第7話 帰宅(1)

「そこで何をしている」

将が、ボタンと携帯電話を拾い上げたとき。背後から声がした。

振り返るとその風貌から「ターミネーター」として生徒から恐れられている多美先生が準備室のドアのところにいた。

あまり学校に来ない将も、その視覚的インパクトから「ターミネーター」のあだ名だけ覚えていた。

「いえ……どんなDVDがあるのかな~と」

将は準備室の棚に並ぶDVDを見てとっさに答えた。

「……鷹枝、お前、頬が腫れてるぞ? 誰かに殴られたのか」

咎められるのかと思ったら、ターミネーターは、腫れた頬を心配してきた。

怖い顔立ちだが視線は心配げで、将は拍子抜けした。

「あ…いや、たいしたことありません」

とか適当に言いつくろって、準備室を出ようとする将に

「鷹枝、学校に来るなら、制服を着てきなさい」

ターミネーターは一般的な指導の言葉をかける。

「はい。すいませんでした」

将は素直に謝り、そそくさと学校を出た。

「さて、これをどうしようかな」

将は、手の中にある、聡の携帯電話とボタンを眺める。

 
 

聡は前を固く閉じて廊下を走って……そのままタクシーで家に帰った。

誰にも会いたくなかったが、バッグをとりに職員室に入った。

まだ職員会議のようで、教師は誰もおらず、声をかけられずに済んだ。

職員会議に後で出席すると伝えたことも、そのときは頭から抜けていた。

 

アパートの部屋のドアを閉めて、鍵をチェーンまでかけると、靴も脱がずにドアを背もたれにして玄関に座り込んだ。

ボタンが飛んだ上着は、手を離すと自然にはだけてしまう。

そのまま10分も動かなかった。

――絶対辞めよう。あの学校は危なすぎる。

聡は頭をめぐらせた。

――辞めるとなると暮らせない。

――博史さんのいる中東へ行こうか。結婚を早めてもらって。

――とりあえず実家の親に電話をして。……いや、まずは学校に辞めると言わなくては。

と、そこでやっと職員会議をすっぽかしてきたことを思い出す。

欠席の言い訳を今、電話しなくてはならない。

と、腰のポケットをさぐる。

――ない!

携帯電話がないのだ。あの騒ぎのときに落としたか盗られたに違いない。

――どうしよう。

聡は頭を抱えた。

――もうやだ。

また涙が出てくる。聡はそのままうずくまった。

盗られたとしたらどう悪用されるかわかったもんじゃない。

すぐさま、電話会社に連絡をとらなくてはならない。

しかし、長いことバイトの掛け持ちで暮らしていた聡は、連絡手段は携帯電話だけだった。つまり電話会社に連絡する手段がない。

たしか、バス停の近くに契約している携帯会社のショップがあった。

そこにいちいち足を運んで、紛失手続きをしなければならない。

聡は立ち上がると、ボタンが飛んだ上着を脱いだ。

真ん中が切れたブラジャーを見て、恐怖が蘇るようだった。

手早く着替えて、携帯の契約書類を捜して。意を決してドアを開けて外へ。

本当は「あいつら」が待ち伏せしている気がして外に出るのも怖かったのだが……。

 
 

将はさる高級住宅街にある大邸宅の前に立っていた。あたりは暗くなっている。

「将ぼっちゃまお帰りなさいませ……。あら、ほっぺたはどうなさったんですか」

将の答えを聞く前に太ったお手伝いは奥にむかって声を張り上げる。

「奥様、奥様ー!将様がお帰りになりましたよ~」

その声を聞いて奥から走り出てきたのは小学校にあがるかあがらないかくらいの子供だ。

かわいらしい顔……しかし頬に痛々しい小さな傷跡がある。

「お兄ちゃん」

「おう、孝太。……元気だったか」

「うん、お兄ちゃん、ほっぺが痛そう」

と赤く腫れた将の頬を指差した。

将には異母弟にあたる孝太は優しい性格で、言葉を覚えた頃から人のことを気遣う子だった。

「大丈夫、なんでもないよ」

くるくると孝太の頭をなでてやってると奥から和服姿の女性が駆け出てきた。義母の純代である。

「将、お帰りなさい……」

「おひさしぶりです。お義母さん」

「その頬は……またケンカなの?」

「先生に叩かれました」

バカ正直に答えた後でしまった、と思った。

義母のことなど無視しようと思ったのに。聡に関連することだから、嬉しさでつい口に出てしまった。

「大したことはないです」

とすぐさま付け加えたのだが、

「そんなに腫れあがるまで叩くなんて、酷い」

と純代は眉根を寄せた。せめて手当を、と近づこうとする純代を、将は「本当に何でもない」とすりぬけて自分の部屋へ入る。

純代はそれでも部屋の前にたち

「……お夕食は?」と訊いてくる。

「制服の予備を取りに来ただけだから」

将は事務的に答えた。

将の自室……とはいえ自宅のこの部屋で将が過ごすことはほとんどない。

高校にあがってからは、世間体を気にする父が、学校の近くにマンションを買ったので、帰るのは何かをとりに帰るぐらいだ。

引き出しから制服を取り出す。まだ新品同様だ。

「将……、うちには戻ってこないの?」

部屋の入り口で問い掛ける純代に将は何も答えず、制服を抱えると、横を無言ですり抜けた。

玄関で靴をはく将に、純代は遠慮がちに続ける。

「将、お父さんが、あなたさえ行きたければアメリカでもフランスでもどこでも留学してもいいって……」

将は立ち上がると

「やっかい払いですか」

と薄く笑った。

「違うわ、違うのよ将、あなたにあんな学校は不似合いだと……」

純代の声を背に受けながらも無視して将は門を出る。少し離れた路上に停めたローバーミニに乗り込むと、何のためらいもなく発進させる。