「俺、叩かれるようなことしたっけ」
血を手の甲でグイとぬぐいながら将は、聡に向きなおった。
はたかれた頬がジンジンする。頬の痛みは、将にはすでに懐かしい母親の記憶を思い出させた。将を産んだ本当の母親の……。
『将!遅くまでどこに行ってたの!心配したのよ……』
しかし今、将に強烈な平手を食らわせたのは、将が助けた女だ。そして将の心にいた女。
あの弁当屋の女店員「あきら」。
今はあの優しくて親し気な瞳はなく、涙に濡れた瞳のまま将をにらみつけている。
それでも将は見とれた。
弁当屋のときのひっつめた色気のない髪型ではない。柔らかそうな髪にふちどられた顔はさらに愛らしかった。
「触らないでっ。アンタもあいつらの仲間なんでしょ」
ナーバスになっているのか、言葉を投げつけながらも声は震える涙声だ。
将が否定する前に「あきら」は、靴を奪いとり、履くのももどかしく、走り去った。
カッカッカッカッカッ……
走る足音が遠ざかる。
黄昏の中に、将は一人取り残された。
「あきら。あれで教師かよ」
頬がまだジンジンと痛んだが、まったく腹が立たない。それどころかなんだか笑いがこみ上げてきた。
将は、あられもない姿で組み敷かれていた「あきら」を思い浮かべて、その場所に目をやった。そこに何かが落ちている。
飛び散ったボタン、そして携帯電話だった。
弁当屋の女店員・古城聡(こじょう あきら)が、かつて通っていた大学の教授に呼ばれたのは、夏休みシーズンの直前だった。
私立高校の臨時教員の募集があるので、推薦したいという話だった。
「行ってくれるね? ……面白い取り組みをやってる学校なんだよ」
教授は聡に資料を渡した。聡は資料を手に取った。
新江学園高校という名前のその学校の平均偏差値は37。はっきりいって底辺校である。ただ底辺校にしては中退率が異常に低いのが他の学校と比べて変わっていた。
教授によれば、この学校の一番の特徴は『卒業キャッシュバック』だという。無事に卒業できたら、生徒に入学金の一部が返されるというのだ。
最大で半分、額にして十数万円が、親ではなく生徒本人に支払われる。
地方の公立進学校出身である聡は、きちんと卒業するなんてアタリマエじゃないか、とも思ったが、この中退が多いご時世としては、画期的アイデアなのかもしれない。
教授の説明に聡は、とりあえず興味深そうにうなづいて見せた。
教授はさらに続ける。
そして、卒業の判定に使われるのが『ポイント評価システム』である。アメリカの最新システムを参考にしたという。
内容はこうだ。
新江高校に入学した生徒は一定のポイントをまず与えられる。
遅刻、無断欠席、授業妨害など問題行動を起こした場合、注意に従わないとそこから規定のポイントが引かれ、ゼロになった時点で退学になるという。
さっぴくばかりでなく、成績優秀者やスポーツ優秀者、その他学校のためになるようなことをやった者には加算もされるという。
現在の自分のポイントは、携帯やインターネットでも確認できる。
そんなゲーム感覚も生徒にウケているのかもしれない。
「……とまあ、そんな風に新しい教育に意欲的な学校なんだよ。臨時教員とはいえ、パワーとアイデアがある人材を、という打診があってね。それで古城君をぜひ推薦したいんだ」
と教授は聡を持ち上げたが、その辺は聡は割り引いた。一年の途中での臨時教師ということは、産休か何かで人手が足りなくなった、ということだろう。
つまり、人材に困ってる底辺校への就職話ってことだ。
とはいえ、弁当屋のバイトと塾講師のバイト、2つのかけもちで生計をたてている聡に断る理由はない。2つのかけ持ちよりははるかにいい条件を提示されている。
「正職員でなくて臨時職員なんで誠に申し訳ないのだが」
むしろ、二学期から3月までの期間限定ってところが逆に聡には都合がよかった。
「前向きに検討します。家族と相談させてください」
聡はそういって教授の元をいったん辞した。
家族といったが、聡の頭にあるのは、正確には家族になる予定の男のことだった。
家に帰ると、パソコンを開く。携帯から第一報を短く送ろうかとも思ったが、ちゃんと文章にするべきだと考え直したのだ。
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博史さん
な、なんと急に就職が決まりました!
高校の臨時教師として二学期から3月までだけど。
教職免許がやっと活かせます!
これで結婚費用の貯金もターボかけられそう。
がんばる~!
聡
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相談じゃなくて報告になってしまったが、まあ「ダメ」とはいわないだろうと聡はメールを送信した。
送った後で、今むこう何時だっけ?と一瞬考えたそのときに、婚約者の原田博史から返信がきた。
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聡
ちょうどランチタイムだった!就職おめでとう!
お盆には帰るから、話きかせてね。
貯金がんばれよ~
博史
>>>
博史は中東のカタールに赴任している。
技術者の彼は、常に忙しいので、いつもだったら返信がなかなか返ってこない。それが即レスで返ってきたことに聡の心は温まる。
聡がアメリカ留学していた時に付き合い始めた彼とは、もう4年になる。聡が大学を出たらすぐに結婚、という計画だったのに、突然中東への転勤が決まり、結婚が延期になった。
そのとき、聡は大学4年。結婚する気で、就職活動なんてまともにやってなかった聡は、出身地である地方に戻るわけにもいかず、やむを得ずバイトのかけもちで生計をたてることとなったのだ。
バイトの1つは英語教師の免許を活かして塾講師、もう1つがあのお弁当屋さんだった。聡自身が弁当の味のファンで、料理が上手になれたら博史が喜ぶだろう、と半ば花嫁修業のような気分だった。
結婚資金を貯めたい聡だったから、2つのバイトかけもち生活は時間的にはとてもハードだったけれど、遠い中東の地にいる婚約者の存在が、聡に力をくれた。
幸い弁当屋さんの店長夫婦も聡のことを娘のように可愛がってくれたし、個人店のせいかお客さんも常連のおなじみさんばかりで、気楽だった。
その中にちょっと気になる若い男の子がいた……東大生だという山田。強い視線を放つ瞳が印象に残った。
東大に近いわけでもないこの店に何故か現れる。現れるたびに背が伸びていくような感じがした。成長期そのもの。
まるで、他人の庭のヒマワリがぐんぐん育っていくのを毎日楽しみにするような、そんな感覚。聡はいつしか「山田」が店を訪れるのが楽しみになっていた。彼が好きなメニューはすっかり覚えてしまった。
――イトコとか、甥っ子みたいなものよね。
無意識に言い聞かせている自分にも気づいていなかった。
そして、バイトの最終日。彼に会うのももう最後だし、と聡は彼の好きなうずらの卵のトッピングをサービスした。
すると彼は、突然聡をドライブに誘ってきたのだ。
青さが残る、ぎごちない口調は、軽いノリではない。何かを決意して誘った現れのようだった……聡は何故か、何を決意したのかをはっきり確かめたくて、山田を見つめた。
頬が熱くなり、ときめいていたことに気づいたのは、山田が帰ってしまった後だ。
ちゃんと返事をすることなく、もう会えなくなったことが、ひっかかっていた。ただのお客さんなのに。そして自分には婚約者がいるのに……。
だけど、塾の夏期講習が始まり、博史とのお盆デート、新しい職場の研修と、忙しい夏の日々に、そんな心の揺れは次第に忘れられた。
そして9月。新学期。新しい職場。
忙しいかけもちバイト生活を終わらせられて、給料も増える美味しい話のはずだったのだが、新江高校の底辺さは聡の想像をはるかに上回っていた。