「1日に入り日を43回も眺めるほど」。
星を旅する王子様の「かなしい思い」を表現したフレーズ。子供の頃に読んだ、あの名作を将は覚えている。
だからというわけではないが、将は、この夏の間、晴れてさえいれば、海が見えるこの場所に夕陽を見にきていた。
夏の初めに「かなしい思い」をした将だから。
失恋? ……いやそもそも、恋が始まる前に、相手が将の前からいなくなってしまったのだ。
「アキラちゃんは、昨日までで辞めたの。仕事が決まってね。……今日で何回目かしらね、アキラちゃんのこときかれるの。ホラ、アキラちゃん、お客さんに人気があったから」
弁当屋の奥さんから女店員が辞めてしまったことをきいて、将は思いっきり後悔した。
――もしかして俺がドライブなんかに誘ったから…?
――あきら、っていうんだ。
……名前も知らなかったあの人。
どこに住んでるのか。何の仕事に決まったのか。もっと聞きたい。
――だが、そんな個人情報聞けるわけがない。
「山田さん、なんにも聞いてなかったの? 仲よさそうだったのに」と奥さんが気の毒そうに声をかけるほど、将は明らかにしょぼくれていた……。
それから。
あの人を乗せたくて手に入れたローバーミニで将はひとり、毎日夕陽を目指した。
都内からここまで、片道1時間30分はかかる。
あまり時間が大事じゃない将にとってそんな時間は些細なことだ。
夏休みの間、毎日のように通っていた。なんの目的もないけれど。
あの色に似た空を眺めたかった。「あきら」が最後に見せた頬の桃色。
――あのカーブを曲がれば。
濃い紫色の世界が、いきなり、金色になった。
目が慣れると白く霞んだ西の空に、舐めたら甘そうなあんず色の太陽が満月のように「のっ」と現れる。
もやのせいでそれほどまぶしく感じないが、空も海も区別なく白い世界の中で、太陽の下だけ桜貝のような波がキラキラしていた。
「よぉ、山田さん、釣れたかい?」
一人の警官――というより、こののどかな防波堤の風景もあいまって『お巡りさん』と呼んだほうがふさわしい雰囲気――が、防波堤から釣り糸を垂れる将に、自転車の上から声をかけた。
将はタバコを咥えたまま軽く会釈して
「今日はまだぜんぜん」と答えた。
「そうか、残念だなぁ。鯵のタタキで1杯やれるかと思ったのになあ」
「すいません」
一応、将は釣竿を海にたらしていた。不審者として疑われないように。
この警官は、釣れてしまった魚をどうしようか困っていた時に、もらってくれて、以来親しく声をかけてくる。
釣りのふりをして、夕陽を眺めるのは悪くなかった。
将は小学生の頃、海に近い曽祖父の家に預けられていたこともあったので、少々の釣りは心得ていた。
思えば、将はあの頃から夕陽を眺めるのが好きだったのかもしれない。
あの頃。
生みの母が死んで、海辺の家に預けられた幼い頃。そのとき将は父に捨てられたと感じていた。
新しい母は優しかったが、5年前の事件が起きて……。
あの燃えさかる火の中で将は、それまでの将は燃えてしまったのだと思う。
竿の先には夏の太陽が釣れそうなほど近くに見えていた。
そして、しばらくすると空いっぱいに浮かぶ雲が、茜色に焦がれてきた。一面が桃色に光り輝いている。
「もう夏も終わりだねえ」
照り輝く空を見上げて、警官がぽつりとつぶやく。しかしその空は、台風が近づいていることをも示している。
嵐とともに夏は終わっていくが、将の心の中のあの人…「あきら」は終わってくれない。