第185話 親友(2)

「久しぶりね」

元気だった?と言いかけて聡は口をつぐんだ。

大悟は瑞樹を亡くしてまだ1ヶ月しか経っていないのだ。とっさに

「仕事の帰り?」

と続けてみる。大悟は、少し躊躇して

「ハァ。そんなもんです……」

といちおう笑顔を作った。

そのつくり笑顔は、聡にはとても痛々しいものに思えた。

きっと、まだ心の傷が癒えていないんだろうと想像した。

「センセイは?」

それでもけなげに訊き返してくる大悟を、なんだか放っておけなくて聡は

「うん。ちょっと買い物。……もしよかったら、夕食一緒に食べない?今日どうせ、将はバイトだって言ってたし」

と誘ってしまった。

 
 

二人は、駅前の通りから一本入ったところにあるラーメン屋ののれんをくぐった。

大悟のお勧めだった。

「ここのタンメンが旨いんですよ。あと餃子も」

狭い食堂は、カウンターとビニールクロスが掛かったテーブルと背もたれのない丸いパイプの腰掛をいかにも安っぽい蛍光灯が照らしている。

しかし、旨いというのは本当らしく、労働者やサラリーマンっぽい男が上のほうに据えられた14型のテレビを見ながら食事をしていた。

「ホント?じゃそれ頼もう。今日はアタシのオゴリ」

「いいんですか?」

と訊き返しながら、大悟はそうしてもらわないと困るほどお金がなくなっていた。

もともと財布にあった2000円あまりと昨日の給料の8000円あまりから、新宿-名古屋往復のバス代だけで9000円近くを払ってしまっている。

新宿までの交通費はsuicaを使ったからいい。

だが名古屋から親戚の家までの交通費だけで、もう昼食も我慢しなくてはならなかったほど、大悟の財布はすっからかんになっていた。

そこまでしたのに……大悟は、愛知の親戚宅での出来事を思い出して俯いた。

「いいのよ。いつも将がお世話になってるから。ビールも飲む?……いいのよ。未成年だなんて言わなきゃわかんないから」

悪戯っぽい顔になって、小声で飲酒を勧める教師らしからぬ聡に、一瞬大悟は、暗い出来事を忘れた。

――26歳って言ってたっけ。それにしちゃほっぺが桃みたいだな。

井口が『結構カワイイ』といってたのがよくわかる。

メニューをのぞきこむ下向きの顔の中で睫が黒く長い。

固いスーツに包まれた胸のあたりは、井口がいってたほど『巨乳』でもないと思うが、柔らかそうに揺れて、つい触りたくなるような感じだ。

――って何考えてるんだ。将の彼女だろ。センセイだろ。

大悟はあわてて「じゃ、生2つ」と店員に注文する。

「じゃ、カンパーイ」

二人は重いジョッキをガッチンと触れ合わせた。

「大悟くん、ここ、痛くない?」

聡は、自分の口角を指で示した。大悟の切れた口のことを言っているのだろう。

「これぐらい、ぜんぜん平気です」

「やっぱり男の子は強いよね」

感心する聡だが、今大悟が痛いのは、そんな傷より、心であり、経済状況であった。

 
 

