者として、運転手の西嶋の弟である西嶋隆弘を紹介してもらったのに、矯正病院送りになってしまった大悟。

西嶋隆弘・節子夫妻のもとにもその連絡は行っているだろうが、どうなっただろうか……。

三宅弁護士に訊けば夫妻の身の処し方はわかるだろうが、将はそれを聞くのが恐かった。

巌は、横たわったまま、そんな将の横顔を見つめていたが、ふいに

「あきらさんとはうまくいってるんだな」

と問い掛ける。

その口調から、どうやら将を元気付けようと思ったらしい。将は巌の方に視線を戻した。

「うん。順調だよ」

本当は……大人になるまで離れることにした。でも、そんなことは言わなくていいだろうと将は判断した。

「あきらさんと……結婚したいか」

「……なんだよ。いきなり」

突拍子もない質問に、将はあわてた。

思わず動揺が体に出るところだったが、辛くも止める。

「だから、一緒になりたいか、と訊いているんだ」

巌の瞳は、まったくふざけていなかった。しごく真剣に将を見つめていた。

できるなら、18歳になった瞬間に結婚したかった……そんな熱い思いが腹の底からこみあげてくる。

「……そりゃ」

それだけいうと将は下を向いた。巌がこちらを見て微笑んでいるのがわかり、将は照れた。

しばらく巌は、将がひとりで照れる様を、枕から見上げていたが、ふと、

「いいのう……」

とつぶやくと、目を閉じた。

ごくんと、枯れ木のような喉が動き……気がつくと巌の閉じた瞼の縁に涙が光っていた。

「ヒージー」

「……なんでもない。昔のことを思い出したんだ」

将は、大丈夫、と問いかけながらタオルで涙をぬぐってやった。

すまん、と答えながら巌は少し赤くなった瞼をあけた。

「将。この夏のうちに……わしが……生きているうちに」

「バカなこというなよ」

将は巌の言葉を強く遮った。

夏の終わりまでに巌が逝ってしまうなどという不吉なセリフは、本人でも許せない。

巌は少し微笑むと続けた。

「あきらさんを、大磯につれて来い。一度会っておきたい」

「どうして」

「お前がそこまで惚れた女を見たいだけじゃ」

巌はニイと笑った。入れ歯を入れていない巌はいっそう年を取って見える。

その口元は、ピンク色の口腔の中へと入っていくように縦に皺が入っているのだが、それが一瞬なくなるような笑顔だった。

困り顔の将に

「できるだけ早くな」

と催促する。

 
 

「巌さーん」「御前ー」

「ふぉっふぉっ。婆が2人寄ってきよったわ」

門前で、ベッドごと慎重におろされた巌は、駆け寄ってきたハルさんとあゆみを見て笑った。

あゆみは、巌の介護のために、なんとここに寝泊りすることにして、先に東京からやってきていたのだ。

車庫にはあゆみのシルバーのベンツがとまっている。

さまざまな種類の蝉の声が、大木の濃い影が巌を歓迎するかのようだ。

夏の盛りとあって、涼しげな木陰でも、さすがに暑い。

だがアスファルトが少ないせいなのか、その暑さは東京のそれのように攻撃的ではない。

「笹の香りがするのお」

巌はベッドに横たわったまま、鼻をくんくんと動かした。

ハルさんが打ち水をしておいた庭からは、下生えの笹の甘い香りがただよってくる。

甘い香りは、これだったのか、と将は今気がついた。

「お暑いでしょう」

まだ昼下がりといっていい時間帯だ。

庭を横切る巌のベッドに陽射しが直接あたるのがよくないだろうと、あゆみは日傘を差しかけた。スワトウ生地の上等なものだ。

「よい……。少し止めてくれ」

巌は、あゆみに日傘をどけるように、そしてベッドを運ぶ男に止まるように言った。

ベッドに直射日光があたる中、巌は懐かしそうに庭とそれを囲むような母屋と洋館の離れ、そして土蔵を見渡した。

そして、最後に真上に広がる空を見上げた。巌の上には雲1つなかった。

「まぶしいのお……。夏空は……」

いつまでも飽かず、いとおしむように、目を細めながら巌は空を見ていた。

「体に毒ですから」

付き添った医師が声をかけるまで、巌は空を眺めていた。

ベッドのあとについていきながら、将も空を見上げた。

澄んだ青に、蝉の声ごと体が吸い込まれていくような錯覚に見舞われる。

 

巌の担架は縁側からあげられ、いつも寝ている部屋にしつらえられたベッドに置かれた。

ちなみに時間が来ると自動的に寝返りをうつようにして床ずれを防ぐ、最新型の介護ベッドである。

「なんだか、違って見えるのう」

ひさびさに自分の部屋に帰ってきた巌は、頭を動かして部屋を見回した。

「布団とベッドで高さが違いますから」

ハルさんが布団を整えながらにこやかに言った。

「それに、わしは冷房は好かん、といったはずじゃ」

巌の部屋にはエアコンがなかったのだが、急遽障子の前に置かれている。

家を傷つけるのを巌が許さなかったので、パイプはガラス障子の隙間から縁側を伝って外に出されることになっている。

「急な気温の変化がよくないって、お医者様がおっしゃったでしょ」

あゆみは、ハルさんに渡された熱い蒸しタオルで、少し汗ばんだ巌の顔をぬぐいながら言い聞かせる。

半分開け放したままの障子から入り込んでくる夏の空気に対抗するように、エアコンはフル稼働している。

「康三さん一家は明日来られるそうです」

運転手の西嶋が開け放したままの縁側から顔を出した。

「『あれ』は……」

「準備してございます」

「よし」

巌は満足そうな顔を、なぜか将に向けた。

将の「へ?」というリアクションを見届けると巌は

「やれやれ。ついているのは婆二人だけかい。わしも落ちたもんじゃ。……将、早くあきらさんを呼べよ」

そんな憎まれ口を叩いて、あゆみとハルさんを笑わせた。

そして障子を閉めようとする西嶋を少しだけ制すると、揺れる風鈴の音を静かに味わった。

第256話 最後の夏空(2)

病院の中は、ひんやりしていて、灼けるようなアスファルトの上を歩いてきた将はほっとした。

昨日行った学校の近くの病院と違って、高額な入院費が必要な、名士御用達のこの病院はとても静かである。

だが、共通しているのは消毒液がまじっているような、苦い空気だ。

汗がひくにつれて将は息苦しくなってくるのを感じた。

ロビーの水槽に高価なランチュウと丹頂がふわふわと漂っていた。

カルキを無理やり薬で中和した水道水の中の金魚も同じような息苦しさなのかもしれない、と将は思った。

 
 

「し……将!」

病室におずおずと顔を出した将の形相にさすがの巌も驚いたようだ。

可動式ベッドに寄りかかったまま、皺に埋もれた目を見開くようにした。

将に背を向けるように座っていた妾のあゆみさんも濃いアイラインにふちどられた目を真ん丸く見開いた。

しかし次の瞬間、巌は発作のように怪鳥の叫びのような声をたてた。

「ヒーッヒッヒッ……」

なんだか、苦しげにさえ聞こえる声に将のほうも目を見開く。

「巌さんたら……」

あゆみさんが、そんな巌に、目を細める。

そして将に向かって口角をあげたので、ようやく巌は笑っているのだとわかった。

「男前だ!将」

ヒッヒッヒ、ふぉっふぉっふぉとしばらく笑い続けた巌は、途中で本当に苦しくなったらしい。胸を押さえた。

「ヒージー!」

将は思わずベッドに駆け寄る。あゆみさんも椅子を立ち上がる。

「たいしたことは……ない。おかしくて……酸欠になるかと、思ったぞ」

巌は苦しげに微笑を見せた。

 

「今日、呼んだのはな。他でもない……」

巌は3時のおやつに、崩したプリンをあゆみにスプーンで口元に運んでもらいながら言った。

プリンは、将が見舞いに持っていったものである。

巌が妻を失って以来の妾であるあゆみは、ただ囲われるのをよしとせず、巌に買ってもらった銀座の店を切り盛りしている。

店を繁盛させたお金で、深夜営業のビストロを始め、それもなかなかの評判だ。

あまり美人ではないが、頭のよさが強い視線に、人のよさが柔和な頬のラインに現れている。

「もうすぐ、病院長の巡回があるでのう。わしを、大磯に戻すよう、一緒に頼んでほしいんだ」

巌は、皺の襞の中の瞳を将をまっすぐに向けていた。

「どうして俺に……」

将は、無理だ、と思いつつ、それを巌が望むのは当然だ、とも思う。

巌は、あの大磯の邸宅をことのほか愛しているのだ。

『わしはここで死ぬ。わしの死に場所はここじゃ』という言葉も何度となく聞いている。

その言葉を思い出した将は……どきりとする。

死ぬ。ヒージーが死んでしまう……。

もしかして巌は死期を悟って、そんなことを言っているのではないか。

「何度も頼んだんじゃ。すりつぶせば普通食も食べられるでのう。だが……あいつめ、ご家族に相談する、というばかりじゃ」

病院長のことを、あいつめ、といって巌は皺だらけの顔をしかめた。

「康三も純代さんもいい顔をせんのじゃ……。バカめが。それで、うちの跡取のお前にな」

「でも、ヒージー。体は……まだ」

将は寝たきり、という言葉を飲み込んだ。

「同じ寝たきりなら、こんな空気の悪いところより、大磯のほうがいいだろう」

飲み込んだ言葉は、巌にはお見通しだったようだ。

「それに……大磯には……、お前に渡すものがある。大事な、大事なものじゃ」

巌は真剣な顔だった。言葉に力を込めすぎたのか、途中で苦しげに息をついた。

「あら、あたしにはくださらないの?」

あゆみは、巌の緊張をほぐすべく、おどけた。

「お前には、これ以上やらんっ。スッテンテンになっちまうわっ」

巌も心得たように、冗談で応じた。

マンションと店を買い与えてこそいるが、あゆみは巌がこちらに来て以来、店は若いものにまかせて献身的に巌の看病をしている。

自分が付き添えないときは、店の女の子の中でも優しくて賢い娘に自分でギャラを払って巌の世話をお願いしているほどだ。

「あら、残念。身ぐるみ剥いで差し上げようと思ってましたのに」

ほほほ、とあゆみはカールした髪を揺らせて笑った。そんなふうに笑うと、さすがに艶っぽい。

もうすぐ60歳になるはずなのに、10は若く見える。

あとで聞いた話だが、将の父の康三は、彼女にいくばくかのお金で礼をしようとしたというが、彼女は

「お世話になったのはわたくしのほうですから」とそれを固辞したという。

「とにかく……大磯に帰りたい。お前ならわかるはずだ」

「ヒージー……」

「一緒に頼んでくれ。な」

そうこうしている間に、病院長が主治医を連れてやってきた。

病院長は将の姿を見ると

「これはこれは……いつもテレビで拝見していますよ」

と声をかけた。名士録に載る様な人物にふさわしい穏やかなバリトンの声だ。

将は頭をさげた。

病院長は、将の顔の傷のことは何も触れずに、巌の方に向き直った。

彼が言葉を発する前に、巌は

「今日こそ、頼みますよ。ワシを大磯に帰してくださらんか」

先制攻撃をしかけた。

「無理ですよ……依然、いつ発作が起きるかわからない状況ですし。そうなったらお命が危険です」

主治医が横から答えた。

「命が危険なのは、ここでも同じだろうに」

巌はすかさず言った。可動式ベッドから身を乗り出そうとして、首だけが前に出ている。

息も少し荒くなっていて、あゆみが心配そうに肩に手をおく。

それに「いい」と小さく答えると、巌は

「もう100年も生きたんだ。心の臓もポンコツになってしかるべきじゃ……どんなに最新の科学でも……老いには勝てん」

とまず主治医に言う。黙り込む主治医が、巌の言葉が正しいことを示している。

巌の心臓は、発作の危険から逃れられるレベルまで治ることはないのだ……。

「ポンコツの心臓が止まるのを待つなら……待っている間は……好きなところで過ごしたいんじゃ」

病院長に向けられた言葉に、将は巌のほうを振り返る。

心臓が止まる=死。やはり巌は死を覚悟しているのだ……。

巌は可動式ベッドに頭まで寄り掛かると遠い眼をした。

その視線の先には、きっと大磯があるのだ、と将にはわかる。

「それに……。これに手渡さなくてはならないものが、大磯にはあるんだ」

巌は視線で将を病院長の前に連れ出すようにした。

「将、お前も頼め」

将は困惑した。巌にはいつまでも生きながらえてほしいからだ。

「巌さん。発作が起きても、ここにいれば、すぐに適切な手当てができるんです」

病院長は静かに巌を諭そうとした。

だが巌は

「こんなところで、無理やり永らえてもなんになろうや……。一度や二度は蘇っても、そのうち管まみれにされるのであろう」

鮮やかな大磯の夏を思い浮かべていた将に、いつかテレビで見た、意識もなくスパゲティのように管を取り付けられた患者の姿がよぎる。

大磯は……ここと違って、空気も甘かった。

香ばしいほどに香る青草に、はるかに望む太平洋の潮の香りが隠し香になっているのだろうか。

夏はことさら、むせるほどの酸素の濃さを感じた。

それをそのまま、色にしたような、早朝からつゆ草のような濃い青色の空の下で、

『今年も、うまいこと実ったわい』と

きゅうりを千切る、ランニング姿の巌。

粉をふいたようなきゅうりが旨いのだと得意げに見せてくれたあの姿はスパゲティの患者とどうしてもうまく重ならない。

巌にはいつまでも生きていてほしい。それは将の本心だ。

たとえ管まみれになろうとも。

そうやって息をつないでいれば、いつかは……医療が発達すれば心臓だって元通りに治る日がくるかもしれない……。

いったんそこまでたどりついた思考に将は、ふと違和感を覚える。

たしかに、医療は発達するかもしれない。

しかし、その日まで巌は、あの大磯の夏空の下に帰れないことになる。

それは、今年中とかそんなはずはなく。

そこまでに最低でも何十年かの歳月がかかることは、あたりまえだった。

それまでに間にあわなかったら。

何度目かの発作で巌は管まみれになり……愛する大磯の家とは逢えないまま逝くことになる。

老いと医療の発達の競争を……管まみれになってもいいから、と強いるのは……。

『生きていてほしい』というのは、エゴイズムなのかもしれない、と将はふと思った。

『人命は地球より重い』という大義名分があるから、それはエゴには見えない美しい願いに見えるけれど。

巌の命を尊重するがゆえに、彼が最も愛するものと引き裂いている状態は……巌を愛しているといえるだろうか。

 
 

「100年の締めくくりの場所ぐらい、自分で決めさせてくれ」

なおも、巌は訴え続ける。

「しかし……まだ、発作が」

病院長はにがりきっている。

「ヒージーを。なんとか大磯に帰せないでしょうか」

将は立ち上がった。

「将くん……」

「お願いします」

将は頭を下げた。そんな将をよく見ようと、巌は皺の襞を見開くようにした。その中の目にはすでに熱いものがこみあげている。

「君が、そういっても……。お父さんや、お母さんが……」

病院長は、将を子ども扱いして、却下しようとした。

「父と母は、僕が説得します。曽祖父本人の希望なんです。お願いします」

「将は……立派な鷹枝の跡取じゃ。子供扱い……しないでくれ」

巌は手を伸ばそうとした。あゆみがその手を取る。

「すり潰せば、普通の食事もできる。付き添いは……頼めばよい」

巌がそういうと

「大磯の病院から毎日、先生に巡回してもらいましょうよ」

あゆみは優しく巌にそう語りかけると、主治医を振り返った。

「必要なことは、何でも整えますから……曽祖父の願いを聞いてやってください」

将はもう一度、頭を深く下げた。

「ううむ……」

病院長は主治医と顔を見合わせた。

第255話 最後の夏空(1)

翌日もよく晴れた。朝から青空は輝き、入道雲はむくむくと膨れ上がった。

将は、ソファでそのまま眠ってしまったようだ。

カーテンも閉めずにほったらかした部屋は、日中の明るさにその惨状を顕わにしていた。

エアコンだけが……外の夏空から遮断されたこの部屋に、冷え冷えとした空気をこんこんと送り出している。

将はソファの上から、体をおこすことなく、部屋をみまわした。

眠ったおかげで……将を襲った罪悪感は、記憶と共に整理されたかのようでもある。

罪悪感が心に突き刺さる痛みは、昨日よりはるかに小さい。

だがその痛みは、切り傷の鋭い痛みからしつこい疼痛に姿を変えて、将を苦しめているのには変わりはない。

体のほうの痛みは、適切に手当てをされたせいか、半分ほどになっているが、心のほうの痛みはそうはいかないらしい。

爽快さを主張しながら飛び込んでくる眩しい夏空の照り返し。

ここ10階の部屋にも否応無しに飛び込んでくるそれが、今の将には心底うざったかった。

ゆえにしばらくソファから動かなかった。

サイレントマナーにした携帯がピカピカと着信を告げているのもどうでもいい。

仕方なく動いたのは、昼前に家政婦がやってきたからである。

家政婦は、以前将が荒れていた頃からここに通っていたので、部屋の惨状を目にしたときの反応も小さかった。

……前に、プチ家出している連中が雨宿りに来ていた頃は、毎日のようにすべての部屋が汚れていた。

それをこの家政婦は毎日掃除していたのだ。

単に、ここのところラクだった掃除が、今日はひさしぶりに大変になるぞという、かすかな面倒くささと、仕事を前にした小さな意気込みが彼女の後姿には見えた。

将はソファに寝そべったまま

「すいません。手間かけて」

と形式上謝ってみる。すると家政婦は、そんな将のセリフに少し驚いたようだった。

しかしすぐに驚いた表情を引っ込めると、作り笑顔で

「いいんですよ。仕事ですから」

と答えた。そして掃除機を使い出した。

一般的な感想だろうが……将は掃除機の音が大嫌いだった。

だが、オーク材のフローリングの上に散らばった、生米のようなクッションの中身が面白いように吸い込まれていくのに一瞬見とれた。

だが、それらがすべてなくなると、こんどは激しい轟音に自分まで吸い込まれてしまうような気がして、将はあわててバスルームに逃げ込んだ。

考えてみたら夏なのに、もう2晩もシャワーを浴びていない。

体のあちこちがどことなくベトつくようだ。

裸になり、右足首の包帯を解いた将は、右足全体が紫色に膨れ上がっているのに少したじろいだ。

ドアにはさんだのは踝なのに、なぜか、つま先のほうが腫れ上がっている。

そこに痛みはないが、不気味だった。

濡れないように右腕の傷をよけて湯を浴びる。

裸になって剥き出しになる、一連の自分の自己防衛本能に、ふいに軽い吐き気のような嫌悪がこみあげてくる……。

バスローブを羽織ってそのまま寝室に篭ろうとした将だが、家政婦が珍しく引きとめた。

今までは将がどうしようと頓着しなかった家政婦だ。

「坊ちゃん、巌様からお電話がありましたよ」

「ヒージーが?」

入院している曽祖父の巌である。携帯を無視し続けているのに業を煮やして固定電話のほうに電話をかけたらしい。

「すぐに掛けなおせとおっしゃっていました」

自分で電話ができるほど回復したのだろうか。

将はすぐに、家政婦がメモした番号に掛けなおした。

090から始まる番号は携帯のようだが、巌は携帯は持っていないはずだ……。

しかし、掛けるなりすぐに艶やかな女の声で

「将さん。おひさしぶりです……すぐに巌さんに変わりますわね」

と聞こえたので将は、ああ、と納得した。

ヒージーの30年来の付き合いの妾に、巌は携帯電話をかけてもらったのだろう。

電話の向こうから、巌の少ししゃがれた声が聞こえた。

「将。いいいい、今、な、何をしている。し……仕事か」

電話はこういうときに不便だと思う。

目の前にいたら、俯くなり、そっぽを向いたりする姿でだいたい察してもらえる。

仕方ないので

「いや。休み」

と短く答える。

「休みか。や……休みなら、顔を出せ。た……頼みがある」

巌の病室を訪れるのは悪くない。

だが……腫れ上がり傷だらけの将の顔を見せるのは、心臓を痛めて入院している巌の病状によくないのではないだろうか。

「ヒージー。俺さ。ちょっといろいろあってサ」

「い……いろいろとは何じゃ。休みなんだろうが」

巌は不機嫌そうな声を出す。面白いことに怒りゆえの言葉は比較的流暢に出るらしい。

「いや……。ちょっと顔が。男の勲章みたいな」

将は遠まわしに、顔が傷だらけであることを告白してみる。

「何を?……ははーん。お前、年甲斐もなく、取っ組み合いをしたのか」

「ま、そんなとこ」

巌は愉快そうに電話の向こうで笑い声をたてた。

笑い声は元気そうに見えた。前に病室に行ったときより、言葉ともども、かなり回復しているらしかった。

その声に将も癒される。

「よいわ、よいわ。お前の勲章を、とくと見てやるから、来い。い……いいな」

いつものことだが、巌には逆らえない。

電話を切った将はため息をついたが、決して嫌な気分ではない。

 
 

車に乗りたいが、右足がこんな状態での運転は無理なので、家政婦が買ってきてくれたつっかけを包帯で倍にも膨れた右足に履いて、電車を利用することにする。

松葉杖をついていた頃に比べれば、別に歩行に不自由はない。

それよりも、閉口したのは人目だ。

昨日より若干腫れが引いた顔は、SHOに戻りつつある。

さっき洗面所で鏡をチェックした将は、左瞼の腫れと色鮮やかな痣はあいかわらずながら、頬の腫れがかなり引いているのを確認した。

まるで、怪談のお岩さんのような左瞼は、あまりに不気味なので、商店街で眼帯を買って身につけている。

しかし、そのおかげでよけいにSHOらしく戻ってしまったらしい。

電車の中で、携帯をチェックしながら、将は

「ちょっと、あれSHOじゃん」

「違うよ、傷だらけじゃん。だいたい電車に乗るはずないじゃん」

「でもそっくりだよ」

というギャルのささやきを無視するのに骨を折った。

――僕は単なるそっくりさんです。

と自分に言い聞かせるようにして、居直る。

タクシーを利用してもよかったが、芸能活動のおかげで、思うような株取引がやれてない今、お金はできるだけ大事に使おうと思っているのだ。

携帯のメールには、心配する聡のほかに、武藤からの連絡が入っていた。

それによると、『ばくせん2』の収録は将の部分だけ1週間休みにしてもらったことが書かれていた。

そのせいで、脚本も書き直してもらったという。

収録中の6話の残りは自然な形で将が出てこないようにしてもらい、将がメインになる7話は、四之宮がメインになる8話と急遽差し替えになったらしい。

脚本家に払う修正料については事務所持ちになったとも書かれていた。

CMについては、代役をたてようと代理店は提案をしたらしいが、ありがたいことに、ぜひ将で撮りたいというクライアントの熱意があり、これは1週間程度なら延期してもらえるということだった。

結果的に1週間休みになってしまったが、1週間でできるだけ顔のケガを直すよう努力をしろ。

皆に迷惑をかけているということを忘れるな。

それでも干されないということに感謝の気持ちを忘れるな。

復帰したら、共演みんなにお詫び行脚だから覚悟しろ。

と武藤は結んでいた。

明日まで調整で忙しいが、あさって頃から、たびたび顔をチェックしにくる、とPSに書かれていた。

共演で仲良くなった大野からもメールが入っていた。

そこには、あくまでも噂だという前ふりで、7話と8話の差し替えは、四之宮が自分から言い出したらしいことが大野本人の驚きと共に書かれていた。

どうやら、たまたまその週にあったオフを潰していい、とマネージャーに持ち掛けたらしい。

過密スケジュールの四之宮にとってどんなにオフが待ち遠しいか、将程度の忙しさでもすでにわかる。

それを将のために潰してくれたのだ……。

将は、携帯を閉じると、目を閉じて電車の規則的な揺れに身を任せた。

武藤や共演者へのすまない気持ちが素直にわきあがってきた。

第254話 裏切り

「危ないっ」

「あはは、泥棒に入ろうとして身動き取れなくなっちゃったのかな」

「早く消防を!」

「それより下に、やわらかいものを!」

人々は口々に言いながらも、大悟から目が離せないらしい。

将も上を向いたまま聡の手を引いて、マンションのさらに近くへとやってきた。そこは野次馬でごったがえしていた。

大悟は、将の部屋があるマンションの真ん中付近ではなく、どうやって行ったのかわからないがバルコニーづたいに角部屋まで来ていた。

手を上にめいっぱいに伸ばした状態で10階のバルコニーの下につかまり、足は9Fのバルコニーのてすりに着いた状態で身動きがとれなくなっていた。

「あそこの角部屋に人はいないの?」

「どうやら留守らしいよ」

そんな声も聞こえてくる。

「大悟っ!」

将は人ごみを掻き分けるようにして、マンションのエントランスへ進もうとしたが、野次馬が多くてなかなかたどりつけない。

「すいません!マンションの住民です!」

「通してください」

人ごみより首一つ高い将の傷だらけの顔に、皆一瞬大悟を忘れて視線を投げたが、緊急事態である大悟のほうに戻っていく。

将が立ち往生しているうちに、サイレンが聞こえた。

商店街の反対側から、はしご車がやってきたのだ。後ろにはパトカーもいる。

『どいてください!救助の邪魔になります!どいてください』

レスキュー隊は、丁寧語ながら、かなり乱暴な調子で野次馬にスピーカーで呼びかけて退散させた。

あっという間に、人垣ははしご車を遠巻きにするように後退した。

レスキュー隊を乗せたはしご車が、スルスルとあがっていく。

角部屋の下あたりには、空気を入れたマットが素早く用意されている。

将は救助のようすを静観するしかなかった。腕をぎゅっと掴む聡の手にそっと自分の手を乗せる。

直射日光がじりじりと頭髪を焼く。アスファルトから熱気が昇ってくるのがわかる。

人々は、皆固唾を飲んで、はしご車の行く先を見つめた。

……ついにレスキュー隊を乗せたはしご車が大悟の高さまで到達した。

だが、レスキュー隊が救助しようと大悟に手を伸ばしたとたん。

「離せ!俺にさわるな!」

大悟が激しく抵抗しようとする叫び声は下まで届いた。

手を口にあてるものあり、より面白いと目を輝かせるものあり、で見物人はそれぞれにどよめいた。

しかし、大悟の抵抗は声だけだった。

少しでもバランスを崩せば落ちる、という状態で、身動きが取れないらしい。

あれよあれよという間に胴体に命綱がつけられ……あとはレスキュー隊のなすがままだった。

それっきり静かになった大悟を乗せたはしごが地上近くまで縮んでくれたとき、将は一安心すると同時に、ハッとする。

「将?」

将は聡の手を振り払うと、解散しはじめる野次馬の中をかきわけて、はしご車の近くに近寄った。はしご車の後ろにはパトカーがいる……。

レスキュー隊に抱えられるようにしてようやく地上に降り立った大悟は、放心したような目をしていた。

「大悟……ッ」

将が大悟に寄る前に、警官が大悟の前に素早く立ちはだかった。

「事情をお聞かせ願えますか」

丁重だけれど、有無を言わせない厳格さで大悟に詰め寄る。

放心した目を地面の方に向けていた大悟は、そのやせ細った顔をゆっくりとあげた。

その目は警官の向こうに、将の姿を見つけた。

「将」

大悟の瞳は、一瞬、とてつもなく哀しげな色を見せた。

「将、俺を裏切るのか」

大悟は低い声で静かに呟いた。

「大悟」

ちがう、と将は警官の前に進み出ようとして、他の警官に肩をつかまれて阻止される。

「俺を、裏切るんだな」

荒くなる吐息と一緒に、将への失望を投げると大悟は目をカッと見開いた。

「俺を見捨てるんだな!そうだな!将ッ!」

咆哮をあげる。飛び散る唾と汗が強い光にキラキラと輝くのが見える。

そして、一瞬の隙をついて、肩を支えていたレスキュー隊員を素早く振り払う。

すべてが、将の目の前でスローモーションのように見えた。

レスキュー隊員がはずみで転ぶ。いっせいに大悟に飛びかかる警官。

周囲の悲鳴。

灼熱のアスファルトに組み伏せられる大悟。

「離せー!離せよッ!離せええ!!」

喉も破けんばかりの大悟の喚き声。

大悟は、警官に組み伏せられながら、立ち尽くしている将を見上げた。

照りつける夏の日差しがつくる影で、その汗まみれの骸骨のような顔はいっそう彫が深く悲愴な顔に見えた。

ようやく、警官に脇を固定されながら、大悟は立つことを許された。

「ずっと……ずっと一緒にいるっていったくせに……俺を見捨てるんだな!将」

大悟は、なおも将に向かって叫ぶ。

「コラ、黙れ」

と警官にこづかれながらも

「何とか言えよ!将」

と怒鳴る。

だけど、傷だらけの顔に直射日光を浴びながら、将は何も出来ずに立ち尽くしているのだった。

「将!おい!将!ショオオオウ!」

大悟は無理やりパトカーに押し込まれている最中もずっと叫び続けていた。

……いや、パトカーのドアが閉まっても、将の耳にはずっと聞こえ続けていた。

蝉時雨も、商店街の喧騒も、頭の中に反響する大悟の叫び声でかき消されてしまった……。

 
 

空いっぱいを燃やすようにして雲が茜色に焦がれている。今日最後の輝きとばかりに。

将は窓にうつるそんな空に背を向けて部屋に座り込んでいた。

やがて、けばけばしいネオンのピンク色のように輝いていた夕空は、火が消えたように灰色に沈黙した。

灯りもつけない部屋は、なすすべもなく暗くなり……将は濃い紫色の影の中に溶け込むかのようにじっとしていた。

明け方まで大悟と共に闘っていた部屋は、見るも無残に散らかっている。

包丁を振り回していたときに散乱したのだろうか、クッションの中身のビーズのようなものが一面に広がっている。

フローリングはところどころ、血痕で汚れてさえいる。

しかし、将はそれを片付けもせず、独り、ぽつんと座っていた。

さっきからしきりにメールの着信音がある。聡だ。

聡が心配して、メールを送ってくれているのだ。

将はそれが鳴るたびに携帯を拾い上げて読む。

心が慰められるのは確かだけれど、返事をする気にはなれなかった。

『俺を見捨てないでくれ』

と今朝、大悟は訴えた。その、涙でぐちゃぐちゃの顔が頭から離れない。

『俺を裏切るんだな、将』

それはさっきの鋭い咆哮とセットになっていた。

そのとき、固定電話が鳴った。出ないでいると、留守番電話になる。メッセージを録音する声がはじまった。

『毛利です。島くんは、矯正病院への入所が決まりました』

将は顔をあげた。

黄昏のわずかな光りの中で、明け方まで将と大悟の二人をつないでいた手錠が鈍く光っていた。

――結局、なんにもしてやれなかった。

将は叫び声をあげると、それを床に投げつけた。

 
 

あのとき将は、大悟を押し込んで、最後にパトカーに乗り込もうとする警官にすがった。

「あの、俺、同居人なんですけど」

「じゃあ、あとで署まで迎えに来てください」

警官はそういうと、パトカーに乗り込んだ。パトカーは将を残して発進した。

パトカーを追って思わず、前のめりになる将の前に、スーツ姿の男が現れた。

毛利だった。

なぜ、そこに毛利がいるのか、瞬時にわかった将は目を見開いたまま凍りついた。

将にすがろうとしていた聡も、毛利の姿を見て、将の数歩後ろで思わず立ち止まった。

「もう……り」

「誤解しないで下さい」

毛利は淡々と言った。傷だらけの将の顔にも、まるで動揺を示さない。

この暑い中、きっちりとスーツを着こんで、汗すらかいている様子が見えない毛利。

この男は、本当に冷血動物なのかもしれないと将は心の隅で少しおびえる。

「整形外科医から実家にご連絡がありました。それで駆けつけましたら、あんなことになっていたのです……」

さっきの病院の医師が、実家に連絡したというのか。

「警察は私が呼んだのではありません」

それは言い逃れにしか聞こえなくて、将は不審を態度で示す。それへの回答のように

「実は……島大悟くんの覚醒剤常用については、2週間ほど前からマークしていました」

毛利は意外なことを報告した。

「それで、警察にチクッたのか」

「チクってなど、いません」

毛利は、さりげなく日陰に移動しながらも、将のほうにまっすぐに視線を向けた。

「そんなことをしたら、将さままで疑われますから……わたくしは、将さまが疑われることなく、なんとか島くんを矯正病院に入院させる方策を練っておりました」

将はまだ信じられなくて毛利を睨みつける。

しかし、腫れ上がった瞼があかないおかげで、毛利の方は睨みつけられたことに気付かないらしい。いや、気付いても動じないだけなのかもしれない。

「でも調べるうちに……島くんは……覚醒剤代を稼ぐために、暴力団の下部組織で、振り込め詐欺グループに加担さえしていたことがわかりました」

「あ……」

将は、伊豆から帰った日に、クラブで見た男達を思い出した。

「繰り返すようですが、警察は私が呼んだのではありません。警察もまだ島くんが、暴力団に関わっていたことは知らないはずです」

毛利はあくまでも淡々と続ける。

「……ですが、島くんは、そのまま矯正病院に入院することになると思います。その手はずだけは取らせていただきました」

将は、数歩後ろの日陰から聡が心配そうに見ていることも気づかずに、夏空の下、立ち尽くしていた。

じっとりと、テープだらけの顔を汗がつたっていく。

第253話 入道雲

「俺……あいつに、……大悟に絶対に見捨てないでくれって、頼まれているんだ」

「でも、そんなに……。顔がわからなくなるまで殴られるなんて……」

「約束したんだ」

将は腫れ上がった顔で、聡を安心させるべく、微笑んだ。だけど、それは逆に聡に痛ましさを覚えさせた。

「そこまで大悟くんのために我慢するのは……」

聡はいったんその先のセリフを飲み込んだ。代わりに

「大悟くんは、今……?」

と訊く。

「……睡眠導入剤で眠らせてる。起きると薬を取りに行こうとするから……。ドアは外から開かないようにしてきてる」

将は、大悟が万が一目を覚ましても外に出られないようにしていた。

玄関のドアの上下に外からピッキング対策のロックをし、念のためにドアノブと近くの窓枠を自転車用のチェーンで固定したのだ。

隣近所の人が見たら、あきらかに異常と思うだろうが仕方がない。

聡は何かで見た、薬物中毒患者の拘束を思い出した(これは、講習で見たわけではない)。

手足を厳重に縛られて、何もない部屋に転がされていた映像。……それぐらいしないと依存から抜けられないのだ。

「いつまで……そんな」

「わかんないから、山口さんに訊きに来た」

「そんな……将。これ以上殴られたら……死」

最悪の単語を聡は言いかけて、口を両手で覆うように顔の大半を覆った。

「大丈夫だよ」

今度は遠い目をして天井を見上げる将。確信を持てない希望は、単なる願望である。

「大悟くんのためにそこまでするのは……」

俯いた聡はそこで声のトーンを最低に落とす。

「身代わりになってもらったからなの……?」

将は思わず聡を振り返った。見開こうとした瞼が、よじった体の肋骨が、体中の殴られた跡がきしんだが、今受けた衝撃には遠く及ばない。

聡は下を向いたまま黙っている。長い睫が震えているのが見える。

二人を、べったりとした沈黙が遮った。

待合室のざわめき。リノリウムが蒸発したかのような、どことなく苦い消毒薬の匂い。看護師が患者を呼ぶ澄んだ声。

「知って……たんだ」

将は脱力したように再びベンチに寄りかかった。

「いつ、聞いたの」

それでも、すがるべく聡を盗み見る。

「……ずっと前」

「大悟がいったの?」

聡は黙っていた。そんなことを訊いても仕方がない。

答えるはずもない、ということに、問いを声にしたあとで将は気がつく。

「アキラは……だから、俺と離れたの?」

「違う」

即答と共に、聡が顔をあげた。

黒目がちの瞳はまっすぐに将の顔に向けられている。将の傷だらけの顔がその瞳の中に映っていた。

「違う。それは絶対に違うよ。将。あたしは……」

聡の視線が将の顔から、ついと横に流れた。

「おまたせ」

聡の視線の延長上を将も振り返る。そこに白衣姿の山口が歩いてきていた。昼食用なのか小さなトートバックを持っている。

「待ってるから」

聡は将に小さく囁いた。

 

結局、山口も聡と同じことを言うのみだった。

せめて、強い睡眠薬か安定剤をもらおうと思ったのだが、それもだめだった。

山口は秘密を守ると約束こそしてくれたが、

「診察しないと、安定剤投与が適切かどうかわからないわ。もし、肝臓を痛めていたらヘタすると命を縮めることになるし……」

と眉をひそめた。

「とにかく、お友達が大事だったら、一刻も早く病院に連れて行くことよ」

そう言うと、将の肩に手を置いた。それは傷を気遣ったのか、ごく軽くだった。

 

非常階段から出てきた山口と将を見て、ベンチに座っていた聡は立ち上がった。

「いつも、仲がいいわね」

山口は微笑んだ。二人の仲は、たぶんバレているのだろう。

じゃあね、と山口はナースステーションへと別れた。

将は、自分が使う、とウソをついて薬をもらえばよかった、と後悔しながら聡と二人でエレベーターを待った。

いらだちが、傍らの聡を少しだけ邪魔に思わせて、こんなことを言わせた。

「別に待ってなくてもよかったのに。『先生』」

「将……」

聡は将を見上げた。

その黒目がちの瞳に映る窓からの昼の光が少し揺れた。うるんでいるのだ。

すぐに後悔した将は、冗談でフォローしようとした。

「すぐ、泣く」

しかし、将の言葉通り、聡の目は透明な液体で膨れてしまった。

そのとき、エレベーターの扉が開いた。

「ほら。来たよ」

聡はふいに湧き出た涙を拭うハンカチを探して俯いているところだった。

将はサポーターをつけた右手で、そんな聡の肩を抱くように促した。

降りてきたエレベーターには、奇跡的に誰も乗っていなかった。

聡が、ぐしゅん、と洟をすするのを合図に、将は衝動的に聡を抱き寄せた。

体が意識から離れたところで自動的に動いてしまったのだ。聡も洟をすすりながら、将の胴に細い腕をまわしてくる。

「将……」

将は肋骨が痛むのもかまわず、聡をきつく抱きしめた。

髪のあたりから漂う懐かしい甘い香りに理性はますますふっとんでいく。

――もう、どうでもいい。やっぱり聡といたい。

「アキラ……アキラ」

密室を照らす暗い蛍光灯。

息苦しいような閉鎖空間が、今の二人には夢の世界だ。

このまま、エレベーターに閉じ込められたっていい。いや、閉じ込められればいい。

二人は、抱き合ったまま心の奥底で願ってさえいる。

しかし、夢の空間は、あっという間に割れた。

エレベーターの扉が開いて、現実という名の白日が二人に否応なく注ぐ。二人は、教師と生徒に戻らなくてはならなかった。

だが、もう少し将と一緒にいたかった聡は、

「……今日はお弁当を買っていくわ」

と将を先導するように、一歩踏み出すと将を振り返った。

病院から外に出ると、うっとおしいほどの蝉時雨と突き刺すような夏の日差しが二人を出迎えた。

さっきより空の青さはいっそう濃くなっている。正午近いのだろう。

「暑いわねえ」

聡はひなたに出るなり手をおでこにかざした。

「そうだな」

世間に顔が知れつつある将だが、これほど腫れ上がった顔を、イケメン俳優のSHOだと認識する者はいないらしい。

すれ違う者は皆、その形相に一度は視線をひき付けられ、顔をしかめて、目をそらすようにそっぽを向いていく。

「海、行きたいな」

唐突もなく入道雲に夢見るような視線を向ける聡に、ふと将は思いつく。

「ねえ。アキラ」

「なあに?」

涙はすっかり乾いたようだ。眩しげに目を細めて将の顔を見上げる。

「手つなごう」

将の思いがけない提案に、聡は目とともに口をぽかんとあけた。

「手、汗びっしょりよ」

「いいよ。俺もだもん」

「学校の人に見られるかもよ」

ここは、学校の近くだ。

「大丈夫。昼休みはまだだし、この顔だし。俺が誰かなんてわかんねーよ」

「その背の高さでバレバレだって」

という聡にかまわず、すでに将は聡の手をとっていた。

「ひさしぶりだな。アキラと手つなぐの」

「うん……」

聡は急に無口になった。大きな将の手。初めて握ったときより、やや湿り気を帯びている……そんな将の手の感触を伝える自らの左手に、聡は自然に神経を集中させていたのだ。

将の肌の触感は、聡の体にいろいろな記憶を蘇らせた。

将が最も近くにいた記憶を思い出した聡は、俯きながらも将の手をギュッと握った。

そんな聡の握力を感じた将は、笑顔で聡の手を握り返す。

しばらく握力の応酬で無言の会話を交わしながら、二人は降り注ぐ蝉時雨の中、アスファルトに焼きつくような短い濃い影を踏みしめる。

 
 

商店街にさしかかると、将のマンションが見えてくるはずだ。

もうすぐ、手を離さないといけない。

二人は、信号待ちで顔を見合わせた。

そのとき。

なんとなく、周囲があわただしいことに二人は気付いた。

皆が、呼びかけあうように商店街のほうへ走っていく。

信号が変わって、二人は手をつないだまま、将のマンションがある商店街のほうに歩く。

何人もの人が、そんな二人を追い越していくように急いでいった。

集まった人々の表情は悲痛な顔や、興味深げな顔、怒りを顕にした顔、とさまざまだったが、ある一点を見上げていることで共通していた。

濃い青空に逞しい入道雲ではなく……その前にある将のマンションを皆は見上げていた。

「あっ!あそこ」

先に声をあげたのは聡だったが、同時に将も息を飲んでいた。

蝉時雨も喧騒もすべて止んだかのようだった。

将は、マンションの、10階と9階の間の……バルコニーの外側のありえない場所に男が張り付いているのを見た。

……それは間違いなく大悟だった。

第252話 死闘(4)

聡は振り向くなり、目を丸く見開いた。将の様子にショックを受けたようだった。

将も思いがけないところでの聡との再会に心臓が止まるかと思った。

だが、聡の驚きの表情で冷静さを取り戻すと、二人のところへ右足をひきずりながら歩いていった。

「しょ……鷹枝くん、どうしたの!そのキズ」

聡は将の足先から顔まで見上げると目を真ん丸くしたまま問い掛けた。

「センセーこそ、こんなところでどうしたの」

本当は抱きしめたい。だけど『生徒らしい』演技は忘れない。

そして将に貼り付いたような聡の視線から、ついと顔をそらすと

「こんにちは。山口さん。ちょっと相談があって来たんだけど」

と看護師の山口にまじめな声で話し掛けた。

「何よ、いったい」

将は聡の顔に視線をちらっと走らせると、

「ちょっと、ヒトに聞かれたくない話なんだ」

と声のトーンを落とす。

 

山口は今日は11時から昼休みだという。そのときに相談に乗ると約束して診察室に消えた。

だから、将は成り行き上、内科病棟の待合室の隅に聡と並んで座っている。

「センセーは、どうしたの。今日は学校じゃないの」

月曜日の今日は、補習があるはずだ。

「最近ちょっと、貧血気味でね。検査してもらったの」

将は思わず聡を振り返る。その心配する顔に気付いた聡は

「大丈夫よ。結果は単なる夏バテだろうって、栄養剤なんかを処方されたわ。……お弁当屋さんで働いていたころは何ともなかったのにね」

と微笑んだ。たしかにその顔は、すこし青白いように見えた。

「びっくりした。まさかニンシンしたんじゃないかって……」

将は安心してつい、そんなことを口走ってしまった。

聡は目をむいて将を振り返ると、小さな声で『バカ』といった。

「そんなこと、絶対ありえないし。……あたし、周期とっても正確なんだから」

「へーえ。覚えとこ」

「んもうっ!」

拳を振り上げるふりをした聡は、その手を振り上げたまま止める。

「将……そのケガはどうしたの」

「んー。ちょっとね」

笑いながら防御の体制をとっていた将は、ベンチに寄りかかるように座りなおした。

姿勢を変えたら肋骨がまた痛んだのか「イテ」と小さく漏らす。

「……大悟くん?そうなのね」

聡は終業式の日に、将のマンションのエントランスで偶然会った大悟の異様な激ヤセぶりを思い出していた。

たしか、死んだ瑞樹が薬物に依存していたと聞いたことがある。

なぜ、それを今思い出すのか。聡は自問自答しながら、頭はとっくに回答をはじきだしていたのだ。

「大悟くんが、やったのね」

「違うよ~ん」

ふざけた調子をつくりながらも将はそっぽを向いた。

「あたし、見たの。大悟くんがありえないほど痩せてるのを。大悟くん……薬物をやってるんでしょ」

薬物、のくだりで、聡は声のトーンを最低に落とした。隅っことはいえ待合室だから。

「違うってば。これはね、ナイショだけどフクロにされたの」

あいかわらず将はそっぽを向いている。

「ウソ。おとついからあんなにひどい台風だったのに?」

「……」

「将。あたしにウソをつかないで」

聡の上半身は完全に将のほうを向いている。

丸く開いたタンクトップの襟からは、吸い込まれそうな胸の谷間がのぞけた。

こんなに全身傷だらけなのに、将はむしょうに聡を抱きたいと思った。

「アキラ、『将』って呼んだじゃん」

ふざけているのは、自分の中で一触即発の欲望をはぐらかすためでもある。

「はぐらかさないで」

聡は真剣に怒ったような声を出したあと、

「心配なの……」

と目を伏せた。長い睫がしばたくのが見える。

「アキラ……」

抱きしめたい。今度は欲望とは別のところで盛り上がる感情。将はそんなせつなさをぐっと飲み込んで耐える。

「俺は大丈夫だから。大悟も絶対、なおるから……」

「こんなにボロボロになってるのに?」

聡は顔をあげると、将の腫れ上がった顔を見た。

……その惨状に、聡の眉は大きくゆがみ、心配のあまり、とうとう涙がこぼれた。

「ごめん」

聡は顔を伏せて将にいきなり泣いたことを謝る。前を向いて座りなおすと、バッグからハンカチを取り出して、噴き出した涙を拭った。

聡の涙を見て、将は心が温かいもので満たされていくのを感じた。

体はまだあちこち悲鳴をあげているけれど、聡の思いは……それらにそっと乾いたガーゼをあててくれるようだ。

「なおるって、ことは、今は薬物に依存してるんだよね」

聡は涙声ながら冷静に言及した。もう将は否定しなかった。

聡を見つめる腫れた瞼の下のつらそうな瞳が、聡の予想があたっていることを物語る。

「将がそんなになるまで暴れるなんて……依存症専門の病院じゃないと無理だよ。たぶん」

「詳しいな、アキラ」

「このまえ……教師向けに薬物汚染の講習会があったの」

高校生はおろか、中学生、小学生に及ぶまで薬物汚染が進んでいる昨今。

撲滅に向けて、正しい知識と対処法などの講習が教育関係者に向けて、都で開催されたのだ。

「大悟くん、病院で治してもらったほうがいいよ」

聡は涙のせいで出た鼻水を啜りながら、もう一度将を振り向いた。

将は首を振った。

「病院にいったら……覚せい剤所持で捕まっちまうだろ」

逮捕されたら。せっかく大悟を養子縁組しようとしてくれている西嶋は。

きっと、養子縁組を反古にするどころか、保護者も辞めると言い出すかもしれない。将はそれを恐れたのだ。

「病院と警察は連携していないと思うわ。自主的にやめたい人だって行くっていうし。ねえ……将。専門家に任せたほうがいいよ」

聡は将の右腕をそっと握った。その延長上には、サポーターに包まれた右手首がある。さっき3針縫った……。

「俺……あいつに、……大悟に絶対に見捨てないでくれって、頼まれているんだ」

といいつつ、将は目を閉じるとつらそうに俯いた。将とて、もう限界なのだ。

この傷が出来た、昨日の夜更けが蘇っていた。

 
 

あれから将は、瑞樹が遺したと思われる手錠で、自分の右手と意識を失っている大悟の左手をつないだ。

まもなく目を覚ました大悟は、いつものように最初は正気だった。

傷だらけの将の顔を見て心底驚いたようだった。そして繋がれた左手を見て、

「こんなことまでさせて、済まない」

と頭を下げた。

しかし、すぐに依存への異常行動と錯乱が始まった大悟は、手錠をどうにかしようとやっきになった。

鎖を切ろうとして包丁を取り出した大悟を見たときは、このまま殺されるかもしれない、と覚悟した。

自分の死体をひきずって、大悟は薬を受け取りにいくのだろうか、と将は一瞬その姿を想像したほどだ。

しかし、金属の鎖がステンレスの包丁で切れるはずはなく……狂気の大悟は、なんと将の右腕を切り落とそうと包丁を振り回し始めた。

将が右手をかばうたびに、大悟の左手はそれを引っ張り出すべく手錠の鎖を力任せに引っ張った。

そして何度も将の右手首をめがけて、包丁が勢いよく振り落とされた。

その勢いは……例えステンレスの包丁でも、腕を骨ごと切断してしまいそうだった。

大悟の目は、狂気に見開かれ……包丁は将の右腕を的確にめがけて振り下ろされる。

将は闇雲に体重をかけて手錠を引っ張って逃れながら何度も、次こそ自分の右手首から先がなくなっているのではないか、と震撼した。

辛くも、包丁の刃先を逃れた将の腕は無事だから、今こうしてあるのだけれど。

 

そのあと、大悟が力尽きたときに、包丁は隠せたが、手錠を引っ張り合っての格闘は深夜にもう一度あり……、将は心身ともに満身創痍の限界になった。

だが、明け方。力尽きた大悟は、自らすすんで睡眠薬を飲むと嗚咽した。

疲れた将は手錠をつけたまま、なぜかキッチンに仰向けに横たわっていた。

大悟が、シンクの下の戸棚に寄りかかって床に座り込んでいる。

「将……ゴメン。ごめん……」

と子供のように泣いている。

きっと自分は死んだ魚のような目をしているんだろう。

ぼやけた視界が現実なのかどうかも、もうどうでもいい。

ただキッチンの青白い蛍光灯が、目障りだと思った。だがどうすることもできない。

「しょう……。痛いだろ」

大悟は泣きながら、将の裂けた手首に包帯を巻こうとしているらしい。

薬箱はキッチンに置いてある。それで、キッチンにいるんだ、と将は泥になった脳でようやく思いついた。

手錠を何度も引っ張りあったせいで、将の右手首の皮膚は裂け、血が噴き出していた。

将の血で点々と汚れたリビングのフローリングには、包丁の突き刺さったあとが何箇所も残っている。

しかし、大悟はこきざみに痙攣しているせいか、包帯はうまく巻けない。

将は、大悟を見ると、首をわずかに振った。

『もういい』という意味だ。

死にたくはない。だけど死ぬなら、それでも仕方がない。

それだけのことを大悟にも瑞樹にもしてきたのだろうから。

将は天の裁きを受けるのに相応しく、心も静かに横たわっていた。体中の痛みもどうでもよかった。

大悟は、涙をボロボロとこぼしながら、

「将。頼む。頼むよ」

となにやら訴えている。嗚咽する声がひっくり返ってしまっている。

――何を頼むんだ、大悟。もう俺はこれ以上、何もしてやれないぜ……。

将は目を閉じた。

「頼む。将。俺を見捨てないでくれ。俺を……見捨てないでくれ。俺をどこかにやらないでくれ」

それでも、まだ大悟は、将を頼っているのだ。

ふいに、中学の頃の二人が将の頭に蘇る。

――これって走馬灯ってやつ?やっぱり俺、死ぬのかな……。

と、そんな考えも走馬灯の前をちらりとよぎった。

そのとき将は確かに、家を出て行き場のない自分を助けてくれた13歳の大悟を、家裁で『刺したのは俺です』と証言したという15歳の大悟を瞼の裏に見た。

それはたった今起こったことのように鮮明に思えた。

将はゆっくりと瞼を開けた。

「ずっと……一緒だ。お前が立ち直るのを見届けてやる……」

ほとんど声にならなかったが、将はほとんど開かない瞳を大悟に向けて、唇を動かした。

それは大悟には聞こえたらしい。

やがて将の右手首の出血はなんとか止まり、睡眠薬がきいた大悟は安らかに、眠りに落ちていったのだ。

第251話 死闘(3)

