第8話 帰宅(2)

マンションの駐車場でミニを降りた将は、腫れた頬に少しひんやりとした夏の終わりの気配を感じた。

――あいつ、明日来るかな。

将は聡を思った。なにしろ上半身だけとはいえ、辱められてしまったのだ。あんなことがあったら明日から学校に来なくなったって仕方がない。

将は制服が入った紙袋を見る。こんなのを用意したところで、無駄になってしまうかもしれないのだ。

でも……将は同じ紙袋に入れた、聡の携帯電話を取り出した。

たぶん来る。将は根拠もなく信じた。信じたかった。

 
 

自宅マンションの扉を開けたとたん、ギャハハと馬鹿笑いと共に若者の嬌声、ズン、ズン、ズンと音楽の重低音が響いた。特に気にしない。紙袋だけは自室に入れておいて、リビングダイニングへ出る。喉も乾いていた。

リビングには、いつものごとく煙草の煙が立ち込め、制服姿、私服姿を問わず、若者が男女入りみだれて騒いでいた。もう一部屋をぶちぬくリフォームを施して広くしてあるにもかかわらず、ちらかった菓子やその他で足の踏み場もないほどだった。

今日もだが、将が直接知らないやつも1/3くらいいた。将の家は帰りたくないヤツの絶好の溜まり場になっているのだ。皆、将の姿を見つけると

「ショウさ~ん」「将」「将さん」

声をかけてくる。井口が

「将、遅かったじゃんよ」

と立ち上がった。すでに酒も入っているらしい。将は「ハイ」とコンビニ袋を差し出した。そして、ソファーの、瑞樹が「こっち」と示した隣に腰をおろす。

「頬、どうしたの」と瑞樹が指摘した。

「別に」

としか答えないので、瑞樹は少し不服そうな顔をする。

そこへ、かん高い少女の声。

「将さん、このコぉ、将さんに憧れててえ」

などと真っ赤になっている少女を紹介している、その少女すら、実は将にはあまり覚えがない。あどけない顔だから中学生かもしれない。

将はとりあえず口角をあげておいた。

何を話すでもなく、くだらない話。

何を成すでもない、くだらない遊び。

そんなもので時間をつぶしている。将は場に加わりながらも、心は完全に醒めてまわりのようすを睥睨していた。

しばらくして、井口が隣に来た。

「将さ、さっきのひどくねー?」

チューハイを飲んだせいか、少し赤くなっている。

「前原、泣いてたよ。顎、病院行きだし、歯も抜けたし」

前原とは将がアッパーで顎をくだいたラテンの名前だ。

「そうそう。せっかくいいところだったのに」

と瑞樹も井口に加勢する。酒で白い頬に少し赤みがさしている。

将は何も答えず、ソファに寄り掛かるとゆっくり、井口、そして瑞樹に視線をあてた。目を心持ち細め、その瞳だけで。

その冷たい視線に二人は黙り込む。強い不快感のあらわれだからだ。

「……や、あいつもいけないんだけどさぁ」

とあわててフォローする。

瑞樹も不服そうではあるが押し黙った。……そんな瑞樹には不思議な性癖がある。

女がヤられる現場にかならずいて、面白がるともなく冷静に、少しだけ笑みを浮かべて見下しているのだという。

レイプまがいの行為を嫌う将は、現場に居合わせることはないが、伝え聞いている。

そして……だいたい理由はわかっている。たぶん瑞樹自身もそういう修羅場を経験したことがあるのだろう。

だからこそ女が同じ立場にひきずり降ろされる様子を確かめたいのだ……と見当をつけている。

将は、席を立った。

「将、」

引きとめようとする瑞樹に「風呂」と言っておく。

それを聞いたさっきの中学女子が二人つつきあって「キャー」など騒いでいる。

何もかも今日の将にはうるさく感じるようだ。

 

流れるような若々しい筋肉がついた将の裸身にシャワーが降り注ぐ。

なめらかな皮膚の中、背中から上腿にかけて、古いケロイドのような傷跡が斜めに横切っていた。5年前の事件でついたものだ。

熱い水流が、腫れた頬をひりつかせて、聡を思い出させる。明日、聡が学校に来るか、会えるかが気がかりだった。

 

「じゃ、俺もう寝るから」寝室に入る前、将はそれでも井口に一声かけておいた。

「ええ、もう~?」12時を少しまわったばかりだ。

まわりの騒ぎをよそに将は寝室に引き上げた。

 
 

