第13話 特別補習

聡は帰宅するなりコンビニで買ってきた缶ビールをあけてぐっと飲んだ。

――なんなの、あの山田!……じゃない鷹枝将!

今日は、本当はあのままクビになったって異存はなかった。

それをブチ壊しにした上に、放課後の特別補習という余計な仕事まで増やしてくれたわけだ。

 
 

「それにしても、古城先生は、なんで彼をあんなに頬が腫れるまで叩いてしまったんですか?」

あのあと、職員室で、先生たちが少ない時間を見計らって、多美先生から再度訊かれた。

ターミネーター顔の恐ろしい容貌なのに、むしろ聡のほうこそを心配している口調だった。

その温かい雰囲気に、一瞬本当のことを……生徒たちに上半身裸にされてしまったことを伝えたくなる。

しかし、さすがにそれを言えば大問題になるに違いない。

やった子供たちが捕まったり退学になったりするのは全然問題ない。自業自得だ。

でも、事が事だけに学校中で噂になったり、最悪ネットで内容が誇張されて、聡の個人情報までも広まってしまうかもしれない。

そんな二次被害はもっと嫌だ。

だから聡は嘘をついた。

「詳しくは言えないのですが……。その……侮辱的な発言がありまして。それでカッとして殴ってしまいました」

本来であれば、その侮辱的な具体的な内容や、なんであの場所にいたのか、などさらに詳細に聴収されてもおかしくなかった。

しかし、多美先生は、聡の様子からそれ以上のことは訊かなかった。

「次に……何か生徒から侮辱的なことを言われたりしたら、まずは私に報告してくださいね。うちはガラが悪い生徒も多いので、指導やペナルティを与えるときにも必ず相談してください」

そんな言葉からは、聡に起こったことを、うすうす感づいているのかもしれなかった。

 

将はといえば、あのあと聡以外の授業は、ほとんど寝ているか、携帯を使って株取引に専念していたという。

大胆にも教卓のまん前の席で。

その様子は授業担当から逐一、担任である聡の耳に入ってきた。

明日からそんな奴の面倒に放課後を費やさないといけないのだ。

「ああ……面倒くさい。もうやだ」

聡はビールを一気にあけてしまうと、ベッドに倒れこんだ。

 
 

翌日の放課後から、さっそく特別補習が始まった。

さらに決まったことだが、しばらくのあいだ、聡の授業は、あいている男性教師が後ろで生徒たちを監視することになった。

名目上は、聡の新人研修指導である。

そのせいで授業中生徒が騒ぐことも離席することもなくなり、やりやすくなったはずなのだが、見張られての授業は聡は逆に緊張した。

将の放課後特別補習については、二人きりで聡に万が一のことがあっては……という配慮で、こちらも多美先生をはじめ男性教師が一人ずつ教科別サポーターという名目で参加することになった。

参加といっても、教師も業務はてんこもりなので、二人を見守りながら近くの席でおのおのの業務などを行う手筈である。

困ったとき、教科別専門分野で聡に手が負えないときだけ、聡はサポーター教師を頼ることができる。

見張られての授業や補習でむしろ緊張しているのは聡のほうで、当の将は「めんどくせえ」といいながら、近くにいる屈強教師のことなど気にもしていないようだ。

面倒なのはこっちだよ、と聡はいいたい。

きいたところによると、将は高校入学以来、ほとんど授業を受けていないという。

そんな生活は中学生の頃からだともいい、何年生から遡らないといけないかわからないから、聡は小学校からの問題集を用意した。

低偏差値高だけあり、そんなものも職員室の書棚にあるのである。

「で、学校に行かなくなったのはいつからですか」

聡は念のため将に訊いてみる。

「えーと、小6? 中1? ぐらいかな」

その頃、将がグレるきっかけとなった事件――将の家が過激派から爆破襲撃された事件――があったのだが、もちろんそんなことは聡は知らない。

事情も知らない聡は、あきれて小さな声で呟いた。

「何が東大生よ……」

弁当屋で将は「東大生の山田」を名乗っていたから。

「じゃあ、とりあえずこれをやってみてください」

聡は小学校の算数の問題集を机の上に置いた。

「は? 何これ」

「つまづいたところを見極めないとね。さ、やる!」

聡は、監視の教師を意識しててきぱきとした声を出すよう努めた。

 

「出来た」

「え、もう?」

まだ5分もたっていない。答え合わせをするともちろんパーフェクト。

レベルをあげて中学生の問題をやらせてみても、問題なくできる。

高校の入試問題をやらせても、ほぼ満点とれている。

 

聡が将が解いた高校の入試問題を採点している間、将は答案を見るような角度をとりながら、聡を眺めていた。

外はよく晴れて、窓からはオレンジ色の日差しが入っている。

海にいけば水平線に沈む美しい夕陽が見られそうだが、将は夕陽を見に行くことなどすっかり忘れていた。

今の将は夕陽よりも聡の顔を見ていたい。

瑞樹が言った『キョーシが好きなの?』。

あのとき、将は『好き』という言葉に一瞬ひるんだ。

だけどたぶんそうなんだろう。

気がつけば、将はいままで一度も、自分から誰かを好きになったことがなかった。

女のコのほうからのアプローチはあまり拒まなかったから、「付き合った」コはたくさんいる。

その中には、性格のいい子もいたし、かわいいコもいた。

けれど、こんな風にいつまでも顔を見ていたい、一緒の空気を吸うのが嬉しい、と思うような人はいなかった。

――なんでコイツ(教師)なんだろ。

将は自分でもよくわからなかった。

でも識らないうちに心が惹かれている。でも芽生えた思いはたぶん……。

 

「……中学までは完全ね。学校行ってなかったのになんでこんなにできるの?」

将の意識は、目の前の聡に戻った。……視線があっていた。

視線があったとたん聡のほうは目をそらしてしまった。

「さあ。家出する前に塾で習ったんじゃない? あ、家庭教師かも」

将は、目じりを指でマッサージしながら答えた。

聡は将が、有力政治家の息子だということを思い出した。

人気・実力とも若手ナンバー1で次期総理ともいわれている現・官房長官の鷹枝康三が将の父である。

そして鷹枝家は戦後を立て直した総理をも輩出した代々政治家の家系だ。

将は、小6か中1で学校にいかなくなったという。

つまり、それまでの間に中学の範囲まで完全に習得してしまっていたということだ。

本来であれば名門の学校にいってもいいほどの家柄に学力といえるが、将は小学校も中学校も公立中出身だ。

そして小6か中1くらいで家出をした。そのころ、順調に学力を身に着けていた将を非行に向かわせるほどの何かがあったのだろうか。

聡は顔を上げて将の顔を再度見つめた。ちょうど目じりを引っ張ったところで、変な顔になっている。

笑ってしまわないように目をそらしながら……聡は知らないうちに将の過去が気になっていた。