第62話 疑惑

「なんだか過剰接待で、ごめんね」

「……ううん。こっちこそ、いろいろしてもらっちゃって」

もう夜も9時すぎ。聡は博史の運転する車の助手席にいた。

断続的に降る雪は、夜を舞う姿がライトに照らされるだけで、都内では積もることはなかった。

午前中に博史の両親の出迎えでホテルを出て。あれから都下の博史の家で聡は歓待を受けた。

博史の実家はゆったりと作ってある4LDKのマンションで、もちろん聡はそこに足を踏み入れるのは初めてだ。

昼食はダイニングで博史の母・薫の心づくしの料理をいただきながらワインで乾杯。その後リビングで、近所のだという美味しいケーキをいただきながら、博史のアルバムを話題に皆で談笑し、さらに夕食に寿司までとってもらった。

「泊まっていったら」

という申し出を丁重に遠慮したら、博史の父が

「それじゃ、雪も降っているみたいだし、おうちまでお送りしなさい」

と博史に命じた。

「ううん、せめて駅まででいいんです」

聡は遠慮したのだが、

「駅までもうちまでも一緒だよ」

と結局、聡のコーポまで送ってもらうことになった。

博史の家のファミリーカーである国産高級車は中も広く、エンジン音なども静かで快適だった。

しかし、正直なところ、聡は早く車を降りたかった。

というのは……、さっき、ソファの上で笑顔で博史の両親と歓談する聡は、体内を流れ落ちる何かを感じた。断って手洗いを借りると、やはり生理が始まっていた。

ひさしぶりにセックスをしたせいなのだろうか、本来は明日だった予定が狂ったようである。

昨日、あわててうちを出て、結果的にそのままホテルに連れて行かれた聡は、その用意をしていなかった。

なんとかトイレットペーパーで急場をしのいでいるが、シートを汚しやしないか心配だし、できれば駅で降りてナプキンを買いたかった。

でもこんなことは博史には言えない。

常識的に恥かしいというのも、もちろんある。それから――昨日、避妊してくれといったのがウソになってしまう。むしろ聡はそちらを恐れた。

……何を恐れることがあるのだ。バレたら、結婚できない。子供なんてとんでもない。と言えばいいのだ……

聡の中の、本音を手にした悪魔がささやく。

だけど。

優しい博史、そして博史の家の人を――あんなに喜んでくれているのに――傷つけたくない。

いずれ傷つける日がくるのかもしれないが、今はあんまりだと思う。

それから。

本当は早く車を降りて、博史の目の届かないところで携帯をチェックしたい。

将からメールがきているかどうかを確かめたい。来ていなかったらこちらから連絡をとりたい。

婚約している恋人のまえで……仕事上の連絡メールのやりとりなどまずありえない冬休みの聡でもある……携帯をいそいそとチェックするのは憚られた。

「聡、聡ってば」

いろいろなことに気をとられて聡はボーっとしていたようである。呼ばれてはっとした。

「何?」

「年末はいつから萩に帰るの?」

「ああ……。28日の飛行機を予約してある」

学校は明日が最終日で、翌日はいちおう自宅の掃除をするつもりだ。

「年末年始中に一度、ご両親に挨拶にいかないとね」

博史は聡の顔を見た。

「そんな……、いいわよ、まだ」

一瞬博史と目をあわせた聡だが、合わせ続けることができず、視線は下に下がってしまう。

「よくないよ。結婚を急ぐんだから、遅いぐらいだよ……で、学校は、3月までで辞めてくれるよね」

博史は前方から目をそらさずに言った。

聡はとっさに返事ができなかった。もちろん将と離れたくないから。

それに……仮に将がアメリカに行ってしまうにしても。

さんざん授業などに工夫した手ごたえがようやく結果になってきている今、辞めてしまうのは惜しい。聡は言い訳のように考えた。

悪かった生徒たちも、なついてきてくれている。

「聡?」

信号が赤になり、博史は返事をしない聡の顔をのぞきこんだ。

「……辞められない、って言ったら?」

聡は下を向いていた顔をゆっくりとあげて、勇気をだして言葉にした。

「どうして辞められないの?」

博史は咎めるでもなく、優しく訊き返した。

「クラスの子と約束したの。卒業まで見守るって」

これは真実だった。あるとき――たぶん期末テスト近くの放課後の補習だったはず――で、丸刈りの兵藤にふと訊かれた。

『先生さ、産休の先生が帰ってきたら、やっぱりやめちゃうんですか?』

どうやら、産休の教師が子供を無事出産したという連絡が生徒にも入ったらしい。

兵藤のせりふを聞いた、近くにいたチャミ&カリナも寄ってきて、

『ウソー?センセイやめるの?』

遠くにいた井口やカイトもこっちを振り向いた。聡は

『わからない。産休の先生がいつ復帰されるかも聞いてないし』

と正直に答えた。

『先生、やめないでください、絶対』

まず兵藤が言った。するとチャミ&カリナも

『ずっとアキラセンセイがいいよ』

『うちらが卒業するまでいなくちゃヤダ』

と必死な目で訴えた。補習に出ていた一同が同じ目で聡を見ていた。そのとき井口が後ろから寄ってきて

『フツーさあ、もう2年だし卒業まで担任は持ち上がりだろ。心配すんなよ』

とそっけなく言った。彼なりにクラスメートや聡を気遣っているのだ。

新しい授業方法は、生徒は楽しんで勉強できたが、準備する聡は大変だった。何しろ、映画を見てレベルなど適切な映画を探さなくてはならない。そしてその中から授業に使う表現を抜かなくてはならない。

