今日は聡にとっては運が悪いことに1時間目が英語だった。HRから直接授業に移ってもよかったのだが、聡は一刻も早く教室から抜けたかった。
しかし、職員会議をさぼった形になっている聡には、今朝の職員室は針のむしろのように感じられた。まだ教頭はいないようで辞表も出せない。
聡は職員用トイレの個室でため息をついた。
「将、朝から学校に来るなんてどうしたのよ」
瑞樹がわざわざ一番前の将の席にやってきた。将の登校はいつも(というほど学校に来ないが)、正午近くや午後にちらっと顔を出すぐらいだったのだ。
自分の席に、瑞樹の長い髪の端がかかるのを、隣の丸刈りはさも迷惑そうに眺めていた。
「別にいいじゃん」
「……将さ、あのキョーシが好きなの?」
「……なんで」
将は実は小さく動揺したが、それは表面になんとか出さずにさりげなく問い返した。聡への思いを瑞樹に知られることを恐れたのが原因ではない。
『好き』という直接的な単語に少し怖気づいたのだ。
「だってさ、昨日だっていいところで助けちゃうし……」
「俺は前から言ってただろ。ああいうのはよくないし。それに、黙ってる奴ばっかじゃないし」
「でもぉ」
そこでチャイムがなる。瑞樹は不満そうに後ろに戻っていった。
1時間目の授業が始まった。聡は重くなる足取りを「辞表を出すまでだ」と奮い立たせて再び教壇に立った。
不思議なことに今日は、生徒全員がちゃんと席についていて、聡は逆に緊張した。後ろのほうの悪童連中も、席についており誰も騒いでいない。
理由は生徒たちの視線ですぐにわかった。鷹枝将だ。教卓の目の前の席にいる将の動向を皆が見守っているのだ。
鷹枝将は……教卓のほぼ真下から聡を見上げていた。
聡はたじろぎそうになったが、将の机に教科書もノートも出ていないことに気づき、
「鷹枝くん、教科書は?」
と思い切って声をかける。将は悪びれもせず「持ってません」と答えた。将は手ぶらで登校したのだ。
将は、すぐに隣の丸刈り・兵藤憲一に小声で「教科書見せてくれない」と頼んでいた。
兵藤は少し嫌そうな顔をしたが、仕方なさそうに机をくっつけると将に教科書を見せてくれた。
後ろの方の悪ガキ、特に金髪ピアスだらけの井口などは、あっけにとられて口をぽかんとあけて将の様子を見ていた。
ようやく授業に入る。……この学校で、こんなに静かなのは初めて、という中、聡は教科書を朗読した。
筆記用具すらもたない将は、何をメモするでなく、教科書を朗読する聡の姿を見上げていた。
低めの声は、まるで外国人が話しているようになめらかだ。
それでいて、学力に劣るこの学校の生徒にもわかるようにゆっくり、1センテンスずつ、わかりにくいところは繰り返している。
――帰国子女か? じゃあなんで弁当屋でバイトしてたんだ?