なあ、といって大悟は、自分の顔を将の目の前に突き出した。

「瑞樹は、どこに行ったんだ」

質の悪い冗談をいっているわけでもなく、責めているわけでもなく、ただ、瑞樹の行方を問い質しているように見えた。

本気で瑞樹のことを忘れているらしい大悟を、ただ将は恐れた。

「なあ。将、知らないか」

大悟は将の肩に手をおいた。将は耐えられなくなって顔を床のほうに向けて逸らした。

「なあ、将」

限界まで床のほうに目をそらそうとする将の肩を大悟は揺らした。

「なあ。将。なあ」

問いと同様に繰り返し、肩を揺らす。

最初は……問いかけにあわせていたのに、次第に激しく揺さぶられ始めた。

「みずきはどこにいったんだ、なあ、将」

しまいには、上半身がガクガクとシェイクされる。

「なあ、なあ、なあ」

見開いた大悟の瞳は黒い。白眼には赤い毛細血管が見える……血走った眼。あきらかに狂気が宿っていた。

「やめろ……ッ!」

ついに将は、肩に置かれた大悟の手を払いのけた。

大悟の手はあっさりと将の肩からはずれた。

将は身を起こそうとした。

腹に力を入れようとすると、左の肋骨が激しく痛む。思わず将は苦痛の声をあげた。

上半身を起こしながら、将は大悟に向かって辛い事実を再認識させなくてはならない。

「大悟……、瑞樹は……いない。……死んだんだ」

心の痛さと肋骨の痛さで、息がうまくつけない。言葉は切れ切れになった。

やっと言い終わるかどうかというところで、

「お前のせいだろーー!」

と大悟は吼えた。そして首を締めんばかりに将の襟首を掴んだ。

やはり正気だったのか。将は吐いた息をそのまま飲む。

「瑞樹は、最後の最後までお前の名前を呼んでいた。お前のなっ!」

大悟は、10センチと離れていない将の顔に唾を飛ばして叫んだ。

将は抵抗も出来ず、襟首から半身を吊り上げられたまま、ただ大悟の瞳を見つめるしかない。

その瞳には、蓄積された悲しみが爆発したかのような、狂った怒りが宿っていた。

「お前のせいで、瑞樹はッ!」

大悟は、将の襟を床に叩きつけるように解放すると、横たわった将に馬乗りになり、その顔を拳で殴った。

「お前の、お前の、お前のせいで瑞樹はっ!」

右、左、右、左、と手加減なく繰り返される拳が将の頬に、眼窩にめりこむ。

頭蓋骨に繰り返し衝撃が走る。

衝撃のたびに、なぜか将の目の前に火花のように、瑞樹の記憶の断片が散った。

抵抗することを考えたり、痛みを感じたりすることすら忘れるような激しい拳の嵐の中で、将は失神しそうになるのを耐えていた。

なぜ、耐えているのか……その理由を考えることもできない。

将の思考はすでにあまりの衝撃に擦り切れかかっていた。

かろうじて意識だけがつながっているような中で……それでも、いっそ失神した方がマシなのを持ちこたえているのは、大悟への、瑞樹への……償いのためなのかもしれなかった。

 
 

ひとしきり将を殴り終わると、大悟はハアハアいいながら、立ち上がった。

将はぼろきれのようにそこにぐったりと横たわるしかできない。

頭の中では、まだ殴られ続けているように、何かがぐわんぐわんと響いている。

――まだ雨が降っているんだな。

静かになってようやく、将の耳は、さっきよりずいぶん静かな雨音をとらえた。

顔のあちこちを生暖かいものが流れている。

唇や鼻、まぶたが切れているのだろう。

口の中はもはや血だらけで、鉄臭いのも甚だしい。

だが、それを吐き出す気力もなく、将は無意識に舌で歯を一本一本確認していた。

しかし、将は開かない目を薄くあけたまま、大悟のゆくえを見ていた。

大悟はふらつきながら、自室へ向かっているようだった。

財布か何かをとりにいっているのだろうか。

「だ、だいご……」

将は最後の力をふりしぼって、大悟のあとを追って、床を這った。

キリキリと顔の切れた場所が痛い。

殴られた頬や瞼には、小さな心臓が埋め込まれたようにズキンズキンと脈打っている。

しかし、思ったより、手や足は自由だということがわかった。

将は、リビング入り口のドアにつかまりながら、ズキズキと痛む肋骨の痛みに耐えて立ち上がった。

ちょうど、大悟が自室から出てきた。

大悟は立ち上がった将に驚いたようすを見せたが、ひるんだのは一瞬だけで、足を上げると将を蹴り倒した。

ようやく立っていた将だから、簡単に倒れてしまった。

大悟は倒れた将をまたぐように玄関に向かうと、将を玄関スペースから締め出すべく、いきおいよくリビングのドアを閉めた。

しかし、閉まるドアの先には……まだ将の右足首が残っていた。

次の瞬間、将は絶叫した。勢いよく閉まったドアに右足首を挟まれたのだ。

ドアか、右足首かわからないが、ミシッと音をたてた……激痛が右足首を震源に将の全身をつらぬく。

木のドアは、将の足を挟むと、バウンドするように再び開いた。

「うっ…あああ……」

倒れたまま右足首をかばって丸まった将の耳に

カチャカチャ

という音が聞こえた。

大悟がチェーンをはずしているのだ。カッシャン、というロックを外す音も。

引き続き、ガチャガチャとドアノブを回す音。

だが、それに鉄のドアが開く音は続かず、ガチャガチャとドアノブを回す音だけが繰り返された。

その音はだんだん大悟の苛立ちをあらわすがごとく、乱暴になってきた。

チェーンをはずしてロックを解除したのに、ドアが開かないのだ。

「なんだこれ」

大悟はついに口に出すと、ドアを蹴った。

重い鉄製のドアが、マンション中に響けとばかりに大きな音で反響する。

実は……将は、大悟が意識を失っている間、彼が出て行けないように、ドアの上部と下部に市販のロックを取り付けていたのだ。

かなり前に、家政婦さんが

『今、ピッキングが流行っているようです。将さんもお部屋にいらっしゃるとき、用心のために付けてくださいよ』

と置いていったのが役に立った。

冷静だったらすぐに気がつくだろうが、案の定大悟は気付かないらしく、ただノブをガチャガチャと回したり、蹴ったりを繰り返している。

将はその背後にいざり寄った。

「まだ……俺は死んでないぞ」

膝をついて立ち上がると、将は大悟の下半身にしがみついた。

「将!」

ふいをつかれた大悟は、恐ろしい叫び声をあげた。

「行くなら、俺を殺してから行け」

地の底から響くような将の低い呟き。大悟は狂気の目に、恐怖を浮かべて将を見下ろした。

大悟の足を死んでも離すものか、と将は心に誓う。

「離せ、離せよ、将」

大悟は両足にしがみついた将の頭を剥がそうとやっきになる。

しかし、そうすればするほど、将は首をすくめるようにして、がっしりと大悟にしがみつく。

どんなに殴られようとも離れない。

「離してくれええ、瑞樹のところに行かせてくれええ」

しまいには、大悟は喚き……泣き叫んだ。

 

「瑞樹、みずきーっ、うう、あああ」

大悟は体を痙攣させるようにして泣きわめき続け……再び、すとんと落ちるように意識を失った。

もう完全に夜になっていた。

喚き声に満たされていた将の部屋に、静寂が戻ってきた。

右足をひきずりながら将は、大悟をリビングにひきずってくると、窓辺から外を見た。

夜になって、雨も止んだらしい。

痛くて細くしかあけられない瞼の中の目は、はるかに高層ビルの赤い光りを捉えていた。

将は、再び右足をひきずりながら、ダイニングテーブルの椅子に腰掛けた。

力が入れられない右足の踝は青黒くなっていた。そこを触った将は、激痛に思わず声をあげた。

声をあげると、響くのか左の肋骨も痛む。

痛さに耐えながら慎重に、青黒い部分の感触を調べる。どうやら折れてしまったわけではなさそうだ。

将は、傷だらけの口の中にかまわず、冷たい水を一気に飲むと、テーブルの上にある錠剤を手に取った。

大悟が持っていたほうの強めの睡眠薬と、弱い入眠剤。

大悟の睡眠薬はあと1回分残っているが、まだ夜8時だ。これを使うには早い。

将は、殴られたせいか、真綿で包まれたような脳を無理やり稼動させて考える。

台風がいってしまったからには、明日9時に、武藤が迎えに来るだろう。

来なくていいといっても、来るのが彼女の務めだ。

頬杖をつこうとして、頬の痛みに、将は思わず手をはずす。

かわりに背もたれによりかかる。体全体が拘束されたように痛いが、まだ、ましだった。

……この顔は、明日派手に腫れあがるだろう。

それを見た武藤は、将をきっと病院に連れて行く、と言い出すに違いない。

だとしたら。

睡眠薬は自分が家をあける間に使ったほうがいい。

昨日、6-7時間ほど効いた薬……。

将はぼうっとしたような頭を出来る限りフル稼働させた。

やはり、明け方まで使わないほうがいい、という結論に達する。

だが、次に大悟が目覚めたとき。

満身創痍の将に彼を止められるかどうかわからない。

殴られた顔は、いまも血がどくどくと集まってくるように熱い。

将はずきずきと脈打つ顔を保冷剤で冷やしながら、倒れたように床で眠る大悟の顔を見る。

涙の跡が白く頬に残っている。

『瑞樹、みずきーっ』

という悲痛なわめき声が脳裏に蘇る。

それで、将はあるものを思い出す。おそらく瑞樹が持っていた……あの道具。

将は右足をひきずりながら、大悟の部屋へ向かった。

 
 

「肋骨にはヒビが入っているようですね」

医師はレントゲンを見ながらいった。

医師の前には顔のあちこちにテープを貼った将が武藤と共に座っていた。右手首の裂傷は3針縫った。

足のほうは、骨は大丈夫だったらしいが、筋を痛めてしまったらしい。

1~2週間ほど固定すべきだと言われて、普通の靴を履けないほど嵩高く包帯で覆われた。

ヒビの入った肋骨は、固定といってもコルセットをつけるぐらいしかないらしい。

「暑い時期だから、つけなくてもいい」

とも言われたがいちおう今はつけている。

「顔は……」

武藤がおずおずと訊いた。

「個人差はありますが、腫れがひくのに最低でも1週間かかるでしょうね」

医師は淡々と答える。

痣になった瞼の色がひくのには1ヶ月かかる場合もあると付け加えられて武藤はうなだれた。

「そうですか……」

「もしも。誰かに暴力を振るわれたのだったら、いちおう被害届は出すべきだと思いますよ」

医師は瞳だけを動かして、もう一度将を見あげた。

 
 

処方された鎮痛剤に湿布薬などが山のように入った薬の白いビニール袋を将にわたしながら、武藤は

「将、いったい、どうしたの。なんでこんなことに」

とようやく見上げた。見上げてその酷い顔に眉をしかめる。

「本当にすいませんでした」

将はただ頭を下げるしかない。

「誰かとケンカしたの?それとも袋……叩きにでもされたの?」

心配そうな武藤だが、答えられない将は、目を一瞬伏せると(伏せるだけでも、眼球がごろつくのだが)

「俺、ちょっと知り合いの看護師に挨拶してきます」

と一礼した。そのまま踵を返すと、足をひきずって歩き出した。

「あ、将!待ちなさい」

「自分で帰れますから……本当に迷惑かけてすいません」

武藤は、追おうとしたが、まだキャンセルの連絡が山ほど残っている。

立てれるものは代役を立て、スケジュールを調整して……武藤の仕事は急に面倒なことで山積みになってしまったのだ。

「本当に大丈夫ー?」

武藤は将の背中に叫んだ。

「大丈夫です!本当にすいませんでした」

足をひきずりながら、エレベーターに乗りこんだ将は、もう一度深く頭を下げた。肋骨が『まったく迷惑をかけて』と言うかのように、もう一度痛んだ。

それでもエレベーターの扉が閉まる直前、腫れ上がった顔の口元にわずかに微笑が見えた気が、武藤にはしていた。

山のようなキャンセルは気が重いけれど、それだけが救いのようでもあった。

 
 

エレベーターを降りると、そこは内科病棟の待合室だ。

懐かしい山口の白衣姿はすぐに見つけることができた。小柄な彼女は、待合室で若い女性と立ち話をしていた。

後姿の女性はカーディガンにチェックのスカート・サンダルといういでたちで、患者のようにはあまり見えなかった。

将のあまりにひどい姿に、内科病棟の患者がいっせいに注目する。

それに気がついた山口は、将を見て一瞬けげんな顔をした。

将の顔があまりにひどい腫れ上がり方なのと、それゆえ誰だかわからないらしい。

「山口さん」

右手をあげようとした将は、思った位置のかなり下で止めた。

折れた肋骨が、また存在を主張するように痛んだのだ。

「……鷹枝くん?」

将の声にようやく気付いた山口が将の名前を口にした。

同時に、背を向けていた女性がこちらを向いた。……聡だった。

第250話 死闘(2)

 
翌日は台風も去り、木の葉やゴミが散らかった街の上に澄んだ青空が広がった。どうやら台風は梅雨前線を押し上げて去っていったらしい。

生き残った蝉が仲間に無事を伝えあっているのか、その声のうるささはひとしおだった。

武藤は手早く化粧を終えると、出かける直前に将にいつものように電話をかけた。モーニングコールである。

「将?おはよう。今日は9時に迎えにいくから」

即座に返答はなく、電話は沈黙していた。武藤は気にもとめない。

寝起きが悪いときなどは、こんな風になかなか返事が返ってこない場合もしばしばある。

携帯を握ったまま、また寝ているときすらある。

「しょーお、起きてますかあ?もしもーし」

おどけて大声を出す武藤に

「……今日は、仕事休む」

地を這うようなかすれ声が聞こえてきた。

「どうしたの?将。具合でも悪いの?」

「……うん」

うめくような声はただ事ではない。

「大丈夫?将」

「迷惑……かけて、ゴメン。今日は……こなくていいから」

「そういうわけにはいかないわ。どこが悪いの?」

「……」

将は無言だった。

「将?大丈夫?一緒に、病院にいきましょう。ね?」

「……いいってば。……切るぞ」

そういうと将は電話を切った。掛けなおしても、電源を切ったのかつながらない。

固定電話のほうも1コールもなく留守電になる。

武藤は、いつもより急いで準備をして、車に乗り込んだ。

 
 

 
将のマンションに着いた武藤はオートロックの前で待つようにインターフォンで言われた。

いつもだったら、ロックを解除して部屋まで迎えにこさせるのに。思えばそこから異常だった。

「将……!」

透明な自動ドアの向こうに現れた将の姿を見た武藤は、あまりのひどさに体中に戦慄が走るのを感じた。

まるで特殊メイクのよう……それほどにひどい姿だった。

いちおうジーンズとTシャツに着替えてはいたが、顔中がひどく腫れあがっていた。

頬、そして瞼、唇。肌色のほうが少なく見えるほど……将だというのが一瞬わからないほどのひどい顔だった。

猫背気味に心臓の下あたりをかばって、かつ右足をひきずっていた。

自動ドアが開いても、武藤は言葉を失ったままだった。

胸をかばう右手手首にひどい裂傷がある。それを見た武藤は思わず口を覆った。

「……どうしたの!それはいったい!」

ようやく武藤の口から言葉が出てきた。心配のあまり咎める口調になってしまっている。

「なんでもな……っつッ!」

将は顔をしかめて、体をいっそうかがめた。

「なんでもなくないでしょ!すぐ病院に」

武藤は駐車場のほうへと将の腕をとった。

「いいって」
「よくないわ!」

「大丈夫だよ」
「大丈夫なはずないでしょ!」

「大丈夫!………ててて」

武藤の腕を振り払おうと大声を出した将は、手でかばっているあたりが痛んだのか、下をむいた。

将はそのまましばらく、左胸の下をかばってうつむいていたが、腫れ上がった顔をあげた。

「武藤さん……」

「なに。ほら、行きましょう」

腫れた瞼の下の、細くなった目の中の瞳。それを見るだけで痛々しかった。

「○○病院に連れて行ってくれ」

前にスキーで足を骨折したときに入院した、看護士の山口が内科病棟にいる病院の名前を将は指定した。

 
 

 
病院の待合室で、将は注目をあびた。将を見たものはみな、そのひどさに眉をひそめた。

だがこの、ひどく顔が腫れ上がった男が『ばくせん』に出ているイケメン俳優のSHOだとは誰も気付かなかった。

医師も、あまりの惨状に目を丸くした。

服を脱がせるとさらにひどかった。顔のように派手に腫れてはいないものの、全身が赤や青の鮮やかな痣で彩られていた。

まるで袋叩きにでもあったような将に

「これは……何か事件にでも巻き込まれました?」

と思わず医師が聞いたほどだ。しかし、将は

「非常階段で滑って転げ落ちただけです」

としっかりとした口調で言った。

階段から落ちただけで、顔がこうも腫れあがるはずはないし、右腕に裂傷を負うはずもない、と当然医師はわかっている。

だが、何度訊いてもそう答えるだけだった。

見立てでは、全身殴打と見られる打撲だったが、左胸下と右足は特にひどいのでレントゲンを撮ることになり、将はいったん診察室を出た。

武藤は待合室を離れて、電話スペースでしきりに電話で話していた。おそらく、仕事をキャンセルするため、連絡をしまくっているのだろう。

将は、その姿を見て、傷のほかに良心も痛んだ。

たしか、伊豆ロケが終わったあたりから、将がメインになる回の撮影が始まるといっていた。

メインにならない回でも、最近将の出番は目立って増えていた。

――たしか今週はCMのオーディションもある、っていってたっけ。

ラジオ出演も。雑誌のインタビューも。まともな文章が書けるということで、女性誌にフォト&エッセイを載せるという話も決まったはずだ。

スケジュールはぎっちり詰まっていた。それらを……すべてキャンセルしなくてはならないのだ。

『本当にごめんなさい』

携帯をにぎりしめながら、電話の向こうの相手に頭をしきりに下げる武藤に、将は心の底からすまないと思った。

将は待合室の隅にあるベンチに浅くよりかかると、目を閉じる。

瞼を開け閉めするのも、違和感がある……それにゴロゴロと痛む。

だけど、それよりも、全身の痛みよりも……どこよりも痛いのは心だった。

 
 

 
あれから。

残った覚醒剤が全部消えたのを見届けると、大悟は泣き叫んだ。

だが、ようやく倍量も飲んだ入眠剤が効いたのか、こときれたように眠ってくれて、将はほっとした。

将はその間に、さっき薬が散乱したあたりを、水に濡らしたタオルで拭いた。

薬は見えないほどに散乱したらしいが、大悟のあの様子だと、床を這いつくばって舐めかねない。

将は何度となくタオルを洗い、丹念に大悟の部屋の床を拭いた。

一人、床を掃除する将は、窓を叩く激しい雨にようやく今、台風が来ている事を思い出した。

通常だったら廊下やバルコニーに面している窓に雨が直接あたることなどない。

将は立ち上がると、窓から外を見た。外はあいかわらずまっ白だ。下に広がる街並みが白い斜めの縞模様の中にかすんで見える。

看板か何かだろうか、風に乗ってありえない高さまで舞い上がるのがときおり見える。

将はつけっぱなしになっていたテレビを見た。瞬間最大風速40mを記録した、と報じている。

風雨に煽られてまるで我慢大会のように立っているアナウンサーの画像は『横浜港から中継』とある。

こんなに激しい台風が関東を襲うことなどあまりない。

――聡は大丈夫だろうか。

将はふと心配になった。電話をかけるべきか悩む。

非常時だから、いいだろう、と決意したとき。大悟が、むくり、と起き上がった。

「大悟」

こときれたように寝付いてから1時間程度しか経っていない。

「将……」

起きぬけの大悟は、普通の様子に見えた。さっきの暴れぶりが嘘のようだ。

だが、それも一瞬のことだった。大悟は開口一番、

「もう俺はダメだ。体中が気持ち悪い」

と言い出したのだ。目はうつろなまま、虚空に向かって見開かれている。

「何言ってるんだ。大悟」

「ダメなんだ。この体はもうダメなんだ」

何往復か支離滅裂なやりとりが繰り返されたあと、大悟は薬を求めて暴れ始めた。

「もう薬はない!さっき捨てたのを見ただろう」

将がそういうと、大悟は外へ出ようとした。それを体当たりするように止める。

「外は台風だぞ」

「うるせー!離せ!」……。

大悟は、大声を出して暴れた。止めようとする将を容赦もなく殴る。

ただ、ロクに食べていないせいか体力のない大悟は、30分も暴れると、がっくりと倒れこんだ。

そして、おびえはじめた。

「しょ、しょ~」

「何だ……」

すでに何発か殴られた将も、力尽きて、ソファに身を預けて目を閉じている。

「俺を……、俺を見捨てないでくれ」

「大悟」

将は、寄りかかっていた上体を起こすと、膝の上に頬杖をつくようにして大悟を覗き込んだ。

「頼む……。将……。俺を……見捨てないで」

大悟は骸骨になったような顔の中の双眸を細めて泣いていた。

その瞳は、さっきの狂気とはまったく別の色だった。

そこには絶望に近い孤独と寂寥だけになった大悟の心象風景が透けて見えるようだった。

「わかってるよ」

将は横たわる大悟に微笑みかけた。

「俺と……一緒にいてくれるか」

大悟はなおも、将に弱弱しく問い掛けながら手を伸ばした。将は深くうなづいた。

殴られた頬が、どこかでぶつけたのか、足がにぶく痛む。だけど。

「薬が抜けるまで、頑張ろうな」

将は大悟の右手を握った。その甲には紫色の内出血があった。さっき将がギリギリと親指を押し付けたあたりだ。

大悟は嬉しそうに微笑むと目を閉じた。

おびえて震える。錯乱し暴れる。意識を失う。それが不規則に繰り返された。

ただ、外の台風が遠ざかっていくにつれて次第に弱まっていくのとは逆に、大悟の『振れ幅』はますます大きくなっていった。

特に夕方、暗くなってからのそれはすさまじかった……。

 

 
「出せ!俺をここから出せー!」

大悟は喚いた。やせ細った体からは考えられないものすごい力だ。

将は、死に物狂いでそんな大悟を後ろから羽交い締めにした。

「誰かアアアア!俺は監禁されている!助けてくれエエエエ!」

すると大悟は近所にわざと聞こえるような大声で咆哮した。

「やめろ」

将は大悟の口を押さえようとした。その将の左手に大悟は思い切り噛みついた。

「痛てえッ!」

思わず羽交い締めにする将の力がゆるんだ隙に、大悟は玄関に向かって走り出した。

させるか、と将は大悟の足にとりついた。

リビングの出口あたりで、大悟は足をとられて引き倒された。

転ぶ音はフローリングに反響して部屋中に響き渡った。

「何するんだ!」

顔を床にしこたま打ち付けた大悟は、鼻血を流しながら、なおも左足にしがみついている将の頭を右足でやみくもに蹴った。

そして将を足から離すと、再び立ち上がって玄関へ向かう。

しかし大悟から離れた将も同時に立ち上がって、大悟のさきまわりをした。

「行かせない。行くなら俺を殺せ」

将は大悟の前に両腕を大きく広げて立ちはだかった。すでに大悟に負けないほど息が荒い。

「何を偉そうに……!」

大悟はそんな将の襟首を掴むと、顔を拳で殴った。

鼻血を流す大悟は、手負いの獣そのものだった。人間的な手加減は一切ない。

殴られたはずみで将は、廊下の壁にぶつかるように投げ出された。

そんな将の襟首をさらに大悟はもう一度つかんで引き起こす。

将は口から血をブッと吹き出すと、大悟の瞳を見つめた。

「行かせない……絶対に」

大悟は狂気の目を見開くと、将のみぞおちを膝で蹴った。

「グアッ」

将は玄関の床に横向きに倒れこんだ。大悟は倒れた将の胴体になおもケリを入れる。

薬への依存に精神を奪われた大悟は、まるで容赦というものを忘れたらしい。

全力を足に込めて蹴ってくる。自分も素足だというのに、関係ないらしい。

「誰の、せいで、こんな、ことに、なってると思うんだ」

言葉の区切り区切りでリズミカルに蹴りを挟む。そのたびに走る激痛に将はただうめく。

生命の危険を感じる激痛。肋骨がきしむ。内臓を守るために力を込める筋肉がだんだん言うことを聞かなくなってくる。意識がだんだん遠のいていく。

エビのように体を丸めた将を大悟は仰向けに転がした。

もはや、抵抗できないほど痛めつけられていた将は、ハッハッと小さく息を繰り返すだけだ。

「瑞樹を返せ」

大悟は将を見下ろすとおもむろに言った。

その名前に将は、かろうじて薄目をあけていた瞼を見開いて大悟を見上げた。

……だいご。

声にはならない。唇だけがその形に動いた。

大悟は、正気に見えた。

彼は仰向けに倒れた将の横にしゃがみこむと、

「瑞樹に会わせてくれ」

と将の顔をのぞきこむように言った。落ち着いた、優しげでさえある口調。

将は鉄臭い唾液をごくりと飲み込む。大悟の顔から目が離せない。

風の音はやんだが、雨の音は間断なく続いている。

……これ以上の恐怖はなかった。

第249話 死闘(1)

 
「わァーーッ!」

大悟は恐ろしい叫び声と共に急に起き上がった。

その叫び声は隣でうとうとしていた将も瞬時で覚醒させた。

「大丈夫か」

「将……。ごめん。いつもの……悪夢」

謝る大悟は息が荒い。脂汗をかいているようだ。

「いいよ。……もう起きるか?また寝てもいいけど」

将は携帯を開けて時間を見た。もう7時すぎだった。

「いや、一度起きたら、眠れないから」

大悟がそういうので、将は立ち上がると遮光カーテンをあけて、夜のままの部屋を朝に変える。

だが、窓の外は昨夜よりいっそう激しい嵐だった。ひどい雨のあまり、まっ白に見える。

うなる風に乗ってバルコニーに叩きつける雨は、そのしぶきを窓まで跳ね上げた。

将は、極力覚醒作用を避けてわざとコーヒーではなく紅茶を淹れた。

「食欲、ないだろうけど、食べろよ」

将は冷凍しておいたパンを焼いて、インスタントスープと共に大悟の前に置いた。

大悟は、大人しくテーブルにつくと、食べ始めた。

「今、どんな感じ……?」

「まだ……平気」

将は、うなづきながら大悟の顔をのぞきこんだ。大悟は本当に痩せた。

「1日……何回ぐらいやってる?」

「4~5回」

将はパンを噛んだ顔をしかめた。かなりの依存である。

「おま……何で」

「何で、なんだろうな」

大悟は、伏せた目を窓の外にやった。

それが、落ち着いた大悟と会話を出来た最後かもしれなかった。

まもなく。

朝食が終わってソファに腰掛けた大悟は、テレビをみながら、小刻みに踵を上げ下げしていた……貧乏ゆすり。

あきらかに落ち着かない様子だ。

朝8時に、武藤から電話が入って、台風のせいで今日の仕事はキャンセルになる旨が伝えられた。

将はほっとした。

今の大悟を一人にしてはいけない。そう思ったからだ。

電話を切ると、大悟は激しく爪を噛んでいた。

「大悟、大丈夫か」

「あ、ああ」

声を掛けたときだけ、おさまる。

だが1分もしないうちにまた復活する。

そのうち、息が荒くなってきた。

それを本人も自覚しているように、息をとめて……しばらく我慢すると、深く息を吸ったり吐いたりを繰り返す。

その吸う息、吐く息自体が震え始めた。

外の風はいよいよ激しくなってきた、サッシの窓がときどき鈍い音を立ててたわむようだ。

しかし、外の台風より、大悟の中の嵐のほうがずっと激しいのだろう。

大悟は、歯を食いしばって必死で耐えていた。

将は、気晴らしをさせるべきなのか、とゲームをしないか、と誘った。だが

「できる状況じゃない」

と断られた。

9時の時報と共に、台風情報が始まった。

あと2時間ほどで房総半島に上陸するコースだ、と伝えたとき。

大悟は大きく息をつくと、震える声ながら冷静な調子で言った。

「ダメだ。将。もう限界だ……」

大悟は本当に苦しそうだった。肩で息をして、こめかみには脂汗が浮かんでいる。

「少しだけ……少しだけ、やっていいだろ」

「大悟」

将は立ち上がった。

「頼む。将。少しだけ。注射じゃなくて吸引にするから……」

「薬はまだ、あるのか」

大悟は苦しい息の下でうなづいた。

「やれよ」

将は言い放った。

「やればいいさ」

将は苦しむ大悟を睥睨しながらさらに続けた。

本当は、将は大悟が残りの薬を取り出したとたん、それを全部奪って処分するつもりだったのだ。

「将、お前、なんてことを言うんだ。俺……本当にやっちゃうよ?」

と泣きそうな顔で訴えた。そして

「お前、友達失格だな、将」

とも付け加える。本当に苦しそうだ。

「友達なら……俺を縛り付けてでも……我慢させろよ」

「大悟……」

「え?……そうだろ、将」

結局、この時点では大悟は持ちこたえた。

ふうふうと苦しい息の下から、大悟は、将の用意した入眠剤を欲しがった。

「眠らせてくれ……頼む。狂ってしまいそうだ」

大悟は、頭を抱えてその苦しみを訴えた。

すでに声はときおり裏返っていて、その異常な苦しみは将からも想像できた。

将は、入眠剤を定量渡した。

「だめだ!こんなんじゃ効かない。倍だ、倍くれ!」

大悟は、錠剤を見るなり大声で叫んだ。大悟から聞いたこともないような大声。

目は四白眼になるほど見開いている。コミカルなほどの……恐ろしい形相。

将は、凍りついた。

……恐ろしい戦いはまだ前哨戦にすぎなかった。

 
 

 
「将、やっぱり効かない。やっぱりアレしかない」

と大悟は立ち上がった。

入眠剤を飲んでからまだ10分も経たないときだった。

「だめだ」

将は大悟の体を抱えるようにしてソファに座らせた。

大悟は、将に向き直ると

「頼む。ちょっとだけでいいんだ!このままだと狂っちまう」

と叫んだ。涙さえ浮かんでいた。

将は首を振った。

……せっかく入眠剤を倍量も飲ませたのに、興奮させたら元も子もない。

将は薬を横取りする作戦を、眠っている間に処分することにしたのだ。

「落ち着け。大悟」

「俺は落ち着いている。冷静だッ!」

これほど逆の状態もないだろうに、大悟は『冷静だ』と叫び、ものすごい力で押さえつける将をはねのけようとする。

これが、元の大悟だったら、将は簡単に飛ばされていただろう。

ここまで痩せた大悟だから将は体重をかけて、なんとか押さえつけている。

「考えてくれ。将。……瑞樹がいってた、ダイエットだって、いきなり絶食するのはいけないって。だから、アレだって少しずつ減らしたほうがいいんだ」

わけのわからない理屈までこねて懇願する大悟。

「頼む。こんなふうに俺を押さえつけるな……、友達だろ」

大悟は、さっきと真反対の懇願をしながら、友情の確認をしようとする。

「将……」

やっと入眠剤が効いてくれたらしい。ようやく大悟は肩で息をしながらも目を閉じた。

静かになると、外の暴風雨の音が激しいものだということがわかる。

将は、大悟を押さえつけていた手をそっと離した。

そのとたん、大悟はカッと目をあけると、バネ仕掛けのように起き上がった。

「大悟!」

大悟は、室内であることを考慮せずに全速力で走って自室に向かった。

「こらっ!待てよ」

将が追いついたときは、大悟は自室でものすごい勢いで昨日着ていた服をあさっていた。

「やめろよ!」

将は大悟の襟を後ろから引っ張った。

しかし大悟はそんな将に肘鉄をくらわせた。将ははずみで転がり壁に背中から激突した。

起き上がった将は、大悟が透明な袋に包まれた白い粉を取り出したのを見た。

「やめろッ!」

将は、横からその薬を引っ張った。

繋がったセロファンの小袋のうち3つが千切られて将の手に奪われた。

大悟の手元には1つだけが残った。

しかし大悟は、将の手の3つを奪い返そうとして、将に掴みかかってきた。

「返せよ!俺のだぞ!返せ」

その眼は狂気に満ちていた。

「ダメだ!」

すると、大悟は少しもひるまずに、将の顔を拳で思い切り殴った。

将はもう一度床に転がったが、反射的に上体を起こした。

殴られた衝撃で頭がクラクラする。顎を生暖かいものが流れるのがわかる。

唇が切れて血が流れているのだろう。

将はそれでも、3つつながったセロファンを後ろ手で、ドアの向こうの廊下に放り投げると立ち上がった。

「それもよこすんだ」

将は唇の血をぐいっとぬぐうと、大悟の手の中にある1つを取ろうとした。

しかし、それは大悟の握り締めた拳の中だ。

「廃人になりたいのか!」

「うるせー!」

「よこすんだ!大悟ッ!」

将は大悟に飛び掛かると、万年床の上に押し倒した。

馬乗りになると体重をかけて大悟を布団の上に押し付ける。

大悟はすごい力でそれをはねのけようとする。

将は両手に力を込めて大悟の首のあたりを布団に押し付けた。

「うっ、ウガッ」

大悟は、苦しげに顔をゆがめながら、あいている左手で、首を締めんばかりの将の腕を掴んだ。

セロファンを握ったままの右手も、必死で将を殴ろうと振り回す。

将は大悟の首を布団に押し付けながら死んでしまうのでは、と気が気でなかった。

だが、力を緩めたとたんに大悟は反撃するだろう。

将は大悟が振り回す右手の拳があたらないように、必死で上体を逸らしつつも動きを見ていた。

……ついに将の左手が大悟の拳をとらえた。

将は、その手をこじあけようとしたが、左手だけでは無理だとわかると、

手の甲に親指を力の限り親指をめりこませはじめた。

「大悟……早く薬を離せ。手の甲が折れるぞ」

「ううっ……」

それでも大悟はなお、苦痛を我慢しようとした。大悟の手の甲の骨が折れる寸前。

崩れた大悟の拳からセロファンがわずかにはみ出したのを将は見つけた。

将は右手を大悟の首から離すと、そのわずかなセロファンの切れ端に右手の爪を立てた。

「クゥッ……」

大悟は自由になった上体を起こし、拳を握りなおして、それを守ろうとした。

セロファンの袋が強い2つの力に引き攣れて……ついに裂けた。

白い粉が、散乱した。

「ゴホッ」

顔の前で粉が散乱した将は思わず吸い込んでしまい、咳き込んだ。

ごく少量の薬は、ほとんど目に見えないほど散乱してしまった。

「俺の、俺の、くすり!」

大悟は悲痛に叫ぶと、馬乗りになったまま咳き込む将をようやく自分から跳ね除けた。

そして、将が廊下に投げた残りを取ろうと、素早くフローリングの上をいざった。

それを見た将は立ち上がると、大悟がそのセロファンの包みに手が届く寸前に、それを蹴った。

蹴られた薬はフローリングの上を勢いよくリビングのほうへ滑っていった。

それを取り上げた将の肩に背後から大悟がしがみつく。

「よこせ!俺のだ」

振り返ると大悟の頬を平手で力いっぱい叩いた。

派手な音がして、大悟の体はリビングになぎ倒された。

将はキッチンに立つと、水を出した。

3つつながった薬のセロファンの袋の端に爪を立てると、ビッと勢いよく裂いた。

薬は、多少散乱しながらも、水に溶けてあっという間に下水へと流れてしまった。

「バカヤロー……、なんてこと、なんてことをするんだあ……」

大悟は薬が跡形もなくなくなったのを見ると、頭を抱えて足をじたばたさせた。

将は息を荒くしながら、流した水を止めることもなく、そんな大悟のようすを見守るしかなかった。

もはや外を襲う激しい暴風雨も他人事でしかない。

第248話 台風接近の夜(2)

 
「将、ごめんよ、ごめんよ~……」

将に腕を引っ張られながら大悟はしきりに謝った。

クラブの暗い階段をあがって、昼間のように明るい通りに出た。そのとたん雨がびたびたと頬に張り付く。

「ヒィッ……!ごめんなさい~、しょう~」

大悟はおびえたように、体をかがめた。

将はそんな大悟にも雨にもかまわず、大悟をひきずるように大股で通りを駐車場へと向かった。

傘を差したギャルたちが

「SHOじゃん、やっぱりSHOだよ」

と指差しているのがわかったが、それにもかまわない。

井口は大悟の腕を引っ張って、わき目もふらず歩く将の横に追いついて

「大悟、どしたの?」

と訊いた。もはや、大悟は誰の目から見ても変だった。

「シャブ?」

と訊く井口を無視して、将は立体駐車場にやってきた。

しきりにおびえて、謝り続ける大悟を後部座席に押し込み、将は運転席に座った。

井口も無言で、助手席に乗り込む。

「ごめんよ、将~。俺、どうしても我慢できなかったんだー……」

後部座席で大悟は頭を抱えて言い訳をする。

将は無言のまま、アクセルを踏んだ。駐車場を出るなり、大粒の雨がボタボタとフロントガラスに落ちてきた。さっきよりワイパーを激しく稼動しないと追いつかない。

「井口……。ダウナー持ってる?」

しばらく無言で車を走らせた後、将は前を向いたまま助手席の井口に訊いた。

『ダウナー』とは睡眠薬のことである。

「持ってねえよ、そんなもん。なんだ、やっぱり大悟、シャブ中なの?」

将はそれには答えず、

「悪いけどさ、誰か、ダウナーもってそうなやつに連絡取ってくれない? 金は言い値で払うから」

「えーっ」

井口は顔をしかめた。

「頼む」

将は一瞬井口のほうを振り返った。その瞳があまりにも真剣だったので、井口は嫌々ながら電話を取り出した。

「シャブ中毒に、ダウナー使っても意味ねえんじゃねえの……」

とブツブツいいながらも心当たりに電話をしてくれた。

「大悟、酒飲んだ?」

信号待ちで、将は大悟を振り返った。

大悟は、漠然とした意識を死んだ魚のような目にあらわにして、ただぼーっとしていた。

「……飲んだ」

「どれくらい?」

「将。ごめん……」

質問に答えられない大悟は、ただ謝るだけだ。将は仕方なく訊く。

「薬を最後に打ったのはいつ?」

「……」

大悟は沈黙している。視線ははるか中空に浮かんだままだ。薬による恍惚感が消えてきているのだろうか。

この痩せ方だ。すでに、かなりの頻度でやってるのかもしれない。

そして、さっき大悟が一緒にいた奴らは、たぶん、『筋モノ』だろう……。

「あったよ。カイトのダチが弱いけど持ってるって」

電話を切った井口が、将を振り返った。

「よし。行こう」

将は、マンションに帰る前に、睡眠薬を受け取ることにした。

 
 

 
睡眠薬を手に入れて、将はやっとマンションに帰ってきた。

残念ながら、入手した睡眠薬は入眠薬でごく弱いものだった。持っていたカイトの友達だという青白い青年は

「100錠飲んでも死なないらしいよ。これで自殺はできないよ」

と淡々と言った。

だが、覚醒剤と併用することなど、噂でしか聞いたことのない将は、使い方がわからなかったので、それぐらいでかえってよかった。

明日天気次第でオーディションがある、という井口には帰ってもらった。

おそらく……これから修羅場になるであろうことが将にはわかっていたのだ。

風雨はますますひどくなり、笛の不協和音のような風の音が不気味に聞こえる。

大悟は、黙り込んでいた。もうさっきのように、ふにゃふにゃした口調で謝ったりもしない。

「大丈夫か」

将は自力で車から降りた大悟に声をかけた。大悟は無言で頷いた。多少グラリと体が揺れたのは、酒のせいだろう。

 
 

 
部屋に入った将は、大悟に先にバスルームを使わせた。

大悟は、無口だったが、意識は正気を保っているようだった。

その間に、将はもらった薬についてネットで調べた。確かに『弱い入眠作用』とある。

『多量に服用しても昏睡状態には陥ることはない』ともあった。

「将」

バスルームから出てきたらしい。

大悟の声が背後からした。

「出たか。……!」

将は思わず絶句した。

大悟は、観念したように、ショートパンツを穿いた脛を将に見せるようにむきだしにしていた。

その脛から踝にかけて……両足共に点々とどす黒い注射痕が残っていた。

「そんなところに……」

腕に注射痕が見つからなかったわけである。

「止めようとしたけれど、止められなかったんだ……俺は最低だ」

大悟は呟いた。

将は、グラスに入った水と、入眠薬を渡した。

「無理やりでも寝たほうがいい」

「いつも、使ってる」

大悟は、自室から錠剤を持ってきた。ただし、もう残り2回分だった。それは将でも名前を聞いたことがある、比較的強力な睡眠薬だった。

大悟は、その1回分を将の持ってきた水で飲むと、

「すまないな」

とため息をつくように目を伏せた。

「今日は、ここで一緒に寝ようぜ」

将は、なるべく明るくそういうと、布団を敷き始めた。

将は、自室のパソコンを使い終わると、大悟が先に寝ている、暗いリビングへやってきた。

遮光カーテンから漏れた光が天井に軌跡を描いている。

さっきから遠く雷が鳴り始めた。その鈍い音に、風がマンションに吹き付けるたびに、鈍い轟音となって混じった。

時間を追うにつれて、風も雨もますますひどくなってきた。

それなのに東京の夜は、完全に暗くなることはない。

将は、遮光カーテンの隙間から外をのぞいた。

外は嵐だった。

バルコニー越しに見える夜景は、横殴りの雨のせいで白っぽく煙っている。

遠くに見える高層ビルの赤いランプも、斜めに飛んでいく雨の向こうにぼんやりと浮かぶのみだ。

ときおり、将の目の前のガラスが風でドゥっと振動するのがわかる。

将は、遮光カーテンをきっちりと閉める前に、もう一度大悟の顔を見た。大悟は、薬のおかげなのか、なんとか眠れたらしい。

それに安心すると、将は携帯にイヤホンをさして、ニュースを見た。リビングのテレビをつけると明るくなりすぎるだろう、と気を遣ったのだ。

天気はすでに大荒れに見えたが、台風の位置的にはまだ暴風域に入ったかどうかというあたりだ。

オホーツク高気圧の勢力が強いため、台風の速度があがらず、ゆっくりとしているらしい。

『大雨、暴風、波浪……』赤い警報がずらりと並んでいる。

今日の昼頃、関東に上陸の恐れがあるというから、この分では仕事はキャンセルだろう。

携帯を消してしまうと、あたりは暗がりになった。暗がりに、不気味な不協和音を奏でる風のうなり声が強く弱く響く。

将はなかなか寝付けなかった。

いままで、この部屋で、こんな風に嵐をやりすごしたことは一度もない。

去年までは、台風がくると聞けば、知ってる奴から知らない奴らまで『仲間』が雨宿りに来ていた。

音楽をかけて、ゲームして、酒を飲んで。そんな風にいつもより賑やかに過ごしていたあの頃。

今、同じ部屋にいるのに、嘘のような静寂の中で、風の音におびえている。たった1年でこんなに変わった自分が不思議だった。

だけど、あいつらに来て欲しいわけでも、懐かしいわけでもない。

今、そばにいてほしいのは。

疲れた将を癒してほしいのは。

励ましてほしいのは……聡。

聡、ただ一人だ。

将は聡を思い浮かべた心のあたりにそっと手をあてた。

思い浮かべるなり、無性にあいたくなって将は携帯のデータフォルダをあけた。

そこには、少し前の聡がいた。それは寒い頃なのか髪を下ろしてマフラーをしていた。

それは聡と二人きりでやり過ごした冬の嵐……ニセコ山頂の吹雪を将に思い出させた。

寒くて凍えそうだったけれど、幸せだった。

しかし……去年の台風の頃には、将の心には『弁当屋のお姉さん』として聡が住んでいたはずだ。

雷の音が鈍く天をどよめかす。

将は、ふいにその音になま温かい人肌を思い出す。

去年の台風のとき、将は聡に惹かれる自分の心を無視して、瑞樹を抱いていた。

将は記憶と共に弾けたように鮮やかによみがえる罪悪感に、両手で頭を抱えた。

不気味な風の音は、そんな将の耳にまとわりついて離れなかった。

第240話 台風接近の夜(1)

それを聞いたとき、将は教頭役として共演している焼津を思い出した。

将と同じく生徒役の大野啓介などは

「俺、40代で焼津さんみたいな感じになれたら理想」

と憧れている。

コミカルな演技で、仲田雪絵と対立する意地悪な教頭役をこなす焼津は、このところドラマの出演がとても多い売れっ子だ。

しかし実はずっと舞台中心で地道に活動してきた実力派でもあるのだ。

役者という仕事自体は悪くはないと、将は思う。

面白いし、深みも、広がりもある仕事だと、ほんの3ヶ月程度しか活動していない将でもわかる。

だけど。

若いうちにブームのように売れた末路が、年をとって若いタレントに陰でバカにされるのでは悲しすぎる。

売れなくなった時点で他の道を選べるならいいけれど、経験も学歴もないのならば、バカにされながら芸能界にしがみついていくしかないのかもしれない。

疲れた将には、そんな道筋が確かに見えてしまったのだ。

 
 

将はソファで少し眠ってしまったようだ。気がつくと暗くなっていた。

時計はもう7時を指している。

大悟はまだ帰ってこない。

だいたい、昼間、いつもどうやって過ごしているんだろうか。

将がいないときに禁断症状が出る、といっていたはずだが……。

将は少し心配になって電話をしてみる。

しかし、出ない。

携帯の意味をなさないほど、電話に出ることが少ない大悟に少し腹がたつ。

『俺。伊豆から帰ってきた。今どこ。連絡して』

メッセージは残しておく。

それにしても今日は、家政婦もこないらしい。

そういえば今日まで伊豆ロケだから、夕食はいらない、と将はいっていたのだった。

将は、今日の夕食をどうしようか考え始めた。少し腹がすきはじめた。

雨だから外に出るのも面倒だ。

ピザでもとるか、と考えていると、ふいに、ピアスをつけている耳たぶが痒くなった。

そういえば伊豆ロケの間中つけっぱなしだった。

将は寝室に移動しながら手探りでピアスをはずそうとした。

寝室にあるノートパソコンからピザの注文をしようと思ったのだ。

「おっと」

寝室に入るなり、ピアスが耳たぶからころりと落っこちた。

落ちたピアスはフローリングの上を滑って、ベッドの下に入り込んだ。

将は這いつくばって、ピアスの行方を見ようとした。

が、かなり奥に入り込んでしまっているのか、暗くてよく見えない。

お気に入りだから諦めたくない。

将は、ベッドのマットを動かすことにした。

たしか、マットを載せる台はスノコ状になっていたはず。そこからなら拾えるだろうと思ったのだ。

マットが動いてホコリだらけのベッドの下に光があたった。

そこにキラリとピアスが光っていた。

将はそれを拾い上げると、フッとホコリを吹いて、横の台の上に置いた。

そして元通りマットを戻そうとして、ふと気付いた。

スノコ状になった板を渡す枠の上に、小さなポーチが置いてある。

「なんだ?」

将はそれを取り上げた。

瑞樹がらみの何かだろうか……と思いながらも胸騒ぎがする。

将はポーチのジッパーをあけた。中からは……注射器と小瓶に入ったアルコール、そして透明な袋に入った白い薬が出てきた。

将は口をあけて、しばらく呆然とそれを見ていたが、やがて立ち上がった。

 
 

夜になると雨に風も伴うようになった。やはり台風は徐々に接近してきているのだ。

そんな悪天候なのに、夏休みに入ったこともあり、若者御用達の盛り場は賑やかだった。

黒く濡れた路面に、色鮮やかなネオンライトが反射して、晴れた日より華やかにすらみえる。

しかし、空を見上げると、ネオンのピンクや水色に染まった雨粒が横殴りに飛んでいくのが見える。

ときおりの突風に、ギャルたちが、髪を押さえてギャーギャー騒いでいる。

だがそれすらも楽しそうにしか見えない。

そんな中、将は、傘もささず走っていた。

「SHOよ」

「ばくせんの」

「SHOじゃん」

若者が多い街をサングラスもかけずに走る将は、ただでさえ長身ということもあり目だった。

皆が振り返り、ひどいものは大声で叫んでいる。

しかし将は、立ち止まらずに走り続けた。

あれから、すぐに井口に電話した。前原の友達など、そういう系のやつがたむろしている店の情報を得るためだ。

ゲーセン、公園、コンビニ、クラブ。

井口はいくつか口頭で教えてくれた上に、

「どーせ、今から遊びに行くし。俺も探そうか」

と言ってくれた。

ありがたかった。

将は、すぐにミニに乗ると雨の中を街へと向かったのだった。

「将?大悟のやつ、”サイケ”に来たぜ」

井口から連絡があったのは10時をまわった頃だった。

コンビニ、ゲーセンをしらみつぶしにまわった将は、車の中で濡れた頭をタオルで拭っていた。

「わかった。すぐいく」

将は、コインパーキングに停めていたミニをすぐに出した。

“サイケ”は70年代を模した、やや妖しげな雰囲気のクラブである。

地下にあり、それほど広くはないが、名前の通り幻惑的な雰囲気のライティングや選曲でウケていた。

「ちょー、SHOじゃん」

「SHOだよ」

びしょぬれで現れた将は、まだ客が少ない時間というのもあり、その店でも目立った。

ギャル客は遠くからカメラ付き携帯で彼を撮ろうとしたが、暗いためなかなかうまくいかない。

「将」

井口が気付いて近寄ってきた。夏休みに入って伸ばしたらしく、髭面になっている。

「あそこ」

井口は顔を寄せて、顎をしゃくった。

隅の方のシートに、何人かが座っているようだが、暗くてよく見えない。

「ヤバイお兄さんと一緒みたい。……どうする」

井口は囁いた。

そのとき、重低音がリズミカルにフロアを揺るがし始めた。

リズムにあわせてブラックライトとレーザー光線が稲妻のように交差する。

暗闇に将が着ている白いTシャツが、井口の黒いTシャツの白いスケルトンが、紫色に浮かび上がる。

将はズンズンと響くリズムの中、不動で隅の方に目を凝らした。

稲妻のライトの中に、大悟が見えた気がして将は目をカッと見開くと、フロアを突っ切るように大股でそっちへ向かって歩き出した。

「おい、将!」

井口が後を追う。

踊る若者をかきわけてフロアを行く白いシャツの将は目立ち、ギャルらはその行く先に注目した。

大悟はたしかにそのシートにいた。

大悟のほかに男4人とその連れらしき女3人が座っていた。

「大悟!」

将は叫んだが、それは大音響の音楽の中では、普通の話し声にしかならない。

しかし、もはや、フロア中の皆が将に注目していた。

腹の底からビリビリくる重低音も、注目の中では静寂に等しかった。

しばらくして気付いた大悟は将を見上げた。呆けたような弱弱しい目だった。

「将……」

「帰るんだ」

将は大悟の腕を引っ張った。

「おい、何するんだ」

将のすぐ近くにいた男が立ち上がった。一見普通のストリート系の格好だったが、目付きは鋭かった。

舌にピアスをしているのがちらりと見えた。

しかし、それを無視して将は大悟を引っ張り続けた。

重低音のリズムにあわせるように大悟を引っ張りあげる。

「帰るぞ」

痩せ細った大悟は簡単に腰を浮かした。

「お友達はまだ遊びたいみたいじゃんよ」

大悟の左隣にいた眼鏡をかけた若い男が大悟の肩を抱くようにして将を阻止する。

その指にはごつい指輪が嵌っていた。

「邪魔するな」

将は男をその目力で圧倒すると、その手を力いっぱい振り払った。

男は勢いでシートに倒れた。

するとシートにいた男すべて……皆、ヤバそうなやつらばかりだった……が立ち上がった。

ふいに間奏に入ったのか、重低音が止んで、コミカルなラップだけになる。

サイケな模様のカラフルな照明がフロアに壁にくるくると映し出される。

そんな中、しばしヤバイ雰囲気で将と男達は対峙した。

「ふっ。いいさ」

一番奥にいた、一番年上らしい身なりのいい男が、皆を制する。

薄いサングラスをかけ、チョイ悪風ファッションだが、マジで悪いのはオーラでわかる。

再び、重低音がフロアを揺らしだした。暗くなったフロアを稲妻風のブラックライトが飛び交う。

男の尖った白い靴が紫色に浮かぶ。

「また、こいよ。大悟」

とニヤッと笑った。そして

「じゃあね。イケメン俳優さん」

と将を小馬鹿にした顔で舐めるように見つめた。

将はそいつを鋭く一瞥すると、重低音に追い立てられるように、大悟の腕を引っ張って出口へとフロアを横切った。

井口があわてて後ろについていった。

力ずくで大悟を引きずるように出口へと大股で歩く将は、何人ものカメラ付き携帯で撮影されていた。

たいていは暗すぎて将だということは判別不可能だったが、レーザー光線が偶然あたった瞬間のものも、何枚かあった……。

 
 

