第5話 底辺校 —古城 聡—

「アキラさあ!処女ぉ?」

教壇に立った聡に生徒からかけられた第一声がこれである。

バカ声で質問した赤毛の男子に続いて、別の男子がすかさず「違いますぅ」と今自己紹介したばかりの聡の声色を真似て答える。

周囲の生徒は、それを聞いてゲラゲラ笑い出してしまい、初HRは収拾がつかなくなってしまった。

真面目そうな生徒も、教室の前の方の席にいるにはいるようだが、騒ぐ後方の生徒を咎めることもなく、ひっそりと心配そうに聡を見上げている……。

 
 

聡が赴任した、新江学園高校が筋金入りの底辺校だ、ということが発覚したのは、夏休みが終わって生徒が登校してからである。

聡は夏休みの間に、研修で何度か登校していたが、学校自体にはそんな片鱗はなかった。

1学年に2クラスのみと、小さな学校ではあるが、校舎もそこそこきれいだし、何しろ「ポイントキャッシュバック」制度を取り入れているだけあり、設備も整っている。

聡が初めて新江学園高校を訪れた時に、教頭が自慢気に聡に紹介したのが「全教室モニター」である。導入したばかりだというモニターは職員室の壁面にずらりと並んでいた。

「これは2学期から稼働する新しい設備なんですがね。各教室の様子を職員室から把握できます。休み時間など我々教師の目が届かない時間でも、生徒たちを監視することができるというわけです」

教頭は試しにスイッチをオンにしてみたが、休み中だけあり、どの教室のがらんとした映像が映し出される。

「映像だけでなく音声を聞くこともできるんですがね。……夏休みだから静かですね。ははは」

そのとき聡は単に感心しただけだが、なるほど、そういうシステムの必要性は、生徒たちに対面してからよくわかった。

夏休み中に、担当する生徒の顔写真付きファイルなどもひととおり見たはずだが、思えば貼ってあったのは中学時代の写真だったのだろう。

いや、そもそも職員室からして少し異様だった。

2学期初日、職員室に聡が入ると教師が一斉にこちらを見た。その視圧は一瞬あとずさりしそうになるものだった。

聡を見つめる教師群はほとんど男性で女性は聡が見る限り年配者が2人だけだった。

聡の隣の席は、比較的若い角刈りの体格のいい男性教師で権藤先生といった。彼も聡と同じ英語教師だったが

「自分は元自衛官で、イラクに派兵されて除隊しました」

などという。他の先生も自衛官かヤクザのような風貌の屈強者か枯れ果てた年配者か、さもなくば変質者と間違われそうな個性派ばかりだった。

校長は「普通の校長」だったが、初日に聡の

「精一杯頑張りますのでよろしくお願いします」

との挨拶に

「あまり頑張らなくていいよ。それより気をつけてね。それと、このご時世だから体罰はくれぐれも禁止だからね」

と意味深な言葉で応えたのだった……。

 
 

翌日の初授業もHRと同じようなものだった。というより、さらに乱れていた。

席についているのは全体の半数ほどで、あとは好きな場所へ行っている。

女子はおのおの好きな席に固まってだべっているか、一心不乱にメールを打っているか。

男子は後ろのほうの地面に円陣を組んでこれまたダベリ。ポータブルスピーカーまで持ち込んでいて音楽がうるさい。その中でゲームに興じるものあり。席を3つ4つつなげて寝る者までいる。

「席についてください」

と聡が教卓の上から促しても、完全に無視。席につくのを待っていると、

「先生、アイツらにかまわないほうがいいですよ」

「授業を始めちゃってください」

とボソッとした声。前のほうの席の一部のマジメな生徒だった。たしかにこの様子では待っていても無駄だろう。

「じゃあ、始めます」

聡は仕方なく今日のページを指定した。そのページを開くリアクションがあったのはクラスの3分の1ぐらいだった。

「それじゃ、32番の真田由紀子さん、読んで訳してください」

幸い真田由紀子はまじめそうな生徒だ。小柄で小太り、垂れ目が愛らしい。指されて、あわてて起立する。

「え、えーと……」沈黙が続く。そのとき

「先生、先生」

と、小さな声。声は一番前の丸刈りの少年だ。野球少年だろうか。それにしては日に焼けていない。

「いつもは、先生のほうで読んで訳してくれるんです。僕らはそれを写す感じで」

「ああ、そう」

中学レベルが大半の生徒に高校2年の内容を予習して来いといっても無理なのかもしれない。聡は納得して

「じゃあ読んで訳しまーす」

その聡の英語朗読に、騒がしい教室が一瞬静かになった。前のほうのマジメな生徒もポッカーンと口を開けている。ヒュー、と後ろから口笛が鳴った。

「ガイジンみたいじゃん!」

「カッケー!」

「もっとゆっくり読まないとわかりませーん!」

確かに聡は、子供時代を外国で暮らしたこともあるし、留学経験もある。英語はたしかに流暢だが……。

生徒たちは机に乗っけた足をバタバタさせたり、大騒ぎになってしまった。

 

他の教師はどうなんだろうと、聡は空き時間に窓から授業をのぞいてみた。

すると聡の授業ほどひどくはなく、少なくとも生徒は自分の席についていた。

やはり新人だと思って舐められている――聡は悔しかった。

だから次の日の授業では、聡は意を決して、後ろで円陣を組んでいる一番騒がしい男子のほうへつかつか歩いていった。

ヒップホップ系の音楽が、外の大雨に負けない音量でズンズンとリズムを刻んでいる。そのスピーカーの電源コードを、何も言わず引っこ抜く。

音楽が途切れ、男子の群れは、仁王立ちで立っている聡を見上げた。

「席についてください」

できるだけ静かな調子で言った。

聡の足元にいた男子がだるそうに立ち上がった。それはにょきっと生えるようだった。

いつのまにか聡を見下ろしていた。身長165センチの聡より頭1つ分も背が高いように見えた。

顔面が、また高校生とは思えない。細く整えた眉じりには輪っかのピアスがぶらさがっている。鼻にも金色の丸いピアス。下唇の下に大きなニキビがある、と思ったら、それも丸いピアスだった。

髪は金髪のマカロニ。根元が汚らしく黒い。

腫れぼったい瞼の下で般若の目を押しつぶしたような目が非論理的な眼光を放っている。たしか、ファイルで見た名前は、井口春樹。写真より格段にガラが悪くなっている。

盛り場にいるヤバイ兄さんそのものの姿に、聡はふるえを堪えた。

いつのまにかクラス中が、シーンとして、なりゆきを見守っている。雨音だけが教室に響く。

「おまえ、犯すぞぉ」

怖い顔とセリフに似合わない間延びした口調だった。足元にいる仲間の男子が下品に笑う。

これでひるむわけにはいかない聡は怒鳴った。

「静かにしなさい!……これ以上、騒がしくしたら、授業妨害で100ポイントずつ引きますよ!」

フン、と鼻を鳴らして、顔面ピアス男はまた座り込んだ。

聡などそこにいないように、スピーカーの電源コードを入れなおさせ、またもとどおり、だべり始めた。

前のほうの生徒は心配そうに聡を見ていた。

――これ以上、のさばらせるわけにはいかない

聡は職員室へ戻ると、彼らのポイントを本当に100ポイントずつ減じた。しかしそれは、絶対にやってはならない禁じ手だった……。