第9話 登校(1) ー古城 聡ー

バイト掛け持ち時も出勤がつらかったことはある。

だけど今日の出勤くらい聡にとってつらいものはなかった。

――サボってしまおうか、無届で。どうせ辞めるんだし。

化粧をしながら何度も手が止まった。完全に睡眠不足の顔にはクマが黒々と現れていて、それを消すためにコンシーラーを濃く塗るのもかったるかった。

「ハァ……」

昨日から何度ため息をついただろうか。

 
 

昨日。聡はなくなった携帯が悪用されないための手続きと、新しい携帯を得るために携帯ショップへ駆け込んだ。

あいにく夕方で混み合っていた。結局、新しい携帯を手にできたのは携帯ショップの閉店まぎわだった。

やっと手にした携帯で、さっそく学校に辞める意向だけでも伝えようと、ショップを出てすぐ電話をかけたが、もう学校には誰もいなかった。

「ハァ……」

補償がきれていた聡は、機種変更手続きをするのに数千円がかかった。

手元のお金が少なくなったのでATMでお金をおろす。残高は少なくなっている。

もしも学校をやめるなら当面の暮らしのために定期を崩さなければならなくなるかもしれない。

「ハァ……」

残高を眺めてため息をつく。就職用に服を何着か新調したことが後悔された。

夜道が怖かったがなんとか自宅にアパートに戻ってきた。

親に学校を辞めることを連絡しようと新しい携帯を操作する手が止まる。

――だめだ。親になんていえばいいのだろう。

聡の実家は今は山口県の萩にある。父親も母親も教師だった。

そんな教師の親に、二学期が始まって3日で学校を辞めるなんて、とうてい理解されないだろう。

理解されるには、今日起こったことを伝えなければならない。

さすがに親にそれを伝えるのは、衝撃的すぎるだろう……。

「ハァ……」

親を頼るハードルの高さにもため息が出た。

警察?

学校の中の出来事を、通報できるのだろうか。いや、教師の立場なんだからまず学校に相談して。

でも辞めるんだから。辞めたら一般人だ。

……でもあのとき、カメラがあった。

通報したら、あのとき撮影されたヌードは拡散されてしまうのだろうか。

聡はぞっとした。

でも。奥歯をぎゅっと噛み締めた。

あんなクソガキ許すものか。学校を辞めたら、教師でなくなったら、絶対通報してやる。

もしもネットで拡散するなら、逆拡散してやる。あいつらの名前はわかる。

教師を襲った鬼畜生徒の個人情報なんか、全世界に流して一生を台無しにしてやる――!

ショックを怒りに変えて、聡の心はやっと立ち直ってきた。

それには。

明日、一度学校に行かなくては。ファイルを確認して、あのときのクソガキらの顔と名前を記録してやる。

しかし、どうしても明日一度は学校に行かなくてはならない、と考えると怒りの感情はしぼんで、またため息が出た。

 
 

それから。

怒りが落ち着いてくると、少なくなった預金残高が……今後の生活が気になってきた。

しかし、それは学校を辞めて博史のところにいくまではまた、バイトで食いつなげばいい。いざとなったら定期をくずそう、と結論を出す。

……でも、博史にも詳細は今は話せない。異国の地にいる彼に心配させてしまう。それを考えると辞めてからの事後報告にしなくてはならない。

「ハァ~……」

結局、一度は学校に行くことからどうしても逃げられない、学校に行かないと何も動かない……と考えるとさらに大きなため息が出た。

聡が昨日、学校を辞めるために行動できたのは、何度か失敗しながら辞表を書き上げたくらいだった。

 
 

校門近くのバス停でバスを降りると、朝練なのかすでに何人か登校中の生徒の姿が見えた。

真面目な部類なのだろうが、聡は体が固く強張るのを感じた。

――教頭に辞表を出すだけだから!

と聡は自分に言い聞かせて校舎に入る。と、職員室を見て、ハッと思い出す。

――昨日、職員会議、出席するの忘れた!

それを思い出すと、まわれ右したくなったが、そこへ

「おはようございます。古城先生」

と多美先生に声をかけられて、もう戻れなくなった。

 
 

聡は足取りも重く、教室に向かっていた。

職員会議すっぽかしの件については、他の教師もあきれているのか、皆、聡のことをじろじろと見た。

訊いてきたのは学年主任の多美先生と、隣の権藤先生だけだった。

「うっかり忘れていました……申し訳ございません」

と、どちらにもとりあえず、忘れたと言いつくろって謝る。

多美先生からは朝の忙しい時間帯なので今はいいが、後で教頭にあらためて謝罪と詳しい説明をする必要があると諭される。

教頭は仕事でどこかに寄ってからの出勤になるとのことで、辞表は出せないまま、チャイムがHRを知らせた。聡のいちばん恐れていた時間だ。

辞表を出せばガキらと顔をあわせないで済むと思ったのだが……。

聡はもともと重かった胃と頭がズキズキするような感覚に襲われた。

――教室に入りたくない。

しかし、入らざるを得ない。まだ辞表が出せてない……教師を辞めてないから。

覚悟を決めて、入り口の引き戸を開ける。

聡の顔をみるなり、昨日の悪童どもは口笛を鳴らした。

机に足を投げ出しながらも珍しく席についているが

「センセ、オッパイまた見せてねー!」

などと野次を飛ばす。

それを見て前の席のまじめそうな生徒までが「なにが起きたのか」という目で聡を見上げる。

昨日、アッパーを受けた前原まで頭から顎に包帯を巻きながら

「こんどこそやってやっからな」などと叫んでいる。

「ね、先生やっぱりヤラれちゃったのかな」

とそんな騒ぎの中、カリナはチャミにひそひそと言う。

「ええー、ヤラれたら出てこないでしょ」

とチャミ。

「でもさ、あの目の下のクマ、あれってやっぱり……」「やめなよ」

聡はキレて、出席簿をバシッと教卓に叩き付けると

「静かにしなさいッ」

と叫んだ。ちょうどそのとき。

前の入り口がガラッとあいて背の高い男が息を切らして倒れこむように入ってきた。

その顔を見てクラス中がシーンとした。「東大生の山田」……ではない、鷹枝将だった。