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架空おせち料理のチラシ(課題)

課題のモンブランパフェ

ぎっしりロールケーキのバナー

作品タイトル:ぎっしりロールケーキ
架空のコンビニロールケーキのバナー
概要
訓練校のAI制作授業課題
制作年月
2026年7月
制作時間
30分
サイズ
1536×1024 pixel
解像度 72 pixel/inch
使用ツール
CharGPT
素材
AI生成
制作の過程
「自由にAIでバナーを生成する」という課題出題
1.バナーにすべき架空の商品と内容を企画
「秋の味覚がこれでもか!とぎっしり入ったロールケーキ」
と決定。さらに商品の詳細を詰める。
紅茶が香る茶色いスポンジにマロンホイップと4種の「秋の実り」が巻き込まれている、と設定。
2.キャッチコピーを考える
メイン:切った瞬間秋がぎっしり
商品名:実りの秋のご褒美ロール 秋限定
あおり:「入れすぎちゃったかも」
3.ChatGPT に生成を依頼
渡した情報
・どんなロールか文章情報
・おおまかな配置を文章で
・色味(メインカラー茶色とかえんじ、サブカラー金色)とテイストとターゲット(女性)
・紅葉は実写画像ではなく線画イラストにするよう指示
・手書き吹き出しで「入れすぎちゃったかも^^」を入れるよう指示
4.微調整
4種の実りが文字情報で小さくなっていたので視覚化できるか打診
横位置完成。縦位置も生成してもらう。
狙い
ロールケーキなので断面写真をメインにした。
また「入れすぎちゃったかも」と茶目っ気たっぷりに、具沢山を強調。
工夫した点
「入れすぎちゃったかも」をかわいく見せるため手書きの吹き出しにした。
4種の具のおいしさが見えるように写真アイコンで出した
背景の紅葉を線画にして女性的な雰囲気になるようにした。
制作を通して学んだこと/気づいたこと
AIに指示を与えるプロンプト作成部分で編集経験が活かせた。
具体的な情報や参考例を与えることで自分の意図に近いビジュアルを生成できることを実感した。
一方で、生成されたものを見てから「ここをもっとこうしたい」と新たな改善点を見つけたり、試しに色味を変えて別案を生成したりと、気軽に試行錯誤できる点も興味深かった。
AIとの対話を通して、制作物をブラッシュアップしていく新しい制作プロセスを体験できた。
登場人物
※開始時の設定です。
鷹枝 将
(たかえだ しょう)◆17歳♂
次期総理を期待される官房長官・鷹枝康三の長男で偏差値37の新江学園高校に通う高校2年生。クラスメートから「人殺し」と噂される学校一の問題児。
非行に走ったきっかけは、小1の終わりに実母を亡くし、義母になつくも、小6のときに起こった爆破事件の際に、火事の中で見捨てられたこと。
中3の冬には、親友の島大悟をかばって、ヤクザを殺してしまう。父は罪を大悟に被せるが、親友を鑑別所送りにしてしまったことに罪悪感を覚え、心を閉ざして自暴自棄な暮らしを送る。
なお、高校にあがると同時に、世間体を重んじる父が学校の近くにマンションを与えたので、そこで一人暮らししている。マンションの近くに聡がバイトしていた弁当屋がある。
免許証を偽造し、株取引の儲けで購入した中古のローバーミニを乗り回している。また東大の学生証も偽造し、家庭教師のアルバイトをしている。
現在は不良少年ながら、小6までは神童と名高いほど勉強が出来たうえに、礼儀作法やマナーをきちんと躾けられているボンボンである。
ちなみに、将の名前は、曽祖父の鷹枝巌が「国家の将とあれ」と付けた。
古城 聡
(こじょう あきら)◆25歳♀
2年余りに及ぶフリーター生活に別れを告げ、新江学園高校の代用教員となった英語教師。
大学3年のときにアメリカ・カリフォルニアに留学し、そこで出会った会社員・原田博史と婚約している。
就職が遅れた理由は、大学を卒業したらすぐに結婚するつもりで、まるで就職活動をしていなかったため。
なお、弁当屋でアルバイトをしていたのは、料理があまりに下手だったので、花嫁修業を兼ねていた。
山口県萩に住む両親ともにポリシーのある立派な教師で、彼女が教師をめざしたのは両親に影響を受けてである。
なお、小5~中2まで日本人学校の教師をしていた親についてカナダ・バンクーバーに住んでいた。そのこともあり、英語はネイティブ並、ウインタースポーツが得意。
実は高校生の頃、パンクバンドで一時的にヴォーカルをしていたことがある。
原田 博史
(はらだ ひろし)◆33歳♂
大手企業で技術者として働く、聡の婚約者。
現在、中東・カタールに赴任中。ワイン好き。地方の一流国立大学卒。
スーツが似合うがっちりした体型、穏やかな性格で一重瞼の細い目。
母がガンで余命1年を宣告されたため、聡との結婚を急ごうとする。実家は都下のマンション。
葉山 瑞樹
(はやま みずき)◆17歳♀
将のセフレでクラスメート。
将とほぼ同棲状態にあったが、聡が赴任してきてからは相手にされなくなり、ついには追い出されてしまう。
長い黒髪に、パッチリとした大きな目の美人。
小5のときに実母が再婚、以来その相手(つまり義理の父)に性的虐待を受けており、義父の相手をさせられるのが嫌で家出同然の暮らしをしてきた。
新江学園高校に進学したことで将と出逢い、将のマンションに転がり込んだことで安住の地を得たという経緯があり、居場所を奪った聡をとても恨んでいる。
「人殺し」と噂される将の彼女とされていた頃は、クラスの皆は、彼女に頭があがらなかった。
将の家を追い出されてからは、学校を休みがちになり、将を敵対視する前原茂樹の家に居着く。
星野 みな子
(ほしの みなこ)◆17歳♀
将のクラスメート。委員長を務める真面目女子。
メガネっ子だが眼鏡を取ると、すっきりとした顔立ちの美少女。
スタイルもスラッとした細身。
漫画部に所属しておりイラストを描くのが趣味。
本来はもっと学力が高い学校に進むつもりだったが、受験日に不運がかさなり新江学園高校に渋々進学した。
高一のときに、上級生に虐待を受けている猫を助ける将の姿を見ており、気になっている。
教科の中では英語が得意で、聡に憧れるが……。
井口 春樹
(いぐち はるき)◆17歳♂
将のクラスメート。同じ中学だったこともあり、将が心を許す一人。
ガタイがでかく、髪を金髪に染めているうえに、顔面ピアスだらけ、とコワイ容貌だが、わりと優しい性格。
引きこもりの兄がいて、家庭はすさんでいる。
実は、彼が新江学園高校に進学したのは、卒業キャッシュバック目当てで、彼はこのキャッシュバックでなんとか家を出て独立したいと考えている。
瑞樹にそそのかされて、ポイントを減点した聡を襲うが、実はあまり積極的ではなかった。現在、ダンスに凝っている。
前原 茂樹
(まえはら しげき)◆17歳♂
将のクラスメートで不良仲間。
将の身代わりに鑑別所に入った島大悟と同じ中学だったせいか、将の罪を知っている。
(おそらくクラスに将のことを「人殺し」と言いふらしたのは彼である)
聡を襲った際に、将に殴られて下の歯を差し歯にされてしまった。さらにクラスメートを恐喝しているところを、止めに入った将に逆に脅かされて失禁、恥をかかされた将のことをとても恨んでいる。
ラテン系のバタ臭い顔で、隈取をしたような目に分厚い唇が印象的。
強姦にシャブ(覚醒剤)、クラスメートからの恐喝なども行う、本当のワル。
聡を襲ったときも、唯一聡の素肌に触れたりなど、積極的だった。
島 大悟
(しま だいご)◆17歳♂
将の親友だった少年。
13才の頃、非行に走ったばかりの将を助け、共に犯罪を重ねながら夏を過ごした。
借金取りから逃げ回るだらしない父親をあてにせず、13才の時点で、自分で「稼いで」自立していた。
将がそのヤクザを殺してしまったのは、彼が借金取りに来たヤクザに指を詰められそうになり、それを助けようとしてである。
大悟は、将の罪をかぶせられるものの、結局、正当防衛が認められる。
しかしそれまでの軽犯罪から鑑別所に入ることになるのだが、将を恨むことなく、従容として鑑別所で過ごした。
現在、愛知県の自動車部品工場で真面目に働いているが、身を寄せている家で、肩身の狭い思いをしている。
鷹枝 康三
(たかえだ こうぞう)◆50歳♂
将の父親で、官房長官を務める。
明治維新から続く政治家の家系で、清廉な言動と端正なルックスが国民の人気を集めている。
ひときわ優れた血を引いた将にも自分の跡を継いで政治家になってほしいと願っていたが、もうあきらめている。
将を産んだ最初の妻・環(たまき)とは恋愛結婚。
康三の初選挙のために病気の発見が遅れ、ついには手遅れで亡くなった環のことを実は深く悲しんでいる。
しかし忙しさゆえ、多くを語らないため、将にはその悲しみは伝わっていない。
現在の妻の純代は有力な家からの見合い結婚である。純代との間に、将には弟にあたる孝太(こうた・7歳)がいる。
大泉現総理の改革路線を引き継ぐべく、若手ながら次期総理候補とされている。
彼の亡き父の周太郎が、近隣諸国に対して強硬な態度であったせいか、5年前に家を爆破されるという事件に遭遇している
(犯人はわからずじまいだが、C国の過激派という見方が有力)。
父は死亡しているが、祖父(将には曽祖父にあたる)の巌は存命で、頭があがらない。
鷹枝 純代
(たかえだ すみよ)◆36歳♀
鷹枝 康三の現在の後妻。政治的に有力な家の娘。
将が9歳の時に、康三と結婚し、将の義母になった。
責任感が強く、自分の実子である孝太と、康三の連れ子である将をわけへだてせず育てたが、
爆破事件にともなう火災時、柱から抜けられない将を見捨てて逃げて以来、親子仲は冷え切っている。
鷹枝 巌
(たかえだ いわお)◆100歳♂
将の曽祖父で大磯に隠居している。
外務大臣、文部大臣などを歴任しているが総理だけは固辞し続けた「20世紀の生き証人」。
80歳で政界を勇退、以後、畑を耕し自給自足に近い生活をしているせいか、100を数える年齢にして壮健である。
母を亡くした将は、8歳(小2)の一年間、大磯に預けられていた。
数多い曾孫の中でも、自らの境涯に似ていて、人一倍優れている将を案じ、かつ大変可愛がっている。
将が親族で心を許す数少ない一人(ちなみにもう一人は、義弟の孝太)。
197話迄のあらすじ
有力政治家の息子で17歳の鷹枝将は、偽造免許証で車を乗り回す不良少年。
学校にはめったに顔を出さず、クラスメートの間ではまことしやかに「人殺し」という噂も立っていた。
家族から見放されて独りで豪華マンションで暮らす彼の心は冷えきっていたが、唯一のなごみは、なじみの弁当屋で働く古城聡だった。
大学生だと嘘をついて弁当屋に通い詰める将は、聡にほのかな想いをよせていたのだが、彼女は就職が決まった、と弁当屋を辞めてしまう。
弁当屋を辞めた聡は、将が通う高校とも知らず、底辺校・荒江高校の臨時教員として赴任し、いきなり2年2組の担任になる。
聡が新しい担任だと知った将は、学校をさぼるのをやめて、聡に積極的にアタックを始める。
ところで、聡には4年近く付き合っている、中東に赴任中の婚約者の原田博史がいた。
しかし将の家庭環境や過去が明らかになるにつれて、聡は心に傷を持つ将の寂しさを放っておけなくなる。
そしてそれはだんだん恋愛感情となっていく。
一方、将の元セフレの葉山瑞樹は、自分から将を奪った聡を恨み、将に恨みを持つ前原に頼んで聡を輪姦させようと企む。
それを知った将は、風邪の体をおして聡を助けに行く。不良どもに夜の川に投げ込まれ、瀕死になりながらも聡を救った。
クリスマス。中東から帰国した博史は、聡に結婚を早めたいと切り出す。博史の母の薫が余命1年を宣告されたのだという。
皮肉にも博史の帰国によって、将への気持ちがはっきりとわかった聡だった。
年が明け、東京から聡の実家がある山口県・萩まで寝ずに車を運転してやってきた将に、聡は自分の気持ちをようやく伝え、二人の心は結ばれる。
同時に博史にも結婚できないと伝えるが、承服できない博史は聡を犯すように抱いて再び中東へ旅立ってしまう。
3学期が始まってすぐに北海道へスキー修学旅行があった。
そこで、聡は葉山瑞樹が妊娠していることを知る。瑞樹はお腹の子は将の子だ、と聡に告げる。
疑心暗鬼にとらわれた聡のぎこちない態度に、将は研修を抜け出して行方不明になる。
彼を探してニセコ山頂へやってきた聡は急なガスと吹雪に遭難しかけてしまう。方向もわからなくなるほどのまっ白なホワイトアウトの中で、将と聡は出会う。
避難小屋で一夜をあかした二人は、早朝に自力下山を試みるが、将は転倒して足を骨折してしまう。
入院中の将を訪ねた葉山瑞樹は、お腹の子の父親の真相と共に、小学生の頃から義理の父親に性的虐待を受けていたと衝撃の事実を将に語る。
それほど好きでもない瑞樹の好意を利用して弄んできた罪の意識に苛まれた将は、入院中、瑞樹に自分のマンションの部屋を貸してやることにする。
やがて退院した将は、マンションは瑞樹に貸したまま、聡の部屋に転がり込んで、二人は同棲することになる。
しかし同棲してまもなく聡は山梨へと転勤になり二人は離ればなれになり、同棲を解消するしかなかった。
それは婚約者の原田博史の差し金だった。
だが聡の代わりにやってきた担任の不祥事などもあり、また聡と博史が破局したため、聡はまた将のクラスの担任に戻ることができた。
一方、瑞樹が住む将の部屋には、将の中学時代からの友人・島大悟が居候していた。
かつて将がやくざを刺し殺してしまったのは、島大悟を庇ってのことだった。島大悟は将の犯した罪をかぶり愛知県で更生していたが、
その親類の家でのひどい扱いに耐えかねて将のところへ身を寄せたのだった。
そんな島大悟と葉山瑞樹は「似た者同士」として心を寄せ合う。
しかし、安らぎを得られたかに思えた瑞樹の体は、覚せい剤に蝕まれていた。
覚せい剤の禁断症状の幻覚にとらわれた瑞樹は通過する新幹線へと身を躍らせてしまう。
瑞樹を失った大悟は、聡に将が殺人者であることを伝えてしまう。
それは18歳を迎えたことを祝って、一度だけ結ばれようと、聡と将が約束していた日のことだった。
聡は将を拒んだ。傷ついた将。
そして、さらに将は、誕生日を祝うために招いてくれた100歳の曽祖父・巌に自分が15歳の時に殺人を犯したことをうちあけなくてはならなくなった。
巌はそのことがショックで発作を起こして倒れてしまう。
おまけ続編・2014年のクリスマス(2)
「……アキラ」
自分の名前を呼ぶ、懐かしい響き。
それを思い出の中の声だとしか思わなかった聡は、飽かず、モミの木と夜空を眺めていた。
「お母さーん!」
走りよってきた陽が、不自然な方向を向く。
「……だれ?」
聡にすがりついてきた陽の視線の先に……聡は、誰よりも懐かしい、愛しいその人を見つけた。
「おまたせ。アキラ」
トレンチコートを着た将は、すこし恥らったように、でも少し気取った笑顔で近寄ってきた。
6年ぶり。かなり大人っぽい雰囲気だけど、そんな表情は変わらない。
「……将」
何か声をかけたいけれど、言葉にならない。かろうじて名前だけを呼ぶことができた。
ただ涙がたまって、懐かしい顔がかすんでしまう。
聡のそばまでやってきた将はいったん、しゃがみこむと
「メリークリスマス。ひなたちゃん」
と陽の頭に手を載せた。陽は目を見開いてとまどっているようだった。
だけど、幼い子にも、なんとなくわかっているようだ。
そう、ボストンで1ヶ月前。
『あなたのお父さんは別の人なの……』
その別の人が、この人なのか。再び聡を見上げる陽は、何かを確かめたいような顔だった。
陽の視線と一緒に将は、すくっと立ち上がると、
「メリークリスマス。アキラ」
と微笑んだ。
「……どうして?」
どうしてここに? と訊こうとしたそのとき、聡のスマホが大きな音を立てた。電話らしい。
聡は将の顔から目が離せないながらも、画面を確認した。ロマーヌだった。
『アキラ、ごめんね! でも無事に生まれたわ! 男の子よ! 今、どこにいるの?ごちそうが用意できなくて本当にごめんね。素敵なプレゼントを用意したんだけど……』
早口でまくしたてる声がもれている聡のスマホを、将が横から取り上げる。
「アロー、ロマーヌ。聡へのプレゼントは無事に届いたよ」
聡は将がフランス語を話すのを初めて聞いた。
『アロー? 将? アキラには無事会えたのね! アロアロ(もしもーし)?……』
ロマーヌの問いかけに、もう誰も答えなかった。
聡は、すでに懐かしい将の体温にすっぽり包まれていた。
優しい賛美歌が、優しい光が、祝福するように3人を包んでいた。
「……アキラ、アキラ!」
呼びかけに、聡の意識はふいに戻った。息苦しい。何かが鼻と口を覆っている……。
意識が戻ったのを見届けて、医師が、酸素マスクを聡からはずした。
「アキラ、気がついたか」
「お母さん! よかった……」
将と陽が自分を見下ろしている。
それを見て、聡は自分が夢を見ていたことを悟った。
ずいぶん昔の夢。もう20年も前の……。長い夢だった。
夢の中の将は、ずいぶん若かったし、陽もまだ子供だった。
今、目の前で、必死で聡に呼びかける将は、もう若くはない。
涙を浮かべている陽は、すっかり大人の女性だ。
……そうだ。今、自分はまさに命の終わりを迎えているのだ。
陽の涙を見て、聡は思い出した。
3年前に余命2年と告知された病気が、ついに聡を連れて行くときがやってきたのだ。
「将…、陽も」
聡は二人の顔をよく見ようとした。
そしてそれぞれの……懐かしい思い出を反芻しようとしたが、思い出せない。
聡は混乱した。
記憶がぐちゃぐちゃになっている。
目を覚ます前に見ていた夢、あのパリのクリスマスはたしかに現実だったはず。
そうでなければあんなに細部まで覚えているだろうか。
しかし、その後過ごしたであろう3人の幸せな日々はまるで……まったく思い出せないのだ。
あれは、夢?
考えてみたら陽は、聡一人で育てたような気もする。
そしてたしか、女優になった陽を聡は映画館で見た。
「お母さん、しっかりして」
しかし、今そばにいる陽は、すっぴんに地味なセーターを着ていた。
後ろに小さなクリスマスツリーがキラキラ点滅している。
目の前で泣いている陽には、売れっ子女優のような華やかさはない。
カンヌで賞をとるような女優なら、こんな地味な格好で素顔で泣き顔を見せるだろうか。
それに、将は……そうだ、総理大臣になったのではなかったか。
雪が降る日に、レストランで再会を果たし、昔話をしたような気もする。
いや、そんなはずはない。
一国の首相が、公務を放り出してこんなところに来るはずがないじゃないか。
今、目の前にいる将の髪には白髪が浮いている。
その白髪を、最近間近にみつけて、
「将にも白髪があるのね」
と戯れに言った。聡の病室に付き添ってくれた将は
「俺だって、もう45だぜ」
と、45らしくなく口を尖らせた。家族でなければ、こんな風に付き添うはずがないじゃないか。
じゃあ、総理になった将は、聡の夢?
聡は将に、巌との約束を守ってほしかった……そんな願望が見せた夢?
そうだ、そうに違いない。
そうでなければ、どうして将が陽と二人で自分の最期を看取ろうというのだ。
だけど、将には息子が二人いたのでは?
たしか育ちのいい奥さんがファーストレディを務めていたのをネットで見た……。
それに、総理としてテレビに出演していた将を見たときの、胸がつまるような、あの嬉しさとせつなさ。
それも夢にしてはリアルすぎる……。
もはや、聡には混沌としていた。
「将、あなた、いったい……」
将が今、何をしているのか、巌との約束はどうなったのか、聞こうとして、聡はやめた。頭の中が急に冷たくなってきたから。
あのクリスマスから将と陽と3人一緒に人生を歩んでここに至ったのか、それとも別々の道だったのか。
わからない。まったく、わからないけれど。
今、3人はここにいる。将はここに来てくれた。
だから聡は、記憶をたどるのをやめて、目の前にいる愛しい人の顔をよく見ようと思った。
意識が再び、かすんできた。
意識が限りなく白くなってきた。もうすぐ無になる。
愛する人の面影を、今一度この心に焼き付けて、逝こう。もはや悔いはない。
聡は最後の力を振り絞るようにして、将を見つめた。
<続編・了>
おまけ続編・2014年のクリスマス(1)
お待たせいたしました。おまけ続編です!
本編は将が主役でしたが、おまけ続編の主役は聡になります。
すべて聡の視点で話が進みます。
─────────────────────
スマホの画面を眺めて、聡はため息をついた。
今年は暖冬だ、といわれていたパリだけれど、日がすっかり暮れると、こうやってため息が白く立ち上っていく。
2014年12月24日・クリスマスイブのパリ。
すでに、世界一美しいといわれる、シャンゼリゼ通りのイルミネーションが色とりどりにキラキラ輝いているが、今の聡には、心に響かない。
――今夜の宿をどうしよう。
聡の頭を締めているのはこんな現実的な問題だ。
パリ市内のホテル――子供を連れて安心して泊まれるようなクラスのものは――すべて満室と表示されている。
「お母さん、お腹すいた……」
ついに陽が声をあげた。
イルミネーションが灯り始めたさっきまで
「わ~!お母さん、きらきらしてる!見て!建物がプレゼントみたいにリボンついてる!」
と陽はほっぺを真っ赤に高潮させてイルミネーションにはしゃいでいたが、少し疲れてしまったようだ。
だけど。
クリスマスイブのパリで、レストランなんて開いてるんだろうか。
敬虔なクリスチャンの国、フランスでは多くの店がイブには早仕舞いする。
クリスマスは、家族で過ごす神聖な日なのだ。
アメリカに住む聡でもそんな情報は知っている。
聡はダメ押しにメールをチェックした。
ロマーヌからも、またそのパートナーのヴァンサンからも連絡はない。
難産なんだろうか。
再び吐いた聡のため息は、美しいイルミネーションに照らされて少し色づいた。
クリスマス、親子2人きりならパリに遊びに来たら?
そんな風に誘ったのはロマーヌだった。
陽のベビーシッターとして聡・博史夫妻の家にやってきた留学生のロマーヌ。
実は将の幼馴染だったこともあり、聡と心を通わせた。
聡が博史の子を妊娠した頃に、フランスへと帰っていったが、それからもメールなどで交流があった。
やがて聡が博史の子を流産、そして離婚にいたったことを知り、クリスマスに親子でいらっしゃいと、パリに誘ってくれたのだ。
教えてくれたとおりのアパルトマンに聡と陽がついたのがおとついの22日だ。
15区にあるそこは、レンガとモルタルをあわせた日本で言う団地のような建物だ。
ブザーを押すと、古風な「ブー」という音が外にまで響いた。
「アキラ!ヒナタ! ひさしぶり!」
中から出てきた懐かしいロマーヌの青い瞳、そのお腹を見て聡は口を丸くあけた。
ロマーヌのお腹は大きかったからだ。ぱっと見た感じでは、もう臨月である。
「ロマーヌ、そのお腹……」
ロマーヌは笑顔で、奥を示した。
そこには背の高くて金髪を短くした男性が、日本風にぺこりと会釈した。
「彼はヴァンサン。私のパートナーよ」
ヴァンサンが淹れてくれたお茶をいただきながら、
ロマーヌは、フランスに帰国後すぐにこのヴァンサンと結ばれて、棲み始めたことを教えてくれた。
部屋の内部も日本の団地のような体裁である。
クツも、アメリカと違って玄関で脱ぐようにしているらしい。
結構年季が入っている古い部屋を、彼女のセンスなのかお洒落にしつらえてある。
「彼は腕のいい料理人なのよ。だから、クリスマスは期待していてね」
クリスマスイブには、このヴァンサンが腕をふるうらしい。
聡親子以外にもヴァンサンの妹夫妻もここに来て、家族みんなでクリスマスを祝うというのだ。
「お腹は……、大丈夫なの?」
「予定日は年明けだから、たぶん大丈夫」
料理人の彼と、建築家のロマーヌがなんで知り合ったのか、聡には謎だったが、すでに長年連れ添っているようにとても自然に寄り添っていた。
ヴァンサンはロマーヌの体をとても気遣っているようで、冷蔵庫の水ひとつとるのでも、ロマーヌにさせないようだった。
あまり英語は得意ではないようだが、子供が大好きなようで、陽とも温かい笑顔で接していた。
優しい男性を見つけて、ロマーヌは幸せなんだろう。
温かく目の前の光景を見つめる聡の心が、一瞬だけ、きしんだ。
ここで、思い出したらいけない――。
目の前の幸せに没頭しようと聡はロマーヌに話しかける。
「素敵なお部屋ね。なんとなく日本を思い出すわ」
「ああ、それショウもいってたわ」
ふいに、その名前をきいて、聡の息が止まる。
とたんに、封印しようとしていた感情が、とめどなくなりそうになる。
無防備に驚いてしまったのを、意外な人名を聞いたから、ただそれだけ、とごまかすために
「将が?」
と世界で一番いとおしい名前を舌に乗せる。
名前を声にするのも何年ぶりだろうか。目が熱くなってくるのを瞳を見開いてこらえる。
「そうそう。高校生の頃かしら、何年か前に来たときに、そう話してたわ。
……あ、そうだ。アキラは知らなかったのね。ショウは、小さい頃この家に預けられてたのよ」
なんてこと。
思わず、部屋の中を見回す聡に、今の陽と同じくらいの年の頃だったわ、とロマーヌが付け加える。
隣でヴァンサンが焼いたケーキを食べて
「お母さん、美味しい!」と笑顔で聡を振り返る陽が、将と重なる。
将にそっくりな陽。
幼い将が過ごした、部屋。
聡は胸がいっぱいになった。あたりを取り巻く色が、すべて変わったような気がした。
昨日、23日は、パリを見物してまわった。
寒い中、子供を連れて歩き回るのは大変だろうと、ロマーヌ自ら古いプジョーを運転してパリをまわってくれた。
ちなみにヴァンサンは、今日は出勤である。
明日のイブは、勤めているレストランも早仕舞いするのでゆっくり家族のために腕をふるえるのだという。
幼い頃の将がいた町、というだけで、初めて訪れる街なのに聡は懐かしいような感情でせつなくなった。
目に映る光景の中に小さな将を探してしまう。
昨日は、ロマーヌのアパルトマンに泊めてもらった。
というより、滞在中はずっと泊めてもらうことになっていたが、聡は将の思い出に、どっぷりと浸かることになった。
……本当は、そんな予想は最初からしていた。
聡は、陽と一緒にダブルベッドに横たわりながら、スマホを手にする。
Facebookをあける。
ボストンからフランスへ帰国する際に、ロマーヌから「アキラもやりなさいよ」と誘われたから聡もアカウントを持っている。
とはいえ、アカウントの公開はしておらず、
「友達」はロマーヌを含めてボストンの知り合いなど、二桁をわずかに超えたに留まる。
聡は……数少ない「友達」のロマーヌのプロフィールをタップする。
そこにはロマーヌの数多くの「友達」が羅列されている。
聡は、スムーズにロマーヌの友達をスクロールする。
その動作は、もう何度も……離婚以来、日課のようにしているからスムーズだ。
「Sho Takaeda」
その名前を見つけて、聡は小さくため息をつく。
ロマーヌを通じて、SNS上にある、将とのつながり。
聡がロマーヌの誘いに乗ってパリにやってきたのは、そのせいではなかったか。
聡は、ロマーヌの部屋に、パリの街角に、幼い将を想像した。
なお、クリスマスイブを明日に控えてのパリは、ふだんよりいっそう華やかなのだという。
エッフェル塔に、オペラ座、ノートルダム寺院。
車窓に映る観光名所を、そしてパリの人のクリスマスの過ごし方をロマーヌは英語で解説してくれる。
「クリスマスイブはね、家族でお祝いの夕食をとったあと、夜中にミサに出かける人が多いわね」
初詣みたいなものか、と聡は見当をつける。
「ノートルダム寺院のは特にすごいのよ。 25日になったとたんに、赤ちゃんの人形が祭壇から手品のように現れるのよ。見物人の数もものすごいけどね」
「へ~!赤ちゃん!」
陽も英語でロマーヌとやりとりしている。
きけば、幼い将は、フランス語を自由に操っていたという。
フランス人の幼稚園園長に『この子の知能はずば抜けている』と太鼓判を押されたという康三の話を思い出す。
「そうそう。たしか、動画があったかしら? おうちに帰ったらパソコンを調べてみましょう。
でもね、うちの近所の教会のミサもなかなかよ。アットホームでね。
それに大きなモミの木のイルミネーションがとってもきれいなの。明日は夕食が終わったらみんなで行きましょうね」
昨日、そんなことをいっていたロマーヌだが、その夕食は、もう無理だろう……。
聡は、何度めかのため息をついた。
今日24日は、明日のボストンへの帰国に備えて、昼過ぎから陽を連れて買い物にきていた。
「びっくりさせたいから、ショッピングにでも出かけてて」
とロマーヌにうながされたからというのもある。
親子二人、買いたいものはあらかた買った夕暮れ、何か買ってくるものはないか訊いておこうと、ロマーヌに電話をかけたそのときだ。
「○%▲□×&~!」
電話に出たのは、ヴァンサンだった。
ひどく慌てている。あまり上手じゃない英語なのが、慌てているためさらに聞き取りづらい。
聡はスマホを耳に押し付けるようにした。
分かる部分をかき集めてわかったのは、どうやら、ロマーヌが急に産気づいたらしいことだった。
しきりに「デゾレ、デゾレ(ごめんなさい)」と繰り返すところを見ると、今夜のクリスマスパーティは無理だ、ということだろう。
ヴァンサンはすでに病院に詰めているらしい。
これは、ディナーどころか、ロマーヌの家に帰れなくなったと聡は判断した。
親子二人、泊まる準備もないまま、暮れ行くパリの空の下、放り出されてしまったのだ……。
「陽、ごめんね」
「ううん。ひなた、マック大好きだから大丈夫」
親子はとりあえず、マクドナルドに落ち着いていた。
クリスマスイブの夜、めぼしいレストランは早仕舞いしている。世界中どこでも同じフォーマットのマクドナルドは、クリスマスイブでも、律儀に開いている。
店の中は全世界共通で、パリらしさには欠けるが、窓の外には、パリの美しいイルミネーションが繰り広げられている。
さっきまで疲れた様子だった陽も、楽しげにそれらに時々視線をうつしながら、ハンバーガーとポテトをぱくついていた。
陽のほっぺについたソースを拭いてやりながら、聡の頭を占めているのは今夜どうするか、についてである。
なにせ、着替えその他はすべてロマーヌの家に置いたままだ。
それでも聡一人なら、多少汚いところでも我慢すれば済むだろう。
だけど陽をつれている聡は、得体の知れないところに泊まるのには気が引けた。
聡は再びスマホを取り出した。
結局、小一時間かけてようやく見つけたのは、シャルル・ド・ゴール空港近くのホテルだった。
少し遠いが、仕方がない。
どうせ、明日の午後にはボストンへと帰るのだ。聡は
「じゃ陽、行こうか」
と陽を促した。陽はとっくの昔にハンバーガーとポテトを食べ終わってしまい、今は静かに絵本を読んでいたのだが、聡の声にパッと顔を輝かせた。
「うん!『みさ』に行こう!」
と元気に立ち上がった。
「ミサ?」
「うん。ろまーぬが言ってたでしょ。クリスマスイブには『みさ』に行くんだって。早く行こうよ」
赤いほっぺの陽は、聡をうながした。
そんないたずらっぽい顔に、将の面影を見てしまった聡は、将とのクリスマスを思い出した。
まだ陽がお腹の中にいた、雪の中のクリスマス。
あのときも、近くの教会にミサを見物に行こうとしていた……。
思い出が頭の中ではじけて、聡はすこしぼんやりしていたらしい。
「お母さん、どうしたの? 早く行こう。大きなモミの木ツリー見たいよ」
そういえば、ロマーヌが言っていた、アパルトマン近所の教会のミサ。
本当は、寒い中歩き回ったから一刻も早くホテルに落ち着きたい気もしていた。
だけど。
――幼い頃の将も、そのミサに行ったのだろうか。
そんな思いつきが聡の感情を支配する。
それに、もしできるならロマーヌの家から旅の荷物を引き上げたい。
ミサ見物に行ってる間に、ロマーヌの子供が無事に生まれれば、それが可能になるかもしれない。
聡はもう一度、ヴァンサンに電話をかけてみたが、留守電になっている。おそらく出産に立ち会っているのだろう。
「じゃあ、陽、いってみようか」
「うん」
聡は、陽の手をとった。ミトンごしの小さな手は温かかった。
その教会の名前は聞いていなかったが、聡はスマホに表示されるロマーヌのアパルトマン付近のマップを見て、見当をつけていた。
ただ、本当に地元の小さな教会らしく、画像などのデータは表示されない。
それに、イブの夜はバスの本数も少なくて、ロマーヌの家の近くに来るのに少し時間がかかった。
バスを降りると一層冷え込んでいた。
あたりはすっかり夜になっていた。パリの目抜き通りからやってくると住宅街は真っ暗に感じられる。
吐く息がさっきよりいっそう白い。
しかし、家族連れらしきグループがぽつぽつ同じ方向に歩いていたから、彼らについていけば、目当ての教会に着けそうだ。
「わあ!きれい!」
陽は突然叫ぶと、走り出した。
そこは小さな公園だった。ライトアップされた噴水が金色に輝き、動物をかたどった遊具はイルミネーションで彩られていた。
あたりは暗いのに、その公園だけが夢のように明るく輝いているようだった。
噴水の傍には3階建てくらいの高さはあるであろう、大きなモミの木があり、その木全体がキラキラときらめくLEDとオーナメントで飾られていた。
遊具ではミサ待ちの子供たちだろうか、陽と同じくらいの年頃の何人かが歓声をあげて遊んでいた。
陽はものおじせず、駆けていった。
どうなるかと、見ていたが、言葉の壁はあまり気にならないらしい。すぐに仲良く遊び始めた。
教会は公園の向こうにあるのだろう、すでに美しい歌声が流れてきている。
――この賛美歌。
陽を見守っていた聡は、知っている歌に思わず振り返った。
木々の間から教会の尖塔がのぞいていた。
――ああ、あのとき……。
あの雪の中の、ミサを見ようとした教会もこんな感じの尖塔だった……。
聡は、クリスマスツリーになったもみの木を見上げた。
モミの木の先端の上に広がる晴れた夜空からは、雪ではなく星が降ってきそうだった。
そこへ自分が吐いた白い息が溶けていく。
あの日は……大雪が降ってもっと寒かった。将と二人、深い雪に足跡をつけながら、教会の裏庭に回り、ブランコに座りこの歌を聞いた。
そして、はじめて胎動した陽に二人で歓喜の声をあげた。
賛美歌は、かけがえのない思い出を、封じ込めていたあの日々を次々と呼び起こした。
それは目の前のLEDよりも、ツリーのデコレーションよりも鮮やかに聡の心を彩っていった。
思い出の鮮やかさが沁みて、目のまえでキラキラ輝く光は、いつしかゆらゆら滲んで揺れている。
そんな聡は、いつのまにか長い影が、こちらへ伸びていることに気づいていない。
「……アキラ」
第424話 最終章・また春が来る(32)
「……その後、パリの学校での教師の口が見つかって、私たち親子は新しい暮らしを始めることができました。……それもお父様のご尽力の賜物だったんですけれど」
窓からときおり射す陽が、だんだん色づいてきた。
淡く温かい色に照らしだされた聡の頬は、少しだけ血色がいいように見える。
だけど、それは同時にその懐かしいおもざしに深い陰影をもつけるようだった。
聡の歩いてきた今までを象徴するように。
聡はおそらく苦労してきたのだろう。
それを思うと将は、苦しい。
なぜ、諦めてしまったのか。
ずっと探し続けなかったのか。
思いを手放してしまったことがいまさらながら悔やまれる。
「……フランスにいても、鷹枝くんの活躍はずっと見てたんですよ」
聡は柔らかく微笑んだ。
だけど、聡が見ているのは今の将ではない。
将にはわかっている。
聡が今も見守り続けているのは、将の幸せであり、将のすべき使命なのである、と……。
聡は、将をみていた。
インターネットがあるおかげで、将のことは地球のどこにいてもわかった。
こうやって遠く離れた国からでも、将の活躍がわかる限り。
聡のしてきたことは無駄ではないのだ。
近くにいると苦しいだろう。
だから。こうして遠くで見守るのがいい――。
将が残した娘の成長と、将の活躍を遠くから見守ること。
それが聡の喜びであり生きる支えだった。
数年後、将は俳優から東京都知事に見事当選した。
そしてまもなく、血のつながらない従妹と結婚をし、子供が生まれた。
将の成功。
幸せな将の家庭。
将の幸せが盤石なものとなっていくごとに……聡はそれを心から喜んだ。
これで将も、自分も惑うことはないだろう。
自分が将の幸せを、邪魔する可能性はなくなったのだ――。
それでも、だんだん遠くなっていく二人の距離に、古い傷はかすかに痛んだけれど。
「今は……娘と――陽と暮らしているんです」
儚げに色づく光の中で、穏やかな声は続く。
こうしていると、二人ともあの頃のまま、年をとったように将は錯覚してしまう。
激しい抱擁も。
苦い懊悩も。
ひきちぎられるような別れのつらさも。
何もないあの頃のまま。
あの頃、放課後の教室で向かい合っていた頃。
あのとき、聡を包んでいたのは、もっと鮮やかな夕陽だった。
だけど、今の淡いいろも、悪くない。
夢で逢ったときのように。
自分たちは、これからなのかもしれない。
希望のひとかけを溶かしたような淡い、暖色……。
「陽は、鷹枝くんによく似ています。顔も……性格も」
聡は置いたティーカップの中にいとおしい娘が見えるかのように微笑んだ。
「あの娘は、リセで映画作りのようなことをやっていたんだけど、思えば俳優としての才能もあなたから受け継いだのね……」
大学進学のために日本へ渡った陽が、思いがけず女優として成功して。
なにもかも思い残すことはない……そう思った時に、病はやってきた。
2年前のことだった。
病の大半は、聡の体の一部ごと除かれたものの……完全になくならなかった。
それは遅かれ、再び大きくなり、いつか聡の命を奪っていくのだろう。
あのときの巌の意志を継ぎ、半年前、ついに総理まで上り詰めた将。
それは聡にとって最後のプレゼントになった……。
「……でもね。病気をしたせいか、陽もできるだけ一緒にいてくれますし……。もう、何も思い残すことはないわ」
何もかも、乗り越えてきた笑顔は……深い翳をものともしないようだった。
時は、もう戻らない。戻せないのだ。
その穏やかな表情はそう語っていた。
そのとき、ドアがノックされる音がした。
「総理……申し訳ありませんが、お時間です」
三島の声がした。
忙しい将は、次のスケジュールが詰まっている。
将は聡の顔を、いまいちど見つめた。
さっきまで射していた陽は翳ってしまったようだ。
赤みのまったくない窓からの薄明かりの中で、聡の顔は磁器のように真っ白だった。
それは一瞬、菊の花の白を想像させ――将の背筋は一瞬震えた。
これが最後。
脳裏にひらめく事実。
聡と顔をあわせるのはこれが最後になるかもしれない。
次に逢うときは……。
菊の花にうずもれた聡がサブリミナルのようにフラッシュする。
恐ろしさに思わず息を止める将の前で、聡は自ら席を立った。
「……待たせてはいけないわ。いきましょう」
まだディナーには早いのだろう、レストランに他の客が残っている様子はなかった。
警備上、客が入らないように予め手配しておいたのかもしれない。
重い扉を開けると、冷たい空気が一気になだれこんできて、二人は目を細めた。
ハイヤーはもう到着していた。
将が聡のために用意させたハイヤーは、その漆のような艶を乗せたボンネットに、いまにも降り出しそうな重い雪雲をくっきりと映しだしている。
さっきまで淡い色を個室に送り込んでいた太陽は、その雪雲に隠されてしまったらしい。
雲の輪郭だけが冷やかに輝いている。
たった2時間ほどの間に、ぐんと気温は下がったようだ。
「また少し、降ったみたいね」
聡が口を開く。
玄関前の植栽の葉に、粉砂糖のような雪が溶けずに残っていた。
その雪は……いろいろなものを思い出させた。
おそらく、二人とも同じ想い出をたどっている――口にしなくてもわかる。
そのかわりに、将は問いを口にしてみる。
「あなたは……先生は、幸せなんですね」
一瞬か、それとも長い時間か。
二人の視線が交差した。
この世で最後の邂逅――。
二人を隔てる空間に、ふいに白いものが横切った。
二人の視線は知らず、その行く末に集まった。
……風に舞って、ゆっくりと落ちていく雪。
雪は路面に着地したとたん、あとかたもなく見えなくなった。
それに代わるように、あとからあとから白いものが天から舞い降りてくる。
絶え間なく舞い降りる思い出のように。
あるいは万感の思いを代弁するがごとく……雪は無数に舞い始めた。
「……ええ」
雪に促されたようだったけれど……聡はしっかりとした声で答えた。
低いけれど温かみのある声。
25年前と変わらない――。
「鷹枝くんは?」
返される問いに将は、迷う。
自分は幸せなのか。
朝までは、自信をもってそう答えられたはずだ。
だけど。
心の底に凍らせていた、さまざまなものが解けだした今――。
――昔のことだ。
――終わったことだ。
――自分はもう大人なのだ……。
何度となく言い聞かせつつ、封じ込めてきた思い。
それがいま、将の胸をどうしようもなく乱している。
将は答えることができず、ただ目の前にいる聡を見つめた。
25年前、自分の幸せよりも……と命を賭けるようにして、この道を選んできた瞳。
将の幸せを願ってやまなかったひと。
そのひとを前に、どうして迷いを口に出せようか。
……将はかみしめた唇が見えないように、うつむいた。
それはうなづいたように見えるはずだった。
聡が望んだ幸せを、どうして否定することができるだろうか。
下を向いた将の足もとに、雪が筋のように流れ始めた。
雪は、今度こそ本格的に降りだしたようだ。
「……寒いでしょうから、どうぞ、お乗りください」
三島の声に、将は顔をあげた。
聡は、もう一度深く頭を下げると、ハイヤーに乗り込む。
うつむいた長い睫が白い頬にいっそうくっきりと浮かぶ。
何か、もう一言……そう思った将の前で。
ドアが、閉じられる。
聡は窓の中から将を見つめていた。
色がついた窓ガラスを、音もなく雪がなぞり、落ちていく。いく粒も、いく粒も。
その中で、その表情は、もはや朧げで。
それを確かめようと、将が一歩踏み出そうとしたとき、ハイヤーはゆっくりと発車した。
「いやー、本格的に降ってきましたね」
三島が天を仰いだ。
雪は3月に東京に降るものとしては類をみないほどひどく、視界を霞ませていた。
将は立ちつくしていた。
雪はハイヤーをあっという間に霞ませ……視界から消した。
将はハイヤーが消えたあたりから目が離せなかった。
「総理。雪が積もる前に会場に向かいましょう」
三島が促す声に、無意識に腕時計を見る動作をつくる――そのコートの袖口に、ふいに舞い落ちる白の1つがくっついた。
六角形の、雪の華。
よく見ようと目を凝らしたとたん解けて……まもなく消えてしまった。
そこにあったことすら幻だったように。
――消えてしまう。
将は、天を振り仰いだ。
太陽はどこにも見えない。
その代りに……雪は散華のように、将に向って一斉に舞い落ちてきた。
あのニセコの頂上。
これよりもっとひどい吹雪に閉ざされたあの雪の中で。
すべてが凍りつくような寒さの中で。
将は確かに聡を探し出した。
すべてが絶望的な世界の中で聡だけが温かかった。
それまで真っ暗だった将の世界を明るく照らし出した、太陽。
聡を失ったときでさえ。あきらめたときでさえ。
将は聡の光を、ぬくもりを、支えにしていなかったか。
将は知らず、左胸のあたりに手を触れている――聡の万年筆があるあたり。
聡が、遠くから将を見ていてくれたように。
将とて――聡を感じていた。
捨てられた、と嘆きながら……心の底では聡のぬくもりを思い出していた。
そして、この世界のどこかから、聡が自分を見ていることを予感していた。
それが、もうすぐ。
消えてしまう。
もうすぐ、聡は消えてしまうのだ。
この世のどこにも、いなくなってしまう。
どこを探しても……聡には二度と逢えなくなってしまう。
距離よりも。
モラルよりも。
法律よりも。
もっと絶対的な――この世とあの世の結界によって二人は永遠に隔てられてしまうのだ。
聡のいない世界に、たった一人で取り残されてしまう。
こんどこそ、本当に――。
将は身震いした。
そしていま一度、目の前にある一面の白を見ようとした。
目に沁みるような風雪にこらえながら、必死で目をこらしたが、ハイヤーの姿はとうに見えなかった。
ただ、まっ白だった。
それは、将のすべてをも白紙にしていく。
これが最後なら。
あの人との最後の別れなら。
このまま、今生で逢うことはないなら……。
それでいいのか。
あの人を、このまま、永遠に失ってしまっていいのか。
『アキラは、俺の太陽だから』
太陽を失って、それでいいのか。
白紙になった将が思い出すのは――欲するのは、ただ温かい陽の色だけ。
あの吹雪の中で、聡しか見えなかったように。
「総理!」
三島の叫ぶ声は、もはや将には届かなかった。
まっ白の中に、将は駆け出した。
<了>
第423話 最終章・また春が来る(31)
「待ちに待った子供が流れて、博史さんは……夫はよほど落胆したのでしょう。私たち夫婦はそこからギクシャクしはじめて……とうとうダメになってしまいました」
聡が話す内容は、かつて陽が将に話したことと、ほぼ同じだった。
しかし、その淡々とした口調ゆえ……聡が多くを意図的に省略しているのは、却ってよくわかるようだった。
きっと、博史は聡につらくあたったのだ。
将には目に見えるようにわかる。
だけど、それを聡の口からほじくり返させるのは、やめようと思う。
つらいことをいちいち繰り返し思い出させることもない。
聡の人生は、残り短いのだから。
だけど、聡の中では、つらかったあの頃が、セピアに変わりつつ繰り返させれている。
子供が流れて博史は変わった。
サンノゼにいったまま、家に帰らなくなった。
たまに家に帰ってきても独りで……聡も陽も寄せ付けずに過ごすことが増えた。
書斎にこもった博史は酒をあおる。
心配する聡に怒鳴りつけることさえあった。
あるいは。
「お前は、俺の何なんだ」
完全に坐った目でつぶやくように問いかける。
しかし問いかける形をとりながらも、聡よりも前に言葉を投げる。
「俺の女房なら。なんで俺の子は産めないんだ」
「あなた……」
「教え子の子は産めて、なんで俺の子は……産めないんだ」
博史の声は、ボストンに降る秋の雨より冷たくて。
聡の体を冷たく縛り上げるようだった。
だけど、聡はわかっている。
博史がそんな風になったのは、自分のせいだと。
どうしても将を忘れられない自分。
博史はそんな聡をわかっているのだろう。
子供が流れたのは、きっかけにしかすぎない――自分たちは最初からダメだったのだ。
そんなことはない。
……頭にふとよぎった言葉を、聡は否定する。自分に言い聞かせるように。
この5年間、自分たちは温かい家庭を築いてきたじゃないか。
――そんなものは心の通よっていない砂上の楼閣にすぎなかったのだ。
蜃気楼のような、まやかしの幸せは、崩れるときがやってきたのだ。
聡だって心の奥底ではわかっていた。
それでも。
冷たくなった夫の心をどうにか解かさなくては、和らげなくては……そんな努力を聡は放棄するわけにはいかなかった。
そのまま、聡は耐えた。
以来、仕事でずっとサンノゼにいったまま月に一度帰ってくるかどうかの博史を待ち続けた。
聡は予定通り、一家でサンノゼに引っ越すことを提案したが、博史は
「しばらく独りで頭を冷やしたい」
といって受け入れなかったのだ。
そして。
子供が流れて1年以上経った秋。
聡は博史に宣告されたのだ。
「別れよう。俺たちはもうダメだ」
「別れた後、すぐに博史さんはアメリカの方と再婚しました」
聡はやや明るい口調で――取り繕うように、付け加える。
「アメリカの方と?」
将の問いかけに聡はうなずきながら、
「昔、お付き合いされていた方と仕事で偶然お会いして、またよりが戻ったそうです」
と語った。
そういえば、聡と博史はサンフランシスコで出会ったことを将も知っている。
それは、将と聡が出会って間もないころ、聡が頬を染めて嬉しそうに教えてくれたのだった。
あのとき将は、聡にそんな顔をさせる博史に、確かに嫉妬した。
すべては懐かしい思い出だ。
そう、博史には聡と出会う前に付き合っていたアメリカ人の恋人がいた。
しかし、彼女の父親の兄は、太平洋戦争で日本軍の捕虜となり惨殺されていた。
父親はJAPとの交際など絶対に許さないと彼女に詰め寄り、二人の仲は停滞していた。
……聡と博史が出会ったのは、そんなときだった。
博史が彼女を忘れるのに、聡はうってつけの存在だったのだ。
そして、10年以上の時が経って二人が再会したとき、最大の障害となっていた彼女の父は亡くなっていた……。
そんな顛末を話す博史は「だから別れてほしい」と乞いつつ、「許してほしい」と静かに結んだ。
聡は許してほしいのは自分のほうだ、と胸が熱くなる。
「私は、ロマーヌさんの誘いでフランスにわたりました。ちょっと旅行をするつもりだったのが、結局住みついてしまいました」
聡は穏やかに微笑んだ。
「……日本に戻るつもりはなかったんですか?」
あえて将は訊いてみる。
その時点で、聡が日本に戻っていれば――二人は。
考えたところで、時間が逆戻りなどするはずもないのだけれど。
「そのときは……まだ、早いと思いました」
きっぱりと聡は答えた。
あのとき、日本に帰れば、きっと。
それは聡が一番よくわかっていた。
二人は――いや将はふっ切れたのかもしれないが、近くにいれば少なくとも聡の方は……募る思いが耐えがたいほどになる。
あの頃の聡は、自分でわかっていた。
だから、日本へ帰ることは選ばなかった――。
聡と博史の……静かな別れ。
それに際して、最も涙をこぼしたのは、ちいさな陽だった。
陽は
「どうして?」
と黒目がちの瞳で聡を見上げた。
そのあどけない顔を納得させることなど、できるはずがない。
「陽がわるい子だから?」
思いがけない質問。一生懸命に、問いかけてくる。
陽は陽で……この1年間の二人に心を痛めていたに違いない。
聡は首を横に振る。
「ケンカしたの?……じゃあ仲直りして」
聡はそれにも首を横にふるしかない。
「どうして? 陽……おとうさんとはなれたくないよ」
陽の瞳に新しい涙が盛り上がる。
「お願い。おとうさんと仲直りして。仲直りしてよう……」
聡を見上げる陽のつぶらな瞳から、涙がぼろぼろと流れる。
その顔が真っ赤になっている。
この娘は泣くと、その白い肌が真っ赤になるのだ。
将も、そうだった。
いつだったか、泣きじゃくる将を思い出す。
浅黒く焼けていたからわかりにくかったけれど、鼻も唇も瞼も真っ赤にして子供のように泣く将。
「陽……」
聡は思わず跪くと、陽を抱きしめた。
陽も声をあげて泣きながら聡に抱きついてきた。
無理もない。
博史は、陽にはいい父親だったのだ。
最後の別れのときも、博史は心配そうに言ったのだ。
「陽のこと。聡ひとりで大丈夫?」
博史は博史で、必死で砂上の楼閣に心を通わせようと努力していたのだ――。
いつか、本当に心が通う夫婦に……家族になれると信じて。
それを打ち砕いたのは。他ならぬ聡では――将を心から追い出せなかった聡ではないのか。
「陽ちゃん」
聡の頬にも涙が伝っている。
ボストンの家には早くも初冬の夕暮れの気配が漂っていた。
もうクリスマスまで1ヶ月を切っている。
思えば、離婚のごたごたで、飾りつけもしていない。
斜めに差し込むオレンジ色の弱弱しい日差しは、逆に2人しかいない家の冷やかさを浮き立たせる。
そんな中、聡は陽の肩に手を置いて、幼い顔を見据えた。
いとしい面ざしをより強く受け継いだ顔が……涙にぬれて橙色の陽射しに輝いている。
一方、陽は。
逆光の中で、母の輪郭を伝う涙が、宝石のように煌いていたのを、今も覚えている。
母は――聡は言ったのだ。
「あなたのお父さんはね。……本当は違う人なのよ」
陽は驚いて瞬きを繰り返した。
だけど、すぐにまっすぐに問い返す。
「それは誰? ひなたの知ってる人?」
聡はまたたき……瞳から、再び涙が落ちる。
小さく首を横に振る。
「ひなたちゃんは会ったことないわ。それにもう二度と会えない人なの……」
陽は、二度と会えない人が本当の父親である事実が……幼い理解力ではわからなくて。
また初めて目にする、こんな風に涙を流しながら告白する母、そしてその美しさに押し黙る。
「……でもね。その人は、お母さんにとって、今も一番大事な人なの」
昔も、今だって。
誰よりも愛しているのは一人だけ。将。
将の幸せと自分の幸せが相反するなら、将の幸せをとる。
その決意は変わらない。
だけど、その決意ゆえに、実の父親に会うことすらかなわない娘が不憫で……聡は涙した。
でも、この娘が――将が残したこの娘がいるからこそ、聡は生きられる、生きる喜びがまだ残っているのも事実だ。
それだけは、娘に伝えておかなくてはならない。
博史と別れ、母子だけで暮らしていくにあたって。
いつかこの娘にも、自分の存在を問うときがやってくるだろう。
その日までに。
陽は……二人のかけがえのない愛の結晶だと。
将も聡も、陽が生まれ出でるのを待ち望んでいたのだと、教えておかなくてはならない。
「ひなたちゃん。ひなたちゃんの名前は、本当のお父さんが付けたのよ」
いつのまにか、陽の涙は止まっていた。
泣きだしそうな顔のまま……濡れた睫を必死で見開き、歯をくいしばるようにして、聡の顔を一心に見つめている。
「そのひとは、陽が生まれるのを、楽しみにしていたわ。……そうだ」
聡は思い出すと、いったん立ち上がる。
寝室にある古い鍵付きの引き出しの中から、びろうどのケースを持ってくる。
そして陽の横でひざまずくと、その目の前でケースをあけてみせた。
小さなダイヤがついたベビーリングが入っていた。
「これはね、陽の本当のお父さんが、陽にってくれたものなの」
聡はそういってベビーリングを陽の手のひらにそっと乗せてくれた。
桃色の陽の掌の中で、ダイヤのベビーリングは、弱い日差しを七色に反射させた。
「陽。あなたは、お父さんとお母さんが心待ちにして生まれた大事な娘なの……。それをいつまでも忘れないでいて」
第422話 最終章・また春が来る(30)
5年の間、子供ができなかった博史と聡の間には、いまや否が応でも倦怠が漂っていた。
博史は自分に原因があるのかとひそかに検査にも行っていた。
しかし、悪いところは見つからなかった。
世間的には、二人の間にはたしかに陽がいるのだから、二人の身体に欠陥があるなどとは思われていない。
しかし、このところ聡は、博史のいらだちをことあるごとに感じていた。
幸い……陽にはそれを出さないでくれるのがせめてもの救いだったが、それは同時に博史に対する申し訳なさにつながる。
家庭がどこか張り詰めていた分、聡には仕事と、それからロマーヌとのおしゃべりが救いになっていた。
そんな矢先だったから、新たな妊娠に聡は心の底からほっとした。
もちろん博史の喜びはひとしおだった。
聡の健康を第一に考えた博史は、まだ出産には間があるにも関わらず、学年末の6月で学校を辞めるよう言い渡した。
博史自身も、大学の研究を6月で終了することにし、はりきって就職を探しだした。
「だって、子供ができるんだろ。稼がないと」
そういって
「陽は弟と妹とどっちがいい?」
と陽に頬ずりする博史は明らかに高揚していた。
聡はひさしぶりに明るくなった家庭に喜びつつも、将との絆がいちだんと薄れゆくのを感じていた。
その将は。
大学を卒業するとほぼ同時に、司法試験に受かり、世間の注目を浴びていた。
しかし、弁護士や判事になるわけでもなく、仕事を選びながら芸能活動を続けるらしい――すべてネットで得た情報だ。
元総理の子息で芸能人である将の情報は、地球の裏側に近い場所にいても、こうやって知ることができる。
聡はしばしばこっそり将の消息をネットで調べては、その検索履歴を念入りに削除していた。
博史に知られないためでもあるけれど。
――もう、これが最後。
履歴を削除しながらいつも、聡はそう思う。
だけど、時間をおくと決意が薄れ……、再びその近況が気になってしまう。
ちゃんと、自分の道を歩いているのか。幸せなのか。
聡の中にはあいかわらず――将が住んでいた。
その将が……もしかしたら聡の妊娠を阻んでいるのではないか。
妊娠できないで悩んでいた頃、聡の心の中にはいつも後ろめたさがあった。
それでも。
聡は博史に対して申し訳ないと思いつつ、将の行方を知りたい欲求に抗えずにいたのだ――。
博史は7月より日系の企業に就職し、東海岸のボストンから西部のサンノゼへ移ることになった。
「しばらく一人で大丈夫。お腹の子が心配だから、引っ越しは安定期に入ってからにしろよ」
と聡の体を気遣った博史は、まず単身赴任する形をとった。
8月になって、博史の仕事もお腹の胎児も安定してから引っ越す心づもりだった。
やがて7月になり、陽の面倒をみてくれたロマーヌは2年間の留学を終え、フランスに帰って行った。
聡も学校を辞めたのであまり支障はなかったが、将とのつながりが、またひとつ離れていくことに聡はさみしさを覚えた。
妊娠してから、将の夢を見ていない。
せめて夢の中だけでも逢いたいのに。
夫の留守の今、仮に寝言で将の名前を呼んだとしても誰も聡を責めはしない……。
そんなことを思いついては、聡は自分を恥じる。
いつまで。いい加減に。
聡自身を諌める理性は確かにある。だけどだめなのだ。
聡は、夫のいない家で、検索してしまう。
画面の中には、24歳になった将が映しだされる。
何かの賞を受賞したのだろうか、スーツを着た将の微笑みは、以前聡に向けられたものとまるで違っていた。
……将は大人になった。
記事を読むと、傍らに立っている共演女優と噂になっているらしい。
垢ぬけて、聡明そうなひと。
そうだ。
将にとっては、もう自分のことなど、とうに過去になっているだろう。
それこそ聡が望んだ本望なのだから。
なのに。
聡は、陽にも内緒で涙をこぼしてしまうのだ……。
美しい共演女優に嫉妬しているわけではない。
将との距離が、少しずつ離れていくことに……納得はしているはずなのに、心は何年たっても聡に涙を流させるのだ。
サンノゼへの引っ越しを控えたある夜、聡はひさしぶりに将の夢を見た。
ああ、将の夢だ。
聡には、これが現実ではないと、すぐにわかった。
夢だとわかっていて、夢にずぶずぶと浸っていく。
こんな感覚は久しぶりだ。
ネットの、画面の中の将ではない。
17才の将。
聡がその体温までよく覚えている将。
彼は、聡をいとおしげに抱きしめた。
二人は抱き合ったまま、いつのまにか吹雪の中にいた。
あの、ニセコ山頂。
抱き合ったままの二人を、吹雪が縛り上げる。
今は夏のはず。どうして吹雪が。
夢の中で聡はふと疑問に思う。
そのとたん、胸が苦しくなる。
『将?』
いつのまにか将は消えていた。
聡を締め付けているのは、得体のしれない何かだった。
まっ白な吹雪の中、聡はまったく温かくない何かに締めあげられている。
体中が縛り上げられたように痺れていく……。
聡は目をあけようともがいた。
これは夢だ。目をあければ終わる。
だが。
目をあけても、あけてもそこはまっ白な吹雪。
覚めない悪夢が次々と幕を開けるように展開する。
聡はそこから逃げるよう、必死で瞼をこじ開け続ける。
何度繰り返しただろうか。
「おかあさん」
陽の声。
悪夢から聡を救いあげる、いとおしい娘の声。
やっと目を覚ました聡は、体中に汗をかいていた。
「おかあさん」
起き上った陽が心配そうに聡をのぞきこんでいる。
博史が留守の間、聡は陽と一緒に眠っていたのだ。
「大丈夫?」
「……大丈夫よ」
娘の額をなでてやろうとした聡だったが、まだ手がこきざみに震えているのに気付く。
汗をかいているのに……体がやたらに寒い。
もう朝だ。
起きなくては。
暖かい夏の朝のはずなのに、寒気がとまらない。
体を起こそうとした聡は、お腹に重い違和感をおぼえた。
ベッドの上に上半身を起したとたん、腹部の重みははっきりとした痛みに変わった。
と。
……何かが流れる感覚。
――あ。だめ!
聡は、急いでタクシーを呼び、病院に駆け込んだ。
だが……遅かった。
子供は流れてしまった。
第421話 最終章・また春が来る(29)
ロマーヌとの初対面を、聡はよく覚えている。
彼女は、その南国の海のような明るい水色の瞳で聡の顔をまっすぐに見つめた。
初対面の人間にしては、やや長めに見つめた後、にこやかにこう言ったのだ。
「アキラ……どこかでお会いしました?」
聡の方はもちろん初めてだったから
「いいえ。私はフランスに行ったことはないんですよ」
と答える。
「そうですよね。なんでそう思ったのかしら」
ロマーヌは軽く自問自答し、次の瞬間には陽に優しく微笑みかけた。
陽は少し恥ずかしそうに聡の後ろに隠れるようにして、様子をうかがっていたのだ。
「ロマーヌです。ロマでいいわ。よろしくね」
「ろま……」
聡の後ろに身を隠したまま、陽はロマーヌを盗み見た。
「あらあら、すいませんね。……幼稚園に通うようになってなぜか人見知りするようになってしまいまして。陽(ひなた)といいます」
聡がフォローする。
ロマーヌは陽の視線にあわせてしゃがみこむと、やさしく陽の名前を呼んだ。
どうやらやさしいお姉さんらしい、と陽はようやくロマーヌの前におずおずと進み出た。
その顔をみたロマーヌは「Ah!」と小さく声をたてると、聡を見上げた。
「ショウ」
懐かしい響き。
まったく無防備だった聡は、思わずビクッと体を震わせる。
こんな、青い瞳の異国の娘からその名前が出るなんて、予想もしていなかったから。
ひそかに心の中でおびえる聡に対して、ロマーヌは笑顔さえ浮かべながら立ちあがる。
「そうだわ。ショウ。思い出したわ……アキラさん、私、あなたを知っているわ」
聡より小柄なロマーヌなのに、威圧感を感じて聡はあとじさる。
どうして。
使い慣れている英語なのに、出てこない。
偶然に興奮したのか、ロマーヌは頬を紅潮させて嬉しげに説明する。
「前にショウにあなたの写真を見せてもらったの。私、ショウとは幼稚園が一緒で仲良しだったの」
知ってる――将がパリの幼稚園に行っていたことは。
だけどどうして自分の写真を?
疑問のそばから、記憶がはじける。
そうだ。
将が高3の5月だった。
将は写真集の仕事でパリに行っていたことがある。
そのときにロマーヌに会って自分の写真を見せたのだろうか。
聡の脳裏にはそのときの将との思い出が蘇っている。
あのとき、パリへと旅立つ将に聡は一方的に別れを通告した。
その後、ユーラシア大陸を超えた国際電話で、将は『一日も早く大人になる』と誓い、聡はいつまでも待っていると応えた……。
「Ah……本当にびっくりしたわ。ヒナタがいるってことは二人は結婚したのね。ショウはここにいるの? 会いたいわ。
ヒナタは本当にショウの小さいころにそっくりね」
ロマーヌは矢継ぎ早にしゃべっている。
フランス人にしてはきれいな英語だから、するすると耳に入ってくる。
それは聡に想像をさせた。
もしも仮に。
お互いにあのときの誓い通り、そのときが来るのをじっと待つことができたら。
いまごろ二人は……。
「……アキラさん?」
聡の様子にようやくロマーヌが気付く。
いつのまにか聡は陽に視線を向けたまま、ぼんやりしていたらしい。陽はそんな聡を心配そうに見上げている。
「おかあさん……」
陽の声にようやく、聡はハッとする。
ロマーヌは青い瞳を見開いて聡の言葉を待っていた。
やはり心配そうな表情だ。
「ごめんなさい、ロマーヌさん」
聡は笑顔をつくった。
なんて説明すればいいのか迷って……はっきりというのが一番だと結論付ける。
もう過去のことだと。
「……私、将とはずいぶん前に別れたの。夫は将ではない、別の人よ」
ロマーヌの視線が陽と聡と行き来する。
無理もない。将を――特に小さな頃の将を知っている人なら、10人中10人が、陽は将の子だと思うだろう。
大磯で見たアルバムの中の小さな将と、陽がよく似ていることは聡自身もよくわかっていた。
だけど……ロマーヌはやがてうなづくと
「早とちりしてごめんなさいね。アキラさん」
とまず謝った。そして
「そうよね。もう4年も前になるものね。私だってあの頃つきあっていた恋人とは別れてしまったんだったわ」
とおどけたように両手を広げて首をかしげてみせると、再びしゃがみこんで陽に微笑みかける。
「ヒナタちゃん。仲良くしてね」
……ロマーヌはすべてを悟ったうえで、フォローしてくれていることが、聡にはわかった。
優しいひとなのだ。
ロマーヌはボストンに留学している間の2年にわたって陽の面倒をみてくれた。
自己主張が強いとされるフランス人のロマーヌだが、聡とはとても気があった。
やがて、聡は日本語を、ロマーヌはフランス語をお互いに教え出すことになった。
幼い頃の将を知っているひと。
今から思えば、間接的にでも将とつながっていたかったのかもしれない、と聡は思い返す。
ロマーヌもそんな聡を知ってか知らずか――完全に将のことは思い出になっている風を聡が示したからか、ときおり将の昔話をした。
異国の女から聞く将の子供時代。
聡の中で大磯のアルバムの中の将が動き出し……それはいつしか17才に成長する。
その姿はしばしば聡の夢の中にも現れた。
教壇に立つ聡。将はその真下の席から、頬づえをついてじっと聡を見つめている。
あるいは夕陽の海辺。聡を後ろから抱き締める将。
『卒業するまで待って』
聡が将に乞うと、将はせつなげな瞳で聡を見つめるのだ。
――卒業するまで待てば、二人は、いつか幸せになれる。
――私たちは、まだまだこれからなんだから……。
夢の中でいつも、聡ははらはらしながらも、未来を信じていた。
何度夢見ても、夢の中では『今度こそ』と信じてしまう。
そしてくるりと引き戻される現実。
あきらかに日本とは違う、かわいた空気が聡を包んでいる。
そんなとき聡は博史に見られないように枕に涙を押し付けた……。
ロマーヌがフランスに戻る直前の5月。
聡に朗報が訪れる。
……やっと博史の子を身ごもったのだ。
ボストンにやってきてから5年の歳月が経っていた。
第420話 最終章・また春が来る(28)
康三の勧めがきっかけとなって、聡は地元にある日本人の子息向けの日本語補習校で働き始めることになった。
陽が3歳になった年の秋である。
博史が聡に自分の子供を望んでいる状況は変わらなかったが、何せこの3年間、努力して子供はできなかった。
少し生活を変えたほうが、いい影響になるかもしれない……そう思ったのか、博史は承知してくれた。
その博史はその年までで博士号を取得することに成功したが、大学に残留し、研究を続けることになっている。
おそらく――自分と聡との間に子供ができて、二人の間の絆がより確かになるまで、日本への帰国を遅らせたい――そんな思いがあったのだろう、と聡にはわかっていた。
ともあれ、その9月は、聡にとって生活ががらりと変わった月だった。
聡は講師として就職し、陽は幼稚園へ。
ひさびさのお勤めでただでさえ忙しい聡だったが、そこへ陽の送り迎えが加わる。
博史も休みなら手伝ってくれるが、彼も何かと忙しい。
隣のリズおばあちゃんには、謝礼を出して手伝ってもらっているものの……高齢ではあるし、そうそう隣人の善意ばかりに頼るわけにもいかない。
「若いベビーシッターさんを頼んでみれば?」
親切なリズの提案に従うしかなかった。
そして同僚に頼んでやってきたのが……。
「ロマーヌが……? 彼女、ボストンに留学してたんですか?」
もう何年会ってないだろうか。そんなことを思いながらも、将は懐かしい名前を繰り返す。
「ええ。大学3年だったかしら。建築を勉強しにフランスから来たばかりでね。それでうちにベビーシッターとしてやってきたの」
「陽さんが、ロマーヌさんのベビーシッターをしていた、とお伺いしましたが」
敬語を使う自分が……、使わざるを得ない自分の立場が、将はもどかしい。
「ええ。十年以上あとにね」
聡は懐かしそうに頬を緩めた。
「ロマーヌさんが陽の面倒を見てくださった恩返しに、今度は陽がロマーヌさんの2番目のお子さんの面倒を見ることになったんです」
そうやって表情を和らげると、聡の目じりには細かい優しげな皺が寄る。
だけど、それはちっとも彼女の魅力を妨げるものではなく……かえって、その皺が刻まれてきた時間を一緒に過ごしたかったと、将は帰らない時間をむやみに取り戻したい衝動に駆られる。
「ロマーヌさん、とってもチャーミングな方でね。総理のこともよく覚えていました」
聡がロマーヌのことをここでわざわざ口にするということは、当然、将の話題が二人の間で交わされたということだろう。
どうやって、その話題に至ったのか。
将の興味はそこから――次第に聡がどんな気持ちで、自分のことを話したのか、というところに移ろっていく。
そのころには案外、聡は自分のことはすっかりふっ切れていて……単なる思い出話になってしまっていたのか。
いや。
即座に、将は思い出す。
『母は、泣いていました』
という陽の声を。
なぜ。
聡は博史と別れてフランスへ渡ることになったのか。
そして、聡の中の自分の行方は――。
「フランスでの暮らしが長かったと聞きましたが……、どうして原田さんと別れたのですか?」
葛藤の末……将は思い切って、問いを声にした。
……聡の柔らかい表情は、変わらなかった。
第419話 最終章・また春が来る(27)
「そういえば、父が何度かお伺いしたと、陽さんに聞きましたが」
「ええ。……たしか、ボストンに住んで3年目だったかしら。急に訪ねてこられたのでびっくりしました」
将の問いかけに、答える落ち着いた低めの声。
聡の声は若い頃から低めだったから、ほとんどあのころと変わっていない気がする。
そして、それは目を閉じれば――二人が離れていた25年など、なかったような錯覚に将を迷いこませる。
康三が聡の元を突然訪れたのは、陽が生まれて3年目の春だった。
「ボストンの桜も、大変美しいと聞きまして立ち寄りました」
ここに来た理由をそのように説明した康三を見て、以前……卒業式の日に会食した時よりひどく痩せたと聡は思った。
康三は――将が刺された年の9月に、見事与党の総裁選で圧勝し、それまでで最も若い総理大臣となった。
だが、その若さがわざわいしてか、与党の古株と、与党にがっちりと絡みついた官僚らに足を阻まれて思うような政治ができなかった。
そのまま、病を得てしまい、わずか1年で政権を放棄した。
幸い病気は治ったものの、政権を放棄したことを恥じて国政から一時退いていた――ボストンを訪れたのはちょうどそんなときだったのだ。
「おかあさん、えほんは?」
絵本を中断した聡に焦れてリビングに顔を出した陽はだったが、ソファに座っている知らないおじさんを見つけると、本能的に聡にすがりついた。
「陽ちゃんですか? こんにちは」
康三はすぐにそれが陽だとわかったのか、優しげな声とともに頭を下げて見せた。
陽はすがりついた聡のぬくもりを確かめた上で、
「……こんにちは」
と康三に挨拶を返した。
そして聡へと目をあげる。誰、と問うている陽の小さな瞳に、聡は何と答えていいか迷った。
それを察した康三が
「お母さんの知り合いで、たかえだ、といいます。今日はね、陽ちゃんにお誕生プレゼントを持って来たんだよ」
と助け船を出してくれた。
「陽ちゃん、大きくなりましたね」
康三は目を細めた。その陽は、康三がくれたクマのぬいぐるみをすっかり気に入って、それを持って隣のリズおばあちゃんのところへ遊びに行った。
隣人の話し上手なリズおばあちゃんは老後の生きがいと趣味の足しにと、近所の小さな子供たちを預かってくれていて、みんなに感謝されている。
「おかげさまで……」
聡は常套句で答えながらも、ある意味、その言葉通りであることをわかっている。
博史が社会人留学している今、聡の家庭は、康三のひそかな援助で成り立っているのだ。
しかもそれはかなり裕福な暮らしができる金額だった。
とはいえ、聡と博史が暮らすこの家の調度や家具などはこざっぱりとしていた。
聡が身に付けているものも、特に贅沢でもない。
「この9月からは、幼稚園にあがるんです」
聡は、何を話すか考えあぐねて、陽の話題を続けた。
「幼稚園って、アメリカの?」
「はい」
「……そうですか」
康三が遠い目になった理由を……聡は知っている。
おそらく、幼い頃の将と重ねあわせているのだろう。
将はたしか1歳からパリにわたり、実母の考えで地元の幼稚園に通っていたはずだ。
その実母の考えが聡にはなんとなく理解できる。
外国語ができるようになる、とかそういう目先の理由ではない。
せっかく日本以外の地にいるのだから、せまい日本人社会を往復させるよりは、多少言葉が不自由でも広い世界になじんだほうがいい――おそらくそんな考えだったのだろう。
「……で、聡さんは、日本人学校の先生を?」
「いえ、何もしてません」
「え?」
けげんな顔をした康三に、聡はあわてて言い添える。
「2年前に紹介状はいただきました。ですが……辞退させていただきました」
康三は顔に手をあてると、
「なんてことだ……」
とつぶやき、ソファの脇息に寄りかかった。
「あ、いえ……どうしても仕事に困ってる日本の方にお譲りしたんです。うちはお金には……おかげさまで困っていませんから」
それはたまたま、博史と同じ大学で研究する日本人仲間の妻だった。
援助を受けている博史と違って、自費の留学だった彼は生活も大変だったのだ。
博史の子供を作らなくてはならない聡だから、どうせ仕事に就いてもすぐに放り出さなくてはならないかもしれない、とも思っていた。
でもそれは誤算で、この2年、聡に博史の子供ができる兆候はまったくなかった……。
康三は聡に向きなおった。
「いいですか。私は、あなたの家計を援助するために紹介状を書いたわけじゃありません」
「海外で教育を受ける日本人だからこそ……あなたのユニークな教育方法が必要だと思ったんです、私は」
私は、教育者としてのあなたを買っているんだ、と康三は力強く言った。
「そんな……」
聡は絶句した。
教え子である自分の息子と関係して、子供まで産んだ教師にそんなことを……。
しかし、康三はそんなことはすっかり忘れたように繰り返した。
「私が任期中に為し得た、数少ない政策が教育なんです。
その中で私は小学校4年生から職業研究という新教科を作りました。
世の中にどんな仕事があって、それはどうすればなれるのか。どんな生活を送るのか。
どんな喜びがあってどんな苦しみがあるのか。
いくら儲かって何歳くらいまで現役でいられるのか……そういうことを高校3年までかけてじっくり勉強するようにしたのです」
それは、かつて聡が新江高校で試行錯誤したこととそっくりだった。
「結果の平等でなく、機会の平等などと私どもの与党でも声高に言われます。
ですが、先生がおっしゃっていた
『今の子供は……よほど恵まれていない限り、どんな機会があるかということすら知らない』
という言葉が私の心に残っていました」
それは、あの卒業式の日、レストランで……『本題』に入る前に話したことだった。
いわれて聡も思い出した。
その考えは、誰より自分が感じていたから。
聡自身が、大学を卒業するまで……漫然と勉強していたから。
恋におぼれていたから、というのもあったが、何をして食っていくのか、ということをたいして考えないまま、聡は大人になった。
教職を選んだのは、身近にいた教師の親に影響されたのもあるが、一番は受かった大学が教育系だったからなのだ。
「しかし、実際に社会で働いたことのない教師ばかりの中で、その新教科はまだまだ試行錯誤の段階です……」
康三はいま一度、聡の顔を見た。
「先生、日本を遠く離れたこの町ではありますが、子供たちにそれぞれの『機会』を見つける手伝いをしていただけませんか」
第418話 最終章・また春が来る(26)
聡のボストンでの結婚生活はしばらくは穏やかだった。
未熟児で生まれた陽も健やかに育ち、夫の博史は優しかった。
萩の母親は産気づいた連絡を受けて急いで駆けつけてくれた。
あいにくお産には間に合わなかったが、5月の連休まで滞在して、聡親子の世話をなにかとやいてくれた。
その母親も
「博史さんは本当に優しいねえ。おまえは本当にいい人と結婚したね」
としきりに感心していた。
母親は――言葉にしないだけで、陽が博史の子でないことを知っているはずだった。
母親のいうとおり、博史は本当の父親でもないのに、かいがいしく家のことや陽の世話をやってくれた。
聡の負担が少ないように、オムツ替えから入浴までやってくれている博史に、聡は罪悪感を感じた。
そしてどういうつもりだろう、と少しいぶかった。
だけど、疑う必要はまるでなかった。
一心に世話をし、あやす様子をみれば、博史は単に――生まれたばかりの赤ちゃんがただ可愛いくて仕方がないだけなのだ、ということは誰でもわかった。
ひいたん、ひいたんと慈しむ姿は、聡ですら陽の父親は博史だと錯覚しそうになるほどだった。
事実博史は「子供がこんなに可愛いとは思わなかった。可愛くて仕方ない」とよく目を細めた。
そして……やがて口にするのだ。
「陽の兄弟をつくってあげたい」
と。
傍目から見れば……いや、自分でも幸せなのだと思う。
幸せだと自分に言い聞かせるようにしていた。
日本に置いてきた激しい愛情と、不安定な未来。
それに比べれば、これほど穏やかで安定した家庭はないだろう。
まもなく大学の博士課程に正式に入り、研究の日々となった博史は優しく。
すくすく育つ陽はいとおしい。
しかし2年以上経っても……聡は陽の中に、自分を愛した彼の面影を探してしまうのだ。
陽は優しげな顔立ちながら、将にやはり似ていた。
将が安心しきったときの顔。おそらく聡にしか見せなかった顔……。
ときおり、張り裂けそうな心をもてあまして聡は陽をかき抱いた。
「おかあさん、どうしたの?」
そういいながらも、抱きついてくる陽は温かかった。
「陽の兄弟をつくってあげたい」
その言葉通り、博史は聡をごく自然に抱いた。
陽が生まれて半年ほど経った頃だったはずだ。
かつてはこれ以上はないほどの幸せを感じた腕の中で、聡は何かを必死で耐えている自分を感じていた。
やがて博史は……はっきりと自分たちの子供を望むようになった。
博史の行為は毎回優しく、十分に聡のことを考えたものだった。だけど。
……それでも、聡には重荷だった。
行為自体も。そして、それに期待される結果も。
陽を自分の子供のように可愛がってくれる博史には、この上なく感謝しているのに。
この先の人生を一緒に歩いていくパートナーとしては、十分信頼しているのに。
信頼してる?
