第16話 休日(2)

聡はため息をつくと、観念してドアをあけた。

「ちょっと、なんなの?」「センセイ、お昼買ってきた。ハイ」

突然の来訪への迷惑さを口にしようとしていた聡だが、突き出された白いビニール袋に意表を突かれる。……聡が前にバイトしていた店のお弁当だ。

「もう昼だし、お腹すいてるでしょ」とニコニコしている。

「渡したいものって、これ?」

「ちがーう。他人の家を訪問するときは、手土産持っていくというマナーです。あがるよ」

将はビニールを聡に渡すと、強引に玄関に入り込んでもうスニーカーを脱いでいた。

「ちょ、ちょっと山田さ……鷹枝君」

聡がとめる間もなく、将はずかずかと聡の部屋に入ってしまった。

「ふーん、ここが先生の部屋か。結構お洒落にしてるじゃん…て、先生寝てたの?」

将の視線の先には、寝乱れたベッドと脱ぎ捨てたタンクトップなどがあった。

聡はあわてて掛布団を整えて、それらを隠した。

「ごめんねー。起こしちゃって」

といいながら、将はどっかりローテーブルの前に腰を下ろしている。

「ちょっと……」「先生、辞めるなよ」

突然の来訪と部屋に入り込んだことを抗議しようとしていた聡は、また遮られた。

ローテーブルの上にある辞表。将はそれを手にしていた。

「は? つーか」

聡はギョッとして、将の手から辞表を奪い取った。

「いきなり来るとか迷惑なんだけど!それにだいたいなんでここがわかったの?」

おさまりがつかなくて、聡は怒ってみせるしかなかった。

「コレ」

将がポケットから出したのは聡のなくなった携帯電話だった。

「……あんとき、あそこに落ちてた。何度も渡そうと思ったんだけどチャンスがなくてさ」

聡は携帯電話を手に取って開いてみる。待ち受けのお盆に撮影した博史の浴衣写真が飛び込んできた。聡が気に入っているものだ。

新しい機種に変えたとはいえ、思い出の写真など、この携帯の中にしかないデータもあった。聡にはかけがえのない思い出の1シーン。

(※2019年注釈:この物語の舞台である2006年頃の携帯電話は、スマホのようなデータまるごとクラウドにバックアップするような機能はありませんでした)

「悪用はしてないから」

「……ありがとう」

もう二度と戻ってこないと思っていたから、聡は嬉しさから素直にお礼の言葉を口にしていた。そして再び視線を博史に戻した。

「それ、彼氏?」

「うん」

「やっぱり、彼氏か、そっかあ~」

そのとき、地鳴りのような音が部屋に響き渡った。

「やべ」

将が腹に手を当てて苦笑いした。そんな将に聡は怒る気が失せた。
それに、聡もちょうどお腹がすいたところだった。

「お茶持ってくるわ。ウーロン茶でいいよね」

聡はキッチンへ立った。

 
 