 
暗がりのなか、将はセミダブルのベッドの上、ノートパソコンでインターネットをチェックする。

画面からのわずかな青い光だけ――そんな状態がとても落ち着く。

将は株をやっている。自分名義の貯金を元手に投資を続け、それで中古ではあるが、あのローバーミニも手に入れたのだ。

国内の取引は終了しているが、海外の情報も収集しておく。英語がわからなくても関連単語だけ覚えておけばなんとかなる。

寝室のドアの外からはまだワイワイ、ズンズンと音が聞こえてくる。

将は音楽をかけた。深海のように光のない室内にけだるい、つぶやきのような低いヴォイス。リズムではなくメロディをきざむベース。

その中で頬が少し熱をもっているのがわかる。

将はベッドボードに寄りかかって、暗闇に聡の姿を投影した。

――だまってやられるところ見といたほうがよかったかな。

将の脳裏に、押さえつけられた聡の姿が再生される。胸は横たわっていても柔らかそうなボリュームを保っていた。

さらに細部を思い出そうとする……代わりに肩をふるわせて泣く姿が浮かんできた。そのとき。

――コツ、コツ

ドアを叩いて、入ってきたのは瑞樹だ。

「将。あたしよ」

いい、とも言っていないのに、瑞樹は暗い部屋の中に入ってきた。

オーディオのパイロットランプのみが暗がりに赤や黄緑や青に光っている。

光はそれだけなのに、目が慣れたのか瑞樹が枕もとに腰掛けたのがわかる。シャンプーの香りがする。

夢想の邪魔者に将はあからさまに嫌な顔をしたのだが、瑞樹のほうの目は暗がりに慣れていないのか、そんな将の表情は見えていないらしい。

「バスローブ借りたよ。……こんな真っ暗にして何してるの」

「別に」

「ハイ」

何かを手渡された。掌にあたる冷たい塊。

「保冷材と冷えピタ。ほっぺた赤かったから」

「……サンキュ」

瑞樹はベッドの上に乗ってきた。今までの関係上、仕方がないので少し横にずれてやった。瑞樹は将の隣、ふれあうほどの近さに座る。

「あいつらは?」
「将がいなくなったから、酒飲みゲーム。井口も部屋にひっこんだけど」

瑞樹はさらっと言った。

グループでゲームをして負けた者が酒を飲む。一見ゲームだが、女の子を酔いつぶれさせてヤる遊びだ。今日は実はあの中学生らしき女の子がターゲットらしい。

将はまたか、と呆れた。

――そんなに女に飢えているんだろうか。

いや違う。単に退屈しているのだ。行き場のない自分の力をどこかで爆発させたいのだ。それを弱い者、女に向けている、それだけだろう。

「この音楽何? 暗いね」瑞樹が訊く。

つぶやくようなヴォーカルの音域は、日本の平均的なヴォーカリストより1オクターブも低く感じる。

煙草の吸いすぎで死んだフランスのアーチストだが、瑞樹は知らないだろうから将は言わない。ふいに明るい曲になる。

「ね、この歌エッチな歌でしょ」

「……知ってるの?」

「なんとなく勘」

勘はあたっていた。棒つき飴と少女を歌った歌詞は実はエロティックなことを暗示している。

瑞樹の白目が暗がりで妖しく光った。情を訴えるのは黒目だが、人を威圧しその通りに従わせるのは白目である。

瑞樹はベッドに深くもぐりこんだ。「やめろ」という前に、若い将の体はすぐに反応してしまった。いつもの、慣れ親しんだ快感。将は瑞樹がしたいようにさせておくしかなかった。

次の曲に切り替わる時に、扉の向こうから

「将さ~~ん」

「いや、いや~~~~」

と切れ切れに聞こえてきた。泥酔しているせいか、叫び声になっていないような、だらしない細い声だ。……でも確かに助けを呼んでいる。

「助けにいかないの?」

瑞樹が、大きくなった飴を舐めるのを止めて、ベッドの中から問い掛ける。もう少しになっている将は「……めんどくせ」と目を閉じて吐息のようにつぶやいた。

「……だよね、だよね? じゃ、どうしてさっきはあのキョーシを助けたのよ」

瑞樹がシーツを剥いでガバと起き上がった。

「いつもは黙ってるのに。おかしいよ。変だよ」

「うるさいな!」

そのことを思い出して、飴は一気にしぼんだ。

将は一度身を起こすと、シーツをたぐって集めて、瑞樹に背を向けるように再び横たわった。

「ごちゃごちゃいうなら出ていけ。俺は寝る」

背を向けた将には見えなかったが、瑞樹は信じられない、というような顔で将を見下ろしていた。

やがて不服そうではあるが「……ごめん。ごめんね、将」とつぶやくと、将の背中に寄り添って横たわった。

背中に、寄り添う瑞樹のぬくもりを感じて……将の頬は痛みを再び主張しはじめた。

あの人の痕跡。

こんな風に別の女と一緒にいる自分に、そして途中までとはいえ、寸前まで膨張した自分に……急に罪悪感が芽生える。こんなことは初めてだ。

神に許しをこうように、聡が明日学校へ来ることを祈りつつ、将は眠りに落ちていった。