その言葉に違和感があって聡は我に返る。
自分は……果たして、この人を信頼できるほど知っているのだろうか。
しかし我に返ったところで、聡は……結局、この男を信頼して生きていかなくてはならないのだ。
博史に抱かれながら聡はいつも思う。
――早く終わってほしい。
ただそれだけだ。
いや、それよりも。
てっとりばやく博史の子供を身ごもってしまえば、この儀式は繰り返されない……。
それに、子育ては忙しい。
毎日の子育てに追われれば。
博史への思いについて立ち止まることなく、季節は流れて……いつしか年老いて。
いつのまにか二人は「落ち着いた夫婦」にきっとなっているはずなのだ。
いつしか聡自身も……博史の子供を心からのぞむようになっていた。
だが、子供はなかなかできなかった。
第417話 最終章・また春が来る(25)
ぼんやりと過ごしていた将を動かしたのは、脚本家の元倉亮である。
将が刺される直前に準主役を務めたドラマ「あした、雪の丘で」のスピンオフが、舞台化されるにあたり、元倉は将を誘った。
もちろん将は断ったが、たった1日の上演とのこと、そして何度も何度も執拗にオファーを受けたことで、ついには根負けして承諾した。
たった1日ならいいか、と考えたのだが、そこで将はボロクソにしごかれた。
たった1日、たかが2時間もない劇だというのに、練習でとことんダメだしされた。
それはコメディ要素の強いスピンオフだった。しかも将は、女性に振られる役どころだ。
「君、まったく笑えないんだよね。真剣にやってよ!」
振られる役を面白おかしく見えるように演じるとは。
「演技が固い。理解が浅い!」
理解が浅いのは将にはわかっている。いや、理解していないわけではない。
わかっているのに……つらくて、浅くしか入り込めないのだ。
「なんか将君のシーン見てると、可哀そうで泣けてきちゃうのよね」
共演の女装家コメディアンが言った。将の事情など知らない彼をしてそう感じさせてしまっている。
可哀そうに見えてはだめなのだ。滑稽に見えないと意味がない。
将はもがいた。
もがいてもがいて、気が付くと自分を忘れている一瞬があった。
シンクロしてくる自我と役柄——それに必死で抵抗していた自分がいなくなった。
演技に集中している間は、聡のことを忘れることができた。
かくして、スピンオフコメディは、そこそこの成功を収め、将は歩き始めることを知った。
その後、将は学業と俳優業を忙しくこなしながら、政治を学んだ。巌の遺言を守るべく――。
それも聡を失った痛みを忘れ――そして、聡が自分に望んだ未来を実現させるだめだった。
こころに少しでも隙間ができれば欲してしまう。そんな自分の心から逃げるべく将は働いた。
そして、いま。歴代で一番若くして総理に登りつめた――。
「……それでもいつも、心のどこかであなたの幸せを願っていました」
将は『幸せ』という言葉をやや強調してみる。
盤石であったはずの、聡が手に入れた幸せ……。
それを知ってか知らずか、聡は静かに沈黙していた。
その黒目がちの瞳は――睫でその半分が隠れている。ゆえにそこに何が映っているのか将にはわからない。
それを確かめたくて、だけど将は躊躇する。
本当の聡の思い。
その後の聡が、どんな運命をたどり、何を思いながら暮らしたのか。
だけど問いは舌にからまってしまったようだ。
からまった問いを、ほぐすように、将は冷めかけた紅い茶で舌を潤す。
そのとき、再び窓から薄日が射してきた。
さっきより、やや強い日差しは、テーブルの上の小さな紅いバラの色をくっきりと際立たせた。
本当は――。
わかっていること。きっと浮かび上がること。
それは。本当は……二人がやり直せたかもしれなかった事実。
いまさら言っても仕方がないことだ。
だけど。
将は目の前にいる、聡へと瞳をあげた。
藤色の着物に包まれた聡は、レースごしの陽射しの中で、白磁のように白かった。
その血色の薄い肌はただ儚くて。
聡に残された余命の短さを将は確かに感じた。
――もう、これが聡と会う最後かもしれない。
だから。
何十年も前にすれ違ってしまった思いだけど、重ね合えた可能性を。
いま、確かめることができるなら。
将は、あえて投げかけてみる。
「……だけど、あなたは。あなたの幸せは……もうずいぶんまえに壊れていたんですね」
将の言葉に聡は静かに首を横にふった。
第416話 最終章・また春が来る(24)
博史と陽の姿に、聡の幸せを理解した将は……聡に会うことなく帰国した。
今度こそ、引き裂かれるように胸は痛んだ。
断腸の思い――子猿を失った親猿の、腸がちぎれるほどの悲しみ。その諺どおりの痛みに将は耐えた。
聡のために。
聡が将の未来のために身をひいたように。
聡がやっと手に入れた幸せを壊すことはできない……。
聡と自分の道は、すでに分たれてしまったのだ。
「……結局、僕は、あなたの幸せを壊せなかったのです」
将は乾燥した視線をティーカップに落した。
そこには……あのとき探して歩いた夕陽に似た色が残って揺れていた。
もう逢えない。
二人が二度と結ばれることはない。
それがあの人のためなのだ。
それがわかっていても、将の心はなおもひきちぎれた恋を求めて長いこと叫び続けていた。
ボストンから帰国した将は、K大に2年次から復学した。
体は奇跡的にもほとんど元通りに戻ったが、聡を失った将の心はまだ癒えることなく、抜けがらも同然だった。
将は、せっかく2年に進級できた大学をしばしばさぼった。
学校をさぼった将は、さまよっていた。
二人で歩いたあの街。
二人で座ったあのカフェのソファ。
聡の思い出を、面影を。
探して将はさまよった。
もしかしたら、偶然会えるかもしれない。
……ありえないとわかっているのに。
わかっていても将は思い出を訪ねずにはおれなかった。
あの海辺へも何度も訪れた。
あのときと同じローバーミニを運転して、あの海岸への道をたどる。
振り返れば、助手席であの人が笑っている。
そんな幻を期待したのに。
幻すら今の将に会いに来ることはない。
やがて車は二人がびしょぬれになりながら笑ったあの海岸にたどりついた。
春の海はサーファーでにぎわっていた。
あのとき、初秋の海岸にはあんずのような色の夕陽が輝いていた。
今、将の前にあるのは霞んだ薄水色の空と、水平線の上にやや力強く浮かぶ夏雲のはしりである。
柔らかな風が吹けば
春が訪れて
海に浮かぶ雲は
夏を呼んでる
吹き抜ける
青い空の向こうにはもう
あの真っ白い冬が
待っている
ほんのなにげない
晴れた午後は
二人のことを
思い出すことあるかな
二人の時は
止まったままだね
また 春が来る
今も 信じられないけど
あの日 確かに
二人
終わってしまったのかな
偶然でいいから
どこかで
会えればいいのに
きっと時計が 動き出す
知らないうちに
いつかここも
変わってしまった
もう一度 二人
ほんとうに
会わないで いいかな
ずっと
このままで いいのかな
季節はただ巡り
また 春が来る
ねえ
またあの海へ
またあの街へ
行ってみないか
クリスマスの夜
二人腕からませて
またずっと
どこまでも歩かないか
もう一度 二人
会わないで いいかな
こうして
このまま 終わるのかな
(引用:小田和正「また、春が来る」)
将は高校時代に暮らしたマンションの前に立った。
……ここももう、売り払われていた。
聡が立ったキッチンも。
二人で初めて抱き合って眠った、コンポのパイロットランプが星空のようだった寝室にも。
もう立ち入ることはできない。
将はマンションを下から見上げると、あてどもなく夕方の町をぶらついた。
あの頃――塾講師のバイトがない日なら、聡が弁当屋にいた時間。
しかし……ごちゃごちゃした商店街はいつのまにか区画整理されていた。
聡が働いていた弁当屋のあたりは、大きな洒落たショッピングモールが建っていた。
かつての古びた面影などみじんもない。
『いらっしゃいませ。……山田さんは、中華か揚げ弁かオムライスだもんね』
『うすらの卵、サービスで3つも入れといたよ。好きでしょ』
地味な、白い上っ張りの上にあった、温かい笑顔。
レジを打つ間見とれた優しげな長い睫も、桃色がかった細い指も、低いくせに親しみのある声も。
もはや将に差し出されることもない。
時は流れ人は変わっていく。
わかっているのに。
将はその流れに身を任せることができず、ただぼんやりと立ち尽くしていた。
第415話 最終章・また春が来る(23)
博史はまだ、少し離れたところに立っている将に気づいていない。
たんぽぽの綿毛に興味津々の我が子しか眼中に入っていない様子だ。
いや、博史の「我が子」ではない。あれはたぶん……将の子。
聡が産んだ、将の子。
将が知っている予定日から計算すると、0才11か月。
だけど、将が知っている11か月の赤ちゃんよりずっと成長しているように思えた。
淡い黄色のワンピースを着た「彼女」のくるくるとした巻き毛は、すでに水色のリボンを飾れるほどの量があった。
赤ちゃんというよりは、幼児に差し掛かっているようにさえ見える。
それでも綿毛を吹くことができない「彼女」に代わって、博史がまた吹いてやる。
綿毛は高く舞う。
「彼女」はそれを追いたいのか、ベビーカーにつかまって立ち上がり、一心に目でそれを追っている。
見開いた瞳はすでにくっきりと印象が強い。
『将、子供の頃は目がすっごくぱっちりしていたんだね。女の子みたい』
聡の声が蘇る。たしか、大磯でのクリスマスの夜。
将の子供の頃の写真を見て笑った、聡……。
「アー、たぁた」
立ち上がった「彼女」は博史を振り返る。
「わかったわかった」
博史は立ち上がると「彼女」の両手を取った。「彼女」は嬉しそうに芝生の中で足を一歩踏み出す。
一歩、また一歩。博史の両手にしっかりとつかまりながら「彼女」は大地を踏みしめながら歩く。
「よしよし、上手。ひいたん、上手だね」
博史の声音が、滑稽なほどに甘く優しい。
「タバー!」
『ひいたん』は何かを見つけたのか、博史の手を離れて、芝生の上をハイハイし始めた。
手につかまって歩くより、ハイハイの方が移動スピードが早い。
「こらこら」
といいながらも全然怒っていない博史の声。ひいたんの行く先へついていこうとして……そこで初めて、立ち尽くす将に気が付いた。
博史の視線は一瞬、将を見つめたが、すぐにひいたんへと戻った。
彼女は、芝生の中に生えるクローバー――シロツメクサの白い花が欲しかったようだ。そのシロツメクサは将の足元で咲いていた。
「たバ」
花のすぐそばまで来たひいたんが嬉しそうに博史を見上げる。
「クローバー、よく覚えていたね」
ひいたんはハイハイをやめて座り込むとシロツメクサに手を伸ばした。
「今、美容室に行ってるんだ」
つまり、聡はここにはいないということを、博史は主語を省略して将に伝えた。
視線は子供から移さず、挨拶も何もなかったが、将に話しかけているのは声色の違いですぐわかった。
特にうろたえることもなく、落ち着いた声色だった。
その落ち着きと、子供の存在に、将は応えあぐねた。
ただ、博史の視線の先にいるひいたんを言葉もなく眺めるしかない。
「はな!」
『ひいたん』が摘んだシロツメクサの花を見せようと博史を嬉しそうに見上げた……そして将に気づく。
博史は花を握った『ひいたん』を抱き上げた。
ひいたんの不思議そうな視線が、将の視線の高さに近づく。
一瞬、幼い視線と将の視線が交差した。
「たぁた」
博史の腕に抱かれたひいたんは、握ったシロツメクサの花を、ふいに将に差し出した。
「こえ」
小さな手から、丸い白い花が将の方に差し出されている。
とまどう将に、
「あまり人見知りしない、いい子なんだ。ね、ひいたん」
博史が穏やかな声でフォローした。その視線はあいかわらずひいたんだけに注がれている。
何があっても我が子から目を離さない。
それは我が子を愛し守る父親そのもの、としか思えない。
ひいたんは、花を差し出したまま、その丸い瞳で将をじっと見つめている。
その小さいながらも強い目力に促されるように将はやっと言葉を出せた。
「……くれるの?」
「た!」
将はシロツメクサの花をその小さな手から受け取った。
「……ありがとう」
花を渡したひいたんは将に一瞬笑いかけた。
次の瞬間には嬉しそうに博史を見上げて、そして博史の首にしがみつくようにして、将の視界から笑顔を隠してしまった。
その子にとって父親は、将ではなく、博史なのだ。
守ってくれる存在は、博史なのだ。
子供にとってそうならば、その母親は。聡は……。
「……ばいばい」
将は自分から小さく手を振った。それがせいいっぱいだった。
聡の「いま」の幸せを壊せない。
将にできるのは、もう会わないことしかない。
将の声にひいたんは少しだけ振り返ったが、すぐに博史の首にしがみついた。
「……会わないのか?」
聡に、を省略して博史が淡々と問うた。それは他人が聞いたら憐れむようでさえあった。
「いいです」
将は博史に一礼すると、シロツメクサを握ったまま、二人に背中を向けて歩き出した。
早足で立ち去ろうとする将に、風にのって桜の花びらの一群が舞い降りてきた。
その花びらから逃げるように、そして、涙を振り切るように、将はいつか走り出していた。
第414話 最終章・また春が来る(22)
それから将が渡米できたのは、翌年あけの春だった。
リハビリで体をほぼ元の状態に戻すのにそれだけの時間が必要だったのもある。
それから年明けには、入学手続きをしたまま休学扱いになっていたK大の後期の期末試験も、形だけでも受けなくてはならなかった。
本当は将には大学なんてどうでもよかったが、聡のことを考えると……聡に少しでもしっかりとした自分を見てほしいと考えると学業も最低限はやらなくてはならなかった。
そして1年でとらなければならない最低限の単位をなんとかとった将は、春休みにボストンへと旅立った。
――ここが聡の家。
タクシーを降りた将は、芝生の向こうにある青い屋根の家を見据えた。
聡と博史が暮らす家の住所は、事前に調べていた。
聡の友人の美智子が夏にさっそくボストンを訪れていたから、簡単にわかった。
並木道ぞいに、芝生の庭を持つ戸建ての家が立ち並ぶ、落ち着いた住宅街に聡の家はあった。
玄関わきに白い手すりを備えたテラスがある気持ちのよさそうな家だった。
芝生の中に桜によく似た木が白っぽい花をつけている。あんずかさくらんぼだろうか。
やっと聡に会えるというのに、この家の前に立つと怖さが先に立った。
いや、ここにたどりつく前から……将は少しずつ怖さを感じずにはいられなかった。
出発時こそ希望に高揚しながら飛び立った将だったが、聡のいる場所へ近づくにつれてだんだんと胸が苦しくなってくるようだった。
それは見たくないものが待っているという予感なのかもしれない、ということを将は自覚している。
だが、それでもやはり会いたい。思い切ってチャイムを鳴らそうとして……将は手を止めた。
代わりに中の様子をうかがってみる。
……人の気配がしない。風が吹いて白っぽい花びらがひらひらと静かに舞うだけだ。
どうやら留守のようだった。
将はなぜかほっとした。
ボストンコモンは桜が見ごろを迎え、市民たちがそこここでピクニックを楽しんでいた。
出直すことにした将はホテルがあるダウンタウンに戻ってきて、暇つぶしにボストン一古いといわれるこの公園へやってきたのだ。
スタバのコーヒーを片手に、ベンチに座る。
芽吹き始めた木々と桜のコントラストの向こうに美しいボストンの街並みが日差しに輝いている。
だけどこんな美しい景色の中にいながら将の心は沈んでいくようだった。
これからどうするのか。
芝生の上でベビーカーに乗った小さな子供をあやす若夫婦が目に入る。
聡は……博史と結婚して、もう1年近くたつのだ。
将の脳裏に、さっきの白いテラスで青い屋根の家が思い出される。
あの気持ちよさそうな家で、聡はもしかして、幸せに暮らしているのだろうか。
自分のことはすっかり過去になってしまっているのだろうか。
冷めたコーヒーを飲みほした将は、所在なくて再び午後の公園内をぶらぶら歩き始めた。
と。たんぽぽの綿毛がいくつか前を横切った。
綿毛は、木漏れ日を受けてきらめきながら舞い上がっていった。
「たあた」
「ふーってふくんだよ。ふー」
そよ風と葉擦れの向こうに、かすかに日本語を聞き取った将は、再び綿毛が飛んできた方を振り返った。
……そして立ち尽くした。
それは、芝生に座ったみどり子と一緒にいる博史だった。
第393話 最終章・また春が来る(1)
あれから何回の季節が通り過ぎていっただろうか。
街も、人も、その姿を変えながらも、生きて動き続けているのは変わらない。
失ったひとも。
そして、引きちぎられるような悲しみも。
ともすると、生き続けていくために繰り返す日々の雑務の中で、沈澱してしまい……そのまま澱のように忘れてしまいそうになる。
2月。
小雪が舞う寒い日。
鷹枝総理は、今、先祖代々の墓の前に立ち尽くしていた。
総理にとって墓参りは、奇しくもその悲しみを浮かび上がらせ、今は亡い人を思う大切な日だった。
本来は……いとしい家族の命日は、まだ先だったが、今年の命日は先進国首脳会議の日程に掛っているから仕方がない。
それは前総理の都合で決まった日程だった。
前総理を衆議員解散・総選挙へと追いやり、歴史的な衆院選大勝で下した鷹枝総理とはいえ、個人的な事情で国際イベントのスケジュールを覆すわけにはいかない。
総理はアネモネの花を墓前に供えると、手をあわせた。
アネモネは、あたりの寒々しい景色に似合わない鮮やかさで、石造りの墓を彩った。
墓の下には、あまりに早く逝ってしまった愛する家族、そして偉業を成し遂げてきた先祖が眠っている。
心の中で、彼ら一人一人に声をかけているうちに……いつのまにか長い時が経っていた。
「総理。肩に雪が……」
ようやく総理が寺の外に現れると、待っていた初老の運転手が見上げるようにして声をかけた。
いつのまにか総理の肩には雪が積もっていた。
「ああ。温暖化が少しは止まったのならいいけど」
総理はほほ笑みながら自ら肩の雪を払った。
その間も、周囲に鋭い視線を走らせるSPが3人、総理を守っている。
長年政権を握ってきた与党を圧倒的多数で下して選挙に勝ち、史上最年少で宰相になった鷹枝氏は、与党や官僚の私欲がらみの癒着をばっさりと断った。
その断ち切り方は容赦がなかった。
大多数を占める庶民の不利になる関係は情けをかけることなく断った。
就任してわずか1年足らずながら、癒着がらみで検挙され、あるいは追い詰められて自殺した者は数十人にのぼるとさえ言われている。
ゆえに総理を恨むものも多く……利権の復活のために命を狙うものさえあることを、総理自ら知っていた。
死ぬことは別段怖くはない。
しかし。
私腹を肥やすために国を食い物にする輩から、この国を守れという一族の長老との約束を果たす道のりはまだ始まったばかりだ。
ここで殺されることによって、仕事を手放すわけにはいかない。
防弾仕様の車に乗り込んだ総理は、秘書から資料を受け取り目を通した。
分刻みのスケジュールは、確認せずとも頭に入っているが、なにせ忙しい総理である。
こうした移動時間は格好の資料を読み込むべき時間になっていた。
委員会の分厚い資料を10分ほどで目を通してしまい、次の資料を手に取る。
それは今夜収録されるテレビ番組で対談する相手のプロフィールだった。
総理は忙しい身ながら、テレビ番組をレギュラーで持っている。
各界で活躍する若いゲストと総理が1対1で対談する、30分の深夜番組だ。
対談といいつつ、実はゲストから投げられる政治への疑問に総理が答えるという形式になっている。
ともすると真意が間違って国民に伝わりがちなトップの地位にあって、自らの意思や政策を国民に自分の言葉で伝えること、そして政治を身近に感じてもらうことが主な目的だった。
総理としては本当は生番組がよかったのだが、総理ともなると何が起こるかわからないということで、収録になっているが、ほとんど編集をしないという約束になっている。
総理の人気や支持率は歴代総理の誰よりも高い水準で推移しているのもこの番組が一つの助けとなっているかもしれなかった。
「女優の月舘よう子ねえ。……三島くん知ってる?」
「知ってますよ。カンヌ映画祭で日本人初の主演女優賞を取った、今一番話題の人気女優さんじゃないですか」
若い秘書の三島が、そんなの常識といわんばかりの声をあげたから、総理は再びプロフィールに目を落とす。
たしかに三島のいうとおり、1年前、24歳だった彼女はカンヌ映画祭でパルムドールを授与されている。
しかもフランス映画でだ。
アメリカ生まれパリ育ちで3ヶ国語に堪能。18才で帰国し、19才でスカウトされてデビュー。
かつ、芸能活動をこなしながら、総理と同じ一流大学をきちんと卒業している。
しかし和服を着たプロフィール写真に、外国育ちながらルーツを大事にする彼女の気持ちが表れているようで、総理は好感を持った。
そのとき、運転手がつけたカーラジオから、懐かしい歌が流れてきた。
本来、カーラジオはニュースなどを知るためにかけている。
車にはテレビも完備しているが、資料に目を通しながらの情報収集にはラジオがぴったりなのだ。
♪ La La La……言葉にできない ♪
愛したひとが好きだった歌の一節を、思わず総理は資料から目を離さないまま口ずさんでいた。
「総理の歌なんて、初めて聞きました」
三島が意外そうにつぶやいた。
「そう?」
総理はいたずらっぽく笑うと、資料を秘書へと返す。
『先日×歳で永眠した○○○○さんの約半世紀を超えての歌声。本当にいいですね。これからも私たちを魅了し続けていくことでしょう……』
アナウンサーの声に総理は、また、時が進んだことを知った。
人は逝き、歌はこうして残る。
人が生きるとは、そして生きた証とは。
遠い昔、考えたそれが、ふいに頭を占拠しそうになり、総理はあわてて思考を資料に戻す。
考えても考えても、答えになどたどりつくはずなどないのに。
こうして何かを失ったとき、忘れかけていたそれが浮かび上がってくるのだ。
それは……使命のために忙殺されていても、なおも生きている『心』というやっかいなものの証のようだった。
「総理、こちらです」
プロデューサー自ら総理を出迎えるのは毎回のことだ。
「今日のゲストの、月舘よう子さんです」
「よろしくお願いいたします」
総理よりずっと早く到着していたのか、プロデューサーと一緒に月舘よう子が頭を下げる。
顔をあげた月舘よう子を見たとき、総理は、一瞬、懐かしい風が通り過ぎたような錯覚にとらわれた。
しかし、顔をもう少しよく見ようとしたそのとき。
「それではさっそくカメリハ行きましょう」
とプロデューサーが促したから、それはうやむやになってしまった。
収録はつつがなく進んだ。
総理は、よう子の質問に如才なく答えながら、その顔を観察していた。
――どこかで見た気がする。
そして、この雰囲気。低い声ながら温かみのある話し方。
25才。一見、日本の若い女性とまるで変わらないよう子だったが、しっかりと社会や世界の中の日本を見据えて、自分なりの価値観を持っている……
話からはそんなよう子の高い知性が伺えたが、その雰囲気は硬いものや、人を見下す類のものではなかった。
柔らかく温かい雰囲気。
それは、あきらかに、遠い記憶の中の、あの女性に似ていた。
総理がすべてのスケジュールを終えてから行われる収録だから、終了はたいてい深夜になる。
「お疲れ様でした」
今日の仕事をすべて終えて、ほっとした総理が秘書と共にスタジオを後にしようとしたそのとき、
「総理」
後ろから呼び止められた。よう子だった。
「今日は、ありがとうございました」
しなやかな身のこなしながら、深々と頭を下げる。
「こちらこそ。いろいろと勉強になったよ」
総理は挨拶を返しながらも、再びよう子に漂うものを観察した。
やっぱり似ている。こうやって立ち上がると、ますます――。
「あの、総理」
顔をあげたよう子は、なおも立ち去ろうとせず、総理を見上げた。
どうやら単なる挨拶で呼びとめたのではないようだ。
総理はよう子に向きなおった。秘書の三島は、総理がいつになく優しい表情を浮かべている、と思った。
「……総理は、ロマーヌさんを覚えてらっしゃいますか?」
「ロマーヌ?」
総理は首をかしげたが、よう子はなおも続ける。
「ロマーヌ・ディビエさんです……パリの。総理と幼稚園が一緒だったって聞きました。私、子供の頃、ロマーヌさんにベビーシッターをやってもらっていたことがあるんです」
そこまで聞いて……総理のまなこと口が大きく開いた。
遠い記憶がマジックの花のようにいきなり蘇る。
「ロマーヌ。ロマか!」
「はい」
よう子は嬉しそうにうなづいた。そして、頬を紅潮させたまま、さらに口にする。
「総理。……私の本名は、古城陽(ひなた)っていうんですよ」
鷹枝総理――つまり鷹枝将の息は一瞬止まった。
それは……25年の間、止まっていた何かが流れ始める合図のようだった。
第392話 旅立ち(6)
康三はハイヤーから転がり出るように降りると、あわてて頭を下げる関係者に見向きもせず、救急病院の玄関へと駆け込んだ。
そのあとを腰も低く毛利が追う。
手術室の前のベンチには、一足先に到着していた妻の純代が腰かけていたが、康三の姿を見ると、反射的に立ち上がった。
「将はっ……!」
康三は荒い息を整えることもせず、純代に詰め寄った。
純代は立ち上がったものの、呆けたような顔つきで……その視線は康三から確実にそれていた。
「無事なんだろうな!」
純代は答えることもなく、目を伏せた。
「どうなんだ!」
康三はそんな純代に容赦することなく、肩をつかむと揺さぶった。
「……心肺……停止状態だそうです……」
「なんだって!」
恐慌状態に陥った康三は、言葉に詰まった純代をなおも揺さぶり続けた。
まるで純代が、将を危篤に追いやったかのように。
「鷹枝さん!落ち着いてください」
そこにいた看護師が気づいて、取り乱した康三をとめようとすがる。
「心肺停止って、どういうことだ……将は、将は、生きているんだろうな」
「今、蘇生処置をしてますから」
「落ち着いてください!」
看護師2名がかりで取り乱した康三を説得しているまさにその最中に、病院長が現れた。
康三はなおもとどめようとする看護師を押しのけるようにして前に出た。
「将は……息子は!無事なんでしょうね!」
病院長は苦い顔のまま、こちらへ、と康三と純代を応接室へと案内した。
「傷は、腹部大動脈まで達しており、出血多量による心肺停止状態に陥っています」
「それで、将は……」
病院長による説明に康三はソファから立ち上がらんばかりに上体を乗り出した。
「現在、蘇生術を施していますが、心肺停止状態に陥ってから30分以上が経過しています……」
「それは……」
病院長は顔を伏せた。その先は、聞くまでもなかった。
通常、心肺停止状態から30分が経過すると、その後の生存率ががくんと落ちると言われている。
血流が止まることによって、脳に酸素がいかなくなり……脳組織が徐々に死滅していくからだ。
朝のラッシュ時ということが災いした。
最初の通報から救急車が現場に駆け付けるのに20分がかかってしまい、さらに最寄りの救急病院に到着するのに15分が経過していた。
この病院に到着したとき、すでに将の心臓は止まっていたのだ……。
「そんな……」
力なくうなだれる康三を、そしてすすり泣く純代を、なぐさめるように、病院長は、それでも最善を尽くしている、と繰り返した。
二人は、そのまま応接室で手術の結果を待つことになった。
現官房長官である鷹枝康三の長男で、人気俳優の将が何者かに刺されて重体という情報はいつのまにかマスコミに漏れ、病院の外側には報道陣が集まり始めていた。
その不躾な取材行動から逃れるためにも、康三と純代はここで待ったほうがいいということになったのだ。
「どうして、こんなことに……」
康三はほとんど声を出さず唇だけで呟いた。
本当だったら、いまごろは東大の後期試験に臨んでいるはずだった将が。
どうして……。
呆けたような夫の傍らで純代はひたすら祈っていた。
――どうか、大おじいさま……、将をお助けください。将を連れていかないでください。お願いします。
天にいるはずの巌に、なぜかすがっていた。
と、思い出す。ここに、いて、将の無事を祈るはずのもう一人の人間を。
純代は立ち上がった。康三はうなだれたまま動かなかった。
ドアをあけると、そこには毛利が控えていた。
「奥さま」
純代に気づいて毛利は立ち上がった。
「毛利。古城先生に、連絡してください」
けげんな顔をする毛利などどうでもいいように、純代は威圧的に命令を下す。
「こちらから目立たないように迎えの車を出して……。そう、孝太が家にいるから、孝太をカモフラージュに使ってちょうだい」
……つまり、孝太のお付き、という形にして聡をここに連れて来いということだ。
「わかりました、奥さま」
「なるべく急いでね」
毛利は一礼すると、きびきびとした動作でそこを出た。
――聡さん。あなたが、将を……将の魂を呼び戻してください。
あとに残された純代は、胸の前で手をあわせると、もう一度祈った。
「よかった。なんとか間に合いましたね」
成田空港にある宅急便のカウンター。
同行する医師の妻が、聡のスーツケースを受け取りながら笑顔で振り返った。
博史・聡に同行するのは、聡の副担当医とその妻だ。
無意識にスーツケースを受け取ろうとする聡だったが
「いいんですよ。あなたはお腹の赤ちゃんだけを無事にアメリカに運んでください」
と、妻のほうにたしなめられる。
「どうもすいません」
博史が代わりに謝る。
「いいんですよ。私たちも役目が終わったらアメリカ旅行を楽しんで帰りますから」
聡たちを無事にボストンに送り届けて、向こうの医師に申し送りをするまでが同行する副担当医夫妻の役目だ。
万が一、飛行機の中で早産しても最善の処置ができるように、医療器具を山のように抱えている。
いま11時前。
出発時刻は正午だから、1時間以上ある。
それでも搭乗・出国手続きがあるからギリギリといえる。
「じゃ、急ぎましょうか」
話は通してあるとはいえ、医療器具を機内に持ち込むのにトラブルがあったらいけないと、夫の副担当医のほうがうながしたそのとき。
突然、博史の携帯が鳴った。
航空会社のカウンターへと歩きながら、電話の相手と話そうとして……その足が止まった。
目で一行に会釈しながら、博史は電話を手のひらで覆うようにしながらその場を一瞬離れた。
「それにしても、赤ちゃんも順調でよかったね」
博史の電話で足止めを食っている間、医師の妻は、まるで赤ちゃんがそこにいるように、お腹にむかってほほ笑んだ。
ついさっき、いつもの病院で出発前の最後の検診を済ませてきた。
それによると、お腹の中の赤ちゃんに異常はまったくなく、健康そのものということだった。
聡はほほ笑みながらお腹を撫でた。
まるで遠足でも楽しむかのように、『ひなた』はぽこっと軽く揺れた。
博史の電話の相手は、毛利だった。
将が刺されて重体。
それを知った博史は思わず、目の端で聡を意識する。
「聡さんには……絶対に知られないようにしてください」
抑揚のない声で、かつ鋭く、毛利はそういった。
「なにごともなかったように、出国してください」
「……わかりました」
思わず返事に重いため息が混じる。
「空港にはテレビがあると思いますが、くれぐれも気を付けてください」
「……はい」
通話が終わった後も、博史は手の中の携帯を見つめて立ち尽くしていた。
将が、重体。十中八九、見込みはない。毛利はそういった……。
「博史さーん」
医師の妻の声にハッとする。
振り返ると、手を振る彼女の横で聡も小さく微笑んでいる。
その顔を、思わず博史はじっと見つめてしまう。
「急ぎましょ!」
「はい。すいません」
博史はあわてて一行のもとに戻ると、カウンターに向って歩き出した。
「電話、誰からだったの?」
聡が博史を見上げる。
「あ、うん。……オヤジ」
「お父様?」
「あ、えっと……なんか、忘れものだって。どうでもいいものだから、いいっていっといた」
「そう」
ごまかすのに苦労した博史だったが、聡がそれで納得してくれたようなので、心からホッとした。
出国手続きは多少混んでいたものの、概ねスムーズにいき、4人は出発ラウンジまでやってきた。
ガラス窓の向こうには、一行をアメリカへと運ぶ機体が見えている。
ちょうど、搭乗開始を告げるアナウンスが流れてきた。
「じゃあ、もう乗りましょうか」
博史がさりげなく促す。
……幸い、ラウンジのテレビで、将のことはまだ報じられていなかった。
「そうですね。わたし、ビジネスクラスって初めてなんですよ」
医師の妻は、気さくで明るい性格らしい。
一行の旅を盛り上げるべく、さっきから明るくふるまっている。
おかげで……聡も、悲壮感を漂わせることなく、医師の妻にあわせてさっきから笑みを浮かべている。
だが。
博史には、それがかえって痛々しく見えた。
何も、知らない聡。
いや、知らなくていいのだ。博史は思いなおす。
聡は……すでに将と別れる決断を下したのだから。
聡は、自分が幸せにすればいいのだ……。
博史は聡の肩にさりげなく腕をまわした。
肩にまわされた博史の温かい腕に……聡はもう戻れないことを改めて感じていた。
自分は、今から目の前の飛行機に乗って。
新天地でこの人と暮らす。
いずれ生まれてくるひなたのためにも、隣にいる博史と、温かい家庭を築かなくてはならない。
将を忘れて――。
それが、将のためなのだから。
聡は、そう自分に言い聞かせると、最後のゲートに向かって一歩を踏み出した。
ア キ ラ……
――将?
急に聡が足を止めたので、博史は傍らを振り返る。
聡は……まるで誰かに呼び止められたように……後ろを振り向いていた。
いまの声。
たしかに、将だった。
将が、背後から自分を呼んだ。はっきりと聞こえた。
聡は、ラウンジにいる人の中に、すでに懐かしいその面影を探す。
「どうしたの?」
いるわけがない。
将が、ここに来るわけがない。
今頃、将は、東大の後期試験に挑んでいるところなのだから。
「……ううん。なんでもない」
聡は、そういって博史を安心させるように微笑むと、ゲートを通った。
聡が、キャビンへと消えたあと。
入れ替わるように、ラウンジのテレビにテロップが入った。
『鷹枝官房長官の長男で俳優の鷹枝将さん、襲われ重体』
機内のテレビは、ニュースを流していなかった。
おそらく毛利が手配したのだろう。
博史はホッとしながらも、細やかすぎる冷酷さに少しだけ胸やけがする思いがした。
ここまで徹底的に、二人を引き裂くのか――。
毛利の計画に加担している立場ながら、博史は罪悪感さえ覚えていた。
心肺停止。十中八九、助からないだろう。
忠誠を誓う上司の息子の危機に際して、毛利は電話でそう言い放った。
十中八九、死ぬとわかっているのなら。
せめて死に目に恋人を会わせてやる……そんな配慮はみじんも浮かばなかったのだろうか、あの男は。
「どうしたの?」
今度は聡が博史に問いかけた。
博史はぼんやりしていたらしい。
「なんでもないよ」
博史はほほ笑みを作った。
お互いになんでもない、と気遣いあいながら……二人はこの先も生きていくのだろうか。
それは、とてもさみしいことなのかもしれない、と思った直後で博史はその考えを否定した。
大丈夫。二人は幸せになれる。幸せにならなくてはならない。
「聡」
聡は目を見開くようにして博史にその黒目がちの瞳を向けた。
「幸せになろう」
そういうと博史は聡の手の上にみずからの手のひらを重ねた。
機体はゆっくりと滑走路を移動して、離陸を待つばかりになった。
今、正午。
きっと、将は苦手の英語を終えたところだ。
聡は窓の外に広がる平らな風景に目をやる。
空港の上には、霞がかかった春の空が広がっていた。
次はいつ帰ってくるかわからない、日本の空。
この空の下に、将がいる。
『ただいまから離陸いたします』
アナウンスが響いたとたん、聡の胸の中には万感の思いが急に膨れ上がって……再び焼けつくように熱くなった。
エンジンの音が、まるで胸の嵐のように次第に高まっていく。
聡を乗せた機体はゆるやかに滑りはじめた。
次第にスピードをあげていく機体。
同じスピードで聡の心は何かから引きちぎられるような鋭い痛みを感じていた。
引き裂かれていく。
いつしか聡は窓に貼りつくようにして外を見つめていた。
引き裂かれていく、残されていくものを、見ようとして。
ついに、機体が浮いた。
懐かしい日本の土地から、将から、完全に引き離された聡は……涙をこぼしていた。
引きちぎられた箇所から噴き出す血のかわりに、涙がとめどなくあふれてくる。
機体はどんどん高度をあげ、雲を超えて……あっという間に街は地図のようになった。
将と過ごしたあの街は、どのあたりだろうか。
いま、将がいるのは、どのあたりだろうか。
なおも探しながら、聡は涙をぼろぼろとこぼす。
「……聡」
博史の声に、聡は我に返った。
「……大丈夫?」
遠慮がちながら……心配そうな顔をして、聡にハンカチを差し出している。
「……ごめんなさい」
聡は、そのハンカチを受け取らず、手の甲で涙をぬぐうと、もう一度窓に向かった。
――将。さようなら。
日本は窓に貼りつくようにしてみないと見えない程、遠ざかって……足元には紺碧の太平洋が広がっていた。
――将、さようなら。さようなら。幸せに……なって。
再びの涙で……空と海の境界線はぼやけて……いつのまにか澄んだ青一色になっていた。
第391話 旅立ち(5)
――遅い。
ベッドに腰かけた聡は時計を見た。
この部屋に置いていく目覚まし時計は、8時40分を指していた。
さっき連絡があった時間を10分もすぎている。
……もうすっかりこの部屋を出ていく準備は出来ている。
大きなものは発送したし、聡が持っていくものはわずかな手荷物だけだ。
部屋も……わずかな時間ながら、掃除をしたせいかすっかり片づいている。
あとは、博史の迎えを待つばかり。
なのに、博史は依然現れない。
聡の視線は……油断すればローテーブルの上においたペアのマグカップに吸い寄せられてしまうようだった。
マグカップは息がとまりそうな切なさを聡の中にふいに蘇らせる。
早く。早く来てほしい。
そうでないと、せっかくの決意も覚悟も揺らいでしまいそうになるから。
聡は目の奥にこみあげてくる熱いものをこらえるために、お腹をさすった。
「遅いね」
感情のガス抜きをすべく、お腹に話しかける。
『ひなた』は聡に答えるように、くるり、と動いた。
と。外からサイレンが聞こえ始めた。救急車の音だ。
不吉な予感をかきたてるような音はどんどん近付いてくる。
だけど聡はそれが、まさか自分に関係のある音だとは気付かなかった。
それにしてもサイレンの音が見る間に大音量になった。
まるでこのコーポを目指しているかのようだ。
すぐ近くで病人でも出たのだろうか。
あまりにけたたましい音に、聡はベッドから立ち上がって窓から外をうかがおうとした。
そのとき、ふいにサイレンが止んだ。
そして、まるでサイレンと入れ替わりのようにチャイムが鳴った。
聡は、なぜかビクッと硬直した。
博史だとわかっているのに。
ローテーブルの上のマグカップが、見つめている。将のマグカップが。
マグカップが自分を引き留めているような錯覚を振り切るようにして聡は玄関に向かった。
「遅くなってごめん、聡……あれ、髪、切ったんだ」
やっぱり博史だった。
階段を駆け上がって来たのか息があがっている。
……ついに、来てしまった。
ついさっきまで、早く来てほしいと思っていたのに。
思わず飲んだ固唾を隠すように聡はほほ笑みをつくった。
「なんか、このすぐそばで事故があったみたいで、迂回させられたんだ。人だかりがすごくて」
博史も息を整えながら、言い訳をした。
そんな博史を気遣うように聡はフォローをいれた。
「ついさっきまで救急車の音が聞こえてた。大丈夫?」
「うん、俺は大丈夫。急ごう。病院で先生が待ってる」
聡はうなづくと、準備した手荷物を取った。
そして――もう一度部屋を見渡す。
ここに、勉強を教えてくれと将がいきなりやってきた。
ギプスの足をかばいながら、はじめて一緒に寝た日。
そして、傷ついた将を慰めるように、はじめて結ばれた。
将が真似して買った、CD。
将がくれたマグカップ。
将がたわむれに相合傘を書いた手帳。
将の思い出がしみついたこの部屋を、ついに発つ。
聡は最後にこの部屋の空気を大きく吸い込んだ。
涙をこらえるため、そして。
1時間と少し前にここにいた将のにおいを、最後に体にとりこむため。
将の空気は酸素になって、お腹にいる『ひなた』にも届けばいい――。
『ひなた』はぐるぐると活発に体を動かした。
深呼吸が終わった聡は、ゆっくりと博史がいる玄関へと歩き……部屋の鍵をかけた。
鍵は、新聞受けに入れておくことになっている。あとで毛利の部下が取りに来る手はずだ。
博史にかばわれるように聡はコーポの階段を降りると、待っていたタクシーに乗り込んだ。
「○○病院へ。急いでください」
ドアが閉まると同時に博史が運転手に言いわたした。
「はいはい。……なんか事件みたいですよ。すごい人だかりだ」
運転手のいうとおりフロントガラスからは、この先の角に人が大勢集まって車道まではみだしているのが見える。
パトカーのうち1台が進行方向に止まっているせいで、さらに車道がせまくなっている。
どうやら角のところで、何か事件があったようだ。
運転手がはみだした人をひっかけないように慎重に車をスタートさせたとたん、サイレンの音が再び鳴り出す。
ガラスが震えるような大きな音。
救急車が負傷者を収容して動き出したらしい。
『どいてください。道をあけてください』
救急車の拡声器から流れる声に、人だかりがわらわらと動きだし……ますます車道にはみ出てきた。
運転手はブレーキを踏むとチッと舌打ちをした。
タクシーの目の前の角から、救急車が出てきて、左折するとスピードをあげはじめた。
客の注文に忠実な運転手は、それきた、といわんばかりにその救急車の後を追った。
たまたま進行方向が一緒だったので、便乗しようというわけだ。
タクシーが順調にスピードをあげはじめたので、博史はほっとして傍らの聡をみつめた。
聡は……ほうけたように車の窓から朝の街に見入っていた。
もちろん、前をいく救急車の中に将が乗っていることなど、またその将はすでに死と隣り合わせであることなど聡は知るよしもない。
第390話 旅立ち(4)
1時間ほど前。
将が以前住んでいた……去年の夏まで大悟と二人で暮らしていたあのマンション。
将の部屋の、隣の住人は、激しい騒音で目を覚ました。
廊下中にこだまする、鉄製のドアを乱暴に叩く大きな音。
自分の部屋の扉ではないものの……それはマンション中の住民に響き渡っていると思われるほど大きな音だった。
若い男の喚き声も聞こえる。
隣の住人はチェーンをかけたまま、そっと扉をあけて様子をのぞいた。
どうやってオートロックの玄関を入ってこれたのか、痩せた若い男が隣の扉を叩いて……ときおり蹴っている。
この男こそ大悟だった。
「将! あけろ!」
叩きながら、しきりにわめき続ける。
隣の住人は……将の顔は知っていたが、生活している時間帯が違うせいか、大悟とは一度も顔をあわせたことがなかった。
「瑞樹を返せ! 返してくれ! あけてくれぇー!」
わめきながらガンガンと拳で力いっぱいドアを殴りつける。
その目は尋常ではなかった。
これだけ叩いて無反応なら留守だとわかってよさそうなものなのに、体当たりさえ始める。
そのドシーン、ドーンという音はマンション中に響いた。
そこかしこの住民が……違う階の住人でさえも固唾をのんで様子をうかがっているのが気配でわかった。
それにしても、鉄の扉にあんなに体当たりしたら、自分の体のほうがたまらないのではないだろうか。
隣の住民は騒音に辟易しながら少し心配した。
まもなく。
とうとう住民の誰かが連絡したのか、管理人がやってきた。
年配の管理人はおずおずと大悟に近づいた。
危害を加えられるのを恐れてか、大悟との距離をとったまま、
「あの……鷹枝さんは、ずっとお留守ですよ」
といった。
急に大悟が振り返ったので、管理人は、反射的に後ろに一歩下がる。
管理人は、目の下に真黒なクマが浮き出た大悟の顔を、やはり尋常じゃないと思った。
しかし、できるだけ穏便に出て行ってほしい。
それゆえに繰り返す。
「鷹枝さんは……ときどきお掃除の方がこられるだけで……ずっとお留守にされてるようですよ」
それを聞いた大悟は、やっと将の部屋のドアから離れた。
そして、管理人には返事もせず、エレベーターに向かう。
その体はふらついていて……すれ違いざまに管理人とぶつかった。
管理人は、あとを追うでもなく、黙って大悟の後姿を見送っていた。
大悟はエレベーターの中で、小刻みに震えていた。
気がつくとエレベーターの箱の中は真黒な蟻の群れで覆われていた。
蟻は足もとから1匹、また1匹と這い上がってくる。
「瑞樹……助けてくれ」
大悟は震えながら呟いた。
瑞樹の幻影は、目の前にいる。触れようとするが、触れられない。
かわりに、何やってるんだという理性が蟻の群れの中からずるりと心の中から這い出てきた。
大悟は深くため息をついた。
冷汗がこめかみから、背中から流れている。
無意識に内ポケットに手を伸ばす。
――ない。
わかっているのに。大悟は苛立たしいながら、すっかり忘れていた自分が少し可笑しくなる。
正気を保つ薬は昨日の晩で尽きてしまったのだ。
大悟はふらふらとエレベーターを降りた。
どうしてここにいるのか。その理由をもすっかり忘れていたことにいまさら気づく。
幻覚に囚われながらも大悟は……瑞樹の遺品をとりに、ここを訪れたのだ。
――瑞樹。お前、そんなに将のそばにいたいのか。
遺品を手にすることがかなわなかった大悟は、幻覚と理性のはざまで瑞樹の真意を見た気がした。
遺品となり果ててまで。
瑞樹は将の元に自分を置いてほしいのだ……。
――お前、本当に将が好きだったんだな……。
だけど、将は。あのアキラ先生を今も好きなんだろう。
聡を思い出した大悟は、柔らかい空気が一瞬通り過ぎていくのがわかった。
自分にも優しかった聡。
聡が今の自分を見たら、何というだろう……。
それに油断した大悟めがけて、一匹。大きな蜘蛛が大悟に向って這ってくるのが見えた。
大悟は反射的にそれを殺そうと、ポケットにあったサバイバルナイフを取り出した。
しかし、ぱちん、とナイフを開いた途端、蜘蛛の姿は薄れた。
かわりにナイフの刃に……ビルの谷間から射しこんだ一筋の朝日が、反射して……大悟の瞳を射抜いた。
白い光は、大悟を再び狂気の世界にひきずりこもうとしたが、大悟は辛くももちこたえた。
白い光は、大悟の中にある、狂気より恐ろしい念を、今、はっきりとあぶり出した。
将が憎い。
ずっと前からあった怨念。
自分でも見て見ぬふりをしていた深層。
ナイフは、将を殺せ、と大悟の心の奥深くまで切り込んだ。
将が憎い。
将を殺してしまえば。
支離滅裂に分離しそうな心は、みるみるうちに将への殺意に統一された。
ナイフをしまうと大悟は再び歩き出した。
その足取りはさっきよりしっかりしている。行き先はわかっていた。
――ここにいないのなら。将はきっと聡の家にいるに違いない……。
「大悟……逃げろ」
大悟はハッと我に返った。今にも倒れそうな将が目の前にいた。
その顔からはすでに血の気が失せていて、土気色になっている。
アスファルトにはジーンズを伝って真っ赤な血だまりができつつあった。
大悟は……自分の置かれた状況が、一瞬わからなくなっていた。
血で真っ赤に染まった右手に、血のついたナイフがこびりついている。
瞬間接着剤でくっつけたように、指から離れない、ナイフ。
大悟は、すべてを忘れて動揺した。
自分は将を刺したのか。
(刺した)
どうして刺したのか。
(瑞樹のために)
(瑞樹を死に追いやった元凶の将こそ死ぬべきなのだ)
さっきまでの正義が。将を殺すための正しい論理が。
爪に、手の皺に濃い赤の筋となって沈んだ将の血で。
温かく、べっとりと重い血で。
一気に軽く、そらぞらしくなっていく。吹き飛ばされていく。
代わりに将との日々が頭を駆け巡る。
助け合って暮らした中学時代。
自分のために、ヤクザを刺し殺した将。
命がけでシャブから脱出させようとした台風の夜。
将を、失っていいはずがない。
将が、この世から消えていいはずがない。
大悟はナイフを手にしたまま、激しく震え始めた。
「大悟……俺は……大丈夫だから……逃げろ」
将は苦しい息の下でなおも、つぶやく。
上体が地面に近づいて……今にも倒れそうだ。
血はいまや、押さえた傷口から直接地面へと滴っている。
「……将」
「はやく」
大悟は、震えながらうなづくと、一目散に来た方向へと駆け出した。
「そうだ……逃げろ……大悟」
将は大悟の後姿を見送ると、塀に寄りかかった。
もはや、自力で立っていられない。
視界に霞がかかってきて……脳天が冷たい。
手足は痺れて……すでに感覚がない。
「ア……キラ」
聡のところに行かなくては。
朦朧とした意識の中で、将はなおも強く思った。
聡に会って、引き留めなくては。
将は飛んでいきそうな意識をかろうじて握りしめると足を踏み出した。
――アキラ。俺を置いていくな。
あの角を曲がれば。聡の部屋が見える。
将はそれに向けて、ひと足、踏み出した『つもり』だった。
実際には……次の瞬間、将の体はアスファルトの路面に倒れていた。
青空がくるりと回転して、意識は白く蒸発して、途切れた。
往来に女性の悲鳴が響き渡った。
第389話 旅立ち(3)
手紙を書き終えた聡は、軽く部屋を片付けた。
博史からメールがあり、迎えに来るのは8時30分すぎになるらしい。
出発までの時間が延びた分、聡は部屋の片付けに費やすことにした。
ベッドを整え(本当はシーツを洗濯したいけれどそこまでの時間はないのでそのままにしておく)、床にモップをかけ、ゴミを厳重にくるんでひとまとめにしてベランダに置く。
ベランダにある、なんとか冬を越したミントの鉢植えからは早くも新芽が芽吹いていた。
これも、たぶん枯れてしまうだろうけれど、せめて最後に水をたっぷりあげておく。
そして朝食で使った食器を洗いがてら、流しを掃除する。
旅立った後で誰かが片付けてくれるとはいえ、できる限り見苦しくないようにしておきたい、というのと。
……じっとしているといろいろなことを考えてしまうから。
最後にコーヒーを飲んだペアのマグカップも泡にまみれ、そしてきれいになった。
乾いた布で水気をぬぐったそれを、聡はローテーブルの上に置いた。
一度たりとも飲みっぱなしになどしなかったそれは、茶渋なども付いておらず新品といって遜色ない。
2つ揃いのそれは、愛し合っていた二人の象徴のようによりそっていた。
将がはじめてくれたプレゼント。
もちろんこれらも持っていくわけにはいかない。
聡は封筒に入れた手紙の上に、将が使っていたほうのカップをそっと乗せた。
今日、将は試験を終えたあと、大磯の別邸に直行するという。
そこではじめて、聡が来ていないことに気づくのだろう。
たぶん将は電話をかけてくる。
だけどそのときには、すでに聡の携帯は電源を切った状態でこの部屋にある。
電話がつながらないから、今日の夜か明日か……将はたぶんこの部屋を訪れる。
この手紙を手にするのは、きっとそのとき。
その瞬間を想像した聡は思わず息が止まっていた。
将のためとはいえ、将を傷つける。
将が受ける痛みは……少しでも隙があれば聡自身の痛みとなって襲ってくる。
お腹がぐるりと動く気配があった。
もしかして『ひなた』もおびえたのかもしれない。
「早く、もう少し急げませんか」
将は、運転席に乗り出すように繰り返した。運転手が悲鳴のような声で応答する。
「お客さん、無理ですよ。ちょうどラッシュの時間なんですから」
将は唇をかみしめながら時計を見た。8時になるところだ。
昨日からの聡の涙。
そしてスーツケース。
兵藤の連絡。
予感というより、もっと確実な……不吉な暗示に、将はタクシーの運転手に引き返すように頼んだ。
その段階で7時50分をまわったところだったから、急いで聡の所に戻って、疑惑を解明しても試験にはギリギリで間に合うだろう、と将は素早く計算した。
聡が自分を捨てるはずなんてない。
聡のお腹には自分の子供だっている。
試験に遅刻する危険を冒してまで、引き返す必要もない。
だが……一瞬浮かんだ理性は、いまや嵐のような不安の前に吹き飛ばされていた。
とにかく。
もう一度、聡の顔をみないと。
聡に会って、確認しないと。
聡は……自分の前から消えてしまうかもしれない。
拳を握りしめた将は、昨日から今朝の聡を思い起こした。
……そこで追い打ちのように、聡が急に髪の毛も切っていたことも思い出す。
嫌な予感はますます濃厚になり、将はここが高速道路でなければすぐさま車を飛びおりたかった。
引き返すために最寄りのインターで降りなくてはならないが、そこが本線より混んでいた。
坂道を降りていく車は歩くような速度でずるずると進むのみで、将は思わず膝を揺らす。
早く、早く。
引き返すと決めてからもう10分が経過する。
最悪、試験は20分程度なら遅刻できる。
9時50分までに着けばなんとかなる。今8時。まだ2時間近くある。落ち着け……。
将は自分に言い聞かせるそばから、この焦りは時間によるものではないことがわかっている。
聡が。聡が……どこかに行ってしまう。
まさか、兵藤がいった通り、ボストンへ行ってしまうのか。
将はずるずるとしか移動しない窓から、視線を膝の上に移した。
――アキラ、アキラ……俺を置いていくな。
いつのまにか、祈るように手を組んでいた……。
高速を降りると、あいかわらず車は多いものの、スムーズに流れ始めた。
ラッシュアワーと逆方向になるからだろう。
特に問題もなく逆方向の都市高速に乗り、ほどなく、みなれたあたりにやってきた。
祈るように手を組んだまま、少しほっとした将は時計を見た。
8時20分すぎ。
どうやら聡の顔を見た上で、試験にも間に合いそうだ。
「時間帯一方通行が多いですねえ」
聡のコーポの近くは、朝のラッシュ時間帯に一方通行化しているところが多い。
将の乗ったタクシーは思ったように元の場所にたどりつけずに迂回を強いられた。
「あ、ここで降りて、歩きます」
将は料金を精算してタクシーから飛び降りると、そこから走り始めた。
最高潮に達した不安が将の足を急がせる。
――アキラ。アキラ。考えなおしてくれ。どうか俺を捨てないで!
早足で通勤する人々をも追い越すように将は全力で走った。
次の角を曲がれば、聡のコーポがあるはずだった。
……と。その角に。
若い男が立っていた。
逆光で顔はよく見えなかったけれど……よく知っている背格好。
「大悟」
思わず将は立ち止まった。
そこにいたのは確かに、大悟だった。
「……大悟じゃんか。なんでこんなところに」
こうして顔を見るのは……あの7月の台風の翌日以来だから、何ヶ月だろうか。
将は走りすぎて苦しくなった息を整えながら、日にちを逆算しつつ、大悟に近づいた。
「将」
大悟は微笑むと、足早に将のほうへと近寄って来た。
その大悟の顔が……異様なほどに痩せこけて、目の下に真黒なクマが浮き出ているのに、そして瞳が異様な光をたたえているのに……将が気付いたそのとき。
将は、大悟がぶつかってきたのかと思った。
次に……ふいに下腹を殴られたと思う。
内臓が一気に突き上げてくるような強い力を、将は下腹で受け止めた。
いや、殴られたより鋭い衝撃。
しかも、その衝撃を、将の体は跳ね返すことなく、ギリギリと吸収していた。
――刺された。
大悟は将の瞳さえも突き刺すように睨みつけながら、えぐるようにギリギリと刺したものに力を込めてくる。
反射的に局部にあてた手が、次第にぬるぬるしてくるのを感じながら、将は大悟の瞳を見つめ返した。
大悟の瞳は……真黒なクマの上で、狂人さながらに光っていた。
あの夏の。台風の翌日。
警察官に押さえつけられながら将を睨みつけたあのときさながらに。
「だ……いご……」
「……瑞樹のところへ行ってやれ、将」
大悟は激しい視線に似合わない静かな口調でそういい放った。
そしてツカまで将に突き刺したサバイバルナイフをぐっと引きぬいた。
そのとたん、将の視界は暗くなった。まるでパソコンの……省エネモードのようだ。
心臓と同じリズムで、大量に何かが体から失われていくのがわかる。
ピューピューという感覚が傷口から伝わって……体温が失われて寒くなっていく。
傷口から噴き出した血は、ジーンズを内側からあっというまに血染めにした。
ジーンズの内側を伝った大量の血液は、靴下やバッシュも血染めに、アスファルトに染み出した。
もはやまっすぐに立っていられない。
体をエビのように曲げる将は、アスファルトに流れる自らの赤い血を見た。
明るい赤。
自分がヤクザを刺したときと同じいろ。
『動脈が通っているから、まず助からないわ』
いつかカオリさんに習った、急所の1つを、大悟は冷静に狙ったのだ。
第388話 旅立ち(2)
将はなぜか、また聡の元に戻ってきたのだ。
「忘れ物」
そういいながら、将はこちらへと大股で歩いてきた。
聡はふいを突かれた驚きのあまり、流れた涙をぬぐうことも忘れていた。
「何で泣いてるの?」
再び聡の目の前に立った将は、そこで初めてけげんな顔をした。
もちろん聡に理由など言えるはずもない。
涙をぬぐいながら
「忘れ物って何かあった?」
と訊き返すのがせいいっぱいだった。
いたずらっぽく微笑んだ将の顔。
と、次の瞬間、朝の冷たい空気が遮断されて聡はすっぽりとぬくもりに包まれた。
将はそのまま聡の頬に両手を添えると、軽く口づけをする。
さっきより軽い、お互いの唇のぬくもりと柔らかさだけを確認するような優しいキス。
以前、こんなふうに聡のもとから出かける将に口づけを与えたことがあった。
あのとき、聡は自分から『忘れ物』と将を誘ったはずだ。
柔らかな感触が甘い記憶を呼び出す……。
「アキラ。心配しないで」
唇が離れたとき、将はそう囁いた。
柔らかくなった瞳が至近距離から聡に注がれる。
「俺、頑張るから」
そういって将は口角をきゅっとあげると、若竹のようにすっと背筋を伸ばした。
「じゃ、行ってくる」
将は軽く手をあげた。
そのまま聡を振り返りながらも、あんまりタクシーを待たせては、と思ったのか今度は走り去った。
将。
聡が廊下から身を乗り出したそのとき、階段を降り切った将が上を見上げた。
――将。
行ってしまう。もう二度と会えない……。
見上げた将は聡に向って軽く手を振ると、開いたタクシーのドアの中に乗り込んだ。
それが最後だった。
タクシーはそのまま走り去った。
将の乗ったタクシーが見えなくなるまで聡は見送った。
目からは涙がとめどなく流れていた。
しかし、時間があまりない。
聡は涙を手の甲でぬぐうと、部屋に入った。
空気にかすかに混じる将の匂い……新たなる涙がにじみそうになる。
それを聡はこらえながら便箋を取り出す。
一刻の猶予もない。博史が迎えに来るまであと30分あまり。
将への手紙を書きあげて、食器を洗って、着替えて……それだけのことをしなくてはならない。
聡はペンを取ると、したため始める。
きっぱりと、冷酷に……迷っている暇はない。
――鷹枝くんへ
宛名はわざと苗字を選ぶ。
将という名前を呼んでいいのは親しい人だけだろうから……将と一線を引くべき聡はもはや使ってはいけないのだ。
――私は、鷹枝くんとは結婚できません。それは、よく考えた結論です。
――あなたの若さも、家柄も、あなたにかかる大きな期待も……一緒に受け止めていく自信がありません。
――私は、私にあった安定した人生のために博史さんとやりなおすことにしました。
――両親も賛成してくれました。
将を追い詰める言葉を……意図的に選んで書きながら、聡は息が詰まった。
これを見た将はどんなにうちひしがれるだろうか。悲しむだろうか。
悲しむよりは、怒ってほしい。怒りを今後の人生へのパワーにしてほしい。
それだけを願って聡はペンを進める。
――若いあなたとの時間は、私にとって思いがけないものでした。とても楽しかった。
――だけど、生活は、人生は――そうはいかないと思う。
聡の人生にとって将はゆきずりの恋にすぎなかったのだ――。
したためた嘘が、事実となって将に届くことを考えると聡は絶望しそうになる。
生きる希望さえなくなりそうになる。
かけがえのない、たったひとつの愛をこんな風に貶める理由を忘れそうになる……。
――子供は、博史さんの子供として育てます。
――だから、鷹枝くんは、鷹枝くんの人生を早く見つけて。
将の人生。将の幸せ。
聡がこの愛を諦める理由はただひとつ。
将の幸せのためなら、自分の幸せを捨ててもかまわない。
いつかひらめいた予感が……いま、現実になろうとしているのだ。
聡は最後に自分の名前をしたためると、それを素早く折りたたんだ。
折りたたみ終わったのとほぼ同時に……涙がボタボタとローテーブルに丸い水たまりをいくつもつくった。
タクシーは高速に差し掛かっていた。
将は、シートに寄りかかりながら考えていた。
何かが、ずっと、胸にひっかかっている。
いや、胸にひっかかっているものの正体ははっきりしている……それは昨日からの聡の泣き顔。
さっきも聡は泣いていた。
いくら今日の受験が心配だからといって。
今日の受験に失敗したら引き離されるからといって。
悲観的過ぎるのではないだろうか……。
悲観的?
聡が泣いていたのは、将が出ていったあとだ。
あのとき、将がふいに戻ったから目にしてしまっただけで……今朝の聡は涙を見せないようにこらえていたはずだ。
こらえていた?
何のために?
考えれば考えるほど、ずるずると何かが引っ張り出されてくる。
何か。不安のようなもの……。
気のせいだ。
ついにやってきた正念場だから……聡も涙もろくなっていただけだ。
そう思おうとしたけれど、脳の奥では割り切れないでいる。
何かが、ずっと注意信号を発している。
しかも深刻な……。
やめよう。今はそれどころじゃない。
今から試験だ。
よけいなことを考えている場合じゃない。
将は目をつむると、不安を追い出すべく瞑想した。
聡の涙の理由は、このもやもやは。試験が終わった後でゆっくり追及すればいい。
いや、今日試験が終わったら二人で大磯だ。
そこでなにもかも解決する……。
息を吸い込んで、目をあけると窓の外を眺める。
都市高速は車が多くなってきている。追いこし、追い越されていく車のボンネットにきらきらと春の朝日が反射している。
すぐ横を追い越していった一台のタクシーを見送ったとき、将の中で、ことり、と何かが動いた。
そのタクシーは……今から成田方面にでも向かうのか、トランクから、大きなスーツケースがはみ出していた。
スーツケース。
将は視線を窓から膝の上に落して、今一度、記憶を探る。
昨日。階段ですれ違った業者が抱えていたスーツケース。
聡のスーツケースは。山梨にいったときのスーツケースは別の色だった。
しかし。
将は、昨日のスーツケースをどこかで見たことがある。
――どこだ。
将は額を右手でわしづかみにした。
次の瞬間、ある記憶が稲妻のようにひらめく。
去年の冬。同棲していたとき。
聡の部屋のクロゼットの中。
将のために、聡は自分のクロゼットの1/3ほどを整理してくれて……将のためにあけてくれた。
そこには、聡のスーツケースが大小2つあるのを……将はたしかに見たのだ。
『アキラ、スーツケース2つも持ってるの?』
『ふだんはこっちしか使わないけどね。大きいほうは留学してたときのなんだ。めったに使わないから、中には季節はずれの服を入れてる』
間違いない。
こっちしか使わない、といっていたのが山梨に持っていったほうで、昨日……業者が持っていったのは、その大きいほうのスーツケースだ。
――しかし、なんで……。
『アキラ先生が、ダンナさんと一緒にボストンに行くって、鷹枝クン知ってた?』
稲妻のあとの雷鳴のように。
兵藤の声が蘇って将は顔をあげた。両のまなこが大きく見開かれている。
まさか。
冷汗が一筋、将の背中を流れていく。
第387話 旅立ち(1)
朝が来なければいいのに。
聡のそんな願いもむなしく、ついに夜が明けてしまった。
薄闇はいつのまにか、青いカーテンを透かした朝に変わっている。
子供のように聡のほうを向いたまま眠りこけている将。
眉根を少し寄せた寝顔はクセになっているのだろう。
ずっと見ていても飽きない……将の顔。
だけど、こんな風に見ていられるのもあと少し。
将といられる時間はあと1時間あまり。
聡は1秒も無駄にするまい、と将を見つめた……。
ふいにピー、と音が鳴る。
朝食に仕掛けておいたご飯が炊けたらしい。
その音で、将がもぞもぞと動いた。
大儀そうに目をこすりながら傍らにいるはずの聡を探し……次の瞬間、目が開く。
「ん……。アキラ起きてたの」
――起きちゃった。
……聡は名残惜しさを感じながらうなづいて、将の髪を撫でた。
本当は、ずっと眠っていてほしかった。
眠っていてくれれば。
夜のままでいれば。
別れの瞬間が来ないで済むから……。
奥二重の将のまぶただが、起きぬけのせいか幅の広い二重になっている。
いつもよりさらに甘い顔立ちになった将は、あどけなく微笑むとこちらに手を伸ばしながら体を起こした。
熱い体温に包まれて、唇が押しあてられる。
――最後のキスかもしれない。
そんな考えをどこかに押しやりながら、聡は口づけに集中する。
この唇の柔らかさも。
舌の感触も。
忘れたくない。
しばらくお互い我を忘れたように唇を重ね合い……二人に挟まれたお腹の中の『ひなた』がぐるりと動く。
どうやら彼女も起きたようだ。
将の唇がゆっくりと離れた。
そのまま優しい瞳で聡を見つめると
「おはよう」
と言った。
そして次に、お腹に向ってささやくように同じように囁くと、聡に瞳を戻していたずらっぽく笑った。
それを見た聡は口角をあげながらも、鼻の奥がツーンとするのを抑えられなかった。
最後の1時間。
それが僅かであることを悲しむよりも、最後のひとときを味わおう。
聡はそんなふうに、悲しみを心から押しやって、進んで平和な朝をつくるようにした。
何もないように朝食をつくり、テーブルに並べる。
将はペアのマグカップにコーヒーを淹れる。
そしてそれを二人で味わう。
「お弁当、簡単だけど作ったから」
昨日、純代のトンカツが入っていた重箱にお弁当を詰めて聡は将に渡した。
「やった。アキラの手作り弁当!」
将は嬉しそうにそれを受け取ると、包みの上からキスをした。
無邪気に喜ぶ姿を見ると……押しやったはずの悲しみが押し寄せてきそうになる。
将がこのお弁当を食べる頃、聡はもう日本を出発しているはずなのだ……。
聡はそれを押し殺すようにして携帯を取りあげ、タクシーを呼ぶ。
もう、あまり時間がない。
「タクシーなんか、別にいいのに」
それを見ていた将は、あいかわらず両手で弁当を持ったままつぶやく。
「よくないよ。ちょうどラッシュアワーだし」
大事な受験にのぞむにあたって、ラッシュなどで体力を消耗するのはもったいないと聡は付け加えた。
将は素直に「わかったよ」と微笑んだ。
聡の気遣いがいちいち嬉しいらしい。
聡のことを信じ切って……まったく疑うようすなどない将。
そんな将の表情を見ていると、今日、将を捨てて出発することなど嘘のようだ。
将の計画通り、試験の終了を待って、大磯で落ち合うほうが現実のようにさえ思えてくる。
今朝の幸せな朝食が、毎日続く道を、今からでも選べるのだと錯覚してしまう。
「ほら、歯磨いて」
将を洗面所へ促しながら、聡は引き出しを開ける。
そこには、将に宛てるために買った便箋が入っている。
将に宛てる別れの手紙。
それを、聡はまだ書きあげていない。
将がここを出て、博史が迎えに来る30分あまりの間にそれを書かなくてはならない。
かろうじてその現実を思い出すと、聡は目を閉じた。
「じゃあ、行ってくるよ」
靴を履いた将はあらためて聡と向かい合った。
軽く口元に笑みを浮かべながらも目に力が入った……真剣な表情だ。
今日の試験が、二人の未来の正念場。
将の覚悟がその強い視線からひしひしと伝わった。
「がんばってね」
その励ましは本心だけれど。将には頑張って東大に合格してほしいけれど……。
もう――これで最後。
これっきり、将と会うことはない。
なんて……あっけないのだろう。
高波のような悲しみに、崩れてしまいそうな心と体を持ちこたえながら、聡はせいいっぱいの笑顔を作った。
将は玄関のドアを自分であけると、聡の顔を見たままあとじさるようにして階段へと向かった。
聡は開いた玄関ドアを体で支えながら、一歩ずつ遠ざかっていく将の顔に向かって手を振っていた。
将は階段の一段目までのけぞるようにして名残惜しそうに聡の顔を見つめていた。
そんな将がついに見えなくなったとたん、聡は怒涛のような悲しみにとっぷりと飲み込まれた。
両の瞳からは涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。
階段を駆け下りていく将の足音。
――いけない。まだ、だめ。
いったんしゃがみこんだ聡は再び立ち上がった。
タクシーに乗り込むときに将はきっと振り返る。
まだ最後じゃない。
まだ泣いちゃいけない。
笑って見送らなくちゃ。
流れた涙を袖でぬぐおうとしたそのとき。
おもいがけなく、あわただしく階段を駆け上ってくる音が響いた。
そして……いたずらっぽい将の顔がひょっこり階段からあらわれた。
将は……なぜか、また戻ってきたのだ。
第386話 最後の夜(5)
エアコンがシュー、という音を立てて、また動き始めたようだ。
まだ3月なかば、外は相当に冷え込んでいるのだろう。
聡は傍らに眠る将の布団をかけ直すと、携帯をあけて時間を確認した。
2時半すぎ。
明日、将がここを出るのが7時半。
試験は9時30分からだが、念のために1時間前には試験会場に到着するようにと聡は助言した。
もちろんゆとりを持つためでもあるけれど……さっき、将が風呂に入っているときにチェックした博史からのメールには、朝8時すぎに迎えに来るとあった。
朝一番で同行する産科医に病院で検診をしてもらい、そのまま空港へ向かうことになる。
将がもしここでゆっくりしていけば、土壇場ですべてが崩れる危険があるのだ。
だけど、聡はそんなことを忘れて、今はただ将の寝顔を見つめていた。
あいかわらず真っ暗にはならない東京の夜。
そんな薄闇の中に、目を凝らせばいとしい将の寝顔は、はっきりと見えるようだった。
将と一緒にいられるのも……あと5時間。
暗がりに身を起こした聡は、将の寝顔を目に焼きつけるべく、微動だにしなかった。
「正月以来かな……二人で寝るの」
今から3時間ほど前。聡は明日に備えて早めに寝るように将にうながした。
将は素直に従いながら、そんな風にはしゃいでいた。
狭いシングルベッドも将に言わせると
「その分、アキラにくっつけるからいいよ」
と嬉しいことらしい。
お腹が大きい分布団の幅が足りなくなったらいけないと、聡は布団の上に毛布を2枚重ねた。
そしていつもは消すエアコンを、つけておく。
受験前日に風邪などひかせたら元も子もないからだ。
灯りを消してもしばらく将は嬉しそうに仰向けになった聡のほうをむいていた。
将の瞳の嬉しげな動きは、薄暗がりの中に三角形に浮かぶ白目でわかった。
「ね、アキラ」
「なあに。……早く寝ないと。明日は余計に頭を使うんだからたっぷり睡眠をとらないと」
聡はさっきから、分別くさい言葉を選ぶようにしている。
刻一刻と迫ってくる別れから目を背けるように。
自分の感情が高ぶらないように。
将は、わかってる、といいながらいったん身を起こすと、せりでたお腹に耳を押し付けるようにしてそっと抱き寄せた。
『ひなた』がそれに気づいてかごぼごぼと体を動かし始める。
この子も、実の父との別れがわかるんだろうか、と考えそうになった聡はあわててそれを打ち消す。
聡の感情は一触即発だった。
少しでも刺激を与えれば大声で泣いてしまいそうになる。
……それをさっきから堪えている。
「おなかの子、動いてるね」
将は嬉しそうに聡を振り返った。目が輝いているのが暗がりでもわかる。
「うん……」
あと2か月かあ……と将はいとおしげに聡のお腹ごと『ひなた』を抱きしめた。
『ひなた』はくるくるとお腹の中で動いた。
まるで笑っているかのように。
「男か女か、まだ教えてくれないの?」
「……明日試験が終わったら教える」
聡は、眠くて目をこするふりをした。
……目にたまったものを、将に見られないようにぬぐうために。
「アキラ」
傍らで布団にもぐりこみながら、将は今度は聡の手をさぐってきた。
聡の左手はちょうど、『ひなた』がいるお腹の上で将の手と重なった。
まるで親子3人で約束を交わすようだ。
「明日、大磯の家に行ってて……」
将の瞳は暗がりの中でもまっすぐに聡を見つめていることがわかった。
「そこで待ち合わせよう。そのまま、発表まで……隠れとこう」
将の計画。
まだ二人の明日が同じ明日であることを信じているゆえの……計画。
「いいだろ」
聡の手をにぎる将の手の力が少し強くなる。
暗がりに目が慣れるのを聡は恐れた。
自分の裏切りが、将にすっかり見えているのではないかと。
「……うん」
「絶対、来いよ」
将は念を押すと、暗がりの中、聡を見据えた。
聡はそんな将を見つめ返す――。
ひょっとして将はすべてわかっているのではないか。
それを見極めなくては、というよりは……将の真剣な瞳に、視線が吸い寄せられて離れられなかったのだ。
真摯に自分を見つめる将は、美しかった。
薄闇の中、二人は見つめあった。
それが、一瞬なのか、長い時間だったのか……二人とも忘れていた。
「……うん。わかった」
ようやく聡は返事をすることができた。
針を飲み込むほどつらい嘘の……返事。
でもそれを言わなくては将は安心して試験に臨めないだろうから。
将は安心したように微笑むと、もう一度聡の手をぎゅっと握った。
「俺、絶対にアキラを幸せにするから」
今度はさっきより柔らかい瞳が向けられている。
温かいその手から……将の思いが血管に注ぎこまれるように、体が温かくなっていく。
愛されている。
その温かさは、明日に迫った別れを忘れさせるほど甘やかに聡を包み込んだ。
「あたしは……もう、十分幸せだよ」
思わず聡はつぶやいた。
今が、幸せ。
こんなにも愛する人に出会えて……愛されて。
こんな至福の瞬間を味わえた。それだけでいい。
「俺も……俺もアキラに出会えただけで、一緒にいられるだけですっげー幸せなんだけど。……ずっと幸せでいような」
二人は同じ幸せを今噛みしめているのだった。
ただ、聡だけがそれが今だけであることを知っている……。
「何?」
ふいに身を起こした聡を将は寝そべったまま見上げた。
「トイレ」
聡は言い訳しながらそっと立ち上がった。
「あー、トイレまで一緒にいけたらいいのになあ」
そんな冗談をいいながら将は仰向けになった。
二人の幸せが未来永劫続くことを信じている、無防備な横顔。
「バカ」
冗談に応じながら、トイレに入った聡は、とうとう声をしのばせて泣いた……。
時計は3時半に近づいている。
完全には暗くならない東京の夜は、あいかわらず将の寝顔を浮かび上がらせていた。
夜明けまであと少し。
将といられるのはあと4時間。
その鋭い鼻梁も、出会った頃よりがっしりとした輪郭も。
その下に澄んだ瞳を隠した瞼も、長いまつ毛も。
りりしい眉毛も、形の良い唇も。
将のすべてを焼きつけようと、聡はずっと見つめている。
いつでも取り出せるように。
こんなにも愛したのは将ひとり。これからも……。
たった一人の人。
おそらく生涯最後の将との夜は……まもなく明けようとしていた。
第385話 最後の夜(4)
「勉強にならないな」
そういって伸びをした将はベッドに寄りかかった。
さっきまで夕食が並んでいたローテーブルには、パソコンがセットされている。
その中には将の最後のブラッシュアップのために、と聡が選んだ英語のサイトが開いてあり、
それを時間内に英語で要約するという難題を聡は出していた。
その聡は、将に背を向けて、食べ終わった夕食の皿を一心に洗っている。
お膳のような小さなローテーブルには、さっきまで純代が将に持たせたトンカツをメインに聡がつくったこまごまとしたものが並んでいた。
将はそれをすべてきれいにたいらげると
「やっぱりアキラのつくったものは一番おいしいな」
とわざとらしいほどの声を出して見せた。
二人の最後の晩餐――。
その事実を知っている聡は……楽しげな将を見れば見るほど苦しかった。
本当は将を見ていたい。
最後の一瞬まで、今の将を目の奥に焼き付けたい。
将の声を脳に刻み込みたい。
だけど。
将を見つめると……涙がわき出てしまいそうになるのだ。
だから、聡はできるだけ将から目をそらして……料理ばかりを見るようにしていた。
将の声よりも、料理の味に神経を集中するようにした。
純代がつくったトンカツは薩摩黒豚を使っただけあり、時間が経っているにもかかわらず素晴らしく美味しい。
今朝届けてくれた野菜も、おそらく大磯から届いたものなのだろう。
スーパーなどで買ったものとは甘さが違う。
だけど……そんなに美味しい料理なのに。聡はやっぱり集中することができずに……気がつくと将の手元を見つめている。
陽に焼けた長い指。育ちの良さが表れた美しい箸の持ち方。
箸の行く先をたどっていたら、知らず将の顔を見つめてしまっている。
だから、聡の口の中では、肉も野菜も、こらえた涙がまじったせつない味になった……。
「アーキラ」
将はとうとう立ち上がると、皿を洗う聡の横に立った。
「手伝う」
「いいよ。もう終わる」
「じゃ、俺がコーヒー淹れるよ」
聡の家の勝手がわかっている将である。
皿を拭く聡の横で、やかんを火にかけ、コーヒーをセットし、飾り棚にあったマグカップを持ってきた。
「アキラ。なんか心配?」
お湯が沸く間、将はわざと聡に体をくっつけるようにした。
横に並んだだけで将の熱い体温に体の左側が溶けてしまいそうだったのに、こうやってくっつくと熱さに甘さが加わわって……それは思わず体が揺れるほどの切なさになった。
「ど、どうして?」
濡れたふきんが皿でキュッと音を立てる。
「なんとなく」
将はそれだけいうと、左側から手を伸ばして、また聡を抱きしめてきた。
聡は持った皿を取り落とさないように、将の腕の間からそっと台の上に乗せるだけでせいいっぱいだった。
「……要約は終わったの?」
かろうじて、切なさとは対極にある言葉を選ぶ。
「コーヒー飲んだらやるよ。アキラ」
こっち向いて、と将はふいに聡の顎をつまむようにしてあげた。
涙が溜まった瞳は、隠す暇もなかった。
「何で泣いてるの?」
聡は答えない。答えられない。
「あしたが、心配?」
将も……聡のそんな顔を写し取ったように切ない顔をしていた。
眉根が寄っているくせに、悲しげな優しげな瞳がまっすぐにこちらに向いている。
溜まった涙が頬へと流れてくれたおかげで、それははっきりと聡の目に映り……思わず見とれてしまう。
でも。
見とれている場合じゃない。
この涙の正体を将に知られてはならない。
とっさに聡は、うなづいた。
つまりこの涙は……明日を愁いているだけなのだと聡は将に目で伝える。
将の眉が下がった。
せつない顔を変えないまま、将は何も言わずに上半身を聡に押し付けてきた。
いつもなら、将の性格なら
『心配するなよ』
『大丈夫だよ』
そんな台詞が出てくるところだが、それを言わずに体を押し付けてくる将。
将も不安なのだ――。
聡にはそれがよくわかった。
もしも。明日の試験で失敗したら……。
今度こそ、二人は引き離されてしまう。
しかも、明日の後期試験は……試験方法が変わって第1回目だ。
どんな出題がなされるかまるで予想がつかない。
絶対に大丈夫、などというのはありえないのだ。
万が一、盲点になっていたところを出されたら、終わりだ。
試験が終わって、たとえ二人で逃げても、権力者である父の康三は……二人をなんとしてでも探し出して、引き裂いてしまうのかもしれない。
それに、万が一逃げおおせても……将は巌から受け継いだ刀に託された遺言を果たすことができなくなる。
将は、今までの人生で最も大きな不安と闘っているのだ。
それがわかったとき、聡の涙は止まった。
将を、不安から救い出さなくては――。
将のために、明日、最大の実力を発揮させなくては。
「……将。ごめん」
聡は将の背中を優しく叩いた。涙はあいかわらず頬を流れているけれど。
「ちょっとだけ不安になっただけ……。きっと大丈夫だよ。将、すごく頑張ったじゃない」
大丈夫。将はきっと、合格できる。聡は自分に言い聞かせる。
「ヒージー……巌おじい様だって、きっと見守ってくれてる」
巌の名前が出て将は少し腕の力を強めた。
それで押されたのかお腹の子供が少しうごく気配があった。
「赤ちゃんのためにも……明日は全力をつくして。ね?」
聡は将の明日のことだけを考えるようにして言葉をつむぎだした。
将の明日だけ。
……二人の明日はすでに違う明日なのだから。
聡の……自分自身の明日は今は考えないようにする。
「アキラ……」
聡の肩にうずめるようにしているから、将の顔は聡から見えない。
顔を見てはげまさなくては、と将の胸をひきはがそうとした聡は、あるものを見てしまった。
それは、キッチンの台の上に並んだ、マグカップだった。
誕生日に将がくれたペアのそれは……今は静かに台の上に並んでいる。
これを二人で使う明日はこないのだ――。
マグカップと、たくさんの思い出と一緒に、将を置き去りにして発たなくてはならない。
あの海。
あの街角。
雪の夜も。
夏の朝も。
夕暮れの教室も。
将がいた場所。
将がいた季節。
すべてはもう
帰れない日々――。
振り返れない日々――。
将の匂いに包まれた聡は、いま再び目が熱をおびてくるのを止められない。
将の背中から腕へと移動した両手が震えて……再び背中に戻る。
押し付けられたお腹は再び動き始めた。
再びしがみついた聡を将は何の迷いもなく抱き寄せる。
お腹を気づかっているのか、その力の込め方はどこか優しい。
将の声が聡の中に蘇る。
アキラ、アキラ……。
低いくせに少年の青さを残した声音で、何度呼ばれただろうか。
将は。
自分を失って。
どうするんだろうか。
『俺の人生はアキラ次第なんだ』
『アキラなしの人生なんて考えられない』
『アキラと離れるなんて死んだほうがましだ!』
そう叫んだ激しさのままに、まさか死を選んだりはしないだろうか。
「しょう」
聡は涙のままの顔をあげた。
「あきら」
自分を見下ろす将の顔は……不安げな子供のようだった。
親と別れなくてはならない子供のようなその瞬きに、聡は一瞬、将がすべてを知っているのかと錯覚しかけた。
それほど、悲しげな顔だった。
「がんばって」
聡は将の頬に両手を伸ばした。
男っぽい顔のくせに少女のような唇が、声のないまま聡を呼ぶ。
「……何があっても、乗り越えて。将が乗り越えてくれれば、あたしも大丈夫だから」
「あきら……」
「ね……?」
それは聡の本心だった。
将を捨てなくてはならない悲しみ。
生きたまま体の一部を引きちぎられるような心の痛みも……将がそれを乗り越えて、幸せになれるのなら、耐えられる。
将の明るい未来につながるのなら、大丈夫。
いつか、巌の遺言を果たした将を、遠くから見守ることができるなら、それでいい。
将は、歯をくいしばるようにしてうなづきながら……違和感を感じていた。
こうやって抱きしめていても。
甘い香りやぬくもりを感じていても。
せり出たお腹から胎動が伝わっていても。
どこか、今日の聡ははかなげに思えた。
まるで。
……このまま、永遠に別れてしまうような。
聡は、明日の試験にそこまで危機感を覚えているのだろうか。
将が、もう少し聡のその瞳の真意を確認しようとしたとき、やかんが沸いた。
「コーヒー、あたしがいれるから」
涙を指でぬぐうようにして微笑みをつくると、聡は将から離れてしまった。
だから、将は……このときも気づくことができなかった。
第384話 最後の夜(3)
――もうだめだ。
一瞬、聡は観念した。
どうして知っているのか、という疑問より先にそう思ったのは――
すべてが将にバレていて、この計画を止めにわざわざやって来たと考えたかったから。
この期におよんで、聡はまだ将と離れたくない自分に気づいている。
いや、ずっと前から。
先のことなど考えずに、まわりなど見ずに、二人だけの世界に逃げられたら。
すべてを御破算にしてしまえればどれだけいいか。
自分にひそむ自暴自棄な思い。
自分の中で激しく渦巻くそれを感じている……ということは、今、現実の聡を支配しているのは冷静な思考ということだ。
計画をすべて反故にして。
激しい感情に身を任せられれば。
そう考えつつも、聡の現実は、自分で自分が憎らしくなるほどの冷静さだった。
そしてその現実の聡を支配している冷静さは……将の様子を観察さえ、していた。
『ボストンに行くんだって?』
といった将のその口調は思いつめた様子ではない。
口元には笑いさえ浮かんでいる。
冗談だとでも思っているように。
……つまり、自分と康三の間に交わされた約束のすべてを将が知ったわけではないのだろう。
その全容を知って……今のような反応はありえないからだ。
もし、すべてを知ったら。
将はどうするんだろうか……。
聡は一瞬想像しかけてやめる。怖かったのと、そんなことを想像しても意味がないからだ。
聡は2度、3度と瞬きをしながら、呼吸を整える。
「なあに、それ」
できるだけ明るく返すのに苦労しながら、聡は将の様子を観察した。
「何それって……アキラが言ってたんだろ。ケンちゃんとこの寿司屋で」
――大丈夫。何も将は知らない。
口止めしたにもかかわらず、兵藤は将に聡のボストン行きを伝えたらしい。
ということは、他のことは何一つ知らないのだろう。
康三から、別れるように言われていることも。
そして聡が博史と籍を入れたことも……。
聡は安心するかたわらで……気持ちのかなりの部分で失望するのがわかった。
将のこれからを考えれば、計画が生きていることは喜ばしいことのはずなのに。
「そういうことにしといたのよ……」
聡は、とっさにでまかせを言って取り繕った。
何を言っても。何を約束しても。明日、日本を発ってしまえば……あとは同じだ。
将を安心させて、願わくば明日の試験に合格させれば、聡はそれでいいのだ。
それで将は幸せになれるのだから……。
「明日、試験が終わって、合格できたら……結婚するんでしょう」
できるとは思っていなかったけれど。本当に望んでいたこと。
将が怪しまないよう、彼の瞳を見つめながら口にする将来の希望。
聡は目が熱くなるのを必死で抑えながら取り繕う。
「でも、将が結婚ってことになったら世間が大騒ぎになるでしょ。……だから、子供が産まれるまで、しばらく隠れたほうがいいかな、と思って。それで、美智子とか知り合いには、ボストンっていってごまかしてあるの」
「やっぱり、そうかー」
将は、この苦し紛れの取り繕いを信じたらしい。
白い歯を見せて笑うと、もう一度聡をそっと抱き寄せてくる。
せつなさのあまり肺が押しつぶされそうになる。
将は……聡を心の底から信用しているのだ。
裏切ることなど考えてもいないのだ。
聡の言うことなら……将はおそらく何でも信じるのだろう。
「俺もおんなじこと考えてたんだ。試験が終わったら二人でどこかに隠れようって」
肩越しに聞こえる、将の温かい声。
二人の幸せを信じて疑わない……そんな声。
そんな将が、今の聡にはつらい。
疑ってほしい。咎めてほしい。つじつまが合わないと問い詰めてほしい。
すべてを告白しなくてはならないほどに、厳しく追及してほしいのに。
本当は離れたくない。
いつまでもこのぬくもりに包まれていたい。
一方的に突き離して去っていくなんてできない、できるはずがない。
将のために、将を捨てる明日。
土壇場の今日になってまで、まだ。
……それが台無しになることを願っている。
聡は息苦しいほどの切なさの中で、将の肩の感触とぬくもりを噛みしめていた。
将は……胸の中の聡が、涙をためていることなど何も気づかず、幸福に酔っていた。
第383話 最後の夜(2)
ピンポーン。
チャイムの音に、今スーツケースを持っていったばかりの業者が何かを忘れて戻ってきたのだと聡は思った。
とって返してモニターをのぞくと同時に
「センセー、俺。井口」
という声が聞こえた。
画面の中にはニット帽にマスク、サングラスという怪しいスタイルの男が映っている。
しかしその体を揺さぶるような仕草はたしかに教え子の井口だ。
――なんで井口クンが?
