次の瞬間、将は窓を軽々と乗り越えて校長室に入ってきた。
「将」
純代はソファから立ち上がった。
「これは、俺が悪いんだよ」
将は自分の腫れた頬をぴしゃんと叩いた。
「俺が、先生を押し倒そうとしたんだ。で、抵抗されて引っぱたかれたんだよ」
校長も、教頭も、婦人も、聡もあっけにとられた。
「あ、先生の名誉のためにいっとくけど、未遂だから」
将はそういいながら、聡をチラチラと見た。どうやらアイコンタクトをしているようだ。
「古城先生、本当ですか?」
校長が眼鏡を指で支えながら確認する。
「違います。彼はそんなことはしていません」
聡は即座に答えてしまった。将が「ええっ」という表情になる。
将は自分が乱暴しようとしたことにして、聡が殴ったことを正当化させようとしたようだが、本当は、将はむしろ助けた側だ。
いくら学校一の問題児だろうと、自分の嘘で生徒を貶めるわけにはいかない。
「……私は学校を辞めたいと思います」
聡はこれぞチャンスと、辞意を表明した。
「何言ってんだよ、俺が悪いんだよ。俺が先生を視聴覚準備室で襲ったんだってば! ……俺がそこにいるの見たよな、タミー」
将は聡の傍らに立つ多美先生に訴えた。
多美先生は昨日、一人で視聴覚準備室にいる将に、たしかに声をかけた。頬が腫れているところも見ている。
「ん……そうだな」
多美先生は将と聡をかわるがわるに注意深く観察しているようだった。
「多美先生、本当ですか?」
教頭が多美先生に訊く。
「はい。確かに視聴覚準備室に鷹枝が一人でいたので、私服での登校を注意しました」
「何か変わった様子はありましたか?」
「頬が腫れていました」
「だから、あそこに連れ込んでヤろうとして。抵抗されて引っ叩かれたんだよ」
多美先生を問いただす教頭に将が割り込む。「ヤる」という言葉に校長と純代が眉をひそめた。
「違います! 鷹枝君はそんなことしてません!」
聡はムキになった。
「じゃあ、何で鷹枝君を叩いたんですか?」
教頭は聡に向き直った。
「それは……」
聡はいいよどんだ。まさか複数の生徒に乱暴されかかったと、そんな大事件を告げる覚悟はまだできていない。
「確認しますが、鷹枝君を叩いたのは古城先生ですよね」
「……ハイ」
正直に認める聡に、将は顔をしかめると、誰もに聞こえないように小さく舌打ちした。
――バカか? 俺のせいにしとけばいいのに。
多美先生は将と聡のようすをじっと観察していた。そしておもむろに将に向き直って訊いた。
「鷹枝くん。君は本当に古城先生に……乱暴を働こうとしたんですか?」
「そうだよ」
「違いますってば」
多美先生はそんな聡の反論を遮って
「古城先生はだまっていなさい……。お母さん、鷹枝くんのほうにも非があったようですね」
「え?……ええ」
純代も、教師を暴行しようとした、という息子自身の告白の前には何の言葉もない。
「ただ、古城先生にもやりすぎた面があったことは我々も否めません。……そこでどうでしょう、我々のほうで古城先生と将くんにそれぞれに適切な指導を与えるということで、ご納得いただけないでしょうか」
「……わかりましたわ」
「校長、教頭、それでいいですよね」
「そうですね。この件は多美先生に任せましょう」
純代は深くお辞儀をして校長室を辞した。
純代がいなくなると教頭は
「さて、二人の処分だが……」
と切り出した。
「だから、先生は悪くないっていってるだろ!」
「何いってるの、嘘ついて!」
「二人とも、だまりなさい!」
教頭が怒鳴った。
「鷹枝くん。今回の処分としてこれから、毎日登校、放課後は遅れている分、補習」
「ええ~」
将は顔をしかめた。
「今までずっと欠席していた分として当然です。そしてその管理指導は多美先生、お願いします。古城先生には担任教師としてサポートをお願いします」
将の顔がパッと明るくなった。反面、聡の眉があきらかに曇った。
「……私は辞職したいんですけど」
聡は低い声で教頭に訴えてみた。すると教頭は
「もう一度、聞きますが、鷹枝くんは古城先生に何もしてないんですよね。……もしも【何か】あったなら処分を変えないといけませんが」
と確認してきた。聡は一瞬黙った。そして将の顔を見る。
本当は、こんな学校、絶対辞めたい。でも、この流れでは、自分が生徒たちに襲われたことを告白しなければ、辞意は認められなさそうだ。でも……。
「……鷹枝君は、何もしてません」
――やはり、無実の生徒に濡れ衣をきせるなんてできない。まして危ないところを助けてくれた生徒に……。
聡は、ため息をついてうつむいた。
「ならば、体罰に対して責任を感じているのなら、辞職という形ではなく、全力で指導にあたってください。……これでいいですよね、校長、多美先生」
校長も多美先生もうなづいた。多美先生は
「そうですね。鷹枝は、今回のことをきちんと反省しなさい。それからちゃんと登校すること。いいな」
と将に向き直った。
「はい」
将は素直に返事しながら、わざとらしくピシッと姿勢を正した。
そこで、1時間目の授業終了を告げるチャイムが鳴る。
「じゃあ鷹枝くんは教室に戻りなさい。多美先生と古城先生は、さっそく補習の準備をお願いします」
教頭は3人を促した。
将は、ブスッとした顔で多美先生の後に従って校長室につながった職員室へと消える聡を見送ると、自分も校長・教頭へぺこりと頭を下げて廊下へ出た。
「これでいいですよね、校長」
3人が校長室を出ていってしまうと、教頭は校長を振り返った。
「上出来、上出来です」
教頭も校長も、さっきからの顛末を見ていて、将が聡を気に入っていることに気付いていた。
次期総理も噂される政治家の息子である鷹枝将だが、めったに出席せず自主退学されてしまう危険性が常にあった。
聡がいれば、登校意欲を促進させて、卒業させることができるかもしれない。
鷹枝将が卒業生に名を連ねることはこの学校に大変なプラスになる。それを期待しての今回の措置であった。