※次話の話数は248話へ飛んでいますが、内容は続いています。

第239話 進路

本格的な夏空には程遠いながらも、今日は1日晴れて、気温もあがった。

そんな暑い中の野外ロケは、とても体力を消耗する。将は疲れてマンションに戻ってきた。

案の定武藤からは

「もう夏休みなんだから、寮に戻れば」

と言われた。だが、将は

「期末試験が悪かったので、できるだけ補習に出ろ、と言われている」

と適当に誤魔化した。そんな将を武藤はバックミラーをちらりと見た。

郵便受けをあけた将は、荒江高校の封筒が入っているのに気付いた。

エレベーターの中で封の中をのぞく。

そこには通知表と、CD、それと何かプリントが入っているらしい。

……聡だ。聡が届けにきたのだ、ということがわかって将は、思わず何でもない封筒が嬉しくなる。

「おかえりー」

冷房の入った部屋で大悟はテレビを見ていた。

「体は、大丈夫?」

この数日、まるで挨拶のようになった質問を投げてみる。

「うん」

この答えも変わらない。

まさか、薬を足に打ち続けているとは将は知らない。

食事を済ませてきた将は、軽くシャワーを浴びると、寝室で封筒をあけてみた。

通知表に表示された1学期の成績は、思ったとおりあまりいいとはいえない。

なんとか期末テストは受けたのだが、勉強をしていないせいか、本当にソコソコである。

他校の通知表と比べて違うのは、期末段階のポイント数が表示されていることだが、こちらは、欠席が多いにもかかわらずそれほど減っているわけでもない。

たぶん、特別に配慮されているのだろう。

入っていたCDをセットして、もう1つのプリントを見る。

CDからは軽快な洋楽が流れてきた。みな子からもらったプリントやノートのコピーにあった、英語の授業に使われた曲だろう。

プリントは、夏休み中の大学進学希望者用の補習の概要とスケジュール表だった。

お盆前まで、ほぼ平日は毎日行われるらしい。

補習というよりも、自習&個人指導……つまり聡が2年のときから放課後に行っている形式らしい。

かつての放課後の補習の光景が将の脳裏をよぎっていく。

聡と二人きりだった補習。9月の暮れ行く教室……壁に映ったオレンジ色の陽光まで将は思い出すことができる。

しばらく思い出に酔った将は、ふと聡がこのプリントを同封した意味を考える。

聡は、将に大学に進学したほうがいい、と暗に言っているのだろうか。

 
 

連休も関係なく将は、毎日仕事だった。

新しく入ったCMに、雑誌のインタビュー。そして『ばくせん』の撮り。

天気のほうは、毎日午後になると決まって夕立が降ったが、それ以外はおおむね晴れて、梅雨明けに近いことを感じさせた。

その忙しいまま、3泊4日の伊豆ロケに突入した。

伊豆といっても半島内陸の、山の中で撮影は行われているので、ギャラリーはそれほどいない。

不良生徒たちが寺に合宿にやってくるという設定である。

ロケ現場の寺を見て、将はなんとなく、聡が副校長を務めていた、あの山梨の学校を思い出した。

すでに仲良しの生徒役同士なので、本当に合宿のようなものだ。

ただ、四之宮だけは、泊まるのは1泊だけ、と彼の登場シーンだけ『ため撮り』が行われた。

アイドルグループに所属する彼の忙しさは他の比ではないらしい。

四之宮がらみの撮りが終わって、スケジュールがゆったりするかと思えばそうでもない。

どうやら、台風が接近しているらしく、3日目後半から天候が悪化しそうなので早く撮り終えたいらしい。

だが、3日目を迎えた将の頭の上には、そんな片鱗もないような青空が広がっていた。

今日の空は、特に逞しいばかりの夏空だった。濃い青色の空に、咽るような草の匂い。

強い陽射し、濃い木陰。

蝉の声も東京と違ってさまざまな声が重なる。

今日は特に暑いらしい。予想最高気温は、この夏最高ということだった。

暑いときの撮影は大変だ。こまめにドーランを塗りなおさないといけない。

衣装も、すぐに汗まみれになってしまうので、何着か同じものが用意されていて、そのつど着替えないといけない。

ただ、予報どおり昼すぎからだんだん曇が多くなってきた。

そして、夕方にはどんよりと曇ってしまった。

厚い雲の切れ目から夕陽が差して、空が気持ち悪いショッキングピンクに染まるのを将は見た。

幸い、3泊4日といっても4日目は予備的なスケジュールだったので、3日目の夕方までには、伊豆でやっておくべき撮影は、ほぼ終了していた。

 

翌朝は、朝から雨が降っていた。

まだ関東から遠いように見える台風だが、それに刺激されて梅雨前線が活発化しているらしい。

そしてゆっくりとしたスピードながら、関東を直撃するコースをとっているという。

将たちロケ隊は、早々に伊豆を後にすることにした。

局で解散したときには昼すぎだった。雨なのは東京も変わらなかった。

「困るわねえ。台風が直撃すると。明日から仕事が詰まってるのに」

伊豆ロケにも同行した武藤はタクシーで将を送り届けながら呟いた。

「台風が直撃したら、仕事って休みになるの?」

「直撃の度合いにもよるわよね。交通が麻痺したら、スタッフがスタジオにこれなくなるし」

「ふーん」

将は、ちょっとだけ台風が直撃すればいいのに、と思って窓につく水滴に目をやった。

雨粒の張り付き方は弱弱しく、まだ、そんなにひどい台風になりそうでもない。

このところ暑いのと、仕事づくめなのとで疲れていた将は休みたかったのだ。

「ところで、将」

武藤は明るい声を出した。

「秋の連ドラのオファーが、もういくつか来てるのよ」

『E』のCMに、『ばくせん2』。これらが放送されるたびに将の人気はうなぎ登りにあがった。

早くも『イケメン俳優』として名前があがるようになっている。

事務所のHPも、番組公式HPもアクセス数でつねに3位以内をキープしている。

「……ふーん」

「ふーん、って嬉しくないの?」

武藤が隣の将を振り返った。

将は窓から自分の膝に視線を移した。

そして、思い切ったように顔をあげると武藤のほうをまっすぐに見た。

「……武藤さん。俺、大学いっちゃダメ?」

「えっ……?」

「大学に進学したいんだ。できれば」

武藤があまりにもびっくりした顔だったので、将は最後に『できれば』と付け加えた。

 
 

夏の昼下がりだというのに、マンションの部屋は暗かった。

太陽が照っているわけでもないのに、じっとりと暑い。将は即座に冷房をいれた。

大悟は、この雨の中、出掛けているらしい。

将は、冷蔵庫から缶ビールを取り出すと、迷わず飲んだ。

この伊豆ロケの間中、暑かったのにビールは飲めなかった――まだ、未成年だからである。

3日ぶりのビールは喉に爽快な通り道を描いた。

イッキのみすると、将はソファに体を投げ出した。

――大学進学か。

大学進学を熱望しているわけではないのに、なぜか将は言ってしまった。

ここのところの仕事漬けに少しまいっているのかもしれない、と自分でも思った。

成果は出ているのも、人気が出てきたのも、わかるけど、毎日毎日仕事。

『新人のうちは仕方がない』と武藤は言った。

だけど、新人でもない四之宮はどうだ。

将以上に忙しくしている。

自分で芸能界入りを希望したわけではない将は、あまりの自分の時間のなさに少し辟易していたのだ。

それに……こんなことがあった。

 

あのCDのこと以来、将は四之宮ともポツポツと話をするようになっていた。

もともとあまりしゃべらない性質らしい四之宮だが、話してみると、実はおっとりとした性格だということがわかった。

2つ年上で芸歴は10年に及ぶが、それを自慢したりも、先輩風も吹かせたりもしない。

それでも芸歴10年だけあって、局でも有名人がよく声をかけてくる。

昔の共演者だったりするらしいが、将と一緒にいるときは、ちゃんと紹介してくれる。

そのときも、四之宮と将は控え室で、なんとなく話をしていた。

四之宮は疲れているのか、テーブルの上に頬杖をついていた。

と、控え室に四之宮のマネージャーが入ってきた。

「敦也、△さんが来てる」

「えぇ?」

四之宮は珍しく心底嫌そうな顔をした。細く整えた眉が激しく歪んだ。演技以外でこういう顔をするのはとても珍しい。

「ええって……、いちおう挨拶しとかなきゃ。早く」

「……めんどくせ」

四之宮は、小さく吐き捨てるように言いながらも立ち上がった。

「俺は? 行かなくていいかな」

将は訊いてみた。こんなときいつも四之宮は自分の知り合いに気軽に将を紹介してくれたのだ。

「いいよ。別に」

四之宮は横目を一瞬、将に投げただけで、足早に控え室を出て行った。

そして10分後には戻ってきた。戻ってきた四之宮は、机に突っ伏すようにして、一層脱力していた。

「どうしたんすか」

「疲れた」

「△さんて誰ですか」

「うちの、事務所の、先輩」

「へえ」

「でもさ」

四之宮は机に頬をつけたまま、将を手招きした。内緒話の仕草。

将は四之宮の口元に耳を寄せた。四之宮は声を出さずに吐息だけで

「落ち目」

と言った。

「昔は、ベストテンっていうのかな、に出るぐらい売れてたらしいんだけど。今は単なるおやじ」

四之宮は聞こえるか聞こえないかの小声で続けた。

「それでもいちおー先輩だし。昔は俺たちより売れてたらしいからー、ソンケーしてるフリしないといけない」

四之宮はさも面倒くさそうに言った。

第238話 汚染(2)

雨は翌日まで降り続いたが、翌々日にはあがった。

強い陽射しが車のボンネットに反射して、朝だというのに頭痛が起きそうほど強烈に将の目を射抜く。

武藤は車の冷房をギンギンに効かせて待っていてくれた。彼女も濃いサングラスを掛けてハンドルを握っている。

「やっと晴れたわねえ。ずっとお天気が持ってくれるといいけど」

確かに木曜日の今日は晴れて、陽射しは強い。

だが、まだ梅雨が明け切れていないというのは、その頼りなげな薄い水色の空に現れていた。

それでも、夏本番を思わせる暑さは、すでに息苦しいほどに街を包んでいた。

じっとりとした湿気が、よりそう思わせるのかもしれない。

その湿り気を残したような薄青い空を眺めながら、将はもう少し梅雨が続いてほしいと思う。……大悟のために。

将が『おうち』のほうのマンションにいったん戻ることを許されているのは、雨のせいで学校に行く頻度が高いから、という理由である。

ここで梅雨明けが確定してしまえば、M区の寮に戻らなくてはならない。

せめて大悟が、薬から離れてしまうまで、『おうち』のほうにいたい、と将は思う。

 

覚醒剤を止めるとき、その常用度にもよるが、通常は禁断症状が襲う。

禁断症状と戦うであろう大悟をできるだけ援護したい将だが、学校や仕事を休むわけにはいかなかった。

しかしこの2日、将が一緒にいるとき、大悟は不気味なほど落ち着いていた。

「お前、禁断症状とか出ないの?」

「……いや、出てるよ。お前がいない間は、結構キテるけど」

「そうか……?」

あまりに落ち着いている大悟に少し疑惑を抱いた将は、その左腕に目をやった。

新しい注射痕はなさそうだ。前のものが薄くなって残っているだけだ。

それで、将は少し安心して

「がんばれよ」

と声をかけた。大悟は「ん」と短くうなづいた。

 

「そうだ将、来週、連休明けから伊豆ロケだからね。わかってると思うけど」

武藤は前を向いてハンドルを握ったまま、将に確認した。

将はそれが不安だった。3泊4日の伊豆ロケ。

その間、うちをずっと留守にしなくてはならない。

大悟は……大丈夫だろうか。禁断症状に耐えきれるだろうか。将は心配でたまらない。

将の心配は的中していた。

この時点ですでに大悟は、禁断症状との戦いに、実にあっさりと敗北していたのだ……。

 
 

今日は、スタジオで7話の台本が配られた。

「この回は、SHOくんが主人公だから」

台本と共にディレクターに言い渡されて将は驚いた。

「え?僕ですか?」

将は思わず訊き返した。

『ばくせん』は1話完結の学園コメディであるが、ストーリーのパターンは決まっている。

仲田雪絵が扮する女教師の教え子の1人が何か問題を起こすなり抱えるなりし、それを仲田雪絵が励まし、博徒らしい決め台詞と派手なアクションと共に解決するというパターンだ。

その、問題を起こす生徒役が、7話では将になるというわけだ。

メイン生徒5人に入っている将ではある。

だが、まだ演技経験が少ないという理由で、その役はおそらくまわってこないだろう、まわってきても複数のうちの1人だろうと武藤も将も予想していた。

それだけに、武藤は嬉しそうに「やったじゃない」と将の肩を叩いた。

将も、いつもより自分の出番が多い新しい台本を見ながら、責任と共にやりがいが湧いてくるのを感じていた。

 
 

翌金曜日、荒江高校では、1学期の終業式が行われた。

昨日に引き続いて晴れたこの日、体育館はうだるような暑さだった。

冗長な調子の校長の挨拶に、猛々しいほどの蝉の声が重なる。

教師も生徒も、早く終われ、と同じことを考えてじっとしていた。

聡もじっと座っているだけで、耳の後ろから流れた汗が首をつたい、胸の谷間へと転がり落ちるのを感じていた。

やっと終業式が終わると、皆に通知表を渡す。

結果はどうあれ、皆、晴れ晴れとした顔をしている。明日からの夏休みが嬉しいのだ。

撮影で出席できなかった将には、当然、通知表は渡していない。

生徒たちが帰ったあと、聡は冷房の効いた昼休みの職員室で、渡せなかった将の通知表を見つめた。

将の名前を見るだけで、心の柔らかいところを引っ掻かれたような感覚が蘇る。

そして、あの雨の夜の将のにおい……。

聡はそれを振り払うように、この通知表をどうするべきか、ということに頭を集中させる。

最近将と親しいらしい、星野みな子に託すことも思いついた。

大学進学希望の彼女は、夏休み中も平日に行われる補習にくることになっている。

いっとき、聡への態度がおかしかった彼女も、最近は前と同じように接してくれる。

むしろ、聡のほうが、将と仲がいい彼女への嫉妬を表面に出さないように努力しなくてはならなかった。

もちろん、学校一英語の成績がいい彼女だから、教師としての聡は彼女を信頼してもいる。

だから……ここのところ複雑な気持ちを秘めて、聡は、星野みな子に向かい合っているのだ。

聡は、星野みな子に移った思考を通知表に引き戻す。

通知表といえど個人情報だ。

できるだけ、将とは接触しないように、とあれこれ考えたが、やはり自ら渡しに行くしかないという結論に落ち着いた。

今日の帰り、久しぶりに夕食を、前にバイトしていた弁当屋で買って、そのついでに、将のマンションに寄って通知表を入れた封筒を投函しておけばいい――。

聡はそうすることに決めると、通知表を学校名が印刷された真新しい封筒に入れた。

それと、前から作っておいた、1学期の授業で使った洋楽と映画のセリフを入れたCD、

どうせ受けられないだろうけれど、大学受験者用の補習のスケジュールも同封しておく。

 

教員は、終業式といえど17時まで勤務がある。

それを終えて、聡は将のマンションと弁当屋がある商店街のほうへ向かった。

こっちのほうにくるのは久しぶりだ。いつ以来だろうか。

まといつくような夏の夕方の空気。聡は懐かしげにあたりを見渡した。

去年の今ごろ、塾講師と弁当屋のバイトをかけもちしていた自分がたしかにいたのだ……。

どこからか、焼き鳥が焼ける香ばしい匂いが流れてくる。それはこんな夏の夕暮れにとても似合っている。

――美智子でも誘って、生ビールでも飲みに行こうか。

聡はふと夕食の変更を考える。

――どっちにしても、まずは封筒を投函しないと。

そう判断すると、聡は将のマンションにまっすぐに向かった。

誰でも入れる自動ドアのエントランスからロビーに入る。

焼き鳥の匂いや商店街の賑やかさもシャットアウトされているのか、ロビーは静かだった。

すでにここにも冷房が効いているのか涼しい。

この先は、訪問者が各部屋へのインターフォンを押して、住人が入り口を開けるオートロック形式になっている。

郵便受けだったら、そこを通らなくても投函できるようになっている。

聡はこの時間だったら、同居している大悟もまだ戻っていないだろう、と考えて郵便受けに封筒を投函すべく、バッグから取り出した。

そのとき、背後の自動ドアが開く機械音ももどかしく、あわただしく誰かが駆け込んでくる足音がして聡は振り返った。

……一瞬、その痩せこけた男が誰か、聡にはわからなかった。

しかし、痩せて異様な形相ながらも、なお端正な顔だちから、大悟だとわかった。

「大悟くん!」

自分の横を通り過ぎようとする大悟に聡は声をかけた。

大悟は骸骨のような顔から転がり落ちそうなほど目を見開いて、聡のほうを睨んだ。

邪魔するな、というような恐ろしい目。聡は思わずひるんだ。

しかし、大悟は、声をかけたのが聡だとわかると、表情を少しだけ緩めた。

「先生」

「……久しぶりね。元気?」

聡は少しほっとした。しかし大悟は

「ハイ。……すいません、俺急いでるんで!」

と早口で言うと、自分でオートロックを開け、中に走りこんでしまった。

聡もそこへ続けばよかったのだが、タイミングを逸した。

立ち尽くした聡の前で、ドアは静かに閉まって静寂が戻った。

痩せて、変わり果てた大悟の顔。そして急いで駆け込む姿。

聡には何がなんだか理解できなかった。

ただ、異様すぎる印象が残った。

お腹の具合でも悪かったのだろうか、と自分を無理やり納得させると、聡は当初の予定通り、通知表を郵便受けに投函することにした。

 
 

大悟は、大きな音を立てて、金属のドアを閉めると、震える手でポケットから包みを取り出した。

大悟の手の上にはセロファンの小袋に入った白い薬がいくつかあった。

それを目にして、大きく息をつくと、なぜか将の部屋に入る。

将のセミダブルのベッドの前に大悟はひざまづくと、マットを持ち上げてその空間に腕を差し込んだ。

手探りでマットの隙間から取り出したのは、小さなポーチだ。

その中には新しい注射器が入ったケース、小瓶に入った消毒用アルコールが入っていた。

燈台元暗し。

大悟はなんと、将の部屋に、薬関係のものを隠していたのである。

大悟は何食わぬ顔でリビングのソファに腰掛けると、一式をテーブルの上に並べる。

そして屈みこむ様にして、白い薬の包みのうち、1つを慎重にコンタクトレンズのケースのような容器にあけた。

そこへミネラルウォーターを慎重に垂らす。

薬はわずかな水に、幻のようにあっさりと溶けた。

大悟は、ソファの上に素足をあげた。

裾をめくって足首を露出させる……そこには、すでにいくつかの痕跡があった。

注射針をいったんアルコールに浸し、さらにティッシュにアルコールをしみこませると、静脈が浮き出ている今日の位置を素早く、かつ丁寧に拭く。

注射器で、溶かした薬を目盛りまで吸い上げる。それを浮き出た足の静脈に刺した。

足への注射は難しい。

だが、手先が器用な大悟は、すぐにコツをつかんでしまった。痛みもたいしたことない、と思った。

薬を取り入れた血流はまもなく大悟の全身にまわり、禁断症状におびえた体をなだめていった。

大悟の耳は、ようやく騒がしい蝉の声を、『正常に』捉え始めた。

第237話 汚染(1)

「何やってんだ!」

将の鋭い声に、大悟の喉を固唾が落ちていくのが見えた。

しかし、大悟はそれを腹の底まで落としてしまうと、落ち着いて注射器をケースに入れ、左腕の緊縛を解いた。

テレビからの賑やかな笑い声に、将の怒号が重なった。

「何やってんだよ!」

将はソファの大悟の近くまで床を踏みしだくように近寄り、見下ろした。

「これは、何だよ!何してんだ!」

将は、破かれた空の小袋をつまみあげて振った。

将の怒髪天をつく勢いに、大悟はそっぽを向いて、ハッとため息をついた……笑ったように見えた。

「バレたか」

「バレたって……、お前、どういうつもりなんだよ!」

思わず将は、大悟の胸倉を掴んだ。

「おい、大悟!」

そのまま、激しくゆする。大悟の痩せた体は、伸びた髪は、ゆさゆさと揺れた。

「ドラッグはやらねえ、ってお前が言ったんじゃんよー!」

それは中学のときに大悟が言っていたことだった。

どんなに犯罪に手を染めても、ドラッグだけは自分の体には入れない。

……おそらく、借金漬けの父やその取立てから、その匂いを身近に感じていた大悟の決意だったのだろう。

それが、どうして。

将は、シャブを大悟の体から、はたきだすがごとく、大悟を揺さぶり続けた。

そんな二人を嘲笑うように、テレビから笑い声が漏れ聞こえてくる。

雨音は、テレビに負けじ、といっそう強くなった。

「やめろよ」

とうとう大悟は、将の腕を振り解いた。

「どこで、手に入れたんだ。前原のダチか?無理やり打たれたのか?」

将はソファの前にひざまずいて大悟の顔をのぞきこんだ。

その顔は、痩せている上に、目のしたにはまるでアイシャドウを施したようなクマがくっきりと浮き出ていた。

そのくせ、瞼や唇などはどことなく腫れぼったい。浮腫んでいるのだろう。

でも……この期におよんでも、まだ将は大悟のことを信じたかった。

自分で進んでシャブを打つようになったと思いたくなかった。

「なあっ!大悟!」

大悟は、自分の肩に手を置いて必死の形相の将を冷静に見つめていた。

大悟は、つい先週見てしまった、将が出演したドラマを思い出していた。

テレビドラマに出演していた将より、苦悩にゆがんだまま大悟の答えを待つその目は大きく見えた。

整った顔をゆがめて、それでも自分を信じたい将。

「どうして、こんな……シャブなんか」

大悟は耐えられなくて、思わず将から目をそらした。そのとたん

「瑞樹を立ち直らせようとしていたのは、お前だろっ!」

と将は叫んだ。

大悟は、その名前に、奥歯をきつく噛み締めた。

その力は頭蓋骨をも緊張させ、目の奥にこびりついた瑞樹の最期が蘇った。

瑞樹の結末。

細かい粒になった瑞樹がくっついた自分の顔が脳裏に浮かんだとたん大悟はつぶやいた。

「もう……俺はダメだな」

今度は将が固唾を飲み込む。

「ダメじゃないだろぉっ!大悟!」

いったんひるんだ将は、ひるんだ間の分、大声で叫んだ。

「何いってんだよ!今からでもやめろよ、こんな薬」

将は、注射器のケースを取り上げるとフローリングの床に叩きつけた。

そして、そこにあった雑誌を載せて、素足で踏みつけた。

ボリッという鈍い音がして注射器は粉砕されたらしい。

将が注射器を壊すのを、大悟は放心したように、しかしすこしホッとしたような顔で見つめていた。

「他に薬は、ないのか」

将はなおも、雑誌に置いた足に力を込めながら、大悟を睨むように振り返った。

「ない。……今ので最後」

「本当だな」

大悟は、将の足元をみたまま、うなづいた。

将はしゃがむと、踏んでいた雑誌をどけた。

注射器はプラスチックのケースと一緒に粉々になっていた。針だけが元の形を留めていた。

将はその針をつまみあげると、さも憎憎しげに両端をつまんだ指先に力を込める。

細い針は、ぐにゃ、と直角に曲がった。

「いいか。絶対に、やめろよ」

将はそれを持ってキッチンに行きながら、大悟を振り返った。

大悟はまだ粉々になった注射器を見ていた。

将はキッチンの燃えないゴミ入れから空き缶を取り出すとその中に曲がった針をポイッと突っ込んだ。

そしてほうきを探したが、見つからないので、将は雑誌を破るとその中に注射器の大きめの破片を素手で拾って乗せた。

大悟はその間ずっと不動のままだった。

「……てっ」

大悟はハッとした。薄い注射器の破片がふいに将の指を傷つけたらしい。

人差し指に赤い血が滲んでいた。

「大丈夫か」

大悟は思わず将のほうへと上体を起こした。

「大丈夫だよ。こんなの」

将は血の出た人差し指をぺロッと舐めると、雑誌をやぶいてそれをほうき代わりにして残りの破片を紙の上に追いやった。

破片をあらかた紙に包んでしまうと、将は立ち上がった。

こうやって見下ろすと、大悟は本当に痩せてしまったことがあらわになる。

「瑞樹だって……お前がこんな風になって、哀しむぞ」

瑞樹、の名前を舌に乗せるとき、あいかわらず将の胸はチリリと罪悪感に痛んだ。

だけど、大悟のために、少しでも効果のあるフレーズを探した結果、将はそれを声にしなくてはならなかった。

だが大悟は俯いて黙ったままだ。

「……西嶋さんだって、心配してんだろ」

大悟はうなだれた。

そしてかすかな声を絞り出す。

「やめ……られると思うか」

「やめるんだよ」

将は破片を包んだ紙を床に置くと、再び大悟の肩に手を置いた。

「やめるんだ」

大悟の目からは、涙がこぼれていた。

涙をこぼすその目は、まだ、生きている。

「いいか、絶対に、もうやるなよ。どんなにつらくても……我慢しろよ」

大悟は涙をこぼしながら、歯を食いしばっていた。

「瑞樹の……二の舞にはなるな」

大悟は歯を食いしばったまま、深く頷いた。閉じた瞼から涙がほとばしり出て顎へと伝った。

将は、黙って立ち上がり、玄関わきのクロゼットから掃除機を持ってくると、残った破片を吸い取った。

その騒音に雨の音も、テレビの笑い声も、聞こえなくなった。

 

将は、大悟の決意を信じていた。

だから、大悟を見守るべく、かつ監視すべく、しばらくは『おうち』から仕事へ通うことにした。

だが……このときの大悟の正気は、薬による安定がもたらしたものである、ということを。

すでに大悟は薬なしでは、正気を保てないほど汚染されていることを。

……将は知らなかった。

第236話 夜の雨に包まれて

ゴミ袋に入っていたそれらは、目を背けたくなるようなものばかりだった。

中にはかつて、将が遊びまくっていた頃を思い出すものもあったが、今の将にはただ胸糞が悪くなるばかりだった。

しかし、目当てのもの……覚醒剤……はその中にはなかった。

それにしても、これらがゴミ袋に入っていたとなると、捨てるつもりだったのだろうか。

将はさらに、クロゼットに入っている服のポケットをすべてあさった。

トランクスや靴下が入っている引き出しもあけてみた。

万年床をあげてみたし、シーツもはがしてみた。

瑞樹のボストンバッグも全部あけてみた。

しかし、ない。

将はため息をついて、床に座り込んだ。

今ごろになって疲れがどっと背中にのしかかった。

静かになると、かすかに外の雨音が聞こえる。

将は重い腰をあげると、自分の部屋に移り、ベッドに寝転んだ。

体は疲れているが、頭は何か、気晴らしの娯楽を求めている。

将は、携帯を取り出すと、動画サイトを開いてみた。

「あ」

携帯の画面には四之宮がアップで映っていた。あの歌を歌っている。

どうやらこの春始まった音楽番組からの動画らしい。

四之宮はこの5人組グループのメインボーカルのようだった。

将が好きだといったパートも、四之宮が歌っている。

「なんだよ。歌ってんじゃン」

将は、小さな画面に向かって独り呟いた。

四之宮によるそのパートはいっそうせつなくて、さっきラジオで聴いたものよりずっといいような気がした。

しかし、コメント欄でわかったことだが、もともとこのグループは6人だったらしい。

メンバーの一人が飲酒喫煙で謹慎をくらったため、一時的に5人で活動しているということだった。

そして、どうやら……将の気に入ったソロパートを担当していたのが、くだんの飲酒喫煙のやつで、

メインボーカルの四之宮は、その部分も一時的に、そいつのかわりに歌っているのだ、ということがわかった。

――そうだ。

将は思いついて画面の隅の時計を見た。まだ9時になったばかりだ。

車のキーを持って立ち上がる。

 
 

将は、久しぶりに聡のコーポの前に車を停めた。

聡の部屋の窓からはカーテンを透かした光が漏れている。

懐かしい彼女は、あの青い光の中にいるのだろう。

将はハンドルに肘を乗せて、フロントガラスから、聡の窓を見上げた。

ワイパーが定期的に集める小さな雨粒は、将の涙のようにガラスの上を滑っていく。

将は、今日スタジオで四之宮にもらったCDを紙袋に入れた。

そして簡単にメッセージを書く。聡の部屋のポストにそっと投函しておくつもりだった。

=====

今日、四之宮さんにもらった。

聡の好きな○○さんが作詞作曲してるから、やる。 

将

=====

宛名は前だったら『聡へ』と書くところだが、一時的に離れている今、その呼び方は似つかわしくない気がした。

かといって『先生』『アキラ先生』『古城先生』はよそよそしすぎる。

結局宛名は書かなかった。内容から聡にということはわかるだろうからだ。

将は、思い切って車のドアをあけた。

ぽつぽつと降る雨からCDの袋を守るように、下を向いて一目散に聡のポストへと走ろうとしたとき。

ちょうど階段から降りてきた住人と歩道の上でぶつかりそうになった。

……聡だった。

二人は、濡れたアスファルトの上で立ち尽くした。

そんな二人に関係なく、暗い夜空から雨は、水銀灯に白く染まりながら落ちてくる。

「しょ……鷹枝くん。どうしたの?」

将は、あまりにも突然に現れた聡に、何を話していいかわからなかった。

水銀灯と蛍光灯の素っ気無い光に照らされながらも、懐かしい聡は聡だった。

コンビニにでもいこうとしていたのか、Tシャツにバミューダパンツ、つっかけ、手には小銭入れという軽装で、

髪はポニーテール、口紅だけつけた顔の中で、真ん丸くなった瞳に将が映っている。

「そっちこそ、こんな時間にどこいくんだよ」

抱きしめたい。それを抑えているから、つい咎める調子になってしまう。

「……ちょっと、コンビニ。雨降ってるね」

聡の視線は、将の顔を越えて、空を仰いだ。

そのとき、ちょうど雨脚が一時的に強くなったのか、ぼたぼたぼたっと大きな雨粒が空から二人をめがけて落っこちてきた。

「濡れちゃう」

聡はふいに将の腕を引っ張った。温かい手が将の腕を掴んでいる。

将は、胸が痛いほどに打ちはじめるのを感じた。

階段下のコーポの郵便受けのところまで、将を引っ張りこんで聡はもう一度訊いた。

「どうした……」

『の』まで言い終える前に、聡の体は将の体温にすっぽりと包まれていた。

将は耐えられずに、聡を抱きしめていたのだ。

持っていたCDの袋が、コンクリートの床に落ちる。

「アキラ……!」

将は狂おしいほどに、聡を抱きしめた。

雨はさっきとは段違いに激しくアスファルトを打ち始めた。

高いしぶきで夜の街が白っぽくけぶるほどに……それは将の温かい体温とは対照的に聡の半袖の腕をひんやりと冷やした。

聡は雨の匂いが混じった干草の香りに倒れそうだった。

意識を保つために薄目をあけて、滝のように落ちる雨だれを、将の肩越しにただ見つめる。

 

雨は一時的に強まっただけのようだ。

5分ほどで、もとのしょぼしょぼとした雨に戻ってしまった。

逆らえない激情もようやくおさまり、将の腕は聡から離れた。

「ごめん」

将は、ほうけたような聡の顔から視線を下に落とすと、コンクリートの上のCDを拾った。

「これ……。アキラの好きな○○さんが作った曲なんだって。知ってた?」

聡は黙って首を横にふった。

流行とか芸能関係にうとい聡はたぶん知らないだろう、という将のヨミはあたった。

再び将の目に映った聡は……とまどった瞳はうるんで、蛍光灯の青っぽい光の中でも頬と唇がばら色に紅潮しているのがわかった。

そんな顔を見ると、いとおしくて、また抱きしめたくなってしまう。

それを抑えて、将はCDを差し出した。

「……いいの?」

聡はそれを受け取りながら将の顔を見上げた。

「貸して、あげる」

単に『あげる』というつもりだった将はとっさに、言い換えた。

返すのは、二人が堂々と会えるようになってからでいい――。

将は、CDにそんな気持ちを込めたのだ。

聡も将の隠された意図を理解したのか、

「ありがとう。聴いてみる」

と返事をした。

二人は、再び黙って見つめあった。

本当はキスしたい。もう一度抱き合いたい。……同じ想いを抱えた二人を、生温かい風がなぶっていった。もう一雨来そうだ。

「コンビニに行くなら、傘持ってったほうがいい」

「……うん」

「じゃあ」

将は、聡に背を向けようとした。磁石から引き剥がすように、意志と力が要った。

「将」

聡の声に、将はバネのように、すぐに元の……聡が見える向きに戻ってしまった。

「明日は、学校くるの?」

「うん。たぶん」

「そう」

聡はそれだけのために将を呼びとめたのではない。

本当は星野みな子とのことを訊きたかった。

だけど……さっきの抱擁がすべての答えではないか、と聡は思いなおしたのだった。

将が名残惜しげにミニに乗り込んだとき、重苦しい空から、再び大きな雨粒が落ちてきた。

 
 

滝のような雨が降りしきる中、再び『おうち』に帰ってきた将は、玄関を開ける前に直感した。

――大悟は帰ってきている。

なぜかわからないが、そう感じた将は、そっと、なるべく音をたてないように、鍵をあける。

案の定、リビングから灯りとTVの音が漏れていた。

リビングと廊下を隔てているドアまで忍び足で来ると、将はそれを勢いよくあけた。

ソファにいた大悟は顔をあげた。緊縛した左上腕。右手には注射器を持っている。

テーブルの上には、破いたセロファン、薬を溶いたらしい容器。

「……何やってんだ!」

将は鋭い声をあげた。

第235話 梅雨前線(4)

『ばくせん2』の第1回が放送された。

人気シリーズの2作目とあって、視聴率は上々、

「このドラマ不況の時代に、25%越えはすごいよ」

と番組関係者は誇らしげだった。

現在4話を収録中の役者やその所属プロダクション関係者にも視聴率は伝えられ、みんな拍手して喜びあった。

「SHO。すごいよ。アクセス数、放送直後2位」

月曜日、プロデューサーは廊下でこっそりと武藤に耳打ちした。

この日も雨だったが、スタジオ撮りなので局に来ていたのだ。

番組公式HPのアクセス数は非公開なのだが、局関係者はページごとにカウントされたそれを見ることができる。

その配役ごとのアクセス数が、放送直後はなんと2位だったのだ。

1位は四之宮敦也で、これは妥当かつ予測していたことだが、将が主役の仲田雪絵を抜いて2位というのは誰も予想していなかった。

「まあ、仲田ちゃんは前回と同じ役柄だから、だと思うけど。それにしても無名の新人が2位ってすごいよね。よかった、よかった」

プロデューサーはホクホクとした恵比須顔で武藤の肩をぽん、と叩くと

「出番、増やすから」

ニヤリと笑った。

「ありがとうございます。これからも頑張りますのでよろしくお願いいたします」

頭を下げた武藤は、まさか2位とは思っていなかったが、ある程度予測はしていた。

というのは放送直後、事務所公式のSHOのHPのアクセス数が飛躍的に増えて、土日ともに1位になっていたからだ。

しかし、5人の生徒役の中で、一番知名度がない将が、他の3人を差し置いて2位とは快挙である。

社長にそれを話すと、

「ほらね。やっぱりあたしの目に狂いはなかったでしょ。あのこは磨く前から光ってるもの」

と得意そうな顔をした。

しかし、喜んでばかりいるわけにもいかない。

先週から書き込まれ始めた、ネット上の悪口のほうも、『ばくせん2』後もあいついだ。

見つけ次第、削除させるように手を打っているが、あとからあとから書き込まれる。

『年上キラー』

『乱交パーティの王子様』

『バイク泥棒の常習犯』

内容のほうも、どんどんエスカレートしていく。

画像は、まだ幼さが残る中学時代のものばかりだが、それでも面影で将ということがわかってしまう。

それにしても、人気急上昇中とはいっても、ブレイクしているわけではないのに、どうしてこんなに書き込まれるのだろうか、と武藤は首をひねった。

 
 

7月中旬だというのに、梅雨前線は名残りのように活発化した。

火曜日、ロケが中止になり、将はまた学校へ行くことができた。

といっても、午後には早退しなくてはならないが。

『ばくせん』が放送されたせいか、将はいっそう注目を浴びた。

下級生の歓声から逃げこむように教室に入ったが束の間、今度はチャミとカリナが擦り寄ってきた。

「ね。鷹枝くん、頼みがあるんだけど」

「何?」

将のけげんな顔にまるで頓着するようすもなく、

「あのね!四之宮くんのサインもらって!」

と二人揃って色紙を差し出した。

「ええー」

「お願いっ」

ヤダなあ、といいかけて、将は武藤の言葉を思い出した。

『クラスメートとか昔の友達にはできるだけ親切にするのよ。邪険に扱っちゃだめ。今はネットがあるから、何を言いふらされるかわかったもんじゃないわ。人気商売なんだから、ね』

もちろん、将には、ネット上で自分の過去が誇張されて書き込まれていることなど、知らされていない。

だが、新しい書き込みを少しでも未然に防ぐよう、武藤は将に注意を与えたのである。

「あんまり、話さないし」

将は控えめに、『だから出来ないよ』と言ったつもりだったが、

「でも共演してるじゃん。ねえっ、お願い」

あまりにも彼女たちが必死、かつ強引だったので将は色紙を預かることになってしまった。

 
 

聡の姿はHRでしか見られないまま、将は武藤の車で学校をあとにした。

なんだか、どっと疲れた気がしている。

後部シートにもたれかかって、ぼんやりとリズミカルに稼動するワイパーを見ていた将に、透き通った歌声が聞こえてきた。

初めて聞くのになじみ深いようなメロディ。FMからだ。

――聡が好きそうな曲だな。

聡が好きな大御所ミュージシャンの作る曲によく似ている。

どちらかといえば洋楽好きの将だが、その大御所の曲だけは、聡の影響でほとんど全部聴いてしまっている。

今掛かっている曲を歌っているのはアイドルグループらしいが、ソロの部分など、せつない感じがよく出ていて将は思わず聞き入った。

『KATZEの新曲”僕らの道”。いいですね~。なんと、あの○○さんが初めて、アイドルグループに曲を提供したという話題の曲は……』

曲が終わらないうちに入ったパーソナリティの紹介で、将はその曲が、聡の好きな大御所によるものだということを知った。

それと同時に、メインボーカルとして歌っているのがあの四之宮敦也だということで二度驚いた。

「へえ。歌、うまいんだな。あの四之宮さんって」

将は窓にへばりついた水滴を見ながら呟いた。

「将も歌、歌いたい?」

武藤がハンドルを握りながら茶化した。

「よしてくれよ」

もちろん将はそれが冗談だとわかっているから、伸びをしながら大あくびをした。

 
 

その四之宮敦也は今日は、一番にスタジオ入りしていた。

珍しいと思ったら、この局の朝のワイドショーに出演して、そのままここにいたらしい。

スタジオには5人がたむろする喫茶店のセットが組まれている。

「オハヨーございます!」

あとから入った将は、大声を張り上げた。

四之宮は、あいかわらず無視して台本を読みふけっているようだ。

幸いまだ、他のメンバーは揃っていないようなので、将はやや緊張しながら四之宮に近寄った。

「あの、四之宮さん。頼みがあるんですけど」

四之宮は無言で顔を上げた。将は思わずドキッとした。

切れ長ながら、女のように大きな瞳が将のほうを見つめたからだ。

「友達に、四之宮さんのサインを頼まれちゃって……」

四之宮は無言のままだったが、将がおずおずと差し出した色紙を受け取ると、素直にマーカーを走らせた。

サインは手慣れたもので、色紙の上を滑るようだ。

あのあと、チャミやカリナ以外からも頼まれてしまったので、色紙は10枚にもなっていた。

その間、四之宮はずっと無言だったので、将は試しに

「あの……。新曲、いい曲っすね」

と言ってみた。すると四之宮は

「別に、お世辞言わなくてもいいよ」

と将の顔も見ずに、冷淡に返答した。お世辞のつもりじゃなかった将は

「いや、お世辞じゃないですよ。さっきラジオで聞いたばっかなんです」

と、あわてて反論した。

「四之宮さん、歌うまいですね」

そう付け加えたあとで、CD出してる人間に『歌うまい』は、あまりにまぬけすぎだったかな、と思い返したが口にしてしまったものは取り消せない。

「いちおー……歌手でもあるし」

サインを終えた四之宮は、色紙の束を将に手渡しながら、顔をあげた。

「ありがとうございます。俺、CD買います。特に 

♪決して誰も僕たちを認めないだろう~♪

というところ、ジンと来ました」

本当にその部分は、聡と自分のことのようで、一度聴いただけで口ずさめるほど心に残ったのだ。

「そこ、俺のパートじゃないし」

四之宮はクールな口調で言うと立ち上がった。

「あ」

将はしまった、と思った。

だが、立ち上がった四之宮は近くに置いてあったリュックを持ってくると、その中からCDを取り出した。

「やるよ」

四之宮は、将を見上げると、口角をあげた――つまりニヤリと笑った。

将は思わずポカンと口をあけてしまった。

 
 

今日の収録終了後、明日のロケが行われるかどうかが検討されたが、天気予報では降水確率90%ということで、中止がほぼ確実になった。

将は、武藤に

「今日はさ、おうちのほうに帰ってもいい?明日、どうせ学校に行くんだろ」

と訊いてみた。

『おうち』とはつまり、大悟と暮らしていた学校に近いマンションのほうのことである。

ちなみにM区のマンションのほうは『寮』と呼んでいる。

武藤は、何の疑いもなく了解してくれて、将を『おうち』まで送り届けてくれた。

収録後も、雑誌の取材などがあったので、帰ってきたときはすっかり夜になっていた。

将は、暗いままの部屋に入ると、照明をつけた。

部屋はあまり変わっていなかった。家政婦が通っているせいか、きれいに整っている。

大悟が留守なのはあらかじめ確認してある。

将が、こっちのマンションに戻ってきた理由は……。

それは先週、カオリに聞いて以来ずっと気になっていたこと。

大悟が、シャブをやっている証拠を見つけ、できれば止めさせることだった。

将は、着替えもせずに、まず大悟の部屋に入った。

そこには、前と同じように万年床と、瑞樹の遺品が並べてあった。

将は、まずクロゼットをあけた。

ハンガーにかかった服はそれほど多くない。その下に奇妙なものがあった。

何かが入ったゴミ袋。中にあるカラフルな布地が透けて見える。

将は、いかにも怪しいそれを引っ張り出した。

そこには……派手な下着類、おぞましい玩具、そして手錠や首輪が入っていた。

第234話 梅雨前線(3)

「久しぶりね。テレビ見たわよ」

「ありがとうございます」

どんな返答が適切かわからなかった将だがとっさにそう答えた。

将や大悟が中学生のときに可愛がってくれた12歳年上の投資家『カオリさん』。

彼女は、18歳まで、関東を取り仕切っていた暴走族の伝説のリーダーだったという。

もっとも、将たちと知り合ったときにはもうとっくに引退していて、きっぷの良さ以外、その面影はなかったけれど。

彼女は、将と大悟の二人を気に入り、たびたび白金にある自宅億ションに泊めてくれたり、ブランドの服をプレゼントしてくれたり、またそれを着せてフレンチなどに連れて行ったりしてくれた。

将には特に目をかけてくれて、いっときは男女の関係だった。

株式投資のノウハウから、セックスのテクニックまでいろいろと教え込んでくれたのだ。

若い男の子にあれこれ教えこむことが楽しかった彼女は、将がすべてを首尾よくこなすようになると、自分から離れていった。

それはちょうど将が他の女性に目が移っていったのと同じタイミングだったので、二人の間には恨みとかそういう類の、別れた男女にありがちなマイナスの感情はほとんど何もないに等しい。

ただ、将はまだ幼かった自分を知っている女性ということで、なんとなく照れくさかった。

「すっごく背が高くなったみたいね。今何センチあるの?」

「185センチになりました」

「すっごいねー」

もう30歳になるはずなのに、そんな風な口調もあまり変わらない。

しばらく、近況報告をしあう。カオリさんはあいかわらずで、今は六本木ヒルズに住んでいるということだった。

「じゃあ、近くに住んでるんだー」

「そうですね」

そのあと、微妙に沈黙が流れた。

将は、カオリが単に懐かしさだけで電話をかけてきたのではない、と直感した。

「あのさ」「あの」

二人は同時に声を出した。

「あ……どうぞ」

将はカオリに譲りながら、何の話か身構えた。

「あのね。最近、大悟くんと会ってる?」

将は……やっぱり、と唾を飲み込んだ。

「5月まで、俺んちで一緒に暮らしてました」

「あ、そう。そうなんだ。今は?」

「今は、俺がこっち(M区)に移ったから……俺のマンションで一人で住んでるはずです」

「ふーん……家賃とかは?」

「俺のオヤジが買ったとこだから……。カオリさん、大悟と会ったんですか?」

将は我慢できずに、カオリに訊いた。

「あたしは、会ってない」

もしかして、カオリに金を無心に行ったのか、という将の予測ははずれて、少し将はホッとした。

「……けど、アタシの知り合いが、大悟くんにお金をあげてるらしい」

「え」

ホッとしたのも束の間、カオリの声で伝えられた新しい事実に、将は電話を握り直す。

「もちろん、ただで、あげてるだけじゃないよ……報酬として」

『何の』と言いかけて、将の脳裏に、いつかの大悟の、淡々とした声が蘇る。

『実は俺も援交してたんだ。もちろん買うほうじゃない。……売るほうな』

「もう、何度もあげてるらしいんだけど……大悟くん、シャブやってるの、将知ってる?」

ついに……カオリから放たれた決定打に、将は思わず歯を食いしばった。

――やっぱり。

ガンガンするような頭に将は手をあてる。そのまま、がっくりとうなだれた。

腕の紫の痣。激ヤセ。金の無心。クラブで一緒にいた前原の友達。

……すべてのピースがつながってしまった。

「将、聞いてる?」

沈黙に、カオリが電話の向こうから問い掛けてきた。

「……ハイ。うすうす、感づいてましたけど……」

かろうじて声を絞り出す。

カオリによれば、大悟は、売春で荒稼ぎした金で、シャブを買いあさっているらしい。

「……まったく、いつ、覚えたんだろ。将、いつからだか、わかる?」

姉御肌のカオリは怒り交じりながら心配そうな声を出した。

大病院の末娘であるカオリは、レディース引退後、1年浪人して医学部に入ったこともあり(結局、途中で株式投資に夢中になったので医師免許は取得しなかったが)、

後輩の覚醒剤汚染には厳しい態度でのぞんだ。

場合によっては、フクロ(袋叩き)にしてでも止めさせていたらしい。

「……俺と一緒にいたころは、たぶんやってなかった、と……思います」

カオリの質問に、将はショックで痺れたような脳を必死で稼動させて記憶をたぐる。

しかし、大悟がいつ、どんなきっかけでそれを覚えたのか、将には思い当たらなかった……おそらく、将が3週間、家をあけてモロッコに行っている間しか考えられない。

「早くやめさせないとヤバイよ」

カオリは低めの声で冷静に言い放った。

「ハイ」

「将、あんたのためにも。もう、芸能人なんだからさ。自宅でシャブが見つかったなんていったらシャレになんないでしょ」

そんな弊害もあるのか、と今、将は気付いた。

だけど……そんなことより、大悟が心配だった。

「とにかく。監禁してでも、止めさせな。それが本人のためだよ」

将の知っているカオリは、高価なブランド服に、巻き髪、美しいネイルと、暴走族とは掛け離れた、典型的な『小マダム』だ。

しかし、それに似合わない、ぶっそうな言葉をカオリは将に投げかけた。

 
 

ガンガンする頭を抱えて将は、新しいマンションのベッドに横たわった。

音楽もテレビもかけていない部屋に、激しい雨音だけがしのびこんできた。

それにここは、大悟と暮らしていたマンションより、やや天井が低いらしい。

雨音もそうだが、それがいやに今日は気になる。

あの頃も、こんな季節だった。

将は、カオリさんと知り合ったばかりの頃の3人を思い出す。

あの頃は楽しかった。

暴走族の元リーダーで、医学部出身、そして投資家のカオリは、さまざまな知識や処世術に長けていた。

それを将と大悟に惜しげもなく与えた。

今も思い出す。カオリの住んでいた億ション。

ある雨の夜、カオリは自宅の億ションに二人を招いてくれたのだ。

オフホワイトで統一された部屋は、外界の梅雨のうっとおしさを忘れるほどの明るさだった。

床もフローリングなどではなく、大理石だった。

「これは20万のワインよ」

とあけてくれたロマネ・コンティは、そのまっ白な皮のソファーに恐ろしく映えた。

バカラのグラスでロマネ・コンティをを傾けながら、

「女でもね。総長ができたのは、人間の急所を知ってたからよ」

と微笑んだ。

「へえ。どこどこ?」

二人の14才の少年は、20万のワインの味より、そっちに興味を持ち、身を乗り出した。

カオリさんは、いたずらっぽく笑うと、まだ幼さが残る将の腕を取った。

「ここと、ここと……」

と将の体でそこを示した。服の上からだったけれど、将はただ、くすぐったかった。

「ここを殴れば、そんなに大した力じゃなくてもダメージを与えることができるの。そして」

カオリは将の腰のあたりを示した。

「ナイフ一本で人を殺すなら、ここを刺すことね。動脈が通ってるから、出血多量でまず助からないわ」

「へえ。刺したことあるの?カオリさん」

と大悟が訊いたはずだ。

「あるわけないじゃない。単なる豆知識よ」

とカオリは艶然と笑うと、巻き髪をかき上げたから、彼女が本当にその豆知識を使ったことがあるのかはいまだにわからない。

しかし後年、ヤクザを刺したとき、将は無意識にその場所を狙っていた……。

 
 