聡はいぶかりながらドアをあけた――。
そのとたん、聡は懐かしい匂いと温かさに包まれた。懐かしい、干し草のような匂い。
――将。
触れる直前。すでに聡にはわかっていた。
将。どうして将が。
そんな疑問以前に、体が心が……ひさしぶりの将に引き寄せられていく。
体中の血液が将に向かって集まっていくようだ。
将に接している部分が温かくなっていく。
将は聡のせり出たお腹に沿って上半身を少し折るようにして、聡の顔に自分の顔を重ねる。
1週間ぶりの聡の顔。
至近距離でうるむ黒目がちの瞳に誘われるように将は聡の唇に自らのそれを押し当てた。
柔らかい感触。からみあう舌と舌。混ざり合う液体。
思えば、こんなふうに二人きりで会うのはいつ以来だろうか。
こんな風に口づけするのも何十年かぶりのよう……唇と唇は狂おしいほどに引きつけられた。
意識から遠く離れたところで二人は、夢中でお互いの唇をむさぼった。
ずいぶん長いこと唇を交わし……その唇の甘さを味わったところで、将は聡の顔をもっとよく見ようとした。
そして……その髪が短かくなっていることに気付いた。
「あれっ。髪切っちゃったの?」
久々の口づけでぼうっとしていた聡は、ハッと我に返る。
同時に、髪を切った理由を……今自分が置かれている立場を、そして明日の旅立ちを思い出す。
「なんで切ったんだよ~。俺アキラの髪好きだったのに」
将は未練がましく、あごのあたりで切りそろえられた聡の髪の毛先をいじくる。
髪を切った理由。それは将を断ち切るため……。
でも今それを言うわけにはいかない。明日は将の大事な受験だ。
でも、もし仮に明日が受験ではなかったとしても、聡はそれを言えなかったと思う。
とっさに、言い訳をつくる。
「春だから、イメージチェンジ。似あうでしょ」
自分でも苦しい言い訳だと思う。きっと、つくったようなぎこちない笑顔になっていると思う。
だけど、将は
「まあ、似合ってるけどさ」
とあいかわらず毛先を手のひらでいじくっている。
そんなふうに将の手がうなじとあごを往復するたびに……聡の肌は悦びに震えそうになる。
心は必死でせつない何かを押し殺しているのに。
それをごまかすように聡は
「将こそ、いきなりなあに? その格好。しかも今、井口って言ったでしょ」
と明るい声を出す。
「ああ、これ井口の服。井口のモノマネも似てたでしょ」
将は得意げに顛末を話し始めた……。
1時間ほど前。将は、井口とその彼女のさやかとカフェで待ち合わせをしていた。
「将! なんだその格好」
サングラスにマスク姿の井口は、待ち合わせ場所に現れた将を見て思わず大声をあげた。
「よ」
手をあげた将はもう3月だというのにダボダボに厚着して、やはりニット帽にサングラスをして、マフラーを口の上まであげている。
「さやかさん、久し振り~」
さやかは、クスッと笑う。
「こうやってニット帽にサングラスまでおそろだと、似てるね。双子みたい」
それこそ将の狙いだった。
井口と将の背丈はほぼ同じ、細身の将が厚着をして髪を隠せば遠目には井口に見えないことはない。
「どーして、マスクなんかかけないといけねーんだよ。苦しいんだけど」
文句をいう井口に、将は
「花粉症という設定だから、そのまんましといて。俺だって暑いの我慢してるんだしさ」
そういいながら、自分があとをつけられている事情を説明する。
井口にマスクをさせているのは、鼻から口を隠すためだ。
幸い花粉症のシーズンだから、マスクにサングラスという重装備の人は、結構いる。
「で、今からトイレ行って服取りかえるから」
「え~?」
驚く二人に、
「このままだと俺、彼女にも会いに行けないから。頼む、協力してくれ」
と将はおがみ倒した。将の計画はこうだ。
将になりすました井口は、将が今日泊まることになっているホテルに一人で行く。
井口になりすました将は、さやかと一緒にタクシーに乗る。
もっとも、あとをつけられるのは井口のほうだから、将が目的地までついたところで、さやかを井口のところへ返すという作戦。
「スパイごっこみたい。面白そう」
さやかは無邪気に喜んだが、井口は
「いっけどよー。お前、彼女って誰だよ。星野さんはもう大阪だろ」
と食い下がる。将は
「星野さんには振られたよ」
としか言わなかったから井口は不満そうだった……。
「それで井口とさやかさんに協力してもらってここまできたわけ。井口のマネ似てるだろ? 研究したんだぜい」
将は、井口がよくやるように体をゆすってみせた。
「ところで、将、今日はどうしたの? 明日大事な受験じゃないの?」
「その大事な受験だから」
将はそういうともう一度聡を抱き寄せた。
「今晩、一緒にいたいんだ……」
吐息が額に触れるようだ。しびれるような甘い感触。
「でも」
「……アキラといると安心するんだ。今晩一緒にいれば、明日、落ち着いて実力が発揮できると思う……それに英語の仕上げ、してくれるって言ったろ?」
聡を見下ろす将の瞳は、すでに安心しきった色になっている。
明日の計画……などはまるで気づいていないようだ。
それを見ていると聡のほうは、取り乱しそうになる。
切なくて、別れがつらくて、涙がこぼれそうになってしまう。
すべてを打ち明けてしまいそうになる……聡は思わず将の瞳から自分の視線をそらしてうつむいた。
「そういえば、アキラ」
将は聡の視線を先回りするように、顔を聡の目の前にもってきた。
あまりの至近距離に、少し目が寄っている。
「……ボストンに行くんだって?」
聡は思わず息を飲んだ。
第382話 最後の夜(1)
また書き損ねてしまった。
聡はそのために買った便箋を破って捨てた。
そのため――将への手紙。将に宛てた、将を捨てるという宣告。
「将さまへは必ず手紙を残してください。出来る限りきっぱりとした文章がいいです。そして……偽造と思わせないように、手書きでお願いします」
毛利は聡にそんな風に指定した。
将に、未練を残させないための手紙。
……できれば恨みを持つほどの冷酷な内容がいい。
それは聡もわかりすぎている。
もしも聡が何も残さずに旅立てば、将は聡を探すだろう。
手紙を残しても……それがメールだったり、印字されたものだとしたら、将はそれを聡本人からのものだと信じないだろう。
毛利の提案は至極当然のことなのだ。
なのに……文案は考えてあるはずなのに、もう5枚は書き損じている。
うち最初の2枚はこぼれた涙で、文がにじんでしまった
あふれる涙を落ちないうちにティッシュでぬぐいながら、できるだけ冷淡に、
――博史とやりなおすことにした――
――将への気持ちはもう醒めてしまった――
そんな内容をつづる。
だけど、どうしても……気持が動揺しているのか、手が震えてしまう。字を間違えてしまう。
6枚目を破って捨てたときには、もう夕焼けもすっかり消えて、部屋には薄闇がしのびよっていた。
――ひなたちゃん。日本で最後の夕焼けを見損ねちゃったね。
聡はお腹に向かって心で囁いた。
できればもう一度――あの海に行きたかった。
将と初めてデートしたあの海へ。
波にはしゃいで、夕陽が落ちるのを一緒に眺めたあの海へ。
でも、先週突然決まったボストン行きに、そんなことをする時間などなかった。
聡は将との思い出の場所を訪ねる暇もないまま、明日旅だたなくてはならないのだ。
そんなことを考えていたら、また涙がこぼれてきた。
「ごはんにしようか」
聡は手紙をいったん諦めると立ち上がった。
出発は明日の朝だから、夜中にゆっくり書けばいい。
立ち上がった聡は灯りをつけた。
夕闇から一転して明るくなった部屋は、その主が明日から旅立つようには見えない。
冷蔵庫の中ですら……今朝、純代が送ってきた無農薬野菜がいっぱいに詰まっている。
康三の妻であるにもかかわらず、おそらく純代には何も知らされていないのだろう。
この部屋と部屋に残されたものの処分と保管についても、毛利は万事責任を持つことを約束していた。
つまり、ごく普通の生活の連続をいきなり断ち切るように、旅立てる手筈が整っている。
聡がボストンへ持っていくのは、スーツケース1つだけだ。
ボストンでの暮らしに必要なものだけを詰め込んだスーツケースは、1時間ほど前に詰め終わり、あとは業者が取りに来るばかりになっている。
将の思い出の品はすべて置いていくつもりだったが……たった1つだけ入れてしまった。
クリスマスに将がくれた、お腹の『ひなた』の靴下とベビーリング。
『ひなた』はもちろん博史の子として育てることになる。
博史は忙しい出発準備のあいまに、産科主催の父親教室にも参加してくれているのだ。
おそらく……博史の性格からいってもやさしい父親になってくれるだろう。
でも。
聡は最後の最後で、それをスーツケースに入れてしまった。
もちろん、本当の父親を知るチャンスなどないほうが、娘にとっては幸せなはずに違いない。
だけど。たった1つくらいは……実の父親ゆかりの品を残してやりたい。
この世に裸で生まれ出てくる娘に、本当の父親が選んだものの1つくらいは身につけさせてやりたい。
それは、娘が愛されて望まれて、生まれてきた証になるだろう。
……聡は無意識にそう思ったのだ。
このあたりは何度か歩いたことがある。もう、聡のコーポに近いのだ。
将はシートの隣にいる藤井さやかを振り返った。
「じゃ、井口クンによろしくね」
するとさやかは、
「マスク、忘れてるよ。『花粉症』なんでしょ」
といたずらっぽく微笑んで、マスクを差し出した。
サングラスの下をマスクでかくしながら将は
「あとサ、悪いけど……」
最後にもう一度念押しをしておこうと口をあけた。するとさやかはすかさず
「わかってる。降りた場所は、春樹には内緒、でしょ。大丈夫。あたし東京詳しくないから」
と、小さな顔の中のつぶらな瞳をくるっと動かすようにして先回りした。
さすが、井口の年上の彼女だ。察しが早い、と将は思った。
井口とこの長野に住む藤井さやかの仲は、井口にしてはかなり長く続いている。
夏ごろからだから、もう半年続いていることになる。
しかも、さっきの様子から見ると、井口はまだまださやかに夢中なようだ。
今度こそ、井口も幸せになれるかな、と将はさやかを頼もしく思った。
さやかだけを乗せたタクシーが行ってしまうと、将はあたりを振り返った。
誰も付いてきている気配はない。作戦は成功したのだ。
将は愉快な気分で、1ブロック先にある聡のコーポへと急いだ。
コーポの前にはトラックが停まっていた。
駐車禁止のはずだが、宅配便か何かだろうか。将は気に留めず、階段を上った。
途中、階段を下りてきた、大きなスーツケースを抱えた業者とすれ違った。
体を横にして業者を行かせながら、将は、暗い蛍光灯に浮き出たそのスーツケースを振り返る。
どこかで見たような気がする。
聡のだろうか、と一瞬浮かぶが、すぐにそれが違う根拠を将は思い出す。
山梨に転勤していたときに見た聡のスーツケースはあれより小型だったはずだ。
そんなことより早く逢いたい。
将ははやる心のままに、コーポの階段を駆け上がった。
第381話 命日(5)
今夜だけ。
せめて今夜だけ。
指輪と一緒に、将の思い出にひたろう――。
聡は自分の感情にそう折り合いをつけると……そのままの指で引き出しをあけた。
引き出しの中にも、将の思い出がつまっていた。
指輪と一緒にくれた、『ひなた』への靴下とベビーリング。
クリーム色のボンボンがついたほわほわの靴下。
ちっちゃな2つの足の形に聡は、2ヶ月後に世に出てくる「ひなた」の姿を夢想した。
その中に入っていたダイヤのベビーリング。
思わずその内側を……聡は確認してしまう。
『生まれてくる君へ、愛を込めて。父』
というフランス語でのメッセージを目にしたとたん……無理やり引っ込めた感情が、再び怒涛のように襲ってくる。
聡は歯を食いしばってかろうじてこらえると……それをケースに戻して傍らに置き、次のものを取り出した。
去年の手帳。
将との日々が詰まっているそれを、聡はなつかしくなぞった。
最後の裏表紙には将の字で書かれたメッセージ。
I love you, forever
sho
聡がプレゼントした万年筆の……セピア色のインクで書かれたそれは、もう何百年も前のラブレターのような色合いになっている。
思いはまだ、いまも鮮やかなのに……。
これらすべて。
聡は持って行くことができない。
これらの懐かしい思い出ごと。
聡は将を捨てていかなくてはならない。
聡は心を鬼にして、引き出しをのぞきこんだ。
――!
それを見つけたとたん、聡の手がとまった。
いったんひっこめていた涙が、再び大粒になって頬を転がり落ちた。
聡は……指輪をはめたままの、震えるその手で、引き出しの底からヨレヨレになったカードを取り出した。
将がマグカップと一緒にくれた、バースデイ・カード。
26才おめでとう、聡。
宇宙一愛する聡が、世に生まれ出たこの日に感謝!
月並みだけど、聡は僕の太陽だ(照れるぜ)
聡と昨日みたいに何度でもKISSしたい。
聡がいてこその将
雨でにじんだ青いインクに……聡はいつしか、あの日に引き戻されている。
命をかけて助けてくれたあの川沿い。
あざだらけで……冷たく濡れそぼっていた将。
血の味がした口づけ。
そして、はじめて抱き合った寝室の、星空のようだったコンポのランプ。
『アキラ、本当は俺のこと、好きなんだろ』
いたずらっぽい声。
今、耳元でささやかれたような、産毛の感触。
『そうなんだろ』
思い出の中の声は、何度もリフレインして……切ない思いを増幅させていく。
どこまでも。
果てしなく。
膨らんでいく、将への思い。
――好き。好きよ。
将が好き。だれよりも愛してる。この世で一番大事。
なのに。
どうして――。
思い出の中の将に答えながら……もう涙は止めようがなかった。
聡は将につながる品を手に取ると……声をたてて泣いた。
そんな聡を蔭りゆく部屋が薄いブルーグレーに染めていく……。
将は、マンションを見上げると、エントランスに足を踏み入れた。
かつてここから学校に通っていたマンションだ。
――やっぱり付いてきてるな。
何食わぬ顔でエレベーターに乗り込んだ将は、ため息をついた。
ひそかに自分を追うカメラマンの存在に気づいていた。
ドラマももうすぐ最終回で、○○谷詩織とのスキャンダルももうすっかり下火になっている。
なのにカメラマンは依然としてつきまとっている。
芸能関係をよそおいながら、実は父の不祥事を探しているのだろう、と将はわかっていた。
父の康三は今年9月に行われる総裁選の最有力候補だ。
それゆえに、ライバル議員による不祥事探しが躍起になって行われているのだ。
カメラマンの存在になど気付いていないそぶりのまま、エレベーターを降りると自分の部屋へ向かう。
どうせ下で見張っているだけなのだ、とわかっていてもどこかで緊張していた将は……ドアの中に入ると今度こそ深くため息をついた。
井口との待ち合わせにはまだ時間がある。
その間に将は片づけておきたいことがあった。
大悟が使っていた部屋をあける。
瑞樹の遺品のぬいぐるみ、そして遺影などが……正月に見たままで置いてあった。
ほこりもかぶっていないのは、留守中にも家政婦が定期的におとずれているからだろう。
将はクロゼットから段ボールを持って来て組み立てると、瑞樹の遺品をそっと手にした。
――瑞樹。大悟を見守ってやってくれ。
将はその白い小さな犬のぬいぐるみが瑞樹の化身であるかのように、心で語りかけた。
そしてそっと段ボールの中にそれを置いた。
瑞樹の遺品は小さな段ボールにすべておさまった。
将は……ずっと大悟のことと共に、この遺品のことが気がかりだった。
将の部屋に置いてあるよりは。
大悟のところに送ってやったほうがいい。
それはわかっていたけれど。
大悟は依然行方不明のままだ。
だから。
将はせめて大悟の保護者である、西嶋夫妻の家に送っておくことにしたのだ。
大悟の死んでしまった元彼女の遺品を預かってほしい。
大悟がもし見つからずに、処分するようなことがあったら、そのときは将のところに返してほしい。
そんな頼みを西嶋夫妻は快く引き受けてくれた。
大悟が見つかったら、立ち直らせるとも。
それを、今日思いついたのは。
実は――将は、明日の試験が終わったら、聡と共に姿を隠すつもりだった。
何か月……いや、もしかして何年か隠れなくてはならないかもしれない。
世間から身を隠しても、絶対に聡と結婚し、その子供が無事に生まれるところを見届けるつもりだったのだ……。
――よし。
あとはこの段ボールをコンビニから宅急便で送ればいい。
時間もちょうどいい。
今出れば、井口との待ち合わせにぴったりだ。
再びマンションを出ようと立ち上がったそのとき。
携帯電話が鳴った。
『兵藤ケンちゃん』と表示されている。
先週までクラスメートだった兵藤だ。
まじめに寿司屋で修行する兵藤とは……将が一方的にふざけてからんでいたような関係で、兵藤から電話がかかってくることなどは……クラス関連のイベントなどがない限りありえないはずだった。
「ケンちゃん?どしたの?」
将はなかばおどけて電話にでた。
「鷹枝くん。急にごめん。ちょっと気になることがあってさ」
対する兵藤は、少し思いつめたような真剣な声だった。
「昨日、アキラ先生が店に来たんだけど……」
第380話 命日(4)
康三は……将が今日、聡に逢いに行くことを見抜いていた。
見抜いていながら、黙っていた。
――彼女が日本を発つのは明日――。
せめて別れを惜しませてやろうという情けと。
……今日、逢って気持ちを落ちつけておけば、明日の試験によい結果をもたらすかもしれない。
そんな親心とが、康三を大目にさせていた。
にしても。
資料が頭に入らない。
康三は膝の上に開いた資料から目をあげて、軽く目を閉じた。
車の振動のせいではない。
軽い吐き気を覚えて……そのまま、シートに寄りかかる。
そのとたん……フラッシュバックのように、こちらを睨みつける将の目が、記憶の底から急浮上して迫ってきた。
中学の頃……荒れていた頃の将の鋭い目。
『オヤジのバッキャロー!』
若い手負いの猛獣のように手が付けられなかった、あのときの将。
あの、殺人事件を起こした直後だ。
自らの罪を大悟に着せたと知ったとき、将は荒れ狂った。
三宅弁護士の説得により、やっと気を鎮めたように見えたが……。
たしか三宅弁護士はこんな風に説得していたはずだ。
『未成年だし正当防衛だ。大悟くんの将来を傷つけることにはならない。
……しかし将くん、君の場合は違う。目立つ家柄の子供だ。もし、君が犯人だということになれば、ひいおじいさんの血筋に泥をつけることになってしまうんだぞ』
巌の血筋、という言葉に将は黙ったものの。
その瞳は変わらなかった。
康三に向けられたのは、鋭くぎらつく日本刀のような……冷たく鋭い将の視線。
なぜ、そんな視線を今、思い出すのか。
……わかりきっている。
聡を失った将は……またあの頃に逆戻りするのではないか。
将はきっと……今回のことについて、康三のしたことだと……嗅ぎつけるに違いない。
ばかな。
康三は自らの恐れを打ち消した。
前とは状況が違う。
将は、うちに戻ってきてうまくやっている。
康三は条件付きとはいえ……聡のことを認める姿勢を将に見せている。
何も知らない妻の純代は……一生懸命、みごもった聡の世話を焼いていたはずだ。
聡を失っても。
将が康三を恨む理由など、何もないのだ。
そうだ。聡が……自ら、将を、捨てるのだから。
このところ……将の顔を見るたびに、毎回そんな自己確認を繰り返している。
だが、一向に康三は安心できない。
将が……それを嗅ぎつけるのではないか、と気が気でない。
康三は、携帯を取り出した。
毛利を呼び出す。
「例の件は、どうだ」
「はい。順調です。夫妻は婚姻届を出し、明日11時30分の便でボストンへ直行します。同行する医師も手配済みです……」
すべて予定通りに進んでいる。
あとは……聡を失い傷ついた将を、家族で慰め、立ち直らせるだけ。
何も、心配することはないのだ。
康三は自分に言い聞かせた。
大きなスーツケースは、フローリングの床を占領した。
……聡は、蔭りゆく部屋の中、荷造りをしていた。
「古城先生がたとえ手ぶらで行かれても大丈夫なように整えておきます」
毛利はそういっていた。
「残った家具などは、こちらで責任を持って保管もしくは処分しておきます」
とも。
家具や家電、食器は向こうの家に万端そろえてあるのだろうから、こっちのを持っていく必要もない。
それでも。
気に入った服や、萩の叔父に焼いてもらった食器、身の周りのこまごまとしたものなどを聡はスーツケースに詰め込んでいく。
2度目の長期渡米だから、だいたい勝手はわかっている。
だけど、大きなお腹を抱えての作業は、少しだけ大儀だった。
パズルのように隙間にものを詰め込もうと、下を向く聡の頬に髪がかかる。
それを無意識のうちに……ゴムを手にして後ろにまとめようとして……その長さが足りないことに気づく。
――そうだよね。切ったんだった。
聡は鏡を振り返った。
鏡の中には、顎の上あたりで髪を切りそろえた聡がいた。
聡は髪に触れてみた。
ストレートにした短い髪は……今までに比べるとあっけないほど指からこぼれていく。
腕のいい美容師がやってくれたおかげで、その髪型はむしろ前よりお洒落になったといえる。
そして……明るく活動的ともいえる。
聡は鏡の中の自分に微笑んでみせた。
その微笑みに……将が重なり、聡はあわてて目をそらした。
将は見ることのない髪型……。
そんな事実が胸をよぎり、きゅっと苦しくなる。
聡は、感情を無視して作業を続けることにした。
明日発つために、今日の夕方に業者がスーツケースを取りに来る。
急がなくてはならない。
クロゼット、食器棚、本棚……と来て、飾り棚とその下の引き出しに差し掛かる。
引き出しをあけようとする聡の手が止まった。
飾り棚の上に……あのペアマグカップ。
将が、はじめて聡にくれた……。
そしてエンゲージリング。
将との日々が急に膨らんで一気にはじける。
……すべての思考が止まる。
ただ唯一残った感情が……聡の体を動かす。
聡はケースをあけると、そのリングを取り出した。
ダイヤのリングは午後の光を受けてキラリと光った。
将が……。
こちらを振り返った気がした。
長い時間。
リングを指に嵌めたまま、聡はぼうっとしていた。
将と……。
指輪をくれて。
結婚しようと誓った将と……。
離れなくちゃいけないんだ。
明日。
あした。
いやだ。
離れたくない……。
「どうして、行かなきゃいけないの」
口に出してみる。
静まり返った部屋で返事をするものは皆無だった。
そのかわりに聡の目から涙がこぼれおちてきた。
ぐる。
『ひなた』の動きに、聡はハッとする。
何をいまさら。
将のために、決めたんじゃない。
聡はかろうじて、気を取り直した。
この指輪だって。
置いて行かなくてはならないのだ……。
どこの世界に。
前の恋人からもらったエンゲージリングを新居に持ちこむ妻がいるだろうか。
……だけど。
いまだけ。
いまだけ、いいよね。
聡は将のリングが光る薬指をもういちどいとおしんだ。
第379話 命日(3)
午後の菩提寺は静かに陽を集めていた。
その静かな佇まいの屋根のあたりを将は、いったん見渡す。
空は青く晴れ渡り……将が手にしたアネモネの赤やピンクをいっそうさえざえとさせた。
母が好きだったアネモネの花。
将は今年もそれを墓に備える。
今年は将が一番乗りだったらしい。
墓は将が備えた花で、急に春色にほころんだ。
それを見届けると、静かに手をあわせる。
今日、3月12日は、将を産んだ母・環の命日である。
昨年に引き続き、将はここを訪れていた。
午前中に……将は、最後の仕上げに岸田助教授のところへ行って来た。
今日は筆記での練習課題はやらず、ただ新聞に書かれた時事問題などについて岸田と話を交わした。
いたずらに緊張感を高めないためと。
かつ、頭の柔軟性を保つためである。
「あとは、運だけだ。今日はゆっくり寝ろよ」
岸田は笑顔で将の肩をポンと叩いた。
将は静かに母に誓っていた。そして、同じ墓に眠る巌へも。
……大切なひとができた、と報告した去年。
今年は……その人とそのお腹にいる子供のために、せいいっぱい力を尽くすことを誓う。
だから。
見守ってほしい……。
将はおぼろげになった母の面影と、巌にすがるような思いだった。
やれることは、たぶん、やったはずだ。
あとは何を出されても、自分の実力だけである。
どう結果が出ても従容と受けいれるべきなのは、頭ではわかっている。
だけど。
聡と引き離されるのは、だめだ。
だから。どうか。力になってほしい……。
将の誓いはいつか、懸命な祈りに変わっていた。
チーッ、チーッ。
小鳥のさえずりに、将は目をあけた。
ずいぶんな時間……しかも墓に懇願を繰り返していた将は、自分にやや照れる。
――合格したら、聡と一緒にまた来るよ。
墓にそう微笑みかけると、将は墓地の出口に続く石畳へと足の向きを変えた。
そこで、ある人影をみつける。
スーツ姿の……。
「オヤジ」。
こちらへと歩いてくるのは、父・鷹枝康三だった。
手には将が備えたのよりひとまわりも大きいアネモネの花束を持っている。
「将。どうしたんだ」
「本会議中じゃないの?」
同時にお互いへの問いが出て、一瞬沈黙が横切った。
「……本会議が終わってから来た」
そういうと康三は、将の前を通り過ぎた。
花立てが将のアネモネでいっぱいなのを見つけると、自分の花束は墓の前に置き
「明日、2次試験だろう」
と将を振り返る。
ん、と将は軽くうなづきながらも、目の前の康三に、半信半疑だった。
母と静かに語り合えるように康三を残して、その場を立ち去りながら将は思い出す。
やはり、去年……ここの住職が言っていたことは本当だったのだ。
かなり長い時間がたって、康三は墓地から出てきた。
石段に腰かける将をみつけて
「おう」と声をかける。
別に待たなくてもよかったのだが……将はなぜか父を待ってしまった。
「また、戻るの?」
「ああ。委員会があるからな」
康三は仕事の合間にやってきたらしい。
「ふーん」
「駅まで乗ってくか?」
見ると寺の前に車が待っているのがみえた。
「いい……。ところでサ……毎年、ここに来てたの?」
父は、何も言わずに微笑んだまま、まだつぼみも硬い桜の木を見渡しながら振り返るふうをした。
そしてようやく「ああ」と答えたとき……将にはその表情は見えなくなった。
しかし斜め後ろから見る父の頬のあたりは……少し震えている気がした。
そして……急に蘇る古い記憶。
母の葬儀の時も……同じ角度で……父の震える頬を見た記憶は確かにあった。
母が死んだとき、父は泣かなかった。
しかし、涙は見せなかった、それだけで。
……それは間違いだったのか。
「今年は特に……お前のことを頼まないといけないからな」
そういって振り返ったとき、すでに康三は微笑んでいた。
「俺も直接頼んだよ」
将は……涙を呼ぶ記憶を振り払うように、おどけて肩を大きく揺らしてみせた。
「で、どうなんだ。岸田助教授はなんていってた」
「あとは運だけだってさ」
ハッと康三は笑った。
「まあ、あまり気張らずにな。今日はトンカツでも食ってのんびりしろ」
「今朝、ハハオヤがつくってくれたよ。……今日はホテルなんだ」
試験前日の今日、ホテルに泊まるという将の提案を聞いて……純代は急遽、今朝トンカツを作って持たせてくれたのだった。
康三は目をやや見開いて将の顔をのぞきこんだ。
「……だから、ラッシュにあわないようにだよ」
将はあわてて弁解した。……たくらみがバレて、阻止されたらまずいから。
しかし康三は「そうか」とそれ以上突っ込むことはしなかったので、とりあえずホッとした。
「……じゃあ、今日はゆっくり休めよ」
「まてよ、オヤジ!」
それだけ言って、立ち去ろうとする康三を、将はあわてて引きとめる。
「明日の試験、絶対受かるから」
向き直った康三は、将の瞳を見据えた。その瞳には強い光が宿っていた。
「絶対に、受かるから。そのときは、アキラとのこと。……認めろよ」
しばし、二人は寺の前で対峙した。
そんな二人におだやかな春の陽射しは似合わないようだった。
康三は……ふいに目を細めた。眩しげに。
「せいいっぱいやれ」
そう言い残すと、踵を返し……将を残してその場を立ち去った。
第378話 命日(2)
あれは、気のせいなんかじゃない。
……瑞樹の声だった。
大悟の中で、あの瞬間がリフレインしている。
東京行きの新幹線の中にいた。
各駅停車の……あのとき瑞樹を吹き飛ばしたのとはあきらかに違う形の車両を選んで大悟は乗車した。
――あのとき。
大悟の意識は、たしかに防護柵にかけよって、乗り越えたのだ。
だが。
『 大悟、だめ 』
大悟に聞こえたのはそれだけだった。
気がつくと、大悟は防護柵の前に佇んで、通過する新幹線からやってくる強い風を受けていた。
我に返ったとき、大悟の体は冷たく、しびれたようになっていた。
誰かがいっていた、金縛りの名残のような……。
――瑞樹。お前はやっぱりあそこにいたんだな。
その瞳には後ろへと飛んでいく暮れなずむ街が映っていたけれど。
大悟はそれを見ていなかった。
心に見えていたのはあの瞬間だけ。何度も繰り返す。
まるで……その一瞬の邂逅をいとおしむがごとく。
――どうして、俺を連れて行かなかったんだ。
心で問いかけてみる。……もちろん返事はない。
――将じゃ、ないからか。
太陽と反対側の窓は、紫色に沈黙している。
それは妖しげにも、悲しげにも、どちらにも見えたが……肝心の答えを出すことはない。
このまま逃亡してもよかった。
あの犯罪組織には、何の義理も、未練もない。
どこかあいつらが考えもしない地方にでも逃げてしまうのは、まったく可能だったのに。
大悟の足は、『事務所』に向かっていた。
瑞樹のあとを追い損ねて……もうどうでもいい、という投げやりな気持ちと。
それから切実な問題。
ドラッグ……つまりシャブ。
大悟の精神は、正常でいるために最低でも1日4回の注射を必要としていた。
あそこから逃げてしまったら、シャブが調達できない。
シャブが切れた時の……あの爆発的な恐怖、脳や内臓まで引っ張りだして掻きむしりたくなるほどの憔悴を思えば。
大悟は嫌でもそこに帰るしかなかった。
あたりはすっかり暗くなっていた。
ずっと昼のような明るさの繁華街と違って、今の『事務所』があるのは住宅街だ。
駅前をすぎて、店がなくなると、急にひっそりと暗くなる。
その暗い道を急いでいた大悟の足が、急に止まる。
近くのマンションのタイル壁に赤い光が映っていた。
……規則的に明滅する、危険信号のような光に、大悟は反射的に警戒した。
角を曲がろうとした大悟は、息を飲んで……再び金縛り状になった。
『事務所』があるマンションの前にパトカーが止まっているのを見たからだ。
パトカーは1台ではなく、数台いた。
いずれも屋根の上で赤い光を回転させていた。
――まさか。
硬直しながらも大悟は、電信柱の陰から様子をうかがっていた。
パトカーの出動に、近所の人や通勤帰りのサラリーマンが何ごと、と人垣を作り出したそのとき。
「コラア!放せや、くそったれ!」
姿は見えないのに、エントランスに声が響いた。
カン高い前原の声だと、大悟にはわかる。
まもなく、警官二人に挟まれる様に出てきたのは前原ではなかった。
今度こそ大悟は、「あ」と声をあげそうになった。
尖った靴にサングラスをかけた……組織のリーダー。
白いスーツを着た彼は、両側から警官に押し付けられるようにしてエントランスから出てきた。
前で揃えた両手は布で隠されている。おそらく手錠をかけられているのだろう。
逃げようとするでもなく、周りの視線を気にするようでもなく、ただふてぶてしい表情。
むしろ、その態度は、背筋をそびやかすようにどうどうとしていた。
その後ろから……次々と仲間が連行されてくる。
皆、ややうつむき加減の首から上を、上着で隠すようにして出てくる。
「殺すぞ!クソがぁ!」
狂人じみた罵声と共に、前原が出てきた。
両腕を手錠で固定された上でがっしりと掴まれているというのに、なおも逃れようともがいているのがわかった。
暴れるたびに、警官に小突かれ、腕を引っ張り上げられる。
「バカ面さげて、見てんじゃねえよ!クソがよぉ!」
唾が飛びそうなその罵声が、人垣に向けられて、善良な人々が一瞬ひるむのがわかった。
――バカ面って。てめえが一番バカじゃんよ。
大悟の鼻先から、ふっと笑いがこぼれる。
見ている間に、大悟の『事務所』の仲間たちは全員連行されていってしまった。
サイレンをならしながらパトカーが行ってしまうのを見送りながら……なんとか難を逃れた大悟はほっとした。
気分が晴れ晴れしているのがわかる。
なぜなら。
これで……大悟を縛るものは何もなくなったから。
大悟は本当に自由になったのだ。
「ふふ。ふふふ」
駅へと引き返しながら……あてどもないのに、笑いがこみあげてくる。
嗚咽のような笑い。
通勤帰りのOLがけげんな顔ですれ違っていく。
止めようと思うのに、とまらない。
――自由になったんだ。
――また、やりなおせる。
まだ冷たい早春の夜風でさえ解放感の象徴のように思えた次の瞬間。
ある現実が……夜風を一瞬で氷に変える。
薬。
笑いが喉につかえるように引っ込んで……血の気が音を立てるように引いていく。
あの薬は……もう、あと1回分しかない。
第377話 命日(1)
快速は一路、北へと向かっていた。
春の日差しを反射する家々の屋根は、どことなくさざ波を思わせた。
東北本線の快速。ドアの横に佇んだ大悟は、列車の揺れに身を任せながら、後ろへ飛んでいくさざ波を眺めていた。
去年の今日。瑞樹があとかたもなくなってしまった日。
近頃従順な大悟は、単独での外出を許可されて、小山へ向かう列車にいる。
瑞樹が葬られた墓のありかを、大悟は知らない。
しかし、大悟は……瑞樹の魂があるなら……きっとあの死に場所である駅にまだいる、と感じていた。
幽霊でもいい。瑞樹がいるのなら。その気配にだけでも触れたい。
ついでに瑞樹の祖母の部屋に祀られている、瑞樹の位牌に手をあわせたい。
そんな思いが大悟を小山へと向かわせていた。
と、大悟の佇むドアが開いて……ホームから車内に乗り込んでくる少女に大悟は「あ」と声をあげた。
――瑞樹!
そのショートカットの少女に、大悟の視線は惹きつけられて……失望する。
少女は大悟を一瞥したが、その視線はすぐに進行方向に戻り……がら空きの席に腰掛け、のんびりと携帯をチェックしだす。
まったく瑞樹と似ていない少女だった。
どうやったら瑞樹と見間違えるのだ、と大悟は自分が可笑しい。そして悲しい。
瑞樹のはずがないのだ。
大悟は再び動き出した列車のドアのガラスから空を見上げた。
――もし生きていれば……。
二人は今頃どうしていただろう。
『滋賀でやり直したい』
瑞樹のあの言葉は嘘じゃないと思う。
たとえ、死の間際に将の名前を呼んだにしても。
大悟は無駄だとわかっていても瑞樹が生きていれば成しえた可能性を、瑞樹が死なずに済んだ方策を探してしまう。いまだに。
なぜ。助けられなかったのか。
最後にはいつもそこへ向かう。自分への責め。
そしてさらに想像する。
あの場へ行ったのが大悟でなく将だったなら。
瑞樹は線路に飛び込まずに、将へと駆け寄ってきたのではなかったか。
……つまり将なら瑞樹をたすけられたのではないか……。
そうして徒に……大悟は自分の心を傷つけていくことに、快感すら感じてしまう。
心からは血が流れ出しているのに、掻き毟るのをやめられない。
薬は……そんな自分の心臓までも掻き毟り続けたくなるような衝動を落ちつけてくれる。
前向きに……といったら語弊があるが、少なくともつらい過去のことを消してくれる程度の効果はあった。
大悟はいまや正気でいるために、一日4回は薬を使っていた。
薬によって殺された瑞樹の一周忌を弔うために瑞樹の死に場所へと向かう自分が……同じ薬の虜になっている事実に……大悟は思わず自嘲する。
だが。
薬をやめられなかった瑞樹のつらさが……つらいことばかりの人生が今になってよりいっそう身にしみてくるようだった。
ピン、ポーン。
3回目のチャイムは静けさの中に吸い込まれていくようだった。反応はない。
大悟は瑞樹の祖母・春江のアパートのドアの前に立っている。
瑞樹の祖母・春江の電話番号も……将のそれと同様、紛失してしまっていて……だから大悟は記憶をたよりに、バスに乗り、アパートを直接訪れることにしたのだ。
――留守か。
大悟は、試しに扉を強めにノックしてみた。結果は同じだった。
もしかして、瑞樹の命日である今日だ。どこかの寺で法事でも行っているのだろうか。
大悟は、ドアの前に座り込んだ。
泊まりでなければ、そのうち帰ってくるだろう、と思ったのだ。
位牌よりも、遺影に逢いたかった。
大悟は瑞樹の写真を持っていなかったから。
瑞樹の死の直後、将にもらったプリクラとクラス写真は……将のマンションに置いたままだ。
昼下がりの静けさの中……大悟は瑞樹の顔を思い浮かべてみる。
日いちにちと薄れていくその顔は……少しぼやけて見える気がした。
悲しみは依然、心にはっきりと刻印されたままなのに。
俯いた大悟は……まさか昨年の今日、瑞樹がまさにその場所に同じ格好でうつむいていたことをしるよしもない。
陽が傾いてきた。
――そろそろ薬を打っておいたほうがいい。
大悟がポケットに入れた水溶液を確かめた時、階段をあがってくる足音がして、大悟はあわててその手をひっこめた。
もしかしたら春江かもしれない。
しかし、現れたのは太った年配の婦人で……大悟はため息をついた。
「あ、あら?」
階段を登り切って息を切らした太った婦人は、座り込んだ大悟に目を止めて声をあげた。
大悟は立ち上がって、ぺこりと頭を下げる――無駄な警戒心を起こさせないように。
「葉山さんのところに?」
婦人は話しかけてきた。
はい、と大悟が答えたとたん、婦人は気の毒そうに眉を下げた。
「せっかくだけど、葉山さん、入院してるのよ」
「え」
新幹線のホームに差し込む日差しは、もう夕方を告げていた。
防護柵がオレンジ色の太陽を反射してきらきらと輝いている。
大悟は……去年瑞樹が座っていたベンチに腰掛けて……彼女が飛び込んだあたりで輝く防護柵をぼんやりと見つめていた。
ホームには、瑞樹の事故ゆえか、防護柵が新しく設置されていて……ホームに飛び込むことなど容易にできないようになっていた。
その前では、大悟と同じ年ほどのカップルが寄り添って新幹線の到着を待っている。
笑いながら語らう彼らは、かつてここが一面血のしぶきで染まったことなど、何も知らないようだった。
大悟は彼らから目をそらして……ホームの上に見える空を見上げた。
――瑞樹。ここにいるんだろ。
遺影でも逢いたかったのに。
逢えなかった大悟は、幽霊でもいい、目の前に出てきてほしいと思う。
あの婦人は、訊いてもないことまで詳しく教えてくれた。
ついこないだ、春江が脳梗塞で倒れたこと。
なんとか助かったけれど、寝たきりを余儀なくされていること。
娘……つまり瑞樹の母はまったく見舞いにも来ないこと。
『たった一人のお孫さんを亡くされて、ずいぶん老けこまれてねえ。それまではとてもお元気な方だったのに』
それを聞いた大悟の心は痛んだ。
たった今、駅のトイレで打った注射のおかげで、体が軽くなっている。
大悟はベンチに寄りかかると目を閉じた。こうすると、わずかにフワフワする感覚を味わえる。
――お前と同じになっちまったな。
1年前の瑞樹と同様……ドラッグの虜になってしまった自分を、大悟は再び嗤った。
前原のようにトリップなんかしない。
何もかも忘れるような錯覚に酔えたのは最初だけだった。
今は、足りなくなると苦しくなり、それを注射で「補給」すると楽になる。
ただそれだけだ。
それなのになぜ。
大悟は、廃人への道を着実に進みつつある自分を、捨ててしまいたくなる。
――瑞樹。寂しいなら……俺をつれていけよ。俺はいつだって付き合うぜ。
まるで、それに答えるようなタイミングだった。
ホームに、通過列車の案内が響く。
大悟は、思わず立ち上がる。
去年の、光景が目の前に蘇っている。
叫びながらホームを飛び降りる瑞樹。
つまづいたように線路にうずくまるその姿。
速度をゆるめない新幹線。
新幹線が去った後の……何もない線路。
なにもかも、一瞬だった。
一瞬で瑞樹は、いなくなってしまった……。
今、いけば。
大悟は拳を握りしめた。
――今いけば、瑞樹に会える。
腹の高さの防護柵なんてどうということはない。簡単に乗り越えられる。
――きっと、会える。
大悟は柵めがけて走り寄った。
第376話 想いを断ち切る(2)
「兵藤くん」
すっかり長居してしまった。
まだ10時前だが、ネタが尽きたのか、店じまいの準備をすべくのれんをしまいに向かう兵藤を聡は呼びとめる。
ちょうどいいタイミングで美智子は手洗いに立っていた。
笑顔できびきびと歩いてくる兵藤に聡は……少し後ろ暗い。
「あのね……」
少し躊躇したが、思い切る。
「私が、ボストンに行くこと、できればクラスのみんなには内緒にして」
つやつやとした顔から笑顔が消え、かわりに、しきりにまたたく目のあたりにけげんさが漂う。
「どうしてですか」
兵藤はそのけげんさをすぐさま言葉に替えてきた。
しかし聡には、その本当の理由も、また彼を納得させるに足る理由をとっさに作ることもできない。
「ちょっと……いろいろと事情があって。あまり派手にしたくないの。お願いだから」
声にしながら、これはないと聡は自分でも思う。
いろいろと事情があって……人を納得させるのにもっとも不足な理由。だけど仕方がない。
「……いいですけど」
兵藤は眉のあたりに不服さを漂わせながらも、それでも最後まで従順で素直な生徒として、聡の言うことに従ってみせた。
「ごめんね。プレゼントまでもらった上におごってもらって」
「いいって……安くしてもらったしぃ。そのかわり、ボストンに遊びにいったときにはタダで泊めてね」
お酒で上機嫌なのか。シートに寄りかかる美智子の語調はあいかわらずリズミカルである。
駅で美智子は聡を残して降りる。
その際、5千円を握らせようとする美智子に、聡は必死で抵抗した。
「いいの、いいの! 結婚祝い!」
「いいよ、お寿司おごってもらったし」
「いいのっ! あたしのときに倍返ししてくれれば」
結局、美智子は無理やり運転手にそれを握らせると、降りてしまった。
「じゃーねえええ! 気をつけてねえ! それからお幸せにねえ!」
美智子は人目もはばからず叫ぶと、タクシーの中の聡に向かって手を大きく振った。
派手な柄もののスカートを身につけた美智子が夜の街に溶けるように見えなくなって……聡は、ふう、とため息をついてお腹をさする。
博史の親。聡の親。美智子、そして兵藤。
聡は嘘をつきながらそのたびに……自分自身の外堀が埋められていくような感覚にとまどった。
こうやって、自分自身も嘘から逃げられなくなっていくのだ。
将から……離れる瞬間は着々と近づいて来るのだ……。
聡は……寒くもないのに思わず身ぶるいをした。
「ひなた」が反応したのかお腹がきゅっと収縮する。
それをさすりながら、無意識に携帯を出す。
博史からメールが届いている。
>準備はどう? 僕のほうは今日が最後の送別会で、まだ飲んでます。
もう走り出したレールから逃げ出すことはできない。
今日は11日。将から逃げるように日本を離れるのは、もうあさってだ。
なのに……心のどこかでは、まだすべてが覆るのを待っている。
と、そのとき。暗い車内に鳴り響く着信音。
将だ。
聡は飛びあがらんばかりにびっくりした。
――まさか、兵藤くんが。
恐れながら、期待する。すべてを知った将が、計画を止めに来ることを。
それと同時に、聞いただけで将とわかる着信音を……変えなくてはならないことを忘れていたのに気づく。
聡は息をのみ込むと、着信ボタンを押す。
電波がつながるのを待ちきれないように将の声がなだれこんできた。
懐かしい声。聞きたかった声。
「アキラー? ……やっぱり声が聞きたくなっちゃって」
こんなセリフは今までなら甘いいとおしさばかりをつれてきたはずだったのに。
『あたしも』
と答えたなら。聡はその場合の将の顔を、想像することでまたいっそう幸せになれたのだ。
だが……今の聡には、胸が焼けつくような苦しさにしかならない。
それと同時に……やはり将は何も知らされていないことを瞬時に悟り……安心と大きな失望によって聡の心の波は少し静かになる。
「ど、ドラマの撮影は終わったの?」
なんとか平静を装う。
「うん。バッチリ。午後まで掛かったけど。ところで、アキラ」
聡はどきりとする。
――『ケンちゃんから聞いたんだけど……』
心で期待と恐れを復活させながら聡は将の言葉を待つ。
「明日、家にいる?」
「……どうして?」
聡は少しほっとしながらも警戒する。
「んー?」
将は電話の向こうでえへへと笑った。いたずらっぽい笑顔が見えるようだった。
「最後だからいつものように英語を教えて? ネットで」
聡は心からほっとした。
将が……うちに来るなんてありえない。
そうわかっていても、聡は警戒……いや、むしろ甘い期待を持ってしまう。
いつだって将は、聡の前に突然……本当に、いきなり現れては抱きしめたから。
そのときめきとぬくもりの記憶は……今はただせつない。
「昼間は病院に行って来るから……夕方だったら」
あさってはいよいよボストンへの出発。
妊娠8か月での飛行機での長距離移動は早産の危険が高い。
康三はそれに備えて医師を同行させるよう準備をした。
その同行する医師と打ち合わせがあるのだ。
それに、少しだけど荷造りもある。
だけど。
……ネットと電話をはさんでとはいえ、最後の個人授業。
最後の逢瀬。
将を騙し遂せるかという難問よりも、聡の心は叫んでいた。
将の声が聞きたい。
将と時間を……共有したい。
せめて。これが最後だから。
最後のネット授業を了解して電話を切った聡は、魂が抜けたようにシートに寄りかかった。
街の明かりがぼんやりと滲んで揺れる。聡はやはり涙を流していた。
もう走り出してしまったのだ。
将の幸せのために、将をおきざりにする……。
なのに聡の心はいつまでたっても将を捨ててしまう覚悟ができない。
将のためなのに……。
聡は涙をぬぐった。
いつまでも涙を流したままでは運転手に気付かれてしまう。
聡は無理やり気を取り直すと、顔を整えるべく、暗くなった窓を横目で眺める。
窓には、みじめな泣き顔が映し出されていた。
電話中、ずっとうつむいていたせいか乱れた髪が頬に張り付いている。
それを後ろにやるべく聡は髪に手をやった。
『アキラ……こっち向いてよ』
そう呼びかけながら聡の髪をふいにかきあげて、顔をよせてきた将。
『ねえ。みつあみさせて。俺、うまいんだぜー』
そんな戯れをいいながら、ベッドの上で戯れた、同棲中の夜。
ひなたを身ごもったあの夜も。
……将の指は櫛となって何度も聡の髪を往復した。
波間に漂うように揺れながら、将は聡の髪の根元から毛先までなんども撫でた。
それは将が髪の先まで……聡をいとおしんでくれる行為の表れだった。
――そうだ。
聡は、暗い街を映し出す窓に向かって、眼を見開いた。
――髪を切ってしまおう。
聡は窓に斜めにうつる自分の顔をみながら髪をゆっくりとかきあげた。
栗色の髪は、別段聡の自慢でもなかった。くせ毛だし、この栗色はカラーリングだ。
それでも
『俺、アキラの髪、だーい好き』
などと抱きついてきては、髪に顔をうずめてくんくんと匂いを嗅いでみせたりした将。
その将とはもう一生逢えない。
将がこの髪をいじることは、もうないのだから。
将の愛した聡の姿を……無理やり変えてしまおう。
髪と一緒に、思いを断ち切ってしまおう。
恋を終わらせるために髪を切るなんてセンチメンタルな行為だ。
そんな風に、心の一部で自嘲する自分を感じながらも、聡は決めた。
第375話 想いを断ち切る(1)
「それにしてもびっくりしたよ。聡がそんなお腹になってるなんて」
もう何度目だろうか。カウンターでおしぼりを受け取りながら美智子はさらにもう1回繰り返した。
買い物の帰り、お別れに美智子が奢ってくれるというので海潮寿司に来ている。
教え子の兵藤が修行している寿司店だ、と思いだして聡は身構えたが、美智子は逆に
「聡の教え子さんが修行している店なんでしょ」
とむしろ肯定的に誘ったから断れない。
真面目な生徒だった兵藤が……聡と将の関係をどこまで知っていて、どう思っていたのかはわからない。
だけど彼のいるところで美智子から『将との別れの顛末』を捏造するのはかなり苦しいと思ったのだ。
しかし幸い、兵藤は使いにでもいっているのか、小さな店の中にその姿はなかった。
聡が持っていたデパートの大きな紙袋を預かってくれたのは女将さんで、聡は心からほっとした。
昨日、たまたま美智子から『聡?暇ぁ?』と電話がかかってきたときは、どうしようかと思った。
妊娠して以来、美智子とは一度も会っていない。
当然、彼女は聡の妊娠も知らないはずだった。
仲の良い美智子にも日本を離れる前に一度会っておきたい、と思う反面、このお腹をどう説明すると悩んだ。
なにしろ美智子は、聡と将の関係も、その深い思いも知っている。
だまし切れるだろうか……。
忙しいなど理由をつけて、会わない選択肢も当然考えた。
だが。
嘘をついたまま連絡もせずに、結婚して海外に引っ越してしまうほどの薄情をすることは、やはりできないと思いなおす。
両親ですら騙しとおしたのだ。大丈夫。
それに、急なボストンへの出発にあたっていくつか足りないものもある。
その買い物に美智子に付き合ってもらおう、買い物という目的があればじっくり向き合って話すこともあるまい……と聡はお腹のことを言わずに、ただ美智子と会う約束をした。
待ち合わせ場所にやってきた美智子は当然、驚いた。
「あ、聡……そのお腹!」
そう言ったきり、口がパクパクしている。
アイラインでフチドリをほどこし、付けまつげを隙間なく貼り付けた目から、目玉が落っこちそうなほど見開いている。
「ま、まさか、将くん?」
そう言われることは、シミュレーション済みなので、聡の心は表面には出ない。
微笑んで首を振りながらも……それでも、聡の心は嘘をついたことにチクリと痛む。
「だよねー、あーびっくりした」
で、誰、相手?
将くんとはあの後、本当に別れちゃったの?
なんで?
スキャンダルになったから?ちがうか。
美智子は質問をまくしたてる。
「そんな、一気に質問されても」
「ごめーん。だーってびっくりしたんだもん。……それで今何カ月?」
そりゃ、そうだ……と聡は微笑んで自分のお腹へと目を伏せると「8か月」と答えた。
そして意を決すると、
「実はね。……博史さんとよりを戻したの」
と嘘をつく。何度ついても苦い嘘は、聡の顔をこわばらせそうになる。
それを無理やりのように……口角をあげる。きのう、鏡の前で練習した笑顔をつくる。
「博史さんと!」
美智子はさらにびっくりした。
艶のあるグロスを塗った口が『と』を発した形のままあけっぱなしになっているのを見て、聡はやるせなくなった。
「将くんとは? あのあと本当に別れちゃったの?」
だまってうなづくしかない。
うなづきながら、聡は心で美智子に懇願していた。
お願い。これ以上、突っ込まないで……。
美智子に訊かれたときのために、将との別れの顛末は、昨日一生懸命考えていた。
将が海外ロケに旅立ったそのまま……自然に心が離れてしまったのだと。
別れを捏造すべく、あの頃を思い出しながら、聡の心はいつしか、将との思い出の中にのめりこんでしまう。
甘く、せつない日々。
将の笑顔、泣き顔。ぬくもり。少年らしさが残るその囁き。
思い出したら最後、聡は枕カバーをびっしょりにするまで泣いてしまうのだ。
昨日も、泣きぬれてしまった聡は、瞼の腫れの処理に苦労した。
出発のせまった聡の中で、断ち難い思いはなおも日に日に高まっていくようでさえあった。
将とその思い出と……引きはがされる期日まで3日を切った今、聡は必死で将のことが頭に思い浮かばないように……別れの現実を直視しないようにしていた。
荷造り、診察、手続き。体を動かすことで、思考に隙間をつくらないようにする。
せっかく自分の心ごと、取り繕っているのに、あまり突かれると。
固まりかけた傷から再び血が吹き出すように……聡は将を失う悲しみに飲み込まれてしまう。
だから。これ以上、将のことを聞かないで。将を思い出させないで。
聡は叫んでいた。
その気持ちが届いたのかもしれない。
聡の顔を美智子はしばらく見つめると、おもむろに明るい声を出した。
「そっかー。そういや長かったもんね、博史さんと。うん、そっかー」
心の底から、聡はほっとした。
この日の寿司も素晴らしかった。
1つずつ握ってもらうのもできるのだが、美智子によればおまかせが最もお勧めだというので、おまかせにする。
それがいちいち素晴らしかった。主人も
「憲が世話になったから。お好きなのがあったら遠慮なく言って下さいよ」
と声をかけてくれる。
「大将、この鯛の皮、絶品!もいっこちょうだい」
美智子は冷酒にほんのりほおを赤くしている。
彼女が言う通り、今が旬という鯛の皮の表面を炙ったものだけをネタにした寿司は素晴らしかった。
表面の香ばしさが、皮の裏にたっぷりついた脂肪の甘味を引き立てるようだ。
「先生もいかがですか?」
「……お願いします」
「あきらぁ、いっぱい食べなよ~。こんなに美味しいお寿司やなんて、ぜえったい、ボストンにないんだから」
美智子の口調がかなりリズミカルになったのはお酒が入った証拠だ。
そのときカラリと勝手口が開く音がした。
「おう、憲。仮免許はとれたか」
主人の声で、聡は兵藤が帰ってきたことを悟り、身構える。
「はい。……あ、先生」
すでに着替えた兵藤は聡に気づくと、ぺこっと頭を下げた。
あのときと同じく、甘じょっぱい玉子がデザートがわりだった。
「でさあ。博史さんはァ」
それにしても美智子の声は大きい。
酒が入った美智子は、あまりに遠慮のない声の大きさになってしまっていた。
「会社辞めてなにすんの?」
聡はといえば、兵藤に聞こえないよう、できるだけ小声で答えている。
といっても、兵藤は店に入るなり、洗いものやお運びで忙しく働いていたから、聡は少し油断していた。
「……マサチューセッツ工科大学に社会人留学するんだって」
「ボストンのぉ? すっごいねー!」
「え、先生。ボストンに行くんですか?」
聡はハッとした。
ちょうど背後に茶を運んできた兵藤がいたのだ。
しかし嘘はつけない。
一瞬――兵藤から将にこのことが伝わればいい。
将に伝わったら……引きとめに来るだろうか。
ほんの一瞬のすきに、期待を割り込ませて震える心を自覚して聡は愕然とした。
この期におよんで――もう博史と籍を入れて夫婦になった自分なのに――まだそんなことを。
――まだ、諦められないのだ。
兵藤の問いにうなづきながらも、これ以上、教え子の瞳を見続けることができなくて聡は目を伏せた。
「へえーっ。いいですねえ」
無邪気に、うらやましがっただけの兵藤に聡はなぜかがっかりした。
聡と将は完全に終わったとクラスの生徒に思われていることは……喜ぶべきことなのに。
「ほーんと、うらやましいよねー」
美智子が相槌を打った時、
「こら、憲、話し込むな」
と主人の叱責が入り、兵藤は仕事に戻ってしまった。
第374話 最後の望み(2)
「お兄ちゃん、コーヒー持ってきたよー!入っていい?」
ノックではなくドアの向こうで孝太が叫んだ。
「どうぞ」
机に向かっていた将は、返事をしながらそれを区切りに携帯の画面で夜9時を確認すると振り返った。
部屋に入ってきた孝太は大振りのマグカップを両手を添えるようにして持ちながらそろそろと将の机に進んできた。思わずその様子に将はなごむ。
将が鷹枝家に戻ってきてからというものの、息抜きのコーヒーを持ってきたり、食事の支度が出来たと声をかけたりする、いわゆる連絡係で孝太は大活躍している。
短期間で受験勉強に集中せざるをえない将に、自分が感情的な邪魔をしないように、との純代の配慮であることを将もわかっている。
「ブラックでよかったんだよね」
孝太はカップを慎重に将が勉強する机の端に置くと、嬉しそうに振り返った。
「うん。ありがとう」
将のことが大好きな孝太だが、純代に邪魔をしないように言い含められているのか、いつもはあまり長居はしない。
だが、今日は勉強机の横の棚の上にある大きなカトレアの花束が気になったらしい。
「あれ、北海道でもらったの?」
孝太は指差した。
「うん。今日で撮影が終わったからね。みんながくれたんだ……」
今日の昼過ぎ、将は無事にラストシーンを撮り終えた。
「OK!」
と監督が大きな声で叫ぶなり、スタッフの皆から拍手が起こった。
丘の上に一人で佇んで演技を続けていた将には、それがさざなみのようにすそ野から響いて青空へ抜けていくような不思議な感覚に包まれた。
拍手に迎えられながら、雪に自らが足跡をつけた道をたどって、慎重に降りる――そこでクリスマスのときの教会の裏でのことを思い出して将はふと空を見上げる。
あの絶え間なく雪が降り積んだ夜と違って、真っ青な空は白銀の上にありながらすでに春の予兆を見せていた。
――アキラ。終わったよ。やり遂げたよ。
将は青い空に聡の顔を一瞬確認すると、ギュッギュッと雪を踏みしめながら丘を降りた。
ようやくふもとに降りた将に渡されたのが、この一抱えもあるようなカトレアの花束だった。
「お疲れ様でした」
と贈呈役を引き受けた詩織がいたずらっぽく微笑むと、周りに集まったスタッフが一斉に拍手を強めた。
「どうもありがとうございます」
もらった花束は背の高い将ですら鼻先に強い香りを感じるような大きなものだった。
「このまま受験も頑張ってね」
現役大学生である詩織がお姉さんぽく将にエールを送る。その横から
「このまますぐ帰って勉強だろう」
脚本家の元倉亮が笑いかける。
将登場最後のシーンの今日は、元倉も現場に顔を出していた。
元倉や監督の表情から見るに満足な出来だったのだろう……頭を下げながら将は心からほっとした。
考えてみればこの男の手前、やり遂げなくてはならない仕事でもあったから……。
「頑張れよ」
機嫌がよさそうな元倉は、将の肩にポンと手を置いた。
「ハイ」
そのまま、すれ違って行ってしまうと思ったが、元倉は将を呼び寄せた。
「……もっとも、もしダメでも。こっちの世界もお前を待っているぞ」
将は思わず元倉の目を見た。元倉はニヤリと笑うとそのままいってしまった。
将は孝太と一緒に花束を見ながら、終わったドラマに思いを馳せていた。
仕事が面白くなかったといったらウソになる。
何より活気があったし、すでにプロとして活躍している大人と同じ土俵にあがるのは、良い意味で将のプライドを刺激した。
彼らから学ぶことも多かった。
芸能界という一見派手な世界ではあるが、演技力という実力や人とうまく協調しながら1つの作品をつくりあげていく――。
それは聡が教室で言っていた社会と大差はない気がした。
『こっちの世界もお前を待っているぞ』
ふいに元倉の最後の言葉がリフレインする。
それは将の中に手ごたえとして残っていた。
評判も悪くないし、自分でも向いていると思う。
ときどき武藤が遠慮がちに見せてくれるドラマ評には、面映ゆくなるような褒め言葉が連ねてあった。
将自身他人を演じるのは面白かった。
今までは自分に近い役が多かったが、もし出来るのならまったくかけ離れた役にチャレンジしてみたい。
だが……もう、おそらく、この世界には戻らないだろう。
聡のために。聡と生きるために捨てるべき道。
将は時計を確認するふりをして、待ち受けの聡を表示させる。
聡のために、あさっての後期試験は全力で臨んで……かつ、絶対に合格しなくてはならない。
そして父が……巌が望んだ道――鷹枝家の跡取りとして、国のために働く――その道へ進まなくてはならない。
「あきらさん、元気?」
携帯をのぞきこんでいた孝太がいたずらっぽく将を振り返る。
「うん。元気……て、おまえ、アキラに会ったことあったっけ」
「あるよー!去年一緒に遊園地いったじゃん!」
ああ、と将は思い出す。去年のバレンタイン前日に家出した孝太を連れて、遊園地でデートしたんだった。
あのころから比べると、この4月で小3になる孝太はずいぶん少年ぽくなった。
「はやく受験終わらせて、あきらさんに会いたいよね」
あまつさえこんな軽口さえ叩く。
「こいつ」
将は孝太のほっぺたに人差し指を食いこませた。孝太は体をよじらせて笑った。
孝太が行ってしまって、部屋は再び静寂に包まれた。
将は再び、携帯の中で微笑む聡を取り出す。聡の髪の上にある時計は21時30分を表示している。
もう最後の試験まで36時間……つまり2日もない。
……あさってから始まる試験こそ、聡との運命が決まる正念場である。
聡のために、後期試験は絶対に、失敗することはできない。
いわば最後の望みである。
チャンスはあと1回しかないのだ。
もしも。前期試験のときのように手ごたえを感じていながら、ダメだったら……。
将はふいに浮かんだその考えを振り払って、目の前の英語に集中しようとした。
しかし、目に入る一切の単語は脳に届かず、英語のまま跳ね返ってくるようだった。
かわりに、暗い想像がじわじわと将を侵食してくる。
将はその想像に飲み込まれるまいと、声に出して英文を読んでみた。
だが……一切は無駄だった。
必死で抵抗したのに、将の脳は真黒な絶望の予感にとらわれてしまった。。
心と脳がそれに占拠されたとたん……不安が血流を伝ったかのように、いままで平穏だった将の心臓は、唐突にばくんばくんと収縮を始めた。
――もし、失敗したら。
――聡とは、たぶん、永遠に引き裂かれてしまう。
将は、痛いほどの拍動と最悪の想像を止めることができない。
暗闇に飲み込まれていく聡の姿が、脳裏に映し出されるのを振り払えない。
考えてみれば……ドラマの撮影が延びていた間は、かえってその限られた合間だけしかなかったから、勉強に集中できていた。
だが今は。
真っ暗な絶望の谷間は将のすぐ背後にある……将はそこから吹き付けてくる不安に対して何も目隠しできないのだ。
将はいてもたってもいられなくなって思わず立ち上がった。
我慢していたけどやっぱり聡に会いたい。
聡に会って……一言「大丈夫」と言ってほしい。
……否、何も言わないで抱きしめて……いや、優しくみつめてくれるだけでいい。
しかし。それは無理難題であることを将は知っている。
北海道から自宅へ帰ってくるあいだ、ずっと記者やカメラマンがついてきていた。
目立たないようにはしていたけど、陰から狙っているのは、将でもわかった。
皮肉なことに、将の人気はまだ依然上がり続けていた。
そんな将がなぜ芸能界を蹴ってまで東大進学にこだわっているのか、そして受験後の復帰はないのか。
そのあたりの正確な情報を……できればスキャンダル込みで狙っているのかもしれなかった。
将はため息をつくともう一度、聡の待ち受けを見た。
金沢に行った時に撮った聡は、まだ今の運命を知らずに、明るく笑っている。
聡のためにも軽率な行動は憚られる。
だけど……なんとか、会いにいくことができないだろうか。
それともカフェかどこかに聡を呼び出して……勉強を教えてもらうふりだけでも難しいだろうか。
そうだ。
聡は教師なんだから、卒業したとはいえ教え子に、受験直前の個人授業をするのはまったく世間的に変ではないはず。
最悪それだけでもいい。
そう思って聡に連絡をとろうとした矢先。
唐突に携帯が鳴りだした。
手に持っていた携帯が鳴り響いたので、将は腰を抜かしそうになった。
井口、と表示されている。
……その名前を見た瞬間、将は目を輝かせた。
第373話 最後の望み(1)
「……それで聡さんのご様子は?」
鷹枝家の居間。いつものように毛利が報告をすべく純代と向き合っていた。
「……はい。健康的には何も問題ないとのことです」
「そう。よかったわ……それで、新しいお部屋のほうの準備は?」
将の前期不合格を告げられた聡に異変が起こるのを心配してた純代はほっとした顔になった――純代は康三になにも知らされていない。
毛利は何食わぬ顔で……康三には、聡が博史とボストンへと旅立つ準備が整った報告をし、そしてその妻の純代には将との約束がまだ生きているかのように立ち回っている。
「都内の、病院の近くにマンションを用意しました。……こちらが登記書です。万端整えてあります。あとは古城先生が入居されるばかりです」
将が後期の合格を果たした場合……聡をできるだけ世間から隠すようにして、最終的には望みをかなえてやる。
そんな純代の準備を、さもきちんと代行したかのように毛利は書類を差し出した。
「わかりました。いつも、面倒をかけますね」
……珍しくねぎらいの言葉をかけられて、毛利はほんの少しあせった。
すべては無駄になることを承知で、嘘の一環として手続きを万端に進めながら毛利はふと思う。
……家族すら、妻すら裏切って康三が守ろうとしている「体面」とは何なのだろう。
掴もうとしている総理の座とは、それで実現しようとしている国づくりとは、何なのだろう。
一瞬よぎった疑問を、毛利は手元に引き寄せることなくやりすごした。
康三のために、もっと大変な修羅場をこなしてきた毛利にとってはどうということはない。そう思いこもうとした。
「将くん、おはようー」
ロケ現場近くにあるホテルの朝食会場。
窓側の席で一人でパンを頬張る将に気づいた詩織が、くったくなく声をかけてきた。
「おはようございます」
見上げた将はぺこりと頭を下げた。
「ここいい?」
詩織はトレーを将の前の席に置いた。ヘアメイクの女性も一緒だから特に異論はない。
噂の二人とからかわれたのも最初だけで、スタッフは皆、将と詩織がなんでもないことは納得づくだ。
詩織には大学の同級生……つまり一般人と付き合っていることは、騒がれないだけで周知だったし、将はドラマの中でどんなに打ち解けても、素では詩織に先輩としての態度を崩さなかったから。
正月明けに出た週刊誌の記事は、現場ではていのよい話題づくり程度に思われていたのだ。
「将くんのラスト、今日こそギリギリで撮影できそうね」
詩織はよく晴れた窓の外を眺めてほほ笑んだ。
「はい」
今日で3月も11日。最終回の放送日まで2週間となった。
将が準主役を務めるドラマ『あした、雪の丘で』のロケも終盤の大詰めに差し掛かっていた。
将が登場するラストシーン――晴れた雪の丘のてっぺんを目指して峻が新雪に跡をつけながら歩いて行く――ほとんどそれだけのシーンが撮れずに、将は現場で待たされることになった。
ちなみに他の登場シーンはすべて撮り終えている。
詩織や主演の熟年俳優はまだ数シーン残っているが、将はその場面だけ撮ればクランクアップのはずだった。
……監督が将の受験スケジュールに気を配ってくれたのである。
「昨日は、一日勉強?」
うなづいた将に、詩織は「大変ねえ。受験とのかけもちは。スケジュール延びちゃったし」と同情する。
本来は将の撮影は早くて9日に終わる予定だった。しかし、青い空はなかなか現れず……結果、天気まちで将は2日間もここに足止めを食らっていたのだ。
もちろん足止めされている間、仕上げには余念がなかったが、それでも、今日晴れて、本当によかった。
将は心からほっとした。
あさってからいよいよ後期試験が始まる。撮影を残したまま試験にのぞむよりはずっといい。
9日の夜、将は義母の純代から前期試験が不合格だったことを電話で聞かされた。
もしも合格だったら、すぐさまメールか何かで連絡してくるだろう……それを、撮影終了まで待って連絡してくるということは……と、うすうす感づいていた将はそれほどショックを受けなかった。
試験の出来は、将としてはそう悪くはなかったのだが、それでも合格できなかった。
そんな事実に
――やっぱり東大は甘くない。
と将は再確認することになった。
電話のむこうでは純代が
「まだ後期があるから。後期の二段階選抜の合格通知も来てるのよ……前期より狭き門に合格してるから望みはあるわ」
と、受験に失敗した将に気をつかっているのがわかる。
前期の不合格に対しては、さして悔やむところではない。
しかし残り1回のチャンスへの重圧が急に増したのを強く感じた。
13日に行われる後期試験がダメだったら、聡とは……。
電話を切った将は、聡の番号を押しかけて……途中で止めた。
聡をがっかりさせてしまうこともそうだが、今聡の声をきいたら。
すべての歯止めが利かなくなる気がする。
会わずにおれないほど……せつなさがつのりそうで。
かろうじてせきとめている心細さや不安が、聡の声を聞いただけで雪崩のように崩れる予兆を将は感じずにはいられない。
――結局将は、前期の不合格をメールで聡に伝えることにした。
>ゴメン、前期ダメだった。
>もともと前期は「ダメもと」だったし、でも後期こそは絶対大丈夫だから。
>俺を信じて、心配しないで。
本当は、声が聞きたいのをぐっと抑えて、将は送信ボタンを押した。
そして最悪の考えに至りそうになる脳に暇を与えないよう、最後の勉強に没入することにしたのだ。
今年から新形式になった後期試験はほとんど、その場の瞬発的な思考力と発想にかかっていると予想されている。
(もちろんそのバックグラウンドにある知識や教養がものをいうのだが……)
だから、9日に撮影が終わろうと、今日11日まで引っ張ろうと関係ない。
将はそんなふうに前向きに考えることにして、あいかわらず実力不足を実感している英語の勉強に昨日の待ち時間をあてたのだった。
将はコーヒーを飲みながら、窓の外に目を移した。
美しい丘の町は、その白一色の起伏を、朝日の下に浮かび上がらせて果てしないようだった。
とにかく。
今日は撮影を失敗なく終わらせて、東京へ帰る。
そしてあさっては、気持ちを無にして試験に臨む。
それしかない。
将は青空の下にうねる雪の丘を眺めた。
そんな将は……聡がすでに法律上で、人の妻になってしまっていることを知るよしもない……。
第372話 後悔
「大丈夫? 聡」
空港に無事着陸したアナウンスが響くなり、傍らの博史が、顔とお腹をかわりばんこに眺めながら気遣ってくる。
「うん……。なんともないよ」
聡はお腹をさすりながら微笑んで見せた。
お腹の中の『ひなた』は飛行中も静かに眠っていた。
火曜日。
聡は萩にいる両親に、博史との結婚を報告するべく、彼とともに山口・宇部空港行きの飛行機に乗っていた。
妊娠8か月での空の旅は本来は控えたほうがよいのだが、では代わりに新幹線は、といえば長時間の振動はさらによくないようだった。
聡の体調が良好ということで早産さえしなければ、おそらく問題はないだろう、と医師のお墨付きをもらっての今日の萩行きとなった。
ちなみに今週末のボストンへの旅は、康三の指示でわざわざ医師を同伴することになっている。
博史は
「ご両親に東京に来てもらえば?」
と聡の体を気遣ったが、聡自身が萩を訪れることを強く希望したのだ。
聡は微笑みをつくりながらも、別のことが気にかかっていた。
――今日は、合格発表の日。
ドラマの撮影にさし障ることがないよう、発表は撮影が終わる夜を待って、義母の純代から将に連絡することになっている。
不合格を知ったら将は……。
『やれるだけのことはやった』。
試験直後の力強い将の声は、おそらく合格を信じていたのだろう。
それが不合格だとわかったらどれだけ傷つくだろうか。
あらかじめ電話で伝えていたものの、聡の両親は、聡のお腹を見て驚きを隠さなかった。
両親の喉を、ほぼ同時に固唾が落ちていくのを目にした聡は思わず下を向いた。
「こんなことになってしまい……報告が遅れて申し訳ありません」
博史は額を畳に擦り付けるようにして頭を下げた。
ここでも、博史の父にしたのと同じ説明を繰り返すしかない。
お盆にヨリを戻してそこで子供を授かった、という嘘だ。
果たしてそんな嘘が親に通じるのか、聡は心臓が逃げ出さんばかりに足踏みを始めるのを感じた。
そもそも、前に帰省した時、博史とは結婚しないと宣言してしまった聡である。
「それで、お正月に帰ってこなかったのね……」
母・幸代の眉が寄っている。そんなにお腹が大きくなるまで実の親に妊娠を隠していた聡を責めているのだ。
「……それで予定はいつなの」
責めながらも幸代は聡の顔とお腹を心配そうにかわるがわるに見つめながら問い返してきた。
「……5月」
「じゃあ、赤ちゃんは向こうで産むの?」
今週末にボストンへと発つことも、今伝えたばかりだ。
「……そうなると……思う」
幸代はそのまま絶句すると、傍らの大二郎を振り返った。
「ずいぶん、急なんだな」
大二郎は、渋い顔を崩さなかったが、心配そうな聡の顔をちらりと一瞥すると、諦めたように
「娘は……聡はもう大人だ。その大人が決めたことなんだから、何も言えん」
とため息とともに言葉を投げた。
「本当にすいません」
もう一度頭を下げる博史を見ながら聡は、つい想像してしまう。
もしも。これが将だったら。
本来なら、将が東大に合格したら。
こうやって頭を下げているのは将のはずだったのだ。
博史のように社会人でもなく、高校を卒業したばかり、しかも教え子にして担任を孕ませた将に……両親はどんな態度をとったのであろうか。
いや。
たとえ怒鳴られようとも。勘当されようとも。それでよかったのだ。将と一緒になれるなら……。
聡はハッとした。
この期に及んで、まだそんなことを考えているなんて。
怒鳴られて、勘当されて、世間の目から隠れるように生きる。
そんなことをさせたくないから、この道をえらんだのに。
聡は未練がましい自分の心を、引きちぎって捨ててしまえれば、と唇を噛んだ。
「……聡。去年のお正月に……博史さんとは結婚しないっていっとったやろ?」
幸代は意を決したように、人参の皮を剥く聡に問いかけてきた。
聡と幸代は……早めの夕食の支度をすべく二人で台所に立っている。
作っているのは聡の家の冬の定番である肉団子が入った鍋である。
――将も好きだった鍋であることは考えないように聡は一心に包丁を動かして野菜の皮を剥いていた。
両親は、急な報告をした聡と博史の二人に、それでも泊まっていけばいいと勧めた。
一人娘がいきなり結婚して外国へ移住すると聞かされたのだから、別れを惜しむのは当然だと言える。
だが博史は
「明日、役所で入籍しますので」
と断った。入籍と聞いた聡はびくっと肩をふるわせた。
今日、聡の両親の許可をもらって早々に入籍するのは、二人で話し合って決めたことだ。なのに。
将ではない他人の妻に……法律で定められてしまうことに、聡は震えてしまう。
「じゃあ、せめて夕食だけでも……ね。6時前に出れば大丈夫でしょう?……聡、ちょっと手伝って」
聡の様子を黙ってみていた幸代だったが、こうやって聡を台所に連れ出したのだ。
どきりと揺れる心臓にあわせて、全身がふるえたのではないかと一瞬ひやりとする。
「……あのときはそう思ったんだけど、夏に、ヨリを戻したの」
しかし何事もなかったように打ち合わせた通りの回答を明るく声にする。
「玉ねぎ、刻むね。肉団子に入れるでしょう?」
何気なさを装うために聡は幸代が持ってきた玉ねぎを取り上げると、薄皮を剥く。
「……ほかに好きな人ができたっていっちょらんかった?」
去年の正月。博史が結婚のあいさつに来たとき。聡は母の幸代に温泉で密かに
――ほかに好きな人ができたから、博史とは結婚しない。
と伝えたのだった。
聡は幸代のさらなる問いかけが聞こえなかったかのように手元を動かし続けながら、必死で答えを編み出している。
答えを考えている脳の裏側では、去年の正月、ここで将と愛を確かめ合ったことが蘇っている。
1300キロを寝ずに走って聡のもとにやってきた将。
その将に……『好きなのは将だけ』と伝えたのもこの家だった。
あのとき聡の心にいたのは将だけだった。
いや、今も。愛しているのは将だけ……。
「……ダメだったの」
思い出に押し出されて湧き出てきそうになる涙を、できる限り明るい声で吹き飛ばす。
明るい声にあわせるようにリズミカルに包丁を動かし、手元の玉ねぎをみじん切りにしていく。
「失恋……しちゃったんだ。それで博史さんがなぐさめてくれてね」
そう、本当に。聡は失恋しつつあるのだ。
振られたり、振ったりするだけが失恋ではない。
こんな風に……深く愛し合っていても実らない恋だってあるのだ。
聡は、今まさにかけがえのない恋を手放そうとしている。
自分から、将を捨てようとしているのだ。
それを自覚した途端に、耳元で将のささやきが蘇る。耳の産毛が震える感触も鮮やかに。
――アキラ。アキラ愛してる。
――俺は、アキラだけだから。
――アキラがいればそれでいいんだ……。
手放したくない……将。
「……聡?」
まな板にぽたりと涙が落ちて、幸代が心配そうに聡を見上げる。
「ごめん。……この玉ねぎ、めちゃくちゃ滲みるね」
聡は包丁を置くと、台所に置いてあったティッシュで涙をぬぐった。
「大丈夫?……聡」
背後から心配そうな幸代の声。
「うん。ちょっと滲みただけ」
思い出が、ほんの少し、心に滲みただけなのだ……。
聡は何でもなさを演出するために、さらにティッシュで鼻をかむと微笑んで見せた。
「聡」
幸代は聡の正面にまわった。
聡より背が低い幸代だから、聡を少し見上げる形で……聡の瞳を直視した。
「本当に、博史さんと結婚するんね?」
母の強い視線に聡はとまどった。しかし目をそらすわけにはいかない。
これは自分が決めたことなのだ。
将のために、決意したのだ……。
聡は母の瞳を見詰めたまま、無言でうなづいた。
「後悔は……しないんやね」
後悔。
その単語に聡の心の奥深くがことりと音をたてた。
もう……すでに悔いている部分を聡は自覚していた。
でも。
自分の気持など、二の次でしかない。
大切なのは、自分より大切な将の、将の幸せ。
そのためなら、後悔することになっても、かまわない。
そう思っているのは本心なのに。
なおも将を求める心の奥深くは、血を流しながら叫んでいる。
――将と離れたくない。
――将と別れるなら生きている意味がない。
封印していた奥底で渦巻く激しい感情は、母が口にした『後悔』という単語によって、一気に動脈を伝って心臓を激しく叩いた。
聡はなんとかそれを押し殺してもう一度強くうなづいた。
だが、瞳は。
……理性のコントロールの及ばない瞳からはすでに涙がこぼれおちていた。
「聡……」
次の瞬間、聡は母にすがりついていた。
母親を目の前にして、タガがはずれてしまったかのように。
涙はあとからあとからあふれ出てくる。
「バカな……バカな子だね、この子は」
幸代は、もはや何も訊かなかった。ただ聡の背中をそっと撫でる。
第371話 忘れ雪(5)
部屋の中に入るなり、聡は携帯電話にすがりつくようにしてメールをチェックした。
博史の前では開けることができない携帯には……やはり将からのメールが着いていた。
金曜日――卒業式以来、将は、ことさらまめにメールや電話を聡によこしている。
金曜日の夜も……北海道のロケ現場近くのホテルに到着するなり、電話をかけてきたのだ。
「この土日、アキラもこっちに来たらいいのに」
甘えた口調でそういった直後に
「……そのおなかじゃ難しいか」
と自分で納得している。その表情は聡には手に取るようにわかる。
……もう逢えない。
そのとき、聡は将のために最後の決意を固めていた。
いままで何度も同じ決意をしては、将への愛着故に崩れてきた……だけど、今回は覆すわけにはいかないのだ――。
顔を見ることは、もう一生ない……そう思うと電話から伝わる将の声は、聡をいっそう切なくさせて……聡は涙声になりそうになるのを一生懸命こらえた。
涙をこらえるべく、何気ない質問を探す。
「……撮影はいつまでなの?」
「9日か、天気が悪かったら10日までかかる」
「そう……」
9日。東大の前期の合格発表の日だ。そのことに聡の心は、再び痛む。
「合格発表は、ハハオヤに知らせてもらうことにしてるから」
まだ何も知らない将。あんなに頑張ったのに不合格だったのだ……どんなにがっかりするだろうか。
つくづく電話でよかった、と聡は思った。
もし目の前にいたら、将はすべてをわかってしまうだろう。
「もし合格してたらさ」
まだ、不合格を知らない将が明るく続けたので聡はハッとした。
「クランクアップしても、俺、東京には帰らない」
「え」
「こっそり、東京じゃないところで落ち合おうぜ。仙台とか名古屋とか」
たとえ合格しても、そう簡単に結婚させてもらえないのではないか。
それを心配したのだろう、将は二人で雲隠れすることを提案した。
「アキラももう学校休めるんでしょ。どこがいいかな」
――もうその必要はないのだ……。
楽しそうに計画を話す将に、聡は胸が苦しくなる。
「前期がもしダメでも後期があるし。後期は絶対大丈夫だよ」
沈黙する聡を、将は試験への杞憂と理解したらしい。
「……大丈夫。後期試験を受けることになっても、仕事に影響なんかさせないから。最後まできっちり『峻』になりきるし。そういえばさ、今日現場でさ……」
あまり心配させてもいけないと思ったのか、将は話題を変える。
いつものように、撮影現場での出来事を面白おかしく報告する。
そこには……ベテランのスタッフや芸達者な共演者から愛され、期待される将の姿が浮き彫りになっていた。
――大丈夫。将は……たくさんの人に囲まれている。支えられている。
だから、きっと大丈夫。
聡がいなくなっても……きっといつかはきれいに忘れられる。
>今日ホテルで、赤ちゃんを連れたファンの人にサインをした。
>ついでに赤ちゃんを抱かせてもらった。チョー可愛かった。俺らの赤ちゃんが待ち遠しい
今日の、将からの短いメールには、他人の赤ちゃんを抱いた将の画像が添付されていた。
日曜日の今日だから、ホテルの宿泊客の家族だろうか。
まだ生後半年くらいのぷくぷく太った赤ん坊を不器用そうに抱っこしながら将は歯をむき出しにして笑っていた。
『俺らの赤ちゃん』を将は、こんなふうに抱くことは、一生ない……。
だけど、それでいいのだ。
携帯を閉じた聡は、夕闇をカーテンで隠そうとして、窓の外に舞うものに気づいた。
ぼってりと暗い雪雲は、ついに3月の雪を落とし始めたのだ。
聡は思わず窓をあけて、手をかざしてみる。
雪は羽のようにひらりと舞って聡の手の上に落ちた……とたんに解けて、あとかたも残らなかった。
……はかない。
聡は手の上に、たしかにあった雪の姿を思い出そうとした。
だがそれは、もはや、おぼろげにしか浮かばなかった。
自分たちの恋も……こんなふうにはかないものなのかもしれない。
聡はわざとそう思ってみる。
しかし雪は、それに抗うべく、確かに経験した二人の思い出を連れてきた。
あの、雪に閉ざされたニセコの頂上を。
雪の中、腕をからませて歩いたクリスマスを。
あのとき、雪は二人を包んで……解けてしまうことなど未来永劫ないように思えた。
二人には甘く懐かしい思い出が、今の聡には、せつなすぎて息もできないほど苦しい。
だけど。
そんな雪の思い出も……いつか解けてしまうのだろうか。
将への……断ち難いこの思いも……解けて消えてしまうのだろうか。
この痛いほどのせつなさも……感触すら思い出せないほど淡い記憶になってしまうのだろうか。
そんな日など、果たして来るのだろうか。
暮れゆく空から無数に舞い降りてくる雪。
そのひとひらひとひらに将との思い出を散華させるべく……でもできなくて。
聡はただ雪を見つめて窓辺に立ち尽くしていた。
夜。
聡との電話を切った将は、なんだか胸騒ぎがするのを感じた。
ちなみに金、土、日と、このところ毎晩寝る前に必ず聡に電話を入れている。
聡の様子がおかしい。
どこか寂しげというか……変だ。
金曜日の……卒業式のあとのパーティからずっと感じていることだ。
そんな聡が、将を心配させないようにと、なんでもないようにふるまっているのも、わかっている。
だけど……聡が取り繕えば取り繕うほど……はかなげなほどの寂しさが却って浮き彫りになるようだった。
卒業したことで、学校ではもう逢えないからだろうか。
……将がもし不合格になれば、このまま二人は引き裂かれてしまう。
そんな心配が身近になっているのだろうか。
合格が盤石というわけではないゆえに……心配をさせてしまう自分が、将は歯がゆかった。
将はベッドを下りると窓辺へ近寄った。
あけたカーテンの形に、降りしきる雪が切り取られて浮かんだ。
『東京も、今日は雪が降ってるよ』
さっき、聡は言っていた。
『これが止んだら、きっと暖かくなるね』とも。
大丈夫。今を乗り越えれば、二人にも春がやってくる……。
そう伝えられれば。
できることなら、今すぐ飛んで行って抱きしめたい。
「大丈夫だよ」と耳元で囁けたら。
東京に降りしきる雪の下で眠る聡とそのおなかの子供のことを、将は3月の雪の中に思い浮かべる。
第370話 忘れ雪(4)
「さきほど古城先生から連絡入りました。……決心されたそうです」
毛利の報告に、康三は手元の法案関連資料を読む目を一瞬止めた。
国会も忙しいこの頃、康三は土曜日の朝から事務所に来ている。国会が開催される平日にはできない雑用が山のようにあった。
「そうか……。それで、いつ出発すると?」
すぐに資料の続きに戻りながら、肝心なことを訊き返すのは忘れない。
「来週の土曜日、13日に発つそうです。……将さまの後期試験が終わるまでは、すべてを伏せておきたいとのことです」
前期試験に不合格だった将は、13日に行われる後期試験に最後の望みをかける。
将がそれにチャレンジするのを見届けて聡はアメリカのボストンへ博史と共に旅立つというのだ。
東大に受かろうと落ちようと、もう二人の行く末は別々のものだと決まってしまっている。それを敢えて望みがあるようにふるまうのは。
「そうか……」
康三は理解した。
聡はせめて最後に、なんとか将を東大に合格させてやりたいのだろう。
それが……将を裏切る形になる聡の、教師としてのせめてもの、愛の証なのだろう。
康三は少し胸が痛むのを自覚した。
これほど、将の幸せをだけを考えることが出来る女。
そしてその女のために立ち直り人並ではない努力をなしとげた将。
そんな二人を引き裂くことへの罪悪感が康三の心にヒリヒリと沁みる。
――タイミングが悪かったのだ。
――人には立場というものがある。
教師という立場にありながら、教え子を愛するからいけないのだ。
よしんば、愛は許されたにしても。
せめて教え子が社会的に自立するまで、どうして待てなかったのか……。
康三は自分に言い訳する。
言い訳をしながらも、次々と不安材料は湧き上がってくる。
将は……聡を失ってどうなるのだろうか。
下手をすれば、また荒れてしまうのではないだろうか――。
歯止めとなる巌も……もはやこの世にはいない。
資料を読もうとする康三だったが、内容は脳に入らなくなってしまった。
――いや、大丈夫だ。
康三はついに資料をデスクの上に置いた。
聡が、将を捨てるのだ。
すべては聡を恨むようにしむければいい。
康三や純代ら家族は……将に同情的な立場をとりながら、心を癒すよう努力すれば、前のように荒れることはない。
それに、将はまだ若いのだ。
一人の女に裏切られたとしても、すぐまた別の女に心惹かれるに違いない。
康三は自分を無理やり納得させようとしたが、心の歯車がかみ合わず……ついに若い秘書官にコーヒーを頼むとため息をついた。
「お母さん、聡さんが博史と仲直りしたんだよ。……赤ちゃんもお腹の中にいるんだよ」
博史の父・慎一は墓に語りかけた。
そして、ぜひ見せてあげたかった……と、ハンカチで目頭を押さえた。
前に会った時よりいっそう白髪が増えているその姿を見て、聡は胸が痛んだ。
日曜日の今日。
聡と博史は、慎一に報告がてらレストランで昼食をとった。
その後、墓の中にいる博史の母・薫に報告するべく、彼岸には少し早い墓参りとなったのだ。
今日は卒業式の日と打って変わってぐっと冷え込んで、墓の前にいる博史も聡も慎一もコートを着込んでいる。
どうやら強い寒気が流れ込んでいるらしい。夜には雪になるのかもしれない。
「桜のつぼみもこごえちゃうねえ。……桜が咲くのを見てから出発すればいいのに」
慎一は二人に向かって微笑みかけた。
そんな風に……急に老け込んだ父を博史はかばうように促した。
急な聡の妊娠報告に、急な博史の留学――博史は会社を辞めて、ボストンにある工科大学の大学院にこの秋から社会人入学することになっていた……もちろん康三の力である。
『お盆に帰国したときにヨリを戻してそのときに子供も授かったのだが、薫の死もあり言いにくくて隠しているうちに、博史の留学が持ち上がり……それで間際まで言いそびれた』
そんな取り繕った言い訳を、一気に老け込んだ博史の父は、まるで疑おうとしないのだ。
ただただ、
「そうか。そうか。よかったな……」
と目に涙をためるのみだった。
「あきらさん」
別れ際に慎一は、深々と頭を下げた。
「博史を、よろしくお願いします」
この人のよさそうな紳士をも、騙しているのだ……。
息をするのですらためらうほどの罪悪感に押しつぶされそうな聡は、何と返事をしたか覚えていない。
今後……ひなたが生まれた後も、ずっと同じ罪悪感に責められるであろう……聡はそれが自分に与えられた罰の1つだと受け容れるしかない。
「聡……きいてる?」
気がつくと、博史と二人、タクシーの中にいた。
慎一と別れた後、寒いからとタクシーを拾ったことを思い出した。
低く雪雲が垂れ込めた空は少し暮れかかっているようだ。
「……ごめん、何?」
「夕食はどうする?」
「……昼ごちそうを食べたから、うちで簡単に済ますわ」
「あきら」
無理に笑顔をつくった聡に、博史は真剣な顔で向き直った。
「俺に……気をつかうなよ」
いつのまにか、『僕』という呼び方が、『俺』に戻っていることに聡は気付いた。
昔からそうだった。パブリックな場所では『僕』、二人きりのプライベートな場所では『俺』。
どうでもいいことが気になるのは、二人の関係が昔に戻っていくことを、心の奥深くでは、まだ恐れているのだろうか。
将を捨てて……昔の男に戻ることを。
せつなくなった聡は、小さく微笑み、小さく頷くしかない。
「俺は」
博史はさらに細い目を見開くようにして、続ける。
「俺は……負担でも、なんでもないんだからな。……夫婦になるんだから、何でも言えよ。つらかったら頼ってくれよ」
優しい。
そうだ。博史は昔から優しかった。
頼りになる年上の男――。
自分を包み込んでくれる……。
「ありがと」
だけど聡は涙を必死でこらえていた。
泣いてはいけない。涙を見せてしまったら……博史は自分を抱き寄せるだろう。
まだ。
将を裏切りたくない。
もう逢えないけれど。一生顔を見ることも許されないけれど。
13日、後期試験の最終日までは……将を励まし、力づけたい。
将がせめて……東大に現役で入れるよう。
最後のチャンスに最高のコンディションで向かわせるべく。
北海道にいる将からのメールや電話に……聡は何事もなかったかのようにふるまっていた。
将が東大に受かりさえすれば、二人の結婚が許可されるという、最初の約束が有効であるかのように……。
第369話 忘れ雪(3)
「センセ。何、っボーっとしてんの」
ハッと顔をあげた聡の目に、懐かしい将の笑顔が飛び込んできた。
卒業パーティは1組の生徒と合同かつ在校生も出席可能なため、かなりの盛り上がりを見せていた。
色鮮やかな光が入り乱れる中、音とたわむれるように体を揺らす者、ボックスで笑いあいながらおしゃべりに興じるもの。
皆、制服を脱いで私服に着替えてきているせいか、言われなければこれが高校生ばかりだとは思えない。
おそらく、アルコールがないだけで、ふだんの営業どおりのクラブの姿に近いだろう。
その中にいた将が、いつのまにか聡の目の前に立っていた。
将目当てでこの場に参加した下級生の女子なども多いらしく、注目が集まるのがわかった。
将のその顔を見ただけで、目の奥が熱くなりそうになるのを……聡はぐっと堪える。
将は注目などなんでもないように、あつかましくも聡の隣にいた女生徒を押しのけて隣に腰掛けた。
女生徒からのブーイングを
「もう、俺、行かなきゃいけないからさー」
と軽くいなして、将は聡の顔をのぞきこむようにした。
行かなきゃいけない。
その言葉に聡の心臓は人知れず大きく振動した。
将のために。決心してしまった聡。
決心してしまったら。
今が、将との……永遠の別れになる。おそらく。
そんなことなど何も知らない将は、聡にさりげない言葉を掛ける。
「体、大丈夫?」
その瞳の中で、ライトがくるくると万華鏡のように煌いている。
……聡だけに向けられる優しい瞳。
別れたくない。離れたくない。離れられない……。
泣いてすがりたい衝動を聡はぐっと押し込めて、頷いた。
決意は必ず下さなくてはならないのだ。
わかっている。
「そういえばさー」
聡の様子にまるで気付かない将は、聡の隣でソファーの背に寄りかかった。
熱い体温。聡の血液の中の鉄を体の片側に一斉に集めてしまうような将の磁力。
顔をみなくても、気配だけでもいとおしい……将。
このまま将の肩にもたれかかりたいのに、許されない自分。
もう一度、最後に……将に触れたい。
将の肌に触れたのはいつが最後だっただろうか。
聡が記憶を遡っているとも知らず、将は『世間話』を続ける。
「センセーの、お腹の赤ちゃんって、男?女?……そろそろわかるんでしょ」
ごぼ。
お腹の中で『ひなた』が反応する。
この子にとっても実の父親とはこれが最後なのだ。
一生、顔をあわせることのない父親……。
将は、いつか自分のことも、ひなたのことも、まったく忘れるのだろうか。
将の中で自分の重みがまったくなくなるとき。
そんな日は未来永劫、来ないほうが自然だった。
将は去った自分を探すだろう。……あるいは待つだろう。
いいや。
聡は、そんな考えを振り払う。
いつまでも自分への思いをひきずってもらっては困るのだ。
将の幸せのために、将から離れるのだから。
だけど……将が自分を忘れる日を想像した聡は、心の奥から狂おしいほどの悲しみが湧きあがってくるのを必死でこらえる。
「ナイショ」
聡は心を隠してそっけなく呟いた。
どうせ忘れてしまうなら……お腹の子のことはできるだけ知らせない方がいい。
聡はそう思って、ひなたが将の望んだ女の子だったことを隠した。
「ちぇー」
将はわざとらしく大声を出した。
「ま、生まれたらわかることだけどぉ」
「センセーってば、ウチらにも絶対教えてくれないもん」
チャミが甲高い声で口を挟む。
「ダンナさんにもナイショなのー?センセ」
カリナの問いに、聡はうなづく……口の端を上げるだけでせいいっぱいだった。
『ダンナ』が暗に自分を指していると思い込んでいる将は、聡にだけわかる笑顔を向けてきた。いかにも嬉しそうだ。
その笑顔に聡は激しいせつなさを感じ、思わず目をそらした。
だけど。これでもう最後かもしれない。
脊髄反射のように、聡の視線はゴムひものごとく将に戻っていく。
将は聡とたしかに視線があわさったのに満足したのか立ち上がった。
「じゃ、俺、そろそろ行くわ」
「えーもう?」
その場にいた同級生から声があがる。
「だって、最終便8時なんだもん」
「何、ドラマ?」
「そーそ。最終回が残ってるし」
ドラマ、という単語に、聡は将の才能の1つを思い出す。
元倉亮脚本によるドラマは、視聴率こそ13%台と地味ながら、一定の評価を得ていた。
『峻を演じる鷹枝将の、哀しい過去を暗示しつつの爽やかな演技は、まだ10代だとは思えない存在感がある。このドラマを最後に俳優は休業ということだが大変惜しいことだ』
聡は最近見た新聞のドラマ評と共に、将が雪の中に立ち尽くすドラマのワンシーンを思い出す。
それはたしかに胸を打たれる姿だった。
将本人の過去を知らずとも、同じような感慨を視聴者に与えられる力量を、その記事は示していた。
その記事を見たとき、聡は、嬉しさと共に、そこまで素晴らしい将の才能の一つを自分のために捨てさせることにおののいたものだ。
だけど、それも。
聡が将から離れれば。将はその才能を無碍に捨てる必要はなくなる。
華やかな才能はいつか芽吹いて花を咲かせる日もあるかもしれないのだ……。
「……じゃ、センセ」
その声に、聡の体はびくんと震えた。
将は、聡の傍らを立ち上がると、再び聡を見下ろした。
――いかないで。
……もちろん聡の喉は渇いて貼り付いてしまったかのように声が出ない。
聡の心から流れて行きそうな柔らかくて熱い部分を冷静な理性が必死で固めている。
「合格発表の結果は連絡するから」
――不合格、だったのだ。
そんなことを伝えることもできず、聡はただせつなく将を見上げる。
理性は声帯を凍りつかせるのがせいいっぱいで。何度もまたたきをして涙は押し留めているものの、せつない思いが瞳からほとばしり出てしまうのを聡は止めることができない。
それに、今年からより難しくなったといわれる後期で、万が一合格したとしても。
二人の運命はもう決まっているのだ。
いや。
聡は決めざるをえないのだ……。
そのとき。
将はすっと手を差し伸べた。
一瞬、すべてを知っていた将が、自分を連れてどこかへ飛び去ろうとしているのかと、聡は大きく期待した。
しかし、その指のクラシックな揃え方で、聡は瞬時にその期待がありえないことに気付く。
将は生徒として、恩師に握手を求めているのだ。
聡はせつない視線を制御できないまま、立ち上がると、将の求めに応じて、握手を返した。
熱い、将の掌。
それを知ったのは、まだ聡が将の担任になってまもない頃の……たしか夜の港だった。
ふいに握られた手を通して、将の血潮が流れ込んでくるような感覚。
博史という婚約者がいながら、それは聡にとってちっとも嫌な感覚ではなかった。
むしろ心にありえないほどの温かさを感じて、聡は素直にそれを握り返したはずだ。
あのときから将は聡にとって、かけがえのない存在であると自覚したのだ。
今、聡はそのかけがえのない愛を手放そうとしているのだ。
この手が離れたら。
それこそ、最後。
離したくない。
離さないで……。
聡の願いもむなしく、握り合った手は、あっけなくほどけていた。
聡の掌に、熱い感触のリフレインを残して。
それは、誰が見ても自然な握手だったのだ。
「じゃあね。センセ」
――行ってしまう。
これが将と最後の邂逅だとわかっているのに、聡の体は凍り付いたままだ。
笑顔の将がゆっくりと、後ろを向く。
瞬きさえ惜しいのに……涙を堪えるために、聡は何度も瞬きをしなくてはならない。
大きな荷物を抱えてフロアの皆に小さく手を振りながら、将が遠ざかっていく。
それは、聡無しで将が羽ばたいていく姿のように、聡には見えた。
――行かないで。
感情はあいかわらず叫んでいる。だけど
――どうか、幸せになって。
それを凌駕する強い祈りが聡を立ち尽くさせていた。
千々に乱れた聡の心中を知ることなく、将はついにドアの向こうに消えた。
ドアの向こうに雲ひとつない未来が広がっていることを。
願った聡の瞳からは、とうとう大粒の涙がこぼれ落ちた。
第368話 忘れ雪(2)
「……聡。聞いてくれ」
闇に閉ざされた聡の心を知らない博史は、身を乗り出すようにして聡に語りかけてきた。
その真摯さは顔をあげられない聡にも伝わった。
……だが、聡の視線は博史のカップより上にあがらない。まるで将が引き止めているように。
「君が僕から離れて……いなくなって初めて気付いたんだ。僕の中の君の大きさを」
いなくなって。
そんなことを言っても。聡は心の中で反駁する。
留学から帰って以来、聡が博史と逢えたのは、年に3回だけ。
博史にとって聡など、いないほうが日常だったんではないか。
終わった恋にここまで辛らつになれる自分の冷静さに聡は呆れる。
「確かに、僕達は年に3回しか逢えなかったけど……。僕の帰りを待っている聡がいないのは……しみじみ堪えたよ」
……まるで聡の心が見えるかのような博史に、聡は思わず視線をあげてしまい……それは強くて太い博史の視線にからめとられてしまった。
博史はそれを待っていたかのようだった。
「聡。僕は、君をきっと幸せにする」
聡はおびえて唾を飲み込んだ。
抵抗するように、博史の声音のどこかに軽軽しさを探そうとしたが、無駄だった。
博史の声は、聡の人生を引き受ける覚悟に満ちていた。
博史の視線は、聡への愛情で、拒否しようとする聡の皮膚にさえしみこんでいくかのようだった。
ありえない。
聡はなおも思う。
自分を幸せにできるのは将、ただ一人だけ。
聡は博史の愛情を受け止めてしまいそうになる自分を許せなくてすぐさま視線を下にそらした。
そのとき、ぐるりとお腹の中の『ひなた』が聡の中で動いた。
皮膚から沁み込んだ博史の視線が血液を通ってひなたに到達したのだろうか。
そして、それを恐れたのだろうか。
「形式だけでいいんだ。……お腹の子供のためにも、僕と結婚してくれ」
それをも見えたかのように、博史は『ひなた』のことを口にした。
――お腹の子。ひなた。将の残した大切な赤ちゃん。
もしも。
将の幸せのために……康三の申し入れを受け容れるなら。
将と別れるならば。
それを考えるだけで、張り裂けそうになる心を堪えて、聡は……一歩先を……『ひなた』のことに考えを進めてみる。
将と別れるならば。
『ひなた』は父を知らない子になる。
将が父であることも……おそらく口にすることは禁じられるのだろう。
生まれたときから、父なし子。
シングルマザーが多い現代だとはいえ……愛するわが子に、お前は両親の愛の結晶なのだ、二人が待ち望んで生まれたのだ……それを伝えられないのはどれだけ悲しいことだろうか。
一度動き出したひなたは、お腹の中で、ごぼごぼと動き続ける。
『お腹の赤ちゃんは、お母さんの心がわかるんですよ』
いつか医師が言っていた。
ひなたは……自分を父なし子にしないで、と必死で体を動かしているのだろうか……。
「生まれてくる子は、僕の子だ」
聡は再び顔をあげた。
博史は澄んだ瞳で聡の瞳が戻ってくるのを待っていた。
「聡が産む子は、僕の子だ」
……違う。『ひなた』は……将の。将の。
――将に似た子がほしい。
それは聡の願いだった。
大きいのに鋭い印象の、強い瞳は聡を見つけると和らいだ。
強い意志を示すような眉は照れて笑うと驚くほど角度を変え。
少女のように愛らしい唇は、涙を堪えて歯を食いしばるとき凛々しい男になった。
きっと聡は……生まれ出た『ひなた』のあちこちに将の面影を探すに違いない。
将の断片が成長する姿を楽しみにするに違いないのだ。
「子供は、絶対に可愛がる。僕は……きっといい父親になるよ。できる限り、いい教育を与えるよ。……聡?」
博史が心配そうに聡をのぞきこんだ。
知らないうちに聡は、涙を流していたことに、今気付いた。
聡の中ですべてが遮断していたのだ。
――将。
ひなたのために、将のかわりに……博史をあてがう。そんなことがいったいできるのだろうか。
将を忘れて、博史を愛する未来は訪れるのだろうか。
かつては、逆だったのに……ひとたび考えて聡はなおも否定する。
逆だったのではない。
将と出会っていなかったから。
将を知らなかったから……なのだ。
いったん将を知って、愛してしまったからには……もう博史の元へは戻れない。
「……鷹枝くんのことは」
聡の涙から察したのか、博史は、将の名前を舌に乗せる。
それはいかにも苦そうに……博史の顔が一瞬歪む。
「……聡が、忘れられるまで、ずっと……待つよ」
……じゃあ、一生、忘れられなかったら?
