第17話 噂とテスト

将の豹変ぶりは職員室でも話題になっている。

「鷹枝くん、授業も聞かず、何を必死に勉強しているんでしょうね……」

「どうも中学校の復習のようです。今日は、N高校の入試問題をやってるようでして、いきなり質問されて焦りました」

ちなみにN高校とは関西地区で東大合格率最高を誇る高校である。

今までほとんど学校に来なかった将が、急に登校を始めたかと思ったら、席を教卓の真ん前に移動。

背が高く、かつ私服姿の将が一番前に着席しているのは、かなりの違和感として教師らにも同級生にも緊張感をもたらした。

ただ、その上背で後ろの生徒の視界を遮るかといえばそうでもない。

ほとんどの時間は、授業中といわず、休み時間といわず、一心不乱に机に伏せるようにしてカリカリと勉強をしているからだ。

「古城先生、補習で何か喝を入れられたんですか?」

「今週末に中学範囲の修了テストをするといっただけですが……」と聡はお茶を濁した。

まさか、そのテストの成績次第でデートする約束をしたなんて言えない。というか、まさかあれを真に受けると思いもしなかった……。

 
 

あの休日、うっかり寝てしまった聡が、次に目を覚ましたのは暗くなってだった。

覚醒した聡は、視界に入った将に一瞬警戒した。

なんで部屋の中に博史でもない若い男がいるのか、混乱した。

で、やっと顛末を思い出して安堵したと同時に、教え子の前で寝入っていたことに少し恥じ入る。

それを隠すように、

「……まだ勉強してたの?」

と声をかけた。

「あ、先生、やっと起きた? じゃ俺帰るよ」

時計はもう7時を指していた。

「もしかして待っててくれたの?」

「うん。だって俺が帰っちゃったら、鍵開きっぱなしでキケンだろ」

「起こしてくれたらよかったのに」

「だって、あんまり気持ちよさそうに寝てたから。じゃ。先生。デートの約束忘れるなよ」

デートの約束をしたことなんて、寝ている間にすっかり忘れていたのだが……。

 
 

ほんの口約束のつもりだったのに。

おかげで聡は、まだ慣れない教務に加えて、将のための難問ぞろいのテストを作成しなくてはならない羽目に陥ってここ数日てんてこまいだった。

で、今日はテストの約束をした金曜日だ。

この1週間、将は集中して勉強した。

井口ら同級生が気味悪がっているのはわかっている。自分でもなんでこんなに必死で勉強しているのか不思議だった。

あの「アキラ」とデートがしたい。それだけのことが自分にこんな努力をさせている。

その謎解きよりも、今は目的達成に邁進したい自分が、将にはわからない。

わからないけれど、しゃにむに将は勉強した。

 
 

将がいきなりガリ勉モードになったことで特にとばっちりを受けたのは、いつもの悪めの仲間たちだ。

アジトというか、溜まり場にしていた将の家を追い出された。

『うちに泊まるのはかまわないけど、俺の邪魔をしないで』

と将本人に言い渡されたからだ。

これまでは夜遊びするときに、気前よく将がみんなの分のお金を出していたのだが、それも期待できなくなってしまった。

水曜日には、こっそり女の子を連れ込んで酒飲みゲームをしているやつらが、問答無用でぶん殴られた。

殴られたユータが頬にシップを貼ったまま

「将、気が狂ったんじゃない?」と呟いた。

「最近、頭おかしいよね。いきなり席一番前とかいくし」と相棒のカイト。

「アキラ先生に気があるんじゃね?」。

そう言い放ったのは金髪マカロニにピアス顔の井口だ。

ヒップホップダンス好きの井口は、クラブにいけないのが不満だ。

「えーっ。うそぉ」

「ゲロゲロぉ、カンベン、いくつ年上だよ~」

「だってよぉ、アキラ先生の授業だけガリ勉やめてるじゃん。二人っきりで補習だし」

将が聡と二人で(他の教師の監視つきだが)放課後に補習をしているというのはクラスの皆が知っていた。

 
 

瑞樹は井口らの噂話には加わらず、シャーペンの芯を出したりそれを指先でひっこめたりして弄びながら、休み時間なのにあいかわらず一番前で勉強しているらしい将の背中を睨みつけていた。

家に帰りたくない瑞樹の事情を知っているから、一応家には泊めてくれるが、まったく相手にしてくれない。

誘っても「眠いからやめて」と完全無視だ。

実際、夜は早い時間からすべての機能を停止したかのように眠ってしまっている。

それに、瑞樹も知っている。

教壇に立つ聡を……頬杖ついてダルそうにしながらも、熱く見つめている将を。

――なんであんなババアの教師に。

瑞樹は自分を将の彼女だと思っている。

告白したりされたり、ということはなくても……愛の言葉などはなくても。

将に何度も抱かれているし、それにここ1年、ほとんど一緒に暮らしているようなものだ。

なのに……。

瑞樹の不安に呼応するように、指先に強く押し当てたシャーペンの芯が折れた。

「っつ……」

桃色をした瑞樹の、人差し指の皮膚の先に黒い芯が刺さっている。紅い血がみるみる滲み出した。

隣の席で、チャミとカリナは、昨日放課後に買った髪飾りやらアクセサリーやら、キラキラしたものを机の上に広げ、他の女子生徒と共に品評会をしていた。

「かわいいー!」

「昨日××いったらちょうど安売りしてた!超ラッキー」

××とは若者が集まる町である。

「これ〇円とかありえなーい!超カワいい!」

というたわいのない甘い声。

が、何かの拍子か、ネックレスの細いテグスがちぎれ、ついていたビーズやトンボ玉が散らばった。

「キャー、拾って拾って」

その1つが瑞樹の椅子の下に転がった。

「ごめん」

チャミがそのトンボ玉を拾おうと屈むと、瑞樹はおもむろに立ち上がり、玉を上靴のかかとで踏みつけた。

ボリっという鈍い音と共に、玉はバラバラに砕けていた。

「ちょー何するんよ。ひどくなーい?」

瑞樹は何も言わず、横目でチャミを睨みつけた。その光る瞳と白目に圧倒されて、チャミはだまりこんでしまった。

 