将は、聡についていろいろと想像してみる。
将はくっついた机の隣の丸刈り・兵藤から甘酸っぱい香りがするのを感じた。覚えがあるどちらかというといい香り。
「お前んち、寿司屋さん?」
将は熱心にノートに何かをしこしこと書いている兵藤に小声で話し掛けた。リーディングしかしていないはずなのに、兵藤はなにやらノートにしこたま書き込んでいた。
兵藤は一瞬びっくりした目をして将を見たが「授業中ですよ」と下へむきなおった。
「鷹枝くん、ノートは?」
聡はリーディングをとめる。
「ありません。……ちょっと、ノートちょうだい」
将はまた兵藤に頼んだ。兵藤はさも嫌そうに後ろのページを破って将に渡した。聡は再びリーディングに戻る。
「シャーペンも貸してよ」
こそこそと将は兵藤に要請する。
「赤ペンしかないよ」
「赤~? お前使ってないとき貸してよ、今板書してないのになんでノートとって……」
将がノートをのぞきこむと、聡の口頭の説明から、発音時の特徴や真似の振りがな、独自の注意まで細かく書き込んである。
「すげ!すごいなあ」思わず将の声が大きくなる。
「鷹枝くん」
聡が読むのをやめて、将を睨んだ。
「お前のせいでまた怒られたじゃないか」
将は小声で兵藤に毒づいた。すると丸刈りは手をあげて
「センセイ、鷹枝くんが鉛筆忘れたそうです」と発言した。
聡は無言で、胸ポケットに刺していたボールペンを将に渡し、リーディングを進める。
「センセイ、サンキュ!」
ボールペンには聡の胸のぬくもりが残っている。将は自分の胸も温かくなるのを感じた。
井口は瑞樹に
「なあ、将ってさ、あーいうキャラだったっけ?」
と耳打ちする。
瑞樹は、無言だった。ただ、不機嫌そうに一番前の将の背中を見つめた。
やっと普通の学校のような、平穏な授業風景になったと思われたそのとき。
教室の前の扉があいて、学年主任の多美先生が顔をだした。
「古城先生、ちょっと。至急校長室へ来てください」
授業を中断しての呼び出し。聡は応じながらも、多美先生の顔をみて、自分が辞めようとしていたことを思い出して……激しく動悸が始まるのを感じた。
すこしざわつく教室に多美先生は「残りの時間は自習するように!」と生徒に言い渡し聡をうながした。
廊下をいく多美先生は何もいわずに足早に聡の前を歩く。
聡は職員会議すっぽかしの件で注意をされるのかと思っていたが、だとしたらそんなに重大なことなのだろうか。
多美先生は校長室の扉をたたいた。
「失礼します」
扉を開けると、そこには上品な和服姿の婦人がソファーに腰掛けていた。校長と教頭がその対面に腰かけている。
「古城先生をお連れしました」
多美先生が告げると、
「……まあ。こんなお若くておきれいな方が……」
と婦人は心底驚いたように目を見開いている。
しかし突然授業を中断させられて連れてこられた聡には何のことだかわからない。職員会議すっぽかしの件ではないということだけはわかった。
「こちら鷹枝君のお母さまだ。……古城先生、昨日、鷹枝君にひどい体罰を加えたそうですね」
教頭の言葉に、聡は「あっ」と声をあげそうになった。
昨日、視聴覚準備室で生徒たちに裸にされた屈辱が蘇り、頭に血が上る。
あの時突然、鷹枝将が入ってきてそんな状況の聡を助けた。なのに気が動転していた聡は、仲間だと思って力いっぱい叩いてしまったのだ……。
「で、君が鷹枝くんを叩いたのは事実なんですか?」
多美先生が訊く。
「ハイ」
聡はうなづいた。
「こ、困るんですよ、あれだけ体罰を禁止していたのに……」
と校長は弱りきっている。
「鷹枝君は、頬が腫れあがったそうじゃないか。どういう指導をしたんですか」
と教頭。
「……申し訳ございません」
聡は、自分は被害者だと反論したくなったが、動転して叩いてしまったのは事実なので謝った。
「謝ってすむ問題じゃありません」
上品そうな顔からは意外にも婦人……鷹枝将の母・純代はくいさがる。
「こんな若い先生が、息子に怪我をさせるまで叩くなんて、おたくの学校はいったいどうなっているんですか?」
「は、あの、古城先生は臨時教員でして、それで……」
「臨時教員に大事な息子の担任をさせていらっしゃるの?」
「は、はぁ……」
校長も教頭も恐縮しきってしまった。多美先生も困っているようだ。
「こんな未熟な教師がうちの息子の担任だなんて、とんでもありません。すぐさま替えてください」
純代は強い調子で訴えた。それは命令ともとれる口調だった。そのときだ。
「その必要はねえよ」
その声は窓からだった。鷹枝将だ。将が校長室の窓から顔を出しているのだ。