聡は即座にそう問い掛けたくなる。
だが、一瞬苦しげに歪んだ博史の瞳は、次の瞬間、光を放って輝いた。
「聡、頼む。……僕を利用してくれ」
利用。利益のために、用いる……聡にとっての、一方的な打算。
そんな風に結婚を申し出て……博史は、それでいいのだろうか。
聡は、涙をぬぐいながら、かつてのクリスマスを思い出す。
あのとき……博史は、余命を宣告された母のために、結婚を早めようとしていた。
子供も早くつくって孫の顔を親に見せたいと言っていた。
それは親の残り少ない人生を、少しでも喜ばせたい、きれいな打算だった。
そんな打算を頭では理解しつつも……今考えれば、聡の心が博史から急速に離れた原因にもなったと思う。
だけど、今回は。
聡の事情のために……博史は自らの人生を投げ出してもいいというのか。
「聡のために生きさせてくれ」
博史はなおも訴える。
その見開いた細い瞳に、聡はあることを思い出す。
思い出したとたん、心臓がぎゅっと収縮し、動きを速める。
博史によく似ていた……博史の母・薫。
クリスマスに余命1年だといっていた。
『一緒にカナダの紅葉を見に行きましょうね……』
優しい声が、たった今聞いたように蘇る。
「あの……」
涙を拭った光沢のあるナプキンを置くと、聡は思い切って問い掛けた。
「お母……様は?」
聡からのひさびさの返答に、いったん表情を和らげた博史だったが、その問いは予想外だったようだ。
何回かまたたきをすると、とっさに目を伏せる。
控えめながら……ふいに噴出しそうな悲しみを、隠すような博史の瞼の動きに、聡は答えを聞く前に、おおよその答えがわかってしまった。
「……亡くなったよ。去年の4月に」
聡は、ああ、と声をあげそうになるのを必死で止めて……大きく息を飲み込んだ。
2年前の11月の時点で余命1年といっていたはずなのに。
それを待たずに……ずっと早くに博史の母・薫は逝ってしまったのだ。
――自分のせいだ。
聡は……息ができなくなった肺を心臓が責めがごとく圧迫するのを感じている。
「聡のせいじゃない」
凍りついた聡の顔を見て、博史が助け舟を出す。
「あのあと、一度よくなったんだ。……花見にも行けたんだ。だけど桜が散るなり……急に悪くなって……再入院して2週間でダメだった。……聡のことは関係ない」
博史の口調は、淡々としていた。
それは……強い悲しみが、ようやく乾いた痕跡ゆえということに聡は気付いている。
聡の頬を涙が再び伝った。
きっと、きっと、自分のせいなのだ。
あの優しいひと……薫から生きる希望を失わせたのは自分だ。
そうでなければ、余命1年が……半年近くも短くなるはずがない。
――きっと、自分はいつか罰を受ける。
聡は強く予感した。
第367話 忘れ雪(1)
「あ、センセーだ」
会場となった小さなクラブに、聡が到着したとき、卒業パーティはすでに始まっていた。
クラスメートの声に、将が一瞬こちらを見る。
だが、すぐに興味なさそうに瞳をそらす。
……二人の関係が露見しないための演技が、将は巧くなった。
「センセー、こっちー!」
女子生徒に呼ばれてそちらへ向かいながらも、視線の端が引っ掛かったように、将を意識している。
「じゃ、先生も来たことだし、もう1回乾杯しようか」
さりげなく将が提案するのが聞こえる。
皆、異論はなく、ジンジャーエールやコーラが入ったグラスを持って立った。
「センセー、乾杯の音頭取ってよ」
なにくわぬ顔をして促す将に、聡は微笑みながら、グラスをとった――。
微笑みは意識してつくったものだ。明るい声は必死で絞り出したものだ。
――本当は、ここに来る力も残っていなかった。
あの高級レストランから自宅へ送ってもらった聡は……さっきからの一連の出来事に、激しく磨り減った神経を感じて床にへたりこんだ。
重い袴と一緒に体の芯が抜けてしまったように、そのままそこから動けない。
だけど。
もしかして、これが将の顔を見ることができる最後かもしれない。
康三の申し入れを受け容れるなら、将とはもう二度と逢えない……。
体はあいかわらず床に倒れこんだまま聡は、瞳をあげた。
将に会いたい。これが最後だとしても。最後に一目だけでも。
その思いだけが、聡をここに連れてきたのだ。
3時間ほど前。
さっきまでいた康三に代わって、聡と対峙しているのは博史だった。
康三は、聡のお腹の子供の父親として……そして聡の夫として、かつての婚約者・博史をあてがおうというらしい。
彼は、いったん博史に待合ラウンジに戻らせると、あらためて聡に向かい合った。
「無理強いはしません、ですが」
その瞳は、親として自分の子供の未来を考え抜いた気迫に満ちていた。
「将のためにも……そして、あなたのためにも、これがベストだと信じます。よく彼と話し合って……できるだけ早く、旅立っていただくことを願います」
将のため。
その言葉で、すべての拒絶も反論も封じられて……聡は動けなくなった。
ほぼ1年ぶりに向かい合う博史の顔を……聡は正視できずに俯いていた。
今、給仕によって新たに置かれたハーブティのカップの中に、かける言葉を探すこともなく、聡の頭の中は空白だった。
いや、正確には空白ではない。
康三の……「将のために」という言葉だけが、すべてのシナプスにリフレインするように頭蓋の中に響き渡っていた。
将の未来に垂れ込める暗雲は聡自身――。
それは、聡も……ずっと前から自覚していながら、どうすることもできなかった。
わかっているのに。
聡の心が将を欲していた。将を必要としていた。
将の明るい未来へとつながる道筋を示しつつ……聡とその子供についても不義理はしないと約束した康三の具体的な案。
それを受け入れるべきなのは、とうにわかっている。
だけど、聡の心は……心の一部だった将を、今まさにえぐりとられるべく、血を流していた。
将のために、将の前から消える。
だけど将を失いたくない。
聡の中で、理性と感情はまっぷたつに割れて……それらが乖離した空間に、「将のために」というリフレインががなりたてる。
対峙する二人の間の、重い沈黙を最初に乗り越えたのは博史だった。
「……驚いたよ。こんなことになってるなんて」
『こんなこと』が何を……どこからどこまでを指しているのか、わずかに残った思考力では判断がつかなくて、聡の唇は動かない。
ただ、そのいたわりさえこもった口調で……博史はどういうわけか、聡を責めているのではないことだけが伝わった。
だが聡の瞳は、少しずつ冷めていくハーブティから浮上することはない。
博史の顔を見ることなんてできない。
かつて聡が彼にしたことを考えれば、のうのうと博史に声をかけるなどできないし……、それに博史と言葉を交わすそれだけで……聡がいまから行う将への裏切りの幕あけになるに違いないのだ。
「女の子だって?お腹の……」
将も知らないお腹の子の性別を……どういうわけか博史はすでに知っていることに、聡の胸はズキリと痛んだ。
それで、わかった。
レールは完成しているのだ。
そしてたぶん、そのレールから逃げることは許されないのだ……。
聡は奥歯をただ噛み締めるしかない。
「……乱暴な、話だと思うだろうね」
そう。乱暴な話なのだ。
別の……博史を裏切るきっかけとなった男の子供を孕んだ、前の婚約者。
そんな女と復縁して、自分とは何の関係もないお腹の子供の父親になれという、博史にとっても荒唐無稽この上ない話。
それなのにどうして、そんな穏やかな声を自分にむかって差し出すのだ……。
「だけど。僕は」
博史は、俯いたままの聡にかまわず、穏やかな口調のまま続ける。
「これも運命だと思う」
運命。
その強い単語に聡は顔をあげた。
博史は……これ以上ないほど真摯で温かい瞳を聡に差し出していた。
だけど、その温かさは聡を逆に怯えさせ、聡の視線は再びティーカップの底へ沈んだ。
その温かさを受け取ってしまったら。
受け取った、そのときから、将を本当に失ってしまうのだ――。
それに運命は……。
『アキラ……。やっぱり俺たち、こうなる運命だったんだ』
聡の耳元で、たった今囁かれたように――博史の言葉より鮮烈に――蘇ったのは将の声だった。
思いがけず妊娠して、動揺する聡に、将は力強く囁いたあのときの将。
運命。
そんな重い単語で、自分と結びあわさるのは……やはり将ひとりしかいない。
運命のひとは……将、一人だけ。
将だけなのだ。
「将のため」のリフレインはいつか、聡の記憶の中の将を、花火のように次々と花開かせた。
あどけなさが残る笑い顔も。
大人ぶった流し目も。
涙を堪えて歯を食いしばった苦しい顔も。
寂しげな背中も……みんな、みんな聡が愛した将だ。
そして。
あの、将が好きな夕陽の海。
宇宙に投げ出されたかのようなニセコ山頂の星空。
雨に打たれてずぶ濡れで歩いた森の匂い。
腕をからめて歩いた雪の中。
将を思い出すとき、聡の中には将にまつわる鮮やかな風景、そして音色、ぬくもりや風の感触、匂いまでもがいっぺんに蘇る。
すべては、将がいなければ、振り返ることもできない、意味もない日々。
そんな鮮やかな思い出ごと……将を捨てられるのだろうか。
将なしで……生きていく意味があるのだろうか。
壁紙を温かな色に染めて、午後の光が差し込んでいるにもかかわらず。
聡は将のいない、暗澹たる未来を思って、震えた。
第366話 卒業(8)
みな子を乗せた新幹線がいってしまった。
将は、軽くため息をつくと、今一度、ホームの上に見えている青空の切れ端に目をやった。
昼下がりのそれは春霞に少し白んで見えるようだったがかえって眩しいようだ。
将はホームを階段に向かって歩きながら、自分の心に新しくあいた穴の感触を確かめている。
その穴は、自分が思っていたよりずっと大きかったことに将は驚きながらも、みな子との日々を振り返る。
思えば、聡のカモフラージュ役を引き受けてくれたみな子は……、大悟を失った将にとって貴重な『友人』だった。
――友人か。
友人ってなんだろう。
井口やカイトは……一般的に友人といえるやつらだろうけど、離れ離れになってもこんな風に心に穴はあかないと思う。
離れても、失ったわけではないと思うから。
そう。将は、みな子を失ったのだ、ということに気付いた。
なぜなら今まで、こんな風に心の一部が抜け落ちたような経験があったとすれば。
ある日突然、死んでしまった瑞樹。
病院に無理やり連れて行かれた大悟。
100年の人生をひっそりと終わらせたヒージー。
……皆、将に予期する暇も与えずに、手の届かないところにいってしまったひとばかりが思い浮かぶ。
みな子も……おそらく、将の手が届かないところに去ってしまったのだ。
帰りは、久しぶりに山手線に乗ってみることにした。
真昼間だというのに、山手線のホームは雑踏のようなのは、将が芸能人になってここから遠ざかっていた間もかわらないらしい。
入れ替わり立ち代りに列車から人が吐き出され、乗り込んでいく。
すれ違う人が……無視するようなそぶりを見せながら、将に注目していることがわかる。
電車に乗りこんだ将は、人々の注目を、耳からこめかみの皮膚に感じつつも……ドアに寄りかかって窓の外をぼんやりと眺める。
工場と住宅と市街地が入り混じったカオスな風景は、春の陽射しの中にやや霞んでいる。
その下で活動しているたくさんの人々の熱気が放射されたように空もろとも白っ茶けている。
こんなにたくさんの人が生きている中で。
ほんの少しでも、将の寂しさを埋め、心に温かさを与えてくれた人々。
それが……一人ずつ手の届かないところにいってしまうことが、今の将は寂しい。
そんな、人と人との邂逅をいとおしむ自分に、将は少し驚いている。
昔……2年ほど前まで。……人は、人付き合いは。あぶくのようにその場で発生し、消費するものだった。
夜な夜な遊びにいって……その場の楽しさだけを共有する。
一夜明ければ、顔も名前も覚えていない「トモダチ」の多く。
互いに抱えるどうしようもない問題と、虚しく過ぎてゆく時間をなかったことにできれば上々。
そんな自己都合の……うたかたのような「トモダチ」、「カノジョ」を消費していく毎日。
それを大転換させたのは。
『先生が、一番大事なんでしょ……』
みな子の声が蘇る。
みな子の言ったとおり、聡そのひとだ。
聡だけは、離れられない。絶対に。
将は、カーブした列車に遠慮なく降り注ぐ春の陽射しに思わず目を細める。
もしも……聡がいなくなったら、心に穴があくどころではない。
自分の存在意義さえ、見つけられなくなってしまうだろう。
聡がいなければ、生きられない……。
それを思い出した将は心の中で聡に詫びていた。
みな子への思いやりとはいえ、『聡がいなかったら』なんて口に出してしまったことを。
聡がいない、という仮定は、今の将にはありえないのに。
聡がいなくなったら――。
来週、月曜には前期試験の発表がある。
もし不合格だったら、同じ週の週末に後期試験が行われる。……それももしダメだったら。
将は一瞬よぎった暗い考えを、無理やりどこかへ押しやる。
――全力は尽くしたのだ。
――きっと大丈夫。自分は合格して、聡と二人で幸せになることができる。
将はカオスの街に降り注ぐ陽だまりに聡を思い描いた。そして、信じるしかない。
聡がいるこの現実の世界が、このままずっと続くことを……。
聡の中で、時は、止まっていた。
呼吸をするのも忘れ、血流すらも止まってしまったよう。
あるいは、この瞬間がいつか来ることを、聡はずっと前から知っていた気がする。
康三と対面したときには、はっきりと予想していた。
いや……将の子供をみごもったときから、予期していた。
もっと前……将に惹かれ出した頃から、かすかに予感していたのかもしれない。
「ひどいことを言っているのは、百も承知です。……本当にすまない。いや、……すみません」
将と別れてくれ。
聡に懇願する康三の苦しげな瞳に、罪悪感と……聡へのいたわりがよぎっていくのを見て聡は自分が涙を流していることに気付いた。
「ですが……あれの、将来のためを思ってのことなんです」
康三は苦しい表情のまま、さらに訴える。
「担任の先生を……卒業前に妊娠させた、という事実を……世間が許すはずはない」
聡は……本当はずっとわかっていた。
将の未来にとって自分の存在こそが暗雲になりえることを。
わかっていながら……薄氷を踏んでいる自覚がありながら……ここまで来てしまった。
あまりに強すぎる将の愛情に、目くらましをかけられたように。
その目くらましは、とてつもなく幸せな日々を聡にもたらしたのだけれど。
「本来なら……こんな風にお願いするのは、半年前にすべきだった。はんぱな親心から、あれの我がままを受け入れてしまい……、その結果、あなたにこうしてひどいことをお願いする羽目になってしまいました。本当に申し訳ない」
康三はさらに苦しげ眉をゆがめると、再度頭を下げた。
ぐるり、とおなかの中で「ひなた」が動いた。
自分は本来消される命だった――そんなことを感じ取った「ひなた」が聡のお腹にしがみついたのかもしれなかった。
そう……育ち始めた「ひなた」をお腹に感じるようになってからは。
母性のおもむくままに、この子を殺すことなど考えられなくなっていた。
聡は涙で濡れた下瞼を指先でなでるようにぬぐった。
涙を止めなくては。涙があると、どうしても感情に飲み込まれてしまうから。
「将は……」
聡は顔をあげてこうべを垂れたままの康三に向かって声を発する。
「いえ、鷹枝くんは……納得するでしょうか……」
きっと将は、納得しない。
口先で、いくら別れてほしいなどといっても、将は笑って……きっと信じない。
あなたの未来の邪魔になる、と身をひこうとしたら、そのまま抱きしめてくるだろう。
「わかっています……」
康三はやっと顔をあげた。
「あれの……将の、あなたへの強い気持ちは、よくわかっています……」
さっきまでのように、眉をゆがめてはいないものの、その瞳はせつなく光って聡の姿を映し出していた。将によく似ている目の形。
康三は視線を一瞬クロスに落として、深く息を吐いた。
「だから」
そして意を決したように視線を再浮上させ、それを聡の瞳に集める。
「あなたが、将を捨ててください」
康三の声は、わずかに震えていた。
「将を捨てて……、姿を消してください。お願いします」
康三は言い切ると、三たび、頭を下げた。
聡はそんな康三をせつなく見つめた。
――わかってない。
将はきっと……聡の別れの言葉など一笑に付すだろう。
置手紙をして姿を消したとしても、どこまでも自分を探すだろう。地の果てまでも。
目の中には窓の形に切り取られたような春の陽射しが映っているのに、聡はそこに猛吹雪を投影させていた。
あの北海道・ニセコアンヌプリ頂上の……不透明なまでの白い嵐を逃れての真っ暗な避難所の夜。
『もしも聡がいなくなったらどうする』という問いに、将は即答した。
『探す。世界の果てから新聞の陰まで。俺……アキラが小さくなっても絶対に見つけ出してやるよ』
ほんの、寒さと飢えしのぎの……たわむれのような言葉なのに、どうして今、こんなに沁みるのだろう。
そして、将にまつわることを思い出すとき……こんなときなのにもかかわらず……聡はしびれるような歓びに指先からひたされていく。
このうえなく、愛されている。
『アキラのためなら、なんだってできる』
その言葉の通り、殺されかけてまで自分を助けた将。
吹雪の中、助けに来てくれた将。
そして……死にもの狂いで勉強し、たった4ヶ月で偏差値を25もあげた将。
聡はハッとした。
将は、東大に合格すれば、自分との結婚を許可してもらえると思って、頑張ってきたのだ。
それが叶わないとわかったら。聡は思わず問いを発していた。
「もしも……もしも将が東大に合格したら」
「不合格でした」
康三は顔をあげると厳粛に宣言した。
「え……」
発表は来週の火曜日のはずだ。なのにどうして。聡の疑問に答えるように
「発表は来週の火曜ですが、今日の段階で合格者は確定しています。大学の内部のものに極秘で問い合わせましたところ、不合格だったそうです。大変惜しいところまで漕ぎ付けていたそうですが」
康三は淡々と説明した。
「……そうですか」
聡はがっくりと肩を落とした。
やはり、たった5ヶ月やそこらでは、準備が足りなかったのだ……。
あんなに努力していたのに。将がふびんだった。
自分とのことはさて置いても、合格させてあげたかった……。
いや。
人間、どんなに努力しても報われないことだってあるのだ……。
むしろ、報われないことのほうこそ、多いのかもしれない。
自分たちの愛も……そんな報われない一つになのだろうか。
どんなに努力しても。
どんなに愛し合っていても。
その人生が縒りあわさって同じ方向に進むことはない……。
そのとき。
「ひなた」がお腹を蹴っ飛ばした。
まるで、違う、と叫ぶように強く。
聡は思わず袴に覆われたお腹に手を置いた。
それを目にしたせいか、康三はさらに続ける。
「先生の生活も……生まれてくる子供のことも、何一つ心配はいりません。金銭面その他、こちらで出来る限りのお世話をさせてください」
別れてくれという懇願から、その後の具体的な方策に話が移って、康三の話し方は、いくぶん滑らかになる。
「……もしも働きたかったら、仕事もその内容も最大に配慮してご用意いたします。ですから……将の前から、消えていただきたい」
康三の表情は、さっきのように苦しげではなかった。
親として、これが最善の決断であるという自信さえ見えていた。
「消えるって……どこへ」
なかば諦めながらも……聡の心の奥深くは、なおも将の愛情にすがっている。
どこへ行っても無駄だ。
自分を抱きしめるために1300キロを寝ずに運転しきったその情熱で……きっとどこへでも追ってくる。
「ボストンに居心地のよい家を用意しました」
「……ボストン?」
思いがけない、アメリカ東海岸の都市。
聡とは何のかかわりもない町。
わかっているのは東京から見て、ほぼ地球の裏側にあるという事実だけだ。
地球のむこうとこちらに二人を隔てても……将はきっと諦めない。諦めるはずがない。
沈み行く聡の睫から、その心の中を悟ってか、康三はさらに言葉を追加する。
「……もちろん、一人でではありません」
意外な提案に、聡は俯きかけていた顔をあげた。
「生まれてくる子供には、私のほうでふさわしい父親を探しました」
――ふさわしい父親?
――この子の父親は将しかいない。それはいったい……。
聡が問い掛けるまえに、康三はドアに向かって声をあげた。
「毛利。入っていただきなさい」
扉が開いて……入ってきた男を見て聡は思わず立ち上がった。
……博史だった。
第365話 卒業(7)
ざわめきの中から自分を呼ぶ声がする気がして、新幹線のホームに並ぼうとしていたみな子は一瞬あたりを見回した。
金曜日の今日、ホームは背広姿のサラリーマンや、週末旅行に出かけるのか女性グループでごったがえしている。
こんなところで……誰も自分を呼ぶはずがない。
みな子は気を取り直して、視線を元通り……こころもち下向きに戻す……。
そのとたん、今度ははっきりと聞こえた。
「みな子!」
はっとして振り返ったみな子が見たのは、新幹線の長いホームを駆けてくる将の姿だった。
「鷹枝くん!」
眼鏡もかけず、制服のまま走ってくる長身の将は、かなり目立った。
ホームにいた乗客が一斉に振り返る。
しかし将はそんなことを気にもせず、一目散に走ってくる。
「みな子!……みな子……よかった、……間にあった」
将はみな子のところまで到着するなり、がっくりと膝に手をつく。
その肩から背中のあたりが、呼吸で激しく上下している。
ホームの端にある自由席乗り場まで……将は全速力で走ってきたらしい。
「なんでこのホームだってわかったの?」
みな子は新幹線の時間も伝えなかったはずだ。
しかも新幹線は16両編成だからホームの長さはとても長い。
どの新幹線に乗るかわからなかったら、人一人を見つけ出すのは奇跡のように難しいはずだ。
「……カン」
将は、ようやく苦しい息の下からぼさぼさ頭をあげていたずらっぽく微笑んだ。
――そのほほえみだ。
みな子は、意に反して胸がきゅっと痛むのを感じた。
将はすくっと背筋を伸ばした。
「最初は向かいのホームにいっちゃったんだ。そしたら、こっちにみな子が見えたから……あわててダッシュしてきた」
もう、新幹線のホーム長すぎ、とそこまで一気にまくしたてると
「そっちは、一人なの?親は?」
と訊いてきた。
みな子は頷くと
「父はもう大阪に勤めてるし、母は弟が卒業するまでこっちなんだ」
と答える。
だから、みな子は、どの新幹線に乗るかも決めずに、気の向くままに大阪まで一人旅気分で過ごそう思っていたのだ。
一人で……将の思い出の土地から離れよう。
離れていく時間を噛み締めようと思っていたのだ。
なのに、なんで。
「わざわざ見送りに来ること、なかったのに」
みな子はそっぽを向いた。
「見送りたかったんだ」
将の声に、列車待ちの客が思わず振り返る。
「ちょっと……!」
みな子は顔を紅くすると、ボタンがなくなった将の袖口をつかんで、ホームの端に連れ出した。
「ちょっと。信じられない。鷹枝くん、芸能人って意識あんの?」
声をひそめてみな子は将を睨む。
「そんなの、カンケーないだろ」
それに対して、将は優しい目でみな子を見つめる。
そんな目で見つめられると……みな子の心臓が甘くときめいてしまう。
「カンケーあるよ。だってみんな見てるし」
「カンケーないだろ」
「カンケーある」
「ない」
「あるッ」……。
押し問答ののち、二人は顔を見合わせた。
同時に……プッと吹きだしてしまう。
明るく笑う将を見て……みな子は泣きたいのになぜか笑ってしまっていた。
こんなふうに笑いあえるのも今日で最後だ。そう思うとせつないほど悲しいのに。
みな子はなぜか声をあげて笑い続ける。
からっぽになった心に、自分の声がこだまするようだ。
それがいっそう悲しい。だけどすがすがしいようにも思う。
ホームの端には、新幹線より先に、春風が入ってきている。
「あのさ。ちゃんと謝りたかったんだ」
笑い止んだ将は、微笑みをやや残した優しい瞳のまま、切り出した。
「……大阪にいっちゃう前に」
「何を?」
みな子はまだ笑いが残っているふりをしていた。
……そうしないと、ふいに涙がこぼれそうだから。
「いろいろ」
将は……一瞬、新幹線のホームに、かつての瑞樹の黒髪がよこぎった気がして……錯覚だとわかっているけれど、その行方を視線で追ってみる。
それは、ホームの間にわずかに見える空の切れ端へと溶けていった。
「いろいろ……利用したみたいになっちゃって」
将はそう言い放つと、再びみな子に視線を戻した。
せつなさを含む……しょっぱい笑顔になっている将。
みな子は見つめられて……反射的に首を横に振る。
いまならはっきりとわかる。利用されるのを望んだのは……むしろ、みな子の方だった。
将に利用されるのが……たとえカモフラージュでも将の役にたてるのが嬉しかった。
「それから……キスしたことも」
「謝らないで」
将はハッとした。みな子の瞳にいつのまにか強い光が宿っている。
だが、すぐにみな子はうつむいた。
「謝られると……よけいに、悲しくなるし」
あれは、間違いだったと明言されるのはつらい。
それっきり、口をつぐんでしまった。
将も、謝るなと言われて、何と声をかければいいのか、わからなくなる。
なすすべのなくなった二人の間を……まもなくひかり号が到着するというアナウンスが横切っていく。
もうすぐ、タイムリミットがやってくる。
「あたしはね」
みな子は小さくため息をつくと、意を決したように将を見上げた。
「鷹枝くんとキスできて嬉しかったよ。だって……初めて好きになった人なんだもん」
言っちゃった、という恥じらいが……体中の毛穴をきゅっと縮めるようだ。
だけど、もう。あと少しで、離れてしまうのだ。
みな子は恥かしさを押さえて、勇気を出す。
「鷹枝くんには先生がいるってわかってても……好きなのは止められなかったし」
そのとき、けたたましく新幹線独特のベルがなった。
みな子が乗るひかり号が入ってきたらしい。
二人は振り返った。
新幹線が二つの目を光らせながら、ゆっくりとこちらに入ってくるのが見えた。
「じゃあね。……あたし、行くね」
みな子は今いるホームの端から、乗客の列に戻ろうとした。
「待てよ」
呼び止められて、みな子は振り返る。
将がせつなげに、そして苦しげに目を細めている。
「あの一瞬。……みな子が好きだった」
新幹線の先頭が、二人の横を通り過ぎる。おろしたみな子の髪が舞い上がる。
16両の車両はリズミカルな轟音を立てながら次々と二人の横を通り過ぎていく。
「好きじゃない子に……キスなんかできない。マジで」
それは轟音の中、みな子にだけ聞こえた。
将は……あのバレンタイン前の金曜日のみな子の問いに、今答えてくれているのだ。
別れを前にして、自分に無理をしてまで……みな子の想いに応えてくれているのだ。
――だけど、もういい……。
その気持ちだけで充分。
それでも、みな子は自動的にこみあげてくる熱いものを胸に感じながら、なすすべもなく立ち尽くしていた。
ようやく――いつもよりいやに長い気がした――みな子が乗る車両が定位置に止まった。
「もし、アキラがいなかったら。みな子を好きになってたかも」
「そんなこと、言うもんじゃないでしょ。先生が……悲しむ」
なんとか、みな子は将をたしなめることができた。
「先生が……一番大事なんでしょ……」
わかっていることなのに。それを口にするみな子は、ガラスを飲んだように、胸が痛んだ。
だけど、無理して笑う。
せめて、別れはきれいにしたい。
「いろいろあるだろうけど、先生と……幸せになってね」
「みな子」
将の苦しげな表情は、まだ緩まない。
みな子は息を吸い込むと、いたずらっぽい顔をつくって将を見上げた。
「あたしみたいな子が出てきても……相手しちゃダメだからね」
冗談をいっているのに、将の瞳はかなしげにみな子を見ているのみだ。
――そんな風に見つめたら。
別れがたくなってしまう。
みな子のチケットは自由席だ。
このまま、いつまでも一緒にいたくなってしまう……。
「あたしは」
みな子は、自分の中の未練に訣別するように、大きな声を出すと、くるりと後ろを向いて新幹線へと歩き出す。
将は待てよ、とみな子に並んで歩く。
「大阪で……鷹枝くんよりいい男見つける。そしたら、会わせるね」
ホームにいた乗客はあらかた乗り込んだようで、もうすぐ出発するらしい。
「関西弁でめっちゃ、いちゃついてやる……じゃ元気でね」
ドアの前でみな子は、笑顔とともに将を振り返った。そのまま乗り込もうとする。
「みな子」
思わず将はみな子を呼び止めてしまう。
「まだ何かある?」
みな子はいったんドアを離れるとつかつかと将に近づいてきた。
そのまま背伸びをして、将に腕を伸ばした……。
「仕返し」
みな子は染まった頬を隠すように、あっかんべーと舌を出した。
「クチビルは先生に悪いから。……じゃね」
将は頬に柔らかい感触がリフレインするまま、新幹線に飛び乗るみな子と、閉まるドアを呆然と眺めていた。
はめ殺しのドアの向こうでみな子が小さく手を振っている。
「みな子」
微笑むみな子を乗せた新幹線がゆっくりと動き始めた。
――バ・イ・バ・イ
ガラス越しにみな子の口が動く。
将は追いかけることもできずに、立ち尽くしたまま、去っていく新幹線を眺めていた。
ガラスの向こうに、将と……駅が遠ざかって見えなくなったとき……みな子の目から一粒目の涙がこぼれ落ちた。
卒業式には出なかった涙。
一番悲しい涙。
涙は、次の涙を連れて来て……とめどがなくなる。
――さよなら。鷹枝くん。さよなら……。
ドアのガラスの向こうでは、昼下がりの東京がキラキラと輝いていた。
遠ざかっていくのは、将といた輝くような日々。
みな子は止まらない涙を流したままデッキに立って、遠ざかっていく東京の街を眺めていた。
第364話 卒業(6)
妻を亡くした当時の康三の悲しみに共鳴して涙を浮かべてしまった聡ではあるものの、どうして康三がそんな話を自分にするのかは理解できずにいた。
そんな聡に、康三はさらに続ける。
「先生。あれは……、将はふびんな子でね」
ふびんな子。……たしか巌もそういっていた。
「産みの母を早くに亡くして……そのころは私も議員になったばかりだったものですから、なかなかあれにかまってやれなくて」
聡はしきりにまばたきをして、目の表面にたまった涙をどこかにおいやりながら、子供の頃の将を思い浮かべる。
母を亡くしてからの1年間、将は大磯にある巌の家に預けられていたという。
巌は、将を厳しく躾けつつも可愛がったというが……将の寂しさはどれほどのものだっただろうか。
例えば、授業参観のとき。
例えば、皆が母親手づくりの弁当を持ってくる遠足のとき……。
そのときのことを聞いたわけでもないのに……たった一人で、波止場に腰掛けている少年が聡の脳裏に浮かび上がる。
寂しそうに丸まった背中は、沈み行く夕陽に、いつしかシルエットになっている。
将の産みの母親である前妻・環を亡くして1年が経った頃、康三の両親を始めとする一族のものは、康三に後添いをあてがった。
名門・岸田家から嫁いで来た、今の妻・純代である。
「……今の母親とも、子供のうちはうまくいっていたのですが」
康三の話は、あの爆破事件のことに及びはじめた。
たまたま自分が仕事で帰りが遅かったときに起きたこと。
将だけが逃げ遅れて大やけどを負ったこと。
その事件以来、将が非行に走り始めたこと。
見捨てられた将の……痛ましいほどの絶望を……康三は知っているのだろうか。
聡は口を開いた。
「3ヶ月も入院するほど……ひどい火傷を負ったと聞きました」
康三に訊きたいことがあったのだ。
「長官は……」
康三を何と呼べばよいかわからなかった聡は、一瞬迷ったあげく、ためらいながらそ
う呼んでみる。
「鷹枝でいいです」
康三はすぐに柔らかく言い直した。聡は恐縮した。
「鷹枝さんは……。将……くんの入院中は……?」
「会期中でしたから……ほとんど顔を出せませんでした。たまに顔を出しても、うつ伏せたままで、痛いのかロクに口を利いてくれませんでしたし……」
付き添った純代にもほとんど何も話さなかったという。
だけど、聡は将本人から聞いている。
『包帯を替えた日なんか、本当に地獄の痛さでさ。俺、いつまでこんな痛いのが続くのかと思うと、思わず夜中に泣いちゃってさー』
過ぎたことだから、それを話す将の口調は明るかった。
だけど、たった一人の病室で背中に負った火傷の痛みを堪えて涙を流す将を思うと、聡の心も痛んだものだ。
「中学に入って……将は見る間に悪くなっていきました。私たちは、あれにどう接していいかわからなくなってしまいまして」
聡はやるせない気持ちで康三が話す将の姿を、心で追っていた。
母を小さいうちに亡くし……頼るべき父親は忙しくほとんどかまってもらえない。
新しい母親に気に入られるべく、せいいっぱいいい子になろうとした将。
そんな将は、あの爆破事件で燃え尽きてしまったのだ。
自分が所詮一人だと……痛みにも孤独にも、結局誰も手助けなどしてくれないのだ、と……悟ってしまったのだ。
だから、将は……自分を見捨てた両親を、今度は自分が捨てることにしたのだろう。
聡は、いまいちど将の心の軌跡をなぞっていた。
「中学時代に……いろいろなことがあったと、将くん本人から聞きました」
聡は顔をあげて、康三を見据えた。
「そうですか」
それに対して、康三は心持俯いて、聡の視線から自分の瞳を巧みに隠した。
聡がどこまで聞いているのか――もしかしてあの、殺人まで知っているのか――康三ははかりかねているようだった。
「実のところ」
そういうと康三は深いため息をついた。
「同級生が進学するからと、今の高校に入れましたが、私にはあれがいつ問題を起こすか、気が気じゃなかったんです」
康三はまるで懺悔をするように、両手をテーブルの上で組んだ。
淡々としていた声が、いつしか苦しそうになっている。
「あれは……そんな私のエゴイスティックなところをちゃんとわかってて……私たち親子の間は、最悪でした」
ひとつひとつの言葉を絞りだすように、康三はなおも続ける。
「わかっているんです。将を……あんな風にしてしまった責任者は……私です」
康三は崩れるように、組んだ両手の上に、がっくりとこうべを垂れた。
一切の言葉は、胃の中に沈殿し……聡は凍りついたように将の父の姿を眺めるしかない。
「全部、先生のおかげです」
ぼうっとしていた聡はハッとした。気がつくと、康三は聡のほうにまっすぐに顔を向けていた。
「あれが無事高校を卒業できて……しかもK大にまで合格できるとは思ってもいませんでした。きっと」
その顔には穏やかさが戻っている。……しかし、なぜか聡の心臓はどくん、と不気味に動き始めた。
「先生とであったおかげで、あいつは人間らしい気持ちを取り戻すことができた。もう一度努力というものをすることができるようになったのです」
康三はなおも、聡への謝辞を続ける。
「先生も、あれのことを……慈しんでくださったからこそ、将は立ち直ることができたんです。そういう意味で、先生は恩人です」
職業上訓練された笑顔ではない。康三の表情には……ただ将を思う親心だけがあった。
将を立ち直らせた聡への、心からの感謝が現れていた。
だが、聡の動悸はひどくなるばかりだ。
聡はあいまいに答えるだけで、鼓動が収まるのをひたすら待つしかない。
「先生。……信じられないとお思いでしょうが、私は私であれが、可愛いんです」
康三はとうに冷めたコーヒーカップを傾け……それがもう一滴も残っていないことがわかると、テーブルの上で再び手を組み、もう一度聡をほうへ顔をあげる。
「馬鹿な子ほど、可愛くてしかたがないといいますが……グレてしまったときも、どう扱っていいかわからなかったが、……あれを思う気持ちは変わらなかった」
今度は康三が――聡を見据えていた。
「最初は、あれの将来のために……、あれがグレてしまってからは……せめてあれが問題を起こしても……揉み消せる権力をもちたいと、必死で働きました。それくらいしか私にできることはなかったからです」
40歳で政界入りし……康三は異例の出世を遂げて、わずか当選3回目にして官房長官の座を手にしている。
それどころか、今年の9月に行われる総裁選の最有力候補でもある。
自分の出世は、息子である将に捧げられたものだ、と告白する康三を目の前にして。
激しい動悸をなだめるように、聡の心の中では自動的に、今日の卒業式での将が再生されていた。
今日一日……聡は将を見ていた。
校門に着くなり、在校生に生花を付けてもらう少し照れた笑顔も。
井口たちと久々に再会してじゃれあう姿も。
体育館での卒業式のときも。
他の……最初で最後の教え子たちの一人一人の名前を呼びながら、その姿を心に刻みつけながら、目の端で……常に将を意識していた。
そして最後のHR。教室での卒業証書授与。
順番がまわってきた将は、得意げに聡のいる教壇に歩いてくると、聡が捧げ持っている卒業証書にその長い腕をすっと伸ばした。
もっと手を伸ばせば、抱き寄せられるほどの至近距離で……二人は瞳を交わす。
教壇の上にいる聡と将の目線は、ちょうど同じ高さだ。
高校を卒業して、ひとつ大人に近づいていく晴れがましさに、心持ち顎を上に向けた将は……今飛び立つ鳥のように希望に満ちて見えた。
将は『センセ、ありがと』といたずらっぽくウインクし、さらに声にださずに唇だけで『またね』と言った。
あの晴れがましさは……二人を引き裂いていた『教師と生徒』という結界が解けた喜びではなかったのか。
「先生。私は」
あるいは……回想は、ほんの一瞬だったのだろうか。
テーブルの上の三色スミレに視線を固定したまま、記憶を彷徨していた聡は、康三の声に再び現実に引き戻される。
「あれに……陽の当たる道を歩かせてやりたい。あれは……親馬鹿だと思うでしょうが、人の上にたってしかるべき人間だと信じている」
レースのカーテンを透過して壁に映った午後の光が、さっきより温かみを帯びている。
それを目にしたからなのか、康三はそんなことを言った。
……心臓が再び、大きく波打つ。
ゆっくりと目をあげた聡を、康三は見届けたように、小さく息継ぎをするように一瞬目を伏せた。
「あれの将来に、一点の曇りもつけたくないんです……おわかりですか」
そういうと康三は再び顔をあげた。
端正な……将によく似た容貌。強い決意に類似した……将への愛情が瞳の奥に映っている。
大きく収縮を繰り返す心臓は、聡の全身を締め上げるようだ。
しかし、もはや聡はそれを止める術を持たない。
「こんなことは……あなたにしか頼めない。将を本当に思ってくださるあなたにしか」
康三が眉を歪めた。
誇り高い……康三のような人間ならばありえない形……康三は聡に何かを懇願しようとしているのだ。
その眉を目にした聡は、呼吸を忘れるほど……追い詰められた。
自分を追い詰めるもの。聡にはその正体の99%がすでにわかっている。
「先生……いや、聡さん。頼みます」
康三はテーブルの上でがっくりと頭をたれた。
「あれと……別れてください」
第363話 卒業(5)
「それにしても……、今日は天気に恵まれましたね」
「……ええ。本当に」
将の父親、鷹枝康三官房長官と対峙した聡だったが、何を話題に選べばいいのかわからない。
彼の本題が……このお腹の子と将のことなのなら……いっそ早く切り出して欲しい。
自暴自棄的にそんな考えが浮かんでくるくせに、その場面を想像するのすら怖い。
聡は笑みを浮かべたまま、いつしか顔をこわばらせていた。
世間話を続ける康三の、心中がわからなすぎて。
「先生のクラスは、無事、全員卒業したんですか」
「はい。……3年になれた子たちは全員」
2年の2学期に聡が赴任して、卒業できなかった生徒は、退学処分になった前原茂樹と、自殺した葉山瑞樹だけであとは全員、今日の日を迎えることができた。
だが田舎の健全な県立高校を卒業した聡の常識の中では、クラスメートが2名も脱落していくのはやはり異常なことだ。
『3年になれた子は』と限定を付けることを恥じて聡は少し俯く。
「さすが、中退率の低さを誇る学校ですね」
と感心するようすを見せたあとで康三は続ける。
「なんでも先生は英語の実用会話と、社会見学を取り入れたそうで……。よろしかったら、文部科学省と一緒に考えている教育再生プログラムの参考にしたいので、詳しく教えていただけませんか」
目の前には、前菜のアスパラガスとパルマハムを使った2色のムースが置かれたところだ。
康三はナイフとフォークを操りながら、如才なく聡を促す。
仕方なく聡は、自らの取り組みを話しながら、康三の本意を見抜こうとしたが……康三は聡の話に興味深げにうなづき、ときにカトラリーを置いてメモすらとる始末であった。
それは、ポーズなどではなく、本当に聡の話を参考にしているかのように見えた。
聡はわけがわからないまま、康三が求めるままに、赴任してから今までの奮闘を話すしかなかった。
食事の味など、まったくわからないまま、デザートまでが終った。
あとは食後のコーヒーというところで、ノックがあった。
一礼ののちに、毛利が入ってきた。
もう仕事の時間だと、康三に告げに来たのかも、と聡は少しほっとしながらも、ならば解せないと思う。
康三は、本当に昼食を自分にふるまっただけなのか。……教育の実情をヒアリングしただけなのか……。
毛利は、なにやら康三に耳打ちをした。
そしてちらりと……神経を尖らせていないとわからない程度に……聡に目を走らせる。
緊張していた聡だから、すぐにそれに気付いた。
しかし気付いたときには、毛利は一礼をして個室を辞していた。
――やはり、違う。
聡はこの会合について……楽観するわけにはいかない、と唇をきゅっと結んだ。
しかし康三はナプキンの端で口をぬぐいながら、
「いや、先生。とても参考になりました。先生はお若いのにとても優秀な教育者ですね」
などと微笑んだ。
皮肉だろうか、と聡は思わず目を見開く。
だが……聡の視線の先にいた康三はあいかわらず柔らかい表情で微笑んでいる。
聡はうろたえて俯くと「そんな……ことはないです」とつぶやく。
そのとき、給仕が康三にはコーヒー、聡には黒豆茶を運んできた。
康三はコーヒーの湯気に心から憩いの表情を浮かべつつ、それを啜った。
臓腑に落ちた熱さを吐き出すように、ため息をもらしたあと、
「将のことですが……」
と切り出した。
――すわ、本題。
聡は受けた衝撃のあまり、華奢なジノリのカップを、すんでのところで取り落としそうになる……なんとかかろうじて持ちこたえた。
口腔に残る、香ばしい黒豆茶をごくりと飲みくだす。
「親馬鹿なようですが、子供の頃の将はとても優秀でしてね」
康三は、驚愕し一気に緊張が高まった聡の様子など目に見えていないようだった。
「私の仕事の都合で、将は、まだ赤ん坊の頃からパリに行っていたんですが……」
あいかわらず、大きく表情を動かさないまでも……懐かしそうな瞳に穏やかな声で続くのは、将の子供時代のことのようだった。
……聡は、拍子抜けしながらも、ほっとする。
――これは単なる執行猶予なのだろうか。
わからないままに、聡は康三によって話される将の過去に耳を傾ける。
「家内の考えで、将は日本人の幼稚園に行かず、パリの幼稚園に行っていたんです」
聡は黙ってうなづいた。
将が……会話や聞き取りにおいては英語より、フランス語のほうがましだといっていたのはそのためなのだろう。
康三は、将がフランス人の幼稚園園長に『この子の知能はずば抜けている』と太鼓判を押されたことや、日本に帰ってきてからも勉強はもちろん、スポーツや武道、芸術のすべてにおいて優秀だったことを話した。
「私は仕事の都合であまりかまってやれなかったものの、鼻が高かったものです」
そんなことを語るとき、康三の目は幼い将がそこに座っているかのように、優しい目をしていた。
それは同じ笑顔でも定例記者会見のそれとはまるで違う、柔らかな……父親の笑顔だった。
「あの」
聡はその柔らかな顔に誘われるように、つい口を挟んでしまった。
「鷹枝くんの……本当のお母さまというのは……。どうしてお亡くなりになったんですか」
将は……産みの母親は病気で亡くなったといっていた。
それと同時に、父のせいだとも。
そして母の死に際して、涙ひとつ流さなかった父の非情さを訴えていた。
将が直接道をはずれたのは、あの爆破事件のせいだとしても……それまでに将とその父の間には、亡くなった母を通して何か感情のすれ違いがあったのではないのか。
「将はなんと?」
訊き返した康三に
「ご病気で……と」
さすがに『康三の選挙のせいで手遅れになった、と言っていた』とはいえなくて聡は口をつぐんだ。
康三はしばし沈黙したのち、意を決したように重い口を開いた。
「……将の母親は、私が外務省に勤めていた頃の同僚でした。コネなしで採用された、と噂がたつほど優秀な人材で……」
将の母親・環に、どことなく似ている聡の容貌に誘われてなのか、康三はその死についてではなく、その馴れ初めから語り始めた。
将を生んだ母親、環は康三とは2年違いで外務省に入った。
5ヶ国語を自由に操り、その仕事ぶりは、数少ない女性外交官ながら、男性顔負けだったという。
「それでいて奢らず、優しくて……。みんなの憧れの的でした……」
傾けたコーヒーカップの中に、セピア色の当時が映っている様に、康三は心持ち下を向きながら淡々と昔話を続ける。
「そんな環が……仕事をなげうって私との結婚を選んでくれたときは、本当に天にものぼる心持でした」。
しかし、明治維新から続く政治家の家系・鷹枝家に生まれた康三である。
康三の親は、康三を政治的に有利な令嬢と結婚させようと考えていたらしく、二人の結婚にあまりよい顔をしなかった。
「助け舟をだしてくれたのは祖父です」
康三の祖父とは、即ち将の曽祖父、巌のことである。
康三の話を聞きながら、ぼんやりとテーブルの中央に飾られた花を眺めていた聡だったが、巌の名前にハッとして顔をあげた。
『将のことを頼む』
しわがれた声が、頭の中に、いまいちど響いたようだ。
巌だったら……わかる。
家柄より、個人の資質、なにより本人の意思を大事にするであろうことが聡にもわかる気がした。
「祖父がどうにか両親を説得してくれて、ようやく結婚することができたのです」
聡と目があって、康三は、カップに残ったコーヒーを飲み干した。さらに話は続く。
「憧れの人と結婚できて……しかも、すぐに将をさずかって、パリでの私は本当に夢のようでした」
康三は、目を細めると、
「赤ん坊のころの将は、本当に可愛かった。……本当にね。フランス人に混じっても一人で輝いているように見えましたよ」
といたずらっぽい顔で、聡に冗談すら投げかける。
その顔は将に似ていて……思わずつられて微笑む聡は、クリスマスに大磯で目にした、大量の写真を容易に思い浮かべることができた。
アルバムに収まりきれないほどの写真は、やはりこの父が撮影したものなのだ。
――将。将。……あなた、すごく愛されてたんじゃない。
聡の思いはいつしか、大晦日の夜にタイムスリップしている。うかない、寂しげな顔の将に……ひとこと、この父親の顔を届けることができたら。
聡はせつなくなった。
「彼女と将と一緒なら、世界中どこの国に赴任することになっても、うまくやっていけると思っていました……ですが」
パリでの親子3人の幸せな暮らしは、5年で終わる。
将が6つになる少し前に、すでに議員として当選していた、康三の一番上の兄が事故死したのだ。
政治家としての鷹枝家を継ぐはずの、長兄の急死は、康三一家の運命を変える。
「二番目の兄は、母方の兄に養子に出されていまして……それで私が急遽、帰国して立候補することになってしまったのです」
三男ながら、いきなり康三は鷹枝家の跡取として、96年に行われた衆議院選に出馬しなくてはならなくなったのだ。
帰国後、妻の環は、康三の初選挙に、身を削って尽くした。まだ小学1年生である将の世話も手を抜くことなく。
康三の両親の手前、無理やり結婚した償いのように……無理をした。
その頃から体に異変はあったに違いない。しかし環は、不調を疲れだと思い込み、頑張ってしまった。
幸い、事故死した長兄の分の票も集めることができ、康三は初当選を果たした。
しかしそのときすでに、環の体は病魔に冒され……当選後まもなく倒れてしまった。
「病院に入院したときすでに……余命3ヶ月を宣告されました。進行性胃がんでした」
康三は少し前に見せた、いたずらな笑顔がまるで幻のように……それでも淡々と、つらい当時を語り続ける。
「私はできるだけ妻についていたかったが……政界のことなどたいして知らずに入った三男の私ですから、毎日忙しく……どうすることもできなかった」
涙を見せたり、顔を歪ませたりもしない康三だったが、聡は自分がその場にいるかのように胸を締め付けられる思いがした。
「妻は日に日に悪くなり……将をくれぐれも頼む、と私に託して、11年前の3月12日に息を引き取りました」
今日は3月5日。ちょうど1週間後の今日が命日だ。
聡はハッと顔をあげて康三を思わず見つめる。
康三も聡を見つめていた。
端正なその顔は、無表情に近く……しかし、その瞳は強く光っていた。
その瞳を直視した聡は、瞬時に当時の康三の悲しみを理解した。
最愛の妻を、亡くした悲しみ。
しかも自分のせいで、病気の発見が遅れて……。
康三は泣かなかったのではない。悲しみが強すぎて泣けなかったのだ――。
泣くことすらできない、強い悲しみを想像した聡は、思わず涙ぐんでしまう。
しかし、新人議員の康三に、きっと感傷にひたる暇はなく、悲しみを押し殺して働かなくてはならなかったに違いない。
何度も傷を負った皮膚が固く厚くなるように、妻の死の悲しみを覆った心の表面は厚くなり……いつしか康三の感情を隠すようになってしまったのだろう。
第362話 卒業(4)
雑踏とアナウンスが入り混じるホームの騒々しさに、携帯の呼び出し音を聞き逃すところだった。
電車を乗り換えるべくホームを歩いていたみな子はバッグから携帯を取り出すと、開いて表示を見る。
鷹枝将の表示に思わず立ち止まる。
すぐ後ろを歩いていた人が、急に立ち止まったみな子を睨みつけながら足早に追い越していく。
みな子はホームの階段の陰に無意識に近寄りながら通話ボタンを押した。
「……鷹枝くん?」
「今どこ」
名乗りもせずに、将は訊いてきた。
携帯から……自分のためだけに投げられる将の声。
ふいをつかれたように、それだけでみな子の心はわしづかみにされる。
「○○駅」
みな子はつい正直に、今いる駅を答えてしまった。
「今日、大阪に行くんだって?」
将はいきなり本題を切り出した。
みな子は将の声をより聞き取るべく携帯を耳に押し当てた。
「うん……」
みな子の急な出立を責める将の声は……耳から体中にじんわりと染みこみ……諦めたはずなのに、胸がきゅうっと苦しくなる。
「えらい急だな……一言くらい言ってくれても」
だって、よけいにつらいから。口にできない言葉は胸の中にちくちくと刺さりながらぐるぐると巡るだけだ。
あまりにつらいから……将と地理的に離れることで、決定打を与えて……早く忘れたかった。そんなことは言えるはずはない。
みな子はときめく心を引きちぎって捨てるように
「単なる友達だから。もう無関係じゃん?」
と無造作にいってのけた。
「友達、は無関係じゃないだろ」
怒ったような将の声。将はまだ……自分との『関係』を大事にしたいんだろうか。
それだけで……みな子の心は、忘れなくてはという理性とは裏腹に、温かいもので満たされていく。
しかしそれに浸っているわけにはいかない。
東京駅行きの列車が入ってくる轟音に、みな子は顔をあげる。
「電車が来たから……。じゃあ、元気でね。……先生と幸せにね」
なおもみな子を呼ぶ声を伝える携帯電話を、みな子は未練ごと切った。
そして前をむいて……快速列車に乗る、大阪へ向かう。その道筋だけを考える。
……それ以外の感情の回路のスイッチを切るがごとく。
――ここは。
ベンツを降りた聡は顔をあげた。
……将とはじめてのデートで来たレストラン。
塩でバリバリになった髪と服を気にしながらも楽しい時間を過ごした……大切な思い出が聡の脳裏に瞬時に蘇る。
「いらっしゃいませ。……お連れ様はもうお着きになられていますよ」
あのとき、ジーンズ姿の将に、気を利かせてジャケットを貸したメートル・ド・テルがにこやかに迎える。
その柔らかな笑顔からは、聡のことを覚えているのかどうかはわからない。
だけど聡は……毛利のあとについて踏む、体が沈むような絨毯の感触も……よく覚えている。
「古城先生をお連れいたしました」
メートルが扉を開け、毛利が中にいる男性に一礼をする。
そこは個室専用の待合室だった……豪華なしつらえのソファーに負けない品格を持つ男性が立ち上がる。
「おいでいただきありがとうございます。先生」
こうして向き合うと……本当によく似ている。聡は思わず息を飲み込んだ。
飲み込んだ息は、着物の襟元からお腹に落とされて、それで驚いたのか『ひなた』がびくんと動く。
将の父親、鷹枝康三・官房長官。
口元に笑みを浮かべた顔は……テレビ以外では初めて目にするものだ。
聡はこの将の父親に3度ほどじかに会っている――一度目は奇遇にもこのレストランだった。
将との初めてのデートの最中に偶然にやってきて……将などまるでそこにいないように無視した父親。
二度目は……将のマンション。
スキャンダルを起こした将をいきなり殴りつけた雷神のような怒りの表情。
巌の葬儀のときも同席はしていたが、あのときは席が遠くてさしたる印象はない。
促されて、午餐の席に着席する間も、聡の脳裏には、将を無視する冷たい表情と、雷神のような激しい怒りの表情の2つが繰り返し再現されていた。
「こうして見ると……やはり似ています」
毛利とメートルが立ち去るのを見計るように、康三はもらした。
目をあげた聡は、康三の瞳に懐かしい光が宿っているのをみた。
「私の前の妻……つまり将の母親に、先生はどこか似ていらっしゃる」
「私が……?」
「実は私の祖父が、先生は将の母親に似ていると申していると、運転手に聞いたことがあります。そのときは、まさかと思ったのですが……こうしてお顔を拝見すると、やはりどこか似ていらっしゃる」
康三の祖父とは、将には曽祖父にあたる巌のことだろう。
聡の心に大磯のあの邸宅が蘇る。夏の縁側に向けてしつらえられたベッド。
『あきらさん。あなたは将にとって、先生であり、恋人でもあり、……そしておそらく母でもあったのだろう』
しわがれた声は、たった今聞こえたようだ。
聡は……自分をこんな豪華なレストランに呼び出して、しかも『将の母親に似ている』と打ち明ける康三の、意図するところがわからなくて困惑した。
「私が……鷹枝くんの、お母様に……」
そのとき、一礼と共にソムリエが入ってきた。
「私はこのあとも執務がありますので。……先生はいかがですか?」
「私も……いいです」
もう、妊娠8ヶ月……そろそろ臨月に近い妊婦は、アルコールは控えたほうがよい。
瑠璃色の袴に覆われたお腹に目を落とした聡に、康三は一瞬、何かを話し掛けようとしたが……口をつぐんだ。
そしてあいかわらず落ち着いた調子で「すまないね」とソムリエを帰す。
「あの……。今日はどうして」
アミューズが置かれて、聡はずっと渦巻いていた疑問を、控えめに取り出してみる。
康三は光沢のあるナプキンを広げながらにこやかに微笑んだ。
「将が、無事高校を卒業出来たのは、先生のおかげです。そのお礼に、せめてごちそうをと思いまして」
「そんな……」
康三の笑顔は、テレビでの定例会見で見るのと同じだった……つまり本心ではないと直感した聡はうろたえる。
いや、直感しなくても……康三にとって聡は、未成年の息子をたぶらかしたあげく、勝手に妊娠し、あげく堕ろしもしなかった、常識のない教師である。
……そのことは、聡の心に大きく横たわり……いつ康三本人から、その事実を突きつけられるのかと聡は震える。
それはそのまま、今日、康三がこの場に聡を呼び出した答えとなりそうで……聡の血液は戦々恐々と全身をめぐり、ともすると毛穴を逆立てそうになる。
「それに、一度、先生にきちんとお会いしておきたかった」
康三は口元にはあいかわらず笑みを浮かべながら、言葉には隙のない敬語を施しながら……強い視線を聡に突き刺した。
――将。
人を突き刺すような将の視線は、この父親から受け継いだものなのだ……。
めまいを感じる聡に
「先生、まずは食事を楽しみましょう。……この店は本当に美味しいんですよ。私が保証します」
康三はさっきの視線が嘘だったかのように、目元を和らげた。
それでも聡は、なおも康三の視線から逃げるように、目の前に置かれた、フグの白子を使ったテリーヌに無理やり目を落とすしかない。
第361話 卒業(3)
「せっかくだから、みんなでもう1回撮影しよーぜ!」
二人の写真を撮りおわった将は、聡のまわりに集まっていたクラスメートにことさら明るく呼びかけた。
ちなみに整列してのクラス写真は、先ほど、式が始まる前に撮影している。
これは、あとで配布される卒業アルバムに掲載されることになっている。
だが、聡を囲んでもう一度、今度は、みんな好きなポーズと笑顔で写真に収まるのも悪くない、と皆賛成した。
そうと決まると皆わいわいと、自分の位置を主張し出す。
「男子パターンと女子パターンでわけようよ」
「何回か撮ったらいいよ」
「先生は椅子に座ってもらおうよ。お腹大きいんだし」
などと意見が飛び交う中、将は小さな異変に気付いた。
みな子がいない。
将はあたりを見回した。
だが……みな子のスラリとした姿は、どこにもいなかった。
日頃、みな子と仲のいいすみれも、今は真田由紀子と一緒にいる。
将はさりげなくすみれの傍に行き、みな子の行方を訊く。
「みな子……星野さんは?」
「今日、大阪に行くって……さっき帰った」
――え。
「鷹枝くん、知らなかったの?」
すみれは驚いて小さな目を丸くあけた――二人がただの友達に戻ったことは、特にクラスメートに宣言したわけではない。
だからすみれは、依然将とみな子が「いい仲」だと思い込んでいるらしいのだ。
なにもなかったようにカメラに向かって陽気にはしゃぎつつ、将はみな子のことが気になった。
――こんなに、急に。
――あいつ、何にも言ってなかったじゃん……。
「……将、将ってば」
将はぼんやりしていたらしい。井口が顔をのぞきこむようにしている。
「ああ、何?」
「今日サ、あとでみんなで、パーティみたいに集まろうっていってんだけど。お前これる?」
せっかくの申し出だったが、あいにく将も今日のうちに再び北海道入りすることになっている。明日も朝一から撮りがあるのだ。
それでも、せっかくだ。
飛行機を最終に変更すれば、最初の30分くらいは顔を出せる。
将は、飛行機の時間を変更できるか、と武藤に確認するべく携帯を取り出した。
開けた携帯にメールの着信が1通あった。……みな子からだった。
将は反射的に……聡の横顔に視線を走らせる。
女生徒たちに囲まれた聡は、涙もすっかり乾き、ばら色の頬に笑顔が戻ったようだ。
それを確認すると将は、小声で井口に言った。
「ちょっと、俺、事務所に顔出してくる。……パーティはちょっとだけ顔出すから場所とか連絡して」
それだけ言うと、校門へ向かおうとして……再び振り返る。
「センセイは呼ぶの?」
「いちおう声かけるけど……あのお腹だし、これないんじゃない?」
「ふうん、そ」
これ以上、聡への関心を悟られるのは、仲のいい井口でもマズいだろう。
将は井口にわからないように、聡にもう一度目をやった。
そのとき、首筋に気配を感じたのか、聡がこちらを振り返った。
将の心臓が、どきん、と震える。
それに対抗するように、将は大きな声を出した。
「センセー!センセーも、今日のパーティ、こいよー」
聡はまだそれを聞かされてないのか、きょとんとした顔をした。
そんな聡に、井口や兵藤、チャミやカリナが一斉に今日の催しの話を始める。
その隙を縫って将は……校門へ小走りで向かった。
「品川駅まで」
タクシーに乗った将は、迷わず告げた。
みな子は前に……飛行機が苦手だと言っていた。
『修学旅行のときもね。参加するのやめようかと思うほどイヤだったの。……でね、仕方ないから離陸前にムリヤリ寝ようとしたんだけど、怖くて寝れなくて』
だから、大阪へは飛行機でなく、新幹線を使うはずだろう。
……将は最後に、もう一度みな子に会わなくてはと、強く感じていた。
大阪に行ってしまう前に、もう一度謝りたい。
自分のために傷つけてしまったことを……。
そんなことを思う将の脳裏の片隅には……瑞樹がいた。
気付かないふりをして、その好意だけは、あざとく利用してしまっていた瑞樹。
……ドラッグに救いを求めさせるほど、傷つけた犯人の一人は自分だ。
謝る前に……逝ってしまった瑞樹のことは、ふいに将の心の表面に浮いてきて、将を苦しめていた。
それでも、大悟と一緒に住んでいたころは、ボロボロの大悟に向き合うことでそれが相殺されていた。
だが、大悟と離れた今。
ふいに、むきだしで浮かんでくる瑞樹への良心の呵責は、ときおりではあったものの、将を眠れなくするほどであった。
どうして、生きているうちに謝らなかったのか。償わなかったのか。
やったことの深さも、期間も、瑞樹よりはずっと軽いとはいえ……将がみな子への罪深さを思うとき、その後ろには、つねに瑞樹を感じていた。
将への好意を……利用していたという構図で、みな子と瑞樹は重なるのだ。
いてもたってもいられなくて、将はみな子に電話をかける。
「センセー、みんなでランチ食べにいこうよ」
「いいねー。どこにしよっかー。センセー、何が食べたい?」
写真をあらかた撮り終わって、なおも名残惜しいチャミやカリナたちは、聡を誘い始めた。
と、そのとき。
いつのまにか……見覚えのあるスーツ姿の男が、目の前にいることに聡は気付いた。
「……毛利さん」
「お久しぶりです。古城先生」
将の父・鷹枝康三官房長官の秘書である毛利……彼は、丁重に頭を下げた。
そのスーツの仕立てのよさと……眼光の鋭さに、聡のまわりに群れていた生徒たちは、なんとなく後退し、聡だけが毛利と向き合う格好になる。
「卒業式も、つつがなく終わられて……長官も大変喜んでおられます」
「……ありがとうございます」
目を伏せるようにして一礼した聡に、
「長官は、古城先生を労いたいと、昼食の席を用意しております。よろしかったらお越しいただけないでしょうか」
校門にはいつのまにか、ベンツが止まっている。
『よろしかったら』と聡に選択の余地を残すような言葉ながら、抗えないことを……聡はよくわかっていた。
第360話 卒業(2)
卒業式は概ね、つつがなく終了した。
卒業証書の入った筒を持った卒業生も、また送り出す側の在校生も、お互いに名残惜しいのか、なかなか帰ろうとはしない。
天気がいいのもあり、皆学校や門をバックに写真を撮りあったり、寄せ書きを書きあったり、果ては抱き合って泣いたり。
春霞に若干その青を薄めながらも、空はそんな彼らに温かな陽射しを降り注いでいる。
涙で崩れた化粧を直し、遅れて表に出た聡は、その視界に無意識に将を探す。
テレビカメラのおかげで将は簡単に見つかった。
どうやらレポーターから繰り出されるインタビューに笑顔で答えているらしい。
仲のいい井口やカイト、ユータなどもテレビカメラに向かってアピールしまくっている。
前期試験の前は悪かった顔色が、今日はすっかり治って輝くようだ。
ドラマの撮影のために、最低限の睡眠を確保しているからだろうか。
毎日交わすメールによれば、前期がだめだったときのために、後期の勉強は続けているらしいけれど。
よく見ると、将のブレザーのボタンというボタンは、袖口まで全部なくなってしまっている。
どうやら後輩に全部とられてしまったらしい。
いつもは厳しい顔つきの屈強教師たちも、今日は相好を崩して、生徒たちに囲まれ、写真をとられている。
もっとも、ここ1年の間に、彼らが竹刀を持つことはかなり減ってきた。
学校全体で、生徒たちの将来や夢をバックアップし、それに即したことを学習させる方向になった結果……生徒たちは自主的にどんどんよくなっていったのだ。
この春からは、聡に代わって、女性の教師が何人か入るとも聞いた。
皆、社会人経験者ばかり、生徒たちに具体的な未来像を教えてあげることができる能力を持った人ばかりだという。
「アキラ先生のおかげですよ」
ふいに多美先生が後ろから話し掛けてきた。
「ウチの学校は……力と金で生徒を抑えるだけでした」
力は屈強教師と竹刀。金はポイント制によるキャッシュバックのことだろう。
「いってみれば野獣を社会に野放しにしないよう……一定時間、檻に入れておくようなつもりで、教育にあたっていました。……ですが」
多美先生は遠い目で……それでも、皺に縁取られた柔らかい瞳で、生徒たちと教師たちを眺めながら続けた。
「アキラ先生が、『学校のあとに待っている社会』、というのを教えてくれたおかげで……生徒たちも我々もずいぶん変わりました」
「そんな」
聡は恐縮した。聡はただ……必死だっただけだ。
赴任してきた当時に、将や兵藤から投げられた「勉強って何のためにするのか」という疑問。
それに答えるべく、思えば無茶なこともやったと思う。
「ありがとう。アキラ先生。そしてご苦労様。……幸せになってください」
多美先生は右手を差し出して、微笑んだ。
聡は胸がいっぱいになって、差し出された手を握り返す。
「あー、アキラ先生!」
女子生徒がめざとく聡を見つけて走り寄ってくる。
聡はあっという間に女子生徒に囲まれてしまった。
「センセぇ、センセぇ……、うちらのこと絶対忘れないでね」
「丈夫な赤ちゃん産んで」
チャミやカリナ、そして由紀子たちのひたむきな目を見ているうちに、聡はまた胸がいっぱいになってきてしまった。
……さっき、卒業式の最中も、感極まった聡は、思わず涙をこぼしてしまったのだが。
「みな子……、みな子。ときどきは東京に遊びに来てよね」
仲がよかったすみれが、泣きながら寄りかかってくる。
みな子は、関西でそこそこ有名な大学のひとつに合格していた。
東京を離れて、大阪に住むことは、みな子の中で動かせない未来となって横たわっている。
うん、うん、とすみれに頷きながらも……みな子は、涙をこぼすことはなかった。
少し離れたところでは、聡を囲んで、クラスの女子が泣いていた。
気がついてみれば、女子で泣いていないのは、みな子ぐらいなものだった。
すみれの向こうの視界に、生徒たちに囲まれて自らも涙をこぼす聡を意識しながら、みな子はぼんやりと思い出していた。
あのバレンタイン前の金曜日の夜。みな子は、父母から隠れるように、ベッドにもぐりこんで泣き明かしたのだ。
一番悲しい涙は、あの日……将と訣別した日に……流し尽くしてしまったのだ。
悲しみのあとには、ただただ乾いた虚しさだけが残ったはずなのに。
みな子はこんなときでも……知らず、将の姿を追ってしまう。
やっとレポーターから解放された将は、聡の姿を探した。
幅の広い瑠璃色のリボンをつけた聡を見つけた将は、女生徒に囲まれてまた泣いているらしい聡に思わず口元をゆるめる。
さっき。卒業式のさなか。
マスコミを意識しているせいか、いつもより長い式辞を述べる校長に、生徒たちは早くも退屈してもじもじし始めていた。
その中に混じった将は……ときおり、目の端で聡の姿を追っていた。
妊娠8ヶ月のお腹をうまく瑠璃色の袴で覆い、同色のリボンを髪に飾った聡は、将から見ても可愛らしかった。
しかし体育館の端、教師たちの列に座っている聡は、生徒を送り出す担任教師としての態度にふさわしく凛として背筋を伸ばしていた。
この式が終われば。
卒業証書をもらえば。
二人は先生と生徒の呪縛から解き放たれる。
――長かった。
退屈な式辞をやりすごす将は、聡と自分の……学校での日々を思い返してみる。
どの思い出も、まるで昨日のように鮮やかなまま、取り出すことが出来る。
思い出に浸る将は、この先も……二人の思い出は積み重なっていくものと固く信じている。
式は進み、いよいよ卒業証書の授与となった。
壇上で校長から直接授与されるのは各クラス代表1名のみであるが、おのおの担任教師に氏名を呼ばれ起立し、代表の授与を見守る。
まずは1組。そして聡のクラスである2組の番がやってきた。
聡はマイクの前に立つと壇上の校長と、生徒ら保護者らに一礼をした。
礼をするたびに、藤色の着物の袂と瑠璃色のリボンが揺れる……将は、息をするのも忘れて可憐な聡の姿を見入った。
他の教師らは、聡が名簿を手にしていないことに気付いて、少し顔を見合わせた。
しかし聡は、まっすぐに生徒らのほうを向くと、心持息を吸い込み、
「阿部豊くん」
と出席番号1番から名前を呼び始めた。
「ハイ!」
緊張した面持ちで立ち上がる阿部豊を、聡は優しいまなざしで見つめる。
「井口春樹くん」
「ハイ」
将は前のほうで立ち上がる井口の後姿に目をあげる。
井口は、中学の卒業式を欠席している。
そんな井口が、こうやって素直に名前を呼ばれて立ち上がるのは……将にとっても意外だった。
3年の間に、金髪だった髪は黒くなり、顔面中にあったピアスは、今は耳に残すのみとなっている。
そんな井口を、聡も温かい微笑みで見守る。井口は照れて少し下を向いたらしい。
聡は名簿もなしに、生徒一人一人のフルネームを……読むのではなく、呼びかけた。
そしてそのつど、一人一人の瞳に微笑みかけるようにして見つめた。
きっと、教え子の顔をこうやって記憶しているのだ。
やがて、生徒の名前を……一人一人に呼びかけるうちに、だんだん瞬きの回数が増えていくようだった。
おそらく涙をこらえているのだろう。将にはわかった。
最初で最後になる教え子たちの名前を呼びながら、聡はこみあげてくる万感の思いを堪えているのだ。
将は思わず、拳を握り締めた。
許されるのなら、傍で支えたい。
――がんばれ。がんばれ、アキラ。
そんな風に聡を見守っているのは、将だけではなかった。
聡の凛とした声が、こらえる涙でゆがみつつあるのを、生徒たちはみんなわかっていた。
それでも聡は涙を落とすまいと我慢しながら、生徒たちの名前を一人一人呼ぶ。
いよいよ将の番が来る。
「……鷹枝 将くん」
「はい」
将は立ち上がった。
聡と目が合った将は、とうとう聡の目から、耐えられずに涙がこぼれるのを見てしまった。
「がんばれ」
駆け寄ることができない分、将は声に出さないで唇でつぶやいた。
スワトウのハンカチで涙をぬぐいながら、聡がうなづいた気がした。
生徒たちは皆、めいめいに聡とのツーショット写真を撮影し、別れを惜しんでいた。
高性能のカメラを持ち込んだ松岡が、カメラマンを買って出ている。
「先生、このあと、ダンナさんについて外国に行っちゃうんですよね」
ツーショットを撮影した後、兵藤が名残惜しそうに口にする。
丸刈りから角刈りになった兵藤も……であった頃より少しがっしりして、大人の職人になりつつあることがわかる。
聡はといえば、声を出さずにただ頷くしかない。
「いつまで、とかわからないですよね」
生徒達を騙している心の痛みが、ズキリと来るが……頷くしかない。
真実を知ったら、この子達はどう思うのだろう。
聡は自分を取り巻く教え子達の顔を見回した。
ひょっとしたらこの子達のかけがえのない時間を、思い出を、汚してしまうのかもしれない……。
教え子との愛に密かに酔い、子供まで作ってしまった罪の重さに聡はおののく。
そんな聡の内心を知る由もなく、兵藤はひたむきな眼と共に続けた。
「僕、いつか店を出したら、先生を招待していいですか」
いつのまにか近くにいた井口がヒューッと口笛を鳴らす。
「……もちろん、飛行機のチケットも同封します。あ、もちろんダンナさんの分も」
「それ、すっげー出費くない?」
茶々を入れる井口に「キャッシュバックを使うよ」と兵藤は返す。
無遅刻無欠席、赤点もない兵藤は、月末に満額のキャッシュバックが振り込まれることが決まっているのだ。
「兵藤くん……」
聡が新たな涙を流しそうになったとき。
「俺もー!」
と兵藤の肩を抱くようにして割って入ったのは将だった。
「俺も、俺もケンちゃんのスシ食いたい。招待してよ」
将は兵藤に抱きつくようにしてふざけた。
兵藤はそれをかわすと、わざとらしくむっとした顔をつくる。
「鷹枝くんは、売れっ子俳優なんだから、自腹で来てよ」
「チェー」と一瞬ふくれっつらになった将は、すぐに兵藤と顔を見合わせて笑った。
「修行、がんばれよ」
「鷹枝くんこそ。ガッツリ有名人になって、うちの広告塔になってよ」
そこへ
「鷹枝くん、先生とのツーショット、撮影してあげるよ」
松岡がカメラをかざした。
思わず、将と聡は目をあわせる。
二人のことは、もちろんみんな知らないはずだ。正確に言えば、2年のとき以来、別れたと思っているはずだ。
単に、先生とその教え子の記念写真として言われているにすぎない。
そうわかっているのに、聡の、まだ乾ききれていない濡れた睫は、おびえたように少し震えた。
将は目で『大丈夫』と聡に語りかけながら
「じゃ、アキラセンセ……」
ぎこちなく誘う。
そしてもう一度聡の袴姿を、下から上まで眺めて……眩しげに目を細めた。
「いいですかあ……。はい、1たす1はぁ?」
何も知らない松岡がおどけて音頭を取る。
カシャッ。
デジカメ内臓の、つくりもののシャッター音が、青い空に響いた。
やや緊張した面持ちの笑顔でおさまった二人の写真。
ボタンが全部とれたブレザー姿の将と、袴姿にややうるんだ瞳の聡。
……これが、二人で撮影した生涯最後の写真になるとは……まだ将も聡も知らない。
第359話 卒業(1)
聡は重いお腹を忘れて立ち上がるとひったくるように携帯を取った。
こちらから呼ぶ前に、
「アキラ」
と待ち焦がれた声。
「将……」
胸がいっぱいで次の言葉が出てこない聡の耳に
「終わったよ」
と将の声がやっと届いた。
試験の出来がどうだったのか……直接訊くことを逡巡した聡は……携帯を耳に押し付けるようにして将の声音を聞き取ろうとする。
その声音は、重荷を下ろしたように、安らいでいるようだった。
それだけでは聡の欲しい答えには物足りない。
……だけどもし、あまり出来がよくなかったら、言い出しにくいだろう……気遣いと焦りが聡の中を一周したとき、将は自分から宣言した。
「やれることは、やった」
それは、真に落ち着いた口調だった。
また、その低い声は、いっそう大人びた気がした。
センターのときのように、ツキのようなものは、今回はなかったらしいけれど。
だが自分の持てる力はすべて出し尽くしたというような、さばさばしたものが将の声音からは読み取れた。
「もし……ダメでも、後期があるから」
ダメという言葉を発しながらも、将の笑顔が見えるようで、聡は不安ながらもややホッとした。
「うん……。将、とりあえず、お疲れ様」
聡は心から将をねぎらいたかった。電話でしかそれを示せないのがもどかしい。
「アキラに逢いたいな」
それは聡も同じだ。だが、そんな大胆なことを声にして大丈夫なのだろうか。聡はふと心配になる。
「……今、どこにいるの」
「車の中。運転は西嶋さんだから大丈夫」
それで聡は納得した。
巌の運転手だった西嶋さんは、将と聡のことを知っている数少ない側近のうちの一人だ。
巌に忠誠を誓っていただけあり、口の固さでは信頼できるのだ。
「そう……。将たしか、今日から北海道ロケに入るんだったよね」
前期試験終了と同時に、最終回までの収録が始まるのだ。
それは後期試験の直前にようやくクランクアップする予定だ。
「うん。アキラに会えるのは卒業式までおあずけ」
冗談めかしながらも、若干寂しそうな将の声に聡の胸はきゅんと音をたてそうになる。
「卒業式は……出席するんだよね」
「うん。絶対に」
力強く頷いた後、将はさらに続ける。
「……もし、クリスマスのときみたいに、飛行機が飛ばなかったら。……アキラ。卒業証書はアキラが預かって」
クリスマス。あの大雪のクリスマスの夜。二人だけの雪道が聡の脳裏にいっぱいに広がる。
あれから、たった2ヶ月しか経っていないなんて……嘘のようだ。
聡は携帯を耳に押し当てたまま、部屋の中を移動すると、飾りだなの引き出しを開けた。
大事な宝物だけがしまってある引き出しには……将がくれたエンゲージリングと、それが入っていた赤ちゃんの靴下がしまってある。
聡はリングケースから指輪を取り出すと手の上に乗せた。
ピンクゴールドにダイヤをあしらった指輪は、窓から差し込んでくる午後の光を映して、夕陽のような色に一瞬煌いた。
あのとき。とてつもなく寒かったけれど……二人には温かい思い出。
「それで、アキラから俺に手渡してよ。……それで、俺達、ようやく先生と生徒じゃなくなるんだ」
飛行機がきちんと飛んでも、卒業証書は校長からすべての生徒に手渡されるわけではない。
壇上にあがるのは代表一名のみで……あとは担任教師から渡されることになる。
聡は……あと1週間で、自ら将に手渡す卒業証書のことを思った。
二人の前に横たわっていた呪縛の一つが、そのとき解ける。
二人が教師と生徒でなくなり、ただの男と女になる。
手の中のエンゲージリングを填める権利が……ようやく聡に許されるのだ。
待ち焦がれたときが、やっと、訪れる。
しかし聡は、リングを傍らに置くと、そっと目を閉じた。そして右手をお腹へとずらす。
……もしも、お腹に「ひなた」がいなければ。
卒業さえすれば、二人は自由になれたのだろうか……。
心を通り過ぎたそんな考えに、聡は思わず立ち止まりそうになる……しかし、すぐにそんな仮定を仕方がないと目を開けた。
これは……こうなるのは運命だったのだ。
この先……どうなるか。一寸先もわからない状態だけれど……、将を信じて、明るい未来の到来を信じるしかないのだ。
「アキラ。1ヶ月先には……きっと二人、いっしょになってるよ」
将も、同じ気持ちなのだ。
高い波涛の向こうにきらめいているはずの未来を信じて、今をせいいっぱい頑張るしかないのだ……。
聡は、もう一度、リングを手に取るとそれを握り締める。
そして、こみあげてきた熱いものを飲み下すように、頷いた。
「わー、センセイかわいー」
制服の胸に生花を付けたチャミが、校門の前でタクシーを降りた聡をめざとく見つけて歓声をあげた。
「女学生さんみたーい」
チャミやカリナと一緒に、女子生徒が歓声をあげながら駆け寄ってくる。
皆、卒業生と在校生を区別すべく、胸に生花を付けている。
3月5日、金曜日。荒江高校の卒業式が執り行われる今朝は、うららかに晴れ渡っていた。
担任教師として最初で……もしかしたら最後になるかもしれない卒業式。
その礼装として聡は、実家から送ってもらった着物に、お腹を少しでも目立たなくするべく袴を身につけることにしたのだ。
髪には袴と同色の幅の広いリボンをあしらったその姿は、カリナが言うとおり大正時代の女学生のようにも見える。
校門のところに立っている職員仲間の屈強教師らも(いつものジャージ姿ではなく、今日はさすがにスーツ姿だ)聡の姿を見ると、顔をゆるめる。
「まるで『はいからさんが通る』ですね」とか
「なんだかアキラ先生が卒業するみたいですねえ」
などと冷やかされる。
聡もこの3月31日付けで退職することになっている。
……実際は、3年2組を送り出した後、数日の残務処理ののち、有給休暇を消化することになっているから、今日は実質、聡の卒業式でもあるのだ。
屈強教師らが今日、見張っているのは生徒たちではない。
さっきから校門のまわりに、カメラを持った記者連中が待ち伏せしている……官房長官の息子にして人気若手俳優の将の卒業シーンを狙っているのだ。
その辺は校長も、学校の宣伝に結び付けたいらしく、式を邪魔しないという条件でテレビカメラと雑誌記者の取材を許可しているらしい。
待ち伏せしているカメラマンや記者は、学校が用意した『許可』と書かれた腕章を付けている。
その取材が……行き過ぎないように、教師らはいちおう校門に立っているのだ。
チャミやカリナは、まだ式も始まってないのに、
「センセー、写真一緒にとろー!」
と携帯を向け始めた。
ひとたび撮りはじめると、『あたしの携帯でも取ってぇ』と携帯とメンバーをとっかえひっかえしながら撮影が始まる。
そろそろ職員室に行かなくてはならない聡が、
『続きは、式のあとで、ね』
と言おうとした時、校門が騒がしくなった。
記者やカメラが一斉に走り寄っていく……将が到着したのだ。
第358話 遠い春(8)
地球温暖化は確実に進行しているのだろうか。
小さなテラスで洗濯を干す聡を、2月最後の土曜日にしては強い陽射しが包む。
気温も今日は15度近くまで上がるらしい。
天気がいいのは昨日からわかっていたから、今日がチャンスとばかりに聡はシーツやベッドカバーまでも洗った。
妊娠8ヶ月のお腹は、洗濯ものを取ろうとかがむたびに動きを阻む。
それでも聡は、1週間分たまった家事を、いつもより丁寧にこなそうと動いた。
動いていないと不安にとらわれてしまいそうだから。
昨日から2日かけて、東大の前期試験が行われている。
おとついまで休まずにずっと学校に来ていた将だが、その顔色はあまりよくなかった。
目の下には黒々とクマが浮き出ていた。
連日睡眠を極限まで切り詰めているらしいから、体調もよくないのだろう、ということは予想がついた。
聡が心配したのはその表情である。
バレンタインの前までは明るかった表情が、日を追って暗くなっていったのが、聡には何より心配だった。
おそらく、最後に個人的に受けた模試があまり芳しくなかったのだろう……聡には予想できた。
担任教師として結果を聞いてみたのだが、将はそれを頑なに教えてくれなかったからだ。
いつもだったら、あまりよくなくても
「まだまだこれから」
と明るくふるまっていた将だったが、今回ばかりは
「睡眠不足かもな」
と初めて言い訳を口にしたのだ。
そのくせ……教室では、教壇に立つ聡を、これ以上ないほどせつない瞳で見つめる。
自習のときも、他の生徒の目をぬすむように、気がつくと聡を見ていた。
聡は気付かないふりをしながら、将の置かれた立場と心境を理解していた。
将は、いま、とても不安なのだ。
運命の……二人の運命をわける試験を前に……自分の力だけで運命が決まってしまうそんな局面を前に、焦っているのだ。
万が一、受験に失敗したら。
二人はきっと、引き裂かれてしまうだろう。
すがるような、必死で聡の像を焼き付けようとするようなそんな視線は、将の不安の現れだった。
今週に入っても、将の目の下のクマはあいかわらずだったので、さすがに聡は英語の個人授業のときに
「将、そろそろきちんと睡眠を取ったほうがいいと思うよ」
と助言した。だが、将は
「眠れないんだ」
と苦しげに告白した。さらに
「……アキラ。もしも。……もしも、ダメだったらどうしようか」
と初めて弱音を吐いたのだ。
聡は将の苦しげな声に、自らも胸が苦しくなるのをこらえながら
「大丈夫よ」
と答えるしかない。
「将はすごく頑張ったじゃない」
こんな、子供に言い聞かせるような言葉で、将の苦しさが減らせるはずがないとわかっていながら、聡は偽善的な言葉をならべるしかない。
「頑張ったけど……ダメかもしれない」
絞りだすような将の声音は続く。
「もしダメだったら……アキラ、俺と逃げてくれない?」
将は苦しげな中から、明るい声を急に装った。
冗談めかした体裁をとりながら、実はそれは将の本音だということは、聡にもわかった。
逃げることを考えるほど、将はつらいのだ。
聡の心は将のつらさに共鳴して……痛くなる。
すぐそばにいれば……将を、抱きしめてやりたい。
何の解決にもならないかもしれないけれど、疲れて苦しい将が癒しを欲していることだけはわかる。
もうすぐ卒業。
卒業したら……教師と生徒として日常的に会うこともできなくなる。
もしも将が受験に失敗したら、そのまま会えなくなってしまうかもしれないのだ……。
将と離れ離れになる現実が迫りくる圧迫感と。
そして運命の鍵を将ひとりに背負わせてしまった済まなさ。
それらは……心の片隅に忘れていた考えを、聡の心の真ん中に押し出した。
いつも……聡のために、将はつらい目にあっている、という考え。
自分さえ妊娠しなければ。いや、自分さえいなければ。
将はこのように無理をする必要もなかったのかもしれない……。
将は『聡がいなければ今の俺はない』とたびたび言うけれど。
