肺の中が痒くなるほどに響く重低音。満員電車のようにひしめく若者。
ラッシュアワーと違うのは揺らされているのではなく、それぞれが思い思いに揺れているところ。
暗い照明、稲光のようなブラックライトに浮かぶ若者たちの顔は歓喜に満ちている。蛍光灯のひらぺったい明るさに憂鬱さが充満しているような朝の満員電車とはそこが決定的に違う。
もっとも鷹枝 将(たかえだ しょう)は、朝の満員電車なんか乗ったこともない。
そして、今も。混み合ったフロアに彼はいない。
「山田ちゃ~ん」
将の猫なで声に、小柄な山田はおびえて縮みあがった。
追い詰めているのは将と少女が一人。それだけなのに、隅っこまで追いやられてしまっている。
クラブがある雑居ビルの階段の踊り場。エレベーターがあるこのビルでは、ほとんど誰も使わない死角だ。
薄暗い蛍光灯、かすかにフロアから響く重低音は汚れた空気ごと不安をあおるようだ。
「早く貸してよ。減るもんじゃないだろ」
将は首をかしげるようにして、山田を見下した。山田との身長差は顔1つ分もあるようだ。
「どどど、どうするつもりなんだ」
山田はどもりながらも将に問う。語尾の震えは止められない。
「どーでもいいじゃん。早く出せよ」
その整い過ぎた将の眉が、左右非対称に寄りだした。
「でも……」
言いかけた山田は、次の瞬間将が無表情のまま、腕を素早くあげるのを見た。
――殴られる!
喉が勝手にヒィッと鳴り、山田は思わず目をつむった。
安っぽい壁が派手な音を立てた。
「は……」
ずれた眼鏡の下で、山田が恐る恐る目をあけたのは少し時間が経ってからだ。
殴られていないのが奇跡のようだ。しかしぼやけた視界は、将の顔を意外なほど間近にとらえた。
将は山田のすぐ横に、乱暴に手をついたのだ。
「早く、っていってんの。出さないと『アレ』、ケーサツに突き出すよ。瑞樹」
将は傍らにいるまっすぐな長い黒髪の少女に顎をしゃくる。
瑞樹、と呼ばれた少女はマスカラに縁どられた大きな瞳に冷たい軽蔑を浮かべながら、ポシェットから写真を何枚か出す。そのまま山田に突き出した。
「動画もあるよ」
低い声で付け加える。
それを見るなり山田の顔色がさっと変わった。
その写真は一見、楽しそうな若者の一団が写っているだけだった。ある一点を除いては。
その一枚の中、下の方で女の子が組み伏せられていた。複数の男に押さえつけられた女の子の顔は涙でぐちゃぐちゃになっていた。
『やめてえ』と声が聞こえそうなリアルな写真。
また他の一枚では……被害者であろう半裸の女の子を囲んで、加害者一団がさも楽しそうにVサインを掲げる。
2枚を見比べれば『終わったあと』さもそれが合意だったかのように見せかけるためであるのは明白だ。そのはしゃぐ一団の中に、山田は確かにいた。
何年か前にマスコミをにぎわせた大学サークルによる集団強姦事件。
「まさか、当時の高校生が参加してたなんてケーサツが知ったら驚くだろうね。ましてや、与党幹事長のお孫さんだってわかったらね。……山田ちゃん」
完全に顔をひきつらせた山田は酸欠のように口をパクパクさせる。
「きっと大騒ぎだね」
将の後で、瑞樹も抑揚をつけずに淡々と言い放った。
息もたえだえになった山田の顔に、吐息をふきかけるほどの距離に顔を近づけながら、
「せっかく東大2年生になった、自慢のお孫さんの将来を、俺も壊したくないのよね」
と小馬鹿にしたように将は続ける。
「だから、早く免許証と学生証を貸してってお願いしてるの」
「……な、なんに使うんだ」
将は瑞樹と顔をみあわせると、悪魔のような笑みを浮かべた。
「さあ、どうしようか。闇金でいっぱいお金借りちゃおうかなー……」
「や……」
やめろ、と山田が叫ぼうとしたとき、将のもう片方の手が勢いよく飛んできた。
今度こそ殴られる!
山田は反射的に顔をそむけ、その拍子にずれた眼鏡が床に落ちた。
「心配すんな。俺、金に困ってないし」
おそるおそる目をあけた山田は、キスさえできそうな至近距離で光る将の瞳から逃れられない。テレビで見た人食い鮫のような無機質な――それでいて絶対に獲物を逃さない鋭い瞳。
「だから早く貸して。ね」
さっきより一段低い声は、最終宣告である。
山田は、震えながらうなづくと、ジーンズのポケットからブランド物の財布を出した。あまりに指が震えて、免許証と学生証を引き抜くのに苦労したほどだった。
「サンキュ。1週間、いや3日で返してやるよ」
将はそれを入手するとあっさりと山田から離れた。
山田はそのままへたりこんでしまった。しかしへたりこみながらもくやしまぎれに
「鷹枝くんのお父さんだって、官房長官だろ。ぼっ……僕が祖父に言いつけたらどうなると思ってるんだ」
と負け惜しみをつぶやく。
将はそれを聞くと、突然、山田の前にしゃがみ込んだ。山田の視界に、鋭い視線が再び切りこんでくる。
「俺、17才。アンタ20才。ケーサツ沙汰になったら困るのどっち?」
それだけ言い捨てると将は立ち上がった。
「いこ」
黒髪の少女が将の腕を掴んで、将は立ち去った。それっきり山田の方など二度と振り返らなかった。山田は頭を抱えた。
ネオンきらめく雑踏。何回か呼ばれて、将はようやく瑞樹を振り返って立ち止まった。それまではかなりの早足で歩いていた。
「将ったら。こんなの、もらって何すんの?」
瑞樹が不満そうに口を尖らせている。大きな眼をさらに見開くようにして将を見上げている。
「……俺、車ほしいんだよね」
「車あ? なんで?」
将は口の端にわずかに微笑みを浮かべただけで、また歩き出した。けれど、その脳裏にははっきりと車に乗せたい人が浮かんでいた。