第222話 全部忘れられるもの(3)

「さあさあ、たくさんおあがり。遠慮しないでいいんだよ」

節子は蛍光灯で照らされたダイニングテーブルの上に、ちらし寿司を並べた。

上に切り紙のように散らされたマグロのヅケや酢で〆たコハダの身、いくら、薄焼き玉子にさやえんどうが彩りを添えている。

他にも鶏の唐揚げやマカロニサラダなどが次々に並べられる。

「口にあえばだがな」

とちゃぶ台で一服していた隆弘も笑いながら立ち上がってダイニングにやってくる。

「お。花なんか、飾るのは何年ぶりだね」

テーブルの上のスイートピーの花を目にとめて、隆弘がおどける。

「大悟くん、そんなところに突っ立ってないで、座りなさい。……ホラ」

「ハイ」

大悟は、西嶋夫妻のあまりの歓待ぶりに、テーブルわきでぼけっと突っ立っていたのだ。

「今日は、呑みなさい。無礼講だ」

やっと席についた大悟のコップに、隆弘は有無をいわさず、ビールを注いだ。

「あ、ありがとうございます」

大悟はおずおずとコップに手を添える。

最後に、筍とワカメの吸い物を並べ終わって、節子も席について

「じゃあ、大悟くん、誕生日おめでとう!……乾杯」

と隆弘が音頭を取って3人はコップを触れ合わせた。

「さあ、大悟くん。いっぱい食べてね」

「ハイ」

料理の花畑を最初に崩す権利を与えられて少しドキドキしながら、まずはちらし寿司を皿に取る。

こんな風に誕生日に、『ごちそう』をつくってもらうなんて、何年ぶりだろうか。

中学のときに、カオリさんが羽振りよくフランス料理を奢ってくれたことはある。

そういえばキャビアやフォアグラなんてものはあのとき初めて食べたがそんなに旨いとは思わなかった。

しかし……手作りの料理で祝ってもらうのは、もしかして母が出て行って以来だからもう10年以上ぶり、ということになる。

どんな料理をつくってもらったのかも、もはや記憶にない。

「どう?」

節子が大悟の顔をのぞきこむように微笑んだので大悟はあわてて、口にしたちらし寿司のほうに意識を集中した。

それは、甘めの酢メシに、甘い薄焼き玉子、そしてヅケになって醤油味のマグロが、家庭的な甘じょっぱさをつくりだしていた。

「美味しいです」

大悟は微笑み返した。

本当は酢メシはもう少しさっぱりしていてもよかったが、自分のためにわざわざ作ってくれた料理、というだけですでに美味しかったのだ。

「……よかったわぁ。ちらし寿司なんて久しぶりだから料理の本ひっくり返しちゃったのよ。よかったら、こっちの唐揚げも食べて。これは自信作なの」

と骨付きの唐揚げを勧める節子に

「お前、寿司メシちょっと甘いぞ。これ、いなり寿司の寿司メシだろ」

隆弘が文句をいう。酒飲みには少し甘い味だったのだろう。

「あらいいじゃない。おんなじじゃないの?」

節子は言い返しながら、ビールをあおった。大悟は、瓶を手にとった。

「……あら。ありがとう」

大悟にビールを注いでもらって、節子はにっこり微笑んだ。

「……しかし、君は、礼儀正しいな」

そんな大悟を見て、隆弘は思わず声をあげる。

「親御さんはさぞかし、きちんと躾けをされたんだろうな」

「いいえ」

思わず即答した大悟に、夫妻は、ややけげんな顔をした。

そんな夫妻のとまどう顔を見て、何か言わないと、と思いつつも奇妙な喜びを感じてしまった大悟である。

――まさか、鑑別所じこみ、とは言えないだろう。

親にほとんど躾けをされなかった大悟は、そこでほとんどの礼儀を叩き込まれたのだ。

もっとも食事のマナーなどは、カオリさんと将によるところが大きい。

中学時代、将のマナーを、カオリさんが褒めるのをまのあたりにして、大悟はこっそりと真似て体得したのだ。

「いえ。うちの親は……躾けどころじゃなかったと思います。借金まみれでいつも家をあけていましたから」

大悟は仕方なく事実を話す。

「そう……」

節子がややせつなそうに、目をしばたかせる。

この夫婦は……新しい『保護者』は大悟の過去をどこまで知っているんだろうか。

大悟は賑やかに喋りながら食事をする二人を盗み見た。

 
 

