第104話 雪山の一夜(3)

それから、1時間あまり、夜が明けるまでが地獄だった。二人は明け方の厳しい冷え込みに震え上がることになった。

その冷え方ときたら、あの満天の星空が地上の熱気とパワーを吸い込んでいくようにさえ思えるほどだ。

さっきと同じ体勢で、二人は体を密着させたが、その寒さは寝付けないほどだった。

「何時ごろ、日が出るかな」

将が、寒さに耐えられず、口にした。

「さあ……。東京は6時半すぎだけど……。ここは緯度が高いから……」

答える聡もさっきから歯がガチガチと鳴らせている。

だから、明かり取りの窓がうっすら青く壁に浮かんだとき、将は待ちきれずに起きあがった。ドアをあけると、あたりはさっきよりかなり明るくなっていた。

あいかわらずの青い世界だが、そのトーンは2段ほど明るくなって、ものの形もよく見える。あれほどあった星も、ほとんどどこかへ消えてしまったようだ。月の光も弱弱しくなり、刺したスキーやストックの陰も消えている。

将は雪の中をズボズボと歩いて、東に開けた斜面に立った。羊蹄山のむこうの空が白んできている。聡も将のあとを着いて来た。いつのまにか吐く息が白に戻っている。

「もうすぐ夜明けだ。……アキラ、降りよう!」

将は意を決したように聡に呼びかけた。聡は首を振った。

「救助を待ったほうがいいと思うけど……」
「いや、この寒さはもう限界でしょ」

将はいっそう白い息を吐きながら、組んだ腕をさすった。

「でも、将、ここを降りられる?」

聡は目の前の急斜面を見て、将に問う。将はなんといっても、たった2日スキー研修を受けただけなのだ。

「大丈夫だよっ!」

そうは言うが、たぶんボーゲンレベルだろう。

それに、明るくなりつつはあるが、こんな明け方、アイスバーンが心配……と一瞬聡は思ったが、それについては心配なさそうだ。これだけ新雪があれば、凍った斜面などありえない。

将のいうとおり、寒さは限界値に思える。

もう明るくなりつつあるから、救助が来るとは思うが、自力で降りたほうが、その分温まるかもしれない。

聡は考えたあげくそう判断すると、多美先生に電話をして、無事なことと、自力下山を試みることを伝えた。

「将、絶対私のいうとおりにするのよ。いい? 危険なことはしないで」
「わかったよ。そのまえに……」

将は聡を抱き寄せた。二人の吐く白い息が交じり合う。雪はだんだん、冷たい青からラベンダー色に変わりつつある。

だんだんとはっきりとしてくる羊蹄山に見守られて、二人は口づけをした。美しい天上の世界、二人の一夜を惜しむかのように……。
 
 

刺したスキーは昨日より深く埋まっていた。それを抜いて、装着する。

新雪は15センチ近く積もっているようで、スキーを履いた足が板ごと埋まっていくようだ。

とりあえず、ロープが張ってある終わりまで、聡が先行して、ゆるゆると進む。ゆっくりと進んでいるせいか、スキー板は新雪に埋まってしまい、まったく見えない。

聡は将を振り返った。まだ緩斜面のせいか、問題なく滑っている。ときおりストックを振り返る聡に向けて振り回すあたりは余裕しゃくしゃくだ。

傷のない滑らかな新雪に二人がつけた、シュプールとはいえないボコボコの通り道が残る。

そしてロープが終わった。

ここからは、いやがおうでも急斜面を下りなくてはならない。

新雪の下は圧雪コースだから凸凹はないとはいえ、今までの緩斜面から見ると、まさに落ちていくような『壁』だ。コースガイドによれば、最大斜度36度だという。

長い『壁』は、新雪に覆われて、滑らかなラベンダー色に沈黙していた。ひそ、とも音がしない。

聡にとってはこれぞ嬉しいパウダーの斜面なのだが、初心者の将が一緒なので、心配が先に立ってしまう。

「将、いい? スピードが出過ぎないようにゆっくりと横切るように行くのよ」

聡は初心者である将に注意をあたえる。

「……それと体重が後ろにかかるとスピードが出ちゃうから。スキーを止めたいときは、足の親指に力を入れるのよ。いい、親指。それでもだめなときは、斜面の山側に転んで」

あれこれ注意をする聡に、将は

「わかった、わかった。大丈夫だから心配しないで」

そういうと、待ちきれないように先に滑り始めた。将も、どうやら、この処女地に手をつけるのが嬉しくて仕方がないらしい。

とりあえず聡のいうとおりに、斜面を横切るように行っている。そこまではスムーズに見えた。
が。ターンしようとしたときだ。

さすがに緩斜面でしかターンをしたことがない将は、重力に負けて曲がりきれず、そのままスピードを出して下に滑り始めてしまった。

「わあっ!」

加速していく。将はもうわけがわからなかった。聡から受けた注意も、研修で受けたことも忘れてしまうようなスピード。しかし、雪しぶきをあげて、誰も滑っていない斜面を滑る快感に将は恐怖を忘れた。