「いただきます」と箸を割って以来、二人とももくもくと食べている。

聡がバイトしていた弁当屋は、材料もいいし、つくり置きなんかしない。

職人気質のご主人が手抜きせずにやっているからどのメニューもとても美味しい。

しかし、将はリラックスしているように見せかけて……実は緊張していた。

押しかけてしまったけど、あの「あきら」の部屋。

しかも、すでに男がいるという。

積極的に押すつもりでここに来たのに、どうふるまっていいかわからない。

聡は聡でやはり緊張していた。

何か話さないと、と頭の中で必死で話題を探していた。

こんな狭い部屋で二人きり。しかも将が背もたれにしているのは聡のベッドだ。

何か話さないと、沈黙が彼に何かをさせそうで……。

口火を切ったのは聡の方だった。

「鷹枝くんってさぁ、なんで学校ずっと休んでたの?」

「行きたくなかったから」

会話のとっかかりを与えられた将は即答する。

「お父様って、今の官房長官、だよね……」

「そ」

「……お母様はあれから?」

「知らない。俺、家出てるから」

そうだった。そうでもなければ、あんな風にしょっちゅう弁当を買いにくるはずがない。

「……お弁当、よく買いに来てくれてたよね。そうだ、嫌いな食べ物とかある?」

「そーだねぇ、あんま、ない。あ、殻をむくようなものとか面倒。カニとか」

「そうなんだ。……身長何センチ?」

「182」

「あ、制服、注文した?」

「した」

――なんだ? この違和感。

将はポンポンと繰り出される質問に答えながら思考はだんだん冷静になっていった。

会話が続いているようで、実は続いていない。

まったくツギハギの脈絡のない質問の連続……それで将はやっと気づいた。聡が自分を警戒している可能性に。

とたんに一生懸命話題を紡ぎだそうとする聡が可愛く見えてきた。ずいぶん年上だろうに。

「……あのさ先生、俺、先生を襲ったりしないよ」

「いや、そんなつもりじゃ……」

聡はうつむいた。図星のようだった。それで余裕が出てきた将はあらためて部屋の中を見回す。

「彼氏、リーマン?」

飾り棚の上の博史の写真を指差した。

「そうだよ」

「付き合ってどれぐらい?」

食べ終わった将は、立ち上がると博史の写真に近づいて眺めた。

「3年、もうすぐ4年ぐらい?」

将が席を立って少し気が緩んだのか、聡は食べながら答える……博史のことが話題にのぼっていればとりあえず安心な気がしている。

「結婚しないの?」
「ん。今海外に行ってるから……」

「へー、そー、なんだ。彼氏いくつ?」
「33歳」

将は17歳の自分の倍近い年齢にあたる男の写真をもう一度見た。

「俺のほうが全然イケメンじゃん」
「……そうお?」

遅れてやっと食べ終わった聡は、コップのウーロン茶を飲みながら、あいまいに返事をした。

実際のところ、より『イケメン』なのは将なのは聡も同意だ。

スラリ、という形容がぴったりな長身は、彼がいるこの部屋の天井を低く見せている。

流れるような筋肉のついた体、今時流行りのちょっとボサボサの髪型に相反して整った顔。

―――本当に俳優かモデルやれそう。

聡が少しのあいだ将に見とれていたのを、将本人は残念ながら気づいていない。

「よし、やろか」

将は振り返ると、聡の目をまっすぐに見て、唐突に宣言した。

「え、何をっ!」

聡は心臓が止まりそうになるぐらい驚いた。

聡が危険な想像をしているとも知らず、将はデイパックから教科書を取り出した。

「勉強。俺、英語苦手なんだよね」

聡はいろんな想像をした自分を恥じた。
それをかくすため、ウーロン茶を一気に飲み干した。

おかげで、何で休日にまで勉強に付き合わないといけないのか、抗議しそびれた。

 
 

勉強の時間になって徐々に冷静さを取り戻した聡は、勉強をする将を観察していた。

英語が苦手というのは本当のようだった。

小学校の低学年のときに習い事でやったきりとのことで、中学1年の後半からやり直さないといけない。

ただ覚えた単語をつづるのだけはすごく早い。

アルファベットもきれいだ、というより書き慣れている。訊くと、父が外交官だった関係で6歳までパリの幼稚園にいっていたという。

「外国育ちなんだ!……じゃ、フランス語できるの?」

「使わないからほとんど忘れてると思う。英語はぜんぜんダメだし」

「日本へはいつ帰ってきたの?」

「小1。親父が選挙に出ることになって。はい、できたよ」

将は問題集の例題を差し出した。その瞳に一瞬、暗い影がよぎったのに聡は気付かなかった。

「パーフェクト!……本当に頭がいいのね」

「ふっ」将はニヤリと笑った。

苦手とのことだったが、文法を理解するのは早く、応用問題などもそつなくできてしまう。

「この調子なら、ちょっと頑張ったら、本当にすぐに追いつけるよ、鷹枝君」

「そうだ!」

将は唐突に声を出して、聡を見据えた。

勉強しながらも、頭の半分でずっと考えていたことを、勇気を出して口にする。

「ね、追いついたらさ、俺とデートしてよ」

「は?」

唐突な提案に、聡はきょとんとしている。

「そしたらもっと頑張るからさ。ねー?」

「何いってるんだか」

一笑に付そうとしている聡に食い下がる。

「モチベーションあげるためだって」

「ダメ」

聡はおかまいなしに断言した。

「じゃ勉強しない」

そんな気はないけれど、反射的に交換条件のようなセリフが出てくる。

聡の瞳が鋭くなる。

「勉強しないならしないでかまわないよ。そもそも勉強は自分のためにするものでしょ」

正論を突き刺されて、将は口を尖らせた。

――可愛いのに可愛くないっ!