今日、早朝に名古屋に降り立った大悟は、そこから私鉄に乗りかえて、親戚の家を訪れた。

留守だったら困るなとは思ったが、そんな心配は無用だった。

遠い親戚のオヤジは朝から酔っ払って家にいたからだ。

玄関をあけたその妻……大悟は『おばさん』と呼んでいた女は大悟を見ると目を見開いた。

「こんにちは」

大悟はいちおう頭を下げた。

小さな古い一戸建ての奥からは、出戻りの娘の子供なのか、ギャンギャンと泣き声が聞こえる。

「今日は、俺の金の件で来ました」

それを聞いた『おばさん』が一瞬息を飲むのが大悟にもわかった。

いちおう家に上げられた大悟は、ここにいたとき寝場所だった居間に通された。

この家にいた頃、大悟は自室すら与えられなかったのだ。

茶も出されずに、待っていると、奥からドカドカという乱暴な足音と共に

「大悟だと?勝手におん出てったヤツがなんダァ?今ごろ」

という罵声が奥から近づいてきて、染みと繕いで彩られた襖がガラッとあいた。

禿げた親戚のオヤジが、肌着のまま腹をボリボリと掻きながら大悟を見下ろした。

朝だと言うのに、禿げ頭から顔、たるんだ首、つやのない胸の皮膚のあたりまで赤らんでいる。

「なんだ今ごろ」

投げるような乱暴な口調。安っぽい日本酒の匂いが大悟の顔に吹き掛かるようだった。

大悟は反抗をあらわにして見上げながらも

「今日は、俺の金の件で来ました」

といちおう丁寧語を使ってやった。

いちおう、この家にいた頃は、不良少年的な言葉づかいや態度をしたことはない。

このオヤジが酔って大悟を殴るときなどは、いつも黙って耐えた。

「金ダァ?」

といいながら、親戚オヤジはどかっとあぐらをかいた。

「俺の学費名目で10万振り込まれているでしょ。俺がここを出てったあとも。2月から3ヶ月分、返してほしいんだけど」

大悟はできるだけ冷静に感情を抑えたのだが、最後のほうはつい、乱暴な言葉づかいになってしまった。

「そんなものはないっ」

親戚オヤジはそっぽを向いた。

「ないはずはないだろ。三宅さんに聞いてンだよ」

三宅というのは、将の父親・康三の代理人の弁護士である。

「俺が高校に通ってるとかいって、学費、食費その他もろもろで10万。受け取ってんのはわかってんだよ」

つい言葉が荒くなる。

「本当は高校いってないんだから1年分の学費を返せって言いたいところを、3か月分に負けてやってんだよ。返せよ」

「ないもんはないっていってんだ」

オヤジは大悟を斜めに見据えると、吐き捨てるように言った。

「もともと、たいして縁のない前科物のテメエを預かってやったんだ。月10万じゃ足りねえや」

「ざけんな!」

大悟はついに立ち上がると、禿げオヤジの肌着の首を掴んだ。

「俺の……俺の給料もほとんど、ぶん取りやがったくせに!」

大悟の大声に触発されたのか、家の奥で、幼児が火がついたように泣き始める。

締め付けられるほど首を掴まれて、禿げオヤジは狼狽した。

「落ち着け……。大悟、落ち着け。うちは年金暮らしで手一杯なんだよぅ……」

「嘘つけ!」

ついに大悟は禿げた親戚オヤジの横っ面にパンチを食らわせた。

古い家全体を振動させてオヤジは転がった。

襖の隙間から見ていた『おばさん』が喉の奥から悲鳴をあげる。

「やりやがったな」

親戚オヤジは唇から流れた血を手の甲でぬぐいながら大悟をにらみつけた。

「やって悪いか。俺の金でさんざん飲んだくれやがって!」

「なんだと、このガキィ~!」

親戚オヤジは立ち上がると大悟に向かってきた。

肉付きがいいオヤジが勢いよくタックルし、大悟はそのまま畳に引き倒される。

そしてそのままつかみ合いになる。

「やめてーっ!」

おばさんの悲鳴。子供の泣き声。

「だいたい、こうなったのは、お前の父親がいけないんだろうが!」

オヤジは大悟にのしかかるようにして首をぎゅうぎゅうと締めながら怒鳴る。

唾が大悟の顔にしぶきのようにかかる。

「俺は関係ねーよ!」

大悟は負けずに、オヤジの首を掴んだまま、勢いよく上体を起こすと、吼えた。

「関係あんだよ!お前の父親の借金を俺が払ってんだろうが」

それを聞いたオヤジの首を掴む大悟の力がゆるんだ。

そこでオヤジが1発、大悟に逆襲した。再び家全体が揺れるようにして大悟の体が飛ばされた。

「お前のダメオヤジがよ、借金の保証人に勝手にウチを指名しやがったんだ」

「ウソだ……。親父はもう何年も行方不明……」

大悟は、口の端から血を流したまま、上半身を重く起こした。

そこで『おばさん』がようやく、禿げオヤジを止めるようにすがりつく。そして大悟に

「本当なんだよ……大悟。闇金融っていうのかい?ヤクザみたいな人が来て、無理やり判を押させられたんだよ。押さないと、娘や孫がどうなるか、って言われて……」

なきそうな顔で『おばさん』は説明した。

「それ、いつ……?」

「1年ぐらい前だよ……。だから、悪いとは思ったんだけど、お前に振り込まれている金で返済にあてさせてもらったんだよ……」

彼女は嘘を言ってなさそうだった。

「悪いなんて、思う必要はねえっ。親父の借金を子供が返すのは、っ当然じゃねえかっ」

禿げオヤジは吐き捨てるように言った。

大悟は、再び親戚オヤジを睨むと立ち上がった。

「……とにかく。僕はもうこの家を出てますから。10万はここには振り込まないようにしてもらいます」

「何ぃ?」

禿げオヤジは目をむいて大悟を睨んだ。

『おばさん』の眉がみるみるうちに八の字になると、大悟にすがりついてきた。

「大悟、そんなこと言わないでくれよ。お前がいなくなって、10万もなくなったら……。私ら殺されてしまうよ」

まるで歌うような声での懇願。

だが、大悟は、唇の血を拭いながら、冷たい目の端で彼女と禿げオヤジを一瞥した。

「……自己破産、すれば」

それだけいうと、大悟は居間を後にした。

「あいつらが、自己破産なんかさせるかよォ!」

という親戚オヤジの声を背に受けて大悟は、狭い廊下を玄関へと向かった。

と、背中に視線を感じる。

この家の出戻りの娘が、子供二人と共に廊下の奥に立っていた。

30になるかならないかの……地味な顔立ちだが、働いていないせいであまり所帯じみてはいない娘。

彼女は、5歳ぐらいの女の子の手をひき、2歳ぐらいの男の子を抱いて、こっちを睨むともなく、静かに注視していた。

さっきまで火が付いたように泣いていた男の子は濡れた瞳のまま、きょとんとした顔で大悟を見ている。

そして、髪を2つに結んだ女の子は、無表情のまま大悟に

「ばいばい」

と言った。

大悟は聞かなかったように踵を返し、その家を辞した。

その3人の姿は、なぜか大悟の心に焼きついて離れなかった……。