聡と出会っていなかったら。
星野みな子のような、きっと自分に似合いのかわいい女の子と、それなりの青春を取り戻していたに違いない……。
将のつらさは自分のせい。
そんな考えに囚われた聡の心は……急激に涙を押し出した。
「うん。……いいよ。逃げよう」
今の聡にできることは、せめて将の心の重圧を軽くしてあげることくらいだった。
涙をぬぐいながら答えつつ、そんなことができるはずがないと……聡はわかっている。
だけど、今の将が少しでも楽になるのなら。
「本当に、いいの?」
将は少し驚いたようだ。
今までのことを考えれば当然だろう。将の未来を台無しにするようなことを、冗談でも言わなかった聡だから。
「うん。いいよ」
聡は鼻をすすりながら答えた。
そのとき、『ひなた』がお腹の中で勢いよく動いた。
まるで反論するように。聡のお腹の壁にキックを仕掛けたかのようだった。
聡はハッとして顔をあげた。
――ここまで来て、何を言ってる。
……とにかく、二人は出会ってしまったのだ。
子供だってもう8ヶ月なのだ。
二人が幸せになる確率をもぎとるには、後戻りや逃げはできない。
あわてて聡は付け加えた。
「だけど……まだダメって決まったわけじゃないでしょ。……前期のあとには後期だってあるんだし」
それに二人がたとえ別れるにしても。
突っ走ったものは……できるだけ完走するほうが、将のためなのだ。
頑張りどきの今、逃げ道が本道になってはいけない。
「とにかく、最後だから頑張って。……ダメだったらどうするかは、終わってから考えよ」
聡の励ましに、将は重い口調ながら
「うん」
と答えた。
卒業式は来週の金曜日。
将に残された学校生活はあと1週間だが、将は今日の試験が終わるなり、再び北海道ロケに入るという。
8話までは貯め撮りしていたけれど、残りの収録があるという。
卒業式のために東京に一度帰ってきて、後期試験までずっと北海道という強硬スケジュールになるらしい。
本当は卒業式は欠席という意見も出たらしいが、将自身が強く出席をのぞんだため、東京にとんぼ返りすることになったのだ。
洗濯が終わったら、掃除。窓をピカピカに磨く。
「ほら。ぴかぴかの窓はきれいでしょ。ひなたちゃん」
前に出たお腹は窓みがきには邪魔だったが、聡はお腹の子供に話し掛けながら、腕を左右に動かす。
もしも。将が受験に失敗したら……最悪、卒業式が二人の最後、ということになってしまうかもしれない。
聡はできるだけ、そこに考えがいかないように懸命に動いた。
お腹の「ひなた」もごぼごぼとリズミカルに動く。まるで一緒に働いているようだ。
窓や流し台まできれいに磨きこんでしまった聡は、遅い昼食を挟んで今度は、大量に野菜を買い込み、煮込み料理を作り始めた。
「おいしいポトフをつくろうね」
だが、無理に歌おうとする鼻歌が何度も中断してしまう。
そしてそのたびに時計と……まな板の傍らに置いた携帯に視線が行ってしまう。
もうすぐ前期最後の教科である、英語の試験も終わるはず……。
どうしてもそっちに意識がいってしまうのだ。
あの、弱音を吐いた夜以来、少しは眠れるようになったという将。
だが、最高の難問が繰り出される東大の前期試験に、万全の体制で立ち向かえているだろうか。
センター試験の奇跡は、果たしてもう一度起こりうるのだろうか……。
「いたっ」
ついに包丁が滑って……聡は反射的に親指を見た。
血の気のない、皮膚の切れ目に、徐々に血が滲み出てくる。
傷はさして深くなさそうだったが、聡はビーズのようにふくれた血の珠を凝視して動けなくなった。
――いつか、将の家でこんなことがあった。
あのとき、将は……戯れに指に口づけしようとした。
そのあと……初めて深い口づけをして抱き合った……。
押し寄せてくるせつない思い出が、聡を心ごと飲み込んでいく。
――いやだ。
――将と、離れたくない。絶対に。
聡はその場にしゃがみこんだ。
そのとき。
携帯が鳴った。将だ。
第357話 遠い春(7)
「それで、昨日の模試はどうだった?」
岸田は論文の答案を受け取りながら、笑顔で将に訊いた。
将はいつものように岸田助教授の家に、論文の個人指導を受けにきていた。
最近、将は日曜日に岸田の自宅を訪ねて指導を受けることになっている。
さすがに受験が差し迫った今の時期である。
岸田が試験問題の作成に関わっていないとはいえ、官房長官の息子である将が、受験する東大の研究室を訪れるのは、痛くもない腹を探られるだろうということで自粛しているのだ。
答えをある程度予測している岸田の柔らかい笑顔に、将も顔を少し傾けて苦笑を返す。
……昨日の土曜日は、とある予備校で、最後の東大模試が行われた。
まだ結果は出ていないが、将にはそれがさんざんな出来だったことを自覚している。
やはり、我が国最高学府の試験は並大抵ではないことを……将は思い知らされたのだ。
「だろうな」
岸田はそういって軽く笑うと将の答案に目を落とした。
「今、どれくらい勉強してるの? 睡眠は何時間」
「起きてるときは、ずっと勉強してます。睡眠は……、3時間くらい……、かな」
それを聞いた岸田は答案から目をそらさないまま、ハハハと笑った。
「今ごろ、睡眠3時間。手遅れだね。……合格する実力があるやつは、体調を整える時期だよ」
前期試験までもう2週間を切った今、岸田がそういうのももっともである。
しかし、出遅れている将はそうもいかないのだ。
まだまだ網羅しなくてはならない知識は、将の前に壁となって立ちはだかるかのごとくである。
しかも……昨日の模試では、いつもは得意な国語や数学も、思うように出来なかった。
ここにきて、将は焦り始めている。
もし。東大に合格できなかったら。
考えないようにしていた、望まないほうの未来が、嫌でも将の前に迫ってくる。
聡とはおそらく引き離されてしまうだろう。
どんな風に、引き離されるのか……。
おののく将の脳裏に、自分が殺したヤクザの相棒の死に様が浮かぶ。
実際に見たわけではないが……将の脳裏には港に浮かんだ死体がくっきりと再現されている。
――まさか。
どくっ。
将の心臓が大きく収縮した。
父や……毛利は……、聡をその子供ごと殺してしまうのではないか。
事故死に見せかけることなど、きっとわけはない。
将は、体中の戦慄を抑えるべく、奥歯を噛み締めた。
――いっそ、そうなる前に、二人で逃げてしまえば。
東大の試験も何もかも、放棄して。いますぐ、聡を連れてどこか遠くへ……。
なぜか夜汽車が思い浮かぶ。
寒い雪原を走る夜汽車は二人を、安住の地へ……地の果てへ運ぶのだ。
そんな夢想は、聡の叫び声でかき消される。
『コソコソ生きる将なんて、見たくない!』
『将の才能を……、将の未来をあたしのせいで台無しにするなんて、あたしが嫌なの』
――俺の才能なんて。
将は聡に答えてみる。
たいしたことないんだ。たぶん、いたってフツーなんだ……。
聡がいなけりゃ、きっとなんにも……できないんだ。
言い訳する将を、心の中の聡は哀しげな瞳で見つめた。
その瞳は、将に新たなる不安を呼び起こす。
引き裂かれるのではなく、聡が将から離れていってしまうのではないか……。
「ダメだね」
岸田の声に将は我に返った。……一瞬、夢の中にいたようだ。
岸田は、答案を突き出すようにして将に戻した。
「まったくダメ。論法が破綻だらけだ。寝不足なんじゃないの」
将は黙って答案を受け取った。
何がそんなにダメなのか、読み返そうとするが、それも頭にまるで入ってこない。
聡が離れていく暗黒の未来に、脳が占拠されてしまったように。
将のそんなようすを、岸田はめざとく見破ったらしい。
手を伸ばして、答案を奪い取ると、
「休憩」
とニッコリ笑った。
結局、その日の論文はふるわないまま、日が傾いてきて、将は岸田助教授の部屋を後にした。
マンションのエレベーターを降りて、ため息をついたとき。
「お兄ちゃん」
横から、ひょこっと少女が顔を出した。
岸田の娘の香奈だ。
今日は、友達の家で宿題をするとかで、部屋にいなかったはずだ。
「終わったの?」
寒いところにいたのか、香奈は頬をリンゴのように染めていた。
タオル地のウサギのマスコットをつけた手提げカバンを持っているが……髪の毛を二つに結んで、耳にホワホワのマッフルを付けている姿は、香奈のほうこそウサギのようだった。
「うん」
うかない顔を隠しながら答えつつ……将は、そのリンゴのような頬に聡の面影を求めてしまう。
こんな子供にまで。将は心の片隅で自分を自嘲する。
そのまま『じゃあね』と立ち去るかと思いきや……香奈は、その場から動かない。
将の顔を見たかと思うと、その視線を素早く下に下ろしたりして落ち着かない様子だった。
仕方なく将のほうから
「じゃあ……」と言おうとしたとき、香奈の「あのさ!」という声が重なった。
思い切るあまり、怒鳴るような声にふさわしく、顔もこわばっている。
香奈は、持っていた手提げの中からピンク色の包みを取り出すと、ぎこちなく将に差し出した。
あきらかにバレンタインデーのチョコだった。
その、ぎくしゃくした様があまりにも可笑しくて、将はふっと心和んだ。
「くれるの?」
ぶん、と音がしそうな勢いで香奈は首を縦に振った。
受け取ったピンク色の包みは、冷蔵庫に入っていたように冷たくて……それで将は悟った。
両親の前でチョコを渡すのが恥かしくて、香奈は家の外でずっと待っていたのだろう。
「ありがと」
「義理チョコだもん」
自分だけに注がれる、いつになく優しい将の目に焦ったのか、香奈は慌てて付け加えた。
そのくせ……家に帰ろうとせず、将と一緒にマンションのエントランスを出ようとする。
ガラス戸を出たとたん、西日が二人を照らした。
「帰らなくていいの?」
将は心配して傍らの香奈を見た。
「コンビ、いくからいいの」
チョコを渡してしまって、ホッとしたのか、香奈の声ははずんでいる。
しかしこのご時世だ。
夕方にさしかかるこの時間帯に、小学校5年の女の子をコンビニから独りで帰すのもマズイだろうと将は思う。
一般的に見て、香奈はかなりかわいい女の子だから。
……結局、香奈に付き合って一緒にコンビニへ行き、再びマンションのエントランスまで送り届けるハメになってしまった。
しきりに「別にいいのに」などと呟く香奈だったが、その顔はあきらかに輝いている。
こんな風に夕日の中を将と歩けるとは、予想もしていなかったのだ。
「ね、お兄ちゃん」
夕焼けにほんのりピンク色に染まるマンションが見えてきて、ふいに香奈は問いを投げてきた。
「お兄ちゃん、彼女いる?」
こんな風に見上げる顔も……聡に似ている。
聡を思うあまりの錯覚ではない、と将は香奈の顔を夕陽の中で確認する。
黒目がちの瞳と、それを覆う長い睫。その動き方が、聡にそっくりなのだ。
……香奈の中の聡を見つけたとして、どうするんだ。
聡は、現実に自分のそばにいるんだ……今はまだ。今はまだ、ちゃんと手の届くところにいる。
「……うん。いるよ」
そのとき、将は自分に確認するように答えた。
香奈の黒目がちの瞳に、一瞬落胆の色がよぎる。
だが、すぐに子供らしい無邪気さで問いを続ける。
……本当はそれはすでに香奈の演技だったのだけど。
小5にもなればそれくらいの演技など、呼吸をするように無意識にできるのだ。
「彼女のこと、どれくらい好き?」
「どれくらい……」
将は視線をふいに沈み行く夕陽に投げた。
自分にとって太陽の聡。そのまなざしは陽だまりのように自分を見守り、力づけてくれる。
聡ともし……別れるようなことになれば。引き裂かれるようなことになれば。
陽だまりを失って、自分はどうなってしまうだろう……。
「いなくなったら、死んでしまうくらい好き」
言ってしまって将はハッとした。
子供の質問に何てことを。
それに、死ぬ、なんて。
自らの口をついてでた不吉な言葉にあわてて香奈を振り返る。
立ち止まった香奈は、これ以上ないほど心配そうな瞳で将を見上げていた。
「いなくなったら……死ぬの?」
そんな瞳も、聡に似ている。将を気にかけ、心配する温かいまなざし。
きっと、聡も……そんな言葉を聞いたら、同じような瞳で将を見つめて心配するに違いなかった。
だから……将は無理に口角をあげて、微笑をつくる。
「大丈夫。絶対にいなくならないから、死なないよ」
気がつくとマンションの前までたどりついていた。
ガラスのドアは夕陽に染まる雲を反射してきれいな桃色になっていた。
「……チョコ、ありがとう。じゃあね」
将は香奈に軽く片手をあげると、踵を返した。
「べんきょう!」
もう行ってしまう。香奈は、将を呼び止めるべく、反射的に声を張り上げる。
振り返った将に
「がんばってね」
……そんな、ありきたりのことしかいえない自分が……香奈は悲しかった。
茜色の夕陽を受けながら去っていく将の後姿を、見送って立ち尽くすしかできない。
そのときの言葉と共に……その寂しげな後姿は、香奈の心に焼き付いて、後年も消えることはなかった。
第356話 遠い春(6)
チョコを将のマンションの郵便受けに入れた聡は、久しぶりに商店街を歩いてみる。
今日もよく晴れて、温かい陽射しが雑居ビルの間から降り注ぐ。
風はまだ冷たいけれど、季節は確実に春に向かっている……聡は目を細めて青い空を仰ぐ。
まだ昼下がりといえる、午後も早い時間。
聡は、かつてバイトしていた弁当屋に足を向けた。
……この時間だったら、たぶん主人は休憩を取っているはず。
膨らんだお腹を……わが子のように接してくれた弁当屋夫妻に見せるべきではないと聡は考えていたのだが、大晦日におかみさんにバレてしまった。
きっと、心配しているだろう……近くに来たついでに、おかみさんには元気な顔を見せておこう、と思いついたのだ。
将のマンションから弁当屋は近い。
そこで……聡が見たのは、弁当屋の前に止まる2台のトラックだった。
運送会社の名前が側面に大きくペイントされている。
弁当屋のシャッターは開いていたが、そこから制服姿の男達がせわしなく、ダンボールや厨房機器を積み込んでいる。
聡は思わず自分の姿を忘れて近くに駆け寄った。
おかみさんも、主人も、引越しの業者にまじって荷物の積み込みを手伝っていた。
「……聡!どうしたんだ、そのお腹!」
おかみさんと同時に聡に気付いた主人は、重いダンボールを抱えたまま、眼を見開いた。
「あ……」
とまどう聡に、おかみさんは
「いろいろ事情があるんだよ。あとで話すからっ」
と主人を荷物運びに追い払うと、親しげに近寄ってきた。
「よかった、あきらちゃん。出発する前に会えて」
「ど……どうしたんですか……これ」
それで、聡はようやくこの状況についての問いを発することができた。
「急にね、再開発が決まってね」
「再開発?」
おかみさんは諦めたように微笑むと頷く。
「大きなショッピングセンターだか、なんだかができるんだって。それで立ち退き」
「そんな……」
聡は絶句した。
次に、この街並みを見回す。
きれいとか、そんなんじゃないけれど。特に何にもないけれど。
駅前の、なんだかゴミゴミした商店街が……聡は好きだった。
活気があって、懐かしい雰囲気が漂っていた。
将と出逢ったのもこの弁当屋だった。
そんな思い出の場所が、なくなってしまう……。
「それで、おかみさんたちは、どこに?」
ハッとした聡は、慌てて重要なことを訊く。
「あたしの里に引っ込もうとおもって。愛媛の、宇和島に」
愛媛、宇和島……あまりに急なことで聡はそれがすごく遠いということしか思い浮かべられない。
「ほら、前にミカンあげたでしょ。……お金もたくさんもらったし、ミカン畑の手伝いしながら、ゆっくり暮らすわ」
リアス式海岸の穏やかな海へ続くなだらかな段々畑に、ミカンが実る風景。
ようやく、中学の教科書か何かで見た風景を、聡は頭の中に展開することができたが、やはり遠いことにはかわりない。
「ちょっと早いけど、リタイヤ」
言葉を失う聡に、おかみさんはそういって微笑んだ。
それでも……血色のいい、ツヤツヤとした頬がどことなく寂しげだ。
そのとき、荷物を全部積み終わったのか、主人がやってきた。
主人は、睨むように目を見開いて、聡を見据えた。
聡は思わず後じさりたくなる。主人は「今、何ヶ月だ」と訊いた。
「……8ヶ月です」
答えつつも聡は主人の顔を見続けることができずに視線をおろす。
「相手は……」と質問を続けようとする主人におかみさんが割って入る。
「あんた、それはあたしがあとから教えるから」
主人はフン、と不服そうに質問を中断しつつ、
「……それで、ここしばらく顔を見せなかったんだな」
と一人うなづいた。
聡は、何を言えばいいのか、どんな顔をするべきなのか、わからずに、ただ俯いて
「すいません」
と謝るしかない。
そのとき、運送会社のスタッフが出発を告げに来た。
厨房機器はしかるべき業者へ、家財を積んだトラックは愛媛へと出発するらしい。
スタッフに一礼をして、トラックが出発するのを見届けた主人は……ふいに聡に向き直ると唐突に問いを続ける。
「……それで、後悔はしていないんだな」
「あんた……」
おかみさんがハラハラとして二人を見比べる。
聡は顔をあげて主人の顔を見た。髪にも眉毛にも……前より白いものが増えている。
怒っているような口調だが、深い皺に縁取られた瞳は、愛情に満ち溢れていた。
――心配してくれている。
聡の中に、忘れていたものがこみ上げてくる。
こみ上げてきたものは、聡に覚悟を促した。……再度の覚悟を。
聡は唾と一緒に覚悟を腹へと落しこんだ。
――後悔しない。まだ何があるかわからないけれど、絶対に。
「……はい」
深く頷く。
「幸せになれるんだな」
今度こそ、聡は涙がたまりそうになってしまう。
だけど、聡はわかっている。
この先どうなろうとも、自分の選んだ道を後悔しないということは……幸せになるべく、たゆまぬ努力を重ねていくということだと。
それが将と一緒になれても、なれなかったとしても。
声にすることはできなかったが、聡は主人の瞳を見据えたまま、大きく頷いた。
主人はそんな聡を見届けると、何度も、何度も……自らを納得させるように頷いた。
「子供が生まれたら、家族で宇和島に遊びに来い。きっとだぞ」
最後に主人はそういって聡の肩に手を置いた。
必死で耐えていた涙が、ここで崩れるようにボロボロとこぼれてしまった……。
そんな3人を。
商店街の中で、さりげなく見張っている男がいることに、誰も気付いていなかった。
やがて弁当屋夫妻が、聡と別れて駅へ向かったのを見届けて……男は電話をかけた。
「○○夫妻、滞りなく旅立ったようです」
その電話を受けていたのは、将の父、康三の秘書の毛利だった。
毛利は、労いの言葉を部下にかけると、電話を切った。
聡がバイトしていたこの弁当屋で、将が常連客だったことを、当然毛利は知っていた。
この夫妻が聡を娘のように可愛がっていたことも把握していた。
二人の接点であるこの弁当屋だから……おそらく主人夫妻は、二人の秘密を知っているだろうと毛利は予測していたのだ。
つまり引越しも……それを促す開発計画も……すべては、秘密が漏れることを恐れた毛利が講じた先手だったのだ……。
第355話 遠い春(5)
「あのさ、アキラ。今日……」
将が切り出したのは、電話とネットを使った英語の個人授業が終わり際だった。
聡が退院してから、英語の個人授業は元通り復活した。もう前期試験まで2週間しかない。
苦手の英語を少しでも克服するため、聡も最大限に協力していたのだ。
「何?」
いいよどんだ将に、聡は何気なく訊き返しつつ、将がさっき大量にもらっていたチョコレートについて弁解するのだろうと予想していた。
もちろん、聡に目くじらを立てるつもりはない。
連続ドラマに出るような俳優の将だから、下級生にチョコレートをもらうのはあたりまえだからだ。
「今日……、みな子……いや、星野さんとは、単なるクラスメートに戻ることにしたから」
一言一言、区切るようにして将ははっきりと宣言した。
「いや……もともと単なる友達なんだけど……、アキラのカモフラージュも、もういいって言っといた」
さらに付け加える将の口調に……未練の片鱗を探してしまう自分に、聡はハッとする。
まだ嫉妬している自分の醜さに、聡はそれを覆い隠すべく、とりあえず冗談を投げかけてみる。
「いいのぉ?」
「うん……いいんだ。やっぱり嘘でもアキラを裏切れないよ」
聡の返事が冗談だなんて、将は思いもしないらしい。いたって真面目に届く電話の中の将の声に、聡は胸がいっぱいになる。
「それで、星野さんは?」
しばらくの沈黙ののちに、将はただ、わかってくれたよ、と答えた。
答えるまでと……答えたあとの沈黙に、聡はすべての状況が透けて見えるような気がした。
人一倍、柔らかい心を持っている将は、みな子を傷つけてしまった自覚に、自らも傷ついているのだろう……。
「紙袋はあれで足りた?」
――話題を変えるべく聡は、せいいっぱいおどけて質問を投げてみた。
「いっぱい、もらったんでしょ?チョコ」
「……うん」
あいかわらず重い将の口調にかまわず、聡は続けてみる。
個人授業のあとは……いつもならできるだけ無駄話をせずに、電話を切るべきところだが、将を少しでも元気付けたいと、今日は思ったのだ。
「いくつもらったの?」
「……学校では10個かな。でも事務所にも結構届くだろうって、武藤さんが言ってた」
「芸能人だったら、たくさんもらうよね。……そういうチョコって、どうするの?」
「そのまま引き取る業者がいるんだって」
「ふーん。……そう」
話題はそこで途切れて、聡は次の話題を探すべきか、それとも電話を切るべきか迷った。
まだ回線をつなげておきたい……今日の聡は、なんとなくそう思って……息をひそめながらそのまま切らずに……お腹をなでながら黙っていた。
もう11時になるせいか、『ひなた』はとっくに寝たらしい。彼女も静かにしている。
「だけどさ」
切り出したのは将のほうだった。
「俺が一番ほしいのは……アキラのチョコなんだけど」
そのとき二人とも去年の同じ記憶をたぐっていた。山梨から帰ってきた聡が将に渡した手づくりのチョコ。そして観覧車でのキス。
去年……急な山梨の転勤は寂しかったけど、あの期間は教師と生徒の関係から解放されていた。
それになにより、芸能人ではない将は、自由だった。
チョコレートより甘い思い出に聡は、ほんのりと当時の幸せな気分を取り出して浸ってみる。
「そんなこといったって、今年は無理でしょ」
それに対して、二人の関係が露見するのを恐れなくてはいけない、今。
手づくりのチョコレートを渡すわけにはいかない。
「なんとかならないかなあ……」
将は背もたれに寄りかかりながら呟いた。
難しいとなるとよけいに、それがかけがえのないものに思えてくる。
ひいては合格するための、特効薬のようにまで思えてくる。……どうしても聡のチョコがほしい将は頭をめぐらせた。
「そうだ」
寝不足で回転が悪い頭ながら、妙案を思いついた将ははずんだ声をあげた。
日曜日の午前中、聡はひさしぶりに商店街に来ていた。
以前アルバイトしていた弁当屋がある……つまり将が前に一人で住んでいたマンションがある商店街。
バイトしていた頃は自転車で通っていたが、妊娠8ヶ月の今の聡にそれは無理だからバスを使う。
聡は、まっすぐに将のマンションのエントランスに足を踏み入れた。
そして地味な……学校名の入った封筒を取り出す。
中には、昨日1日がかりでつくったチョコレートが入っていた。
金曜日の夜、将は提案したのだ。
「俺の……前に住んでたマンションの郵便受けにチョコ入れといてよ」
「郵便受け?」
「うん……俺、月1くらいで郵便物チェックしにいってるんだ。学校の書類みたいに地味な封筒にいれておけば、自然だろ」
アイデアを思いついた将の得意そうな顔が透けて見えるようだった。
ゴディバよりも、ピエール・マルコリーニよりも、聡がつくってくれたチョコがいい。
聡のチョコを食べながら、英語を頑張ったらきっとご利益がある……。
むりやりこじつけながらも熱心に乞う将のために、聡は去年つくったやり方を思い出しながらチョコレートをつくったのだ。
郵便受けに入るよう、薄めにラッピングしたチョコは学校の封筒に入れてある。
部屋番号を確かめながら、聡はそれを用心深く将の部屋の郵便受けに落とした。
将によると、日曜日の今日は岸田教授の家で論述の個人指導を受けて、そのあと、ここに寄って郵便物を拾って帰るという。
ひとしきり、自分のアイデアに満足しながらも、
「……だけど、ほんとは、二人で逢いたいな」
最後に将はぽつりと言った。
急にこみあげてくるせつなさを堪えるように聡は
「毎日、学校で顔を見てるじゃない」
とことさら明るい声を出す。
「違うよ。アキラと二人っきりになりたいんだ」
電話から響く将の声は、聡の心に沁みこんで……かわりに温かい何かが体の奥から遡ってくる。
「早く、二人で気兼ねなく逢えるようになりたいな……」
後期試験はちょうど1ヵ月後だ。つまりもう50日も経たない内に、二人の運命は決まるのだ。
激しい泳ぎを休んで、ぽっかり浮かんでつぶやくような将の声。
今、聡には将の気持ちがそのまま入り込んできた。まるで心の一部を共有しているように、鮮明に。
「うん……そうだね」
目の奥に達した何かに押し出されるように……ふいに湧き出てきた熱い物を聡はこぼさないようにしきりに瞬きをするしかなかった。
第354話 遠い春(4)
銀色に光る針を透明な液体に浸す。
無色透明……水道水よりも無垢に見えるこの液体は、ごくスムーズに注射器の中に吸い上げられる。
大悟は器用に目盛りピッタリにあわせて吸い上げると、躊躇もせずに自分の皮膚にその針を突き刺す。
そこまで……一切のよどみもなく、顔色ひとつ変えずに進んでいく。
三度の食事よりもスムーズにみえるほどだ。
「大悟さぁ、いつも思うけど~、注射超うめーよな」
薬と酒に半分ラリッたような前原がケケケと笑いながら話し掛けるのを大悟は……まるで聞こえていないように受け流す。
前原がうらやましがるのも無理はない。
器用な大悟は、注射のコツをすっかりつかんでしまっている。
だから、痛みも少なければ、人に怪しまれるような内出血もごくごく少なく済んでいるのだ。1日3~4回打っているにもかかわらず、だ。
ここに連れ戻されて……今まで以上に薬を使うようになるまで、あっという間だった。
ここ、とは。
大悟は前原らと一緒に、とあるマンションに住んでいた。
3LDKの部屋は、食料や衣類などのほかに、パソコンや、雑然と積まれたハガキなどで一見、片付かない事務所のような様相を呈している。
ある意味、そこはオフィス(事務所)だった。
振り込め詐欺から、ワンクリ詐欺。フィッシング。
……人の弱みや隙に付け込んだ、あらゆる犯罪を行うための事務所といえる。
被害者からまきあげたマンションの何箇所かを、脚がつかないように大悟たちグループは点々とまわり、拠点にしていた。
「今はねえ。何でもやんないとね。生き残れないのよ」
いわば事務所長的存在の……尖った靴の男は甘い香りの葉巻を吹かしながらそんなことをたびたびつぶやく。
その男の背中には見事な彫物がほどこされていた。
弁財天をモチーフにしたという背中に彫られた女を、大悟は夏前からあわせて3度ほど目撃している。
目撃したときのことは、思い出したくもない。
ただ『組』関係だというその男は、いろいろな意味で大悟を可愛がった。
幸いなことに、最近は大悟の器用さや能力に惚れこんでくれたらしく、おかげで両刀使いのこの男の相手はしないで済んでいる。
器用で飲み込みのよい大悟は、少し教えられただけで概ねの『作業』をマスターしてしまっていた。
だから大悟は最近はもっぱら、詐欺行為の準備や、フィッシング用のサイトの構築などに重宝されているのだ。
そう、皮肉なことに、まっとうな保護者である西嶋夫妻と同じ理由で、この尖った靴の男は大悟を手元に置いておきたいらしいのだ。
大悟は、薬を打ってしまうと、前原を無視してパソコンに向かった。
別に急ぐ仕事があるわけではないが、大悟は薬によって手に入れた正気を手放さないために目の前に何かの作業を置くことを好んでいる。
「ケッケッケ……」
今日の前原は、何がおかしいのか、ひとりで笑っている。
覚醒剤だけでなく、酒と脱法ドラッグを一気にやってトランス状態に陥る……前原は気持ちがいいから、とよくこれをやる。
しかし今日はいささか過ぎたようだ。
「だ~いご~~~」
呼ばれて大悟は前原を振り返った。同じ中学のせいか、前原は大悟に対して親しげだった。
大悟のほうは、あまり学校に行かなかったせいもあり、同級生との付き合いに線引きをしているようなところがあったのだが。
「だいご~。ひゃっひゃっひゃっ……」
ヨレヨレの前原の左右の視点はあっておらず、歯が欠けた口元からはヨダレが一筋流れている。
それを見た大悟は思わず眉根を寄せてしまったらしい。
前原は大悟の目付きに珍しく敏感に反応した。
「……んだよぉ。大悟。文句、あんのかよぉ」
凄みながらも、視線は虚ろだ。
「ああ~?」
前原は近寄ってきて、大悟の襟を掴もうとした。
しかしそれを避けるべく大悟が少し上体をのけぞらせただけで、手元が狂ったのか、前原はバランスを崩して顔面から転んだ。
「……チキショウ」
なおも、ヨロヨロと大悟にからもうとする前原に、ようやく兄貴分が止めに入る。
だが、興奮した前原は、恐竜のような咆哮をあげて、なおも大悟に掴みかかろうとする。
「お前、調子に乗って、やりすぎなんだよ! しばらく頭冷やせ」
暴れる前原に兄貴分も手を焼いたのか、前原の両腕と両足をガムテープでぐるぐると固定してしまった。
眉を剃りあげ、髪を赤く染めた兄貴分は、年齢は大悟たちといくつも違わないのにこういう残酷なことを平然と行えるらしい。
もちろん大悟は要領がいいから、そんな風にされることは、まずない。
前原は自分の状態がよくわかっていないのか、しばらく自由のきかなくなった手足のまま芋虫のようにうねっていたが、しまいには
「ごめんなさい、ごめんなさい」
誰ともなしに懇願を始める。
一部始終を見ていた大悟は、ガムテープで両手両足を縛られた前原を見て、自分の近未来の姿を見た気がして、ぞくっとする。
だけど、やめられないのだ。
覚醒剤。シャブ。……廃人になるかも、とわかっているのに、大悟はそれに再び依存してしまっていた。
薬がもたらす昂揚感が、すでに大悟にとっての正気になってしまっている。
その薬が少しでも不足すると……大悟はいろいろなことを思い出してしまうのだ。
赤い霧になってしまった瑞樹。
自分のせいで……一家心中を図った前の保護者一家。
中学の頃、自分を弄んだ男たち。
そして、将への……恨み。
忘れてしまいたい、覆い被せてしまいたい一切は……薬が切れると一斉に大悟を攻撃し始めるのだ。
このグループに戻ってきたばかりの頃、テレビに映った将に、ラリッた前原がグラスを投げつけたことがあった。
まだドラマが始まったばかりで、将がさまざまな番宣バラエティに出ていた頃だ。
ラリっていた前原が投げたグラスは、テレビの画面をはずれて背後の壁に当たって砕けた。
グラスが割れる音は、前原をよけいに興奮させたらしい。前原は叫んだ。
「大悟ォ。瑞樹がミンチになったのは俺のせいじゃないぜ。コイツのせいなんだぜ!」
少年院を出所してすぐに前原は瑞樹の悲惨な死に様を聞いたらしい。
瑞樹が深刻な覚醒剤中毒だったらしいことも。
瑞樹に覚醒剤を教えた良心の呵責から……必死で逃れようとしているのだろうか。
前原は唾を飛ばしながら、瑞樹の死を将に押し付けようとしていた。
大悟は、荒れ始める心の波を抑えながら、そんなことをいまさら言っても仕方がないと
「やめろよ」
とたしなめる。しかし前原の罵声は止まない。
「将のやつ、ムカつくぜ」
大型の液晶画面の中では、将が照れたような笑顔を浮かべていた。
「殺人者のくせによォ……。何が俳優だ」
無視してチャンネルを変えようとした大悟は、それを聞いて思わず目をあげる。
あのヤクザ殺しの犯人が……本当は将だというのは、大悟と将、将の父親と弁護士しか知らないはずなのに。
前原は顔色が変わった大悟に勝ち誇ったような表情になる。
「俺、全部知ってるんだぜ」
そういってのけると、ひゃっひゃっひゃっと笑う。
狂人のような笑いに、大悟はどう対処していいかわからない。
「何で知ってるか教えてやろうか。俺、あんときお前の部屋のすぐ外にいたんだぜえ~。怖くてすぐ逃げたけど」
前原の口調は、ひゃらひゃらしているものの、あの現場にいたというのは本当らしいと大悟は直感した。
「大悟、お前、悔しくないのかよぉー。やってもない殺人罪着せられてヨォ。年少入りさせられてよぉ……んとに可哀想なやつだぜ」
動きが止まった大悟に、前原はいざるようにして近寄ってきた。そして顔を覗き込むと
「おまけに、瑞樹は将のお古だしさあ」
とニヤリと笑った。……どうやら、前原は大悟と瑞樹が付き合っていたことも知っているらしい。
大悟は勢いよく立ち上がると、鋭い目で前原を見下ろした。
へらへらしている前原でもさすがに……その殺気さえ含む視線に気付いたらしい。
「うわ、殴る?マジ殴る?殴らないでよ。……冗談だからさ」
首をすくめて助けを求める前原に対し……大悟は、手を振り上げもせず、そのまま握り締めた。爪が掌に食い込む。
その脳裏には瑞樹の最期が自動的に再生されている……死の間際まで……自分を将と間違えてまで、将の名前を呼んでいた瑞樹が。
第353話 遠い春(3)
ひるんだ将に、みな子はなおも畳み掛けてくる。
「少しでも……ほんのちょっとでも、好きだったことあった?」
明るく、冗談めかした口調を装いながら……その瞳は真剣だった。
将は息を飲みこむ。
追い詰められた心に直結した心臓が、苦しいほどにドクドクと動き始めるのがわかった。
「そんなこと、今さら」
逃げようとする自分は卑怯だと思う。
あの、一緒にボイコットした視聴覚室で。
色気のない眼鏡の奥に、黒目がちな瞳。
2つにわけて結んだまっすぐな黒髪。
真面目に着こなした制服の下に延びたスラリとした脚。
頬を染めて駆けてきた振袖姿。
みな子の中に、それらを見つけたとき、まったくときめかなかったといったら嘘になる。
でも、それはみんな、若い頃の聡を想像させてやまなかったから。
だけど……一瞬でもみな子自身を見ていなかっただろうか。
いや、あの元旦の日は。
……将は確かに、みな子の中の聡の面影ではなく、みな子自身に吸い寄せられて口づけしてしまったのだ。
だけど、そんなことを……みな子に惹かれた一瞬が確かにあったことを告白してどうする。
自分は最初から聡を選んでいるのだ。
聡だけを一生愛することに決めたのだ。
みな子に揺らいだことを……本人に伝えたところで、みな子の自身にも何の足しにもならないだろう。
将はどうしてみな子がそんなことをいまさら訊くのか理解できなかった。
しかし、みな子はなおも食い下がる。
「もしも……もしも。先生がいなかったら。……あたしを好きになってた?」
聡がいなかったら。それには将は答えられない。
聡がいなかったら、今の自分も……たぶん存在しないから。
聡のいない世界。それは太陽のない世界……暗黒の中で将はいつまでも心に救いがない暮らしをしていたに違いない。
それに……そもそも、そんなことを考えるのは聡に対して限りなく不実に違いないから。
答えられない将は目を伏せた。
「ねえ。先生と出会わなかったら……」
なおも質問を続けようとするみな子を将は遮った。
「ごめん。……アキラがいないとか……考えられない。てか、考えたくない」
みな子が大きく息を飲むのがわかった。
「そっか……。そうだよね」
ため息まじりにそう呟くと、みな子はチョコレートの紙袋を抱えたまま、虚空へと一度目をそらした。
さっきまで最後の光を差し出していた夕陽は、厚い雲に隠れてしまったらしい。
あたりは……みな子の絶望さながらに、青みがかったグレーに沈んでいる。
ごめん、ともう一度言ってここを立ち去れないか、と顔をあげた将に、みな子も同時に振り返った。
「じゃ、好きか嫌いかだったら……好きなほうだった?」
将があきらかに困惑するのが、みな子にもわかった。
みな子も……どうして自分がこんな質問を投げかけて将を困らせているのかわからなかった。
だけど、止まらない。
理性では『なんて馬鹿な質問なんだ。こんなことを訊いたって何にもならないのに』とわかっている。
なのに胸から湧き上がるせつなさは、将に自分の位置を確認させる言葉となって吐き出されていく。
無駄だとわかっているのに、訊かずにはおれない。
……いつかこんな日が来るとわかっていた。
わかっていながら、みな子は将のそばにいたかった。
将が聡を選んでいるのがわかっていても、せめて教室で将に寄り添いたかった。
自分から初めて、好きになった異性。
それがまったくの一人相撲だったのか。
それとも、髪の毛一本の先だけでも、ほんの0.001%だけでも。
将が自分に答えていてくれたのか。自分のことを好ましく思ってくれた瞬間があったのか。
それは、みな子の心にとって……畢竟、アイデンティティを賭けるほどの問題だったのだ。
「友達としてでもいい。……好きだった?」
将はみな子の本意がわからなくて、ただみな子の瞳を見つめるしかなかった。
その黒い瞳は……問いを重ねるごとに、歪んでいくのがわかった。
薄闇の中でも、たまりそうになる涙で目の表面が固まりかけたゼリーのように揺れるのがわかる。
それを、長い睫を懸命にパタパタと瞬いて堪えている。
そんな様子をみると、将の心は痛んだ。
傷ついて、必死で助けを求めている子猫を放置するような、心の痛み。
「ねえ……好きでいてくれたんだよね」
その声はどんどんかぼそくなり、ついにはふるえはじめた。
睫は休むことなく瞬いて……揺れる黒目がちの瞳からは、いまにも涙がこぼれそうだ。
「そうじゃなかったら……キスなんか……」
それ以上は言葉にならなかった。
忘れると言ったけれど、忘れられないだろう。みな子にとっておそらく初めてのキス。
それをした将の心に……少しでもみな子への好意を含んでいなかったのか。
みな子はついにそれを突きつけてきた。
それがしのびなくて、ついに将は、だまってうなづいた。
一度だけでは、軽い気がして、将は何度も確認するように、みな子の瞳から視線を動かさないまま首を振る。
みな子は、将がうなづいた――つまり将が少しでも自分のことを好きだった――その事実を確認すると、安心したのか、大きく息をついて横を向いて俯いた。
そのとき……雲が再び流れたのか、おそらく今日最後の夕陽が一筋、ふいに靴箱に射しこみ、みな子の頬に届いた。
光線から顔を隠すべく、みな子はチョコレートの袋に顔をうずめようとした。
しかし、その直前、将は泣き濡れたみな子の頬がキラキラと輝くのを見てしまった。
みな子が泣いている。
気丈な女子クラス委員が、声を殺して肩を震わせている。
ふいに正義のように湧き上がる、抱きしめたい衝動。
将はそれを、握りこぶしに力を込めながら懸命に堪えるしかない。
それは、ほんの一瞬だったのかもしれない。
気がつくと、夕陽は再び厚い雲に隠されて、靴箱はさっきよりさらに深い翳に沈んでいた。
やっと、みな子がチョコレートの袋から顔をあげた。
暗くてよく見えないが、涙は止まりつつあるようだ。
「……大丈夫?」
こんなことを訊く自分は……みな子のことを気遣うようでいて、とても薄情な偽善者だ。
自分に吐き気さえ覚える将だったが、もはや、どうしようもない。
しかしみな子は気丈にも、こくん、とうなづくと、10個のチョコが入った紙袋を両手で将に差し出した。
「友チョコ、だから」
躊躇する将に、みな子は拗ねたような声を出して抗議する。
「あたしが持って帰ったって、どうしようもないでしょ。チョコ10個も」
ほら、と促すみな子は、涙に目を光らせながらも、口調はいつもの調子に戻りつつあった。
それで将はようやく、チョコレートの入った紙袋を受け取った。
「友達では……いてくれるよね。クラスメートだもん」
最後に、みな子は微笑んで、卒業までは、と付け加えた。
濡れた睫で無理やり微笑む瞳。
また揺らいでしまいそうになったことは、ずっと心にしまっておかなくてはならない。
第352話 遠い春(2)
聡が見えなくなるまでその後ろ姿を見送っていた将を、みな子もまた見つめていた。
3年生たちは皆帰ってしまったらしく、2階は急に静かになってしまった。
窓からオレンジ色に浮きあがって見えるような狭い校庭からは部活動なのか下級生の声。
しかし、それとは対照的に、校舎の中は見る間に灰色から墨色に沈んでいくようだ。
みな子は、気を取り直すように、
「行こっか」
と将に明るく声をかけた。
うなづいた将だったが、心ここにあらずという感じだった。
そんな将を振り向かせるべく……一緒に帰るときくらい、こっちを見てほしいみな子は少し冒険してみる。
「将、は」
桃色がかった橙色の夕陽が窓枠の形に浮き出た階段に差し掛かったとき、みな子は初めて将を名前で呼んでみた。
しかし、将はそんなみな子の冒険にはまるで気付かないようだ。先をどんどん歩いていく。
みな子は大いに不満を感じながらも、夕陽を受けてキラキラと輝く将のあとを追いかけて話を続ける。
茜色のスポットライトを踏みながら、将に振り向いてほしい、と祈るように。
「今週の土日、どうするの?」
階段を2段ほど降りたとき、みな子の瞳に夕陽が飛び込んできた。
それは蛍光色より鮮やかなピンク色で、みな子は思わず目を細めた。
「どうするって……。ずっと勉強だよ」
将はみな子の顔のほうに視線を一切向けないまでも、まったく上の空ではないらしく、返事は即座に返ってきた。
「ずっと家で?」
振り向いてほしい。できれば気がついてほしい。みな子はその一心で将の後姿に食い下がる。
「日曜日は岸田先生の家に行くけど」
「その前とか、後とかにちょっとだけ会えない?」
将はやっと振り返った。
しかしその表情から、みな子は返事を悟った。
憮然としそうになるのをなんとか隠した中に、みな子を憐れむような色を見つけてしまったから。
「やっぱ、だめか。そうだよね」
みな子は、自分で答えを出すと、将を追い抜いて階段を一気に駆け下りる。
下で将を待ちながらせいいっぱいの笑顔をつくる。
「来週からさ……あたし、関西で受験なんだ。しばらく会えないから……」
目をあげて自分を見る将に……みな子は小さな満足を得る。しかし、それは予想通りすぐに崩れる。
「ごめん」
将はやるせない表情のまま俯いた。
この程度はみな子の予想の範囲だった。
しかし、何度も予想して、傷つくシュミレーションをやっていても……実際に拒否されて受けた心の傷は、予想よりかなり鋭く深かった。
その痛みに負けず、みな子は前を通り過ぎていった将を追う。
「あ」
靴箱を開けたとたんにチョコが雪崩のように落ちてきた。
落ちたチョコを拾いもしないでただ見ている将に、みな子がくすりと笑いながら寄ってきた。
「すごい。マンガみたいだね。靴箱にチョコレート」
そういいつつ、みな子は屈んでチョコを拾ってくれた。
「1、2、3、4……5つ。すごいね。さっきのと足して9つも」
ハイ、とおどけて差しだすその笑顔に、将はどんな顔を返していいものかわからない。
だから、せめてチョコレートを収納すべく、聡からもらった紙袋をみな子に向けて開ける。
みな子はチョコを1つずつ丁寧に紙袋の中に重ねるように入れていく。
ピンクや銀色、紺色と色とりどりのチョコのラッピングに視線を向けているように見せつつ……将の心の中をどのチョコよりも鮮やかに占めていたのは……聡だった。
聡に、みな子と親しくしているところを、またしても見られてしまった。
それどころか、チョコレートを抱えている自分は嬉しそうに見えてしまったかもしれない。
将が舌打ちしたいような気持ちを抱えているとも知らず、みな子は
「ちょっと待って」
と将をそのままの体勢で待たせて、自分のバッグの中から新しいチョコを取り出した。
「はい。これは、あたしから」
みな子は笑顔をつくると、ベージュに紺のリボンがついた包みを紙袋の中に入れた。
「時間があったら、日曜日に渡したかったんだけど」
みな子が一生懸命笑顔を作っているのは、将にもわかった。
『私から逃げないで』
元旦に電話でそういったみな子の顔は、こんな顔だったんだろうか……。
そんな哀しげな笑顔に、心が動いてしまいそうになるのを、将はかろうじて堪える。
今は……今こそ、言わなくてはならない。聡のために……残酷にならなくてはならない。
飛び込み台に立つような勇気を、自分の中からかき集める。
それでも将は、自らが傷つけるみな子の心、そしてその痛みを想像して……足がすくみそうになる。
息を吸い込むと将は、チョコを入れ終わったみな子に、その紙袋ごと押し付けるように差し出した。
「ごめん。受け取れない」
「……どうして?」
みな子は黒目がちの瞳を大きく見開いて、将を見上げた。
「俺達……」
将は10個のチョコが入った紙袋から手を離した。それを床に落とさないためにみな子は受け取らざるを得ない。
「単なるクラスメートに戻ったほうがいいと思う」
押し付けられたみな子は唖然としている……そのようすも見るにしのびない。
だけど、将は心の痛みに耐えて、みな子を一生懸命直視した。
みな子は、将をまっすぐに見上げたまま涼やかな瞳を2~3回しばたいた。
「……もともと……、単なるクラスメートじゃない」
かろうじて抗議する声と同様、唇や睫も震えている。
「いや、カモフラージュももう……」
「先生のカモフラージュのためにも!」
奇しくも、カモフラージュという言葉が重なり、二人の視線は言葉と同様鋭くぶつかった。
次の瞬間、二人それぞれに唾を飲み込む。
……1拍置いて、将は続けるしかない。
「もう、カモフラージュは……いいんだ。こういう状態、よくないと思うんだ」
絞りだすように言葉をつないでいく。
その言葉が染みこんでいくように……みな子の瞳は目に見えて哀しみに歪んでいく。
愛しているのは聡だけ。聡を悲しませなくない。そのために必要なことなのに。
好意を拒むのは……人を傷つけるのは、こんなにつらいことなのだ。
将は、がっくりと頭を下げた。
「ごめん」
みな子は、いつのまにかチョコの袋を抱きかかえるようにしていた。
何かにしがみついていないと、耐えられない。
……みな子は受けた衝撃と悲しみを紙袋の中のチョコに吸収させてようやく泣きもせず立っていた。
「先生のため、だよね」
将は目をあげるとみな子を見つめた。
その目は……まるで将のほうが振られたような……みな子に助けを求めるようだ。
「先生が……悲しむからだよね。先生は……あたしに」
嫉妬してるんだ。みな子は辛くもその言葉を飲み込んだ。
聡がみな子に嫉妬しているとしたら。
それは一見、同じ土俵に立ったような錯覚をみな子にもたらした。
だが、そんな錯覚は何もならないとみな子はすぐに気付く。
将の気持ちは聡一人に決まってしまっているのだから。
再確認した絶望の位置同様、みな子の視線は床に沈んでしまった。
泣きも喚きもしないみな子に、救われてもいいはずなのに、将は却ってひどい罪悪感を覚えた。
「ごめん……ていうのも変だけど。今までありがとう」
将は罪悪感を覆い隠すために、せめて感謝の言葉を重ねる。
これまで聡とのことが露見せずに済んだのは……クラスメートでさえごまかすことができたのは、みな子の功績であることは確かだったから。
しかし、みな子は下を向いたまま静かに首を横に振るだけだ。
将の中の罪悪感は一向に隠れることはなく……将は恩人であるみな子をここに残したままにするわけにもいかずに立ち尽くしていた。
「ね」
長い沈黙の果てに、みな子がようやく顔をあげた。
1秒を1時間にも感じるような重苦しい沈黙。
呼吸困難になりそうな空気の重さは……本当は一瞬だったのかもしれなかった。
「最後に、教えて」
それは思いのほか明るい声だった。……明るい声を出そうと、みな子がせいいっぱい努力していることが将にも伝わった。
瞳がひたむきに熱を持って輝いているのは、暗い靴箱の中でもわかった。
「あたしのこと……好きだったときもあった?」
第351話 遠い春(1)
荒江高校には卒業前の自由登校期間がない。授業は卒業まできっちりと行われる。
理由は2つある。
自由登校期間に、休んだ生徒が外で問題を起こすのを防ぐために、とりあえず学校に登校させておくというのが1つ。
荒江高校の生徒であるうちに問題を起こされては困る、という学校側の事情でもある。
もう1つは、もともと学力が劣った状態で入ってきた生徒たちに高校の学習内容を少しでも理解してもらうため……というより、せめて中学レベルの内容くらいはマスターしてほしいという学力の問題だ。
もっとも、今年は『社会人』デビューする前の練習として、電話の取り方など社会でのマナーや、働くということの意味を再確認する特別授業が、就職希望の生徒に対して行われた。
聡の企画で行っていた社会見学の延長として、学校側が考えたものだ。
進学希望の生徒は、その間、自習形式での学習をすることになっていた。
もちろん、息抜きに社会人教育を受けるのも自由だった。
従って2月に入っても他の高校のように3年の姿がない、ということはない。
月曜、聡は3週間ぶりに学校に来ることができた。
来週から妊娠8ヶ月めに入る聡の体を気遣った学校側の配慮で、主に3年の自習を担当することになっている。
聡は、教室の窓から、校庭でドッジボールに興じる生徒達を眺めていた。
ずっと座って自習している進学組の体力の低下に配慮して、1日1回、体育教師が軽く運動をさせているのだ。
いつもは体育館だけれど、今日は日が照って温かいせいか、校庭で遊ばせているらしい。
聡が退院して明日で一週間。
復帰第一週も今日で終りだが、幸い、お腹のほうは悪化の兆しは何もなく、無事に過ごせている。
聡はいつしか、笑いながらボールを投げ合っている生徒の中に将の姿を探してしまう。
無意識に目が吸い寄せられてしまうかのようだ。
仲の良い井口たちと笑いながらボールを投げあう、ジャージに包まれた伸びやかな肢体。
こうして、ずっと将の姿を見ていたい……。
つくづく……あの夜、わきあがる将への気持ちに負けてしまったのは聡のほうだと思う。
泣いて、鼻水を垂らしながらすがって……なりふり構わない将の姿に、聡は完敗したのだ。
聡は1日1回1年の授業の教壇に立つ以外は、努めて進学希望者が学習する教室に常駐するようにしていた。
本来は職員室で待機していてもいいのだが、せめて、疑問点が発生した時点で、生徒がすぐ質問ができるようにとの配慮もある。
しかし……直接の原因は将だった。
教室を出ようとすると、聡は将のせつない視線を背中に感じるような気がする。
現に将は
「ちょうど質問しようと思ったのに」
と追ってきたときもあった。だけど。
そんなあからさまな行動を少しでも抑えるため……そう自分に言い訳しつつ、聡自身が将を見ていたかったのだ。
将と離れたくない。
将をずっと見ていたい……。
二人を取り巻く事情が何一つ変わったわけではない。
二人の関係や聡のお腹の子供のことが露見すれば大変なことになる状態が好転したわけではない。
だけど、聡は……この先どうなるかわからないけれど、将を見守りたいと思う。
考えれば、学校という同じ空間でどうどうと呼吸していられるのは卒業までなのだ。
だから、せめて……卒業までは……将を見つめていたい。
聡は、生徒達の中にいる将を見守っていた。
「鷹枝くん」
見上げると、机の前にみな子が立っていた。
「そろそろ下校時間だよ」
「……ああ」
将は広げていた問題集を片付けながら、聡の姿を確認する。
聡は……というと、他の生徒への指導の最中のようで、顔をあげない。
――放課後も、進学組は今まで通り、自習による補習が行われた。
将も、岸田助教授のところに行く日でない限りはギリギリまでそこで勉強していたのだ。
将は……今までもそうだったが、ずっと聡の姿を目の端で追っていた。
芸能活動を始めるようになって学校に来れない日が多かったのと……先週の聡からの別れの宣告。
あのことがあってから、将もまた、聡と同じ空気が吸える学校という空間、そして時間をこれまで以上にいとおしむようになっていた。
もちろん今まで通り、ネットと電話をつかった個人授業は復活させている。
だけど、こうやって生身の聡と同じ空間を共有しているという幸せ。……卒業まで1ヶ月を切った今、それが一層心に沁みいるようだった。
昨日の建国記念日もそうだったが、明日もあさっても会えない……人目ゆえに聡に自由に逢いに行くことがままならない今の将には、休日のほうがもどかしかった。
まだ無名だった頃のように、休日の聡を自由に訪ねられたら。
将は、昔を懐かしみつつも……将来の可能性のために今は勉強に打ち込むしかないのだ。
将は後ろ髪を引かれる思いで、教室の引き戸に手をかけた。
ちなみに『彼女』公認のみな子は、あいかわらず今まで通り、将と駅まで一緒に下校していた。
いらぬ誤解で聡との間を波立てたくはないから、本当は一緒に帰るのをやめるべきなのはわかっている。
だけど『私から逃げないで』と必死で訴えたみな子の声音を思い出すと将は躊躇してしまうのだ。
実は、将は復活した聡との電話授業の際に、みな子が「カモフラージュでいい」と言ったことをそのまま聡に伝えている。だが、聡は
『そんなのよけいに、かわいそうなんじゃないかな』
と静かに答えた。
『星野さん……、将のことがたぶん、本当に好きなんだと思う』
怒るでもなく泣くでもなく、電話の向こうから聞こえる淡々とした声は、よけいに真実味があった。
聡は別に、将にみな子との2ショット下校をやめろといっているわけではなかった。
あの病室で見せたような、激しい嫉妬と慟哭は……回線の中にはみじんも伝わってこない。
ただ静かにみな子の『カモフラージュ状態』がかわいそうだというだけだった。
将は「みな子と、単なる友達に戻れないかな」と言いかけて……やめた。
みな子の気持ちを知ってしまった将だ。
……つまり、今の状態は、みな子の純粋な将への好意を……愛情を、将はカモフラージュに利用しているとしか言い様がない。
そんな自分の狡猾さに、将は今日こそみな子に言わなくては……と思いながら、いざみな子の顔を見るとそれを言えないでいる。
将とみな子が廊下に出たとたん、将は下級生の女子に取り囲まれた。
「あの……、これ!」
一斉に差し出されるリボンがかかった包みを見て、将はようやく、今日がバレンタインデー前の金曜日だということを思い出した。
今年のバレンタインデーは日曜日になっている……だから、学校で渡せるとしたら今日になるらしい。
「どうも、ありがとう」
将はいちおう、芸能人の笑顔で答えた。
下級生はキャーっと一声あげるとダッと走り去ってしまった。
「カワイイね」
傍らのみな子がやや皮肉っぽくいう。
「コレ、どうしよう」
将は、両手と腹で支えるようにして、てんこ盛りになっている数個のチョコレートを見て困惑した。
カバンには入らないし、片手でずっと持っているわけにはいかない。
「カバンに入らないよね。……ちょっと待ってて」
みな子は教室に戻ると、なんと聡に声をかけている。
将は思わずギョッとした。
みな子に話し掛けられて、ちょうど生徒の指導に区切りがついたらしい聡は、将のほうを振り返った。
下級生からのチョコレートを抱えた将は、思わず生唾を飲み込んだ。
思わずチョコを隠してしまいたい衝動に駆られるが、手遅れだった。
「ちょっと待っててね」
聡は将に微笑みかけると、職員室のほうへと歩いていった。
週末で8ヶ月になるお腹はいっそう大きくなって、将は何か手を差し伸べたくなる。
だけど……人前では何も言えない。
「これで、入るかナ?」
聡は、大儀そうにお腹を揺らしながら職員室から紙袋を持ってきた。
たぶん、学校の封筒を注文したときのだろう、印刷所の名前が入っている地味な紙袋だが、大きさは充分だ。
「先生、すいません」
将は謝った。
――体裁としては、大きいお腹なのに、面倒なことを頼んですまない、という意味だが……もちろん別の意味を含んでいる。
「二人とも、風邪には気をつけてね」
聡は将とみな子に向かって笑顔をつくると、職員室へと去ってしまった。
第350話 涙の懇願(9)
――嘘!あたしみてたのよ。
喉まででかかったその言葉を聡はかろうじて抑えた。
……言葉にするのは抑えられたものの……悲しみと悔しさが新たな涙になってこぼれ落ちた。
将は、聡の涙を見て、動揺した。
「何で、泣くんだよ」
だけど、聡はそれを言葉にすることができない。
――将が嘘をついた。
嘘をついてまで、聡を手放したくない将の気持ち。
理性では理解しつつも、そんな将に対して胃を突き上げるような不快感を覚えてしまう。
「俺は、本当にアキラだけだから。信じてよ」
聡の涙に焦った将は、手をより強く握り締めてきた。
だけど、聡は、首を横に振ると
「まだ……たかだか18歳でしょ。出会いなんてこれからよ……」
震える声で言い放った。
自ら予言する将の新しい出会いに……聡の瞳からは自動的に涙がボロボロとこぼれていく。
聡はさっきから、打ち寄せる高波のような感情と闘っていた。
必死で食い止めていた防波堤は、漏れた涙がきっかけとなって、少しずつ崩れる兆候を見せていた。
将は将で、聡の自分への不信がまるで拭われないことに恐れつつ、なおも聡の涙にすがる。
まだ自分を好きだから……離れたくないから泣いているんだと、しがみつく。
「……泣きながら何いってるんだよ。アキラだって俺と別れるのが嫌なんだろ」
将に本心を掴まれ、突きつけられた聡は一気に限界を迎えてしまった。
聡は、自分の中の防波堤が小さな穴から一気に砂と化してとけるように壊れていくのがわかった。
崩れた残骸を乗り越えてくる感情の高波に、現実の体すら揺れそうになる。
聡は、涙でぐちゃぐちゃの顔のまま、キッと将を睨み付けた。
「そうよ。将と一緒にいたい。……だけど、将が離れていくのはいやなの」
聡の強い視線……そして強い口調に、将はよろけそうになるほどの衝撃を心に直接受けた。
聡はなおも叫ぶように続ける。
「魅力的な誰かに、将が心奪われていくのを見るのは嫌なの!」
将は強い突風に立ち向かうように、一瞬歯の根を食いしばる。
ここまで、聡が強い感情を見せたのは初めてだった気がする。
豪雨を伴う台風のような聡の……激情。
将の未来に現れる誰かへの嫉妬に……聡がここまで感情を乱すとは。
歓びに震えつつも、聡をなだめなくては。
いつもの穏やかで自分をリードしている……陽だまりのような聡に戻らせなくては……。
そう思った将は、なんとか聡を安心させるべく、必死で言葉を考える。
「絶対そんなことないよ!俺は一生、アキラだけを愛するよ、俺誓えるよ。」
「嘘!」
涙を飛びちらせるようにして、聡は将に対して聞く耳を持たない。
将は、握っていた手を聡の肩に添えながら、なおも続ける。
「うそじゃな……」「あたし見たのよ!」
稲妻のような聡の言葉に将は凍りついた。
時までも凍りついたよう……凍りついた体は聡の顔を振り返るのに相当の努力を要した……聡は、赤い目を光らせて、息も荒く将を見据えていた。
その視線に再度、将はゴルゴンに睨まれたかのように動けなくなる。
「何を……」
わかりきっているのに、将は、答えが違う可能性を、未練がましく求めている。
だが、聡は荒い息の下ではっきりと口にした。
「星野さんとキスしたのを、あたし見てたのよ」
「アキラ」
将の唇は聡の名前の形に動いたが、音声にならなかった。
将の人生で……いまだかつて、こんなに恐ろしいことはなかった。
だけど、こんなときですら、将は聡の顔から目が離せない。
「今でさえこんなにつらいのに……。この先、将に裏切られるなんて……耐えられない」
聡は喉の奥から絞りだすように、吐露した。そのふるえる声の一言も聞き漏らせない。
「アキラ」
目も、鼻も唇もすべて充血して紅くなっている聡は、大きく息をつくと、改めて宣言する。
「だから今のうちに、別れたいの」
それは新たなる涙をこぼしながらもしっかりとした声だった。
――うそだ。
将はがっくりと床に膝をついた。
「アキラ……。そんなこというなよ」
狂おしいほどの恐怖に将は包まれる。震えそうになる。……たった一人になってしまう恐怖。
「みな子のことは謝るよ。このとおりだ」
将は床に手をついて、頭を下げた。
「そんな……ポーズはいらないわ。同じ年の星野さんを好きになる将は……普通だもん」
鼻を啜りながらも、聡は突っぱねる。
「そんなこというなよ」
眉も目もゆがめながら将は顔を起こして聡を見上げた。
誠心誠意のつもりだったのに、にべもなく突っぱねられて途方に暮れた将に、いつか想像した漆黒の宇宙空間が広がりはじめる。
太陽を失ってしまう。軌道をはずれていく暗黒の冷たい惑星。
そうなってたまるか。
「アキラ、許してよ。……頼むよ」
土下座がダメだった将は、今度は聡にすがりつこうと手を伸ばす。
「何でもするから……。何でもするからさ」
声が思わず裏返っている。
もう、格好なんてつけていられない。
聡を失うことに比べたら、他のことなんて何の価値があろうか。
「ねえ、アキラ……アキラってば」
聡が本当に離れてしまったら。将の中に恐ろしい寒さが蘇った。
北海道で何度か体験した……涙ですら一瞬で凍るほどの寒さ。
「そんなことで……俺達別れていいのかよ!」
将は渾身の力で訴えると聡を見上げた。
しかし聡は目に涙をためたまま、将のほうから視線をはずして……二人の視線はからみあわなかった。
将の瞳は聡から取残されて、すでに孤独の片鱗を味わい……将はどうしていいかわからなくなる。
沸騰するのではないかと思うほど熱くなった眼から……聡の姿がかすんでいく。
ぼやけた視界の中の聡は静かに言った。
「……いつか、将はあたしを捨てるわ」
「捨てないったら!ねえ、アキラ」
将は叫ぶと、そっぽを向いたままの聡の手にすがりついた。
手にぼたぼたと温かいものが落ちる感触に、そっぽを向いていた聡は思わず振り返った。
将は泣いていた。
涙をこぼすなんてものではなかった。大きく見開いた目から涙がぼろぼろと流れていく。
それをぬぐおうともせず、将はなおも哀願を続ける。
「アキラ、俺を見捨てないで、見捨てないでよ」
「将……」
「頼むよ……頼むから、俺を捨てないでくれ」
垂れる鼻水をぬぐおうともせずに、将は聡に懇願を繰り返した。
はっきりいって、無様な姿だった。子供のようだった。
「……泣かないでよ」
みっともない。
そう言おうとしたのに、聡の瞳からも涙がこぼれて、将の姿がぼやける。
「……俺、ひとりぼっちになっちゃうよ」
将は鼻を啜りながら呟いた。
そのあまりにも心細げな将の声に、手の甲で自らの涙をぬぐっていた聡は、将の顔をもう一度見る。
目は真っ赤に充血し、かすれた声が漏れる唇は腫れて厚ぼったくなっている。そこにイケメン俳優の面影は、もはやない。
垂れる鼻水もそのままに、聡と瞳をあわせた将は叫んだ。
「大悟もいなくなって……、ヒージーも死んで……、アキラまでいなくなったら!俺、マジでひとりぼっちだよ!」
みっともない将の姿を目にして。
あるいは『ひとりぼっち』という言葉ゆえに……聡の心の最も温かいところで、急に別の感情が芽生えた。
それは芽生えるなり、『ジャックと豆の木』のように伸び始めていく。
とまらない聡の涙に希望を見出したのか、将はそのままむしゃぶりついてきた。お腹にすがりつくように。
「アキラ……別れるなんていわないでよ」
その姿は本当に小さな子供のようだった。
寝巻きに将の涙と鼻水がしみこんで、赤ん坊がいる肌にじわりとした感触を伝えた。
それに起きたのか、お腹の赤ん坊が聡のお腹の皮をけっとばした。
「将」
「……ずっと一緒にいてくれよ。頼むから……もう二度とあんなことしないから」
聡はお腹にすがりつく将を見下ろした。将はしゃくりあげながら、聡を見上げてなおも懇願する。
涙で濡れそぼっている睫の下の目は真っ赤だ。
「俺は……俺の人生は聡次第なんだ。だから、ずっと俺と一緒にいてくれよぅ」
一度動き出した赤ん坊は、いつになく活発にぐるぐると動き始めた。
その振動がわかったのか、将はいっそうお腹に頬を押し付けるようにした。
「ヒージーだって、聡に俺のこと頼むっていってたじゃんか。……子供だって俺と別れたくないっていってるよう」
お腹の中には将の子供。そして子供のように泣いてすがる将。
……確かにそうかもしれない。子供は聡の中でしきりにぐるんぐるんと動いた。
父親と離れたくないと、懇願しているのかもしれない。
「ううーっ……」
それっきり言葉にならず、将は声をたてて泣くと、聡のお腹に顔をうずめた。
「将ってば」
子供みたいに声をあげて泣いてすがる将に……聡はなんだか可笑しくなる。
笑いたいのに涙がこぼれてしまう。
急速に育った感情は大木のように二人を見下ろしていた。
嫉妬も、世間体も、何もかも……その木陰に溶けて……聡は何も考えられなくなった。
――母性本能。
たぶん、これがそうだろう。体の真ん中から湧き上がってくる、聡の中の、もう一人の『女』。
それに聡の理屈は完全に負けた。
離れられない。
先のことなんて……今はどうでもいい。
ただ、離れられない。
……ひたひたと湧いてくる将への純粋な愛情に……聡は、しばし飲み込まれるしかなかった。
第349話 涙の懇願(8)
「だから……将。あたしと離れて。自由に生きて。将の才能を活かして……」
「嫌だ!」
聡が言い終える前に、将は鋭く叫んだ。
「何いってんだよ!アキラと離れられるわけないだろ!」
将は目をむいて、聡の細い肩を掴んだ。あまりに強く掴んだので、肩の骨がきしんで痛む。
「俺の才能とかいうけど、それを引き出してくれたのは聡なんだぜ!」
唾がかかるほどの至近距離に将の必死の顔があった。
顔をそむけるほどの余裕もないほどの距離。
かろうじてそらしている聡の視線を、将は自分のほうに向けようと懸命に肩を掴み……それがかなわないとわかると、ついに聡をもう一度ぐいっと抱き寄せた。
「……アキラと離れるなんて、死んだほうがましだ!」
ついに、口にした死という単語。
軽軽しくそんなことをいうものではない……たしなめようと肩の上に覆い被さる将を振り返った聡は、将の……これ以上ないほど哀しい瞳の色をみた。
聡がいままで見た中で、もっとも哀しく寂しい瞳。
おそらく……肉親に捨てられるときの子供の瞳もこんな感じなのかもしれない。
見たことがないけれど、聡はおもわず、たった一人で置き去りにされる子供を想像した。
「しょう……」
そのまま心が透けて見えているような、透き通った茶色の瞳に聡は、理性とは別のところで聡を動かした……聡は無意識に将の髪を撫でていた。
それで、将はいくぶん落ち着いたのか、声のトーンを落として……懇願する口調になった。
「アキラ……。頼むから俺からはなれるなんて言わないでよ」
その唇も瞳もあいかわらず至近距離にある。
聡が将のそれを撫でるように、将も聡の髪を指にからめはじめた。
「……二人で考えようよ。きっと二人別れなくても、世間からコソコソ隠れないでも、幸せになる方法があるよ。きっと」
将の茶色の瞳に、ベッドサイトのスタンドの山吹色の光が映っている。
それは、二人で歩いていく温かいの未来の象徴のようだった。
きっと将には、その陽だまりの道が見えているであろう。
だけど、聡はそっと首を横に振った。
聡の出した答えとて……大人がよくよく考えて出した結論なのだから。
否定した聡に、将は狼狽をかくさず、ため息をついた。
少し下を向いて考えると、笑顔を聡に向けた。少し残念そうに眉が下がった笑顔。
「……なんだったら、すぐに結婚しなくたっていい。何年か先……、俺が……叩かれても、どんなスキャンダルを起こしても必要とされる実力を身に付ければ問題ないでしょ」
実力、という自らが思いついた言葉は将に希望をもたらしたようだ。
残念そうな顔が徐々に明るい顔になっていく。
「そうだ、そうすればいいよ。俺が実力を身につけるまで……二人のことは隠せばいい。なんとかなるよ」
この1年で俳優として大きな成長を遂げ、そしてたった4ヶ月の勉強で難関私大に合格することができた将は、努力して実力を身に付けることの果実を味わっている。
将にとって、社会から必要とされる実力は、もう身近なものになっているのだった。
将は聡に言い聞かせつつ、自らを納得させるようだった。
「ね、アキラ」
将は聡の頬を再び掌で包もうとした。
あらためてキスをしようとした将は、こんどは聡が徐々に寂しげな顔になっていくのに気付いた。
それにかまわず、唇を寄せる。2つの体温が交差し……唇と唇が触れ合う直前。
「だめよ」
聡は無造作に呟いた。
驚いた将は、焦点があう位置まで顔を戻して聡の表情を確認した。
聡の顔は寂しさを通り越して絶望という虚しさに、モノトーンのように色を失っていた。
聡は将を見ずに続けた。
「将は……そのころには、将はきっと、あたしのことなんかどうでもよくなってる」
聡は……ぽろっと言ってしまった自分に驚いていた。
こんなことを言うつもりではなかったのに。
希望に満ちた将の未来。将がいうとおり、きっと将は着実に実力を身につけていくのだろう。
将が身につけていく実力……可能性。
それは彼の中を占める、聡の面積を徐々に狭めていくのではないだろうか。
そしていつか……将の中から、自分が不要になる日をもたらす。
それに怯えた聡の中の感情の一部分が……つい剥き出しになってしまったのだ。
本当は違う。
将に幸せになることの邪魔はしたくない。
なのに。
……将を失いたくない。
将への不信を口にするのが本当の自分なのか。
それを否定するほうこそ本当の自分なのか。
驚いたのか、困惑したように自分を見つめる将。
一度発した言葉は否定できない。
いや本当は否定したくない、将の本心を今こそ確認したいというもう一人の自分に抗えなくて、聡は言い訳をしないことに決めた。
ただ、将を見つめる。
「アキラ、何いってるんだ……」
反射的にそう答えつつも、将は聡の瞳に完全に射抜かれていた。
聡の瞳はエックス線のように、将の中の後ろ暗さを探り出した。
あのときの、みな子への……揺らぎ。
みな子へ口づけしてしまった、自分への後悔。
見てみぬふりをしていた、聡への罪悪感が、聡の視線によって否応なく照射され浮かび上がってくる。
「これから……もっと、将のまわりには素敵な人が現れるわ」
聡はそういうと、照射していた視線を下に下ろした。
射抜くような視線は怖かったのに……それが将から離れてしまうと、取り返しがつかないことをしてしまったように将は落ち着かなくなる。
将は、とりあえず聡の顔を自分に向けるべく、語りかける。
「関係ないだろ。俺は、ずっとアキラ一人だから。いつまでもアキラだけだから」
聡は伏せた睫のあたりに虚しさを漂わせて、将のほうを振り向こうとはしない。
「アキラは特別な人だから」
そういうと将は聡の両手を拾い上げて、ぎゅっと握り締めた。
少し冷たい指は、将の掌にその重さを預けながらも、死んだ魚のように脱力していた。
――やっぱり、あのことか。
急に、他の女の事を匂わす発言をする聡。
心当たりといえば『あれ』しかない。
焦った将は
「ひょっとして……あんな週刊誌、気にしてるの?……本気にするなよ。バカだなあ」
とついに自分の後ろ暗さの正体を自ら切り出すハメに陥った。
何でもないことだと、懸命に繰り出すアドリブ。
だが、せいいっぱい明るく演じるそれは、スタンドの灯りが届かない薄闇に染まる壁に空虚に響くのみだ。
聡はその表情を変えない。
将は自分の演技力の底の浅さを呪った。
しかし、言い出してしまったものは、仕方ない。
将は喋り続けるしかなかった。
「言ったろ。○○谷さんは、クリスマスのとき、聡に逢いたくて郡山からレンタカーを飛ばしてきたときのだし、みな子は……」
雑誌の写真は、顔が重なっているだけだった。
だから将は……聡に誤解だと思わせたくて嘘をつく。
「あれは角度でそんなふうに見えただけで。……ふざけてただけだよ。実際には……してない」
将がそこまでのアドリブをなんとか言い終わったとき、静かに……聡が瞳を動かした。
それを見て将はドキッとする。
しかし……ここは、嘘をつきとおさなければならない。
いや、嘘などではない。将の中では『事実』なのだ。
みな子にキスはしたけど……あれは一瞬の気の迷い。
本当に好きなのは……必要なのは……失いたくないのは聡なのだから。
第348話 涙の懇願(7)
熱い将の腕に抱きしめられて、聡は体中でこわばっていたものが、しゅうっと溶けてそれが瞬時に甘い感覚に変化していくのを感じた。
疑いも、離れていた隙間も、一瞬にして埋めてしまう将の体温。そして干草のような香り。
すべてを忘れてしまう。
ひときわ強く抱きしめようとする将に、聡はかろうじて我を取り戻した。
「ダメ」
聡は将をふりほどいた。
今までくっついていた体のあちこちから、粘りついた未練が糸をひくようだ。
将も同じらしく、瞳に驚きを、半開きにした唇にせつなさを浮かべて聡を見下ろした。
「冗談なんかじゃないの」
聡の視線はそんな将の顔を正視できずに見る間に下に下がった。
将は、上下ともスウェットを着ていた……つまり、着替えもせずに飛び出てきたのだ。
下がっていく聡の視界から将の姿が完全に消えたとき、将が口を開いた。
「アキラ……」
「冗談じゃなくて……あたし、将と別れる」
将を遮るような聡の言葉。
「何言ってんだよ!」
将はかがんで聡の肩を取ると、俯いた聡の視界に無理やり自らの姿を割り込ませた。
聡はそれを避けるように横を向く。
「もう、決めたの」
「決めたって。……何ばかなこと言ってるんだよ!アキラ!」
将は掴んだ聡の肩をゆさぶった。顔がガクガクと揺さぶられる。
「おい、アキラ!」
聡はしばらく目を閉じて、将に揺さぶられるがままになっていた。
「やめて。お腹が……」
やっと口をきいた聡に、将は肩を揺さぶるのをピタリと止めた。
膨らんだお腹の中は、揺さぶられたのが刺激になったのか、ぐるり、と動いた。
それをも無視するように聡は、あいかわらず将の顔をみないように顔をそむけていたが、右頬に痛いほど、将の視線を感じていた。
どんな顔をしているかも……みなくてもわかる。
「なんで……そんなこと言うんだよ。……ねえ。アキラ」
聡の頬は、将の両の掌でそっと包まれた。大きくて温かい手。
この手に包まれて……何度口づけしただろう。
こんなときですら、将の掌を感じた聡の頬は……産毛からしみこむような甘い歓びに脳髄ごと震えている。
「こっち向けよ。俺の顔をみろよ」
将はその甘い感触の掌に力を込めて、むりやり聡の顔の向きを変えた。
……まるで、キスする前のように、将の顔が目の前にある。
きっと将は……そのまま口づけするつもりだったのかもしれない。
口づけはきっと抱擁以上に甘く、聡の全身を支配して……将から離れられなくするに違いない。
しかし、聡は辛くも将の顔を見据えた。
聡に見捨てられてしまう不安に、大きな眼は見開き、眉が不安そうな形に寄っている。
それはさっきの疑惑……将が聡からの別れを待っていたという疑惑を完全に吹き飛ばした。
安心した反面、いまからすることへの心の痛みを想像すると聡はひるみそうになる。
だけど、思い切る。
「あたしに……しばられないで生きてほしいの」
声がうわずる。だけど願いをなんとか音声に変えることができて……聡は将の次の動きを待つ。
「なんだよ、それ」
将の眉がゆるんだ。笑顔をつくる余裕ができたらしい。
思いの真意が伝わっていないと焦った聡はさらに言葉を重ねる。
「あたし、将に、好きなように生きてほしいの」
将は完全に優しい顔になると、聡の頬から手をはずした。
「俺は、もともと好きなように生きてるよ?」
将はベッドの……聡の隣に腰掛けると、聡の肩をぐいっと引き寄せた。
体の力が抜けてしまい……必然的に将の腕に体重を預ける形になった。
今度は肩の血流が甘い振動をたてるのを感じながら、聡は哀しくなる。
「何心配してるんだよ。俺は、アキラとこうして一緒にいたいの。アキラと一緒にいるのが俺の一番やりたいことなの」
優しい声。
聡は思わず目に熱いものが溜まるのを必死で堪える。
泣いたらいけない。泣いたら、感情にひきずられてちゃんと説明できなくなる。
「違う……」
聡は塩辛くなりつつある唾液を飲み込みながら、反論する。
「将、聞いて」
「聞くよ」
将は、肩から聡の髪に指をからませる。……そのまま、うなじから頭に掌を沿わせ……聡の頭を撫でた。
将の手が通ったあとは、まるで花が開くような歓びに彩られる。
聡は脳を占めていくそれに抗わなくてはならない。
快感にしびれたような部分の残りで将を説得する道筋を考えなくてはならないのだ。
「……将は、有名人でしょ」
「そうだね」
まるで聞いてるんだか聞いてないんだか……幼い子供のたわごとに相槌をうつかのような優しい声音。
「このまま子供が生まれたら……子供を将の子だって世間に公表したら……大騒ぎよ」
将は指の腹で聡の頭皮を軽く優しく叩く。
「そんなこと、最初っからわかってたし。……どうでもいいよ。騒ぎたいやつは騒げばいい」
「将」
聡は、寄り掛かるようにしていた体を起こすと、将を見据えた。
聡が真剣な顔で真正面から将を見据えたので、将の眉は再び……少し不安げな角度をとる。
「そんなところが、ダメなの」
ダメ、といわれて将の唇は半開きになった……意外な言葉に息が止まっているようだ。
「将。きいて。教え子が担任を妊娠させるなんて、普通の人だって大騒ぎになることよ」
いつのまにか、将の唇はぎゅっと結ばれている。
その瞳は憮然と聡に注がれている。
「まして、あなたは芸能人で顔が知られている。……きっともう、どの世界でも生きていけないほど叩かれるでしょうね」
「そんなこと……」
将は反論の糸口を口にしようとした。だが聡はその糸口を素早く拾ってしまった。
「そんなことって?」
吐き出すような反論の言葉が止まる。聡の目が真剣だったからだ。
「どの世界でも生きていけない状態で……、あたしと結婚して……あたしと子供と、どうやって暮らすの?」
「アキラ……」
どうにかなる、と言いかけて……さすがにそれは無責任すぎる言葉だと気付いて将は黙る。
「……あたしだって、教え子を誘惑した教師なわけだし……。就職できなくなるかもしれない」
聡が言っていることは正論だ。だけど、将はやりきれなくなる。
『どうやって暮らす』……つまり生きていく具体的な方策……突き詰めれば金。
聡と一緒にいることの前ではそんなことはちっぽけでくだらなくて、小汚いことだ。
そんなくだらないことで、聡と離れるなんて。
認められない将は、必死で方策を考える。
「金なんか!……デイトレーディングでいままでどおり稼ぐよ」
現に、芸能界に入るまで、そうやって大金を――愛車を手に入れるほどの金を――稼いできた将である。
「将……」
聡にも将の思いはわかっている。
生きていくための具体的方策なんて……そんな些細なことで将を説き伏せることができるはずがない。
聡自身、固い愛情さえあれば、そんなことは乗り越えられると信じたい。
だけど、むしろその固い愛情、というものに聡自身、自信が持てない、などと……そんなことは言えない。
だから、聡は生きる方策や世間体を並べ立てるしかない。
「将は、……それでいいの? お金の問題はいいとして……世間から隠れるようにしてコソコソ暮らすことに耐えられるの?」
「耐えられる。アキラがいれば」
将は即答すると、再び聡の肩をぐっと引き寄せた。自分の熱い心臓の音を聞かせるように、その頭を胸に押し付ける。
「アキラがいれば、世間から叩かれようと、なんだろうと耐えられる。耐えてみせるよ」
将は胸の中の聡の髪を撫でながら、噛み締めるように言い聞かせる。
「だめよ」
しかし、それは一瞬で、聡は将の胸を押すように離れた。
「そんなの、あたしが嫌」
「アキラ」
驚きのあまり哀しげな顔にさえなっている将を、聡は努力して睨みつける。
そうしないと、崩れてしまいそうで。
「将の才能を……、将の未来をあたしのせいで台無しにするなんて……。あたしが嫌なの」
「アキラ」
「コソコソ生きる将なんて、見たくない!」
第347話 涙の懇願(6)
「え?」
聡の声は明瞭に聞こえていたが、意味が脳に届かなくて――脳は聞きたくない言葉に対してしばしバリアを張る場合がある――将は、反射的に訊きかえした。
「将とは、結婚、しない」
まるで外国人に話すように、ゆっくりと、かつはっきりと聡は繰り返した。
「何、冗談言ってんだよ」
将はハッと笑ってみる。態度からそれを冗談だと自分に言い聞かせるが如く。
聡の言葉を……あくまでもまっすぐに受け取らないのは、この場合本能なのだろうか。
「……冗談なんかじゃない。将、聞いて。あたし、将とは結婚しないことに決めたの」
低いくせに温かみのある声。それは決して将をいたずらに驚かせようとしているのではない。……そのくらい将にもわかる。
「もう、決めたの」
さらに聡は静かに繰り返した。
「何、言ってんだよ」
本気らしい聡に、将はそれでも、やりきれないため息を吐きながら『ばかな』という口調で応対せざるを得ない。
「結婚しない、って……子供はどうすんだよ」
心臓が、あまりの恐怖に波打ちはじめている。聡を失う恐怖は生命を脅かすそれのように、将を追い詰めていく。
核心を直視するのが怖い将は、とりあえず二人の前に横たわる現実を拾い上げるしかない。
「子供は……あたしが、ひとりでちゃんと育てる……」
「俺は、父親だろ!」
動揺した将は、聡の言葉に大声で割って入る。
『ひとりで』と聡はたしかに言った。
つまり聡は将と別れるつもりなのか。
聡自身から核心を伝えられるのを本能で恐れた将は、将は黙っていられない。
「将」
だが聡は、静かな調子で将を制すると、さらに奥へ……むきだしの本題へと進む。
「あたしたち……別れたほうがお互いのためだと、思う」
聡のほうも……酸素が薄くなったような苦しさの中から、言葉を絞りだしていた。
将は、バットで殴られて地面に投げ出されたように、ショックで言葉が出なかった。
飲み込んだ息がそのまま、体の中で凍り付いている。
『別れ』。聡はたしかにそう言った。
聡が自分の前からいなくなる。
将は、もはや聡のいない世界など想像もできない。いや想像もしたくない。……ありえない。
暫しの沈黙ののち、ようやく問い返す言葉が出る。
「何で……そんなこと、いうんだよ」
聡がなぜそんなことを言うのか、あまりにもショックを受けた将は、考えることすらできない。
「将に……、あたしに縛られないで、自由に生きて欲しいから」
聡は……さすがにもう一つの理由は言えなかった。醜い独占欲に由来するもう一つの理由は……言うつもりもない。
別れの間際に、醜い自己を晒したくない。
聡は今まで生きてきた中でもっとも重い空気に、胸が不自然に上下するのを耐えながら、将の言葉を待った。
しかし、意外なことに。電話は予告もなく、プツッと切れた。
思わず、聡は携帯を耳から離すと、ディスプレイを確認する。
……間違いなく将とつながる電波は切れてしまっていた。
聡は、肺にたまった重い空気を吐き出した。空気と共に体中を強ばらせていた力も抜けていった。
これで、終りなのだろうか。将は、納得したのだろうか。
信じられない。
聡は、将にこちらから電話をかけようか、何度となく迷った。
しかし、なんとか自分を抑える。こちらから掛けるわけにはいかないのだ。
掛けたとして、どうするのだ。
電話を掛けて、別れを納得してくれたのか確認するなど……できるはずもない。
聡は、気を取り直すと、ベッドの上で仰向けに上体を倒した。
白い天井は、スタンドの明かりを映して、くちなし色から灰色へのグラデーションになっている。
明日は退院だ。
まだ10時前だが、少し早めに眠るべく、聡はテレビも付けずに、ナイトキャップがわりの文庫本を開いた。
だが……案の定、眠りが訪れないどころか、文庫本のストーリーも一向に頭の中に入ってこない。
聡の頭の中では、何度となく……煩わしいほど、さっきの短いやりとりが、リピートしている。
将は納得したのだろうか。
いや、あれだけで納得するはずがない。……将はまた、きっと電話を掛けてくる。
聡はとうとう文庫本を閉じると、視線を天井に移した。
だけど。
さっき……電話を切ったのは将のほうからだ。
冷たい理性という思考が、聡の感情に確認したくない事実を突きつける。
もしかして……、まさか将は……別れを待っていた?