音楽のほうの曲選びは、好きな生徒に協力してもらえばよかったが、それを授業に使えるようにふりがなを振ったり、文法解説をしたり、使える表現を抜いたりとかはすべて聡の手作業だ。

社会見学については見学先を探してアポイントをとる作業まで、これまた聡のボランティアのようなものだ。これらのために聡は無償で相当の時間を費やしたはずだ。

でも。これだけ努力をしたのはたしかに報われている。

聡はそのとき、思わず涙が出そうになったものだ。

 

 
「……ふーん。意外と頑張ってるんだ」

再び青信号になり博史は前を向いたまま言った。その声はさっきより少し硬質なように思えた。

「でもさ」

博史は平坦な調子で続ける。

「俺と、教え子だったらどっちを取るの」

「そんな」

下を向く聡。以前の聡だったら何の迷いもなく博史を選んだはず、と博史はほぞを噛んだ。とまどう聡の向こうに、将の姿が透けて見える気がした。

「究極、どうする?」

博史は追い討ちをかけた。早い話が、博史か将かどっちを取る、と問い詰めているのである。

婚約者なら、自分をとるのが当然だ、と博史はなおも答えない聡にいらだちを感じる。

「あの鷹枝くんが原因?」

いらだつあまり、思わず直球を投げてしまってから、博史はしまった、と思った。

聡は驚いた顔でこちらを見た。その顔に、恐怖が浮かんでいるのを……投げた直球が事実である証拠を……博史は見てしまった。

「……なんで、そんなこと言うの?」

聡の声はふるえた。核心を突かれて聡はなすすべがなかった。

――知っている?

当然といえば当然だ。昨日、抱き合っているところを見られているのだから。

かくなる上は博史がどの程度疑念を持っているのかを確かめるしか聡の手は残されていなかった。

聡の瞳に涙がたまってくる――本当は恐怖に震えてなのだが――のを見て博史は動揺した。

「ごめん。そんなつもりじゃないんだ。冗談だよ」

涙をためる自分をずるいと聡は思った。

そんなつもりじゃないにしても涙を、女を……利用しているようなものだ。

だけどそんな理性をよそに、涙は膨れ上がってくる。

まるで、博史を愛していて、彼の疑惑を哀しむように見えてしまうだろう。実際、まだ惰性のような感情が残っているのかもしれない。

聡は涙しながら自分をつかみきれないでいた。

「ここでいい」

赤信号で止まったとき、聡はドアに手をかけた。

その行動はまるで疑惑をぶつける博史を怒っているように見えるだろう。

本当は博史のほうこそ心変わりした聡に腹をたてるべきなのに……。

先に怒るふりを見せたほうが有利なのだ。聡は醒めた頭の中で考える。そんな自分に聡は汚らしい女の性(さが)を見た。

「待てよ」

博史は案の定引き止めようとする。

「今日はありがとう。あとで連絡する」

聡はそれだけを言い残すとドアを開け外に出た。幸い沿線の駅近くだ。雪は小やみになっていたものの、冷気が鋭く聡に迫った。

「待てったら」

博史も車を路肩に寄せて、追ってきた。最寄駅へ急ぐ聡の肩をつかむと、こちらを振り向かせる。

「ごめん。本当にごめん」

せつない博史の目。聡は下を向いた。本当は悪いのは自分のほうなのに。

博史は、そのまま路上で聡を抱き寄せた。温かい体温にすっぽり包まれる聡。

「愛してるんだ……ごめん」

聡の首筋に顔をうめた博史は吐息で囁いた。

聡は目を閉じて深くため息を吐いた。白い吐息は博史の髪の向こうで風にあおられてあっというまに消えた。

――やはり、裏切れない。

離れ離れだったとはいえ4年も付き合った男のぬくもりを聡はむげに突き放せない。

だけど。今日一日、いや、昨日からずっと将のことがいつも心の片隅にあった。こうしていても恋しいのは将、ただ一人だ。

「もう、いいから」

聡は、博史の腕をゆっくりとできるだけ丁寧にほどいた。

「でも、本当に、今日はここまででいいの。ありがとう」

聡はせいいっぱい笑顔をつくると、博史に背を向けて振り返った。

「連絡するから。じゃあ、さよなら」

博史は信号の赤に染まった濡れた路面に立ち尽くしていた。

以前の聡だったら、別れ際に『さよなら』という言葉は使わなかった。些細なことだけど……博史は聡の変化にかき消せない不安を覚えた。