「武藤さん!大変です」

まだ勤務時間が始まったばかりの、ダイヤモンド・ダストのオフィス。

パソコンをいじっていた若手のスタッフが手をあげて武藤を呼んだ。

「どうしたの」

武藤はそのあわただしい声に、つかつかと彼のデスクに歩いていった。

「ウルウルの掲示板に……」

『ウルウル滞在日記』の番組掲示板にこんな書き込みがあった。

======

SHOの本名は鷹枝将。

父親は官房長官の鷹枝康三だ。

実は元チーマーで殺人、強姦などやりたい放題なのを全部父親が揉み消してきた。

詳しくはこっち。

=====

こっち、と示されたリンクは、画像もアップできる掲示板だった。

おそらく中学時代と思われる金髪に染めた将が、いわゆる『ヤンキー座り』で煙草を吸う姿が掲載されていた。

仲間も一緒だったが、そっちは目を黒く塗りつぶしてある。

「誰がこんなこと……」

武藤は絶句した。

事務所の公式HPにあるコメント欄には会員じゃないと書き込めないようになっているが、『ウルウル』の番組公式掲示板は誰にでも門戸が開かれている。

それが裏目に出たらしい。

「いちおう、ウルウルも、このリンク先にも、削除申請をしていますが」

「あたりまえよ!……早く消さないと名誉毀損で訴えるといって、早急に削除させなさい」

将が昔、問題児だったのは、事務所も把握している事実だ。

しかし、これがこんな風に、早々とネットに出るなんて……武藤は唇をきゅっと結んで自らも検索を始めた。

――それだけ、注目を浴びている、ということか。

武藤は必死でよい方に発想を転換させようとしながらも、冷静に考える。

画像があるということは、将を身近に知っていた誰かだろう……。

「手があいてる人は、至急ネットを検索して。変な書き込みを見つけたらすぐに私に報告して頂戴」

武藤は声をはりあげた。

第233話 梅雨前線(2)

久しぶりにその名前を聞いたと思った。

覚醒剤所持で警察に捕まり、退学になった前原。

その隈取をしたような目を思い出しながら、将の中で、くだんの嫌なラインがますます色濃くなっていく。

「何か……ヤバそうだった?」

変な取引やってたりとか、という質問を将はかろうじて飲み込む。まで疑いを決定的に出したくない。

「いや、ちょっと見かけただけだから……。でも大悟、痩せたな。シャブでもやってるっぽい」

井口のほうが先に疑惑を口に出したので、将は擁護にまわらないといけなかった。

「瑞樹のことから……立ち直れないんだ、アイツ」

「もう3ヶ月以上も経つのに?」

「死に方が死に方じゃん」

「ふーん……」

井口は黙ったが、あきらかに解消できない疑惑は胸の中に残るようすだ。

将の中でも、その疑惑は決定寸前だ。

前原の友達といえば、捕まった前原に罪を被せてバックれたような連中ばかりだ。

だが。大悟と前原は同じ中学だ。単に同級生とつるんでいただけかもしれない。

将は、無理やり自分の中の疑惑を消そうとしたが、そうしようとすればするほど確信に変わっていく。

そのとき、教室に聡が現れたので、将も井口も窓のそばから席に戻った。

雨脚はますます強まり、窓からも雨が振り込みそうな勢いだった。

 
 

みな子はHR中、教壇の上の聡と、机に肘をついているのだろう、傾いた将の背中を見比べていた。

将の白いシャツは雨に濡れたのか、その下の浅黒い背中の色を透かしている。

それを見ていたら先週の日曜日、車の中で聞いた、

「本気で好きだから……。今は離れてる」

という言葉が蘇ってきた。

その直前の『みな子だけに言っとこうかな』という言葉で芽生えた、まさか、という淡い期待はすぐにかき消されたが、それにしてはみな子は落胆していなかった。

もともと期待自体が、錯覚のようなものだったからだろうか。

「先生と……生徒だから?」

みな子は訊き返した。錯覚だったはずなのに、下瞼が少し熱い。

それを瞳をあげることによって冷まそうとする。

「うん」

将は行き先から目を離さないままだ。車の流れはだんだん遅くなってきている。

「いつまで……我慢するの?」

「俺が大人になるまで」

将の口調は静かながら、確固たる決意に満ちていた。

……みな子の同級生の男子は、決意などをまじめに語ることはない。

ふざけているのが日常のデフォルトで、自分の中の核心に近づくと言葉もなく黙り込む。

みな子は、初めて聞く、同年代の男子の決意に動揺した。

何と答えるのが適切なのかわからない頭だけが、空回りして、セリフをつくった。

「だ、だから、いきなり、あたしのこと名前なんかで呼んだんだ?」

将は思わずみな子のほうを振り返った。

――違う。

反射的に将は口を開きかけた。しかし、結果的にそうなってしまっているのかもしれない、と言いかけた台詞を飲み込んだ。

無意識に、聡以外に気を惹かれているアピールを周囲にしてしまっているのだろうか。

それをしないと、聡に引き寄せられてしまうから。

渋滞に入った車内を前の車のテイルランプが赤く照らしだした。それが消えたとき、将は

「……そうかも。ゴメン」

とようやく答えることができた。

「イヤだったら、戻す……けど。イヤだよね」

「ううん!」

みな子は即座に首を振って運転席の将に顔を向けた。

「全然、ヤじゃないよ」

とまで続けて、しまった、強く否定しすぎたかな、と少し後悔する。自分の気持ちがバレてしまう、と危惧したみな子は、

「そんなことぐらい、どってことないし」

と付け加えながら、将の顔から無理やり視線を剥がそうとした。

みな子はすでに、将に名前で呼ばれる喜びにどっぷりと浸りきっているのだ。

この幸せを手放したくない。例え聡の代わりだとしても。

「ありがとな。みな子」

再び、車が停止して、車内が赤に染まる。将は、助手席のみな子に顔を向けて微笑んだ。

みな子の気持ちがどこまでバレたのかは、わからない。

 
 

梅雨前線に覆われたまま、暦は7月に入った。

7月1日からモロッコで収録した『E』のCM、そして最初の日曜の夜に『ウルウル滞在日記』とオンエアが相次いだ。

『ウルウル』のオンエアの日、鷹枝家では、日曜日ということもあり父の康三、義母の純代、

そしていつもは21時30分にはベッドに入るように決められている孝太も特別に許されて、リビングのソファにいた。

赤茶けてなだらかなサハラ砂漠に将が登場したとたん、

「お兄ちゃんだ!」

とパジャマ姿の孝太が嬉しそうに、画面を指差した。

病院では巌も

「10時からなぞ、お、遅すぎるわ」

と文句を言いながらも、付き添った30年来の仲である50代の妾・あゆみと共にテレビに見入った。

「あら。いい男。あたし、巌さんから乗り換えちゃおうかしら」

あゆみは、いたずらっぽく巌に目を走らせたが、巌はそんな戯言に付き合わず、テレビに真剣に見入っていた。

将の姿が映ったとたん、そのピンク色の目頭には、熱いものが溢れていた。

あゆみは立ち上がると、それをティッシュでそっとぬぐった。

 
 

聡も、ボーナスで買ったDVDに録画しながらも、画面の中の将を見つめていた。

5月の……将が海外ロケに行っていた間の、奄美ユリのドラマもきちんと見ていたが、今回は、まさに素のままの将だ。

羊づくしの食事に目を白黒させ、荒野に散らばった羊を集めるのにへこたれそうになり、その一家の長男と連れ立って『砂漠のバラ』を探しにいく、民族衣装を着けた将。

異文化と厳しい気候の中で、優しくたくましい人々と交わりながらも、将は将だった。

むしろ、厳しい環境で、将の本当の強さや優しさが際立ったがごとく、なんでもない場面で聡は心を動かされていた。

番組恒例の、涙、涙の別れの場面がくる前に、すでに聡は涙を落としていた。

 
 

『ウルウル』オンエアの効果はすごかった。

事務所所属のタレント別HPアクセス数も、瞬間的に1位を記録したほどで、将にはさまざまなオファーが舞い込んだ。

「将のいいキャラが出てたよね」

と社長も満足げだった。

素のままでつかえると思われたのか、バラエティ番組のオファーも多かったが、連続ドラマの収録中とあって、武藤や社長は慎重に仕事を選んだ。

仕事以外のプライベートでも、いきなり知り合いが増えたように将やその家族への連絡が増えた。

康三は、閣僚仲間で外務大臣の浅野一朗から

「ご子息、ご活躍ですなあ」

と声を掛けられた。

SHOが息子の将であることは公表していないから、康三は知らぬふりをした。

来年の総裁選を争う浅野は、油断ならない相手だ。

純代は、親戚一同からの電話応対に追われた。

こちらにもやはり、公表していないが、目ざとく見つけたのか、電話を掛けてくるのだ。

『立派に成長されて……。応援しますよ』という好意的な内容が大半だったが

「嘘をつくわけにはいきませんし……。内緒にしてくれと頼みましたが……困りましたわ」

と康三にこぼした。

将本人にも、どこからどうやって調べたのか、というような人間からの連絡がひっきりなしにあった。

真剣に携帯の番号を変えることを検討していた頃に、その電話は掛かってきた。

最近、ほとんどの電話は、サイレントマナーにして無視することにしているが、アラームをセットしていた最中だった将は、うっかり出てしまった。

「将!見たわよ!カッコよくなっちゃって」

電話番号に見覚えはなかったが、ハスキーな女の声に聞き覚えがあった。

「あ……。カオリさん?」

「久しぶりね」

第232話 梅雨前線(1)

梅雨入り宣言がなされたあとに始まりながらも『ばくせん2』の撮影は順調だった。

将ら、主要な生徒役は、台本読みやリハーサルも含めて撮影に拘束されるのは週4~5日程度だ。

しかし、今回は夏の話なので、外での収録が多い。

天気がいいうちに、できるだけ外のシーンは撮ってしまおうということになり、数話分の脚本から外のシーンを抜き出して連日撮影ということになっている。

セッティングを変えて繰り返される、こまぎれのシーンは、その前後を把握するのに一苦労する。

役の気持ちに入り込むどころではない。

そのせいか将には、いまいち、演技というのがよくわからなかったが、あまり悩むことはなかった。

撮影現場が楽しかったからである。

等身大の高3の役というのもあるし、共演者のほとんどは、同年代の男子ばかりだ。

特に、大野啓介は同い年ということもあり(実際は1学年上の2月生まれだが)、気があった。

おまけに啓介はさっぱりとした性格の明るいムードメーカーだったから、おかげで将も一緒にその他大勢(といったら悪いが)クラスメート役とも、すぐに打ち解けることができた。

毎日、待ち時間にだべったり、ゲームしたりしているうちに、すっかり仲良くなった。

だから、ここのところ将はなんだか学校に行くような気持ちでスタジオやロケに通っているのである。

それにやっぱり、誰もが知っている人気女優の仲田雪絵との共演は嬉しい。

彼女と演技以外のところで話をするチャンスはほとんどなかったが、とてもいい人だということは周りの人の、彼女に接する態度を見ていてもわかる。

仲田ちゃん、仲田ちゃんと親しげに呼びかけながら、みんな目はうっとりとしているのだ。

そしてこれは、仲田雪絵以外にもいえることだが……女優や俳優たちは、実物でみると、テレビで見るよりもずっと派手な顔立ちをしていた。

仲田雪絵などは、その顔のほとんどが目のように見えるほどだ。

それがなぜか、カメラを通すと、少し地味になる。

ブラウン管を通して派手な顔立ちに見える人は、実物はまるで外国人のような彫の深さなのだということを将は知った。

クラスメート役にしても、みんな『本物』よりかなりルックスのレベルは上なのに、カメラにうつると見事に『普通』の生徒になる。

大野啓介も実物はかなり整った顔なのに、ドラマの中では『俺、3枚目顔だし』と本人も自嘲するとおりだ。

将も、遠目のカットでは、自分が知っている顔よりも、かなり目が細く見えて

――俺ってこんなに目細かったっけ。ブサイクじゃん。

と驚いたくらいだ。

そんな中で、一線を画しているのが、あの金髪の美青年・四之宮敦也だった。

彼も、その大きな瞳は画面では細めに映ったが、その印象は細い、というより「切れ長」だった。

しかし少しでもカメラが近づけば、その黒い瞳は誰よりも早く主張を始める。

これが目力というやつか、と将は感心した。

アイドルグループの仕事で忙しい四之宮は、よく撮影に遅れてきた。

台本読みもだいたいは代役だ。

みんなが和気藹々と騒いでいるときも、それには加わらず、一人、台本を読んだり、ロケバスの中で寝てたりなどして静かに過ごしていた。

劇中では『仲良しの悪ガキ』であるメイン生徒5人の中でも、彼は1人浮いているようなところがあった。

もっとも、5人の中で彼はあきらかに主役なのだけれど。

啓介などは

「だって、恐いじゃん。睨まれそうで。だいたいハタチで芸歴10年とか、何考えてるかわかんないし。SHOとか、ぜったい嫌われてるって」

と首をすくめたが……将には、そんなに威張ってるようにも思えなかった。

なぜなら、こんなことがあったからだ。

 

先週行われたエンディングテーマのロケは広い河川敷で行われた。

教師役の仲田雪絵と教え子役がまじってドッジボールをする、という設定だったのだが、主役の仲田雪絵がなかなか到着しなかった。

将ら生徒は最初は大人しくロケバスの中で待っていたのだが、だんだん狭い車内にいることが退屈になってきた。

スタッフはカメラの準備をしたり、現場になる河川敷で忙しく働いている。

前列でふわーっと欠伸をした将は、バスのフロントガラスの向こうの地面にカラフルなボールを見つけた。

おそらく撮影用に用意されているものだろう。

「大野くん、練習しよう」

狭いシートに寝そべっていた啓介も、よしきた、とばかりに飛び起きた。

外に出ると川原の風が気持ちいい。陽射しは強いけれど、風のおかげでそれほど暑くはない。

バスの中で缶詰になっているよりも、体を動かした方が、むしろよい準備運動になるだろう。

二人は緑の中、ボールの投げあいを始めた。

外で、ドッジボールのキャッチボールを始めた二人に、他の生徒たちもわらわらとバスを降りて参加し始めた。

最初はキャッチボールの要領だったが、人数が増えると本番さながらに、ドッジボールに熱中し始めた。

「制服を泥だらけにするなよ」

と『仲田待ち』状態になったスタッフたちも、笑いながら見ていた。

「オラオラーっ……と見せかけて」

本気で目の前の敵にボールをぶつける振りをして将は、ボールをぽーんと外野にいる啓介に送った。

しかし、少し力が入りすぎたらしい。大暴投となったボールは啓介を越えて遠くへ飛んでいった。

「どこに投げてんだよ!」

と笑いながら、ボールを追う啓介が立ち止まった。

いや、啓介だけではない。ボールの行く先を見ていた皆の動きがとまった。

将が投げたボールは、大きく弧を描くと1バウンドした。

その先には四之宮がいた。

四之宮は車のすぐそばの草むらにシートを敷いて仮眠中だった。

直射日光があたらないようにスタッフのジャケットをかぶせたその顔に、ボールは直撃したのだ。

……ヤバ。

その場にいた皆が、凍りついた。

四之宮は、すぐには反応しなかったが、しばらくしてむくっと起き上がった。

すぐそばのタイヤの下で止まったボールに、ゆっくりと不機嫌そうなまなざしを向けた。

「すいませーん」

投げた将は啓介を越えて、四之宮のほうに近寄りながら声をかけた。

「ボール、いいですかぁ?」

啓介は『げっ、怖い物知らず!』と叫びそうになった。

だが……四之宮は、何も言わずに立ち上がると、ボールを手にとり、将の手に投げ返した。

それは、起きぬけとは思えない滑らかな動作で、コントロールも正確だった。

かつスピードもあり、受け取った将の手は、軽い振動でジーンとした。

四之宮は、ボールを将に返すと、何事もなかったようにまたシートの上に仰向けになった。

しかしボールを投げ返した後に、四之宮がわずかな笑みをも投げ返したのを知るのは、将だけだった……。

 
 

6月下旬になると、梅雨前線はにわかに北上しだした。

1話をようやく全部収録した直後から、雨の日が多くなってきた。

とうとう撮影予定日が雨でつぶれて、かわりに将は学校に行くことになった。

まるで学校のような撮影現場も楽しかったが、聡がいる本当の学校にいけるのはやはり嬉しい。

浮き立つ気持ちとはうらはらに、濃い雲に覆われ、雨で濡れて色を濃くしたコンクリやアスファルトの町は真っ暗だった。

M区から荒江高校がある町までは、ラッシュと逆方向なので電車は比較的ラクだったのだが、激しい雨に、駅から歩く将の膝下はびしょびしょになった。

歩くたびにバッシュの中でじゃぶじゃぶと水の音がして、中から水が染み出てくる。

学校まで送ってもいい、という武藤の申し出を断るんじゃなかった、と将は後悔した。

教室もそのままでは授業に適さないほどの暗さなので朝から蛍光灯が付けられている。

将は、上靴に履き替える際に、びしょびしょになった靴下を脱いでしまった。

じっとりと濡れた靴下を手に持って、将は教室の入り口をくぐった。

「おぉ、将じゃん」

将に気付いた井口が声をかけてくる。

「うっす」

将も笑顔で手をあげた。

「すっげー雨やね」

そういいながら将はカバンを置くと、濡れた靴下を窓で絞った。

本当は手洗い所で絞ってもいいのだが、いちいち廊下にでて、下級生にきゃあきゃあ言われるのが面倒だったからである。

気がつくと、靴下を絞る将のすぐ後ろに井口が立っていた。

「……どうしたん?」

将は絞った靴下を持ったままおどけた。

「あのさ」

井口は深刻な顔を近づけてきた。

今日はポニーテールにしている井口は、口の上の髭が少し伸びている。

朝バイトにいっているパン屋の匂いだろうか。香ばしい、パンが焼ける香りをいつのまにか井口は身につけていた。

「最近、大悟をサ」

そんな、なごみの香りとはほど遠い低い声。そして鋭い光を目に浮かべながら井口は将に囁いた。

「よくクラブで見かけるんだけど……。あの前原くんのヤバイ友達と、なんか、話してた」

第231話 日曜日のデート(2)

「あ、美智子?ゴメン。急に気分が悪くなっちゃって。……うん、大丈夫。それで、買い物なんだけど、今日はやめていいかな……」

ドタキャンを、快く承知してくれた美智子に、聡は心から済まないと思った。

もともと、今日買い物に美智子を誘ったのは聡のほうである。

6月のボーナスが出た聡は、夏物のスーツや靴を新調しようと思っていたのだ。

しかし、そんな浮き立った気持ちは、とうに失せている。

……駅前で将のミニとそれに乗り込む星野みな子を見てしまったから。

ミニが走り去ったあとも聡は、しばらくその場で呆然と立ち尽くしていた。

惰性で私鉄に乗り、どうにか山手線の駅までやってきたが、買い物をする気分などではなくなっていた。

乗り換えへと急ぐ乗客の一番後ろから、聡はとぼとぼとホームを降りると、美智子に電話をしたのだ。

美智子への電話を切ると、ため息が出た。

嘘をついた自己嫌悪が呼び水になったように、体の中からすべての力が気体になって出ていき、聡は立っているのもだるいほどになった。

記憶力まで失せてしまったのかどうやって帰ったのかも覚えていない。

気がつくと、暮れはじめた自宅のベッドに身を投げ出していた。

目を閉じると、さっきの駅前での光景が蘇る。

薄いサングラスをかけ、窓から顔を出した将は楽しげにみな子の名前を呼んでいた。

そして駆け寄るみな子。

眼鏡をはずし、バック、サンダル、キャミソールと同系色でコーディネートした姿は浮き立つ心を表しているようだった。

二人の姿を思い出した聡は、ただ哀しかった。

瑞樹のときに感じた、腹立たしさや嫉妬はない。ただ哀しみだけが、心の中から湧き出して聡を浸した。

同い年の、健全な……誰がどんな立場で見ても似合いの二人。

二人で待ち合わせをしていたからといって、付き合っているわけではないだろう。

クラスメートだから、二人でどこかに行くチャンスぐらいはあるだろう。

そんな風に想像できる程度の冷静な思考が失われたわけではない。

今、ベッドに横たわる聡も、将が他の女性……女の子と二人でいた、というショックからは、とうに立ち直っている。

聡の中から湧く哀しみは、別のものだった。

……将がいつか、聡のもとからいなくなる。

……将に似合いの年頃の女の子を見つけて、聡は無用になる。

そんな予感を、そのまま現実にしたような二人に、聡はおびえたのだった。

『聡、お前は通過地点でしかない』

博史の声が蘇る。

若い将にとって、聡は通り過ぎる女の一人でしかない。

あれは予言だったのだろうか。

――予言になんか、したくない。

聡は、起き上がると携帯を手に取った。将の番号を表示する。

通話ボタンを押そうとして……その手を下げた。

何を話すというんだろうか。

『今日、星野さんと、どこへ行ったの?』

『星野さんのことが好きなの?』

『私のことは、気にしなくていいのよ』……。

聡は恨みがましいセリフごと携帯から手を離すと再び寝転んだ。

――女々しい。いやだ。

聡は自分の中のねちっこさから背を向けるように体を横にすると、爪の周りの逆剥けを噛んだ。

引っ張った逆剥けは肉まで深く裂けて、そこにぽっちりと赤い血がにじんだ。

ひりつく痛さに聡は冷静になる。

危うくみっともない真似をするところだった、と聡はぺろりと血を舐める。

舐めてもまた傷口の形ににじんだ血が溜まる。

血はいつか固まって、跡形もなくなるだろうけれど……。

心にこんな風な小さな傷を、何度負うのだろうか。

それとも傷ではなく、いつか聡など必要ないと、将自身からばっさり切りつけられるのだろうか。

聡は目を閉じてその痛みを想像しようとしたが、恐さに想像をやめた。

――どうして将なんか、好きになってしまったんだろう。

苦しさのカオスになった聡の心に、そんな疑問がぽっかりと浮かぶ。

もしも、博史を好きなままだったら。

何も考えずに、博史に寄りかかり、今ごろは幸せな結婚生活の真っ只中だっただろう。

わざと、そう考えて見て聡は、気がつく。

――自分が決めたことじゃないか。

将を好きになったのも、その将が大人になるまで離れて見守る、ということも……みんな聡自身が決めたことなのだ。

聡は起き上がると、飾り棚の下の引き出しを開けた。

そこにはいつかもらった、将からのバースデイカードが入っていた。

青く滲んだ将の文字。

そして、手帳を取り出して背表紙を開く。

こちらには聡がプレゼントした万年筆で書かれたセピア色のメッセージ。

2つをテーブルに広げると聡は、ただ繰り返し眺める。

 
 

「よかったね。シロが元気で」

みな子の言葉にも、将はうわの空だった。

西嶋家からの帰り道。

「……鷹枝くん?」

みな子が返事のない将を見る。それでようやく将は我に返った。

「なに、みな子」

「……大悟くん、って人のこと考えてたの?」

「ん……。まあね」

あたっていたので将は素直に答えた。

西嶋家に現れて、20万もの金をねだった大悟。そしてあの痩せ方……。

――まさか。

将の考えは、嫌でもそこへいく。……覚醒剤。

しかし、瑞樹があの薬の虜になったとき、誰よりも心配し、やめさせようとしていた大悟だ。しかも、瑞樹を失ったのはあの薬のせいだ。

――考えられない。

将は、自分でたどりついた答えを必死で否定しようとしていた。

だけど、再び思考を巡らせると、その答えにたどりつかざるを得ない。

そんな無限ループに将の脳は囚われていたのだ。

「大悟くんって、鷹枝くんとはいつから友達なの?」

将は、「中学」と質問に手短に答えると、思い出したようにみな子を振り返って

「将でいいよ」

と笑顔をつくった。

みな子はみな子で、無難な話題を持ち出したつもりだったのに、びっくりして将を振り返る。

目が合ってしまって下をむいたみな子は

「……そんな」

と呟いた。

「そんな?」

「アキラ先生に悪いし……」

将は、思いがけないところから出た『アキラ』の名前に唾を飲み込んで、前を向く。

「アキラ先生?……関係ないよ」

交差点を曲がるのに集中するふりをして、淡々と口にした。嘘をつく喉が貼り付きそうだ。

「ウソ。付き合ってるんでしょ」

二人が付き合っているという事実など、改めて確認したくないくせに、みな子はつい訊いてしまう。

さすがに将の顔を見るのがつらくて、窓の外に顔を向けた。

外はまだ明るいが、少し曇って、空はみな子の心のように変な色になっている。

「付き合ってないよ」

将はなぜ、そんなウソをつくのか。みな子は少し腹が立った。

「スキーのとき……。二人で一晩中一緒にいたんでしょ」

どうして『付き合ってない』という将の言葉を喜ばないのか、信じないのか、みな子は自分が不思議だった。

――そんな、表面の言葉を信じるほど、子供じゃない。

自分が子ども扱いされるのが……、何もしらないその他大勢扱いされるのが嫌だったのかもしれない。

みな子はさらに続けた。

「それにあたし。見たんだから。いつだったか、駅で先生と……鷹枝くんが抱き合ってるの」

自分は二人の秘密の証拠を握っている。

だから、将に一歩踏み込める……みな子は心の深いところで悦びに震えながら、将の横顔の変化を注意深く観察した。

将は将で、みな子によって暴かれた、いつかの二人が懐かしかった。

いつのことを言っているのかは、曖昧だったが、それでもまるで懐かしい物語を聞くように……あのころの二人が、幸せだった頃がフラッシュバックした。

いや、いつだって忘れることはない。

いつだって好きなときに引き出しから出せる聡の記憶。

いつになったって、決して色褪せさせやしない……。

将は、ハンドルをぎゅっと握り締めると車のつらなりの向こうに見える空に、遠い聡を見た。

「じゃあ……みな子にだけ、言っとこっかな」

「えっ……」

行く先から視線を動かさないまま、サングラスの中の瞳を細めた将を、みな子は見逃さなかった。

1ナノグラムほどのわずかな期待が、みな子の鼓動を活発にし、頬をばら色にした。

「本気で好きだから……。今は離れてる」

期待はシャボン玉のように音もたてずにはじけてしまった。

第230話 日曜日のデート(1)

日曜日。

みな子は、いつもの駅前に立っていた。

いつもと違うのは、私服であること。

そして全身が震えそうなほど、ときめいていること。

あの鷹枝将と待ち合わせをしている自分が信じられない。

猫の行方の続報について訊いた時、将は

「みな子、猫好きなんだ」

とみな子の顔を見上げた。

「う、うん。好きなほう……だけど」

別に飼うほどではないけれど、可愛い野良猫がいれば、つい構ってしまう。

「じゃさ、一緒にあの猫に会いに行かない?」

時ではなく、全身の血流が停止した。……ような気がした。

だから、脳が働きを止めてしまったように、みな子は、将が何を言っているのか、よくわからないのだろう。

たしかに『一緒に会いに行かない?』と聞こえたことを認識するのに2、3秒掛かった。

「行こうよ。あの猫、俺の知り合いのところにいるらしいんだ」

その間、将はもう一度、繰り返す。

将はあきらかにみな子を誘っているのだ。それがわかったとたん、みな子の心臓は早鐘のように打ち始めた。

「でで、でも、忙しいんじゃないの?」

「そーだね。えっとぉ」

将は携帯を取り出した。

どうやらスケジュールをメモしてあるらしい。

「今度の土曜日が雨じゃなかったら、日曜日はオフになるから……日曜日だったらあいてるよ」

今週の土曜日は、川原でエンディングテーマの撮影があるのだが、梅雨ということもあり、予備日として日曜日が設定されているのだ。

したがって土曜日にうまく撮影ができれば、日曜日はオフになるというわけだ。

みな子は、土曜日が晴れてくれることを祈った。

日頃の行いがよかったのか、神様がみな子の恋を応援してくれているのか、土曜日は晴れた。

将からはみな子の携帯にショートメッセージで連絡があった。

『今、無事撮影中。だから、明日1時に駅前ね』

それを受け取って、みな子は嬉しい反面、激しく悩み始めた。

男子と初めて、2人きりのデート、らしきもの。

相手は、ファッション誌にも出ている鷹枝将だ。

何を着ていけばいいのか。

みな子は手持ちの服はどれも、あの将には幼すぎる気がして、急遽貯金をおろして買い物に出掛けたのだ。

それが、今みな子が身につけている服だ。

といっても、結局ミニスカートにキャミ&ブラウスという、極めて高校生らしいスタイルになってしまった。

新調したのはサンダルとバッグだ。

2つともキャミと色を揃えてある上に、試着して足が一番きれいに見えるものを選んだのだ。

みな子はそのサンダルを履いて、30分も前に駅についてしまった。

やたらに喉が渇く。みな子はペットボトルのお茶を買って飲んだ。

ボトルの口に口紅がつく。せっかくつけた口紅が落ちてしまったのではと気が気ではない。

まだ、待ち合わせの1時まで7分もある、トイレで付け直そう、と思ったみな子の後ろでクラクションが鳴った。

まさか自分のことだと思わないから、無視する背中にしつこく鳴らされる。

――うるさいな。

と睨みつけようとしたみな子は、そこに、ミニの運転席の窓から顔を出して

「みな子ー!」

と呼ぶ鷹枝将を見つけたのだった。

まさか車を運転してくるとは思わなかったから、みな子は目を真ん丸くして駆け寄った。

「鷹枝くん!めっ免許持ってるの?」

「早く、乗って。後ろつかえてる」

「う、うん」

みな子は慣れない手つきで助手席のドアをあけた。

それを……今、バスで駅に着いた聡が偶然見ていた。

 
 

まさか聡が見ていたとは気付かないまま、将は車を発進させた。

「シートベルト、してもらえる?」

そういわれるまでみな子はどうしていいかわからなかった。

何せ、男の人と二人きりで車に、しかも助手席に乗るなんて初めてなのだ。

「ご、ごめん」

そういいながらあわててシートベルトを引っ張ってくる。

シートに深い位置で拘束されると、ミニスカートの太ももが予想外に丸出しになってみな子はあせった。

あわてて、バッグをスカートのかわりに腿に乗せる。

もっとも、将はみな子の太ももなどに見向きもしていないようだ。器用にハンドルをまわしながら

「俺さ、待ち合わせ時間の前に、集合しちゃうの好きなんだよね」

などと上機嫌だ。

「今日、眼鏡じゃないんだね」

「え。あ?……うん。使い捨てレンズにしてみたんだ」

これも昨日買ったものだ。

「似合う、っていったら変だけど、似合うよ」

「……ありがと」

みな子は助手席のシートの上で身を硬くしていた。

薄いサングラスをかけた将は、いつも以上に……みな子の想像を遥かに越えて大人っぽかった。

ほとんど大人の男だ。

危険な気配さえする……大人の男と、車という密室で二人。

いつもの将の声がなかったら、逃げ出したくなったかもしれない。

みな子はいつもの将の声に安心したくて、積極的に質問を投げる。

「免許、いつ、取ったの?」

「4月。お誕生日と同時に取得しました。ホラ」

将は得意そうに、片手ハンドルの空いたほうの手で免許をみな子に渡した。

 

二人が、あの猫がいるという家についたのは3時近くだった。

昼を食べていない将が『デ○ーズ』に寄ろうと提案したからだ。

将の向かいに座ったみな子は、付き合いでパスタを頼んだのだが、パスタをフォークに巻くのに苦労した。

いつもやってることなのに、なぜかうまくいかないのだ。

どうしても……巻いたパスタは大口をあけなくてはいけないサイズになってしまう。

将の前でこんな大口はあけられない。と、みな子はいったん巻いたパスタをほどいて巻きなおす。

やっとほどよい量になったかと思うと、だらんと垂れ下がる。

――パスタをすするのはみっともない。

みな子はパスタが垂れないように、かつ大口をあけないでいいサイズに巻き上がるように、パスタをほどいては、適量になるように繰り返し巻きなおさなくてはならなかった。

――パスタなんか頼むんじゃなかった。

ひそかに後悔するみな子の前で、将は頓着もしないでハンバーグを気持ちよく平らげていた。

 
 

「ああ!猫ちゃん!」

みな子は、その家に入るなり、まっ白な猫を見つけて手を伸ばした。

猫はびっくりして一瞬身構えた。緑がかった目を丸くすると、ぴょーん、と棚の上に乗った。

小さなオフィスビルのように見える建物の、外階段を登って3階にある家。

看板に『西嶋光学工業』とあった。

そう。ここは大悟の保護者である、西嶋隆弘の家なのだ。

2年前、獣医のもとで回復しつつあった猫をどうするか、将は『三宅のおじちゃん』こと弁護士の三宅に相談したのだ。

三宅は無類の猫好きとして将もよく知っていた。

それで猫はいったん三宅が引き取ったのだが、その後すぐに、西嶋の家にもらわれてきたのだという。

「シロ、というんですよ」

節子がカラフルなストローを差したジュースを持ってきながら猫の名前を教えてくれた。

大悟と同居している将とその友達、かつシロの恩人の訪問ということで、歓迎されている。

「シロ、シロ、おいで」

みな子は、棚の上にあがった猫に声をかけた。

「ほっとけば、降りてきますよ。人間大好きですから」

隆弘も笑った。

「前に飼ってた子が亡くなりましてね。それで、三宅さんに『まだ子猫だから』と頂いたんです」

将もジュースが置かれたダイニングに腰を下ろした。

三宅の友人にあたるこの西嶋隆弘も猫が好きらしい。

しかし本人は猫というよりも柴犬、といった感じの穏やかな容貌だ。

ひとしきり、シロのことで談笑したあとで、

「大悟くんのことで、訊きたいことがあるんですが……」

と、西嶋が切り出してきた。

意外な質問に、将は目をあげて西嶋の顔を見た。

穏やかな表情は、真剣な表情にいつのまにか変わっている。

もう、将がM区の、事務所近くのマンションに生活拠点を移して2週間以上になる。

てっきり大悟は西嶋の世話になっていると、将は思い込んでいた。

今日だって、大悟にはメールで『今日、猫見にいくから』と伝えたはずだ。

「大悟、こっちにいるんじゃないんですか」

将は訊き返した。

西嶋によると、大悟はあいかわらず将と二人で暮らしていると言っているらしい。

「そうですか。鷹枝くんは、お仕事の都合でM区に移られたんですね。……ということは大悟くんは鷹枝くんのマンションで一人で暮らしているんですね」

将の話を訊いた西嶋は、腕組みをしてうーん、と考え込んだ。

「それで……かな」

節子が低い声で隆弘に、確認するように問い掛ける。

「大悟、どうかしたんですか?」

将は西嶋夫妻の様子に、大悟の異変を感じて思わず疑惑を声にした。

「先月末に、今月分のお小遣いを取りに来たんだけど、たった1ヶ月なのにびっくりするくらい痩せちゃってね」

1拍の沈黙があったあとで、節子のほうから話し始めた。

大悟は、この西嶋夫妻から月に一度小遣いをもらうことになっているらしい。

「それに、昨日……」

「昨日?」

「急に来て、お金が足りなくなった、貸してくれって……」

将は黙って節子の話を聞きながら、またパチンコだろうか、と考えた。

でも、それにしてはなぜ痩せるのだろうか。あの痩せ方は、将が見ても異常だった。

「それが、20万って言うんだよ」

節子は、昨日を思い出したのか、眉根を寄せて、あげた右の掌をパタンと振り下ろした。

「貸したんですか?」

節子は首を横に振った。かわりに隆弘が口を開く。

「何に使うのか、って訊いても黙ってるんだよ。だから、使い道をきちんと納得させてくれるなら、貸すんじゃなくて、あげる、と言い渡したんだが……」

大悟は、いちおう『わかりました』と素直に帰っていったらしい。

将の中で、何か嫌なラインがつながりそうだった。

第229話 猫のその後

まもなく中宴会場で制作発表が始まった。

ドラマの制作発表なので、TVカメラは自社のみだが、雑誌関係者はかなり来ている。

広めに作られたひな壇の上に、将ら生徒役は並ばされた。

特に将、大野、四之宮らメインの5人は生徒の中でも前に並ぶように指示されている。

そこへ主演の仲田雪絵が笑顔で登場した。すっかりおなじみになったジャージ姿だ。

おもったよりずっと小柄なのに将は驚いた。

しかし小柄なのに、あたりをうっとりとさせるオーラに満ちているのに2度驚く。

 
 

「ちょっと、アンバランスだよな。あのSHOってコ」

武藤は声のほうを思わず振り向いた。ひそひそとした声だが、SHOの名に敏感に反応したのだ。

そこには二人の男がいた。きちんとしたスーツを着てひな壇を眺めている。

持っているデジカメが小型デジカメなところと、服装から、芸プロ関係者だろうか、とあたりをつける。

「生徒役メインのうち、一人でバカでかいよな。大野くんと比べてもかなり違う。うちの四之宮とは……並べたくないな」

聞き耳をたてた武藤は『うちの四之宮』という言葉から、彼らが業界5指に入るJプロの人間だということがわかった。

「仲田ちゃんが小柄だから、生徒も小柄で揃えるって発想のはずなのに……まあ、イケメンくんであることには変わりないわな」

「まったくDプロも偉くなったもんだ」

スポットがあたっているひな壇以外の場所は暗い。

だから武藤が一重の切れ長の端で鋭い視線を送っていることに、彼らは一向に気付かない。

ひな壇では、彼らがいうとおり、5人のメイン生徒の中で首1つ分背が高い将がいた。

やや緊張した面持ちながら笑顔をつくっている。

――将、頑張るのよ!

武藤は、客席から目線でエールを送った。

 
 

それから、将は少しずつ忙しくなった。

何しろ、前の『ばくせん』のメイン生徒役は皆、人気アイドルや俳優として活躍している。

そのパート2ということで、将たちは明日の人気者扱いで次々に取材を受けた。

その数は世の中にこんなに雑誌があったのか、と思うほどだ。

加えて、ファッション誌やメンズmon-moでスタイルのよさを披露した将は、モデル系の仕事も多い。

『行けるうちに出席日数を稼いでおきなさい』

という武藤の配慮で、学校には出来るだけ行かせてもらえた。

ほとんどは午前中のみ、などで1日中いられることはなかったが。

あいかわらず将は必要以上に……例えば指されたときなどは別だが……聡と言葉を交わさなかった。

そんなようすに、クラスメートたちもようやく異変に気付いたようだった。

「ねえ、鷹枝くん。アキラ先生とはどうなってんの?」

休み時間に早退しようとする将に、チャミが甲高い声で聞いた。

近くでは星野みな子が、ひそかに耳に神経を集中させている。

「……もともと何ともないよ」

「うっそぉ!めちゃくちゃ付きまとってたじゃん」

やめなよ、とチャミの肩をカリナがつかんでいる。

将は一瞬黙って、瞳だけを動かしてチャミを見下ろした。

そのようすに、チャミは、その後ろのカリナごとたじろいだ。

しかし、すぐに明るい調子で

「そっかな?」

と返した。そして、チャミもカリナも通り越して、席についたままのみな子に顔を向けると

「みな子ぉ~、コピーありがとう!またヨロシクっ!」

と手をあげた。

「み、みな子ぉ?」

チャミとカリナがみな子を振り返って、再び将のほうに視線を戻したときは将はカバンを肩にかつぐようにして入り口をくぐっていた。

みな子自身もびっくりしていた。

『星野サン』がいきなり『みな子』になったのだ。

考えれば、名前だけを、声変わりした男子に呼ばれるのは初めてだった。

みな子。その名前を初めて低い声で呼んだのが、鷹枝将。

みな子は、悦びに震える心の中を表面に出すまいと、今日あてられる場所の準備に集中するフリをした。

 
 

将は、タクシーで現場に向かいながら、携帯を開いていた。

いつ武藤などに見られるかもしれないから、待受画面は携帯オリジナルに変えてある。

最新のメールを開く。

そこには聡からの短いメッセージがあった。

>>>

メール、ありがとう。

ずっと、見守ってるよ

>>>

ここのところ将は、寂しくなると、こっそり聡からのメールを繰り返し見ている。

それは、他人が見たとしても、ありふれた、短い言葉でしかない。

だけど、その中には、受け取った将だけにわかる、聡の気持ちが封じ込められている。

短い文字の羅列は、将が読めば血が通う。

血が通い始めた聡の想いは、瞳の網膜を通じて、将の体を駆け巡る。

すべての毛細血管のすみずみまで聡の思いが行き渡るまで将は、聡を思い浮かべて目を閉じる。

そうやって静かに聡を思う時期があるのも悪くない、と思うことにしている。

たまの学校で……教壇の上に立つ聡に出会えたときは、いっそう目に力を入れるようにしてその姿を、耳に神経を集中して声を焼き付ようと努力した。

みな子にもらうことにしている、聡のプリントのコピーも、聡を感じることができる素材の1つだ。

近頃、聡は新しい映画から例文を抜き取ることも多い。

市販にテキスト化されていないものを教材にするということは、聡自身の労力を意味する。

聡が皆に覚えて欲しい、と聡自らが抜いた例文を将は1つでも覚えようと、新しいマンションのベッドにそれを持ち込んで眺めながら眠りにつく。

 
 

「ハイ。昨日の分だけだけど」

早くも翌々日に学校にこれた将は、さっそくみな子にノートを渡された。

いつもギリギリの時間に来る将だが、今日は比較的ゆとりのある時間に来ている。

「サンキュ」

そんな将とみな子の様子を見た、チャミやカリナがヒソヒソと話をする。

「やっぱさぁ……鷹枝くん、アキラ先生からみな子にチェンジしちゃったのかなあ」

「でもさ、全然タイプ、ちがくな~い?」

「だよねー。でもこないだ、放課後一緒に歩いているの見たって1年がギャースカ騒いでたし」

そんな風に噂されているとも知らずに……いや、本当はみな子は知っている。

すれ違う下級生から羨望の目で振り返られることや、ときに睨みつけられることもあった。

友人のすみれですら

『ちょっと、みな子、鷹枝くんと付きあってんの?』

などと訊いてきた。

もちろん『違うよ、単にノートとってあげてるだけだよ』ときちんと否定することは忘れないが、そのたびにみな子の心には奇妙な喜びが走るのだ。

愉快さ、といってもいい。

火のないところに煙は立たない、という。だけど、そもそも煙は火のもとではないのか。

虫眼鏡のレンズで黒い紙に日光を集めたとき、最初に出てくるのは煙だ。

そこに油などの可燃性のものがあれば一気に燃え上がる。

だけど、みな子には、どうすればこの煙が炎に燃え上がってくれるのか、わからない。

ただ、しつこくして、紙を湿らさないようにだけ、気をつけるしかない。

「あのさ……」

さっそくみな子のコピーに見入る将に、みな子は慎重かつ、さりげなく話し掛ける。

幸い、横からちょっかいを出しそうな井口はまだ来ていない。

今日、将が来るとわかっていたから、みな子は髪をおろしている。

それがさらりと、うまく顔に掛かってほしい、とみな子は願いながら朝、アイロンをかけた。

「猫のこと、わかった?」

「ああ」

将はやっと、みな子のほうを向いた。

 
 

実は先週、将と一緒に帰ったとき、モロッコの話があまりにも面白かったので……将が話すからいつまでも聞いていたいほど面白かったのかもしれないが……

つい、校門までといいつつ駅まで一緒に歩くことになってしまった。

まだテレビに1本と、一般人として雑誌に出ただけの将なのに、人目をひどくひいた。

下級生や、他校のギャルが振り返るのがわかる。

露骨に指差している者までいる。

――きっと、つりあわないとか言われているんだろうな。

俯いて下を向いたみな子は、並んで歩く二人の影がアスファルトに映っているのに気付いた。

影は、二人を先導しているように、二人が行く道に長く伸びていた。

オレンジ色の陽光の中で紫の影になった二人は、なかなか親しそうに見えて、みな子は気を取り直した。

だが、モロッコの話が一段落してしまうと、しばらく沈黙した。

沈黙は、みな子には一大事だった。

何か話題を見つけなくちゃ!とみな子は自分の影を踏みしめた。

やっきになったみな子は、あの1年のときの猫のことを話題にしてみたのだ。

「あのときの、子猫ってそのあと、どうなったの?」

「猫ぉ?」

大げさにこちらを振り返る将は覚えていないようだったが、みな子は辛抱強く説明する。

ちょうど、今ぐらいの時期、こんな天気のときだったような気がする。

「1年のときに、上級生をやっつけて、ビニールに入った猫を助けてたじゃん」

「あー、あれ!」

そこまで聞いて思い出したらしい。将は歩きながら上目遣いになった。

「ひっどいよなあ。猫を袋詰にして蹴ったくるなんてよぉ。……あいつら同じ目にあえばいいんだよ」

「やっぱり……死んじゃったの?」

将の激しい語気に、猫はやっぱり死んだのだと、みな子は思った。だが一応確かめる。

あんなに……腸がはみ出るほどになった猫が生きられるはずがない。

みな子はアスファルトに映る自分の影をそっと踏みしめる。

「いや。たぶん、まだ生きてると思うよ」

「え?」

みな子は一瞬足を止めて将を振り返った。将も立ち止まってみな子を見た。

「ほんと?」

「うん。病院に連れてってね。俺もダメかと思ったけど、助かったよ」

オレンジ色の太陽が将の後ろから差して、まるで後光のようだった。

まるで神話に出てくる太陽神のように、将はこちらを見て微笑んでいた。

みな子は思わず涙が溢れそうになるのを見られまいと、顔をそらすと再び影に向かって一歩を踏み出した。

「そう……。よかった」

さっきのとは違う沈黙が、みな子を包んでいた。

なんだか分からないけれど温かい、時間のようなもの。

みな子を包む世界はすべて、暖色に染まってキラキラ輝いていた。

車のボンネットに反射する夕方に近い太陽の色。線状に金色を反射する電線。

こんなに美しかっただろうか。

「今は、どうしてるの?」

この世界を、自分の声で壊すのはもったい気もしたが、あまりにも美しすぎて、落ち着かなくなったみな子は再度質問を口にした。

「どうしてるかなぁ……。知り合いに頼んで、猫好きの家に引き取ってもらったんだけど……」

将が考え考え歩いているうちに、駅が近づいてくる。

「今度、訊いてみるよ」

そういって、将はみな子と別れたのだった。

第228話 制作発表

オフの3日間、将はついに聡と一言も言葉を交わさなかった。

異変に気付いた井口は、聡の姿を見るたびに将を心配そうに振り返ったが、将は平然と一生徒になりきっていた。

3日目の放課後、教室から出て行った聡を見て、とうとう井口が口を出す。

「お前さ、アキラ先生、やめたの?」

中学から一緒の井口に嘘を付くのは気がひけた将は、それに返事をせずに

「ホラ、お前、バスケの練習だろ」

と促しながら、井口を置いて歩き出した。

「鷹枝くん!」

そのとき、星野みな子が将のほうに、机の間を縫って近寄ってきた。

女子は早々と更衣室に移動したらしく、教室に残っているのは彼女一人だ。

そうなるのを待って将に話し掛けたのだろう。

「あ、明日からまた学校休むんでしょ……。次の登校はいつ?コ、コピーしないとだから」

みな子は言い訳がましく、あくまでもコピーのためだ、と最後に付け加えた。

「んっと、武藤さんに聞かないとわかんないな……わかったらメールするから、星野サンのメアド教えといてよ」

「えっ」

みな子は思わず、眼鏡の奥の瞳を見開いた。

将から、メアドを訊かれた。

一瞬、時が止まるほどの大事件だった。

それを『用心』と解釈した将は

「個人情報の悪用なんかしないからさぁ」

と冗談めかして付け加える。

それでもみな子は立ちすくんだままだ。

将はポケットから自分の携帯を取り出した。

「じゃあ、電番教えてよ。ショートメッセージ送れるでしょ」

みな子は、まだ現実感がないまま、自分の携帯の番号を口にした。

将はそれを自分の携帯に打っている。

自分の番号が将の携帯にインプットされている。みな子はただ呆然と将の手元を見ていた。

1秒後には、聞き慣れた自分の携帯の着メロが鳴ってみな子はハッとした。

あわてて携帯を取り出すと、将の番号が表示されている。

――これが……鷹枝くんの番号。

みな子は、騒がしく鳴る携帯を止めるのも忘れて見入った。

「星野さんの着メロ、『ウルウル滞在日記』なんだ~」

将は嬉しそうに目を見張った。

みな子は我に返った。

将が『ウルウル……』の仕事でモロッコに行ったというから、ついそれにしてしまっていたのだ。

「将、ウルウル出るんだろぉ」

井口が二人の間に割って入ってくる。

みな子から見ると口をきくのもちょっと恐いたぐいの男子だったが、ボイコットをきっかけに少しだけ慣れた。

今日も黒髪になったくせ毛を頭の上のほうでツインテールにした珍妙な髪型だ。

「そうなんだー。知らなかった」

とみな子は答えながら、何気ないふりをしながら携帯を仕舞った。

本当は……将が初出演した、女弁護士もののドラマもしっかりと見てしまっている。

「放送日決まったら教えてね。……じゃ」

さも、社交辞令のようにそっけなく言い添えて、みな子は早足でその場を去ろうとした。

「星野サン、練習は?」

「今日は予備校なの」

「ふーん。じゃあ校門まで一緒に帰ろうよ」

みな子は足をとめて佇んだ。時が再び止まった。

 
 

「オハヨーございます」

翌日、将は朝10時には事務所に顔を出した。

「あ、SHOくん、おはよー!」

「モロッコ、どうだった?」

「お土産美味しかったよ!」

事務所中の人間が何かと声をかけてくる中で、武藤が満面の笑みで近づいてきた。

「将、見て」

とパソコンの画面の前に将を引っ張ってくる。

そこには、事務所に所属するタレントのHPへのアクセス数が表示されている。

事務所のスタッフしかアクセスできないページだ。

「男性中、堂々の5位よ」

低い声ながら嬉しそうな武藤は、画面をのぞきこむ将の肩をポンポンと叩いた。

「SHOくん、カッコよかったですもん」

隣の席の若い女スタッフも首を伸ばして声をかける。

「なんで……?」

大した活動もしていないのに。素人として載ったあのファッション誌の影響だろうか?将は素直に疑問を口にした。

「奄美さんのドラマにゲスト出演したの忘れたの?」

「あ、そっか」

それは将が海外ロケの最中にオンエアされていた。

「アップが多くてビックリしたわ。もう、インタビューの申し込みもチラホラ来てるのよ。

明日、『ばくせん2』の制作発表があるから、そのあとはどんどん引き受けるわよ」

クールな武藤の顔だが、今日は嬉しさからか、その印象はずっと柔らかかった。

 
 