聡は目をカッと開いた。
もしかして、将の聡への気持ちは……とっくに褪めていたのだろうか。
自分とのつながりは、『子供に対する責任』のみになっていたのか。
だから、聡の別れの申し出は、むしろ歓迎すべきものだったのだろうか。
理性は残酷に……聡が望まない道筋を次々と組み立てていく。
――いや!
聡は思わず起き上がった。
自ら思いついた考えの恐ろしさに、震え始める。
それを抑えるように膨らんだお腹に手をあてる。胎児は沈黙したままだ。
そんなはずはない。
聡は、将が自分を愛している証拠を、記憶の中に探した。
愛の記憶は、溢れんばかりにあった。
だけど……今年になって。あの元旦のみな子とのキス以降、それは見つからなくて、聡は崖っぷちに立たされる。
違う。決して違う。
聡は必死で否定する。クリスマスには、大晦日の夜には。
だけど、恋は自分にもそうだったように、突然落っこちてくるものなのだ。
将の中で、みな子の存在がいきなり膨らむ、というのは充分にありえることなのだ……。
冷静な思考が、聡の感情をズタズタに切り裂いていく。
だけどボロボロになりながら、聡の感情はまだ叫んでいた。
これで終わるはずがない。こんなにあっけなく、終わるはずがない……。
突然、大きな音がした。
聡はハッとして、顔をあげた。
そこには……将がいた。病室のドアが開いて、将が立っていた。
伊達眼鏡も変装も何もしていない……聡が一番逢いたかった将の姿が、突然現れたのだ。
将は肩で息をしながら、病室のドアを後ろ手で閉める。
入ってきたそのときから、聡の顔から視線を少しもはずさない。
「アキラ……、何で泣いてんだよ」
将がいうとおり、聡の目はさっきから、涙をこぼしていたのだった。
それは……布団のカバーをしっとりと濡らすほどだった。
「……しょう」
目を紅く充血させた聡は、まだ信じられなくて、近づいてくる将を見上げた。
涙は止め処もなく溢れてくる。
「アキラ」
将は瞳を濡らしたままの聡に手を差し伸べる。
そのまま抱きしめようとする大きな手を……聡はかわした。
「どうやって、ここに来たの? ……面会時間は過ぎてるでしょう」
「そんなことどうでもいい」
将はそれだけ答えると、有無を言わさず、無理やり聡を抱きしめた。
「さっきの、電話……なんなんだ」
さっきの聡の言動に比べれば……どうやって家を抜け出したか、そしてどうやってナースを説き伏せてここへたどりついたかなど、些細なことだった。
聡のぬくもりに触れた将は、凍りついた息がようやく溶けたように、吐き出しながら背中を撫でた。
「……冗談にしてはひどすぎるだろ」
将は聡の髪に顔をうずめながら、その甘い香りを吸い込みながら、抗議した。
第346話 涙の懇願(5)
着信音に、聡は思わず体を震わせた。
ベッドサイドのスタンドだけを付けて……聡は携帯の中の将を見入っていた。
高2の頃からの、将の笑顔。
その将の着信音だとわかっているのに、身体は震えるだけで……縛り付けられたように動かない。
出なくては……通話ボタンを押さなくては、と思うのに心が拒否している。
電波をつなげたら最後、言わなくてはならない。
……ちょうど、そのとき。
おなかの皮の内側でくるりと動く気配があった。
胎児が寝返りを打ったようだ。
いとしい、将の子供。
将のために、そして自分のために。覚悟を決めなくてはならない。
聡はごくり、と生唾と共に覚悟を飲みくだすと、人差し指で通話ボタンを押した。
「もしもし」
「アキラ!」
――だめだ。やっぱり言えない。
将の明るい声を聞いた聡は、大いにひるんだ。
やっと聡の声を聞けた嬉しさにはずむ将の声。
長いこと乾いた砂漠を歩いていた旅人が、水にありついたかのような、そんな声で聡は呼ばれたのだ。
「将」
応える自分だってそうだ。将の声を……もう1週間以上も聞いていない。
北海道ロケが終わって、東京に帰れるという知らせをもらって以来だ。
何も知らない将は、はずむ声で続ける。
「アキラ、俺、いちおうK大に受かったよ。関係ないけど、いちおう」
どうでもいい口調を装いながら、嬉しさがにじみ出ている将の声。
「うん。……知ってる。今日、お母様に聞いた」
夕方、純代に将の合格の一報を聞いた時、聡は『そのとき』が来たことを感じていた。
「なーんだ。知ってたのか」
「うん。よかったね……」
いや、でも本命は東大だし。どうせ行かないところだし。
そんな将の声の……言葉の意味はとうに脳に届かず……聡は将の声だけに耳を浸していた。
初めてあったときに比べるとずいぶん男っぽくなった声。
低いその声は……ぶっきらぼうな中にも、聡の名前を呼ぶときだけ、大事そうに、そして確かめるような声色が含まれている。
その声を聞くだけで、心をそっと撫でられたような快感が走る。
心の表面に生えた柔らかい産毛が、なびくようにそよいで……幸せに浸される。
将が好き。将を愛している。でも。
『そのとき』は今だ。
それは……決意を実行するとき。
将と、訣別するとき。
将が無事、一流大学に上がる目途がついて、次の撮影まで3週間以上ある今が、それを言い出すチャンスである。
聡はずっと前からそれをわかっていた。
聡と結婚しないなら、将は何も無理して東大を受験する必要はない。
K大だって……充分立派なのだから。
もし、仮に東大を受験して、万にひとつ、合格したとして。
18歳で担任教師を孕ませて結婚したという事実がどんなに将の未来に傷を付けるだろうか。
そして将の後ろにあるさまざまなものを壊すか。
聡にはそれがわかりすぎていた。
最初から……妊娠したときから、いや、将を愛し始めた時からわかっていたのに……将の情熱の前に、乗り越えられるような錯覚を起こしていた。
将が一般の若者だとしても世間は冷たい視線を突き刺すに違いないのに、まして将は俳優だ。
世間に隠れて、年上の教師を妊娠させた人気俳優に、マスコミがどんなふうに騒ぐか。
詩織の件だけであれだけ騒いだのだ。
いや、あれはドラマの宣伝をかねての『美談』だが、聡とのことが世間に明るみに出れば、俳優としてだけでなく、父の跡を継ぐ道もたぶん閉ざされるだろう。
それに総理を目指す将の父の康三にも悪影響を及ぼすに違いない。
それに……世間体もそうだが、聡自身が怖かったのだ。
まだ若い将の、固まりきらない愛に依存して生きる自分の未来が不透明すぎて。
一連の将のスキャンダルで聡が再確認したことがある。
それが、将の若さだった。
今回は、聡を裏切るところまで至らなかったけれど、いつかきっと。
詩織やみな子のように魅力的な子に心揺らぐときが来るかもしれない。
将より先に年老いていく聡。それだけは揺るぎない事実なのだ――。
その考えに至った聡は、苦しい胸から苦く湧いてくる唾液を飲み込む。
本当は……そんな先のことを想像する自分が何より嫌でたまらない。
将に愛されなくなる自分を悲観する……将の幸せより自分がいつまでも愛されることばかりを望む自分があさましくて、聡は吐き気がしそうになる。
じゃあ、自分は将をいつまでも愛し続けられるのか。
聡の前に、自身の過去が立ちふさがる。
あれほど好きだった、4年も付き合った博史を……聡は自ら捨てている。
自分自身をも信じることができなくて……聡は絶望していた。
だから、いっそ別れてしまったほうがいい。
将のために。そして自分がこれ以上醜くならないために。
まだ若い将だから。
心に傷を負ったとしても、3週間あれば、どうにか仕事ができる程度まで回復できるだろう……。
子供のことは、自分さえしっかりしていれば、きっとどうにかなる。
冷静に考えれば考えるほど、将と別れるのは今が最良のタイミングなのだった。
「アキラ、……アキラ?聞いてる?」
電話の向こうでおどけて聞いてくる将。
聡の心のうちなど、何も気付いていない将。
――子供なんだから。
聡は思わず微笑んで携帯電話を掌で包み込む……それが将自身の分身であるように。
他人にはひねくれて、大人びていたりするのに、聡の前では子供な将。
限りなく無防備に心を開く将。
そんな将に、自分は今、一番残酷なことを伝えるのかもしれない。
聡は胸が締め付けられるように苦しく、そして破裂せんばかりに痛んだ。
だけど、言わなくては。
ふいに聡は庭木の剪定を思い出した。
父が……若くみずみずしい芽が吹いている枝を容赦なく切り落としている。
それはひどくもったいなく、そして切られてしまう芽がかわいそうに見えた。
『可哀想じゃない?』
そう訊いた聡に、父は答えた。
『全部伸ばすと、木が弱ってしまうんだ。どの枝を伸ばすか、選ぶのが木のためなんだよ』
将の持っているさまざまな幸せの……可能性の芽。
聡との恋というひときわ瑞々しい芽は、将自身の先行きをきっと弱らせてしまう。
だから、今、剪定しなければ――。
「将」
聡は背筋を伸ばした。
「あたし」
スタンドの明かりだけの病室。
目の前の暗がりに、まるで将がいるかのようにまっすぐに視線を伸ばす。
そして、思い切る。
「将とは、結婚しない」
第345話 涙の懇願(4)
「すっごい強運だね。……これで運を使い果たしてないといいけどね」
将のセンター試験の結果を聞いた岸田助教授は笑った。
キツイ皮肉ではあるが、柔和な笑顔と声に、それは罪のないものになってしまっていて、将も頷きながら顔を崩した。
将は、ひさしぶりに学校帰りに教授の研究室を訪れて、論述の指導を受けている。
今週からカレンダーは2月になっていた。
撮りだめを終えた将はようやく学校に顔を出すことができた。
センター試験が終わってすぐに北海道に飛んだのが功を奏したのか、スキャンダル騒ぎも下火になり、学校にやってくる記者もほとんどいなくなっていた。
ただ、連続ドラマがもう3回が放送されているせいか、将の注目度自体は高まっているといえる。
落ち着いた大人ドラマで定評のある木曜10時枠で放送されているせいなのか、今までは騒ぐのはギャルくらいだったのに、OLや主婦の視線を感じることも多い。
視聴率の方は、2回目に少し落ちたものの、3回目はやや持ち直すというよくある推移をたどっている。
15%を越すことはなさそうだが、低調が続く他のドラマと比較すれば、まあまあの健闘といえる数字に関係者はほっとしていた。
将の演技については、父親のことが明るみに出て以来、最初のドラマということでネット掲示板には
『親のコネ。大根もいいところ』
『無駄に身長が高いだけのでくのぼう』
などといった意地悪なカキコミも相次いだ。しかし専門家筋は
『鷹枝将がここまでやれるとは思わなかった。周りの芸達者な俳優達と実に自然に調和している』
と絶賛に近い感想を寄せる者もあった。
新聞や雑誌に載ったそれらは、もちろん武藤が見つけ次第将にFAXしてくれる。
インタビューの依頼も殺到しているらしいが、1月いっぱいですべてストップしてくれた。
だから将は、2月25、26日で前期日程の2次試験が終わるまでは受験に専念できることになる。
しかし、聡の入院は長引いていた。あのあと、再びの出血をみたからである。
将が学校に登校するようになっても、教壇に聡の姿を見ることはなかった。
将は胸がつぶれる思いだったが、見舞いに行くわけにもいかない。
担任の先生を心配する単なるいち生徒として見舞いに行けば、とも思ったが、注目を浴びる自分が目立つ行動をするリスクは純代に言われなくてもわかっていた。
だから将は聡を心配する心の声を無視するように、勉強に専念するしかなかった将だが、今日はその心労からも解放されている。
昨日、聡から明日の土曜日には退院できるとメールをもらったからである。
土日に会いにいくわけにはいかないだろうが、月曜日には顔を見ることができる……将の心は明るかった。
指導を受けている途中で、岸田のデスクの電話が鳴った。
自分の仕事の資料を眺めていた岸田は、それから視線を移すことなく受話器を耳に持っていった。
「岸田です。……ああ、来てるよ。……そうか、よかったな」
そう答えると岸田は、将にちらりと目を走らせた。
将のほうは、岸田に与えられた論述問題に取り掛かっている最中で、岸田が話す内容などまるで聞こえていないらしい。
集中している将に、岸田は満足げに口角をあげると
「……わかった。伝えとく」
と、受話器を置いた。
だが、岸田は何もなかったように黙ったまま、暫く自らの仕事に戻っていた。
「終わりました」
……やっとなんとかまとめた将が答案を岸田に差し出した。
制限時間を2分オーバーしてしまったのに、岸田は将に目をやると
「おめでとう」
とニヤリと笑った。
「ハ?」
「いま、お母さんから連絡があって、K大から合格通知が来たそうだ」
将の父、鷹枝康三の出身大である、一流私立大学。
ごく少人数ながら、センター試験の成績を提出するだけで受験できる枠があり、将は見事そこに合格したのだという。
「……そうですか」
将は淡々と答えると冷めたコーヒーをぐっと飲んだ。そして間髪入れず、次の課題を手にした。
「一流大学に合格したのに、それほど嬉しくなさそうだな」
「僕は、東大以外に進む気はありませんから」
将は課題からまったく顔をそらさない。
岸田はくっと笑いながらうなづくと、将の論文にざっと目を通した。
時間をオーバーしたものの、現役受験生としてはかなり巧みにまとめてある。
二次の前期はあいかわらず望みは薄いという。現に1月末に行われた模試では、あいかわらずD判定のままだった。
が、後期だったら……問題次第では奇跡を起こせる確率の高さを岸田は感じていた。
「そうか……合格したか」
国会審議が終わるのを見計らって掛けてきた純代の電話で、康三は将がK大に合格したことを知った。
センター試験の結果がとてもよかったということは聞いていたが、まさかK大の少人数枠に受かるほどだとは、康三も想像していなかった。
「今日も遅くなるから、おめでとうと伝えておいてくれ」
このあとも個別議題の審議委員会などに出席しなくてはならない康三だ。
「それが、将も岸田の兄のところなんです。……ところであなた」
純代は仕事中である夫を気遣いながら遠慮がちに切り出す。
「例のこと……。将が東大に受かったら、必ずかなえていただけるんでしょうね」
康三は、鼻から息をもらすと、周囲に聞かれてマズイ人間がいないかどうかを確認した。
幸い毛利がいるだけだった。
「……受かりやしないよ。東大はそんなに甘くない」
わずか、4~5ヶ月の準備期間で……しかも、人よりずっと遅れた地点からのスタートの将に、そんなことはありえない。
自分に言い聞かせるように康三は言葉を吐き出した。
そういいつつも、康三は将が奇跡を起こすような気がして胸が騒ぐ。
『お子さんの知能は、人なみはずれて、素晴らしいものです』
かつて、将が幼い頃通っていたフランスの幼稚園で、康三は園長に賞賛されたことを康三は思い出していた。
これが、もし。
将が、担任教師を孕ませていなかったら。
そして、その秘密をライバルの麻野に握られていなかったら。
親としてこんなに嬉しく誇らしいことはないのに……。
今の康三は、将に奇跡を起こされては逆に困るのだ。
「でも、このようすだと、合格するかもしれませんわ」
康三に対して、まるで合格をのぞむような純代。
近頃、彼女はとみに将の母親であることを意識しているらしい。康三はそんな純代が苦々しい。
「合格したら」
康三はもう一度あたりを見回した。
「いずれかなえてやるさ。……しかるべき時がきたら」
『しかるべき時』がいつなのか訊こうとした純代だったが、忙しいからと電話は一方的に切られた。
純代はため息をつくと、その手で聡への番号を押した。
風呂に入って自室に戻った将は、まだ少し重い腹をさすった。
暗くなって帰宅した将を待っていたのはごちそうの山だった。
孝太の「お兄ちゃん、合格おめでとう!」でようやく何のごちそうかがわかった。
「本命じゃないけど、いちおう、お祝いにね」
と純代は微笑んだ。ケータリングサービスも頼んだのか、豪勢な食卓は将の好物ばかりだった。
将としてはどうでもいい合格だったが、孝太も純代も嬉しそうだったので、とりあえず付き合ってたくさん食べてしまったのだ。
――聡にもいちおう連絡しておくか。
濡れた髪を拭きながら将は携帯を取り出した。
本命の東大ではないものの……一流であるK大の合格を聞けば、聡は喜んでくれるだろう。
その反応が聞きたくて、あえてメールではなく電話をするつもりだった将は、携帯が点滅していることに気付いた。
どうやら風呂に入っている間に一度着信があったらしい。聡の番号だ。
――なんて気があうんだろう。
ほぼ同じタイミングで声が聞きたくなるなんて。
将ははずむ心で聡へ電話をかける……。
第344話 涙の懇願(3)
「おはようございます!」
将は吸い込んだ冷たく澄んだ空気を、一気に声に変換するように挨拶をした。
北海道の真ん中に近いB町の朝は冷え込む。今朝のように晴れているとなおさらだ。
なんでも昨日はダイヤモンドダストが観測されたらしい。
今朝は東京ではありえないほど……まさにコバルト色の空の下、白くうねる丘がはるか彼方まで見渡せる好天だった。
ところどころにある葉を落としたポプラ並木や、ハルニレの木が、白い雪に南極の氷のような色の透明な陰をつけている。
あっけらかんとすがすがしい光景……北海道に来て、余裕を持って景色を眺められるのは9月以来だろうか。
ここまで移動する車の中で、将は、景色に見とれながら、晴れ晴れとした自らの心に浮き立つようだった。
底冷えのまま凍りついたような民宿のロケ現場にいるスタッフは、皆白い息を吐きながら縮こまっていた。
そんな中、元気な将の声はいっそう響き渡った。
「おはよう。……やる気まんまんだねえ」
ディレクターが目を細めながら声を掛けた。
「その様子だと、センター試験はかなりよかった?」
「ハイ、たぶん」
たぶん、というのは、この場合謙遜だ。
……今日、将は朝6時に起きると、まっさきに朝刊を広げて自己採点をした。
朝刊には、センター試験の全試験問題と解答が掲載されていた。
果たして将の成績は……運も手伝って自分でも驚くほどの出来だったのだ。
迷って解答した部分もことごとく正答で、将は飛び上がりたくなった。
出来た、というよりは大バクチに勝った様な興奮。
平均点が跳ね上がっていなければ、たぶん足切りには引っ掛からないはずだ。
それも解説によれば、平均点は平年並みだろうと予想されていた。
もちろん……将はこの結果を聡に報告した。
まだ朝早かったから、メールで
>センター○点!
と短く報告する。教師である聡には、点数だけでその素晴らしさがわかるだろうと思ったのだ。
聡は、短いメールを受け取って、複雑な気持ちだった。
それは素晴らしい成績だった。おそらく全受験生の中でもトップレベルであろう堂々たる成績。
準備期間を考えれば、神がかりのような出来だった。
いままでの模試とは比較にならない……将自身の頭の良さ、勝負強さもそうだが、おそらく運も味方したのであろう。
これだけの成績を取れば、たとえ東大は難しくても、センター試験の成績だけで受験できるどこかの有名大学に入ることができるはず……。
嬉しいはずなのに、聡は心が沈みこんでいくのを自覚していた。
なぜなら、将の成功は、聡の決意の後押しになってしまうから……。
かりに、将が不安定なら……聡は『心配』という大義名分でいつまでも将に寄り添っていられる。
聡がいなければ将はダメだから。将は聡が必要だから……。
聡は自分の考えの陳腐さと情けなさに、お腹を押さえる。
お腹の中の……胎児は、まだ眠っているのか心臓の音だけが手にかすかに伝わる。
自分が将と一緒にいたいから……、将の成功を心から喜べないなんて、どうかしてる。
>すごいね。少し早いけど、おめでとう。仕事もしっかりね
自分でも月並みだと思う返信を返しながら、聡は決意をどうやって伝えるか、その瞬間を想像するのが怖くてたまらない。
将の撮りは、とてもスムーズだった。
12月のロケでは、あまりに寒くてうまくしゃべれないときがあったが、今回はそれにも慣れた。長いセリフを覚える要領も得た。
待ち時間も、受験のことは一切忘れる心の余裕が出来たせいだろうか。
将の演技が問題になるNGなどはほとんど出すことなく、撮影の半分ほどが進んだ、そんなある夜。
仕事が終わった将は、マナーモードにしてある携帯に着信が入っていることに気付いた。
『西嶋さん』
と表示されている。大悟の保護者である西嶋夫妻の番号だ。
――大悟が見つかった?
将はそのまま発信ボタンを押した。
……正月早々、大悟が失踪したことは将も聞いていた。
心配していたが、仕事と受験、さらにスキャンダルのあわただしさの中、心から抜け落ちていたのだ。
電話には節子が出た。
「ああ、鷹枝くん? ……忙しいんでしょ、ごめんね」
西嶋夫妻とは、みな子と一緒に猫を見にいったときに親しく話している。
くだけた口調ながら……節子の声はひどくかすれていた。
その声で、大悟のことはよい知らせではなかったのだな、と将は瞬時に悟った。
将が何か話す前に、節子のほうから
「実は、大悟くんが……」と切り出した。
将は、携帯電話を握りなおすようにした。
正月早々、大悟の失踪を聞いたとき、将はふいに元クラスメートの前原茂樹の濃い顔を思い浮かべた。
前原茂樹が少年刑務所から釈放された……。元旦に井口が将に伝えた知らせ。
なぜ、そんなことを思いついたのかわからない。
大悟と前原茂樹はたしかに同じ中学の顔見知りではある。
だけど親が借金からバックれている状態だった大悟は自分の食い扶持を稼ぐために犯罪に手を染めざるを得ず……結果、あまり中学には行っていないはずだ。
「3日前に大悟くんが、うちに来たんだけど……。声をかけたら逃げちゃったのよ」
「逃げた?」
「そうなの。それで、郵便受けに手紙と……10万円が入ってて」
「10万?」
将は、嫌な予感に胃液が逆流しそうになるのをかろうじて止める。
失踪して……10万もの金を手にする。
台風の夜。地下のクラブ。ブラックライトの明滅。尖った靴の男。
将はつながっていく記憶に下唇を噛みつつ、ようやく次の質問を口にする。
「手紙には……何て書いてあったんですか?」
「『お世話になりました。いろいろとすいませんでした』って……。三宅さんには相談したんだけど、将くん、大悟くんが行きそうなところ、もしかして知らないかとおもって……」
将は言いよどんだ。
大悟が行きそうなところ。
これがもし、中学時代の大悟でも、半分くらいは知らなかった。
将の知らないうちに、自らの身体を売っていた大悟である。
今など、もっと知らない。だが。
将が知るわずかな心当たり……しかしその暗闇を考えると、それを善良な市民である西嶋夫妻に教えるわけにはいかなかった。
将はせめて、友達に聞いておきます、と答えた。
それがせいいっぱいだった。
大悟が、覚醒剤を得るために……暴力団の下部組織の、詐欺グループに属していたことは、さすがに言えない。
将は切れた携帯電話を握り締めながら、記憶をたぐる。
あれは、梅雨の頃だった。
朝なのに、真っ暗な夕暮れのような……どしゃぶりの教室で、たしか井口が言っていた。
クラブで大悟と前原の友達が話していた、と。
将がはじめてのドラマのレギュラー出演で忙しかったあの頃、すでに大悟は覚醒剤に依存していたはず……。
大悟と詐欺グループをつなげたのは前原がらみだ。将は確信を持った。
ほぼ的中してしまうだろう嫌な予感に、将は頭を抱えた。
第343話 涙の懇願(2)
『15、超えなかったし』
将は残念な口調で報告する。15というのは視聴率のことである。
将がほとんど主役状態の2番手に大抜擢された元倉亮のドラマの視聴率は、15%を超えることができなかった。
初回としては、お世辞にもパッとしたものとはいえない。
『ううん。きっとそのうちあがるわ』
聡は確固たる自信を持って予言した。
将が出演しているというのを差し引いても……というより、やはり主演の熟年俳優が圧倒的によかった。
そして脇役まですべてがしっくりとしていた。
出演している人が皆、悲しみを背負っているのに、なぜかほのぼのと笑いを誘う。
その背景を彩る、北海道の大自然。
派手なところのないドラマだったけれど、それはしみじみと温かくなるような余韻を残した。
『そうかな』
聡にそういわれると、将はなぜかそんな気がして救われた。
それまで将は……ふるわなかった視聴率に対して少し責任を感じていたのだ。
ゲスト出演を入れてようやく3作目のドラマでの大抜擢は荷が重すぎたのではないだろうか……。
朝、ネットで自ら調べた視聴率を見て以来、少しがっかりしていたのだ。
聡のことも心配だったが、ドラマの不振も、センター試験前日の将から気力を奪っていた。
『うん。……だから、将。今度は、明日のセンター試験頑張って』
そんなとき聡の励ましは、まさに、てきめんだった。
自分でもコミカルだと思うほどに、将はやる気がむくむくと湧いてくるのを感じた。
まるでほうれん草を食べたポパイのような……単純な自分。
かくして、将は、土日のセンター試験に対して、全力で挑むことができたのだ。
「本当に、本当に、アキラのおかげだよ。ありがとう」
将は再び繰り返した。
「将の実力よ」
聡の言葉に将は、嬉しくて「いやー」と電話のこちらで頭をかいた。
「まだ、2次試験があるし。こっちのほうが大変だし」
「そうね。ところで……将、北海道ロケはいつ終わるの?」
聡の問い返しに、有頂天の将は、聡が自分に一刻も早く逢いたいのだろうとしか考えられない。
「えっとぉ、24日まで北海道で、そのあとは29日までスタジオで撮りだめ……」
予定を話す将の声を訊きながら、聡が考えていたのは別のことである。
聡が決めてしまったこと。
……それを将に話すタイミングを聡は計っていたのだ。
仮に……もし。それを今、告げてしまったら。
将は、一時的にせよ、大きなショックを受けるだろう。
ドラマの仕事に支障が出てしまうかもしれない。
だけど、将はまだ若いから、きっと立ち直れる……。
だからせめて、仕事へのダメージが最小におさまるタイミングを……聡はさぐっていた。
「2月に入ったら、2次試験用の勉強に専念しろって元倉さんも監督も言ってくれた。だから2月からは、毎日学校で会えるよ」
嬉しそうに話す将に、聡はそれでも、まだ確かめたくなる。
将の中の自分の重みを……。自分の占めるパーセンテージを。
そんな自分の感情を未練がましいと、一方で理性は冷たく見下ろしているのがわかる。
「しばらく、顔を見れないんだね……」
それは、聡の寂しさの吐露ではない。将の寂しさを……聡は電話越しに感じたかった。
感じたからといって……決意を翻すわけではないけれど。
でも今は、まだ……将の唇で、将の声で、自分のいない寂しさを呟いてほしい。
「うん。2週間くらい逢えない。……でも合格したらずーっと一緒だからな」
将の中に寂しさなど、なかった。
聡と一緒にいる未来しか見えていないように、将の口調は希望に満ちていた。
将は、聡を信じ切っているのだ。
……聡の目からこぼれた涙は音もたてずに、頬を伝って布団にしみをつくった。
「じゃ、行ってきますね」
西嶋節子は、若い社員に留守中の仕事を任せると、事務所の外に出た。
確定申告が近い今の時期、税理士のところに行く用事があったのだ。
さまざまな書類が入った重いカバンを持った節子は、空がやたらに暗いことにすぐに気付いた。
「やだわ、降ってきそう」
この季節にしては厚い雨雲がいつのまにか空を覆ってきた。そのうち、氷雨でも降ってきそうな空……。
税理士の事務所はすぐ近くだ。
ちょっとの雨くらいならまったく平気な節子だが、さすがの暗さに、いったん3階の自宅に傘を取りにあがる。
傘を取って外階段に出た節子は、階段の下の……郵便受けのところに誰かがいることに気付いた。
郵便受けの前に突っ立っているように見えたその人影は……この5分ほどの間にいっそう暗くなった夕闇のおかげで真っ黒に見えた。
節子はその黒い影が誰かわからず、階段を降りながら
「誰っ?」
と叫んだ。
黒い影は、びくっと一瞬身体を震わせると、こちらを見た。夕闇の中で白目だけが、キラリと光った。
そして、手にもった何かを郵便受けに投函すると、一目散に逃げ出した。
その、一瞬こちらを見た顔は――。
「大悟くんっ!」
節子は、あわてて階段を駆け下りると、大悟を追った。
それを阻むように……突然雨が降り出した。
「大悟くんっ!大悟くん」
傘も差さずに節子は追おうとしたが、大悟はあっという間にみぞれ交じりの雨の中に消えてしまった。
郵便受けには……西嶋夫妻に宛てた封筒が入っていた。
中には、便箋。大悟の字で
『お世話になりました。いろいろとすいませんでした』
と書かれていた。
そして、10万円が同封されていた――。
節子は顔をあげて、もう一度どしゃぶりの中に目を凝らしたが……大悟の姿はもうどこにも見えなかった。
第342話 涙の懇願(1)
センター試験が終わった。
東京は試験日の2日間とも、小春日和にめぐまれ、特に混乱はおきなかった。
近くの大学を受験会場に指定された将は、レポーターに囲まれることなく静かに試験に集中することができた。
さすがのマスコミも、他の受験生の影響を考えてか、受験会場に突撃するのは自粛したらしい。
6教科7科目の試験をすべて終えた将は、荒江高校よりかなり広い敷地内を出口に向かって歩いていた。
ときおり、将に気付いた女子受験生たちが、指さして顔を見合わせる。
目立たない私服に伊達眼鏡を掛けているものの、その背の高さで将であることは一目瞭然だった。
試験が終わって緊張が一気にほぐれたのか
「将!ドラマ見たよ!」
と叫ぶように声を掛けてくるツワモノもいて、そのたびに将は会釈を返すしかない。
「鷹枝くん」
将は後ろから声を掛けられた。みな子だった。みな子も同じ会場を指定されていたのだ。
『彼女』の登場に、遠巻きにしている女子のため息が聞こえるようだった。
「どうだった? 試験」
「うん。まあまあかな」
その表情から、将の試験の出来は、かなり手ごたえがあったのだろうとみな子は類推した。
特に今日は、将にとっては苦手の英語があったはずだが、その表情は冬の陽射しに照らされていなくても明るいものだったからだ。
「みな子は?」
「あたしも……まあまあかな」
並んで歩く二人の影が、キャンパスの地面ですでに長くなり始めている。
火曜日にあのスキャンダル記事が載った週刊誌が発売されて以来、皮肉にもみな子は将の彼女として周囲に認識されていた。
『……みな子、鷹枝くんとのアレ……本当にしてたの?』
遠巻きにサワサワと噂をするだけのクラスメートの中で、仲の良いすみれだけがそれを訊いてきた。
訊かれたとたん、みな子の中で、あのときの……せつないほどの、血流を支配するほどの感情の昂まりが蘇る。
誰かに訊かれたら『目にゴミが入ったのをとってもらってただけ』とでも嘘をつこうと準備していたのに、みな子の顔ときたら正直に『鷹枝将とキスしました』と答えてしまったも同然だ。
すみれは、そういうことを面白おかしく話したりしない子だから大丈夫――。
そう思っていたが、その翌日には、クラスメートのみな子を見る目が変わっていた。
将の彼女。
みな子は、周囲にそう決定付けられていた。
『星野サぁン、将、○○谷詩織とのこと何て言い訳してたぁ?』
井口まで(もともと将とみな子の仲のよさを茶化していたような彼ではあるが)みな子を将の彼女として扱い出したのには驚いた。
――本当はその逆なのに。将が自分のものになる可能性なんか、ほぼなくなってしまったのに。
かといって、みな子は周囲に否定してまわることはなかった。
将の彼女という、実体のない肩書き。みな子は明らかに悦に入っている自分をわかっていた。
そんな自分を、みな子は時折、笑ってしまいたくなる。自虐。
……それでもいい。
現実は違っても、呼び名だけの彼女でも……将とつながっていたい。
せめて卒業まで。
みな子は、情けなくてみじめで莫迦らしい自分の願いを、今は最優先することにした。
同じ東京の大学に行けたのなら……将の子を聡が妊娠するようなことがなければ、いつもこんな風に歩けるチャンスもいくらかは残されていただろうに。
将と並んだみな子は、今の時間をいとおしむように、キャンパスの風景をみまわした。
同じように出口へと歩いていく受験生たちの背中を、陽だまりが包んでいる。
手ごたえを感じている受験生にも、まったく歯が立たなかった受験生にも平等に。
彼らを見下ろしている桜の枝は、まだむきだしの鉄色のまま、陽射しを受けて鈍く光っていたが、春にはきっと満開になる。
その頃には、将と離ればなれ――。
早くも夕暮れの冷ややかさを含んできた風に、みな子は首をすくめた。
センター試験を終わらせた足で、将は再び北海道へ飛ばなくてはならなかった。
将のセンター試験終了を待って、明日からさっそく、ロケがあるのだ。
ロケ地近くのホテルに将が入ったのは、夜の9時すぎだった。
将は、さっそく聡に電話を掛けてみる。
「将」
まだ入院中ながら、聡は電話に出てくれた。
「今、ホテルに入ったところ。具合はどう?」
「だいぶよくなったよ。今週中にも退院できると思う。将のほうは……どうだった?」
遠慮がちに訊く聡に対し将は
「たぶん、出来てると思う」
と力強く答えた。
国語・数学といった得意教科の出来は申し分ない。苦手の英語も、いつもに比べるとかなり手ごたえがあった。
「アキラのおかげだよ」
「そんな……将が頑張ったからよ」
将は、電話を握り締めるようにしてもう一度言う。
「金曜日に、アキラが電話をくれたから」
センター試験前日の金曜日、聡は将に自分から電話をかけた。
火曜に将のスキャンダルが発覚して倒れて以来、度重なる将からの電話を、一切取らなかった聡である。
しかし、自分のことを心配した将が、センター試験で実力を発揮できなくなるのを危惧した聡は、思いなおして連絡をとることにしたのだ。
『アキラ!』
電話の向こうからは、叫ぶような将の呼びかけが聞こえた。
『将……』
『アキラ、具合はどう? 赤ちゃんは……?』
聡の呼びかけに被せるように、将は矢継ぎ早に質問を投げかけてくる。
『大丈夫。大丈夫だから、心配しないで』
『そうか、よかった……。ずっと連絡とれないから心配で』
安心した将は、電話もメールもくれないし、と続けようとして『あ……』と自ら気付いたようだ。
『アキラ……、あの週刊誌……見た?』
『うん……。みたよ』
聡の返事に電話の向こうで将が息を飲むのがわかった。
『○○谷さんのは単に一緒に東京に帰ってきたときのだし。ホラ、イブにアキラに会いたくて郡山からレンタカー借りて走ってきたっていったじゃん……』
将は弁解を始めた。『馬鹿馬鹿しい』と一笑に付すような口調。
この3日間、頭の中で常に想定していたのか、冷静に紡ぎ出される弁解の途中で
『もう、いいの。将……』
聡は静かに制止した。
『……もういいから』
――もう、決意してしまった。だから、将は弁解しなくてもいい……。
聡はそれでもまだ、心の中に残る未練が、まるで反乱するように胸を締め付けてくるのに必死で耐えなくてはならなかった。
一方将は、弁解が、まだ肝心のみな子のところまで行っていないのに、中断されてとまどっていた。
『アキラ?』
『それより、将。昨日のドラマ、よかったよ』
聡は、力を込めるようにして、無理やり話題を変えた。
『そーかな。視聴率はたいしたことなかったんだけど』
聡からの話題の変更に……聡は本当にスキャンダルなど、気にしていないのかもしれない、と将は安堵した。
やや安易すぎる自分の思考を自覚しつつも、これしきのことで聡との仲が決定的に壊れるはずなどありえない、と信じている。
第341話 スキャンダル(6)
木曜日。将は早朝からテレビ局に入っていた。
「おはようございます」
「おはよう」
にこやかに手をあげて、廊下ですれ違ったのは、将にとってはすっかりおなじみの、出演しているドラマの主演俳優だ。
――この挨拶が、しっくり来る時間帯に局入りしている理由。
それは今日がまさに、9月から撮っていた元倉亮脚本のドラマ「あした、雪の丘で」の初回放送日だからだ。
年があけて……受験生にも関わらず……将はいくつか宣伝のための番組に出演している。
初回放送日の今日は、朝のワイドショーと、昼のバラエティ、午後の特別番組の3本の生番組で忙しさもきわまれり、といったところだ。
主演のベテラン俳優で中高年層、将で女性の視聴率を稼ぐべく、二人セットで出演することも多い。
それだけに、テレビ局がいかにこの新ドラマに力を入れているかがわかる。
特に、裏の局は人気漫画原作のドラマを豪華キャストでぶつけてきている。
将に掛けられた期待と責任も、今までの仕事とは比較にならないほどのものだということは言われなくても理解できた。
しかし、今日……将がやや緊張しているのは、それが原因ではない。
今日、自宅を出るときすでに、将は芸能レポーターに囲まれた。
「○○谷さんとはどういう関係ですか!」
「その後、進展してるんですか!」
一切の質問を無視して……武藤ともう一人若手のマネージャーにかばわれるようにして、将は車上の人になった。
「将、今日は、番組中でも○○谷さんとの関係を訊かれると思うわ。……わかってると思うけど、いい先輩です、くらいに答えるのよ」
その内容は、台本にはないものの……機転を利かせた司会者がアドリブで訊いてくることは十分に想定しうることだと武藤は言うのだ。
事務所には、武藤を通じて記事の説明はしてある。
○○谷詩織とのあの写真は、あの大雪の日、どうしても東京に帰りたいということで、一緒に行動しただけに過ぎないと。
「あまりに軽率すぎる」と形式上注意を受けたものの、それ以上は特に咎められなかった。
相手が中高年にも好感度の高い詩織だったため、そこまでイメージダウンにならないことと……それもある。
しかし一番の理由は、共演する二人の噂は、ドラマを世間に注目させる格好の材料だからである。
ドラマの視聴率があがれば、将はもちろん、脇にねじ込んだ若手の将来にも繋がる。
事務所のそんな勘定ゆえ、将のスキャンダルはむしろ歓迎されているかのようだったのだ。
朝のワイドショーは武藤の予言どおりの展開になった。
最初は無難に、北海道ロケの長さが話題にのぼり、そこからスタッフ・共演の仲のよさに移ったところで、司会者は将に質問をふった。
「将さんといえば、共演の○○谷詩織さんと今うわさになってるけど、本当はどうなの? 熱愛の一夜、だっけ? やっぱり仲がいいの?」
笑いを誘いながらの質問は司会者の力量か、ごく軽いものになっていた。
「仲は悪くないと思いますけど……そんな、恐れ多いっス。たまたま飛行機が飛ばなかったから一緒に行動しただけで」
とはいえ、聡が見ているかもしれない、と思うと将はつい、事情の説明を交えて弁解したくなる。
そこで、主演のベテラン俳優が、笑いながら割ってはいる。
「いや、二人はねー。本当に息がぴったりでねー。よくケンカしてるよ」
それで将は我に返った。
自分の話題は今回は単なるアドリブの一環なのであり、本題はあくまでもドラマについてだ。あまり時間をかけるわけにはいかないのだ。
「ケンカですかぁ?」
若い女子アナが、目を丸くするふうをする。
「はい。ケンカばっかりしてる役なんです。二人は……」
ようやく、本来の台本の内容である、二人の役柄説明に戻ることができて、将はほっとした。
「将!」
出番が終わって控え室へ戻る途中、将は廊下で呼びかけられた。
振り返った将は、そこにアイドルの四之宮敦也が立っているのを見つけた。
『ばくせん』での共演以来、4ヶ月ぶりに見る四之宮は、髪が金髪から黒く変わり、やや短くなっている。
「四之宮さん!どうしたんですか」
「どうしたって……」
四之宮は苦笑した。今日、将がゲスト出演する昼のバラエティのレギュラーに、四之宮は1月から昇格していたのだ。
「すっげえ。『よいとも』のレギュラーなんて」
「事務所の力だよ」
と薄い唇で笑うその顔は、あいかわらずクールな美形だ。
「……で、将は受験勉強、進んでんの? て、受験生なのに、おさかんだよな。○○谷さんとラブラブなんだって?」
四之宮は冗談めかしてニヤリと口角をあげた。
「もー、違いますよー。カンベンしてくださいよ」
将は、悲鳴をあげるようにすると、机につっぷした。
待ち時間の間、二人は四之宮の控え室でコーヒーを飲んでいるのだ。
「わーかってるよ。単なる話題づくりだってことは、みんな知ってるし」
四之宮はそんな将の背中をポンポンと叩いた。
芸能生活が長い四之宮、それくらいのことは承知なのだ。
「それよりさ、ちゃんと彼女には説明したの?」
将はつっぷしたまま、目をあけた。
四之宮が言っている彼女とは、おそらく、週刊誌から……みな子のことを指しているのだろう。
だけど、将は聡を思い浮かべる。
この2日間、きちんと説明できていない……それどころか電話もとってくれない聡。
聡とそのお腹の子が無事だったことは、昨日に見舞いに行った純代が教えてくれた。
日頃から純代は、クラスの保護者有志ということで、聡を手助けしている。
昨日も、真田由紀子の母親と一緒に『お世話』にいった体裁を取っているから、問題ないのである。
「胎盤が少しずれているけど、自然分娩ができる程度で、問題がないそうよ」
ほっとした将だったが、もう一つの問題……聡が、将のスキャンダル記事を目にしたかどうかまでは確認できなかった。
さすがに、そこまで、純代を通じて確認するわけにはいかない。
将は、直接会えないまでも、せめて自分の口で弁解したい、と聡の携帯に何度か電話をした。
しかし、聡は出なかった。
病院にいるから出られないのか……いや違うだろう。将にはわかる。
聡は……おそらく、週刊誌の記事を見てしまったのだ。
それで、電話に出ないのだろう。
将は、頭を抱えた。聡のことが気になって、勉強どころではない。
空いた時間にせめて参考書を開くものの、いつのまにか気持ちは聡のところへ飛んでいってしまう。
だけど、将は……心配で気もそぞろになりながらも、それを必死で抑える。
>頑張って。
聡からの、たった一言のメールゆえに。……それが将のすべてだった。
それは……聡がまだ将を見限ったわけではない証であるに違いない、と将はすがった。
記事を見て、きっと怒っている聡。
だけど頑張れというからには、頑張った先にある……東大現役合格、そして結婚を望んでくれているのだろう。
とりあえずは、今週末のセンター試験でよい結果を残すことが、聡への愛の証明になってくれるはず。
将はそう思って、芸能活動の合間の少ない時間を勉強に費やすしかなかった。
聡は、食い入るようにテレビを見ていた。
10時開始のドラマには……夏の北海道の風景とともに4ヶ月前の将が映っている。
ほのぼのとした……地味に笑いを誘うはずの脚本なのに、いつしか、聡は涙を流していた。
……将は、役者として成長した。
それははっきりとわかった。
ベテラン勢に囲まれているせいなのか、『ばくせん』のときとまったく違う将がそこにいた。
作られたアイドル役者には留まらない……将が背負った哀しみや寂しさが、役柄に深みを与えているのは明確だった。
これも、将の才能の1つ……いや、将ならではの才能なのだろう。
将の新たな才能をまのあたりにして、嬉しいはずなのに、聡は涙がとまらなかった。
嬉し涙ではない。その逆……将の才能は、聡にあることを決意することを、さらに促すことになった。
そのつらさに、聡は涙を流しているのだ。
だけど、決意しなくてはならない。
お腹の子供は、聡の感情に呼応するかのように、ぐるり、ぐるりと身体を動かしている。
第340話 スキャンダル(5)
秋月は、聡の様子がなんとか安定したのを見届けると、「あまり無理するなよ」と帰って行った。
出血自体も、安静にしていればいずれ止まるとのことで、聡は数日間入院することになった。
「生徒たちの大事なときに、ついていてやれなくて……本当に申し訳ありません」
聡は病室から学校に電話をかけた。
大事なとき、というのは今週末のセンター試験のことである。
聡がいる病室はホテルの一室のような個室である。もちろん、携帯電話もOKだ。
持っていた母子手帳から、いつも健診に来ている病院――将の義母・純代の紹介である――に運ばれていたのだ。
電話に出た学年主任の多美先生は、赤ちゃんが無事だったことをまず喜んでくれた。そして
「アキラ先生も大事なときですから。体一番でよく休んでください。英語の授業のほうは、荒江学園グループから非常勤の先生をまわすそうですから、心配いりません」
と気遣ってくれた。
電話を切ると、ちょうど夕食が運ばれてきた。
運んでくれるのが看護士なだけで、内容はちょっとしたレストランのような豪華さだ。
自然食を取り入れた野菜中心の食事は、目にも美しく、妊娠中でも食べやすいように工夫されている。
印刷された品書きまで添えられているという凝りようだ。
……しかし、聡は半分食べるのがせいいっぱいだった。
「御口にあいませんでしたか?……それともおなかの調子が悪いんですか?」
片付けにきた看護士が心配そうな顔をする。
「いいえ。すごく美味しかったんですけど、まだお腹がすいてなくて……」
聡は食欲のない言い訳をした。
妊産婦専門で内科医や精神科医なども常勤しているこの病院である。
うっかり食欲がない、などと言えば、医師を交えてカウンセリングだの、いろいろとややこしくなる。
それに診察されなくても、聡は自分が食欲のない原因がわかっていた。
看護士が食卓をすべて片付けてしまうと、病室は静寂に包まれた。
暖色でまとめられた病室に、間接照明が、夜になっても温かい雰囲気を作り出している。
テレビも付けずに、聡は横たわると、お腹を確認する。
張り止めを投与されているせいか、さっきのように張ってはいない。
――よかった。
聡は、お腹をなでながら、胎児が無事だったことに再度ほっとする。
と、まるでお腹の胎児が指し示したように、聡はサイドテーブルの上の携帯が気になった。
それは、さっき学校に掛けるまで、授業中のまま、電源を切ってあった。
吸い寄せられるように手に取ると、無意識に指は、メールをチェックし始める。
案の定、受信箱は将の名前で埋め尽くされていた。
>倒れたこと聞いた。大丈夫だよね? このメール見たらすぐ連絡して。
>赤ちゃんは無事だよね。電話かメールちょうだい
>聡、無事だったら、すぐに連絡して。メールでもいいから
>心配してる。心配で、心配で、勉強が手に付かないよ。これ見たらカラメールでいいから返信して
>メール、ちょーだい。
……
メールは聡が倒れた少しあとから10回にわたって入っていた。
将の動揺と心配が目に見えるようなだった。
その中で、最後の1回だけが少し違っていた。
>もしかして、怒ってる? ごめん。いろいろごめん。だけど、俺を信じて。お願いだから電話ください。
短いメッセージを繰り返し眺めながら、聡は、さっきの悲しさが少しだけ癒される気がした。
はっきりと書いてはいないが、将は週刊誌の記事のことを……みな子とのキスのことを、謝っているのだろう。
将は……自分を見捨てたわけではない。心のすべての部分がどこかに移ってしまったわけではないようだ。
それどころか、この文面からは将が、聡の許しを……聡からの連絡を待ちこがれていることがうかがえる。
今週末がセンター試験なのに、勉強に手がつかないほど、聡を心配している。
そんな将が、聡は逆に心配になった。
しかし、聡は……電話をすることができなかった。
ひとこと『心配しないで。赤ちゃんも大丈夫だから。将を信じてるから』と自分の声で伝えられればと思う。
だけど、ひとたび電話して……将の声を聞いたら。
聡は自分自身の感情を抑える自信がもてなかった。
――どうして、こんな記事になってしまったの?
――どうして、○○谷詩織と二人きりで車に乗る必要があったの?
――どうして……星野みな子にキスなんかしたの?
将を問い詰めて……責めたててしまう自分は容易に想像できた。
電話越しとはいえ、声をたてて泣いてしまうかもしれない。
18歳の将には……同い年のみな子や、3つ違いの詩織のほうが、聡よりふさわしい……。
そして、教師と生徒でもない。つまり、立場を気にする必要もない。
いつも抱えてきた不安。不発弾のように忘れていた不安は……スキャンダル記事という起爆剤を得て爆発寸前に成長してしまっている。
そんな今、きっと将の声を聞いたら、一気に爆発してしまうかもしれない。
静かな病室にいることで、今はそれをかろうじて皮ふの下に抑えているけれど……。
そんな危うさを抱える一方で。
あんな記事を見ながらも、……そして、もっと言えば、みな子とのキスを目撃しても。
聡の本心の深いところでは、将をまだ、信じていた。いや、信じたいといったほうが正しいかもしれない。
なぜなら……いままでに将は、聡への気持ちを偽ったことだけは、ないからだ。
なのに、聡の気持ちは、冷たい湖底から浮かび上がれない。
メールを見直す。
きっと、今の瞬間も……将は勉強が手に付かず、聡からの無事の知らせだけを待っているに違いない。
文面の向こうにその姿が透けて見えるようだ。
聡は、迷った挙句、親指を動かした。
>頑張って。
将と聡の今後がどうなるにしても。
とにかく、将は今、頑張らなくてはならない。聡との道を開くため……いや、将自身のために。
本当は……聡自身は、将との未来は、混沌とした中に消えかかっている気がしていた。
もうだめ、かもしれない。そんな絶望の姿さえ目にした気がする。
それゆえに……将の気持ちを信じていても、聡の心は沈んだままだったのだ。
だけど。
もし……仮に、二人の将来が別々のものであっても。
将には幸せになってほしい。成功してほしい。
今週末の試験は、その第一歩なのだ。
聡は……たった一言に言い尽くせぬ万感の思いを込めて、送信ボタンを押した。
第339話 スキャンダル(4)
「ちょっと出かけてくる」
家政婦が気がついたとき、すでに将はダッフルを引っ掛けながら玄関に向かっていた。
「だめですよ! お坊ちゃま、まだ記者が……」
「いい」
止めようとする家政婦を短い言葉で無視すると、将は玄関でバッシュを履き始める。
「だめです。私が叱られてしまいます」
立ち上がる将に、泣きそうな声で家政婦が引きとめようとしたそのとき。
玄関のドアが開いた。
純代だった。
ちょうど父兄会が終わって帰ってきたらしい。
ブランド物のスーツを着て、髪を巻き上げた純代は、ちょうど玄関にいた将に驚いて目を見開く。
「何事?」
「……奥様、止めてください。お坊ちゃまが、今から出かけると……」
家政婦は純代の姿を見てほっとしたのか、手をあわせるようにして、懇願した。
「将」
純代は将を見上げた。……自然に前に立ちはだかる格好になる。
「聡が倒れた。見舞いに行かなくちゃ」
将は早口で説明すると、純代の脇をすり抜けようとした。
「お待ちなさい」
純代はあわてて、手を広げる。
「行かせてくれ……。行かなくちゃいけないんだ」
「だめよ。将、落ち着きなさい」
将は純代を交わそうとさらに横へ行こうとする。純代もそれを防ごうと動く。
まるでバスケのディフェンスとオフェンスのような攻防になる。
純代はついに、突っ張り棒のように手をかけて、ドアの前に立ちはだかった。
「行かせてよ!頼む!」
その手を力まかせにはずそうとした将だったが、次の瞬間、玄関に派手な音が響き渡った。
家政婦が思わず口に手をあてる。
将は……紅くなった頬に思わず手をあてて、呆然としている。
……純代が、将の頬を思い切りはたいたのだ。
「落ち着きなさい!将!」
純代の鋭い声が、玄関に反響する。
「こっちへ、来るのよ!」
純代は呆然とする将の手を引っ張ると、孝太のピアノ部屋に引っ張り込んだ。
……このことが家政婦の口から他に広まるのを危惧した純代は、冷静に行動したのだ。
防音を施してあるこの部屋の扉を閉めてしまうと、純代は将に向き直った。
「……あなたが今出て行って、聡さんのところに行ったら、どんな騒ぎになるかわかっているの?」
声を落としながらも、純代は将の瞳をまっすぐに見つめて続ける。
「聡さんのことが、バレたら、あなたはもちろん大変なことになるけど……。いまは聡さんのほうにむしろ迷惑がかかるのよ」
「でも!」
将は、叫んだ。あの週刊誌の記事の弁解……否、自分の過ちの弁解を……直接逢って話さないと……。
しかし、将はそれを……自分のしでかした聡への裏切り行為を、まさか純代に口にすることなどできない。
純代は、なおも続ける。
「教え子の子供を妊娠した教師なんて……世間のバッシングを一身に受けるのは、むしろ聡さんのほうなのよ。……将、あなたは世間の恐さをわかってない」
叩かれた頬は、じんじんとしている。
その痛みは……1年以上前、聡に叩かれたときとそっくりだった。
将はうなだれた。唇を噛み締める。痛いほどに。今はそんなことでしか自分を罰することができない自分。
「……聡さんのことは、私もさっき聞いたわ。……私に任せなさい。明日、病院に行ってくるから」
純代は、将の背中にそっと手を添えた。
「将、……あなたは、今は、センター試験のことだけを考えなさい。……それが、聡さんのためなのよ」
――アキラ、アキラ!
許してくれ。俺を見放さないでくれ。
噛み締めた唇は……いつしか血が滲んでいたが、そんな痛みはどうでもよかった。
聡が離れてしまう痛みは、きっと将を死に至らしめるに違いない。
将が怖いのはそれだけだった。
「聡?」
秋月が……聡の涙に気付いた。
「どうしたん……?」
優しい声に聡は、ハッとする。
何でもない、と言いかけてやめる。
あとからあとから湧き出てくる涙。どう見ても何でもない状態ではない自分。
東と、将は違う。
東とのつらい思い出に、無意識に今の将を重ねている自分に気付いた聡は、自分に必死で言い聞かせる。
だけど理性は、あの頃の東と、将がほぼ同じ年齢であることを聡に気付かせる。
……断じて違う。だけど、裏切りの記憶は聡の心の一番柔らかいところから、知らず涙をこぼさせてしまっていた。
「大丈夫か。……つらいことがあるなら、吐き出しちゃえよ」
秋月は、聡が思い出に涙したのではないことを察したらしい。
「うん……。大丈夫……。ありがとう」
言葉だけでは信じられないだろうと、聡は泣いたまま微笑んで見せた。
だけど涙は止まってくれない。
「聡……、結婚してないんやろ」
秋月はとうとう、核心に触れ出した。
聡が旧姓のままであることは……聡が持っていた母子手帳を見れば一目瞭然だ。
このまま我慢してしまう聡を見かねての、優しいつっこみ。
目をきゅっとつむった聡に、秋月はさらに続けた。
「あのコか。去年、萩まで来た……」
否定しなくては。聡が目をあけたときにはもう遅かった。
秋月は、確信を持って聡の眼が開くのを待ちかまえていた。
「鷹枝ってコが……相手なんやろ」「言わないで」
とっさにそう言うのがせいいっぱいだった。
「言わないで……。学校にも、うちの親にも……内緒にしてるの。だから絶対に言わないで。名前を口にするのもやめて」
聡の必死の表情に、秋月はややたじろいだようだった。
「鷹、いや……相手は、知っちょうと……」
聡は深く頷いて、秋月の表情に浮かぶ、将への非難の色を弱めようとした。
「知ってる……。生んでほしいって……。一緒になろうって、言ってくれた……。親ごさんを説得するために……無理して東大を目指してる……」
そうやって将をかばう自分は……やはり将を愛している。
朝から一連のつらい状況の中で忘れかけていた将への愛。
しかしそれに気付いたからこそ、聡は目を伏せる。
「だけど……」
言いかけた聡だったが、再び涙がこみあげてきて、言葉に出来なかった。
秋月は黙っていた。
それ以上は言わなくても、理解したようだ。
わかっている。わかっているから自分を責めるのはやめろ。……そんな言葉の代わりに聡の額をそっと撫でる。
それは、懐かしい感触だった。
帰国子女だった聡。『気取っちょう』と女子から無視されて……こっそりと泣いていた中3の。
『泣くな。お前はいっちょん悪くない』
と撫でてくれたあのとき。
「秋月……。優しいよね」
「今ごろ気付いたか」
秋月は掌を聡の額から髪へと往復させながら、口の端をいたずらっぽく上げた。だけど瞳はこれ以上ないほど優しい。
「あたし、……なんで、秋月と付き合わなかったんだろ」
聡は鼻を啜りながらも、秋月の冗談に応えて微笑んだ。
「……ホントや。聡は男を見る目がないな。……バーカ。聡のバーカ」
秋月の口調は、十代の頃のそれに戻った。
そしておもむろに額から手を移動させると、頬っぺたを柔らかくつまんだ。
「変な顔ー」と子供のように笑う。
「ひっどーい。綾さんに言いつけてやる。お宅のダンナさんがいじめましたって」
聡も子供のように応酬して見せた。
「最悪」
秋月が聡を元気付けようとしてくれているのがわかる。
その温かさに聡はようやく心から笑うことが出来た。
「卒業式が終わったら……学校は辞めるんだろ」
しばらくして……完全に聡の涙が止まったのを見届けた頃、秋月は話題を控えめに戻した。
「うん」
「そのあと、どうすんの。どこで、産むの」
「……さあ。どうなるのかな」
聡は、視線を天井に遊ばせた。今からたった半年以内のことなのに。もう今年のことなのに。
聡は見当がつかなかった。……将とはどうなっているのだろう。
ちくりと、今朝からの痛みを思い出す。
「そしたらさ、萩に帰ってこいよ」
意外な提案に、聡は視線を秋月の顔に戻す。
「仮にさ。東大に合格したからといって、すぐに一緒になれる……ってわけじゃないんやろ」
秋月は、聡を慮ってか、慎重に言葉を選びながら、現実問題を恐る恐る持ち出した。
完全に落ち着いた聡ではあるが、気遣ってくれる秋月の気持ちが嬉しい。
「将は……、そのつもりでいるみたいだけど。無理よねー」
その気持ちに応えようと、聡はまるで他人事のように、語尾を延ばしてみせた。
「……あいつのオヤジさん、今年の総裁選候補だろ」
秋月がもたらしたのは、聡の頭から抜け落ちていた事実だった。
聡の脳裏に、将の父親の……康三の顔がサブリミナルのように蘇る。
第338話 スキャンダル(3)
勉強が一段落ついて、鉛筆を置いた将は、窓ガラス越しに通りをうかがった。
さすがに夕方に差し掛かったせいか、ここから記者の姿は見えない。将はほっとため息をついた。
今朝は朝のワイドショーかテレビカメラまでやってきて、大変な騒ぎだった。
おかげで、小学校の登校時間にさしかかった孝太は、裏口から直接ガレージに行くハメにさえなったほどだ。
喉が渇いた将は、階段を降りた……キッチンには家政婦さんがいる。
孝太の小学校で父兄会があるとかで、純代は出掛けたのだ。
名門私立だけあって、たびたび父兄会が催されるらしい。
「将おぼっちゃま、お茶になさいますか? それともおジュースで?」
家政婦さんは将に素早く気付くと、気を遣った。
本当は自分で淹れたかったが、かえって面倒なので『紅茶。ダージリン』と頼んだ将は
「で、まだ、いるの?」
と玄関のほうを顎でしゃくった。記者連中がまだいるか、という意味だ。
家政婦さんは大げさに眉根を寄せた。
「さっきは午後のワイドショーで玄関が映ってましたのよ。おかげで騒がしいこと騒がしいこと」
「ふーん」
将は再び、そこにあった新聞をめくると、あらためて自分の記事の見出しをマジマジと眺めた。
ドラマの初回放送日は、もうあさってだ。
確かに、テレビ局にとってはいい宣伝になるんだろうな、と将はため息をついた。
この段階で……将は、週刊誌の記事そのものは目にしていなかったのである。
「ね。緒方さん」
薫り高いダージリンの紅茶を運んできた家政婦に、ふと思いついて将は声を掛けた。
「この週刊誌、買ってきてくれない?」
「おぼっちゃま、そんな雑誌。お勉強の邪魔になりますよ」
家政婦は、眉をひそめた。
「自分のところを見るだけだからさ。……やっぱ、どんなことが書いてあるか気になるじゃん。ね?」
家政婦は「でも、まだ記者の人が……」などとさんざんごねた末に、ようやく買いにいってくれた。
その週刊誌をリビングのソファでめくった将は……思わず立ち上がった。
転がるようにして階段を駆け上がり、携帯を掴み、聡の番号を押す。
つながるまでの間、血の気がザーッと音をたててひいていくのを感じた。
ヤバい。
聡に見られて困るのは、大きいほうの……○○谷詩織との2ショット写真ではなく。
むしろ、それに重ねられるようにしてあった、小さい方の写真……つまり、みな子とのキス写真だった。
みな子の顔は隠れているが、あの日、聡はみな子の振袖を見ている。
モノクロ写真でもたぶんわかってしまうだろう――。
体中がドクン、ドクンと揺れる中、コトリ、と回線がつながった。
『この電話は、電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないため……』
という無機質なメッセージ。
もう一度掛けなおす。結果は同じだった。
将は唇を噛み締める。……あとは祈るしかない。
――どうか、あの記事を、聡が目にしていませんように。
と、ふいに、置いた電話が鳴って、将はびくっと身体を震わせた。
みな子だ。
週刊誌の件だろうか。
将は恐れながらも……なかば覚悟を決めて通話ボタンを押した。
「みな子……」
「大変なの」とみな子の開口一声が将が呼びかけを遮った。
もしもし、も言わなければ将の名前もよばなかった。
みな子は、周りを意識しているのか、ひそめた声で、続けた。
「アキラ先生が、さっき、救急車で運ばれていったの」
将は、高いところから突き落とされたような錯覚を覚えた。
――聡、しっかりせい!
右手が温かいものに包まれているのに気付いた聡の意識は、ようやく暗いところから明るいところに浮上して……ふいに現実に戻った。
瞼を開けたものの……視界はまだ、ぼんやりしている。
誰かが聡を見守っているのはわかるが、それが誰か、おぼろげな輪郭しかわからない。
「聡、気がついたか」
声の主は、聡の右手を握りなおした。
この手の感触は、声は、将ではない。でも、どこかで聞いた……聞きなれた声。懐かしい声。
焦点はゆきつ戻りつして、ようやく合った。
そこにいたのは……高校のときに仲がよかった同級生の秋月泰雄だった。
聡の右手をしっかりと握り締めていてくれたのは、秋月だったのだ。
「秋月……」
聡は、秋月がどうしてここにいるのかわからなくて、とまどった。
次の瞬間。重要なことを思い出して、ガバ、と跳ね起きる。
「赤ちゃん!」
「聡! 大丈夫やけん!」
秋月に制される前に、聡は自分のお腹のふくらみを確かめる。
まだ、ある。
「赤ちゃんは?……赤ちゃんは大丈夫なの?」
「大丈夫やけん。落ち着いて。ちゃんと生きちょう……まだ点滴中なんやけん、寝とらな」
秋月は聡の肩をそっと包むように支えると、優しくベッドに横たえた。
「胎盤が少しずれてるんやって。それで溜まった血が一気に出ただけっちゃ」
「胎盤が……」
「そ。でも、ちょっとだけやけん、問題ないって。それと貧血」
「貧血……」
「聡、昔からよく貧血おこしちょったやろ」
秋月は聡の顔の真上で笑顔を見せた。それでようやく落ち着いた聡は、問うことができた。
「秋月……、どうして、ここに?」
「萩の観光PRで昨日から来ちょう……。今日は、少し時間ができたけん、聡に会いに来たんやけど……びっくりさせるなよ」
秋月は冗談めかして笑った。
「ごめん」
「でもよかったよ……」
秋月の言葉はそこで止まり、傍らの椅子に腰掛けた。
あきらかに、それを訊きたくて……でも、本調子じゃない聡の手前、我慢している。
聡の顔と膨らんだお腹とを交互に見比べる秋月の視線で、それは聡にもよくわかった。
そう、秋月は昔から、優しかった。
でも……自分からそれを言い出すのを憚られた聡は、少し秋月の優しさに甘えることにした。
「わざわざ、観光のPRで東京に?」
「そ。知っちょう?東京には萩大使館てのがあって……」
秋月はしばらく、萩の観光PR戦略などを面白可笑しく話してくれた。
ちなみに旅館のほうは、正月が終わって一段落したとのことで、妻の綾と両親でなんとかなっているらしい。
こうやって話している秋月は、大人の様で……生き生きしている瞳は、高校生の頃と変わらなかった。
中学3年から高校3年まで一緒のクラスだったあの頃と。
「ね。高校んときも、秋月……こうやって付き添ってくれたよね」
「ん。保健委員だったしな」
聡が持ち出した思い出話を、秋月はすぐに思い出したらしい。
あれは、高3の6月だった。じめじめとした……梅雨の頃。
貧血を起こして倒れた聡は、保健室にかつぎこまれたのだ。
同じ思い出を、すぐに取り出せる人がいる。聡は、心がほんのり温かくなった。
倒れた聡を、保健室で見守る秋月。
聡が一番いてほしかった……当時、付き合っていた東悠樹はいない。
……聡ではない女生徒と相合傘で校門を出る東を……聡は目撃してしまったのだ。
生理中だった聡は、目の前が真っ暗になって……倒れた。
「そのあと、東と秋月が大喧嘩してたって聞いた」
「ああ……知っとったん。恥かし」
秋月は照れて首の後ろに手をやった。そんな仕草をすると高校時代の面影がより色濃く出る。
聡と付き合っているくせに、他の女に手を出した東を怒って、秋月と東はとっくみあいのケンカになったのだ。
かたやサッカー部の人気者。かたや市内……いや山口中に名前が知れたバンドのイケメンベース。
幸い先生が来る前に、まわりの者が止めたが、そんな二人のケンカは学校中の噂になった。
「でも、あのあとまた、うまくいったんやろ。俺バカやー」
秋月は明るく笑った。
聡は何も言わずに微笑んだ。
本当は……もうとっくに聡と東はダメになっていた。
二人の気持ちは離れたまま、卒業まで惰性で……抱き合っていたにすぎない。
3年になって私立クラスと国立クラスに別れた時点で、早くも聡はそれを予感していたのだ。
それでも、それをはっきりと目にしたあのとき、聡の心で何かが割れたのだ。
……ぽろり。
予期せず、涙が転がり落ちた。涙は目じりを伝って、耳の後ろに流れていった。
あのときの記憶と、何かが重なって……現実の聡に涙を押し出させたのだ。
第337話 スキャンダル(2)
校門付近には、朝から記者やレポーターが待機していた。
生徒たちより早めに登校した聡は、何事かと思いつつ……将の身に何かが起こったことを本能的に予感した。
胸騒ぎを抑えつつ職員室の引き戸をあける。
「おはようございます」
「あ、古城先生!これ見てください!」
挨拶もそこそこに、権藤先生が折りたたんだ新聞からスライディングをするように駆け寄ってきた。
「鷹枝将が、ここに」
そういいながら権藤先生が指差す先には週刊誌の広告があった。
『スクープ・イケメン俳優・鷹枝将、○○谷詩織と愛の一夜』
聡は……ごくりと唾と同時に動揺を飲み込んだ。
聡の目の前には週刊誌が開いてある。
気を利かせた先生の一人が、出勤の途中で買ってきたものだ。
ため息をついた聡に目を止めた多美先生が、声を掛けてきた。
「古城先生、大丈夫ですよ。問題の鷹枝将は今日は欠席することですし」
つい今しがた、母親から将の欠席の連絡があったばかりだ。
「ええ……」
多美先生は、聡が生徒への影響を慮って悩んでいると思っているらしい。
聡は微笑をつくって、もう一度誌面に目を落とした。
うなだれた目線の先にたまたま週刊誌があっただけの話で、もう、記事は追っていない。
一度読んだだけでその内容は、聡の心に消したくても消えない記憶となって残ってしまっている。
それでも……目線の先にぼんやりと浮かぶ記事の写真や小見出しが否応無しに、まだしつこく飛び込んでくる。
『二人で失踪。謎の一夜』
『本命は同級生の彼女?』
……ドラマ「ばくせん」やCMで人気急上昇中のSYOこと鷹枝将と、清純派女優の○○谷詩織が二人で一晩失踪したという記事。
最初に、この記事を目にしたとき、聡はでっちあげだろうと半信半疑だった。
将から詩織の話は聞いていた。送られてきた画像に写っていたこともある。
大河ドラマを見ていた聡も好感を持っていた女優だったから、将がそんな人と共演できることを聡は心から喜んだ。
しかし、読み進めるにつれて……衝撃が表面に出ないよう持ちこたえるのに、聡は知らず息をとめていたらしい。
苦しい。苦しいのに息ができない。
だけど……職員室の誰にもそれを知られてはならない。
何か、言葉を発するべき……だけど何を言えばいいのかわからない。
そのとき、
「古城先生、鷹枝くんのマネージャーから電話です」との声。
思考が停止している聡の元には、救いのようだった。
マネージャーの武藤からは、迷惑をかけた謝罪と説明があった。
それによると、どうやら今度の木曜日から始まるドラマの宣伝のために、関係者の誰かが情報を流したのだろうということだった。
聡と将が続いていると思っていないのか……ことの真偽についての説明はなかった。
聡が武藤にそれを訊くわけにもいかない。
聡はもう一度、記事の写真に焦点をあわせてみた。
大きく載っている写真には、やや不鮮明ながら、フロントガラスごしに、ハンドルを握る将と、助手席にいる○○谷詩織が判別できる。
二人とも地味に変装していたが、何度見ても、それは将であることは、間違いなかった。
白い斑点が画面に写っているのは雪だろうか。12月、将はロケで北海道にいっていたからその間かもしれなかった。
さらに写真のボンネットの上には別の写真が小さく重ねてあった。
角度的によくわからないながら、将と振袖姿の女性。
顔は将で隠れてしまっているが……どうやらキスをしているらしいことが類推できる……聡が見てしまった将とみな子の口づけだ。
『○○の横断歩道で。こちらは同い年の彼女(類推)。ドラマのように大胆です』という冗談めかしたキャプションがついていた。
長い一日だった――。
今日の授業をとりあえず終えた聡は、トイレの個室にその重い腰を下ろした。
6ヶ月のお腹は、ことさらにその重さを主張している。
特に……緊張し通しだった今日は、膨らみが少し張っているようだ。
胎児が動くと、ほんの少しだけど鈍い痛みを感じるようだ。
こんなことは初めてで、聡はいつもより固いお腹を撫でた。
いつもだったら職員室でも寛げるのだが、今日という日は……一刻も早く人目のないところに逃げたかった。
心が受けた衝撃を……聡は、今日一日必死で隠していたから。
幸い、教室は平穏だった。聡の目には。
週刊誌の広告は新聞の他、電車の中吊りなどにもあったはずで、それを見た生徒もいて当然だった。
しかし聡の耳には、騒ぎは入らなかった。
職員室も、生徒たちには……騒ぎにならない限り、特に説明しないことになっていた。
学校側から説明することで、寝た子を起こす結果になりかねないからだ。
授業中も、職員室でも……油断すると、動揺が体のどこかしらに現われてしまいそうで……聡は全身を強ばらせていた気がする。
便座に腰掛けると、すべての筋肉が一気に弛緩して、脱力してしまったかのようだ。
ほどけてしまった神経は、聡に無意識に携帯を手にとらせた。
あらためて将からのメール――朝のHRが始まる直前に着信していた――を読む。
>心配するといけないので先に言っとく。
>週刊誌の記事、ドラマの宣伝のためのでっちあげだから。
>今日、顔を見れると思っていたのに残念すぎる><
>もうそろそろ授業だろうから、またあとで電話する。
再びそれを読み返した聡の心はぬったりとヘドロのように沈んだままで、浮かび上がらなかった。
何の感情も起きない。
何の疑問もわきあがらない。
何の展望も考え付かない。
朝、今と同じように職員用のトイレでこのメールを読んだ聡の思考は、激しく働いて……将のメールと週刊誌の記事の矛盾点を探そうとしていた。
――でっちあげなら、どうして変装して二人きりで車に乗っていたのか。
――仙台のホテルや、新幹線で、二人っきりで目撃されたのはどうして。
――スタッフとどうして一晩以上、連絡がとれなかったのか……。
――どうして、どうして。
思考は激しく聡の中で跳ね返って……心を砕いていく。
それは、見なかったことにしようとした、みな子との一件をも飲み込んで、さらに増幅していった。
いつのまにか沈んだ心から血が噴きだすように……聡は涙を流していた。
涙はさらに、自分を容赦なく追い詰めそうで……際限なく崩れてしまいそうで……聡はトイレットペーパーを引き出すと、目から次々と溢れ出る雫を拭き取る。
必死で持ちこたえるべく、涙を腹の底に飲み込んでしまおうとした……。
朝の感情を生々しく思い出した聡は、少し息苦しくなり、大きく息を吸いこんだ。
張り付いたような胸の筋肉は、呼吸動作をぎこちなくしたが、なんとか肺を満たして……お腹の底から吐き出す。
その瞬間。
何か……液体が、体内から漏れるような感覚。
いつもと違う感じに、ただちに確認した聡は……ありえない色に染まっている下着に悲鳴をあげそうになった。
トイレの薄暗がりでもわかる、生理よりさらに朱い、鮮血。
「嘘……」
脳天を殴られるようなショック。聡は、一目散に個室を出た。
妊娠中期の出血。聡は必死で頭の中の予備知識をたぐる。
血はさらさらしていた。
まさか早産?
……早産なら、まだ6ヶ月の胎児は、まず助からない。
――ひなたちゃん、ひなたちゃん!