ちゃぶ台の前で付けたままになっていたテレビが、7時のニュースを報じ始めた。

『次に、今朝、愛知県○○市の○○港で……』

というキャスターの声に、思わず大悟の意識の1/3がテレビのほうに向く。

「もし、言いたくなかったらいいんだが、大悟くんのお父さんやお母さんはどうして行方不明なんだ?」

隆弘は大悟に訊いた。大悟の過去に何らかの傷があると、気を遣っているのがわかる、遠慮がちな口調だ。

しかし1/3の意識がテレビにいっている大悟は、

「母は僕が小さい頃に離婚したっきりで……、父は借金とりから隠れているうちに、家に帰らなくなったんです」

とそっけなく答えた。

テレビは依然、大悟の前の保護者であるハゲ親爺一家の死を報じている。

ただ、昼のニュースより情報が新しく、同居していた娘の行方がわからない、ということと、警察では一家心中の可能性で捜査している旨が報じられた。

「……いつごろから独りっきりなの?」

「えっ?」

新しい情報に意識の1/3どころか全部が集中していた大悟は、隆弘の質問を聞き逃してしまって聞き返す。

「お父さんとは、いつから会ってないの?」

「あ……、もう3~4年、いや5年ぐらい?」

大悟は目を宙に泳がせた。実際に『会った』のはいつが最後だっただろうか。本当に覚えていない。

ここ数年、父はときおり書き留めで金を送ってくるぐらいしか交流がなかったから。

しかし、家族と数年も会ってない事実を淡々とした様子で話す大悟は、西嶋夫妻にはかえってふびんに映った。

「お父さんも、お母さんもどこにいるかわからないの」

そういう節子の方が大悟よりつらそうだ。

「ハイ。……もう死んでるかも」

大悟はそう言い放つと、ビールをぐいっとあおった。

あの、元保護者のハゲ親爺が一家心中などするわけがない。

あれは、消されたのだ。借金を返せなくなって……たぶん保険金を掛けられて、闇金融のやつらに『一家心中をした』ように工作されたのだ。

たしか、自殺でも1年経てば、保険がおりる、というのを聞いたことがある。

そうやって、元保護者が消されるぐらいだから、大悟の父ももはや生きてはいないだろう。

大悟は、黙って唐揚げを手に取った。

それは、節子の自慢というだけあって、旨かった。

ニンニクの利いたしょうゆ味が香ばしい。

「これ、旨いです」

よどんだ空気を変えるため、というのもあったが、大悟は素直に口に出した。

「そう、よかったわ。うちの若い人たちにも好評なのよね」

節子も大悟に乗って、笑顔をつくった。

「大悟くんは……今、何をやってるの?」

隆弘の質問に、大悟は、どきん、と心臓が収縮すると同時に、そら来たか、と身構えて

「ハァ。ときどきハケンで働いてます」

「日雇いの?」

「ハイ」

これは嘘だ。ハケンはあの菓子工場以来行っていない。

もっぱら、大悟は今、瑞樹の遺した薬を売りさばいて稼いでいるのだ。

もっとも、家賃は将のマンションだからかからないし、食費も夕食は家政婦がつくりにくる。

朝や昼はその残りで充分なほどだったから、大悟が生きるのにお金はほとんど掛からない。

煙草代と酒代ぐらいだ。

こないだ、西嶋に手渡された5万も手をつけていない。

気がつくと大悟の手元には20万以上の金があった。しばらくは、『売人』をする必要もない。

プロの売人に追いかけられた大悟は、ほとぼりが冷めるまでのんびりしようと決めていた。

「大悟くん」

隆弘は箸を置いた。まるで正座をするように、きちんと座りなおす。

「もし、よかったら。ウチで働かないか?」

隆弘は大悟の目をまっすぐに見つめた。

……小さな町工場ながら、NASAで使われている光学機器をつくっている西嶋光学工業。

それは魅力的な誘いだったが、同時に大悟は、自分にそんな高度な技術を修得できるはずがない、と視線を落とした。

「だけど、僕……学校にもロクにいってませんよ」

「そんなのは、実地でどうにでもなる。なんだったら夜間高校でも通信でも行けばいい。私も、夜間高校出だ。だいたいうちの会社は学歴不問だ。学歴があっても不器用だったら話にならないからな」