翌日、正午からある『ばくせん2』の制作発表にあわせて、将は武藤と某ホテルへやってきた。

7月開始のドラマの制作発表にしては少し早めなのは、爆発的な人気だった前作の第2弾ということで注目されているからだろう。

「仲田雪絵に会えるの?」

タクシーの中、将はウキウキと武藤に訊いた。

前作から引き続き主役の女教師役を演じる人気女優だ。

「当然でしょ。共演者ですもん。共演者なんだから、毅然とね」

武藤の横顔はあくまでもクールだ。

ホテルに着くなり、衣装を手渡される。

制作発表は、生徒の衣装を身につけて行われるのだ。

将は控え室に案内されて、着替えとヘアメイクを施される。

そこには、何人もの生徒役が同じように着替えとヘアメイクを施されていた。

どうやら仲田雪絵が担当するクラスの悪ガキ全員が今日はせいぞろいするらしい。

リーゼントや、虎刈り、アフロヘアにモヒカンなどカラフルで珍妙な髪型にされている彼らは皆、将と同じぐらいの年頃に見える。

しかし、井口らと違って、悪そうな姿に似合わず、彼らは皆礼儀正しいのだった。

30分後、武藤の前に現れた将は、ガクランを身につけて、明るい茶髪をツンツンに立たせた悪ガキ高校生になっていた。

『仲田チャン』演じる教師は、さぞ苦労しそうだ、と見上げた武藤はクスッと笑った。

「俺、ガクランって初めて。ちょっと嬉しいかも」

将もちょっと嬉しそうだ。

「将、ちょっとこっち睨みつけてみて」

「……コラァ」

と役になりきって、武藤を睨みつける。

眉は左右非対称に寄っているし、舌は丸まっていて完璧だ。

「……ぴったり。将、地でやってるでしょ」

「まっさかぁん。ちょっとションベン」

将はすぐに笑顔に戻ると、武藤に背中を向けた。

しかしトイレへと歩く後姿は、バッシュの踵を踏みつけた独特のガニ股だ。

誰にもまだ演技指導をされたわけでもない。

衣装を身につけただけで、記憶の中にある、そういう姿の悪ガキの歩き方を知らずにトレースしてしまっているのだ。武藤は感心した。

 
 

手を洗った将はペーパータオルが切れているのに気付いた。

衣装に着替えた将は、ハンカチを持ってくるのを忘れたのだ。

――しまった。

まさか、手に残った水気を衣装になすりつけるわけにはいかないだろう。

思わずあたりを見回した将は、自分がいる洗面台の端に、同じようなガクランを身に付けた青年がハンカチで手を拭いているのを見つけた。

やや長めに垂らした濃いめの金髪で顔は隠れて見えないが、おそらく共演者だろう。

将は迷わず

「ね、ハンカチ貸してくんない?」

と声をかけた。

金髪の青年はこちらを振り返った。

ハッとするほどの美青年だった。

背は将よりかなり低いが、色白の肌に細めに調えた眉毛が、細面の顔に似合っている。

女のように長い睫の庇を持った切れ長の目の中で、冴え冴えとした瞳がこちらにゆっくりと動いた。

青年は将を一瞥すると、無言でハンカチを差し出した。

ちゃんと乾いた方に折り返してある。

「サンキュー」

将は手を拭わせてもらうと、それを畳みなおして返した。

そのとき、後ろの個室から、またガクラン姿の若者が出てきた。

髪は黒い短髪だが、ガクランの下に赤い派手なTシャツを着ている。

彼は将にハンカチを貸してくれた金髪の青年を見るなり、背筋を伸ばした。

「わっ、四之宮さん!お疲れ様です!」

しかし『四之宮』と呼ばれた金髪の美青年は、それに答えもせずに静かにそこを立ち去った。

「うわー、四之宮さん、怒ってないかなあ」

赤シャツの若者は、居合わせた将に言うともなく独り言を呟きながら、手を洗った。

鏡には、眉尻が少し下がった人のよさそうな顔が映っている。

「え、誰あれ?」

将は、さっきの美青年のことを知っているらしいその若者に、訊いてみた。

「KATZEの四之宮さんでしょ。知らないの?」

赤シャツはウソだろ、という顔で将を振り返った。

「知らない」

将は素直に答えた。

言われてみれば、たしかにどこかで見たような顔かもしれないが、そんなアイドルグループがいたことすらわからなかった。

「……ふーん。あ、僕、『ばくせん』で共演する大野啓介っていいます。よろしく」

赤シャツは気を取り直したように、自己紹介をした。

目と眉毛の間が、やや離れているおかげで、いつもなごんでいるように見える顔だ。

笑い顔になるとますます眉尻がさがり、人がよさそうになる。

「僕は……」

「SHOくんでしょ」

自己紹介する前から、彼は将を知っていた。

え、という顔を隠せない将に

「○○に出てたから」

と将が『一般人』扱いながら1Pで取り上げられた雑誌の名前を彼は出した。

「知ってる?メインの5人の中で、本当に10代なのSHOくんと僕だけなんだよ」

と啓介は親しげに付け加えた。

「へえ。さっきの四之宮くんは?」

「ハタチ」

「ふーん」

意外だった。

背が低いせいか、また美しい瞳がそう見せるのか、将には彼が自分より年下に見えていたのだ。

「あのさ」

啓介はあたりを見回しながら将を手で呼び寄せた。

声がぐっと小さくなっている。ナイショ話の合図だ。

「君の前に、飲酒喫煙でおろされたのって、四之宮くんの相棒だから。気をつけたほうがいいよ」

将は思わず啓介の顔をのぞきこんだ。

啓介は将の顔を見てうなづいたが目は笑っている。

「それに、あの人、芸歴10年ぐらいあるし」

ああ。このことか。

将は思わず声に出しそうになった。

武藤の注意が蘇る。

『将。この世界は、先輩後輩の礼儀をどこよりも大事にするの。たとえ年が若くても芸歴が長い人は先輩になるのよ。だから先輩に嫌われないように口の利き方にはくれぐれも気をつけてね』

「俺はまだデビューして1年ぐらいだけどぉ」

目の前の啓介が、ちらりと将を見た。

将はとっさに

「すいません」

と頭を下げた。

「いいって。気にしなくても。俺はまだ1年だから君とは同期みたいなもんじゃん。これからヨロシクね」

啓介はあいかわらず親しげな顔で、将の肩をぽん、と叩いた。

第227話 さやえんどう

将は、今日も授業が終わると、クラスマッチの練習をさぼって学校をあとにした。

あいにく、海に行くのにはいまいちの曇天だったので、将はヒージーが入院している病院に見舞に行くことにした。

ヒージーは将が海外ロケに行っている間に、東京の病院に転院していたのだ。

「将!」

ヒージーは病室の入り口に将の姿を見つけると、懐かしそうにその名前を呼んだ。

しかし……その声の大きさもそうだったが、可動式ベッドに横たわるその姿は以前よりずっと小さくなったように見えた。

その一流病院で、一番広い特別室の中ではいっそう、そのか細さがめだつようだった。

「く、く、くろ、くろく、なった、なあ」

運転手の西嶋によると、かなり普通に話せるようになったということだが、まだ麻痺が残っているらしい。

「く、くちが、まめ、まめらなくて。ぉお~、おかげで、あた、あたま、まで、も、も、モウロクしたように、思われて、困る……」

それでもヒージーは笑顔で将に手を伸ばした。

その、静脈が浮き出た腕の細さに将は胸が痛んだ。

「ヒージー……。ごめん。俺のせいで」

ヒージーの手の先で、自然に将は頭を垂れた。

ヒージーが心臓発作で倒れて、いまも麻痺に苦しんでいるのは、おそらく、将が自分の過去の殺人を告白したからだろう。

「な、な、何を謝るんだ。たっ……ただの、に、に、肉の、肉のっ……喰いすぎの、む、むくいだ」

ヒージーは傾けたベッドから将に微笑を向けた。

そうやって笑うと少し、左右の頬がゆがんだ。それがまた痛ましい。

しかし、ヒージーは歪んだ笑いのまま、将に視線を向けた。

「将。みたぞ」

「え?」

そこにいた看護士が、専用棚から将が載っている、あのファッション誌を持ってきた。

「いつも、自慢しておいでですよ。いい男だろうって」

「イッ……い~い~」

ヒージーは目を宙に泳がせた。慣れない将は思わず、はっとしてヒージーを見つめる。

「イケメン、でしょう」

「そ、そうだ。イケメンだ。わ、わかってるのに、さ、さきに言いおって」

どうやら看護士は、ヒージーが言いたいことを先まわりしてしまったらしい。

「ハイハイ。すいません。将さん、テレビにもお出になるなら、今のうちにサインもらっとかなくちゃ」

看護士はヒージーを見てにっこり笑った。

きっと誰かに将の芸能界入りを聞かされているのだろう。

口は多少不自由なようだったが、たしかに本人の言うとおり、頭は以前と同様、100歳にしては明瞭なようだった。

しかしそれだけに不憫だった。

「ふ、ふらんすに行ってきたんだな」

「うん。モロッコもだけど」

「ど、ドゴールも、ミッテランも、もうおらん……」

ヒージーは可動式ベッドに寄りかかったまま、少しだけ遠い目をした。

政治の中枢に長くいたヒージーの遥かなる記憶の彼方で、彼らは知己だったから。

もっとも、将にとっては、どっちもすでに単なる『歴史上の人物』でしかない。

「ハルさんは?」

将は、ヒージーのベッドのわきの椅子に腰掛けながら言った。

「る、留守宅を、守ってもらっておる。大、大磯にいずれ帰るでな」

ヒージーはあの、大磯の邸宅をことのほか、愛しているのだ。

「は、はたけも、ほったらかしに、している。さ、さ、さやえんどうを収穫してやらないと、可哀想だ」

将は、子供の頃、ヒージーと一緒に摘んだ、さやえんどうを思い出す。

東京から預けられたばかりの将は、大磯になじめずに……毎日のように雷を落とす巌にも反抗しては毎日のように尻を叩かれていた。

母を亡くしたばかりで、自分が父に厄介払いされたのだ、と子供心に感じていた将は、周囲に対していつも尖っていたのだ。

あのときも何が原因だかは忘れてしまったが、ぶたれた将は縁側でベソをかきながらも、憮然と座っていた。

そんなときに、ヒージーは将を畑に連れて行ったのだ。

初めて踏む畑の土は、将が今までに知っている土と、色も柔らかさもまったく違った。

校庭の土のように赤い色でもなく、公園の木の下のそれのように、わくらば色でもない。踏み固められてもいない。

かつて母が鍋でかき混ぜていたココアの粉末のような、冴えざえとした茶色だった。

柔らかなそれは将の運動靴の下でふかふかと沈み込んだ。

蔓から千切りたてのさやえんどうは、スーパーなどに並んでいるのとは違って、粉を吹いたような白っぽい色だった。

蝋みたいだな、と将は思った。

そのくせ手に取ると、硬く締まっているくせに瑞々しい。

将は、嫌なことを忘れて、さやえんどうを無心に次から次へと千切った。

夜、そのさやえんどうを使ったみそ汁が食卓に並んだのだが、火を通すと舌の上で甘さが花開くのが子供の将でもわかった。

ヒージーはあの頃、思えばたびたび、将を畑仕事へ、また海へ釣りに、と連れ出した。

それを繰り返すたびに、ささくれていた将の心は、次第になだめられていったのだ。

忘れかけていた懐かしい思い出だ。

「そ、それに。大磯には、お前に渡すものが、しまってある」

そのときだけ、ヒージーは、比較的明瞭に言葉を発することができた。

「何?」

「そ、それは、あとでの、おたのしみ、じゃ」

ヒージーはにんまりと笑った。

「なんだよ~」

将は、その笑顔にようやく、心から笑うことができた。

「だからな」

ヒージーの表情が笑顔から変わった。

「もう少し、じ、自由がきくようになったら、将、わしを、お、大磯に連れて帰れ」

打って変わった真剣な顔。瞼が小刻みに震えている。それは白いものがまじった睫に縁取られていた。

瞼は震えているのに、その奥の灰色ににごりかけた瞳は微動だにせず将に向けられていた。

「た、たのむ。……絶対、絶対だ、ぞ」

ヒージーの細い腕が、再び将のほうに伸びた。しみに彩られた細い腕は細かく震えている。

顔も腕も薄くなった皮膚は窓の光を反射していた。

皮のジャケットの肘がてらてらと光ってくるように。

100年の年月を経たヒージーの皮膚はどこもホットミルクに張る膜のように薄く皺になり、そのくせ乾燥していた。

聡の肌が畑から収穫したばかりの瑞々しいさやえんどうなら、ヒージーのそれはスーパーのさやえんどうだろう。

「ヒ、ヒージー」

思わず将のほうが言葉に詰まってしまった。

「たのむ……将。たのむ」

伸ばしたヒージーの手が、ぶるぶると大きく震え出したので将はあわててその手をとった。

乾燥して生ぬるい手には……まだ血が通っている。

長い指は、見事に将と相似形を描いていた。

「う、うん」

将が、あまりの真剣さにうなづいたとき、病室の扉があく音がした。

体が不自由なヒージーより、素早く振り向いた将がそこに見たのは、父の康三だった。

康三もそこにいる将にすぐに気づいたようだ。

二人は一瞬だけ目をあわせると、互いにさりげなく逸らした。

「な、な、なんだ、康三か」

「お見舞いにあがりました。おじいさま」

康三は丁寧に頭を下げた。

「お、お、お前、会期中じゃないのか」

国会が行われているのではないか、とヒージーは心配したのだ。

「終わり次第、伺いました」

将は、自分がいるべきではない、と判断して立ち上がった。

「じゃあ、ヒージー。また来るから」

と手を軽くあげた。

「て、て、テレビ、たっ……楽しみにしているぞ」

ヒージーは少々歪んだままながら、名残惜しそうな顔を将に向けた。

引き止めないのは将と康三の関係を気遣っているからだろう。

しかし、出て行こうとする将を康三が引き止めた。

「将。ちょっと」

顎をしゃくるようにして、将に合図をする。

将は怪訝な顔を、ヒージーの手前、目だけにとどめて康三に従った。

 
 

「サハラ砂漠にいたと聞いたが……疲れてないか」

病院の廊下で康三の口からもたらされたのは、意外な言葉だった。

最初将は、それが自分を気遣う言葉だとわからず……思わず目を見開いて康三の顔を見た。

康三は、見たこともないような……ヒージーが将を見るときのような目をしていた。

そこでようやく、康三が自分の体について、訊いているのだと理解した。

「ああ」

「今度、連続ドラマに出ると聞いたが」

「何で……」

「ダイヤモンド・ダストのほうから報告が随時ある。お前は未成年だからな」

いつもの高圧的な単語の片鱗に将は、いつものように目の端で父親を睨みつけようとした。

しかし、あとに続く康三の言葉は将の予想を裏切るものだった。

「しっかりやれよ」

「……?」

将は、睨もうとした目を見開くと、パチパチとしばたいて、自分より背が低い康三を見下ろした。

気づかないうちに、唇も『え』の形で半開きになっていた。

「大人に混じって仕事をするとなると、お前にも大人の責任が発生する。……そうなると、いくら私でも尻拭いできないことだらけだからな」

内容は厳しいものだったが、その声音は、ここ何年も聞いたことのない、穏やかなものだった。

「いいか。無責任なことは、するな」

念を押すそれも、押し付けるようなものではなく、人生の先輩として語りかけるような、ゆっくりと温かい口調だ。

だから、面食らった将は、反抗することもなく素直に

「わかった」

と答えてしまったのだ。

第226話 恋しさと愛しさ

陽が長くなったにもかかわらず、聡が明るいうちに帰れる日は少ない。

今日もすっかり暗くなっている。

部屋に戻った聡はすっかり疲れていた。

今年度から1年生が3クラスになったというのもあり、もともと仕事量自体が増えている。

その分の疲れが蓄積されている、というのもある。

しかし、今日の疲れはことさらだ……たぶん、将が久しぶりに登校したから。

将の姿を目にしたせいで、いつもより余計に心臓が脈打ち、そのせいで血液が体をめぐる速度は尋常じゃなかったはずだ。

つまり、いつもより激しい代謝が行われたせいで疲れているというのも、もちろんあるだろう。

聡は、無意識にミネラルウォーターを冷蔵庫から取り出して飲むと座り込んだ。

夕食にするつもりのコンビニ弁当はローテーブルの上に置いたまま、スイッチが切れたように脱力する。

遠回りして、バイトしていた弁当屋さんにいく気力もなかったのだ。

無意識のまま、手は携帯を開く。

職場で開くことはまずないから、待ち受けは将のままにしている。

画像の将は、疲れて無意識になった聡に感情を回復させた。

「将……」

付き合えない、と言い出したのは聡のほうなのに、こうして将の顔を見ると、

聡の心には小さく固めた水中花を水の中に沈めたときのように、一気に将への想いが花開く。

心という容器に収まりきれない想いの花びらが、吐息や呟きとなって口から漏れた。

さっきも……久しぶりに将の顔をみた聡の心は、体を抜け出して将のすぐそばに飛んでいきそうだった。

でも社会的立場を持つ肉体を抜け出すことができない心は、聡の中でひどく暴れた。

それを押さえつけながら、何でもないように教壇に立ち続けた聡は、ただひどく消耗した。

そして昼休みの前、聡のほうへ歩いてきた将。

一歩一歩、こちらへ近づいてくる将は、まるで磁力を持つように、聡の全身の産毛を引き寄せた。

将は聡を見つめていた。陽に灼けて黒くなった顔の中で、際立つ白目。

それはその中心の瞳が見つめるものを強調した……将の瞳は聡を射抜いていた。

本当に矢が刺さったように、聡はその場から動けなくなった。

地球に確実に衝突するコースで彗星が近づいてくる。

なのに、何もできずに地球は宇宙に浮かぶしかない……そんな風に聡の体は固定されてしまっていた。

動けなくなった肉体の中で……彗星が近づく地球上の人類のように、心が恐慌を起こしていた。

この肉体を脱出したい、と心は徒に暴れていた。

バカな心の奴は、体を脱出して近づく彗星にもっと近寄りたがっている……一体化したがってさえいる。

その熱さは、大気圏たる皮膚を破る勢いで、聡は肺もが灼けたように呼吸をするのを忘れていた。

しかし。聡に定められていた将の軌道は……すんでのところでずれた。

聡まで、あと3歩というところで、将の瞳は聡からふい、と離れた。

地球に衝突するかと思われた彗星は、急に軌道を変えてすり抜けていった。

聡は振り返ることも出来ずに、気が抜けた。

3週間ぶりの、干草の香りだけが、聡に残された。

それは、彗星が地表に撒き散らしていった流星群のように、聡の心にキラキラときらめくせつなさだけを残していったのだ。

ほっとしたような、がっかりしたような脱力。弛緩。

しかし、聡はわかっていた。

――あれは将の、決意の表れなのだ。

開いた携帯はメールの着信を示している。案の定、将からだった。

 

>>>

さっきは無視してゴメン。

本当はすっごくしゃべりたかった。

でも、我慢したんだ。

>>>

 

その下は何行か改行による空白があって見えなかった。

それは、将の沈黙なのだろう。

沈黙のあとには、たぶん決意がある。

聡は予感しながら、スクロールボタンを押して移動して続きを見る。

 

>>>

俺、本気で聡と距離を置こうと思う。

みんなが、俺と聡が無関係になった、と思い込むほど、徹底的に。

つらいけど、二人の将来のために我慢する。

今は、我慢のときだけど、その先にはきっとずっと一緒にいられる未来がくると信じたい。

だけど……ときどき、こうしてメールを送るかもしれない。

寂しすぎるときもあるだろうから。

それだけは許して。

無視してくれて構わないから。

将

>>>

聡は、携帯にしては少し長いメッセージを繰り返しスクロールさせて読んだ。

やはり、あれは将の決意の表れだった。

それを確認して安心しつつも、すでに聡は寂しかった。

将が、表面上とはいえ、自分から離れていく。

自分で決めたことなのに。

自分で言い出したことなのに。

将のためだと、理性ではわかっているのに……。

聡の本心は、将を恋しがって叫びをあげていた。

将に会いたい。

将と語らいたい。

将と触れ合いたい。

将と抱き合いたい。

聡は、それらが叶えられないかわりに、せめて将の記憶を脳裏から引き出そうとした。

だけど、求める心に対して、それは薄すぎる気がして、聡はベッドに倒れこんだ。

もう疲れて、座っているのすらつらいのだ。

ベッドの上で聡は目を閉じる。ここは傷ついた将を受け入れた場所だ。

あのときの将は、荒々しい波のようだった。

聡は浜辺の砂のようにただ、それを受け止めるしかなかった……。

聡は、やっと鮮やかに蘇った記憶に、思わずため息をつくと天井を見上げた。

やっと静まった将の髪を撫でながら、見上げたあのときの、せつないまでの彼への愛しさも蘇ってくる。

寂しさは恋しさを訴えたが、蘇った愛しさは冷静な忍耐を聡に諭す。

――今は……見守るしかない。

将の成長を。

将が輝かしく活躍するであろう様を。

もしかしたら、その過程で聡は忘れられていくかもしれないけれど、それすらも見届けることが聡に出来ることなのだ。

聡は、携帯をもう一度開く。

 

>>>

メール、ありがとう。

ずっと、見守ってるよ

>>>

 

短いメッセージに、聡は宇宙ほどに膨らみきった将への愛しさを詰め込む。

将の中で水中花のように、聡の心が花開きますように、と聡は願って送信ボタンを押した。

第225話 隠しごと

マンションに帰りついたのは、5時前だった。

日が長い時期だから、夕陽には程遠い陽射しが差し込んで、閉め切った部屋はむっとしていた。

大悟は留守のようだ。

ダイニングテーブルの上に
『気温が高いので、夕食は冷蔵庫に入れています。電子レンジで温めてお召し上がりください』
と家政婦のメモがあった。

将は窓を開けて外の空気を中に入れつつ、バルコニーから外を見渡した。

こんなに早く帰るのは久しぶりな気がする。

去年の今ごろはどうしていただろう、と空に思いを馳せたとたん、夕陽の海が脳裏に暖色に染まった水平線を描いた。

学校にも行かずに、晴れれば毎日夕陽の海に通っていた去年。

唐突に……将は、海を見たくなった。海だって自分を待っているだろう、と思った。

だけど。あいにく、ミニは新しいマンションに置いてきてしまっている。

将は舌打ちした。

――明日にするか。

幸い明日もオフだ。学校は聡の英語までだけにして、あとはさぼって海に行ってもいい。と、将はバルコニーに寄りかかって空を眺めながら再びあの頃を回想する。

聡は、まだ弁当屋のお姉さんだった。

白いうわっぱりに、オデコ丸出しの姿は、もう思い出すのに苦労するようだ。

将の中の聡は、地味な色のスーツに身を固めた教師姿か、ラフなジーンズ、もしくは何度も見たわけじゃないのに、裸ですらすぐに思い出せる。

心に映し出した聡の姿から、将は今日、学校の廊下で無視したことを急に思い出した。

本当は、あのとき……聡にさりげなく話し掛けて、土産を渡すつもりだった。

ポケットに突っ込んだ手は、ローズオイルの瓶を握り締めていた。

だけど、自分に集まる視線に、将は思い直したのだ。

視線に臆したわけではないけれど。

将は部屋に入ると、ソファに身を投げ出しながら携帯を開いた。

この時間はまだ勤務中だろう、職務にいそしむ聡を思い浮かべながらメールを打つ。

本当は、こんな風にメールを打つのも控えるべきなのかもしれない。

だけど、さっき無視したことについて将は言い訳したかった。

そしてあらためて、自分の決意を形にしておきたかったのだ。

 
 

ちょうど聡にメールを送信したところで、玄関ドアの鍵がガチャガチャと音を立てた。

大悟が帰ってきたらしい。

姿より先に、ヤニを濃縮したような不快な匂いがソファに寝そべる将を起き上がらせた。

大悟に何か一言いおうとした将は目を見張った。

3週間、いやそれ以上ぶりに顔を見る大悟はあきらかに痩せた。……やつれた、といったほうが正しいかもしれない。

しかし大悟は、将を見つけると、痩せた顔の中でいっそう目立つ目を細めた。

「おかえり」

今帰ってきた人間から『おかえり』と言われる奇妙さを将は感じたが、すぐに、気づいた。

モロッコから帰ってきた将に向けられているのだ、と。

「ただいま。……パチンコ?」

それは大悟の匂いからすぐに見当がついた。

「ああ。今日は、3万勝った」

大悟は楽しげにコンビニのビニール袋をカウンターの上に置いた。

「そう……。よかったじゃん。昨日は遅かったの?」

将はソファから動けないまま、目は大悟の姿に張り付いていた。それほどまでに酷い痩せ方だった。

大悟はそんな将に気づかないまま、カウンターの中身を冷蔵庫に移す。

「いや、1時ぐらいかなあ。お前、もう寝てたから起こさなかった」

将が『お前ちゃんとメシ食ってんの?』と喉まで出かかったとき、大悟が

「そこに、見本誌置いてるよ」

とソファの前のテーブルを指差した。

将と大悟がバイトでヤラセモデルをしたファッション誌である。

素直に雑誌を開いた将は、1Pで掲載されている自分の姿に面食らった。

それで、学校での下級生の様子に合点がいった。

====

185cmの長身で、”E”の最新モデルXXXをどうどうと履きこなしているSHOくん。

『シャツはオークションで落札したばかりの古着です』と笑顔だ。

====

と、たぶん美智子が考えたのだろう、適当なキャプションがついている。

へえ、あれ古着だったんだ、と将は雑誌の中の自分が着ているシャツをまじまじと見た。

スタイリストが用意したものだから将がそれを知るはずもない。

ちなみにモロッコで行われた”E”のテレビCMは7月オンエアだという。

地中海沿岸は過ごしやすかったが、サハラ砂漠といったらジーンズなど履いている場合じゃなかった。

しかし、履いていないともっと暑いということにすぐに気づく。

体温より高温の空気。ここでは、衣服はその暑熱から体を守るためのものなのだ。

「汗出さないで!」

と監督に指示されたのが、今考えてもおかしい。

出さないぞ、と思ったって出てくるんだからしょうがない、とそのときは思った。

だが、カメラがまわり始めると、本当に汗は出なくなったのだ……。

あれは、本当に不思議だった。緊張感のマジックだろうか。

 
 

大悟に続いて、将がシャワーを浴びて出てくると、ダイニングテーブルの上には大悟が冷蔵庫から出して並べたのか夕食が用意してあった。

大悟は、当然のように缶ビールを冷蔵庫から出して、

「飲むだろ?」

とタオルで頭を拭いている将に差し出した。

「ああ。サンキュ。……あれ、お前、それどうしたの」

大悟の左腕の肘関節の内側にある、紫色の斑点。

褐色が薄れた腕の内側で、それはひどく目立った。

大悟はビクッとしたのを悟られまいと、ビールをカウンターに置くと、将に背を向けて食事の準備を続ける。

「なんか、いつのまにか。どっかでぶつけたのかも」

と苦しい言い訳で誤魔化す。肘の内側をぶつける可能性は低いが仕方ない。

「ふーん」

それでも将はたいして疑いもしないようだった。

トースターで温めていた揚げ出し豆腐を、大悟は器に移し変えると、大根おろしをかけ、小鍋で温めたダシをかけた。

「お前、凝ってるなあ。そのまま食ったっていいのに」

そういう将は大悟の腕のことなどまるで気にしていないようで、大悟はほっとする。

 
 

家政婦さんが外国帰りの将を気遣ってなのか、今日はカツオのタタキに揚げだし豆腐など、と純和風のメニューだ。

彼女が家で自分で漬けたのか、きゅうりのぬか漬けも付いている。

将は、若いくせにこういうものがわりと好きだ。

ヒージーの家で覚えたからだろうか。

ヒージーは、自分が丹精こめて世話をしたきゅうりやなすを、ハルさんに頼んでぬか漬けにしていた。

それを毎晩嬉しそうに晩酌のつまみにしていたようすを将は思い出した。

そういえば、ヒージーにも連絡をとらないと、と将はきゅうりをパクつきながら思った。

「これ、旨いよな」

大悟も気に入ったらしい。

それにしても……テーブルいっぱいの料理の前にいる大悟はいっそう痩せて見える。

将は思わず訊いた。

「お前、ちゃんとメシ食ってる?」

「食ってんじゃン」

牛肉とごぼうの時雨煮でご飯をほおばりながら、大悟はおどけた。

今、こうして食べてるよ、という意味。

そんな風に返されると、将は何も指摘できなくなる。

「なら、いいけど……」

とだけ言って、将はビールと一緒に何かを飲み込む。

大悟に何か言いたいことがあるのに、言えない。

明るい様子なのに、今日の大悟には、どことなく見えない壁があるようだ。

将は、ことごとく、はじき返される。

「……そういえば、西嶋さんの弟さんのところに行った?」

つまり新しい保護者のことを将は話題にしてみた。

「行ったよ」

大悟は箸でカツオをつまみながら、短く答えた。

「どうだった?」

将はビールの缶を口にあてながら、大悟の様子を伺った。

「いい人だったよ。養子にならないかって誘われた」

そう答えながらも、大悟は今度は、揚げだし豆腐を崩す。

将にはその口調が、少し明快すぎるように思えた。

「で、どうすんの?」

「うーん」

そういう声も奇妙に明るい。

大悟は口をもぐもぐと動かしながら、箸と同じ方向に視線をやりながらしばし考えているようだった。

「前向きに、考えようかな……って、思ってる」

それでも、たいして時間を置かずに、大悟は答えを提示すると缶ビールを手にした。

「そっか」

将は、思わず箸を止めて、ビールが流れ込む大悟の喉のあたりを見つめた。

まさか、大悟がそういうとは思わなかったから。

三宅に聞いて将も知っていた、大悟が養子になる話。

いい話だとはわかっていたのだが……将の知っている大悟は、親に見捨てられながらも、飄々とたくましく、自由に生きていた少年だ。

いわば野生動物のように生きてきた青年が、今さら、保護者の庇護にすがるとは考えにくかったから。

だけど。

大悟は、一気に疲れたのかもしれない……瑞樹を失ったことで。

将は、このところの大悟の身の上をあらためて思い返す。

それに……これは将の都合だが、このオフの3日間のあと、将はしばらくここを離れて、事務所近くのマンションを拠点にすることになる。

ここで一人っきりで暮らすよりも、西嶋の弟の養子になるほうが、大悟のためになるだろう。

「そっかー……」

将は、もう一度噛み締めるようにそう漏らすと、

「よかったな」

と大悟の顔をあらためて見つめた。

だけど……その痩せこけた顔は、将の心に依然として何か割り切れないものを残した。

それがわからないままに、将は、大悟に乞われてモロッコの話をはじめるよりほかなかった。

しかし、将は気づいていなかったけれど……大悟は、将と瞳を一度もあわせなかった。

将に対して、重大な隠し事があったから。

大悟が将から隠す、腕の紫色の斑点。

それは『薬』を注射した際に、失敗して出来た内出血だった。

……その頃大悟は、すでに吸引と注射で、日に3度はあの薬に頼っていたのだ。

第224話 ローズオイル

成田に降りるなり、空気がねっとりしているように感じた……湿気。

2週間も砂漠にいた将は、日本の空気に、まといつくような重さを感じた。

それでも、やっぱり懐かしかった。

聡がいる国。

聡と同じ空気。

将はさして美味しくもない空港の空気を吸い込んだ。

「あらー陽にやけたわねえ」

成田までわざわざ武藤が出迎えてくれた。

モロッコまで海外ロケに同行した彼女だがCM撮影終了時点で帰国している。

『ウルウル滞在日記』の収録で将に付いていてくれるのはカメラとコーディネーターだけ、というテレビにしては極めて少人数で行われたのだ。

「どうだった?ウルウルきた?」

『ウルウル……』はその名のとおり、現地人の家庭にホームステイし、最後には別れがたくて泣いてしまうから、というのもある。

「ウルウルどころか大泣きしちゃったよー。……大変だったけど」

将は陽に焼けた顔から、白い歯を見せた。

砂漠で放牧をするベルベル人のテントでの1週間は、将にとって何もかもはじめてのことばかり、まさにカルチャーショックだった。

羊を追いまわし、羊の屠殺から解体に立会い、少年たちと一緒に『砂漠のバラ』と呼ばれる結晶を見つけに行く。

過酷な気候に加え、日本のような利便性がまったくない暮らしに、さすがの将もめげそうになったが、

それを支えたのは、将のもちまえの好奇心と、ベルベル人の家庭の人々の素朴な優しさだった。

特に2歳年下の、その一家の長男とはことさら仲良くなった。

「いや、将くんは根性あります。あの環境で10代のタレントさんだったら、だいたい1回は泣きが入るか倒れるところですけど、将くんは泣き言を1回も言いませんでした」

同行したカメラマンが褒めた。

「よく頑張ったわ」

武藤は満足そうだ。

本当は……将を支えたものはもう1つある。

聡。

聡に、頑張ると約束したから、将はつらい仕事も耐えたのだ。

砂漠の夜は、信じられないほど冷える。

昼は50度近くまで気温が上昇するのに、夜は0度近くまで下がるのだ。

最初の夜、寒さに眠れなくて、将は外に出てみた。

すると、夜空はすごい数の星に覆われていた。

それは、あの二人っきりで一夜を過ごした、北海道のニセコ山頂を思い出させた。

以来、将はつらくなると、聡を思い浮かべて自らを癒した。

ここでへこたれたら、聡はますます遠くなる、と自分を叱咤激励したのだ。

 
 

「3日間、完全オフにしてあげたから、ゆっくり休みなさい」

マンションまで送ってくれた武藤はそういったが、翌日、将は時差ぼけを押してきちんと起きると学校に出掛けた。

「うぉ、真っ黒だな。パリで日サロいったん?」

井口がそういったとおり、白いシャツを着た将は、ますます日焼けが目立つ。

「バーカ。モロッコだよ、アフリカだよ。サハラ砂漠だよ」

「サハラ砂漠の土産が、なんでクッキーなわけ」

早くもユータが将の土産のクッキーを開けている。

「かわいいけどさあ」

ユータがくわえているクッキーは顔をかたどったチョコサンドで、そんなに変わったものではない。

3種類の表情がかわいいが味は『普通に美味しい』程度だ。

「でも、うまくねー?てか、土産買う時間ほとんどなかったし、おまえらにガスール石鹸とかやってもしょうがないじゃん……って、それクラス全員分なんだから、何枚も食うなよ」

「せこっ!」

そんな様子を、みな子は見るともなく、見ていた。

手の中には、将が欠席しているあいだの授業を記録したノートのコピーがある。

極力きれいな字で、わかりやすくメモをとったのは将のためだからだ。

何でそこまで、と問われたら

『この間、助けてくれたから。それにクラス委員として当然のことよ』と答えようと思っていたが、

あんな風にこわめの男子とつるんでいるところに、ノートを渡しにいくのはみな子でも出来ない。

そこへ、前の扉が開いて、聡が入ってきた。朝のHRだ。

「おはよう」

教壇の上から皆に投げかけるその言葉が……みな子には、将に向けられているように思えた。

実際は、聡が将に視線を投げた時間は、他の生徒と極めて平等な一瞬だけだったのだが。

しかし、聡は、その一瞬で将の様子を焼き付けた。

陽に焼けた肌。それは白目とのコントラストが際立った。

そのせいか自分に向けられた瞳はいっそう大きくなったかのように見える。

将のほうも、頬杖をつきながらも、ひさしぶりの聡に見入っていた。

思えば出発前日、何もない部屋での逢瀬を邪魔されて以来の聡。

5月も下旬の日本は、気温もあがっている。

聡は黒い半袖の開襟シャツを着ていた。

それは冬の間、スーツを着込んでいた頃より、ずっと体のラインを強調していた。

あんまり見たらいけない、と思うけれど、聡から目を離すことができない。

ちなみに……『もう付き合えない』聡だけど、将はこっそり聡への土産を持ってきていた。

アロマ好きの聡のために、モロッコ産のダマスク・ローズのオイルの瓶をポケットにしのばせている。

放課後の補習のときにでも、さりげなく渡せれば、と思っていたけれど、HRによると補習はクラスマッチの練習のために今週は休みだという。

渡すのは難しいかもしれない、と将は落胆した。

一瞬の視線の邂逅だけでHRはむなしく終了した。

 
 

「将、起きろよ。昼だぜ」

「……んア?……もう、そんな時間」

あっという間に午前中の3時間が終わったらしい。

時差ぼけのせいか、眠気を抑えられなくて、授業中ずっと机で爆睡していた将である。

井口に揺り起こされて、大きく伸びをすると、ボリボリと首の後ろを掻きながら、井口と共に学食へ向かうべく立ち上がった。

将が廊下に出ると、どこからともなく、

「キャー」

「鷹枝さんよ」

「ヤバい(=カッコいい)」

という下級生女子の囁きが聞こえた。

下級生の女子が、将が出てくるのを遠巻きに見ていたのだ。

4月のmon-mo、そして5月のメンズファッション誌、とその時点では一般人扱いながら大きく雑誌に写真が出た将は、すでに校内では有名人だった。

特に下級生はすでに、将をアイドルのように崇めているようだ。

ちょうどそのとき、隣の3年1組での授業を終えたのか、聡が廊下に出てきた。

将も聡もお互いを一瞬で見つけた。そして二人の視線が再びつながる。

「先、行ってて」

将は、井口にそういうと、聡のほうにつかつかと向かってきた。

聡はその大胆な行動に『えっ』という表情を隠せなかった。

「キャー、ヤダ!」

「ちょー、噂本当なんだ。鷹枝さんがアキラ先生に……って」

とあからさまに噂する黄色い声が聞こえる。

しかし、将は……身を硬くした聡の肩越しをすっと通り抜けた。

立ち止まりもせず。言葉もなく。視線もくれずに。

聡に残されたのは、3週間ぶりの……ほのかな干草のような香りだけ、だった。

将は聡を無視すると、そのまま3年1組の向こうにある、便所に入ってしまった。

聡は……そしてまわりのギャルたちも、唖然とした。

 
 

あっという間に放課後になった。

橙色がかった光が窓から差し込む中、クラスメートは、各々、クラスマッチの練習をすべく、着替えを持って楽しげに更衣室へ移動し始めた。

そんな中、将は、どうせ卓球の練習をしても、クラスマッチへの参加は無理だろう、と一人サボって帰る準備をしていた。

武藤が『6月は忙しいわよ。覚悟しなさい』と言っていたから。

そんな将のポケットの中にはあいかわらず、ローズオイルが入っている。

結局渡しそびれてしまった。さっきの、昼休みも。午後の英語の時間も。

万が一聡が教室に戻ってくるかも、とわざとノロノロしていた将は、ついに見切りをつけて立ち上がった。

黄色い声の下級生も、今はいない。

カバンを肩にひっかけ、入り口をくぐるようにして廊下に出た将に、ジャージ姿の女子が一人駆け寄ってくるのが見えた。

星野みな子だ。

「鷹枝くん!」

「どうしたの、星野サン」

息を切らして駆けてくるみな子に、将は立ち止まった。

「……これ。休んでいる間の、ノート」

みな子は走ってきた勢いでノートのコピーを差し出した。

将は口を半ばあけて、みな子を見つめた。

みな子は将の顔ではなく、自分が差し出したコピーのあたりに視線を固定していた。

そんな様子に、将の口からは思わず素直にお礼の言葉が出た。

「……ありがとう」

みな子は、首をぶんぶんと横に振ると

「くっ、クラス委員だからっ……。当然のことだよ」

と早口で言った。危うく声がうらがえりそうなみな子だ。

――あっ『この間、助けてくれたから』を忘れた!

そう気づいたが、いまさら付け加えるのも逆に不自然だ、とみな子は黙った。

将は、それを受け取ると中身を広げた。

とても丁寧に記録してある内容に、将はその場で読み込んでしまった。

「だっ、大学、受けるの?」

将の手が届きそうな範囲に黙って立っている緊張に耐えられずに……みな子は質問を投げてみた。

将の視線がノートに移ったので、少し安心して将の陽に焼けた顔を見る。

「んー、わかんない。……でも受けられたら受けたいのは変わんないけど」

将はコピーを閉じて、みな子に笑いかけた。

将と視線があってしまい、みな子はあわてて、目をそらした。

「ノート、これからも取っといたげようか」

「いいの?」

「……いいよ。どうせついでだもん」

「ありがとー、助かる。星野サン」

あいかわらずそっけない口調のみな子だが、将にはそんなところが、可愛らしく思えた。

前も思ったが、聡の高校生時代もこんな感じだったんだろうか。

「ね。手ェだして」

将はいたずらっぽくみな子に促した。

「なに?」

「いいから」

みな子はいぶかしげな顔をしながら左手を差し出した。

将は、ポケットからあのローズオイルの瓶を取り出した。

聡への土産のつもりで持ってきたものだ。

それをみな子の手の上に置いた。

「これさ。モロッコ土産。……お礼にあげる」

オイルの小瓶は将の体温でほんのり温かかった。

みな子は思わず将の顔を見上げた。

黒く焼けているが、今までみたこともない優しげな笑顔があった。

「……いいの?」

将は微笑んでうなづくと、

「じゃ」

と歩き出した。

「ねえ!」

みな子は1歩ずつみな子から離れていく将の背中にむかって叫ぶように声をかけた。

将は立ち止まると振り返った。

みな子はばら色の頬をして、小瓶を両手で握り締めて立っていた。

午後の光が、みな子のすぐ近くのサッシに反射している。

「今度、モロッコの話、聞かせてね」

将は、口元に微笑を浮かべて「ああ」と答えた。それは、

――ああ、この人が、芸能界に入るのがわかる。

とみな子に思わせるような、とびきりの笑顔だった。

将が行ってしまった後、みな子は、ローズオイルの瓶をあけてみた。

将の熱い血潮で温められた瓶からは、甘い香りが立ちのぼり、みな子は一瞬めまいがしそうになった。

第223話 全部忘れられるもの(4)

「……わァッ!」

自分の叫び声で大悟は飛び起きた。

眠っていたというのに……心臓が激しく暴れている。背中は寝汗でびっしょりだ。

目をあげると、カーテンから陽光が漏れている。すでに陽は高いらしい。

それで、今まで翻弄されていたのは、単なる悪夢だとわかり、大悟はため息をつく。

そして、もう一度、布団の上に上半身を横たえた。

さっきは明け方だった。

やはり、同じように悪夢で目が覚めて……この1週間あまり、大悟は悪夢に悩まされている。

あの、元保護者のハゲ親爺一家が車ごと港に沈んでいた、というニュースを見てから。

一家心中の疑いが濃厚、そして娘の行方がわからない、という情報内容は変わらなかった。

そのニュースは、近頃特に大きなニュースがなかったせいか、ワイドショーでも取り上げられていた。

それが気にならない、といったら嘘になる。

大悟は『興味本位』とうそぶいて、それを可能な限り見てしまっていた。

ネットのほうにもいろいろ噂で流出しているのではないかと、検索してみた。

が、それほど猟奇色がないせいか、目覚しい情報は見つからなかった。

何が気になるのか、といえば。

大悟の金で酒を飲んだくれていたハゲ親爺はどうでもいい。自業自得だ。

その妻『おばさん』も、少し可哀想だが、まあどうでもいいだろう。

気になったのは道連れにされた彼らの孫と、行方不明の娘である。

あの家を訪れた最後に目にした3人の姿が大悟の脳裏に焼きついて離れない。

ハゲ親爺にまったく似ていない娘。

彼女が抱いていた男の子の泣き濡れた黒い瞳。そして『ばいばい』と手を振った女の子の声。

あの2人の、何の罪もない幼児が、今はこの世にいないのだ。

娘のほうは……おそらく、どこか怪しいところで働かされるのだろう。

大悟の金が彼らに振り込まれなくなったことで、あの3人までもが災難にあったのなら……大悟は心の深いところで罪悪感を感じていた。

いや、そもそも、心の表面も痛かった。それを

――でもあれは、もともと俺の金だ。

――俺が悪いんじゃない。闇金のやつらが、借金をつくったオヤジがいけないんだ。

と無理やり言い聞かせるようにしてことなきを得ていたが、コントロールできない心の奥底が大悟に悪夢を見せるのだ。

それは化け物に追いかけられる夢だったり、乗っている車が水中に転落する夢だったり、誰かを刺して包丁が指から離れない夢だったり。

その中で、かなりの頻度で登場するアイテムがある。

溺死体。そして『この前科者が!』という罵声。

さっきも元保護者のハゲ親爺に殴られまいと逃げていた。

大悟は必死で逃げた。追われて気がつくと港まで来ていた。どんづまりになって、大悟は目の前の海に飛び込んだ。

もう大丈夫だろう、と泳ぎながら振り返ると……溺死体になったハゲ親爺が大悟の肩を掴んで、『この前科者が!』と吼えた。

溺死体の膨れきった体。ふやけて破れた皮膚……こんなときに登場するなんて、まったくグロ画像なんて見ておくものではない、と大悟は後悔した。

眠れば、必ず悪夢を見る、という状態の中で、大悟は完全に寝不足になった。

酒を飲めば熟睡できるかとも思ったが、入眠効果はあっても、悪夢を阻止する力はなかった。

気晴らしに、パチンコに行ってみた。

今度は大負けしないように、と気合を入れるが、なかなか勝てない。

浮上するときはある。例えば、座って1時間やそこらで、1万ほど浮き上がるときがある。

だが、『気晴らし』に来ている大悟は、そんな短時間で離れるのはもったいない気がしてしまう。

もしくはもっと粘れば、もっと儲かる気がしてしまう……かくして、ずっと粘り続けて気がつくと、損をしているのだ。

――『手先が器用だ』なんて言われたけど、たいしたことないんだな。

大悟は勝てない自分を自嘲した。

そして今日、手持ちの金が残り10万に近づいてしまい、大悟は少し焦った。

どうせ、眠っても悪夢にうなされるだけだ、と大悟は久しぶりに薬をさばきにいくことにした。

今日もそれは、飛ぶように売れた。

パラフィンペーパーに包んだ10個のうち、一気に8個が売れた。

中には

「こないだの!よかったよ~」

と大悟のことを覚えていて3個も買った客がいた。

大悟のほうは、彼女にいつ、どこで売ったんだか、まるで記憶にないのだが。

8万を手にした大悟は、自分で決めたルールどおり、30分で店をあとにした。長居をすると危険だからだ。

あと2個の白い包みを手にして、大悟は思う。

――なんで、こんなものが売れるんだろう。

瑞樹の死に際がフラッシュバックする。

あんなふうに幻覚に怯え……ついには命まで失ってしまった瑞樹。

恋人の大悟に遺体にすがることも許さず、蒸発してしまった瑞樹。

大悟は、細かい血しぶきがついた自分の顔を思い出して、自分の頬をなでた。

瑞樹のかけらがくっついていた顔は、今は髭でざらついている。

『つらいことを、全部忘れられるから』

瑞樹の低い声が蘇る。

たしかに、あの頃の瑞樹の状況は悲惨だった。

義父に弄ばれ、帰る家がなく。体を差し出すほど好きな将は他の女に走り。

それを忘れるために、彼女はこの白い薬に走ったんだろうか。

それほど、この薬は、すべてを無にしてくれるんだろうか。

「バカだな」

大悟は、煙草の煙と共に、呟きを吐き出すと、

――感傷に耽っている場合じゃない。この2つを売ってしまおう。

と新しいハコに向かった。

 
 

さっそく大悟は、一人で休んでいた女の子に声をかける。

「ねえ。いいもん持ってんだけど」

「えっ何?」

大音響の中、振り返った顔を見て、大悟は息を飲んだ。

瑞樹に、似ている。

「気持ちよくなるヤツ」

女の子の耳元に叫ぶように伝えながら、大悟は少し怯えた。

だけど、まったく違う匂いになぜか安心する。香水の匂いが強く香った。

「ちょうだいっ!いくら」

そんな甲高い声も瑞樹とはまるで違う。

だけど、こっちに走らせる大きな目は、まるで瑞樹だ。

赤毛ではあるが、長い髪をまっすぐにおろした髪型も、クラス写真の瑞樹を思わせる。

「1つ1万。残り2つだよ」

「いいじゃん。買う買うー」

女は明るくポシェットから財布を出した。

ピンク色のブランドの財布からためらいもなく万札を2枚出すと、大悟に渡す。

これで、商売は終了なはずだが、大悟はなんとなくその女から離れがたくて、隣に座った。

「ね。これ、そんなにスキ?」

大悟は女に話し掛けた。

「スキスキー、サイッコー!嫌なことぜーんぶ忘れちゃうもん」

言ってることまで瑞樹と同じだ。調子は全然違うが。

「嫌なことぜんぶ?」

「ぜんぶー、ぜーんぶ!」

とはしゃいだあとで、女は大悟に向き直ると

「アンタ、やったことないのォ?なのに何でー、持ってんのォ?へんなのおー」

そういってキャハハと笑った。

大悟の薬をヤル前からかなりハイである。

「1個、返してあげるからぁ、一緒にやるぅ?」

と女は親切そうに、いったんしまった大悟の薬を取り出そうとポシェットに手をかけた。

「いや、いいよ。先輩に言われて、ノルマ分売らないと、あとでボコられるんだ」

よく、とっさに言い訳が浮かぶものだ、と大悟は自分で自分に呆れる。

「へえ。コレ?」

女は、頬に人差し指で斜め線を描いた。そういう筋のものか、という意味だ。

そうやって大悟の顔を覗き込むようにすると、三白眼のようになる。

そんなようすも、ますます瑞樹に似ている。

「うん」

「かわいそー。じゃあさ、これ1個おごってあげるからさ。一緒にヤろうよ」

同情に眉根を寄せながらも女の目が潤んだ。大悟を誘っているのである。

「ヤる?」

大悟はわざとらしく訊き返した。

「これをぉ、ヤッて、ヤる」

女はそういうとキャハハと笑った。

 
 