「イヤッホウ!」

叫びながら、斜面を突き進む。しかし、それは一瞬だった。猛スピードで進む将に、コースとの境界を示すロープ見えた。見えたが最後、ぐんぐんと近づいてくる。

「うわああああ!」

将はすんでのところで転がった。転がりながらも慣性で体が斜面の下へと滑っているのがわかる。将が止まったのは、転んだところからさらに5m以上も下だった。

「将!」

聡が叫びながら、滑り降りてきた。雪しぶきにその下半身を覆い隠すようなダイナミックで華麗な滑りだ。

将が斜め一直線に汚くひっかいたような雪面に、美しいカーブを描く。それは機械で描いたかのように、一定間隔の波線だった。どこかで見たプロモーションビデオのようだ。

将は倒れたまま、降りて来る聡に見惚れた。すぐに将の近くまでやってきた。

「大丈夫?」
「……大丈夫デース」

将は雪の斜面の山側に寄りかかるようにして聡に手を上げた。

「アキラ、熱あるのに、スゴイな」

将は素直に感心を口に出した。

「熱なんて……。あれ、将、スキーは?」

将の片方のスキー板は見事にはずれていた。聡に言われるまで将は気付かなかった。あたりを見回してもそれらしきものはない。どうやらフカフカの新雪が、はずれたスキー板を埋めてしまったようなのだ。

「ちょっと待ってて」
聡は、横歩きで将の転んだあたりまで登っていくと、ストックをあたりの新雪に刺しこみながら板を探した。

将も同じことを片足でやろうと思ったが、なにせ雪が深いので埋まってしまう。情けないが、聡が板を見つけてくれるのを待つしかなかった。

板はしばらくして見つかった。新雪の急斜面は外れた板を装着するのも一苦労だった。ようやく立ち上がった将に、聡は羊蹄山に向かって右側に指をさした。

「将、もう曲がらなくていいから。あっちのほうにできるだけスピードを出さないように行って」

今、幸いコースの一番左端にいる。右へと降りていけば初心者コースの入り口に入るのだ。ちょっと自分が情けなくなった将は

「ウン」と神妙に答えた。
 
 

それから、スピードに歓声を上げる&転がる、を繰り返しながら、ようやく上級者コースを脱出できた。あとは初級者コースの組み合わせで、下まで降りられる。

研修で使っているスキー場の隣に降りることになるが、タクシーでも使えばいいことだ。

しかし、初級者コースといえど、ときどき急なところもある。将はそれが楽しくてたまらなくなってきた。

スピードをあげて、新雪を滑っていくのがたまらない。しかも誰もいない、傷一つない新雪に覆われた斜面だ。

途中で太陽も羊蹄山の裾から顔を出してきた。陽の光があたると、新雪は、雪の結晶を浮かびあがらせてキラキラと輝きだした。

透明な粒が集まって、白く反射している。だから目を射るような白さなのだ。将は何回目かに転んだときにそれを目の当たりにした。

振り返ると、聡と将が付けた2つのシュプール。大きななだらかなカーブを描く聡のシュプールに比べて、将のそれは雑でところどころ転んだあとさえある。転んだ将に追いついた聡は

「もっとゆっくり滑んないと!」

と呆れて転んだ将を見下ろしたが、このスピード感こそがたまらないのだ。ゆっくり滑ると雪が深くえぐれるようだが、速く滑るとシュッと雪の表面を薄くそいでいくようなのだ。この『そいでいく』感覚がいい。

「わかったよ。ハニー」

エイヤッと将は雪から起き上がると、聡の頬にチュッとキスをした。しかし聡のアドバイスに反して、将はむしろ直滑降に近い角度で滑っていった。

「もうっ」

聡は将の後を追った。

「アキラ~!」

驚異的なスピードで滑り降りた将は、今回はなだらかなところで転ばずに止まることができた。遅れて続く聡へとストックを振り回した。

「下が見えてきたぜーー!」

バーンの下に、麓の町が見えている。こっちのスキー場はホテルが何軒かあり、ペンションなども寄り集まっているようで、なかなか賑やかそうだ。

聡はホッとした。とりあえず怪我もなくここまで将を連れてこれた……というより暴走する将に連れてこられた、といったほうが正しいかもしれない。

とにかく初心者連れとしては驚異的なスピードでここまで来たと思う。

「最後、キツイから気をつけてね。雪も少ないし」

麓に近いこの辺は、新雪もうっすらとゲレンデを覆う程度しかない。その下は凍りついたアイスバーンなのだ。

「大丈夫って!」

将は、ろくに休みもしないで、最後の坂をほぼ直滑降で滑り始めた。

「イヤッホウ!」

嬌声を上げる将を聡は

「……元気ね」

と見送った。聡はやはり少し熱があるのか、ここまでで少々疲れを感じていた。

と、そのとき。下のほうで、将が頭を下に向けて転んだ。変な転び方だ。スキー板がまたはずれている。

「将!」

聡は、あわてて将のところまで滑り降りた。

思ったとおり凍りついた坂は硬い。それだけでなく、昨日荒れたまま凍りついたのか、ところどころ硬い凸凹がある。どうやら将はその1つに足を取られて転んだらしい。

「大丈夫?」
「……痛ってえ」

顔をしかめながらも将は『大丈夫』と答える。はずれたスキー板は、今度は容易に見つけられたが、装着するときに将はひどく顔をしかめた。

幸いバーンも下のほうだったので、なんとか麓まで滑り降りたが、スキーをはずしても膝下が痛い。

麓では、多美先生がホテルのワゴンをこちらにまわして迎えに来てくれていた。

ホテルに着いた将は、単独行動をこってりと叱られた。罰として3日目の研修……といってもこの日は東京に帰る日なので、2時間ほどしかないのだが……に参加することを禁じられ、正座1時間を命じられた。

しかし、膝下の痛みは、正座もできないほどだった。

おかしいと病院に行った結果、将の膝下の骨は、見事骨折していたのだった。