ようやく大悟がもらした自己否定の言葉を、西嶋は即座に肯定に変えて見せた。

「実はな」

さらに隆弘は続ける。

「私らは、大悟くんさえよかったら……養子になってもらいたい、って考えているんだ」

大悟は落とした視線をもう一度上げた。

それは、先日将から聞いて知っていた。

あのとき大悟は、ひそかに『誰が養子になんか』と反発したものだが、あらためて本人の口から聞くと印象が違った。

それはとてつもなく、温かい誘いに思えた。

こんな風に、誕生祝いをしてくれる夫妻の養子になれば……闇に傾きかけた自分だが、お天道様の下に戻れるかもしれない……。

『この前科者が!』

そこへ元保護者のハゲ親爺の罵声が大悟の脳裏をつんざくように蘇った。

この夫妻は、大悟が『前科者』だということを知らないに違いない。

まっ白だと思っているのだ。

だから、こんな風に「養子にしたい」などと言い出すのだろう……。

大悟は、いったん目を伏せると、もう一度顔をあげた。

今度は大悟が箸を置く。

「……俺、鑑別所に入ってたんです」

隆弘、節子と順番に目を見ながら、それを打ち明ける。

「知ってるよ」

隆弘はあいかわらず大悟の目を見据えていた。

「そんなものは関係ない」

敢然と言い放つ隆弘に、大悟は、これでもか、と自分の過去を突きつける。

「俺が、何をしたか……知っていますか。人殺しですよ」

――本当は、俺じゃないんだ!

大悟は告白しながらも、心の中の……もっと奥深くで叫んでいた。

いつも、いつも叫んでいた。

裁判のときも。カンベツの中でも。『前科者』と怒鳴られているときも、就職を断られたときも。

それらの記憶が、大悟を俯かせた。

これで……さすがの西嶋夫妻も、諦めるだろう。

諦めて当然……所詮、自分は陽の当たる場所を歩く権利を放棄してしまったのだ。あの時。

無理に陽の当たる場所を歩いて、冷たい世間の風に吹き晒されるよりも、むしろ闇に惹かれるのは、親のDNAなんだろうか……。

ちらし寿司の上に、スイートピーの上に、沈黙が降りていた。

しかしそれは長くならないうちに、隆弘によって打ち切られた。

「……知っているよ。正当防衛だろう」

そういうと隆弘は立ち上がった。

大悟は驚いて、こちらに歩み寄ってくる隆弘を見上げた。

すべてを知ったうえで、そんなことを申し出てくるのか。大悟は目を見開いて、隆弘の顔をよく見ようとした。

隆弘は大悟の傍らに寄ると、ちゃぶ台の奥を指差した。

「ごらん。君が直した、大和だ」

箪笥の上の薄暗がりに、先日、大悟が修理した戦艦大和があった。

「大悟くん、君は、マニュアルもなしで、あれを修理したんだ」

隆弘は穏やかな口調で大悟に語りかけると、膝の上に押し付けられた大悟の右手を取った。

節ばってはいるものの、長い指をもつ手を隆弘はしげしげと眺めた。

「君の手は、こんなにも器用だ。……この手はこれから、いろんなものを創り出すだろう。その指を切り取ろうとするような輩から君は自分を守ったんだ」

気がつくと大悟は、涙を流していた。

みっともない、と思ったけれど温かい涙は、止まらなかった。

「そうだよ。そうなんだから。大悟くんが悪いことなんて、ちっともないんだから」

と言いながら節子ももらい泣きしていた。

 

結局、大悟は、プレゼントのシャツに、残った唐揚げをお土産にもらって、西嶋家をあとにした。

「ウチで働く件と養子の件、ぜひ前向きに考えてくれ」

と帰り際に、隆弘は大悟の肩を握るように手を置いた。

すでにいろいろなものを創り出しているその手は、大悟と同じく長い指を持ち、温かかった。

藍色になった夜空の下、ドアから漏れた山吹色の光に照らされて、夫婦は外階段の上からいつまでも大悟を見送っていた。

優しさに、そして温かさに慣れない大悟には芝居じみているように感じられるほどの、いままでの生涯で一番幸せな誕生日だった。

しかし幸せは……陽のあたる場所で暮らせる幻想は一瞬だった。

その夜から、大悟は元保護者の悪夢にうなされることになる。