そのとき将は、一番前の席で難問の練習問題を解き終わって、伸びをしていた。

元の体勢に戻るときに、床を転がってきたキラキラした玉に目がいった。

足元で止まったので拾い上げる。将が玉を拾ったのを見て、玉を追ってきたカリナは凍りついた。

いや、見ていたチャミやみんなすべてが固まった。

「あ、あの……」カリナは意を決して将に話し掛けた。

「これ?……ハイ」

将はカリナの手の中に、玉を落とすと何事もなかったように机に向かった。

「チョーヤバかった、見てるほうが怖かった」

席に戻ってきたカリナに、近寄ってきたチャミのほうが興奮しているかのようだった。

「でもさ、鷹枝君めちゃめちゃイケメンだった」

カリナは将の背中を見ながら呟いた。

「……そりゃあ。でも、中学の時に人殺してるらしいじゃん。近寄らない方がいいよ」

チャミが「人殺し」のところではことさら声を落としてカリナの耳に囁く。

「そうだけど、優しそうだったよ」

「でもあの瑞樹とつきあってるんでしょ。そーだ、ちょー聞いてよ瑞樹ってばあったまくるー……」

クラスでは『将は人を殺したことがある』というまことしやかな噂が囁かれていた。

めったに学校に来ていなかった将はもちろん知らない噂だ。

しかしクラスにめったに顔を出さなかったことが、クラスメートの間での噂の信ぴょう性を高めていた。

「フン、いい気になりやがって」

教室の隅でつぶやいたのは、あのとき将に顎をやられた前原だ。

「……人殺しがよ。本当はあいつのほうがカンベツ送りのはずなのによ」

将の後姿を憎憎しく見つめていた。

 
 

金曜日の6時間目は自由学習の時間となっている。

従来であれば図書室を利用したり、ボランティア活動をしたりする時間だ。

特別に許可をもらって、将は6時間目から、中学範囲の修了テストを受けることになっていた。

このテストの成績次第で、放課後の補習から解放することにもなっている。

2時間30分で5教科。聡手作りのテスト問題について多美先生は

「少し難しすぎませんか?」

とチェックを入れた。

「難しい問題にしてほしいという鷹枝くんたっての希望でして……」

聡はごまかすしかない。

テストのレベルが高すぎるとのことで、多美先生は補習終了の条件になる合格点を60点から40点に下げた。

高校生がやっても難しいテストだろうと多美先生は言った。

仮にここの生徒がやっても20点も取れない者が大半で、おそらく将とはいえ1週間の付け焼刃では40点にも届かないだろう、というのが聡の予想だった。

 
 

とどこおりなくテストが終わって、聡と多美先生が採点する横で将は窓から夕焼け雲を眺めていた。

国語、数学、理科は満点とれる自信がある。

英語と社会はカンで答えた部分がある。

まあなんとかなるだろう……というか。

1週間とり憑かれたように勉強した将は、とりあえず頭が解放されてぼんやりしていた。

なんでこんなに必死だったんだろう、とすら感じている。

 
 

1教科平均15題の問題はすぐに採点が終わった。

「採点、終わりました」

聡の声がして、将は振り返った。その姿を目にして、心臓が存在を主張する。

「鷹枝、すごいぞ! 国語が95点、数学が100点、理科が95点……」

多美先生が弾んだ声で将の成績を発表する。思わずよっしゃァ!と拳を握る。

「社会が85点、英語が70点」

「そんな……」

将はガクッと肩を落とした。

やはりたった1週間では記憶系教科の網羅には足りなかったのだろう。

特に英語は長文問題がキツかった。大筋はわかっても細かいところは本当にカンで回答していたから……。

とはいえ、聡や多美先生のほうは、将のありえない好成績に驚きを隠せないでいた。

「すごいよ、鷹枝くん!たった1週間でよくここまで追いついたもんだ。合格だ!」

多美先生がはずんだ声をあげる横で、聡はといえば、答案と将の顔をかわるがわるに比べる。

「はァ」

「合格」でも、それほど嬉しそうではない将と目が合ってしまった。

それでも将は聡に向かって

「90点ダメだった。頑張ったんだけどなー」

と、笑顔をつくった。

「なんだ、その90点てのは?」

いぶかる多美先生に

「90点とるって約束してたんです。ダメだったね」

多美先生に答えながら、聡も将に笑いかけてやった。

すると、将の顔から笑顔が消えて、がくっとうなだれると、力なく帰り支度を始めた。

今の「ダメだった」をデート不可ととらえたのか。

そのしょぼくれた態度に、聡はなぜか笑いがこみあげてきた。

聡とデートしたいがためにここまで頑張るなんて。しかも失敗して本気でしょげている。

意味わからないけど、かわいいやつ。

聡は頑張った将に、何かご褒美をあげたい気分になってきた。