心で呼びかけながら、聡は、気がつくと校舎を出ていた。
職員室の先生たちに、何と言いつくろって出てきたのかも覚えていない。
タクシーを拾うべく、とおりに面した校門へと歩く。
――走っちゃいけない。落ち着いて……病院にいかなくちゃ。
急ぎたいのに、身体がいつのまにか……全身が鉛に変わったかのように重い。
いつのまに鳴り出したのか、耳元で割れ鐘を叩くような、ガンガンとした耳鳴りが止まらない。
聡は自分を励ますべく、無意識に、校門への距離をカウントダウンしていた。
あと10歩。
――手の指先が冷たい。手袋をするのを忘れてしまったんだろうか。
あと7歩。
――頭ン中も冷たい。スーッとしてる。痺れちゃったみたい……。
あと3歩……。
――もうすぐ。もうすぐタクシーが通る。
白い曇り空がふいに瞳を刺す。門が、校舎が、地面が回転する。
「聡、……聡! おい!」
将ではない。
だけど懐かしい……聞き覚えのある誰かの声が聡を呼んでいる。
ようやく校門へとたどりついたところで、倒れこんだ聡の意識は……急激に遠のいていった。
第336話 スキャンダル(1)
内閣府では、首相をまじえて新年になって何回目かの会合が行われていた。
内閣から立案したい案件があり、その準備のために新年早々繰り返し会合が行われているのだ。
将の父である鷹枝康三官房長官も当然、そこに出席している。
限られた時間の中で、会合は打ち切るように終了し、康三はため息をつきながら立ち上がった。
まだ派閥間調整が残っているため、場所を変えて再度会合があるのだ。
廊下へ出た康三に、背後から近寄る人物があった。
外務大臣の麻野一朗である。麻野大臣は親しげに「鷹枝さん」と声をかけた。
今年の9月に行われる総裁選の最大のライバルと言われている彼だが、康三の母方の遠縁にもあたる。
何か、さっきの案件について補足したいことでもあるのか、と康三は軽く会釈をした。
康三とは別の派閥に属する麻野だが、今回の案件では敵対はしていない。
ごく近くに寄ってきた麻野は意味深な笑顔を浮かべながら
「息子さん、いろいろと華やかですな」
と声をかけた。
どうやら、マスコミ事情に詳しい麻野は、昨夜放送された、将が久しぶりに出演したバラエティを見たらしい。
ドラマの開始が近い将は、受験生とはいえ、番組宣伝のため、数本のバラエティに出ることが決まっているのだ。
「はぁ……。どうも」
麻野がどうして急にそんなことを言い出すのかわからない康三は、とりあえず社交辞令としてあいまいに返答するしかない。
麻野は、
「ちょっと……」
と言いながら、康三だけをそこにあったドアの中に誘うふうをした。
康三は、いぶかりながらも、側近を廊下に置いたまま素直に麻野のあとについた。
……政治家同士、側近にも秘密の、談合ともいえない密談はよくあることだ。さっきの案件について何か秘策があるのか。
その小会議室に入るなり……オフィシャルな場ではありえないほど、近くに寄ってきた麻野に、康三は身構える。
しかし麻野は康三の耳に口を寄せるようにして囁いた。
「歌舞伎と我々では……、世間への責任が違いますからな」
それだけ伝えると謎めいた……しかし、勝ち誇った笑顔を浮かべて「それだけです。……行きましょう」と康三をうながした。
康三が眦を見開いて、顔をあげたときには、麻野大臣はもはや後姿だった。
――知っている。
康三の背中を冷や汗が流れた。
麻野外務大臣は、知っているのだ。……息子の将の抱える秘密の1つを。
翌日の早朝、康三は事務所でソファの腕かけに頬杖をついたまま、眉根を寄せていた。
テーブルの上に、ネガがある。
一昨日に毛利が買いとったそれには、将がマンションのドアから出てくるところが写っていた。
日付は今年の元旦になっている。
そして、その続きで……同じドアから出てきている身重の聡。
画像の右下に表示された日時時刻は将が出てきた1時間あとになっている。
どうやら近くのビルの屋上から望遠レンズで狙ったらしい。
ややぼやけていたが、被写体が将であることははっきりとわかる。
「私が迂闊でした。ネガはこれだけか、念を押すべきでした」
康三の前で、毛利もまたうなだれた。
――おとつい、事務所を訪れたカメラマンは、これを1000万で買ってほしいとふっかけてきたのだ。
しかし、二人が同時に写っていないこと、画像がやや不明瞭なことを理由に、毛利はそれを現金300万に値切った。
これがもしマスコミに流出したところで、いくらでも言い訳が利く写真であることは、カメラマン自身もわかっていたのか、その金額であっさりと承知した。
しかし……カメラマンは、同じネガのコピーを麻野大臣のところにも持っていったらしい。
若いときに隠し子をつくったことが世間に暴露されつつも、有力役者として活躍が許されている……
麻野が歌舞伎を引き合いにだしたのは、あきらかに将が18歳にして女性を孕ませたことを揶揄しているのだ。
――ライバルに秘密を握られてしまった……。
はらはらと気を遣う毛利の前で、康三はただ苦虫を潰したような顔で、沈黙していた。
現時点であのネガは、世間にはいくらでも言い訳ができる。
他のクラスメートや家族も一緒だったなどというフィルムを捏造するのは簡単なことだ。
問題はむしろ、将が万が一東大に合格したあとであり、さらにその2ヵ月後の、聡が出産するときだ。
――やはり、軽率だったか。
康三は……東大合格と引き換えに、聡とのことを認めようとした親心を、後悔していた。
どうしたものか。
大きくため息をついた康三が、腕かけから肘をはずして、冷めたコーヒーに手を伸ばした……そのとき。
「大変です!」
と若い男性秘書が飛び込んできた。
「何だ、騒々しい。打ち合わせ中だぞ」
毛利が咎めるのも聞かず、秘書は血相を変えたまま、激しい息と一緒に声を吐く。
「息子さんが……」
毛利と康三とどちらに渡すか逡巡しつつ差し出したのは、今日発売の週刊誌らしい。
康三がそれをもぎ取るように奪い取ると、開かれたページを食い入るように読む。
そこには、大きな見出しで
『スクープ・イケメン俳優・鷹枝将、○○谷詩織と愛の一夜』
とあった。
険しい顔で文字を追っていた康三だが……一番恐れていたことに触れられていないことがわかると、投げるように週刊誌をテーブルの上に放り出した。
久しぶりに今日は学校に行ける。聡の顔を見られる。
……それが嬉しくて、ゆうべ2時まで勉強したにも関わらず、将は朝6時には目が覚めてしまった。
本来は、センター試験まで1週間あまりに迫った今ごろは、本当は体調の調整のためきちんと睡眠をとるべきなのだろう。
しかし、ドラマの収録やその他で忙しい将は、とにかくまだまだ詰め込むようにしているのだ。
早々と制服に着替えた将は、朝食を食べるべく階段を降りる。
ちなみに、家で一番早いのは康三である。
8時には国会議事堂にいる必要があるし、その前に事務所でスタッフと打ち合わせをするので、まだ暗いうちに家を出るのだ。
しかし……今朝は、すでに康三はいなかった。
「……オヤジは?」
将にとってはどうでもいいことだが、手早くスープを温めてきた純代にとりあえず訊いてみる。
「昨日はお仕事で事務所に泊まったらしいわ」
「ふうん」
コーヒーのマグカップに鼻で返事をしながら、新聞に手を延ばす。
どんなに忙しくても新聞は熟読しろという岸田助教授からの指導で、朝最低20分は新聞に費やすのがここのところの日課になっている。
新聞を手に取る前に……制服のポケットに突っ込んだ携帯がふいにけたたましく鳴った。
まだ6時30分すぎである。
携帯が鳴るのには、あまりに不自然すぎる時間だ。
将はそれを取り出すと相手の表示を見た。
『武藤さん』とある。
将が所属するプロダクションのチーフマネージャーである。
武藤がこんな早朝になんだ、スケジュール変更か……いずれにしても嬉しい連絡ではないことを予見して将は不機嫌に通話ボタンを押した。
「将? 新聞見た?」
「ハァ?」
挨拶もせずに、いきなり切り出した武藤は「落ち着いて、落ち着くのよ、将」と続ける。
その鼻息さえ聞こえてきそうな慌てっぷりに、武藤のほうこそ落ち着くべきでは、と将は少し可笑しくなる。
「……今日は、学校は休みなさい」
「ハァ?何で」
うむを言わせないいきなりの指示に、将は短く抗議する。
「学校に行くと、記者に囲まれるわ。……いい? 今日は休みなさい」
質問に的確な答えを返さないまま、武藤は純代に代わるように将に命令した。
将は理解できないまま、「武藤さんから」と携帯を純代に渡してしまうと、新聞をめくった。
ほどなく……週刊誌の広告中の見出しに、自分の名前を見つけた将は
「なんだよ、コレ」
と目を丸くした。
第335話 口づけのあと(4)
4日から図書館の開放が再開した。
16日から始まるセンター試験まで2週間を切ったせいか、3年生がいっせいに席を埋めていた。
聡は午後からの出勤だったが、さっそく英語問題での質問が殺到した。
その中に将はいない。
将は、今日からスタジオ撮影に入っているのだ。
受験生とはいえ14日からのドラマ放送開始に向けて、何かと忙しいらしい。
撮影は夜まで及ぶらしく、今週はいつもの、ネットとメールを使った個人授業も休みになるだろうとのことだった。
「先生。できました」
気がつくと星野みな子が聡のわきに立っていた。
「さすが、早いわね……じゃあ添削しておくわ」
聡は軽口を叩きながら答案を受け取った。
年内は顔を見せなかったみな子だが、今日はこっちに来たようだ。
英語が得意なみな子には、多くの実戦問題に触れるのがいいだろうと、過去問題を渡していたのだ。
みな子は目を伏せるようにして会釈すると、くるりと踵を返して聡の前を立ち去った。
その頬のあたりが、前より輝いているように見えるのは聡の気のせいだろうか。
聡はしばらく、そのすらりとした後姿から目が離せずにいた。
あのとき……将が口づけしていた、映像が脳裏に自動的にフラッシュバックする。
「先生、あたしらも英語するー。問題ちょーだい」
みな子の答案を握り締めたまま、しばらくぼうっとしていた聡は、ハッとした。
チャミ&カリナがにこにこと立っていた。
「センセー、またお腹おっきくなったよねー」
「今日、午前中、びょーいん行ってきたんでしょ?男か女かわかった?」
問題がほしいというわりには、聡のお腹について熱心に訊く。
どうやら二人は勉強に飽きて、気分転換に聡のところに来たらしい。
「お……」と一瞬言いかけた聡だったが、即座にまだわからない、と言い直した。
「えーほんとぉ、つまんなーい」
口を尖らす二人をよそに、聡は選択問題メインの問題集を探して席を立つ。
お腹の胎児が『嘘つき』といわんばかりに、ぼこりと身体を揺すった。
男の子と思わせんばかりのその勢いのよさ。
だけど……聡のお腹の中にいるのは、女の子だった。今日の検診でわかったのだ。
それが判別したとき、聡は、将を思い浮かべて心がはずんだ。
どんなに将が喜ぶか。
つねづね、聡に似た女の子がいい、と言っていた将である。女の子だったら『陽(ひなた)』と、名前まで考えていた将である。
『ひなたちゃんだったよ』
検診が終わって直ちに、メールを打とうとした聡だったが……その手が止まる。
――まだ、わからない。
聡は、メールを打たないまま、携帯をバッグにしまった。
わからないのは、胎児の性別が、ではない。
将がこの子の父親として生きるかどうかが……将が人生を自分に定めてしまって、それでいいのかがわからないのと……。
病院を出た聡はタクシーを拾って、乗り込んだ。
冷え冷えとした曇りの町が流れ出すのを確認すると、聡は背筋を伸ばした。
――これは将への罰なんだよ。ひなたちゃん。
聡は心で胎児に話し掛ける。
この3日間、聡は悩んだ。
クリスマスに呉れた小さな靴下と、自分への婚約指輪を目の前にして聡は悩み続けた。
どうして、将は、みな子にキスなどしたのか……。
最悪のことを想像して、胸はもやもやと痛み続ける。
しかし、出勤を前にして、聡はついに自分の中で結論を出した。
ちなみにこの3が日もネットとメールの個人授業は続いていたが……将はいつもの将だった。
自分との将来のために、必死で東大合格を目指す態度は変わらなかった。
だから、聡は……見なかったことにしよう。将を信じよう。と心に決めたのだった。
だけど。
あの一瞬だけは許せない。
たとえ気の迷いだとしても。
それは、女としての聡の素直な気持ちだった。
だから、せめてその罰として聡は……将が待ち望んでいることを教えないことにしたのだ。
それで、自分の気持ちがすべて整理できればいいのに。
聡は、コピーを取りながら、まだ消化できないやりきれなさを感じていた。
みな子は、みな子で……チャミやカリナに慕われながら図書室のコピーを使う聡を盗み見ていた。
本当は、担任の聡には、関西の大学を目指すことになったことを伝えなくてはならないのに、みな子はそれを言えずにいた。
言うべきことは言えぬまま、みな子は聡を盗み見るしかない。
きゃぴきゃぴとしたチャミやカリナにまじるアルトの声に、大人の女性の落ち着き。
マタニティがすっかりさまになったお腹の中には……将の子供。
自分にくれる指導も的確だ。
なのに、あいかわらず……年下から見てもどこか可愛らしい、聡。
――かなうはずがない。
みな子は、唇を小さく噛むと日本史の参考資料に目を落とした。
英語の答案を聡に渡してしまったので、次は日本史をやることにしたのだ。
そこはちょうど、飛鳥時代の天皇家の系図が記してあるページだった。
そこには、天智天皇と天武天皇、その複数の妻と子供の複雑な系図が記してあった。
――もし、昔なら。
飛鳥時代でも、平安時代でも、なんなら戦国時代でもいい。
無駄だと思いつつ、みな子は空想の世界に足を踏み入れてしまう。
……一夫一婦制でさえなければ、もしかしたら鷹枝将は、2番目の女として、自分を選んでくれたのではないだろうか……。
そうだ。
何も、一番じゃなくてもいいんだ。たった一人の女になんかならなくてもいい。
将の最初の子を身ごもった聡が正妻なら、自分は側室でいい。
聡が女性として、いまの自分より優れているのはわかる。
だから……2番目でいい。2番目でいいから、将に愛されたい。
ほんの少しでいいから将の愛がほしい。
自分は、鷹枝将が好き。鷹枝将だけが好きなんだ。鷹枝将以外の人の正妻になるより、将の側室の方がいい。
もしも鷹枝将が、自分を選んでくれるなら……嫉妬なんか、きっと我慢できるのに……。
――どうして、現代なんかに生まれてしまったんだろう。
そこまで行き着いたみな子は、自分の想像の馬鹿らしさとみじめさに資料を閉じた。
ため息をひとつ吐き出すと、問題集を開く。
自分の押したインターフォンが、虚しく中から響いてきた。
間を十分にあけて3回押して……大悟はため息をついた。
――留守か。
夏まで将と暮らしていたマンションを……大悟は訪れていた。
置きっぱなしにしていた瑞樹の遺品を、返してもらおうと思い立っての訪問だった。
諦めてエレベーターを降りた大悟は、それでももう一度10階のあたりを見上げた。
思えば、瑞樹と初めて出逢ったのも今ごろだった……とどんよりまではいかない白い曇り空に、大悟は目を細める。
青白い小さな顔の中で目ばかりが目立った制服姿。
おどおどと将を訪ねてきた様子は、大悟の中でおぼろげに揺れている。
クリスマスに西嶋家に引き取られてまだ10日ほどが経過していた。
タダで置いてもらうのに気が引けた大悟は、アルバイト扱いで西嶋光学工業の仕事を手伝っていた。
「まだ退院したてなんだから、無理しなくていいのよ」
節子は気遣ったが、
「俺がやりたいんです」
と大悟は雑用を進んで引き受けた。
社員には一切の大悟の過去は伏せられていたが、真面目な態度は、社員も感心するほどだった。
「新しい子、最近の子には珍しいですよね」
古株の社員にそう褒められて西嶋隆弘は自分のことのように相好を崩した。
しかし、大悟は……動いていたかったのだ。働くことで頭をいっぱいにしておきたかったのだ。
動いていないと、醜くて冷たい心の核が、表層に出てきてしまう。
それを恐れるばかりに大悟は、懸命に働いた。
正月は、家事を手伝い、中学の勉強のやりなおしに取り掛かった。
そんな大悟を西嶋夫妻は、温かい目で見守った。
忙しいけれど、穏やかな日々。
家族に信頼され、信頼する、あたりまえの幸せ。
それを手にしつつあった大悟の中で、急速にクローズアップされてきた想いがあった。
瑞樹だった。
家族に恵まれず、不幸なまま死んでしまったかわいそうな瑞樹。
瑞樹を……このまま忘れてしまうのは、あまりに彼女が可哀想だ。
大悟の亡き瑞樹への思いは、正月の間に急速に膨れ上がった。
3月には、命日がある。
それまでに、せめて……遺骨と遺品を手元に戻しておきたい。
そう思った大悟は、夕べ、瑞樹のことを西嶋夫妻に話したのだ。
大悟は、電話してから来るべきだったか、と後悔した。
だけど……将の携帯番号などまるで覚えていない。
それを記憶させた携帯電話もまた、入院中にとうに失っていた。
また来ればいいさ、と自分を無理やり納得させた大悟は商店街へと向きを変えた。
隆弘との待ち合わせまでまだ30分もある。
西嶋光学工業の仕事始めは明日の5日からである。
自分もお得意様に新年の挨拶をするから、と隆弘は近くまでマイカーで送ってくれたのだ。
時間をつぶすべく、コンビニに入ろうとした大悟は、ちょうど自動ドアの中から出てきた若者と目が合って……そのガラの悪さに顔をそむけた。
来ているのはジャージ風だったが、真っ赤な短髪に、耳介にぐるりとピアスの穴が開いている。
あまりまっとうではない人種であることを大悟の本能は見分けていた。
無視しようとした大悟だったが、
「大悟、大悟じゃんよ」
と呼び止められてギョッとした。
振り返った大悟に、隈取をしたような特徴ある目と、分厚い唇が記憶を呼び戻した。
「茂樹……?」
トレードマークのマカロニドレッドはなくなっていたとはいえ、それは確かに中学時代の同級生、前原茂樹だった。
「中学以来じゃん……」
前原は大悟を見るとニヤリと笑った。その溶けかけた前歯は一本が欠けたままで、大悟は嫌な予感がした。
「よ。元気そうジャン。……悪いけど俺、急いでるから」
とっさにやりすごそうと、大悟は後戻りをした。
そのまま走り去ろうとして……本当に立ちすくむ。
鏡のように商店街の風景を映し出したベンツが止まっていた。
「そう邪険にすんなよ」
尖った靴、スーツ、独特に香る整髪料で固めた頭に、鋭い眼。
大悟は……ベンツから降りてきた男を見て、蛇に睨まれた蛙のように身動きができなくなった。
30分後、隆弘との待ち合わせ場所に、大悟は現われなかった。
西嶋夫妻は、捜索願を出したが、大悟の行方は杳として知れなかった……。
第334話 口づけのあと(3)
聡との電話を切った将は、自室の静けさの中で、無意識にみな子の姿を思い浮かべていた。
うるんだ瞳。寂しげに去っていくうなじのあたり。
――やはり、きちんと謝っておかなくては。
そう思った将は、携帯を手に取るとみな子に謝罪のメールを打ち始めた。
>さっきは、本当にごめん。
ここまではいい。だがそのあとが続かない。
>俺、どうかしていたんだ。
と打ちかけて思いとどまる。さっきの行為を、自分の意志とかけはなれた、動転と気の迷いのせいにする非道さは、将でもわかる。
>もっと早く、みな子と出会っていたら……。
自分へのみな子の気持ち。
それに出来る限り答えるべく考えた文言に、出会っていたらどうだというのだ、と自問自答をする。
自分にとって女性はたった一人、聡だけだ。
みな子に対して誠実になるあまり、聡への不実をにおわせるその文言を将は、やはり消去するしかない。
なぜなら、聡がこの世に存在しないほどの事態にならなければ、みな子を選ぶことはないからだ。
>でも、みな子は大事な友達だから。もし許してくれるなら、友達でいて。
やや自分に都合がいいものの、一番将の本心に近い言葉を、将はようやくつむぎだすことができた……だが、しかし。
もうすぐ関西に、引っ越してしまうみな子には、そらぞらしくないだろうか。
いや、そもそも。メールでどうにかしようということ自体が不誠実であるように思えてきた将は、みな子の携帯番号を表示させる。
数字の羅列の中に、
『あたし、鷹枝くんの、何なのかな』
ふるえる声と黒目がちの瞳がフラッシュバックする。
自分のだらしなさを責めつつ……将は、衝動的に通話ボタンを押してしまった。
電話して、何を話すというのだ、と咎める理性と。
いや、とにかく謝らなくてはという情と。
二つが渦巻きはじめる前に、電波がつながる乾いた音がした。
「……」
いつもなら、『もしもし、鷹枝くん?』と明るい声がするはずだが、携帯は電波のつながりだけの沈黙を伝えるのみだ。
仕方ないので将から
「俺……」
と声をだす他ない。そして声、という現実は将にそのまま謝罪の言葉をつなげさせることになった。
「今日は……本当に、ごめん」
自然にうなだれた将の耳に押し当てた携帯は、しばらく沈黙を続けていた。
みな子の声を待ちつつ、それが怖い将はさらに「ごめん」と続けようとしたが
「こっちこそ……さっきは、ごめん」
というか細い応答があり。将は意外さに顔をあげた。
「いろいろ、変なこと言っちゃって……。『あれ』も……」
キス、という単語を口にしようとして、みな子はその単語の生々しさに、代名詞に言い換える。
将だけにつながっている回線にそれを発するのは、挑発的な気がしたからだ。
みな子の涙は乾いていた。着物を脱いで着替えて、紐を部屋に渡して掛けて……となるべくそれを思い出さないように動く。
それは成功したように思えた。健康なみな子の胃は、空腹を訴えた。
コンビニに出るのも面倒だったので、インスタントラーメンをつくる。
しかし、その麺を啜りこもうとして……みな子は一瞬躊躇した。
将とあわせた唇。
その唇を、インスタントラーメンなんぞに使うのはもったいない。
みな子はラーメンをそのままにして、洗面所の鏡に自らの顔を映してみる。視線は自然に唇に集中する。
それは……泣いたおかげで少し腫れぼったいながら紅を差したような色にもなっていた。
初めてのキス。
初めて好きになった、鷹枝将と、キスした。
そして将は、絶対に、自分のものにはならない男。
みな子は、唇をあわせた瞬間を反芻してみる。
突然すぎて、紗が掛かったような記憶から懸命にもやをとりのぞこうと努力をする。
しまいには、引き出しの奥に隠した雑誌を取り出す。
そこには将のグラビアがあった。
本物の将より、目も細く少しいかつい印象の写真の中で、みな子の視線はその唇だけに注がれる。
形がよく、女の唇のようにふっくらとしている唇にみな子は初めて気がついた。
この唇が自分に……。
それを思い浮かべたとたん、その湿った柔らかさと温かさがふいに蘇る。
みな子はプールに入ったときのように、体中がきゅんと締まるのを感じた。
はずみで再び涙がこぼれる。
しかし、さっきのように哀しい涙ではなかった。
将が自分に口づけしたことを……むしろ、神が起こした奇跡のような気がしている。
「『あれ』も……気にしてないから」
みな子は出来る限り明るい声を出すようにした。
そう。気にしないでほしい。気にするあまり、自分から離れてしまわないでほしい。
「それよりも、お願いがあるんだけど」
みな子は将に返答の隙間を与えずに続ける。
「今までどおりでいて」
変な風に意識しないで。せめて友達として、卒業まで、一緒にいてほしい。
どうせ、卒業したら離れてしまう自分だから……。
「先生のことは……誰にも言わないから」
「みな子」
将は、誤解だ、と言おうとして止めた。
嘘を重ねても、みな子はそれをきっと信じないだろうとわかっているからだ。
「でもね。鷹枝くん。……あたし、嬉しかったよ」
「みな子……」
「本当だよ」
みな子の頬をまた、涙が伝った。次に続ける言葉のせつなさに、涙が先走ったかのように。
「だけど、忘れる。だから……お願い、今までどおりでいて」
本当は忘れない。いつまでも覚えている。死ぬまで抱きしめていく思い出。
だけど、『友達』の将を失いたくない。
恋人になれないなら、せめて信頼される友人のままでいたい。
「先生の……カモフラージュ役でもいいから」
カモフラージュという単語に、将の心に何かがちくりと刺さった。
頭から聡の姿が完全に抜けていた、あの瞬間。
さっきの、口づけは……カモフラージュなんかじゃなかった。
だけど、それを伝えてどうする。将はかろうじて、口に出す言葉を変換した。
「みな子は……それでいいわけ?」
我ながら自分のずるさが、やるせなくて……将の口調はやや乱暴になる。
「うん……いいよ。だから」
みな子は深呼吸を挟んだ。とどめを刺すがごとく、思い切る。
「あたしから逃げないで」
第333話 口づけのあと(2)
将もまた、自分に困惑していた。
いったい、何であんなことをしたのか……。
これ以上、隠している事実を暴露されてはいけない。誰かが聞いていたらまずい。
そういう意識が働いたのは間違いないが……それがどうしてみな子への口づけという形になってしまったのか。
自宅へのタクシーの中、窓に映って流れていく街の灯に将は、さっきのことを投影させてみる。
あのとき。吸い寄せられるようにして、将はみな子の唇に自分の唇を押し当てていた。
無我夢中だった……。
気がつくと、熱に浮かされたようなみな子の顔が至近距離にあり……将は自分のしでかしたことにおののいた。
みな子は……たぶん真面目なみな子だから、おそらく初めてのキスだっただろう。
自分の罪深さに思わず舌打ちすると、将は額に手をあてた。
もはや自分がなんと言って謝ったかも覚えていない。
初めてのキスを奪った謝罪にしては……軽すぎたことだけはわかる。
まともにみな子の顔を見れなかった……それも確実だ。
顔もみずに吐き出した言葉に誠意なんか見出せるはずもなく……将は後悔に再び頭を抱えた。
考えても考えても、あの瞬間の自分の意図がよくわからず、将は虚空にため息をつくしかない。
否……わからない、というのは間違っている。
将は自分の心の片隅に息づく気持ちに気付きながら、それを拾い上げるわけにはいかなかった。
あの瞬間……将は、みな子にたしかに惹かれていた。
自分への気持ちを顕わにしたみな子に、何とかして答えたかった。
だけど……。
将は自分の心の真ん中に住んでいるひとをそっと確かめる。
……それは変わらず聡だった。自分に温かいものを教えてくれたひと。
将が気がついたときには、みな子は静かに踵を返していた。
なおも将は……人波にまぎれていく、その寂しい後姿を思わず追いたくなる。
追ってどうするのか。
将はその姿が見えなくなるまで目で追っていた。足を、かろうじて踏み出さなかったのは……今考えれば聡のためである。
聡。
タクシーの窓いっぱいに、聡の顔が蘇る。
その瞳には、なぜか涙をいっぱいにためていた。
そのせつない表情に、将は呼吸が苦しくなる。
自分は……聡を裏切りかけたのだろうか。
――ごめん、聡。
将は何も知らないであろう聡に心の中で詫びた。
――将は、どうして、あんなことを……。
お風呂の中で、聡の脳裏に再びそれが戻ってきた。
食事の準備をしてそれを食べるまでは、何も考えずに済んでいた。なにせ妊娠も6ヶ月、安定期にある聡の食欲は、ここのところ旺盛だったから。
しかし、こうして静けさが戻ると聡の思考はどうしても、さっきのことを考えはじめてしまう。
そしてそれは、『将の浮気』という結論を安易に出してしまいそうになる。
それに対して心は、昨日から今朝、さらにクリスマスの将を思い出して必死で抵抗しようとする。
だけどすべては、将とみな子が顔を寄せ合う鮮明な映像に打ち消されてしまうのだ。
――いやだ。
聡は記憶を振り払うように、とぷん、とお湯の中に潜った。
目をしっかりと閉じて、息をとめる。……その瞼の裏にも、その映像はしつこく蘇り、聡は苦しさにお湯から顔をあげた。
顔をぬぐって開いた目の前に膨らんだ下腹部がある。
将の子供がいる……お腹。
聡の妊娠を知って、将は……結婚しようと、確かに言った。
――だけど、そんなの無理。
聡は、弾かれるように天井を仰いだ。
寒いので換気を切ったバスルームは湯気でぼんやりと煙っている。
それは聡の先行きのよう。そんなことを思ったとき、聡の額に雫が1つぽとりと落ちてきた。
氷のように冷えきった雫は、一瞬、聡の全身を反射的に震わせて、聡はまた俯いた。
……例え、東大に合格したって。将はまだ若いのだ、まだ18年しか生きていないのだ。
心惹かれる女に出会うのは、むしろこれからじゃないのか。
髪の毛から、次々と流れ落ちて来る水滴のように、聡の心には絶望材料が降り注ぐ。
と、そのとき。
部屋で携帯が鳴り、聡はハッと顔をあげた。将の着信音。
あわてて、タオルで身体を包み、ユニットのバスルームを出る。
時間を見ると、もう個人教授の時間だった。
記憶と絶望に翻弄されながら思わず長風呂してしまったらしい。
聡はさんざん逡巡したあげく、ようやく通話ボタンを押した。
「もしもし」
……相手が将だとわかっていて、通話ボタンを押すのをこんなにためらったことがあっただろうか。
「アキラー?時間だよん。……さっそく教材送ってよ」
電話の中からは、いつもと同じ調子の将の声が聞こえてきた。
聡はますますとまどう。あれは、やはり見間違いだったのだろうか。
「ご、ごめん。まだお風呂なの」
「あ、ほんと?ゴメン、ゴメン」
約束の時間に遅れたのは聡のほうなのに……優しい将の声。
それとも……将は、早くも男のズルさを身につけているのだろうか。
疑心暗鬼になりつつも、聡はそれを表面に出すことができない。
「ううん。あたしがつい長風呂しちゃったから」
「30分待つよ。その間、先にCNNのトップニュースの要約しとくよ。辞書なしで」
「……じゃあ、そうしといて」
「うん。湯冷めに気をつけろよ……じゃ、あとで」
電話を切ったとたん、一気に力が抜けた。
……それで、逆に将との会話中、ずっと緊張していた自分を知り、聡は再びため息をついた。
将は、どういうつもりなのか。
将を信じるべきなのだろうか。信じていいのだろうか。見なかったことにすべきなのだろうか。
将にどう接していいかわからない聡は、膨らんだお腹を撫でて三たびため息をついた。
第332話 口づけのあと(1)
反射的に、聡は駆け出していた。今来た方向へ。
人波をかいくぐるように走る、走る。
色づき始めた駅前のネオンが後ろに流れていく。
聡は後ろもみずに、膨らみだしたお腹が揺れるのもかまわず走って……気がつくとホームにいた。
荒い息とともに、膨らみ始めたお腹が上下する。
自分は、いったい何を見たんだろう。
横断歩道の向こう側。振袖姿のみな子に、口づけする将。
見まちがい?見まちがいだ、きっと。それか、良く似た他人。
聡の理性は、それを『まちがい』として片付けようとやっきになって働いた。
だが……目をつぶると……瞼の裏に焼きついているその映像は消しようがない。
桃色の振袖姿の若い女に、顎を傾けるようにして唇を寄せる背の高い男。
見慣れたダッフル。それに何より……首にぐるぐる巻きにしているマフラーは、聡が編んだややふぞろいな編み目だ。
まっ白になった頭の中で、その映像だけが鮮明に何度もリピートされる。
「大丈夫ですか?」
聡はハッと顔をあげた。
無意識のうちに、電車に乗り込んでいたらしい。
棒につかまって立っていた聡の前に座っていた女性が、心配そうに聡の顔を覗き込んでいる。
聡の表情も顔色も、よほど悪かったらしい。
女性の隣に座っていた男性が立ち上がると、「どうぞ」と聡に席を譲ってくれた。どうやら夫婦らしい。
大丈夫です、と遠慮しようとした聡だったが、お腹に視線を感じる。
夫婦そろって聡のお腹と顔をかわるがわるに見つめてにこにこしている。
断る方が不自然な状況になってしまい、聡は好意を受けることにした。
シートに落ち着いたおかげか、お腹の子供がまだ動いていることに気付く。
聡と一緒に走っていた胎児は、いまだ止まりきれないように活発に手足を収縮させているらしい。
……妊婦だというのに無茶な走りをしてしまった。聡は反省をこめて、そっとお腹を撫でた。
今は何も考えたくない。
聡は下腹に手をおいたまま、身も心も電車の揺れに任せるしかなかった。
「みな子?いったいあなた、どこにいるの」
電話の主はやはり母親だった。横浜の祖母宅……正確には母の兄にあたる叔父宅に祖母は同居している。
着物を着せてくれたのもこの祖母だが、そこに昨日からみな子の一家は泊まっているのだ。
夕方になっても戻らない娘を心配して携帯に電話してきたのだ。
「……ごめん。勉強したいから、今日はおうちに帰る」
「そんな、みな子」
抗議しようとする母を、「電車の中だから」といってみな子は一方的に電話を切った。
さすがに元旦だけあり、この時間にしては乗客は少ない。
みな子は携帯を握り締めたまま、シートにぼんやりと腰を下ろして、寒々しい色に照らされた電車の床を眺めていた。
一瞬の出来事だったと思う。
みな子は、生まれて初めて、人の唇の感触を、唇で味わった。
……はずなのに、くっつけたその感触は、突然すぎてまるで覚えていない。
鼓動も至福感も恥かしさも、何もかもすっ飛んでいた。
ただ、至近距離にいた将を、熱いと感じていた。
時間の感覚がない。その口づけが長かったのか、一瞬だったのかそれもさだかではない。
やがて……傾けた顎を戻すようにして、将はそっと唇を離した。
――キスって。そうか、こんな風に顔を傾けるから、鼻がぶつからないんだ……。
途切れていたせつない感情。漠然と……それだけが戻ってきた。
鷹枝将にキスされた。
せつなさに呼ばれるようにして、心臓が大きく拍動を始める。
鷹枝将にキスされた。
動き始めた心臓に体中の血が熱く駆け巡る。
鷹枝将にキスされた。
脳天に達した熱い血液はのぼせたように思考を邪魔する。身体がただあったかくてふわふわする。
しかし、せつなさとふわふわした身体が、幸福感に到達する前に
『ごめん』
みな子は将の声を聞いた。ハッと我に帰ったみな子は将を見上げる。
『ごめん。本当にごめん。そんなつもりじゃなかった』
将は今までに見たことないほど動揺していた。
みな子と目をあわせないように……顔を逸らしたまま、しきりに詫びの言葉をつなげる。
その、ほとんど後ろ向きの斜め45度になった耳のあたりには、とまどいと後悔しか見つけられず……そのとき、みな子は初めて傷ついた。
――何で謝るの……。
哀しさは、再びの涙を連れて来そうになる。
みな子は辛くもそれをこらえた。
夜風が、目頭から鼻の奥にツンと沁みて……みな子は、黙って将の傍を離れるしかなかった。
期待していなかった、と言えば嘘になる。
もしかして将が……追ってくる。名前を後ろから呼んでくれる。
諦めながらも、みな子は襟足の端っこに希望を残しながら……惨敗した。
いま、みな子はたった一人で電車に揺られている。
涙も心で貼り付いたように乾いて、もはや出てこない。
誰もいない自宅マンションは、冷え冷えとしていた。
早いところ着替えて、何かコンビニに買いに行こう――。
窮屈な着物を脱ぐべく和室に入ったみな子の携帯がメールの着信を伝える。
もしかしたら将では、と期待してしまう自分を、みな子は自嘲する。母だった。
>うちには衣紋掛けがないから、着物は洗濯紐に掛けて吊るしておきなさい。
みな子は思わず自嘲を鼻先に漏らした。
この振袖だって。……わざわざ着て横浜から出てきたのは、将に見せたかったからだった。
本当は、元旦の今日の集まりに出るつもりはなかった。
教師と生徒。禁断の関係なのに……秘密裏に子供を産ませるほど、固い仲の将と聡。
そんな二人をまのあたりにするのは、つらい。
対して、卒業したら関西に行く自分。
未来永劫、将の人生と、自分の人生が交わることはないのだ。将の人生に関係ないのは自分のほうなのだ。
そう思っていたみな子だったが、今朝、祖母に振袖を着せてもらった自分を見て、将はこの姿を絶対に見るべきだと思った。
薄く化粧をし、制服とは違う姿の自分を見て、将は何というか。
それを確認したい、とみな子は願ったのだ。
みな子は洗濯紐を探すべく、クロゼットの扉をあけた。
開けたクロゼットの扉からあらぬ色が飛び込んできてみな子は振り返った。
自分が身につけている振袖の桃色だった。
『これは、すごくいいものなんだよ』
着付けた祖母は、うっとりと呟いた。
100万は下らない……そんな着物の価格を聞いたとき、そんな金があるのなら、こんな着物ではなく、東京に残る資金にあててほしかった……みな子は未練がましくもそう思ったものだ。
しかし、仮に東京に残ったとして何になっただろう。
鏡に映った振袖の長い袖は、柔らかいくせにどこかメタリックな重い光沢でみな子を射抜いた。
下から見上げていった袖の先に、着物より一段紅い色で、自らの唇があった。
初めて口づけを交わした唇。
将とあわせた唇――。
みな子は鏡を背にすると帯を勢いよく、ぐい、と前にまわした。
固い帯は一度緩むと、重い感触を残して畳に落ちて、みな子を一気に解放した。
締め付けられていた身体が解放されると同時に、乾いていた涙も、また込み上げてくる。
幾重にも巻いていた紐をすっかり解いてしまうと、桃色の振袖を肩から落とす。
重い絹の着物は、まるでみな子の身体に未練を残すように、肩から腕をなぞって落ちていく。
涙も頬をなぞって落ちていく。
自分を包んでいた桃色が、畳にすっかり滑り落ちたとき……みな子は襦袢姿のまま、その場に突っ伏すと、声をあげて泣いた。
第331話 初詣(4)
「勉強、進んでる?」
話を切り出したのは将のほうだった。足が長い将には高いスツールも単なる椅子のようだ。
それに軽々と腰を乗せながら、傍らのみな子に微笑みかける。
窓に向かうカウンター席。二人のスツールの距離は思いのほか近い。みな子の肩と将の肩の距離はわずか10センチほどだ。
将の体温で体の左半分が熱い錯覚さえ覚えながら、みな子はうなづいた。
本当は……あのクリスマスイブ以来、勉強はまるで進んでいない。
いままでM大を目指してたんだから、関西圏ならR大やK大がある、と両親はみな子を元気付けようとしていたが、みな子はまるっきりやる気を失っていたのだ。
「図書館にぜんぜん来てなかっただろ。みな子。どうしたんだろって思ってた」
――『どうしたんだろって思ってた』だって。
気にかけてくれていたという将の言葉に、みな子は大きく息をついた。
もちろん熱すぎるカフェオレを冷ますような振りをして。
好きなひとが、自分のことを考えてくれていた。こんな嬉しさは、生まれて以来はじめて味わうものだった。
それで、みな子はかなり救われた。
「予備校に通ってたから……」
これも嘘である。たしかに予備校に通える手続きはしていた。
だが、実際は講義をサボってネットカフェなどで徒に時を過ごしていたのだ……。
「でさ。話って何?」
一刻も早く本題に入りたそうな将に、一瞬浮かび上がったみな子の気持ちは再び沈む。
二人でいる時間がいとおしいのは、みな子の側だけなのだ……。
そんなに軽い存在の自分。
自分が関西に行くときいても、最悪「ふーん。残念だね」だけで終わってしまうかもしれない。
そんなことを考えながら、
「鷹枝くん、東大以外でどっか願書出した?」
と質問をしてみる。
「ああ」
一方将は、みな子がもし、告白してきたらどうすればいいのだろう、と恐れていた。
もちろん応じるわけにはいかない。自分には聡がいる。
でも、みな子はいい子だ。
できれば、今の関係を壊したくない……。
付き合えないけど、失いたくない。これはエゴなんだろうか、と将は考える。
みな子はいったい自分の何なのだと考えたとき、一番近い答えは『友達』である。
だが、その単なる友達が、自分以外の誰かを好きになることを考えると……それはあきらかに不快なのだった。
異性として告白されるのを恐れながら、自分を諦めて他の男を好きになるのは不愉快……。
「いちおう、親がうるさいからK大にも出しておいた。センターで受験できるやつ。でも行く気ないけど」
自分の我侭さに感じるかすかな吐き気。それを自覚しながら将は、何食わぬ顔をしてみな子の質問に答え、さらに質問を返す。
「みな子はM大だろ」
「うん……それがさ」
急に、本題のうちの1つの足がかりを与えられてみな子は下を向いた。
もう、話すしかない。みな子はカップを置いてカウンターに肘をついた。
「うちさ……。オヤが転勤になっちゃって。あたし、関西の大学を受験することになりそうなの」
伝え終わったみな子は勇気を出して、傍らの将の顔を見上げた。
将はカップから唇を離して、こっちを振り返った。
こんなに近い距離で見詰め合うのは初めて――。
みな子は、驚きのあまり眼鏡の奥で大きく見開いた将の瞳を見つめた。
1年生のときと同じ、明るい茶色の瞳がみな子を見つめる。
「うそ……」
「ホント」
思ったより将はずっと驚いてくれた……それだけでみな子は満足した気がした。
「こっちには残れないの?」
みな子は首を静かに横に振った。
「うちにはそんな経済力ないもん……。だから、卒業したらもう、鷹枝くんとも無関係」
わざと自虐的な言葉を選んでみる。
「無関係、なんてことないだろ」
自分がいなくなる事実が、将の声を、そんな風にせつなくさせる。
将は、みな子を、みな子として認識してくれていたのだ。
だが、救われた反面、みな子は自分の位置を……聡との相対位置を確かめたくなる。
聡が絶対であることはわかっているけれど。
「関西の、どこ」
「たぶん大阪」
「おおさか、かー」
今度は将が肘をつく。みな子とは反対側の肘をついたおかげで将の身体は大きく傾く。
「ショック?」
おどけて見せるみな子に、将は素直に
「うん」
とやや細めた目をみな子に向けた。いわゆる流し目。
みな子はどきん、とした。おかげで用意していた
『あたしは、鷹枝くんの、いったい何?』
という言葉が吹き飛んでしまった。
カフェを出ると、街はもう紫色に沈んでいた。
ビルの上のほうだけがいやに赤く照り輝き、地上近くでは信号の緑や車のテイルランプの点滅が煌き出した。
昼間こそ温かだったが、陽が翳って急に冷えこんだようだ。
信号待ち。吹き付けた風に、みな子は思わず首をすくめる。
冷えたストールの毛がひやっと頬を撫でてみな子は瞼を一瞬きゅっとつむった。
「だけど、残念だな」
その声に、みな子は思わず瞼に込めた力をゆるめて、将を見上げた。
夕映えとは反対側の……わすれな草色を深めていく空に浮かぶ将の横顔の唇から白い息が漏れていくのが見えた。
「そう思ってくれるんだ……」
ため息のようなみな子のつぶやきに、将は小さく「うん」とうなづいたまま俯くと、そのまま、茜色を深めていく夕映えの空を振り返った。
まもなく藍一色になるであろう空は、美しく焦がれていた。
きゅうっと……みな子の胸は締め付けられる。
締め付けられたせつなさが喉を逆流し、つんと鼻の奥を刺激しつつ、脳に達した。
せつなさに支配されたみな子は、将の首にぐるぐると巻かれた手編みのマフラーがふいに羨ましいと思った。
将を温める……将が必要なものになりたい。
将が振り返る……あのたそがれの空になれれば。
『友達』という中途半端な存在。それが何なのだろう。
好き。
どうしようもない想い。
信号がふいに変わり、けたたましいメロディが夕風に混じる。
「あたし……鷹枝くんの何」
「え」
横断歩道に三歩ほど踏み出していた将は止まった。
みな子はそのままの位置に立ち尽くしていた。
「あたし、鷹枝くんの、何なのかな」
震える声。だけど、みな子は泣いてはいなかった。
ただ、その黒目勝ちの瞳は、まっすぐに将を射抜くように見詰めていた。
「みな子」
将は、それだけでみな子が何を言いたいのかわかった。
だけど……どうしようもない。みな子はいい子だ。たぶん、いい女でさえあると思う。
せつないけれど……大事な友達としかいいようがない。
みな子を選ぶことはできない。
いつか、この甘酸っぱいようなせつなさは消えて、平らな友情だけが残る日が来るのだろうか。
そう、お互いに好意を確認しあった男と女の間に、友情はありえるのだろうか。
「ごめん」
将はそれを言うだけでせいいっぱいだった。
「どうして」
みな子は声を張り上げた。すでに限界だったのだろう、涙が一粒頬を伝う。
「どうして、先生なの」
みな子はそこで初めて、こみあげる熱いものと一緒に聡の名前を吐いた。
喉はマフラーで隠れているのに……将が固唾を飲むのがありありとわかった。
みな子はほんの少しだけ溜飲を下げている自分に驚いていた。
生まれて初めて好きになった男が、自分の言葉に感情を動かすさまをまのあたりにして……涙を流しながらも、失恋の場面なのに、一種の喜びを感じずにはいられない。
「先生は関係ない」
将はといえば、みぞおちに一撃をくらう直前のように、腹に力を込めた。
――そうだった。
将が信頼していたみな子だから……聡への想いも知っていたのだった。
その後、諦めたふりをしておいたはずだが、信じていないのは仕方ない。
だが……最後の秘密だけは、ぜったいに知られてはならない。
将はぎゅっと奥歯を噛んだ。
「うそ!」
みな子は叫んだ。
その声に通り過ぎる通行人の何人かが振り返る。
将は、これ以上大声を出させないために、みな子の傍に駆け戻った。
みな子は、しきりに流れる涙を手の甲でぬぐいながら、将を見据えた。
まるで睨みつけられているように見えるほど強い目の光だった。
「あたし、知ってるんだから……」
みな子は自らの昂ぶりを実感しながら、その心の奥では将を観察している冷静な自分がいるのをすでに知っている。
将のとまどう瞳。おびえながらも、みな子の次の言葉を待つその顔をまのあたりにして、喜悦はますます増幅した。
「先生は、本当は、結婚してないし……」
あてずっぽうをさも知っているように舌にのせる。
否……みな子の中では、すでに、クリスマスの夜から事実になっていることだ。
「先生のおなかの子供は、鷹枝くんの」
みな子の言葉はそこで不自然に止まる。
手にしていたビーズのバッグがアスファルトに落ちた。
言葉の続きを発しようとしたみな子の唇は、将の唇でふさがれていた。
横断歩道のメロディが止まり……車が動き出したが、二人は静寂に包まれていた。
横断歩道の向こう側で……聡も立ち尽くしていた。
たそがれゆく冬の街だけが、三人を包んでいた。
第330話 初詣(3)
「……じゃあ、今日はこれで解散ね。みんな寄り道しないで帰るのよ」
そう注意を与えながらも、せっかく出てきた生徒たちがそのまま帰るはずがないことは聡にも分かりきっている。
それでも大半の生徒は、おなじみのターミナル駅まで聡について同じ地下鉄に乗る。
ホームで聡は生徒を見回すふりをしながら、離れたところにいる将を見る。
方角が一緒だから付いてきているのを確認した聡は、将の傍らにいたみな子と目が合ってしまった。
桃色の振袖は、ふだんクールな感じの彼女を愛らしく見せてよく似合っていた。
裾などもペラペラとめくれず、しっとりとした艶は上等な生地に違いなかった。
聡は実家に置いたままの自分の着物を思い出した。
成人式は従姉の振袖だった聡だが、せっかくだからと母が作ってくれた訪問着。
毎年、正月に帰るたびに話題に出るのだが、結局、一回も着ていない……。
もっとも訪問着だから、結婚しても着ることはできる。
いつか将と一緒にそれを着る日は来るのだろうか。
地下鉄を乗り継いで、やっとターミナル駅へ着く。
さっきまで小春日和だった午後の陽射しは、すでに夕方に近い色になっている。
正月とはいえ、駅はいつもと同じくごった返していた。元旦から開いて、バーゲンを開始したデパートもあるらしい。
「じゃ、先生は寄るところがあるから」
と聡は先に生徒に手を振って去っていった。
二人でマンションに戻るわけにはいかないことはわかっているが、将は寂しく聡の後姿を見送る。
自分もそろそろ帰ったほうがいいだろうか、と将が時計を確認したとき。
「鷹枝くん。あの」
いつもより言葉少なだったみな子が、急に口を開いた。
「よかったら、少し付き合ってくれない……?」
視線を下に落としたままの調子が、いつもと違う。だが最後に、視線を将の目の位置まであげて
「話があるの」
と続けた。
その必死な様子に、コクられるのかもしれない、と将は直感した。
できれば、聡と会っている時間以外は勉強にあてたい今の将だ。
だが、動きが不自由な振袖姿で駆けつけたのは自分のためかも、と思い直す。
聡と出会ったことで優しくなった将は……みな子を無碍に拒絶することはできなかった。
駅近くのカフェもかなり混んでいた。
オーダーするまえに、あらかじめ席を確保したほうがいい、と将は席を探したが、あいにく窓際のカウンターしかなかった。
「すわりにくくない?」
高いスツールに振袖で座るのは少しつらいだろうと、将はみな子のために椅子を引いてやった。
「俺、買ってくるよ。……何がいい?」
とさらに気を利かす。
「え、いいよ。そんな」
もちろんみな子は遠慮した。なんといっても将は芸能人だ。
伊達眼鏡はしているものの、彼が自らレジに行くなんて、目立ちすぎるのではないだろうか。
みな子はまわりを見回した。幸い気付かないのか、見て見ぬふりなのかはわからないが、将を気にとめる人はいないようだ。
「いいって。なんかキモノって壊れちゃいそうで、コワイ。じっとしてて」
将はそういって笑うと、レジに行ってしまった。
みな子は袖を気にしながらカウンターに肘をつくとため息をついた。
将とこのまま別れるのが惜しくて……つい誘ってしまったが、何を話すというのだろうか。
いや、話したいことはいろいろある。
ありすぎて、どれから話せばいいのかわからない。
とりあえず、関西に行かなくてはならないことは……話すべきだろう。
まずは無難なところから、頭の中を整理するみな子だったが、次の瞬間には疑問がわく。
――それを話したところでどうなるのだろう。
別に付き合っているわけでもない二人だ。
将はきっと「残念だ」というだろう……。でも、きっと、ただそれだけだ。
その意味付けに……せめて告白してみるのは?
胸に苦しいほどの思いを吐き出してみたら……。
それを想像するだけでみな子の心臓は激しく収縮しだした。
苦しい呼吸の、まるでクロールの息継ぎをするようにみな子はレジを振り返った。
レジはオーダーを待つ人で行列が出来ていた。
将もまだ待っているようだ。背の高い将だから居場所がすぐわかる。
下を向いている将は……どうやらメールを打っているらしい。
みな子は息を飲み込んだ。
おかげで胸がますます苦しくなってしまったみな子は、思わず手で口を覆う。
――きっとアキラ先生にメールを打っているんだ……。
それがわかってしまったみな子の理性は、告白なんか、なんの意味ももたないことを割り出してしまう。
将は……たぶん、まだ聡と続いている。そして聡が結婚したというのは嘘。
突拍子もない想像だとは思うけれど、疑惑を通り越して、みな子の中では確信になっている。
『アキラ先生のお腹の子は……鷹枝くんの子供なんでしょう』
それを言ったら、将はどう反応するだろうか。
不思議なことに、告白の場面を想像したときより、みな子は奇妙に落ち着いてきた。
将はいろいろと誤魔化そうとするのだろうか。
それとも、6月に猫を見に行った帰りのように、みな子だけに秘密を打ち明けてくれるのだろうか。
――そうだ。
みな子はガラス越しの街並みに向かって背筋を伸ばした。
あのとき、将が聡をまだ好きだということは、仲のいい井口にも秘密にしていた。
それをみな子にだけ打ち明けたということは……将は、みな子を信頼してくれているのだ。
友達だけど……唯一無二の存在かもしれない。
かけがえのない事実に、みな子は一瞬救われる。
そのスタンスに縋って生きてきた。将を想ってきた。
だが……そのスタンスを重視すると……今のみな子には将に話せることはほとんどなくなってしまうのだ。
思考が振り出しに戻ったみな子は、再びカウンターに肘をついて、ガラスの向こうをぼんやりと見るしかない。
オーダーの順番を待ちながら、将は、さっき、なし崩しに別れてしまった聡に宛ててメールを打っていた。
>今、どこ?俺は○○駅前のスタバ。
>みな子と一緒。ちょっとコーヒー飲んだらすぐ帰る。
>今日も、英語特訓ヨロ。
聡は大人だから、キーキー嫉妬することはないだろうが、誤解させないように、先手を打って連絡しておいたのだ。
聡はといえば、元旦から開いている書店の参考書コーナーでそのメールを受け取っていた。
昨日、将が思ったより頑張ったおかげで教材が残り少なくなっていた。その補充のために、いくつか問題集を新たに選んでいたのだ。
メールを読みながら聡は、元旦くらい休んでもいいのに、とも思ったが4日からスタジオ撮影が始まる将だ。今が頑張りどきなのだろう。
と、聡は手にした問題集を、将に渡してしまおうと思いついた。
クラスでの初詣帰りという大義名分がある今だ。街角で参考書を渡すぐらい教師と生徒として別に不自然なこともないだろう。
しかも、星野みな子も一緒ならなおさら都合がよい。なんなら一冊はみな子に貸してもいい。
聡は問題集3冊のお金を払うと、将がいるカフェへ向かった。
その頃。
みな子がぼんやりと見ていた行き交う人々のこちら側で。
カフェにいる二人を……正確には、将を……狙っているカメラがいた。
写真週刊誌の新年最初の号に載るべく、共演の○○谷詩織とのスキャンダル記事が進行しているのを……将はまだ知らない。
第329話 初詣(2)
だいたい揃ったようなので、一同は境内へと歩き始めた。
元旦の境内はなにしろ人がすごい。20人ほどの一行は、小グループに分割されながら人波に乗って拝殿へ進む。
こんなとき将や井口のような背の高い生徒は皆の目印として役に立つ。
いつもは芸能人ということで、人目から隠れるようにしている将ではある。
だが今日はクラスメートたちが取り囲んでいるのと、あたりの人は初詣という目的があるせいか、人目を集めながらもそれらが将へ殺到することはなかった。
「なに、井口くん、本格的にパン屋さんになるの?」
「まだダンスも諦めたわけじゃねーよ」
将の茶化した質問に井口はややムッとして答える。
だが、傍らのさやかの視線を感じたのかあわてて
「や、でも。パン屋もおもしれー。マジ、おもしれー。そうだ、パンのワールドカップってのがあるの知ってる?」
「知らない」
「あるんだわ、これが。俺らが夏に行った研修の講師が、優勝してんの。世界で、だよ。すごくね?」
引きこもりの兄がいる家をひたすら嫌う井口は、この夏休み、バイトしているパン屋の主人の勧めのままに岐阜県の高山市であった新人職人向けの研修に参加したのだ。
さやかと知り合ったのもそこで、である。
「へー」
「本場のフランス勢を押さえて、日本の職人が優勝するのってすごいことなんですよ」
口を挟むさやかに、井口が嬉しそうな顔を見せる。
さやかの表情に一喜一憂しつつ必死の井口を見て、将は可笑しくてたまらない。
それと同時に聡と近づき始めた頃の、自分を思い出して懐かしくなる。
最初のデートはドライブだった。
自分の車に聡を乗せただけで、とても幸せだったけれど。
聡を好きな将が投げたボールが、ただ返って来るような会話が続く。
そんな中、たまに聡の方から会話のボールを投げてくるだけで……たまらなく嬉しかった。
聡が自分の車の中で、自分に向けて言葉を発した。
ただそれだけなのに。
受け容れられたような気がして……天にも昇る心地だった恋の始まりを将は甘く思い出す。
それを今、井口も味わっているのに違いないのだ。
聡は前の方を歩く将の頭のあたりを見ていた。
聡のまわりには、初期の頃から補習に参加していたまじめな生徒たちが集まっていた。
いま聡のとなりを歩くのは、いったん実家に帰ったものの、初詣のために、わざわざ東京に戻ってきた兵藤だ。
「兵藤くんは卒業後も海潮寿司で修行を続けるの?」
「はい。卒業したら昼間も修行できるので、仕入れの勉強がしたいです」
兵藤は午後の陽射しに目を細めながら答えた。
出会って1年以上たって……この子も少し背が伸びた、と聡は少しのびた丸刈り頭を見る。
「キャッシュバックは何に使うか決めた?」
無事卒業できるともらえるキャッシュバック。
遅刻も欠席もせず、赤点もとらなかった兵藤はほぼ満額のキャッシュバックがもらえることになっているのだ。
「まだ……。親方からは、いつか必要になるから大事にとっとけ、と言われました」
「そうね。お店出すときとか必要だもんね」
兵藤はうなづきつつ問い返す。
「先生、僕らの卒業のあとは、だんなさんについて外国に行っちゃうんですか?」
とっさに、どう答えていいか言葉に詰まる。
まわりにいた松岡や真田由紀子らも皆、聡の顔をのぞきこむようにしている。
その猶予のない状況に聡は、うなづくしかない。
「そうですかー。そうですよね……」
兵藤は少し肩を落とす。そんな様子を見て、聡は胸が苦しくなる。
外国には行かないけれど……自分はこの子たちに酷い裏切りをしているのではないだろうか。
同じクラスメートの将の子を孕んでいると知って、この子達は何を思うだろうか。
「赤ちゃんも、外国で生むんですか?」
何も知らない真田由紀子が、心配そうに聡の顔をのぞきこむ。
聡の気持ちに反応して、お腹の中が少し動く。胎児もうなだれたのだろうか。
――この子を生むとき、自分はどこにいるのだろうか。
そして将は一緒なんだろうか。
わずか4ヶ月先のことなのに、何も見通せない聡はただ
「わからない」
と答える。あわてて「どうしたらいいか、二人で考えてるの」と明るく付け加える。
考えても答えは今は決してわからないのだけれど。
生むことに決めてしまったこの子を、健やかにこの世に出してあげることと、将の幸せのために毎日できることをするしかない。
自分と結婚するにせよ、できないにせよ、東大に合格することは将のためになる。
拝殿の前に来た聡は、厳粛な気持ちで500円玉を賽銭箱に入れる。
将の合格と……初めての教え子たちの今後の幸せを祈念して。
お参りが終わると、皆一斉におみくじを買い求めた。
まるでこっちが本命のような大騒ぎである。
凶が出たらショックだの、逆にめったにないから縁起がいいだの口々にいいながらおみくじを引いていく。
聡もせっかくだからと引いてみた。そんな聡に将がさりげなく近寄ってくる。
「アキラ先生は?……すっげ、大吉じゃん」
聡のおみくじには『願い事……叶う 結婚……良縁あり。慎重に選べ』なと概ねよいことばかりが書いてあった。
将は『出産……安し』をこっそり指差すといたずらっぽく笑った。
「鷹枝くんは?」
「末吉。あんまよくなかったけど、気にしないしー」
将は歯を見せて微笑んだ。いち生徒としての顔だけで、みな子や井口たちのもとへ戻っていった。
あまりベタベタするとよくない、と聡にさんざん言われているからだ。
「ところで将」
ひいたおみくじを囲いのような紐に結んでいる将に、ふいに井口が声を掛けてきた。
そのまま肩を抱くようにして柱の陰に連れ込まれる。
小春日和の境内に慣れた目は、柱の陰を真っ暗に見せた。
徐々に復活したコバルトの視界の中に映った井口の目は、鋭いものだった。
顔を寄せて、ひそめた声が低いところから何かよくない知らせらしい。
一緒にいたみな子とさやかは、お守りを選んでいる……その隙を狙っていたらしい。
「前原くんが出所してる」
元クラスメートで、昨年覚醒剤所持と恐喝・婦女暴行未遂で逮捕された前原茂樹――。
久しぶりに聞く名前だったが、将はその隈取をしたような目を即座に思い出した。
凍るような夜の川に投げ込まれた記憶と共に。
「前原が?」
井口はうなづいた。無精ひげが伸びた顔は、陰にいるせいか蒼ざめて見える。
前原とは昨日、カウントダウンイベントに参加したときに、街でばったり会ったという。
「少年院ってこんなに早く出所できんの?」
まだ逮捕されて1年と少ししか経っていない。
「知らねーけど、初犯で未遂だからじゃね?保護観察チューとか?俺はシカトしたけど……、お前は気をつけたほうがいいんじゃない?あいつ粘着だし」
気をつけたほうがいいというのは、言われなくても反射的に理解していた。
しかし、もはや生きている場所も違うし、それに前原とて更生しているのだろう。
……そう思い込もうとした将だが、心に不快感がしみ出してくるのを防ぎ切れない。
思わず顔をあげると、温かい陽射しの中に聡の横顔を探す。
第328話 初詣(1)
学業の神で有名な天神様は初詣の人波でごったがえしていた。
鳥居から少し離れた場所に、聡は首一つ突き抜けた将の顔を見つけた。
さっきまで一緒にいた将だったが、パパラッチ対策のために聡より30分早くマンションを出たのだ。
「アキラせんせー!」
「あけおめー!」
聡が将を見つけるとともに、そのまわりにいた20人ほどの見慣れた顔がいっせいに聡に向かって手を振る。
「あけましておめでとうございます」
とりあえずみんなに向かって頭を下げる聡に
「センセー、だんなさんは?」
チャミやカリナが開口一番に聞いてくる。彼女たちは聡の『夫』が見たくて仕方がなかったのだ。
「誘ったんだけど……。いじめられると怖いからって、パスしちゃった」
もちろん聡は嘘をつく。
「えー!」
「まじー!別にいじめたりしないのにー」
チャミやカリナが不満そうに口を尖らす中、聡はその視線を将へとちらっと走らせて見る。
将もずっとこちらを見ていたようで、合ってしまった視線を引き剥がすように聡はそらす。
「……そのうち、会わせるから」
かろうじてそういうのがせいいっぱいだった聡は、あらためて生徒達を見渡した。
チャミやカリナ、カイトに真田由紀子や松岡のほかに、寿司屋勤めを終えて実家に帰ったはずの兵藤も来ていた。
「お、井口くんじゃん」
カイトが声をあげる。傍らにはボブカットのきれいな子を連れている。どうやら噂の彼女らしく、ヒューと声があがる。
「チッス!」
井口は少し照れて手をあげた。
「それ、噂の年上の彼女?」
「やー、そういうわけじゃ……」
といいながら井口は傍らの彼女にちらちらと目を走らせる。彼女のほうはにっこりと笑うと
「藤井さやかといいます」
と自己紹介した。見開くようにする目のあたりに自分の道をきっぱりと見極めた者の大人っぽさがある。
身体は華奢で小柄にさえ見えるが、よく見ると手や指はがっしりと骨太で、そのあたりはしっかりとパン職人していた。
井口より2つ年上だという彼女は、夏休みに飛騨・高山にある有名パン店で行われたパンの研修で知り合ったという。
井口が彼女のことを好きなのは明白だが、彼女の方は好意を持っている程度らしい。
もっとも、昨日長野から出てきて一緒にカウントダウンイベントに行ったくらいだから井口の想いの成就は期待できるのかもしれない。
将は彼女の前ではにかむ井口を微笑ましく見つめた。
そんな将を聡も見つめて安堵していた。
――なんとか、初詣に連れ出してよかった。
マンションを出る前の将のようすは、あきらかにおかしかったからだ。
「今日……行くのよそっか、な」
さっき将のマンションで。将は急に自らが企画した初詣をドタキャンしようと言い出したのだ。
「え?」
顔をあげた聡は一瞬はっとした。将はずっとこちらを見つめていたらしい。
だけど、その瞳は暗さが混じった、なんとも寂しげなものだった。
「どうしたの?」
聡は異変に、問い掛けると同時に、その表情から将に何が起こったのかを確かめるべく見つめ返した。
だが、すぐにそれは見えなくなってしまった。将が聡を抱きしめたからだ。
「今日はずっと、二人でいたい」
耳元での囁き。それは少し寂しげにも、いつものようにもどちらにも取れた。
「……そういうわけにはいかないでしょ。みんなとの約束だし」
聡はたしなめるしかない。
「約束なんて。アキラに会う口実みたいなもんだし……。もういいよ」
そういうと将は聡をなおいっそう強く抱きしめた。
お腹がぎゅうっと圧迫されて、聡は将の胸を押し戻すと、顔を見上げた。
将の瞳はやはり、暗い色を浮かべていた。
「……どうして?」
聡の問いに、将は一瞬目を伏せた。しかし、すぐに
「今日が終わったら……アキラとしばらく二人になれないだろ」
と付け足した。あくまでも付け足しという口調に聡は将の心に何かがあったと確信した。
……事実、将は何も言わなかったが、重い鉛を飲んだような心の鈍い痛みに喘いでいた。
掲示板に書かれていた、将の瑞樹に対するひどい仕打ち。それをネットに暴露したのは大悟であることは、もはや間違いない。
それまで……大悟はいったいどんな気持ちを自分に抱いてきたのか。
それを想像する恐ろしさは、今気付いたことではない。
殺人の罪を被せたときから……常に将の心の奥に居座っていた重苦しさではある。
だが、それが現実のものとなったことに、将はやはりおののかざるを得ない。
いや、『気持ち』なんて生易しいものではない。
自分は大悟からどれだけのものを奪ってしまったのか。
殺人の罪は正当防衛ゆえに帳消しになったものの、1年以上も少年院に入れられてしまったのはあれが遠因である。
そして、間接的に瑞樹の命を奪う原因を作ってしまった――。
暴れる心臓。潰れてしまったように息苦しい肺を抱えて、将はもう一度ネットの書き込みの日時を確認した。
最初が……5月下旬で、最後は7月の、あの台風の前日。
つまり、大悟が覚醒剤をやっていた頃と重なることに将の罪悪感は少しだけ軽くなる。……気休め程に。
あの、執拗な書き込みは覚醒剤に操られた大悟が書いたかもしれないからだ。
だが、気休めはすぐに意味のないものだとわかってしまう。
なぜなら……覚醒剤に操られていたことによろうと、それは大悟の心の中に常に将への恨みがなかったことにはならないからだ。
「あれ、みな子じゃない?」
カリナが指差した方を見ると、振袖姿の女性がこちらに向かって歩いて来る。
内股の歩き方も、膨らませてまとめた髪型もまるで見覚えがないはずの女性だったが、そこにいた中で一番背が高い将と必然的に目が合う……やっぱり星野みな子だった。
目が合ったとたん、みな子は慣れない草履のせいか、小股でいっそうせかせかと歩いてくる。左右に揺れる桃色の袖で彼女が一生懸命急いでいるのがわかる。
「本当だ、みな子だ。キモノだー」
女子が騒ぐ。
やっと皆のところまでたどりついたみな子は、ぜいぜいと息を整えながら
「みんな、おめでと」
とストールの肩を上下させた。さっきからずっと早足だったらしい。
「どうしたのー、そのカッコ」
仲のよい真田由紀子の問いに
「昨日から横浜のおばあちゃんちに行ってたんだけど……、今朝、無理やり着せられたの。でも約束があるからって飛び出てきた」
と将をちらりと見た。
みな子と『いい関係』であることになっている将は、カイトや井口に押し出されるようにみな子の前に立たされる。
将は意味もなくどきりとしたのを隠すように
「似合うじゃん」
と口にしてみる。
「ありがと」
みな子は少し目を伏せて口の端に笑みを浮かべた。……そんな様子は、彼女をなんだか急にきれいになったように見せた。
牡丹の花びらのようにたっぷりと華やかな桃色の振袖は、そこから抜け出た首や指のしなやかさを強調するようだ。
将は、とても久しぶりに……みな子がきれいな子であったことを再確認した。
第327話 秘密の年越し(4)
無意識に聡のぬくもりを探して……将は目が覚めた。
元旦の朝はとっくに明るくなっている。
聡は、どうやら先に起きてキッチンにいるらしい。それらしい香りが漂ってくる。
しかしそれだけでは心配で、将はベッドを飛び降りるとリビングダイニングへ駆け出た。
「あ、将。おはよう」
柔らかい陽射しの中、皿を並べながら聡が振り返る。
それをみて、ようやく将は安堵のため息をついた。
「どうしたの?血相変えて」
「なんでもない」
そういいつつ、将は聡に触れずにはいられない。
その柔らかい感触と温かなぬくもりを肌で確認して、ようやく、心から安心することが出来た。
「どうしたの?いったい」
「なんでもないんだ」
……嫌な夢を見ていた。
夢の中で将は悪夢にうなされていた。
夢だとわかっているのに目が覚めずに苦しんで……さんざん苦しんだあげくようやく目が覚めて、そこに聡がいない。
『アキラ!』
大声で呼んで探し回るが、どこにもいない。
真っ暗で寒い荒野にたった一人で取残されて……やがてそれは夢だと気付く。
しかし夢だとわかっているのに目が覚めない。
そんなメビウスの輪のような、悪夢。
「将……お湯が沸いてる」
その声にようやく将は聡を離した。……だけど夢の余韻か、手放してはならない気がしてならなかった。
「……じゃあ、あけましておめでとうございます」
おとそが入った杯を軽くあわせる。
テーブルの上には、聡がつくったお雑煮と、純代がつくったおせちがきれいに盛りなおされて並んでいる。
外は穏やかな晴天らしい。エアコンを点けなくても柔らかな陽光に満ちた10階の部屋はすでにサンルームのような温かさになっている。
そして聡の笑顔……まさに理想的な元旦の朝だ。悪夢とはまるで逆の。
『一年の計は元旦にあり』
巌の言葉を思い出す。
元旦の過ごし方でその1年が決まるんじゃ、と巌はよく言っていた。
こんな満ち足りた元旦なのだから、今年はきっと聡と一緒に幸せになれる。
将はさっきの悪夢を忘れるべく、自分に言い聞かせる。
「……将ってば」
聡が軽くにらむ。どうやら聡が何か話し掛けたのを聞き損ねたらしい。
「何?」
「何時までやったの?勉強」
年があけるまでは聡も勉強に付き合っていたのだが、クリスマスのときと同様、お腹の子供に悪いと先に寝かされたのだ。
「7時30分くらいかな。初日の出を見て、寝た」
「えー!3時間寝てないじゃない。いくらなんでも身体に悪いよ」
もう今日で1週間も仮眠程度しか取っていないことになる。
塗り箸を持ったまま、眉をひそめる聡に、
「元旦なんて毎年徹夜だしぃ」
将は椀の中の餅を伸ばした。餅の中に昨年の1300キロ走破の思い出がめぐって将は笑顔になる。
40時間かけて萩まで走って、聡の気持ちを確かめた去年。あのときはまさか二人の間に子供ができるとは思ってもみなかった……。
将のお椀が空になったのを見つけて、聡が手を差し出す。お代わりを盛ろうと気を利かせているのだ。
椀を聡に手渡そうとして、箸が床に転がってしまった。
すでに席を立っていた聡がそれを拾って……床についた傷に再び気付く。
「ねえ、将。これ、何の傷?」
「ん?」
聡が指差す方を見た将は、一瞬動きを止めた。
夏の……台風の夜の、大悟との死闘の跡。
「前にここに来たときは付いてなかったと思うんだけど」
「うん……」
この穏やかな元旦とは正反対の夜のことを、聡にどう伝えればいいのか、将は言いよどんだ。
将の顔が暗くなったことで、それは深く追及してはいけないことだと、聡は気付いた。
キッチンに入ると雑煮のお代わりを盛り付けるべく
「お餅は1個でいいよね」
と明るく話し掛ける。
お代わりを将の前に置いたとき、ようやく将は口を開いた。
「夏にさ。俺が、超傷だらけになったときあったでしょ。そんときに大悟が付けた傷」
「……そう」
将の口調は、まるで大悟がいたずらをして付けたかのようだった。
それにあわせて、なるべく『よくあること』のような応答をすべく、聡は目の前に残った最後の伊達巻を自分の取り皿に取った。
だけど、あのときの傷だらけの将を思い出した聡は、同時に胸がつぶれるほどの心配をよみがえらせていた。
覚醒剤に依存する大悟を止めようとして、その大悟本人に容赦なく叩きのめされた将。
床の傷は、何かごつい刃物……おそらく出刃包丁か鉈を力いっぱい振り下ろしたような跡に見えた。
大悟は将に対して何をしようとしたのだろうか。聡は想像しただけで柔らかな伊達巻すらも喉を通らなくなった。
「あ、だけどさ。大悟のやつ、すっかり治ったって」
将は、『なんでもない』口調を崩さずに、餅をたくしあげた。
「本当?」
「ああ。こないだ退院したって西嶋が言ってた。西嶋の弟さんの養子になるんだってさ」
「そう……。よかった」
ようやく伊達巻の味が戻ってきた。
聡が知っている大悟は、出刃包丁を振り回すのにはそぐわない青年だった。
瞳に浮かぶ影は、どことなく将と共通している……そんな将の親友が、今度こそ幸せになることを聡は影ながら祈った。
将は聡を安心させながら、去年の1300キロの旅には大悟も一緒だったことを思い出していた。
あのときの大悟は、骸骨のような覚醒剤依存の姿とは重ならない。
退院した大悟は、あのときの大悟に戻ってくれているだろうか……親友を信じたい将だったが、なぜか心の中の不安は消えなかった。
聡がキッチンで片付けをしている間、将はこっそりと大悟が使っていた部屋のドアを開けた。
家政婦の手で布団は片付けられていたものの、部屋はそのままだった。
瑞樹の遺品が並べられた祭壇のような一角に将は吸い寄せられる。
小さなガラス瓶に入った骨の粉末、小さな白い犬のぬいぐるみ、そして将と写ったプリクラ写真。
大悟が帰ってきたのなら、これらは渡すべきだろうか。
それとも、傷をほじくり返すことになってしまうのか。
将は瓶を手に取った。
ヒージーのと同じように見える、まっ白な骨がさらりと瓶の中で傾き、将の心は痛んだ。
心の疼痛にそれを元通りに置いた将は、その隣にあるノートパソコンに目がいった。
自分は新しいのを持っているからと、大悟に貸した古いパソコンだ。
これはもういいだろうと、将はそれを持ち去ろうとして……ふと、ネットで見たい情報があったことを思い出す。
自分のパソコンは持ってきていない将は、迷わず電源を入れた。
そして検索サイトのポータルを探すべくブックマークを表示した将は、あることに気付いた。
そこには『SHO』の名前がついたサイトが大量に並んでいたからだった。
掲示板らしいそれらは、どうやら大悟がブックマークしたらしい。
『そういうところは見てもモチベーションが下がるばっかりで、いいことないわよ。だいたい人気があればあるほど叩かれるんだから』
と自分に関する掲示板の類を見ることは、武藤から禁じられていた将である。
もちろんその頃は、忙しくて見る暇もなかったのだが、ここへ来て将はそれを無性に見たくなった。
大悟が見ていた掲示板を見るため。つまり好奇心なんだ、と自分に言い訳をして将はその掲示板サイトに接続した。
しかし……だいたいのサイトは時間が経ちすぎていたせいでなくなっていた。
かろうじて生きていた一つを見て、将は
――やっぱりな。
と苦笑した。
そこには、やはり将に対する罵詈雑言が書き連ねてあった。
「不良」「女好き」「大根俳優」「ゲイ」
芸能人が掲示板で叩かれることくらいわかりきっている将は一種の快感を覚えながら、書き込みを最初から眺めていった。
しかし。
ある1つの書き込みを見つけて、ふいに将の手が止まった。
将は目を見開いてその書き込みを読んだ。
固唾を飲みこむと、目を皿のようにして次へ次へとスクロールしていく。
落ち着け、と言い聞かせても、ばくんばくんと暴れる心臓は止められない……。
その掲示板には、どうやら過去の知り合いが書いたらしき、将の悪行が暴露されていた。
それは実際にしでかしたことだから仕方がないと、将は腹をくくっている。
だが、将を動揺させたのは
『将が同棲していた元カノは、将に追い出されて自殺している』
という一文だった。元カノというのは瑞樹のことに違いない。
その一文を皮切りに、将が瑞樹をいかに酷く捨てたかが、何回かにわけて詳しく書かれてあった。
……ようやく最後にたどりついたとき、左手で覆った口から、大きくため息が漏れた。
苦い唾液があとからあとから湧いてきて、将はそれを必死で臓腑に飲み下そうとした。
唾液は飲みこめばいいけれど、その書き込みをした『犯人』を一度割り出してしまった頭をどうすることもできず、将はうなだれた。
そこには……将と瑞樹しか知らないこと……つまり瑞樹が大悟に話したとしか考えられない内容も含まれていたのだ。
第326話 秘密の年越し(3)
「あー、腹いっぱい」
将は満ち足りた腹を叩いた。
鍋と餃子、そして明日の朝だけでは食べきれないだろうと将が持ってきたおせちの一部。
ずらりと並んだ夕食はあらかた二人のお腹に消えた。
「夜食で年越しそばもあるから」
と聡が玄米茶を淹れながら声をかける。
新婚夫婦のようなひとときに、将は幸せを噛み締めながら茶を淹れる聡を眺める。
この幸せは今だけではない。来年からは日常になるのだ。
いや、日常にするために、絶対に合格しなくてはならない。
甘い時間の中で、その現実だけがピリリと辛く将をひきしめる。
「食いすぎたら眠くなっちゃうかな」
さっきのようにふいに襲う眠気を将は恐れている。……もっとも聡と一緒の今日は、4~5時間寝てもいい、と特別に自分を許しているのだけど。
「頭使ったら、きっとお腹すくわよ。……あ、腹ごなしに将、お風呂入っちゃえば?」
その準備をしようと、素早く席を立つ聡に
「また、一緒に入る?クリスマスのときみたいに」
と将はその腕をつかむ。振り返った聡は顔を赤くした。
あの、二人腕をからませて、降りしきる雪の中を帰ったクリスマスイブの夜。
寒さに震え上がった二人は、一緒にお風呂に入ったのだ。
正確に言えば、聡が先にお風呂に入っているところへ、将が無理やり割り込んだのだが……。
「だめよ。あれからもっとお腹が大きくなってるんだから。恥かしいよ」
聡は将を軽く睨んだ。
あの日、大磯の邸宅の檜の湯船の中で、将は聡の少し脹れたお腹にじかに触れた。
お腹の子は、寒いところから温かいお湯に入って喜んでいるのか、活発にぼこぼこと動いた。
『すごいな。あんまり膨らんでないのに……こうしてると、赤ちゃんがいるのがよくわかるよ』
将は聡を後ろから抱きしめながらお腹をなんども撫でて感動を口にした。
聡としてはクリスマスだし、今日は特別だから……将を受け入れてもいいと思い始めていた。
だが、将は聡の素肌の感触を確かめただけで、聡を先にお湯からあがらせようとした。
『このままだと、我慢できなくなっちゃうから』と照れ笑いする将に
『今日は特別。我慢しなくていいよ』
聡はいたずらっぽく笑うとお湯の中の将にしがみついた。
本当?と将は聡の顔を見た。長湯したせいか、お互いもうのぼせる2歩ほど前だ。
汗でほつれ毛が張り付いた聡のほっぺたも……照れのせいなのか、長湯のせいなのかわからないほど真っ赤になっていた。
『でも、やっぱりやめとく。ひなたちゃんによくないから』
そう言ったのは将のほうだった。
激しい性行為は流産の元になる、と将は受験勉強の合間に何かで読んだらしい。
『アキラと、激しくないアレなんて考えられないから』
今度は将がいたずらっぽく笑う番だった……。
「将は、すごく子煩悩になりそうね」
あのときを思い出した聡がつぶやく。
「あたりまえじゃん。アキラと俺の大事な子供だもん。……俺、絶対、子供は可愛がるって決めてるんだ」
食べ終わった食器をキッチンに運びながら、将は強い口調で決意を新たにした。
「将も小さい頃は、お父さんに可愛がられてたんでしょ」
聡は、将に微笑みかけた。
二人でお風呂に入ったあと、将が勉強する傍らで、聡は大磯にあった古いアルバムを見た。
そこには、幼い将の成長が逐一記録されていた。
貼り付けられない写真が、ポケットにはみ出すほどに――。
おそらくパリで撮ったらしい写真は、将単独か、実母の環と二人のものが大半だった。
将は1歳から、父の仕事の都合でパリに行っていたという。だから、おそらく幼い将を一生懸命撮影したのは父の康三に違いない。
「まさか」
父のことを聞いたとたん、将の口調が吐き捨てるようになった。
「アイツは、俺のことなんか、昔っからほったらかしだったし」
「……そうかなあ」
聡は首を傾げるだけにした。確執が強そうな将とその父親の関係。
あまり強く否定すると将を傷つけるかもしれないと思ったのだ。
だが、聡は将は父に愛されていないわけがない、と思う。
しかし、わが子を愛していない親が、ああやって自分の子供を写真に大量に撮るだろうか。
「子供の頃はママハハに任せっきりで無視だし。ちょっとグレたら厄介払いしようとするし。……で、今度は跡を継げ、東大に合格しろ、だろ。自分のメンツしか考えてねーの。あのオヤジはよ」
将の口調は……食べながらビールを飲んだせいか、だんだん激しくなっていくようだ。
「でもね、将」
聡は、将の気持ちを傷つけないように、反論を試みる。
さりげなさを演出するために、食器を洗う手元に視線は落としたまま。
「それは違うんじゃないかな……。お父様だって、将のことを思って」
「思ってねーよ!」
聡はハッとして顔をあげた。キッチンカウンターに両腕をついて将がこちらを睨んでいる。
次の瞬間、将はハッとして視線を下に落とした。
強く言いすぎたことに、すぐに気付いたらしい。
「ごめん」
睫のあたりに、寂しさを残してくるりと背を向けた将は、コップに差してあった南天を手にとる。
実家から持ってきた重箱の中にあしらってあったものだ。
そしてその赤い実をぷち、ぷちと枝からちぎりながら、背中で言葉を続ける。
「仮にさ……。子供のことを思ってるにしてもさ。ちゃんと可愛がってることが伝わってなきゃ、何も思ってないのと一緒だろ」
それは違うと聡は思う。
ただ可愛がるだけが親の愛情ではない。
可愛がる以上に……厳しさは、親だからこそ注ぎうる愛情なのだ。
きっと将の父親だって、将の器量や才能を信じていたから厳しく接したのだろうし、悪の道からなんとか救い出したくて……それが『厄介払い』に見えたこともあったのだろう。
具体的なことはあまり知らないけれど、聡はきっとそうだと思う。
だけど、具体的なことを知らない聡が、いくらそう諭してもそらぞらしいばかりかもしれない。
現実に、将は寂しかったのだ。
そんな寂しい思いは、自分の子にはさせたくない……そう思うに至った将の寂しさが、聡の心に突き刺さった。
聡は食器を洗うのをやめて、将の隣に寄り添うと肩にすがりついた。
「アキラ……」
何も言わなかったが、聡の温かさは将をすっぽりと包んだ。
しばらく、そのまま不動だった将だが……やがて、発作のように聡をきつく抱きしめた。
手の中の赤い実が床に一斉に転がった。
第325話 秘密の年越し(2)
聡が将のマンションに着いて1時間後に、将が現れた。
「アキラ!」
将は変装のニット帽を脱ぎながら駆け寄ってくると、キッチンにいた聡を抱きしめた。
久々の自分の部屋との再会だというのに、そんなことはまるで忘れて、将は酸欠になったように聡の髪の香りを嗅いだ。
「あ、また大きくなった?おなか」
こうやって向かい合って抱き合うと、膨らんだお腹が将を押し返すようだ。
「……わかる?動くようになってから一回り大きくなったみたい」
聡が言い終わる前に、待ちきれない将は聡の唇に自分のそれを押し当てていた。
短い冬の日が、レースのカーテンを早くもオレンジがかった色に染めている。
長い口づけのあと、聡はようやく将が持ってきた風呂敷包みに気付いた。
「これ何?」
「ああ。ハハオヤがアキラにって。無農薬野菜だからとか言ってた」
以前、将が純代を呼ぶときは吐き捨てるような『アイツ』という呼び方だった。
だが聡に注意されたのもあり、最近は『ハハオヤ』になっている。
口調から、ほんの少しだけ、純代に対して気を許しつつあるのがわかって、聡は微笑んだ。
風呂敷包みを開くと、三段重ねの重箱が姿を現した。
その艶から輪島塗のいいものであるのは聡にもわかる。中身はどうやらおせち料理らしい。
「すごい……。明日までこれで十分だね」
聡は三段の重箱をテーブルに展開しながら呟いた。
煮物に伊達巻、昆布締め、ごまめといった伝統的なものから、ローストビーフまである。
「えー。俺はアキラがつくった料理が食べたいよ」
そんなもの、という目付きでチラリと重箱の中身をみやった将は、カステラのような焼色の伊達巻が重箱の幅いっぱいに入っているのを見つけた。
そのふっくらとした黄色い切り口から、子供の頃大好きだった車えびのすり身と卵を使った上品な甘い味を思い出す。
エビは純代自ら擂り粉木を持って丁寧に擂ったものだ。
それを手伝うべく、すり鉢を押さえる子供の頃の将は、唾を飲み込みながら中身を覗き込んだものだ……。
重箱の一番下の段には、紅白の餅まで入っていた。これは、大磯から送ってきたものだろう。
大磯の巌の邸宅では近所の人を呼んで、毎年年末に餅つき大会をやっていた。
この餅つきの後、ほうぼうに飛びちった餅を拭き取るところから大掃除が始まるのが大磯の恒例だった。
さすがにもう杵は振り上げなかったが、おかしな音頭を取って皆を笑わせていたヒージーの声がふいに将の胸に蘇る。
「将、どうしたの」
聡の声でハッとする。
「あ、ボーっとしてた。昨日徹夜だから」
重箱から飛び出した幼い頃の思い出が、胸の中で痛いほどに膨らんでいた将は、とっさに誤魔化すしかない。
「コーヒー淹れるね」
聡はカウンターキッチンに入るとお湯を沸かした。妊婦らしくなったとはいえ、まだその動きは軽い。
「アキラは飲むなよ。アキラはハーブティか麦茶だからな」
将は照れ隠しに、お腹の子を気遣うべく注意を与える。カフェインを避けてのことだ。
「わかってる。将は一息入れて」
「うん」
将はダッフルを脱ぎながらソファに腰掛ける。
聡の顔を見て安心したのか、怒涛のように眠気が襲ってきて……あっという間に将はソファで意識を失っていた。
「将。コーヒー入ったよ」
聡が振り返ると、将はソファにひっくり返ってぐうぐう眠っていた。
どうやら昨日徹夜したというのは本当らしい。
少しだけ寝かせてやったほうがはかどるだろう。
聡はそう判断すると、残りの湯で自分の分のハーブティだけを淹れて、将のそばへと移動する。
将の頭の下にクッションを差し込んでやりながら寝顔を眺める。
連日の勉強で、さすがの10代でも少しやつれているのがわかる。
「将……ごめんね」
額に掛かっている将の髪をかきあげながら、聡は呟く。
自分のせいで無理をさせることになってしまったから……。お腹の胎児もそれに呼応してか、少し身体を揺らした。
将の顔を見ながらフローリングの床に腰を下ろそうとした聡は、手をついた床にわずかな違和感を感じて、床に目を落とした。それは傷だった。
目を低い位置に落として確認すると、それは何かを鋭い刃物を床に突き刺したような跡だった。
中にほこりなどが入り込まないようにワックスを塗りこんであったが、間違いない。
傷はリビングに何箇所かあった。いずれも、ものすごい力で突き刺さしたことが一目でわかる深さだった。
前に……聡を守ろうとして傷つきひどい風邪を引き込んだ将を看病した聡は、ここで仮眠を取ったのだが、そのときはこんな傷はなかったはずだ。
第324話 秘密の年越し(1)
歴史をやっていた将は、顔をあげた。
カーテンの隙間から白い明かりがもれている。
遮光カーテンを開ける。窓の前に立つ、朝の光を浴びて濡れたように光る庭木が大晦日の朝を告げていた。
今朝はついに徹夜をしてしまったらしい。充実感に将は伸びをした。
25日からずっと仮眠しか取っていない将だ。
眠さと疲れは限界のはずだが、まだ力がみなぎっているようだ。
それも、そのはず。
大晦日の今日は、マンションのほうで、聡と二人で『合宿』することになっているのだ。
それを将が提案したとき聡は
『大丈夫なの?』
と案の定心配した。
膨らみ始めたお腹のせいで、実家の萩にも帰れず、たった一人で正月を迎える聡。
将はそんな彼女が不憫で……それを思いついたのだ。
正月は家族と迎えるもの。だから、将来家族になる将と聡が一緒にすごすのは当然だ、と将は考えた。
ちなみに元旦の初詣企画も、二人きりでの初詣が叶わないから、クラスメートを巻き込んでみんなで、という形にしたのだ。
聡と結婚し、二人の子供が生まれる年の始まりだ。
将は、聡のためなら、聡を幸せにするなら、どんなことでもやろうと決意を新たにしていたのだ。
『親には予備校のカウントダウン講義ってウソいうし。あるんよ、本当にそういうの』
そういって将は電話口で笑ってみる。
なんでも予備校では、大晦日から元旦にかけてオールナイトで講義をして、受験生の士気を高めようというイベントがあるらしい。
予備校の講師も大変ね、という聡の同情は同業者としての感想らしい。
『俺は、アキラと二人でカウントダウン講義』
甘えた口調になる将に、聡は
『でも、将。記者とかに見張られているんじゃないの?もうすぐドラマ始まるんでしょ』
なおも慎重だ。
『うん。だから』
将は、”二人きりのカウントダウン講義”の会場として前に将が住んでいたマンションを提案した。
『もう3ヶ月もあっちのマンションには帰ってないから、絶対ノーチェックのはず。俺自身は誰かにおっかけられてるはずだから、アキラ、先に入って鍵かけといて。帰りも俺が先に出てアキラが後に出れば絶対にバレない。……だから、ね?いいじゃん?』
時間差攻撃を訴えて甘える将に、聡はやっと折れてくれた。
午後3時すぎ。将は出掛けるべく着替えて部屋を出た。
「じゃ、行ってくるから。帰りは明日の夕方だから」
お手伝いさんと一緒に台所にいる純代に声をかける。どうやらおせち料理づくりも大詰めを迎えているらしい。
巌がいたころは、一族は皆、大磯に集合していたが、まだ喪中にあたる今年は慎ましく各家庭で、ということらしい。
それでも本家にあたるここに来客が多いことはわかっている。
だからおせち料理も、大量に、かつバラエティ豊かに用意しなくてはならない。
お手伝いさん一人と、親戚の若いお嫁さんの援軍がありながらなお、純代は忙しそうだった。
ちなみに『カウントダウン講習』のことは前もって言ってある。
「あ、将。待って」
呼び止められて将はギクッとする。
「何?」
無視すれば逆に怪しまれる……と将は嫌々ながら立ち止まる。
割烹着姿の純代は、いそいそと3段重ねの重箱に風呂敷をかけ、それを持ってきた。
「これを持っていきなさい」
「えー?」
予備校の講習に弁当なんか、と将がさらなるウソを口にする前に
「全部、無農薬野菜だから。お肉は米沢牛、お魚も天然ものよ」
純代は唇に少しだけいたずらっぽい微笑を浮かべた。
「聡さんには、うちの味だからって伝えて。……それと、タクシーを使いなさいな」
将はぽかんと口をあけたまま、風呂敷包みを受け取った。
「お父さんには内緒だから」と純代は最後に付け加えると、にっこりと微笑んだ。
昼下がりの商店街は、食材の買出しをする人でそれなりに込み合っていた。
またその客を見込んで、店々は店先にワゴンを連ねて、乾物や野菜、しめ縄を積み上げている。
31日にしめ縄は遅いのでは、と地方出身の聡は思ったが、まだまだ飛ぶように売れていく。
ふだん、実家に帰る聡が初めて目にする東京の年の瀬だ。
買い物をする人々の群れの中を、聡は膨らみ始めたお腹をかばうようにしてすり抜けながら、目的のスーパーに向かう。
まだかばうほどではないけれど、動き始めた将の分身に、聡はいつもより行動が慎重になっていた。
今日の、二人の合宿の食事について、将は
「何もしないでいいよ。聡といられれば」
と言ったが、買い物をしなければ年越しそばもなければ、それに入れるネギもないありさまだ。
まだ食べきれずにいた、クリスマスにもらったハルさんの冬野菜は鍋にでも入れようと、もって来ていたが、それだけでは食べ盛りの将には足りないだろう。
だから聡は、いったん将の部屋に荷物を置くと、もう一度商店街に出てきたのだ。
鍋には唐揚げでも付けるか。
それとも、そばを具沢山にするか。
考えながら歩く聡は、ただでさえ例年より相当温かい小春日和にうっすらと汗をかいた。
着ているコートがうっとおしくて、スーパーにつくなり脱いでカートに入れて一息ついた聡は、みずみずしい果物に心を奪われる。
早くも並ぶイチゴのパックに思わず手を延ばす聡に、懐かしい声がかかった。
「アキラちゃん?アキラちゃんだよね」
聡は驚いてイチゴのパックを手にしたまま振り返った。
そこには、去年までアルバイトしていた弁当屋のおかみさんが立っていた。
「おかみさん……」
「やっぱりアキラちゃん……」
背の低いおかみさんは、アキラを少し見上げる格好になる。が、聡が恐れていたとおり、その視線は聡の顔とお腹を往復し始めた。
クリスマスイブに胎児が動いて以来、聡のお腹は一回り大きくなった。
マタニティではない服で着られるものはもはや少数になり……誰が見ても妊婦だということがわかる聡である。
「どうしたの。そのおなか」
聡は顔をこわばらせた。
「……おかみさん」
そのとき、後ろを勢いよく通り過ぎた主婦に押されて、聡は少しよろける。
おかみさんは転びそうになる聡を、あわてて支えると
「ちょっと。気をつけなさいよ!」
と押した主婦の後姿に向かって怒鳴りつけた。しかしその主婦は謝ることもなく人ごみに消えてしまった。
「……まったくもう。大丈夫?」
「はい……」
おかみさんは、何と声をかけたらいいのかわからないようで、二人の間にはスーパーの特売品を告げるアナウンスだけが通り過ぎていく。
妊娠してからというものの、お弁当屋には顔を出していない。
毎年恒例の黒豆も、今年は実家に帰らないから、と断ってしまっていた。
なぜなら……このお弁当屋の夫妻には『海外にいる婚約者の子供』という嘘が通じないことがわかっていたからだ。
「何を買うの?」
おかみさんは、これ以上聡のお腹には触れずに、いつもの調子で話し掛けてきた。
「あ……お肉とか。果物とか……、あ、おそばも」
「お肉だったら、表のお店のほうが安くていい肉だよ。果物は……みかんでよかったら、うちの里から送ってきたのが山ほどあるから分けてあげるよ。そばも手打ちのをあげるよ」
おかみさんは親しげに聡の手を引っ張ろうとした。
「そんな……いいです」
遠慮に隠していたバツの悪さが加わって、聡は目の前で手をぶんぶんと振った。
「いいって。遠慮しなさんな。あ、あんたの好きな黒豆もわけてあげるから、店においで」
おかみさんの力強い手に、聡がかなうはずがなかった。
大晦日の今日は、昼までの営業だったという弁当屋のシャッターを背の高さまで中途半端にあげて、おかみさんは聡を中に招き入れた。
店の中は大掃除も早めに済ませたのか、こざっぱりとしている。
「はい、黒豆」
おかみさんは厨房に入ると、ステンレスの大型冷蔵庫の中から瓶を取り出してカウンターに置いた。
ガラス瓶の中で、黒い煮汁に沈んでいる大粒の黒豆の姿が透けて見えている。
「おかしいと思ったんだよね。アキラちゃんが実家に帰らないなんて」
おかみさんは、さらに弁当を入れる白いビニール袋の中にみかんを気前よく入れていく。
「それで、おなかの赤ちゃんは、あの……山田さん、じゃなくて官房長官のお坊ちゃんの子供なの?」
いきなり本題を切り出したおかみさんに、答えられない聡は下を向くしかない。
それでおかみさんは、聡のお腹の子供の……世間的に許されない父親が誰かわかってしまったらしい。
いっそう真剣な顔になる。
「そうなんだね。……それで、学校は続けてるんだね」
それだけはうなづくことができた。
「学校には、何ていってるの」
つまり、教え子の子供である事実をどう隠しているのかを、おかみさんは訊いているのだ。
「……前の婚約者の子供で……籍を入れたことにしてるんです」
聡は息もたえだえになりながら、なんとか答える。
「そう……」
おかみさんは深くため息をついた。
それだけで、ことのおおよそがわかったようだ。
「萩の親御さんにも内緒なの?……独りで産むの?」
責めることなく、おかみさんは聡を本気で心配しているらしい。
下をむいた聡の顔をのぞきこむようにかがむ。
……今の聡には、本当にわからないのだ。
将が東大に合格すれば、本当に結婚できるのか。合格しなかったらどうなるのか。
5月にこの子が生まれるとき、自分はどうなっているのか……まるでわからないのだ。
聡は右手を膨らんだお腹にあてて、立ち尽くしていた。
お腹の胎児だけが、また少し動く。
まるでそれが見えたようにおかみさんが口を開いた。
「……今、何ヶ月なの?」
「……6ヶ月に入ったところです。あの」
聡はおかみさんに向き直った。
「このことは、店長には言わないでください」
聡の必死の形相に、おかみさんは目を見開く。喉元を飲み込んだ息が通っていくのがはっきり見えた。
「お願いします」
聡は深く頭を下げた。
一呼吸置いたあと、聡はおかみさんに抱えられるようにして、下げた頭を起こされた。
「……誰にも言うもんかね」
優しい視線が聡に注がれている。
「あんたが困るなら、うちの人にも、誰にも言わないよ」
温かい瞳。少したるんだ二重瞼が……目を取り巻く小じわが……今までの苦労を刻んだその小じわが、温かさをひときわ信頼できるものにしていた。
「すいませんっ……」
聡は申し訳なくて、再び頭を下げた。熱い水分が逆流したように目の裏に集まってくるのがわかる。
「それより、アキラちゃん」
おかみさんは聡の背中を優しくぽんぽんと叩く。
「赤ちゃん生むのに、困ったときはいつでも呼びな。あたしがなんでも手伝ってあげるから。……大丈夫だって。いざとなったら子供なんて勝手に育つんだから……」
おかみさんは、聡が子供を独りで産む覚悟をしていると、勘違いしたらしい。
「おかみさん……」
だけど違うとも言い切れない聡は、もう耐えられなかった。
必死で耐えていた不安に優しさを注がれて……決壊を破ったように、瞳から涙がいっせいに溢れた。
そんな聡の肩を、おかみさんは背伸びをするようにして抱きしめた。
ところで、二人は気付いていなかったが、シャッターを背の高さだけに開けた弁当屋をのぞきこむ男がいた。
年の瀬の商店街には明らかに不似合いな、鋭い目付きは隠しようがなかった……。
第323話 計画(2)
あきらめきれなかったみな子は、あれからすぐに奨学金という考えに思い当たった。
ちなみに、友達のすみれの彼氏である先輩は奨学金を受けているという。
関西行きを打ち明けられた翌日、みな子は母親に
「奨学金、受けられないかな……」
と相談してみた。みな子の第一志望であるM大には奨学金制度がある。それを母親に説明した。
ネットからプリントアウトした資料も見せる。
そのM大は、将が志望している東大とは目と鼻の先だった。
「みな子、そんなにM大に行きたいの?」
みな子は深くうなづいた。
東京で女の子が一人暮らしなんて、と眉をひそめていた母親だったが、みな子の真摯さに、心を動かされたらしい。
母親は月曜日になるとすぐに、奨学金を受けられるかどうか電話をかけて訊いてくれた。
だが……奨学金をもらうには、みな子の家の年収では多すぎた。
月に十何万ものマンションのローンにひいひいあえぐように、慎ましく生活しているのに、奨学金をもらうには裕福すぎると言われたのだ。
みな子はそのとき、すみれの彼氏の先輩を思い浮かべた。
その先輩は特に貧乏ではなかった。
漫研に所属していたぐらいだから、いわゆる『オタク』趣味の気があった先輩だが、彼は欲しい同人誌などは躊躇せずまとめ買いする豪胆さがあった。
携帯もよく新しい機種に変えていて、どことなくお坊ちゃんの風情があった。
それもそのはず、彼の父親は小さな有限会社ながら社長だった。
それで奨学金とは、なぜ。
「うちより金持ちの……社長の息子でも奨学金もらってるよ」
みな子は母親に食い下がった。
「自分で会社をやってたりするうちは……経費で見た目の収入を減らせるから」
母親はため息をつきながら答えた。
自営業者は、例えば自宅のローンも、その一部を事務所として使っていると申請すれば、その分を経費として計上できる。
水道代も電気代も電話代もその何割かを経費に繰り入れることができる。
結果、手取り収入を少なく申告することができ……一般的なサラリーマンより豊かな暮らしをしているにも関わらず、申告上の年収は少ないということも十分ありえるというのだ。
夢の断念を余儀なくされたみな子は、それでも悪あがきのように計算をする。
――仕送りをいっそ家賃だけにしたらどうだろうか。
――いや、家賃も……誰かに家に居候させてもらったり、ルームメイトとシェアして折半できないだろうか。
みな子が今受けている、予備校の英語の講義代すら、もったいなかったとみな子は舌打ちを堪える。
面白可笑しく、かつわかりやすいということで定評がある講義だったが、人気講師なのでほかより少し割高だったのだ。
と、そのとき携帯がブー、ブーと震える音がして、みな子はハッとする。
幸いマイクを使った講義に比べればたいした音量でなく、まわりの受講生たちの非難の目もない。
それでもみな子は素早く電話を掴むとあける。メールらしい。
表示された『鷹枝将』の名前に、みな子は釘付けになる。
>予備校はどう?こっちは毎日図書館通い。
>元旦に、みんなで合格祈願の初詣に行く企画があるんだが来ない?
