プロローグ(2)

数日後、将は一人暮らしのマンション近くにある弁当屋を訪れていた。

将は、事情があって、高校生ながら一人暮らしをしている。マンションを親から買い与えられているのだ。

「いらっしゃいませぇ!……あら久しぶり」

弁当屋のカウンターにいる若い女店員が、見た目にあわない野太い声を張り上げる。将の目当ては彼女だった。

チェーン店ではない。小さなボロい店だが、安い割に旨い個人経営の弁当屋が将のお気に入りだった。

毎日のように通っていたが、ここ数日来れなかった。愛車を手に入れるべく裏工作で忙しかったから……

「中華弁当ちょうだい」
「ハーイ。中華弁当一丁」

と女店員は奥に、顔に似合わない野太い声を張り上げながら

「山田くんはいつも中華弁当か揚げ物弁当かオムライス弁当だもんね。今日は中華だと思ったんだよねー」

と軽口を叩く。張り上げないとちょっとハスキーな甘さがある低めの声。将にはすでに馴染んだ声。

「なーぜーわーかーるー」

将はオカルト口調を真似ておどけながら、読み古された漫画雑誌片手にビニールのソファに腰掛ける。

チェーン店と違って、店員と客との距離が近い。それでいて客が求めていないときは、事務的に素早く処理する。

そんな相手の空気的なものを瞬時に察するコミュニケーションスキルがこの女店員にはあった。

「今から家庭教師のバイトでしょ?」

と女店員は弁当に飯をつめながら聞いた。

「そうそう」
「東大生はいいわねー。わりのいいバイトができて」

将は、なぜかこの女店員に嘘の名前と身分を教えてしまっていた。

高校生であることを明かしたくなかったのと、彼女の気を引きたかった――無意識にそうしていた。

名前まで偽名にする必要もなかったのだが、「東大生」のウソから関連で出てきたのが「山田」だった。

将は「東大生の山田さん」としてこの弁当屋に通っているのだ。将はこの女店員ととはじめて会った日を思い出していた。




一人暮らしとはいえ、まだ高校生の将だから、家事万端は家政婦がやっていたのだが、マンションには、将の「お友達」がほぼ毎晩やってくる。

「お友達」はバカ騒ぎをして、部屋を異常に汚すので、家政婦がよく変わった。

将が風邪をひいたのは、家政婦がやめてすぐのことだった。

毎日の食事はコンビニでなんとかなったが、風邪の将は、コンビニ飯にすぐに飽きてしまった。

オニギリは薬臭く、ラップで包んであるプラスチックはレンジで温めると石油の臭いがした。

目先を変えたい、もっと体によさそうなものが食べたい……と目に留まったのがこの小さな弁当屋だった。しかしあいにく店のおばちゃんは早くも店じまいの支度をしていた。

「あの……もう終わりですか」

咳をこらえながら将は聞いた。

「はい?……ちょっと待って下さいね。店長、店長……」

おばちゃんだと思ったら意外に若かった……女店員は将に笑顔を残して、店の奥に消えた。

奥から、

――油はもう火を落としてしまいました?

――でもまだ熱いですよね。お客さんなんですけど。

と聞こえた。やがてカウンターに戻ってきた女店員は

「大丈夫ですよ!何にしますか?」

と半分閉めたシャッターの中で、注文をきいてくれたのだ。

だが、その会計のとき。

なんてことだ…お金が40円足りなかった。風邪で頭が働いていないのか、財布の中身を確認し忘れてしまったのだ。

――しまった。

将は動揺した。ポケット中をまさぐったがお金はない。

「……あの。その……お金が足りませんでした……」

そういって将はうつむいた。自分のためにわざわざ店をあけさせて弁当をつくらせたのに……。

すると女店員はにっこり笑って自分の財布を出したのだ。

「ハイ。40円」
「え」

「いいんですよ。お大事に」

そのとき将は、その女店員が、低めの声に似合わず、愛らしい顔をしていることに気づいた。今まで、どんな店でも、お店の人の顔なんて、意識したことなかったのに……。

将が翌日、40円を律儀に返しにいったのは、もう一度あの女店員に会いたかったからであることは自分でも知っている。




家庭教師のバイトなんて嘘ついちゃってたけど、これからは車の維持費もかかるだろうし、東大生の学生証も手に入ったし、本当に家庭教師やってもいいな、と将が思っていたところへ、

「ハイ!中華弁当出来!」

と女店員の声がした。あらためて彼女の顔を見る。

前髪を全部あげておでこを丸出しにして、ひっつめた髪は三角巾ですっぽり。割烹着みたいな白いうわっぱりを着ていて年齢不詳だが、キレイだなといつも思う。

丸出しにしても欠点の見つからない顔のカタチに、軽口を叩く目は優しげだ。唇は何もつけてなさそうなのに、いつもバラ色でツヤツヤしている。

袖からのぞく手首は信じられないくらい細いのに、無骨なうわっぱりの下の胸。あれはけっこうボリュームがあるんじゃないだろうか。

こんな地味な弁当屋で働いているのは不似合いなほどの美人だと、今ではつくづく思う。

「……ハイ。450円になります。お別れに八宝菜のうずらの卵、サービスで3つも入れといたよ。好きでしょ」

お弁当を将に手渡した。顔に似合わない低めの声が温かい。

「あのさ」

将は、500円玉を渡しながら、思い切って口に出した。

「俺、車買ったんだ。こんどの休み、ドライブいき……ませんか」
「……えっ?」

女店員の目が見開かれた。見開いた瞳に将が映った。

そんな風に目を見開いて自分を見つめる女店員の顔に、将はたじろいた。

たじろぎながらも目が離せない。桃みたいにピンク色の頬。とまどうほど愛らしい顔だった……たぶん年上なのに。

でも、次に続けるべき、押しの言葉にも詰まってしまった。

そのとき。将の背後でピンポーンと音がして、別の客が入ってきた。

「い……いらっしゃいませ!」

女店員は将から視線をはずすと、新しい客に声をかけて、急いで将に50円を渡した。

将はそれ以上、言葉を続けられなかった。




でも、あんな風に見つめ返されたんだから脈はある。

頬を染めてるようにも見えたし、と将は希望を持った。

しかし、翌日、わざわざ暇そうな時間を選んで、弁当屋へ再度足を運んだ将にもたらされたのは、その女店員が昨日で辞めたという知らせだった。

まだ、夏休みが始まったばかりだった。