大悟がバスルームから出てくると、先にシャワーを浴び終わってソファで待っていた女はいきなり抱きついて、口づけをしてきた。

女のマンションに来ている。もう3時近い。

すっぴんになると……、アイメイクがとれたせいか、それほど瑞樹に似なくなったな、と思いながら大悟は冷静に女と唇をあわせる。

ミカというこの赤毛の女は、21歳の大学生だという。

大学名は訊いてもわからなかったが、一人でこんなオートロック付きの、1LDKの小奇麗なマンションに暮らしているくらいだから、地方の金持ちの娘なのだろう。

大悟のほうは、念のために『ダイチ』と名乗り、年も20歳と誤魔化した。

「ダイチ……」

ミカはすでに恍惚として、知ったばかりの大悟の偽名を呼んだ。

大悟は、バスローブの襟元から手を侵入させ、ミカの裸の胸に触れた。

それは小柄な体に似合わず案外ボリュームがあった。

瑞樹のよりやや大粒の先端はすでに固まっている。

「ああん、待って。アレ……ヤろう」

ミカは大悟の両肩を掴んで離すと、いったんキッチンに入ってストローを持ってきた。

それを短く切って大悟に差し出す。

「これでね、鼻に吸い込むの。飲んじゃってもいんだけど。でも、こうすると、ホラ、スーッとしない?」

ミカは待ちきれないように、ソファのテーブルの上にかがみこんで、パラフィンペーパーの上の白い粉末を吸い込んだ。

大悟は、ミカの真似をしながら、別にスーッとなんかしない、と思った。

半分近くを粉砂糖で嵩増ししているからだろうか。

しかし女のほうは『スーッとしている』らしい。

「よくなってきたァ……」

と目がとろけてきた。慣れているせいの、条件反射だろうか。

「ねえ……、しよ。これしながらヤると、最高、なの」

恍惚とした目で、大悟を再び誘う。そういう目をすると、ミカは少し斜視のように見える。

大悟のほうは、たいして効果がないな、と思いつつ、いわれたとおりミカを寝室に連れていくと、リクエストどおり抱いた。

ミカはバスローブを脱がされただけで、よがり始めた。

空気だけでも感じるような勢いだ。

大悟は、女の体の各部分を、瑞樹と比べながら丹念にいじった。

――似てない。これは別の女だ。

いじられるだけで、女はまるでAV女優のように高い声で、景気よく喘ぐ。

その声は煩いほどだ。

しかし、だんだん大悟は愉快になってきた。

気が大きくなっている、と思った。

大船に乗ったような……漠然とした安心。

大悟は、瑞樹と似ていない女の体がだんだん好ましく思われてきた。

「ねえ……、ダイチ。きて」

もうすぐなのか、女がせつない声で訴える。

だが……あいにく大悟のそれは、固まっていなかった。

「なあに、まだ、なの?……いいよ、じゃ、あたしがやってあげる」

ミカは気前よく、体勢を交代すると、大悟のそれをとまどいもなく口にした。

気持ちいい。

瑞樹が生きていた頃、それをしてもらいながら……その巧さに我を忘れそうになりながらも

――将のヤツにも、何度となくやってたんだろうな。

ということは常に頭から離れなかった。

なのに今、大悟は、ただ気持ちいい。

ふわふわと花びらのよう空から降ってくる快感が、アレに集中していくようだ。

気持ちよさのあまり、何も考えられない。

「ねえ……、気持ちいい?」

ミカは大悟の先端をこきざみに舐めながら訊く。

「うん」

気持ちいいのに、大悟は勃たないのだ。

大きくはなったけれど……大悟の硬さはこんなものではない。

どこか、だらりとしているのだ。白い薬のせいだろうか。

だけど、そんなこと大悟は気にならなかった。

いや、大悟は、無重力のような感覚に浮かびながら、すべてのことから解放されていた。

ハゲ親爺一家の孫への罪悪感も。

就職の面接官の冷たい視線も。

血の飛沫になってしまった瑞樹も。

『この前科者が!』という罵声も。

帰らなくなった実の父も。

全部、大悟は思い出さなかった。

「……ねえっ!気持ちいい?……ねえ!」

叫ぶようなミカの問いかけすら、どうでもよくなっていた。

こうして……気がつくと大悟は『全部忘れられる』薬から離れられなくなっていた。

第222話 全部忘れられるもの(3)

「さあさあ、たくさんおあがり。遠慮しないでいいんだよ」

節子は蛍光灯で照らされたダイニングテーブルの上に、ちらし寿司を並べた。

上に切り紙のように散らされたマグロのヅケや酢で〆たコハダの身、いくら、薄焼き玉子にさやえんどうが彩りを添えている。

他にも鶏の唐揚げやマカロニサラダなどが次々に並べられる。

「口にあえばだがな」

とちゃぶ台で一服していた隆弘も笑いながら立ち上がってダイニングにやってくる。

「お。花なんか、飾るのは何年ぶりだね」

テーブルの上のスイートピーの花を目にとめて、隆弘がおどける。

「大悟くん、そんなところに突っ立ってないで、座りなさい。……ホラ」

「ハイ」

大悟は、西嶋夫妻のあまりの歓待ぶりに、テーブルわきでぼけっと突っ立っていたのだ。

「今日は、呑みなさい。無礼講だ」

やっと席についた大悟のコップに、隆弘は有無をいわさず、ビールを注いだ。

「あ、ありがとうございます」

大悟はおずおずとコップに手を添える。

最後に、筍とワカメの吸い物を並べ終わって、節子も席について

「じゃあ、大悟くん、誕生日おめでとう!……乾杯」

と隆弘が音頭を取って3人はコップを触れ合わせた。

「さあ、大悟くん。いっぱい食べてね」

「ハイ」

料理の花畑を最初に崩す権利を与えられて少しドキドキしながら、まずはちらし寿司を皿に取る。

こんな風に誕生日に、『ごちそう』をつくってもらうなんて、何年ぶりだろうか。

中学のときに、カオリさんが羽振りよくフランス料理を奢ってくれたことはある。

そういえばキャビアやフォアグラなんてものはあのとき初めて食べたがそんなに旨いとは思わなかった。

しかし……手作りの料理で祝ってもらうのは、もしかして母が出て行って以来だからもう10年以上ぶり、ということになる。

どんな料理をつくってもらったのかも、もはや記憶にない。

「どう?」

節子が大悟の顔をのぞきこむように微笑んだので大悟はあわてて、口にしたちらし寿司のほうに意識を集中した。

それは、甘めの酢メシに、甘い薄焼き玉子、そしてヅケになって醤油味のマグロが、家庭的な甘じょっぱさをつくりだしていた。

「美味しいです」

大悟は微笑み返した。

本当は酢メシはもう少しさっぱりしていてもよかったが、自分のためにわざわざ作ってくれた料理、というだけですでに美味しかったのだ。

「……よかったわぁ。ちらし寿司なんて久しぶりだから料理の本ひっくり返しちゃったのよ。よかったら、こっちの唐揚げも食べて。これは自信作なの」

と骨付きの唐揚げを勧める節子に

「お前、寿司メシちょっと甘いぞ。これ、いなり寿司の寿司メシだろ」

隆弘が文句をいう。酒飲みには少し甘い味だったのだろう。

「あらいいじゃない。おんなじじゃないの?」

節子は言い返しながら、ビールをあおった。大悟は、瓶を手にとった。

「……あら。ありがとう」

大悟にビールを注いでもらって、節子はにっこり微笑んだ。

「……しかし、君は、礼儀正しいな」

そんな大悟を見て、隆弘は思わず声をあげる。

「親御さんはさぞかし、きちんと躾けをされたんだろうな」

「いいえ」

思わず即答した大悟に、夫妻は、ややけげんな顔をした。

そんな夫妻のとまどう顔を見て、何か言わないと、と思いつつも奇妙な喜びを感じてしまった大悟である。

――まさか、鑑別所じこみ、とは言えないだろう。

親にほとんど躾けをされなかった大悟は、そこでほとんどの礼儀を叩き込まれたのだ。

もっとも食事のマナーなどは、カオリさんと将によるところが大きい。

中学時代、将のマナーを、カオリさんが褒めるのをまのあたりにして、大悟はこっそりと真似て体得したのだ。

「いえ。うちの親は……躾けどころじゃなかったと思います。借金まみれでいつも家をあけていましたから」

大悟は仕方なく事実を話す。

「そう……」

節子がややせつなそうに、目をしばたかせる。

この夫婦は……新しい『保護者』は大悟の過去をどこまで知っているんだろうか。

大悟は賑やかに喋りながら食事をする二人を盗み見た。

 
 

ちゃぶ台の前で付けたままになっていたテレビが、7時のニュースを報じ始めた。

『次に、今朝、愛知県○○市の○○港で……』

というキャスターの声に、思わず大悟の意識の1/3がテレビのほうに向く。

「もし、言いたくなかったらいいんだが、大悟くんのお父さんやお母さんはどうして行方不明なんだ?」

隆弘は大悟に訊いた。大悟の過去に何らかの傷があると、気を遣っているのがわかる、遠慮がちな口調だ。

しかし1/3の意識がテレビにいっている大悟は、

「母は僕が小さい頃に離婚したっきりで……、父は借金とりから隠れているうちに、家に帰らなくなったんです」

とそっけなく答えた。

テレビは依然、大悟の前の保護者であるハゲ親爺一家の死を報じている。

ただ、昼のニュースより情報が新しく、同居していた娘の行方がわからない、ということと、警察では一家心中の可能性で捜査している旨が報じられた。

「……いつごろから独りっきりなの?」

「えっ?」

新しい情報に意識の1/3どころか全部が集中していた大悟は、隆弘の質問を聞き逃してしまって聞き返す。

「お父さんとは、いつから会ってないの?」

「あ……、もう3~4年、いや5年ぐらい?」

大悟は目を宙に泳がせた。実際に『会った』のはいつが最後だっただろうか。本当に覚えていない。

ここ数年、父はときおり書き留めで金を送ってくるぐらいしか交流がなかったから。

しかし、家族と数年も会ってない事実を淡々とした様子で話す大悟は、西嶋夫妻にはかえってふびんに映った。

「お父さんも、お母さんもどこにいるかわからないの」

そういう節子の方が大悟よりつらそうだ。

「ハイ。……もう死んでるかも」

大悟はそう言い放つと、ビールをぐいっとあおった。

あの、元保護者のハゲ親爺が一家心中などするわけがない。

あれは、消されたのだ。借金を返せなくなって……たぶん保険金を掛けられて、闇金融のやつらに『一家心中をした』ように工作されたのだ。

たしか、自殺でも1年経てば、保険がおりる、というのを聞いたことがある。

そうやって、元保護者が消されるぐらいだから、大悟の父ももはや生きてはいないだろう。

大悟は、黙って唐揚げを手に取った。

それは、節子の自慢というだけあって、旨かった。

ニンニクの利いたしょうゆ味が香ばしい。

「これ、旨いです」

よどんだ空気を変えるため、というのもあったが、大悟は素直に口に出した。

「そう、よかったわ。うちの若い人たちにも好評なのよね」

節子も大悟に乗って、笑顔をつくった。

「大悟くんは……今、何をやってるの?」

隆弘の質問に、大悟は、どきん、と心臓が収縮すると同時に、そら来たか、と身構えて

「ハァ。ときどきハケンで働いてます」

「日雇いの?」

「ハイ」

これは嘘だ。ハケンはあの菓子工場以来行っていない。

もっぱら、大悟は今、瑞樹の遺した薬を売りさばいて稼いでいるのだ。

もっとも、家賃は将のマンションだからかからないし、食費も夕食は家政婦がつくりにくる。

朝や昼はその残りで充分なほどだったから、大悟が生きるのにお金はほとんど掛からない。

煙草代と酒代ぐらいだ。

こないだ、西嶋に手渡された5万も手をつけていない。

気がつくと大悟の手元には20万以上の金があった。しばらくは、『売人』をする必要もない。

プロの売人に追いかけられた大悟は、ほとぼりが冷めるまでのんびりしようと決めていた。

「大悟くん」

隆弘は箸を置いた。まるで正座をするように、きちんと座りなおす。

「もし、よかったら。ウチで働かないか?」

隆弘は大悟の目をまっすぐに見つめた。

……小さな町工場ながら、NASAで使われている光学機器をつくっている西嶋光学工業。

それは魅力的な誘いだったが、同時に大悟は、自分にそんな高度な技術を修得できるはずがない、と視線を落とした。

「だけど、僕……学校にもロクにいってませんよ」

「そんなのは、実地でどうにでもなる。なんだったら夜間高校でも通信でも行けばいい。私も、夜間高校出だ。だいたいうちの会社は学歴不問だ。学歴があっても不器用だったら話にならないからな」

ようやく大悟がもらした自己否定の言葉を、西嶋は即座に肯定に変えて見せた。

「実はな」

さらに隆弘は続ける。

「私らは、大悟くんさえよかったら……養子になってもらいたい、って考えているんだ」

大悟は落とした視線をもう一度上げた。

それは、先日将から聞いて知っていた。

あのとき大悟は、ひそかに『誰が養子になんか』と反発したものだが、あらためて本人の口から聞くと印象が違った。

それはとてつもなく、温かい誘いに思えた。

こんな風に、誕生祝いをしてくれる夫妻の養子になれば……闇に傾きかけた自分だが、お天道様の下に戻れるかもしれない……。

『この前科者が!』

そこへ元保護者のハゲ親爺の罵声が大悟の脳裏をつんざくように蘇った。

この夫妻は、大悟が『前科者』だということを知らないに違いない。

まっ白だと思っているのだ。

だから、こんな風に「養子にしたい」などと言い出すのだろう……。

大悟は、いったん目を伏せると、もう一度顔をあげた。

今度は大悟が箸を置く。

「……俺、鑑別所に入ってたんです」

隆弘、節子と順番に目を見ながら、それを打ち明ける。

「知ってるよ」

隆弘はあいかわらず大悟の目を見据えていた。

「そんなものは関係ない」

敢然と言い放つ隆弘に、大悟は、これでもか、と自分の過去を突きつける。

「俺が、何をしたか……知っていますか。人殺しですよ」

――本当は、俺じゃないんだ!

大悟は告白しながらも、心の中の……もっと奥深くで叫んでいた。

いつも、いつも叫んでいた。

裁判のときも。カンベツの中でも。『前科者』と怒鳴られているときも、就職を断られたときも。

それらの記憶が、大悟を俯かせた。

これで……さすがの西嶋夫妻も、諦めるだろう。

諦めて当然……所詮、自分は陽の当たる場所を歩く権利を放棄してしまったのだ。あの時。

無理に陽の当たる場所を歩いて、冷たい世間の風に吹き晒されるよりも、むしろ闇に惹かれるのは、親のDNAなんだろうか……。

ちらし寿司の上に、スイートピーの上に、沈黙が降りていた。

しかしそれは長くならないうちに、隆弘によって打ち切られた。

「……知っているよ。正当防衛だろう」

そういうと隆弘は立ち上がった。

大悟は驚いて、こちらに歩み寄ってくる隆弘を見上げた。

すべてを知ったうえで、そんなことを申し出てくるのか。大悟は目を見開いて、隆弘の顔をよく見ようとした。

隆弘は大悟の傍らに寄ると、ちゃぶ台の奥を指差した。

「ごらん。君が直した、大和だ」

箪笥の上の薄暗がりに、先日、大悟が修理した戦艦大和があった。

「大悟くん、君は、マニュアルもなしで、あれを修理したんだ」

隆弘は穏やかな口調で大悟に語りかけると、膝の上に押し付けられた大悟の右手を取った。

節ばってはいるものの、長い指をもつ手を隆弘はしげしげと眺めた。

「君の手は、こんなにも器用だ。……この手はこれから、いろんなものを創り出すだろう。その指を切り取ろうとするような輩から君は自分を守ったんだ」

気がつくと大悟は、涙を流していた。

みっともない、と思ったけれど温かい涙は、止まらなかった。

「そうだよ。そうなんだから。大悟くんが悪いことなんて、ちっともないんだから」

と言いながら節子ももらい泣きしていた。

 

結局、大悟は、プレゼントのシャツに、残った唐揚げをお土産にもらって、西嶋家をあとにした。

「ウチで働く件と養子の件、ぜひ前向きに考えてくれ」

と帰り際に、隆弘は大悟の肩を握るように手を置いた。

すでにいろいろなものを創り出しているその手は、大悟と同じく長い指を持ち、温かかった。

藍色になった夜空の下、ドアから漏れた山吹色の光に照らされて、夫婦は外階段の上からいつまでも大悟を見送っていた。

優しさに、そして温かさに慣れない大悟には芝居じみているように感じられるほどの、いままでの生涯で一番幸せな誕生日だった。

しかし幸せは……陽のあたる場所で暮らせる幻想は一瞬だった。

その夜から、大悟は元保護者の悪夢にうなされることになる。

第221話 全部忘れられるもの(2)

ピンポーン。

「ん……」

大悟は、目を閉じたまま、布団の上で身をよじった。

あれから……明け方にマンションに帰ってきた大悟は、着替えもせずに万年床の上に倒れこんだのだ。

チャイムは再び鳴った。軽く戸も叩かれる。男性の声で

「郵便でーす」

と聞こえて大悟はようやく目をあけた。

瞼が粘りつくようにまだ重く、思わず眉根が寄る。

――なんで郵便がここまで来るんだよ。

と心で悪態をつきながらも、大悟は起き上がると、だるい体をひきずるように玄関へ向かう。

もうずいぶん陽が高いようだ。

カーテンをあけっぱなしにしていたリビングの窓から、真昼のバルコニーの照り返しが入ってくる。

「ハイ」

玄関に立った大悟は、投げるように返事をしながら無意識に頭を掻く。

シャワーを浴びなかったので少し頭がむずむずする。

「鷹枝さんに郵便ですが、郵便受けに入らなかったので持って来ました」

とドアの外から聞こえる。どうやら、本当に郵便局員らしい。

大悟はドアを開けると、その大きな封筒を受け取った。

封筒は大きいだけでなく、相当な厚みがあって、それで郵便受けに入らなかったらしい。

「なんだこりゃ」

と独り言をつぶやきながら大悟は、そのカラフルな封筒に、先日将と一緒にモデルのバイトをした雑誌のロゴがついているのを見つける。

『見本誌在中』とある。

手触りから自分の分も入っているのだと判断した大悟は、少し迷って封を開ける。

中に、フリー編集兼ライターの美智子からの手書きメッセージが入っていた。

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将くん、大悟くん

先日はお世話になりました。

記事、めっちゃいい出来です。二人ともカッコイイ。

見本誌を1冊ずつと、読プレのために作ったオリジナルTシャツを1着ずつ入れておきます。

グラフィックデザイナーの××さんの作品なので、

私は結構気に入ってるんですけど……。

じゃあ、また何かあったらよろしくお願いします

幸田美智子

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大悟は、ビニールに入っていたそのTシャツを広げてみた。

白いプレーンなTシャツの中に、大胆かつ粋に大きな柄がデザインされ、小さく雑誌のロゴが入っている。

2着あるが、お揃いじゃなく違う柄を入れてくるところが、お洒落な美智子らしい。

あまり金がない大悟にはかなり嬉しいプレゼントだ。

あと3週間近く帰ってこない将を待つ必要もなかろう、と大悟は自分の気に入った方を遠慮なくいただくことにした。

そのまま、雑誌をパラパラとめくる。

『街のベストジーニスト2007上半期』

という大きなタイトルはすぐに見つかり、大悟はそこを開いた。

次の瞬間、目を見開いた。

その、企画のタイトルページ見開きの左1ページ丸ごとの大きさで、将の写真が使われていたからだ。

フ、と鼻から息をもらして、知らず頤を傾けて斜め下に雑誌を見下した。

大悟は、次の見開きの上のほうに1/4Pの大きさで掲載されていた。

いちおうその見開きの中では一番大きいメイン扱いだ。

あのとき一緒だった、他のモデルたちも同じ大きさで、それぞれ見開きのメイン扱いになっている。

大悟も一般の読者に比べると、格段に大きい扱いだが、それにしても将の扱いは別格だ。

将のところだけ、まるですでに人気があるタレントが出現したようだ。

ヘアメイクにスタイリストがついたせいもあり、普段の将より数倍もイケている。

大悟も、まるで自分ではないような出来栄えだが、将のイケ方と比べると地味なように感じられた。

「ケっ」

大悟は雑誌をソファの上に放り投げた。投げたあとで、ちょっと恥かしくなる。

――まるで将に嫉妬しているみたいじゃないか。

――将は、いまや、本物のタレントなのに。

そう自分に言い聞かせる。

親友に対して、みっともない嫉妬はしたくない。そんなプライドはまだ大悟にもあった。

だがその直後に

――殺人者が、タレントか。

というフレーズが心に浮かび、大悟はギョッとした。

――何を考えているんだ。

大悟は頭をブンっと振るうと、大きく伸びをした。

なんか、ムカついているのを、汗ごと流してさっぱりしようと、大悟はバスルームへ入る。

 
 

トランクスとTシャツ姿でバスルームから出てきた大悟は、頭を拭きながら、冷蔵庫をあける。

今日も五月晴れのせいか、マンションの部屋はかなり気温が上昇している。

大悟は何の迷いもなく缶ビールを取り出すと、そのリップを立てる。

真昼の明るさも、もはや彼の飲酒になんの歯止めにもならない。

缶ビールは喉元で冷たく、腹に意外に熱く染みた……それで大悟は自分の空腹に気づく。

あいにく冷凍しといた残り物も尽きているようだ。

外に買いに行くのも面倒なので、大悟はカップ麺で済ますことにした。

ビールを飲みつつカップ麺のフィルムを破いて、お湯を火にかける。

ちょうどそのとき、部屋で携帯が鳴った。

あわてて、部屋に携帯を取りに行き、台所に戻りながら表示を見る。

『西嶋』と表示されていた。新しい保護者である。

「ハイ」

大悟はビールを一気にあけてしまうと、通話ボタンを押した。

「あ、大悟くん。西嶋の家内です……元気?」

「ハイ」

保護者が何の用だろう、と大悟はいぶかりながらも、いちおうハキハキと返事をしておく。

本当は「そちらはいかがでしょうか」と訊くべきなのだろうが、節子だけでなく社長の隆弘のことまで訊かないといけないだろう。

いちいちそれをするのが面倒くさくて、大悟は自分の返事を短くしたきり黙った。

しかし節子は、そんなことに構わないように本題に入った。

「大悟くん、今日、お誕生日よね」

「ハ……」

言われて初めて気づいた。今日5月8日は大悟の誕生日だった。

「18歳になったのよね、おめでとう」

大悟は、一瞬言葉が出なかった。

誰かに誕生日おめでとう、と声をかけてもらうのは何年ぶりだろうか。

「……ありがとうございます」

かろうじて、口ごもるようにだけど、返礼が出来た。

「それでね。たいしたものじゃないんだけど、プレゼントを用意してるの。もしよかったら、今日、うちに夕食を食べに来ない?主人も待ってるから」

「ハ……」

大悟は迷った。

将がらみの保護者なぞ、できるだけ頼りたくない。

そう思うのは、親友として将と対等な立場でありたい、大悟のプライドである。

だけど……すぐに断ってしまうには……、かの人たちの温かさは勿体なさすぎた。

「あくまでも予定がなかったら、だけど。今日は仕事は遅いの?」

節子はてっきり大悟は仕事中だと思っているらしい。

「い、いいえ」

仕事をしているのではない、という意味の返事をするつもりで、大悟はつい、予定がないという意味にもとれる否定をしてしまった。

「じゃあ、ちょうどよかったわ。ぜひ来て。ね?」

大悟はとうとう断る言葉を見つけられないままに、電話を切ることになってしまった。

気がつくと、お湯がシュンシュン沸騰していた。

それをカップに注いでしまうと、ソファーの前のテーブルにもっていきながらリモコンでテレビを付けた。

ちょうど、昼のニュースの時間らしい。

『次のニュースです。愛知県○○市の○○埠頭で車が沈んでいるのが発見され、中から4人が遺体で発見されました……』

あくまでも麺が出来るまでの暇潰しなので、画面に目をやっていても、内容は頭に入っていない。

大悟は、バラエティに変えることもなく、そのままの画面にして、麺ができるのを待つ。

『4人は死後1週間程度が経っており……』

大悟はそれを耳の端でとらえながら、1週間も経ってるんじゃ、さぞひどい姿だろうな、と想像した。

中学時代に一度、将と一緒に『カオリさん』の部屋のパソコンでグロ画像を見てしまったことがあるのだ。

だがそれへの想像くらいで、目の前のカップ麺への食欲がなくなることはない。

『車のナンバーから、○○市在住の××さん夫婦とその孫の△△ちゃん……の4人と見られています』

聞き流していた大悟は、○○市在住の××さん夫婦、のところでふと目をあげた。

脳が、記憶しているデータとの一致を告げて、大悟はあっと声をあげた。

鑑別所を出た大悟が預けられていた遠い親戚……つまり、大悟の前の保護者だったからである。

第220話 全部忘れられるもの(1)

深夜の埠頭を大悟は走っていた。追っ手から逃れるように。

東京の夜は、こんな夜更けでもほんのり薄明るく、小山のように積まれたコンテナが黒い影を空に映し出している。

その中を懸命に走る大悟のあとを2人の男が追う。

コンテナと倉庫が連なる埠頭は静まり返って、追っ手の靴音だけが響く。

大悟のそれは……子供の頃から生きるための犯罪に長けた大悟の足音は、走っていてもあまり響かない。

音を立てずに出来るだけ早く走る術を知らず知らずのうちに体得していたのだ。

大悟は、倉庫と倉庫の間の狭い通路に身を滑り込ませる。

ふだん人が通らないそこには、何だか知らないが膝の上までの背丈の雑草が通せんぼをしている。

こんな環境の悪いところでも、雑草は生えるのだ。

しぶというというか、けなげというか。

一瞬、芽生えた感情ごとそれを踏んづけて、大悟はそこを素早く通り抜ける。

通り抜けたところに錆びた扉が開けっ放しになっている倉庫があった。

大悟は持ち前の嗅覚でそこが安全であることを瞬時で判断すると、中に入る。

そして素早く携帯であたりを照らすと、ドラム缶の陰に身を潜め、携帯を畳んであたりを暗闇に戻した。

静けさと塗りつぶしたような闇の中、鈍く響く心臓に『静まれ、静まれ』と囁きかける。

ここは、思ったより湾に近いらしい。

落ち着きつつある大悟に、べったりとした油が混じった、腐ったような潮の匂いが忍び寄ってきた。

「いたか!?」

大悟のいる倉庫の裏のほうから、男のざらついた声が聞こえて、大悟は身構えた。

「……ダメだ、見失った」

若干、若い声。へばっているのか、言葉の前後につらそうな息が混じる。

「……クソっ!」

という声と共に、ガン!という大きな音がした。それは大悟のいる倉庫にも小さくこだました。

たぶん、追っ手のうちの1人がそこらにあったドラム缶か何かを蹴ったのだろう。

しかし、それっきり、男達の声はしなくなった。

諦めて、帰ってくれたらしい。

だが、大悟は用心して、小1時間ほどはそこに身を潜めていた。

ようやく、倉庫から出た大悟は、目の前が湾であることに気づいた。

真っ暗だった倉庫の中に比べると、外は昼間のように明るい。

重油を流したような黒いよどんだ海の上に、東京にしては珍しくきれいな星空が広がっていた。

大悟は、それを眺めながら、ほっとため息をつくと、煙草を取り出した。

本当は煙草より、水がほしい。走り回ったおかげで喉がカラカラだ。

だが、大悟の火をつける仕草に一切のムダはない。煙を吐き出すと、目を細める。

そして……ウェストポーチに入れた、札を取り出して数える。

6万あった。

――まずまずか。

そしてウェストポーチの中に残っている白い薬を取り出す。

白いパラフィンペーパーに包まれている『売れ残り』はあと1つだった。

それをさばいてしまおうとしているときに、アイツらに見つかったのだ……。

 
 

この埠頭地区にある倉庫の1つを使って、ダンスパーティがあった。

広い倉庫を使ってのダンスパーティは、とある大学サークルが主催したものだ。

倉庫といいつつ、音響設備はいいものを使っていたし、DJもプロを呼んでいる。セミプロのダンサー達もパーティの盛り上がりに華を添えていた。

今から2時間ほど前、大悟はそこにもぐりこんで、瑞樹が残していったあの薬を売っていたのだ。

脱法ドラッグでもない……おそらく本物の覚醒剤。

GW前のある日、大悟は思いついて、瑞樹が残したセロファンに入った薬を出した。

それは将に見つからないように、厳重に隠してあった。

セロファンに入った微量の粉末を、注意深くさらに半分にして、若干の粉砂糖を混ぜて嵩増しをする。

それをパラフィンペーパーで丁寧に包みなおして、試しに3つだけ持ってパーティに潜入した。

大悟が1つ1万と値をつけたそれは、あっという間に売れた。

そこに15分もいる必要がなかったほどだ。

それに味をしめて、GWが始まった頃から、パーティにもぐりこんでは、おとついは5つ、今日は6つと売り始めたのだ。

さっき大悟を追っていた男達は、別の……おそらく暴力団が関与しているプロの売人だろう。

まるでナンパするような何気なさで、化粧の濃い、頭の弱そうな、でもお金を持ってそうな女の子に『商談』を持ちかけていた大悟は、後ろから肩をつかまれた。

「何してる」

一見、どこにでもいる普通の男だった。

ジャケットを粋に着こなしているが……そこにいる一般の客と微妙に年齢がずれているのと、その目がいやに鋭いのを大悟は瞬時に察知した。

察知したのと同時に脱兎のごとく逃げ出して……今、ことなきを得ている。

もし捕まっていたら。

――指を詰めるぐらいじゃ済まないかな。

最悪、この埠頭に浮かんでいるかもしれない。

大悟は、目の前の黒い波に、両手の指をかざした。

今も10本揃っている指は……将のおかげだともいえる。

大悟は煙草を海に投げ捨てた。

ちなみに将にメールで伝えた、履歴書に西嶋さんにハンをもらってバイトに行っている、というのはまったくのウソだ。

大悟はバカらしくなったのだ。

大悟が、アルバイトで1日必死で働いても1万にもならない。

それが、こんな薬が10分ほどで3万にも化ける。

瑞樹はまったくいいものを残してくれたものだ、と思う反面、高価なこんなものを買ってまで楽しむやつっていったいどういう心境なんだろうか、とも思う。

思えば、瑞樹はこの薬に激しく依存していた。

あんなふうに隠し持っていたのも、大悟のように他人に売るためではなく、自分に使うためだろう。

おそらく、瑞樹は……この薬と一緒に入っていた、下着や玩具を使って、過酷な稼業をしていたのだ。

そういう仕事の内容について、大悟も聞いたことがある。

極めてプライベートなパーティなどに呼ばれて、『奴隷』や『家畜』として弄ばれて、引き換えに高額な謝礼を得る……おそらく瑞樹はそれに近いことをしていたのは間違いない。

そんな仕事をさせられるのは、たいてい借金漬けになった女たちだ。

しかし、瑞樹はそんな仕事をするほどにまで、あの薬に魅せられていたのだ。

瑞樹はいつから、またどんなきっかけで、この薬に頼るようになったんだろうか。

大悟は売れ残った1つを手に乗せて見つめた。

ふいに……自分もやってみようか、という気が起きる。

やってみれば……何もかも忘れられるんだろうか。

パラフィン紙に覆われながらも、その白い悪魔は、大悟をしきりに誘い始めた。

と、そのとき、湾から油臭い風が吹いてきて、掌の上の包みを吹き飛ばした。

「あっ!」

大悟はまるで万札が飛ばされたように、包みが飛ばされたほうに駆け寄る。

幸い、包みは、大悟より2歩後ろのひび割れた埠頭のアスファルトの上に落ちていた。

――ふん。こんなもの。

大悟は、その包みを、何事もなかったように、もう一度ウェストポーチにしまうと、湾に背を向けて歩き出した。

大悟の背中の空は、わずかに白み始めている。

第219話 自分の道

「真剣に何の話してたの?」

タクシーの中で、篠塚が将に訊いた。

篠塚はフランス語がほとんどできないので、将とロマーヌの会話が理解できていなかったのだ。

「いろいろ……。将来のこととか」

将は窓の外の暮れていくパリの街に目をやりながら答えた。

今の時期のパリは、暮れはじめてからが長い。

長い夕暮れは夜の8時すぎまで続くのだ。

「そう。かなり勉強になったみたいだね」

「ハイ」

将は素直に答えた。

彼氏の話をする愛くるしいロマーヌは、一方で自分の人生もまじめに考えていた。

人生で一番大事な時期だから、彼に会うのも我慢できるという。

もし、自分が失敗したら、彼の方が悲しむだろう……。

そんなロマーヌの言葉に将は聡とのことを考えずにはおれない。

将とはもう付き合えない、ただの教師と生徒に戻るべきだ、といった聡を将はひどい、と思った。

あんなに愛し合っていたのに、どうして急にそんな残酷なことが言えるのだろう、と恨みかけさえした。

だけど。今ならわかる。

聡は、将のためを……将の人生を思ってあんなことを言ったのだ。

それは

『あたしのために、何でも捨てちゃう将が心配なの』

という言葉にも表れている。

 
 

『アンドレってばね。毎日メールで、今日は何の勉強をしたか、ってチェックを入れるのよ……おかげでサボれないわ』

ロマーヌはあれからさらに嬉しそうに付け加えた。

『あのさ。バックを控えた人はみんな、恋人と会うのを我慢してるの?』

将は訊いてみた。人生の局面と恋は両立できないのか、と思ったのだ。

『ううん。会ってる人もいるよ。我慢できないんでしょうね』

ロマーヌはうっすらと笑った。

それは、自分のことかもしれない、と将は思った。

『でもね。アンドレは違うの。彼は本当に私のことを考えてくれてるから……。

だいたいバックが終わるまで会うのを控えよう、って提案したのはアンドレのほうなの。彼自身すごくバックで苦労したらしいから……』

もし彼が、自分のことしか考えないのだったら、ロマーヌの試験のことなど考えずに、毎日のようにデートしてるはずだ、とロマーヌは熱い目で語った。

 
 

そのとき将を世界と隔てていた硬いガラスにひびが入り、それはあっさりと瓦解した。

そこから温かいものがなだれこんできて、将の心はそれに浸された。

わかっていたはずなのに。

わかろうとしなかった、それに耳を塞ごうとしていた甘えた自分。

ぬくぬくとした、二人の時間を守ろうと、ただそれだけに必死になっていた。

だけど、聡は。

もっと先を……今の将だけでなく、将の可能性を含めて将を大事に思っていてくれたのだ。

将が見つめるパリの空に、聡の顔が浮かぶ。ベソをかいた顔。

8歳年上とは思えない泣き虫の聡。二人のときの、甘えん坊な聡。

しかし、彼女は二人の刹那だけでなく、遠くを見据えていたのだ。

見捨てられたのではなく、もっと深い愛情に包まれていたのだ……。

――自分は、聡のために、今、何ができるだろう。

西の空を眺める将の瞳が、澄んだ空の色を映している。

 
 

今日の宿は、パリ市街にあるプチホテル・Mだ。

ここに撮影も兼ねて2泊することになっている。

クラシックなしつらえの部屋と、モダンなしつらえの部屋の2通りがあり、将はモダンな部屋を割り当てられている。

モノトーンで統一された部屋に入った将は、昨日とは違った気持ちで、ベッドに身を投げ出した。

昨日はただ重かった体だが、今日はその重みが『生きている』という実感を伴っている。

何かをしなくては。そんなパワーが重みに転化しているのかもしれない。

将は仰向けのまま深呼吸をすると時計を見た。まだ19時になったところで、空は明るい。

このあと、近くのレストランにリヨン料理を食べに行くことになっている。

軽い空腹を感じて、その空腹感が久方ぶりだったことを将は思い出した。

この3日間、空腹感も食べたものも、何も他人事だったのだ……。

将は今日の昼食べた、ブルターニュ風のクレープを思い出した。

目玉焼きとソーセージ、チーズを、そば粉入りの甘くない生地で包むように畳んである。

その味を今ごろ、舌の上に再現する。子供の頃に何度か食べた懐かしい味だ。

シードルも日本では飲めない、濃いものだ。

空腹の将が、食べ物のことを思って時間をつぶしていると、ベッド近くにある電話が鳴った。

武藤だろうか。

夕食に出発するというのだったら嬉しい……将はベッドの上を這って電話に出た。

フランス語だった。

「ムッシュウ・タカエダに日本のマダム・コジョーから電話です」

リラックスしていた将は、フランス語を理解するのに1拍、マダム・コジョーが誰かを判別するのに1拍ほどの時間がかかった。

返事もしないうちに、

「将……」

とどんな音楽よりも聞きたかった声が受話器から聞こえてきた。

「アキラ!」

将は思わず飛び起きて、ベッドの上で正座をした。

「将……、元気?」

「う、うん。元気、だよ。って……アキラ、今そっち何時?」

「2時すぎ……」

将は急な聡からの電話に、何を話せばいいのかわからない。

地球を1/3回転して……ユーラシア大陸を越えて、宇宙の衛星を中継して、届いた聡の声。

あまりにも嬉しすぎて、将は胸が苦しく感じた。

 
 

聡も、武藤から教えられた番号を押しているときから、鼓動が乱れていた。

交換台が出て、待っている間も……ずっと心臓は痛いほどに乱打していた。

そしてついに将が出たとき。それは動きを止めてしまうのかと思うほどに、キュッと収縮した。

さっき、日本時間、22時すぎ。

わざわざ国際電話をかけてきてまで、武藤が聡に依頼したことが、まさにこれだった。

『実は……将が、元気がなくて、撮影が難航しているんです』

『……ハイ』

冷静に相槌を打ちながら聡は、ああ、やっぱり、と額に手をあてた。

やはり、自分が出発前にあんなことを言ってしまったせいで、将に影響を及ぼしてしまった。聡は後悔する。

『それで、古城先生に、彼を励ましていただきたいんです。彼は……将は、古城先生をとても慕っていると聞きました。古城先生にお電話で励ましていただければ、将も少しは元気がでるんじゃないかと思って……』

武藤は『古城先生を慕っている』という言葉を使った。

あくまでも、聡が将の恋人だと知っているとは言わなかった。

だけど、聡にはわかっていた。

武藤は、自分と将の関係を見抜いていると。だからこうやって、わざわざ電話をかけてくるのだ。

それはいいとして……、付き合えない、と宣言した将をどうやってなぐさめるのだろうか。

『私に……、鷹枝くんを励ませるでしょうか』

『ええ。古城先生にしか、彼を元気付けられる方はいないんです。どうか、ぜひお願いします、古城先生』

武藤の真摯な熱意は、国際電話を通しても聡に十分に伝わった。

だから、聡は引き受けてしまったのだが……こうして、将と実際に電話が繋がっても、何を話していいのかわからない。

どうやって彼を励ませばいいんだろう。

『やっぱり付き合える』といえばいいんだろうか。

いっそ、そう言って、自分の言葉を無効にしてしまいたい、元通りに将と一緒にいたい……そんな気持ちも聡の中には、依然存在するのだ。

「将……」

こうして名前を呼ぶことしかできない。

国際電話料金が高いのは知っているけれど、こうやって無為な時間が流れていくのを、聡にはどうすることもできない。

「……アキラ。俺さ」

将の声が無為な回線を有為に変える。

「アキラの気持ち、わかったから」

思わず、携帯を握る聡の目から涙がこぼれ落ちた。

「俺、とんでもなく子供だったよな」

静かな調子の将の声。

「目が覚めたよ、俺」

「しょう」

将は、遥か遠くの聡がすすりあげるのを聞いた。

「アキラ。俺、アキラの気持ちに、絶対に応える」

将は、自分で自分の考えを1つ1つ確かめるように言葉をつむぎだす。

「俺のやりたいことが、芸能界なのかはわからないけど……。でも、とりあえず頑張ってみる。そして、アキラを心配させないでいいような、大人に1日も早くなる」

涙は、もはや、とめどなく聡の頬を流れ続けている。

「しょう……」

「誰も文句を言えないほどの実力をつける。何年かかっても。……そしたら、アキラを迎えに行くから、絶対に」

何をすればいいのか、何をするべきなのかは、あいかわらず将にはわからない。

だけど、聡のために、自分をせいいっぱい生きていく。

将には、未来へ続く自分の道が見える気がした。

「アキラ、愛してる」

将は、何度か言った、この言葉に、今までにないほどの想いを込めた。

「将、あたしも。……あたしもよ。将が大人になるのを……待ってる。ずっと待ってるから」

今は、流れる涙と一緒にほとばしる気持ちを将に伝えたい。聡は思わずそれを声にしていた。

いつか大人になった将は、自分を忘れるかもしれない。

だから、愛の言葉を伝えるのはこれが最後になるのかもしれない。

そんな哀しい予感を……聡は抱えている。

「将。私は、将だけを愛してる。ずっと……、ずっとよ」

「アキラ」

ついに将の目からも涙がこぼれた。

聡の言葉に、何かの予感が感じられて、それが無意識に将の感情を動かしたのだ。

「将……。頑張って。ずっと見守っているから……」

「アキラ……、頑張る。頑張るから、俺」

このままずっと地球の1/3の距離を結ぶ回線を離したくなかったけれど、明日も学校だから、と聡のほうで電話を切った。

聡は、電話を切ってからも、ずっと涙が止まらなくて……おかげで、翌朝、瞼がひどく腫れてしまった。

将のほうは、少しだけ涙が残ったが、新しく勇気が湧いてくるのを感じていた。

……後年、将はこのときを、自分を変えたターニングポイントのうち、重要な1つとして振り返ることになる。

二人は、新しい局面を迎えようとしていた。

第218話 幼なじみ(3)

「ね、ロマーヌ、頼みがあるんだけど」

篠塚がロマーヌに英語で話し掛けた。

「あのさ。君たちが話してるところを撮影させてくれない?」

篠塚はジャケットのポケットから小さなデジカメを取り出した。

ここに来るのにもカメラをちゃんと用意して来ていたのだ。

英語でロマーヌにそう頼んだあと、

「今、ちょっといい顔してるからさ」

と日本語で将に囁く。

ロマーヌは

「ええっ!私が、写真集に載っちゃうの?パリでも買えるかしら」

とおどけながら快諾した。

そこで篠塚はまずはカメラ目線の二人の姿を撮影した。

「SHOの昔の彼女、スクープ……」

と小さくふざけながらシャッターを切る。

あとは二人で適当に話してて、と篠塚は席を離れて撮影に没頭する。

「ふふ。緊張しちゃうわ。ショー、お母さんは元気?」

将の母・環を知っているロマーヌはテーブルに肘をついたまま、髪をいじりながら訊いた。

そんな仕草もなんだか、パリジェンヌっぽい。

だが将は、なごやかな雰囲気を壊す事実を伝えないといけない。

「日本に帰って、すぐに死んだんだ」

できるだけ、もう過去のこと、というように話したつもりだったのに、ロマーヌは大きな青い眼をまた見開いた。

「なんてこと……。そう……。ヘンなこと訊いてごめんなさいね」

「もう10年も前だから、気にしないで。……ところでロマは、リセ(高校)にいってるんだよね」

将は話題を変えようとした。

「そうそう。今、私は人生の一大難局に立たされているの」

ロマーヌはコミカルなほどに顔をしかめた。

将には『人生の』に続く言葉の意味はわからなかったが、その大げさな表情で、ロマーヌも話題を変えることに協力してくれているんだとわかった。

ロマーヌも、幼い頃に父母が離婚し、母がいない寂しさについては身にしみているのだ。

「あと1ヶ月でバックが始まっちゃうから……」

とロマーヌは続けた。

「バック?ああ、バカロレアね」

それは将も聞いたことがある試験だ。

『バック』、つまりバカロレア試験はフランス全土の高校3年生に対して行われる、高校卒業資格認定試験だ。

その厳しさは往年のコメディ映画『ザ・カンニング』でも揶揄されているが、

何しろこれに合格しないと『スーパーのレジ打ち以上の仕事に就けないぞ』と高校生(リセアン・リセエンヌ)は皆、教師から口を酸っぱくしてどやされるという。

教科はおよそ20種類にも及び、その中には哲学やmentionといわれる面接・口述試験なども含まれる。

また、良い大学に進むためにはこれで高得点を取得する必要がある。

つまり、フランス人の人生の鍵を握る試験なのである。

ロマーヌは頬杖をつくと、ため息をついた。

「理工学校に行きたいから、頑張らなくちゃ。彼氏にも会うのも我慢して毎日勉強なのよ」

彼氏、のところでチラリと将のほうに目をあげた。

「ロマ、彼氏いるんだ」

と、誘いに乗ってあげる。彼氏のことを話したいんだろうと思ったからだ。

それは図星だったらしく、ロマーヌは今までで一番愛くるしい笑顔で微笑んだ。

ちょっと頬がばら色に染まった気がする。

「うん。ショーには悪いけど。大学生なのよ」

そういいながら、ロマーヌは立ち上がると自分の部屋にいったん入って、写真立てごと1枚の写真を持ってきた。

そこにはロマーヌと恋人が肩を組んで写っていた。

「彼はアンドレ。ほら、ちょっとショーに似てるでしょ」

将はウソ、と思った。そこには某地方の地タレから俳優になったあの人に似ている男が写っていた。

背が高いところ以外で将との相似形を探すのは難しかった。

「や、優しそうじゃん」

将はお世辞の言葉を探した。

「優しそう、じゃなくて本当に優しいの」

ロマーヌは将のほうなど見ずに、写真に見入っていた。

「でもずっと会ってないの」

「何で?」

将はキョトンとした。

「やーね!勉強しなくちゃいけないからに決まってるじゃない」

ロマーヌがあまりにも早口だったので、将は目をパチパチとさせた。

「ああ」

ロマーヌは自分が早口すぎたのにきづいて

「あたしね、建築家になりたいの。そのためにはぜひ理工学校に入りたいんだけど、バックで高得点を取らないと、受験資格も与えられないの」

とゆっくり話す。

「彼に会ったら、虜になってしまって勉強が手に付かなくなっちゃうでしょ。だから彼と会うのを我慢してるの。……今、私の人生で一番大事なときだから」

ロマーヌは頤(おとがい)を傾けて、写真の中の彼に見入った。

「会えばいいじゃん?アンドレに」

あまりにもロマーヌがせつない顔をしていたので、将は思わず口走ってしまう。

「ダメよ!」

ロマーヌはキッと将を睨んだ。

「今は人生で大事なときだもん!」

「会いたいときは会うのが自然なんじゃないの?」

そういった将の心には、はっきりと聡が浮かんでいた。

「試験より、彼といる方が大事なんじゃないの?彼がいれば人生なんてどうにでもなるんじゃないの?」

と言いながらも、将はその言葉が、あまりにも現実離れして甘いことに気づいていた。

そして聡といるとき、そんな風に思っていた自分の……甘さにようやく気づく。

「ショー、何いってんの?彼とは試験が終われば会えるけど、試験のやり直しは……人生のやり直しは利かないのよ」

ロマーヌは少し軽蔑するように言い放った。

ロマーヌの口調に気づいた将は、言い方を変えてみる。

「アンドレだって寂しがってるんじゃない?」

「ううん。……アンドレだってわかってる」

ロマーヌは再び視線を写真のほうに落としながら首を横に振った。

「それに……アンドレのせいで、私が試験でひどい成績を取ったら……。理工学校に行けなかったら、きっと彼は自分のせいだ、って苦しむと思う」

将はドキッとした。

聡が言っていた言葉と重なる。

「彼は、私の人生を理解してくれてるから……。今が人生で一番大事なときだって、彼が一番よく知ってるから……彼のためにも頑張らないといけないの」

ロマーヌは何度となく『人生( ラ・ヴィー )』という単語を使う。

それを発音するとき、きついほどに口角を横に広げる。それはロマーヌの決意の表れのようだった。

将は考え込んだ。

同い年のロマーヌが、ここまで自分の将来を見据えている。

そのために、一時的に恋人に会えないのも、構わないという。

『今が人生で一番大事なとき』

というのは聡も……よく言っていた。

聡のためだったら、人生なんてどうでもいい。

そんな考えは甘いとどこかで自覚しつつ、いつも聡と一緒にいたい将はうそぶいていたのかもしれない。

だけど、自分は建築家になりたいロマーヌのようになりたいものがあるわけじゃない。

いや、だからこそ。

教師の聡は教壇の上でよく言っていた。

『就職は、スタートが自由な椅子とりゲームのようなものだ』と。

早く目標を定めてダッシュをした者が、より夢を叶える確率が高くなると。

『将来の目標を決めていない人は、いろいろと経験を増やして、早く自分がなりたいものを見つけるために、人の数倍は行動してください。

なんにもなりたいものがないから、といってダラーッとしてたら、結局、面白くも給料も高くない仕事をやるハメになる確率が高まりますよ』。

将は教壇の上にいる聡に見とれながら、聡と一緒だったら『面白くない仕事』でもかまわない、とすら思っていた。

でも……そんなふうに『面白くない仕事』についた将を見たならば、聡はやはり、自分のせいだ、と苦しむのだろうか。

「お、いい顔」

気がつくと、篠塚が将の近くでカメラを構えていた。

「もっと悩め。若者たち」

とおどける。

「ま、一生あえないわけじゃないし。あと2ヶ月。辛抱すれば彼と二人でヴァカンスだもん」

ロマーヌは伸びをするように腕をぐーん、と上に伸ばした。

そして、元の体勢に戻ると、

「ショーは彼女いるの?いるんでしょ」

と青い眼をくるっとさせて、こっちに身を乗り出してきた。

瞳の色にあわせたのであろう、耳のピアスが髪の下でキラリと光った。

「うん……」

将はうなづいた。

「どんな人?」

ロマーヌの問いに『先生』と答えようとも思ったが、さっきの話から、少し気恥ずかしい。

それに、篠塚もいる。

答える代わりに将は携帯電話をポケットから取り出すと、待ち受け画面を見せた。

「へえ……。『カワイイ』」

聡の写真を見たロマーヌは、日本語で『カワイイ』と将に向かって微笑みかけた。

「何て名前?」

「アキラ」

ロマーヌはアキラ、アキラと何度か繰り返した。

まさか後に、このロマーヌと聡が関わりあいを持つことになるなど、そこにいた誰も想像しえなかった……。

第217話 幼なじみ(2)

聡は後悔していた。

将にとって大事な海外ロケの直前に、あんなことを宣言してしまったことを……。

彼に大きな動揺を与えてしまったのではないだろうか。

仕事に影響が出ていないだろうか……。

せめて励ましのメールでも送ろうとも思ったが、

「もう付き合えない」

と宣言した聡が、いったいどうやって励ますのだろうか。

現に……将が発って3日経つが、将からの連絡もメールも何もない。

3日間も連絡がないなどというのは極めて異例なことである。

将は、自分のあの宣言を受け入れたのだろうか……。

後悔と心配とを忘れたい聡はGWが明けて仕事に没頭した。

クラスマッチの練習に付き合い、部活動に顔を出し、進路の方向性が決まっていない生徒を呼び出して積極的に相談に乗る。

また、よりよい社会見学先を探すべく奔走し、かつ中学の勉強すらもロクにできない生徒が大半を占める学校の実情と、文部科学省が定める高校の教育要項との折り合いをつけるべくカリキュラムに工夫を凝らす計画を立てる。

部屋で一人で、自分の心と向き合うのが恐いばかりに、聡は将の姿の見えない学校で、遅くまで残業をした。

……荒江高校の講師の給与は固定制なので、いくら残業をやっても、金銭的に聡が得することはなにもない(もちろん山梨の出張以来、聡の給料は就職当時より良くなっているが)。