>先生の引率付きw
いつもは将からメールをもらうだけで夢見ごこちになるみな子である。
こんなふうな誘いなら有頂天になってもよかったが、みな子は別の意味で動悸を抑えられなかった。
それは、いいようのない恐怖に対峙したときに似ている、息も苦しくなるような激しい動悸だった。
肩を縮めたみな子は、クリスマス・イブに雪の中でまのあたりにした光景を思い出す。
マタニティで着膨れしたように見える聡、そして彼女を抱く将。
車のライトに照らされて、将の腕の動きははっきりと見えた。
それは至宝を受け止めるような、慎重で……かつこれ以上なく優しげな動きだった。
そんな風に抱かれたことがないみな子にもわかるほどに。
――先生のお腹の子は、鷹枝くんの子供だ……。
官房長官の息子。そして人気上昇中の俳優。そんな彼が担任を妊娠させたなどと公表されるはずがない。
ひとたび生まれた考えは、疑いという過程を通らずに、一気に確信となった。
関西行きのおかげで忘れていたそれを思い出したみな子の心臓は、今また、恐怖のあまり再び激しく暴れ始めた。
みな子は、落ち着くために、バッグからペットボトルを取り出すとお茶を一口飲んだ。
本来は講義中としてはマナー違反の行為にあたる。だが無意識にやってしまう。
心臓をなだめるべく流し込んだお茶の代わりに、ため息をついて……みな子はようやく少し落ち着くことができた。
――常識ある大人だったら、教え子との間に子供ができたら普通堕ろすはず。
それを敢えて、まわりにウソをついてまで産むのはなぜ……。
みな子は考えたがわからない。
いや、本当はわかっていたが、あえてその結論は見ないようにしていた。
ただ、はっきりとわかったのは。
聡が他の男の妻になったのではないなら……まして将の子供を生むのなら。
みな子に入る隙間は、おそらく未来永劫与えられない、ということだ。
第322話 計画(1)
年末の東京は暖かいよい天気が続いた。
クリスマスに降ったドカ雪は、戻ってきた陽射しによって見る間にその嵩を下げていった。
日陰にこびりついたように残った雪も、30日にはすっかりなくなってしまっていた。
27日からの図書館開放にやってくる生徒は意外に多かった。
2クラスある3年のうち確実に1クラス分は毎日通っていた。
自宅で単独で勉強するよりも、皆がいたほうが励みになるということだろう。
「だってえ。家にいると、ネットとか携帯とかゲームとかついやっちゃうんだよねー」
女生徒のセリフに聡はなるほど、と思った。自分が受験のときにはなかった誘惑に生徒はさらされているというわけだ。
「予備校サボってこっち来ました。だってこっちのほうが先生に直接教えてもらえるし」
なんて子もいて聡は苦笑する。
わざわざ高い代金を払った予備校より学校の図書館のほうがいいというのだ。
「予備校って、かなり出会いの場になってるよね。うちら真面目だからこっちで勉強してるしー」
そういうチャミ&カリナも予備校には適当に顔を出して、こっちで勉強している組だ。
もともと進学希望じゃなかったはずだが「受かれば大学行くのもいい」という方針に変わったらしい。
そういうにわか受験組が増えたせいか図書館は活況を呈していた。
将は……一人でもくもくと生物の問題集を解いている。
センター試験まで1ヶ月を切った今、必死で詰め込みをやっているらしく、将の目の下にはクマが出来ている。
25日からは、毎晩メールと電話を使って、英語の特訓をやっている。
それは2時間の予定だったが、集中するあまり3時間になっていることもあったが、将はいたって真面目だった。
甘いささやきなどは一切まじえず、将は英語に集中していた。
聡との特訓が終わった後も寝ずに、記憶教科の詰め込みをやっているとう。
その個人授業の際に、聡は睡眠時間を訊いてみたことがある。その答えは
「最近は1時間30分かな。仮眠しかとらない」
と聡を驚かせるものだった。
「体壊すよ」
心配する聡に
「だって撮影が始まったら、無理できないし」
そう答えた将。こうして図書館で遠目に見てもあきらかにやつれている。
年があけたら、スタジオでの撮影があるとかで、睡眠を確保しなくてはならなくなる。
「だから、今が無理のしどきなんだ。大丈夫だよ」
そういうと将は『次の問題、メールして』と笑った……。
わき目もふらず受験勉強に集中していた将だが、今日は少し違う。
午後になると将はボソボソとカイトと話し始めた。
学力で劣るカイトに将が教えてやっているのかと思ったがそうでもないらしい。
カイトは、松岡の座っている席に移動すると、またなにやらボソボソと話している。
松岡は真田由紀子ら女子のところに……。と図書室がなにやらさわさわとしだした。
注意するべきか、聡は迷ったが
「先生……」
と英語の質問を持ってきた生徒がいたので、そっちに気を取られる。
「こういうとき兵藤くんがいないのは痛いな」
将はエンピツを持ったままの手で頬杖をついて呟いた。
「いちおうメールしたんだろ」
と、カイトが赤毛を揺らした。
「でもさ、あいつ寿司屋づとめが今日で終わったら、実家に帰るって。井口は?」
「こっちもわかんない。なんか、彼女のところに行くとか、来るとか……」
「ああー。名古屋のパン屋だかの。うまくいってるんだ」
井口に彼女らしき人ができた、という話の続報を聞くべく将は身を乗り出した。
「ちゃうちゃう。名古屋じゃなくて長野。……そういや星野さんは?ずっと顔みないけど」
井口の彼女話はカイトもそれほど知らないらしく、彼は話題を星野みな子に移した。
そういえばみな子は、意外なことに、図書館開放に一度も顔を出していなかった。
「予備校行ってるのかなぁ?メールしてみるよ」
と、そのとき、将と少し離れたところで甲高い声がした。
「いいじゃん、OK」
と大声を出してしまったチャミは、ハッとして首をすくめるようにしてあたりを見回した。
しかしすぐに相棒のカリナと誘い合って席を立つと、他の生徒を指導している聡のところにニコニコと寄ってきた。
「先生さ、お正月はこっちにいるんだよね」
唐突にいつものタメ口で話し掛けてきて、聡は思わず
「そうだけど?」
と二人を見上げた。
「あのね、元旦にみんなで合格祈願に初詣しようって言ってるんだけど、先生も一緒に行こうよ」
将は耳をダンボにしてチャミ&カリナと聡のやり取りを聞いていた。
心の中で『おい、先生の安産祈願もかねて、というのを忘れてるぞー』と叫んでいる。
「みんなって?」
「んとー、うちらとぉ、ユキちゃんとぉ……」
チャミは図書室に居合わせたメンツを見回しながら、順繰りに名前を挙げていった。
その名前の中に将が含まれていて、聡は発案者がわかった。
横目でちらりと将を見やると、将は問題集に目を落とすふりをしながら、髪をかき上げたその手にピースサインを一瞬作った。
「ダンナさんも連れて来ようよ!」
「みたい!アキラ先生のダンナさん見たい!」
ふいにチャミとカリナがはしゃぎだした。
事情を知らない生徒たちの、皆興味津々の視線が聡に集まる。
将はひやひやして聡を覗き見た。
だが、聡は平然と「わかった。来れるか訊いてみる」と答えていた。
人気のある講師の英語の講義は、すし詰め状態だった。
もっとも、みな子が勉強に身が入らないのは、後ろのほうの席だからではない。
クリスマス以来、みな子の学習意欲は著しく低下している。
正直なところ、もう受験なんかどうでもよかった。
突然の父の転勤で、みな子は関西の大学を受けることを余儀なくされた。
東京に、行きたい大学がある。
みな子はそう訴えた。行きたい大学というのは、両親に対するせいいっぱいの嘘だ。
本当は将のいる東京の大学に行ければいい。それがみな子の願いだった。
だが、両親はみな子が一人で東京に残ることを許さなかった。
「どうして?私、一人でいても真面目に頑張るよ?」
みな子は食い下がった。
「でも女の子が一人でなんて……」
そういう母親を制して父親が口を開いた。
「お前が真面目にやっていけるのは、お父さんはわかってるよ。だけどな……みな子。うちには、お前を一人暮らしさせてやるゆとりはないんだ」
――そんな。
みな子は言葉を飲み込んだ。それはみな子にも分かっていた。
マンションのローンを抱えた中流のサラリーマンが、娘を4年間、東京で一人暮らしさせてやるほどのゆとりをもてるはずもない。
みな子は、黙るしかなかった。
今、みな子のノートの上には、予備校の英語の講義とは関係ない10×12×4という数字が書いてある。
ここ数日、みな子は毎日のようにそれを計算してはため息をついてばかりいる。
15×12×4は10×12×4になっても480という数字にしかならない。
480万。
もちろん10万で暮らせるはずもなく、どんなに安い部屋に住んだとしてもみな子はバイトを強いられるだろう。
それに大学に納める授業料をあわせると、どうしても800万にもなってしまう。
国公立に進んだとしても……600万。
それにみな子の下にはこれから高校に進む弟もいる。
それを考えると……みな子の小さな夢――東京で将と一緒に大学生になる――は、どうやっても叶えることは不可能という結論になってしまうのだ。
第321話 借り(2)
「借りは……いつか大きく成長したあとで、大きく返すんだ」
「あなた。借りだなんて……」
節子が眉をひそめて弁解をする。
「大悟くん。わたしは……ううん、この人だって借りだなんて、思ってないのよ」
だが大悟には、わかっていた。
隆弘の言葉が、「利益」のような直接的なあざとい意味を持っているのではない、ということを……。
「親が、子供に『貸し』なんて言葉は使わないでしょう」
大悟は逆に、節子が言う、『世間の親のあたりまえ』のほうこそわからなかった。
親は……子供を育てて、損をしたと思わないのか。
否。
大悟は、肌でそれを感じていた。
親とて、人間だ、畜生だ。
人であり、畜生である限り、食っていかねばならない。
もし親が、かつがつの生活をしていたのなら、子供の食い扶持は限りなく負担になり……きっと『タダ食いはいつか返せ』という勘定を
抱くに違いない……。
それは大悟自身が育ってきた過程で感じてきた現実だった。
「わたしたちはね、……大悟くんに、ここにいてほしいの。ただそれだけ」
「大悟」
節子の温かい声を隆弘が遮る。
「俺は……きれいごとは言わない」
大悟は思わず目をあげる。再び視線をあげたあたりに、隆弘の目があった。
どうやら隆弘は大悟をずっと見据えていたらしい。
「俺は、大悟の将来に期待しているんだ。だからおまえさんを助けたい。……だがな。勘違いしないでほしい。おまえさんを助けた見返りは金じゃない、大悟」
隆弘の目は、酒のせいか少し充血していたが、澄んで、何よりまっすぐだった。
「おまえが、成長していく姿を見せてくれるのが、私たちへの一番の見返りなんだよ。……もっとも」
隆弘は、大悟を見据えていた視線を、ふっと落とすと、口元に笑みを浮かべた。
「それは……正直、金より重荷かもしれないが……」
その隆弘の言葉を聞いて、穏やかな笑顔を見て……大悟の心の底に沈殿した不安は、中和液をいれたように溶けていく。
溶けて嵩を増した心から何かがこみあげてくる。
慣れない『愛』『情』というものを与えられた大悟の心は動揺していた。
突き上げてくるような心を必死で抑える大悟は『重荷なんかではありません』という返事を発するのも忘れていた。
大悟の心のうちとはうらはらに、テーブルの上には、再び沈黙がテーブルに覆い被さっているようだった。
だが大悟はそれすらも感じるゆとりがなかった。
隆弘の顔を見なくてはという意識も力が尽きて……大悟は自然にこうべを垂れてしまっていた。
下をむいた大悟の瞳に、自分の手が映った。
かつて、目の前にいるこの男は、自分の手を褒めた。夫妻が……自分に寄せるもの――期待――の象徴。
人に期待などされたことがなかった大悟である。
それが重荷なのかどうかさえ、よくわからなくて、大悟はただ困惑した。
「あなた、もう、この辺にしましょう。……大悟くん、お風呂に入らない?入りなさい。ゆっくり疲れをとって。今日は早く寝なさい」
節子は沈黙から大悟に助け舟をだすべく立ち上がると、大悟を促しながらバスルームへと向かう。
ダイニングに二人取残されて……大悟はどうふるまっていいかわからなかった。
ただ、自分を思ってくれるこの夫妻を、自分は好きなのかどうか。それだけを考えていた。
好きなのか。それとも、ただ楽をしたいからここにいるのか。
自分でもよくわからない大悟だが、前者の気持ちには自信がなく、後者だとしたらそれは自分で自分が許せない。
「大悟」
隆弘が呼んだ時、バスルームからちょうどいきおいよく蛇口からお湯が出る音がした。
「どうせ働くなら、月曜日からうちの手伝いをしなさい。わかったね」
隆弘はおごそかに宣言した。
『はい』と返事をしながら、心のうねりがついに目の奥に達した大悟は、必死でそれをこらえた。
「ベッドがよかったら買ってあげるから、遠慮なく言ってね」
節子はそういいながら大悟の布団を敷いてくれた。
布団もシーツも新品ながら、節子がそれをフカフカに干しておいてくれたのは一目見ればわかる。
「ありがとうございます」
大悟は何度目かの礼を口にした。西嶋家で物置代わりになっていた東向きの6畳間を、大悟は自分の部屋として使うことになった。
自分の部屋を持つなど、大悟にとってはおそらく生涯初めてに違いなかった。
もっとも、小学校高学年から父親がいない部屋で大悟は一人でいることが多かったのだけれど。
窓際には、新しい机も置いてある。押入れの中には、何着か新しい服も買ってある。
普通の子は……小さい頃からこんな風に親に、物質的にも愛されるのだろうか。
病院での習慣か、早めに床についた大悟は、恵まれた子供を想像して……それは将を思い起こさせた。
大悟は、暗闇にため息をついた。
何がため息をつかせるのか……それは大悟にもよくわからない。
大悟の将への思いは、複雑に層を成していて、一言では表せない。
その層の1つ1つにたまったガスを抜くように……大悟は将を思い出すと自動的にため息が出てしまう。
将への思いの表層は……本当にすまないことをした、という罪悪感。
覚醒剤におぼれた自分を、傷だらけになってまで、やめさせようとしてくれた。
あの、死闘が繰り広げられた台風の夜は、こうやって正常になっても思い出すことができる。
悪魔の薬は……記憶はなくさせないまま、人格だけをそっくりと変化させることもあるらしい。
ゆえに、あの狂気の自分を振り返ることができる大悟は、そのたびにその部分を記憶した脳を露出させて掻き毟りたくなる。
その表層の下には……だが、自分が覚醒剤に溺れるきっかけをつくったのは将ではないかという疑惑。
それは地表の下のマグマのように静かに熱を帯びていた。
直接のきっかけは、瑞樹が遺したものからだったが……そもそも、瑞樹が薬をやるようになったのは前原のところに居候をするようになったからである。
そして……将と同棲していた瑞樹が、前原のところに行くハメになったのは将に捨てられたからだということは、瑞樹の言葉の端々から想像できた。
瑞樹が死んだのも……自分が薬をやるようになったのも、元をただせば将のせい。
そんな風に結論付けたくなる自分を、大悟はもみ消すのに苦労した。
しかし、その熱いマグマの下には、清浄な地下水のように、将への友情が流れているのも事実だ。
愛知の親類の家を追い出された自分を、何も言わずに受け入れてくれた将。そして中学時代に過ごした楽しい思い出。
自分で自分の食い扶持を稼いでいて……自分ひとりで生きていけるとうそぶいていた大悟も、将というお互いに傷を持つ仲間がいて、精神的に救われていたのは否めない。
将は、大切な親友なのだ。その存在に癒される自分を……大悟は風に煽られるマッチの火の様に、掌で大事に守っている。
さらにその下には、凍りついた小惑星のような氷塊の……大悟の心があった。
自分でも捉える事ができないその冷たい中心部を、大悟はできるだけ見ないようにしていた。
だが、こんなふうに暗闇で一人になったときに将を思い出すと、その部分は大悟の中で体積を増したように圧迫してくる。大悟はそれを恐れた。
そこに刺激をされておのおのの層が吐き出した気体が……大悟のため息の正体だった。
大悟はその存在を忘れるべく、眠ろうと努力をした。
幸い、薬物がもう抜けてしまった大悟の体は、昼間の疲れも手伝い、まもなく健康な眠りにありつくことができたのだが……。
第320話 借り(1)
岸田助教授宅からの帰宅がてら、将は待ちかねたように聡へ路上から電話をかけた。
「ん……将?」
聡の声はどうやらうたたねしていたようで少しかすれている。
妊娠するとやたら眠い、と聡が前にいっていたのを思い出した。
「ごめん。寝てた?」
「ううん、いいよ。何?」
聡はホットカーペットの上に寝そべったまま携帯を耳にあてなおした。
「あのさ」
将は携帯で話をしながら、今そこに近づいたタクシーに手をあげて呼ぶと、乗り込む。
別に電車で帰ってもよかったのだが、人目に付かずに済むのと、こうして聡と話すために将はとっさにタクシーを選んだのだ。
「終わったの?個人教授?」
携帯をずらして、運転手に行き先を告げたのが聡にも聞こえたようだ。
「うん。あのね、アキラ。俺、いいこと思いついたんだ」
「なあに?」
「あのさ。英語の特訓なんだけど……」
将は、さっき思いついたことを聡に提案する。
それは、インターネットのメールと携帯電話を使って、英語の特訓を行うということだった。
「……これだったら、誰にも知られずに、思いっきりアキラに教えてもらえるだろ」
冬休み中の学校の図書館開放ももちろん利用するが、他の生徒や教師の目がある以上、聡が将ばかりにかまうわけにはいかない
だろうことは明白だ。
聡はなるほど、と思いつつ、いちおう眠い頭の中で、不都合な点がないかどうか確認してみる。
「電話は俺から掛けるから」
つまり電話代のことは心配ないと、将は先回りする。
毛利から月50万ずつ振り込まれている聡だから、その点は心配ないのだが。
「ねえ、アキラ。名案だろ」
「そうね……」
慎重に考えたがどうやらデメリットはなさそうだ。
「じゃあ、時間を決めてダラダラしないようにしましょう。将、勉強は英語だけじゃないでしょ。センターの科目だって多いんだし」
「わかってるよ」
自分の恋人ではなく教師になっている聡に将はわざと反抗したくなる。
「……だけど、お腹のひなたの様子を訊くくらいいいだろ。あれから動いた?」
「動いてる。今も将の声を聞いたとたんに動き出した」
恋人に戻った聡の声に、将は心が温かいもので満たされた。
気がつくと、タクシーの窓からオレンジ色の光が自分を射抜いている。
将は自分の目線の高さになった夕陽に視線を移した。
かつて孤独を感じながら、独りで眺めていた太陽は今、限りなく温かいものの象徴として将を染めている。
その確かな温かさは、臓腑の底へと降りて根をおろし……聡とその子供の将来のために頑張ろうという意欲につながっていった。
西嶋隆弘が3階にある自宅の鍵をあけるのを待つ一瞬の間、大悟は夕陽を見つめた。
将がタクシーから見つめていたのと同じ夕陽だった。
「さあ、入って。大悟くん。お部屋は用意してあるのよ」
節子が後ろから大悟の背中を押すようにした。
西嶋光学工業の自社ビルの3階にある、西嶋家に入った大悟は……ダイニングに飾られたクリスマスツリーに目が行った。
節子は、大悟を追い越すとかがんで、そのツリーのライトの電源を入れた。
ツリーはカラフルな光で輝き、やがて点滅を始めた。
大悟はしばらくそれを見つめていた。
「きれいでしょ。せめてクリスマスらしくしたいと思ってね。ケーキも買ってあるのよ」
節子が寒さで赤くなった丸顔をほころばせる。
「お前、毎年飽きないな……まあ今年は特別だけど」
隆弘が茶化す中、大悟は返事もせずにクリスマスツリーを眺めていた。
こうして、『自宅』にあるクリスマスツリーを見るのは何年ぶりだろうか……。
それを思い出すには、もう記憶の彼方に消えようとしている、母が失踪する前まで遡らなくてはならなかった。
「これ。使って。いちおうクリスマスプレゼント代わりよ」
節子はリボンがついた、紙袋を大悟に渡した。
中にはパジャマが入っているらしく、大悟はぺこりと頭を下げた。
その頭は、ちょうど東京に出てきた1年前のように短髪だ。
骸骨のようにやせ細っていた体もちょうど1年前と同じくらいまで回復している。
しかし、その瞳はどこか虚ろだった。
「でも、元通りになってよかったわ」
夕食の席で、ジンジャーエールで乾杯しながら節子は感慨深くもらした。
薬物を使っていた期間が2ヶ月ほどだったのと、まだ若いのとで、大悟はほぼ元通りに回復することができたのだ、と医師は言った。
もちろん、今後の人生においてフラッシュバックが起きる危険性をまったく否定しているわけではない。
だが現段階で、大悟がほぼ健康を回復することができたのは、慶ぶべきことだ。
「心配をかけてすいません」
謝りの言葉を述べながらも大悟は……心に得体のしれない不安のようなものを沈殿させていた。
「気にするな。私たちは君の保護者なんだから」
隆弘の笑顔に曇りはない。
この夫妻は、覚醒剤中毒で矯正病院に入院した大悟だというのに、保護者を解消するどころか甲斐甲斐しく世話さえやいてくれたのだ。
大悟はそれには恩義を感じている。
だが、夫妻の温かさに触れれば触れるほど、違和感を感じてしまうのも事実だった。
夫妻が本当に自分を思ってくれているのは、わかりすぎている。
家族の温かさ、というものに今までの人生でほとんど触れていない大悟である。
家族だとか両親というものを頭で理解していても、心は警戒してしまうクセがついてしまっているのだ。
それに……自分が人なみの『両親』を手に入れて幸せになればなるほど……それを知らずに死んだ瑞樹が憐れだった。
そもそも元をたどれば、瑞樹が死んだことは、大悟がこの温かい夫妻にめぐりあうきっかけになっていたのではないだろうか。
瑞樹が生きて、ここにいたら。大悟は想像してみる。
答えは簡単だった。ここにいる夫妻は、きっと彼女にも優しく接しただろう。
――瑞樹。お前バカだ……。
「大悟くん?」
節子に呼ばれて、大悟はハッとした。
どうやら箸が止まっていたらしい。
「お代わりは?」
「もういいです」
クリスマスらしく、テーブルの上にはチキンやローストビーフ、シチューといった洋風の物が並んでいるにも関わらず、ご飯と漬物。
そんな庶民的な温かい食卓も瑞樹はとうとう味わうこともなかったのだ……。
「大悟くん、これからどうする」
ふいに隆弘が訊いた。
「あなた、まだ早いわよ。大悟くんは、まだ病み上がりなんだから」
たしなめる節子を無視して隆弘は続けた。
「高校へ行くか、それとも大検を受けて大学に行くか。好きなようにしなさい。……養子縁組も私たちは心から望んでいる」
大悟は、隆弘の言葉に、めまいがしそうになるのをかろうじて持ちこたえるべく、ぐいと目を見開いた。
「よかったら、私たちの籍に入って一から出直しなさい」
隆弘が、見開いた大悟の目を見つめたので、大悟はうつむくしかない。
「……あなた、まだ早いわよ」
節子は静かにもう一度夫をたしなめると、うつむいた大悟の肩に手をおいた。
「大悟くん、ゆっくり考えていいのよ。まずは何にも考えないで、休んで。ね?」
沈黙の中、ツリーだけが忙しく点滅を繰り返す。
点滅のパターンを5回ほど繰り返したとき、大悟は口を開いた。
「俺……働きます」
夫妻は、大悟の顔を心配そうにのぞきこんだ。
その視線に引き出されるように大悟はゆっくりと顔をあげた。
「タダで、置いていただくわけにはいきません。働いて……せめて家にお金を入れさせてください」
「大悟」
隆弘は大悟を遮るように呼んだ。
いったん、手元のグラスに残ったビールを飲み干すと、黒目だけで大悟を見据えた。
「君は、いくつだ。……18だったな」
質問を切り出して、すぐに自ら解答を出す。
大悟の事を呼び捨てにしたが、口調はあくまでも穏やかだった。
「18やそこらで、他人に力も借りずに出来ることなんてタカが知れている。せっかく手を差し伸べるヤツがいるんだったら……今は力を貯えろ」
借りはつくりたくない。大悟はその言葉を苦く飲み込んだ。
「君は、私たちのところに来ることを、借りだと思っているのだろう……。だからこそ、今、作った借りを、今返そうとするんじゃない」
隆弘の……まるで大悟の心を読んだような言葉に大悟は思わず、対峙する隆弘の真意を探ろうと目を見開いた。
だが隆弘の目はまっすぐに大悟に注がれるばかりだった。
「借りは……いつか大きく成長したあとで、大きく返すんだ」
第319話 ケーキ
「それはそうと、将さま。弟の養子になっている島大悟さまの件ですが……」
大悟の名前を聞いたとたん、将は掴みかからんばかりの勢いで西嶋に詰め寄った。
「大悟がどうしたっ!……退院したのか!」
「はい。経過が順調だそうで、年末にあわせて退院するそうです」
ひどい薬物依存症になっていた大悟は、入院した矯正病院の専門的なケアでなんとか依存症を脱出することに成功したらしい。
「弟夫妻は、12月に入って何度か面会に行ったそうですが、元気だったそうです」
「そうか……」
それを聞いて、将は力が抜けた。
――大悟が立ち直った。
嬉しいはずなのに、会いたいはずなのに……将の心はどこかで躊躇していた。
『俺を裏切るのか、将』
その叫びは思い出すたびにリフレインを繰り返し、なかなか消えようとはしない。
大悟は、自分を許すだろうか……。
突き詰めれば、将の中の大悟に対する罪悪感が……大悟に会うことを避けるように仕向けているのだ。
結局将は、西嶋に大悟のその後のことも教えてくれるように頼むしかなかった。
「今日は数学的思考を使った課題と、医療倫理に関する論評に考察を加える課題をやろう。まずは数学的思考のほうね」
岸田は柔らかな口調でそういうと、将に問題を渡した。
岸田のマンションは、庶民的な慎ましい3LDKだった。
将の父の康三のように書斎を持っているようでもなく、蔵書は家中の各所に置かれた本棚に散逸していた。
将は客間兼用の和室(ここにも壁に沿って本棚が並んでいる)に通され、個人指導を受けていた。
閉じた襖の向こうからは、岸田の妻と娘が見ているらしきテレビの音が聞こえている。
政治学が専門の岸田だから、数学的思考の課題は彼がつくったものではない。
彼の友人である数学博士にわざわざ想定課題をつくってもらったのだ。
どうしても解き方が分からない場合の突破口は紙面に用意して岸田が持っている。
しかし必要なく論文が書けた場合は、岸田が課題をつくった友人に渡して添削してもらうことになっている。
将は、論文に並んで数学に強い。
学校に来なかった去年まではやっと中学2年程度の学力だったのが、芸能界に入る直前までにほぼ追いついて学校ではトップになっていた。
芸能界入りしてまた学力は下がったものの、本気で勉強をはじめてすぐに文系の履修範囲を理解してしまった。
11月からは、理系範囲の数3を始め、北海道ロケまでの間にひととおり終わっていた。
ひとたび教科書を理解すれば、かなりの難問でも解けるところが将の強みだった。
だが、解き方がひらめくまでの時間にムラがある。
そのつど解き方を一から考えるよりは多くの問題を解いてある程度脳の中にパターン化しておいたほうが効率がいい。
……だから将は1日最低1題は数学の難問を解くことにしている。
しかし、今ここでやっている、後期試験を予想した数学的思考の論述課題は、厳密に数学ではない。
数学を利用して何かを実証するという課題だが、将は実例になっている数式に何かをひらめけばこの手の問題は軽いように思えた。
現に、今与えられた課題も、少し考えるとすらすらと鉛筆を動かし始めていた。
将が問題に掛かっている間、岸田は自分の仕事をするべく資料などを読んで出来上がりを待つわけだが、その資料がたけなわに入ろうというところで
「出来ました」
と声がかかった。
「もう?まだ制限時間まで15分余ってるよ。再考察しなくて大丈夫?」
「はい」
「へえ。冴えてるね……。どれ」
鉛筆で書かれた解答用紙は、あまり消しゴムで消した形跡もなく、きれいな字で書かれた数式とその解説で埋め尽くされていた。
だが、専門が違う岸田にはいまいちわかりにくいせいか、すぐに立ち上がると、襖を開けた。
襖の向こうのダイニングでテレビを見ていた岸田の妻の裕子と娘の香奈が一斉にこちらを振り返る。目が合った将は、頭をぺこんと下げた。
岸田は、キッチンのカウンターに置かれたファクシミリで、将の解答をどこかに送っている……友人の数学博士に送っているのだろう。
「あ、そうだ。将くん、メールアドレス、訊いていい?」
岸田はいったん、将を振り返ると『これに書いて』と将にアドレスを書かせた。
送り終わった岸田は
「解説は、今年中にメールの方に送ってもらうから。早くもらいたいだろ」
と笑った。つまり、論文に対する添削を迅速にするために、インターネットを使うということだ。
納得して頷いた将は……あることを思いついて、思わず顔がゆるむ。
それを誤解した岸田が
「よほど、今の課題は自信があったらしいな」
と微笑んだ。
「いや、そんなわけじゃ」
そのとき、下を向いた将の腹から、派手な音が和室からリビング中に響き渡った。
しまった、と将は腹を押さえる。
朝食がゆっくりめだったので、昼食を食べずにここに来てしまった。
そのせいか、腹の虫が今ごろになって猛烈に抗議を始めたらしい。
「あらあら」
岸田の妻・裕子が笑いながら
「あなた、一息いれましょうよ」
と促したので、ちょうど3時ということもあり、おやつにすることになった。
「これ、うまいですね」
将は、紅茶と一緒に出されたパウンドケーキをぱくついた。
厚めに切られたそれを将はあっという間にたいらげてしまった。
裕子は「まだありますから、どうぞ」と将におかわりを勧めると
「……香奈、切ってきて」
と娘の香奈に命じた。香奈は素直に頷くとキッチンに入った。
「これは、香奈が作ったんですよ」
裕子は、微笑んだ。
「えっ。本当に?」
将は驚いて、カウンターキッチンの中にいる香奈を見た。香奈は将と目が合うと、すぐに視線をケーキの方に落とした。
先日スキー場でも思ったが、長い睫のあたりなど、この娘はときどき聡を思わせるところがある。将は微笑ましく香奈を見つめた。
そして、そのケーキはお世辞抜きでとても美味しかったのだ。
バターと卵の自然な香りから手作りっぽい味だと思ったが、まさか小学校5年生の少女が作ったとは……。
「クリスマスに将お兄ちゃんが来るからって、昨日一生懸命作ったんだもんな」
岸田助教授の言葉に、香奈は将をチラッと見てそっぽを向いた。
「そんなんじゃないもん。お客さんが来るからだもん」
「ウソつけ。最近いつも、『今日は将お兄ちゃんに会ったの?』って訊くくせに」
父の茶化した言葉に、香奈はとうとうプーッと脹れた。
「もー!おとうさん!」
そういいながらも、香奈は将のお代わりの皿をカウンターにやや乱暴に置くと、ダイニングを素通りしてテレビの前に座り込んだ。
「あれ、香奈、お父さんの分は?」
と岸田が甘い声でねだっても
「知らないもん」
とゲームを始める。
将はどう反応していいかわからなくて、ゲームに向かう香奈の横顔と、新しいケーキをかわるがわるに見た。
「もう、あなたったら……」
裕子が苦笑した。そして将には助け舟を出す。
「本当に、遠慮なくどうぞ。香奈はふんわりつくるためにって一生懸命バターを泡立てたんですよ」
それで将はようやく
「香奈ちゃん、どうもありがとう。すごく美味しいよ」
と香奈の横顔に声をかけることができた。
香奈はブスッとした顔を崩さなかったが、その頬にはほんのりと赤みが差していた。
岸田は笑いながら紅茶のカップを傾けていたが
「将くん、どうだい。東大に晴れて合格したら、今度は将くんが香奈の家庭教師をしてくれないか?」
といきなり切り出した。
「あら、いい考えね」
裕子が紅茶のお代わりを淹れながら同意した。
ゲームをする香奈の背中がぴくんと反応した。
香奈は来年6年生で、有名中学を受験することになっている。
岸田が将の大学受験に協力している代わりに、今度は将が岸田の娘・香奈の中学受験に協力してほしいということだ。
「はい。喜んで」
もともと不良時代、何食わぬ顔をして小学生の家庭教師をしていた将である。異存はない。
「そんなのムリに決まってるし」
意外な声が割って入った。香奈本人だった。
「なんで」
岸田は不思議そうな顔でコントローラーを両手で持ったままの娘をみやった。
「だって、将お兄ちゃんは、大学合格したらまた俳優に戻るんでしょう」
「そうなのかい?」
岸田も裕子も将の顔をのぞきこむようにした。
合格の後のことは……聡と結婚することしか、頭になかった将である。
自分でも政治家のあととりとして俳優業はすっぱりと辞めてしまうのか、それとも続けるべきなのか自分でもわからない。
とにかく合格しないと。
聡との結婚を許されないと。
将の未来は白紙のままなのだ……。
「まだ、わかりませんけど……なんとか、時間をつくるようにします」
苦し紛れにそう答えるしかなかった。
第318話 まばゆい朝(2)
大磯でゆっくりとしたクリスマスの朝を過ごした二人は、西嶋が運転するシトロエンで東京に帰ることになった。
乗ってきたレンタカーで帰るという将を、
「まだ雪道で危険ですから。それに、坊ちゃんはお勉強があるんですから、せめて車の中では休んでください」
と西嶋が頼むようにして申し出たのだ。
レンタカーのほうは最寄の営業所に取りに来てもらうことにした。いわゆる『乗り捨て』制度を利用するわけだ。
雪は、邸宅をあとにする昼前になっても、雫を陽光に煌かせながらその大部分が残っていた。
「それでは将さま、聡さん、また来て下さいよ」
朝食をつくってくれたハルさんも長靴で見送ってくれる。
庭の雪はよけてあったが、日陰になっている道路の上は、踏み固められた固い雪がまだしつこく残っていたからだ。
シトロエンのトランクには、雪が降る前にハルさんが収穫したという冬野菜が山のように入っていた。
聡のためと、将の義母の純代への土産がわりとハルさんが持たせてくれたものだ。
「受験がんばってくださいね。きっと御大が見守ってくださいますよ」
あけた車の窓をのぞきこむようにしてハルさんが見送ってくれた。
「ありがとう、ハルさん」
「聡さんも、お元気で。お産はお手伝いしますからね」
「ありがとうございます」
お礼を言いながら、また瞳が潤んでいる聡を将は見逃さなかった。
義母の純代がさりげなく世話をしているらしいが、初めての出産である。しかも、結婚もしない不安定な状態。
将を良く知るハルさんからの言葉だけで、こんなに睫を瞬かせるとは……将は聡の日頃の不安を思いやった。
車が動き出して、聡は、じっと涙を飲み込むように下を向いていた。
「アキラ……ごめんな」
「え、どうして?」
聡は涙を手の甲でぬぐって、顔を上げた。涙で目は濡れていたが、いつもの調子は戻っていた。
「不安にさせて……」
将は聡の膝の上に置いた手の甲に、そっと掌を重ねた。
「あ、また動いた」
聡は突拍子もなく呟くと、将の顔を見て、くすりと微笑んだ。
「謝るより、勉強……って、ひなたちゃんも言ってる」
「なんだよ、それ。……ちゃんとやってんじゃん」
将は笑うと、聡の手をぎゅっと握った。
聡は、頑張ってよ、と続けようとしたが、言葉は喉でつまってしまった。
将は、仕事との掛け持ちの中で、すでにせいいっぱいやっているはずだったからだ。
これ以上、はっぱをかけるのは……聡のための利己主義のような気がして、聡は喉でつまった言葉を飲み込んだ。
そうとも知らず、将は聡の肩に寄りかかってきた。
西嶋はもちろん前を向いて、一心に運転に集中しているそぶりを見せている。
彼なりに気を遣っているのだ。
「……俺、冬休み、アキラんちに英語の特訓に行こうかな」
「そんなの、ダメに決まってるじゃない」
聡は将のぬくもりと重みを肩に感じながら、突っぱねる。否定に似合わない甘い語調に、将はいよいよもたれてきた。
「だって、俺英語が一番ネックなんでしょ。こないだの模試最悪だったし」
北海道ロケに出かける前に受けたS予備校のセンタープレの結果を、将はまだ受け取っていないはずだ。
それでも将は、試験の出来を自覚していたらしい。
「そうだけど……。うちはまずいわ」
有名人の将である。どこから何を嗅ぎ付けられるかわかったものじゃない。
「じゃあ、俺んちに来いよ」
「そんなこと……できるはずないじゃない」
今、将の『俺んち』といったら、高級住宅街にある自宅を指す。
影ながら二人を応援してくれている義母の純代はともかく、康三がいる家に、現段階で聡が入れるはずがない。
「学校の、図書館はどう?」
聡が、急にシートにもたれていた上半身を起こしたので、将は少しずっこける。
「……何、あいてんの?」
できれば聡と二人で過ごしたい将は、あまり歓迎してないようだ。
ずっこけたまんま、ごろんとシートに横になり……聡の膝の上に無理やり頭を乗せた。
膨らんだ下腹の前に将の頭が並び、聡はその駄々ッ子のような態度に思わず吹き出す。
「うん。今年は30日まで開けてるって」
例年より進学希望者が多いので、学校は勉強場所として図書館を開放することにしたのだ。
「あっそ。じゃあ、そうしようかな」
そうはいうものの、将の口調はさっきより素っ気無いのは明白だった。
「あたしも毎日通うから。ね」
聡は自分の膝を枕にする将の耳の後ろの髪をなぜた。
前よりずいぶん黒に近い髪色は、今度の役にあわせたものである。
髪を黒くすると将は、ギャル御用達のイケメンから、どんな世代にも受け入れられる好青年になるのだ……。
将は、身体を倒してしばらくすると、寝息をたてはじめた。
睡眠の絶対量が足りていないから気を抜くと眠ってしまうのだ。
聡は将の髪をそっと梳きながら、窓の外をみやった。
高速道路へ向かう窓の外は、白に覆われた木々や屋根がキラキラと輝いていた。
運転手の西嶋が急いでくれたので1時間後には東京に着いた。
東京も大磯同様、屋根の上や舗道の花壇には雪が大量に残っていたが、復活した陽射しと激しい往来に、道路上の雪はほとんど溶けてしまっていた。
黒く濡れた路面からのタイヤが跳ね上げる泥水が脇に積み上げられた雪をむざんに汚している。
今日はクリスマスだが、受験生に猶予はない。ただでさえ昨日一日を棒に振った将である。
将は聡をまず送り届けると、
「ごめん。今日は岸田先生の家にいかないといけないんだ」
と抱きしめた。午後から岸田助教授の家に招かれて、論述問題の特訓があるのだ。
ちなみに、野菜を持つからといって、聡の部屋の玄関まであがってきて、西嶋は道路で待たせてある。
「いいのよ。しっかり勉強してきて」
聡は将の肩のあたりに励ましの言葉をかけると、
「いってらっしゃい」
と自分から身体を離した。
将は少し名残惜しそうな顔をしながらも、
「あさって、会えるもんな」
と口角に笑みをつくった。
「じゃあ、お荷物はご自宅にお届けしておきます」
西嶋は、岸田助教授の住むマンションまで将を送ってくれた上、北海道から持ってきた荷物を自宅に運ぶことを申し出てくれた。
「わざわざありがとう、西嶋さん」
自分よりずいぶん年配の西嶋に、重い荷物を持たせるのに少々罪悪感を感じた将は、感謝の言葉を述べると軽く頭を下げた。
そこで、西嶋からのほうから、自発的に言葉が出た。
「それはそうと、将さま。弟の養子になっている島大悟さまの件ですが……」
西嶋の別れ際に出てきた名前に、将の目の色が変わった。
第317話 まばゆい朝(1)
瞼から明るい光が透けて、聡は目を覚ました。
目の前には将の顎がある。将は半ば口をあけて眠ったまま、なおもしっかりと聡を抱きしめている。
聡は、温かい将の腕の中から、あたりを見回した。
杉板天井に、唐長の襖の和室には、たしかに朝が訪れていた。
しかし、聡が知っている朝はこんなに眩しくない。
雪見障子からは、それ自体が照明器具になったかのような真っ白な光が透けていた。
聡は、自分を抱きしめる将の腕を、そっとはずすとそろりと起き上がった。
将は起きなかった。睡眠をろくにとれないまま、なれない雪道をずっと運転してきた上に、昨夜も遅くまで勉強していた将。疲れているのだろう。
聡は、将の肩口に布団をかけなおしてやると、立ち上がって雪見障子をずらした。
とたんに。圧力を感じるほどのまぶしさに聡は目を細める。
そして次に、その眩しい景色に見入った。
クリスマスの今朝、関東地方に大雪をもたらした低気圧は去り、ようやく青空が戻ってきたらしい。
朝日を浴びた庭は、これ以上ないほど……雪の粒の1つ1つが反射しているような、まばゆい白に覆われていた。
聡は、浴衣一枚の肌寒さを忘れて、障子のそばで雪に輝く庭に見入った。
「ん……、あきら?」
そのときようやく将が目を覚ましたらしい。
目をこすりこすり、聡を探して……やっと障子の傍に立っている聡を見つけた。
「おはよう、将」
「アキラ……何やってんの?」
起き上がった将は、聡と同じように浴衣姿だが、その前はかなりはだけている。
「すごいいい天気だよ。雪がすごく眩しかった」
聡は雪見障子を元通りに上げると、将のそばに戻った。
「そう。ホワイトクリスマスだね」
将は布団の上のまま、寄り添ってきた聡をそっと抱きしめた。そのまま二人、朝のキスを交わす。
「……で、昨日は、何時まで勉強したの?」
「2時すぎでダウンした」
将は笑った。実は、昨夜も将は聡を先に寝かせると、自分は一人起きて勉強を始めたのだ。
聡は、英語だったら付き合おうかと申し出たのだが、お腹の子によくないから早く寝ろと無理やり寝かされたのだ。
浴衣に綿入れを着て、文机で勉強をはじめる将を、聡は布団の中からしばらく見守っていたが、妊娠中の眠気は逆らいがたい。いつしか寝入ってしまっていた。
並べて敷いてある布団ではなく、聡の布団に将が入ってきたことはなんとなく覚えている。
でも目覚めたのは一瞬で、将に抱きしめられた聡はすぐに甘い眠りへと引き戻されていった。
「でさ。気付いてくれた?クリスマスプレゼント?」
「え?」
にんまりと微笑んでいた将は、わざとらしく
「ひでえな。枕もとを見てよ」
と口を尖らせる。
聡はあわてて、枕のあたりを見回した。枕の上の畳に、小さな紙袋がおいてある。
「これ、プレゼント?将からの」
将はさも嬉しそうに口角をあげた。得意な顔に……何かをしくんでいるいたずらっぽい顔がまじっている。
「まあ、あけてみて」
何だろ、とつぶやきながら聡は光沢のある紙袋をあけた。
中には……薄紙に包まれて、小さな赤ちゃんの靴下が入っていた。
「かわいい……」
ほわほわの毛糸で編まれた、ほんのり温かみを帯びたクリーム色の靴下には毛糸のボンボンがついていた。
お腹の赤ちゃんが男でも女でも身につけて違和感のない色だ。
「将、ありがとう。すごく嬉しい」
聡は、生まれてきた赤ちゃんがそれを身につけるところを想像して頬を紅潮させた。
「それは、陽(ひなた)へ、俺からのプレゼントその1。まだお礼は早いよ」
将はますます得意げな顔になると、
「靴下の中、見てみて」
と促した。
「靴下の中?」
聡はクリーム色の小さな靴下を手にとった。それは聡の掌におさまるサイズだ。
柔らかい毛糸の生地の靴下を逆さまにすると、小さなリングが出てきた。
大人の指には入らない……ベビーリング。
「……すごい。これダイヤだよね」
聡は、小さなリングを掌に乗せてじっくりと眺めた。
ゴールドの小さな輪にはまったこれまた小さなダイヤは、雪見障子からの眩しい雪明りを反射してキラリと輝いた。
将は嬉しげにうなづくと、
「ひなたの予定日、5月だからエメラルドでもいいかなと思ったんだけど、万が一出産がずれることもあるかな、と思って。無難なダイヤにしといたんだ」
なぜダイヤにしたかを説明した。
「いいでしょ。クリスマスプレゼントといえば、靴下の中じゃん」
将は自らのアイデアに得意になるあまり、白い歯を剥き出しにして笑っている。
「……でリングの中にはいちおうメッセージも彫りこんであるんだぜ」
そういわれて聡は、その直径1センチにも満たないリングの内側をのぞいた。
そこにはフランス語で
『生まれてくる君へ、愛を込めて。父』
というメッセージが細かく彫りこんであった。
聡は胸がいっぱいになった。胸から溢れたものが涙腺を圧迫し……朝から涙が溜まってしまった。
「ありがとう、将……」
「だから、まだ早いって。もう片方の靴下も見てよ」
将はなおも、聡をうながす。
聡は涙を瞬きで堪え、鼻を啜りあげながら、もう片方の靴下を掌の上でさかさまにした。
それは、重みでベビーリングより、たやすく手の上に落ちて来た。
落ちたとたん、聡の手の上で燦然と輝くようだった。
「これ……」
「婚約指輪。これがアキラへのクリスマスプレゼント」
桜色に輝くピンクゴールドに、今朝の雪明りを映して輝くダイヤの指輪は、聡の思考を奪うほどの美しさだった。
さっき窓辺から眺めた雪の粒のきらめきを集めたように眩しく、そして無垢に輝き続けていた。
将は、聡の掌の上で輝く指輪を見て、プラチナでなくこの色にしたことは正解だと嬉しくなった。
「将……」
言葉を失った聡の掌から、将はその指輪を取り上げると、聡の手を取った。
細くて華奢な……シクラメンの白い花を思わせる指。将はその薬指に、ダイヤのリングをゆっくり填めていった。
リングは聡の薬指の根元で止まった。調べたわけでもないのに、サイズもぴったりだった。
「メリークリスマス。アキラ」
微笑む将の浴衣の胸元がはだけて、聡が愛する小さな黒子が見えている。
聡は、息と涙と身体を流れる血の……すべてが喉元に込み上げてきて……思わずその黒子に向かって身を投げ出した。
雪が音さえも吸い込んだような、静かな朝の中、聡を抱きしめた将は幸せを噛み締めていた。
第316話 クリスマスの夜、二人(4)
「行こうか」
ブランコで将の膝の上にいた聡が立ち上がった。
まだ雪と聖歌は続いている。今『衆人こぞりて』が始まったところだ。
「終わったら、みんな一斉に出てくるでしょう?」
出てきた人々が、将を見つけたら騒ぎになるかもしれないことを、聡は危惧していた。
そして、活発に動いていたお腹の胎児も少し静かになった今が、帰り時かもしれない、と判断したのだ。
まだ、歌がたけなわのうちに教会を後にしたほうが静かに帰れる、という聡の提案はもっともなので将はブランコから立ち上がった。
来るときにつけた穴のような足跡に足をあわせながら、二人は教会の前までやってきた。
教会の扉は閉められていて、人々が出てくる気配はない。
扉の隙間から、暖かい色の光と、透明な歌声が漏れてくるのみだ。
あいかわらず舞い落ちてくる雪は、少し離れただけで視界から教会をぼやけさせた。
「タクシー呼ぼうか」
携帯を取り出そうとする将に、聡は傘を差しかけながら首を横に振った。
「歩こう。10分くらいなんでしょ」
「寒くない?」
「いい」
聡は将の傍らに寄り添うと、その腕に軽く手をかけた。
聡らしくない大胆さに将は思わず傍らの聡の顔を見下ろす。
聡はちょうど将の顔を見上げていたので、目が合った。とたんに聡は柔らかく微笑んだ。
傘の下まで舞い込んできた雪がピンク色のほっぺたについて……はかなく溶けたとたん、聡は俯いた。
瞳の代わりに庇のように長い睫だけが聡を代弁するかのようだ。
「将と……歩きたいんだ」
聡はそう呟くと、もう一度目をあげた。いたずらっぽい瞳だ。
考えてみれば……二人で寄り添って歩くチャンスは少なかった。
もともと教師と生徒という境界が二人の間に横たわっている。
それに将が芸能界に入ってから二人で寄り添って歩く機会はほとんどなくなってしまった。
将は帰路へと踏み出しながら記憶をたぐる。
二人が結ばれたあの清流荘への夜道を除けば、大悟に痛めつけられて面相が変わったときに手をつないで歩いた、病院から商店街までの短い区間が最後だ。
あのときの入道雲……そして、汗に湿った温かい手のひら。あの直後のことと共に将ははっきりと覚えている。
『俺を裏切るんだな、将』
ふいに大悟の声が大音量で蘇り、将は顔をあげた。
顔をあげた将の頬に寒風が鋭く刺さって将は目を細めた。
次の瞬間……舞い乱れる雪の中に、やせ細った大悟の姿を見つけた将は、眦をカッと見開いた。
「どうしたの?」
聡の声に、大悟の幻はあっけなく消えた。見えるのは暗い水銀灯に照らされた白い乱舞のみだ。
「何でもない」
救われた証拠に将は笑顔をつくる。
それは聡が久しぶりに見る、翳がある笑顔だった。
聡は、将の腕にしがみつくように自分の腕をからみつけた。こうすると歩くたびに聡の半身が将にふれる。
自分はここにいる……言葉を使わずに、確実に伝えるために。
「雪の日って好き」
とうとつに聡は言った。『好き』というには、過ぎるほどに舞う雪だ。
ここを歩き慣れた将でも進む方向がかろうじてわかる程度の……大雪。
本当なら、ちょうど食べごろのみかん畑の中を歩いているはずなのに、しばらく目をこらさないと影すらも見えない。
ぼんやりしていたら、道を見失ってしまうだろう。
車で踏み固められている雪道は、二人が歩くごとにギュッギュッという音をたてている。
将が差しているビニール傘にはすぐに雪が積もり重くなる。
とてもじゃないけど『好き』なんて言える状況ではない。
「なんで?」
将の問いに、聡は将の腕にしがみついたまま、顔をあげた。
その濡れたような瞳が、将を映して微笑んだ。
「ニセコを思い出すし……それに、こんな雪の日じゃないと、こんな風に将と相合傘で歩けないでしょ」
聡は、その低めの声でゆっくりと答えると、将の腕にしがみついた腕にいっそう力を込めた。
こんな風に野外で、聡から積極的にふるまうのは初めてかもしれなかった。
寒さゆえに誰もいない道。視界をぼかして舞う雪。
二人が……世間の目から逃れて、こんな風に寄り添い歩けるのは今しかないのだ。
「ずうっと……こんな風に将と歩きたいな」
将は、大悟の幻でこわばった心が、急激に……まるでバターのようにとろけていくのを感じた。
いよいよ冷え込んでいくような夜道だけれど、将の胸の中は温かかった。
将にも、この雪の夜道が、かけがえのないものに思えた。
聡がそばにいれば、どんなに寒い場所でも、陽だまりに変わるのだ……。
「あきら」
将は、吐息と共に、その名前を柔らかく発音する。
「……なあに」
「子供の名前だけどさ」
二人が今、歩いている雪道は、温かい陽射しに満ちた未来へと続いている。
そんな願いを込めて将は子供の名前を口にした。
「太陽の『陽』の字で……女の子だったら”ひなた”ってどう?」
「ひなたちゃん?」
聡は白い息と共に何度かひなた、ひなたちゃん、ひなたさん、と繰り返した。
「いいんじゃない。可愛くて。でも男の子だったらどうするの?」
まだ性別がわかっているわけではない。
聡は、将に似ていれば、女の子でも男の子でもどちらでもかまわないと思っていたが、将はどうやら聡に似た女の子を希望しているらしかった。
「男だったら、同じ字で”ヨウ”でいいよ。陽太とか陽治とかでもいいし」
“ひなた”を口にしたときよりは、どうでもいいといった口調に聡はクスッと笑う。
女の子の名前が出たのは、そんな希望が、つい口をついて出てしまったに違いなかった。
「将は、太陽の『陽』の字が好きなの?」
「うん。……アキラは俺の太陽だから。そんなアキラが産んでくれる子供だから」
聡は再び将を見上げると目を見開いた。
将は聡の視線に気付くと、照れくさそうに舌を出した。
「クサかった?……クサいよなー。あー、俺バカ」
ひとしきり呟くと、さもバツが悪そうにそっぽを向いてしまった。
「でもさ……アキラがいてくれたから、アキラと出会えたから、俺はここまで立ち直れたんだ」
それでも将は、聡に横顔を向けたまま続けた。
聡が将を温かく照らしてくれたから……将は再び、自分自身の未来を信じることができるようになったのだ。
聡がいなかったら……それを考えるのも恐ろしいほど冷たい孤独の中で、将は堕ちるところまで落ちていっただろう……。
白い煙になった将の告白は、水銀灯に照らされながら降りしきる雪の中へと溶けていった。
その横顔の、マフラーに見え隠れする喉仏から顎のラインを聡は見上げていた。
そして、ふいに突き上げてくるように熱い涙がたまってくるのをこらえた。お腹の子供が、聡の気持ちに呼応するように、再び動いている。
「俺、絶対に、東大に合格する」
将は横顔のまま、とうとつに決意を口にした。
「アキラと俺と……生まれてくる陽(ひなた)とで温かい家庭をつくろう」
将の視線が聡の顔に戻ってきたとき、聡の頬には涙が伝っていた。
第315話 クリスマスの夜、二人(3)
小さなモルタルの教会は、ゴシック様式をかろうじて模した尖塔を、降りしきる雪の夜空にぼやけさせていた。
だが、せっかくタクシーまで使ったにもかかわらず、当の教会は、ミサを一目見ようとする見物人が入り口まで溢れているありさまだった。
入り口にしつらえられた大きな雪だるまも、人々の熱気に汗をかいたようになっている。
小学生の聖歌隊の親たちが多いらしい。それぞれがカメラを手に自分の子供の出番を待ち構えている。
まだミサは始まったばかりらしく、神父の声が聞こえていたが、あたりには厳粛さはまるでない。
「どうする?」
伊達眼鏡をかけた将は入り口の段の下から背伸びをしながら中をのぞいた。
「……やめとこうか」
入り口にたむろする人だかりに、思わずのけぞるような体勢になりながら聡は答えた。
この人だかりに、芸能人である将が現れたということがバレたら、大変な騒ぎになってしまうかもしれない。
「肩車してあげようか。中のツリーきれいだよ」
おどけて将は微笑む。聡は微笑で返すと、入り口から踵を返してビニール傘をさした。
降り続く雪は、人で踏み固められた上にさらにうっすらと積もっている。
ビニール傘の視界もあっという間に張り付く雪で閉ざされていく。
「アキラ、こっち」
足元に気を取られていた聡が振り返ると、将は教会の裏手へと続く新雪の上にいた。
20センチにも降り積もったなめらかな雪の表面に将の足跡が数個の穴となって残っている。
「なあに?」
聡は慎重に将のつけた足跡に自分の足をあわせながら将の行く方へついていった。
教会の裏は、小さな公園になっていた。雪に覆われた砂場とブランコ、ベンチが、暗い水銀灯に照らされて滑らかな影をつくっていた。
将は足を振り上げるようにしてズボズボとブランコに近づいた。
ブランコの腰掛の上にも、まるで豆腐のように四角い雪が乗っている。
それを手袋の手ですとんと落とすと、聡を手招きした。
「ここで聞こう。賛美歌」
「濡れてるじゃない」
木の座面は、雪を払い落としたあとも水気があった。そこに腰掛けるのは憚られた。
「平気」
将は自らがつけていたマフラーをはずすと、ためらいもなくブランコに敷いてその上に腰掛けた。
「聡はここ」
雪に目を細めながら、自分の膝の上を指差した。マフラーがなくなった長い首が寒そうだ。
それを見て、聡は「あ」と声を出すと、バッグから紙袋を取り出した。
「アキラ、寒いから早く~」
マフラーがなくなって震え上がった将は、ブランコの上で縮み上がりながら、自らの湯たんぽである聡を呼ぶ。
「将。これ。クリスマスプレゼント」
本当は、教会の中で渡せればと思って持ってきたものだ。
「え、ここで?」
将は雪交じりの風に震えながら受け取る。聡はうなづきながら
「早くあけて。今一番役に立つから」
といいながら、将にビニール傘を差しかけた。
この寒さだ。リボンを模ったシールをきれいにはぐのに、思った以上に時間がかかる。
中からは……マフラーが出てきた。
「わ……。これ手編み?」
将はその長いマフラーをこれ以上ないほど、うやうやしく紙袋からそっと取り出しながら聡を見上げた。
「早く巻いて。凍えちゃうよ」
聡は繰り返し首を縦に振りながらも、うながした。本当に寒い。
マフラーにタイツ、厚手の靴下、カイロ……と重装備をしている聡でも寒さで顔がこわばりそうになっている。
「マジ……うれしー。俺、手編みなんかもらったの初めて」
将は寒さも忘れたようにマフラーに見入っている。暗い水銀灯の下でも、それは将の好きな色だということがわかった。
好きな色、なんて話し合ったこともなかったのに、聡がそれを知っていたことにも将は深く感動していた。
「あんまり見ないで」
ついに聡は将の手からマフラーを奪うと、その首に無理やり巻いた。
「最後のほうとか急いで編んでるから不揃いだから」
そういいながら長いマフラーをぐるぐると将の首のまわりに巻きつける。
「アーキラ!」
急に将が聡の手を引っ張ったので聡は小さく悲鳴をあげて、将の胸に倒れ掛かった。
持っていたビニール傘が、聡の手から落ちて新雪にさくっとささる。
将は後ろに倒れまいと、もう片方の手でブランコの鎖を握り締める。
「もう、危ないよ」
顔をあげた聡のまん前に、将の顔がある。水銀灯に照らされた二人の吐く白い息が、溶け合ってのぼっていくようだ。
「ありがとう……。アキラ」
そのまま将は聡を抱きしめた。雪が花びらのようにくっついた柔らかい髪の毛に、顔をうずめる。
体温のせいだけではなく……心から将は聡のぬくもりを感じていた。
そして、自分もクリスマスプレゼントを用意していることを将が告げようとしたとき
「あっ?」
聡が鋭い声をあげて、将の顔を見つめた。眼を真ん丸く見開いて、しきりに瞬きをする。
その長い睫に、雪の華がひとひら、僥倖のようにかかって落ちていった。
「何?」
「あっ」
将の問いには答えず、聡は、今度は俯いた。将から完全に離れると、立ってお腹をさすっている。
「どうした。……お腹どうかした?」
心配になって立ち上がろうとした将は、雪が舞い落ちる夜の中で、輝くような聡の顔を見た。
「動いた」
祝福のように舞い落ちる雪の中に立つ聡は、将を見つめて一声あげた。
「すごい……。動いてる」
聡は将からすぐにお腹に視線を移し、コートの上から下腹をさすっていた。
ブランコから離れられないまま、聡を見守る将は、聡をよく見ようと伊達眼鏡をはずした。
そしてようやく……聡のお腹の中の、小さな命が活動を始めたことを知った。
「動いてる、動いてるよ!将」
聡は将に向き直ると、呆けたような将の手をとってお腹のあたりにあてた。
「ほら」
ただでさえ、膨らみが小さい聡のお腹だ。厚いコートの生地に隠されて、将は小さな身体がどこにいるのかわからない。
必死で探る将をよそに、聡は
「あ、ほらまた」
と声をあげた。
しまいに将は、聡の下腹に抱きつくような姿勢で耳を澄ました。
しん、と静まり返った中、お腹に神経を集中させる将の目には、音もなく雪が積もっていくのが映っている。
……ぴくん。
「……あ」
厚いコートの下で、聡の腹がかすかに脈動する気配があった。
「ね?」
聡が誇らしげに将を見下ろす。再び、動く。……今度ははっきりとわかった。
小さな命が将に気付いて手を延ばしたのかもしれない。
「……本当だ」
将は感動のあまり、しばらく聡の下腹に抱きついたまま動けなかった。
それに対して胎児は、今起き出したように、さかんに聡のお腹の下で体を動かしているようだ。
あの夏の終りに、二人が結ばれた証の、愛の結晶が、ここまで成長したのだ。
自分と聡の血を受けた……子供がここで小さく主張を始めている。
そのとき、教会のほうから、『きよしこの夜』のオルガンの調べが流れてきた。
1フレーズのあと、子供たちによるハーモニーが重なる。
その透き通った歌声は、まるで聡のお腹の子供の声のようだった。
「始まったね。歌」
聡の声に、将はやっと立ち上がる。
冷たい水銀灯の下で自分を見上げる聡の頬は、紅く昂揚しているのがわかった。
将は、そのいとおしい顔をそっと包む。紅い唇から吐き出される息は白い炎のようだ。
喜びに潤んだ黒い瞳には将だけが映っている。
「ありがとう。アキラ」
将はもう一度静かにつぶやくと、もう一つの命を宿したその身体をそっと抱きしめた。
誰よりも大切な人。
そしてその人との間にできたかけがえのない命。
一生、守っていく……将は誓いを聖歌にこめながら、聡の顎をあげた。
あいかわらず降りしきる雪。時間ごとに冷たく尖っていく空気の中で、お互いの唇だけが温かく柔らかい。
銀色に輝く夜の雪の表面に、ブランコと一緒に、二人の影が青く重なっている。
第314話 クリスマスの夜、二人(2)
いつもの倍の時間をかけてたどりついた大磯でも、多少弱まったとはいえ雪が降り続いていた。
外灯や信号に照らされた夜の景色は、いつもより明るく見える。
「こんなの初めて見る」
思わず将がつぶやいたように、巌の邸宅の、巌がこよなく愛した庭木も綿帽子のような雪にすっぽりと覆われているのがわかった。
雪明りというのだろうか、夜だというのに雪自体がぼうっと光るようだ。
ガラス障子から漏れるわずかな明かりはまるで行燈のようだ。
「きれいね……」
聡は将の後ろに続くとつぶやいた。
「まあまあ、将さま、雪の中お疲れ様でした」
二人の到着を聞きつけたのか、ハルさんと西嶋運転手が引き戸を開けて転がるように出てきた。
玉砂利の庭もすっかり雪に覆われているが、玄関へ続く道だけ雪が取り除かれている。
たぶん将が来ると聞いて雪をあわてて取り除いてくれたのだろう。
「急で、すいません」
「さあさあ、寒いでしょう、お入りになって」
頭を下げながら、聡は、この二人にはお腹の子供はどう説明すればいいのか、迷った。
コートを脱げば、聡が普通の身体ではないことは、すぐにわかるだろう。
「アキラ、入ろう。……あ、いい匂い」
将が少しとまどった聡の肩に手を添えながら、鼻を鳴らした。
「いやだ、それが材料が揃いませんで。寄せ鍋ですよ」
ハルさんは謙遜したが、旨そうな匂いは明かりと共に玄関先まで漂ってくる。
さあ、とうながされて、とまどった聡は、引き戸の前で将に囁いた。
「どうしよう」
「何が?」
きょとんとした将は、せっかく声をひそめた聡に不釣合いなのんびりとした声を出す。
その声に、ハルさんや西嶋が振り返る。聡は息を飲むと、配慮の足りない将を軽く睨み
「あたしの……」
といいながら、下腹にさりげなく手を添えた。
「ああ」
将はようやく聡の心配がわかったらしい。聡に微笑をかえすと、ハルさんと西嶋に向き直る。
「あのさ。ここだけの秘密だけどさ、俺たち、結婚するんだ」
「まあ」
ハルさんは眼鏡の縁に手を添えて口を丸くあけたが、その顔には非難も蔑みも含まれていなかった。
「それは、おめでとうございます」
西嶋があらたまったように二人に頭を下げる。
「しょ……鷹枝くん」
聡はひやひやしていた。結婚できるかどうかは、まだわからない。将の受験次第ではないか。
「それでさ。俺、5月には父親になるんだ」
将は流れのいきおいのまま、ごく自然な形を主張する。
「まあ……」
しかし、今度はハルさんも西嶋も、驚いて口を真ん丸くあけた。
「じゃあ、聡さんは……将さまのお子を?」
ハルさんが口を利いたのは、しばらく経ってだ。
「……すいません」
聡は思わず下を向いた。
この二人にとって将は大切な御曹司だろう。その由緒正しい御曹司をたぶらかしたとんでもない教師であろう自分に身の縮む思いがする。
「何で謝るんだよ」
将は笑いながら、聡の肩に手を添える。
身に染みる寒い外気の中で、聡は目だけに急速に熱い涙が集まっていくのを感じた。
久しぶりに感じる罪の意識に、聡の感情は大きく揺れたのだ。
「……そうですよ。おめでたいことですよ」
ようやく聞こえたハルさんの声に顔をあげた聡の瞳から、涙がぽろんと落ちた。
涙はこぼれたとたんに冷えて、頬に冷たい軌跡を残した。
ハルさんの眼鏡の奥の瞳はあたたかだった。
「……こんなところにいるのは体の毒です、早く中にお入りください」
西嶋が促す。
二人とも、聡を咎める様子はなかった。ただ聡を気遣うべく、温かい瞳でみつめていた。
「すいません」
そんな温かさに、聡の涙は止まらなくなってしまった。
「アキラ、何で泣いてんのさ。早く入ろう。ケーキが凍っちゃうよ」
将は駅前で買ったケーキを西嶋に渡すと、聡の体を抱きかかえるようにして引き戸の中に入った。
「ふう。腹いっぱい」
将は、ついに箸を置くと椅子によりかかった。そんな将を見て、ハルさんと西嶋、そして聡が微笑む。
この古いうちにくると、将は少し子供返りするようなのだ。
ハルさんと西嶋は固辞しようとしたのだが、せっかくだからと一緒に鍋を囲んでいる。
「聡さん、足りました?お腹に赤ちゃんがいるんだから、たくさん食べないと」
食後のほうじ茶を準備しながらハルさんが聡に訊く。
巌の畑でつくった野菜に、急遽集めたらしい魚介類を入れた寄せ鍋はハルさん特製のダシが素晴らしく美味しかった。
4人でもかなりの量があったはずなのに、最後に入れたウドンまですっかり食べ尽くしてしまった。
「はい。もう充分に」
聡もようやく、心から微笑むことができた。
巌にかしづいてきたこの二人が、将が選んだ聡を心から歓迎していることがわかったからだ。
それほど温かい、こころづくしの食卓だった。
シャンパンは暖炉でと言っていた将だったが、ここでみんなで乾杯した。それはそれで、楽しいものとなった。
「少し、腹ごなししないとケーキは無理だな」
将は大儀そうに腹をさすった。まるで将が妊娠しているような仕草に聡は口元を緩める。
「こんな雪じゃなかったら、ミサを見にいけたのに残念ですね」
ハルさんはほうじ茶を淹れながら古い柱時計を見た。
「ミサ?何それ?」
「いえね。教会でクリスマス・ミサがあるんですよ。このあたりの子供たちが、教会に集まって賛美歌の練習していたんですが、それはそれはきれいな歌声でねえ。ぜひ見に行きたかったんですけど」
西嶋の解説に、聡が興味深い顔をする。
「教会って、小学校の近くの?」
「はい。9時からとのことですが。この雪じゃあね」
将も柱時計を見た。ちょうど9時になるところだ。
「アキラ、ちょっと行ってみる?」
「え」
聡は、長い睫をしばたいた。頬が輝いているのは、行きたい証拠だ。
「将さま、外はまだ雪が降ってますよ」
ハルさんがとんでもない、と眉を寄せる。西嶋は、呑んでなかったら私がお送りできたのに、と舌打ちした。
「でも俺が通ってた小学校の近くだし。すぐ近くじゃん。あったかくしていけば大丈夫だろ」
食い下がる将に、聡は同意の視線を送った。
こんな寒い夜なのに、聡はなぜか、表に出てみたかった。将と二人で歩いてみたかったのだ。
「では、せめてタクシーをお使いください」
責任感の強い西嶋が提案したせいで、歩けばたかだか10分ぐらいの距離にタクシーを使うことになってしまった。
「みな子、遅かったじゃない」
帰宅したみな子に、母親が咎めるような声を立てた。もう9時すぎている。
真面目なみな子だから、この時間の帰宅は極めて珍しかった。
「ごめん。友達んちで、勉強してたから……」
みな子は小さく言い訳する。本当は、勉強なんかしていなかった。
将と聡がまだ続いていたこと。そしておそらく……聡のお腹の子の父親は将だ、ということがわかってしまいショックを受けたみな子は、呆然としたまま、山手線に揺られていたのだ。
雪による視界不良で遅れ気味の山手線のシートに腰掛けたまま、何周も。
クリスマスイブ、そして週末の今日、乗客は次々に乗っては降りて……みな子がずっと座りっぱなしだということに誰も気付かなかった。
沿線のネオンやイルミネーションを窓に映しながら、東京を巡るメリーゴーラウンドと化した列車の中、人々は楽しそうに浮き立っていた。
そんな人々の中で、沈んだみな子の表情はかなり異質だった。
しかしそれぞれの幸せしか見えていない今日の乗客である……いや気付いたとて手をさしのべるはずもないのだけれど。
「ごはんは?」
「いい。いらない」
母親を振り切ってリビングダイニングを突っ切って足早に部屋に引っ込もうとするみな子を、なおも父親がその名を呼んで引きとめる。
みな子は立ち止まるしかない。
「何?」
さもめんどくさそうに訊き返す。
「大事な話があるんだ。ここに座りなさい」
父親の重い口調にみな子は仕方なくダイニングテーブルに腰掛けた。
今度から高校生になる弟のヒロトもいる。父親に目で促されて母親も加わった。
考えてみれば、一家でこんな風に集まるのは本当に久しぶりだった。
なのに、どことなく緊迫感が漂っている。クリスマスらしい楽しさはまるでない。
「みな子。ヒロト。お父さんは、4月から大阪に転勤になる」
あらかじめ知っていた母親を除いて、二人の子供は目を丸くした。
「大阪ぁ?」
ヒロトが思わず声をあげる。
「本当は1月から大阪勤めなんだが、あまりに急だから、3月までは出張で対応することになった。それで」
父親は二人の子供の顔をかわるがわるに見つめた。
「二人とも関西の学校を受験しなさい」
みな子は息をつめて、父親の顔を見つめていた。
否。視線は父の顔に固定していたが、心は違うところを見つめていた。
さっき、列車の中で……将と一緒に大学生になる夢が、大きく揺らぐのを、ただ見つめていたみな子は……今度はそれが崩れていくのを感じていた。
第313話 クリスマスの夜、二人(1)
「このまま、大磯行こうか」
「え?こんな雪なのに?」
聡は将を振り返った。もうあたりは濃い紫色に沈みつつある。ヘッドライトには降りしきる雪が金色に反射している。
「うん。アキラこの間、俺の小さい頃の写真が見たいって言ってたじゃん。大磯にヒージーの分がしまってあるんだよ」
たしかにそんなことを言ったかもしれない。
将に似た赤ちゃんがほしい。そう思った聡は、将の子供時代を見てみたくなったのだ。
「それに」
将は運転しながら後ろを顎でしゃくった。
後部座席には細長い箱が置いてあった。シャンパンの瓶が入ったケースだ。
「大磯の家には暖炉があるんだ。暖炉の前で乾杯しよ」
将は、巌の遺言で大磯の邸宅を相続している。もちろんふだん住むわけにはいかないから、今まで通りハルさんに管理を頼んでいるのだが。
「大丈夫なの?道、混むんじゃないの?」
聡の心配には及ばなかった。昨日からの大雪で、クリスマスイブといえどマイカーを出すのは控えた人は案外多いらしい。
2日連続の積雪で、走っているのはスタッドレスやチェーンを装着した車がほとんどで、動けなくなる車も今日はさほどないとのことだった。
そういえば会社も臨時休業にしたところが多いという報道が新聞でされていた。
「高速も規制されているけど、なんとか通れるみたいだよ」
提案の体裁をとりつつ、将はもうすっかり行く気のようだった。
聡も、雪に反射する緑やピンク、赤のイルミネーションを目にするにつれて、行ってもいいような気がしてきた。
諦めていた将に逢えた嬉しさで聡の心は、一気に浮き立ったのだ。
「将、ちょっとあたしの家に寄っていい?」
「いいよ」
将は優しく答えるとハンドルを切って車線変更をした。
聡は手早く泊まれる準備を整え、将へのプレゼントのマフラーを手に取るとコーポの階段を急いで降りた。
吹き込んだ雪が、夕方の冷え込みで、ところどころにへばりついたまま凍っている。それを避けながら慎重に降りなくてはならない。
やっと車に乗り込むと、階段を降りる間に凍りそうだった肺がふーっと溶ける感触がした。
運転席で聡を待っていた将は、携帯を切ったところだった。
「誰に電話してたの?」
「ハルさん。夕食用意しといてって頼んどいた」
「悪くない?急で」
もう5時になるところだ。
「でもさ、ファミレスとかだと、お腹の子供によくないだろ。……いいんだよ。ハルさんも一人ぼっちなんだから、ケーキでも買っていこうよ。よろこぶよ」
将は、それでもまだ気遣う顔をやめない聡の頭にポンと、手を乗せると「行こう」とサイドブレーキを解除した。
走り出した車は、都心へとは逆に向かっているせいなのか、わりに順調だった。
通り過ぎていく街のイルミネーションを見て、聡は去年のイブを思い出した。
去年の将との約束。……逢いに行くつもりじゃなかったのに。やはり逢わずにはいられなくなって、都心のコンサート会場を目指した聡。
あのときタクシーはひどい渋滞に巻き込まれて……聡は将のもとへと、雪が舞う中、走りに走った。
……あのとき、将に会いにいかなかったら……今、自分はこうやって将の子供を身ごもっているんだろうか。
「あきら。何ぼーっとしてるの。眠い?」
聡の意識は完全に窓からタイムスリップしていたらしい。
急に視界に、雪に照り輝くイルミネーションが戻ってきて、聡はハッとした。
「ううん」
聡は気を取り直した。
「将のほうこそ、福島からずっと運転でしょ?疲れてない?」
そう言いかけた聡は、疑問を思い出した。
「……それにしても、どうやって帰ってきたの?飛行機欠航してたんでしょ」
「ああ」
将は前を向いたまま愉快そうに頬をゆるめた。
23日の夕方、旭川空港で、桃色の夕陽に聡を思い浮かべて。
そのとき、ぜったいに聡に逢いにいくことを決意した将は、カウンターに背を向けて歩き始めた。
「将くん。どうするの?」
詩織がそんな将の背中に声をかける。
「JRは動いてるから、いけるところまで行ってみます」
「でも、東京は電車、動いてないわよ」
「……そしたら、タクシーででも帰ります」
「めちゃくちゃね」
詩織はあきれた声をあげた。
しかし、3秒後には将の隣にかけよって、にっこり微笑んだ。
「タクシー代、ワリカンするから、あたしも一緒に行っていい?」
かくして今から24時間前。東京をめざしての遥かな旅が始まったのだった。
二人は旭川から札幌、札幌から千歳空港とJRの特急で移動してみることにする。
旭川発の本州便はすべて欠航だったが、千歳発はまだあるかもしれないという望みをつないだのだ。
「あたしも、絶対に東京に帰りたいの」
詩織はライラック号の中で告白した。
そのときの詩織は、絶対、という強い言葉がおおよそ似合わない、柔らかい笑顔だった。
冷ややかな色に暮れていく窓の外とは対照的に、車内は暖房で暑い。
それもあるだろうが、うっすらと素顔の頬を染めた……ピンク色の頬は、聡のそれとぴったりと重なる。
その顔をみれば、『何で』などという質問は野暮だった。
たぶん、彼女にも将と同じく、絶対に逢いたい……クリスマスイブを一緒に過ごしたいひとがいるのだろう。
「僕もです」
将の同意に詩織は何も問い返さずに、伊達眼鏡の下の黒目がちの瞳を将に向けた。
詩織は伊達眼鏡に、髪はわざとやぼったい三つ編みにしている。
将はニット帽に髪をすっぽりと入れこみ、同じく流行遅れのオレンジ色のサングラスをかけている。
そんな珍妙な二人が芸能人とは、幸い他の乗客は気付かないようだった。
幸い千歳では、最悪の場合引き返すかもという条件付で、仙台行きの最終便が出発するようだったので、それに駆け込むように乗り込む。
しかし、安心したのも束の間、仙台の視界の悪化で飛行機は花巻空港に着陸することになってしまった。
二人が花巻空港に降り立ったのが20時30分だった。ここから仙台までバスが用意されているという。
「札幌に引き返さなくてよかったね」
それでも詩織は、気丈に微笑むとバスに乗り込んだ。
花巻・仙台間は通常なら2時間程度とのことだったが、だんだん速度がダウンしてきたのが乗客にもわかった。雪で視界不良になり、渋滞し始めたのだ。
宮城県内に入ると、高速道路の意味をなさないほどの速度まで落ちてしまった。
日本海側と違って東北でも雪のすくない宮城で、ここまで降るのは珍しいらしく、車の列はとまどいを顕わにのろのろと動くしかない。
結局、仙台市内に着いたのは、12時近くなっていた。もう東京方面の列車もないので二人は駅前のビジネスホテルに部屋を取った。もちろんシングルを2部屋、偽名を使って。
だが、駅前のビジネスホテルの、アルバイトらしきフロントは、二人のチェックインにあきらかに好奇の目を向けた。
雪でどうなるかわからないから、と朝7時にはチェックアウトした二人だったが、案の定雪による徐行運転で新幹線は遅れに遅れた。
しまいには郡山でストップしてしまった。
「嘘だろ。こんなところで」
昨夜、ホテルでも3時頃まで英語の勉強をした将は、爆睡していたのだが、詩織に起こされて唖然とした。
「動くのを待つ?」
詩織が伊達眼鏡の下から将に訊く。黒目がちの瞳が不安げに少しゆがんでいる。
8時には通過しているはずの郡山なのに9時30分に近いのだ……。
将は新幹線の窓から空を苦々しく眺めた。
あの、ニセコ山頂での吹雪を思わせる空は白いくせにべたっと重かった。
そして日本地図を頭の中に思い描いてみる。旭川に比べるとずいぶん……聡の近くに来ているはずなのに。
――ここまで来てるのに。
将は唇を噛み締めながら腕時計を見た。9時30分。新幹線は動くだろうか……。
しばらく悩んだ将だったが、意を決すると、ついに立ち上がった。
「将くん?」
「僕、自分で運転して帰ります」
「え?」
詩織の瞳が真ん丸くなる。
「待ってても動かないかもしれないし。レンタカー運転しながら、電車チェックして動いてるようだったら、乗り捨ててそっちに乗ればいいし」
「それで、駅でレンタカー借りたんだけど。面倒くさくて、電車チェックもしないで結局運転してきちゃった。郡山からここまで7時間掛かったよ。普通だったら3~4時間なのに」
将の話を聞いていた聡は、口をあけたまま将を呆れたように見つめていたが、やがて苦笑すると
「もう。無茶するんだから」
と将の肩を軽く叩いた。将は
「おかげで、雪道の運転が上手くなった」
と笑ったそのとき、ちょうど目の前の信号が赤信号になった。聡は慎重にブレーキを踏む将の肩のあたりに、少し寄りかかってみる。
「でも、よかった……。帰ってきてくれて」
将の肩のぬくもりが髪に伝わり、聡の心を温めていく。
すっかり暮れた窓の外は積もった雪。
積もった雪の上に、信号の赤、緑の美しいクリスマスカラーに染まりながら新しい雪の華が重なっていく。いつもの東京では見られない光景だ。
将も聡の重みを肩に感じながら幸せだった。将の中で、雪のように聡とすごす時間が静かに降り積もっていく。そんな幸せに将は浸った。
なお、詩織が一緒だったことについては、必要ないだろうと話から省いていた……。
これが年明けに大スキャンダルを起こすのだが、二人はまだそんな予感もなく、これからすごすイブの幸せの予感に早くも酔いしれていた。