「でもさ、励みがないとモチベーションあがんないよ。センセイと一緒に遊びにいきたいな~」

将は甘えた口調でなおも訴えた。そんな態度をとる自分が初めてで、自分自身に驚いている。

「ふっ、励みねえ……」

聡は鼻で笑うと、頬杖をついて将へ視線を流す。

――そういえば、この子、前に「ドライブ行きませんか?」とか誘ってきたんだよね。

そんな記憶が、聡の脳裏によみがえる。

と、将は立ち上がった。

大人っぽい流し目をこちらに向けられて心臓が落ち着かなくなったのだ。

聡といると、調子が狂う。

どうしていいのかわからなくて、喉の渇きに気づいた将は、勝手に聡の冷蔵庫を開けた。缶ビールが並んでいる。

「あ、コラ!」

聡の抗議もよそに、缶ビールを取り出すと、プシュと開ける。

んぐんぐんぐ……、ぷはーっと気持ちよさそうに息を吐き出すと

「だから、勉強のご褒美」

いたずらっぽく笑ってみせた。

「もう……」

その悪気のなさに、聡は注意してやめさせる立場であることを簡単に忘れてしまっていた。

気が付くと勉強を始めて1時間半以上経過している。

9月の昼下がり、気温もあがりつつある。

小休憩にすることにした。

 
 

で……うまそうに缶ビールを飲む将に、聡は負けた。

教え子の前で、とも思ったが、結局聡も冷蔵庫からビールをとりだして一気に飲んでしまった。

喉から胸へ爽やかな道ができたようだが、しばらくするとよけいに暑く感じられてきた。

冷房をいれるのももったいない気がしたので扇風機を稼動する。

「さ、やりましょ!」

「何を?」将がしらばっくれる。

「お勉強」

「もういいよ。疲れた。先生がデートしてくれないなら適当でいい」

将は寄りかかっていた聡のベッドに肩から上をつっぷした。ビールでけだるくなったのだろう。

それは聡も同じだ。

昨日までの疲れなのか、ビールが急に効いてきた気がした。

酔ってるわけではないけど、やたらにけだるい。

「……じゃ、こうしましょ。中学3年分。次の金曜までに覚えられたらデートしてもいいわ」

けだるさが、聡にありえない提案をさせてしまった。

「本当!?」

飛び起きた将を見て、聡は我に返った。

しかし目をキラキラさせている将をまのあたりにして、なぜか言葉を取り消せなかった。代わりに条件を追加する。

「ただし、超難関高校の入試問題から抜粋してテストの問題をつくるから、それで全教科90点以上取ること」

「よし、やるやる!」

超難関高校、全教科90点ととてつもない条件を追加されても将はまったく臆する気配がない。

腕まくりせんばかりにローテーブルに向かい、続きを始めた。

その変貌ぶりというか猛勉強ぶりはすさまじかった。

さっきまで聡がひととおり口頭で説明してから問題をやっていたのだが、挙句の果てには

「説明はもういいよ。わかんないとこだけ呼ぶから好きなことやってて」

と言い出した。自分で読んだほうが早い、ということだろう。

一心不乱とはまさにこのこと、とばかりに将は集中して勉強していた。

そんなにしてまで彼氏のいる自分とデートしたい将。聡は彼が理解できなかった。

―――頭はいいけど、どっか変。

―――てか、自習するんなら自分ちでやればいいのに。

それでも、聡は将が勉強している間、邪魔しないように、少し離れたところで、

ベッドに寄りかかって学校で配られた資料を読んだり、雑誌を読んだりしていたが、さっきのビールも手伝ってうとうとし始めた。

―――教え子が頑張ってるのに寝ちゃいかんだろ。

と踏ん張ったが、ついに意識は彼岸の彼方へ連れ去られた。

 
 

「よし!……先生、文法、2年の範囲まで終わったよ」

将は聡を振り返った。聡は胸から上をベッドに預けてすやすやと寝入っている。

「先生?」

呼びかけても反応がない。口の端に笑みを浮かべて、いかにも幸せそうな寝顔。

1つにまとめた髪のこめかみのあたりで栗色の髪がほつれている。

閉じた瞼をふちどる長い睫。ビールのせいなのか、少し上気した白い素肌、ばら色の唇。

上からはTシャツの襟の下に息づく胸の谷間がのぞいている。

扇風機の回る音だけが、午後の部屋に鳴り響く。

沈黙は将に『眠れる森の美女にくちづけを』と甘く誘った。

将はそっと自分の顔を聡の顔の上に重ねた。

 
 

あと1センチで唇が触れ合う、というところまで接近したそのとき。

「……博史さん」

聡は確かに眠っていた。

近づいた将の熱い体温は、眠れる聡に他の男の夢を見せたのだ。

将は、聡のそばから身を起こすと、今一度、棚の上の写真の中の博史を睨んだ。

しかし、夢の中の男相手では、将はぎゅっと奥歯を噛み締めることしかできない。