それでもよかった。

GWが終わって2日目の今日も、長くなった日がすっかり暮れて、真っ暗になるまで聡は残業をした。

そして夜10時近い今、ようやく弁当屋で買ってきた弁当で夕食を済まし、疲れた体を湯船に浸していた。

気分が明るくなるという、高価なダマスクローズのエッセンシャルオイルをバスタブに垂らしたのに……、独りになるといやでも将のことが頭に蘇ってくる。

もしも……このまま、本当に将が離れてしまったら……。

聡は、思わずふるえる肩をさらに湯の中にもぐりこませた。

顔に近くなった水面から薔薇の香りが、鼻の中に濃厚に滑り込んでくる。

……いや。そもそも離れるのが前提で自分はそういうことを将に宣言したのだろう。

自分がいたら、将は甘えてしまう。

自分を理由に、小さくまとまることを考えてしまう。

それでは将のためにならない。

将が思い切り羽ばたいて、大空に放たれる日まで、聡は離れているべきなのだ……。

理屈ではわかっているのだが、おんなとしての聡は、ただ苦しい。

聡の目の前には、透明な湯に沈んだ自分の裸体が見えている。

全部将が愛撫したところだ。

あちこちに将の感触を記憶している肌は、将に抱きしめれたくて、まるで鳥肌が立つように待機する神経が敏感になっているようだ。

こんなふうで、果たして将なしで、暮らせるだろうか。

また、将は、このまま永遠に自分から離れてしまうのではないだろうか。

聡は視界から自分の裸体を隠すように、湯船に鼻ぎりぎりまで沈んだ。

水面が反射して将を思い出させる自分の体を視界から追い出すことに成功し、聡は鼻から深いため息をついた。

ため息は水面に静かに波紋となって広がった。

そのとき、部屋でけたたましく携帯が鳴った。

聡はしばらく放っておいた。

将からの着信音ではない。

これが将だったら、濡れたまま、床をびちゃびちゃにしながら携帯に駆け寄るのだろうが。

……たかが、携帯が鳴っただけで、将を思い出してしまう自分。聡は湯の中で目を閉じた。

携帯はいったん鳴動をやめた。

だが、1分間隔をあけて再び鳴り出した。

――誰だろう。

さすがに緊急か、と聡は湯船から重い腰をあげた。

バスタオルであらかたの水分を取って、そのタオルを巻きつけながらバスルームの扉を開けて、ローテーブルの上に置いた携帯を手に取る。

発信番号は『非通知』と表示されている。

用心のために通話ボタンを押しても声を出さないでいると、

「古城先生ですか。Dプロの武藤です。お寛ぎのところ、申し訳ありません」

と声がした。

芸能プロで、将を担当するマネージャーだ。聡は、先日校長室で武藤と挨拶をした際に、

『何かあったときに、担任の先生と連絡を密にするために』

と武藤に頼まれて携帯の番号を教えていたのだ。

武藤の電話番号は登録していたはずなのだが、どうやら彼女は携帯を使わず、ロケ先のホテルかどこかから電話をかけているらしい。

今、話をしても大丈夫ですか?と問う武藤に、大丈夫、ととりあえず返事をして

「今、パリにいらっしゃるんですよね……」

と訊き返す。わざわざパリから国際電話をかけてくるなんて、将に何かあったんだろうか。

聡の脳裏に心配が顔を出す。

長くなるかも、と聡はいったんバスタオルを取り去ると、全裸の肩に携帯を挟んだまま、クロゼットを開けてバスローブを取り出す。

「ええ。今日は……折り入ってお願いがあってお電話しました」

バスローブを引っ掛けている聡は、武藤の深刻な声を聞いた。

「何でしょうか」

訊き返しながら聡は、心臓がぐん、と収縮するのを感じた。

 
 

出てきた若い女は、アパルトマンの鉄の扉に手をかけたまま、将を見上げた。

「ショー……本当に、あのショーなの?」

「うん。……ロマーヌだね」

「Ah…quelle surprise!」

ロマーヌはその利発そうな澄んだ青い瞳を見張って、口元を手で覆った。

 

将と篠塚は、玄関で靴を脱ぐとアパルトマンの中のリビングダイニングに通された。

将は昔からそうだったので特に違和感を感じなかったが、篠塚が

「へー、ここでは靴を脱ぐんだ」

と感嘆する。

海外経験は多いものの、一般家庭に入ったことがない篠塚は、欧米では家の中でも靴を履いたままだ、という先入観があったのだ。

確かに、日本の住宅のように、段差をつくった玄関、つまり靴を脱ぐスペースはない。

子供を預かる上に、フランス人としては比較的清潔好きなイザベラおばさんは、ドアから1mぐらいのところで靴を脱いで、家の中は裸足で暮らすようにしていた。

「イザベラは今、ちょうど夕食の買い物にいったところなのよ」

ロマーヌはコーヒーを淹れてくれながら話した。

「へえ。『オーシャン』に?」

将は近くにある、フランス版激安スーパーマーケットの名前を口に出した。

ここでだいたいの食材は手に入る。

将はそこの、大箱に山盛りになったいんげんマメや、日本のとあきらかに品種が違う巨大なキュウリを思い出した。

将の母・環はいんげんを手でわしづかみにしてビニールに入れるようなおおらかな性格だったが、

イザベラは、山盛りになったいんげんから一本一本気に入ったものを選りだして自分のビニールに入れる几帳面さがあったのを懐かしく思い出す。

「ウイ。セ『オーシャン』」

ロマーヌもその頃を思い出したのか、ニッコリと笑った。

アパルトマンの中は、日本の住宅と大差はない。リビングダイニングの一角にダイニングテーブルを置いて、そこで食事もお茶もする。

家具の配置も、将が幼稚園に行っていた頃と何も変わっていない。将は部屋を見回した。

ただ、将が驚いたのは、そこが思ったよりずっと、狭かったことだ。

ここに預けられていた小さい頃は、もっと広い印象があった。

だけど……将が今いるこの部屋は、将が大悟と住んでいるマンションよりかなり狭い。

「変わってないでしょ」

ロマーヌがマグカップに淹れたコーヒーをテーブルに置きながら微笑んだ。

その腕は、蝋のように白い。

ロマーヌは細身の、体の線がぴったりと出る黒い七部袖のTシャツに、ローライズのジーンズというくだけた姿だ。

黒褐色の髪は、一見、後ろから見ると彼女を日本の少女のように見せているが、よく見るとゆるくウェイブがかかったその髪は、東洋人のそれよりとても細いのがわかる。

ロマーヌもフランス人の特徴ともいえる、白人の中では比較的フラットな顔立ちだった。

日本人にも親しみの持てるすっきりとした顔立ちだが、オークルを含んでいない肌の白さと細く尖った鼻梁に、やはり人種の違いが出ている。

たぶん無化粧のその顔は、多少大人びたとはいえ、あまり変わっていない。

「ショーのほうは……すごく、背が伸びたのね。びっくりしたわ」

そういうロマーヌはフランス人としてはやや小柄で、聡より少し小さいぐらいか。

「そちらは?」

ロマーヌは、自分もテーブルに付きながら、篠塚に微笑んだ。

「あー、ボンジュール、マドモワゼル・ロマーヌ」

「コンニチワ」

お互い、それぞれの相手の国の言葉で挨拶をすることで、その場の雰囲気がぐっと柔らかくなる。

「こちらは篠塚さん。彼は、とても有名な写真家なんだ」

とフランス語でロマーヌに紹介したあとで、今度は日本語で

「彼女はロマーヌ。小さい頃、仲が良かったんだ」

と篠塚に説明する。

「エスクヴゼット……hisじゃない、えーと何だっけ?プティタミ?」

直訳すると、『あなたは、his○×△□、恋人?』

という感じだが、ロマーヌはにっこりと笑って、

「ムッシュウ・シノヅカはフランス語が出来るの?」

と訊いた。篠塚は両手を挙げて降参する素振りを見せながら、

「Non!エクスキュゼモワ、パルレヴーアングレ?」

つまり、英語ができるかをロマーヌに訊いた。

「イエース、オブコース!」

ロマーヌは英語ができるらしい。

「ショーは?英語は?」

将は思わず顔をしかめた。

「俺はまるでダメ。話すならフランス語のほうがマシ」

「あたしが、日本語がもっと出来ればいいんだけどね。アリガトウ、ゴメナサイ、あと……カワイイ」

そういって、ロマはハハっと笑った。大人びているけれどそんな笑顔は昔のロマーヌのままだ。

「で、ショーは何しにパリに来たの?」

とロマーヌはテーブルに肘をついて、身を乗り出した。

「えーと、何だろ。小さな仕事」

将は、『アルバイト』にあたるフランス語がわからなかったので、代わりに『小さな仕事』と言ってみる。

「仕事?将は高校に行ってないの?」

ロマーヌが青い瞳を丸く開けた。

その青さはポスターなどで見かける南の海のような色で、白人の中でも際立って美しい青だ。

「行ってる、行ってるよ」

その様子に、篠塚が英語で割って入る。

「何?どうしたの?」

するとロマーヌは英語で、篠塚に、同じ質問をしたらしい。

「写真集の撮影の仕事で来てるんだ。彼は、新人の俳優なんだよ」

ロマーヌも篠塚も英語が母国語ではない人間なので、その会話は将にもなんとか理解できた。

「オゥ!ショーは俳優をしているの?」

篠塚の答えを聞いて、ロマーヌはさらに南の海の瞳を見開いた。

「え、だから『小さな仕事』で」

「えぇ?日本では俳優は小さな仕事なの?何てこと!」

第216話 幼なじみ(1)

「よ、おはよ!……冷えるねえ」

すでにテラスでロケハンをしていた篠塚は、将の姿を見つけると元気に声をかけた。

会釈をするのがせいいっぱいの将のかわりに、武藤が

「おはようございます。本当に……。天気、ビミョーですね」

と相槌を打つ。

武藤の言うとおり、夜明け前の空は厚い雲が立ち込めて、その下に広がる遥かなるパリごと、紫がかった濃いグレー一色に塗りつぶされているように見えた。

「予報は悪くなさそうなんだけどねえ」

ただ、テラスには強い風が吹き付けているから、雲が動いて日の出の瞬間の太陽がのぞくかもしれない、と篠塚は一縷の望みをかけていた。

「よく、休めた?」

篠塚が優しい調子で将に話し掛ける。

「ハイ……」

将は、ヘアメイクに髪をいじってもらいながら、風が肌にしみて目を細めた。

きのう、ベッドに倒れこんだ将は、シャワーも浴びずに、そのまま寝込んでしまった。

かろうじて、言われていた時間に携帯のアラームをセットしていたので、起きることは起きたのだが、コンディションは昨日とたいして変わりはなかった。

あわててシャワーを浴びたせいか、夜明けの空気の冷たさが将にはひとしおだった。

曇っているからそれほど冷えこんだわけもないのに、風が吹くたびに首筋がぞくぞくする感じがする。

だけど、そんなふうに肉体が感じることも、今の将には、どこか他人事のようだった。

「よっし。ポラ(※ポラロイド)とろうかな」

この、夜明けの一瞬を撮るのに、篠塚はデジカメではなく、フィルムを使う銀塩カメラを用意していた。

しかも大判フィルムの。

なんでも、緊張感が違うそうだ。

『僕のような年よりは、どうもデジタルはイケ好かなくてね。最近はそうも言ってられないけど、ここぞ、というときは、やっぱりこっちで撮りたいもんなのよ』

昨日、カンボジア料理店でうどんのようなライスヌードルの入った鍋に舌鼓を打ちながら、篠塚は笑顔で話した。

将は、篠塚のカメラの前のテラスのてすりに腰掛けた。

塗りつぶされたような空は、東の方から、水彩絵の具でのそれのように、だんだん濃淡が出てきた。

「将、普通にしてていいよ。考えないで」

そうは言われれば言われるほど、将は自分の『普通』とは何かと考えてしまう。

将とて、昨日から、それなりに『仕事を頑張っている』つもりだった。

あの電話の最後に……聡がそういったから、せめて。

だけど、だめなのだ。

まわりが自分に気を使っているのはわかる。盛り上げようとしてくれているのもわかる。

それに応えたい、と将は無理やり微笑んだ。

だけど……そういった偽りの表情に、篠塚は決してOKを出さなかった。

今の将も、篠塚からの厳しい眼力では『ダメ』なのだが、

まあ、ポラだから、と篠塚は無理やりシャッターを切った。

夜明けの撮影は難しい。

刻一刻と明るさが変わっていくから、適正な露出に合わせるのにカンのようなものが要る。

しかも今回は、太陽と、その逆光で人物、さらに太陽の下に照らされたパリ、と要素が多い。

それらが最大に美しい色合いと表情を見せる瞬間を、篠塚は狙いたかった。

「ふ……ん」

篠塚は、温め終わったポラをチラリと見た。

露出より、将の表情が気になっていた。が、もうそろそろ、一番いいときだ。

しかも、ちょうどパリの上すれすれの雲が横に裂けた。

上の雲はまだ濃い紫だが、下の雲はみるみるオレンジから金色に変わり始めた。

……まもなく、そこにご来光があるはず。

篠塚はファインダーを覗いた。

あいかわらず、将のオーラのなさはいかんともしがたい。

篠塚は、少しでも将の気分を盛り上げるために自ら口を開いた。

「しかしさ。将。不思議だと思わない?あの今昇ってる太陽は……東京では、真昼間の真上にあるんだぜ」

テラスの手すりに腰掛けた将は、思わず、太陽のほうを見る。

ちょうど、そのとき雲から顔を出した、赤い太陽は、将の顔に強い光線を照射した。

その強烈な光に目を細めながら、なおも太陽から視線をそらさずに、将は希望のように1つのことを思っていた。

――同じ太陽が、聡の上にある。

「よし!……いいぞ」

篠塚は小さく呟くと、立て続けにシャッターを切った。

 
 

サンジェルマン・アン・レーからの夜明けの写真は、まずまずのものが撮れたが、その後はやはりさっぱりだった。

それでも、引き続き『お城』で行われた、立て襟のスーツを着て、髪を固めた貴公子風のカットは「演技をさせる」ことで何とかなったが、その後、パリに場所を移しての撮影はまるでダメだった。

将は篠塚から何度も

「どうした。将らしくないぞ」

とダメ出しをされたが、今の将にはいったい何が自分らしいのか、皆目見当がつかない。

――どうして、自分はここにいるんだろう。

――いったい、自分は何をしているんだろう。

……結局、思考はそこへたどりついてしまうのだ。

貴公子になりきる、というのは、なんとなくわかる。

TVドラマで演じた冤罪を着せられた不良少年というのも、だいたい想像できる。

だけど、将自身を演じる、というのは、一番の難題だ。自分は、いったい何なんだろう。

「だめだ。今日もダメだね」

篠塚は首を横に振って、カメラから離れた。今彼がいじっているのはデジタルカメラだ。

だが、デジタルですら撮る意味がないらしい。

「なんかね。カラッポなんだよ。抜け殻って感じ」

もう、武藤も何も言うことができないで、ただ下を向くしかない。

――これほど、ダメージを受けてしまうとは。

あきらかに武藤の計算外だった。

あのとき、空港で。

たぶん聡と電話で話していたのだろう将は、ひどく悲痛な顔をしていた。

逢引を邪魔されたことで、聡が何か不快に感じて、それを電話で将にぶちまけたのだろうか……というあたりに武藤は理由を考えていた。

聡との関係が悪化するなら、それは願ったりだ、と思っていた武藤だが、ここまで将のパワーが落ちてしまうとは……。

武藤は、何か手を打たなくてはと考え始めた。

「どうも……すいません」

現場のどんよりとしたムードの中、将は篠塚に謝った。

自分でもどうしたらいいか、わからない。将は謝るしかなかった。

しゃがんで機材を片付けていた篠塚は顔を上げた。

「謝るだけの誠意はあるんだ」

そして立ち上がる。

「じゃあさ。午後の撮影の代わりに、つきあってほしいところがあるんだけど」

と篠塚は将に提案した。

将は、篠塚の意図がわからなくて、目をしばたかせた。

「武藤さん、いいでしょ。将がこんなんじゃ話しになんないし」

武藤はため息をつきながら、承諾した。

 
 

午後、他のスタッフはオフにして、篠塚は将だけを連れて、タクシーに乗ってパリを南下していた。

モンパルナスタワーを右手に見ながら、さらに南下すると15区、将が幼い頃を過ごしたあたりだ。

それこそが、篠塚のリクエスト、将に付き合えと命令したのは、まさにそこだったのだ。

「僕、英語は大丈夫だからさ。将くんも簡単なフランス語会話だったらOKなんでしょ」

と篠塚は将をうながして、日が傾きかけた中、タクシーに乗った。

とはいっても、将がパリをあとにしたのは6歳である。

住んでいたところの住所などはまるで覚えていない。

ただ、よく将の面倒を見てくれたイザベラおばさんが住んでいたのが『rue XXXXX』という通りだったことだけ覚えていた。

元外交官だった将の母・環は、将を産んだことで外交官を引退していたが、

夫についてパリに赴任してきてからは、知人の勧めもあって、フランスの絵本を日本語訳して日本に輸出する仕事に付いていた。

そのせいで将は3歳から保育園に預けられたのだが、保育園や幼稚園から迎えに来て、

母の仕事が終わるまで家で預かって面倒を見てくれたのがこのイザベラおばさんなのだ。

フランスでは、こんなふうに、子育てを終えた年配の婦人が小遣い稼ぎに、近所の働くお母さんたちのベビーシッター代わりをするケースが多い。

政府から資金援助が出ていることもあって、お母さんたちの負担も少ないのだ。

あの、幼稚園が一緒だったロマーヌは、ここでも一緒だった。

ただ……イザベラおばさんは、ロマーヌには本当のお婆ちゃんだったのと、

他の子のばあい、みんな夕方や遅くても夜にはお母さんかお父さんが迎えに来てくれるのに、ロマーヌだけはいつも誰も迎えにこない……というところが違っていた。

環が迎えに来て、駆け寄ろうとする将の手を引っ張って、

『ショー、帰らないで』と懇願した青い瞳を将は思い出した。

番地は覚えていなかったけれど、タクシーが『rue XXXXX』に差し掛かったとたん、将は懐かしさのあまり、タクシーの窓に張り付いた。

変わっていない。

ゆるい坂道を少し登れば……大きな、5月になると香りの強い白い花を付ける木がある。

花は、風がなくても、ボタン雪のように歩道にひらひらと落ちた。

将にとっては、ボタン雪のほうを、むしろ後で覚えたのだが。

ただ、雪と違って、花は道に落ちるとすぐに茶色く朽ちた。

『滑るから気をつけるのよ』

そこを通るとき、いつも声をかけた、環の声が将の脳裏にはっきりと蘇った。

そして、その木の向こうに、懐かしい建物が見えた。

レンガとモルタルを組み合わせた……日本の団地と比べてもなんの変哲もない5階建てのアパルトマンは、12年前と何も変わっていなかった。

「ここだよ。ぜんっぜん、変わってない」

タクシーを降りた将は、思わず呟いた。

「で、イザベラおばさんは、どの階段?」

篠塚はさっそくそこを訪ねるつもりらしい。

「真ん中だったと思うけれど……、今も住んでるかな」

将のほうが、心もとなく篠塚に向き直った。

「知るか、俺が。……とにかく行ってみよう。なに、引っ越してたら、そのときさ」

背の高い将の腰のあたりを押しだすように、篠塚は階段をのぼるよう将を急かした。

イザベラおばさんが住んでいたのは3階だったはず。

将は、祈るような気持ちで、チャイムを押した。

ブーという無骨な音が部屋の中に鳴るのが聞こえる。そんな音も変わらない。

あの音が鳴るたびに、楽しく遊びながらも、こんどは自分のお母さんかな?と振り返ったものだ。

しかし、音がなってもなんの反応もない。

閑静な住宅街である。鳥の鳴く声だけが静けさに響いた。

――いないんだろうか。

そう思いかけたとき。中からドタドタとドアに駆け寄ってくる音が聞こえた。

「誰?」

中から若い女の声がした。

将は何て答えていいか一瞬わからなくてとまどったが、

「日本から来ました鷹枝将です。ここはマダム・イザベラの部屋ですか?」

と思い切ってフランス語で言った。

ドアが、ガチャ、と開いた。青い瞳を見開いた若い女が将を見上げた。

「ショー……?」

将には、彼女がロマーヌだとすぐにわかった。

第215話 突然、一方的な別れ

パリ郊外のサンジェルマン・アン・レーの『お城』に一行がついたのは夕方だった。

テラスごしの眺望がよいレストランで夕食をとり、しかし将が『疲れている』ということもあり、早々に各自の部屋へ引き上げることになった。

といいつつ、カメラマンの篠塚らはバーで、もう少し、シガーとコニャックを楽しむらしい。

ルイ14世の生家、というだけあり、そこかしこが瀟洒なつくりになっている。

中でも優雅なのが、吹き抜けを囲むようにカーブを描く大理石の階段だ。

しかし、将は、足取りも重く、それを登ると、あまりスムーズとはいえない、極めてクラシックな形の鍵を開けて部屋に入る。

真紅の、足が沈むような毛足の長い絨毯が敷き詰めてある部屋は、それだけで将が大悟と住んでいるマンションほど広いように思えた。

将はこのダブルを一人で使うことになっている。

バスルームや洗面台は本物の大理石をつかった贅沢なもの、蛇口すらも装飾が施された年代ものだが、

将はそれらをチラッとのぞいただけで、ため息をつくと、ダブルのベッドに仰向けに倒れこんだ。

キングサイズのベッドはかなり柔らかく、倒れた将の衝撃をすべて吸い込むようだった。

高い天井は純白で、シャンデリアが下がっているのが見える。

決して目障りなものではなく、むしろ柔らかい上質な照明なのに、将はそれから顔をそむけるようにうつ伏せになると、胎児のように体を丸めた。

何で自分はこんなところにいるんだろう。

自分は何をしているんだろう。

将は、自問自答をしながら、自分の心が真っ暗な闇に閉ざされたあのときを回想していた。

 
 

新しいマンションでの逢瀬を、武藤に邪魔された出発前夜。

将はあれから何度も聡と連絡をとろうと試みた。だけど、聡は電源を切ってしまったらしい。

美智子の部屋に泊まるなら……美智子の番号にかけてみればいい。

幸いモデルのバイトがらみで、美智子の携帯の番号は保存してある。

だが、それを思いついたときには、さすがに遅すぎる時間だった。

何時だったら迷惑じゃないだろうか。

いや、多少迷惑でも、急ぎということで容赦してもらえる時間は、何時だろうか。

そんなことを考えあぐねているうちに、疲れていた将は眠り込んでしまった。

そして武藤からのモーニングコールで目覚めて、電話できなかった自分に気づく。

そのあとも……なんとか、聡に連絡を取れないか、と将はスタッフの隙をうかがいながら、懇願するようにメールを送った。

『12時の出発までに、声が聞きたい』

だけど……空港では、武藤のほかに、篠塚、篠塚のアシスタント、ヘアメイク、スタイリスト、ADが集合していて、そこには隙などなさそうだった。

幸い、少し早めに空港についたので、一行はカフェテリアに入って、打ち合わせがてら暇をつぶすことになった。

――今だ。

そう思った将は

「ちょっと、トイレ」

といって席を立った。

スタッフの目の届かない、トイレの近くにある大きな観葉植物の陰まで来ると、祈るように電話をかける。

が、あいかわらず聡は出ない。かわりに、美智子に掛ける。

それはたやすくつながった。

美智子は「将くん、久しぶり……聡でしょ。今変わる」と何も言わずに察してくれた。

電話の向こうで

『ほら、将くん。出なよ』

と美智子が聡に強い口調でうながすのが聞こえる。

聡は、電話に出るのを渋っているんだろうか。

「もしもし」

本当は、耳元でじかに味わいたかった声が電波ごしに届く。

「アキラ。昨日はどうしたんだよ」

つい、問い詰めてしまう将。本当はそんなことが言いたいんじゃない。

「昨日はずっと一緒にいたかったのに。3週間も離れ離れで、どうすんだよ」

甘えが、将を強い口調にする。

だまりこんでしまった聡に、将は少し言い過ぎたかな、と思い直し、甘えた口調で言い直す。

「……アキラ、何か言ってよ」

「将……」

やっと聡は将の名前を呼んだ。しかし、それきり聡は沈黙してしまう。

将が、しびれを切らして、自分から何か言おうとした直前に、ようやく聡の声が聞こえた。

「あたし、考えた。……将とはもう付き合えない」

その言葉の意味が……あまりにも唐突過ぎて、将は理解できなかった。

「アキラ……?」

聡はさらに言い直す。

「教師と、生徒に、戻った方がいいと思うん……」

「アキラ!」

将は聡が言い終わらないうちに、いとおしい人の名前を叫んだ。

その声は大きすぎたようだ。トイレへと出入りしようとする人が何人かこちらを振り向いた。

「……冗談だろ?」

将はそう訊き返しつつも、聡がこんなことで冗談をいう女ではないことをわかっていた。

「いますぐ、会いに行く。話し合おう。何がいけなかったんだ」

「将、何をいうの。今からフランスでしょ」

「そんなのどうでもいいんだ!」

将は再び大声をあげた。混乱のあまりコントロールが利かなくなっているようだ。

「アキラに比べたら、どうでもいい」

将は今度はすがるように早口で囁いた。

ウソだといってほしい。驚かそうとしたんだというオチであってほしい。

「将、しっかりして!」

電話の向こうで、聡がやや強い声をあげた。

「アキラ……」

「そういうところが、心配なの!」

いつにない、聡の強い声に将は黙った。

聡のこんな声を聞くのはひょっとして初めてだろうか……。

「あたしのために、何でも捨てちゃう将が心配なの!」

「アキラ」

だって、聡のいない人生なんて意味がない。そう言おうとした将は聡の剣幕に遮られる。

「プロダクションの人だって、TV局の人だって、新人の将のために、すごく骨を折ってお膳立てしてるはずでしょ。それを、どうでもいい、なんて言わないで!」

「だって……アキラ」

とまどった将は、つい口にしてしまう。

「でも、もともと、やりたくて始めた仕事じゃないし」

将が話したいのはそっちではない。

なぜ、今になって、いきなり、付き合えないなんて、教師と生徒に戻ろうなんて言うのか。

この上なく愛し合っている二人だと思っていたのに。

聡は、少し強めのことを言っているだけだ。

本当は、離れるつもりなんて、ないに決まっている。

そう思い込みたい将に、聡はさらに切り込む。

「やるって決めたのは将でしょ。軽い気持ちかもしれないけど、一度返事をしたら、ずっと責任が発生するの。それが大人なの。甘えないで。

将が大人になるまで、あたし……」

「アキラ……、アキラは俺が子供だから、もう付き合えないっていうのかよ」

「……」

沈黙の向こうで聡が言いよどんでいる返事が、将にもわかりつつある。

そのせいで……将の全身を絶望がくるんでいく。空港の喧騒が他人事のように遠くなっていく。

現実世界が、ガラスで遮断されたように、将と離れていく。

それに抗うようにもう一度、確認する。

「ウソだろアキラ……、アキラは俺を見捨てたりしないだろ」

電話の向こうで深いため息が聞こえる。

聡の放つ一言一句を逃すまいと、将は携帯を耳に押し付ける。

「……見捨てたくない。だけど……」

救いの言葉らしきものが聞こえたそのときだ。後ろから将の肩に手が置かれた。

「時間よ」

振り返ると武藤が立っていた。

武藤が時間を告げる声は聡のところにも聞こえたらしい。

「行って……。将。仕事、頑張るのよ」

「アキラ……俺は」

なおも聡にすがろうとする将に、非情にも、切れた通話を示す音が響いた。

将の心は、あれ以来、闇に閉ざされたままなのだ。

 

「聡……」

美智子が、聡の肩に手を置いた。心配そうに眉を寄せている。

聡の顔は……、涙で濡れそぼっていた。目はとっくに真っ赤だ。

将と電話がつながった直後からずっと……、聡は涙を絶えず流していたのだ。

第214話 大人の決意

「それにしても……」

美智子は、聡に静かに語りかけた。

「聡、変わったよね」

聡は、美智子が何を言いたいのかわからなくて、涙目を少しだけ、膝からずらした。

「前はさ……。学生の頃はさ。博史さんに会えなくて寂しい、ってことあるごとにグチっててさ。会ったあとは夢みたいに幸せそうな顔しててさ」

美智子は当時を思い出したのか、おかしそうに口の端を上げた。

聡も顔を少し上げた。

「ホント、な~んにも考えずに、博史さんと結婚することだけが幸せ……みたいな感じだったじゃん。就活もやんないでさ」

思い出すと、恥かしさのあまり、地団駄を踏みたくなるような、あの頃。

だけど、聡は今、恥かしさを抑えて、あの頃に思いをはせてみた。

あの頃、聡の中の未来予想図は、博史に愛されて、博史に寄り掛かることだけしか存在しなかった。

博史の人生を心配することなど一度もしなかったように思う。

もちろん中東に赴任している身だから、身の安全は心配したけれど。

将来がどうとか、博史の可能性とか……そんなものは、もう博史の場合固まっていたからだろうけれど。

博史が聡より何歩もリードした大人だったので、聡は子供のまま……恋する乙女でいられたのだろう。

博史からあれこれと与えられるものを……それは優しさだったり、プレゼントだったり、愛撫だったり……聡は素直に堪能すればいいだけで、

聡が博史に何かを与えるのはずっと先だろう、と思いこんでいたあの頃。

「あの頃から考えたら、本当に、変わったよ……大人になったんじゃない?」

美智子は聡のぐい呑みに菊姫を注いだ。聡は無意識にそれを口に運んだ。

自分は……大人になったんだろうか。

将を愛するようになって。

聡は、与えられるだけでなく、愛を与える喜びを……自分の愛こそが渇望される歓喜を知った。

それと同時に、若い将の一途過ぎる熱情が、彼自身の人生を破壊するのではと聡は常に恐れることになった。

だけど……それゆえに、ひときわ将がいとしいのも事実だ。

「大人……とかじゃないよ。だって、我慢できなくて……流されることだって多いもん」

聡は思わずつぶやいた。さっきだってそうだ。

教師と生徒だから、せめて卒業まではセーブしなくちゃ、とわかっているのに、将が恋しくて、いつも流されてしまう。

傷ついた将を癒したい、という理由をつけて、本当は自分こそが将と抱き合いたいんじゃないだろうか。

聡はいつも、そんなふうに自分に疑惑を抱いている。……そう、あの、将は覚えていない、一夜だって。

「我慢しようとか、流されてるってわかってるだけでも違うんじゃない?」

美智子は、涙の乾いた聡の顔を一瞬のぞきこむと、黒目をぐるりとまわして、斜め上にある自分の考えを置いたあたりの空気に視線をうつす。

「だあってさ。あたし雑誌で恋愛の読者記事とかも担当するんだけど、みんな自分本位で、彼氏のことなんか、まったく考えてないんだよね。

『仕事で忙しいとかいって、逢ってくれない』とか

『ぜんぜん遊びに連れて行ってくれない』とか

『結婚を言い出してくれない』とか

相手に対して要求することしか考えてないの。あたしが男だったら『アー!ウゼー!』って叫んじゃうだろうなってぐらい」

美智子は、ぐい呑みをあおると、てへっと笑いながら

「ま、あたしも付き合ってるときは、そうだったかもしんないんだけどぉ」

と付け加えた。

そういえば美智子は彼氏いない歴がもうすぐ1年になるらしい。

「まあ、そういうのに比べたら……、聡は将くんのこと、すごく考えてるじゃん。それって、本当に愛してないとできないと思うよ」

愛、という言葉を舌に乗せるとき、美智子は少しだけくすぐったそうに瞬きをした。

「だって……彼は教え子でもあるし」

聡は、下を向いたまま……ようやく小さく笑うことができた。

 
 

美智子と枕を並べて横になりながら、聡はなかなか寝付けなかった。

窓にかかるのは遮光カーテンだから、部屋は墨汁に塗りつぶされたような闇になっている。

その中に、美智子が立てる、かすかな寝息が規則正しく響く。

電源を切った携帯は、バッグに入ったまま沈黙を守りながらも、しきりに主張を続ける。

だけど……。

こうやって、暗闇に横たわっていると、さっきのクロゼットの中の暗さが蘇る。

暗さより、あの細い隙間から漏れる世間の光が……本当に恐かった。

あのとき、クロゼットを開けられていたら。

何も言い訳できない。

一部の……聡とごく親しい人は、二人の関係を知っても優しいままだけれど……やはり二人の関係は白日のもとにさらすには、れっきとしたタブーなのだ。

学校にも、世間にも隠しとおさなくてはならない。……特に将のために。

いつまで?

聡は、将の卒業が1つの伏目だと思っていた。

だけど……高校を卒業したぐらいでは、まだまだ人生は脆すぎるだろう。

将はよく言っている。

『アキラと一緒だったら、俺はどんな貧乏ぐらしでもいい。トラックとかタクシーの運転手でも、ファミレス勤めでも、営業マンでも何でも楽しくやれるよ。きっと』

聡も、夢見る。

狭いけれど小さなアパートの一室。聡が産んだ将の子供が3人。

みんなで助け合って笑いあいながら暮らす、平凡な日々。

聡はそれでもいい。

でも。名門に生まれ、人なみはずれた高い知能を持つ将は……小さくまとまるべきではない。

一流になれる能力を自分のために反古にさせるなど、聡は自分で自分が許せない。

将が、確固たる自分自身を築き上げて、ゆるぎない自分の道を進むまで、待つべきなのだ。

教師として、人間として……それはわかっている。

だけど。それはいつになるのだろうか。

そして。ゆるぎない大人になったとき、果たして将は9歳も年上の自分を選ぶのだろうか……。

いつか博史が言った『通過地点』という言葉がふいにフラッシュバックする。

次に美智子の

『みんな自分本位で、彼氏のことなんか、まったく考えてないんだよね』という声が、神の啓示のように『通過地点』という言葉にひびをいれる。

通過地点でもいい。

聡は、暗闇に目を見開いた。

いつか、自分に誓ったはず。

自分の幸せと将の幸せが相反するときは、将のほうを取ろうと……。

――将が、自分自身を築き上げるまで、待とう。……待たなくては。

待つことが、自分に出来る、将への至高の愛情表現なのだ。

もう、流されない。聡は、今一度決意を固める。

 
 

「うーん」

カメラを構えた篠塚だが、ファインダーをのぞいたまま唸ると

「今日は、もういっか」

と首を傾げた。スタッフ一同、ぽかんという顔をした。

パリ、カルチェラタン。ごちゃごちゃとした路地に小さな画廊や画材屋などが軒を連ねる。

昨日、パリ入りした将ら一行は、ここで写真集のための1ショットを撮影しているところだ。

パリ、といえど、女性誌のパリ特集というわけではないので、観光名所やお洒落な場所は最低限にし、わざと雑多な場所や薄暗い『生きたパリ』的な場所を篠塚は撮影スポットに選んだ。

今日は、メトロの駅から、学生の多い10区、カンボジア料理店などをまわって、カルチェラタンに来ている。

しかし、カルチェラタンではとうとうシャッターを1回も切ることなく、篠塚は終了を宣言した。

「目がね。死んでるの」

篠塚は機材を手早く片付けながら言った。

「まあ、ここはパリだから、憂い顔は多少あってもいいんだけど、それにしても目がベターッとしてるの」

それは、篠塚がどんなに将をノせてもダメだった。

「……いっそ明日オフにすれば」

「そんな」

武藤が落胆の声をあげるのも無理はない。

このあとモロッコでCMと『ウルウル』があるので、パリは中3日しか日程がないのだ。

「何かあったの? なんか将、オーラ完全に消えてるよ」

篠塚に指摘されて、武藤は将を見た。

撮影が中断したせいか、将は石畳にしゃがみこんでボーっとしている。

「あ、もう犬のクソ」

と洗いたての濡れた路面にころりと転がる犬の糞を指差してヘラヘラと笑ったりしているが、その目は、なるほど、生気というものがまるで感じられない。

パリの5月、といえば青空の下、輝く街にマロニエの若葉、気の早い若者はセーヌ河畔で日光浴、と

最高に美しく、かつ躍動的な季節である。

が、その金色の午後の中で、将の周りだけアンニュイを通り越してヘドロのようなどんよりとした空気が立ち込めていた。

平均的なフランス人と比較しても、長身かつ顔が小さく足が長い将は、人目を惹くはずなのに、

往来の人々は、オーラが消えてしまった将に目も止めずに通り過ぎていく。

たしかに、こんな状態の将を撮影しても、目覚しいものは撮れないだろう。

武藤はため息をついた。

「今日、カタコンブに行けば、刺激になったかもね」

と篠塚はジョークで武藤をなぐさめた。

(ちなみにカタコンブとはパリの地下に残る、納骨堂である。地下通路に19世紀までの骸骨がそのまま放置されている、かなり怖い『観光スポット』である)

「今日は早めにホテルに入ってゆっくりしようよ。今日は『お城』とってるんでしょ」

お城というのはパリ西部の郊外サンジェルマン・アン・レーにある、ルイ14世の生家といわれているプチホテルだ。

ここは新都心・ラ・デファンスごしに遥かにパリを見渡し、パリから朝日が昇るところも見えるので今回の撮影箇所の1つにも選ばれている。

将が元気のない理由に、思い当たるところがある武藤は、

「そうですね」

といいつつ、ぼんやりしている将を一瞥する。

――やっぱり逢引を中断させたせいなんだろうか。

武藤は少しだけ罪悪感に苛まれる。

そんな武藤をよそに、将は

「ほんっと、犬とクソばっかだよなー。洗う、クソする、洗う、クソする、の繰り返し」

としゃがんだ上に、頬杖までついて、元気なく笑っている。

武藤はもう一度深くため息をついた。

第213話 恋の終焉

>>>

今、どこ?

俺やっと一人になれた。

武藤のババアが部屋まであがりこんできた。

荷づくりのチェックだと。

近くまで来たら連絡して。

待ってる

>>>

 

将のメールを受信したのは、地下鉄が駅に差し掛かったときだった。

聡は、その受信画面の将を見た。

受信画面はスキーのときの集合写真からとった大口をあけて笑っている顔だ。

その顔に、聡は

――ごめん。

と心で謝る。謝ったとたんせつなさで涙がこぼれそうになるが、他の乗客もいる。

熱くなる瞳をつむってこらえると、返信メールを打つ。

 

>>>

もう遅いから、今日は美智子の家に泊めてもらうことにしました。

美智子の家はすぐ近くだから…

マンションの鍵は、管理人さんに頼んできました

将、明日から気をつけてね。

そして、仕事頑張って

>>>

 

「なんだよ、これ」

将は聡からの返信を見て、思わず声をたてた。

美智子の家に泊めてもらう、だ?

しばらく逢えなくなる前夜なのに、どうして。

将は携帯を取り上げると、聡に掛けた。

聡はちょうど、駅についたところらしく、電話はすぐにつながった。

「将。ごめんね」

と電波がつながるなり聡は言った。

「どういうこと」

将はつい、苛立ちが声に出てしまう。

「もう、遅いから……それだけ。美智子んちって、将のマンションからたった4駅なんだよ。それで思い出したの」

「てか」

将の中で聡への逢いたさがつのって、それが怒りに変わってさえいく。

「どうして、今日なんだよ。俺、明日から3週間もアキラに逢えないんだぜ。美智子なんか俺がいない間にいくらでも泊まりにいけばいいじゃんっ」

「ごめん。将……」

聡はそれしかいえない。沈黙に、将の怒りは哀しみに変貌していく。

謝る聡だが、決意は固そうだ。今日は、もう聡に逢えないのだ……それだけはわかる。

でも、将は粘る。

「俺、アキラに会いたい。アキラがまだ足りない」

聡は黙っている。背後の車の音が邪魔だ。

聡の息遣いを携帯が拾っているのだったら、聞きたい。

どうして、急に聡は自分に抱かれるのを拒否するのだろうか……。

そうだ。あの状況から、友達の家にいきなり泊まるというのは『拒否』以外ありえない。

将は懇願する。

「アキラ。するのが嫌だったら、しなくてもいい。……頼む。アキラの顔が見たいんだ」

抱き合うだけでもいい。本当に欲しいのは、聡のぬくもり。たわいのないことを囁きあう時間なのだ。

だが、車の音だけが、携帯に流れる。そして

「ごめん。でも、もう美智子に連絡しちゃったから……。明日から、頑張ってね。メールするから」

と、ふいに電話は切れた。

「アキラ!アキラ!」

将は電話口に向かって、いとしい人の名前を叫んだ。

もう一度電話をかける。だが、もう聡との電波がつながることはなかった。

「アキラ……」

将は、携帯を持った手をだらりと下げた。

呆然と立ち尽くす将に、これから聡に会えない時間が立ちはだかる。

 
 

聡も、駅のコンコースで立ちすくんで涙をこぼしていた。

――ごめん。将。だけど、こうするしかないんだ……。

一度こぼれた涙は、あとからあとから溢れ出てくる。

聡はバッグからティッシュを取り出してそれをぬぐう。

目立たないように壁に向かってしているのに、何人かの乗客が好奇の目を聡に走らせていく。

聡は、涙の処理より、感情を処理するのが先だ、と無意識にさとり、美智子に電話をかける。

そのとたん、プップッと割り込みのサインが聞こえる。

たぶん将だ。

聡は美智子につながるまで、ぎゅっと目をつぶって耐えた。

「聡?駅についた?」

少しハスキーな美智子の声が聞こえて、聡はほっとした。

「うん。何番から出ようか……」

割り込みのサインはずっと聞こえていた。

 
 

「ごめんね。いきなり押しかけちゃって」

「いいよー。こっちも久しぶりに仕事から解放されてるところだったから」

とパジャマ姿の美智子は聡の着替えを用意して待っていてくれた。

濃いアイメイクがない美智子は、まるで別人のような童顔だ。

美智子の部屋は、古いマンションの2DKだった。

1室をプライベートに、1室を仕事部屋に使っているらしく、いずれもマスコミ関係者らしくシンプルにお洒落にしつらえられてある。

学生時代からワンルームに住んでいたのだが、フリーになったのをきっかけに2部屋あるここに引っ越してきたのだという。

「一杯やる?これね。記事書くために取り寄せたお酒なんだけど、美味しいんだよ」

と『菊姫』の一升瓶を、独り暮らしにしては大きな冷蔵庫から嬉しげに出した美智子の手が止まった。

「聡?」

菊姫を冷蔵庫の前の床の上に置くと、美智子は聡に駆け寄った。

聡は、ボロボロと涙をこぼして立っていたのだ。

「聡、どうしたの?」

「美智子ぉ……」

聡はもう限界だった。もう涙を止められない。

「聡、どうしたのよお」

思わず美智子は聡を抱きしめた。

聡は美智子に体重を預けて、体の中から響いてくる嗚咽をもはや止めることができない。

 
 

「ごめんね。あたしのせいだね……あたしが将くんにモデルを頼んだから」

美智子は、ぐい呑みを小さく傾けながら言った。もう深夜になっている。

聡は黙って首を横に振ると

膝の上で両手で温めるように包んだぐい呑みを口元に持っていく。

落ち着いた聡は、美智子に、将とのいままでを吐露した。美智子はそれを親身に聞いてくれた。

「あたしが、将くんにモデルを頼まなければ、将くん、芸能界入りすることもなかったんだよね……ごめん、聡」

美智子はぐい呑みを置くと、聡に頭を下げた。

「美智子。違う……んだ」

聡は頭を下げた美智子に、そうではない、と呟く。

たしかに、将の芸能界入りは、それが色濃く出てしまったかもしれない。

だけど、それは、もともと二人が抱えていた問題なのだ。

二人の恋の先には、いずれにしてもそれが立ちはだかっていたのだ。

ことに、よい家柄に生まれ、さまざまな才能に恵まれた将は未来にたくさんの可能性を持っている。

だが、若いゆえに一途で、持てる情熱のすべてを聡に注ぎ込もうとする将。……少なくとも聡にはそう見えていた。

今までに恋をした男の中で、もっとも激しく、自分のすべてをぶつけるような愛し方に、聡は酔いながら、恐れていた。

自分が、彼のすべてを占めてしまうことに。

現時点で恋愛に溺れることは……将の可能性を減らしてしまうことなのだ。

「芸能界入りが悪いわけじゃ、ないから。心配しないで。……もともとは、あたしがいけないんだから」

聡は、ぐい呑みを傾けると、その中の酒を飲み干した。

酒は、透き通ったような甘さで、聡の喉にじんと熱くしみた。

そんな聡を美智子は心配そうに見つめる。

「教え子、なんかと付き合い始めたあたしが、いけないんだ……よね」

「聡……」

「でもさ……」好きなんだ。もう後戻りできないくらい。

言葉のかわりに、再び聡の瞳から涙が染み出してきた。

それを美智子から隠すように、立てた膝に顔を埋める。

「聡……将くんのことを、本当に好きなんだね」

美智子の声も震えている。コケティッシュで明るい美智子だけど感受性もひとしお強いのだ。

聡の気持ちを察して、それが美智子の気持ちを震わせたのだ。

しかし、膝に顔を埋めた聡からは美智子のようすは見えない。

ただ、聡は顔を隠したまま、うなづいた。

「聡」

美智子は聡の肩に組むように腕を回した。

「将くんだって、いつまでも教え子じゃないよ。そのうち、大人になるし……」

美智子の手は、聡の肩をゆっくりと叩いた。

「ほら、聡、○○って覚えてる?」

美智子は、若干明るい声で、とある有名なミュージシャンの名前を出した。

若い頃から、アイドルのように活躍していた『歌手』が、いつのまにか『実力派ミュージシャン』になっている、そんな人。

「彼、デビュー前から付き合っていた彼女と結婚してるんだよね。ずっと……5年も交際を隠してて……。

でも、結婚後も人気は衰えなかったじゃん。将くんだって、ある程度実力がついたら、きっと、世間を納得させることができるよ」

そんな日が来るんだろうか。芸能界ではないにしても……将が世間に有無をいわせない実力をつけるとき。

聡はそのとき、いくつになっているんだろうか。

そのあまりの遠さは、恋の終焉と同義ではないか、と今の聡は悲観するしかない。

第212話 何もない部屋で(2)

「わ!」

「何、どうしたの」

突然大声をあげた将に、バスルームの扉を開けた武藤は振り返った。

「いえ……」

その隙に将は、武藤越しにバスルームをのぞいた。

――いない!

聡の姿はバスルームになかった。バスタブのなかにもいない。

――確かに、ここに連れてきたはずなのに……。

「何、口をあけてんの」

呆けて思わず口をあけたままの将を、武藤がクスっと笑った。

「シャワーカーテンも買い物リストに入れなくちゃ、ね」

武藤は独り言をつぶやくと、バスルームの扉を閉めて、洗面所で手を洗った。

そしてハンカチで手をぬぐいながら、腕時計を見て

「やだ。もう11時30分じゃない」

と声をたてる。

「……帰らなくちゃ。ところで、将、あなた車の免許持ってるの?下に停めたミニはあなたのなの?」

「うん」

将は返事をしつつ、悟られないように目を部屋中に泳がせていた。

聡はどこに消えてしまったのか。

ある一点に気づいて、将は声をたてそうになる。

バルコニーに並ぶ、二人の靴!

幸い、ガラス窓は明るいリビングを反射して、外を見えなくしている。

将の立っているところからも、靴は見えなかったが……あそこには確かに、靴が2つ並んでいるはずなのだ。

「仕方ないわね。……でも今日はもう遅いから、私が送っていくわ。下の駐車場はこの部屋専用のだからアナタの車を置きっぱなしにしても差し支えないし」

「い、いいよ、そんな。自分で帰るよ」

とんでもない、と将は思った。この部屋のどこかにいる聡を置いて帰るわけにはいかない。

「バカいいなさんな。事故でも起こしたらどうするの」

武藤の口調が強くなる。武藤はとうに……ここに踏み込んできた時点で、将が隠しているものに気づいていた。

おそらく、女だろう。

ここで逢引でもしていたのに違いない。

乱れてボサボサになった将の髪はたぶんそのためだろう。

そう広くない1LDKだ。

女のほうはバスルームあたりに隠したのだろう、と武藤はバスルームに行ってみたのだ。

そこにいないとなると。

武藤は、部屋を見渡しながら、リビングを反射している窓、そしてクロゼットで視線を止めた。

……だが、そこを開けることはしなかった。

女を……たぶん聡を、見つけ出してどうするのだ、と思い直したからだ。

その代わり、明日のリスクを減らすために、逢引は中断させたほうがいい。

「大丈夫だから」

強くなる武藤の口調に対し、将の口調は懇願するようになっている。

「ダメ。さあ、帰るわよ」

将は思わず、武藤を睨みつけた。しかし武藤はひるまない。本気なのだ。

「さあ」

――この場は、従うしかない。

将はチッと舌うちした。

……将は毅然とした女性に弱い。

これが男性だったり、女性でもヒステリックにわめきちらしたりするのだったら、強引に自分を通すこともできるのだが。

それにしても聡はどこに行ってしまったのだろう。

もう11時30分、と武藤は言っていた。まだ電車はあるものの、

――1人で帰れるだろうか。

と心配になる反面、

――聡は大人だ。なんとかするだろう。そしてあとで、もう一度、聡の家で続きをする、というのもアリだろう。

という楽観もなくはない。

いずれにせよ、メールでフォローをしなくてはならないだろう。

将はため息をつくと武藤について玄関に向かいながら、リビングの照明を消した。

「将、靴は?」

武藤が玄関で将の靴がないことに気づく。

将は慌てて、バルコニーに靴を取りに行った。

そこにはまだ、将の28センチのバッシュと一緒に、聡の23.5センチのミュールが夜風に冷たくなって並んでいた。

――本当に、どこに行ったんだろう。

玄関以外から、外に出られるはずもないのだ。

将は後ろ髪引かれる気持ちで、何もない部屋を後にした。

 
 

部屋から二人が出て行って……聡は、クロゼットからようやく出ることが出来た。

リビングは再び青い街の光だけの薄暗がりになっている。

そんな中、まだ残る胸の鼓動がやけに響く気がした。

――よかった……見つからなくて。

バスルームに隠された聡だが、洗面所を使う、と言われたらマズイと考えた。

そして将が武藤を迎えに玄関に出た一瞬に、バスルームからクロゼットに移動したのだ。

聡はずっと……クロゼットの2mmほどの隙間からリビングをうかがっていた。

その間も、胸を飛び出して聡の体を震わせそうなほどの、激しい鼓動に翻弄されていた。

そして、リビングを見渡す武藤の視線が、一瞬こちらを向いて固定したとき……聡はもうこのまま心臓麻痺で死んでしまうかと思った。

――恐かった。

聡は胸を押さえて、四角くフローリングに映る淡い光の中に膝まづいた。

しばらく、そのまま動けない。呼吸さえも、自由にできない。

硬直したような体、そして時間の中で一つ、わかったことがある。

――バレるのが……こんなに恐いなんて。

紙一重で二人の関係があからさまになる局面に遭遇して、聡は自分がいかにそれを恐れているかを再確認することになった。

部屋は動揺する聡に反して、静まり返っていた。自分の息遣いさえ聞こえそうなほどに。

窓には、夜のビル群。さっき、二人で眺めたときと同じように煌いている。

なのに、一人で暗い部屋で膝をつく聡には、冷たくこちらを拒絶しているように感じた。

そこへ突如。

メール着信音が響きわたって、聡の神経は再び緊張する。……将だ。

>>>

アキラごめん。

武藤のババアが強引で、断れなかった。

悪いけど地下鉄で帰ってもらっていい?

鍵は開けっ放しでいい

あとで、部屋に行くから、続きをしよう

>>>

将も慌てていたのがわかる文面だ。

きっと、後部座席に落ち着くなり送ったのだろう。

聡はそれを見て大きくため息をついた。

そんな聡が、はっきりとわかってしまったことがある。

それは、将がこうやって芸能界に入っていくということは……もともと、担任教師と教え子の関係はタブーであるけれど……

二人の恋は、さらに重い秘密になっていく、ということなのだ。

将は、果たしてそれをわかっているのだろうか。

いや、そこまで気づいていないはずだ。

もしも、気づいていたら。将は芸能界に入らなかっただろう。

しかし……聡はここ何日かの将のメールや短い電話を思い出す。

『収録、一発でOKだった』

『目力がある、って言われた』

『奄美ユリに褒められた』

と控えめながら嬉しげに報告する将。

将は、たしかに、その才能の1つを生かせる場所を見つけつつあるのだ。

それを邪魔する資格は、聡にはない。

いや……将自身の成長と幸せを願うなら……本当に愛しているなら……邪魔は出来ないはずだ。

聡は、将への想いの行く末が、急速に閉ざされていくのを感じながら、銀色めいた薄闇の中に落ちている自分の影を見た。

第211話 何もない部屋で(1)

「わあ……。大都会の真ん中って感じだね」

14階のバルコニーからの風景に、聡は思わず感嘆の声をあげた。

同じ都内でも聡の家や、学校があるあたりとはまるで違う風景。

将が仕事の拠点とする新しいマンションがあるこのあたりは14階がそう高く思えないほど、ビルが林立している。

ビルの木立の向こうに赤いランプをつけた東京タワーが見えている。

それらは、GW中の夜10時といえど、明るく煌いて、夜空の星を霞ませていた。

夜風に柔らかくそよぐ聡の髪を指にからませながら、将はひとときの幸せを噛み締めていた。

風にのって、聡の香りが将の鼻に届く。

たぶん、彼女は風呂に入ったばかりなのだろう。

香りは、いつもより軽くて爽やかだけど、濃厚な甘さに欠ける気がした。

久しぶりにミニを運転して(皮肉なことに、きちんと免許をとってからのほうが運転するチャンスが少なくなった)聡の部屋を訪れた将は、

いつものように玄関先でひとしきり抱きしめてその感触とぬくもり、香りを確かめた。

こうやって実体を確かめると、写真やビデオといった記録媒体なんてものは、まるで役に立たないことがわかる。

押し返してくるような柔らかい肌の弾力。

さらに柔らくて温かい唇。

市販の石鹸やシャンプーと聡自身の体臭がまじった甘い香り。

囁く声の、耳の産毛が震えるようなかすかな振動。

そんなものを再現できるものがあればいいのに、と逢えない間、将は願っていた。

……ひとしきり、それらを確かめると、強引に聡の手を取って、ミニに乗せた。

そして、いま、二人は、なんにもないマンションの一室にいる。

1LDKのそれは武藤の言ったとおり、家具もなく、新築の香りだけがそこにあった。

月のない夜なのに、明るい都会の夜が、窓枠の形にフローリングに映っていた。

その明るさに誘われる2匹の蛾のように、将と聡は、バルコニーに出てきて外を眺めている。

聡の肩においた将の手に、一瞬ぶるっとした震えを感知した。

「寒い?」

将は、聡の肩を少し強く抱き寄せた。薄いブラウスだけの聡に夜風が少し冷たすぎたのかもしれない。

「うん。少し」

聡は隣の将を見上げた。その瞳にビル群の灯りがキラキラと映っている。

「中に入ろうか」

将は、聡の肩を抱くように、バルコニーから部屋の中に入った。

カーテンもない部屋だから、窓ガラスは冷たい空気だけを遮断して、風景はそのままだ。

「あ、靴」

聡はバルコニーで履いていた靴を玄関に戻すべく、かがもうとした。

そんな聡を将はいきなり後ろから抱きしめる。

前を向かせて、むさぼるように口づけをする。

熱くて激しい口づけに、聡の力が抜けていくのがわかる。体から力は抜けていくのに、細い腕は将にしっかりと巻きついている。

背中に、腰に、つる草のように巻きつく聡の腕が、今の将には震えるほど嬉しい。

「しょう……靴を戻さなくちゃ」

聡が夢見るような瞳で将を見つめている。

「いいよ、あとで」

そういうと、将は再び聡の唇に自分のそれを押し当てて、深い口づけへと移行する。

どれぐらい、そうやって口づけと抱擁を繰り返していただろうか。

将の頭は完全に時の感覚が麻痺していた。

気がつくと、将と聡はフローリングの床に横たわって抱き合っていた。

「あきら……あきら」

将は聡を抱きしめながら、いつしか、その服地ごしの柔らかい胸に顔をうずめていた。

寂しかった。甘えさせてくれ。言葉にするかわりにそんな行為になっていた。

「将ってば」

聡は将の髪を撫でた。少し短くなった髪は、少年っぽいといえなくもない。

そんな将はまるで大きな子供みたいだ。

「将。明日、早いんでしょ……」

聡は非情だと自覚しながらも、分別を口にする。

さっきから胸を押されることで、自分の中の野性的なものが目覚めそうで。

自分の中のそれを牽制するように聡は常識的なことを口にしたのだ。

「まだいいよ。……俺、完璧に、『アキラ欠乏症』でさー……」

将は、いっそう強く、胸に顔をおしあててきた。

いつのまにか、背中を往復する手は腰まで範囲を広げている。

胸の中から、いたずらな瞳をあげて

「ただいま、アキラ補給中」

と白い歯を見せながら、将はブラウスの裾から聡の素肌に掌を這わせてきた。

「んもう……」

聡はそういいつつも、止めさせる言葉を口にすることができない。

理性ではいけない、と思っているのだが、すでに将を知っている体は、それだけで理性を越える快感に包まれてしまっているから。

聡も……将がいなくて寂しかった。もしかしたら、将以上に、将が欠乏していたのかもしれない。

「でもさ……。3週間もアキラと離れ離れで俺、大丈夫かな」

将の掌は聡の胸のふくらみをとらえている。

「メールとか、電話はできるでしょ」

聡は、その動物的な快感に抵抗するべく、卑近で無機質な単語を、唾液でやけに粘っこい舌に乗せてみた。

「ベルベル人の家庭じゃ無理じゃねー?」

将は、ブラウスの下で聡の胸を覆う下着をずりあげてしまった。

「あっ、ダメ」

快感は、胸の先端から、将を覚えている、将のためだけの器官に鋭く走った。

それは耐えがたくて、思わず聡は身を引いた。

「だめ。将……明日、早いんでしょ。もう帰らなくちゃ」

聡は乱れた服のまま、体を起こした。

「アキラ……」

将も一緒に身を起こす。

摩天楼の明かりに青く照らされた将の顔は、せつなさでハッとするほど美しかった。

将は、聡の体をもう一度抱きしめると

「……明日から、俺、3週間もアキラなしなんだぜ」

と耳元で囁く。さらに

「アキラは俺を覚えているんだろ。でも俺は覚えてないし……」

将の肩越しに、白いシャツを着た将の広い背中が聡の目の前に広がっていた。

「こんなの寂しすぎるし……。だから、もう一度」

これ以上ないほど切ない声で訴える。

――3週間も顔をあわせることができないんだし。

――一度、受け入れたあとも、巧く教師として振舞えたんだし。

いったん溶けて液体になった聡の中の『女』は、理性の盆からこぼれてしまったように、もうそこへ収まろうとしない。

かわりに、将の訴えを受け入れてもいい理由を挙げ始める。

聡は結局……将にも、自分の中の『女』にも、抵抗の言葉を持たないまま、再びフローリングに横たわっていた。

将は窓からの淡い光に浮かび上がる聡の顔を見つめた。

黒目がちの瞳がうるんで、青い都会の夜が揺れた。

 
 

ガチャ。

玄関からの音を二人は聞いた。

「将、そこにいるの?」

マネージャーの武藤の声が、がらんとした部屋に響いた。

今から、甘く激しい感覚の世界を彷徨おうとしていた二人は一気に現実に引き戻された。

将は、聡の濡れた肌に埋めていた指をあわてて引き抜き、

昇りはじめていた聡は、閉じていた目をあけると同時に息を飲んだ。

ガチャガチャと音がするのは、将がさっきチェーンをしていたからだろう。

二人は顔を見合わせた。

「やばい」

将は力が抜けたような聡の腕を引っ張りあげると、引きずるように洗面所へ連れて行った。

半透明のバスルームの扉を開けると、

「ここに隠れてて。俺がなんとかするから」

と早口で囁きながら、聡をバスルームの中に押し込んで、扉を素早く閉めた。

その間も

「将、いるんでしょー!開けなさい」

と武藤の声と、チャイムが響く。

「ほーい」

将は、何気ない、のんびりした声を出すべく努力をした。

それは、奄美ユリのドラマより、演技力が必要だった。

そして聡を愛撫していた中指をペロッと舐めて清めると、その手をジーンズのポケットに突っ込み、

何食わぬ顔で洗面所から出て、リビングと玄関を仕切る扉を閉めながら玄関に出た。

「ちょっと待って」

将はいったん、ドアを閉めると、チェーンをあけて武藤を中に入れた。

「なんだよ……。こんな時間に」

と武藤に、わざとけげんな声を向けつつ、今が何時になっているのか将にはよくわからない。

「あなたこそ、なにやってんの。明日早いのに」

「……いいじゃん。新しい部屋が見たかっただけだよ」

武藤は言い訳する将の横をすり抜けて、リビングに入るべく照明のスイッチをつける。

将は彼女の後についていきながら、何もヤバイものはなかっただろうな、と今二人が横たわっていたあたりを素早く点検した。

「武藤さん、なんで、ここに来たのさ」

「……ちょっとね」

「ちょっとって何だよ」

武藤はわざと理由を口にしないまま、将をちらりと横目で見た。

反応を見ているのである。将が何かを隠している、と武藤にはすぐに分かった。

本当は、将を送った後、海外に旅立つ前に確かめておくことを思い出して、武藤は事務所に戻ったのだが、その帰りにここに寄ってみたのである。

そこで、この部屋専用の駐車スペースに、ミニが置いてあったのを見つけた。

将がすでに免許を取得していて、かつミニを持っていることを知らない武藤は、管理人に無断駐車を注意してもらうように言いにいった。

すると、24時間常駐の管理人は

『1402号の鷹枝さんはさっき、車を停めたいけど駐車場はあるか、と訊きに来られましたが』

と答えたのだ。

「将こそ、まっくらなまま何をしてたの」

と問われて、将は言葉に詰まった。

武藤は将に疑惑の目を向けたまま、少し微笑むと

「ちょっと手を洗わせてね」

と洗面所のほうに向かった。

「や……」

将は一瞬止めようと思ったが、止めたところで同じだと瞬時に気づいた。

腹を決めて、それでも心配で、武藤の後ろについて洗面所に足を踏み入れた。

――アキラ、バスタブの中にでも隠れていてくれ……!

祈る将を嘲笑うように、武藤はなぜか洗面所でなくバスルームの扉を開けた。

第210話 連休

土曜日から、暦は本格的にGW入りした。

しかし、そんなことに関係なく、将はあいかわらず忙しかった。

なにせ、GWが終わる直前の5月5日からパリに旅立たなくてはならないのだ。

それからモロッコへの移動も含めて5月26日まで帰国できない。

ウルウル滞在日記の仕事で、サハラ砂漠の遊牧民・ベルベル人の家庭に1週間も滞在するのが大きい。

武藤は

「思い切ってこんなに長く日本を離れられるのも今のうちだけよ」

とヘンな慰め方をしてくれた。

あまりにも忙しいので、聡に会えたのも、あの午前中だけ学校に行った2日のみだ。

いや、逢えたというより、顔を見れた、というほうが正しい。

直接、言葉すらロクにかわしていないのだから。

それに、ヒージーのことも心配だったのだが、結局、見舞いに行けてない。

命は助かったものの、全身に麻痺が残ると伝えられたヒージーの容態に付いて

「思ったより回復されています。お医者様も100歳にしては素晴らしい体力だ、と驚かれて……もうすぐ普通にお話もできるようになりそうですよ」

と西嶋が電話で教えてくれた。

だけど……裏を返せば、今まで普通に話をするのも難しかった容態だった、ということがうかがえて、将は心配になった。

だが、どうもできない。将は、電話で「ヒージーをお願いします」と頼むしかなかった。

大悟は、新しい保護者である西嶋の弟に、履歴書にハンをもらえて、GWだけの短期のアルバイトに行っているらしい。

一緒に住んでいるとは思えないほど、顔を見ない。

ただ、洗濯が干してあったり、ビールの缶が増えていたりすることで「いるんだな」ということがわかるぐらいだ。

だから、5月5日から3週間、パリとモロッコに行く件もメールで伝えたほどだ。

同居しているのにメールするのもヘンだなと、将はちょっと可笑しかった。

しかし、出発前に絶対に逢っておきたいのは聡だった。

体中が酸素不足のように、聡を欲している。

将は、たびたび携帯をあけては聡の写真をながめてため息をついた。

 
 

聡のほうは暦どおり休みに入っていた。

今年のGWも五月晴れに恵まれ、行楽日和だったが、聡はどこにも行かなかった。

行くなら……できれば将と一緒に行きたいけれど……。

だけど将本人からちょこちょこと送られてくるメールからは、将が分刻みのスケジュールで忙しいということがうかがえる。

――萩に帰ればよかったかな。

という考えがちらりと頭をかすめる。

そこから、今年の正月を……古い家を軋ませるように抱き合った自分の部屋、そして膝の上に乗って将のコートの中で温まった須佐海岸を懐かしく思い出す。

きっと一人で帰っても、寂しさが染みるだけだろう。

聡は狭いバルコニーに出ると、ミントに水をやった。

冬の間枯れていたミントは、初夏の陽気に、イキイキと若葉を伸ばしていた。

玉のように水を弾くミントの若葉をを見ているうちに、将のマンションに夜食でもつくりに行ってあげようか、と思いついた。

それは一瞬いい考えのように思えた。

ミントを使って、ベトナム風の春巻きでもつくったら喜ぶんじゃないだろうか。

浮き立つ聡だったが、あることを思い出して、立ちすくんだ。……大悟。

あの雨の日。

聡の部屋にやってきて将の罪を告白しに来た大悟。

その後も大悟はあいかわらず将と暮らしているというが、もし、将を待っている間に大悟と二人になったら……。

どう接していいのか。

あのとき、聡は大悟の苦しい胸のうちがわかったような気がしていた。

本当のことを告白して、少しでもラクになりたかったことも。

だけど。そんなことは、まるで聞かなかったように、ふるまえるだろうか。聡には自信がない。

それに。聡はもう1つ重要なことを思い出した。

……あの武藤というマネージャーが家まであがってくるかもしれない。

聡は校長室で挨拶をした武藤の目を思い出した。

一重瞼の、欧米人に人気があるタイプのクールビューティ。

しかし、一見感じよくふるまっていた、あの知的な瞳は……すべてを見透かしているように、聡には思えた。

つまり、将との関係がすべてバレているのではないだろうか、と聡は恐れた。

だから……聡は、将に逢いたいのに、逢いにいけずにただ徒に休日を過ごしていた。

 
 

明日はいよいよ出発だ。

将は、武藤と社長、それからカメラマンの篠塚の4人で小料理屋の座敷で夕食に来ていた。

名残の和食で壮行会というわけだ。

「それにしても、びっくりしました。将が、フランス語が出来るなんて」

武藤が小さな鉢の中の、冷たくひやした茶碗蒸を匙で掬いながら感嘆した。

「自分でもびっくりした。結構覚えてるもんなんだなーって」

と将は、おこぜの薄造りをつまみあげながら笑った。

「やっぱり、アタシの言った通りでしょ。このコは他のコとは一味も二味も違うのよ」

社長が得意げに笑う。

出発を控えた今日、挨拶と数字ぐらいは理解できたほうが、と将は、フランス語の集中講義を2時間だけ受けたのだ。

といっても、父の仕事の都合で、幼稚園までフランスにいて、現地の人々と何不自由なく話していた将である。

そこで、将はみるみるうちに、よく使うフレーズを思い出していた。

そもそも、聴き取りは最初からかなりできていた。

将は、聡が日頃『語学は、字に頼らない体験が大事だ』と言っている意味がよくわかる気がした。

「発音もスバラシイです」

フランス人の講師は絶賛した。

後半は、単語を補助してもらうだけで、簡単な会話は問題なくできているように、武藤には見えたほどだ。

「幼稚園までいたって、じゃあ、パリに知り合いがいるの?パリジェンヌのガールフレンドとか?」

篠塚がお猪口を傾けながら三日月のような形をさせた目をあげた。

今日、酒を飲んでいるのは、車の運転がない篠塚と社長だけである。

ちなみに写真集とコマーシャルフォトを担当する篠塚も明日から一緒にパリ入りすることになっている。

「ハァ……」

と笑顔であいまいに答えながら、将は時間があったら訪ねてみたい人を思い浮かべていた。

6歳同士で手に手とって街に出て。迷子になって大泣きして。

母の思い出につながるあの黒褐色(ブリュン)の髪に青い瞳が可愛かったあのコは今もあの街にいるんだろうか……。

 
 

明日のために、9時には店を出た将は、武藤の車に揺られて軽く眠っていた。

「将。ここが、新しいマンションよ」

武藤の声で、目が覚めた。車が止まっている。

将はうながされて窓から外を見上げた。新しいマンションらしかった。

「ここの14階、1402号室だから。……事務所から歩いて5分、一番近いテレビ局で歩いて5分、一番遠いところでも車で15分以内だから。使わないと思うけど、地下鉄の駅もすぐよ」

武藤はちょっと得意そうに説明すると、後部座席の将を振り返って、

「まだ家具は入ってないけど、帰国までに万事そろえるように頼んでるから」

と将の手に鍵を落とした。

新しい鍵は、将の手の中で、青い街の灯を映してピカッと光った。

それを見た将は、出発前に実行すべき、楽しい企みを思いついた。

 

「じゃあ、明日。7時にモーニングコールするから。早く寝るのよ」

そういって武藤の運転する車は夜の中へと走り去った。

将は、武藤の車が見えなくなるのを見計らって、さっそく聡に電話をした。

「あ、アキラ?」

電話をしながら駐車場へと急ぐ。

「将、帰ってきたの?」

このところ、毎晩、帰宅後にする短い会話だけが、二人をつないでいたのだ。

「うん。……今から行っていい?アキラを連れて行きたいところがあるんだ」

「今から? 将、明日からフランスでしょう」

思いがけない提案に、電話の向こうで聡が驚いた声をあげる。それも将には愉快だった。

「いいから。……とにかく、行くから」

聡を驚かせたい将は、ミニに乗り込むとエンジンをかけるのももどかしく、電話をいったん切った。

第209話 再燃する想い

一瞬なのに、みな子にはスローモーションのように思えた。

みな子は、床へと落ちながら、自分が窓からはずれた防護柵を握っていることに気づいた。

まだ無重力のうちに、とそれを無我夢中でできるだけ自分の体から遠くに離すべく体をよじる。

ガターン

と体育館の木の床が、はずれた防護柵で派手な音を立てたのをみな子は聞いた。

だがその瞬間、みな子は自分がどうなったのか、まるで記憶がなかった。

ごく一瞬だけ、みな子は気を失った状態になっていたらしい。

「キャー!」

「みな子!」

一瞬の静寂ののちに、騒然となった周囲に気づいて、みな子はようやく自分を取り戻した。

目をつぶっていても横向きに倒れているのがわかる。

皆が自分を取り巻いているらしい。それにしても。

今の姿勢から、肩を強打しているはずなのだが、2mほどの場所から落ちた、にしては、どこにも衝撃を感じた痕跡がない。

「将!」

井口春樹の野太い叫び声に、みな子はハッとした。

倒れたみな子は温かいものに抱きとめられていた。

干草のような香りがする。

「……大丈夫。なんともねえよ」

みな子の耳の、思いがけないほど近くで聞こえたその声は。

――まさか、まさか……。

みな子が恐る恐る目をあけると……自分の下敷きになっているのは、他ならぬ将だった。

どうやら、落ちたみな子を将が受け止めながら、一緒に床に倒れこんだらしい。

みな子は、それを知ったとたん、あわてて跳ね起きようとしたが、起きれない。

将の腕が自分の肩をしっかりと抱いているのだ。

「大丈夫?星野サン」

自分に話し掛ける将の声がすぐ近くで聞こえる。

自分の半身がありえない温かさに触れていることにみな子はあわてた。

「だっ、大丈夫。離して」

みな子は将の腕をふりほどいて、立ち上がろうとした。

皆が見守る中、いつまでもこんな体勢でいるわけにもいかない。

しかし、ケガはしていないようだが、体全体がこわばっているため、ふらついた。

「みな子!大丈夫?」

漫研仲間のすみれが駆け寄って支える。

「保健室、いちおう行く?」と訊くすみれの後ろで

「お前、大丈夫かよ。ゲイノー人は体が資本じゃね?」

という井口の冗談めかした声が聞こえて、みな子はハッとして将のほうを見た。

将はちょうど遅れて起き上がるところだった。いててて、と背中に手をやっている。

「だーいじょうぶ。打ち身程度だし」

といいながら立ち上がって、ジャージの腰のあたりをはたいている。

本当にケガはないようで、井口は

「明日、ケツに青タン出来てんじゃねーの」

と冷やかしの言葉を口にした。……彼なりの安堵のセリフである。

みな子はホッとして、何か声をかけようか、と思ったが、喉が乾いたように声がでない。

「さ、保健室、いこ」というすみれに従うしかなかった。

そこへようやく体育教師がやってきた。

彼はバドミントンのコートの真ん中に落ちた窓の防護柵を見て仰天すると、あわてて皆に

「ケガはないか!」

と声をかけていた。

 
 

みな子は、将が受け止めてくれたおかげで、奇跡的に無傷だった。

しかし、ショックがあるだろう、ということでとりあえず保健室で1時間様子を見ることになった。

しかし……みな子がショックを受けたのだとしたら、それは、落下したことではない。

ベッドに横になりながら、みな子は、さっきの一瞬を脳裏に再現していた。

落ちていくあの一瞬をみな子はスローモーションのように思い出すことができる。

だが、将に抱きとめられた一瞬を……どうしても思い出すことができない。

気がついたときは、将の腕の中だった。

あのまま床に叩きつけられたはずだったみな子を助けてくれたのは、ほかならぬ将なのだ。

将は、みな子をしっかりと抱きしめていた。

みな子にとって、異性に抱きしめられるのは、生まれて初めてである。

その腕の力強さが……胸板の弾力が、みな子の肩のあたりに生々しく蘇って、みな子は息苦しくなる。

思わず寝返りを打った。

――あれが……男、なんだ。

そして初めて好きになった異性。鷹枝将。

自分を抱きとめた体の熱さが今も残るようで、みな子はそれから逃れるように反対側に寝返りを打った。

みな子は眠ろうと、努力した。

だけど、みな子の脳は、隙あらば、さっきの一瞬を再現しようとしてしまう。そして

――どうして、助けてくれたの?

みな子は、集まっていたクラスメートの中で、将が、助けてくれたことに何か、特別な意味を見出そうとしてしまっていた。

それに何度となく抗っているとき、保健室の引き戸が開いた。

「あら、アキラ先生」

三田先生の声がした。みな子はその名前を聞いて、体をびくっとふるわせた。

「星野さんが体育館の窓から落ちたって聞きまして……」

と聡の声が聞こえる。

この時間、授業がないらしい聡は、担任教師として教え子のようすを見に来たらしい。

「寝てますか?」

「たぶん、おきてると思うけど。さっきまで寝返り打ってたから……星野さん、どう?」

と、みな子が寝ているベッドのカーテンが開く。

幸い、聡や三田先生のいる方角に背を向けているものの、将の胸板があたっていた肩がうずくようだ。

みな子は背を向けたまま、寝ているふりをすることに努めた。

鼓動が全身に響く。それは布団すら揺らしているのではと気が気でない。

「寝ちゃったみたいね」

と三田先生の声がして、カーテンが閉じる音がした。

「いちおう、ケガはないみたいだから、アキラ先生の心配には及びませんよ」

「わかりました。よろしくお願いします」

聡はしっとりとした低音でみな子のことを三田先生に頼むと、去っていった。

ようやく、みな子は心臓との戦いから解放された。

そのとたん、肩に刻印された、熱い感触が再び戻る。

あの感触を……古城先生は知っているんだ。もっと深く。

それは嫉妬というよりも、もっと深く将の抱擁を知るであろう聡への……せつないほどの憧憬だった。

みな子は、聡が心から羨ましかった。

みな子が知っている将は……学校の誰も知らない、血だらけの猫を抱いた優しい姿。

夕陽に金茶色に輝く瞳。成長しきった身長に似合わない、子供っぽい笑顔。

「星野サン」とあらたまる低い声。

ピアノの前であわせた、熱い手のひら。

将と抱き合える聡にはかなわないけれど、みな子が知る将のすべては、それだけでも、宝物のようだった。

だけど……今また、将の腕と胸の力強さ、血潮の熱さを知ってしまったみな子。

それは稲妻のように、燻っていたみな子の思いに命中した。

聡と抱き合う将を目撃して……一度は諦めたみな子だが、想いはずっと燻っていたのだ。

燻っていた煙がしみるように、せつなさが尖って、つん、と鼻から目頭に刺さった。

思わずみな子は涙をこぼした。涙は音もなく、保健室の枕に染みをつくった。

――やっぱり、好き。……好き。

燻っていた想いは、喉の下で熱く燃え上がった。

将が聡と愛しあっていることはわかっている。

だけど。将を恋する気持ちは抑えられない。

みな子は、三田に気付かれないように、静かに涙を流し続けた……。

第208話 1週間ぶりの学校

将のドラマ初出演作の収録は月曜、火曜で無事終わった。

将の演技は、自分に近い役柄だったせいか、

「初めてとは思えないね」

と周囲のものを感心させた。

事務所上げての特訓の成果なのだが、それもあってセリフを噛むこともなかった。

何より、物怖じしない堂々とした演技とTV映りのよさがスタッフに好評だった。

奄美ユリもすっかり将を気に入ったようで

「今回の役が将くんになってよかったわ」

などと最高級の言葉を将に与えた。最初、配役交代を怒って、意地悪していたことが嘘のようである。

「今度、みんなで焼肉食べにいきましょうよ。……また一緒に仕事しましょうね」

と笑顔を将に投げかけながらスタジオをあとにしていった。

 

しかし、翌日から世間はGWに入ったのにも関わらず、将は忙しかった。

GWあけから始まる海外ロケの打ち合わせに、『E』のスタジオ撮影。着ボイスや着ムービーの録音、撮影。

さらに『ばくせん2』の主要な生徒役が本決まりになったので、さらなる演技指導。

いちおう、歌とかダンスのレッスンもあったが、歌の方は

「ヘタってわけじゃないけど、無理して売る必要もないわね」

ということもあり、また将自身が「えー、アイドル~?」とごねたこともあり、歌手デビューは避けられた。

時間はいくらあっても足りないということだが、GW中から始まる海外ロケで、しばらく学校に行けないので、4月30日と5月1日は午前中だけ学校に行くことを許された。

ひさしぶりに聡に会える。

武藤が運転する車に揺られながら、将は再会を夢見てまどろんだ。

先週からずっと忙しかった将は、家に寝に帰るだけで、聡にこっそり会いに行くどころではなかったのである。

それでも

『いまから○○で撮影』

『ドーラン塗られた。きもちわるい~』

『奄美ユリに褒められた』

と移動時間や休憩時間ごとに短いメールを聡に送っていた。

聡からも、

『がんばってね』

『あとでしっかりおとさないとお肌に悪いよ』

『スゴイ!よかったね!』

とすぐにではないものの、返信が返って来て、その短いメッセージと待ち受け画面に、疲れた将は癒された。

ちなみに将の企画で着ボイスに録音された

『今日も、頑張れよ』

『おやすみ』

は、実は聡へのメッセージなのだ。

 
 

ほぼ1週間ぶりに学校にやってきた将は、HRが始まる前から、廊下の窓をあけて、聡がやってくるのを今か今かと待ち受けていた。

まもなく、ベージュのスーツを身につけた聡が1組の担任とともに廊下に現れた。

将は、顔を窓から半分ほど出して、聡に手を振る。

それに気付いた聡は、駆け出したくなる。

だけど他の教師の手前、『もう』と少し怒ったふりをして微笑むのがせいいっぱいだ。

1週間ぶりに見る将は、髪型が変わっていた。

若干短くした髪型は、去年学校で再会した頃に近い。

聡は懐かしさのあまり、胸が苦しくなるのを感じた。

この半年で、将はどれだけ自分の中で大きい存在になったのだろう。

聡はこの1週間でさらに思い知ることとなった。

将のいない教室は、他の生徒で賑やかでもどこかガランとしている気がしていた。

居場所はわかっているのに、メッセージももらっているのに、12月に失踪したときより、寂しさはひとしおだった。

聡は、その寂しさを、将が写っている『mon-mo』や将に教えられたHPを見て紛らわすようにしていたが、こうやって教壇の上からでも、実物を見ると、やっぱり写真とは違う。

プロが撮ったとはいっても、聡が知っている本物の将の魅力にはとうてい及ばない。

ぬくもりも、匂いも、触れることもできないけれど、こうやって教卓の上からでも将に逢えるのは、胸がときめく。

つい、将のほうばかり見てしまいそうになるのを、かろうじて教師の義務感で抑え、聡はHRを終えた。

 
 

1時間目は体育だった。

「よー、将。お前、卓球の練習しねーの」

体育館の壁際に座りこむ将に、バスケットボールを手にした井口が窓から声をかけてきた。

伸びたマカロニを、頭の高い位置でピンクのゴムでツインテールに括ったヘンな頭は、ジャージとは不似合いで、珍妙な格好だ。

これから1ヶ月、体育はクラスマッチの種目を各々練習することになっているのだ。

「だって、しんどいもん。これ以上体動かしたくない」

ジムと演技特訓、ダンスレッスンで疲れている将は、ジャージには着替えたものの、教師の眼を盗んでさぼることに専念しているのである。

教師は今、バレーボール組の監視に行っている様で、バスケの井口は水を飲みに来たついでに将に声をかけてきたわけだ。

井口はそのまま体育館にあがりこむと将の横にドッカと腰をおろした。

楽しげに卓球とバドミントンに励むクラスメートを眺めながら

「お前、やっぱオーディションとか受けてんの?」

と井口が訊いてきた。

「いいや。別に」

井口がダンスレッスンに行っているスタジオでは、しょっちゅうオーディションの告知が張られ、巧い人間はそれにチャレンジすることで、プロへの第一歩としているらしいのだ。

「俺なんかはまだまだだけどぉ。でもこんど、映画のエンディングでの群舞のオーディションがあるんだけど、それは受けてみようかなと思うんだ」

と嬉しそうにバスケットボールを小さくドリブルさせながら話した。

「へえ」

と将が相槌をうったときだ。

バドミントンの練習にいそしむ女子のグループが1箇所に集まりだした。

将と井口が座っている窓際のすぐ近くで上を指差して、困った顔をしている。

どうやら……バドミントンのシャトルが高い窓から降りてこないらしい。

座ったまま将もそっちを見上げると、シャトルは上の窓を防護する柵にひっかかってしまっている。

女子の一人が、長ほうきを持ってきたが、あと少しというところで届かない。

「あーん、惜しい」

皆がため息をもらす。

「俺が」と将が立ち上がろうとしたときに、

「こんなの登ればすぐ取れるわよ」

と星野みな子が、下の窓の防護柵に手をかけて、梯子のようにして登り始めた。

「みな子、危ないわよ」

とそこにいる女子が口々に声をかけるが、「大丈夫」とみな子は聞かず登り続ける。

防護柵を梯子のように登れば、上の窓の防護柵の上まで簡単に届きそうな気がした。

運動神経はそれほどよくないみな子だが、クラス委員としての責任感からつい、体が動いてしまったのだ。

体育館の窓を登り始めたみな子に、卓球をやっていた生徒も手をとめて集まってくる。

将と井口も、なんとなくそっちに行ってみた。

みな子の足が、下の窓の防護柵の上にかかる。両手は上の窓の防護柵にかかっている。

しかし、そこから先が困った。

シャトルに手が届くまで、あと30センチはある。

足をどうしようか。みな子は逡巡した。

上の窓の防護柵と下の窓の防護柵の間は1メートルほどあいている。

足をあげるには……上の防護柵はまだ遠い。

途方にくれたみな子は、下に体育館中の生徒が集まっているのに気づいた。

その中に……将を見つける。

「やだ、みんな見ないでよ」

声が震えている自分に気づいた。

将の視線に……そして自分が思ったより高いところにいることに今更おびえたのだ。

だけど、これだけの注目を浴びている中、引っ込みがつかない。

みな子は、行き場のなくなった足を、下の窓の枠に乗せてみた。

2センチばかりの出っ張りにつま先を乗せるようにして、上の防護柵にかけた手を1段上に伸ばす。

そこに懸垂のように体重を掛けて、みな子は片足ずつ、上の防護柵に足をかけようとした。

ぎしっ。

上の防護柵がきしんだ。

「くっ」

もう少しで足がかかりそう……というところで、みな子は

「危ない!」という将の声を聞いた。

顔に何かがパラパラと降りかかり……次の瞬間、みな子の体はぐらり、防護柵ごと勢いよく地球に引っ張られた。

第207話 保護者

金曜の夕方。

大悟は三宅弁護士に送ってもらった地図に従って、西嶋運転手の弟・西嶋隆弘の家を目指して歩いていた。

西嶋隆弘の家があるT地区は、東京の『モノづくり』を代表するような小さな町工場が密集し活気がある一帯だ。

西嶋隆弘が経営する西嶋光学工業は、隆弘が一代で築きあげた会社だが、ある技術で世界中にその名を知られているという。

その光学機器はNASAの宇宙開発にも使われているという記事を、大悟はあらかじめネットで見つけていた。

当初、なんとなく、西嶋を訪ねあぐねていた大悟だが、それで少し興味が湧いて、訪ねてみることにしたのだった。

もちろん、手持ちの金がなくなってきたことのほうが原因としては大きいが……。

 
 

西嶋光学工業は、大悟の想像よりずっと立派だった。

『町工場』というと、錆びたトタンの外壁に、とびちる油、黒く汚れた作業服に軍手……というのが大悟のイメージだったが、

ここはまるで3階建てのこぢんまりとしたオフィスビルのように見えた。

大悟はとりあえず、その小さなオフィスビルの玄関から入り、受付に立った。

受付の奥は小さな事務所になっていて、そこで電話の受け答えをしていた中年の女事務員が大悟を見つけてすぐに

「ハーイ。ちょっと待っててくださいね」

と元気な声をかけた。そして、観葉植物で区切られた応接スペースにあるソファを手振りで勧める。

事務員は電話に戻ると、真剣な顔でファイルを取り出して、チェックをしたりなどしていた。

大悟は小さな事務所を見渡した。キャビネットに囲まれた中に、グレーの事務用机が5つ置かれていて、いずれも書類が雑然と置かれている。

小さな事務スペースの向こうはガラスで仕切られていて、作業台の上で精密な作業をしている男達が見えた。

女事務員は、やっと受話器を置くと、

「あの、どちら様でしたでしょうか」

とソファに座る大悟のほうに近寄ってきた。小太りなのに身のこなしは素早い。

「あの……。島といいます。三宅弁護士事務所の紹介で伺いました」

大悟は立ち上がるとおずおずと頭を下げた。

「ああ!島大悟さん。聞いてますよ。……そう、あなたがぁ、まあ、まあ」

女事務員は感慨深そうに大悟を見上げた。そして

「もうすぐ5時30分だから、少し待っててね。工場がひけるから。主人もすぐ出てきますからね」

と親しげに声をかけた。

「あ、私は、西嶋の家内で、節子といいます。よろしくね」

と大悟に微笑みかけた。

 
 

節子の言ったとおり、まもなく17時30分になり、工場は終わった。

1階奥と2階の作業場より30人ほどの作業服の男達が次々と

「お疲れ様です」

と声をかけあいながら出てきて、ロッカールームに入り、引けていった。

中には作業服のまま、会社を出る男もいる。

「あ、社長」

節子は夫を呼ぶのに、『社長』と呼んだ。社内だから呼び分けているのだろう。

節子の視線の先に、薄いグリーンの作業服を着た中年の男性がこちらへやってくるのが見えた。

すっかり禿げた頭は、大悟の親戚のバカ親爺を思わせるが、禿げ頭の下の顔は、穏やかで、仕事を終えたせいか、さばさばとした笑顔だ。

「島大悟さんがいらっしゃったわよ」

節子は、隆弘にはずんだ声をかけた。

「おお、来たか。じゃ、上で」

と、親しげに、年の割にキラキラと光る瞳を大悟に向けた。

 

西嶋光学工業の社ビルは2階までが工場兼オフィスで、3階以上が社長の自宅になっていた。

社長の隆弘について、大悟は階段を上った。

「会社が休みのときは、外階段から出入りするんだ」

といいながら隆弘は3階の階段を登ったところにあるドアをあけた。

そのとたん、まっ白な猫が飛んできて、隆弘の足の周りに嬉しそうにまとわりついた。

「こら。シロ。足踏むぞ……」

隆弘はそういいながら、

「遠慮しないで、あがりなさい」

と大悟を促した。

「ハイ」

猫は客が珍しいのか、大悟を見上げてニャー、と鳴いた。

下の事務所にはソファがあったのに、ここにはなく、かわりに畳の間と古風なちゃぶだいが応接間を兼ねている。

オフィスビルの外観から信じられないほど、所帯じみた……まるで昭和30年代を思わせるようなスペースになっていた。

隆弘は、ちゃぶ台の奥に作業服のままドッカとあぐらをかくと、大悟にも親しげに座布団を勧めながら

「座って、座って。……君はまだ未成年だったな。熱いのと冷たいのとどっちがいい?」

と聞いてきた。

「……じゃあ、冷たいので」

と大悟が言い終わる前に

「節子、麦茶2つー!」

と隆弘は奥に向かって怒鳴った。

「あら、ビール、栓抜いちゃったわ」

節子はすでに、怒鳴ることもない位置に、盆にグラス3つとビール瓶を乗せて立っていた。

「しょーがないなあ……。大悟くんは、イケる口かい?」

隆弘は大悟をいたずらっぽく見つめて、手首をクイッと傾けた。お酒はやるのか、という意味だ。

「いや、僕はいいです」

大悟は用心のために、遠慮した。

もしかしたら、更生したのかどうか、試しているのかもしれないから。

本当は……、ここまで来るのに駅から結構歩いたので、ビールは大歓迎なのだが。

「そうか……。節子、アレを持ってこい」

「ハイハイ」

節子はお盆に載せたビールとグラスを畳に置くと、踵を返した。

隆弘は、「じゃあ、悪いけど私だけもらいますよ」と

笑顔で大悟に断ると、手酌でビールをついでグラス1杯を一口のように飲み干した。

ぐいっと喉が動くさま、そして気持ちよさそうに息を吐き出す様は、とても旨そうだ。

グラス2杯ほどを飲んだところで、節子が「それ」を両手で捧げるように大事そうに持ってくると、隆弘に渡して、自分もその横に座った。

それは……大悟名義の通帳とそれに挟まった封筒だった。

通帳を開いて、隆弘は説明した。

「これは、私が三宅さんから預かった通帳だ。この中に、君に必要な金が振り込まれる」

中には5万と記帳され、今日の日付で引き出されていた。

その引き出した5万は封筒の中に入っていた。

「これは5月分に少し4月分がプラスされているそうだ。いま、君は鷹枝さんの息子さんのマンションに住んでるというから、小遣いと散髪代、洋服代ということだ」

隆弘は封筒から紙幣を出すと、大悟の前でいったん広げた。

「これからは、毎月1回、小遣いを取りに来なさい……もちろん、君がどこか学校に通いたい、というのなら、ここに必要な学費が振り込まれる。

私はそれを責任を持って、学校に振り込むようにする。きちんと領収証もとるから、君は毎月確認しなさい」

「どうも、ありがとうございます」

大悟は頭を下げながら、その封筒を受け取った。

「そうだ。大悟くん。あなた保険証持ってないでしょう?」

節子が隆弘の隣から声をかけた。

「あのね。もしよかったら、うちの子になりなさい?そしたら扶養家族として保険証も使えるのよ」

大悟はそういえば『保険証』を持っていなかったと思い出した。

自動車部品工場に勤めていたときは持っていたのだが、その後、保険のないハケン勤務だったから。

「こら、お前、まだ気が早いぞ。……ところで、ちょうどよかった。大悟くん、1つ頼みがあるんだが」

隆弘は、気の早い節子を咎めると、大悟に封筒を渡し、にっこりと笑った。

「ハイ」

「実はな」

隆弘は、あぐらから勢いよく立ち上がると、箪笥の上に飾ってある模型の軍艦を持ってきた。

それは砲台が見事に壊れていた。

「戦艦大和の模型だ。知人にもらったものなんだが、シロがいたずらして壊しやがってなあ……。

自分で治そうと思ったんだが、今日は疲れてしまってねえ……。

でも今週末、その知人がうちにくるんだよ。それで、大悟くん、もしよかったら、ちょっと治してくれないか?」

隆弘は「これが、壊れる前の写真」と模型の完成形の写真を持ってきてくれた。

「元通りに見えればいいから」

大悟は、それ模型と写真をじっと眺めた。あまり難しくなさそうに見えた。

「ハイ。僕でよかったら……」

「よかった。じゃさっそく頼むよ」

隆弘はボンドやカッター、塗料などの道具を持ってくると、自分はちゃぶだいの片方に腰掛けて、ビールの続きを飲みながら、大悟の手並みをのんびりと観察していた。

節子は夕食の支度をしはじめた。

台所から包丁を使うコトコトという音や、何かを炒める賑やかな音がしたかと思うと、ちゃぶ台の方まで醤油の匂いが漂ってきた。

……大悟は、手先が器用なほうである。

それを、最大限に生かして、万引きやバイク泥棒などをして暮らしていたのである。

父が借金取りに追われて貧乏暮らしだった大悟は、こんな立派な模型を作ったことはないが、材料と完成図があるなら、別に特に難しいようにも思えなかった。

ときおり、アドバイスを受けながらも、1時間あまりで、壊れた砲台は元通りになった。

「ありがとう!助かったよ。大悟くんは、手先が器用だな」

隆弘は、握手を求めてきた。

この昭和な雰囲気の中で、欧米風の挨拶がどことなく面映い。

「いい手だ。それにいい目だ」

隆弘は大悟の手を握りながら、まっすぐに大悟を見つめ、さらに褒めた。

大悟はくすぐったいような気持ちになった。

「もう、あなたったら。大悟くん、お腹すいたでしょう」

「ちょうど、メシの時間だな。メシ食ってけ。たいしたものはないが」

隆弘は、大悟の肩を叩いた。

「まあ。失礼ねっ」

節子は『たいしたものはない』に腹を立てるそぶりをしながら

「よかったらぜひ、食べていって。大悟くん」

と大悟を誘った。その温かい雰囲気は逆らいがたい気がした。

だが、この家の雰囲気もろとも、あまりに温かすぎて……自分にはそぐわない気がして、大悟は

「いえ、いいんです。……友達と約束がありますから」

と断ってしまった。

「そうか。残念だな」

隆弘と節子は目を見合わせた。

「じゃ。僕はこれで」

大悟は一礼すると、靴を履いて、外階段のほうに出た。

そのとたん、真っ赤な夕日が大悟の体を染め抜いた。

「大悟くん」

夕陽を背にして、紫に翳った階段を駆け下りようとした大悟は、節子に呼び止められた。

「大悟くん、来月誕生日なんでしょ。もしよかったら、うちに来なさい。お祝い用意するから」

節子の小太りの体の後ろから夕陽が射して、後光のように見えた。

第206話 策略

「将くん、今のシーンだけど。『俺の勝手だろ』の前に1拍間をおいてみたらどうかな。

……前半にも同じセリフがあるけど、この頃には結構政子に気を許してきてるわけでしょ。それを表現するのに」

「ハイ、わかりました。そうしてみます。奄美さん」

リハーサル中の休み。

何度となくある、容疑者の将と弁護士の奄美ユリの面会シーンについて、ユリは将に演技上のアドバイスをしていた。

「お、ユリちゃん。面倒見がいいね」

と通りかかったPが愛想よく声をかける。

「あったりまえでしょー。新人クンに足引っ張られたらたまんないもん」

とユリは言ったが、そういうわりには将に親切だ。

 
 

「あの奄美ユリが新人に演技指導をするなんて……、将、よっぽど気に入られたのね」

とリハーサルを終えて局をあとにした帰りに武藤が感嘆した。

将初出演のドラマのリハーサルは、演技の特訓のかいもあって、問題なく終わった。

むしろ、初出演で演技初体験の新人としては出来がかなりいい、と言える。

来週の本番もそのとおりにできれば文句ない。

それは、将自身も手ごたえを感じていた。

疲れてはいたが、自分は演技をすることに向いているのかもしれない、という心地よい充実感があった。

そのあと、夕食を食べながら、武藤と打ち合わせをする。

将のリクエストで中華だが、オフレコ話ができるよう、念のために個室を取っている。

高級な中華は、将がイメージしている中華料理とずれているが、文句を言わないことにした。

「今日はね。SHOのホームページが立ち上がったわ」

「俺のホームページ?」

将は、どす黒い八宝菜風の野菜炒めに入ったうずらの卵を箸で突き刺して口に運んだ。

「まだ簡単なものだけどね。それで、来週はダウンロード用の着ボイスとかムービーをあいてるときに撮るから。もしアイデアがあれば、言って」

「へー。着ボイスねえ」

照れくさい気がして、将は口の中でつるっとした卵を噛んだ。

「それから、将、パスポート持ってる?持ってなかったら早速申請するから」

「何で?」

「実は、5月に急遽『ウルウル滞在日記』の仕事が入ってね」

「うっそー!あの『ウルウル滞在日記』?」

将は驚きのあまり、皿の上に屈みこんでいた上半身を起こした。口が縦に丸くなっている。……日曜日にある聡の好きな長寿番組だ。

「どこ、どこ、どこに行くの?オレ」

将はワクワクと武藤に訊いた。

「モロッコ。『サハラ砂漠の遊牧民・ベルベル人とSHOが出会った』……っていう企画でね」

武藤は、その番組の名物ナレーションの口調を少し真似て説明した。

将の耳にもそのナレーションが聞こえるようだった。

「サハラ砂漠~?暑そっ」

「でね。それだけじゃないのよ。その話が決まったら、前から話があった『E』のCMがからんできてね。ほら、あそこ『ウルウル』のスポンサーだから」

『E』というのは、先日、大悟と一緒に参加した雑誌のヤラセ読者モデルのバイトで穿いた、ジーンズのブランドだ。

あのときいた広告宣伝の担当者は将に注目していたんだという。

「最初『E』のロケ候補地はオーストラリアだったんだけど、『ウルウル』がモロッコなら、バーターしようという話になって。それで急遽モロッコで撮影することになったの」

「へー」

なんだか話がどんどん大きくなっているようだ。

「それだけじゃないのよ」

さらに武藤はバンバンジイとくらげの酢の物を手元に取りながら続ける。

「ついでに写真集も撮っちゃおうということになってね。モロッコに行くのにパリ乗換えだから、パリとモロッコで写真集も撮影するから。

……コンポジでお世話になった篠塚先生よ。ついでに『E』のコマーシャルフォトも撮影してくださるらしいわ」

『ウルウル』に『E』に写真集。将は、余りにも膨らんだ話を消化するのに、今口の中にある肉の塊を噛み切るのと同じぐらいの時間を要した。

「どんくらい、あっちに行ってんの?」

肉を飲み込んで、将はようやく質問を口に出した。

「まだ未定だけど……短くて2週間はかかると思うわ」

「えー……そんなに」

将はあきらかに顔を歪めた。

「どうして?」

「だって、学校……」

といいつつ、将の頭にあるのは聡のことだけである。

「学校のほうだけど、ポイントは心配いらないって先生方は言ってくださったわ」

それでも将は口を尖らせたままだ。

そのとき将の頭に聡のことがある、というのは武藤にはわかっていた。

が、無視して続ける。

「戻ったら『ばくせん2』が始まってますます忙しくなるわよ」

「まだ、本決まりじゃないじゃん」

「今日のリハーサルを見れば、下ろされる理由は見つからないわ」

将はそれほど嬉しくもなさそうに、フカヒレスープをレンゲで掬って無言で飲んだ。

「でね……将。考えたんだけど、今のマンションも遠くはないんだけど、これからもっと忙しくなるから、事務所とTV局の近くにマンションを借りようと思うの。

学校に行かないときはそっちを拠点にしなさい」

武藤の提案に、将はとうとう、さも不機嫌そうに顔をはすにして、抵抗を口にしはじめた。

「なんでそんなに忙しいんだよ。俺はバイト程度って言ったはずだけど」

武藤は、箸を置いて、将の顔を見据えた。

「芸能界ってところはね、ヒマか、忙しいか、どっちかなの。そして新人のときが一番大事なの。忙しいことはいいことなのよ」

「てかー。俺、モデル程度だと思ってたしー」

将はテーブルにヒジをついて、レンゲでスープの中を探っている。

無作法は不機嫌のアピールでもある。

「将」

武藤は、それでも、あくまでも親身な声を出すよう努めた。

「今日、リハーサル、楽しくなかった?」

将は押し黙った。楽しくなかった、やりがいがなかったといえば嘘になる。

今日の将は自分でもイキイキしているのがわかった。

「社長から聞いてるけど、彼女がいるんですって?」

武藤の口からいきなり『彼女』という言葉が出たので、将は驚いて、武藤の顔を見つめた。

そのクールな顔の中に、咎めだてする様子はなかった。

「……別れろなんて言わないわよ。うちは恋愛に関しては寛大だから」

と前置きをした上で武藤は、ゆっくりと語りかけた。

「彼女のためにも早く大人として自立したいっていうのも聞いてる。……ねえ、聞いて将。今忙しくて彼女に逢えないのは寂しいと思うけれど。

奄美さんやPにも気に入られるようなアナタよ。きっと実力派の俳優になれるって、みんな期待してるのよ」

「そんな、まだ初出演だし」

将は斜め下をむいて、気のないそぶりをした。

が、武藤には『そぶり』の殻の中にある将の自尊心が嬉しげに震えるのを見抜いていた。

「今、頑張れば、早く若手実力派としての地位が確立するわ。そうやって身につけたものは立派に『手に職』よ。大人として自立するのに、こんなに近道はないと思うけど」

将はあいかわらず黙っていた。

だけど、その俯いた顔からは、反抗の度合いはあきらかに薄れていて、武藤は少しホッとした。

実は、『ウルウル滞在日記』は、同じ事務所の先輩にあたる男性俳優に来ていたオファーを無理やり将のために武藤がもぎ取ったのである。

海外ロケ、人気番組、CMと派手な仕事を立て続けに入れていったのは、もちろん武藤の計算である。

そこにはいくつものもくろみが隠されていた。

1つは純粋に将を売り出すため。……2つめは聡と引き離すためである。

武藤は将や聡に直接「別れろ」などと言うつもりは、事務所の方針同様まるでない。

そんなことをすれば、マネージャーとして一番重要な『タレントとの信頼関係』が失われる、というのを武藤はわかっていた。

そんなことをしなくても、二人が自然に離れていくように、武藤は策略を張り巡らせていた。

まずは将の体が空かないほど仕事を入れて、物理的に二人を逢えなくしようというもの。

しかし、そっちよりむしろ、もう1つのほうこそ、武藤には勝算があった。

それは、派手な仕事をさせることによって、芸能界の面白さ、人の注目を浴びて、大衆に愛される快感に、将をどっぷり浸らせるというものであった。

ひとたびその味を覚えてしまえば、そこから離れられなくなる。

そして、ついには、それを守るためなら、一般人の恋人などは捨てても惜しくないと思うようになる……。

芸能界というところは、そんな、阿片窟のような魔力があるところなのだ。

――それに。アイドルや女優たちが常に手に届くところにいるようになれば、8歳も年上の『アキラ先生』どころじゃなくなるでしょう……。

武藤は一昨日に会った、年に似合わず、桃のように可憐な聡の姿を、目の前の将の姿に重ねた。

それは思いのほか似合っていて……武藤は少しだけ罪悪感を感じた。